中国(山陽)地方の山城

2009年6月19日 (金)

吉末城跡(広島県東広島市)

城跡は広島県東広島市豊栄町安宿にあって、椋梨川に沿う形で走る国道486号からは「吉末城跡」と掲げられた大きな看板が目に留まるので、場所及び位置は直ぐ確認する事は出来る。個人的にも国道を移動中に偶然この大きな看板が目に入り思わず立ち寄ったものでもあり、僅かな期待を胸に秘めての訪問となった。当然城跡に関しての詳細は不明ではあるが、城跡の規模あるいは地理的環境から推察しても、村の城あるいは物見の域は出ず、当時この一帯は毛利氏あるいは小早川氏の支配する所でもあり、自ずとその傘下の武将あるいは家臣の城であった可能性は高いと見受けられる。

城跡へは前述の様に国道486号を走ってさえいれば、川沿いの低山麓に掲げられた大きな看板は直ぐ目に留まる筈であり、ルート図の如く椋梨川を渡ればどこから取り付いても山上主郭までは5分内で到達出来る。個人的には写真に示す川沿いから看板の見える山道より山上を目指したが、途中からは雑木藪地となったのでそのまま藪漕ぎで山上まで上る羽目になった。主郭に佇んでも麓まで通じる山道は見当たらなかったのだが、下山時に下り立った付近にある東側の畑地を通過して上った方が、未訪の方には分かり易く無難かも知れない、、、。

現状(四月)城跡は植林地なのであるが、下草や草木が相当蔓延っているので非常に歩き辛く見学し難い状態にあり、場所によっては密生する草木あるいは伐採された木々の放置によって地表も見えず踏み入る事も出来ないので、郭形状あるいは郭内の地形は当然掴めない状況でもある。規模の小さな城跡なので推察でも充分事足りるかもしれないが、削平地、土塁跡、切岸などは部分的にしっかりと残っており、大きな看板が目ざとく設置されている史跡として考えれば、この状態では随分勿体無い気もする。当然自分の様に看板を見て訪れる見学者も多数いる様には思われるが、現状を見る限り少し落胆は隠せないのが現実でもある。次の予定地までの移動中でもあり、急いで見て回った為に正確な城跡概念図は描けなかったが、図中に示したまでが目に留まった遺構であり今回歩き回れた範囲でもある。訪れた時期がまずかったと言えなくも無いが、個人所有の城山と察せられる事からも、これ以上多くは望めないような気もするのである。今回の様に国道移動中に少し立ち寄る程度の訪問なら、納得した訪城になるとは思えるが、、、。

1 登城ルート

3tozanguti_2 城跡遠望

3x 城跡概念図

15_fumoto_3 城跡東側

10_shukaku_nai 主郭内の現状

8_shukaku_heki 主郭切岸

7_minami_gedan_1 主郭南下段郭

10_obi 東帯郭

15_fumoto 現状休耕地 郭跡か?

2009年6月 5日 (金)

高嶺城跡(山口県山口市)

城跡は山口市上宇野令にあって、山口県庁あるいは山口大神宮の真西側に聳える鴻ノ峰山(標高338m)の山頂に位置している。当時西国に於いては権勢を欲しいままにした大内氏の居城であり、大内氏最後の当主でもある義長が毛利氏の侵攻に備えて築いた規模の大きい山城でもある。当時臨戦中の事でもあり完成までには至らなかったと聞くが、結果的に毛利の前には成す術も無く城を明け渡して西に退去し、やがて大内氏は滅亡の一途を辿る事になる。大内氏「最後の砦」と言った表現がピッタリ当てはまり、悲哀に満ちたロマン漂う山城と言えそうにも思われる。城跡はその後毛利氏によって改修の末に完成されたと伝わっており、おびただしく残る石塁などは大内側からすれば臨戦態勢中でもあり、石垣などは到底築く余裕などは無かったはずとも察せられ、当然毛利氏による普請である様には感じられたが、、、

城跡へは山頂近くの電波施設までは車で上れる(二、三台駐車可)ので、ルート図を参考に木戸神社あるいはメガネの「三城」を目指せば高嶺城登山道でもある車道進入口までは分かり易く到達出来ると思われる。東麓に位置する山口大神宮からも歩きによる登山道はあるらしいが、比高約230mを考えれば城跡見学を目的とするだけなら、当然車で上ったほうが効率は良いだろう。

1route1 登城ルート

Enbou 東より城跡遠望

3x 現地縄張り図

現状(七月)城跡は訪問時期的には恐らく最悪とも見受けられ、延び放題の下草(夏草)で細部に渡る地形の変化などは読み難く、当然残存遺構の判別確認も多少ではあるが難渋する状態にある。しかしながら山上に於いては特筆するべく技巧を持ち合わせた複雑な遺構も見受けられない為に、現状見学に差障るまでの状況までには至っておらず、木々が少ない事からも見通しは良いので、主郭を取り巻く石塁は全て見学出来る状況にはある。郭を分断する堀切(空堀)などは設けられておらず、見所は山上の地形を生かした縄張りプラン、あるいは前述の主郭壁随所に窺われる広い面積で残存している石垣跡と云った処になるとは思われるが、この石垣跡は高低差を伴うものでもあり相当な見応え感じ取る事が出来る。国指定史跡の山城でもあり当然遺構残存度は高く、山口県内でも有数の規模を誇るものでもあり、推奨に値する城跡である事は確かである。

Ninomaru1 二の丸

Shukaku_koguti2 主郭虎口石段見所

Koguti 虎口側石塁

Shukaku 主郭内

Isigaki1 Shukaku_1 Shukaku_heki_isi Shukaku_isigaki 主郭を取り巻く石塁見所

尚、電波施設の東側にも数段にも渡る郭群が現地縄張り図には記載されてあったが、現状此方側は下草も多く、雑木も密生している為にとても見学出来る状況にはなかった。冬季訪問ともなればこの限りではない様には見受けられるのだが、、、

2009年6月 4日 (木)

茶臼山城跡(山口県柳井市)

城跡は山口県柳井市日積小国にあって、毛利と大内の古戦場として地元には伝わっており、大内氏側である重藤因幡守が拠った事から稲羽(イナバ)城と今日に至るまで伝わったのではないかとも察せられるが推察の域は出ない。主郭に相当する社殿の建つ敷地部分は茶臼山古墳の墳丘を利用して築かれたものである。

城跡へは山陽自動車道「玖珂」ICが最寄の乗降口、周防大島町にある吉井城跡と同じ訪問ルートでもある国道437号より南下して向うが、「小国」地区周辺より一般道151号へ針路変更、三叉路突き当たりまで車を走らせれば正面に望める丘陵が城跡であり、確認すればルート図の如く南下して茶臼山古墳の標柱のある道路へと右折針路変更すれば、後は道に任せた林道で社殿(主郭)下までは車で乗り付ける事が出来る(小型車一台駐車可)。

現状(四月)城跡は事前に地元の方に聞き及んだ様に社殿のある主郭以外はほぼ藪化は進行中でもあり、藪漕ぎ移動はないものの生い茂る雑木で視認にはかなり難渋する状態にある。現状遺構として判断出来たものは郭跡を除けば北側の虎口らしき土塁跡、郭切岸のみでもあり概念図に描いた付近までが当時を伝える比較的判断し易い遺構ではないかと察せられる。北側は鬱蒼とした密生する雑木藪と化しておりどこまでが郭境なのかは見当も付かない状況でもあり、南側の林道沿いには木々が密生している中、相当広大な削平地も窺われたが、当時の遺構かどうかの判別は不可能と思える。地形の上からも北側に縄張りは相当延びている様にも察せられたが、低い丘陵地である事からも堀切などの見応えのある遺構には期待が持てず、当時の古戦場の雰囲気だけを味わいながら城跡を後にした。山城ファンには決してお薦め出来る城跡とは言えないが、古戦場としてあるいは史跡として覗いて見たい方には充分見学する価値はあるのではないかとは感じられた。

5 林道進入路

Tt 城跡概念図

8minami_kaku 主郭南側

10_shukaku 山上主郭

11_rin_kaku 主郭輪郭

14_sita_yori_dorui 虎口らしき土塁

16_shukaku_higasi_heki 主郭東切岸

18_kitagawa_kaku_1 北側の郭跡

2009年6月 2日 (火)

長見山城跡(広島県安芸高田市)

城跡は安芸高田市甲田町下小原/内長見にあって、城主渡辺氏は毛利氏の重臣として代々仕え、元就の代に異母弟を擁立して反旗を翻した事により一時的には滅んだ形となったが、渡辺通の代に復帰し以来毛利氏に忠誠を尽くした事が史実となっている。

城跡へは先にリポート掲載を終えた五龍城を起点にすれば分かり易いが、国道54号から県道37号へ針路変更し5km程度南下、JR「吉田口駅」付近でルート図の如く右折すれば、ほぼ赤線で示したルートで登山口標柱までは到達出来る。そこからは山道任せで5分程度で山上主郭には辿り着く事が出来る。

城跡の形態としては東西に長く延びる丘陵上に郭を展開したものであり、主郭に相当し最高所に位置する本郭群は西側に位置している。登山口より最初に到達した尾根上には東に向いて相当広い範囲で削平地が繋がっており、西側には数段の段郭群を挟んで主郭に繋がっているが、更に主郭より南西側に下りると堀切を挟んで出郭と呼べる規模の大きい郭が堀切側に土塁を付して築かれている。ここからは更に南斜面に沿って四段程度の小郭が付随しているのが見て取れる。現状(四月)城跡は主郭以外は相当下草や雑木が蔓延っているので郭跡全体像の視認はまず困難、歩き回って城跡の規模は体感する事が出来るが、細部に渡る地形の変化や遺構の確認には相当困難を来たすのが現状でもある。大雑把ではあるが概念図に示したものが自分で歩き回って確認出来た範囲の遺構であり、密生する雑木藪の為に見逃してしまった遺構も少なからず存在する様には思われる。東に延びる削平地も縄張りとして取り込めばそれなりに規模の大きい城跡と言えるのではあろうが、見る限り尾根を断つ堀切も一箇所あるに過ぎず、特筆すべき見応えのある遺構も存在しない事から考えれば、是非お薦めの城跡とまで行かないのが本音でもある。

1route_2 登城ルート

6_2 城跡進入口

3naga 城跡概念図

11_koguti_1 段郭群虎口

14shukaku 山上主郭

15_shukaku_heki_1 主郭切岸

17_nisi_horikiri 出郭堀切

19_nisi_demaru 出郭内の現状

20_nisi_dankaku 四段郭

19_sakuheiti_1 東へ連続する削平地

2009年6月 1日 (月)

壬生城跡(広島県山県郡)

城跡は広島県山県郡北広島町壬生にあって、別名高峰城とも呼ばれ壬生氏の居城と伝わり毛利氏によってやがては滅ぼされたと聞く。

城跡へは中国自動車道「千代田」ICが最寄の乗降口、ICからは県道5号よりルート図の如く壬生神社を目指せば分かり易く到達出来、社殿の山手側にある集合墓地奥からは遊歩道が山上主郭までは通じているので迷わず辿り着ける。

現状(四月)城跡は「つつじ祭り」の最中でもあり、山上主郭を除けば郭跡全てがつつじの花や葉で満遍なく覆われており郭形状は掴み難く全体像も拝める状態にはない。もちろん城跡全体が公園化されているので本来の郭跡ですらどれだけ原形を留めているのかは想像も付かない状態にある。主要な郭転用地には休憩用デッキが備わっている事からも、当然造成整地の上で改変があったものと見受けられ、現状から当時の状態に思いを馳せる事は非常に困難でもある。山上郭群は小規模でもあり、現状見る限りにおいて明確に判断出来る遺構は郭跡だけだと言ってよいかもしれない、堀切らしい箇所、あるいはの丸においての土塁などは当時のものかも分からないが、素人目の遺構判断は非常に難しいのが現実でもある。

公園化されているので山上からの眺望も利き、当時の風情を味わう程度の史跡見学として赴くならば充分納得の行く見学は出来るものと思われるが、遺構の醍醐味あるいは縄張り妙味などを求める山城ファンに於いては、決して期待をもって臨まない事が肝心と思わる城跡の様に感じられた。

2_3a

2_3 現地案内板より

3mi2 城跡概念図

8_naka 山上中郭

15_3amru_gedan 三の丸下段

17_2maru 二の丸内

17_2maru_1 多聞寺

20_shukaku_2 20_shukaku 山上主郭

2009年5月28日 (木)

周防千葉城跡(山口県熊毛郡)

城跡は山口県熊毛郡上関町室津にあって、当時は竃戸の関(カマドノセキ)と呼ばれた上関(カミノセキ)周辺の海上を監視する宇賀島氏(大内氏傘下の水軍)の城跡あるいは砦跡と伝わっている。この宇賀島氏の本拠は周防大島の北側安芸灘に浮かぶ浮島と伝わっており、大内氏が滅んだ後は当然村上水軍に吸収されたのか、あるいは毛利直属の水軍として動いていたのか、どちらかである様には思われる(推察)。

城跡へは既にリポート掲載済でもある村上水軍の居城、上関城跡を起点にすれば分かり易いが、県道23号で上関に向いて南下した場合、上関大橋は渡らず手前から県道72号より柳井市に向いて海に沿って車は東へ走らせればよい。目指す場所は千葉岬に建立された千葉稲荷神社でありその一帯(山上)が城跡と伝わっている。

現状(一月)城跡は山上に建立された社殿に到達するまでの石段付近に、段状の削平地が随分古びた石垣跡を伴って連なってはいるが、これが当時の遺構かどうかは素人目には到底判断は出来ない。城跡の成立した時代も相当遡ると思われるので当然良い状態のまま残存しているとは思われないが、純粋に当時の遺構と思って見学した方が想像も膨らんで楽しめるようには感じられるが、、、社殿背後には土足禁止の祠に上る石段が設置されているが、本来ここが櫓台と呼べる物見機能を持った土塁であったのかも分からないが、当然推察の域は出ないものでもある。北斜面には石垣跡も見受けられたが築かれた時代背景も見当が付かないので自ずと見学者の判断に委ねられる。

概念図に示したまでが現状確認する事が出来た遺構かもしれない?箇所であるが、岬の東西斜面側あるいは海岸線までも、冬季に拘らず凄まじい雑木藪と化しており踏破する事は不可能な状態となっている。

1 登城ルート

2a 上関案内マップ

3 城跡概念図

4_nisi_yori 西より城跡遠望

9 10 千葉稲荷神社

16_dankaku_isi_2 17_dankaku_isi 古びた石積み

21_yasiro_sita_sokumen_isi 北斜面の石垣跡

23_1

この現況リポートは瀬戸内水軍に興味を持たれている方にとっては多少でも役立つのかもしれないが、現状見る限りでは現地で城跡の雰囲気を味わうのが精一杯とも思え、上関城訪問ついでに軽い気持ちで赴くのならさほど移動距離もないので楽しめるかもしれない。

2009年5月27日 (水)

吉井城跡(山口県大島郡)

城跡は山口県大島郡周防大島町西屋代/吉井にあって、当時水軍としては最強を誇った村上水軍(三島ある能島、来島、因島のいずれか)の城跡と伝わり吉井氏の居城と聞いた。本来大島の西側半分を来島水軍、東側半分を能島水軍と分割統治としていたらしく、西側に位置するこの城跡は来島水軍に属す城跡と言ってよいのかも知れないが、当時は三島水軍を巡る周りの情勢もそのつど変化(一時は敵対関係)しており現状詳細は不明。

付近に居を構えられる町史に詳しい方でも詳細を掴めないほど無名に近い城跡なので、現地で聞き込んだ以上の情報はこれから先も得られないかも分からないが、石垣が郭壁(畑地)に残存している事と当時の郭跡が畑地あるいは蜜柑畑として転用されて現在にまで至っているが、現状はほとんど藪に近い状態との情報だけは事前に得る事が出来た。尚、未訪に終わったが西屋代には龍心寺と言う曹洞宗の寺院があり、ここは能島水軍大将村上武吉の嫡流にあたる元吉から元武あるいはその子孫の菩提寺になっており、一族の墓所になっているとも聞いた。

城跡へは山陽自動車道「玖珂」ICが最寄の乗降口、ここから国道437号に進入し道路に任せて進行すれば、既にリポート掲載済でもある塩宇城跡へ向う時に利用した大島大橋は自ずと渡れる計算にはなる。橋を渡れば県道4号へ直ぐに右折、後はルート図の如く西屋代集落にある小字吉井、あるいは吉兼集落を目指して屋代川沿いに進行すればよい。現地に入れば川沿いにある学校、JA、郵便局が目印となり、ルート図に示す赤線ルートのいずれかで城跡までは到達出来る筈である。この地より川を隔てた東側丘陵上には吉兼城跡もあるが、一帯は集合墓地、畑地あるいは藪地と化しており城跡と明確に判別出来る遺構は見る限り現存していないように見受けられた。

1route_2 登城ルート

5_2 進入口

Oosima_4 郭切岸

Oosima_15 Oosima_17当時の遺構と断定は出来ないが石垣跡

Oosima_12 堀切より北側の郭跡地

Oosima_13 郭跡

Oosima_9 堀切道

Yosikanejyou 吉兼城跡遠望

現状(四月)城跡は事前に聞き込んだ通り、小さな蜜柑畑の一部を除いてはほぼ密生する矢竹雑木藪と化しており、堀切(南北を断つ唯一の堀切道)、段郭状になった郭跡及びその切岸はある程度確認出来ても郭内に踏み入る事はほとんど不可能な状態でもあり、縄張りを把握する事はほぼ不可能、これが当時の遺構と断定出来そうなものは郭切岸、郭跡の転用と見受けられた畑地あるいは堀切道、近世の石垣跡も混在している様には窺われたが、一番古そうに感じられた二段の石垣跡(この石垣が当時のものと断定できる確証は無い)などで、これらが城跡を物語る唯一の遺構とも見受けられた。遺構残存度も低く状態も良いとは言えない城跡ではあるが、個人的には訪問後に村上水軍に関して興味を持つ事にも繋がり、更に知識を吸収し直すきっかけともなったので充分納得の出来る訪城となったのは確かである。

2009年5月23日 (土)

日下津城跡(広島県安芸高田市)

城跡は広島県安芸高田市向原町坂にあって、古くは毛利一族より分かれた側が坂氏を名乗ってこの地に居城、以来毛利氏一族をささえ重きを成したと伝わり、元就の代に及んでは一時期坂広秋が反旗を翻したが、その息子より再び元就に仕え代々重きを成したと歴史は伝えている。

2h 現地城跡説明版より

1route 登城ルート

6 登山口

城跡へは田屋城跡を起点にすれば説明し易く分かり易いが、田屋城跡の真東2km内に位置する山上が城跡にあたり、県道37号から向えば「支所入口」交差点より県道29号へ針路変更、後はルート図の如く右折して三篠川を渡れば道路沿いの案内板までは到達出来る。案内板からは墓地経由の登山道(2ルートあり)が山上まで繋がっているので迷わず辿り着ける筈である。

現状(四月)城跡は史跡としてある程度整備されているので比較的木々も少なく、縄張りにおける遺構標識も設置されている事から初めて訪れる見学者でも遺構が目に留まり易く、非常に見学し易く見て回りやすい状態にはある。ただ一部の郭内には伐採された木々がそのまま放置されていたり、雑木も蔓延っているので視認し辛く歩き難い箇所も少なからずある。現状遺構として目に留まるものは郭跡を除けば郭切岸、主郭周りの堀切(縦堀を含む)群、井戸跡、南出郭の土塁、西物見の段下の分厚い土塁と言ったところで、郭高低差がある事からも山城の醍醐味は充分味わえる、尾根を断つ薬研堀の様な見応えのある遺構に巡りあう事は出来なかった。登山道も設置されており比較的残存状態も良い事から、程近い距離にある田屋城跡とセットで同日訪問となれば充分お薦め出来る山城と言えるのではないだろうか。凄いと声を発するほどの遺構は存在しないが、広島県内に於いては山城を史跡として評価する意識レベルが非常に高いものと見受けられ、近畿圏内ではおよそ見向きもされそうにない田屋城跡やこの城跡クラスの山城でもある程度整備が成されており、登山道あるいは遺構標識まで設置されているのにはただ驚くばかりである。山城ファンにとっても一般見学者にとっても、登山道が設置されているといった事実だけで訪れてみたい気分にもさせられ、状態の良い当時の遺構を見学すれば自ずと史跡保護の意識も高まり、後世幾世代にも渡って史跡を遺して行けるのではないかと個人的には思うのである。

3hige 城跡概念図

16_shukaku 主郭内

21_kita_obi_2 主郭北側帯郭

22_higasi_idoato 東側井戸跡と縦堀見所

30_monomi_demaru_heki 西物見の段切岸

31_monomi_demaru_1 物見の段

33_dorui_kaku_1 物見の段下の土塁見所

2009年5月22日 (金)

田屋城跡(広島県安芸高田市)

城跡は広島県安芸高田市向原町田屋にあって、県道37号より「カタクリの里」を目指し進行、ルート図の如く現地に入れば県道沿いからは里は直ぐ目に留まる、登山口西側にあるカタクリ茶屋(廃業?)まで向えば付近に車の駐車スペースはあるので、現地案内板横から登山道で(左手側方向)城跡を目指す事になる。

登山道に任せて上れば主郭背後の大堀切までは難なく辿り着ける筈であるが、個人的には何時もの様に登山道を避けて一旦城跡南側山上の物見と思われる削平地まで上り、そこから堀切まで下ったので実際の所要時間までは詳しく分からない。登山道中においては麓民家側背後に古びた見応えのある石垣跡が目に留まる段状の敷地(削平地)があったが、当時の遺構と断定は出来ないものの屋敷跡の様にも見受けられたので一応参考までに、、、

現状(四月)城跡は親切に遺構案内標識も設置されており非常に遺構見学がし易く、状態としては自然任せの風化中にあるが見学に差障りのある状態にまでは至っておらず、山城としてみれば比較的良い残存状態の部類に入るとは思われる。ほぼ四郭で形成されたこの城跡には小規模な山上主郭には似つかわしくない、分厚く高さのある立派な櫓台土塁が遺されており、主郭内に部分的に残存する虎口を形成するに使用された石垣、あるいは櫓台背後の大堀切、三郭の石組み井戸と並んで城跡最大の見所となっている。非常に小規模な山城ではあるが凝縮された遺構の数々は見応えもあり、大堀切などは薬研堀の如く高低差を伴うものでもあり、山城としての醍醐味も充分味わえる様に見受けられた。コンパクトにまとまった形態の山城なので縄張り妙味などは求められないが、山上に凝縮された残存度の高い遺構群は一見の価値のあるもの目には映った。見学し易さ(遺構標識がある)からしても充分お薦め出来る城跡の一つと言えよう。

2t 城跡説明版より

3a 城跡概念図

4tozanguti_e_2 登山口

16_tatebori_e_1 大堀切(縦堀)見所

19 主郭

18_shukaku_1 主郭櫓台土塁見所

23_2kaku_koguti 虎口見所

26_2kaku_isi_1 石垣跡見所

32_ido 石組み井戸跡見所

34_4kaku 四郭

35_dorui_1 四郭土塁

2009年5月17日 (日)

鈴尾城跡(広島県安芸高田市)

城跡は安芸高田市吉田町福原にあって別名福原城でもあり、代々福原氏の居城と伝わり毛利氏とは古来、祖(大江)を同じくする。福原居館跡に設置された案内板の説明では元就誕生伝説地とある様に、元就の母親の出生地でもある事から元就の生涯を知る上では避けて通れない城跡とは思われる。

城跡へは中国自動車道「千代田」あるいは「三次」ICが最寄の乗降口、どちらから向っても国道54号より現地に向かう事になるが、先にリポート掲載済でもある桂城跡を起点にすれば分かり易い。もちろん二城同日訪問とした前提で記事は書いているが、桂城側から見ればルート図の如く川を挟んで東側1km程度の近距離に位置しており、位置さえ確認出来れば麓の登山口までは難なく辿り着ける筈である。登山口からは遊歩道で福原居館跡を経由して上れば10分もあれば山上本郭までは到達出来る。

現状(四月)城跡は山上本郭のみであれば郭内に木々も無いので小規模な郭群の見通しは利くが、他の段郭群は一部矢竹密生地あるいは雑木も蔓延っているので全ての郭群が状態が良い訳ではない。しかし山城が小規模な事も相俟って縄張りを把握する事は容易でもあり、見学も非常に短時間で終える事は出来る。逆に言えばそれだけ見所も少なく山城ファンからすれば少し物足りないと言う事に繋がるのだが、、 見所は当時の石組み井戸跡(これは状態も良く素晴らしい!)あるいは案内板に記されてあった石垣跡は挙げられるが、この石垣跡は現状を見る限りでは自然岩を郭壁として取り込んだものの様にしか見受けられなかったが、掘り起こせば本来はそれなりの石積みが成されていたのかも知れない。

1route 登城ルート

2_3 現地説明板より

6 登山口

3suzu 城跡概念図

9_yakata_3 居館跡

11_kitakaku_hasi 北郭端

14_ino_dan_2 井戸跡見所

21 山上郭西側

22 本郭群

23 石垣跡

25_yaguradai 櫓台最高所

30_higasikaku_nai 主郭東切岸

このリポートは山城ファンからみた立場で掲載しているが、本来史跡として見学する分には状態も良い事から当時に思いを馳せる事も容易であり、元就生誕地を訪ねる紀行とすれば充分過ぎるほど戦国ロマンに浸る事も出来るので、当然お薦め出来る城跡とは言える。個人的には先に寄った桂城の余韻が冷めず、こちらが相当霞んで見えたのだが二城同日訪問とすれば山城ファンにおいても是非お薦めとも言える城跡であることは確かである。尚、直ぐ近くには福原氏墓所もあるので興味のある方は覗いても無駄にはならないだろう。

2009年5月16日 (土)

桂城跡(広島県安芸高田市)

城跡は安芸高田市吉田町桂にあって桂氏の居城と伝わる。毛利氏直属の家臣(譜代)として代々重きを成し、中でも桂元澄は家老としてはもちろん、「厳島の戦い」においても最前線にあった桜尾城守将として活躍した事で名を馳せている。

城跡へは中国自動車道「千代田」あるいは「三次」ICが最寄の乗降口、どちらで下りても国道54号より向う事になるが、国道沿いには大きな標識「桂城」が掲げられているので確認さえすれば、直ぐ傍にある登山口には道標も設置されているので容易く山上主郭までは辿り着ける(10分程度)。車はバス停傍の空きスペースに路駐するしかない

現状(四月)城跡は藪化していない事からも見通しも利き、比較的見学し易く見て回りやすい状態にある。形態としては独立した東西に長く連なる低山の両最高所に主郭(西は恐らく出郭としての機能)が配されており、尾根中間到達地点の削平地より長い移動尾根を上り切った堀切より東側が主郭にあたるものと見受けられる。規模は主郭のある東郭群の方が圧倒的に大きく、見応えのある堀切を挟んで主要三郭から形成されているが、縄張り妙味に関しては西郭(出郭)群の方が大型土塁、付随する横堀、縦堀などが備わる様に見所も多く、相当な見応えを感じる事が出来た。案内板縄張り図における全てを踏破した訳ではない(東出郭群は未踏)が、外見から城山を判断するより遥かに起伏に富んだ形態は山城としての醍醐味も感じる事が出来、前述の東西に渡る遺構群と共に充分過ぎるほど堪能させてもらった。未踏箇所を含めなくとも規模の大きさは体感する事が出来たし、個人的には余り期待もせず訪れた事もあって非常に嬉しい誤算となった。登山口からの所要時間、山城としての醍醐味、見学のし易さあるいは状態の良さを考慮すれば、自ずとお薦め出来る城跡と言えるのではないだろうか。

1route_2 登城ルート

2_3_2 現地案内板より

9 登山口付近の標識

3katura 城跡概念図

18_shukaku_2 東主郭

20_naka_horikiri_3 大堀切見所

21_naka_yori_shukaku_heki 中郭より主郭壁

22_naka_yori_kita 北郭群

35_demaru_dorui_2 西出郭土塁見所

42_kita_dorui_karabori_1 出郭北の横堀と大土塁

45_tatebori 縦堀見所

尚、江の川を挟んで直ぐ東側に位置する鈴尾城跡は、毛利氏譜代筆頭家臣の居城でもあり元就誕生伝説地でもある事からも、当然今回の山城巡りの一環としてチョイスしており、その現況リポートは次で掲載の予定

2009年5月15日 (金)

五龍城跡(広島県安芸高田市)

この城跡は安芸高田市甲田町上甲立にあって、先にリポート掲載を終えた祝屋城の本城となる宍戸氏代々の居城であり、娘婿でもある宍戸隆家は元就より毛利両川と同等な扱いを受け、両川と並び称されるほど毛利では重きを成したと伝わっている。城跡へは祝屋城を起点にすれば分かり易いが、同じ国道54号よりそのまま南下しトンネル手前の「高宮分れ」交差点は左折し、ほぼルート図の如く向えば駐車場までは難なく辿り着ける。

個人的には数年前に一度訪れており再訪となったが、前回は全山総郭とも呼べる巨大な規模を誇る吉田郡山城に先に寄ったばかりに肝心の西郭群まで見学する余裕も無く、急いで回った為にこの城跡の素晴らしさを体感するまでに至らず、悔しい思いで城跡を後にした苦い記憶がある。今回はそのリベンジも含めて少し時間に余裕を持たせた訪問でもあり、やっと念願でもあったこの山城の城域のほぼ全て(八割)を把握することが出来た。

城跡は社殿の建立されている北東先端尾根に位置する尾崎丸から南西側に位置する足軽の段まで、規模は全長800mには達しそうとも思える大名クラスにも匹敵する非常にスケールの大きい巨大な山城でもある。形態としてはほぼ直線的に郭を並べただけの単純な縄張りではあるが、三ブロックから構成される郭群境には凄い堀切(空堀)を備え、多くの他の山城に見受けられる狭小な段郭などは皆無、全てに渡って規模の大きい郭群で山上は占められている。山上の中心に位置するのが本丸(主郭)であるが、その背後の際高く聳える立派過ぎる櫓台は土塁底部は土留め石となっており圧倒される事請け合いの遺構でもある。便宜上西郭群とした規模の大きい主要四郭で形成される郭壁には、土留め石ではない通常の野面積み石垣跡が随所に窺える事からも、西側は後で縄張りを拡張して行った事が想像出来そうにも思えた。個人的な判断では一ノ塁背後の堀切壁中ほどに石垣跡が窺われた事からも、当時は城中最大郭でもある一ノ塁堀切壁から郭周囲に至るまでの全てが石垣で覆われていた様にも感じられた。

3x 城跡全域の概念図

2_2 現地城跡案内板より

3_1 3_2 城跡概念図

Itiinodan 一位ノ段

25_nisi_koguti 中土塁虎口見所

32_3maru 三の丸

41_honmamru 本丸見所

44 本丸櫓台土塁見所

47_daihorikiri_3 大堀切見所

54_kaku2_isi 二の塁虎口石垣跡

59_shukaku_gaiheki_isi 一の塁背後壁石垣跡見所

60_horikiri 西端の大空堀(縦堀)見所

68_ido 井戸跡

現状(四月)城跡は本丸までは山城としてはこれ以上は望めないほど素晴らしい状態を維持しているが、本丸背後の大堀切から西郭群の一ノ塁までは雑木も蔓延り見通しもかなり悪い状態にある。しかし移動に差障る状態にまでは至ってはいないので、充分遺構見学は出来る状況にはある。既に両川の一つ小早川氏の居城、新旧高山城には訪れているが、個人的にみれば新旧高山城より若干規模で劣るかもしれないが、縄張り妙味に関してはほぼ同レベルにある山城とみた。正しく推奨に値する素晴らしい山城の一つでもあり、言葉で素晴らし過ぎる城跡の醍醐味が伝えられないのがもどかしいほどでもある。

2009年5月11日 (月)

敷山城跡(山口県防府市)

城跡は山口県防府市牟礼にあって登山客も多く訪れる矢筈ヶ岳(標高460m)の八合目付近に位置している。城跡へは既にリポート掲載済でもある右田ヶ岳城と同様に山陽自動車道「防府東」ICが最寄の乗降口、ICを下りれば色々なルートが考えられるのでここでは割愛させて頂くが、取りあえずルート図に示した赤線を辿れば駐車場の設置された登山口までは到達出来る。ただし新幹線の高架下を潜るのに車高1.6m以上の車は通行不可となっているので、高架のない場所までは少し大回りが必要となる。登山口からは休まず歩いて20分程度で辿り着く事が出来る。

城跡は一応「国指定史跡」になっているが南北朝の戦いにおいて南軍が験観寺と言う寺院を急遽城跡として使用しただけでもあり、現在遺構として確認出来るのは寺院敷地の礎石程度であり、尾根上数箇所には削平地も窺われたが、規模も小さいものであり山城の醍醐味を感じるまでには至れないのが現実でもある。石垣なども当然近世における積み直し、あるいは新たに築かれたものである様に見受けられた。

1route_3 登城ルート

4_1 城跡遠望

6_2 登山口

3 現地案内板より

16 梵字岩

17 削平地

22_jyouseki_2 験観寺跡

21_2 説明板

28 平巨石

44_2 山頂東側大岩

山城の醍醐味、あるいは遺構などを期待して訪問される方にとっては、後で相当がっかりする事にも繋がるので、遺構などの期待は最初に抱かない事が肝心だとは思われる。当然個人的にも矢筈ヶ岳登山を楽しむ事が大前提であり、登山道中における史跡もついでに見学する程度の事で上っているので、流石にがっかりする事はなかったが、、 しかし折角この城跡にまで上って来られた方には、ここから更に15分程度も上れば山頂手前の巨石群からは素晴らしい景色が望まれる事をお伝えしたい。この地が当時の物見として利用されていたかどうかまでは知る術も無いが、想像しただけでロマンに包まれる事は請け合いでもあり、最初から史跡見学で赴かれた方には是非この巨石群までは足を延ばして頂きたい思う。巨石(信じられないほど平坦な巨石)に座り込んで味わう熱いコーヒーと前面に限りなく広がる素晴らしい景色(右田ヶ岳城も望まれる)は何とも言えず心が癒され、格別な雰囲気が味わえるのである。もちろんもう少し上れば山頂に佇む事が出来る位置でもあり、ここまで上れば当然山頂も極め無ければ意味はないが(山頂東側には眺望の利く巨大大岩がある)、、

登山を楽しむ事を前提とするのであれば右田ヶ岳城跡には叶わないまでも、ついでに城跡見学が出来るメリットも考えれば、山登りも楽しめる貴重な城跡と言うことになろうか。

2009年5月10日 (日)

岩城山神籠石(山口県光市)

この遺跡は山陽路における神籠石の存在する古代山城としては岡山県にある「鬼ヶ城」と並んで称されても決しておかしくない古代城跡の一つと見受けられる。九州には多くの遺構が現存していると聞くが、個人的に訪問したのはここを除けばまだ鬼ヶ城とたつの市にある城山城だけでもある。郷里からもそう遠くない事から岩城山は既に数回訪れているが、戦国期山城とは形態も石積み方法も素人でも分かるほど明らかに異なるものであり、残存露見している神籠石あるいは水門石垣の素晴らしさは特筆に値し、鬼ヶ城と同様に一見の価値のあるものでもある。まだ未訪の方で古代山城に興味をもたれている方には、既にリポート掲載を終えた琴石山城、鞍掛山城あるいは三丘嶽城からもそう遠くないので、山城巡りの一環として非訪問をお薦めしたいと思う。

目指す岩城山は山口県光市塩田にあって山陽自動車道「玖珂」あるいは「熊毛」ICが最寄の乗降口、ここでは説明しやすい「熊毛」ICからのルートになるが、県道8号を経由して63号に進入すればほぼ道任せに田布施町に向けて車を走らせればよい、田布施町に入ればルート図の如く道標を確認して一般道162号へ左折針路変更すれば、自ずと終点地でもある山頂駐車場までは辿り着くことが出来る。

1zz ルート図

2a 3_2 現地案内板より

7_4 岩城山より

この古代山城は見学する上では当然神籠石(列石)を含めた石垣跡(水門)が全て言っても過言ではないが、神籠石と呼ばれる石列が全ての斜面に露見している訳ではないので、遊歩道に任せて歩けば効率よく見学することが出来ると思われる。お薦めしたいコースは岩城神社より騎兵隊本陣跡を抜けて西水門へと向うコースである、ここからは西門を通過して北周りに最終東門に至るまでの石垣跡と神籠石は全て見学堪能出来る筈である。道中東水門手前には「人枡」と呼ばれる土塁の付随した大空堀も目に留まるが、この遺構は山城ファンにとっては非常に目を楽しませてくれる様には思われる。この付近には版築によって築かれた土塁が数100mに渡って存在すると案内板にはあったが、素人目には判別は難し過ぎる様には思われた。南水門は石垣が少し覗く程度の発掘状態なので特に覗いてみる必要はないようには感じられる。

11 13_nisi_suimon_1 西水門

18_kita_suimon_5 北水門

24_kitamon 北門

27_kitamon_kutuisi 北門沓石

30_hito_masu 人枡

31 神籠石

33

東水門手前の石垣

35_higasi_suimon_3 東水門

岩城山を全て覆い尽くすかの様な規模を持つこの古代山城は非常に鬼ヶ城の形態とも酷似しており、鬼ヶ城の凄い高さの残存石垣跡を考えれば、見応えでは多少劣るかもしれないが千年以上経た今日、まだ発掘されていない土中に眠る部分も加味すれば、想像する楽しさも含めて古代ロマンに浸れる事請け合いの山城と言えよう。

2009年5月 9日 (土)

祝屋城跡(広島県安芸高田市)

吉田郡山城を訪問して以来数年ぶりに広島県の安芸地方に訪れる事になったが、個人的にも戦国武将「毛利元就」の生き様に感銘を受ける部分が多く、毛利氏両川(元就の息子である吉川氏、小早川氏)と並んで好きな事、あるいは同氏に関連した多くの山城は険峻な地の利を活かしながら比較的石垣が多く使用された城跡が多く、縄張り妙味及び見応えのある事からも、今回は非常に期待を胸に抱いての安芸地方への山城巡りとなった。

城跡は安芸高田市甲田町深瀬にあって、毛利氏両川(元就の息子である吉川氏、小早川氏)とは対等な扱いを受けた宍戸氏の居城と伝わり、当時五龍城主であった元家は本城でもある五龍城を長子に譲って次男(深瀬氏を名乗る)と此方に拠った模様、尼子氏との戦いに於いては毛利軍の最前線となった城跡でもある。

1route 登城ルート

2a 現地城址案内板より

5 登山口

城跡へは中国自動車道「三次」ICが最寄の乗降口、ICより下りれば国道54号に進入しルート図の如く江の川沿いに車を走らせれば城址案内板の設置された登城口には分かり易く辿り着ける。国道の西側にある狭い道路沿いからは案内板は直ぐ目に留まり、その横から墓地を経由して上る山道は社殿まで到着すれば直ぐに途絶えるが、その先の縦堀に沿って直登すれば10分内で主郭までは到達可能である。(遠回りではあるが踏み跡程度の道はあったのかも知れない、、、)車は小型車であれば付近に路駐スペースは有

現状(四月)城跡は町史とはなっているものの自然任せの藪化進行中にあるが、規模もさほど大きくなく、ほぼ主要二郭で形成されるシンプルにまとまった山城なので、縄張りを掴む事も縄張り内の移動も容易に出来る状態にはある。ただ郭内には相当雑木が蔓延っているので全体像の視認には多少難渋はするが、当時の遺構と思われる郭跡、縦堀、土塁、堀切などは明確に判別する事が可能となっている。特筆すべき見応えのある遺構は目に留まらなかったが、五龍城を本城とした場合の支城であれば充分過ぎるほどの備えであるような気はする。尚、次に訪れる事になった素晴らしすぎる五龍城跡に関してのリポート掲載は少し後の予定(概念図の作成が非常に大変)

3iw 城跡概念図

8_tatebori 縦堀見所

12_shukaku_heki_1 主郭切岸

20_higasi_yori_shukaku 主郭内

13_shukaku_dorui 主郭土塁跡

21_shukaku_heki 東郭切岸

30_nisikaku_2 西郭

32_nisi_gedan 西郭より堀切側

34_horikiri_2 堀切

2009年4月24日 (金)

右田ヶ岳城跡(山口県防府市)

城跡は山口県防府市下右田にあって、山陽自動車道「防府東」ICからは北側に聳えるほぼ岩で覆われた山塊の標高426m(比高約380m)の山上に位置している。「防府東」ICを下りれば目指す登山口でもある天徳寺には数分で辿り着く事が出来るが、基本的には駐車場が完備されていないので、寺院敷地と学校との空きスペースに車は停めさせてもらう事になった。恐らく登山客の間でも人気の高い山なので人の往来も激しく、学校が横にある事から環境を考えて敢えて駐車場は設けていない様には思われたが、、、

Migi 登山口へのルート

2 現地案内板より

6 登山口

山城としてよりも登山客に人気が高い山なので、登山口も麓には幾つもある様には思われるが、ここでは自分の様に遠距離訪問者でも一番登山口として分かり易く、山頂までは最短ルートで無駄なく上れる天徳寺からの登山をお薦めしたい。目指す右田ヶ岳山上主郭へは寺院の西側墓地付近より案内板もあるので登山口は分かり易いとは思われる。山頂主郭までは約80分は要する時間も距離もたっぷりかかる道程ではあるが、道中における周囲が見渡せる素晴らしいロケーション、岩だらけではあるが藪漕ぎのない登山道、あるいは巨石岩盤に掘られた磨崖仏なども見学しながら上れ、自然との触れ合いを楽しみながら道に任せて上れば、それほど距離も時間も感じる事は無い様には感じられた。

今回はスタート時間も遅く山上でゆっくりくつろげる余裕も少なかった事から、残念ではあるが案内板での情報による三峰(東、中、西)に跨る城域の全て踏破は出来なかったが山頂主郭までは到達する事は出来た。案内板の説明にいささか問題があるとは思われるのだが、地形から考えても現実に山頂に佇んで見ても、城跡は南北の峰に渡っているものであり、東側と西側は絶壁地形で郭跡の展開などはあり得なく、現状の案内説明を見る限りでは今回自分自身が見て回った範囲が城跡のどの部分に当たるのかは見当が付かないでいる状況でもある。恐らく小規模な山上最高所が主郭(本丸)と見て良いのであろうが、南北に渡る全ての峰を踏破した訳ではないので確信は持てずにいる。今回概念図に示したものは最高所を主郭としてみた場合のものでもあり、現状における城跡の見たままを描いたもので、広い面積で石垣跡も窺われたが当時のものかどうかは当然判別は不可能、堀切などは当時の遺構として良いのであろうが、文献などでは削平地のみとしてある事からも、遺構としての素人判断は困難と相成っている。しかしこの山城の見応えであり醍醐味は、ほぼ全て岩盤あるいは大岩で覆い尽くされた山城の佇まいそのもの言っても過言ではなく、天然の要塞の如しこの山城には山上主郭だけの訪問ではあったが充分すぎるほどの感動を味併せてもらった。山上に佇んだ時のこの情景は正に天空の城と呼ぶに相応しく、戦国期の形態を今に伝える山城としては登山の楽しさも味わえる数少ない有数の城跡と言えるのではないだろうか。未訪に終わった別峰も機会があれば必ず踏破してみたいと思うのであるが、遠距離訪問である事を考えれば再訪が何時になるのか分からないのが現状でもある。

3a 山上郭の概念図

27 城跡遠望

36 石船山

70_gezan

南側

41_horikiri_1 堀切(分岐地点)

46_shukaku_minami_gawa_1 主郭南側

47_shukaku_nai 主郭内

58 東斜面側

62_isigaki 石垣

2009年3月24日 (火)

荒滝城跡(山口県宇部市)

城跡は宇部市楠町東吉部荒滝にあって標高459m(比高250m)の荒滝山山頂に位置している。当時長門守護代であった内藤氏の居城と伝わり、西国では権勢を欲しいがままにしていた大内氏の重臣でもある。現在残存する遺構もほぼ内藤氏時代のものとも見受けられるが、大内氏と時を同じくして滅んだ後、毛利氏においてどの様な機能を担ったのか詳細は不明。

城跡への道順(目印となるものがない)としてはどの様な経路で到達したのか分からないほど相当な山奥まで車を走らせなければならず、色々なルートが考えられるのでここでは割愛させて頂くが、国道490号から県道30号へ進入さえすれば道路沿いに荒滝山登山口案内板もあり何とかなりそうに思われる。案内板より北上すれば登山口にはトイレの設置された駐車場も完備されている事から、多くの登山客に人気のある山の様にも見受けられた。

1route_2

登城ルート

Tozanguti 登山口

1z_1 現地縄張り図

山上主郭までは道標もあることから迷わず辿り着けるが、流石に戦国期の険峻な山城である、距離も時間もたっぷりかかり山上に到達するまでに40~50分は要した。おまけに現状(七月)夏真っ盛りでもあり相当な体力も奪われてしまった。しかし山頂からのロケーションは素晴らしく山上の広くゆったりとした空間は疲れも心も癒される様に思われた。多くの登山客が山上を目指して訪れるのも充分納得の行くところではある。ただ城跡遺構は全域が夏草に覆われており、地表も見えないので郭形状の把握も困難、細部に渡る遺構の確認は更に困難、何とか石垣跡、虎口跡は目にする事が出来た、背丈ほどもある夏草の為に他の郭への移動も視認も困難な状況でもあり、現地縄張り図における西郭も規模の大きい東出郭も踏破することは出来なかった。事前に登山道は整備されていると聞いていたので案外山上もそれなりに整備されていると思っていたのが大間違いでもあったが、しかしこれほどとは想定外の事でもあった。縄張り図には畝堀の位置まで記されてあったが、それも論外の話でとても見学出来る状況に無いのが現実でもある。

今回は最悪の時期における訪問となったが、冬季の訪問となれば決してこの限りではないものと思いたい。しかし遠距離の訪問でもあり、そうそう訪れる機会もこれからあるとは思われないので、非常に残念な思いだけを胸にしまって下山する結果となった。冬季訪問となれば状態も少しはマシと思われるが、縄張り図を見る限り絶対に再訪する価値のある山城と目には映った。

Higasi_kaku_gun 東郭群

20_gedan2 東郭2

18masugata 枡形虎口?

17kuruwa_sokuheki_isi 石垣跡見所

21shukaku_e_koguti 主郭虎口

23_shukaku_nai 主郭内

6yasikiato2

麓登山道中で

2009年3月19日 (木)

新高山城跡(広島県三原市)

城跡は先に掲載を終えた高山城より沼田川を挟んだ真西対岸の山上に位置しており、先に高山城を訪問すれば直ぐ西向かいに聳える険峻な山がそれでもあり直ぐ確認する事が出来る。城跡へは橋を渡ればルート図(高山城に掲載)の如く進行、川沿いにある作業所(工場)の立ち並ぶ付近に案内板もあることから駐車場は直ぐ確認出来るはずである。そこからは道標もあり迷わず山上までは到達出来る。2a 3 3z_2

高山城より遠望

この城跡も高山城と同様に賛辞の言葉を失うほどのもので、縄張り妙味も尽きる事のないただ単純に「凄い!素晴らしい山城!」としか表現のしようがなく、全てが見所とも言ってよい城跡である。やはり指定史跡ともあって遺構残存保持状態は抜群でもあり、郭内はある程度見通しも利き、郭跡はもちろん主要な残存遺構である石垣跡、井戸跡なども明確なものを見学する事が出来る状態にある。もちろん巨大な山城である為に縄張りにおける全ての範囲が良い状態にあるわけではないが、ほぼ満足の出来るレベルにあると思って頂ければよい。この城跡は(旧)高山城と同様に他城跡サイトでも文献でも多くの紹介がされており、山城ファンならずとも多くの方が見学に訪れられている山城でもあり、既に訪問されている方も多いと思われるので敢えて細部に渡る現況報告は割愛させて頂く。

巨大さ城域の広さにおいては毛利氏本城でもある全山要塞化した吉田郡山城とは当然比較するレベルにはないが、険峻さを含めた山城の佇まい及び三峯に跨る縄張りの醍醐味、更に遺構などの見応えは郭高低差もある事から遥かに此方が勝っている様には感じられた。山上主郭最高所から回りを見渡せば眺望も素晴らしく、正しく「天空の城」を感じさせてくれる素晴らしい山城であると目には映った。

遠くから訪れる山城ファンも多いとは思われるが、語り出せば限のないこの新旧高山二城は見学の為に一日がつぶされても決して後悔はしないと思われる、探せばいくらでも新しい発見が生まれそうにも思われる山城なのである。これで石垣跡でも完存していれば同じ石垣城でもある但馬竹田城を遥かに凌駕するほどの規模の山城であるだけに非常に惜しまれる、数年後にも再訪を果たして三峯を今回同様歩き回っている自分の姿が想像出来そうにも思えるのである。

6_tozan_1 登山口

30_shukaku_tumemaru_e 山上主郭

32_tumemaru_nai_2 詰丸先端

37_oote_koguti_isi_1 大手虎口

38_koguti_sita_isi 石垣跡

40_turiidan_ido_1 井戸跡

50_isiyumi_dan_karabori 空堀

53_oku_nisimaru 西の丸

2009年3月18日 (水)

高山城跡(広島県三原市)

城跡は三原市本郷町本郷にあって、西国では毛利元就に次いで名を馳せている毛利氏「三本の矢」の一人小早川氏の居城である。この城跡は個人的にも好きな戦国大名の一人である真田氏と並ぶ毛利氏の城跡と言えるだけに思い入れも強く、城跡を語り出せば限がなくなってしまう。他の城跡サイトでも数多く採り上げて紹介がされている様なので、敢えて城跡の細かい説明は省略させて頂くが、南北二峯に跨る広大な規模を誇るこの巨大山城は、ただ「凄い!」「素晴らしい」と言った言葉で表現するより他の言葉は浮かんで来ない。川を挟んで西対岸の山上に位置する新高山城が築城当時において先進性が備わったものであるとすれば、此方は当然古い形態の山城になるが、郭群も改修を重ねながら拡張したと見受けられ、縄張りも地形任せで多少の高低差を付けて雑然と郭を並べただけものであり、自ずと技巧的な堀切も多用はされていないものでもある。しかし多くの郭壁には部分的に石垣跡(土留め石に近いと見受けられた)も窺う事が出来、新高山城が完成するまでは当時としては先端技術も採り入れた最高の山城であった様には窺われた。

1route 登城ルート

4_1 南より城跡遠望

6_tozanguti 登山口

城跡へ車で向うには山陽自動車道「本郷」ICが最寄の乗降口、県道33号より沼田川沿いに南下しルート図の如く左折すれば、既に城山は視界の中に確認出来るはずである。踏み切りを越えれば住宅地の密集する山麓の最奥近くにある「天理分教会」を目指せばよい、道標などは一切設置されておらず駐車場も完備されていないので当然付近に路駐ということになる。写真にある登山口から山道に従い上れば、自ずと山上(南峯郭群)までは15分程度で到達出来る。

現状(一月)千畳敷きのある南峯郭群、主郭のある北峯郭群共に整備が行き届いており、木々が少ない事からも見通しも利き、見学ルートも設定されているので移動し易く非常に見て回りやすい状態にあるが、南北峯を連結する広大に見える平坦な郭群は全域が矢竹藪と化しており、一旦遊歩道を外れると郭内を覗く事も移動する事も困難な状態となっているので縄張り全域を踏破して確認する事はほとんど不可能と言える状況にある。しかし城跡全体の遺構残存度の高さ、あるいは本郭群の状態の良さがこれだけのものであれば山城としては充分過ぎるものでもあり、ほぼ満足の行く遺構見学も戦国期山城を体感する事も可能である様には感じられた。個人的には都合で新高山城とセットで同日訪問は出来なかったが、二城の形態の違いから石積み土木技術の相違まで明確に窺う事が出来る隣接した巨大山城跡はそう多くは存在しないので、未訪の方は是非二城同日訪問をお薦めしたい。

15_karabori_daidorui 南峯郭群空堀見所

17_nantou_yori_dorui_gawa 南峯郭群

25_iwao_nai_idoato イワオ丸

27_iwao_nisi2_1 南峯郭群西郭

52_honmaru 本丸

58_2maru_nisi_gedan_yori 二の丸側

59_kita_maru 北の丸

68_ougi_minami_isi_1 扇丸壁石垣跡見所

2009年3月11日 (水)

松ヶ嶽城跡(広島県東広島市)

城跡は東広島市河内町入野にあって、ルート図の如く標高500m付近にある「竹林寺」を目指せば車で分かり易く到達出来るが、現在(四月)寺院まで通過出来る筈の道路が関係者以外は通行止めとなっており、遠く東に位置する駐車場から長い道程を歩く事を余儀なくされた。ルート図からお分かり頂ける様に相当距離があるが、山城巡りの計画の中においては想定外の事でもあり、個人的にトレッキングが楽しめたとは言え無駄に時間を費やしてしまった感はある。通行止めには訪問時期として問題があったのかも分からないが、寺院に到着さえすれば城跡までは数分で行ける距離にはある。

城跡へは寺院から南へ少し下りれば西側へ向いて巨石「梵字岩」経由で山道が繋がっているので迷わず辿り着ける筈であり、「梵字岩」を通過して主郭へ到達するまでには堀切なども目に留まり既に城域に入った事も分かる。

現状(四月)城跡の藪化は深刻な状態にあり、主郭を含む主要三郭は雑木密生地でもあり遊歩道を外れた郭内に踏み入ることは難渋を極める状況にある。しかし石組み井戸跡だけは道中に非常に状態の良いものが残存しており城跡唯一の見所ともなっている。強引に藪を押し分けて主郭に侵入すれば西側壁には広い面積ではないが石垣跡も窺え、郭内部に目を配れる状態にはないが一応満足することは出来た。主要三郭の南端には自然巨岩を郭壁とした大堀切(堀切道)が設けられているが、多くの崩落石も見受けられるので本来は案内縄張り絵図にあるが如く石垣で構築されていたのかも知れない。現状を見る限りでは崩壊が激しすぎて、とても石垣跡には見えないものであったが、、、尚、堀切南側には南出郭の存在が絵図から確認出来たが、この藪を前にすればとても侵入する気にもなれなかった。

現状(四月)を窺う限りでは全域が藪化しており、とても満足の行く見学は出来なかったが、訪問時期と整備する伐採のタイミングさえ良ければ案外遺構においてもこの限りの山城ではない様な気がするのではあるが、、、

1_1

登城ルート

2_1現地案内板

2_2

現地縄張り絵図

6 巨石

9horikiri 堀切跡

14_honmaru_e_dobasi 土橋か

20_2maru_nai_ido_ato 二の丸内

20_2maru_nai_ido_ato_1 井戸跡見所

19_shukaku_nisigawa_1 主郭西石垣跡見所

23_3maruheki_ooisi 三の丸壁

24_horikiri 南堀切見所

2009年3月 5日 (木)

鞍掛山城跡(山口県岩国市)

山口県岩国市玖珂町谷津にあって鞍掛山(標高240m)の山上から尾根上が城跡、杉氏の居城と伝わり戦国期においては毛利氏との合戦が有名。現在山頂には古戦場としての城址石碑が建っており、遊歩道も設置されているので容易に上る事が出来、山頂からは景色も楽しむ事が出来るので山歩きには最適と思われる城跡である。

2d 城跡へは山陽自動車道「玖珂」ICが最寄の乗降口、国道2号からはルート図の如く進行すれば途中に道標も設置されているので迷わず登山口駐車場には辿り着ける。

現状(九月)城跡は史跡として整備されているので遊歩道に従えば難なく見て回る事が出来る状態にあるが、山城見学として見る分には「非常に味気ない山城である」と言った処が本音であり、縄張りを窺う楽しさも遺構の醍醐味もほとんど感じさせてくれない城跡と言っても良いかもしれない。遊歩道以外はほぼ雑木密生地でもあり郭跡に踏み入ることも視認も困難、自ずと郭内遺構の確認もほとんど無理な状態でもあり、本丸とされる物見程度の郭跡が山頂に確認されるだけの山城でもある。登山道中の痩せ尾根上も郭跡と見受けられるが、郭跡として広さを体感する事はほぼ無理、更に山上尾根の石碑の建つ場所も郭跡なのであろうが、ここは郭内が雑木に覆われており(恐らく狭い空間)郭形状の確認すら出来ない状況となっている。ただ唯一遊歩道から外れた北尾根側には多少規模の大きい郭跡と最高所に物見程度の郭跡を眼にする事が出来たので未訪の方の参考までに、、

史跡見学あるいはトレッキング程度を求めて訪れるのであれば充分満足に値する山城と言えるが、遺構などの醍醐味を求めて上るのであれば最初から期待は捨てる事が肝心であると思われる。個人的には毛利氏と一戦を交えた大内氏の重臣である杉氏の居城を体感したくて期待を胸に訪れたのだが、見事に期待を裏切られる結果(個人的主観)となってしまった。ただかつての古戦場だけに本丸展望所に一人立てば、色々な想像も掻き立てられて非常に感慨深いものがあるのは事実である。

1route2 登城ルート

5 登山口

8_monomi_kaku_1 山頂本丸

11_shukaku 城址石碑

13 尾根上郭跡

13_kita_kaku_1 北郭

相方城跡(広島県福山市)

広島県福山市新市町相方(サガタ)にあって、町の中心を国道に沿って流れる芦田川の南側に位置する低山の山上が城跡であるが、現在山上郭跡には電波施設及び鉄塔が建っているので国道486号を走れば位置は直ぐ確認する事が出来る。古くより成立していた城跡であるが毛利氏支配となるまでは有地氏の居城、現在見受けられる南壁を覆う石垣跡などは毛利氏によって改修されたものである事が、打ち込みハギによる石積み技術によって充分窺う事が出来、毛利氏が防長へ去るまでは少なくとも存続機能していた山城と解釈しても良さそうには思われる。

城跡へは山陽自動車道「福山東」ICが最寄の乗降口、国道182号を経由して国道486号に進路変更、後はルート図の如く佐賀田大橋を渡って城跡を目指せばよい。城跡の中央に設けられた大空堀手前辺りに車は数台駐車可能であり、そこから山上における郭群はほぼ見て回ることが出来る。

現状(四月)城跡は低い下草は蔓延っているが、見所でもある郭南壁面を覆い尽くす石垣跡及び付随する枡形虎口などは明確に見て取る事が出来る。しかし鉄塔の建つ西郭から西側は一面矢竹藪と化しており現地縄張り図に示される堀切は確認し難いのが現状でもあり、登山道脇に窺われる石垣跡を確認しただけに終わってしまった。主郭より東側枝尾根上には木々が少ないので出郭らしき削平地が外見から窺えたが、次の予定も考えれば其の先にある三本の堀切も拝めぬままの下山と相成った。

城跡の最大の見所は前述の枡形虎口及び郭を形成する石垣で、崩落はあるものの現存する石垣を拝むだけで、充分満足出来る事請け合いと断言出来るものでもある。この地方においては城代を置く程度の大名クラスの城でもないのに、これだけ堅固な石垣城を築き上げるとは、余程毛利氏にとってはこの地が重要であったと思うのが妥当な処か、、野面積みではない石垣跡は当時においては先進性を持つものでもあり、個人的には往時の石垣技術を知る上においても一見の価値のあるものと目には映った。ただ城跡を語る上で惜しむらくは、郭内に鉄塔とその施設が建っていることによって山城としての風情が余り感じられない事か、、、

1_sakata_1_2 登城ルート

2nawa2_2 現地案内縄張り図

Sa6_2 西より二の丸

6_yagura_isigaki_2 櫓台石垣見所

12_2 枡形虎口見所

13_2maru_minami_isi_2 二の丸

Sa3_2 M3_2 東郭群石垣見所

11_2maru_yori_nisikaku_2 西郭

Sa4_2 登山道中西郭石垣

2009年2月28日 (土)

木ノ宗山城跡(広島県広島市)

広島県広島市安佐北区上深川町にあって、登山客も多く訪れる木ノ宗山(標高413m)山頂から東尾根上が城跡、戦国期においては城主の変遷はあるが毛利一族(吉川氏)あるいは家臣の城とみてよいとは思われる。

城跡へは山陽自動車道『広島東」ICが最寄の乗降口、ICを降りれば北側に望める独立した山塊が城山で位置確認は直ぐ出来る、北側の県道を数100m走れば左折し、狭い道路ではあるがルート図を参考にすれば写真に示す案内板の設置された銅鐸出土地経由の登山道に合流出来るはずである。(駐車場はないので付近に路駐となる)尚、登山道は数箇所あると聞くが、一番説明し易く登り口の分かり易いこのルートがお薦めとは思われる。

山上主郭までは銅鐸出土地及び西出郭経由の登山(40~50分は要す)となるが、相当斜面はきつく厳しい登山になるので最初に覚悟は必要である。しかし山頂に到達すれば山城遺構も迎えてくれ、360度眺望の利く素晴らしいロケーションも相俟って登山の疲れも一掃してくれるはずである。山城として見れば小規模な二郭から成立する主郭から東尾根上に沿って郭群が展開され、堀切によって尾根を分断しただけの単調な縄張りを持つ古い形態の城跡と言う事になるが、自然岩を用いて郭壁となし山上を削平した様は、険峻極まりない地形と相俟って戦国期山城の雰囲気を充分醸し出しているものでもあり、主郭以外は状態が良いとは言えないが、ロマンに浸れる事は請け合いの山城である。今回は車の路駐した場所の関係から東側に至るまでの山上尾根縦断は出来ず、尾根上全ての探索は出来なかったが、充分な満足感及び達成感に浸ることは出来た。

城跡の形態からすれば未踏に終わった東端尾根上も、遺構の期待は余り出来ないと思われるが、いつか必ず縦断してみたいと思わせてくれる山城でもあり、足腰に不安の無い方なら是非お薦めしたい登山も同時に楽しめる山城の一つである。

1tozan_route_1 登城ルート

6_nisi_tozanguti 登山口銅鐸コース

3z 城跡概念図

12_demaru_ato_2 西出郭休憩所

26_shukaku_nai_1 山上主郭

29_higasi_gedan 東下段郭より主郭

27_shukaku_yori_higasi_gedan 東下段郭

33_2maru_e_karabori 二の丸へ空堀

34_isi 二の丸大石積み見所

38_2maru_nai_1 二の丸の現状

41_2juu_horikiri_3 二重堀切の1

2009年2月27日 (金)

大富山城跡(広島県庄原市)

広島県庄原市西条町西条にあって西条川を天然の堀として西側に聳える標高511m(比高約170m)の大富山の山上が城跡、久代宮氏の居城と伝わる

城跡へは最寄の中国自動車道庄原ICで降り、国道183号をそのまま北東に走り目印となる林道登山口でもある淨久寺を目指す。寺院横をかすめた林道を使用すれば城跡の大堀切まで車で直接乗り付けるので、麓から急坂を歩いて上る事を思えば非常に楽である。ちなみに歩きによる登山道は北側の学校側に位置している

現状(4月)城跡の山上郭群は整備されており木々も少なく見通しも利くので縄張りも掴み易く、山城としては申し分のない状態にある。ただし主郭北と南側の段郭群は藪化進行中でもあり視認はし辛い。特筆すべき遺構は存在しないが、木々の間引かれた山上郭群の状態が素晴らしいので山城全体の雰囲気を味わう事が出来、高い切岸などからも当時に思いを馳せる事が容易なものになっている。縄張りは車を駐車した大堀切から南側尾根上に延びており、更に堀切土塁を挟んで削平地が南側に長く続いている。現地の歴史案内図に示されていた様に、未踏ではあるが南端の峯最高所にある物見ヶ丸まで縄張りは及んでいる様である。

城跡の西側はややなだらかではあるが、東側の西条川から城跡を望めば相当険峻でもあり、天然の水堀となる西条川と併せれば東側は鉄壁とも言える堅固さである。恐らく家臣団の屋敷跡などは西側に向いていたものとは察せられるが推察の域は出ない。

大堀切まで直接車で行けて、更に城跡の状態の良い事からも、お手軽に戦国期山城を味わえる有数の城跡と言えるのではないだろうか。

1route_1 登城ルート

4 東より城跡遠望

3 城跡概念図

2 現地案内板より

5_daihorikiri_1 大堀切

8_gedan2_ido 井戸跡

12_gedan1 北下段郭

20_shukaku_heki_1 主郭切岸

17_shukaku_nai_1 主郭

28_minamikaku_gun 南郭群

2009年2月12日 (木)

上関城跡(山口県熊毛郡)

城跡は山口県熊毛郡上関町にあり現在は橋で陸続きとなっているが、当時は長島と呼ばれた島にあって、海関守備あるいは海峡通行税徴収の為の村上水軍代々の居城と伝わる。Kami_1a Kami_1w

城跡へは山陽自動車道「玖珂」ICあるいは「熊毛」ICが最寄の乗降口、どちらで降りても海沿いを走る国道188号に進入しなければいけないが、平生町「角浜北」交差点より県道23号でひたすら南下すればよい。ルート図の如く進行すれば自ずと上関大橋を通過する事になり城跡へは難なく辿り着く事が出来る。橋を渡った後、直ぐ左側には上関砲台跡(一部古い石垣跡が斜面に窺えた)も残っているのでついでに寄っても時間の無駄にはならないと思われる。

現状(一月)城跡は史跡として整備公園化されており素晴らしい状態にあると言えるが、公園化される前の状態を知らない者にとってはどこまで地形改変があったのかは想像する他ない状態でもあり、この素晴らしい城跡の現状が往時の状態であったのかどうかは少し困惑する処ではある。現在三段構造で形成される郭内には展望矢倉、周囲に柵、冠木門あるいは大石垣なども設けられており、水軍城らしい雰囲気は充分過ぎるほど醸し出してはいる、復元がどこまでのものかが想像出来ず、現状を素直に見たままで当時に思いを馳せる事が案外一番楽しめる方法なのかもしれない。遺構だけに着目して城跡を捉えず、当時の水軍城としての立地環境あるいは機能などを考察しながら見て回ると、更に楽しめる城跡と言えるのではないだろうか。

尚、周辺には番所跡も残り、海の関所として栄えていた町並みにも当時の風情が未だに残っており、上関から長島の歴史を語る上においても付近の散策は是非お薦めである。個人的にはこの町には数度訪れているが、山城巡りを忘れて一日ぶらぶら歩いても飽きない、なぜか歴史ロマンの漂う癒し効果のある町でもあるのである。

1route2 登城ルート

K1a 上関大橋

2_1 現地案内板より

4xa 陸側より城跡遠望

5 城跡

2_kami_6 展望模擬矢倉

Kami_3 冠木門

Kami_9 最高所より城跡北側

Kami_7 海側切岸

白滝城跡(山口県岩国市)

山口県岩国市美和町岸根にあって、登山客も多く訪れる白滝山(標高458m)山上が城跡であるが、実際には山上は物見あるいは詰城としての平坦な巨大自然岩を取り込んだ削平地でもあり、城跡としての中枢となるべく郭跡は山上より北西側に少し下った尾根上に存在する。1sir2 1z_1

3_1 登山口

城跡へは山陽自動車道(広島岩国道)「大竹」ICが最寄の乗降口、国道2号経由で186号に進入すれば弥栄湖を目指して進行、弥栄湖からはルート図の如く一般道116号へ進路変更後、弥栄大橋を渡ればよいが、橋の手前辺りより既に北側に望める岩肌の多く出ているほぼ岩で形成された険峻な山頂が城跡にあたる。道路沿いの案内板手前には登山客用駐車場も完備されており、そこから山頂までは登山道で迷わず登る事が出来るが、一番分かり易い登山ルートは図の赤線で記されているルートで、尾根上の「入道岩」経由で途中周囲の開けた素晴らしいロケーションも楽しみながら登れるので、距離も時間も余り感じさせずに登れると思われる。時間的には休憩を挟めば山頂まで約80分程度(藪漕ぎの箇所は一切無い)は要すが、山頂の素晴らしいパノラマと山城遺構(郭跡のみ)は決して期待を裏切るとは思えないので是非城山登山にトライする事をお薦めしたい。

山上付近まで到達すれば自然大石に彫られた当時の旗立て台と思われる旗さし穴が数箇所に窺われ、ここが城跡であると言うことがはっきり分かる。もちろん遺構の標識も設置されているので場所は直ぐ確認可能でもある。山頂は前述の様に土塁が残っているわけでもなく巨大一枚岩を取り込んだ規模の小さな削平地で、およその機能は想像出来そうでもある、北側に向えば凄い平坦巨大岩もあり更に山上の物見を感じさせてくれるが、ほぼ見る者の想像力に委ねられる。山上の遺構としては小規模な郭跡のみでもあり味気ないかもしれないが、ここから眺められる景色は最高に素晴らしく(当時の状態のままに思える)、ここまで時間をかけて登って来た甲斐はあったと納得するのである。

山頂から北西へ10分程度下ると本来の城跡として尾根上に郭跡(削平地)、あるいは池(鏡池、溜め井戸か?)が目に留まるが、写真にある小さな祠傍には城跡の標識もあるのでこの付近が本来の城跡という事が分かる。しかし現状では雑木に覆われており削平地としての確認が出来る程度で、土塁などの判別確認までは難しい状態でもある。尚、下山はそのまま城跡から登山道に沿って降りれば容易に麓登山口まで戻る事が出来る。

16_nyuudou_iwa 入道岩

29hatatate_iwa_1 旗立て岩見所

31_santyou_top_kaku Santyou_top_kaku_1 山頂の山上郭跡

Kita_ooiwa_gun 山上北側の大巨岩

37_kaku 37_kaku_1 北西尾根上の郭跡

38_jyou_nai_1 城跡標識

39 鏡池見所

2009年2月 8日 (日)

頭崎城跡(広島県東広島市)

広島県東広島市高屋町貞重にあって集落の北側に聳え、南麓から望んでもすぐ分かる形の整った標高504m(比高約200m)の頭崎山山上が城跡。平賀氏代々の居城と伝わりここが本城となるが、信州における豪族平賀氏とは遠く祖先を共通にする一族かも知れない。

城跡へは山陽自動車道の「西条」ICあるいは「河内」ICのどちらで降りても相当な山間部に位置しているので距離的には余り違いが無く、登山口までは348号を走れば何とか貞重地区に入れる、集落の道路沿いにある大きな案内看板からは北側に頭崎山をすぐ望む事が出来るので城跡の位置の確認はすぐ出来るが、この付近数箇所に登山口があるらしく、車ではルート図の如くお好み焼き屋の横の狭い道から距離は相当あるが山上まで(林道)は車で上れるので、トルクの太い車であれば到達出来るはずである。自分の体験からすれば麓から歩いて上った方が早いかもしれないが、、

現状(一月)城跡はある程度整備されており、山上における主郭回りの遺構あるいは郭跡はほぼ判別確認可能な状態にある。現地縄張り図によれば相当城域の広い山城と見受けられるが、自分の様に遠方からの訪問者にとっては時間に余裕が無いので、山上郭群の見学で精一杯と言ったところになるとは思われる。城跡における見所は、探せば随所に見受けられる当時の石垣跡、自然岩(巨岩)を取り込んで形成された郭跡、あるいは自然地形を活用した縄張りは非常にユニークなもので、山城の醍醐味に満ち溢れている。本郭群を採り上げれば規模はさほど大きくは無いが、現地縄張り図を見れば北側から北西側に向いて相当広がっており、案内板にも記載されてあったように広島県内では郡山城跡に次ぐ広さと言われるのも理解出来る様な気はする。時間が許すのであれば山上北側に向いても踏破探索したかったが、山城巡りとしての事前計画を考えればそれも叶わず、無念ではあるが下山と相成った。

今回は恐らく城域の半分にも及ばない山上本郭群のみの訪問となったが、一度は山上全域を踏破してこの山城の全てを体感してみたいと思わせる城跡の一つになった。

1_1 登城ルート

5_minami_tozanguti_annai 南麓の案内板より

3_1 城跡概念図

2z 現地案内板より

19_ensyou_dan_1 21_ensyou_dan_yasiro 煙硝の段

27_taiko_dan_isi 太鼓段壁の石垣跡見所

31_taiko_gedan 太鼓段

32_taiko_hokutou_isi_1 郭壁大石垣見所

35_2maru_yori_shukaku_e 二の丸より主郭へ

38_shukaku_isigaki 主郭虎口の石垣跡見所

40_shukaku_tume 主郭

府中桜山城跡(広島県府中市)

広島県府中市宮内にあって全国的にも有名な吉備津神社からは直ぐ真南の低山が城跡、神社の駐車場からも既に城山は望める位置にありルート図の如く南側へ住宅地の間を通り抜けて進行、城山の位置さえ確認出来れば山上の墓地あるいは荒神社に向う山道から城跡へは難なく到達出来る。2 1z

登城ルート

現状(一月)登城道中における尾根上の墓地転用地とも見受けられる郭跡は多少地形改変があったと思われ、当時の状態は見る人の想像に委ねられるが、最高所に位置する主郭と付随する西郭跡のみは整備されており、主郭櫓台までは明確に判別出来る状態にある。しかし西尾根及び北側は草木の生い茂る雑木林となっており全体像は掴み難く、西堀切と北側の墓地付近に存在する郭跡の一部程度しか判別確認は困難な状態にある。概念図に示すように古い形態の山城なので特筆すべき技巧を伴う遺構も見当たらず、山城としては醍醐味に欠け、見応えのある遺構も存在しないのが現実でもある。現状を見る限りでは防備も手薄であり恐らく戦国期までこの山城が機能していたとは思われず、推察ではあるが戦国期においては神社守備としての機能だけを担っていたとも見受けられる。

この古い形態を持つ山城にははっきり言って見応えのある遺構は存在しない、当然山城ファンには物足りないとは思われるが、当時を語る史跡として考えれば充分訪問をお薦め出来る物件と言える。一見味気ない様に見えるのだが、なぜか佇まいに風情、あるいは当時を思い起こすロマンを感じる事が出来るのである(個人的に)。

5_demaru_e_tozanguti 進入路

8_kaku 東尾根上郭跡

24_higasi_demaru_gawa 東出郭側

14_yaguradai 主郭櫓台

15_nisikaku 西郭

16_nisikaku_yori_shukaku 西郭より主郭

11_kita_e_horikiri_dou 堀切道

2009年2月 3日 (火)

尾関山城跡(広島県三次市)

広島県三次市三次町にあって先にリポート掲載を終えた比隈山城の直ぐ南側に位置する尾関山公園が城跡、文献などにおいては本城である比隈山城よりなぜか此方の方が掲載記事も多く、城史としても多くの記事が残っている様に思われる。関が原合戦後、福島正則が安芸の領主となり、その重臣である尾関氏がこの出城を改修した事で尾関山として現在まで伝わっている模様である。

現状(四月)城跡は史跡公園として充分な整備が行き届いており、切岸を含めた郭形状もしっかりと残り、郭壁に残存する石垣跡あるいは石垣痕も明確に判別確認出来る状態にある。現在郭内には展望デッキあるいは公園施設などが建てられてはいるが、敷地は当時の郭跡をそのまま転用したものとも見受けられ、現在に至る縄張りもさほど大きな改変は受けていないようにも窺われる(ほぼ当時の縄張りと言ってもよいのかもしれない)。城跡は主郭最高所を櫓台(天守台)として麓に向って輪郭を形成した構造で、北側は現在の駐車場まで南西側は住宅地から川沿いまで郭が連続していた様にも見受けられ、更に北側の丘上地(現在神社あるいは住宅地が建つ)には土塁あるいは段郭群が窺える事から、出郭として機能していた様にも推察される。

城跡に山城としての醍醐味は求められないが、状態の良い切岸壁あるいは残存する石垣跡から当時に思いを馳せることは容易でもあり、戦国後期から改修されて現在に至るまでの城跡の変遷などを、外見から推察しながら楽しむ分には最高の城跡と言えよう。

比隈山本城と出城の関係を現状からも窺う事が出来、お互い国道沿いに位置することからもセットで訪問出来て、尚且つ手軽に遺構を楽しむ事の出来る是非お薦めの城跡である。

1route 登城ルート

4 南より遠望

3 城跡概念図

8_kitagawa_1 北側切岸

11_2maru_minami_sita 二の丸南下段

15_shukaku_e_isidan 主郭へ石段

16 天守台下段

21_higasi_gedan2_isigaki_1 東郭群2石垣跡

22_gedan3_isigaki_1 東郭群3石垣跡

28_demaru_dorui_koguti_1 北出郭虎口土塁

比熊山城跡(広島県三次市)

広島県三次市三次町上里にあって支城でもある尾関山(尾関山城跡)公園の北側に位置する日隈山(標高332m)の山上が城跡、毛利傘下の武将三吉氏の居城と伝わり、毛利氏の防長転封の際には築城中でありながら廃城となった歴史を辿る戦国後期の山城。

城跡へは中国自動車道「三次」ICが最寄の乗降口、国道375号を北上して市内を通過すれば自ずと国道沿いにある尾関山公園には迷わず辿り着ける。もちろん尾関山自身も城跡なので後で立ち寄ることになるが、先に車は公園内駐車場に停め、登山口となる国道向にある鳳源寺まで歩く、墓地からは一旦東側に向いて歩く形で山道が山上まで通じているので、道に任せれば自ずと20分程度で山上主郭までは辿り着ける。

1_2 登城ルート

4enbou 南より遠望

現状(四月)城跡は植林地となっているので下草も少なく案外見通しは利き、山上における遺構は藪化している東郭群を除けば、ほぼ判別確認可能な状態にあると言ってよい。戦時中は畑地として利用されたと聞くので場所によっては風化と相俟って郭跡は曖昧で、地形も中々読み辛いのが現状でもあるが、郭壁の至る所に石垣跡あるいは崩落石が残っており三吉氏は相当な人員を動員して石垣城を築こうとした事が窺える。実際に完成までは至らなかったと伝わるらしいが、個人的に見る限りにおいては土塁の状態、切岸、あるいは郭跡なども他で見てきた完成された山城と遜色なく、ほぼ城跡は完成まで漕ぎ着けていたのではないかとも思われる。又この山城は居館も兼ねていた様にも見受けられ、広大な千畳敷と称される郭跡は隅に櫓台、東郭境には巨大土塁を備えており、他の北郭群、東郭群を併せた山上における郭占有面積は大名クラスの城跡規模を誇っている。見た目では通常の山城三城分に匹敵するほどの広さであり、いかに三吉氏が大きな勢力であったかを物語るものでもある。

現在遺構として確認出来るのは郭跡を除けば井戸跡、郭における土塁跡、櫓台跡(側壁に石積み跡がある)、石垣跡、枡形虎口跡(相当風化している)などで、石垣城なので縦堀の有無までは確認に至れなかったが山城を形成する上での遺構はほぼ備わっている言ってよいものである。しかしながら戦国後期に標高330m(比高200m)の山上に、ここまで巨大な石垣城を築く発想は西中国では但馬竹田城だけだと思っていたが、この城跡が完成して現在に至っていたら山城の既成概念も少しは変わっていたのではないかと勝手に想像してしまうのである。正しく推奨に値する凄い山城!である。

3_1 城跡概念図

9_higasimaru_ido_ato 東郭群の井戸跡見所

10_higasimaru_dankaku_gun 東段郭群の土塁

18_dorui_haigo 千畳敷大土塁見所

51_dankaku_isi_1 中郭群石垣跡

24_nisimaru_yori_yagura 西郭より櫓台

22_yagura_isi_1 櫓台石垣跡見所

40_nisimaru_yori_hokutou_1 西郭より北郭群

2009年1月31日 (土)

琴石山城跡(山口県柳井市)

この城跡は登山客の多く訪れる事でも有名な琴石(コトイシ)山(標高545m)の山上に位置しており、山口県柳井市琴石山にある。案内板による説明が無ければ最初からここをかつての山城として訪れる者は皆無であろうとも思われるが、かつて「事能(コトヨシ)要害」と呼ばれた様に、海岸からは比高も相当なものがあり、山頂からは瀬戸内海側はもちろんの事、四方に眺望が利き、往時においては地の利も活かした要害堅固がそのままあてはまる山城であったように見受けられる。2annai

登山口は数箇所にあるが国道188号沿いにあるJR「柳井港」駅からは北東に一際高く聳える険峻な山塊がそれであり、麓からも直ぐ確認は出来る。ルート図に示すJR「柳井港」駅の東側数10mの地点にある踏切を渡り、ほぼ北側山に向いて車を走らせれば道標もあるので山上近くの駐車場までは迷わず辿り着ける。個人的には山中腹辺りの駐車場からトレッキング気分で山上を目指したかったのだが、天候(降雪)に恵まれず積雪の前に急いで直接車で登る羽目になった。駐車場からは遊歩道も設置されているので数分で山上主郭には到達出来る。現状(一月)積雪のせいで一面真っ白な状態でもあり、細部に渡る遺構の確認までは出来ない状況ではあったが、山上最高所の主郭跡及び東尾根から西尾根に渡って郭跡を確認することが出来た。他では唯一尾根上に空堀(土橋付き)、主郭壁に石垣痕などを確認出来た程度で、室町期に成立した古い形態の山城である為、あるいは多少公園化している状況でもあり多くの残存遺構は望めない状況と言えるものでもあった。

悪天候の条件下ではあったが山上は素晴らしい眺望で、最初から縄張り妙味あるいは遺構には期待出来ない山城であるが、山上は木々の少ないことからも城跡全体像を窺うことが出来、状態も良いので天候さえ良ければ充分な満足感に浸れたとも思える。機会があれば我が故郷からもそう遠くないので、天候の良い日を選んで麓から山歩きを楽しみながら再訪してみたいと思わせる城跡である。

古い形態の山城としては恐らく四季を問わず最高のコンディションが維持されていると見受けられ、登山も楽しめて山城も味わえるこの地方では有数の城跡と言えるのは確かである。尚、城跡に必要以上に遺構を期待してはいけない、存在そのものが充分戦国ロマンの漂う険峻さを誇る山城でもあり、多くの登山客は訪れるが個人的にひっそりと雰囲気を味わうのがベストとも思える、正しく「天空の城」と呼ぶに相応しい山城なのである。

1a 登山ルート

3_11 城跡概念図

4aa 海岸側より城山遠望

10_monomi_kaku 東端物見か

20_sita_horikiri_1 東郭より東尾根堀切

18_dobasi_horikiri_1 堀切土橋

22_higasi_kaku_1 東郭

24_higasikaku_gawa 山頂より東郭側

25_shkaku 山上主郭

26_shukaku_iwa_yagura_2 主郭内の大岩盤

32_zanseki 土留め石か

31_shukaku_yori_nisikaku_gun 山上主郭より西郭群

塩宇山城(山口県大島郡)

この城跡は山口県大島郡周防大島町東安下庄古城地区にあって、港を見渡せる中央の丘陵上に郭を構える港監視用砦とも見受けられ、青木氏の居城と伝わるが詳細は不明。別名「清木山城」

城跡へは山陽自動車道「玖珂」ICが最寄の乗降口、国道437号に進入すればそのまま柳井方面を目指して走り、海岸線に出れば更に大島へは橋を渡らなければならない。大島大橋を渡れば国道はそのまま走り続け「竜崎温泉」を目指せば道標もある事から、分かり易く到達出来るだろう。後はルート図の如く南側の海岸に出れば温泉側の逆に右折し安下庄の港を目指せばよい。港中央から見て北側の丘陵上が城跡にあたりルート図の如く北へ歩き、作業用モノレール沿いに登れば堀切を通過して二の丸に相当する削平地に辿り着ける。

現状(一月)城跡は休耕地となり自然任せの荒れ放題と化しており、直接郭跡を歩いて体感出来るのはほぼ小規模な主郭及び二の丸のみ、他の郭跡は生い茂る矢竹あるいは雑木に阻まれて進入困難な状況にある。外見から視認による判別もし難いが、主郭から南側は一段ほどの郭跡は確認出来、主郭より西側も状態は悪いが切岸処理の確認は出来た。一面笹藪状態である北側にも藪漕ぎしながら削平地は見て取ることが出来たが、付随しているであろう土塁などの遺構は後世において農地化している事を考えれば、現状から判別確認するのは至難の技でもある。

地形からみても丘陵は海岸側に迫り出した形でもあり、当時は主郭南端部はほぼ海に面していたとも想像出来、埋め立てによって現在陸と繋がっている亀島と同様に城跡三方は海に囲まれていたのではないかとも想像出来る。もちろん推察の域は出ないもので、海賊城の様相を呈すこの城跡は残存遺構も少なく更に状態も良いとは言えないが、個人的には港にあるせいか、なぜか風情が感じられロマンの漂う城跡と目には映ったのである。

1route 登城ルート

3 城跡概念図

4_1 港より遠望

4_tozandou 直登ルート

7_horikiri 堀切

8_2maru 二の丸

10_shukaku 主郭

11_shukaku_yori_2maru 主郭より二の丸側

13_shukaku_gawa 主郭東側

2009年1月28日 (水)

亀山城跡(広島県庄原市)

広島県庄原市東城町小奴可(オヌカ)にあってJR小奴可駅からは国道314号を隔てた南西側の丘陵上が城跡、この地方では県指定天然記念物「要害桜」のある事でも有名。城史に関しての詳細は不明

城跡へは中国自動車道を「東城」ICで降りれば国道314号を北上する、そのまま小奴可地区に入れば警察署を目指してルート図の如く進行すれば、付近に「要害桜」の案内も出ているので城跡へは自ずと到達出来る。「要害桜」のある畑地は当時においても城域の一部であるとも見受けられ、そこからは既に堀切あるいは当時のものとも思える石垣跡などが少し見え隠れしているのが見て取れる。

現状(4月)城跡は整備されているので、史跡として一般客の訪れる主郭及び二の丸までは木々も少なく良い状態が保持されている、本来遺構見学をする目的で訪問する者にとっては、少し藪化は進行中ではあるが、主郭から堀切を挟んだ南側の遺構群(屋敷跡)が見学の対象になるものと思われる。此方には土塁、空堀、石垣跡などの遺構が目白押しとなっており、相当地表風化も進行しているので郭境あるいは形状などの判別はし辛くなっているが見所は多く、高さは失われているがうねうねした空堀を伴う土塁、あるいは櫓台とも思える大土塁、まだ深さの残る空堀、郭を形成する石垣跡の一部、三重構造の土塁を伴う空堀などは明確に判別可能でもある。更に南側に向いても丘陵上相当長く繋がっていそうにも見受けられたが、次の予定を考えれば長居は出来ず踏破は断念するに至る。

この城跡に関しては予想を越えた遺構群にも巡り会え、もう少し時間をかけて縄張り全体像が浮かび上がるまで見学したかったのだが、それも出来ずに非常に残念な思いで城跡を後にする事になった。最後に城跡を個人的に評価するとすれば、「主郭南側に位置する屋敷跡の遺構群は、当時を物語る上においては一見の価値に値するものである」と言い切れる。

1route_2 登城ルート

5_nisi_gawa_yori 要害桜と城跡

3_2 城跡外面図

8_daihorikiri_1 北堀切

12_2maru_yori_shukaku_heki 二の丸より主郭切岸

14_shukaku_nai 主郭奥土塁

20_minami_daihorikiri 南大堀切

22_hensoku_3jyuu_horikiri_1 三重空堀見所

27_dorui 屋敷跡の大土塁見所

31_isizumi_2 石垣跡見所

32_karabori 屋敷跡空堀見所

五品嶽城跡(広島県庄原市)

広島県庄原市東城町東城にあって、町の中心から見れば西側に聳える城山の山上から北側山裾に位置する世直神社辺りまでが城跡。本来毛利氏配下であった宮氏の居城とされるが、案内説明板によれば城主の変遷も激しかった模様である

城跡へは最寄となる中国自動車道「東城」ICで降りれば直ぐの距離でもあり、ルート図の如く進行すれば世直神社下の道路沿いに小さな城跡への道標を見つけることが出来る。そこからは西上部に見える世直神社を目指して上り、神社からは直ぐ山側に案内看板も目に留まるので、登山遊歩道を利用すれば山上主郭までは20分内で迷わず辿り着く事が出来る。

現状(4月)城跡における郭跡は下草及び雑木が蔓延り荒れ放題と化しており、移動に難渋する事は無いが、山上主郭以外は見通しも悪く全体像を見渡す事はほぼ無理で、遺構は歩き回って傍まで寄っての判別確認が余儀なくされる状態(県指定史跡にありながらとても醜い状態)にある。それでも山上全域における遺構群はほぼ判別確認は出来、遺構としての高低差を伴う郭切岸郭外周には土塁跡、更に二箇所の井戸跡も現存しており見る者にとっては非常に目を楽しませてくれる山城でもある。毛利氏後に改修をされたと思える主郭櫓台を形成する石垣跡、随所に残る石垣跡などは崩落石も含めて毛利時代のものとして判別可能でもあり、これらからも多くの郭壁は石垣で固められていたとも推察出来る。縄張りにおける個々の郭規模は大きく、山上を覆う郭群だけを見れば狭小な郭などは皆無に等しく、非常に豪快な山城の印象を受ける。これである程度整備がされて遺構群も見て回りやすい状態にあれば、間違いなく推奨出来る城跡としてリポート掲載出来たのだが、現状を窺う限りでは「石垣跡の残るお薦め程度の山城」と言わざるを得ない。ただ状態は悪いが遺構の残存度は非常に高いものがあり、山城としての醍醐味も充分に味わう事が可能でもあり、個人的には満足感に浸ることは出来た。冬季訪問あるいはこれから後に少しでも状態が改善されれば城跡もこの限りではないのかもしれないが、、

1route 登城ルート

3_1_2 城跡概念図

8 登山口

2_2 現地案内板より

10_takaisigaki_1 高石垣見所

13kayanohira 郭跡

16_ido_kaku 井戸跡

31_tukiyama_heki_isi_2 郭壁の石垣跡見所

33_shukaku_nai_2 主郭

34_oku_yaguradai 主郭奥櫓台

36_mawari_isigaki_5 櫓台石垣見所

2009年1月24日 (土)

神辺城跡(広島県福山市)

広島県福山市神辺町川北にあって国道313号沿いにある「天別豊姫神社」南背後の山の山上が城跡、戦国期以前より城跡は成立しており城主の変遷は激しいが主に毛利一族の居城と伝わる。

城跡へは山陽自動車道「福山東」ICが最寄の乗降口、そこから国道182号を経由して国道313号に針路変更し、国道沿いにある「天別豊姫神社」を目指して進行すればよい。神社交差点を過ぎれば東側数100m地点より右折、ルート図の如く吉野山公園を目指せば城山山上尾根に位置する歴史民俗資料館駐車場までは迷わず辿り着ける。その駐車場も恐らくかつての郭跡の転用とも見受けられ、直ぐ西側には櫓台に見えなくもない土塁と背後には大堀切を見て取る事が出来る。

現状(一月)城跡は整備が行き届いており、山上における郭跡並びに付随する遺構は全て容易に見学出来る状態にあり、遠く外見から城山を望んでも裸山に近く、当時の山城の状態に思いを馳せる事も容易であり、山城としてはこれ以上望めない整備保持状態にあると言ってよいものでもある。城跡に縄張り妙味は求められないが、コンパクト(規模は比較的大きい)にまとまった縄張りは見学し易く、短時間で全域を見て回りやすいので自分の様に遠くから訪れた者にとっては非常に有難い城跡と言える。特筆すべき見応えのある遺構が見当たらないのが難点ではあるが、これも状態の良さでカバーしており、見所を探すとすればまず残存状態の良さ、駐車場西側に備わる大堀切は最初に挙げられる。状態が良いので切岸も当時の状態に近いものを拝む事が出来、全体を通して木々の少ない事からもダイレクトに山城を体感する事が出来る。

戦国期山城を堪能するには持って来いの城跡でもあり、個人的には是非訪問をお薦めしたい山城の一つに挙げられる。

1 登城ルート

3_2 城跡概念図

4_enbou_1 城山遠望

8_kita_gawa_1 資料館側より城山

40_tatebori_ato 東側縦堀

11_yagura_ura_horikiri_1 駐車場西の大堀切見所

22_3maru_yori_2maru_heki 三丸より二丸切岸

23_2maru_yori_nisi_gawa_dankaku 二丸より西側

24_2maru_1 二丸内

28_shukaku_oote_koguti 主郭

31_kita_gedan_ido 北下段の井戸跡

鷲尾山城跡(広島県尾道市)

広島県尾道市木ノ庄町木梨にあって門前集落の北側に聳える険峻な山の山上が」城跡、杉原氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡へは最寄の山陽自動車道「尾道」ICで降り、そこからは国道184号を経由して一般道158号を北上する。数分も走れば木梨地区に入れ、更に北に向いて進行すれば門前集落よりそれと分かる山が目に入る。後はルート図の如く狭い道になるが山上中腹辺りの駐車場までは車で上れるので、そのまま狭い車道 に従えばよい。駐車場からは道標も設置されているので、登山口辺りまで延びている北端の堀切を確認しながら、山上主郭に至るまでの途中にある数段の小規模な郭跡、井戸跡、あるいは郭壁随所に残存している石垣跡なども確認しながら、20分程度あれば山上主郭までは到達出来る。

現状(一月)城跡は冬季にありながら主郭と一部の郭跡以外はほぼ全域が矢竹薮に覆われており、郭形状あるいは郭内の遺構確認は困難な状態にある。石垣跡などは露出しているので差障り無く判別出来るが、現地案内板縄張り図にあった南郭群、西郭(馬場跡)群は密生する矢竹あるいは雑木に阻まれて踏み入る事も出来ず、見て回れたのは山上郭群のみに終わってしまった。幾つかの箇所には遺構の表示もされており期待が持てたのではあるが、山上の展望所としての値打ちのみに終わっており、戦国期を語る山城としての史跡価値はほぼ忘れ去られている様にも見受けられた。

城跡は山上郭群を見る限りでは規模はさほど大きくない様にも思われたが、郭壁に残る多くの石垣跡あるいは崩落石などからも、山上郭群は周囲をほぼ石垣で堅固に固められてあったかの様にも思われ、当時は石垣城と呼ぶに相応しい要害堅固な山城であったのではないかとも推察される。

多くの地域を代表する山城は展望所としても使用され、登山道も設置されており見学者にとっては非常に有難いのだが、その反面遺構の保存状態にまでは気が行き届いていないのが常で、後世まで遺す必要のある折角の山城遺構がこのまま風化して行くのも非常に残念でもあり勿体無くも思えてくる。

1z 登城ルート

4a 南より城跡遠望

2z_2 現地案内板より

3_1_3 城跡概念図

14_horikiri_2 北堀切

18_kitakaku_hasi_isi 北端郭の石垣跡見所

20_kita_hasi_kaku 北郭群

28_2dan_heki_isi 石垣跡

32_ido_ato_1 井戸跡

33_shukaku_kita_gedan_nisi 規模の大きい石垣跡見所

40_shukaku_nai_1 主郭

2009年1月17日 (土)

小田城跡(広島県東広島市)

城跡は広島県東広島市河内町小田にあり、毛利を支えた小早川氏の分家でもある椋梨氏一族の城跡で、最後の城主として小田氏の居城が伝わる。

城跡へは小田集落に入れば郵便局から保育園傍を通り、ルート図の如く突き当りを左折して城跡を目指せばよいが、車道沿いの城跡進入口となる場所には道標が設置されており、すぐ北側に目に留まる墓地側に上る。道標は無いが北奥側に位置する墓地背後からは左手に進路を変えて更に上ると郭南壁に大石垣のある郭跡、更に空堀道を通過すれば大手虎口とも見受けられる石垣跡までは到達出来る。門石手前には既に大堀切も窺う事が出来、そのまま直進すれば左手に郭跡更に主郭北背後の大堀切まで到達出来る。主郭へは途中から右手に上る山道があるのでそれに従えば山上の三の丸から主郭まで一気に見学可能である。

現状(4月)城跡の山上郭群以外は、郭内に踏み入るのを躊躇するほどの密生雑木藪となっており、外見からの視認も困難、ましてや郭内の移動はほぼ無理な状態にある。それでも道中より郭を形成する大石垣跡の確認は出来たが、郭内の奥までは侵入出来ないので郭形状などは外見からの推察に終わってしまった。山上三郭においては木々も少ないので見通しも良く、郭壁の石垣痕、井戸跡、土塁などは明確に見て取る事が出来た。城跡の見所としては規模は小さいが毛利氏特有の石積み跡(赤松氏に近い)で、野面積みに近いが特に大石を多用した石垣跡はすぐにそれと分かるもので、西中国の城跡には特に多く窺われ、現在でも城跡西側の農作地辺りにも名残として残っている。

城跡の規模は小さく縄張り妙味もさほど感じられず、状態も良くないので推奨とまでは行かないが、石垣の残存する城跡としては見学には充分値する城跡と感じられた。

1_1a 登城ルート

2_1 現地案内板より

Enbou 城跡遠望

3_1x 城跡概念図

10_ooisigaki_1 南郭群大石垣見所

11_dorui_dou 空堀登城道

14 虎口石垣跡見所

22_3maru_yori_2maru_heki_1 三の丸より主郭側

30_shukaku_yori_2_3maru 山上三郭

2maru_yori_shukuruwa 二の丸より主郭

三丘嶽城跡(山口県周南市)

山口県周南市熊毛町広末集落にあって、貞昌寺より山陽自動車道を挟んで北に聳える険峻な山容である三丘城山の山上が城跡、城史に関しての詳細は不明

我が故郷からそう遠くない場所にありながら何年も訪ねる機会が無かったが、今回やっと訪問する事がかなった。城跡へは登山口が数箇所あるらしいが山陽自動車道「熊毛」ICを降りると一般道144号より貞昌寺を目指して行くのが一番分かり易いと思われる、ルート図の如く集落に入ればまず西側へ橋を渡れば既に山塊は見えているので正面にある案内板で登山口を確認すれば、迷わず登山口駐車場までは到達出来る。

外見から窺えるようにこの城山の山頂に辿り着くまでは非常に厳しい上り斜面との格闘になるが、現状まだ九月ということもあって木々は青々と生い茂り、蜘蛛の巣を掃いながらの進軍を余儀なくされ、体に倍の疲れを感じながらやっと南端に位置する自然岩を取り込んだ物見郭跡に辿り着く事が出来た(約40分は要した)。

城跡は山上全域がほぼ雑木藪と化しており、移動はある程度出来るが郭内部の視認は藪によって中々難渋する状態になっている。それでも山上における遺構となる自然巨石を取り込んで形成された郭跡、郭切岸、郭壁の石垣跡などは充分判別確認する事が出来た。これだけ険峻極まりない山上にありながらも物見程度の城跡に収まらず規模は比較的大きく(総全長100m近い)、技巧を必要としない崖状急斜面あるいは石垣によって山上主郭周囲は固められていたとも見受けられる。

城跡最大の見所となるのは南端物見郭の手前数mに渡って築かれた残存状態の良い石垣跡で、この往時に思いを馳せることの出来る遺構を眺めるだけで、全ての疲れが一掃される様でもあった。それにしても巨石を以って防壁あるいは土塁代わりとしたこの山城の様相は戦国期ならではのもので、まるで天険の要塞の如しである。

Photo 登城ルート

4 南より城跡遠望

Photo_2 城跡概念図

11_ooiwa_koguti_ka 虎口風自然巨石

12_temae_isigaki 物見手前の石垣跡見所

16 南端物見郭跡

22_gedan2_kyoseki_heki_1 三の丸巨石壁見所

27 二の丸

28_shukaku_minami_sita_isi 主郭南壁の石垣跡見所

30_kyoseki_haigo 主郭の巨石壁

地形図から推察される様に山上郭から北東側尾根にも郭の展開は予想されたが、現状の全域藪化状態を考えれば更に尾根に降りてまで踏破する気にはなれなかった。未踏地は残したが城跡を個人評価した場合「藪化はしてはいるが手付かずの遺構の残存度は高く、これぞ戦国期山城である!」と声高らかに連呼出来る城跡と言える。

2009年1月13日 (火)

楢崎城跡(広島県府中市)

広島県府中市久佐町にあって安全寺背後より東側に延びる尾根先端部が城跡、毛利旗下の武将として活躍した国人楢崎氏の居城

城跡へは府中市内からであれば国道486号を利用し北上、県道24号に入り更に県道56号に進路を変え久佐町にある安全寺を目指せば分かり易い、到着後はルート図の如く寺院背後に備わる登山道で迷わず山上主郭には辿り着ける。

登城開始となる寺院背後の登山道よりすぐ北側には数段に及ぶ古い石垣群が眼に留まり、屋敷跡を想像させるが築造の時代背景までは判別は不能である、ここを通り過ぎて道に任せて進むと数分で北側の尾根を分断する大堀切に出くわすが、これは残存状態も良く更に高さもあるので中々見応えがある。ここからは登山道を通らず直接崖状北斜面に取り付いて上るが、予想通り更に二連からなる堀切及び土塁が設けられていた。この遺構に満足感を覚えながら斜面を登り切ると山上主郭に辿り着くが、規模は大きく社殿のある事から整備されており眺望も効き、尚且つ小さな櫓台周囲を取り囲む石垣跡、更には主郭南側虎口横にも残存石垣跡を眼にする事が出来た。主郭を一周した訳ではないが恐らく当時は石垣によって周囲は固められていたのではないかとも想像させられる。

城跡は山上にほぼ四段の郭を並べ形成されただけで縄張り妙味には期待出来ないが三連の堀切、石垣遺構の他に石組み井戸跡、畝状縦堀などの見所も多く意外に見る者を飽きさせない。現状畝堀は西斜面で確認したが恐らく未踏地である東側斜面にも備わっているのではないかと推察される、更に地形から察する処、まだ東尾根にも縄張りは延びているようにも思われたが、冬季である現在(一月)でも主郭東側は枯れ木及び常緑樹に覆われており踏破は断念するに至る。

情報資料などによって石垣跡は予想していたが他の遺構群も素晴らしく、想定外の事でもあり思わぬ感動に浸りながら城跡を後にした。残存状態が良く遺構残存度も高いので個人的には推奨できる山城の一つである

1z 登城ルート

4_enbou1 西より城跡遠望

3nara 城跡概念図

12_tera_kita_gawa_ysiki_isi_4 寺院北側の石垣跡

23_kita_daihorikiri 北大堀切見所

25_shukaku 山上主郭

30_yagura_shuui_isi_2 櫓台周囲の石垣跡

34_koguti_heki_isi_1 南虎口の石垣跡見所

36_2maru_ido_isi石組み井戸跡見所

41_gedan_ooisizumi 南最下段の大石積み

鏡山城跡(広島県東広島市)

広島県東広島市西条町鏡山にあって鏡山公園内に聳える山の山上が城跡、最初の築城は大内氏によるものであるが尼子氏との抗争により城主の変遷の激しい山城である。

城跡へは山陽自動車道「西条」が最寄のICで、そこから国道375号を南下し国道2号を越える。広大な規模でもあるサイエンスパークを目指せば自ずと北西に位置する鏡山も確認出来、道路沿い登山口までは難なく辿り着ける。

現状(12月)城跡は公園としての整備も行き届き、冬季でもある事から見通しも良く、規模も大型ではないので山上における遺構群は全て判別確認が容易に出来る状態にある。道路沿いの案内板から上ればすぐに郭跡と確認出来る平坦地及び土塁が目に留まり、ここから更に上れば南郭群を通過しながら連続縦堀、三の丸、二の丸を経て山上主郭までは到達出来るが、郭壁は自然岩を取り込んで形成された箇所、あるいは部分的に石垣跡も窺う事も出来、崩落石の多いことからも石垣が相当多用されていた城跡とも想像出来る。井戸跡も山城にしては珍しく数箇所の郭跡に残っており、当時山上には居住空間が存在した事を物語っている。城跡は見所も多く、登山口郭跡から始まって連続縦堀、西尾根を断つ二重堀切、主郭石列、井戸跡、高低差のある切岸、更に整備の行き届いた郭跡まで満遍なく見て楽しむ事が出来、状態が良いので当時に思いを馳せる事も容易であり、戦国期山城を体感し堪能するにはこれ以上は望めない城跡とも感じられた。まだ中国地方においては数多くの山城を訪問した訳ではないので他とは比べられないが、恐らくこれ以上の状態の良い山城には中々巡り会えそうにも無い気がする。比高100mにも満たない山城ではあるが山上は非常に急峻でもあり、常に自分が追い求める「天空の城」と呼ぶに相応しいイメージの山城と目には映った。

山陽自動車道を降りて数分程度走ればで訪れる事が出来、仮に途中下車したとしても決して期待を裏切られるとは思われず、満足感に浸れる事請け合いの推奨出来る山城の一つである。

1_1 登城ルート

2xx 城跡概念図

14une_tatebiri 連続縦堀見所

21ootekoguti_kaku 大手虎口郭

23_3kaku_baba_1 三郭

38_nisikaku_horikiri 西二重堀切見所

43_kitakaku_gun_1 北郭群

46_sitadaba_nai_2 下のダバ

28_nakadaba_nai 26_nakadaba_2maru_1 二郭(中ダバ)

30_yaguradai 奥主郭

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