若狭地方の山城跡

2009年10月13日 (火)

青井山城跡(福井県小浜市)

城跡は小浜市青井にあって、後瀬山城の真西側にある海に面した山塊の山上に位置しているが、現在は「自然観察の森」として山上一帯は公園化されている。限りなく無名に近いこの山城は南北朝期に成立した城跡と伝わるが、戦国期を乗り越えているのであれば、せいぜい後瀬山城の砦あるいは海上に睨みを利かせた監視機能を持った城跡の様には感じられる(推察)

城跡へはほぼルート図の如く、国道27号「青井」の交差点で針路変更後山上に向けて進行すればよいが、かつて山上まで繋がっていたとも思われる車道は、途中から管理道として封鎖されており、図に示した峠付近(三叉路)に車は路駐して、そこからは歩いて上る事を余儀なくされる。山頂まではのんびりと海を眺めながらの道程になるが、15分程度で到達出来るとは思われる。

1route 登城ルート

2 現地案内板

025 小浜市内遠望

036 山上へ

Photo 山上最高所

033 東第二休憩所

現状(九月)城跡は先に触れた様に山上周辺は全て公園化されており、山頂に至るまでは歩き易いアスファルトの遊歩道、あるいは駐車場(恐らく小規模な郭跡地)となっているので、公園化によって相当な地形改変が行われたものと想像される。案内板における尾根上を東の第二休憩所までは周りの景色を眺めながら歩いてみたが、痩せ尾根上に削平地がある程度でもあり、かつての山城の面影は全く残ってはいないのが現状である。堀切程度はかつてあったのかも分からないが、現状それらしきものは目に留まらなかった。もちろん土塁と窺われる箇所があったとしても、それは恐らく遊歩道設置の際の残土(盛り土)とも見受けられるのである。

山上に佇めば直ぐ東側に後瀬山城、北側には小浜湾、市内を跨いで遠くには丸山城(茶磨山城)も望める事から、眺望を味わうには最適の城跡という事にはなるが、城跡遺構を期待するのであれば間違いなく期待はずれに終わるものと思われる。せいぜいかつての山城の風情を感じれば良しとする方には、最高のロケーションだけは味わえるので、自然を満喫しながらの山歩きという事になれば、お薦めは出来るかもしれない。

2009年10月11日 (日)

新保山城(福井県小浜市)

城跡は小浜市新保にあって、先にリポート掲載を終えた竹長城からみれば北東側に聳える山の山上に位置しており、竹長城側からも城山は直ぐ確認出来る筈である。当時、後瀬山城を本城とした若狭守護武田氏一族の支城でもあるが、織田軍による越前侵攻によって、朝倉氏と同様に滅亡への道を辿った。別名霞美ヶ城とも呼ばれている。

城跡へは竹長城を起点にすれば分かり易いが、ルート図の如く赤線を辿れば数分で現地には辿り着けるが、車は登山口手前の墓地付近に路駐スペースは充分あるので、駐車に気を使う必要はないとは思われる。ここから集落に向いて数10m先にある、画像に示した住宅地手前から左手に山に入る道があり、少し入れば右手側斜面を登って行けばよい。その付近には低い土塁で囲まれた広い削平地も直ぐ目に留まるが、これが当時の居館跡なのかどうかは確信は持てずにいる(標識が無い)。そこからいよいよ踏み跡程度の倒木の多い急峻山道を上ることになるが、城域と察せられる広い尾根上削平地に到達するまでは20分程度は要す、そこからは右手側に一旦下って(自然堀切地形まで)上る形となるが、更に山上主郭まで到達するには20分程度は要す事になる。それほど険峻な山城であり、南北に城域が広い城跡なのである。

1route 登城ルート

6_tozanguti_e 登山口

8_yakata_2 居館跡か(土塁跡)

3si 城跡概念図

現状(九月)城跡はこの時期にも拘らず郭移動もし易く、山城としては非常に見学し易い良い状態にあり、全ての枝尾根まで踏破した訳ではないが、山上における遺構は全て判別確認出来る状況でもある。恐らく四季を問わずこの状態は自然保持されているとも思われ、冬季訪問においては更に見学し易いことは予測が付く。この山城を語り出せば限がないとも思われるので、見たままをアバウトにリポートさせて頂くが、自作概念図を見て頂ければ分かり易いとは思われるが、急峻極まりない地形をそのまま縄張りとして取り込み、南北にほぼ直線的(本郭群だけでも200m前後ある)に郭を配した非常にシンプルな形態であり、山上は六本の縦堀に繋がる堀切で分断守備されている。山上本郭群は三郭の大規模な郭で形成されており、その一部には土塁も櫓台らしき土塁壇も備わっており、何れを主郭としても可笑しくはない構造でもある。

16_nantan_horikiri 17_horikiri_1 南端の堀切(縦堀へ)見所

28_shukaku_minami_heki 南主郭切岸

29_minami_shukaku_1 南主郭内

34_kitashukaku_heki 北主郭切岸

36_higasi_dorui_ato 主郭土塁見所

38_daihorikiri_2 大堀切見所

42_demaru_kita_dorui_1 北出郭より土塁見所

46_horikiri_heki 北堀切見所

この城跡の最大の見所でもあり見応えのある遺構は、先に触れた六本の縦堀に繋がる堀切(薬研堀を含む)に尽きとも思われるが、その切岸高低差は10m以上はあろうかとも思われ、正に当時をそのまま再現したかの様な圧巻とも呼べるものである。山上に到達するまでに急斜面との戦いは40分以上も続き、相当体力は消耗させられるが、山上に横たわる堀切群を目の当たりにすれば、その疲れは一掃される様にも感じられる。それほど状態も良く目を楽しませてくれる遺構群なのである。尚、地形からも北西側あるいは南東側の枝尾根にも郭の展開は予想されたが今回は未踏、概念図に示したものより城域は相当はみ出ている様には感じられた。個人的には既に再訪も果たしたが、此方より更に険峻でもある後瀬山城も山城としての魅力には満ち溢れているが、単純に現存する遺構の醍醐味、あるいは見応えだけを採り上げれば、インパクトのある堀切が多用されているこの山城の方が若干勝っているようには感じられたのである。 正に推奨に値する、是非お薦め出来る山城の一つである。

2009年10月10日 (土)

竹長城跡(福井県小浜市)

この山城は今回の新保山城をメインとした山城巡りにはチョイスしていなかったのだが、新保山城へ向う際の道路脇の案内板を覗いた結果、ここから直ぐ近くにこの城跡がある事が判明し、急遽予定を変更(加茂城を訪問する予定)して立ち寄ったものである。よって城史などの詳細は知る術もないが、案内マップに記されている以上は、当然小浜市においては既に発掘調査は成されているものと考えられる。詳細が知りたい方は市の教育委員会を訪ねれば良いのかも知れないが、、

城跡へは国道27号を走り「平野」で219号へ針路変更、そのまま北上3km程度走れば左手道路沿いに周辺の史跡を記した「案内マップ」が目に留まる筈である。ここから直ぐ先には郵便局もあり、そこから道路北西側(左手側)に望める丘陵尾根が城跡にあたる。登城ルートは概念図を参考にして頂ければよいが、三ルート(A、B、C)の何れも急斜面の直登ルートであり、時期的(九月)にも多少の藪漕ぎは覚悟しなければならないだろう。一番まだ上りやすいと感じられたのはCルートであり個人的には下山ルートとなった。便宜上の東出郭へはどこから取り付いても迷わず上れるとは思われるので、敢えてこの三ルートを選択しなくても良いかも分からないが、、(思ったより急峻な地形に阻まれAルートの直登では20分以上は要した)。

1route_2 登城ルート

2_1 現地史跡案内板

4_1_2 城跡遠望

6_gezanguti_1 Cルート直登口

3t 城跡概念図

城跡の形態としては、道路沿いに面した東出郭から西尾根上にかけて郭は直線的に展開されており、郭間に大して高低差があるわけでもなく、尾根筋に沿って狭小段郭群あるいは削平地が主郭まで繋がっているものである。地理的条件から考えても当然新保山城の出城あるいは砦機能は窺えるが、規模からすれば砦の域は出ている様には感じられた。見応えのある遺構を探すには苦労させられるが、なかった!と言うのが本音かも知れない。

10_tatebori 縦堀地形

23_higasi_demaru_karabori 東出郭空堀跡

22_toutan_kaku 尾根上の削平地

14_higasi_dankaku_gun_1 段郭群

17_shukaku_1 山上主郭

山城として醍醐味を感じられるのは切岸などにおける高低差であり、堀切などの様なインパクトのある地形、あるいは地形(山容)をも取り込んだ縄張りプランなのであるが、その何れも満たしていないのが城跡の現状でもある。個人的には予期せぬ城跡に巡り合えたので喜びの方が大きいのだが、これから訪ねられる方には決して遺構の見応えは期待しないで赴いて頂きたいと思うのである。山城としての醍醐味、魅力には少々欠けるが、決して戦国期を物語る史跡としての価値が下がるものではないので、山城としての風情を味わう程度の訪問なら、充分納得の行く見学が出来るのではないだろうか。尚、対岸に位置する加茂城は、これから向う新保山城への登山を考えて断念したが、取り合えずルート図に位置は示したので参考までに、、、この城跡以上に、上るには相当手強い山城(険峻)の様には感じられる。

2009年10月 5日 (月)

湯岡城跡(福井県小浜市)

城跡は小浜市湯岡にあって、有名な若狭武田氏の居城、「後瀬山城」の直ぐ東側に聳える山の山上尾根に位置している。別名池谷山城とも呼ばれており、戦国期においては南部氏の居城が伝わるが、城主は恐らく何度も交代している様には窺われる。城跡の成立は古くは南北朝期まで遡るとも言われているが、隣接する後瀬山城(武田氏)との関係までは調べるまでには至っていない。詳細は不明

城跡へは国道27号を走り、「湯岡」交差点で国道に沿う形で針路変更、後はルート図の如く数100mも移動すれば、登山口ともなる熊野神社までは難なく到達出来る。小型車であれば画像に示した鳥居手前付近に路駐スペースは確保出来る筈である。個人的には概念図に示した城跡の北西側麓にある、若宮神社より最短での直登ルート(20分)を選択したが、藪漕ぎの連続でもあり、更に急斜面がそれに追い討ちをかけて、山上到達までには相当体力を消耗してしまった。もしこのブログをきっかけに訪問される方は、下山時に使用した赤線で記したルート図を参考にして向われる事をお薦めしたい。このルートは熊野神社の直ぐ真後ろ側の丘陵上にある、水道施設西背後から直ぐ山上に向いて上るものであるが、踏み跡程度の山道が繋がっているので、山上主郭までは迷わず辿り着けるとは思われる。ただ距離的に1kmはありそうとも思えるので、所要時間として30分はみておく必要があるかもしれない、、、

1route 登城ルート

7 熊野神社

9 進入路

3 城跡概念図

26_kuruwa 北郭の現状

20_kita_dobasi_2 中央土橋見所

13_shukaku

主郭

12_minami_e_dobasi 南土橋

現状(九月)城跡は、この時期でも踏み跡程度の山道から反れない限りは移動に難渋する事も無く、尾根上に直線的に配された郭跡はほぼ見て回れる状態にある。ただ安普請によるものか古い形態によるものなのかは分からないが、主郭の高低差の少ない切岸などは相当甘く、他の郭跡にも切岸処理の跡は見受けられず、長年の堆積物によるせいもあるが、見る限り土塁跡あるいは空堀跡などは目に留まらなかった。ただ尾根上を分断する為の堀切の代用として、人一人が通過出来るのが精一杯といった土橋を尾根上三箇所で確認する事が出来た。今回は藪漕ぎの直登によって相当体力を消耗してしまい、本来水道施設の東側(出郭がありそう?)も踏破する予定でいたものがそれも叶わず、早々に城跡を後にしてしまった。個人的には現存している遺構群からは、山城としての見応えも醍醐味も感じる事が出来なかったが、山上まで到達する時間を考えても、中々お薦めの城跡とまでは言えないのが本音である。

2009年10月 4日 (日)

谷小屋城跡(福井県小浜市)

この城跡は何度か小浜に向いて車を走らせている時に、車窓越しに低山ではあるが、余りにも山城の如く急峻な佇まい(山裾には寺院、神社、周囲二方を取り囲むように川及び川沿いに集落の環境)が感じられる山塊があり、何時か機会があれば確認の為に訪れて見ようとチェックしていた事から始まったものであるが、今回は新保山城の訪問も兼ねて、自分の見た目に狂いが無い事、あるいは何としても城跡の有無を確認しておきたい気持ちが優先した事から、道すがりに意を決して立ち寄る事にしたものである。

結果的に山上では、ここ数十年は人の手が入ったと見受けられない、残存度の非常に高い素晴らしい城跡遺構を眼にする事となった。下山後に城山の山裾にあり登山口でもある、「妙祐寺」住職から寺院のパンフレットを頂いたが、その中に僅かではあるが城跡にまつわる伝承が記されており、この山城は「谷小屋城」と呼ばれるものと初めて認識する事が出来た。尚、御住職はこの城山の存在は知ってはおられたが、城跡呼称すら御存知ではなく、今まで一度も城山に登った事がないとも聞き及んだ。最初に御住職に声をかけておれば、一緒に同行して上れたかも知れないので非常に残念な思いはしたが、御住職の年齢を考えれば案外それも叶わなかったかもしれない。山上まで到達するには短時間ではあるが、非常に厳しい登山が待ち受けているのである。

御住職も城山の様子に聞き入っておられた事からも、それなりに興味は示され、「上れないが一度山上の写真(現状)を見てみたい」と言う事になり、画像は次の山城巡りの際には必ず持って伺う事を約束した上で寺院は後にした。これを機会に御住職からは是非、市に対して史跡として残せるように働きかけて頂き、この残存度の高い城跡遺構は何としてでも後世まで大事に遺して頂きたいとのである(近所にある大塩城より規模は小さいが見応えで勝る)。それが自分としては一番望む事でもあるのだが、、、。

1route_tani 登城ルート

Tani1z 城跡の概略(妙祐寺パンフより抜粋)

4_1 城跡遠望

3ta 城跡概念図

城跡は小浜市中井にあって、ルート図に示した様に国道162号より「妙祐寺」を目指せば難なく辿り着ける筈である。概念図の如く、寺院の最奥に位置する集合墓地背後から旧妙見社への参拝道を利用、その跡地背後より急斜面を登り切れば、便宜上の東出郭には15分もあれば到達出来ると思われる(藪漕ぎもなく迷わず上れるが、斜面は相当きつい!)。

10 登山口

16_higasi_demaru_1 東出郭の現状

17_higasi_horikir_1 東堀切見所

23_nakakaku_1 中郭

25_shukaku_e_noboridorui 主郭上り土塁見所

27_shukaku_2 主郭内

28_kesiki_2主郭からの眺望

35_nisihasi_horikiri_1 西堀切見所

33_2ren_dorui_karabori 二連の空堀土塁見所

現状(九月)城跡は、この時期においても郭間の移動には難渋する事も無く見て回れ、山城としては比較的良いと言える状態にある。もちろん自然任せである為に主郭などの地表は荒れ放題でもあるが、意外に山上主郭に佇めば一部集落の見通せる場所も残っており、残存遺構でもある堀切(三箇所)、郭跡、切岸、僅かに残る土塁跡(内壁に石列あり)、空堀(武者隠しかも?)などは全て判別確認可能な状況でもある。山上に直線的に配された郭形態からすれば、縄張り妙味には少し欠けそうではあるが、それを補って余りある高低差を伴う堀切(切岸)を代表とする様に、非常に見応えがあるものであり、遺構残存度の高さも含めてこの城跡の魅力の一つともなっている。城跡は自ずと四季を問わず訪問可能な状態が予想される事からも、山城ファンにおいては是非訪問をお薦めしたいと思うのである(史跡ファンには登山が少しきつい)。 言い忘れたが、寺院敷地にある「しだれ桜」は訪れる季節さえ間違わなければ、写真で見る限り一見の価値のあるものとして目には映った。

2009年6月18日 (木)

石山城跡(福井県大飯郡)

城跡は福井県大飯郡おおい町石山にあって、当時は若狭武田氏(後瀬山城主)の重臣でもあった武藤氏の居城と伝わっているが詳細は不明。

城跡へは舞鶴若狭自動車道「大飯高浜」ICが最寄の乗降口であるが、綾部市内からは県道1号を利用すれば道路も相当空いており、遠回りでもある自動車道とは時間に大差なく到達出来るものとは思える。現地に於いては当然登山道は無いものと思われるが、舞鶴若狭自動車道と県道1号の川を隔てた側道の交わる付近が今回の直登取り付き地点とした場所であり、ルート図あるいは概念図の如く、集合墓地横から背後に回り竹林地からそのまま山上を目指せば、急斜面ではあるが僅かな踏み跡も窺えるので、15分もあれば迷わず便宜上の三の丸までは辿り着く事が出来る。

今回は現地に向う途中から小雨が降り出した事もあり当然の如く斜面は滑りやすく、非常に悪条件下での厳しい登山になったが、山上主郭までの距離は長くはないので、何とか山上までは無事に辿り着く事が出来た。結果的には現状の安全面を考えて堀切があると推察出来た南急斜面、あるいは地形上からも縄張りと察せられる南西尾根までは踏破は出来なかったが、山上郭群における比較的状態の良い明確な遺構の数々を眼にする事は出来た。現状(六月)城跡は藪化進行中にはあるが充分遺構は判別確認出来る状態にあり、案外小雨の中でも快適に見て回れた事を考えれば、意外に四季を問わず訪問可能なのではないかとも見て取れた。山上郭群としての形態は規模の小さい主郭を最高所として、北東側尾根に沿って郭を段郭的に展開したもので、規模もさほど大きいものでは無く、郭高低差も余り無い事からも見応えには少し欠けるように思われたが、急峻な地形、遺構残存度の高さ、部分的に備わる縦土塁自然岩を利用した郭壁、主郭に備わる土塁など山城の醍醐味は充分感じられるものでもあり、縄張り妙味さえ問わなければ充分お薦め出来る山城の様には感じられた。

1a 登城ルート

7_tyokuto_kuti 進入口

3i 城跡概念図

15_3maru_1 三の丸

18_higasi_kaku_gun 北東段郭群

22_higasi_hasi_kaku 北東先端郭

30_2maru_2 二の丸

31_shukaku_ooiwa_heki_2 主郭大岩壁見所

34_shukaku_dorui 主郭内

33_dorui 主郭土塁見所

今回の訪問は悪条件下でもあり、事前に計画していた縄張りと推察出来る範囲の全てを踏破したわけではないので、当然遺構も縄張りも概念図に示した限りが全てではないと思われるが、これから訪問される方には、是非自分が踏破出来なかった箇所も踏破して頂いて、この山城の持つ本来の縄張りを極めて頂きたいと思うのが本音でもある。もちろん山上郭群以外の遺構(個人的には公的に作成された縄張り図は出来るだけ所有せず、尚且つ見ない様にしているので、実際の縄張り図が存在していたとしても分からないのが現状)に関しては推察の域は出ないのではあるが、、、。

2009年4月19日 (日)

疋田城跡(福井県敦賀市)

城跡は敦賀市疋田にあって、JR北陸本線「新疋田駅」の真北の丘陵上に位置している。城跡へは国道161号よりルート図の如く向えばよいが、城跡南側の線路沿いに運動場を兼ねた広大な空き地があるのでそこまでは車で進入出来、更に駐車も可能となっている。付近にある城跡案内板は直ぐ目に溜まるので、そこから登ればいきなり主郭までは到達出来る。Hi

登城ルート

3_2 現地案内板

現状(11月)城跡は全域がほぼ農地となっている為に、石垣跡などによって郭境を見分ける事は可能であるが、後世における積み直しも含めた石垣跡も混在している様に窺われるので、はっきりした縄張りは歩き回って自分の眼で見て判断するより手はない状態にある。全体が農地化(郭跡の転用)されている事で、ある程度見通しは利き全体像は掴み易いが、細部に渡っては下草も雑木も相当蔓延っているので中々遺構の判別確認は難しい状況でもある。石垣跡は本郭周囲から小規模な櫓台に至るまで相当量が破壊を免れて残っており、櫓台に相当すると見受けられる北壁側には非常に形の整った石垣跡が二段、今でも数10mに渡って現存している。更に見所とも言える石垣跡は農地化された広大な畑地の随所で目に留まり、見学者の目を非常に楽しませてくれている。

周辺を歩き回って確認した限りでは、城域は北側日吉神社付近にまで及んでおり、東側は住宅地傍までも城跡遺構らしきものを確認する事が出来た。遺構としては石垣跡の他に空堀、土塁跡などは確認出来たが、近世における造成がどこまで及んだものか見当も付かない為に推察の域は出ないものでもある。ただ線路側に残された巨大に見えた凄い空堀(堀切)は、地元の人に聞けば付近造成工事の為に当時作業用トラックを通した道であるとの見解であった(自分の眼には縄張りプランから推察しても空堀としか目に映らなかったが、、)

とにかくこの城跡は広大な面積を所有しており、案内板の設置された本郭部背後から線路沿いに至るまでの広大な空き地(小学校跡地らしい)は当然消失してはいるが、当時の縄張りの一部と解釈しても良さそうには思えるもので、本郭群より四方に広がる畑地も多少の改変はあったとは思われるが、全て当時の郭跡の様にも見受けられた。個人的には城域の東西南北をほぼ踏破した計算になったが現状では雑木密生藪地も多く、探せばまだまだ石垣跡、土塁跡を除いた優れた遺構が眠っているような気もするのである。

ほぼ平城に近い城跡なので当然山城の醍醐味は求められないが、当時(織田方による改修後)総石垣城に近かったと思われる相当量の石垣跡は見学に充分値する遺構でもあり、まだ未訪の方には是非訪問をお薦め出来る城跡と言えるものでもある。

4_yagura_haigo 進入口

8_shukaku_obi_isi 11_tenshu_obi_isi 櫓台石垣跡見所

14 本丸跡の現状

18 東郭側石垣跡

21 畑地に残る石垣跡

31 郭境

26 大手虎口か?

2009年4月18日 (土)

砕導山城跡(福井県大飯郡)

城跡は福井県大飯郡高浜町宮崎にあって、先にリポート掲載を終えた高浜城跡からは国道を挟んで南側に位置する砕導(サイチ)山の山上からほぼ四方に渡る尾根上に縄張りは展開されている様に見受けられる、高浜城主でもある逸見氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡へはJR「若狭高浜駅」あるいは佐伎治(サイチ)神社を目指せば分かり易く、国道からも直ぐの距離にある神社に到着すれば南側奥より妙見経由で参拝登山道が山上主郭までは通じているので迷わず辿り着く事が出来る。この山城は訪問後に文献及び資料から分かった事だが、今回訪問リポートとして掲載に及んだ城域は砕導(サイチ)山を主郭とする本郭群であり、更に縄張りは南側尾根あるいは東へ繋がる連続する尾根先端にまで及ぶもので、全山総郭とも呼べる広大な規模を誇る山城である事も判明した。どちらにしても遠距離での訪問でもあり、全山踏破する事は最初から無理だったのではあるが、、

以上の事から今回はルート図に示す砕導山本郭群のみの訪問リポートということになり、結果的にも凄いと思える見応えのある遺構にはお目にかかる事は出来なかったが、戦国期山城の雰囲気を味わうのであればこの山上郭群だけの見学でも充分である様には感じられた。

現状(四月)城跡の山上主郭に至るまでの規模の大きい三郭(概念図に示す)は社殿敷地でもあり、ある程度整備されているので見学し易いが反面、近世においてどこまで造成整地されたものかは見当が付き難く、郭跡の転用として見たままを自分で判断するしかない状況でもある。形態としては麓から山上にかけて郭は三段構の構造であり、移動尾根上に土橋を挟んで郭間に堀切なども確認する事が出来た。土塁などは確認出来なかったが密生する雑木藪の中には数段にも及ぶ削平地の確認、便宜上の二の丸北斜面には見応えのある二重堀切を確認する事は出来た。概念図に示すまでが今回踏破確認した遺構でもあるが、山上主郭からの東尾根移動は最初に計画に入っていたのだが、密生する雑木藪の為に非常に困難を極め、ついに断念に至った経緯がある。東峯から東尾根先端にかけて展開されているであろう郭群は、次の訪問時にリベンジということにはなったが、その機会が何時訪れるのかは見当が付かないのが現状でもある。しかし必ず近い内に全山踏破をして縄張り及び戦国期の遺構群を確認してみたいと思わせる山城の一つである事は確かである。

1z 登城ルート

2nawa1 城跡概念図

10_higasikaku_koguti 東郭虎口

11_higasikaku 東郭(転用地)

13_2 土橋風の移動尾根道

15_dankaku_horikiri_1 堀切

17_kaku_nai 社殿(郭跡転用地)

18_yasirokaku_kita_horikiri 北二重堀切1見所

20_shukaku_dankaku_gun 段郭群

25_shukaku_nai 山上主郭

2009年4月14日 (火)

達城跡(福井県大飯郡)

城跡は大飯郡大飯町尾内にあって代々本郷氏の居城と伝わるが、当時若狭守護職でもあった武田氏の滅んだ後は他の若狭の国人衆と同様に織田方に加わった模様、詳細は不明

城跡へは小浜から高浜の東西を通過する国道27号を走れば「本郷」交差点より県道1号へ針路変更、その後はJR「若狭本郷駅」を目指すのが一番分かり易く、駅前の道路を通過しながらルート図の如く進行すれば、橋を渡り登山口にあたる浄眼寺辺りまでは難なく辿り着ける。橋の袂から上れる神社のある小山は既に北出郭と呼べる縄張りの一部でもあるが、此方からは最高所が寺院の居住空間となっている為に通過して山上まで上る事が出来ず、写真に示す浄眼寺西手前の民家脇にあるカーブミラーを目印としてその先を曲がれば竹林地を抜ける山道が山上まで通じているので、自ずと出郭背後の二重堀切までは到達出来る(荷物運搬用モノレールが丁度縦堀に沿って備わっている)。車は地区で利用されている様にも思えた空き地が寺院付近の道路脇にあったのでそこに停めたが、利用出来る確証はない。

現状(三月)城跡は主郭南側に風化によって荒れ放題と化している連続する尾根上削平地以外は多少藪化は進行しているものの、概念図に示した遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。城跡最大の見所とも思えた出郭背後の二重堀切は現状寺院背後にある為に多少の地形改変は窺えるが出郭壁の高低差が10m近くあるもので、民家のある登山口付近まで縦堀となって繋がっている様は相当な見応えが感じられる。ここから更に南山上に向いて上ればその道中に土塁虎口跡、あるいは段郭群なども確認出来、忠魂碑の建つ主郭までは20分もあれば到達可能である。縄張りとしては北出郭から山上主郭までの斜面、更に南側尾根上にも郭は展開されており、尾根上には現状相当埋もれてはいるが二本の土橋付き堀切を確認する事が出来た(一本は珍しい食い違いの片堀切に見えた)。

Tatu 登城ルート

8_tozanguti 登山進入口

3tatu 城跡概念図

11_dai_horikiri_1 出郭背後の縦堀見所

13_2jyuu_horikiri_dorui 出郭背後の二重堀切見所

23_tyuufuku_kaku_gun_2

中腹の郭群

25_dorui_koguti_2 中腹の土塁虎口

14_shukaku_koguti

主郭虎口

15_shukaku 主郭内

18_horikiri_dobasi_1 南堀切土橋見所

2009年4月13日 (月)

天ヶ城跡(福井県小浜市)

この山城は小浜市羽賀にあって、羽賀寺の真北に聳える標高266m(比高250m)の現在でも当時でも人馬も寄せ付けないほど急峻な山の山上に位置しており、山頂まで上る登山道(道自体は藪漕ぎがないので助かるが、およそ登山道とは呼べない)はあっても、ほぼ自然任せの良く滑る尾根急斜面を這うようにして上らねばならず、相当な体力を消耗する為に最初に登山する覚悟と準備(スニーカーは禁物!)が必要でもある。休まず上れば30分で山頂を極められるが、山頂櫓台に佇めば登山の達成感も遺構見学の醍醐味あるいは満足感の両方を手にする事が出来るものと思われるので、足腰に不安のない方は是非トライすることをお薦めしたい城跡でもある。戦国期においては内藤氏の居城が伝わるが詳細は不明

城跡へは先にリポート掲載を終えた丸山城を起点にすれば分かり易いが、そこから北へ向いて僅か直線で2kmの距離でもあり、登山口となる羽賀寺を目指せば難なく辿り着ける。登山口の道標は本堂東側にあるが、祠を経て山上までは前述の登山道で登れるので迷う事は無い様には思われる。個人的には何時もの様に山城を体感する為に谷沿いを直登したが、途中余りにも急斜面でもあり堪らず登山道側へと合流した、しかし此方も直登以上に激斜面であり大して厳しさは変わらないものだったが、、、

現状(三月)城跡は高低差の少ない四郭で形成される山上本郭群の状態は比較的全体の見通しも利く事から山城としては良い部類に入るが、北側の最高所にある櫓台より北側の尾根上の規模の大きい郭群は相当藪化も風化も進んでおり、地形から何となく土塁の高まりなどが判別出来る程度で、最北に位置する広大な郭に至っては風化によって郭境は相当曖昧になっており、土塁の高まりは窺えるが郭構成に関しての判別は不可能な状態にある。城跡の見所としては概念図に示す二重堀切を含めた三箇所の堀切群が真っ先に挙げられるが、櫓台北斜面には二重堀切までは現状ロープが備わるほどの高低差があり、防備する上での本来の切岸を充分体感する事も出来る。険峻極まりない山上に築かれたこの山城の佇まいは、戦国ロマンに浸れる事は請け合いでもあり、地形あるいは縄張りを含めた全てが見所と呼べるものである様な気はする、、残存遺構が目白押しの山城ではないが、自分と同様に険峻な山上にある戦国期山城が好きな方には是非訪問をお薦めしたい物件の一つでもある。

1route 登城ルート

3ama2 城跡概念図

11_horikiri_dobasi_3 南側堀切土橋見所

12_kaku4_2 山上郭4

14_koguti 西虎口

18_kaku2_heki_1 山上郭2より櫓台

23_kaku1_yagura_4 最高所櫓台

26_higasi_horikiri_dorui_2 東斜面堀切見所

30_kita_2jyuu_horikiri_2 北二重堀切見所

36_hokuseikaku_dorui 北西郭の土塁

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