京都(福知山)の山城

2014年10月17日 (金)

二箇村城跡(京都府福知山市)

城跡は京都府福知山市二箇上にあって、集落北背後の低丘陵上に位置している。城史に関しては一色氏の居城が伝わり、現在主郭跡には「一色修理之亮義正」の名が入った石碑が祠と共にひっそりと佇んでいる。

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた北有路城を起点とすれば判り易い位置にあるので、細かい訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、由良川に沿って南北に走る県道55号線に進入する事が先決となる。集落に辿り着けば登城ルート図を参考にして頂きたいが、民家庭先をかすめる(画像に注目)墓地へ向かう参拝山道を利用して上る事になる。墓地から先は概念図を参考にすれば分かり易いが、林道から眼に留まる旧配水施設を目印として西側へ向かえば、直ぐにでも大堀切が迎えてくれる筈である。ちなみに林道を利用しても充分車で登れると思うが、道中における道路状況までは把握していないのでどうか悪しからず、、

1route2登城ルート

3_2_2城跡概念図





城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、山上ほぼ30m四方に渡る主郭の占有面積は大きく、南郭や付随する腰郭なども含めれば、充分砦の域ははみ出た城跡という事にはなろうか。見所遺構として挙げられるのは先に触れた大堀切、並びにそれに伴う縦堀及びその切岸壁高低差6mを誇る主郭切岸跡と言う事になるが、いずれも見応えは抜群なものであり、訪れた値打ちは充分感じられる筈である。現状(七月訪問)城跡は、それなりに見学し易い状況にあると思って頂いてもよいが、主郭跡には隙間なく小笹が蔓延っており、虎口のある南郭以外は青竹も蔓延り、麓に向かうほど藪化は相当進行している。故に腰郭跡などはくまなく動き回れる状況にあるとはとても言えないが、空堀跡なども含めて他で複雑な遺構が眼に留まらなかった事から、遺構見学としては充分満足のいくレベルにあると思って頂いても良いのかも知れない、、、(郭跡も含めて縄張りを極める事は至難の業)

9_horikiri_1大堀切見所

10_tatebori縦堀見所

13_minamikaku南郭と主郭切岸

16_shukaku_3主郭内

18_nisi_obi_2主郭西壁見所

22_nisi_obi_gedan_2
西腰郭



城跡を個人的に評価すれば、見学材料は少し乏しいかも知れないが、主郭に佇めば充分臨場感が得られる事、たった一箇所ではあるが縦堀を伴う見応えのある堀切が拝める事、高低差を誇る切岸の醍醐味に触れられる事、これらに10分内で迷わず辿り着けるお手軽感まで加味すれば、充分お薦め出来る城跡の一つという事にはなろうか。

2014年10月13日 (月)

やっと山上本郭群を踏破! 堂屋敷城跡(京都府福知山市)

城跡は京都府福知山市牧にあって、牧集落の北背後に聳える標高約370m(比高約300m)の険峻極まりない山頂に位置しているが、自分にとっては三年ほど前、堂屋敷城南城砦群を訪れた際、尾根上数箇所に渡って展開された広範囲に渡る城郭遺構のお陰で、本郭群を極める事が叶わず、東峰(標高375m地点)の広い削平地を覗いただけで気力も体力も尽き果て、後ろ髪を引かれる思いで踏破断念した苦い記憶の残る山城の一つである。今回はその直登道中で思いもかけず眼に留まった砦跡を先にリポートしたが、今回はそのリベンジともいうべき訪城となった。

城跡を訪れるには、先にリポート掲載に及んだ(仮名)牧北砦跡と同様の訪問ルート、あるいは登城ルートとなるので今回は割愛させて頂くが、牧北砦跡Bからは尾根に沿って真北に向いて上ればよい。その直登道中において城郭遺構は眼に留まらなかったが、山頂斜面手前では明らかにそれと分かる痩せ尾根の両岸を削った明瞭な土橋地形(画像に注目)を眼にする事が出来た、、、、長い道程とはなるが藪こぎもなく40分程度で迷わず辿り着ける筈である。

1route_2登城ルート

3d_2城跡概念図





城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、郭総全長は40m程度で、それに帯郭の付随した砦規模の山城と思って頂いても良いだろう。山上本郭群の東西には堀切が施されており、現状西尾根を断つ堀切は地表風化が激しく明瞭なものを拝む事は出来ないが、土橋地形あるいは僅かに窺われる縦堀地形で直ぐそれと分かるだろう、東斜面側の堀切は縦堀は伴っておらず、自然露岩を受け土塁の代用とした、武者隠し的な空堀と思って頂ければよいかも、、、見所遺構と呼べそうなものは概念図に記したが、帯郭から立ち上がる高低差を誇る切岸、あるいは下草の蔓延らない状態の良い切岸といったところも決して見逃してはならない遺構の一つだろう。

15痩せ尾根状の土橋地形見所

17_2南腰郭

19主郭

20_2西堀切見所

23上り土橋地形

29_2

主郭北切岸見所

27東堀切見所




現状(七月訪問)城跡は、認知度の非常に低い山城としてみれば(推察)、それなりに見学し易い状態が自然維持されており、概念図に描いたまでの遺構の判別は容易く、動き回り易い状況にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価すれば、砦規模の城跡に縄張り妙味までは望めず、更に城郭遺構に見応えまでは感じられなかったが、険峻極まりない山頂に城跡が佇む様、あるいは山頂の両サイドを切岸化して築かれた様は、「正しくこれぞ山城!」と呼ぶに相応しいものであり、自分と同様に山城をこよなく愛する人にとっては、充分お薦め出来る山城の一つと言えるだろう。この堂屋敷城は城域があまりにも広域に渡る事から、南城砦群までも含めた同日訪問は少し厳しいと思えるが、堂屋敷城の本質を究める意味においては、登城ルート図に集約される東西両根に点在した郭群の見学は是非お薦め!もちろん直登山に慣れた山城ファンの方々のみが訪城の対象となるが、、、

2014年10月 9日 (木)

堂屋敷城に付随する砦か、、 牧北砦跡(京都府福知山市)

城跡は京都府福知山市牧にあって、以前「新しく発見された山城」として堂屋敷南城砦群をリポートした事があったが、その南城砦群の中の南先端郭からみて、谷状地形を挟んだ直ぐ西側の尾根先端部に位置している。この二砦跡は現状まだ調査報告されていない城跡と見受けられたが、自身が本来訪れるべく堂屋敷城山上本郭群を目指して登りかけた直登道中において偶然眼に留まったものであり、二箇所における明瞭な空堀跡(縦堀も含む)及び僅かに窺われる土塁跡、並びに削平地と、城郭遺構は丘陵先端部二箇所に渡っている。この二砦跡の機能から察すれば、この地より尾根を更に北へ上った山頂に位置する堂屋敷城の出郭跡という事も考えられるが、山上本郭群と区別する為に、今回は字名を採用して牧北砦跡とし、更に二箇所に分かれた郭群においては砦跡A、砦跡Bとした。既に認識されて調査報告もされた城跡かも知れないが、城跡呼称に関しては何時もの様に柔軟に対応して頂きたい。

城跡を訪れるには、堂屋敷南城砦群を起点とすればその位置も直登取り付き地点(登城口詳細図参照)も判り易いと思われるので、細かい訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、車を停めて5分程度で砦跡Aには辿り着けよう。

1route_3登城ルート

4_2城跡進入経路

3_2城跡概念図





城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、二砦跡のどちらにも郭背後には堀切が施されている。特に物見程度の機能が想像される、狭小郭砦跡Aの背後における堀切は明瞭なもので、片側は縦堀となって数十m西斜面に連続しており、充分見応えの感じられる遺構となっている。もちろん堀切背後にはお定まりとも言える土橋(画像に注目)も施されているが、これは後世における山林事業の為に施されたものかも知れない、、、 砦跡Bの郭跡背後には僅かに半分欠けた土及びい堀切跡(片側は明瞭な縦堀)、更に片側が郭跡と地繋がりの土橋(画像に注目)が見て取れるが、この土橋も砦跡Aにおける土橋と同様に、後世における山林事業用に施されたものとみてまず間違いのないところか、、、謎。

11砦A、狭小郭跡

13_2砦A堀切見所

10_2砦A縦堀見所

17砦B、郭跡

20堀切背後見所

19_2縦堀見所

城跡を個人的に評価すれば、物見程度の城跡ではあるが二箇所における見応えのある縦堀が拝める事、それに更に圧倒的お手軽感も加味すれば、充分訪れる値打ちのある城跡という事にはなろうか、、もちろんこの後リポート予定している堂屋敷城(山上本郭群)と併せた同日訪問、あるいは南城砦群と併せた同日訪問が前提という事にはなるが、、、

2012年2月12日 (日)

これ以上ない辺境地の更なる山頂に佇む山城 浅木山城跡(京都府福知山市)

城跡は京都府福知山市三俣/三和町ユリにあって、当時においても現在においても、辺境の地と呼ぶに相応しい、人里からも随分離れた、標高427mの険峻極まりない山頂に位置している。戦国期においては内藤氏の居城が唯一伝わっているが、この内藤氏は丹波三大山城の中の一つでもある、八木巨大城砦群を築いたあの内藤氏一族とも察せられるが、推察の域は出ないものである。詳細は不明

1route_2 参考登城ルート

5_2 参考取り付き口付近

3a 城跡概念図

城跡の形態は、アバウトに描いた概念図を参考にして頂ければ良いとは思われるが、直登ルートの様相とは随分違って、比較的木々の少ない郭内部の見通しは利き、郭内に佇めば充分臨場感は味わえる状況にある。城跡一帯が地表も露見していないほどの積雪で覆われていた事から、細部にまで及ぶ遺構確認は出来なかったが、自然地形に任せたまま掘削されて築かれた縄張りプラン、あるいは古い形態とも察せられるこの山城に、多くの遺構や縄張り妙味までは望めない気がするのである。現状明確に判断可能な遺構は、郭跡を除けば、主郭西側に施された土塁が付随する堀切(横堀に近い)、雪で地表は見えないが、切岸と思える郭壁程度と思って頂ければ良いだろう。積雪がなくなった時点で、どこまで明瞭な残存遺構が窺えるのかは見当も付かないが、春先には三俣側から林道 を利用して、山歩きを楽しみながら歩いて山頂を目指してみたい、、、今回の直登ルートと比べれば、遥かに山頂までの距離(3km程度)はあるが、雪のない地表の露見した山城も覗いて見たい気がするのと同時に、再び言葉にならないこの達成感も味わってみたい気がするのである。

15_kaku2_toutan_1 二ノ郭東端

17_shukaku_heki 主郭東壁

18_shukaku_1 三角点のある主郭

22_sita_horikiri 23_horikiri 堀切見所

27_nisikaku 西郭

城跡を個人的に評価すれば、積雪も相俟って遺構に見応えまでは感じられなかったが、山城として醸す風情やその佇まいは、充分魅力溢れるものであり、これだけ辺境地の更なる山頂に、城郭が築かれた事自体が最大のロマンであり、値打ちとも感じられたのである。山城をこよなく愛する方には、絶対避けて通って欲しくない城跡の一つ!

1as_2 今回城跡を訪れる(1月)にあたっては、三俣側から城跡北西まで続く長い林道は、積雪(15cm以上)で全く使い物にならず、自身が想定した三和町側からの、積雪の少ない急斜面直登ルートを敢えて選択して臨んだが、厳しい雪中行軍となった事実、直登ルート中における体に突き刺さるが如き枯れ枝との戦い、あるいは蔓延る枯れ枝の隙間を縫っての登頂も重なり、これを機に訪れる用意のある山城ファンの方には、とてもお薦め出来るルートとは言えなかったので、今回の登城ルートは是非参考程度に止めて頂きたい。もちろん山頂までは迷わず辿り着けた(50分程度)が、下山においてのマーキングは必要不可欠と思えた事から、登山に慣れておられない方には、余りにも条件が厳しすぎるように感じられたのである。春先には林道が使えるとは思えるが、その道路状況(車がどこまで進入出来るか)までは把握していなので、どうかご容赦願いたい。

2012年1月14日 (土)

縄張りのほぼ全体像が窺える、状態の良さが値打ち 夏間城跡(京都府福知山市)

城跡は京都府福知山市大江町夏間にあって、先にリポート掲載を終えた常津城及び和田垣城などと同様に、由良川沿いに数多く築かれた城跡の一つでもあるが、西側(由良川)を天然の水堀とした、標高153mの低山山頂に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、先に触れた和田垣城を起点とすればその位置は分かり易いが、県道55号「在田」の交差点より更に南下した道路沿いに、今回登城口とした山道への入山口(画像に注目)がある。もちろん途中から尾根に沿って踏み跡(僅かに空堀道)を辿る事になるが、山頂までは藪漕ぎもなく、迷わず辿り着ける筈である。ちなみに15分程度

1route_2 登城ルート

6 入山口

3n 城跡概念図

城跡の形態は、概念図を参考にして頂ければ分かり易いとは思われるが、郭総全長は100mにも達する、砦の域は充分はみ出た山城と思って頂いても良いだろう。その中で目に留まった遺構は、見所遺構と並んで全て概念図には記したが、縄張りの全域が植林地にある事によって、郭内の見通しは利き、動き回り易く、更に下草も蔓延らず、現状(12月)非常に見学し易い状態にある。ただ堆積物はそれなりのものがあるので、堀切などは随分浅くなったものと考えられるが、、、それでも「情報の乏しい無名に近い山城としては、抜群のコンディションを誇る山城!」と言っても差し支えないものと、自分の目には映ったのである。城跡における最大の見所は、状態の良さはもちろんではあるが、縦堀を含んだ空堀が要所に施されている事、あるいは明瞭な切岸跡(特に西斜面)が未だに残されている事で、風化の進んで判別し難い縦堀も含めれば、少なくとも合計6箇所で目にする事が出来た。流石に多くの低草木が蔓延る、東急斜面の全域に至るまでは覗いていないが、城跡の規模や形態から考えれば、これ以上多くの残存遺構は望めないのかも知れない、、、

10_shukaku_e 直登斜面上より主郭切岸

12_minami_kaku_1 南郭

16_2maru_gawa 主郭より二ノ郭

33_tatebori 西斜面の縦堀見所

17_shukaku_heki 主郭側

19_2maru_kita_dorui 二ノ郭奥土塁見所

25_kirikisi_2 西側切岸見所

23_horikiri_1 堀切見所

28_hokusei_horikiri 北西尾根堀切見所

城跡を個人的に評価するのであれば、山頂までは急斜面の上り下りとなるが、踏み跡を辿れば迷わず辿り着ける事、遺構は廃城から手付かずのまま現在に至った、ほぼ完存に近いものと見受けられた事、今となっては藪城の多い昨今、この状態の良さだけで感動する事は請け合いと思えた事、更に空堀遺構まで窺える事、これだけの材料が揃えば、規模さえ問わなければ、自ずと「間違いなくお薦め出来る山城!」ということにはなるだろう。

2012年1月12日 (木)

常津城跡/和田垣城跡(京都府福知山市)

両城共に所在地は福知山市大江町にあって、形態はほぼ館城の如く、丘に近い低丘陵上に位置しているが、ルート図を見ればお分かり頂ける様に、山を挟んで東西に対峙した格好で、常津城は大江町常津、和田垣城は大江町在田にある。前者は安田氏、後者は垣山氏の居城を伝えるが、城史に関しての詳細は不明。

城跡を訪れるには、国道175号線に進入する事が先決となるが、国道沿いにある「公庄駅」を目指して進行し、その西側交差点で県道55号側へ針路変更すればよい。橋を渡った在田交差点から直ぐ望める、右手側の竹林地に和田垣城があるが、常津城へはそこからルート図の赤線を辿れば、迷わず入山口付近までは辿り着ける筈である。

1route 登城ルート

まず常津城の現状リポートになるが、道路沿いにある入山口は、画像を載せたので直ぐお分かり頂けるとは思われる。そこから山道に任せて上れば、直ぐにでも丘陵上に達する事が出来るが、この丘陵上の曖昧極まりない地形を窺う限り、どこからどこまでが城域となるのか見当も付かず、その縄張りプランすら見えて来ないのが現状である。その中で目に留まった遺構は、郭跡と察せられる削平地を除けば、郭切岸、古墳の代用とも思えた土塁郭だけに限られてくるが、この時期(12月)においても、常緑低草木の蔓延る郭内は移動にも難渋し、動き回れる範囲も限られてくる事から、丘陵上の全体踏破は結果的には断念した。よって城跡としての評価はし難いが、個人的にはとても見学に値する城跡とは思えなかった事だけは付け加えておきたい。

4 常津城の入山口

7doruikaku_tikei_2 土塁郭地形

8_kaku 郭跡

Nisi_sentankaku 西端郭

13_kirikisi 郭切岸

和田垣城への進入経路は画像を載せたが、廃業(畜産業)中とも思えた作業所背後に回り込んで上れば、直ぐにでも丘陵上へ達する事が出来よう。この城跡も常津城と同様に状態はとても醜く、広大な平坦地形と見受けられた丘陵上は、現状矢竹の密生地と化しており、残念ながらとても人が踏み入れる状況にはない。その矢竹の隙間から一軒の人家(廃墟かも)が窺えたが、本来この丘陵上の全域が、その所有者の敷地と察せられた事もあり、矢竹密生地を無理してまで通過する気にはなれなかった。よってこの城跡も常津城と同様に全体踏破は叶わず、当時の遺構として目に留まったものは、丘陵北端部の腰郭と、本郭と察せられた郭切岸だけに限られるが、その形態も掴めぬまま城跡を後にする虚しさは、山城ファンの方には充分理解して頂けるだろう、、、、、

1_2 和田垣城への進入経路

1_3 北腰郭

1_5本郭の現状

個人的に城跡を評価するのであれば、現状を見る限り、二城共に見学するまでには及ばない城跡といった事になろうが、「今回の現況報告が、城跡ファンの方にとって少しでもお役に立てたのであれば由としたい」、といった処か、、、、

2012年1月 3日 (火)

新しく発見された山城! 堂屋敷南城砦跡(京都府福知山市)

この城跡はタイトルに記した様に、最近新しく発見された山城であり、何時も鮮度の高い城跡情報をブログに対しても、個人的にも頂戴しているS氏から、既に踏破確認された上で、その実態を聞かされたものでもあるが、情報を得て数ヶ月経った今回、やっと訪問する事が叶えられた。訪問結果としては、その情報通りに小規模ではあるが、主郭三方に土塁が施された、しかもその南北には堀切まで備えた見事な城郭遺構と巡り合える事となった。尚、この城砦群に関しては、新しく発見された山城という事もあって、現在識別呼称も分からぬ状況にあるが、今回は標高375mから西側の峰までを城域(推察)とした堂屋敷城との関連性、あるいは城跡がその南尾根先端部と中腹尾根上に位置する事から、堂屋敷南城砦群としてリポート掲載に及んだ。何れ京都府埋蔵文化財研究会によって、識別呼称は付けられるものとは思われるが、、、

城跡は京都府福知山市牧にあって、先に触れた様に、標高375m地点にある堂屋敷城から、真南側に向いて延びる尾根上にあり、それと分かる削平地や砦跡まで含めれば、最低四箇所に城跡遺構は現存しており、今回リポートに及んだものは、その中でも遺構の判別し易い南先端部に位置する郭群、その直ぐ東側に位置する砦跡、更に中腹に位置する郭群と言う事になるが、自身が踏破した限り、この城砦群は別尾根にも郭が展開されていると察せられる、概念図に示しただけには決して終わらない、巨大城砦群の一つと自分の目には映ったのである。

1route_3 登城ルート

5zx 遺構群の位置遠望

3_2 南麓尾根先端郭群概念図

今回この城砦群に関しては、砦跡も含めた三城のリポートとなり、記事も少々長くなる事から、随分割愛させたものにさせて頂くが、見所遺構及び形態共に概念図を拝見して判断して頂きたい。特に南先端郭群としたものは、二重堀切、横堀、三方を巡る低土塁跡、鋭角に削られた切岸といった具合に、小規模ながら見所遺構も数多く、遺構としての見応えも抜群(特に二重堀切)であり、更に藪化までには至っていない状況もあって、縄張りプランも含めて間違いなくお薦め出来る城跡の一つであると、自分の目には映ったのである。便宜上の規模の大きい中腹郭群にも堀切は施されているが、高低差を誇る郭切岸なども、充分醍醐味は感じられる筈である。

14

南端の空堀道凄い!

47_2 主郭内部の状況

49_higasi_karabori_1 東側の土塁及び横堀見所

50_4 主郭背後の堀切見所

10_1 52_1 北端の堀切見所

3d 中腹郭群概念図

62 中腹郭群(下段郭)

67_45x35m 中腹郭群(主郭)見所

72_2 中腹郭群上斜面の堀切見所

ちなみに東砦跡と察せられた大規模な削平地にも、北側尾根を断つ空堀が備わり、土橋地形や直登道中における明瞭な縦堀と共に、決して見逃せない遺構と見たので、更に時間と体力に余裕のある方だけにはお薦めしたい。とにかくこれを機に訪れる用意のある方には、是非ルート図に緑色で示した山頂(大規模な削平地)までは、踏破確認して頂きたいと思えたが、最低でも見応えのある南先端郭群だけは押さえて頂きたい、充分見学に値する素晴らしい遺構と思えたので、、、

87 東砦跡、空堀見所

90 東砦跡の背後土橋地形

城跡を訪れるには、国道175号線へ進入する事が先決となるが、北近畿丹後鉄道「牧駅」を目指せば分かり易いだろう。登城口は詳細ルート図には示したが、最奥にある民家脇から繋がる山道で上っても良いし、神社付近の斜面に直接取り付き、山道に合流しても良いだろう。そのまま山道に任せて上れば、数分で南堀切までは辿り着ける筈である。尚、ルート図に緑色で示した山頂までが、今回踏破確認に及んだ範囲と思って頂ければ良いのだが、中腹郭群までの遺構見学でほぼ体力も尽きてしまった事から、肝心の山上における堂屋敷城の実態は、規模の大きい山上削平地を覗いただけに終わり、今回はリポート出来なかったのでご容赦願いたい。何れ再訪の予定はしているが、、、、

2011年12月 4日 (日)

これぞ天空の城と呼ぶに相応しい山城! 龍ヶ城跡(京都府福知山市)

城跡は京都府福知山市一ノ宮にあって、どの地図においても「龍ヶ城」と記された、標高645m(比高約500m)の険峻極まりない山頂に位置しており、標高だけなら丹波の松尾山城(687m)の方が若干勝るが、比高だけなら、近畿圏内においては他に比類なき、「天空の城跡のイメージに限りなく近い山城の一つ」、と自分の目には映ったのである。

城史に関しては、「新宮」交差点の商店脇にあった城跡案内説明板に載せられている様に、南北朝期に成立した山城と見受けられるが、一時的に丹波守護職の地位にあった荻野朝忠の居城を伝えており、私見にはなるが、築城環境をより険峻な山頂に求めた(黒井城、三尾山城、鬼ヶ城、後屋山城など、、)後の赤井氏によって、戦国期までは改修を施しながら機能し続けていた山城とも察せられたのである。

1_2 登城ルート

5 城跡案内板

13 直登取り付き地点

1_3 城跡概念図

城跡の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても良いとは思われるが、険峻な山頂に築かれたが故に、縄張り妙味のある防備機能(空堀の類)には一切期待出来ないものと思って頂きたい。現状(11月)城跡は、四世紀にも渡る風雪に耐えながらも、比較的木々や堆積物の少ない山上主郭は、未だフラットに近い状態が自然維持されており、植林地にあることによって見通しが利き(ほぼ全体像が窺える)、近年人の踏み入った形跡のない山城としては、これ以上望めない素晴らしいコンディションの下にある

15_sentan_kaku_2 直登道中の郭跡(物見か)

17_510m_kaku 510m地点の削平地

34_1 景色

40_shukaku_1 主郭の現状

41_shukaku_nisi_dorui_ato 主郭西、土塁の痕跡見所

43_nisi_karabori_ato_1 空堀跡見所

38_ido_2 溜め井戸跡見所

44_kirikisi_obi_1 帯郭と主郭切岸見所

45_nisi_kirikisi 西側切岸

数少ない残存遺構の中にあっては、僅かに残る土塁跡、空堀の痕跡、主郭周囲を覆う明瞭な切岸、周囲に盛り土まで施された溜め井戸跡などが、見所遺構として挙げられようが、井戸跡に関しては、ここまで高所にある山城で、ここまでの状態のものを拝める事は奇跡に近いとも言えるので、是非期待して臨んで頂いても良いのではないだろうか、このライフラインとも言える水の手(井戸跡)は、当時ここに常駐する人間が少なからずいた事を証明するものでもあり、堀切などの様な城跡遺構と比べれば遥かに見劣りはするが、当時に思いを馳せる上では、充分過ぎる城跡遺構と感じられたのである。個人的に城跡を評価すれば、山登りを苦ともしない山城ファンの方であれば、「満足感も達成感も、両方間違いなく味わえる山城の一つ」、と言う事になろうか。

城跡を訪れるには、国道426号へ進入する事が先決となるが、既にリポート掲載を終えた愛宕山城、あるいは一ノ宮竹石城を起点とすれば、ルート図からも所在位置は分かり易いとは思われる。熊野神社付近の限界集落で聞き及んだ情報では、「過去には峠から山頂まで繋がる山道はあったが、今ではこの山道も土砂の崩落や藪化によって、利用出来るかどうかまでは見当も付かない状況」、更に「40年位前までは思い荷物を背負って二時間かかって峠を越えた」、などと言った事を聞かされた事もあって、迷わず自身が事前に用意した直登ルートを選択する事に及んだ。神社をスタート地点として、標高510mの三角点までは、藪漕ぎのない辛い激斜面(植林地帯)が連続するが、そこから西側の山頂まで木々が少なく、比較的起伏の少ない痩せ尾根上を歩く事になる。ちなみに神社からの所要時間は60分

2011年10月27日 (木)

尾藤城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市大江町尾藤にあって、先にリポート掲載を終えた千原城側からみれば、川を隔てた真南の低丘陵上に位置しており、ほぼ丘城と呼ぶに相応しい形態を成したものである。城史に関しての詳細は、地元有志の方々によって、今年の七月に掲げられた城址案内板に記されてあったので、今回はそのままを掲載する事に及んだ。(案内板画像をクリックの事)

城跡を訪れるには、千原城を起点とすれば城跡の位置は一目瞭然と思えた事から、細かい訪問ルートは割愛させて頂くが、城址案内板からの道順は概念図を参考にして頂きたい。現在まだ農繁期にあるせいなのかも知れないが、案内板は真新しいが、本来の登城道は全く整備されておらず、腰まで届く低草木に遮られ、登城道すら見えない状態となっている。よって此れを機に訪れる方には、迷わず墓地奥からの登城(墓地から5m程度の藪漕ぎで主郭へ到達可能)をお薦めしたいのである。個人的には今回は地元の方からの勧めもあって、南側からの藪漕ぎのないルートで主郭を目指したが、これから冬季にかけての訪問においては、草木も刈られて本来の登城道で訪れる事が出来るかもしれないので、多少それに期待は出来ようか、、、

1 登城ルート

4 案内板より城跡遠望

1_2_4 現地城址案内説明板より

1_1_2 城跡概念図

城跡の形態は、現地案内板縄張り図、あるいは自作概念図を見て頂ければ分かり易いとは思われるが、主要二郭で形成された単純な縄張りプランに、縄張り妙味までを求めてはいけない。もちろん遺構群の見応えにも余り期待出来るものではないが、その中にあっては主郭南端に施された浅い堀切と、主郭及び東郭壁で鋭角に削り落とされた切岸跡だけが、唯一城跡としての存在感を醸すものと思って頂いても良いかもしれない。ただ切岸だけは状態も良く、見応えだけは充分感じられたが、、、

9_minamikaku_heki 南郭切岸

12_horikiri 13_horikiri 堀切見所

15_nisi_kaku 西郭の現状

18_shukaku_nisiheki 主郭西切岸見所

20_shukaku_1 主郭内部

21_shukaku_higasiheki 主郭東切岸と武者走り?見所

個人的に城跡を評価すれば、遺構の見応えには余り期待出来ない城跡という事になろうが、城跡としての史跡価値、あるいは城址案内板まで設置して、史跡を後世まで大事に保存しようとする心意気だけは、山城ファンの方々には充分伝わるような気がしたのである。これからの保全整備に関しては、相当地元の方の手を煩わせる事にはなるとは思われるが、折角城址案内板を設置されたからには、史跡ファンの方にとっても訪れ易い、是非整備の行き届いた城跡を期待したいところではある。

2011年10月25日 (火)

大江千原城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市大江町千原(センバラ)にあって、尾藤集落(尾藤城がある)の北側にある、通称城山と呼ばれる標高約100mの山上に位置している。城史に関しては中岡右京進の居城が伝わっているが、詳細は不明

城跡を訪れるには、国道175号あるいは県道55号へ進入する事が先決となるが、尾藤集落を目指して車を走らせればよい、現在山上郭群の西一角には、旧尾藤神社の祠跡が残っており、かつての参拝登山道さえ見つけ出せれば、迷わず城跡へは辿り着ける筈である。その進入口は概念図に示したが、ルート図に示した西側からも、多少の藪漕ぎは余儀なくされるが上れる状況にはある。ちなみに堀切までは15分程度

1_2_3 登城ルート

6 参拝登山道への進入経路

1_3_2 城跡概念図

城跡の形態は、ほぼ概念図に描いたものに近いと思って頂いても良いとは思われるが、低草木の密生している、視認にも難渋する斜面上までは覗いていないので、縦堀に関してはこの限りではないものと思って頂きたい。縄張りプランから考えても、未踏斜面にまだ多くの遺構が眠っているようには思えなかったが、、、城跡の見所を挙げれば、主郭東西を遮る形で施された二本の堀切という事になろうが、特に西側境となる郭壁両岸には、見応えのある縦が刻まれており、東側の明瞭な土橋付き堀切と並んで、充分見学者の目は楽しませてくれよう。尚、この西側の堀切には現状土橋が備わっているが、これは近年土塁を削って堀切を埋めたものとも窺われたが、、、謎。

11_jinjya_ato_3 西端の尾藤神社跡

15_seitan_dobasi_karabori_tikei_1 土橋付き空堀地形

21_horikiri_dobasi_3 西堀切見所

24_renzoku_tatebori_1 連続縦堀見所

22_shukaku_1 主郭の現状

23_shukaku_kita_heki 主郭北側の切岸見所

28_toutan_horikiri_dobasi 東端の堀切、明瞭な上り土橋見所

城跡を個人的に評価すれば、現状夏草に覆われて参拝登山道は分かり辛いが、この時期(九月)においても比較的見て廻り易い状態にある事、山道に従えば迷わず辿り着ける事、二本の堀切と数本の縦堀が拝める事を理由にすれば、山城ファンの方、史跡ファンの方を問わず、充分お薦め出来る城跡と言う事にはなろうか。

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