京都(亀岡)の山城

2014年6月28日 (土)

法貴館跡(京都府亀岡市)

城跡は京都府亀岡市曽我部町法貴にあって、数年前既にリポート掲載を終えた法貴山城から見れば、その裾野を広げた北東麓にある。城史に関しては波々伯部氏の居城を伝えるが、明智光秀による丹波攻略以前は酒井氏の居城とも伝わっているので、この地を統治していた城主の時代背景までは分からないのが現状と言えようか、、、

城跡を訪れるには、国道423号線に進入する事が先決となるが、「慈雲禅寺」を目印として目指せば良いだろう。車は寺院駐車場に預ける事になるが、そこからは概念図に示した直登ルートを辿って頂ければ、北端にある空堀端(現状溜め池)までは直ぐに辿り着ける筈である。

1route_5登城ルート

3z城跡概念図

城跡の形態は居館跡に相応しく、主郭と察せられる広大な規模の郭背後には土塁、更にその背後には大空堀が施されたものである。この空堀は西側から北側の溜池まで、土塁に沿って縦堀となって落ち込んでいるが、かつては南側にも施されていたのかも知れない(消失した可能性あり)、、、現状主郭は地表風化が激しく、土塁からの土砂流出のせいもあってか、なだらかな傾斜面と化しており、切岸跡は主郭東側に重なる規模の大きい郭跡で充分拝めるが、民間における近世の屋敷跡かも知れないので、これは見学者の想像に委ねられる部分となろう、、、

Photo東郭切岸

Photo_2主郭切岸見所

4主郭の現状

Photo_3土塁見所

15_2_2

 

大空堀見所

2北溜池

現状(二月訪問)城跡は植林地帯(主郭)と竹林地(東郭側)が共存した状況にあり、間伐されて放置された木々や、蔓延る低草木で郭内をくまなく歩き回る事は困難な状況にあり、更に地表風化も追い討ちをかけた状態となっている。アバウトに描いた概念図が探索踏破した範囲、あるいは眼に留まった遺構群と思って頂ければよいが、館跡の名が語る様に、これ以上の残存遺構は望めないのかも知れない、、、城跡を個人的に評価するのであれば、状態は悪いが見応えのある空堀と土塁が拝める事を理由にすれば、それに圧倒的お手軽感を加味した上で、何とか期待に応えてくれる城跡と言ったことになろうか、、

2012年10月12日 (金)

千ヶ畑城跡(京都府亀岡市)

城跡は京都府亀岡市畑野町千ヶ畑にあって、ほぼ独立した小山の最高所に位置しており、現在造成整地された主郭と見受けられる敷地の一角には忠魂碑が建っている。城史に関しての詳細は不明だが、大阪の能勢側から亀岡へ抜ける街道が集落を通過していたものとすれば、街道監視用の見張り台といったところかも、、、、

城跡を訪れるには、54号線あるいは731号線に進入する事が先決となるが、731号線沿いで目に留まる「城山ゲートボール場」の案内看板が目印となる。その周辺で充分駐車スペースは確保出来るが、道路沿いからかつての主郭跡地までは、石段を上り切れば直ぐにでも到達可能となっている。

1route_1 登城ルート

Hirono 進入口

城跡の形態はアバウトに描いた概念図が示すように、忠魂碑の建つ場所が主郭跡、更に南斜面側のゲートボール場を経て、小規模な愛宕神社敷地までが南出郭としての縄張りと察せられるが、判別確認し易い空堀や土塁といったものは、現状全くお目にかかる事は出来ない。もちろん見張り台程度の機能を備えた砦跡に数多くの残存遺構を期待する方がおかしいのだが、、、更に主郭と愛宕神社敷地間にあるゲートボール場は、相当地形改変跡の窺われるものであり、当時の縄張りは自ずと見学者の判断に委ねられよう。

Hirono_2 Hirono_3 主郭跡地

Hirono_6 推察出郭跡、愛宕神社

城跡を個人的に評価すれば、当時の主郭における祖形は失われてはいないと思われるが、造成整地されたこの佇まいからは、城跡としての風情は全く感じられず、山城巡りの移動中に少し立ち寄る程度の城跡といった事になろうか。

2011年9月29日 (木)

江島里城跡/郷ノ口城跡(京都府亀岡市)

この二城はどちらも亀岡市内にあって、そのどちらも砦の域は出ず、安普請で以って築かれたものと見受けられた。江島里城は千歳町北山、郷ノ口城は旭町三俣にあって、この二城の規模はさておき、山城として特別見応えのある遺構が存在する訳でもなく、縄張り妙味がある訳でもなく、個人的には特に現況をリポートするまでには及ばない城跡の様に感じられたのだが、地理的に二城が近い事と、限りなく無名に近い事で、その実態も把握出来ず、所在地が掴めなかった方だけの為に、同時リポート掲載に及んだものと思って頂いても良いだろう。

まず江島里城を訪れるには、亀岡にあっては一番有名な神社でもある、「出雲大神宮」を目として目指せば分かり易い、この神社の背後には御影山城もあるので、この山城を既に訪れた方は、ここより1km程度南下(県道25号)した付近にある、城跡の所在位置は自ずと見当も付き易いだろう。入山口はルート図に示した様に、駐在所向かい側の道路からで、城跡の位置する中村峠までは登山道が繋がっているので、迷わず辿り着けるとは思われる(約20分)。

1_1 登城ルート

1_2 城跡概念図

城跡の大雑把な形態は、自身が踏破した範囲を示した、概念図にほぼ近いと思って頂いても良いとは思われるが、先に触れた様に見応えのある遺構は皆無、更に地表風化も藪化も相当進行しており、最高所に位置する櫓台規模の土塁郭が切岸跡も窺え、一番城跡遺構として判別し易いものと思って頂いても良いかも知れない、、、中村峠の切り通しは、当時堀切としての機能が備わっていたのかも分からないが、これは見学者の想像に委ねられるだろう。登山道中の中腹には物見郭とも見受けられる削平地が目に留まったが、僅かに空堀地形(画像に注目)は見て取れた。この山城に関しては、登山道で迷わず訪問出来る事からも、山登りが好きな山城ファンの方だけには、何とかお薦め出来るかも、、、、

15_one_karabori_tikei_1 西尾根削平地と空堀地形

20_nakamura_touge_2 中村峠の切り通し

22_yagura 奥が本郭部

23_yagura_heki 櫓台?切岸

郷ノ口城は、出雲大神宮から3km程度北上した丘陵先端部にあり、ルート図に示した国道477号線沿いの取り付き易い場所から上り、比高約100mを直登すれば、迷わず山上郭までは到達出来るが、とにかく激斜面を登る事になるので、事前に登山する覚悟は絶対に必要となる。山上全てを占める広大な本郭は、ほぼ削平されただけに終わったものであり、内部に段差程度の郭境は見止められるが、明確な切岸は全く眼には留まらなかった。状態も自然に任せたまま藪化は相当進行しており、木々の隙間を縫っての移動は余儀なくされる状況にあり、山上の平坦地形を見学するだけの為に上った、としか言いようがない訪城となってしまった。よって「敢えて見学するまでには及ばない城跡」と言ったところが本音になろうか、、、

Gounokutijyou 郷ノ口城登城ルート

Gounokutijyou_2 参考直登ルート

Gounokutijyou_3 Gounokutijyou_5 山上本郭(四月に撮影したもの)

2011年9月23日 (金)

西松尾山城跡(京都府亀岡市)

城跡は京都府亀岡市曽我部町法貴上殿垣内にあって、既にリポート掲載を終えた法貴山城から見れば南西側の丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、この広大な郭跡を窺う限りでは、法貴山城を山上詰城とした場合の居館跡、あるいは陣城、あるいは酒井氏が築城した法貴山城を、攻略後に明智光秀が改修したものか?などと、色々な想像が掻き立てられる城跡の一つでもある。個人的には明智光秀の生き様に惹かれて、丹波を中心とした近畿圏内における光秀の係わった城跡は、この城跡も含めてほぼ訪れた計算になったが、出生地を始めとして、信長に仕えるまでは謎多き武将でもある。天下分け目の戦い」における敗軍の将ともなれば、闇に葬られた部分もかなり多そうに思われる事から、今後光秀に関しては、今明らかにされている情報以上のものは、とても期待は出来ないだろう、、、

3 登城ルート及び城跡概念図

6 進入経路

城跡を訪れるには、ルート図に示した法貴山城を起点とすれば、一目瞭然の位置にあるので、訪問ルートの説明は今回割愛させて頂くが、どちらにしても国道423号線に進入する事が先決となる。付近から城跡までの登城ルートは二通り考えられるが、城跡の位置を確認しながら、一番最短で不安なく上れるルートは、ルート図中に示した資材置き場を通過したルート(画像に注目)、と思って頂ければ良いだろう。ちなみに10分内で到達可能

城跡の形態は、先に触れた様に陣城とも窺われそうな様相を呈しており、縄張り妙味にはまるで期待出来ない、大味な縄張りプランを持った城跡と言えば分かり易いとは思われる。踏破した範囲内で目に留まった遺構は、南北数百mにも及ぶ、ほぼフラットな広大な郭跡(本郭か?)、本郭部東側における高い切岸空堀地形、大型の土塁跡空堀道(後世の山道かも?)、明らかに新しい石積と古い石積が混在する石垣跡など、限られたものになってくるが、郭跡側壁(西側虎口に相当する箇所)の一部に、新しい石垣跡が見止められた事もあって、後世においては寺院転用地となっていた可能性は高く、見たままを当時の郭跡(縄張り)とするには、少々無理が生じるものの様には感じられた。本郭北側で窺われた空堀土塁地形などは、虎口跡に見えなくもなく、当時の遺構として良いのかも知れないが、、、正否の判定は非常に難しい。

10_higasi_karabori_yamamiti_1 空堀道(後世における山道かも)

12_honkaku 広大な本郭

13_sokuheki 本郭東切岸

16_karabori 本郭部北、大土塁と空堀地形

18_kaku 北痩せ尾根上の郭跡

26_hokutan 城跡北端

27_nisigawa_isi 西側に構築された謎の石垣

現状(九月)城跡は、城域となる南端部分は相当削り取られており、これだけの造成地形改変が窺われる以上、当時の縄張りはほぼ見学者の想像に委ねられるだろう。結果的に見応えの感じられる遺構は皆無に近いと言う事にはなるが、以前よりこの城跡に興味を持たれていた城跡ファンの方、あるいは自分と同様に、是非光秀の足跡を辿ってみたい方には、当然お薦め出来るとは思われる。ただ訪れる際には、決して残存遺構に期待しない事が肝心となるが、、、

2011年9月 3日 (土)

金岐城跡(京都府亀岡市)

城跡は京都府亀岡市大井町北金岐にあって、既にリポート掲載を終えた太田城から見れば、真北側の標高約300m地点に築かれたものであり、標高431mの行者山から南東へ派生した山上尾根にある。城史に関しての詳細は不明であるが、地表風化の進行した状態や、城跡の古い形態から察すれば、築城年代は相当遡るものとも見受けられた。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、京都縦貫自動車道の「大井」ICを目印として目指せば、ルート図を見ればお分かり頂ける様に、城跡の位置は確認し易いだろう。入山口となるのは「常観寺」で、駐車場からの登城ルートは概念図には示した。ここから最奥にある砂防ダムまでは林道が繋がっており、ダムまで辿り着いた後は、右手側の尾根に取り付いて上れば、便宜上の東出郭を通過して、北郭周辺には迷わず辿り着けるとは思われる。ちなみに寺院から北郭までの所要時間は25分

1_1 登城ルート

10 登城進入口

1_2 城跡概念図

この山城は先に触れた様に山城の初期形態を成すものであり、意外に規模は大きく(砦規模を予想していた)、南北に渡る郭総全長は二百mには達しそうに感じられた。大雑把な形態は概念図に示したが、本郭部に付随する帯郭や小規模な段郭群、あるいは移動尾根にあたる鞍部削平地を挟んで、山上郭群はほぼ二ブロックに別れており、郭間にも斜面にも空堀の類は一切施されてはいない。数少ない遺構の中にあって、自身が当時の遺構として判別確認出来たものは、城域北端に施された土橋状の上り虎口、郭跡の随所で窺われる明瞭な切岸跡(特に北郭と本郭群)自然岩を取り込んだものと窺われる虎口地形僅かに窺われる土塁跡などで、自ずと目に留まる遺構は限られたものとなっている。堆積物による地表風化も、表土の流出も相当進行している事から、郭跡とするには曖昧な地形も数多く、当時の縄張りを見極めるのは至難の技でもあるが、取り合えず山城としての風情は充分味わえるといった処か、、、、

16_heki 北郭の明瞭な切岸見所

20_sizen_koguti_1 北郭における虎口地形見所

22_honkaku_heki 主郭の虎口地形と切岸

24_honkaku 主郭における僅かな土塁跡見所

26_kirikisi 27_obi 主郭切岸と帯郭

30_minami_dankaku_2 南段郭

40_kita_dobasi_tikei 北端の上り土橋見所

現状(八月)風化と並んで藪化も当然進行中にはあるが、行者山に向いて山道(一部踏み跡程度)程度のものはあり、その山道も郭内を通過しているので、遺構見学に差し支えるまでには至っていない。南段郭側へ向かうほど雑木は蔓延っており、郭移動も中々困難を強いられる状況となっているが、郭跡を外見から確認出来る分だけまだましとは思えた。城跡を個人的に評価すれば、古い形態の山城ではあるが、山上は意外に雑木密生までには至っておらず、訪れるに際して過大な期待さえ持たなければ、実態報告のほとんどされていない山城と見受けられた事から、興味を持たれた方が覗く分には、充分訪れる値打ちも生まれて来るのではないだろうか、、、

2011年8月20日 (土)

下条城跡(京都府亀岡市)

この城跡に関しては、能勢杉原城でのリポート記事中で触れた、犬甘野城の真南側の丘陵上に位置する広い削平地が、「明智の築いた砦跡伝承地である」との情報を流して頂いた地元の方(城山所有者)から、この砦伝承地の対岸にある低山も、「私の考えでは間違いなく砦がある筈だ、一度覗いて見てはどうか?」といった勧めがあった事、かつての古道は明智砦跡伝承地より川を隔てた東側山麓にあったという事実、その付近は向条(向城の当て字が推察される)の字名を持つ地であった事、あるいは自身の推察も含めて、山城(砦)としての築城環境は充分満たされていた事も重なり、訪問したものの、結果的には城跡としての確信が持てぬまま、数日が経過してしまった経緯がある。しかし、つい最近亀岡にお住まいの方からの情報で、この城跡は「下条城」と識別呼称の付いた城跡である事が分かり、しかも近年調査された物件と聞くに及んだ事から、急遽リポート掲載に及ぶ運びとなったが、現状文献資料の類にはほとんど顔を出さない城跡とも見受けられたので、城史に関しての詳細は、これから先も余り期待は出来ないものとは思われる。

1route_1 登城ルート

7 入山口

3sim1 城跡概念図

城跡は亀岡市西別院町柚原(ユノハラ)にあって、訪れるには、犬甘野城、杉原城を起点とすれば分かり易い場所にあるので、敢えて訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、ルート図には示した「下ノ谷公民館」向い側にある入山口から、配水施設まで繋がる山道(画像に注目)に進入して、そのまま尾根伝いに上って行けば、場所によって木々の隙間を縫っての登城は余儀なくされるが、迷わず山上郭群には辿り着ける筈である(15分程度)。

城跡の大雑把な形態、及び自身が判別確認した遺構は概念図には示したが、郭跡を除けば、余り高低差のない切岸、僅かに土塁の痕跡、溝程度の空堀の痕跡虎口地形、土橋状の鞍部といった所であり、どれも明瞭なものではないので、遺構としての判別は困難を極める状況となっている。結果的に見応えのある遺構は皆無に近いと思って頂いても良いかも知れない、、、 現状山上郭群における地表風化は激しく、落ち葉や木の枝も含めた堆積物は多いが、この時期(七月)でも郭跡には下草は少なく、多くの木々も蔓延ってはおらず、比較的見通しが利く事も重なって、郭跡に佇めば臨場感だけは充分味わえるだろう。規模は全長百mは軽く超えるものであり、砦の域は充分はみ出たものであり、佇まいから察すれば、当時居館があったとしても不思議ではないものと思われるが、これを機に訪れる方には、「館城を彷彿させる、非常に大味な縄張りプランの城跡」と思って頂ければ想像も付き易いだろう。

16_shukaku 本郭の現状

15_dorui_ato 僅かに土塁の痕跡

18_shukaku_heki 主郭切岸

21_kita_sakuheiti 北側削平地

22_dobasi_one 北東土橋地形

24_higasi_sanjyou_kaku 北東山上郭

城跡を個人的に評価すれば、今回のリポートによって城跡に興味を持たれた方、あるいは京丹波地区における山城巡りを主流にしておられる方が、訪城の対象となる城跡の様にも感じられるが、先に触れた杉原城(車で移動2~3分の距離)、犬甘野城、更に伝承明智砦跡も含めた山城巡りとするのであれば、何とかお薦め出来るといった事になろうか、、、

2010年7月27日 (火)

宮川城跡/養源寺城跡(京都府亀岡市)

この宮川城跡猪倉養源寺城跡の二城は同じ亀岡市宮前町宮川にあって、国道372号及び本梅川を挟んで東西に対時しており、前者は北西背後に聳える神尾山城の砦あるいは出城と伝わっているが、後者に関しては真南側丘陵上には井内氏の居城、猪倉城(井内城)がある事からも、当時においては猪倉城との関連、あるいは丹波五大山城の一つでもある神尾山城との関連性も窺われそうには思えたが、詳細は不明である。ただ神尾山城の城主は柳本氏から始まり、数度の領主交代劇が窺われる模様であるが、最終的には丹波を平定した明智光秀のものとなっているので、この二城は自ずと平定される前まで機能していただけの山城とも思えるのである(推察)。

城跡へはスタート地点によって様々なルートが考えられるのでここでは割愛させて頂くが、取り合えず国道372号へ進入する事が先決となる。どちらもルート図で確認して頂ければ分かり易いとは思われるが、まず宮川城跡の登山進入口は画像に示した神尾山金輪寺の案内板のある箇所で、ここから山道に進入して、そのまま山上へ向いてだらだら続く斜面を上り切れば(途中から踏み跡程度)10分程度で山上主郭には到達可能である。養源寺城跡の方は養玄寺を目指せば分かり易いが、寺院左手にある墓地より尾根に向いて直登(他からの進入口は厳重なフェンスによって困難)すれば、5分程度で山上主郭には到達出来るはずである。

1_1 登城ルート

1 宮川城付近詳細図

7 宮川城進入口

20_kita_karahori 僅かに空堀跡

22_shukaku 主郭内の現状

23_shukaku_heki 主郭切岸

現状(三月)、両城共に郭内は長年の風化によって自然任せの荒れ放題と化しており、案外見通しは利く状況にはあるが、地形の変化から遺構を判別するのは中々難しい状態にある。どちらも安普請で築かれた山城と見受けられるが、宮川城は風化が激しいものの、郭周りで切岸跡北郭では僅かに空堀跡(画像に注目)は窺う事が出来た。規模も尾根上の削平地を取り込んだとすれば比較的大きいもので、砦の域は充分出ている様には感じられた。尚、未踏に終わったが、麓には居館跡(場所の特定は出来なかった)があるらしいので参考までに、、、。猪倉養源寺城の方は全域が自然地形をそのまま削平しただけに終わっており、堀切も切岸跡も窺う事が出来ず、自ずと郭の境界が判別出来ないので、どこまでが縄張りであるのかは非常に見当が付き難い状態でもある。しかし規模(城域)は意外に大きいものである。

1_2 猪倉養源寺城2

個人的にこの二城に関しての評価は難しいが、遺構の見応えあるいは縄張り妙味などを期待して訪れるならば、落胆する事は必至の様にも思われた。この山城の所在地あるいは現状が気になっていた方にとっては、多少でも値打ちのあるリポートになったものと思いたいが、数百年の時を経て現在に至る山城遺構は、見応えには欠けても史跡としての価値が下がるものではないので、興味を持たれた方にとっては、宮川地区における山城巡りの一環としての訪問ならば、何とか面目は保たれそうには感じられるのである。

2010年5月22日 (土)

万願寺城跡(京都府亀岡市)

城跡は亀岡市西別院町万願寺岩ヶ谷にあって、「別院中学校」の真西側にある「積善寺」直ぐ西側の丘陵上先端に位置している。城史に関しての情報は現状皆無に近く、詳細は不明でもあるが、この山城は後述する様に非常に小規模なもので、村の砦の域は出ず、個人的にはリポート掲載するか否かで多少迷ったほどの城跡でもある。事前に得た情報では、丘陵先端部が城跡と聞かされていたので、まず間違いは無いものとは思われるが、遠く北山上には城域限界としての山上郭があったとしても不思議はないだろう(推察)。個人的にはかつて豊岡市丹東町にある坂津城、河本城をリポートした事があったが、この山城も規模が小さい(堀切及び郭切岸は明確に存在)事から、出城程度の城跡を覗いただけで、本来の山上本郭群を見逃していた可能性もある事から、現在でも追跡リーサーチはしているものの、未だ確認までには至ってはいないのが現状でもある。

1_1 登城ルート

1_2 南より遠望

7 登城口となる積善寺

訪問結果としては、尾根先端部に30mにも満たない削平地が存在する物見郭、あるいは狼煙台程度の規模であり、その北背後には明確に窺われる、尾根を断つ土橋を付随した片堀切が備わる程度で、自ずと縄張り妙味はなく、見応えもほとんど感じられない城跡ではある。ただ今まで個人的に頂戴したメールの中では、京阪神側から亀岡周辺までは、山城巡りとして足を延ばす方が多く見受けられた事、あるいは京都市内及び阪神側からも比較的訪ねやすい位置にある事から、とりあえず亀岡市内にある山城のリポートは必要だとも思えたので、今回のリポート掲載と相成った訳ではある。今回は亀岡市内に現存する山城に興味を持たれていた方、あるいは京阪神在住で、今までこの山城の所在地を掴めなかった方だけの為に、このリポートが少しでも役に立ったのであれば良しとしたい。

13horikiri 13horikiri_2 土橋付き片堀切見所

18_sanjyou_2kaku 20_shukaku 山上郭の現状

城跡を訪れるには、スタート地点によっては色んなルートが考えられるので、ここでは割愛させて頂くが、池田から亀岡まで繋がる摂丹街道とも呼ばれる、国道423号を利用して向えば「関西カントリークラブ」の数百m南の信号より、一般道733号へ針路変更するルートが一番分かり易いとは思われる。目印とするのは別院中学校で、この付近まで到達すればルート図からも寺院の位置は確認しやすいとは思われる。寺院(無住か?)には駐車場もあるので車はそこに預け、寺院北背後の谷状地形を山道に沿って上ればよい。少し上れば適当な箇所から左手斜面に取り付いて藪漕ぎ(数m)直登すれば、5分とかからず堀切付近には到達可能となっている。

2010年2月19日 (金)

川関城跡(京都府亀岡市)

城跡は京都府亀岡市千代川町川関にあって、国道9号沿いにある八木駅からも望める、桂川に向いて突き出した南東側の丘陵先端に位置している。この山城も小規模な城跡が無数に点在している亀岡にあっては、情報は皆無に近いものであり詳細は不明。ただ城跡は八木本城から東側に派生した尾根上末端に位置する事からも、自ずと出城と呼ぶに相応しいものかとは思われるが、推察の域は出ない。

城跡へは国道9号を利用して向えばよいが、ルート図の如く八木駅手前(東側)にある二本の踏み切りの内、東側の踏み切り(城跡側)を渡る事になる、駅側の踏み切りを通過した場合は、恐らく辿り着く事が出来ないと思われたので、迷わず此方の踏切を渡って向かう事をお薦めしたい。踏み切りから城跡は直ぐに望める事もあって、城跡の位置は容易く確認出来るはずであり、車は川を渡った左手側に小さな神社があるので、そこの空き地を借りて停めれば良いものとは思われた。城跡への登山口は概念図と画像を載せたが、社殿(謎の神社)に向う石段より山上を目指せば、5分もあれば難なく辿り着けるはずである。

1_1_2 登城ルート

5 進入口

1_2_2 城跡概念図

現状(一月)城跡は植林地となっている為に見通しが利き、下草も無く見学し易く、非常に見て回りやすい良い状態にある。ほぼ単郭で形成されている城跡と見受けられたが、主郭の規模は非常に大きく、全体の見通しが利くので更に大きいもの(全長60m前後ある)に見えてしまう。ただこの広いフラットな空間は、後世に神社(現在は無い)として造成整地された様な気がしないでもないが、、、これは見たままを凄いと思って楽しめばそれで良いものとは思われる。東側には風化によって切岸は曖昧であるが、数段の段郭は確認出来たが、東下段郭には土塁跡あるいは上り土塁の痕跡も僅かに残っており、色んな想像を掻き立てられて楽しめる要因とはなっている。

9 郭転用地か?

16_koguti_1 16_koguti 枡形虎口見所

18_shukaku_1 主郭内

20_yagura_2 櫓台か見所

23_nisi_sakuheiti 西削平地より土塁側

当時の遺構として目に留まったものは概念図に記したが、西端にある土塁壇を伴った、枡形虎口の様にも窺えた遺構が城跡一番の見所とも思われるが、その虎口郭(虎口としての断言は出来ないが縄張りプランあるいは必然性によるもの)には一部自然岩を削って虎口内壁を形成したと思われる形跡も残っており、技巧を伴った遺構に興味のある方には、目をを楽しませてくれる事は請け合いとも思えた。西側には広大な馬場跡とも見受けられる緩い傾斜面が連続しており、城域は意外に広いものの様にも感じられるのである。

城跡を個人的に評価すれば、この枡形にも見受けられた西虎口は、一見の価値に値するものでもあり、ルート図には記したが、後でリポート掲載予定の内山城と併せた同日訪問とすれば、訪ね易さも加わり、更に満足度の高い城跡巡りとなる様な気はするのである。

2010年2月16日 (火)

保津谷川城跡(京都府亀岡市)

城跡は京都府亀岡市保津町保津山にあって、福性寺の真東にあたる丘陵先端部に位置している。城史に関しての詳細は不明ではあるが、保津城を本城とした場合、規模から考えれば出城あるいは砦とすればよいのかも知れない(推察)。

城跡へはルート図の如く福性寺を目指せばよいが、登山口となるのは寺院敷地駐車場傍にある鳥居の建つ牛松山登山口(画像に注目)で、ここから登山道を利用して上る事になる。10分足らずで右手(次の鳥居の手前付近)に鉄塔が見えてくれば、登山道を外れてそちらに移動すればよい。鉄塔の建つ削平地も、更に北側の登山道が繋がる周辺までも広大な削平地となっているが、明確に城跡遺構と判別可能な地域は鉄塔より南側で、城域は相当広いものと感じられた。

1route

登城ルート

4tozanguti 登山口

14_karahori 14_karahori_3 主郭土塁、空堀見所

17_shukaku_dorui 主郭内より土塁

20_minami_yori_shukaku_gawa 南郭より主郭側

現状城跡は倒木も多く荒れ放題ではあるが、見通しが利く事から見学し易い状態にはある。残存遺構としては切岸跡、空堀及びそれに付随する土塁が直ぐ目に留まったが、ここを主郭とすれば南側に緩い斜面上に削平地が繋がっている主要二郭だけで形成された山城とも見受けられ、他に多くの遺構には期待出来ない山城である様には感じられた。

城跡を個人的に評価すれば、縄張り妙味に欠ける大味な城跡でもあり、この山城単独での見学とすれば、わざわざ覗いて見る価値があるかどうか躊躇してしまうが、保津城あるいは請田城と併せた山城巡りとすれば、三城共に充実した山城巡りとなるのではないだろうか。興味を最初から持たれた方には単独でもお薦めは出来るが、、。

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