中国(山陽)地方の山城

2011年12月22日 (木)

山上には未だ石垣跡が現存 周防高森城跡(山口県岩国市)

城跡は山口県岩国市美和町生見にあって、長角集落の直ぐ西側に聳える、標高412mの山に位置しており、市の指定史跡にも認定されている。現在その山頂主郭には、下駄履き観音(役の行者)と呼ばれる石仏が、小さな祠内に鎮座しているが、その城山中腹には駐車場まで設けてあったので、近隣から参拝も兼ねて訪れる方も多いのではないかと思われる。城史に関しては「現地案内説明板」をクリックの事

城跡を訪れるには、国道2号線より県道2号線へ進入する事が先決となるが、そのアクセス方法は美和町パンフの中にあった、車道で城址麓駐車場(城址案内板あり)までは上れる、概略ルート図を参考にして頂きたい。個人的には里山の景色を味わうと同時に山登りも楽しむ為に、地元の方に教えて頂いた県道2号線沿いにある入山口(道標はないが画像を参考に)から、確かな登山道で山頂を目指したが、35分程度で辿り着けた事だけはお伝えしておきたい。(ちなみに駐車場からは10分内)

1route_3 登山道での登城ルート

Ta 林道参拝道ルート

10_tozanguti 2号線沿いの入山口

16_tyuushajyou 中腹駐車場

2a 現地案内説明版より

現状(11月)城跡は市指定史跡となっている為か、山上主郭(本郭部)の木々は伐採されて見通しが利き、非常に見学し易い状態にあるが、付け郭を含んだ三郭で形成された本郭部以外の、便宜上の二ノ郭から北側(登山道中)あるいは南郭群は、多くの低草木が蔓延っている状態にあると思って頂いても良いだろう。ただ移動に難渋するまでには至っていないので、山上における残存遺構はほぼ判別確認可能な状況とは言えるが、、、 踏破した範囲で目に留まった遺構は全て概念図には示したが、郭総全長は二百mに達するものであり、規模は比較的大きい部類に入るものの、自然地形に任せたまま山上を切り刻んだだけの縄張りプランに、縄張り妙味までは望めないものである。土塁地形や空堀(縦堀)跡は登山道中の南北斜面上で何とか目に留まったが、草木に埋もれて明瞭なものを窺える訳ではないので、これらはほぼ訪れる方の判断に委ねられるだろう。その中にあって城跡最大の見所遺構と呼べるものは、南先端郭西側壁に施された石垣跡で、未だ10m以上に渡って現存しており、非常に見応えを感じるものとなっている。尚、ルート図に記した北尾根、あるいは西尾根側にある出郭(屋敷跡地)までは覗いていないので、残存遺構も縄張りも、決してこの限りではないものと思って頂きたい。

3_1 城跡概念図

28_nidan_kaku 主郭(付け郭と切岸)見所

29_koguti_gawa 本郭北虎口側

30_1 休憩ベンチのある祠

34_shukaku_1 主郭の現状

42_minami_sentan_kaku_1 南郭群

44_isigaki 44_isigaki_1 石垣跡見所

城跡を個人的に評価するのであれば、山登りを楽しみながら登山道(参拝用林道もある)で迷わず辿り着ける事、山上本郭群だけに関しては縄張りが掴み易く、比較的見学し易い状にある事、当時築かれた残存石垣跡がそのまま拝める事、僅かながら空堀が拝める事、これだけの見学材料が揃えば、自ずと「是非お薦めしたい山城の一つ」、と言う事にはなるだろう。もちろん山城ファンの方だけを問わず、史跡ファンの方も対象となるが、この石垣跡だけは覗く値打ちありと見た!

2010年12月30日 (木)

縄張りプランは正に一見の価値あり! 仁後城跡(広島県安芸高田市)

この城跡は、タイトルに「縄張りプランは一見の価値あり!」とした様に、空堀を多用して築かれた複雑な縄張りは、見る者を間違いなく魅了して止まない、探索冥利に尽きる城跡と眼に映った事から、「山城賛歌」としては今年の取りを飾るに相応しい山城としてリポート掲載をするに及んだものである。残存状態が良いとは決して言えないが、山城としての遺構の醍醐味や縄張り妙味など、本郭周りに凝縮された遺構の数々は賞賛に値するものとも見受けられ、その佇まいや当時の構築物の機能の想像も含めれば、絶対に期待はずれに終わるものとは思われなかったのである。出城も含めた城域はそれなりに広いが、見て回りやすい状態にはあるので、これを機に一度訪れて見ようと思われた方には、迷わず訪問をお薦めしたい

1_1 登城ルート

7 案内板のある駐車場

1_2

「城址案内説明版」より

3ni 城跡概念図

城跡は広島県安芸高田市高宮町舟木にあって、既にリポート掲載を終えた牛首城とは同様の訪問ルートで訪ねる事が出来るので、ここでは細かい道順の説明は割愛させて頂くが、牛首城跡の道標の掲げられた一般道322号は、そのまま奥垣内城跡側へ向いて車を走らせれば良い。目印となるのは寺院「西連坊」で、付近まで到達すればルート図を参考にして城址案内説明板のある駐車場まで向かえば良い。そこから目の前に望める(画像に注目)城跡を目指せばよいのだが、現在登城用の山道は無く、城跡の周囲は入山開閉口も見当たらない頑丈な獣避け鉄柵が施されており、登城口を探すには随分苦労させられる。とにかく腰程度の高さの鉄柵(概念図に示した付近)を見つけて、それをまず乗り越える事が必要とされるが、柵を乗り越えてそのまま上れば、直ぐにでも二連の土塁を伴う堀切(僅かな横堀を含めると三連)が歓迎してくれる筈である。

12_2jyuu_horikiri_tatehori_e_1 東二重堀切、大土塁見所

18_naka_daihorikiri_1 中央大堀切見所

23_obi_yori_shukaku_heki 帯郭より主郭切岸

25_shukaku_1 主郭の現状

28_dorui_karahori 南西郭の大土塁と空堀見所

32_2ren_dorui_karahori_2 二連の土塁と空堀見所

36_seitan_horikiri 西端の二重堀切2見所

41_daihorikiri東出城の大堀切見所

この城跡を語り出せば限が無くなりそうとも思えるが、ここでは自身が踏破した範囲内で目に留まった、山城ファンの方であれば誰でも判別確認可能と思えた遺構だけを概念図には示したので、これから訪れる準備のある方には是非これを参考にして頂きたい。もちろん城域となる全ての斜面を踏破した訳ではないので、残された遺構も決してこれだけに止まるものとは思われないが、、、この城跡を語る上での醍醐味、あるいは見応えを感じられる部分は、冒頭で触れた様に空堀に尽きるものとは思われるが、主郭の東西尾根を断つ二箇所の二重堀切と中央の大堀切(何れも縦堀に繋がる)、主郭西側に施された迷路の如き空堀(横堀と縦堀に土塁が付随)、更に東末端部に位置する出城(出郭)を断つ大堀切と、とにかく空堀は全て見応えのあるものであり、見所と言えるものでもある。もちろん郭を形成する切岸も忘れてはならないが、突出した高さに位置する主郭、二ノ郭、三ノ郭の凄い高低差を誇る切岸も、低山ではあるが山城としての醍醐味が強く感じられる部分なので、決しておろそかには出来ないだろう。他では東出城(三段郭の総全長は30m程度)も当時の形態をそのまま今に残したものとも見受けられたので、是非ここまでは足を延ばして頂きたいと思うのである。

2010年12月25日 (土)

奥垣内城跡(広島県安芸高田市)

城跡は広島県安芸高田市高宮町舟木にあって、水谷集落から生田川に向いてせり出した丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには中国自動車道「高田」ICが最寄の乗降口となるが、先にリポート掲載を終えた牛首城とはほぼ同様の訪問ルートとなるので、ここでは細かい道順の説明は割愛させて頂く。牛首城を起点とすれば一般道322号をそのまま更に東へ向かえば良い。この道路から城跡へ到達する間には仁後城もあるが、この城跡は非常に複雑な縄張りプランでもあり、概念図の作成に少々手間取っている事から、多少リポートは遅れる予定。

1route_2 登城ルート

5 城跡遠望

3ok 城跡概念図

この山城へ向かうには付近に分かり易い建物も目印となるものもないので、地形図から場所を確認して頂くより他ないが、直登口となるのは道路からも直ぐ確認可能な、概念図に示した墓地の背後からで、この斜面に備わる害獣避け鉄柵を乗り越えて、更に上れば数分で山上主郭までは辿り着ける筈である。尚、この鉄柵は山裾周囲を覆う形で張り巡らしてあるので、唯一乗り越えれる程度の腰までの高さの鉄柵を探さなければならない、それがこの墓地背後にあたるのだが、民家の方に事前に許可を頂き、敷地内を通過して山道に進入しても良いとは思われる。ただどちらを選択しても、鉄柵を開閉する箇所は見当たらなかったので、柵を乗り越える必要はあるとは思われるが、、、

8_nantan_iwa_koguti 南端の物見風大岩

13_gedan2_dorui_koguti 土塁虎口か

16_shukaku 主郭内部の現状

20_horikiri 堀切

21_sita_une 22_une_2 畝堀と窺われる地形見所

全長60m前後の砦規模のこの山城は、概念図に示した様に主郭と小規模な段郭で構成されており、堀切は主郭北背後を断つ形で備わってはいるが、現状を見る限り浅いものであり、見応えは余り望めないものでもある。当然堆積物のせいとも考えられるが、後世において堀切壁となる土塁が削り取られた可能性も否定は出来ない。城跡にあって見所を探すとなると中々苦労するが、縄張りにおける特徴と言う事であれば、畝状空堀群は挙げられるのかもしれない。ただこの畝堀は自身が外見(僅かにコブ状になった土塁間に浅い溝が見止められる)から判断しただけのものであり、縄張りとしての必然性も含めて畝堀としたが、実際の処は調査後におけるリサーチもしておらず、伐採後に放置された木々や下草で、非常に判別し難い状況にある事も相俟って、現状では確証が持てないでいる。この畝堀に関してはこれから見学する方が、その場で判断を下せばそれで良いものとは思われるが、他の遺構としては明瞭な四本縦堀土塁を伴った虎口らしき跡が目に留まった程度と思って頂ければ良いとは思われる。

城跡を個人的に評価すれば、同じ高宮町にあって、後でリポート掲載予定をしている仁後城、あるいは牛首城と併せた同日訪問とするのであれば、訪れる値打ちも充分生まれて来る様には感じられたのである。

2010年12月23日 (木)

無数に刻まれた畝状空堀群が特徴 牛首城跡(広島県安芸高田市)

城跡は広島県安芸高田市高宮町佐々部にあって、五十貫部集落にある公民館の直ぐ背後にあたる、ほぼ独立した低山山上に位置しており、ほぼ平山城と呼べるものでもある。城史に関しての概略は「現地案内板より」をクリックの事

城跡を訪れるには、後でリポート掲載予定の奥垣内城あるいは仁後城と同様の訪問ルートとなるが、最寄となる高速道路IC乗降口は中国自動車道「高田」で、県道64号から県道4号と経由して、高宮町の中心にあたる「支所前」信号より右折して向かえばよい。そこから1kmも走れば、登城口でもあるルート図に示した公民館までは難なく辿り着けるとは思われる。後は概念図に示した通りに参拝道任せに歩いて向かえば、直ぐにでも山上主郭までは辿り着ける筈である。

1_1 登城ルート

4 公民館手前の道標

1 現地案内板より

3u 城跡概念図

この城跡は城址案内説明版には記されてあるが、畝状空堀を特徴とするものであり、概念図に示した緩い傾斜の斜面上(主郭東側斜面)では、相当数の畝堀にお目にかかる事が可能となっている、ただ現状では下草や数百年レベルの堆積物、あるいは表土の流出によって、地形から畝堀を見極めるには相当信頼の出来得る目が必要と言えそうには思われた。もちろん山城巡りの回数をこなされて来た方にとっては、難なく判別出来そうには思われたが、緩い斜面上とあってか見応えには随分欠けそうには感じられた(非常に残念!)。他では概念図に示した付近で明確な三本の縦堀を眼にする事が出来るが、これは畝堀と並んで城跡にあっては最大見所と呼べるものであり、未だ深さは失われておらず決して見逃して欲しくない遺構でもある。現在、規模の大きい主郭には社殿が建てられているが、地元の方の情報によれば、近年までは畑地となっていたそうであり、この南下段側が御屋敷跡と呼ばれる当時の城主の居住空間であったそうである。ここでは郭をL字状に巡る土塁郭内壁でまとまった石垣跡を眼にする事が出来るが、この郭内外壁で見受けられる崩落石や、随所で窺われる石垣の痕跡などから、御屋敷跡と呼ばれた郭跡の内外壁は、推察も含めて全て石垣で固められていた様にも思えた。

11_shukaku_1 主郭南側

13_yagura 主郭北、櫓台か

35_naka_horikiri 中央大堀切(縦堀)見所

16_doruikaku_heki_isi_1 御屋敷跡土塁内壁の石積見所

19_yasiki_2 御屋敷跡の現状

23_yasiki_gaiheki 南側切岸

38_une_1 38_une_3 外見からは少し判別し難い畝堀見所

現状(11月)山上本郭部を除けば、城跡の状態は非常に醜く、地表は風化で凸凹地形、更に蔓延る低草木がそれに追い討ちをかけており、とにかく荒れ放題と化している。よって概念図に示した様に郭境も判別し難く、地形の変化から縄張りを見極めるには非常に困難を極める状況にある。特に主郭北側(道路側)一帯は土塁らしい地形は目に留まるが、地形から機能を想像するには、楽しさを随分通り越したものとなっているのが現状でもある。城跡を個人的に評価すれば、状態は悪いがこれだけの数の畝堀を眼にする事はそう出来るものでもなく、縦堀も含めた畝堀群の見学だけで、充分訪れる値打ちはあるものと目には映ったのである。

2010年12月15日 (水)

豪快な空堀、石垣跡が未だ健在 備後勝山城跡(広島県三次市)

城跡は広島県三次市粟屋町にあって、先にリポート掲載を終えた加井妻城から見れば、川を隔てた北東側対岸の山上に位置しており、加井妻城同様に三吉氏の居城が伝わっている。三吉氏の本城とも言える比熊山城は、規模から言えば大名クラスの城跡でもあり、石垣を用いた巨大な規模を誇る山城でもあったが、この山城も同様に土塁内壁や一部の郭外壁はほとんど石垣で固められていた様にも見受けられたのである。もちろん秀吉による城割りによって、郭外壁にまとまって残された石垣跡を窺う事は、今となってはほとんど出来ないが、それでも土塁内壁部分や郭外壁随所に石垣跡を窺う事は可能となっている。

1route

登城ルート

2tyokuto_kuti

城跡遠望

2tyokuto_kuti_1

直登取り付き口

城跡を訪れるには、加井妻城と同様の訪問ルートになるのでここでは割愛させて頂くが、直登取り付き地点となるのは、画像に示した道路造成工事現場西側の尾根先端部で、小さな石仏を目印とすれば良いだろう。ここから激斜面に取り付いて上れば、5分内で城跡一番の見所遺構とも言える、豪快な空堀(縦堀に繋がる堀切)が迎えてくれる筈である。尚、この堀切上部から郭は既に形成されており、郭周囲には一部土塁も窺えるが、踏み入る余地のない矢竹にほとんど覆われているので、土塁を確認すれば左手斜面(北西斜面)に回り込みながら、三ノ郭まで上り切った方が良いだろう。

9_horikiri 14_tatehori 13_2ren_tatehori 堀切と豪快な縦堀見所

  現状(11月)城跡は、便宜上の二ノ郭には今にも朽ち果てそうな社殿はあるが、近年ここまで人が踏み入った形跡はほとんど見受けられず、主郭を含めた山上における主要三郭及び付随する郭跡も、倒木や堆積物、あるいは藪化の進行によって荒れ放題の様相と化している。特に主郭の藪化は激しく(細い竹が密生)、広い規模を誇る郭内部は現状移動にも差し支える状態にあり、とにかく倒木の隙間や歩けそうな場所を見つけての探索は余儀なくされよう。その中でも二ノ郭は、かつての社殿が建つ事から一番ましな状態にあるが、木々に遮られて中々全体像が窺えないのが現状でもある。よって今回は概念図を作成する事も出来なかったが、今回踏破に及んだ主要三郭と付随する郭、あるいは踏破可能であった西側斜面上における目に留まった遺構だけをピックアップさせて頂く。

まず主郭北背後には内壁が石積となっている分厚い高土塁 、主郭内部の郭境となる石積 、三ノ郭には周囲を覆う分厚い土、その内壁にはまとまった石積(画像に注目) 、三ノ郭南壁の一部に石積、二と三ノ郭間には堀切(横堀)、主郭西斜面上に刻まれた明瞭な縦堀三条程度、直登ルートから窺われる堀切、及びそれに繋がる豪快な縦堀などが特にこの山城を特徴付ける遺構群と言えるだろう。石垣跡に関しては郭壁随所で確認可能となっており、まだ探せばいくらでも拝めそうには思えた。状態は良いとは決して言えないが、とにかく遺構の見応えも山城としての醍醐味も充分味わえるものと感じられた事から、個人的には山城ファンの方には加井妻城と併せた訪問は是非お薦めしたいのである。

25_shukaku_nisi_heki_1 状態の良い主郭西切岸見所

23_doruikaku_naiheki_2

三ノ郭土塁内壁のまとまった石積見所

31_naibu_isi_1

主郭内部の石積と現状

29_dai_dorui

主郭大土塁見所

35_2maru_naibu_2 二ノ郭の現状

26_2to3maru_horikiri 郭間の堀切(横堀)見所

尚、地元で事前に「隣の尾根上には砦跡もある」との情報を得、個人的には集落に近い西側の尾根上と思い込んで上り、砦跡(出郭)らしき広い削平地は確認出来たが、堀切などの分かり易い遺構には巡り合う事が叶わなかった。今思えば同じ隣でも未踏に終わった東尾根上だったかも知れないので、これを機会に訪れる方にはルート図中には推察砦跡と記載したので参考までに、、、。

2010年12月13日 (月)

加井妻城跡(広島県三次市)

城跡は広島県三次市粟屋町にあって、当時は三吉氏一族の居城が伝わっているが、この三吉氏は比熊山城(リポート掲載は終えた)を本城としており、毛利氏防長移動の際にはそれに従った一族でもあり、この山城は比熊山城の出城と位置付ければ良いのかも知れない。別称粟屋城、青屋城とも呼ばれている。

城跡を訪れるには中国自動車道「三次」ICが最寄の乗降口となるが、ルート図でお分かり頂ける様に中国自動車道が真下に望める丘陵先端に位置しており、ICからは県道64号へ合流して江の川に沿って車を走らせればよい。直登口となる(画像に注目)のは概念図における二箇所からで、一方には鉄梯子が備わっており、そのまま上れば山上には難なく辿り着けるだろう。ただこの鉄梯子は途中で木々に遮られて迂回を余儀なくされた事から、ここでは鉄梯子の西側からの直登を敢えてお勧めしたい、どちらを選択しても5分内で山上までは到達可能となっている。尚、車の駐車に関しては、探せば付近に路駐可能なスペースは充分あるので心配には及ばないだろう。

1route 登城ルート

6 城跡遠望

8_2 直登口

1_3 城跡概念図

現状(11月)城跡は藪化までには至っておらず、シンプル過ぎる縄張り内の遺構に関しては全て判別可能となっている。形態は概念図に示した様にほぼ三郭で構成されたものであり、主郭の南側には櫓台的な土塁が付随しており、東あるいは西側には虎口跡らしきものも窺える。土塁背後には城跡中一番の見応えとなっている堀切壁が直立に近い切岸を伴って屹立(画像に注目)しており、訪れた者の目は必ず楽しませてくれるものと見たが、この城跡は堀切見学だけの為に訪れても決して後悔はしなさそうにも思えたのである。もちろん他に見所が無い為に余計そう思えるのかも知れないが、、、

13_kaku2 郭2

16_shukaku_kitagawa 主郭北側

17_shukaku_dorui_1 主郭奥土塁見所

18_horikiri 堀切見所

18_horikiri_1 堀切とその切岸見所

城跡を個人的に評価すれば、ほぼ対岸に位置する勝山城(ルート図に位置記載)は状態は悪いが、遺構残存度は非常に高く、残存する石垣跡、あるいは堀切などの見応えは充分でもあり、勝山城跡と併せた同日訪問は是非お薦めしたいのである。尚、勝山城に関しては後日掲載予定

2010年12月 9日 (木)

障子嶽城跡(広島県東広島市)

この山城は広島県東広島市河内町にあって、ほとんどの地図には嶽ヶ城と記されているが、その標高556mの山頂に位置している。地図上の呼称をそのまま使用した嶽ヶ城の別称があるらしいが、ここでは現地案内板にある障子嶽城跡を採用した。城史に関しての概略は「現地城跡案内板より」をクリックの事11

2x 現地城跡案内板より

城跡を訪れるには、城跡の南麓にある「教念寺」を目印として目指せば良いが、ナビのある方は嶽ヶ城と入力すれば道案内してくれると思われるので、ややこしい道順はここでは割愛させて頂く。ちなみに最寄の高速道路ICは山陽自動車道「西条」で、土地勘のない方はここから国道375号で北上するのが一番分かり易く辿り着けるとは思われる。現地に到達すれば、ルート図でお分かり頂ける様に城山登山口までは車道(生活道)が繋がってはいるが、ここでは教念寺に車を預けて、麓から城山の山容、あるいは里山の景色を眺めながらゆったりと上れるトレッキングルートを示した。山頂までの所要時間は、寺院から登山口までは歩いて約15分、登山口から山頂までは約25分程度と思って頂ければ良いだろう。尚、少しでも楽をしたい方は、城山登山口付近に探せば小型車なら何とか路駐スペースはあったので、自己責任に置いて停めれば良いだろう(奨励は出来ないが、、)。

Photo 登城ルート

4a 城跡遠望

3_1_2

城跡概念図

この山城は、山上最高所に主郭を構え、登山道が通じている東尾根上を自然地形に任せたまま削平し、比較的規模の大きい郭を並べただけに終わっているものであり、その単純な縄張りプランは、一箇所(便宜上の二ノ郭東)に堀切は備わっているものの、山城としては古い形態を色濃く残すものと言えよう。自身が踏破可能な範囲で目に留まった遺構のほとんどは概念図には示したが、遺構標識のある空堀(堀切)、主郭を囲む土塁跡、帯郭などが、現在でもそれなりに目を楽しませてくれそうには思われた。ただ二ノ郭あるいは主郭周囲の四方斜面上は、現状密生する雑木藪地となっている為に踏破は出来ず、概念図に示したまでが残存する遺構の全てとは思えないが、形態から考えれば更に多くの遺構は望めないようには感じられた。

24_oku_horikiri_1 東郭群(奥堀切)

25_horikiri 堀切見所

28_shukaku_heki 帯郭より主郭切岸

37 全貌が窺える主郭

32_dorui_2 32_dorui_1 土塁

現状(11月)城跡は、登山道中の郭跡は多少藪化はしているが、山上主郭だけはその全体像(画像に注目)があからさまに窺えるものとなっており、見通しが利く事からも、主郭に佇めば抜群の臨場感が感じられる筈である。更にその主郭から四方を見渡せば、360度に渡って眺望が利く素晴らしい状況でもあり、当時に思いを馳せる事も容易な状態となっている。城跡を個人的に評価すれば、残存遺構に見応えを感じるまでには至れなかったが、山上から四方まで行き渡る眺望は、今となっては他の山城では滅多に味わえるものではなく、山歩きも楽しめて遺構見学も楽しめる、是非お薦めの城跡と目には映ったのである。とにかく「眺望は素晴らしい」の一言!

2010年1月15日 (金)

八海山城跡(山口県光市)

城跡は山口県光市光井西八海(ヤカイ)にあって、標高233mの山頂に位置している。古くは(時代までは把握出来ていない)海賊衆であった光井氏の居城とだけは伝わっているが、大内氏傘下の海賊衆であった可能性は高いと思われる、詳細は不明。尚、この光井氏はその後(庶流かも、、)安富氏を名乗っている模様。

城跡へは山陽自動車道「熊毛」ICが最寄の乗降口、県道8号で南下して向えば良いが、ややこしいので割愛させて頂く。最終的に市道346号を走る事になるが、直登口付近には目印となるものも見当たらないので、ルート図を参考にして訪ねて頂きたい。ルートは三通り考えられるが、個人的には多少の藪漕ぎは必要とされる、Aルート(15分)より直登してBルートで下山した。もちろん下山においては東側に展開される縄張りも覗いておきたい気持ちがあったから、敢えて別ルートで下山したのだが、結果的には郭跡と断定可能な削平地、あるいは堀切遺構などは目には留まらなかった。

1_5 登城ルート

4 Aルート進入口

1_2_2 城跡概念図

6higasi_kuruwa_1 東郭

9_shukaku_gawa 主郭側切岸

10_nisi_sekimon 西郭石門か?

11_nisi_kyoseki_dan_1 段状になった巨石

20_minami_kaku 南郭

現状(11月)城跡は、ここ数年人の手の入らない山として藪化も進行しており、見通しも利き難く、郭全体像も中々見渡せない状況となっている。古い形態の山城と窺える様に、空堀といったものは存在しておらず、ただフラットな削平地が存在する程度でもある。山上における縄張りは、ほぼ概念図に描いた通りと見てよいものとは思われるが、主郭切岸跡は明確に現存、主郭西側には自然石を利用した門石らしきもの自然大岩群で遮られた郭跡などは想像に委ねられるが、当然防備の一環として機能していたようにも窺われた。東側には規模の大きいほぼフラットな空間が100m近く連続しており、これも自ずと郭として機能していたものとして、まず間違いは無いだろう。

相当古い時代に築かれたものとも窺えたが、初期山城の形態を色濃く残すものでもあり、堀切などの見応えのある遺構は当然皆無であったが、当時のままを今に伝える城跡としては、ほぼ完存とも見受けられる様相でもあり、史跡価値は充分なものと目には映ったが、、、。自作概念図を見て、興味を持たれた方のみが対象となる城跡と言っても良いだろう。

2010年1月10日 (日)

利鎌山城跡(広島県福山市)

今回この城跡に関してのリポートを編集している最中に、自身のミスにより記事を全て消失してしまいました。よって念の為にコピーしていた記事を載せる事になり、少々見辛いかも分かりませんが、これぞ山城と感じられた素晴らしい城跡であり、空堀をここまで多用した山城もそう多くは見られな事もあって、、是非訪問リポートは拝見して頂きたいと思います。内容に関してはリポート内容」をクリックの事

1_4 登城ルート

1_3_3 城跡概念図

2 リポート内容

15_horikiri_dobasi_2 西堀切土橋見所

16_nisi_daihorikiri_1_2 17_2 西大堀切見所

20_shukaku_1_2 主郭内

24_3maru_3_2 三の丸

36_unebori_1_2 畝状空堀見所

26_horikiri_dorui_1_2 東堀切土塁見所

31_3maru_heki_2 堀切より三の丸壁

32_horikiri2_1_2 西堀切2見所

2010年1月 9日 (土)

殿奥城(広島県福山市)

城跡は広島県福山市芦田町下有地にあって、標高174mの山頂に位置している。現状、城史に関しての情報は皆無(郷土史では採り上げられているとは思われる)でもあり、詳細は不明であるが、備後における在地国人衆の中では名の知れた、有地氏の居城が伝わっているようである。

城跡へ向うには国道486号を利用する事になるが、非常にややこしい道路(目印となるものが少ない)なので割愛させて頂くが、取り合えず市立動物園を目指せば、近辺までは到着した事にはなる。ルート図から動物園と城跡の位置関係を判断して頂きたいが、付近の詳細地図も一緒に載せたので、城跡までは赤線を辿れば迷わず辿り着けるだろう。車の駐車に関しては、集落最奥までは幅の狭い生活道路なので、駐車スペースはなく、少し歩く事にはなるが、図中の集会所を利用すればよいとは思われる。尚、山上主郭までは明確な山道が繋がってはいるが、左右から草木が迫り出して少し歩き難い状態なので、夏場の訪問は出来るなら避けた方が良いと見受けられた。(池の傍からは10分内で到達可能)

1 登城ルート

1_2 城跡概念図

13_2 進入路

15_daihorikiri 東大堀切見所

16_horikiri_dorui 堀切土塁

22_unebori_5 22_unebori_7 畝状空堀群見所

28_shukaku 主郭内

Toride_1 北の砦跡

Toride 砦背後の堀切

この山城は現状(11月)、全域が自然任せの雑木天国となっており、藪化は相当深刻化している状態にある。しかし明確に判別可能な畝状空堀群だけは健在でもあり、概念図に示した範囲内だけではあるが眼にする事が可能である。山上はほぼ二郭で形成されているとだけは分かったが、郭内移動及び内部の視認は非常に困難でもあり、形状あるいは内部の遺構などは、流石に読み取る事が出来なかった。更に南側斜面も身動きが取れないほどの雑木密生地でもあり、踏破確認すら叶わなかったので、畝堀あるいは郭跡の確認などは当然出来なかった。推察ではあるが、この山城の規模あるいは地形から考えても、規模の大きい郭跡が存在する様には思えなかった。

見所を挙げれば、当然主郭から放射状に無数に連続する畝堀という事になるが、周囲の状態が良いとは言えないので、縦堀の落ち込む先までは分かり辛いのが現状でもある。ただ犬走り状の帯郭から窺える、縦堀あるいはそれを形成するコブにも見える大土塁は、一部は全体像が窺えるものでもあり見応えは抜群、更に東西に備わる4本の堀切の中、東側の大堀切は高低差がある事からも、壁の如く迫ってくるものでもあり、目を楽しませてくれる事は間違いなしとみた。とにかく状態が悪いので、一般の城跡ファンの方には余りお薦め出来ないが、この畝状空堀群は、山城ファンにおいては一見の価値に値するものとも見受けられた事から、概念図を見て興味を持たれた方だけには、是非お薦めしたいと思うのである。ただし夏季訪問は絶対に避けるべし! 尚、図中には示したが、郭跡(神社敷地)及び堀切が現存する、砦跡が集会所の直ぐ背後の神社にあるので、ついでに見逃してはならない。

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