京都(丹後地方)の山城

2009年12月15日 (火)

中津城跡(京都府宮津市)

城跡は宮津市中津にあって、かつては栗田(クンダ)村として広域に渡る集落の一部であったものとされているが、海辺に面している中津集落の、直ぐ西側にある丘陵先端部がそれにあたる。当時は堀江伊予守の居城が伝えられており、現地で得た情報から察すれば、この人物はここから更に北側にある集落「小田宿野」周辺に本拠を構えた(場所は確定出来ず)とされる、小倉筑前守の配下にあった武将か、あるいはその一族の一人とも窺われる。ちなみにこの小倉氏は、上宮津城を本城とした小倉播磨守(一色氏の重臣)の一族でもあり、他の丹後の氏族と同様に、最後まで丹後攻略軍と攻防を続けたが、力及ばず主家と同様、細川氏によって滅ぼされている模様。更にこの小倉氏は、時代考証までは説明出来かねるが、丹波の細見氏(細見辻城主)出身とも伝わっているので、非常に興味深い話ではある。

城跡へは、宮津市内を走る国道178号より市道605号を経由して向えばよいが、中津集落付近からはルート図を参考にすれば、市道沿いからも直ぐ低丘陵は確認出来るはずである。進入口は画像に示したが、市道沿いにあるガレージ脇からは、郭跡を転用地とした墓地まで墓参道が繋がっているので、迷わず主郭までは到達出来るだろう。

Nakatu 登城ルート

8_tozanguti 進入口

Nakatu_2 城跡概念図

現状(11月)城跡は一部矢竹が密生している箇所もあるが、全体的に見学に差し支えるまでには至っていないので、概念図に示したまでの遺構は全て判別可能な状況にある。特別技巧を有した遺構も目に付かなかった事からも、縄張り妙味に満ち溢れた城跡とは言えないが、このほぼ当時のままとも見受けられる城跡の縄張りは、正しく賞賛に値するものでもあり、比較的見学し易い状況、あるいは進入口から5分とかからず主郭まで辿り着けるお手軽感を思えば、是非お薦め出来る城跡の一つと言う事にはなろうか。

13_minami_kaku2_1 南郭2

13_minami_kaku2 南郭1の切岸

17_higasi_kaku 東郭

26_shukaku_dorui_1 主郭背後の土塁見所

28_karabori 主郭北背後の空堀

18_shukaku_higasi_heki 主郭東切岸

31_hokutan_tatebori_2 北端の縦堀見所

自作概念図に示した様に、現存する遺構自体の見所が多い訳でもなく、見応えのある堀切(薬研堀)がある訳でもないが、個人的には遺構残存度の高い城跡の佇まいそのものが、城跡最大の見所でもあり、魅力である様にも感じられたのである。城跡は過去一般的に出版された文献などには記述もなく、ほぼ現地の情報だけを頼りにして臨んだのだが、ここまでの状態の城跡が拝めるとは、とても思ってもいなかったので、久し振りにアドレナリンの湧き出てくる訪城となった。尚、先に触れた小倉筑前守の城跡までは時間に余裕も無く、更に場所を特定する事も叶わなかったので、これは次回の山城巡りまでの楽しみとしたい。

2009年12月11日 (金)

惣村城跡(京都府宮津市)

城跡は宮津市惣にあって、北近畿タンゴ鉄道「宮津駅」からも望める、南東側にある低山の山上に位置しており、城域にある便宜上の北出郭には、現在「城寿神社」が建立されている。当時の城主としては、フルネームで北庄鬚九郎が挙がっているが、本来は丹後守護職にあった一色氏の居城(八幡山城の支城)であった事からも、この人物は推察にはなるが、一色氏家臣あるいはその一色氏の滅んだ後を受けた、細川氏の武将である可能性は高いものの様には思われる。詳細は不明

城跡を目指すには、北近畿タンゴ鉄道「宮津駅」を目印とすれば分かり易いが、ルート図に示した様に、駅から直ぐ車で渡れる踏切が近くにはないので、国道178号を走れば駅に向わず、国道から直接南下した方が良さそうには思えた。ルート図中の赤線を辿れば分かり易いとは思われるが、付近の道路は全て駐禁でもあり、車の駐車には少し難渋するかも知れない。山上主郭に向うには概念図には記したが、民家脇に道標のある「城寿神社」への参拝登山道を利用すれば、迷わず辿り着ける筈である(付近に駐車したとして10分内)。

Soumura 登城ルート

4 進入路

Soumura_4 城跡概念図

現状(11月)城跡は神社の建立された北出郭、あるいは最高所に位置する主郭から北側は比較的見学し易く、段郭群及び直立に近い状態の良い郭切岸などは、非常に目を楽しませてくれているが、便宜上の二の丸側(南側)付近だけは、倒竹などによって移動も出来ず、身動きも取れない状態、更に下草や矢竹が密生しているので、外見からは郭内部の地形を覗ける状況にないのが現実でもある。ただ他は見学に差し支えるまでには至ってはいないので、城跡全体とすれば比較的状態の良い山城と言えるのかもしれない。見る限りでは、土塁あるいは薬研堀などの様に、地形から直ぐ判別し易いインパクトのある遺構は目に留まらなかったが、南端の出郭境には、状態の良い箱堀(幅のある空堀)も見受けられ、多くの郭跡に窺われる状態の良い郭切岸と並んで、見応えは充分感じられた。他では西側斜面に数十段にも刻まれた段郭群、あるいは主郭東側の帯郭群には、下から見上げれば圧倒される事は請け合いとも思えた。ただ西段郭群に関しては、近世における治山事業の一環とも考えられるので、これは見た者が判断を下せばそれでよいのではないだろうか。個人的にはこの城跡の形態(低山ではあるが周囲は非常に急峻な地形である事、切岸の崩落を防ぐ為、あるいは防備の意味で狭く刻まれる必要があった)からも当時のものと思いたいが、、、。

15_kita_demaru_1 北出郭(神社)

20_shukaku_e 北より主郭切岸

25_shukaku 主郭内部

27_obi_yori_shukaku_heki 主郭東切岸見所

30_kitakaku_heki 北郭群切岸見所

46_nisi_dankaku_gun 西段郭群

39_hakobori_1 南出郭の箱堀見所

この山城も、他で見受けられる丹後地方の山城と同様に、風土のせいもあるのかも知れないが、当時を今に再現したかの様にも見受けられるものであり、遺構残存度は非常に高いものと目には映った。更に状態さえ良ければ賞賛に値する城跡である様には感じられたが、現状から見ても充分お薦め出来る城跡である事に変わりはないだろう。

2009年12月 6日 (日)

丹後明石城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町明石にあって、この地方では有名な作山、蛭子山古墳群の真東側の、山上及び尾根上に位置している。

この山城は、京都府の北部全域あるいは丹後地方にあっては、吉原山城、宮津八幡山城と同等か、それを軽く凌駕するほどの規模をもった、明石巨大城塞群と呼ぶに相応しい城跡かとも思われる。四峰に跨るほどの城域は、一般的な山城四城分に軽く匹敵するが如く、大規模を遥かに通り越した郭占有面積を誇っており、現状から窺える遺構残存度の高さ、及び遺構の判別し易さなどを含めなくとも、山城としては賛辞の言葉も見つからないほどの、大名クラスの城跡と目には映った。

現状、城史に関しては皆無に近い城跡であり、当時は市田氏の居城を伝えるのみでもあるが、これほどの山城が一般的にはほとんど公表されていない事実、あるいはこの丹後地方に存在している事自体が信じられない思いでもある。取り合えずこの山城を語り出せば限がないので、自身が入念ではないが、ほぼ四峰を歩き回って判別確認出来た遺構群を概念図中に示した。もちろん更に北東側に分かれた枝尾根までは踏破していないので、遺構もこの限りではないものとは思われるが、、、とにかく帰宅してもその興奮の余韻が収まらないほど、感動を与えてくれた城跡の一つでもある。

1 登城ルート

4 進入口

1_2 城跡概念図

20_naka 西郭群24_tatehori1_gawa_1

84_daihorikiri_1 神社背後の薬研堀見所

概念図を見ればある程度お分かり頂けようが、主要郭間は全て堀切で分断されており、それも非常に見応えのある薬研堀(幅のある箱堀も存在)に近いものであり、判別し易い片堀切状の縦堀も含めると、軽く14本以上を眼にする事が出来るはずである。起伏に富んだ地形を活かした縄張りプランもさることながら、急峻な地形(山上郭は突出して急峻)を含めて、山城としての醍醐味の全てを兼ね備えた城跡の様には感じられた。まだ未訪の方には、是非、是非訪問をお薦めしたい、正しく推奨に値する城跡と言えよう。

45_dobasi_karahori_1

山上郭北側の土橋付き空堀見所

50_dorui_karahori_2 山上郭北の空堀土塁見所

47_dorui_gawa_heki 北側より山上郭壁

55_sanjyou_kaku_dorui 山上主郭の土塁跡?見所

33_dai_horikiri_2 山上郭の凄い!西大堀切

73_daihorikiri 73_daihorikiri_1 北郭の大規模な箱堀見所

81_1 北郭群

城跡へは国道176号より作山、蛭子山古墳群を目印として目指せば分かり易いとは思われるが、登城スタート地点は古墳群の真東に位置する「慈徳院」からなので、車は寺院駐車場に預ければ良いものとは思われる。見学ルートは概念図に示した二通りが分かり易いのでベストとは思われるが、城域が広いので全域踏破となれば時間も有する事から、時間に余りゆとりのない方には、寺院背後から丘陵上まで山道が繋がっている、最短ルート(5分内)で到達可能な、便宜上の西郭群(一城に匹敵)だけの見学をお薦めしたい。最初から山上郭を経由した、便宜上の北郭あるいは西郭群までの全域見学をしたい方は、移動に際しては起伏は激しいが、概念図中にある寺院からスタートしても神社側の堀切側からのどちらからでも良いとは思われる。個人的には多少時間はかかっても、南東最高所に位置する山上主郭を含めて、北側の尾根上の郭群の堀切の見応え、あるいは高低差のある直立に近い切岸の醍醐味は、半端なものではないとも思えたので、是非概念図に描いた北端までは、足を延ばして頂きたいと思うのが本音でもある。(ここまで見学しないと、この山城の本質は見えて来ない)

尚、この城塞群は堀切によって主要な郭は分断されてはいるが、当然全て含めて明石城跡として良いものとは思われる。しかし、これだけの城域をもった山城なので、便宜上の北郭群も西郭群(寺院側)も、地元で付けられた城跡呼称は個々にあるのかも知れない、、、 個人的には遠距離訪問でもあり、ここまでの城跡とは思ってもみなかった事から、追跡調査も及ばず、更に明確にする事も出来なかったが、どうぞ悪しからず。

2009年7月26日 (日)

久住城跡(京都府京丹後市)

この城跡は丹後地方における数多い城跡と同様に、城跡の情報は皆無に近いものであるが、先にリポート掲載に及んだ佐野城跡などと似た様に、山城としての醍醐味及び見応え、更に縄張り妙味にも非常に富んでおり、個人的に訪れた丹後地方の山城の中でも縦堀(堀切)と横堀を絡ませた技巧を伴う堀切群の見応えは多少状態は悪いものの特筆すべきものがあり、是非訪問をお薦めする物件の一つでもある。別名木積山城と呼ばれており付近には木積神社も建立されており、戦国期においては菊井氏の居城が伝わるが、一色氏を筆頭に他の丹後地方の城跡と同様に細川氏により落城した模様。その後の詳細は不明

城跡は京丹後市大宮町久住(クスミ)にあって、城跡へ向うには男山城跡(板列八幡神社)を起点にすれば分かり易いが、男山城跡の西側で国道178号と交わる県道53号を「網野」に向いて北上すればよい。県道に任せて進行し久住地区に入れば、概念図に示した目印とする野菜直売所地点を右折、その数10m先の写真に示したカーブミラー横の山道(旧神社参拝道)より上れば、既に縄張り内とも思える旧神社敷地(郭跡の転用か?)までは直ぐ到達出来る、そこからそのまま高い切岸を登り切れば、直ぐにでも山上郭群が迎えてくれるはずである。

1route 登城ルート

5tozanguti 進入口

3k 城跡概念図

現状(六月)城跡は自然任せの藪化進行中にあり、規模の大きい主郭は地表も見えないほどの草木に覆われており、全体像を外見から窺うのはほぼ無理な状態にあるが、他はまだましな状態でもあり、当時の残存遺構と見受けられる便宜上の三の丸土塁、主郭櫓台土塁、空堀(横堀)、堀切、縦堀などの様に技巧を伴う遺構はほぼ確認判別出来る状態にはある。城跡における最大見所は主郭櫓台の北側背後に設けられた高低差を伴う二連に見える大小の空堀(堀切)、それに繋がる縦堀、東側に備わる縦堀と横堀を絡めた技巧を伴う遺構であるが、更に櫓台を兼ねたかの様な大土塁もそれに付随している。自ずと武者隠しにも似た地形になっているが、城跡にあっては一番醍醐味を味わえる地域と目には映った。この遺構群は倒竹や蔓延る草木などによって風化は激しいが、案外見通しは利くので全体像から判別確認はし易く、更に横堀跡を歩いてじっくり見学すれば少し複雑な地形も充分把握出来るものと思われる。全体的にも状態は良いとは言えないが、特に北側の堀切から技巧を伴うこの東側一帯の遺構群は決して見逃してはならない。

13_2maru_yori_shukaku_gawa 主郭西側切岸

36_3maru_dorui 三の丸土塁見所

14_2maru_nisigawa_1 二の丸西側

20_shukaku_minami_heki_1 主郭南切岸

22_shukaku_haigo_dorui_2 主郭櫓台土塁

25_horikiri_1 大堀切見所

26_horikiri_yori_higasi_dorui 東側空堀土塁見所

33_yokobori 東側の横堀

外見から全体像を窺う事も出来ないほどの雑木に覆われた主郭は、当然形状あるいは規模などは把握する事が出来なかったが、歩き回れば何とか規模を体感(全長60m前後か?)することは出来、郭内部には櫓台土塁と僅かな土塁跡も目にする事は出来た。外見からの視認は主郭以外では難渋する事はなかったのが幸いでもあり、概念図に示したものが現状判断出来た遺構、あるいは歩き回る事の出来た範囲であると思って頂ければよい。

2009年7月24日 (金)

府中城跡(京都府宮津市)

この城跡は京都府宮津市府中にあって、日本三景のひとつでもある景勝「天橋立」の全景を眺める事の出来る、傘松公園展望所から北東側山上に繋がる成相寺に至るまでの尾根上に位置しており、中腹に位置する今熊野城跡を含めて山上郭群にまで跨る三城で形成された、規模も相当大きく城域の広い山城と聞いた。当時は丹後守護職の地位にあった一色氏の重臣延永氏の居城と伝わっているが、詳細は不明である。

城跡に訪れた上での結論から先に述べれば、今回の訪問(六月)では所在も位置も確認し、城跡直ぐ真近の道路上まで接近しながらも、周囲はまるで太古のジャングルが甦ったかの様相でもあり、とても足を踏み入れる事の出来ない密生雑木藪、あるいは切り立つ外壁に行く手を阻まれ、安全面も考えてついに踏破は断念するに至った。しかし冬季における訪城においては、多少の冬枯れを想定に置けば何とか踏破も可能ではないかとも思え、取り合えずまだ未訪でこれから訪問する用意のある方の為に、現況報告と共に登城ルート図を示した。

1futyuu 登城ルート

4 南西側より遠望

8_tenbousho 成相寺西側の展望所

7 展望所より今熊野城

F_22 寺院内の切岸地形

F_5 F_21 山門前の広い造成地

2a 山門の案内板より

F_11 城跡

城跡へは国道178号より元伊勢と呼ばれる有名な「籠神社」を目印にして向えば分かり易いが、個人的には途中(道標がある)から山上近くに建立されている成相寺を目指して車を走らせ、そこからルート図に示した様に尾根伝いに南下するルートを選択した。事前にこの城跡における城域の広さは地形図あるいは情報によりある程度把握していたので、南北に渡る尾根全体を踏破するに於いてはこれが最善でもあり、最短ルートと推察に及んだからでもある。逆に南側から上るのであれば、「籠神社」側から傘松公園に向いて山上までロープウェイが運行しており、そこから歩いて山上を目指すか、寺院まではピストン運行しているバスも利用出来るはずである。もちろん図に示した公園敷地から配水施設の建つ敷地までも当時の縄張りとしてまず間違いのない処とは思われるが、近世に於ける公園化事業による地形改変も相当窺われ、ほぼ見学者の想像に委ねられるものでもある。

規模の大きい寺院敷地内あるいは山門南側の広範囲に造成された地域も、当時の郭跡地の様にも見受けられたが、ほぼ当時の面影は残ってはおらず、城跡の佇まいはほとんど感じられない状態でもある。山門からバス運行道を利用して南に下れば今回訪問予定の府中今熊野城跡に到達する事が出来るが、前述の如く道路脇のどこから取り付こうにも切り立った崖状であり、唯一取り付き可能な箇所は凄まじい藪と化しているのが現実でもあり、夏季訪問は絶対に避けた方が無難と思える山城でもある。個人的には冬季に何とかリベンジしたい気持ちは強いが、未踏箇所の現状と遺構残存度なりを想像すれば、再訪までする価値があるかどうかは疑問と言わざるを得ないような気はするのである。

2009年7月22日 (水)

男山城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町男山にあって、大規模な板列八幡神社敷地及びその西背後に繋がる尾根上が城域と見受けられる。当時においては高岡氏の居城が伝わるだけであり詳細は不明

城跡へは先にリポート掲載済でもある岩滝城を起点にすれば分かり易く、岩滝板列神社前の道路、あるいは国道178号よりそのまま北上すれば5分もあれば神社までは到達出来る。神社入り口の向かいにある公民館の広い駐車場が参拝者用の駐車場と見受けられたが確証は無い、そこからそのまま歩いて神社に上れば、今は造成拡張されている事もあって神社敷地から城跡の面影を感じる事は余り出来ないが、かつての郭跡を体感しながら主郭までは西側の堀切を越えれば直ぐ到達可能となっている。

自作概念図に示したものが現状の地形から遺構と判断したものであるが、郭跡を除けば主郭東西に横たわる二本の堀切、及び主郭西背後に備わる大土塁が主だった遺構であり、城跡最大の見所と言えるものでもある。北西尾根上は一部朽ちた祠跡が目に留まる削平地、あるいは連続する削平地となっており、恐らく当時の城域と推察しても良さそうには思われたが、断定可能な遺構も目に留まらなかったので確証は持てずにいる。便宜上主郭と位置付けた周辺が明確に遺構が判別可能な地域に相当し、現在ではここだけが唯一当時の遺構がそのまま現存している地域とも思われた。広い神社敷地がどれほど地形改変を受けたものか到底察しが付かず、広さはある程度体感出来ても、中々当時に思いを馳せる事は容易でないのが現実でもある。城跡は全域に渡って竹林雑木藪地と化しており、状態も自然任せの荒れ放題であるが、歩き回れば何とか縄張りを掴む事が可能となっているのが唯一の救いか、、。

1routa 登城ルート

5 公民館側より神社入り口

3o 城跡概念図

11_2 神社敷地

15_horikiri_1 15_horikiri_3 堀切

20_shukaku_kita_heki 主郭北切岸

19_shukau 主郭内

21_yagura_1 主郭大土塁見所

22_nisi_horikiri_4 西堀切見所

23_nisi_daikarabori堀切より 大空堀見所

城跡のほぼ半分以上に相当するものと見受けられる神社敷地から、当時の縄張りを想像するのは至難の技とも思えるが、この城跡の東西に設けられた堀切が縦堀に繋がる様は中々見応えがあるものでもあり、神社そのものが城跡である事を考えれば、訪問に際しても非常にお手軽感は強く、岩滝城などの山城巡りの一環として赴けば充分満足感には浸れそうとも思えるのである。

2009年7月20日 (月)

岩滝城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町岩滝にあって、板列神社の北側背後の丘陵先端部に位置している。当時においては千賀氏(大島城主)の居城と伝わっている様だが、戦国期に丹後を支配していた一色氏の傘下にあった城跡とも窺われ、この丹後地区にある他の城跡と同様に細川氏によって落城したか、あるいは投降して家臣に組み入れられたかの何れかである様には思われる、詳細は不明。

城跡へは弓木城跡を起点にすれば分かり易いが、弓木城跡駐車場の前の道路から、天橋立方面へ向いて車を走らせれば自ずと板列神社までは5分程度で到達出来る。神社に到着すれば最奥に位置する社殿横の小さな稲荷社の祠上から、そのまま切岸を登れば直ぐにでも南段郭群には到達可能となっている。

1route_2 登城ルート

8 直登口

3i 城跡概念図

13_kaku 南段郭群

17_minami1kaku 二の丸(便宜上南郭)

20_shukaku_dorui 主郭北土塁見所

21_kita_horikiri_1 大堀切見所

26_karabori_2 北郭間の空堀

30_hokutan_horikiri_3 北端の堀切見所

現状(六月)城跡は当然藪化は進行しているが、移動あるいは遺構見学に差障る状態にまでは至ってはいない、判別確認出来る遺構は概念図に示したものになるが、城跡規模も小さいのでほぼ遺構も縄張りも見極める事が出来る状態にあると言ってもよいだろう。社殿が直ぐ傍まで迫りながらも山上郭群は人の手が入らず恐らく当時のままであるとも見受けられ(ほぼ完存か?)、遺構残存度も非常に高いものであると自分の目には映った。見所としては主郭北側の高低差を伴う現状幅のある大堀切、最北尾根を遮る形の堀切は挙げられるが、主郭の土塁あるいは便宜上櫓台とした北側の空堀も充分判別出来る程度に現存しているので、非常に楽しめる材料ともなっている。特に大堀切の縦堀となって下まで落ち込む様は非常に見応えが感じられ、城跡最大の見所遺構と言ってもよいものだろう。全体的に個々の郭規模は小さいが、郭切岸に高低差がある事からも山城としての醍醐味は充分感じられ、訪問における圧倒的なお手軽さも加味すれば自ずとお薦め出来る城跡と言う事にはなろうか、、。この後には今日の山城巡りの一環として訪れる予定の男山城も控えており、先に寄った石田城跡の遺構の見応えには素晴らしいものがあったが、この岩滝城跡のレベルから想像すれば非常に期待が待てそうにも感じられた。尚、男山城の訪問リポートは次で掲載予定

2009年7月18日 (土)

石田城(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町弓木にあって、既にリポート掲載済でもある弓木城跡からみれば南西直線2kmの距離内にあり、ルート図の如く国道178号から石田橋を渡れば左手側に見える低山(丘陵)の尾根先端が城跡でもあり確認は容易い。(探せば小型車であれば路駐スペースは付近にある) 城跡へは県道2号より少し入った場所に、写真に示した登城道として今回利用する墓参道があるので、山上主郭までは迷わず辿り着く事が出来るはずである(墓地からは5分内)。城史に関しての詳細は不明であるが、弓木城(一色氏滅亡に至る最後の合戦地)と近い事からも弓木城主稲富氏の南を抑える支城あるいは出城の様にも窺われるが推察の域は出ない。

現状(六月)城跡は時期的にも当然草木は生え放題で自然任せの藪化進行中にあるが、一部の郭跡(北側)はそのまま集合墓地として転用されている事もあって、ある程度見通しの利く状態にはある。郭間の移動に難渋しない程度の状態であると思って頂ければよいのだが、見学した上での結論から先に述べれば、城跡は個人的予想を充分に上回る規模(全長200m以上)であり、直線的な尾根上を三箇所の大空堀(堀切)で分断する様は相当な見応えが感じられ、遺構のスケールの大きさには圧倒される事は請け合いの城跡と目には映った。

1route 登城ルート

4 進入墓参道

3isida 城跡概念図

7_kita_higasi_gedan_1 北東下段郭

8_higasi_gedan_dorui 北東郭土塁

11_kitakaku_dorui_dan_1 北郭土塁壇

12_kita_dai_karahori 北空堀見所

18_naka_daikarabori_1 中大空堀見所

19_naka_dorui_1 空堀内の土塁

25_shukaku_1 主郭の荒れた現状

26_minami_dai_karabori 南大空堀見所

形態としては直線的に郭を配しただけでもあり、シンプルな構造ともあって縄張り妙味には少し欠けるとは思われるが、前述の便宜上の主郭を挟む形で深く掘削された、二箇所の空堀は状態も比較的良く、幅も高さもあり、更に全体像が窺える事からも見学する分においては申し分のない遺構と感じられた。おまけに幅を伴う空堀上には土塁、あるいは土塁道とした高さのある土塁構築物まで窺う事が出来、機能を想像するだけでも楽しく見て回れそうに思えた。この二箇所の空堀見学だけで訪れたとしても、必ず満足感に浸れる事は間違いないと断言出来そうにも思われ、ほぼ無名に近い城跡ではあるが是非訪問をお薦めしたい物件の一つである。当然弓木城跡と比較対象すれば分かり易いと思われるが、史跡として整備の行き届いた弓木城跡からすれば、状態は比べるレベルには無いと言えるが、遺構の見応え、あるいは醍醐味に関しては同等か、又はそれ以上のものと目には映ったので、弓木城跡を訪問された際には、是非他では中々御目にかかれない凄い!二本の大空堀を見学して頂きたいと思うのが本音でもある。

尚、この無名に近いと思われた城跡は、弓木城を訪れた際の現地案内板には所在が記されてあった事からも、既に発掘調査は成されたものと解釈して良さそうにも思えたが、調査結果のリサーチにまでは及んでいないので悪しからず、、城史に興味を持たれた方は与謝野町役場で資料を取り寄せる事が可能かも知れない、、、?

2009年7月 4日 (土)

芦原城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市久美浜町芦原にあって小幡氏の居城が唯一伝わるが、資料も皆無に近いことから城跡の成立した時代背景も分からず、当時丹後攻略軍の細川氏の傘下にあった武将なのか、一色氏の配下にあった武将なのかは確かな情報も得られず、詳細は全く不明。

城跡へは先にリポート掲載を終えた佐野城を起点にすれば分かり易いが、国道312号は久美浜に向いて西進、後は目印となるものがないのでルート図を参考に、谷地区より一般道703号へ左折針路変更すればよい。芦原地区に入れば橋を渡る手前より右手側に城跡は視界に入る事からも、直ぐに確認する事は出来るはずである。城跡への進入口は概念図に示したように小橋を渡って直ぐに竹林地に入り、そのまま郭壁となる急斜面を上り切れば主郭までは5分とかからず到達可能である。(付近を探せば車の路駐スペースはあり)

現状(六月)城跡は住宅地が迫っている事からも竹林地が占める割合も多いが、山上における主要な郭群、あるいは現存する大堀切(三箇所の薬研堀)、北郭に備わる土塁、切り立った郭切岸などは判別確認出来る状態でもあり、遺構見学においては充分満足の出来るレベルにある城跡と言ってよいものと思われる。ただ東側あるいは北東側に踏み入るほど身動きも取れないほどの雑木竹林地となるが、本命はあくまでも山上本郭群なので見学する分には大して影響はないものと感じられる。城跡の形態としては余り高低差のない主要四郭を、地形に任せて大堀切を挟みながら掘削形成されたもので、地形上からか直線的に郭が配されていないところが非常にユニークな縄張りプランと感じられた。

1route_2 登城ルート

6 城跡進入口

3as 城跡概念図

10_kosi_yori_shukaku_heki 腰郭より主郭壁

15_shukaku 主郭内

20_kita_gedan_yori_shukaku 北中郭より主郭側

21_dai_horikiri_3 北堀切(薬研堀)見所

22_kitakaku_dorui 北郭土塁見所

26_higasi_dai_horikiri 主郭東堀切見所

29_fukukaku_higasi_horikiri 副郭東堀切見所

13 主郭南下段

25_yasiki_ka 屋敷跡か?

城跡最大の見所は郭間を遮る三箇所の大堀切で、直立に近い様相でもあり、高低差がある事からも見応えは素晴らしく、この城跡にあっては抜群の存在感を誇っており、正に一見の価値のある遺構と目には映った。他では丘城(ほぼ独立した低山)ならではの鋭角に切り立つ高い切岸も未だ健在であり、見学者にとっては非常に目を楽しませてくれる材料ともなっている。

丹後地方に於いてある程度知名度のある山城(丘城)として挙げられるのは、まず吉原山城、久美浜城、弓木城、少しランクが下がって下岡城と非常に数は少ないが、今回訪れたこの城跡は佐野城、意布伎城などと並んで知名度は無きに等しく、ほぼ無名に近いと言えるが遺構残存度は非常に高いものがあり、これから先は指定史跡として見直されても良いのではないか、とも思える城跡の様に感じられるのである。先に挙げた城跡の何れとセットで訪れても、充分満足感の味わえる山城訪問になるのではないだろうか。個人的には充分お薦め出来る城跡の一つである

2009年7月 2日 (木)

意布伎城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市久美浜町油地にあって、北近畿丹後鉄道宮津線「甲山」駅の一つ山を隔てた真南側の、独立して見える山の山上に位置している。先にリポート掲載を終えた佐野城の支城とも窺われ、当時丹後平定中の最中にあった細川氏の牽制あるいは攻撃から本城を守る為に築かれた城跡と伝わっている模様、詳細は不明

城跡へは佐野城を起点にすれば分かり易いが、国道312号を久美浜に向いて西進し、久美浜高校付近で一般道669号へ針路変更後、「甲山」駅を目指して北進する、後はルート図の如く道標は無いが、意布伎(イブキあるいはオブキ)神社を目指せば難なく登城口付近までは辿り着く事が出来る。

1route 登城ルート

7 進入墓参道

3ib 城跡概念図

神社もかつては砦跡とも窺え、背後には空堀とも見受けられる堀切地形が郭切岸(神社敷地)と並んで城跡の雰囲気を唯一醸し出している。目指す本郭へは概念図に示した墓参道よりかつての大堀切へ合流して向かう事になるが、堀切から北側が本命となる本郭群であり、便宜上の広大な二の丸を通過すれば山上郭までは低山なので直ぐにでも到達出来る。現状(六月)遺構として目に留まったものは集合墓地(南郭とした)との境にある大堀切、二の丸堀切側に備わる土塁、二の丸北側の空堀土塁跡、主郭の櫓台大土塁、櫓台北斜面上の堀切(縦堀)などであり、藪化は進行しており地表も荒れ放題と化してはいるが、これらは現状全て判別可能でもある。先に寄った佐野城が素晴らしかったので多少の期待を胸にして訪れたが、この時期でも藪漕ぎ箇所はほとんどなく、丘陵地形の為に山城としての醍醐味までは味わう事が出来なかったが、期待以上の城跡遺構に巡り合える事は出来た。概念図におけるまでが踏破した範囲であり、個人的に遺構と判別出来たものであるが、東西斜面上までは生い茂る雑木の為に外見からの視認も踏破も困難な状況でもあり、縦堀の有無までの確認には至れなかった。

8 堀切へ

10_horikiri_1 南大堀切見所

15_2maru_dorui_1 二の丸土塁見所

16_2maru 二の丸内

17_2maru_kita_karabori_1 二の丸北側空堀跡見所

22_shukaku 主郭内

25_shuaku_yagura 主郭櫓台土塁見所

28_kita_horikiri_1 北堀切

ほぼ無名に近く情報も皆無に近い城跡ではあるが、遺構残存度は非常に高く、5分程度あれば主郭まで到達可能なお手軽感、久美浜城からも約4km程度の距離でもあり、後でリポート掲載予定の芦原城も含めれば、三城同日訪問で充実した山城巡りを堪能する事が出来るのではないだろうか。

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