中国(山陽)地方の山城

2009年6月19日 (金)

吉末城跡(広島県東広島市)

城跡は広島県東広島市豊栄町安宿にあって、椋梨川に沿う形で走る国道486号からは「吉末城跡」と掲げられた大きな看板が目に留まるので、場所及び位置は直ぐ確認する事は出来る。個人的にも国道を移動中に偶然この大きな看板が目に入り思わず立ち寄ったものでもあり、僅かな期待を胸に秘めての訪問となった。当然城跡に関しての詳細は不明ではあるが、城跡の規模あるいは地理的環境から推察しても、村の城あるいは物見の域は出ず、当時この一帯は毛利氏あるいは小早川氏の支配する所でもあり、自ずとその傘下の武将あるいは家臣の城であった可能性は高いと見受けられる。

城跡へは前述の様に国道486号を走ってさえいれば、川沿いの低山麓に掲げられた大きな看板は直ぐ目に留まる筈であり、ルート図の如く椋梨川を渡ればどこから取り付いても山上主郭までは5分内で到達出来る。個人的には写真に示す川沿いから看板の見える山道より山上を目指したが、途中からは雑木藪地となったのでそのまま藪漕ぎで山上まで上る羽目になった。主郭に佇んでも麓まで通じる山道は見当たらなかったのだが、下山時に下り立った付近にある東側の畑地を通過して上った方が、未訪の方には分かり易く無難かも知れない、、、。

現状(四月)城跡は植林地なのであるが、下草や草木が相当蔓延っているので非常に歩き辛く見学し難い状態にあり、場所によっては密生する草木あるいは伐採された木々の放置によって地表も見えず踏み入る事も出来ないので、郭形状あるいは郭内の地形は当然掴めない状況でもある。規模の小さな城跡なので推察でも充分事足りるかもしれないが、削平地、土塁跡、切岸などは部分的にしっかりと残っており、大きな看板が目ざとく設置されている史跡として考えれば、この状態では随分勿体無い気もする。当然自分の様に看板を見て訪れる見学者も多数いる様には思われるが、現状を見る限り少し落胆は隠せないのが現実でもある。次の予定地までの移動中でもあり、急いで見て回った為に正確な城跡概念図は描けなかったが、図中に示したまでが目に留まった遺構であり今回歩き回れた範囲でもある。訪れた時期がまずかったと言えなくも無いが、個人所有の城山と察せられる事からも、これ以上多くは望めないような気もするのである。今回の様に国道移動中に少し立ち寄る程度の訪問なら、納得した訪城になるとは思えるが、、、。

1 登城ルート

3tozanguti_2 城跡遠望

3x 城跡概念図

15_fumoto_3 城跡東側

10_shukaku_nai 主郭内の現状

8_shukaku_heki 主郭切岸

7_minami_gedan_1 主郭南下段郭

10_obi 東帯郭

15_fumoto 現状休耕地 郭跡か?

2009年6月 5日 (金)

高嶺城跡(山口県山口市)

城跡は山口市上宇野令にあって、山口県庁あるいは山口大神宮の真西側に聳える鴻ノ峰山(標高338m)の山頂に位置している。当時西国に於いては権勢を欲しいままにした大内氏の居城であり、大内氏最後の当主でもある義長が毛利氏の侵攻に備えて築いた規模の大きい山城でもある。当時臨戦中の事でもあり完成までには至らなかったと聞くが、結果的に毛利の前には成す術も無く城を明け渡して西に退去し、やがて大内氏は滅亡の一途を辿る事になる。大内氏「最後の砦」と言った表現がピッタリ当てはまり、悲哀に満ちたロマン漂う山城と言えそうにも思われる。城跡はその後毛利氏によって改修の末に完成されたと伝わっており、おびただしく残る石塁などは大内側からすれば臨戦態勢中でもあり、石垣などは到底築く余裕などは無かったはずとも察せられ、当然毛利氏による普請である様には感じられたが、、、

城跡へは山頂近くの電波施設までは車で上れる(二、三台駐車可)ので、ルート図を参考に木戸神社あるいはメガネの「三城」を目指せば高嶺城登山道でもある車道進入口までは分かり易く到達出来ると思われる。東麓に位置する山口大神宮からも歩きによる登山道はあるらしいが、比高約230mを考えれば城跡見学を目的とするだけなら、当然車で上ったほうが効率は良いだろう。

1route1 登城ルート

Enbou 東より城跡遠望

3x 現地縄張り図

現状(七月)城跡は訪問時期的には恐らく最悪とも見受けられ、延び放題の下草(夏草)で細部に渡る地形の変化などは読み難く、当然残存遺構の判別確認も多少ではあるが難渋する状態にある。しかしながら山上に於いては特筆するべく技巧を持ち合わせた複雑な遺構も見受けられない為に、現状見学に差障るまでの状況までには至っておらず、木々が少ない事からも見通しは良いので、主郭を取り巻く石塁は全て見学出来る状況にはある。郭を分断する堀切(空堀)などは設けられておらず、見所は山上の地形を生かした縄張りプラン、あるいは前述の主郭壁随所に窺われる広い面積で残存している石垣跡と云った処になるとは思われるが、この石垣跡は高低差を伴うものでもあり相当な見応え感じ取る事が出来る。国指定史跡の山城でもあり当然遺構残存度は高く、山口県内でも有数の規模を誇るものでもあり、推奨に値する城跡である事は確かである。

Ninomaru1 二の丸

Shukaku_koguti2 主郭虎口石段見所

Koguti 虎口側石塁

Shukaku 主郭内

Isigaki1 Shukaku_1 Shukaku_heki_isi Shukaku_isigaki 主郭を取り巻く石塁見所

尚、電波施設の東側にも数段にも渡る郭群が現地縄張り図には記載されてあったが、現状此方側は下草も多く、雑木も密生している為にとても見学出来る状況にはなかった。冬季訪問ともなればこの限りではない様には見受けられるのだが、、、

2009年6月 4日 (木)

茶臼山城跡(山口県柳井市)

城跡は山口県柳井市日積小国にあって、毛利と大内の古戦場として地元には伝わっており、大内氏側である重藤因幡守が拠った事から稲羽(イナバ)城と今日に至るまで伝わったのではないかとも察せられるが推察の域は出ない。主郭に相当する社殿の建つ敷地部分は茶臼山古墳の墳丘を利用して築かれたものである。

城跡へは山陽自動車道「玖珂」ICが最寄の乗降口、周防大島町にある吉井城跡と同じ訪問ルートでもある国道437号より南下して向うが、「小国」地区周辺より一般道151号へ針路変更、三叉路突き当たりまで車を走らせれば正面に望める丘陵が城跡であり、確認すればルート図の如く南下して茶臼山古墳の標柱のある道路へと右折針路変更すれば、後は道に任せた林道で社殿(主郭)下までは車で乗り付ける事が出来る(小型車一台駐車可)。

現状(四月)城跡は事前に地元の方に聞き及んだ様に社殿のある主郭以外はほぼ藪化は進行中でもあり、藪漕ぎ移動はないものの生い茂る雑木で視認にはかなり難渋する状態にある。現状遺構として判断出来たものは郭跡を除けば北側の虎口らしき土塁跡、郭切岸のみでもあり概念図に描いた付近までが当時を伝える比較的判断し易い遺構ではないかと察せられる。北側は鬱蒼とした密生する雑木藪と化しておりどこまでが郭境なのかは見当も付かない状況でもあり、南側の林道沿いには木々が密生している中、相当広大な削平地も窺われたが、当時の遺構かどうかの判別は不可能と思える。地形の上からも北側に縄張りは相当延びている様にも察せられたが、低い丘陵地である事からも堀切などの見応えのある遺構には期待が持てず、当時の古戦場の雰囲気だけを味わいながら城跡を後にした。山城ファンには決してお薦め出来る城跡とは言えないが、古戦場としてあるいは史跡として覗いて見たい方には充分見学する価値はあるのではないかとは感じられた。

5 林道進入路

Tt 城跡概念図

8minami_kaku 主郭南側

10_shukaku 山上主郭

11_rin_kaku 主郭輪郭

14_sita_yori_dorui 虎口らしき土塁

16_shukaku_higasi_heki 主郭東切岸

18_kitagawa_kaku_1 北側の郭跡

2009年6月 2日 (火)

長見山城跡(広島県安芸高田市)

城跡は安芸高田市甲田町下小原/内長見にあって、城主渡辺氏は毛利氏の重臣として代々仕え、元就の代に異母弟を擁立して反旗を翻した事により一時的には滅んだ形となったが、渡辺通の代に復帰し以来毛利氏に忠誠を尽くした事が史実となっている。

城跡へは先にリポート掲載を終えた五龍城を起点にすれば分かり易いが、国道54号から県道37号へ針路変更し5km程度南下、JR「吉田口駅」付近でルート図の如く右折すれば、ほぼ赤線で示したルートで登山口標柱までは到達出来る。そこからは山道任せで5分程度で山上主郭には辿り着く事が出来る。

城跡の形態としては東西に長く延びる丘陵上に郭を展開したものであり、主郭に相当し最高所に位置する本郭群は西側に位置している。登山口より最初に到達した尾根上には東に向いて相当広い範囲で削平地が繋がっており、西側には数段の段郭群を挟んで主郭に繋がっているが、更に主郭より南西側に下りると堀切を挟んで出郭と呼べる規模の大きい郭が堀切側に土塁を付して築かれている。ここからは更に南斜面に沿って四段程度の小郭が付随しているのが見て取れる。現状(四月)城跡は主郭以外は相当下草や雑木が蔓延っているので郭跡全体像の視認はまず困難、歩き回って城跡の規模は体感する事が出来るが、細部に渡る地形の変化や遺構の確認には相当困難を来たすのが現状でもある。大雑把ではあるが概念図に示したものが自分で歩き回って確認出来た範囲の遺構であり、密生する雑木藪の為に見逃してしまった遺構も少なからず存在する様には思われる。東に延びる削平地も縄張りとして取り込めばそれなりに規模の大きい城跡と言えるのではあろうが、見る限り尾根を断つ堀切も一箇所あるに過ぎず、特筆すべき見応えのある遺構も存在しない事から考えれば、是非お薦めの城跡とまで行かないのが本音でもある。

1route_2 登城ルート

6_2 城跡進入口

3naga 城跡概念図

11_koguti_1 段郭群虎口

14shukaku 山上主郭

15_shukaku_heki_1 主郭切岸

17_nisi_horikiri 出郭堀切

19_nisi_demaru 出郭内の現状

20_nisi_dankaku 四段郭

19_sakuheiti_1 東へ連続する削平地

2009年6月 1日 (月)

壬生城跡(広島県山県郡)

城跡は広島県山県郡北広島町壬生にあって、別名高峰城とも呼ばれ壬生氏の居城と伝わり毛利氏によってやがては滅ぼされたと聞く。

城跡へは中国自動車道「千代田」ICが最寄の乗降口、ICからは県道5号よりルート図の如く壬生神社を目指せば分かり易く到達出来、社殿の山手側にある集合墓地奥からは遊歩道が山上主郭までは通じているので迷わず辿り着ける。

現状(四月)城跡は「つつじ祭り」の最中でもあり、山上主郭を除けば郭跡全てがつつじの花や葉で満遍なく覆われており郭形状は掴み難く全体像も拝める状態にはない。もちろん城跡全体が公園化されているので本来の郭跡ですらどれだけ原形を留めているのかは想像も付かない状態にある。主要な郭転用地には休憩用デッキが備わっている事からも、当然造成整地の上で改変があったものと見受けられ、現状から当時の状態に思いを馳せる事は非常に困難でもある。山上郭群は小規模でもあり、現状見る限りにおいて明確に判断出来る遺構は郭跡だけだと言ってよいかもしれない、堀切らしい箇所、あるいはの丸においての土塁などは当時のものかも分からないが、素人目の遺構判断は非常に難しいのが現実でもある。

公園化されているので山上からの眺望も利き、当時の風情を味わう程度の史跡見学として赴くならば充分納得の行く見学は出来るものと思われるが、遺構の醍醐味あるいは縄張り妙味などを求める山城ファンに於いては、決して期待をもって臨まない事が肝心と思わる城跡の様に感じられた。

2_3a

2_3 現地案内板より

3mi2 城跡概念図

8_naka 山上中郭

15_3amru_gedan 三の丸下段

17_2maru 二の丸内

17_2maru_1 多聞寺

20_shukaku_2 20_shukaku 山上主郭

2009年5月28日 (木)

周防千葉城跡(山口県熊毛郡)

城跡は山口県熊毛郡上関町室津にあって、当時は竃戸の関(カマドノセキ)と呼ばれた上関(カミノセキ)周辺の海上を監視する宇賀島氏(大内氏傘下の水軍)の城跡あるいは砦跡と伝わっている。この宇賀島氏の本拠は周防大島の北側安芸灘に浮かぶ浮島と伝わっており、大内氏が滅んだ後は当然村上水軍に吸収されたのか、あるいは毛利直属の水軍として動いていたのか、どちらかである様には思われる(推察)。

城跡へは既にリポート掲載済でもある村上水軍の居城、上関城跡を起点にすれば分かり易いが、県道23号で上関に向いて南下した場合、上関大橋は渡らず手前から県道72号より柳井市に向いて海に沿って車は東へ走らせればよい。目指す場所は千葉岬に建立された千葉稲荷神社でありその一帯(山上)が城跡と伝わっている。

現状(一月)城跡は山上に建立された社殿に到達するまでの石段付近に、段状の削平地が随分古びた石垣跡を伴って連なってはいるが、これが当時の遺構かどうかは素人目には到底判断は出来ない。城跡の成立した時代も相当遡ると思われるので当然良い状態のまま残存しているとは思われないが、純粋に当時の遺構と思って見学した方が想像も膨らんで楽しめるようには感じられるが、、、社殿背後には土足禁止の祠に上る石段が設置されているが、本来ここが櫓台と呼べる物見機能を持った土塁であったのかも分からないが、当然推察の域は出ないものでもある。北斜面には石垣跡も見受けられたが築かれた時代背景も見当が付かないので自ずと見学者の判断に委ねられる。

概念図に示したまでが現状確認する事が出来た遺構かもしれない?箇所であるが、岬の東西斜面側あるいは海岸線までも、冬季に拘らず凄まじい雑木藪と化しており踏破する事は不可能な状態となっている。

1 登城ルート

2a 上関案内マップ

3 城跡概念図

4_nisi_yori 西より城跡遠望

9 10 千葉稲荷神社

16_dankaku_isi_2 17_dankaku_isi 古びた石積み

21_yasiro_sita_sokumen_isi 北斜面の石垣跡

23_1

この現況リポートは瀬戸内水軍に興味を持たれている方にとっては多少でも役立つのかもしれないが、現状見る限りでは現地で城跡の雰囲気を味わうのが精一杯とも思え、上関城訪問ついでに軽い気持ちで赴くのならさほど移動距離もないので楽しめるかもしれない。

2009年5月27日 (水)

吉井城跡(山口県大島郡)

城跡は山口県大島郡周防大島町西屋代/吉井にあって、当時水軍としては最強を誇った村上水軍(三島ある能島、来島、因島のいずれか)の城跡と伝わり吉井氏の居城と聞いた。本来大島の西側半分を来島水軍、東側半分を能島水軍と分割統治としていたらしく、西側に位置するこの城跡は来島水軍に属す城跡と言ってよいのかも知れないが、当時は三島水軍を巡る周りの情勢もそのつど変化(一時は敵対関係)しており現状詳細は不明。

付近に居を構えられる町史に詳しい方でも詳細を掴めないほど無名に近い城跡なので、現地で聞き込んだ以上の情報はこれから先も得られないかも分からないが、石垣が郭壁(畑地)に残存している事と当時の郭跡が畑地あるいは蜜柑畑として転用されて現在にまで至っているが、現状はほとんど藪に近い状態との情報だけは事前に得る事が出来た。尚、未訪に終わったが西屋代には龍心寺と言う曹洞宗の寺院があり、ここは能島水軍大将村上武吉の嫡流にあたる元吉から元武あるいはその子孫の菩提寺になっており、一族の墓所になっているとも聞いた。

城跡へは山陽自動車道「玖珂」ICが最寄の乗降口、ここから国道437号に進入し道路に任せて進行すれば、既にリポート掲載済でもある塩宇城跡へ向う時に利用した大島大橋は自ずと渡れる計算にはなる。橋を渡れば県道4号へ直ぐに右折、後はルート図の如く西屋代集落にある小字吉井、あるいは吉兼集落を目指して屋代川沿いに進行すればよい。現地に入れば川沿いにある学校、JA、郵便局が目印となり、ルート図に示す赤線ルートのいずれかで城跡までは到達出来る筈である。この地より川を隔てた東側丘陵上には吉兼城跡もあるが、一帯は集合墓地、畑地あるいは藪地と化しており城跡と明確に判別出来る遺構は見る限り現存していないように見受けられた。

1route_2 登城ルート

5_2 進入口

Oosima_4 郭切岸

Oosima_15 Oosima_17当時の遺構と断定は出来ないが石垣跡

Oosima_12 堀切より北側の郭跡地

Oosima_13 郭跡

Oosima_9 堀切道

Yosikanejyou 吉兼城跡遠望

現状(四月)城跡は事前に聞き込んだ通り、小さな蜜柑畑の一部を除いてはほぼ密生する矢竹雑木藪と化しており、堀切(南北を断つ唯一の堀切道)、段郭状になった郭跡及びその切岸はある程度確認出来ても郭内に踏み入る事はほとんど不可能な状態でもあり、縄張りを把握する事はほぼ不可能、これが当時の遺構と断定出来そうなものは郭切岸、郭跡の転用と見受けられた畑地あるいは堀切道、近世の石垣跡も混在している様には窺われたが、一番古そうに感じられた二段の石垣跡(この石垣が当時のものと断定できる確証は無い)などで、これらが城跡を物語る唯一の遺構とも見受けられた。遺構残存度も低く状態も良いとは言えない城跡ではあるが、個人的には訪問後に村上水軍に関して興味を持つ事にも繋がり、更に知識を吸収し直すきっかけともなったので充分納得の出来る訪城となったのは確かである。

2009年5月23日 (土)

日下津城跡(広島県安芸高田市)

城跡は広島県安芸高田市向原町坂にあって、古くは毛利一族より分かれた側が坂氏を名乗ってこの地に居城、以来毛利氏一族をささえ重きを成したと伝わり、元就の代に及んでは一時期坂広秋が反旗を翻したが、その息子より再び元就に仕え代々重きを成したと歴史は伝えている。

2h 現地城跡説明版より

1route 登城ルート

6 登山口

城跡へは田屋城跡を起点にすれば説明し易く分かり易いが、田屋城跡の真東2km内に位置する山上が城跡にあたり、県道37号から向えば「支所入口」交差点より県道29号へ針路変更、後はルート図の如く右折して三篠川を渡れば道路沿いの案内板までは到達出来る。案内板からは墓地経由の登山道(2ルートあり)が山上まで繋がっているので迷わず辿り着ける筈である。

現状(四月)城跡は史跡としてある程度整備されているので比較的木々も少なく、縄張りにおける遺構標識も設置されている事から初めて訪れる見学者でも遺構が目に留まり易く、非常に見学し易く見て回りやすい状態にはある。ただ一部の郭内には伐採された木々がそのまま放置されていたり、雑木も蔓延っているので視認し辛く歩き難い箇所も少なからずある。現状遺構として目に留まるものは郭跡を除けば郭切岸、主郭周りの堀切(縦堀を含む)群、井戸跡、南出郭の土塁、西物見の段下の分厚い土塁と言ったところで、郭高低差がある事からも山城の醍醐味は充分味わえる、尾根を断つ薬研堀の様な見応えのある遺構に巡りあう事は出来なかった。登山道も設置されており比較的残存状態も良い事から、程近い距離にある田屋城跡とセットで同日訪問となれば充分お薦め出来る山城と言えるのではないだろうか。凄いと声を発するほどの遺構は存在しないが、広島県内に於いては山城を史跡として評価する意識レベルが非常に高いものと見受けられ、近畿圏内ではおよそ見向きもされそうにない田屋城跡やこの城跡クラスの山城でもある程度整備が成されており、登山道あるいは遺構標識まで設置されているのにはただ驚くばかりである。山城ファンにとっても一般見学者にとっても、登山道が設置されているといった事実だけで訪れてみたい気分にもさせられ、状態の良い当時の遺構を見学すれば自ずと史跡保護の意識も高まり、後世幾世代にも渡って史跡を遺して行けるのではないかと個人的には思うのである。

3hige 城跡概念図

16_shukaku 主郭内

21_kita_obi_2 主郭北側帯郭

22_higasi_idoato 東側井戸跡と縦堀見所

30_monomi_demaru_heki 西物見の段切岸

31_monomi_demaru_1 物見の段

33_dorui_kaku_1 物見の段下の土塁見所

2009年5月22日 (金)

田屋城跡(広島県安芸高田市)

城跡は広島県安芸高田市向原町田屋にあって、県道37号より「カタクリの里」を目指し進行、ルート図の如く現地に入れば県道沿いからは里は直ぐ目に留まる、登山口西側にあるカタクリ茶屋(廃業?)まで向えば付近に車の駐車スペースはあるので、現地案内板横から登山道で(左手側方向)城跡を目指す事になる。

登山道に任せて上れば主郭背後の大堀切までは難なく辿り着ける筈であるが、個人的には何時もの様に登山道を避けて一旦城跡南側山上の物見と思われる削平地まで上り、そこから堀切まで下ったので実際の所要時間までは詳しく分からない。登山道中においては麓民家側背後に古びた見応えのある石垣跡が目に留まる段状の敷地(削平地)があったが、当時の遺構と断定は出来ないものの屋敷跡の様にも見受けられたので一応参考までに、、、

現状(四月)城跡は親切に遺構案内標識も設置されており非常に遺構見学がし易く、状態としては自然任せの風化中にあるが見学に差障りのある状態にまでは至っておらず、山城としてみれば比較的良い残存状態の部類に入るとは思われる。ほぼ四郭で形成されたこの城跡には小規模な山上主郭には似つかわしくない、分厚く高さのある立派な櫓台土塁が遺されており、主郭内に部分的に残存する虎口を形成するに使用された石垣、あるいは櫓台背後の大堀切、三郭の石組み井戸と並んで城跡最大の見所となっている。非常に小規模な山城ではあるが凝縮された遺構の数々は見応えもあり、大堀切などは薬研堀の如く高低差を伴うものでもあり、山城としての醍醐味も充分味わえる様に見受けられた。コンパクトにまとまった形態の山城なので縄張り妙味などは求められないが、山上に凝縮された残存度の高い遺構群は一見の価値のあるもの目には映った。見学し易さ(遺構標識がある)からしても充分お薦め出来る城跡の一つと言えよう。

2t 城跡説明版より

3a 城跡概念図

4tozanguti_e_2 登山口

16_tatebori_e_1 大堀切(縦堀)見所

19 主郭

18_shukaku_1 主郭櫓台土塁見所

23_2kaku_koguti 虎口見所

26_2kaku_isi_1 石垣跡見所

32_ido 石組み井戸跡見所

34_4kaku 四郭

35_dorui_1 四郭土塁

2009年5月17日 (日)

鈴尾城跡(広島県安芸高田市)

城跡は安芸高田市吉田町福原にあって別名福原城でもあり、代々福原氏の居城と伝わり毛利氏とは古来、祖(大江)を同じくする。福原居館跡に設置された案内板の説明では元就誕生伝説地とある様に、元就の母親の出生地でもある事から元就の生涯を知る上では避けて通れない城跡とは思われる。

城跡へは中国自動車道「千代田」あるいは「三次」ICが最寄の乗降口、どちらから向っても国道54号より現地に向かう事になるが、先にリポート掲載済でもある桂城跡を起点にすれば分かり易い。もちろん二城同日訪問とした前提で記事は書いているが、桂城側から見ればルート図の如く川を挟んで東側1km程度の近距離に位置しており、位置さえ確認出来れば麓の登山口までは難なく辿り着ける筈である。登山口からは遊歩道で福原居館跡を経由して上れば10分もあれば山上本郭までは到達出来る。

現状(四月)城跡は山上本郭のみであれば郭内に木々も無いので小規模な郭群の見通しは利くが、他の段郭群は一部矢竹密生地あるいは雑木も蔓延っているので全ての郭群が状態が良い訳ではない。しかし山城が小規模な事も相俟って縄張りを把握する事は容易でもあり、見学も非常に短時間で終える事は出来る。逆に言えばそれだけ見所も少なく山城ファンからすれば少し物足りないと言う事に繋がるのだが、、 見所は当時の石組み井戸跡(これは状態も良く素晴らしい!)あるいは案内板に記されてあった石垣跡は挙げられるが、この石垣跡は現状を見る限りでは自然岩を郭壁として取り込んだものの様にしか見受けられなかったが、掘り起こせば本来はそれなりの石積みが成されていたのかも知れない。

1route 登城ルート

2_3 現地説明板より

6 登山口

3suzu 城跡概念図

9_yakata_3 居館跡

11_kitakaku_hasi 北郭端

14_ino_dan_2 井戸跡見所

21 山上郭西側

22 本郭群

23 石垣跡

25_yaguradai 櫓台最高所

30_higasikaku_nai 主郭東切岸

このリポートは山城ファンからみた立場で掲載しているが、本来史跡として見学する分には状態も良い事から当時に思いを馳せる事も容易であり、元就生誕地を訪ねる紀行とすれば充分過ぎるほど戦国ロマンに浸る事も出来るので、当然お薦め出来る城跡とは言える。個人的には先に寄った桂城の余韻が冷めず、こちらが相当霞んで見えたのだが二城同日訪問とすれば山城ファンにおいても是非お薦めとも言える城跡であることは確かである。尚、直ぐ近くには福原氏墓所もあるので興味のある方は覗いても無駄にはならないだろう。

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