京都(綾部)の山城

2011年10月17日 (月)

八重坂城跡(京都府綾部市)

城跡は京都府綾部市篠田町/向田町にあって、当時の街道筋とも見受けられる、八重坂峠の南西に聳える標高219mの山頂に位置している。今となっては、この峠越えの道が生活道路として利用されているとはとても思えないが、城跡の築城環境から察すれば、城郭の峠監視を兼ねた機能は充分窺えそうには思われるのである。城史に関しての詳細は不明であるが、物部城を居城とした上原氏一族、あるいはその家臣の居城が伝わっている様である。

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた木坂城を起点とすれば、その所在位置は分かり易いとは思われるが、485号沿いにある慈眼寺」を目印として目指し、付近に辿り着けばルート図に記した赤線を辿れば送電鉄塔のある城跡の位置は直ぐ確認出来るだろう、ただこの周辺には鉄塔が多く立ち並んでいるので、ルート図から正確な位置を見極める必要はあるが、、、城跡までは東郭を経た最短直登ルートと、メンテナンス道を利用した山道ルートの二通りが考えられるが、ここでは前者のルートで山上主郭まで上り、下山をメンテナンス道を利用して安全に下りられる事をお勧めしたい。距離を歩くのが苦にならない方は、自ずと後者の選択となるが、メンテナンス道入山口も分かり辛く、更に途中で山道が分かれているので、迷わず辿り着けるとはとても言えないのが難点だが、、、

1_2 登城ルート

9 城跡進入経路

1_3 城跡概念図

現状(九月)城跡は、メンテナンス道と鉄塔周辺は、何とか移動にも難渋せず、外見から視認による遺構の判別確認も可能な状態にあるが、それは郭跡の一部だけに言える事で、メンテナンス道から一旦外れると、郭跡からその斜面に至るまで踏み入る事も出来ない状態にあり、密生する草木によって切岸もろくに拝む事が出来ず、更に踏破も非常に困難な状況となっている。よって判別確認可能な遺構も限られてくるのが現状であるが、今回掲載した画像が唯一遺構画像(主郭とその切岸)として成立したものと思って頂いても良いだろう。当然残存遺構の確認(空堀地形は目に留まった)は元より、郭構成及びその縄張りプランは掴めないままに下山する事に相成ったが、冬季訪問に唯一期待するしか手がないのかも知れない。

14_higasikaku_1 東郭

16_shukaku 主郭

21_shukaku_kita_heki 主郭切岸

19_minami_kaku 南郭

城跡を個人的に評価すれば、この満足に見学も出来ない状況を見る限り、絶対にお薦めとは言えないが、綾部の山城に興味を持たれている山城ファンの方だけに、所在地の確認、あるいは現況報告とした形で役に立ったのであれば、それで充分と言ったところか、、、、

2011年7月 1日 (金)

星原城跡(京都府綾部市)

城跡は京都府綾部市星原町にあって、標高約221mの山頂に位置しており、その真東側の山麓枝尾根先端部には「栄宝寺」が建立されている。現在この寺院は無住となっているが、地元有志の方々によって小さな文殊堂がリメイクされつつある。この山城も綾部に点在する山城と同様に、ほぼ無名に近い事から所在地も判明せず、地元で所在地を尋ねればどうにかなるだろうとの思いで臨んだが、地元ではこの星原町に山城がある事などは全く認識がなく、またしても先の見えない見切り登山となってしまった。個人的には最初から城跡の目星を付けたこの山塊を縦断するつもりでいた事もあって、寺院からの直登を迷わず選択したが、幸運にも二つ目の峰で城跡遺構と巡り合う事が叶った。ちなみに寺院から15分程度の所要時間

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた高倉山城を起点とすればその位置は分かり易いが、ルート図中の494号沿いにある綾部工業団地を目印として目指せば、「城山」交差点から目的地となる栄宝寺までは直ぐの距離にある事から、迷わず辿り着けるとは思われる。

1_1 登城ルート

4 城跡遠望

1_2 城跡概念図

この山城の形態は小郭が主郭の東西に付随はしているが、ほぼ単郭で成立したものであり、その本郭群の東西には立派なものとは言えないが一応堀切が施されている。城郭の規模は自然地形に近い東尾根上の郭跡も含めれば、全長は100mにも満たないものであり、縄張り変化にも富んでおらず、切り立つ切岸の醍醐味には全く触れる事も出来ず、お世辞にも見応えの感じられる城跡とは言えないものでもある。ただ概念図中に示した移動尾根上の削平地も取り込めばそれなりの山城とは言えようが、、、現状(六月)城跡はこの時期でも主郭内及び直登道中は、藪漕ぎ移動までには至っていないのが唯一の救いでもあるが、概念図中に示したまでが山城ファンの方であれば誰でも判別可能な遺構群と思って頂ければよいだろう。この形態から考えても未踏の地(東側と西側の峰)にまだ多くの遺構が残っているようにはとても思えなかった、、、、

8_one_kaku 東尾根上の広い削平地

14_horikiri 東郭より堀切

16_horikiri_heki 堀切見所

18_shukaku 主郭の現状

20_nisi_horikiri_2 西堀切見所

城跡を個人的に評価すれば、見応えにはほど遠い二箇所の堀切見学が全てとも言えるこの山城に対しては、とても是非お薦めの城跡とは言えないが、綾部に現存する山城に興味を持たれている山城ファンの方にだけは、この考えさせられる築城環境、集落から城跡を望んだ時の風情、あるいは山上における城跡の楚々とした佇まいも含めれば、遺構に見応えは全く感じられなかったが、楽しみ方によっては見返りも少なくないのではないかとも思われたのである。

2011年3月31日 (木)

上林片山城跡/有安城跡(京都府綾部市)

今回リポート掲載に及んだ片山城有安城の二城は同じ綾部市にあるが、前者は八津合町片山、後者は睦寄町高風呂にあって、二城共に砦規模の山城でもある。片山城の方は昨年に遡るが、西側に隣接した日置谷城のリポート掲載の際に、既に同時掲載を終えたつもりでいたのだが、ここに及んで肝心の現況報告を忘れていた事が発覚した。登城ルート図に位置だけは記していたので、既に訪れた方も居られるかとは思われるが、まだ未訪の方の為に情報鮮度は随分落ちてしまったが、後で訪れた有安城と同様に、忘れていた現況報告を今回させて頂く事になった。どちらも城史に関しての詳細は不明

まず片山城跡を訪れるには、日置谷城を起点とすればその位置はルート図を見れば直ぐお分かり頂けるとは思うが、直登開始地点は概念図に示した上林中学校の西側道路沿いで、ここから山上を目指せば5分もあれば主郭へは到達出来るだろう。現状(昨年三月)藪化は進行しているが、移動に難渋する事もなく見学可能な状態にあるので、単郭で成立した城跡を形成する全ての遺構は判別し易い状況となっており、主郭周囲に張り巡らされた低土塁北背後に施された堀切、土塁虎口などが見所遺構と呼べるものであり、充分目は楽しませてくれる筈である。ほぼ完存に近い形のこの城跡は、個人的には非常に値打ちのある城跡と感じられた事もあり、規模さえ問わなければ、山城ファンの方には充分お薦め出来る城跡と目には映ったのである。

1_4 登城ルート

4 進入経路

1_1 城跡概念図

10_shukaku_1

主郭の現状

11_shuui_dorui 土塁跡見所

11_haigo_dorui 主郭北土塁見所

12_horikiri_1 堀切見所

有安城跡の方は既にリポート掲載を終えた山内城、あるいは長野城を起点とすればその位置は分かり易いとは思われるが、標高290mの険峻な山頂に位置している。直登取り付き地点は公民館の南側にあるガレージ横からで、ここからひたすら山上を目指せば迷わず辿り着ける筈である。訪問結果としては狭小な山上主郭には腰郭が付随するだけで、狼煙台としての機能しか思い浮かんで来ないものでもあり、斜面上には唯一縦堀(判別し易いとは言えない)が施されていたが、これは険峻極まりない位置にある主郭を思えば、防備機能としては余り効果的とは思えないものである。現状地表風化も藪化も進行中にあり、山上は荒れ放題の様相を呈しており、概念図に示した数少ない遺構は何とか判別可能な状態にあるが、ここまで城跡を感じさせてくれない山城は珍しいとも言える。個人的にこの山城を評価すれば、山城賛歌の趣旨として訪れた以上現状を知って頂く為に現況報告はさせて頂いたが、興味を持たれた方だけが対象となる城跡の様な気がするのである、、、

1_1_2 有安城 登城ルート

5 直登取り付き口

Ar 城跡概念図

9_tatebori 縦堀跡

10_minami_obi 腰郭

12_shukaku 主郭の現状

2010年12月29日 (水)

一ノ瀬城跡(京都府綾部市)

城跡は京都府綾部市於与岐(オヨギ)町田和にあって、低山の山上に位置している。当時田中平太郎の居城は伝わるが、情報は皆無に近く城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、綾部を経由して舞鶴まで繋がる国道27号を利用する事になるが、この訪問ルートは、先にリポート掲載を終えた松梨城あるいは中山城と途中までは同じルートでもあるので分かり易いとは思われる。国道27号「黒谷」交差点を右折して県道74号へ針路変更すれば、後はルート図を参考にして現地まで向かえば良いが、入山口(画像に注目)は道路沿いにある消火栓と電柱の間の道からで、ここから最奥にある墓地まで上り、更に踏み跡を辿って山上尾根を目指せば、とりあえず地元の共有電波施設までは到達出来る筈である、ここから左手側の尾根をそのまま上れば、迷わず山上主郭までは辿り着けよう。(所要時間10分前後

1_1 登城ルート

5nyuuzanguti 入山口

I_13 尾根上到達地点

11_karabori_dobasi_1 11_karabori_dobasi 空堀と上り虎口

9 主郭の現状

15_heki 主郭南壁

現状(10月)城跡は全域にかけて矢竹及び雑木藪地となっており、藪化は深刻化している状況にある。当然郭移動も視認による遺構確認も困難を極め、藪漕ぎしながらの郭移動は余儀なくされる状態にあると思って頂ければ良いだろう。その中で判別確認出来た数少ない遺構は、規模の小さい主郭とその周りに付随する郭跡、上り土塁虎口を形成する空堀、切岸程度でもあり、見応えを感じるまでの遺構には巡り合う事が出来なかった。枝尾根がない事からも、郭の展開は恐らく山上だけに限られるものと思われるが、西側に延びる尾根上までは踏破出来なかったので、実態は最後まで謎となってしまった。

城跡を個人的に評価すれば、遺構の判別にも苦労し、郭移動にも難渋する現状から考えれば、とても訪問をお薦め出来る城跡と言えそうにないのが本音ではある。ただ冬枯れ後の訪問となれば、多少状況も変わるとは思われるが、、、僅かにそれに期待するしか手はなさそうである。取り合えず今回は、熱心な山城ファンの方だけに向けての所在地の確認、あるいは簡単な城跡の現況報告としただけでリポートは終えたい。

2010年11月29日 (月)

東中山城跡(京都府綾部市)

この山城は、先にリポート掲載を終えた佃城の中でも触れたが、佃城から見れば北西側の高約200mの山頂部にあり、尾根を共有している事から考えれば、自ずと一城と見て良いものとは思われる。この城跡も佃城同様に情報は皆無に近く、現状城史に関しての詳細は不明でもあるが、二城を同日訪問した上での結果から述べさせて頂ければ、どちらも城としての機能を終えた時点から現在に至るまでは、人の手がほとんど入っていない様にも窺われ、自然任せのほぼ手付かずとも思える状態にあり、遺構残存度は非常に高ものと目には映ったのである。推察にはなるが、縄張りはほぼ当時のままとも見受けられた事からも、この二城は山城ファンの方には是非訪問をお薦めしたい物件一つでもある。

1_1 登城ルート

2 1_2 城跡概念図

城跡は綾部市忠町にあって、今回は佃城と併せた二城同日訪問を前提とした上でのリポートである為に、アクセス方法は割愛させて頂くが、佃城の北堀切よりそのまま尾根伝いに山頂を目指して上れば良い。この堀切から東中山城で最初に目に留まる堀切(東端)までは15分程度は要すが、直登道中の藪漕ぎはないものと思って頂いても良いだろう。当然地元で事前に山道の有無は確認したが、佃城から尾根伝いに上るのが一番分かり易いとの回答でもあったので、これから臨まれる方には迷わずルート図中の赤ラインを辿って頂きたい。

現状(十月)自然任せである為に、状態は決して良いものではないが、山上は植林地ともあってか多少間伐の跡が窺え、意外にも山上郭群の見通しは利き、見学に差し支えるまでには至っておらず、郭移動あるいは尾根移動にも余り難渋しない状態にある。ただ間伐後の木々は倒木も含めてそのまま放置された状態にあるので、長年の堆積物とも相俟って折角の堀切も全体像が拝めず、見学し易いものとは言えないが、、、

11_higasi_horikiri1_2 東端堀切1見所

16_horikiri2 堀切2見所

17_tatebori 縦堀見所

26_yagura_daruidan 主郭と土塁壇

33_shukaku_nisi_heki_1 主郭西切岸

32_nisi_horikiri 西堀切

28_kita_horikiri 北側堀切見所

概念図に示したまでが、個人的に踏破確認に及んだ範囲と目に留まった遺構群でもあるが、形態から考えても数多くの空堀や技巧に富んだ複雑な遺構が備わる山城の様には見受けられなかったので、ほぼ概念図に示したものが、この城跡の形態と考えて頂いても差し支えはないかも知れない、、取り合えず縄張り内で目に留まった遺構は全て記したつもりであるが、見所とも言える堀切は合計六箇所に未だ健在、主郭内部には櫓台とも思える土塁壇と、郭間に高低差は余り望めないが、主郭西背後の切岸の見応えは中々のものでもあり、見学に赴いて落胆する様な結果にはまず終わらないものとは思えたのである。この二城はお互いが離れている(山頂と尾根先端部)事もあって、佃城も含めて山上までの上り下りは、相当足腰に負担が強いられる事になるとは思われるので、余力を残した訪問プランは是非必要である様には感じられた。

2010年11月27日 (土)

佃城跡(京都府綾部市)

城跡は京都府綾部市忠町/佃町にあって、後でリポート掲載する予定でもある東中山城を頂点とした、山頂から南東側に突き出した丘陵尾根先端部に位置している。この山城の立地環境から考えれば、かつての小浜に抜ける街道は現在の県道1号にはあらず、既にリポート掲載を終えた折山、あるいは赤道城梨子ヶ岡城との位置関係から、上林川に沿っていたものと解釈すればよいのか、、、? 東中山城を山上本郭群とすれば、自ずと此方はその出城に相当するものとも考えられようが、距離的には随分離れているのが現状ではある。城史に関しての詳細は不明

1route 登城ルート

4tozanguti 直登口

3_1 城跡概念図

城跡を訪れるには、先に触れた折山城を起点とすれば分かり易いとは思われるが、県道1号沿いにある「河奈備神社」を目印として向かい、神社のほぼ向かい側の道路へ針路変更、その後は折山城の丘陵を左手に見ながらルート図を辿れば、直登取り付き地点に一番近い川沿いの空き地(駐車可能スペース)までは、難なく辿り着けるものとは思われる。後は概念図に示したルートで山上を目指せば、便宜上の北郭(物見程度)までは15分程度で到達出来よう。ただこの直登ルートは山裾の一部が植林地となっているので、藪漕ぎも無く上り易い反面、相当な激斜面の登山が強いられるので、その覚悟は多少必要となろう。個人的には下山を西側の尾根先端部にしたが、此方からの登山も更に厳しいものがありそうには感じられた。

10_yagura_heki 北郭と物見らしき土塁

17_shukaku_kita_heki 主郭北側

20_minami_kosikaku_1 南腰郭

13_kita_horikiri_1 大土塁と北堀切見所

14_horikiri_tate 状態の良い縦堀見所

25_nisi_horikiri_2 西堀切見所

この山城の形態は、鞍部を境として南北の峰に跨ったものであり、全体的には砦の域を出ない小規模な山城と言う事にはなるが、物見程度の北郭群より南郭群の方が比較的規模で勝る事から、ここでは南郭を主郭としたが、議論に及ぶほどの事ではないだろう。山上で目に留まった遺構は、長年の風雪によって切岸が曖昧となった郭跡を除けば、二箇所の堀程度でもあるが、北郭の斜面に施された堀切は状態も良く、片側が縦堀に繋がる様は付随する大土塁と並んで、非常に見応えを感じる事は出来た。個人的にはこの堀切見学だけの為に訪れたとしても、決して後悔に至る事はないものの様に目には映ったのである。

最初に砦規模の山城とはしたが、南北に跨る城域は比較的広いものでもあり、二箇所の堀切、及び地形に任せて削平された縄張りプランは、多少でもユニークと目に映ったことから、個人的には後でリポート掲載予定の東中山城と併せた訪問は、是非お薦したいのである。

2010年11月16日 (火)

長野城跡(京都府綾部市)

城跡は京都府綾部市睦寄町泉山にあって、既にリポート掲載を終えた弓削城から見れば、真東側に望める標高311mの山頂に位置している。上林川沿いに多く築かれた他の山城と同様に、現状城史に関しての詳細は不明でもある。

城跡を訪れるには、先に触れた弓削城や上林川を隔てた北側にある山内城(奥上林城)と訪問ルートは共通するが、県道1号から二王公園へ向かう分岐地点(交差点)からは、既にその山塊は目に入るので、確認は容易い筈である。直登取り付き地点は概念図には記したが、道路からも直ぐ目に留まる民家背後の墓地を目印(画像に注目)とすれば良いだろう。その横をかすめてそのまま山上を目指す事になるが、藪漕ぎのない厳しい斜面を一気に登ったとすれば、便宜上の北郭までは山裾からは15分程度の所要時間と思って頂ければ良いだろう。

1_1 登城ルート

5 城跡遠望

8 直登取り付き地点

1_2 城跡概念図

現状(十月)城跡は、意外に藪化までには至っておらず、山頂部と北尾根上の主要二郭で形成された縄張りプランも分かり易く、遺構の判別確認も容易に出来る状態にある。踏破した範囲内で当時の残存遺構として目に留まったものは全て概念図には記したが、郭跡を除けば堀切(一箇所)、土塁、郭切岸と言ったところになろうか。その中でも南尾根を断つ堀切は、片側が縦堀に繋がって落ち込む様(画像に注目)の状態が良い事もあって、非常に見応えを感じる事は出来た。

14_dorui 北郭の土塁見所

17_dorui_haigo_horikiri 土塁より北郭

23_shukaku 主郭北側

22_shukaku_heki_1 主郭西切岸見所

25_horikiri 堀切見所

26_tatebori_1 見事な縦堀

この山城に縄張り妙味を求める事は形態から察しても難しいが、比較的見て回りやすい状態にある事、シンプルな構造が故に縄張りプランの想像が付き易い事、遺構判別のし易さ、更に楚々とした山城の風情が充分味わえる事を思えば、間違いなく山城ファンの方にはお薦め出来る物件の一つとは言えよう。もちろん規模の大小を最初から問わない事が前提とはなるが、これから冬季にかけては更に見学し易い状態になるものと思われるので、既に上林地区においてリポート掲載を終えた、他の城跡と併せた同日訪問とすれば、更に城跡巡りも充実するのではないだろうか。

2010年10月28日 (木)

井根城跡(京都府綾部市)

城跡は京都府綾部市井根町奥山にあって、井根集落の中にあっても更に北に向かった、屋の途切れる北端の広大な台地上に位置しており、城跡は数軒の民家があるその更に背後の丘陵上に位置している。

城跡を訪れるには、今まで上林川沿いにある山城を数多くリポート掲載して来たが、同様のルートでもある県道1号(小浜綾部線)を利用して向かう事になる。このルートでは以前赤道城をリポートしたが、これを起点とすれば分かり易いとは思われる。十倉に入り赤道城を右手に望んで車を走らせれば、交差点を過ぎて1km過ぎた付近で左折、そのまま北上して井根集落に向かえば良い。後はルート図の如く、台地の南端に設けられた真っ赤な祠のある稲荷神社(画像に注目)を目印として目指し、概念図に記したルートで民家脇からその背後の墓地にある五輪塔を経由し、かつての大師道を利用して山上主郭を目指せば、民家脇からは5分程度で迷わず辿り着けるだろう。

1_1 登城ルート

4 城跡のある台地の遠望

11 進入口

1_2a 城跡概念図

この城跡の形態は、ほぼ概念図に示した通りと思って頂ければ良いが、比較的規模の大きい主郭に付随する帯郭と、南西尾根あるいは登山道中の南尾根上の削平地で成立したものと見受けられる。その中で明確に判別可能な当時の遺構は、郭跡を除けば主郭北背後を断つ堀切と切岸程度と思って頂ければ良いが、この堀切は現在でも当時のままとも思える様な残存状態を誇っており、V字形に掘削された形状は未だに原型を保持している。更に両岸は縦堀にも繋がるものであり非常に見応えを感じる事は出来た。結果的にこの城跡の見所は堀切だけと言っても良いとは思われるが、個人的には地形図から察せられる様に、この広大な台地上(現在では田畑として開墾されている)が城跡の一部として機能していた様にも窺われ、その更なる上部の丘陵上に築かれた築城環境そのものに惹かれたのである。稲荷祠のある台地先端部の削平地(現在観音堂敷地)からは、谷沿いを通して更にその先の集落まで見通せる(物見か?)環境にあり、この高低差のある台地そのものが立派に防備として一役買っていそうにも思えたのである。車道から北側に望める稲荷祠を眺めれば、その先端部は城域としての先端(画像に注目)部に見えなくもない、、、。

15 民家背後の五輪塔

19_minami_one_kaku 南尾根上の削平地

21_shukaku_kitagawa 主郭

31_horikiri_3 見事な堀切

32_horikiri_1 縦堀へ見所

24_heki 主郭南端切岸

城跡を個人的に評価すれば、先に触れたように見所遺構は堀切だけと言っても良いが、上林川のある街道筋から更に北へ奥まった、今でも当時でも辺境とも言える地にあるこの山城は、当時の築城時における立地環境まで考えれば、別な意味で山城ロマンに限りなく浸れそうに感じられたのである。興味を持たれた方には迷わず訪問をお薦めしたいが、縄張り妙味のある城跡ではないので、遺構に多くの期待をしない事が前提とはなるだろう。

2010年10月 8日 (金)

綾部 中山城跡(京都府綾部市)

城跡は京都府綾部市中山町城山にあって、「城山」の字名が語る様に、広大な「上宮神社」敷地からその背後に至る、丘陵最高所までが城跡と伝わっている様である。個人的には自然地形なのか当時の巨大空堀なのか判断は出来ないが、それが池に繋がる谷状地形を挟んで西側の丘陵地も探索踏破に及んだが、規模の大きい郭跡(屋敷跡にも窺える削平地)が連なっていたので、城域は相当広域に及んでいたものとも察せられた。もちろんこれらは近世にまで及んだ屋敷跡地(民間を含んだ)とも窺われるものであり、その当時のものがそのまま現在まで至っているものとは思われないが、、、城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、国道27号を進行してJR「淵垣駅」を目印として「上宮神社」を目指せば迷わず辿り着けるとは思われるが、ルート図の如く「淵垣駅」手前の信号より484号へ進路変更すれば、城跡の位置する丘陵は直ぐ右手側に視界に入る筈である、ここから目指す神社駐車場までは直ぐの距離にあるので、道順は概念図を参考にすれば分かり易いだろう。

1_1 登城ルート

1_2 城跡概念図

6_jinjya_sikiti_kaku 6_jinjya_sikiti_kaku_1 広大な神社敷地

10_sanjyou_kaku_2 山上主郭の現状

12_kita_kirikisi_1 主郭北側の切岸跡

15_yasiki_e_horikiridou 神社西側の地形見所

19_nisi_yasiki_dan_2 屋敷跡地かも

現状(九月)広大な規模を誇る神社敷地は、近世において造成整地拡張跡が窺えるので、相当地形改変があったとも思われ、当時の城跡の形態はほぼ見学者の想像に委ねられるとは思われるが、丘陵最高所に位置する主郭及び神社敷地までが本郭群であったものと想定出来るかも知れない。主郭は風化も藪化も相当進行して荒れ放題の様相を呈しており、地形からその形状を把握するのは至難の業とも思えた。辛うじて北側に唯一明確な切岸跡は窺えたが、他は長年の風化によって表土は流出し、郭外壁は相当曖昧な地形と化している。

現状この城跡に関しての情報は皆無に近く、発掘調査の有無、あるいは調査後の結果もリサーチしていないので、その実態も城域もはっきりしていないのだが、本来この城跡は形態(堀切、土塁の類は目に留まらなかった)から考えても、とても戦国期を乗り切った城跡の様には見受けられなかった。個人的には館城の性格を持ったものである様な気がしないでもないが、神社西側に展開される地形(堀切道、切岸跡、郭跡、空堀地形)の方がより城跡らしく感じられたのである。

城跡を個人的に評価すれば、見応えのある遺構は皆無に近いものであり、既にリポート掲載を終えた綾部地方の山城巡りの一環として、神社参拝ついでに覗いて見る程度の訪問なら、何とか面目も保てそうには感じられた。

2010年9月24日 (金)

松梨城跡(京都府綾部市)

城跡は京都府綾部市下八田町松梨にあって、文献などによってはその形態から館城(居館跡)として認識されている様であるが、訪問結果から先に述べれば、大空堀とそれに付随する大土塁、あるいは高い切岸で主郭を孤立させた佇まいは、伊賀地方で多く見受けられる館城を連想させるものであり、正しくそれに近いものとは感じられた。ただ当時誰の手によって築かれたものなのかは、現状城史に関しての情報は皆無に近く、館城でありながらこの城域の広さ、あるいはこの一帯が当時大槻氏の支配に及んだ範囲である事を考慮すれば、自ずと一族の拠った館城、あるいはその家臣の居館跡と考えれば良いのかも知れない、、、。 尚、西側の山上に向かう斜面には、かつてここが大槻氏の居住空間であったかの様に(推察)、家紋入りの墓石が単独で立並ぶ墓地が目に留まったので、取り合えずまだ未訪の方の参考までに、、、

城跡を京阪神側から訪れるには、国道27号を利用して綾部に入れば良いが、ルート図の如く「下八田陸橋」の手前の信号で右折して、下八田陸橋を通過して進入口を目指せばよい。陸橋を数十mも過ぎれば、道路沿いからそれらしい土塁と空堀は直ぐ目に留まる(画像に注目)筈であり、ここから城跡へ進入する事になるが、更に奥まで続く大空堀で遮られた大土塁壁が、見るものを必ず圧倒に導いてくれるはずである。

1 登城ルート

4 進入ルート

7_nyuuzanguti 進入口3 城跡概念図

現状(九月)主郭を始めとした城域の全てが雑木藪地あるいは竹林地となっているので、全体の見通しも利き難く、荒れ放題と化した郭跡は風化あるいは倒竹などによって非常に歩き辛く、とても見学し易い城跡とは言えないが、唯一最大の見所でもある大土塁や、それに付随する大空堀は、外見からほぼ全体像を窺う事が出来る状況(画像に注目)にあるので、高低差のある土塁及び幅のある空堀の醍醐味は、充分堪能する事が出来るものとは思われる。見所遺構は数少ないが、他では主郭下段に位置する広大な郭跡の片隅には古そうな石組み井戸を窺う事が出来た。これは当時の郭跡地が屋敷として近年まで使用された結果、当時掘られた井戸もそのままの状態で現在に至ったものとも考えられるが、発掘調査の結果を知らないので当然謎のまま終わりそうである。

10_daikarabori 10_daikarabori_4 大空堀と土塁見所

14_shukaku 主郭と土塁内壁

17_2maru 二の丸の現状

19_isigumi_ido 石組み井戸

20_nisi_kaku 西郭群の現状

現状城跡の東側は、近年の道路造成工事によって遺構も随分消失したものと察せられたが、道路沿いからも直ぐに拝める土塁、空堀には充分見応えは感じられたので、過去紹介した綾部地方の山城と併せた山城巡りとするのであれば、その移動中に少し立ち寄って覗いても、決して無駄には終わらないものと感じられたのである。

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