奈良県の山城跡

2009年6月 3日 (水)

福住城跡(奈良県天理市)

城跡は奈良県天理市福住町中定にあって西名阪道「福住」ICからは北側に位置する丘陵上にある、ICを降りれば国道25号よりルート図の如く進行、福住郵便局を過ぎれば派出所手前の細い道路へ右折針路変更、其の後は道沿いにある五大力明王社を目指せば分かり易いが、駐車場からは概念図の如く畦道から進入すれば後は社殿までの遊歩道に合流出来るので5分もあれば主郭まで辿り着く事が出来る。城跡は福住氏の居城と伝わっており現地を見る限りでは居館跡の様相を呈しているものである。

現状(10月)城跡は相当藪化が進行しており下草や低い笹で地表の見えない箇所が多く、広い主郭に至っては東側の一部を除けばほぼ密生する雑木に覆われており、外見から郭跡全体の形状まで把握する事は非常に困難であり、西側の地表も見えない箇所における細部に渡る遺構などの確認も不可能、更に切岸まですっかり覆われた笹によって踏み入るにも困難を来たす状況となっている。それでも城跡自身がコンパクトである為に外見からでもおよその縄張りは把握出来、見所でもある大手虎口への大土塁を伴う空堀道、虎口の大土塁あるいは主郭北背後に深く掘削された堀切などの見応えのある遺構は全て確認する事が出来た。特に主郭虎口周辺における縄張りは絶妙とも言えるもので横矢構造にも見受けられ、更に狭く絞られた虎口は外敵が直接郭を目指しても中々進入出来ない味のある構造となっているのが見て取れる。この虎口は正に一見の価値のあるものと自分の眼には映った。主郭周囲もかつては土塁が巡っていたと見受けられ僅かではあるが高低差を窺う事も出来た。

城跡は恐らく年に一度は伐採が行われているとは思われるが、余りにも訪れるタイミングが悪かったせいか蔓延る雑木や下草のお陰でとても満足のいく見学は出来なかった。しかし残存する遺構群はほぼ当時の状態のまま年月を積み重ねて来たとも見受けられ、土塁壁には土中から石垣痕も窺う事が出来、充分当時に思いを馳せる事も容易であり更に戦国期を物語る史跡としての価値も相当なものとみた。

1_1z 登城ルート

3na 城跡概念図

9 郭へ

28_oote_1 大手より主郭

24_shukaku_yori_ootedou_dorui 25_shukaku_yori_ootedou_dorui_1 主郭より大手道土塁見所

21_shukaku_dorui_higasi_1 主郭より虎口側

20_shukaku_nai 主郭内

17_koguti 虎口見所

17_koguti_dorui_isi 虎口土塁の石垣跡

2009年5月19日 (火)

上狭川城跡(奈良県奈良市)

最初に、この城跡の最大の見所は素晴らしい状態を誇る主郭南側に形成された虎口で、食い違い土塁と枡形を二重に組み合わせた様にも窺え、風化を差し引いても当時に近いと思われる状態及びその形態は他に比類なきものでもあり、この虎口を見学するだけの目的で訪れても充分納得出来うる遺構でもあり、まだ未訪の方には是非訪問をお薦め出来る城跡である。ネット上の他のサイトでも多くの紹介記事が載せられているので多くは語らないが、結果的に未踏に終わった主郭東側別峯、更に南側へ繋がる尾根と縄張りの広がりも予想され、まだ未確認の遺構が残存する可能性も含んだ相当規模が大きいとも受け取れる城跡と自分の目には映った。

城跡は奈良県奈良市狭川東町にあって西狭川町集落より川を挟んで東側低山の山上に位置している。狭川氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡登山口へ向うには国道369号あるいは国道163号と南北のどちらから向っても県道33号へ進入する事が先決である、県道に進入すればルート図の如く写真に示すバス停付近の登山口は容易に見つかるので、そこから山道に従えば15分程度で山上主郭には辿り着ける。

現状(三月)城跡は木々は余り蔓延っておらず見通しも利くので山上における遺構群はほぼ判別確認可能な状態にある、見所は前述の主郭土塁虎口、主郭周囲を巡る土塁、本郭群尾根を分断する土橋を伴う堀切と満載でもあり、山麓の井戸跡及び屋敷群、相当藪化が進行中の南西麓の段郭群を含めれば山城としての醍醐味も見応えも兼ね備え、更に縄張り妙味も尽きない城跡である事が分かる。個人的にも叶えば再訪して付近一帯を踏破して見たいと思わせられる城跡の一つである。

Saga 登城ルート

Tozanguti 登山口

3s2_2 城跡概念図

9_koguti_1 北郭側

15_shukaku_dorui 17_dorui_kakomi 主郭土塁見所

20_minami_masugata 主郭南食い違い土塁見所

21_masugata_dorui 南複合土塁虎口見所

25_masugata_sita_horikiri 南堀切土橋見所

27_dobasi_yori_minamikaku 南郭群

47_nansei_dankaku 南西段郭土塁

2009年5月18日 (月)

沢城跡(奈良県宇陀市)

城跡は奈良県宇陀市榛原区沢にあって沢集落の北側に聳える山の山上に位置しており、伊那佐山から南東側に延びる枝尾根を堀切で分断して築城されたたものであるが、沢氏あるいは一時高山氏の居城とも伝わり宣教師であるフロイスの「日本史」にも記載されている山城がどんなものか体感したくて今回の訪問となった訳である。2z 3zz

1route 登城ルート

城跡登山口までは国道を使用すれば色々なルートが考えられるのでここでは割愛させて頂くが、沢地区に入れば麓からはルート図に示す様に二通りのルートが選択出来、今回は登山客も多く上ると聞いた大貝地区から伊那佐山へ上る登山ルートで城跡を目指した。個人的には城跡北背後尾根まで探索したかったので一旦伊那佐山尾根分岐地点まで上ってそこから尾根沿いに南下する方法を取った。もちろん通常の遺構見学で訪れる方は登山道中の池を通り過ぎて山側に上ればよいのであるが、前者は相当遠回りになるが城跡最北の土橋、二重大堀切あるいは米山城も見学出来る事からもこの方法を選んだ訳である。

しかし北側尾根上において確認出来たのは土橋と二重堀切だけで登山道を外れると一面雑木藪であり米山城が一体どこに存在するのか見当も付かない状況でもあった。結果的には見つける事が出来ずにそのまま山上主郭へ向ったのだが、此方も現状(三月)冬枯れ後であるにも拘らず凄まじい矢竹藪となっており、郭跡に踏み入る事が出来るのは木のベンチのある出郭の一部分と主郭の一部分のみの状態で、外見から郭を覗く事も出来なければ郭内の遺構の確認などはほとんど不可能な状態でもある。結果的には出郭北側の二重堀切と主郭と出郭間の大堀切を確認したのみでほぼ矢竹藪を見学しに山上まで訪れた事になってしまった。もちろん個人所有の城山とも見受けられるので仕方のない事ではあるが、麓に榛原町が設置した案内板や道標まで備わっているのであれば、せめて主郭の一部だけでも整備して欲しかったと思うのは自分のわがままであろうか、、たまたま訪れた時期が悪かったとも考えられるが、現状を見る限りでは恐らく自分と同じ思いで城跡を後にした方が相当居られるような気がするのである。

今回の訪問においては少し期待があっただけに無念さを味わいながらの下山となったが、流石にいつもの城跡の評価はし辛いものがある、、、

15_dai_horikiri 大堀切見所

17_demaru_heki 出郭切岸

18_demaru_nai 出郭内

16_kita_2jyuu_horikiri_1 北側二重堀切見所

25_saihoku_2jyuu_horikiri_1 北端尾根の二重堀切

2009年4月16日 (木)

岩掛城跡(奈良県天理市)

城跡は奈良県天理市山田町下山田にあって、廃校を利用した山田公民館の西背後に迫り出した尾根先端上に位置している。別名山田城と呼ばれる様に山田氏の居城を伝えるが詳細は不明。

城跡へは阪神側から向う場合西名阪道「福住」ICが最寄の乗降口、国道25号を経由して県道47号へ進入すればルート図の如く道路沿いにある山田公民館を目指せば分かり易い、駐車スペースは充分あるので公民館横からはそのまま民家横を通過して西側沢沿いの畑地横を通過、後は概念図に示す登山口から東小郭を経由して上ることになるが、途中からは山道はないので植林地斜面を直登すれば主郭までは数分で到達出来る。

現状(10月)城跡は植林地となっているので郭内は比較的見通しが利くが、下草(低い笹)は相当蔓延り西郭は全て笹で覆われ、主郭は一部竹林地となっているので細部に渡る確認は困難な状況にある。しかし城跡を形成する主だった遺構群である堀切、下から見上げれば20mはあろうかと思われる高低差のある切岸、郭壁に残る石垣跡などは外見から充分確認出来る状態にあるのでほぼ満足の行く見学は出来る様には思われる。中でも最大の見所は西郭背後に掘削された堀切で、高低差は10mはあろうかと見受けられるもので主郭を分断する中央堀切と並んで相当な見応え感じる事が出来る。垣跡は下草から覗いているものだけでも堀切壁あるいは主郭壁に数箇所確認出来る事からも、主郭外壁は全て石垣で覆われていた様にも見受けられる。奈良県下の城跡には比較的高土塁を周囲に巡らせ防備したものが多いが、この城跡に高い土塁が見受けられないのは推察ではあるが高低差のある切岸と相俟って石垣で周囲が固められていたからであるとも想像出来そうである。尚、個人的には石垣跡を当時のものとしたが、確証はないので見学者が自由に見たままを判断するのが一番適切である様に思われる。

大規模な城跡ではないが高低差を伴う堀切と聳え立つ様な郭切岸は、訪れる者の期待には必ずや応えてくれるものの様には思えた。

1route 登城ルート

4_2 城跡進入路

I 城跡概念図

16_shukaku_nai_1 主郭

19_kitaheki_isi 主郭北壁石垣跡見所

21_nisi_daihorikiri_1 主郭西堀切見所

22_horikiri_isi 堀切石垣跡見所

30_2jyuubori_dorui_1_2 主郭東片堀切土塁

34_nisikaku_3dan

西三段郭

41_kita_karabori_dorui 西端堀切北側斜面

2009年4月 9日 (木)

吐山城跡(奈良県宇陀市)

城跡は奈良県宇陀市都祁吐山町にあって、阪神側から向えば西名阪道「針」ICが最寄の乗降口、国道369号から南下して吐山町に入れば「吐山」の信号から真北に単独で聳える山がそれにあたり、山容からも直ぐ城山と分かるはずである。名前から察せられる様に吐山(ハヤマ)氏の居城と伝わり、それほど遠くない多田地区にある多田佐比山城を居城とする多田氏とは何度も抗争した記録が残っている様である。

山頂に向う登山道は南北二箇所あると思われるが、いずれも山麓に位置する東郭群で合流するので、今回は国道「吐山」の信号の手前道路から右折して進入すれば一番分かり易い登山口をルート図に示した。ここから上れば掲載した画像に映る南端の民家横から背後を回る形で山道が山上までは通じているので、山麓東出郭を経由して山上まで20分内で到達出来る。

1route_2 登城ルート

2a 登山口

1z_2n 城跡概念図

城跡は山麓の東出郭群及び山上における本郭群で形成されるもので、現状(11月)共に藪化は進行中であるが移動に差障りはなく、縄張り内における遺構はほぼ判別確認出来る状態にはある。見所は山麓の郭群なら北側城戸口を固める食い違いに見える土塁虎口、風化によって少し曖昧ではあるが枡形に見えなくもない東郭虎口が挙げられ、険峻な山頂に位置する山上郭群においては北側の二連の堀切といった処になる。もちろん山上郭群は険峻さにおいて既に充分過ぎる見応えがあり、存在感そのものが見所と言えるものではあるが、、

山上郭群は相当藪化が進行しており小社の建つ主郭の一部を除いては北三郭共に密生する雑木矢竹の為に踏み入る事は出来ない状況でもあり、郭内における遺構あるいは規模までは体感する事は出来なかったが、堀切より北側は充分見学出来る状態でもあるので堀切及び土塁壁の石垣跡などの主要な遺構は確認する事が可能である。

城跡は国道沿いの遠くから望んでも山容から直ぐ山城と分かるもので、山城ファンであるなら直ぐにでも登ってみたいという気にさせられる戦国ロマンの漂う城跡でもある、もちろん個人的にも是非訪問をお薦めしたい山城の一つである。

9_kido_dorui 城戸土塁虎口見所

10higasikaku_koguti 東郭虎口

13_higasidankaku 東段郭

19_shukaku_nai 山上主郭

23nisi_koguti_dorui 山上土塁虎口

30_kita_demaru 山上北西堀切と出郭見所

36_demaru_sita_horikiri 出郭端堀切大土塁見所

2009年4月 2日 (木)

菅野城跡(奈良県宇陀郡)

城跡は奈良県宇陀郡御杖村菅野にあって、菅野地区に入れば国道369号より川を隔てた真興寺背後に突き出した丘陵上に位置している、菅野氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは伊勢街道へと合流する国道369号へ進入する事が先決、後はルート図の如く真興寺を目指せば難なく辿り着ける。寺院から山道を少し歩けば民家背後より城域となっているので切岸急斜面のどこから取り付いても登り切れば直ぐ郭跡には到達出来る。

現状(五月)城跡の主郭南側は自然任せの荒れ放題と化しており視認及び移動にも難渋する状態となっているが、主郭及び西郭は植林地(手入れはされていない)でもあり郭跡あるいは土塁跡の確認は容易に出来る状態にある。ただ全体の見通しは利かないので直接郭内を歩き回っての遺構確認となるが、全体を通しても非常にコンパクトな城跡なのでほぼ全域踏破は可能でもあり、縄張りを把握する事も容易い状態にはある。現状確認出来る遺構群としては堀切、空堀、土塁などで特筆すべき見応えのある遺構に巡り合えなかったのが少し残念ではあるが、ここまで山奥に位置する城跡としてはこの程度の縄張りで充分であったのかもしれない、、

城跡の南側は民家背後で近世において鋭角に削り落とされた形跡があるので当時のままの縄張りが保持されているとは思え難く、当時の様相は見る者の想像力に委ねられるのが現実でもあるが、仮に南側へ郭が繋がっていたとしてもそれ程規模がが大きい城跡とは考えられないので、現在の状態がほぼ当時の状態であると見てよいものとも思われる。

尚、図中の便宜上南段郭群としたものは縄張りプランから考えても多少不自然さがあり、近世における畑地としての造成地の可能性もあると見受けられた。しかしそれらは現地で見学者が見たままを判断すればそれで良いのではないかと思われる。

1route 登城ルート

3 城跡概念図

5_kaku_kirigisi 民家背後の造成された切岸

9_kaku3 南郭群

24_shukaku_heki 主郭切岸

21_shukaku_nai 主郭内

25_nisikaku 西郭

29_minami_dankaku_gawa 城跡東側

2009年3月 4日 (水)

菅生城跡(奈良県山辺郡)

城跡は奈良県山辺郡山添村菅生にあって、先にリポート掲載に及んだ畑城とはほど近く西名阪道「山添」ICが最寄の乗降口、国道25号を南下し菅生集落に入れば道路沿いに集落センターがあり車はここに駐車させてもらい、ここから既に右手に望まれる山上(城跡)を目指してルート図の如く上れば、現状縄張りの一部とも見受けられる西端堀切道までは到達出来る。更に東側に向いて斜面を上れば墓地のある削平地(西郭)及び堀切を越えて主郭までは麓から20分内で辿り着く事が出来る。

現状(二月)城跡は冬季にも拘らず西郭と主郭以外は全域が矢竹あるいは雑木藪に覆われており外見から郭跡の確認は困難でもあり、一部の郭跡は踏み入る隙間もない状態にある。それでも外見から判断することの出来る郭を分断する二重堀切を含めた七本の堀切は城跡最大の見所ともなっており、小規模な城跡にありながらも抜群の存在感を醸し出している。図中の主郭東側の二箇所の郭跡は外見から判断する事も出来ず更に侵入する事も叶わなかったが、東端の小規模な郭には土塁も残存、更に主郭西斜面側には土塁を伴う縦堀も見受けられ、堀切群と併せて山城としての醍醐味には充分触れる事が出来た。規模が小さいのでおよその縄張りは把握出来るが、密生する雑木の為に未踏に終わった箇所、あるいはまだ未確認の遺構があるのも事実であり、現状では自作概念図における箇所までが自分の眼で確認する事が出来た遺構群という事になる。これから城跡の状態が少しでも改善の方向に向えば当然見学可能な遺構もこの限りで終わらないものとも察せられるが、個人所有の城山とも見受けられ、これから先の期待は余り出来ないのが現実のようにも思われる。

1_1x 登城ルート

5_tozan_start 登城口

3_2 城跡概念図

9_horikiri 西端堀切道

11_nansei_sizenkaku 西郭

17_shukaku_yori_nisi_horikiri 主郭西堀切

18_shukaku 主郭内

23_shukaku_heki 主郭切岸

24_higasi_daihorikiri 東堀切

27_higasikaku 東郭

2009年2月26日 (木)

赤埴上城跡(奈良県宇陀市)

先にリポート掲載に及んだ下城から道路に任せてルート図の如く進行すれば案内板も設置されているのでほどなく赤埴上城には到達出来るが、丘陵上西端隅に位置する居館跡とも窺われる郭跡虎口に備わる櫓台土塁は見応えもあり、虎口南に付随する二方を低い土塁空堀で囲んだ郭跡と並んで城跡の見所ともなっている。

しかしこの城跡は概念図に示す居館跡とも見受けられる方形郭の主要二郭だけにあらず、西側は高い切岸で守備されているが東南側は巨大な削平地とも言える空間が東山上郭麓まで広がっており、何千人もの兵を収容出来たかの様な駐屯地あるいは段状に連なった無数の大規模な郭跡は屋敷跡地が想像出来るものでもある。屋敷跡(後世のものかも分からないが、、)と見受けられる郭壁には石垣跡が随所に窺われ、当時の城普請における労働力の凄さを物語っている様でもある。ただ現状の推察のみで当時のものと断定は出来ないが、素直にこの現状における空間を見て凄いと思う他は無い様には思われる(どこまで発掘調査が行われたのか知らない)。

1route_5 登城ルート

2z_1_2 城跡概念図

更に屋敷跡地より東山上を目指して強引に東斜面を直登すれば土塁を伴った物見とも見受けられる山上郭が存在しており城域の広さに更に拍車をかけている、個人的にはそこから更に藪漕ぎで南に聳える高城山を目指したが、その移動尾根上には小規模ではあるが郭跡を数箇所で確認する事が出来た。高城山山頂へは別に登山道も設置されておりこの日は登山客と出くわしたが、ほぼ二段から成立する削平地は郭跡とも見受けられるもので、断定は出来ないが立地環境からも明らかに詰城として想像出来るものでもあり、想像を膨らませただけで下城を含めた壮大な規模の城跡が浮かび上がってくるにも感じられた。

12_shukaku_gawa_yori_koguti 南郭虎口側

18_shukaku_nai_dorui 主郭土塁

17_shukaku_nai_sekiretu_2 主郭内石列

24_umadasi_karabori_2 南郭空堀

39shukaku_higasi_yasiki_dankaku_gun 東屋敷跡郭群石垣跡

36_dankaku_sekirui_1 水の手付近の郭石垣跡

43_higasi_yama_toride 東山上郭

51_sanjyou_kaku 高城山山上削平地

城跡探索中は季節外れの降雪(四月)にも見舞われ、概念図に示す主郭北側空堀から更に北の郭跡までは踏破出来なかったが、外見から察してもその先までも城域は広がっている様にも見受けられた。とにかく城域は限りなく広いと見受けられるので、今回の様にルート図に示す範囲を歩き回れば足にも堪え、相当な体力を費やすのは必定でもあり、自分の様に縄張りを含めた城跡全体像を把握したいのであれば高城山山頂まで上る必要はあるとは思われるが、遺構を見学して楽しむのであれば下城から始まって上城の主郭周辺だけを押さえれば充分この山城を堪能する事が出来るのではないかとも思われる。赤埴城は限りなく広大な城域を持つ城跡であるが、見ようによっては限りなくロマンの広がる城跡なのである。

2009年2月25日 (水)

赤埴下城跡(奈良県宇陀市)

この城跡は地形図、あるいは現地に赴けばある程度判断出来るように城戸口を固めたと見受けられる下城、谷沿い東奥に位置する上城の赤埴二城(上下城)から形成されている様に見受けられ、非常に城域の広大さを誇る城跡でもある。更にその上城背後には山上郭更に遠く東山上には詰城とも言うべき高城山が聳えており二重、三重の鉄壁の備えが見て取れる。訪問結果として上下城共に特筆すべき縄張り妙味あるいは凄いインパクトを感じられる遺構は目に留まらなかったが、上下城間に展開される屋敷群とも見受けられる現在の農作地、あるいは上城の山上郭間に展開される屋敷段郭群も含めれば奈良県内でも屈指の城域の広さを持つ城跡とだけは言い切れそうである。奈良中心地より山奥の更に山間部に位置してはいるが、当時この付近は伊勢までも通じる街道が通じていたと思われ、この下城は佇まいからも街道監視あるいは関所の機能を担っていた様にも想像出来そうに思われる。

上下城併せて同日訪問すれば更に戦国期山城の醍醐味、全体の縄張りプランを含めた城跡探索の楽しさも堪能する事が出来、正に推奨に値する城跡と言ってもよいと思われる。

1route_2 登城ルート

3_1 城跡概念図

城跡は奈良県宇陀市榛原区赤埴上俵にあって、阪神側から向えば西名阪道「針」ICが最寄の乗降口、ICを降りれば国道369号をしばらく南下、後は道路沿いに道標の設置されている仏隆寺を目指して進行すれば迷わず駐車場までは辿り着けるが、駐車場の南背後の丘陵上は既に城跡でもある。城史に関しての詳細は不明であるが後で寄ること事にもなる上城と同様に赤埴氏の居城と察せられる。

随分訪問後の掲載が遅れてしまったが現状(四月)城跡は冬枯れ後の植林地でもあり、見通しも利くので郭跡、堀切、郭切岸、空堀道など遺構の判別確認はほぼ容易な状態にある。郭を東西に並べただけの縄張りプランではあるが合計五本の堀切によって郭は分断されており、状態が良く全体像が窺える事からもかなりの見応えを感じる事は出来る。規模こそ大きくは無いが見る限りにおいては本格的に造りこまれた感のする城跡である事だけは確かである。この下城を後にして更に谷沿いから車で細く狭い道を蛇行して南東側に上れば上城に直ぐ到達出来るが、赤埴上城のリポートは次で掲載の予定(現在編集中)。

6_tojyouguti 道路沿い登城口

8_higasikaku_yori_shukaku 東郭より主郭

11_shukaku_horikiri 主郭堀切見所

15_shukakunai_horikiriato 主郭内の空堀跡

18_nisi_2jyuu_horikiri 二重堀切見所

24_minamigawa_karabori_dou 南西空堀道

2009年2月22日 (日)

畑城跡(奈良県山辺郡)

城跡は奈良県山辺郡山添村春日にあって、春日集落を南から見下ろす形の東西に長く独立した山塊の山上から西尾根上に位置している。西名阪道「山添」ICを降りれば数分内で登山口に辿り着ける距離にあり、ルート図に示す春日神社を目指せば分かり易い。神社には駐車可能でもありそこから南側へ山道を上って行けば道標は無いが、ルート地形図を頭に入れておけば直ぐ登山口は分かるはずである。そこから西斜面を上れば城中最大とも思われる東郭までは5分とかからず辿り着ける。城跡は奥田氏の居城を伝えるが詳細は不明

個人的には今回は季節を違えての二度目の訪問となるが、現状(二月)冬季にも拘らず前回同様状態の改善は全く無く、藪化は更に進行中でもあり主郭周辺及び他の郭群も雑木藪と化している状態にある。移動にさほど支障は来たさないものの郭全体像が窺えるのは限られた郭跡のみであり、見通しも悪い事から歩き回っての遺構確認となるが、残存する遺構群はほぼ当時のままとも見受けられるもので、自作概念図に示す遺構は全て判別確認出来る状態にはある。城跡は東西に渡る尾根上に山上東本郭群、中郭群、西出郭群が四本の深い堀切を挟んで構成されているもので、各郭群を分断する四本の堀切は城跡の見所でもあり一番の醍醐味を感じる部分でもある

1_route

登城ルート

3hata

城跡概念図

山上主郭からは四方尾根上に郭群が展開されており東本郭群のみでも一城に匹敵する規模を所有しており、小規模な山上主郭北壁には現在でも石垣跡が残存しており他の郭群と比べれば一層の堅固さを兼ね備えている様にも見受けられる。山上本郭群から尾根上を西に移動すれば堀切を挟んで中郭、更に西端に位置する西出郭までそのまま踏破出来るが、山上郭群より此方側の方が木々も少なく状態が良いので、郭切岸などの様に全体像が窺えるものは一層見応え及び迫力を感じる事が出来る。特に西出郭の堀切を含めた高低差のある郭壁は当時に近い直立に近い状態のものを拝む事が出来る。二度目となる今回の訪問では西尾根の探索が主目的であったが、期待を遥かに越えた見応えのある遺構群には感動しっ放しでもあり、改めてこの山城の規模を体感する事が出来た上に全体像をも把握する事が出来たので、東西尾根を縦断した形とはなったが非常に充実した訪城となった。

尚、下山時は概念図に示す西出郭北側から畑地に向いて山辺高校敷地側に下りれば、スタート地点である春日神社までは迷わず戻る事が出来る。結果として個人的にこの山城を一言で語るとすれば、「山城の醍醐味も遺構の見応えも兼ね備えた正に推奨に値する城跡」と言う事になろうか。

7_higasikaku_koguti 東郭虎口

16_hokutou_kaku_1 北東郭

27_shukaku_nisi_koguti_1 主郭へ西虎口

25_kita_gawa_isi_1 主郭北壁石垣跡見所

31_nisikaku 西郭群

34_horikiri_dorui_2 西堀切土塁見所

38_daihorikiri_3 中大堀切見所

39_nisi_nakamaru 中郭

51_nisi_demaru_daihorikiri 西出郭大堀切見所

56_nisi_demaru_nai_1 西出郭

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