京都(亀岡)の山城

2008年12月25日 (木)

家老ヶ岳砦跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市千代川町千原/拝田にあって、拝田集落の北側に聳え、鉄塔の建つ低山の山上部分が城跡。城史に関しての詳細は不明であるが、八木城跡から繋がる尾根を共有する事からも、支城あるいは東側を抑える為の砦とも見受けられる城跡である。

城跡へは国道9号を北上した場合、亀岡市内の「千原」の信号より左折、そのまま京都縦貫道路を潜ればすぐ側道側に右折、後はルート図の如く八幡神社を目指せば良い。実際にはルート図に示す矢印の舗装道路からも直接取り付き地点まで行けると思うが断定は出来ない。神社に到着すればトンネルの上を通過しながら本来の道路に合流するが、その峠道から東に向いて直登する事になる。少し上れば尾根上に到達し、数箇所の削平地を窺いながらも本郭までは数分で辿り着く事が出来る。

現状(12月)城跡は藪化の深刻な状態にあるが、移動は踏み跡を辿ることが出来るので、シンプルな縄張りを把握する事は容易となっている。最高所である砦跡には、それに相応しい小規模な主郭(櫓台)が設けられ、本郭北側壁には切岸処理も窺われ、東斜面を下りればその先端には堀切まで備わっている。山上本郭部は30m程度の小規模な城跡であるが、意外に本郭群以外の両翼は長く、西側は峠に向いて狭い尾根上に数箇所縄張りとしての削平地を見て取る事が出来る。本郭群より南側山麓には字名として「大将軍垣地」八幡神社付近は「長者垣地」となっており、麓には居館跡の痕跡も残っている事からも、推察ではあるが意外に城跡としての規模は大きく、山上砦跡は詰城としての機能を担っていたものかもしれない。

1route_2 登城ルート

6_1 城跡遠望

9_tozanguti_2 取り付き口

3k 城跡概念図

12_kaku 西尾根削平地

16_nisi_fuku_kaku 東副郭

17_shukaku_heki_1 本郭切岸

18_shukaku_yagura 主郭櫓台

19_kita_obi 北帯郭

24_kaku 東郭

2008年12月13日 (土)

大平山城跡(京都府亀岡市)

new この城跡は地元の古老も知らないぐらいのマイナーな山城でもある事から、今回の山城訪問に関しては個人的には当然場所も特定出来ず、またしても存在の確認すら出来ないままの見切り発車の登山となってしまった。もちろんある程度は地形図上からも城跡の確信をもって挑んだのではあるが、その結果としては幸いな事に山城と呼ぶに相応しい、それも大規模な山上郭跡(切岸処理のされた)に辿り着く事が出来たので、山城の現況を含めた鮮度の高い情報をいち早く掲載する事に及んだ。

城跡は亀岡市東本梅町東大谷(赤熊字大平)にあり、同じ町内にある神尾山城跡(既にリポート掲載済)からは北西直線1kmに位置しており、麓の集落から望めば台形上に見える標高約480mの山上にある。ルート図の如く城跡登山口ともなる淨光寺(無住である)を目印として、国道372号から向えば一番分かり易く、そこからは道標は無いが半国山上に向いての登山道が用意されており、道は荒れてはいる(倒木だらけ)が迷うことなく30分程度で城跡虎口には辿り着ける。

現状(12月)城跡は冬季ともあって落葉しており、枯れ木は多いが意外に見通しも良く、山上約400mに渡って埋め尽くされた大規模な郭群(削平地)及び城跡遺構は全て判別確認可能な状態にある。もちろん戦国史にも登場しない様な山城跡なので形態も古く、主郭以外では現状を見る限り切岸処理も施されておらず、縄張りからみても規模の大きい五郭から形成される山城とみて間違いないと思われる。城跡唯一最大の見所と言えるものは主郭(山上最高所)西手前の土橋状の上り土塁で、両サイドは崖状急斜面、更には外見から判断しても(下まで降りるのは無理)縦堀までも繋がっている。主郭を形成する壁面には未だ切岸も窺え、更に相当埋もれてはいるが東郭に挟まれて空堀に見える遺構も確認する事が出来た。

この城跡は形態が古く、余りにも利便性が無視されており、とても戦国期を乗り切った山城の様には見受けられず、前述の神尾山城と同様に光秀の丹波平定の際に運命を共にしたのか、あるいはそれ以前には既に山城としての機能は失われていたのか、どちらかである様には推察される。

1route 登城ルート

5_2 城跡遠望

7 登山口

3oo 城跡概念図

16koguti_1 山上土塁虎口

23_naka_e 三の丸より二の丸虎口

26_umanose_dobasi 26_umanose_dobasi_1 土橋を伴う大堀切見所

30shukaku 主郭

33_higasi_kaku_1 東郭

この山城は神尾山城ともほぼ隣接しており、考えようによっては支城とも見受けられるが、これだけの規模、更に古い形態からも窺われる様に成立年代は神尾山城より溯り、戦国期においては既に廃城、あるいは明智による丹波統一後に廃城になった可能性が相当大きいものと推察される。結果的には山城としての醍醐味を感じる事は出来るが、見所が土橋を伴う大堀切程度なので、お薦め出来る物件とは言い難いが、登山道もある事から山歩きの好きな方は是非立ち寄って見ても、時間の無駄にまではいかないと思える山城である。

2008年12月11日 (木)

保津山城跡(京都府亀岡市)

保津城から「明智越え」登山道をそのまま道任せに10分程度北に向いて登ると、堀切道から突き当りが縦堀と化している尾根に到達するが、ここ(上り土橋風)を右手南側に向えば案内板には表記されていなかったが、保津城における山上詰城とも見受けられる、この山上郭群(ここでは便宜上保津山城とした)にはすぐ辿り着ける。山上郭群は形態も古く、郭跡に削平跡は窺われるが切岸処理は施されておらず、ほぼ自然地形任せの広い削平地となっている。それなりに規模の大きい郭跡が南斜面に下りる形で数段に渡って連なっており、最終的には便宜上東砦とした境に現存する城跡最大の見所でもある南北尾根を分断する二重片堀切に到達出来る。

ここを境にして南側に保津城東砦跡とした郭群が数段の削平地のみを残して残存しているのだが、この北側を断つ二重に形成された片堀切が土塁を挟んで下に落ち込んで行く様は、残存状態が良い事もあって美しく更に迫力もあり、山麓における保津城の遺構が全て霞んでしまう程のものとなっている。中々他の山城においても、ここまで全体像の拝める堀切は数も少なく、当時を物語る貴重な遺構と言えるものである。

今回は保津城が山城である事を勝手に想定して訪れたのだが、意外にも山麓登山口に位置しており、本来の目的であった山上郭群も残存はしていたが、明確な遺構としては郭跡、郭内の土塁壇、尾根北端の堀切道及び縦堀跡程度で見応えにも少し欠ける事もあって、余計にこの想定外の堀切の素晴らしさが目を引く事になった。

尚、山上郭には立ち寄らず、東砦跡から堀切遺構のみを見学するのであれば、保津城の案内板のある空池の土橋を渡ればそこから直接山道が通じているので、それを利用すれば数分で堀切までは到達可能である。

3san 城跡概念図

5_aketi_goe_1 堀切道

7_sanjyou_shukaku 山上主郭

15_2jyuu_tatebori 堀切土橋

20_tatebori 二重堀切見所

17_sita_yori_ue_1 下から二重堀切見所

22_kaku 26_doruidan 東砦の郭群

保津城跡(京都府亀岡市)

new 城跡は亀岡市保津町今石にあって、明智光秀が「愛宕詣で」としてこの峠越えを利用した事でも有名な、「明智越え」登山道は一部この城跡の搦め手道にもあたっている。現地案内板によれば南北朝期の城跡として表記されてあったが、技巧を伴う堀切などから感じられる様に、戦国期においても改修を施されながら機能していた様にも窺われるものである。城史に関しての詳細は不明

城跡へは国道9号より「保津川下り」の乗船場を目指して車を走らせ、そこからも近い保津橋を渡れば一つ目の信号交差点を右折、後はルート図の如く進行し二箇所の寺院を通り過ぎれば登山口手前に位置する、目印となる大師堂までは難なく辿り着ける。そこから山に向いて少し歩けば酒屋が眼に留まるが、その背後の道路沿いには「明智越え」登山口としての案内説明板が設置されており、其の中には城跡に関しての簡単な説明もなされている。この説明板のすぐ裏手の竹林地は既に郭跡でもある。

現状(12月)城跡は程よく整備されており、登山道周辺の郭跡はほぼ全体像を見通す事が出来、縄張りも容易に把握する事が出来るが、民家に近い南側は竹薮となっているので、移動は出来るが少し視認し辛い状態にはある。しかし遺構は全て判別確認は出来る状態でもあり、城跡最大の見所でもある、郭群を縦に三分する二本の深さを伴う堀切は未だ健在、その一本は現在でも道路まで繋がっている。道路沿いからは郭壁に当時の石垣とも思える痕跡、郭内には空堀、土塁、櫓台なども見て取る事が出来、広さはありながらもコンパクトにまとまった郭群の中に遺構は凝縮されており、見学し易く尚且つ非常に目を楽しませてくれるものとなっている。堀切を境にして三ブロックの郭群で形成されたこの城跡は、機能として限界のある狭い段郭などは皆無で、比較的広い郭群は館城の性格も兼ね備えている様に感じられた。

非常にマイナーな城跡ではあるが、遺構の残存状態は予想を超えて素晴らしく、推奨に値する城跡である事は確かである。

尚、案内板に付記されてある様に、東側山麓に展開される砦跡(便宜上、ここでは保津東砦とする)にも足を向けてみたが、覗いて見ると凄い堀切遺構に巡り合える事が出来た。この砦遺構に関してのリポートは、本来は山上に位置する郭群の探索を目的として訪問した経緯もあり、後で立ち寄る事になった保津山(山上郭)城跡の中で掲載の予定。

1route1 登城ルート

3ho 城跡概念図

5 進入路

19_yagura_yori_sita_1 櫓台土塁より

33_naka_gedan 中郭跡

35_kita_horikiri_2 35_kita_horikiri_4 北堀切見所

25_minami_horikiri_1 南堀切見所

37_nisi_kaku_isi 西郭群石垣跡

23_minamikaku1_dorui 南郭土塁

41_karaike_dobasi 空池の土橋

2008年12月 7日 (日)

矢田城跡(京都府亀岡市)

new この城跡に関しては乏しい資料の中でも存在は分かっていたが、個人的には長い間場所の特定までには至れていなかった。今回は偶然地図を覗き込む内に、亀岡市下矢田地区に字名「城山」と付記された地を見つける事が出来たので、早速これが矢田城跡なのか、あるいはただの城山の地名なのかどうかを確認する為に今回の訪問となった。

城跡は亀岡市下矢田町東法楽寺にあって字名「城山」の地はすぐ北側に隣接している。国道9号「下矢田」の信号から南下すればルート図の如く進行し、現在では枯れ池となった大きな池の堤防沿いから進入、本来南北に長い丘陵地であるので、東西のどこから取り付いても目指す主郭には数分で到達出来るが、説明上一番分かり易く直登し易い場所となれば、やはりこの池からが無難であろう。

丘陵上は推察した通りやはり城跡となっており、南側の最高所に規模の小さい主郭(櫓台か?)を置き、北側に向いて長く郭を伸ばしている形態が見て取れる。現状(12月)冬季にも拘らず主郭回り以外は雑木の蔓延る藪地及び竹林地と化しているので、全体の視認は困難な状況にあり、郭跡と思われる竹林地などは長年の風化及び堆積物によって相当地表は変化している様子が窺われる。それでも主郭及び主郭回りの郭跡には切岸処理も見受けられ、この地が城跡だと言うことは個人的にも断定する事が出来た。現在主郭の南西側は住宅地と化しており、見る限りでは南西側の郭跡は消失した可能性があると思われるが推察の域は出ない。池のすぐ東側の竹林の中には屋敷跡と見受けられる郭群が現存しており、風化の進んだ中でも土塁で仕切られた空間、空堀などは明確に判別する事が出来た。そのまま真反対の東側へ郭を越えれば、此方にも民家背後に土塁囲みの空間あるいは空堀跡を窺う事が出来た。結果的には山上を構成する郭跡には切岸以外では堀切、土塁などの遺構は確認する事が出来なかったが、むしろ本郭群を挟む形で位置する、東西の屋敷跡と思われる空間の方に遺構が集中しており、余程城跡らしさを感じ取る事が出来た。

この城跡遺構は下矢田町の字「城山」から「東法楽寺」地区に跨っているが、現状においては他の矢田地区にも城跡として該当する地も見当たらず(居館跡とされる地域は別に「堀之垣内」と呼ばれる地域が東側に隣接)、今回はこの地を矢田城跡としても良いのではないかと個人的に判断した結果、訪問リポートとして掲載に及んだ。

1route_2 登城ルート

3yata 城跡概念図

11_naka 中郭

15_nisi_obi_heki 西帯郭

18_higasi_obi_1 東帯郭

20_shukaku_e_nobori_dorui 主郭上り虎口

23_shukaku_minami_heki 22_shukaku_nisi_heki 主郭

25_nisigawa_yasiki 西屋敷跡空堀見所

26_higasi_gawa_yasiki 東屋敷跡土塁見所

尚、別ルート図に示すが、この地から南東すぐの距離に矢田城の東を抑えたと思われる、砦跡とも見受けられる削平地(個人的には郭跡と解釈した)が現存していたので、参考程度に同時掲載に及んだ。1route_3 3y

周辺概略図

11_minami_demaru_1 砦跡か?

2008年9月23日 (火)

穴太城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市曽我部町穴太にあって有名な穴太寺からは道路と川を隔てた西側に位置する川沿いの丘陵地が城跡である、赤沢氏の居城と伝わるが詳細は不明

この城跡は神社から5分もあれば本郭に到達出来る事から既に訪問された方も多いと思われるので簡略したリポートにさせて頂く。

城跡は穴太寺を目指し北西の橋を渡った場所にある小幡神社背後の丘陵がそれで、神社内の川沿いの竹林地から既に土塁の仕切りの様な盛り上がりのある郭跡が確認され城域と分かる。最奥の社傍の土塁道を通り本郭に向かうが二三段の段郭を経て本郭には到達出来る、便宜上東西に土塁を伴う広い郭跡を二の丸(副郭)としたが主郭と呼ぶに相応しい様相は呈している。一般見学者は丘陵上の主要二郭を確認すれば帰途についてしまうが更に南西山上まで少し足を延ばすと輪郭で形成された櫓台を最高所とした詰城と呼ぶべき山上郭が存在するのでこれを見逃してはいけない。

現状(二月)城跡は風化も藪化も進行中で冬季であるにも拘らず本郭跡は別にして北側は雑木密生、川沿いは竹林地で踏み入る隙間もなく視認も難渋する有様で、郭形状などは非常に掴み難く、縄張り全体像もある程度推察するしかない状態である。今回で二度目の訪問となるが初回の夏季訪問では更に状態は悪く、薄暗くて写真撮影も出来ない状態であったのを記憶している。本格的に城跡見学をしたいのであれば絶対に冬季限定に限られる城跡と言える

1route_2 登城ルート

2nawa2 城跡概念図

39 神社横の仕切り土塁が続く郭跡

9_tojyouguti 郭進入口の上り土塁

14_2maru_nai 二の丸、奥は土塁

19_horikiri_dobasi 堀切土橋

21_shukaku_nai_dorui 主郭内の櫓台土塁か

32_minamikaku_top 南山上郭最高所

30_minamikaku_dankaku_2 山上郭の切岸

2008年8月27日 (水)

荷成山砦跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市宮前町宮川東垣内にあって神尾山城からは北東側に位置する出城あるいは砦跡と推察出来るが詳細は不明。

城跡は国道372号からは西側に宮前集落が望め鉄塔の建つ低い山の山上が郭跡になっている、一番最短で登れる南側にある富家稲荷神社を目指し、神社向側の斜面に取り付けば数分で山上主郭には辿り着ける。郭跡はほぼ山上全域に渡っており削平跡は窺えるが切岸処理はされてはおらず、現状自然地形と余り大差ないものである。北尾根にも郭跡があるが藪に阻まれ一旦山を下りて北側の鉄塔から登り直した。道を隔てた南側の神社背後にも郭跡を見ることが出来たがこちらも砦としてセットになったものの様に感じられた。

神尾山城の大手側を監視する砦としては格好の場所にあり、ほぼ神尾山城の最前線の砦と考えて間違いなさそうである。神尾山城の訪問ついでに立ち寄る程度なら期待外れに終わる事も無さそうに思われる。

1route_2 登城ルート

32 城跡概念図

5_minami_yori_2 東から城跡を望む

7_shukaku 山上主郭

10_higasi_kaku_yori_shukaku_1 東郭群

11_higasi_one_sizenkaku_1 13_sizenkaku_2 東尾根上郭跡

14_kitakaku_1 北郭跡

22_kita_sizenkaku_1 神社背後の郭跡

2008年8月16日 (土)

笑路城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市西別院町笑路にあって国道423号犬甘野口バス停からすぐ南東側に見える山の山上部全域が城跡で別名松尾山城と呼ばれる、長沢氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡の位置はバス停から見える南東側に鉄塔の建っている場所が主郭にあたるので方向の確認はすぐ出来る、バス停東側にある農道に進入し道に任せて進むとすぐ小さな城跡案内板があるのでそれに従えば20分内で主郭まで辿り着く事が出来る。ネット上でも多くの方が訪問され紹介もされているので多くは語らないが、この城跡の魅力は何と言っても石垣跡に尽きるのではないかと思われる。主郭周囲の随所に石垣跡及び崩落石が窺えついつい築城当時にまで思いを馳せてしまう、そんな石垣跡だけで充分感動を味わう事の出来る城跡である。

尚、主郭内は現状鉄塔が建設されており郭跡も妙に平坦に改変されているので当時の状態までは残念ながら窺い知る事は出来ない。現状藪化も相当進行中である為出来れば冬季か冬枯れ時期の訪問がベストと思われる。

1route2 登城ルート

1enbou_2 登山進入路

1z 城跡概念図

3_daihorikiri 大堀切

4_2maru_kitakoguti_isi 二の丸北虎口石垣跡見所

19_2nomaru_higasi_dorui 二の丸東側土塁

5_shukaku_2marugawa_isi 主郭東壁の石垣跡見所

10_shukaku_minami_isi 主郭南虎口周辺の石垣跡

9x 石垣跡

11_nisi_kaku_tatedorui 西郭の縦土塁

17shukaku_nai 現状の主郭跡

2008年8月 3日 (日)

御影山城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市千歳町出雲にあって丹波地方においては有名な出雲大神宮の背後に聳える御神体山とされている御影山の山上が城跡

城跡へは亀岡市内からでは国道9号を北上し千原の信号を右折して直進、橋を越えれば方角的には神宮に向かって真直ぐ走っているので標識さえ見つければ辿り着ける。個人的にはこの山から湧き出す真名井の水を何度も汲みに来ている手前、何時でも登れる機会はあったのだがなぜか先延ばしにしておりやっと今回登ってみる気になった。山上へは社殿東側背後より登り始め途中の岩石祭祀の象徴である磐坐までは山道があるがそこからは徐々に山道は消えていくので、とにかく山頂を目指して急斜面を這うように上っていくしか手がない。これは相当な斜面を覚悟して登らなければならないが現在登っているのは天然の要害と呼ぶに相応しい山城なのである。リスクを背負うのは仕方のないことか、、、30分斜面と格闘の末やっと西端郭跡に辿り着いた。

5_1

1route

登城ルート

城史に関しては丹波平定後の負け組みの城跡のほとんどがそうであるようにこの城跡も負け組みとして詳細な歴史は分かっていない様である、この城跡に拠ったと思われる柳本氏は丹波守護代の内藤氏の傘下であったと思われるが柳本氏は神尾山に巨大な山城を築き上げているので案外こちらは規模から察しても支城かも知れない。3m2

城跡概念図

城跡は最初に到達した西端郭跡から六段の郭跡が主郭まで連なっており意外に個々の郭規模は大きく、しかも高い切岸を伴っているので相当見応えもあり迫力もある。主郭までに至る郭壁には随所に石垣跡が残存しており、つい往時の険峻な山上にある石垣城を想像させられてしまった。最高所にあたる主郭には櫓台と見受けられる土塁の高まりもありその東背後にはこの城跡一番の見所でもある尾根を分断する二重堀切が備わっている、この堀切が縦堀となって下まで落ち込んでいく様は正に圧巻である。外見からの判断より規模は大きく、とにかく山城の魅力に満ち溢れた城跡である事は確かである。苦労して登り切った後には大きな感動が待ち構えている事を改めて知らされた城跡でもある。

現状真夏であるにもかかわらず意外に藪化も進んでおらず遺構の確認判別は容易である、冬季の訪問となれば下草も無くなり更に動き回り易く見て回りやすい状態になると思われる。

14_kaku6_koguti_2

西端郭6

25_kaku4

西郭4

36_kaku2_yori_1heki_isi_1西郭1の石垣跡

45_shukaku_isi 主郭壁の石垣跡

56_horikiri_dobasi

堀切土橋

55_daihorikiri_158_2jyuu_horikiri_2_2 二重堀切見所

 

2008年8月 2日 (土)

滝ヶ嶺城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市本梅町平松にあって集落西に位置する桂林寺の西背後の山の山頂部が城跡。古来足利氏の家臣である森氏の居城と伝わるが詳細は不明

この城跡のある区域は亀岡市の中でも特に山城が密集しており神尾山、猪倉、数掛山、埴生、少し離れて柿花、大田、茶屋、千手寺城と言った具合で既に訪問済の城跡であるが車で移動すれば全て20分内の距離にある。お陰で見て回る分には都合が良く効率よく訪問出来るが、よくこれだけ集中して築城されたものである。1

3_1 城跡へは確かな登山道も山道も見当たらないので桂林寺脇の墓地背後から西に向いて直登するしか手立てはない。取り敢えずは尾根を西に向いてただひたすら藪漕ぎ覚悟で登っていくと30分内で東端にある堀切まで辿り着く。城跡は12月と言うのに雑木天国になっており郭跡を確認しようにも踏み込む隙間も無いほどで木々の隙間を探しながら移動して行くしか手がない状態である、それでも部分的に遺構、郭形状を頭に覚えさせて後でそれを繋げて行くといった作業で何とか大まかではあるが全体像は掴む事が出来た。遺構として明確に判別出来るのは主郭群東西の堀切、主郭西壁の石垣跡、主郭南側の空堀土塁跡、郭虎口及び樹木の少ない部分の切岸と言った処で状態は悪いがそれなりに残存度は高いレベルにあると言える。その中にあって特に二本の堀切の状態は中々良く見通しも良いので確認し易く満足には値するものとなっている。12_horikiri

東端の堀切見所

21_shuksku_sita_karabori主郭南の空堀、土塁

25_shukaku_haigo_horikiri

主郭西側の堀切

30 堀切より主郭壁の石垣跡見所

32_nisi_kaku 西尾根に続く広い郭跡

尚下山に関しては直登したルートなどは覚えようが無いので必ず方向磁石持参で東堀切からは真東に向いて下りて行く事が大事になる、そうすれば間違っても山中を徘徊する事は無い。と言うのもこの山城は四方がはっきりした枝尾根になっておらず一つ尾根を間違えるととんでもない方へ下りて行く可能性があるからである。訪問時期としては夏季は絶対に避け、出来れば真冬がベストと思われる。自然とほぼ一体化した山城をなめてかかってはいけない(自分の経験から)。

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