京都(丹後地方)の山城

2009年7月26日 (日)

久住城跡(京都府京丹後市)

この城跡は丹後地方における数多い城跡と同様に、城跡の情報は皆無に近いものであるが、先にリポート掲載に及んだ佐野城跡などと似た様に、山城としての醍醐味及び見応え、更に縄張り妙味にも非常に富んでおり、個人的に訪れた丹後地方の山城の中でも縦堀(堀切)と横堀を絡ませた技巧を伴う堀切群の見応えは多少状態は悪いものの特筆すべきものがあり、是非訪問をお薦めする物件の一つでもある。別名木積山城と呼ばれており付近には木積神社も建立されており、戦国期においては菊井氏の居城が伝わるが、一色氏を筆頭に他の丹後地方の城跡と同様に細川氏により落城した模様。その後の詳細は不明

城跡は京丹後市大宮町久住(クスミ)にあって、城跡へ向うには男山城跡(板列八幡神社)を起点にすれば分かり易いが、男山城跡の西側で国道178号と交わる県道53号を「網野」に向いて北上すればよい。県道に任せて進行し久住地区に入れば、概念図に示した目印とする野菜直売所地点を右折、その数10m先の写真に示したカーブミラー横の山道(旧神社参拝道)より上れば、既に縄張り内とも思える旧神社敷地(郭跡の転用か?)までは直ぐ到達出来る、そこからそのまま高い切岸を登り切れば、直ぐにでも山上郭群が迎えてくれるはずである。

1route 登城ルート

5tozanguti 進入口

3k 城跡概念図

現状(六月)城跡は自然任せの藪化進行中にあり、規模の大きい主郭は地表も見えないほどの草木に覆われており、全体像を外見から窺うのはほぼ無理な状態にあるが、他はまだましな状態でもあり、当時の残存遺構と見受けられる便宜上の三の丸土塁、主郭櫓台土塁、空堀(横堀)、堀切、縦堀などの様に技巧を伴う遺構はほぼ確認判別出来る状態にはある。城跡における最大見所は主郭櫓台の北側背後に設けられた高低差を伴う二連に見える大小の空堀(堀切)、それに繋がる縦堀、東側に備わる縦堀と横堀を絡めた技巧を伴う遺構であるが、更に櫓台を兼ねたかの様な大土塁もそれに付随している。自ずと武者隠しにも似た地形になっているが、城跡にあっては一番醍醐味を味わえる地域と目には映った。この遺構群は倒竹や蔓延る草木などによって風化は激しいが、案外見通しは利くので全体像から判別確認はし易く、更に横堀跡を歩いてじっくり見学すれば少し複雑な地形も充分把握出来るものと思われる。全体的にも状態は良いとは言えないが、特に北側の堀切から技巧を伴うこの東側一帯の遺構群は決して見逃してはならない。

13_2maru_yori_shukaku_gawa 主郭西側切岸

36_3maru_dorui 三の丸土塁見所

14_2maru_nisigawa_1 二の丸西側

20_shukaku_minami_heki_1 主郭南切岸

22_shukaku_haigo_dorui_2 主郭櫓台土塁

25_horikiri_1 大堀切見所

26_horikiri_yori_higasi_dorui 東側空堀土塁見所

33_yokobori 東側の横堀

外見から全体像を窺う事も出来ないほどの雑木に覆われた主郭は、当然形状あるいは規模などは把握する事が出来なかったが、歩き回れば何とか規模を体感(全長60m前後か?)することは出来、郭内部には櫓台土塁と僅かな土塁跡も目にする事は出来た。外見からの視認は主郭以外では難渋する事はなかったのが幸いでもあり、概念図に示したものが現状判断出来た遺構、あるいは歩き回る事の出来た範囲であると思って頂ければよい。

2009年7月24日 (金)

府中城跡(京都府宮津市)

この城跡は京都府宮津市府中にあって、日本三景のひとつでもある景勝「天橋立」の全景を眺める事の出来る、傘松公園展望所から北東側山上に繋がる成相寺に至るまでの尾根上に位置しており、中腹に位置する今熊野城跡を含めて山上郭群にまで跨る三城で形成された、規模も相当大きく城域の広い山城と聞いた。当時は丹後守護職の地位にあった一色氏の重臣延永氏の居城と伝わっているが、詳細は不明である。

城跡に訪れた上での結論から先に述べれば、今回の訪問(六月)では所在も位置も確認し、城跡直ぐ真近の道路上まで接近しながらも、周囲はまるで太古のジャングルが甦ったかの様相でもあり、とても足を踏み入れる事の出来ない密生雑木藪、あるいは切り立つ外壁に行く手を阻まれ、安全面も考えてついに踏破は断念するに至った。しかし冬季における訪城においては、多少の冬枯れを想定に置けば何とか踏破も可能ではないかとも思え、取り合えずまだ未訪でこれから訪問する用意のある方の為に、現況報告と共に登城ルート図を示した。

1futyuu 登城ルート

4 南西側より遠望

8_tenbousho 成相寺西側の展望所

7 展望所より今熊野城

F_22 寺院内の切岸地形

F_5 F_21 山門前の広い造成地

2a 山門の案内板より

F_11 城跡

城跡へは国道178号より元伊勢と呼ばれる有名な「籠神社」を目印にして向えば分かり易いが、個人的には途中(道標がある)から山上近くに建立されている成相寺を目指して車を走らせ、そこからルート図に示した様に尾根伝いに南下するルートを選択した。事前にこの城跡における城域の広さは地形図あるいは情報によりある程度把握していたので、南北に渡る尾根全体を踏破するに於いてはこれが最善でもあり、最短ルートと推察に及んだからでもある。逆に南側から上るのであれば、「籠神社」側から傘松公園に向いて山上までロープウェイが運行しており、そこから歩いて山上を目指すか、寺院まではピストン運行しているバスも利用出来るはずである。もちろん図に示した公園敷地から配水施設の建つ敷地までも当時の縄張りとしてまず間違いのない処とは思われるが、近世に於ける公園化事業による地形改変も相当窺われ、ほぼ見学者の想像に委ねられるものでもある。

規模の大きい寺院敷地内あるいは山門南側の広範囲に造成された地域も、当時の郭跡地の様にも見受けられたが、ほぼ当時の面影は残ってはおらず、城跡の佇まいはほとんど感じられない状態でもある。山門からバス運行道を利用して南に下れば今回訪問予定の府中今熊野城跡に到達する事が出来るが、前述の如く道路脇のどこから取り付こうにも切り立った崖状であり、唯一取り付き可能な箇所は凄まじい藪と化しているのが現実でもあり、夏季訪問は絶対に避けた方が無難と思える山城でもある。個人的には冬季に何とかリベンジしたい気持ちは強いが、未踏箇所の現状と遺構残存度なりを想像すれば、再訪までする価値があるかどうかは疑問と言わざるを得ないような気はするのである。

2009年7月22日 (水)

男山城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町男山にあって、大規模な板列八幡神社敷地及びその西背後に繋がる尾根上が城域と見受けられる。当時においては高岡氏の居城が伝わるだけであり詳細は不明

城跡へは先にリポート掲載済でもある岩滝城を起点にすれば分かり易く、岩滝板列神社前の道路、あるいは国道178号よりそのまま北上すれば5分もあれば神社までは到達出来る。神社入り口の向かいにある公民館の広い駐車場が参拝者用の駐車場と見受けられたが確証は無い、そこからそのまま歩いて神社に上れば、今は造成拡張されている事もあって神社敷地から城跡の面影を感じる事は余り出来ないが、かつての郭跡を体感しながら主郭までは西側の堀切を越えれば直ぐ到達可能となっている。

自作概念図に示したものが現状の地形から遺構と判断したものであるが、郭跡を除けば主郭東西に横たわる二本の堀切、及び主郭西背後に備わる大土塁が主だった遺構であり、城跡最大の見所と言えるものでもある。北西尾根上は一部朽ちた祠跡が目に留まる削平地、あるいは連続する削平地となっており、恐らく当時の城域と推察しても良さそうには思われたが、断定可能な遺構も目に留まらなかったので確証は持てずにいる。便宜上主郭と位置付けた周辺が明確に遺構が判別可能な地域に相当し、現在ではここだけが唯一当時の遺構がそのまま現存している地域とも思われた。広い神社敷地がどれほど地形改変を受けたものか到底察しが付かず、広さはある程度体感出来ても、中々当時に思いを馳せる事は容易でないのが現実でもある。城跡は全域に渡って竹林雑木藪地と化しており、状態も自然任せの荒れ放題であるが、歩き回れば何とか縄張りを掴む事が可能となっているのが唯一の救いか、、。

1routa 登城ルート

5 公民館側より神社入り口

3o 城跡概念図

11_2 神社敷地

15_horikiri_1 15_horikiri_3 堀切

20_shukaku_kita_heki 主郭北切岸

19_shukau 主郭内

21_yagura_1 主郭大土塁見所

22_nisi_horikiri_4 西堀切見所

23_nisi_daikarabori堀切より 大空堀見所

城跡のほぼ半分以上に相当するものと見受けられる神社敷地から、当時の縄張りを想像するのは至難の技とも思えるが、この城跡の東西に設けられた堀切が縦堀に繋がる様は中々見応えがあるものでもあり、神社そのものが城跡である事を考えれば、訪問に際しても非常にお手軽感は強く、岩滝城などの山城巡りの一環として赴けば充分満足感には浸れそうとも思えるのである。

2009年7月20日 (月)

岩滝城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町岩滝にあって、板列神社の北側背後の丘陵先端部に位置している。当時においては千賀氏(大島城主)の居城と伝わっている様だが、戦国期に丹後を支配していた一色氏の傘下にあった城跡とも窺われ、この丹後地区にある他の城跡と同様に細川氏によって落城したか、あるいは投降して家臣に組み入れられたかの何れかである様には思われる、詳細は不明。

城跡へは弓木城跡を起点にすれば分かり易いが、弓木城跡駐車場の前の道路から、天橋立方面へ向いて車を走らせれば自ずと板列神社までは5分程度で到達出来る。神社に到着すれば最奥に位置する社殿横の小さな稲荷社の祠上から、そのまま切岸を登れば直ぐにでも南段郭群には到達可能となっている。

1route_2 登城ルート

8 直登口

3i 城跡概念図

13_kaku 南段郭群

17_minami1kaku 二の丸(便宜上南郭)

20_shukaku_dorui 主郭北土塁見所

21_kita_horikiri_1 大堀切見所

26_karabori_2 北郭間の空堀

30_hokutan_horikiri_3 北端の堀切見所

現状(六月)城跡は当然藪化は進行しているが、移動あるいは遺構見学に差障る状態にまでは至ってはいない、判別確認出来る遺構は概念図に示したものになるが、城跡規模も小さいのでほぼ遺構も縄張りも見極める事が出来る状態にあると言ってもよいだろう。社殿が直ぐ傍まで迫りながらも山上郭群は人の手が入らず恐らく当時のままであるとも見受けられ(ほぼ完存か?)、遺構残存度も非常に高いものであると自分の目には映った。見所としては主郭北側の高低差を伴う現状幅のある大堀切、最北尾根を遮る形の堀切は挙げられるが、主郭の土塁あるいは便宜上櫓台とした北側の空堀も充分判別出来る程度に現存しているので、非常に楽しめる材料ともなっている。特に大堀切の縦堀となって下まで落ち込む様は非常に見応えが感じられ、城跡最大の見所遺構と言ってもよいものだろう。全体的に個々の郭規模は小さいが、郭切岸に高低差がある事からも山城としての醍醐味は充分感じられ、訪問における圧倒的なお手軽さも加味すれば自ずとお薦め出来る城跡と言う事にはなろうか、、。この後には今日の山城巡りの一環として訪れる予定の男山城も控えており、先に寄った石田城跡の遺構の見応えには素晴らしいものがあったが、この岩滝城跡のレベルから想像すれば非常に期待が待てそうにも感じられた。尚、男山城の訪問リポートは次で掲載予定

2009年7月18日 (土)

石田城(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町弓木にあって、既にリポート掲載済でもある弓木城跡からみれば南西直線2kmの距離内にあり、ルート図の如く国道178号から石田橋を渡れば左手側に見える低山(丘陵)の尾根先端が城跡でもあり確認は容易い。(探せば小型車であれば路駐スペースは付近にある) 城跡へは県道2号より少し入った場所に、写真に示した登城道として今回利用する墓参道があるので、山上主郭までは迷わず辿り着く事が出来るはずである(墓地からは5分内)。城史に関しての詳細は不明であるが、弓木城(一色氏滅亡に至る最後の合戦地)と近い事からも弓木城主稲富氏の南を抑える支城あるいは出城の様にも窺われるが推察の域は出ない。

現状(六月)城跡は時期的にも当然草木は生え放題で自然任せの藪化進行中にあるが、一部の郭跡(北側)はそのまま集合墓地として転用されている事もあって、ある程度見通しの利く状態にはある。郭間の移動に難渋しない程度の状態であると思って頂ければよいのだが、見学した上での結論から先に述べれば、城跡は個人的予想を充分に上回る規模(全長200m以上)であり、直線的な尾根上を三箇所の大空堀(堀切)で分断する様は相当な見応えが感じられ、遺構のスケールの大きさには圧倒される事は請け合いの城跡と目には映った。

1route 登城ルート

4 進入墓参道

3isida 城跡概念図

7_kita_higasi_gedan_1 北東下段郭

8_higasi_gedan_dorui 北東郭土塁

11_kitakaku_dorui_dan_1 北郭土塁壇

12_kita_dai_karahori 北空堀見所

18_naka_daikarabori_1 中大空堀見所

19_naka_dorui_1 空堀内の土塁

25_shukaku_1 主郭の荒れた現状

26_minami_dai_karabori 南大空堀見所

形態としては直線的に郭を配しただけでもあり、シンプルな構造ともあって縄張り妙味には少し欠けるとは思われるが、前述の便宜上の主郭を挟む形で深く掘削された、二箇所の空堀は状態も比較的良く、幅も高さもあり、更に全体像が窺える事からも見学する分においては申し分のない遺構と感じられた。おまけに幅を伴う空堀上には土塁、あるいは土塁道とした高さのある土塁構築物まで窺う事が出来、機能を想像するだけでも楽しく見て回れそうに思えた。この二箇所の空堀見学だけで訪れたとしても、必ず満足感に浸れる事は間違いないと断言出来そうにも思われ、ほぼ無名に近い城跡ではあるが是非訪問をお薦めしたい物件の一つである。当然弓木城跡と比較対象すれば分かり易いと思われるが、史跡として整備の行き届いた弓木城跡からすれば、状態は比べるレベルには無いと言えるが、遺構の見応え、あるいは醍醐味に関しては同等か、又はそれ以上のものと目には映ったので、弓木城跡を訪問された際には、是非他では中々御目にかかれない凄い!二本の大空堀を見学して頂きたいと思うのが本音でもある。

尚、この無名に近いと思われた城跡は、弓木城を訪れた際の現地案内板には所在が記されてあった事からも、既に発掘調査は成されたものと解釈して良さそうにも思えたが、調査結果のリサーチにまでは及んでいないので悪しからず、、城史に興味を持たれた方は与謝野町役場で資料を取り寄せる事が可能かも知れない、、、?

2009年7月 4日 (土)

芦原城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市久美浜町芦原にあって小幡氏の居城が唯一伝わるが、資料も皆無に近いことから城跡の成立した時代背景も分からず、当時丹後攻略軍の細川氏の傘下にあった武将なのか、一色氏の配下にあった武将なのかは確かな情報も得られず、詳細は全く不明。

城跡へは先にリポート掲載を終えた佐野城を起点にすれば分かり易いが、国道312号は久美浜に向いて西進、後は目印となるものがないのでルート図を参考に、谷地区より一般道703号へ左折針路変更すればよい。芦原地区に入れば橋を渡る手前より右手側に城跡は視界に入る事からも、直ぐに確認する事は出来るはずである。城跡への進入口は概念図に示したように小橋を渡って直ぐに竹林地に入り、そのまま郭壁となる急斜面を上り切れば主郭までは5分とかからず到達可能である。(付近を探せば車の路駐スペースはあり)

現状(六月)城跡は住宅地が迫っている事からも竹林地が占める割合も多いが、山上における主要な郭群、あるいは現存する大堀切(三箇所の薬研堀)、北郭に備わる土塁、切り立った郭切岸などは判別確認出来る状態でもあり、遺構見学においては充分満足の出来るレベルにある城跡と言ってよいものと思われる。ただ東側あるいは北東側に踏み入るほど身動きも取れないほどの雑木竹林地となるが、本命はあくまでも山上本郭群なので見学する分には大して影響はないものと感じられる。城跡の形態としては余り高低差のない主要四郭を、地形に任せて大堀切を挟みながら掘削形成されたもので、地形上からか直線的に郭が配されていないところが非常にユニークな縄張りプランと感じられた。

1route_2 登城ルート

6 城跡進入口

3as 城跡概念図

10_kosi_yori_shukaku_heki 腰郭より主郭壁

15_shukaku 主郭内

20_kita_gedan_yori_shukaku 北中郭より主郭側

21_dai_horikiri_3 北堀切(薬研堀)見所

22_kitakaku_dorui 北郭土塁見所

26_higasi_dai_horikiri 主郭東堀切見所

29_fukukaku_higasi_horikiri 副郭東堀切見所

13 主郭南下段

25_yasiki_ka 屋敷跡か?

城跡最大の見所は郭間を遮る三箇所の大堀切で、直立に近い様相でもあり、高低差がある事からも見応えは素晴らしく、この城跡にあっては抜群の存在感を誇っており、正に一見の価値のある遺構と目には映った。他では丘城(ほぼ独立した低山)ならではの鋭角に切り立つ高い切岸も未だ健在であり、見学者にとっては非常に目を楽しませてくれる材料ともなっている。

丹後地方に於いてある程度知名度のある山城(丘城)として挙げられるのは、まず吉原山城、久美浜城、弓木城、少しランクが下がって下岡城と非常に数は少ないが、今回訪れたこの城跡は佐野城、意布伎城などと並んで知名度は無きに等しく、ほぼ無名に近いと言えるが遺構残存度は非常に高いものがあり、これから先は指定史跡として見直されても良いのではないか、とも思える城跡の様に感じられるのである。先に挙げた城跡の何れとセットで訪れても、充分満足感の味わえる山城訪問になるのではないだろうか。個人的には充分お薦め出来る城跡の一つである

2009年7月 2日 (木)

意布伎城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市久美浜町油地にあって、北近畿丹後鉄道宮津線「甲山」駅の一つ山を隔てた真南側の、独立して見える山の山上に位置している。先にリポート掲載を終えた佐野城の支城とも窺われ、当時丹後平定中の最中にあった細川氏の牽制あるいは攻撃から本城を守る為に築かれた城跡と伝わっている模様、詳細は不明

城跡へは佐野城を起点にすれば分かり易いが、国道312号を久美浜に向いて西進し、久美浜高校付近で一般道669号へ針路変更後、「甲山」駅を目指して北進する、後はルート図の如く道標は無いが、意布伎(イブキあるいはオブキ)神社を目指せば難なく登城口付近までは辿り着く事が出来る。

1route 登城ルート

7 進入墓参道

3ib 城跡概念図

神社もかつては砦跡とも窺え、背後には空堀とも見受けられる堀切地形が郭切岸(神社敷地)と並んで城跡の雰囲気を唯一醸し出している。目指す本郭へは概念図に示した墓参道よりかつての大堀切へ合流して向かう事になるが、堀切から北側が本命となる本郭群であり、便宜上の広大な二の丸を通過すれば山上郭までは低山なので直ぐにでも到達出来る。現状(六月)遺構として目に留まったものは集合墓地(南郭とした)との境にある大堀切、二の丸堀切側に備わる土塁、二の丸北側の空堀土塁跡、主郭の櫓台大土塁、櫓台北斜面上の堀切(縦堀)などであり、藪化は進行しており地表も荒れ放題と化してはいるが、これらは現状全て判別可能でもある。先に寄った佐野城が素晴らしかったので多少の期待を胸にして訪れたが、この時期でも藪漕ぎ箇所はほとんどなく、丘陵地形の為に山城としての醍醐味までは味わう事が出来なかったが、期待以上の城跡遺構に巡り合える事は出来た。概念図におけるまでが踏破した範囲であり、個人的に遺構と判別出来たものであるが、東西斜面上までは生い茂る雑木の為に外見からの視認も踏破も困難な状況でもあり、縦堀の有無までの確認には至れなかった。

8 堀切へ

10_horikiri_1 南大堀切見所

15_2maru_dorui_1 二の丸土塁見所

16_2maru 二の丸内

17_2maru_kita_karabori_1 二の丸北側空堀跡見所

22_shukaku 主郭内

25_shuaku_yagura 主郭櫓台土塁見所

28_kita_horikiri_1 北堀切

ほぼ無名に近く情報も皆無に近い城跡ではあるが、遺構残存度は非常に高く、5分程度あれば主郭まで到達可能なお手軽感、久美浜城からも約4km程度の距離でもあり、後でリポート掲載予定の芦原城も含めれば、三城同日訪問で充実した山城巡りを堪能する事が出来るのではないだろうか。

2009年6月30日 (火)

佐野城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市久美浜町佐野にあって、同じ町内にあって既にリポート掲載を終えた竹藤城跡からみれば南へ直線約3kmの位置にあり、それほど遠くの距離にはない。ほぼ無名に近い城跡ではあるが佐野備前守の居城と伝わっており、後で丹後を支配する事になる細川氏によって落城した模様である。付近にお住まいの年配の男性からその当時の話を聞いたところ、「佐野城側では川沿いに面した急斜面に油をまいて滑りやすくする事によって、更に攻め手から城を防備する作戦に出たそうであるが、逆に火を放たれて城は炎上し落城した」との事であり、今となっては失笑するばかりの嘘のような当時の戦模様である。

城跡へは京阪神から向う場合、国道426号より482号を経由して久美浜を目指して車を走らせれば良いが、国道482号と国道312号の交わる交差点の川を挟んで直ぐ東側に聳える低山が目的地となる城跡であり、国道からも直ぐ確認する事は出来る。ルート図に示した様に312号へ右折して数100m東側の国道沿いにある、僅かに入り口と見られる入山口(夏草に覆われているが探せば分かる)に向えばよいが、夏草を少し掻き分けて中に進入して行くと、自ずと屋敷跡にも窺える無数の段状に連なる削平地が目に留まる、それと平行して山上まで連なる東段郭群に沿って上れば難なく主郭までは到達出来る(10分程度)。

1route_2 登城ルート

6 入山口

3sa 城跡概念図

現状(六月)城跡は藪化及び風化は進行中にあるが、この時期でも縄張り内の移動に難渋する事は無く、遺構も全体を通してほぼ判別可能な状態にある。外見から全体像を見渡す事は当然無理ではあるが、案外箇所によっては見通しも利くので見学し易い状態にあると言っても良いだろう(冬季に訪問すれば更に良い状態と思える)。城跡の形態としては川に沿った尾根上の東西に跨って郭が展開されるもので、最高所に位置する主郭から東側に数十段にも及ぶ郭群、更に家臣団の屋敷跡にも窺える無数の段郭群、主郭西側は急斜面を下りれば主郭と占有面積がほぼ同等かそれ以上とも窺われる規模の大きい西出郭が配されており、縄張り変化にも富んでおり非常に目を楽しませてくれる山城である。

18_dorui_1 東郭群の土塁見所

23_higasikaku_jyoudan_dorui_3 東郭群最上段の土塁見所

37_nisidemaru_heki_1 西出郭へ

39_demaru_minamigawa 出郭南側

50_shukaku_1 主郭内

54_kita_yakenbori_4 北大堀切見所

56_saihoku_horikiri 北出郭の堀切

61_yasiki最上段の屋敷跡とも窺われる平地  

見所としては東郭群の最上段に備わる郭を仕切る二連の状態の良い大土塁、主郭北側尾根を分断する高低差を伴う素晴らしい堀切(薬研堀)、西出郭の鋭角な切岸、居館とも見て取れた広い削平地上の土塁郭など探せば遺構は目白押しでもあり、飽きを来させず見て回る事が出来る状況でもある。自作概念図に示した様に地形を活かしたユニークな縄張りプランそのものも見所であり、最近コンパクトな縄張り形態の山城を多く訪問しているせいもあってか、この山城は縄張り妙味もあって特に素晴らしいものの様に目には映った。山上主郭までは急斜面を上る必要も無く、この時期でもそれなりに動き回れる状態の良さ、あるいは遺構の醍醐味を考えれば当然推奨に値する城跡でもあり、丹後地方に訪れた際には是非覗いて頂きたい、これぞ山城と呼べる本格さの漂う城跡である。

2009年5月21日 (木)

竹藤城跡(京都府京丹後市)

この城跡は先にリポート掲載に及んだ盛岡城の麓にある貴船神社より、数10m東側に移動した木橋のある場所が直登進入口にあたり、今回の山城巡りの中の訪問予定には入っていなかったが、盛岡城の城山所有者の方からこの本城の方がもっと大規模でもあり、井戸跡なども残っていると聞いたので迷わず寄って遺構見学する運びとなった。かつては木橋を渡った大手にあたる谷沿いから登山道もあったようだが、現在は踏み跡すら残っておらず直登は余儀なくされる状況下にある。個人的には参考ルートと概念図に示した東側急斜面(崖に近い)最短ルートを10分内で一気に上り切ったのだが、下山ルートでもある二箇所からが一番直登として取り付きやすく、斜面も少しはおだやかである様には感じられた。

城史に関しては竹藤左京進の居城を伝えるのみでもあるが、地元の方に聞いた話ではこの竹藤氏は一色氏の滅亡後は細川支配による丹後で臣下として活躍し、江戸時代から更に明治時代に至るまでは家名も存続した様であるらしいが、、詳細は不明

現状(四月)城跡は盛岡城に負けず劣らず藪化は深刻化しているが、複雑な縄張り形態でもなく、特に技巧を有した遺構も存在していないので、歩き回れば何とか遺構の判別確認及び城跡の縄張りあるいは規模などを体感する事が可能と言える状態にはある。もちろん枯れ木の密生によって全体の見通しは悪いが、高く切り立つ切岸、堀切(一箇所確認)などは充分見て取れる状況でもある。井戸跡はこの状況下においては探し当てる事が叶わなかったが、自宅に戻って文献を見入っていると、確かに井戸跡あるいは当時の武家屋敷跡地が残存している様には記載されてあった。地元の方から事前に聞いた様に流石に竹藤氏本城とするに相応しい規模、あるいは高い切岸による堅固さも兼ね備えており、見応えもある事から充分満足の行く訪城と言えるものにはなった、ただこの深刻な藪化は非常に残念ではあるが(夏季訪問は禁物!)、、 尚ルート図に示したタチ(館)と現在でも呼ばれている辺りが竹藤氏の居館跡であると地元の方に聞いた情報であり、個人的にはこの城跡が今日を締めくくる最終の山城巡りとなった関係で探索は叶わなかったが、まだ未訪の方の参考までに。

二城併せれば確実にお薦め出来る城跡と言えるのではあるが、ここまで藪化が激しいと興味を持たれた方のみが対象の山城として良いのかも知れない。

1route_2 登城ルート

6 城跡進入口

3ta 城跡概念図

9_higasi_yori_shukaku_heki 主郭切岸

15_shukaku 主郭

17_minami_horikiri 南斜面の堀切

22_gedan2_tate_dorui 西下段2の土塁跡

25_nisi_kaku_gun_1 西郭群の現状

2009年5月20日 (水)

盛岡城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市久美浜町竹藤にあって、京都では有名な貴船神社より古くは御霊分けの由緒を持つと言われる、同名の神社北背後の山上尾根に位置している。野村和泉守の居城を伝えるが、この城山の所有者に聞くところによれば川を挟んだ対岸の丘陵上にある竹藤氏本城とは支城あるいは出城の関係であるらしく、この周辺には竹藤氏の居館跡や小さな砦跡がまだ数多く残っているそうである。尚、この竹藤氏に関しては当時の丹後守護職でもあった一色氏の重臣四人衆の中の一人であるとの話でもあった。

城跡へは国道312号より県道20号に入れば、目印となる竹藤集落の道路沿いにある貴船神社は直ぐ見つけることは出来る、車を路駐すれば神社背後から多少の藪漕ぎは必要とされるが、そのまま斜面を直登すれば自ずと南側に備わる堀切までは10分もあれば到達可能である。

現状(四月)城跡は相当藪化も深刻化しているが、冬枯れのせいもあって枯れ枝も多く、山上における残存遺構はほぼ確認出来る状態にはある。全体像の視認には中々難渋するが、城跡最大の見所でもある南北尾根を分断する大堀切、あるいは郭内における土塁跡、切岸、虎口跡は傍まで寄れば明確に判別出来る状態でもある。小規模な城跡の為に縄張り妙味までは求められないが、特にこの二本の堀切は状態も良いもので相当な見応えがあり、この堀切見学がこの山城の全てと言っても過言では無い様にも思われるのである。冬枯れ後でもこの藪であれば状態が良くなると言った改善は全く無理な話で、城山の所有者も高齢である事から、これから先タイムリーな訪問はあり得ない様にも感じられた。小規模ではあるが本格的な城普請により築かれたと見受けられるこの山城に関しては、夏季訪問は絶対に禁物とは思えるが、梅雨時までの訪問であれば充分見学に値する山城である様には目に映った。

1route 登城ルート

5 直登進入口

3mo 城跡概念図

8_minami_horikiri_5 南堀切見所

13_fuku_kaku 副郭

14_fuku_yori_shukaku_heki_1 主郭切岸

22_shukaku_nisi_heki 帯郭より主郭壁

15_shukaku_2 主郭内の現状

18_kita_horikiri_3 北堀切見所

2009年5月 8日 (金)

船山城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市網野町郷にあって、北近畿タンゴ鉄道と県道17号の交わる踏み切りより川を挟んで西側の丘陵上に位置しているが、城史に関しての詳細は不明

城跡へは目印となる大きな建物や施設も見当たらないので、ルート図と概念図を参考に訪れて頂くしかないが、峰山町から県道17号を利用して北上するのであれば前述の踏み切りを過ぎれば次の道路で左折、更に図の如く道路に任せて進み、城跡の南端に位置する墓地への進入口目指して進行すればよい(車は路駐スペースあり)。車を降りればそこから集合墓地を経由して北に向いて歩けば自ずと城跡には5分もあれば辿り着ける筈である。

現状(四月)城跡は相当藪化も進行しているが、遺構として明確に判別確認出来るのは郭跡を除けば、主郭と見受けられる小規模な郭跡に備わる二連の方形土塁壇(機能不明)、更に東郭へ繋がる郭境にある空堀と櫓台に見える方形土塁北郭及び西郭の切岸などであり、特筆すべき技巧を有した遺構は眼に留まらなかった。縄張りも現在集合墓地となっている尾根上数100mに渡って郭の展開は予想されるが、ここまで墓地として造成整地されておれば中々当時の縄張りの形態を想像するのは難しい状況でもある。現状城跡のほぼ半分以上は冬枯れしているとは言え雑木竹林地と化しており、中々満足の行く見学は出来ない状態にあるが、これから先も決して良いほうに改善されるとは予想し辛く、個人的には非常に評価し難いが、但馬地方から丹後地方にかけての多くの丘城に共通して見受けられる、櫓台にも見て取れる対面する方形土塁壇が備わっている事からも、充分見学する価値はある様には思われたのだが、、、まだ未訪で興味を持たれた方のみが訪問の対象となる城跡と言う事になるのかもしれない、、

1route_5 登城ルート

5 進入口

3fu 城跡概念図

10_shukaku_dorui_dan_1 主郭土塁壇

11_higasi_karabori 12_karabori_dorui 東側空堀と方形土塁見所

13_higasi_monomi_gawa 東削平地

8_higasikaku_heki 西郭切岸

19_kitakaku_gawa 北郭

尚、ルート図には砦跡と記したが明らかに城跡遺構と判断出来る(独自の判断)二本の堀切の備わる小規模な郭跡が西側の別尾根先端で確認出来たので、ついでに現況報告させて頂いた。

2009年5月 7日 (木)

下岡城跡(京都府京丹後市)

この山城は町史跡と認定されながらも現状相当藪化進行中にあり、状態は良いとは言えないが細部にまで眼を配れば、残存している遺構の判別確認はほぼ出来る状態にはある。遺構としての堀切、縦堀などは多少技巧的でもあり、井戸跡あるいは郭切岸なども未だ健在でもある事から、縄張り妙味を含めた山城を体感する上では当時に思いを馳せる事も容易であり、風化中である遺構を含めても遺構残存度は極めて高く、藪城ではあるが是非訪問をお薦めしたい山城として現況をリポートする運びとなった。

城跡は京都府京丹後市網野町下岡にあって、北近畿タンゴ鉄道「網野駅」からは北西側の低山山上に位置しており、当時では高屋氏の居城を伝えるが詳細は不明。現在城跡見学としての山道も見当たらず直登を余儀なくされたが、直登進入口は画像を掲載した道路沿いに「高天山登山口」と道標のある場所からで、ルート図の如く尾崎神社の背後を回り込んで尾根沿いに上るか、あるいは下山ルートとした赤線ルートで谷沿いに上っても城跡には20分内で到達する事が出来る。案外民家脇から谷沿いに上る方が分かり易い(最短ルート)かも知れないが、、、ただ前者のルートの場合、まともに登山道に向えばそのまま高天山に上ってしまうので決して道に任せては進まない事!

現状(四月)城跡は前述の様に相当藪化は進行(特に本郭群)しているが、個人的にも遺された遺構群である特に堀切(縦堀を含めた)は決して期待はずれに終わる事は無いにも思えるので、多少の藪でも我慢出来る方には是非お薦めしたいと思う。今日における地方財政(史跡維持費)から考えても、これから更に城跡が良いほうに改善されるとはまず思われ難く、夏季訪問(梅雨以降)さえ避ければまだ充分見学出来る状況にあるのではないかとも予想される、、、

1z 登城ルート

6_tozanguti 登山口目印

3si 城跡概念図

13_dai_horikiri 西堀切見所

36_dai_tatebori 大縦堀見所

20_shukaku_noboridorui_2 主郭上り土塁見所

15_shukaku_heki_1 主郭切岸

28_kita_gedan2_1 北郭群

23_nantou_horikiri_1 南東堀切見所

30_ido_ato_1 井戸跡見所

34_horikiri_dorui 北空堀土塁見所

2009年4月30日 (木)

丹後田原城跡(京都府宮津市)

TAKUよりお知らせ

既にゴールデンウィークとして連休に突入された方も居られると思いますが、私も連休中はプライベートとして家を空ける事も多く、その間のブログ更新(5/1日より)は流石に無理となります。5/7日からは再びブログは更新して行きますので、どうぞご期待の上ご拝見下さい。連休中は山城巡りに精を出される方も少なくないとは思われますが、低山と言えども直登するしか方法の無い山城も多く、安全面においては侮れない険峻な山城も数多く存在します、今更言うまでも無いとは思いますが、足元の安全面あるいは緊急を要する場合の最低限度の備品は充分確保の上で現地に赴かれ、自然と触れ合いながらより山城巡りを楽しんで頂きたいと思います。

(これより本文) この城跡は京都府宮津市田原にあって龍燈寺北背後の丘陵上にある、小出氏の居城が伝わるが詳細は不明。城跡へは先にリポート掲載を終えた岩ヶ鼻城跡あるいは伊根城跡を起点にすれば分かり易いが、国道178号より北上を続け岩ヶ鼻、大島トンネル(山上付近に大島城跡がある)を抜ければ一般道652号へ左折針路変更、そのままヘアピンカーブの連続する道路を上り切り、後はルート図の如く田原地区にある龍燈寺(無住)を目指せば難なく辿り着く事が出来る。寺院背後より墓参道を利用すれば5分とかからず山上主郭までは到達出来る。

現状(四月)城跡はほぼ全域が集合墓地となっており、近年どこまで地形改変があったのかは全く想像も出来ない状態にあるが、集合墓地自体が相当古いものである為に郭形状などは当時の郭跡の転用と考えれば、ある程度推察出来そうには思える。本郭と呼べる中央に小規模な櫓台と見受けられる地形も眼に留まったが、全て墓地と化しているので当時に思いを馳せる事は非常に難しいのも現状である。ただここから西側に向いては削平地、郭切岸、あるいは一部土塁跡の残る段郭群跡と窺われる墓地化していない区域もあるので、多少城跡の佇まいを感じる事は出来た。本郭群の東側には現状だけ見れば凄いと思わせる堀切道(切り通し)があるが、これは当時備わっていた堀切を近年に造成拡張したものの様には感じられた。

1route1 登城ルート

4_2_2 進入路

2a 寺院城跡の由来

6_kiritoosi 本来は堀切か?

9_shukaku_e 主郭虎口

15_higasi_yori_shukaku_gawa 10_shukaku 本郭群

14_higasi_gawa 東段郭群

城跡は見た範疇では規模も小さく墓地としてどこまで地形改変が行われたのかは見当も付かないので、当然どこまでが当時の遺構であるのか判別も難しく、見学者にとっては城跡の佇まい、あるいは雰囲気を感じる事がこの城跡を味わえる唯一の手段なのかも分からない。ただ北側斜面も含めた城跡全域を全て踏破した訳ではないので、規模が小さいと思えた縄張り、あるいは遺構残存度は低いと目に映った遺構群もこの限りでは無いのかも知れないが、、、

尚、前述の大島トンネルの東側山上にある大島城跡も山上を踏破したが、ほとんど藪漕ぎの連続でもあり、現状凄まじい藪城である為にとてもお薦め出来る城跡ではないと判断したが、マニアックな山城ファンも居られると思われるので一応登山ルートだけは記した。確認出来た遺構は山上郭跡及び南側斜面の二本の堀切のみ。1route_4

大島城跡登城ルート

Oosimajyou 進入路

Oosimajyou_1 山上郭の現状

Oosimajyou_2 堀切の現状

2009年4月29日 (水)

高尾城跡(京都府宮津市)

城跡は京都府宮津市里波見にあって、集落の中心を流れる波見川の河口真北に位置する丘陵上にあり、現在高峰神社のある背後より真北側に向いた丘陵全域が城域と見受けられる。谷川氏あるいは高屋氏の居城を伝えるが城史に関しての詳細は不明

城跡へは国道178号を伊根町に向いて北上、里波見地区に入ればルート図の如く高峰神社を目指せば難なく到達出来る。社殿敷地も近年における造成整地によって相当地形改変が窺われ、当然縄張りの上からも本来郭跡であった可能性は高いと見受けられるが推察の域は出ない。社殿背後の緩い傾斜地をそのまま北側に上れば既に城域でもあり、北側に延々と続く細長く広大な削平地を眼にする事が出来る。

現状(四月)城跡に複雑な遺構などは眼に留まらず、大味な縄張りである為に郭跡を除けば堀切(北端一箇所)、土塁、虎口跡、鋭角な郭切岸といった処が当時の残存する遺構群と見受けられ、特筆すべき技巧を有した遺構には巡り合えなかった。ただこの城跡は大味ではあるが地形上からか、丹後地方にあっては珍しくない高低差を伴う切岸あるいは鋭角な堀切も見当たらず、逆に非常にユニークさあるいは新鮮さを感じる事が出来た。本郭群の東側は屋敷跡の様にも見受けられた段郭群を挟んで直ぐに海岸線となっており、国道数10m真下までは岸壁工事は成されてはいるが、当時でも絶壁に近く人馬も寄せ付けない形状であった様にも窺われた。

1route_3 登城ルート

4_2 南より進入路

3taka 城跡概念図

6 進入口

11_higasi_dankaku 東段郭群の切岸

12_shukaku_minami_koguti 主郭平虎口

23_shukaku_minami_gawa 主郭内

14_shukaku_koguti 主郭西虎口見所

16_koguti_sita_kaku 西虎口下段郭

19_shukaku_nisi_heki 主郭西切岸

個人的にはこの館城の性格を持つ規模の大きい城跡には、本来の詰城ともなる山上郭群が存在するのではと思うのではあるが、地形上から考えてもほぼ独立したこの城跡のある丘陵から隣接したそれらしい山塊も見当たらず、無名に近い城跡でもある為あるいは城跡に関する情報も少ない事から、詰城の存在の確認すら出来ないでいるのが現状でもある。

城跡から「凄い!」と言えるものを感じる事は出来なかったが、国道沿いからも直ぐ望める位置にあり、車を停めて5分とかからず城跡に到達出来る手軽さを考えれば、充分見学に値する城跡であると言えるのではないだろうか。

2009年4月28日 (火)

岩ヶ鼻城跡(京都府宮津市)

城跡は京都府宮津市岩ヶ鼻にあって、国道178号が抜ける岩ヶ鼻トンネルの真上から南側尾根上の先端までが城跡と見受けられ、本来南端の神社から北側背後に至るまでの尾根上に城跡目星を付けて現地に赴いたのだが、実際には地元の方による案内絵図により山上(展望所がある)に至るまでが古城として取り込まれた山城ということが判明した。この城跡も他の丹後地方の城跡と同様に細川氏支配によるまでは一色氏の傘下であったとは思われるが、橋本備後守の居城を伝えるのみで詳細は不明。

城跡へは先にリポート掲載に及んだ伊根城と同様に国道178号から「天橋立」経由で岩ヶ鼻トンネルを目指せばよいが、図に示すトンネル手前の国道「日ヶ谷口」交差点の脇道から神社経由で山上に向かう登山道があるので車は付近に路駐後、それを利用して上れば迷わず(二箇所に道標あり)古城とされる山上郭群までは20分内で辿り着く事が出来る。

城跡の形態としては、ある程度利便性のある麓神社敷地あるいはその背後を上り切った付近の祠までが、当時の居館跡を形成する南郭群と見立てる事も可能であり、小規模な山上郭群は海上監視用砦あるいは詰城の様にも見受けられる。遺構見学における見所としては山上郭群に至るまでの三本の堀切(尾根上の堀切は土橋を伴う)、山上郭の堀切及び土塁などが挙げられるが、古い形態の山城と見受けられるものなので特筆すべき技巧を感じる遺構には巡り合う事は出来なかった。山上郭には現在地元地域の方々による展望デッキが備わっており、木々の隙間からでも若狭湾を望む事も出来、更に自然風化は激しいが城跡遺構も破壊されずにそのままの状態が自然保持されているので、当時に思いを馳せる事も容易である様には感じられた。この城跡で特に印象に残ったのは南北を堀切で挟まれた尾根上の長い郭跡で、幅は4~5mほどではあるが、全長は中ほどにある土橋付き堀切を挟んで100m前後には達するものでもあり、この痩せ尾根上に堀切土橋まで設けて削平した効果を是非知りたい処ではある。

1route_2 登城ルート

4 進入口

3hana1zz 城跡概念図

11_yasiro_kaku 社殿

15_horikiri_1 堀切 登山道分岐地

20_one_horikiri_dobasi_1 尾根郭の堀切土橋見所

21_kita_e 尾根上削平地

26 山上主郭切岸

31_shukaku 主郭内

32_shukaku_dorui 主郭土塁見所

34_horikiri_1 堀切見所

先に訪れた伊根城と同様に、海が直ぐ傍に見える山城は中々他で味わえない風情も感じられる事から、必要以上に遺構の醍醐味あるいは縄張り妙味を求めなければ、充分満足感の得られる山城巡りと成り得るのではないだろうか。この楚々とした古い形態の山城には久し振りに「山城賛歌」を贈りたい気分である。

2009年4月27日 (月)

伊根城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡伊根町亀島にあって、「舟屋」で有名な伊根港を取り囲んだ東端の港入り口先端(赤い灯台が目印)の東背後の丘陵上にある。戦国期における城主は島津氏と伝わり久美浜城主でもある松井氏とは攻防の歴史が残っており、自ずと当時丹後守護職の地位にあった一色氏傘下の武将とは推察されるが、詳細は不明。

城跡へは「天橋立」を目指し若狭湾沿いの国道178号より北上、ほぼルート図の如く伊根湾を一周する形で車を走らせる事になるが、図あるいは画像に示したNTTの通信施設脇からそのまま上れば5分もあれば西郭群には辿り着く事が出来る。情報も皆無に等しいこの無名に近い城跡は、先に訪れた弓木城跡と同様に本格的普請のされた城跡と眼に映った、現状縄張りと見受けられる大規模な西郭群跡地は農作地(畑地)として占められており、近年に於いてどこまで地形改変があったのかは見学者の想像力と判断に委ねられる。恐らく畑地も当時の郭跡の転用と見てよいものとも思われ、郭形状は現状の畑地の輪郭線として見て良いのかも知れないが、、愛宕神社の建つ郭跡が主郭と見受けられ、ここから海側に向う北段郭群は藪化も激しいが、当時の状態がそのまま自然保持されている様でもある。丘陵上全域に渡って郭は展開されており主郭のみ突出した形態で郭高低差はほとんど無いに等しいが、周囲は急峻でもあり、更に三面が海に面している事を考えれば築城地としては中々素晴らしい立地環境と言える。概念図における範疇が個人的に城跡遺構として判断したものであるが、前述の様に主郭西側に於ける大規模な農作地は見る者が想像力を働かせて判断すればそれでよいのではなかろうか(個人的には当時のままの縄張りと目に映った)、、、

1route 登城ルート

4a 北より遠望

7tozanguti 進入口

3ine1 城跡概念図

14_sita_monomi 東端の郭跡

23_shukaku_koguti_1 主郭虎口

27_kita_yori_shukaku_heki_1

主郭 北

26_kitakaku 北郭

28_higasi_gawa_e 東郭へ

現状(四月)城跡は農作地(西郭群跡)を含め全体的にも見学上差障りはなく、特筆すべき遺構には巡り合えなかったが、ほぼ縄張りプランまで掴む事が出来る状態にはある。伊根港を監視する城跡としては舟屋の風情も味わえる事から、当時に思いを馳せる事が容易でもあり、港町情緒と併せて城跡を充分に楽しむ事が出来るのではないだろうか。個人的にも城跡情報も無く期待も抱かずに訪れたせいもあってか、充分満足感の得られる訪城となった。

2009年4月26日 (日)

弓木城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡岩滝町弓木にあって、岩滝小学校の道路を挟んで真南にある丘陵上に位置している。ルート図の如く国道178号より岩滝小学校を目指せば公園駐車場までは分かり易く到達する事が出来、そこからは直ぐ目の前に城跡は望めるので1route訪問するにも非常にお手軽な城跡と言えよう。

現状(四月)城跡は史跡として申し分のない状態を誇っており、2a 残存する遺構群は整備保持状態が良い事も相俟って、全て判別確認可能な状態にあり、独立した丘陵上にある為に尾根を分断する様な見応えのある堀切などは存在しないが、直立に近い高低差を伴う切り立つ切岸、あるいは大手道と思われる斜面を上り切った大型虎口などは櫓門でも存在したかの様にも窺われ、圧倒的迫力を醸し出している。城跡全体像がある程度視認によって窺える為に当時に思いを馳せる事も容易であり、訪問し易さも考慮に入れれば間違いなくお薦め出来る城跡と目には映った。縄張り妙味には多少欠けるかも知れないが、それを補って余りあるこの城跡の状態の良さは特筆すべきものでもあり、訪れた人々の多くは納得した見学が出来るのではないかと思われる。訪問時期によるのかも知れないが市内中心部に近い場所にあって中々これだけの状態の良い遺構を遺す城跡も少ない事からも貴重な城跡である様にも感じられた。

3yumi 城跡概念図

5 東郭群の切岸

12_higasi_sentan_1 東先端郭

14_naka_1 中郭より東郭(副郭)

14_naka 主郭切岸見所

17_nobori_koguti_1 上り虎口道見所

18_koguti_1 主郭虎口見所

20_shukaku_3 主郭内

23_nisikaku 西郭

33_dorui 土塁

2009年4月25日 (土)

吉原山城跡(京都府京丹後市)

この山城は訪問(四月)結果から先に述べれば、事前予想を遥かに上回る規模、そして山城にしては非常に整備保全状態が良く、山上における郭跡も含めた遺構はほぼ全て判別確認可能であり、尚且つ現状これ以上は望めそうにないほどの残存状態を誇っている。山城としての起伏に富んだ縄張り形態は見応え充分でもあり、縄張り妙味にも尽きる事なく見て回る事が出来、更に高低差のある直立に近い切岸、深さを伴う空堀などの遺構の醍醐味は余すことなく味わう事が出来る、正に推奨に値する素晴らしい山城であると断言出来そうにも思えた。

1route1 登城ルート

2g 現地案内板より

4 登山口

3yo

城跡概念図

城跡は京都府京丹後市峰山町吉原にあって県道17号沿いにある法務局(支局)を目指して進行すれば分かり易く、県道を北上し法務局を少し過ぎれば左手側に道標も設置されているので左折すれば終点の区民館に到着出来る。ここに車は駐車可能であり、いて大手道経由で東郭群、三の丸、二の丸、主郭から下山時に南側に位置する善明砦までを押えればほぼ山上の主要郭群は見学した計算にはなる。

尚、本来城跡へは車道でも行けるのであろうが、現状写真にある様に通行止めとされており、車でどうしても上りたい方は農林課まで連絡が必要であるとの事が立札に記されてある。しかしこの山城は麓から遊歩道で歩いて上って尾根上の郭跡(削平地)なども見学し、縄張りなどを頭に描きながら個々の郭の機能などを推察すると余計楽しめそうにも感じられる。地形図から察しても今回は車道で麓から上って行く南、あるいは南東尾根側にも充分郭の展開は予想され、本郭群でさえこれだけの規模を兼ね備えているのなら当然三方尾根上まで縄張りは跨っている様にも感じられるのである(未踏に終わったが、、)。この山城は一色氏滅亡後、細川氏によって規模の大きい二の丸あるいは三の丸が設けられたと案内説明板にはあったが、一色氏時代の山城は二の丸、三の丸を除けば規模はそれほどでもなく、最高所に位置する主郭も櫓台程度の小規模なものなので、案外建部山城を一色氏本城とした場合、当然此方は支城とすれば充分過ぎるものであった様にも窺われた。

13_higasi_demaru_1 東出郭

15_higasi_karabori_4 東大空堀見所

20_yagura_yori_3maru 三の丸

29_2maru_1 二の丸

32_karabori 西空堀

36_shukaku 主郭

52_toride_heki 善明砦見所

現状遊歩道に任せれば少なくとも前述の見応えのある遺構群はほぼ良い状態のまま見学が可能でもあり、この整備状況から察すれば四季を問わず充分城跡を楽しむ事が出来そうに思える、更に戦国期山城から徳川時代(登山口付近には峰山城、京極氏陣屋跡がある)にまで跨る遺構まで見学する事が出来るので、遠距離訪問でない方は当時に思いを馳せながら、じっくりと見学すれば更に値打ちが増すのではないだろうか。

2009年3月26日 (木)

友重城跡(京都府京丹後市)

この城跡は訪れた結果、山城でもなく丘城にしては平城に限りなく近いもので、個人的には見応えのある遺構には巡り合うことが出来なかった、ブログ趣旨でもある歴史から遠ざけられた城跡、あるいは情報の少ない城跡にも光を当てると言う意味合いに置いては、今回は名前を知って頂く為、あるいは城跡に興味を持たれていた方にとっての現況報告とした形で訪問結果を掲載する運びとなった。

城跡は京丹後市久美浜町友重にあって、当時は一色氏の重臣であった氏家氏の居城と伝わっており、後に丹後を支配する細川氏により落城した模様。城跡へは国道312号よりルート図の如く城跡を目指せばよいが、国道沿いからは既に城跡の位置する丘は確認(国道交差点から見れば真西側の丘)出来るので、車は路駐となるが北側から農道を経由して墓参道を利用すれば城跡西背後の現状堀切道までは難なく辿り着ける。(現状交差点側からの農道付近が工事中でもあり遠回りを余儀なくされたが、交差点側から社殿までは参拝道があった)

遺構として明確に判断出来るものは堀切道を含めた三本の堀切と僅かに高低差が見て取れる方形土塁壇(櫓台か?)のみで、地表は自然任せの風化中で更に藪化進行中でもあり、切岸などは当然曖昧で正確な郭形状までは把握出来ない状態でもある。前述の様にこの城跡に興味を持って居られた方、あるいはこれから訪問準備のあった方には現況報告としてお役に立てたかも知れないが、遺構の醍醐味を求めるのであれば期待は捨てて臨むべき城跡の様にも感じられた。

ただ交差点側から5分もあれば辿り着ける城跡なので、付近を車で移動中に寄る程度であれば充分納得のいく訪城にはなるとは思われるが、、

1route 登城ルート

5_1 進入路

3tomo 城跡概念図

8_demaru 東出郭

8_horikiri 7_demaru_horikiri_1出郭背後の堀切見所

11_nisi_dan 方形土塁壇

15_nisi_horikiri 西端の堀切道

2009年3月25日 (水)

久美浜城跡(京都府京丹後市)

積雪のない頃を見計らっての本年度丹後地方における第一弾目となった城跡は、現在城山公園となり整備されていると聞いた久美浜城跡である。

城跡は京丹後市久美浜町にあって、ルート図の如く久美浜小学校を目指せば分かり易い、小学校敷地内西端には城山稲荷神社の赤い鳥居が直ぐ目に留まるので、そこを潜れば最北に位置する郭跡の転用とも見受けられる展望テラスまで5分もあれば辿り着ける。現状見る限りでは駐車場までは完備されておらず車は路駐したが、探せばあったのかも分からない、、

別名松倉城とも呼ばれる様に松倉氏の居城と伝わるが、細川氏の支配の後、あるいは豊前転封の後に廃城となった可能性が高いものと見受けられる。現在の城跡遺構は徳川時代の改修も充分考えられるが、ほぼ当時のままと解釈してよいのかも知れない。

1_1r 登城ルート

5 城山登山口

3kumi 城跡概念図

現状(三月)城跡は神社より山上主郭へ向うほど下草も多くなるが、ある程度整備されているので樹木の少ない分、非常に見学し易い状態にある。山上主郭から海に向かって段郭(六郭)を連ねただけの単純な縄張りプランではあるが、郭跡は神社敷地を除けばほぼ当時のまま現在に至った様にも見受けられるもので、比較的遺構残存度は高いようには感じられた。特筆すべき見応えのある遺構には巡り合えなかったが、低山にしては直立に感じられるぐらい切り立った、周囲の斜面が天然の切岸のようでもあり、戦国期における城跡の在り方を充分感じる事は出来た。郭外壁は相当な急斜面でもあり縦堀などの確認までは至れなかったが、この周囲の急崖を考えればそこまでする必然性は無い様にも感じられた。尚、南急斜面を別登山道で少し下りれば、現在配水施設が建てられており、その敷地は郭跡の転用あるいは郭境は地形から堀切の様にも窺われたが、推察の域は出ないものでもある。

この城跡は遺構を期待して臨むのであれば後で落胆する事にもなりかねないので、最初から期待はある程度捨てて訪問した方が喜びも大きいのではないかと思われる。個人的には郭跡からは直ぐ傍に海が望まれる事もあって、当時の港町という状況もある程度察する事が出来、城山にも中々風情を感じられ、更に戦国ロマンに浸る事も出来たので充分満足の行く訪城と言えるものにはなったが、、

10_kaku6_1 北端の郭跡

12_kaku6_yori_ue_1 神社側の切岸

13 北端郭の土塁跡か

14_kaku5 郭5

20_kaku1 郭1

24_shukaku 主郭の現状

27_minami_kaku 南斜面堀切に見えたが?

2008年11月20日 (木)

金屋城跡(京都府与謝郡)

この城跡は加悦町付近を車で走っている最中に、偶然案内板が眼に留まり訪れたもので、山城としてよりもその中腹に展開される城郭寺院の様にも見受けられる三縁寺廃寺の残存遺構の素晴らしさ惹かれ、その訪問結果をお知らせすべく掲載に及んだものである。山城の方は有吉(加悦)城の支城でもあり、家臣である赤野氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡は与謝野町加悦、金屋にあって、国道176号よりルート図の如く西側に進行、山裾を南北に走る道路に突き当たれば、道路沿いにほどなく写真の様な案内板が眼に留まるので、そこから西側の墓地に向い、山道任せで三縁寺廃寺を経由して新設されたかの様な未舗装林道を上って行けば、標高358mの山上郭までは迷わず辿り着く事が出来る。個人的には麓から歩いて上ったが、廃寺の遺構も見学しながらの山登りになったので、たっぷり一時間の道程になった(廃寺からは20分)。トルクの太い車であれば山上までは上れそうにも思えたが、、、

現状(10月)金屋城山上郭は、上る前に地元の方に訪ね聞いた情報通りに、自然任せの荒れ放題となっており、雑木はまだしも矢笹が山上全域に渡り密生しており、地表も見えないので郭跡も確認出来ない状態にある、尾根上に残る僅かな堀切跡を判別確認出来たが、郭跡と見受けられる平坦地には足も踏み入れられない状況でもある。唯一郭跡における切岸は外見から窺う事は出来たが、全体像も掴めないまま(外見から判断するには砦規模の古い形態の山城で三郭構造か?)に下山する運びとなった、ただ納得出来ないのは本当にこの程度の小規模な城跡であるのかどうかで、真相がはっきりしないまま帰途に着いたものの、未だに気持ちの整理が付かないでいる。

しかし上る途中で拝む事が出来た三縁寺廃寺の遺構には度肝を抜かれた、これは戦国期の山城そのもの形態をしており、唖然とするばかりである。城域も郭規模も相当大きく、縄張りの中には縦堀、堀切、高い切岸、土塁、土塁虎口、石垣跡と言った具合に山城を形成する技巧的な遺構は全て含まれている。これでは山上郭は単なる詰城あるいは物見郭の用しか成さない様にも見受けられる、室町期の寺院遺構と案内板にはあったが、廃寺と知らなければ、先進性も兼ね備えた巨大な山城跡の様でもあり区別は付かない。恐らく戦国期も城郭寺院として更に改修を重ね、より堅固にされたものと考えられるが、縄張りも相当複雑な上に城域も広いので、今回は見て回る時間に余裕も無く、最後まで全体像が掴み切れず、概念図さえも描き切る事が出来なかった。

廃寺とは名ばかりで、そこらの山城よりも遥かに技巧的にも優れ、見応えも醍醐味も兼ね備えたこの三縁廃寺には、山城賛歌を贈りたい気分である。個人的には廃寺ではあるが、山城として推奨出来る物件の一つである。

1route1 登城ルート

226 登山口の案内板

Sanjyou_kuruwa_gun_6 金屋城山上郭の切岸

Sanjyou_nantan_kaku_3 山上南端郭(物見か?)

Sanjyou_nantan_kaku 南端郭の笹に埋もれた堀切跡

Sanjyou_kuruwa_gun_11

山上郭の移動尾根道

235_2

三縁廃寺跡の郭壁の石垣跡

248 三縁廃寺跡の石垣跡

284 三縁廃寺跡の郭跡

253 三縁廃寺跡の上り虎口跡

Atago 金屋城登山口からルート図の如く、北へ車で数分の距離にある、愛宕神社そのものが砦跡と見受けられるが、城跡の呼称に関しての情報が入って来ず、文献にて現在調査中でもあり現時点に置いては素性は謎の城跡。恐らく金屋城塞群の一翼となる砦跡とは思われるが、、、

Atago_2 山上郭虎口(現在は社殿がある)虎口を形成する巨石の矢穴跡に注目

Atago_1

山上社殿背後の大堀切見所

22_sannjyou_kaku 山上郭

2008年11月 1日 (土)

泉源寺城跡(京都府舞鶴市)

京都府舞鶴市泉源寺にあって集落の北側に聳える愛宕山(標高282m)の山上が城跡、栗屋氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡へは国道27号を東に向いて移動した場合「大門松島」の信号を越えて少し走り、線路高架上を越えれば真北に向いて直進となる道路があるのでそちらに進路変更、この道に従えば登山口でもある智性院に辿り着ける。到着後は寺院向いにある熊野神社横から山上に向いて登山道が繋がっているのでそれを利用すれば、案内道標は無いが山上主郭までは到達出来る。この登山道はかつては山上愛宕神社への参拝道であったとも思えるが、現在では山上に社殿も存在せず上る人も皆無の様に見受けられる。

山容が物語るように標高は余り無いのだが、急峻で尚且つ、道中九十九折りとなっている為に距離も長く、約40分を要してやっと山上まで辿り着く事が出来た。

現状(10月)城跡は予想通りの藪化状態にあり、かつて神社があったとは誰も想像すら出来ない状態にある。しかも砂利を含んだセメントの塊が集中している場所がある事からも神社を取り壊した後の廃棄物とも思えるが、それによって多少の地形改変はあったと見るべきであろう。規模の大きい主郭内部は風化なのか人為的なものなのかは判断し難いが相当凸凹しており、空堀に見えなくも無い地形も数箇所に窺う事が出来る。現状では遺構の判別確認は中々難しく、取り敢えず歩き回ってそれらしい城跡概念図を描ける処までには至ったが、明確に遺構と呼べるものは縦堀、郭跡、郭切岸、堀切程度終わってしまった。

この城跡を評価するのは非常に難しいが、険峻な山城が大好き人間でないと結果的には辛い山登りだけで終わってしまう様にも感じられる、、、しかし探索心を多いに煽られる山城であった事だけは確かである。

個人的には推奨は出来難い山城であるが、もしこれから訪問して見ようかと思っていた方、あるいはどの様な山城なのか気になっていた方の為には、丁度良い現況報告になるかとは思われる。

1route 登城ルート

6tozanguti 神社横の登山口

2_3sen 城跡概念図

16_sanjyou_shukaku 山上主郭

17_sanjyou 主郭内の空堀状の地形

19_minami_obi_shukakuheki 南帯郭

19_minami_obi_shukakuheki_2 主郭南側切岸

22_higasi_kaku 東郭の上り土塁

26_tatebori_1 明確に残存する縦堀

石川城跡(京都府与謝郡)

京都府与謝郡与謝野町石川にあって国道176号と国道312号が交わる交差点より東側に聳える山の山上が城跡で、麓には館跡とも見受けられる西禅寺が建つ、312号からは西側にはすぐの位置に山田城跡もある。一色氏一族の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは国道176号を北上した場合、ルート図の如く石川小学校の交差点を右折、登山口となる西禅寺を目指す。寺院下には駐車場もあるのでそこからは境内に入り山上まで繋がる山道に向うが、寺院正面の住居脇から背後に建立されている稲荷社を通過して南尾根上の郭を目指すのが一番手っ取り早いと思われる。個人的にはたくさんの園児が寺院内にいた為に遠慮してすぐ北側にある神社参拝道を上り神社(出郭跡か?)を通過して山上を目指した(所要時間15分程度)。もちろん下山は前者の道で下りたが、、

城跡は寺院背後の南郭より高い切岸を伴いながら山上主郭まで10数段無駄なく郭が並べられた構造であり、最高所にあたる主郭が一番規模は大きく、背後には土塁を窺う事が出来る、ここだけは木々は伐採されており眺望も利き、尚且つ、くつろげる空間となっている。この山城も他の丹後地方の一色氏の山城と同様に切り立つ高低差のある切岸が特徴で、10m前後の高い切岸が三箇所の郭跡で見て取れる。個人的には先に寄った宮津八幡山城跡のインパクトが余りにも強烈に残っており、形態を同じにするこちらが少し霞んでしまったのはやむを得ないか、、しかしそれなりに味のある城跡である事に変わりは無い。

現状(10月)城跡は登山道中及び見晴らしの良い主郭を除けば、郭内部の藪化は相当深刻な状態にあり、見通しも利き難く風化の真っ只中にあり、更に地表も荒れ放題と化している。恐らく夏季訪問ともなれば更に木々は生い茂ると考えられるので視認も難渋すると思われる。訪城はやはり冬季がベストか、、、

1route_6 登城ルート

4_saizenji 登山進入口

3is 城跡概念図

32_nisi_oohiroma_3 西端大広間

32_nisi_oohiroma_1 西郭群の切岸

28_kaku_heki 凄い切岸

14_2maru 二の丸

21_gedan_yori_shukaku_heki 主郭下段より主郭壁

17_shukaku_dorui 主郭土塁

15_shukaku_2 主郭

2008年10月29日 (水)

行永城跡(京都府舞鶴市)

new 京都府舞鶴市行永にあって密集する公営住宅地の南側の独立した低山の山上が城跡、城史に関しての詳細は不明

城跡へは西舞鶴と東舞鶴を結ぶ県道28号からルート図の如く県道51号に入り少し南下、東側へ橋を渡り行永地区に進入すれば小高い山が見えてくるので城跡の位置確認は容易に出来る、城跡への進入ルートは説明し難いので概念図を参照して頂き、道路沿いの小さな民家(無住?)の背後を回り込んで墓地跡に向えば既に城域となる。ここからは勝手に山に入り込んだが本来この山には個人所有者がいるものとも思われ(確証は無い)、一応入山許可を得る事が必要なのかもしれない、、しかし個人的には見たい気持ちが優先し多少遠慮の気持ちを持ちながらの無断探索となった。

現状(10月)城跡は自然任せの風化中にあり、地表は荒れ放題で雑木も生い茂って視認にも難渋する状態にあるが、城域が広くなく移動に困難な状況までには至っていないので遺構はほぼ判別確認出来る状態にあると言ってよい。城跡の見所としては高低差のある切り立つ崖状の郭切岸が真っ先に挙げられ、最高所にあたる主郭周囲の切岸及び西郭群の直立に近い切岸は状態も良く凄いものが拝める、低山なるが故の策であろうがそれにしても見応えがあり過ぎてテンションも上がりっ放しの状態である。

一般的に言えば堀切(空堀)あるいは土塁などの遺構は形状としてある程度写真画像に残せるのだが、この高さのある直立した切岸などの状態は説明し難く、画像としても成立し難いので現地で直接目の当たりにして、高さと状態の良さを体感して貰うしか方法が無のが現状である。

1route_7 登城ルート

4_3

北側の橋より遠望

6tozannguti 城跡進入口

3yu 城跡概念図

12_shukaku_1 主郭

13_shukaku_heki 主郭切岸見所

15 主郭下段

20_nisi2_heki 西郭の切岸見所

23_kita_oohiroma 北郭

26_kita_dankaku_heki 北段郭群切岸

溝尻城跡(京都府舞鶴市)

new 京都府舞鶴市堂奥にあって樹徳寺の北側に聳える標高200mの山の山上が城跡、矢野氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡へは舞鶴市内を東西に走る国道27号より県道28号に入り、ルート図の如く樹徳寺を目指すと分かり易く到達出来る、寺院からは山上主郭までは郭内に社殿が建つ事から参拝登山道に任せれば迷わず辿り着くことが出来る(所要時間約25分)。

城跡の構造としては寺院北背後周辺に屋敷跡、登山道を上る途中の中腹に出郭跡、更に山上まで登り切ると山上郭群の三位一体となった形になっている。見逃してはならないのが中腹にある出郭で、登山道に任せればそのまま通り過ぎてしまう恐れがあるので必ず覗く事が必要である。ここに寄るまでにはただの尾根道(土橋)にしか見えないが三連の堀切が備わって見所ともなっており、更にその端には状態の良い直立した堀切を拝む事が出来る。1route

登城ルート

3mi 城跡概念図

5 登山道へ

10_demaru_e_dobasi_horikiri 南出郭へ堀切土橋見所

13_demaru 出郭

16_horikiri 出郭東堀切見所

山上郭群は最高所にある主郭を含めて六郭で形成されるもので、切岸高低差はさほど無いが南北に長く、山上における郭占有面積は比較的広いと言える山城である。山上郭群における見所は鮮明に残る三の丸への虎口跡、南北に長い北郭の最北斜面の堀切で、10m近い高低差を以って更に大土塁を伴っており相当見応えがあるものである

25_3maru_koguti_1 山上三の丸虎口

27_3maru_yori_2maru 二の丸へ

31_shukaku_dorui 荒れた主郭内土塁

33_kitakaku_2 北郭

現状(10月)城跡は登山道付近の郭跡及び社殿の建つ郭跡はそうでもないが、他は下草は生え放題で木々が密生とまでには至っていないが自然任せの藪化進行中にある。縄張りがシンプルである事から全体的に見通しも利き、遺構の判別確認に支障を来たす事も無く、比較的快適に見て回れる状態にある。この分であれば登山道もしっかりしており、ある程度四季を問わず訪問出来る山城の様には見受けられる。

城跡を振返れば予想した以上の遺構群に出くわす事が出来、満足度も達成感も星五つと言ったところである。

2008年10月28日 (火)

中山城跡(京都府舞鶴市)

new 京都府舞鶴市中山にあって、中山集落の南側に位置しており由良川に面した南北に長い独立した低山の山上全域が城跡、一色氏の居城と伝わる

城跡へは国道178号を北上した場合ルート図の如くGSエネオスで東に右折、八雲橋を渡り左折すればすぐに城跡案内板を眼にする事が出来る。かねてより舞鶴方面に向う時には真っ先に寄るつもりでいた城跡の一つであるが、やはり期待を裏切ることなく、それ以上のものを与えてくれる城跡になった。

案内板から上り、かつての郭跡と見受けられる社殿敷地を越えれば直ぐに南郭となっているが、山上郭は規模の大きい主要三郭を並べた状態で形成されており、西側は天然の水堀(由良川)となり、山上郭間は堀切で分断され、郭の東西壁面は下まで落ち込む高低差のある切岸によって守備されている。最大の見所は堀切群で二重堀切、高低差のある大堀切あるいは大空堀と言った具合で次から次へと目を楽しませてくれる。これらは残存状態も比較的良く当時に思いを馳せる事などは容易に出来る遺構群と言えるものでもある。縄張り変化に富んだ城跡ではないが遺構残存度は抜群でもあり、この切遺構を眺めるだけで充分な感動が味わえる事は必至の城跡でもある。

現状(10月)城跡は下草も雑木も蔓延ってはいるが密生するまでには至っておらず遺構の判別確認は容易に出来る状態にある。まだ葉も生い茂っている状態なので全体の見通しは利き難いが、まずまずの状態であるとは言える。道路から5分もあれば山上まで上れて、尚且つこれだけの戦国期遺構を味わえる城跡なので、未訪の方は是非訪れて見所でもある堀切群を堪能して頂きたい。尚、志高城跡とは南西に5km離れた距離にあり、二城同日訪問すれば効率よく見て回れると思われる。

1route_3 登城ルート

N_1 登山口

3naka 城跡概念図

6_obi_yori_minamikaku_heki 南郭の西切岸

10_2jyuu_horikiri_2 二重堀切見所

12_horikiri_heki 中堀切と郭切岸

14_dai_horikiri_1 中大堀切見所

17_naka_kaku

中郭

19_horikiri_sita_dorui 中郭北の空堀脇の土塁

志高城跡(京都府舞鶴市)

new 京都府舞鶴市岡田下志高にあって志高神社の北側に聳える独立した山塊の山上部分が城跡、三上氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは福知山から宮津に向けて国道175号を北上した場合、まず志高地区の国道沿いにある志高神社あるいは加佐公民館を目指す。到着すればルート図の如く神社背後から西側急斜面を上り縦堀に沿った直登ルート、あるいは下山時降り立った公民館背後にある作業小屋裏から本来の参拝道であったと思われる縦堀に沿うルート、この二通りの直登ルートになるが分かり易いのは後者で、作業小屋さえ確認出来れば最短で縦堀(空堀道)に沿って主郭までは20分内で辿り着ける(縦堀が備わっている位なので相当急斜面)。東側の寺院からもかつての参拝道があり、それを利用すれば上れたのかも知れないが確証は無い。

現状(10月)山上郭群は倒木も多く、地表風化も激しく荒れ放題と化しているが、意外にも木々が少ないので見通しは利き、遺構の判別確認あるいは縄張りまで把握する事は容易に出来る状態にある。現在山上主郭には小社が建立されてはいるが、荒れ果てており訪れる参拝者いない様に窺われる。城跡の見所及び特徴としては堀切の多用が挙げられ、縦堀(二本は確認)も含めて残存状態の良いものを数箇所で拝む事が出来る。特に主郭北斜面を下りた側の小郭を挟んだ二連の堀切北郭北西壁の美しい堀切などは状態も良く、決して見逃してはならない遺構の一つである。

城跡としての情報は皆無である為に全く期待もせずに訪れたのだが、予想を遥かに上回るものでもあり、まだまだ丹後地方にはこの様な隠れた素晴らしい山城が残っている事を再認識させられる結果ともなった。

1route_2 登城ルート

5_tozanguti 登山進入路

3sida 城跡概念図

8higasi_hasi_nijyuu_tatebori 東端の縦堀土塁見所

10_higasi_dan_1 東郭群切岸

12_shukaku 主郭

13_shukaku_dorui_1 主郭土塁

16_horikiri_2 北郭南堀切

20_hokutan_horikiri_1 北端堀切見所

25_hokusei_koguti_horikiri 北西尾根堀切土橋見所

2008年10月23日 (木)

宮津八幡山城跡(京都府宮津市)

これぞ連郭式山城の王道を行く城跡である!丹後にもこれだけの誇れる山城が存在するのである

new 京都府宮津市宮村にあって、集落の北側に位置する猪岡八幡神社から東側山上主郭までの尾根上が城跡、かつては丹後の守護大名であった一色氏の居城と聞くが、案内説明板によれば築城時期及び城主等は明らかにされておらず、確証は無いとの事が付記されてある。

城跡へは宮津市内から県道9号を南下した場合「コーナン」の信号をルート図の如く東へ進行すれば、目指す八幡神社には容易に到達出来る。先にリポートを掲載した上宮津城跡からは車で移動すれば5分前後の距離にあるので、二城同日訪問すれば効率よく回れるはずである。

京都丹後方面の山城巡りも既に六城近くに達したが、近畿圏にあってもどうやら近畿北部の山城の傾向は少し違うようで、個人的主観ではあるが特に郭切岸が鋭角(直立)に、更に高く、そして主郭を筆頭に個々の郭面積が広く、特に居住性を重要視した縄張りプランである様に感じ取れた。この八幡山城跡も例外ではなく神社背後より山上主郭まで10段連なる郭群はいずれも個々の郭規模は大きく採られており、切岸の高低差も相当なものである。この城跡について語り始めると限が無くなるので手短に遺構見所を挙げると、既に城域と見受けられる神社上り始めの敷地両脇にあるV字谷に見える大空堀(人工物であれば驚愕の遺構)神社本殿到達前の絶壁状の切岸(高さ20~30m規模、自然地形では無い!)、個々の郭群の切り立つ切岸主郭壁の石垣跡などである。大阪北部から兵庫県及び京都府丹波を主戦地に置く自分にとっては、この方面の膨大な土木量で築き上げられた大柄な城跡が非常に新鮮に映る。もちろん当時丹後一帯を統治していた国守である一色氏の築城技術としての集大成が結果として現れているのかもしれないが、、

現状(10月)城跡は風化、藪化共に進行中で、決して良い状態とは言えないが遺構はほぼ判別確認可能な状態にある(ただし縦堀の有無は未確認)、神社の鳥居を潜ってから登山道に沿って、山上主郭まで連なる郭群は残存度も高く、見所も多く更に見応えもあるので飽きる事無く全体を見て回れる。

1route_4 登城ルート

3 城跡概念図

12 神社へ

17_nisi_oohiroma9 城中最大郭

20_yagura 櫓台土塁見所

31kyodai_heki 城中最大切岸見所

35_shukaku_he_isidan 主郭へ石段

36_shukaku_kita_isi_1 主郭北側石垣跡見所

46_shukaku_nisi_kado_isi 主郭西側石垣跡

40_shukaku_1 主郭

42_higasi_kaku_1 山上東郭

2008年10月22日 (水)

上宮津城跡(京都府宮津市)

new 京都府宮津市喜多にあって近畿タンゴ鉄道「喜多駅」の真西側に聳える山の山上が城跡、一色氏の重臣であった小倉氏の居城と伝わり別名喜多城あるいは小倉城とも呼ばれているが詳細は不明

城跡へは宮津市内から鉄道沿いに県道9号を南下した場合、喜多で道路を集落内にそれて目印としての簡易郵便局を目指す、到着すれば道向かいの公民館に駐車させてもらい、そのままルート図の如く道路を歩いて数10m南下、右手(西側山手)に鳥居が眼に留まれば民家横の細道から神社に上る。神社背後からは本来参拝道があったと見えて、荒れた急な山道が山上までは通じているので、迷わず主郭まで(15分程度)辿り着く事が出来る。

現状(10/9)城跡は藪化進行中ではあるが、この時期でも視認に難渋する事も無く、遺構はほぼ判別確認できる状態にある。特に郭切岸の状態は非常に良く、北郭の東側壁及び主郭周囲の切岸などは木々の間からでも、とても美しいものを拝む事が出来る、更には明確に郭形状が掴めるので山上における縄張りはほぼ把握する事が出来た。城跡全体を見る限りにおいては技巧的な遺構はほとんど無く、低山でありながら急峻な地形をフルに利用し、高低差を伴う切り立った切岸で以って守備としている様に窺われる。

山上郭群に土塁などは一切見当たらず、技巧的な遺構は皆無(四方斜面を全て確認した訳ではない)、規模からしても山上南北200m内に収まる中型に属する山城ではあるが、切岸の醍醐味及び迫力は先に寄った有吉、山田城跡と並ぶものがあり、更に縄張り妙味にも富んでおり非常に楽しむ事の出来た城跡の一つになった。

京都丹後地方の山城はどれも郭切岸がしっかり残存しており、切岸高低差のある事から見応えもあり、山城としての醍醐味に富んでいる城跡が特に多い様に感じられる。

1route 登城ルート

6_jinjya_e 神社への進入口

3miya 城跡概念図

12_kitakau_gedankaku_1 北下段郭

18 北郭

13_kitakaku_heki 北郭北壁

21_kitakaku_yori_shukaku_heki_1 北郭より主郭切岸

24_shukaku 主郭

31_kitakaku_higasi_heki_1 北郭東切岸

25_shukau_nisi_sita 主郭西郭

有吉城跡(京都府与謝郡)

new 京都府与謝郡加悦町算所にあって加悦中学校の真北背後に位置する安良山が城跡、別名加悦城あるいは安良山城とも呼ばれているが、ここでは山上の石碑に「有吉」と彫ってあったので有吉城とさせてもらう。石川氏の居城と伝わるが当時丹後地方を勢力下に置いていた一色氏の重臣であるらしい。

城跡へは国道176号を北上した場合古墳公園を少し過ぎて626号へ左折、後は直進して算所の北側中心部に入る。山上へは数通りのルートがあるらしいが、前日のシュミレーション通りとなる城跡より東側麓にある天理教分教会向かいの山道(大規模な集合墓地参拝道)から墓地に向かう、そのまま墓地の最高所であり最奥から東端尾根に残る踏み跡っを辿れば15分程度で山上主郭までは辿り着ける。偶然ではあるがこのルートでは東端の郭跡までには墓地の最奥を登り切ればすぐでもあり、そこから更に西側に向いて上って行けば尾根上の郭跡は全て確認出来る運びとなるので見て回る効率は非常に良い。

現状(10月)城跡は予想通り雑木は蔓延り生い茂り、倒木は多く荒れ放題の様相を呈しているが、幸いにも視認に難渋するまでには至っておらず、山上における遺構はほぼ判別確認可能と言える状態にはある。欲を言えば切がないが思っていたよりもましな状態であったので一安心ではある、事前情報から一色氏の城跡だと聞いていたのでかなり期待をして赴いたが、やはり結果的には期待を裏切られる事は無かった。個人的に最大となる見所を一つ挙げるとすれば主郭(二郭)を形成する切岸で、状態も比較的良いがその高低差は10m以上はありそう、周囲は全てそそり立つ切岸斜面に覆われている。当時はもっと直立した状態も想像されるが、それにしても凄すぎる切岸である。

地形図から推察すれば城域は四方に広がる尾根上の末端部、更には現在の広大な墓地一帯までをも取り込んでいた様にも見受けられ、未踏に終わったこれらの地域を除いたとしても、その規模は相当大きく城域も広く、更に縄張り妙味も加わり、流石に丹後地方でも有数と呼ばれる大名クラスの山城である。

1route_2 登城ルート

4 城跡遠望

6tozanguti 進入口

2_3ari 城跡概念図

11_higasi_kaku2_1 東郭2

14_higasikaku2_tatebori 東郭1の切岸、縦堀

19_shukaku_minami_heki_1 主郭南側切岸

19_shukaku 山上主郭

21_kita_ygura_1 主郭北下の櫓台土塁

24_nisi_kaku_1 広大な西郭

26_demaru 西郭斜面下の出郭と土橋

2008年10月21日 (火)

山田城跡(京都府与謝郡)

new 京都府与謝郡与謝野町野田川上山田にあって祥雲寺北背後の山の山上が城跡、見ようによっては寺院は居館跡の可能性も窺われる。城史に関しての詳細は不明

城跡へは国道176号を北上した場合、与謝野町古墳公園を過ぎてしばらく走り国道312号の看板で左折(西)、そのまま少し走ると右前方の山の中腹辺りに石垣造りの寺院が見えてくるので位置は確認する事が出来る。後はルート図の如く狭い道路を進み上れば寺院の駐車場まで到達出来る。到着後は寺院敷地内の西端から踏み跡の薄れた山道を登って行けば、南から順に郭跡を確認しながらでも主郭までは15分内で辿り着く事が出来る。

1route_3 登城ルート

4_1 国道から城跡遠望

5_tozanguti 進入登山口

3yama 城跡概念図

現状(10月)城跡は中腹までは全て竹林地、山上郭群は雑木林で風化も激しく荒れ放題となっているが、竹林地を除けば木々の密生状態にまでは至っておらず、案外見通しは効く、更に切岸が意外にしっかり残存している為に郭形状はもちろんの事、遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。城跡は但馬磯辺城跡と雰囲気が良く似ており立地環境は随分違うが高低差があり壁の如く直立する切岸、規模の大きい郭群などは技巧さでは劣るがほぼ同レベルにあると言ってもよい、ただし残存状態は比べるまでも無く前者に圧倒的に軍配が挙がる。縄張り変化にも富んでおり充分に楽しめるが、見所は何と言っても先に寄った有吉城跡と同様に郭を形成している切岸で、規模の大きい主要郭周囲斜面は全て高低差10mに及ぶ切岸となっており、これらには圧倒される事請け合いでもある。実際に当時は凄い土木量を以って築き上げられたものと察せられる。尚、主郭から南東側竹林地にも麓に向けて数段にも及ぶ郭群が重なり合って形成されているのが外見からも確認出来たが、移動に難渋するとも思え踏破は断念する。城跡そのものが麓から高低差を付けて要塞の如く郭を重ねたものでもあり、技巧的な縦堀などは見受けられなかったが実際は竹林に遮られて見えなかったのかも知れない。11_3maru_gedan

三の丸下段

16_2maru_heki_1 二の丸切岸見所

22_shukaku_e_koguti 主郭切岸と虎口

24_shukaku_3 主郭

33_shukaku_minami_heki 主郭南切岸

27_higasi_hasi_horikiri 東端堀切見所

意外に府内でも丹後と言う僻地に存在するせいか、今一名前が知られていない城跡の様にも窺われるが、遺構残存度は極めて高く、城跡としての規模も比較的大きく、決して見逃してはならない城跡だと個人的には思うのだが、、、

この城跡の様に京都府内にはなぜか城主すらはっきり分からず歴史上にも余り顔を出さない規模の大きい城跡がまだ数多くあると思われるが、現地に赴くと予想以上あるいは期待を遥かに上回る城跡が多く、これからまだまだ未訪となっている丹後地方の山城巡りが非常に楽しみになって来る処である

2008年10月20日 (月)

温江城跡(京都府与謝郡)

京都府与謝郡加悦町温江にあって常栖寺北背後の山の山上が城跡、疋田氏の居城と聞くが詳細は不明

城跡へは先に掲載を終えた尾上城跡を起点にすると説明し易く、ルート図で解る様に国道176号から東に向いて常栖寺を目指す、到着後は寺院境内の子安地蔵横から山上主郭に建立されている小さな権現社までは参拝道が通じているので迷わず到達は出来る。

現状(10月)城跡は、社殿のある主郭の一部を除けばほぼ藪化進行状態にある、しかし縄張りもシンプルで規模も小さい為に遺構の判別確認には手間取らない。見所は多くは無いが敢えて一つ挙げれば登山道中にある堀切跡で、ここには土橋も残存し更に土橋から山上側には土塁虎口跡も残存しており一番城跡らしさを醸し出す遺構の残る場所でもある。

山上郭群は非常に単純な縄張りプランで形成されるものでもあり地理的に考えれば、なだらかに裾野を広げる枝尾根上にも郭は展開されている様にも窺われるが推察の域は出ない。現状南枝尾根に限っては麓まで墓地が続いておりこの一帯までは恐らく城域と思われるがこれも推察するのみで終わってしまった。

尾上城跡からは車で数分の距離にあり、寺院からは山上まで10分内で到達出来る事からも二城同日訪問すれば効率よく山城巡りが出来るように思われる。

1route 登城ルート

3ati 城跡概念図

8_minami_horikiri_dobasi_1 南堀切土橋見所

11_koguti_dorui_1 土橋上部の土塁虎口

14_shaden 山上主郭

15_shukaku 主郭

20_nisi_kaku_2 西郭

19_dobasi 山上東郭側の土橋

尾上城跡(京都府与謝郡)

new  京都府与謝郡加悦町尾上にあって、個人的には丹後地方における山城訪問リポートとしてはトップを飾る事になった城跡になる、新井氏の居城と聞くが詳細は不明

城跡へは国道176号を北上した場合、尾上地域に入れば国道から水田を隔ててすぐ右手に見える位置にあるのだが、周りが水田ばかりで目印となるものも無いので、ルート地形図から想像して城跡の位置を確認してもらうしか方法はない。目星さえ付くと国道から一直線に丘陵先端まで細い農道を歩き、突き当たりの獣避け高圧電線を越えればすぐ城跡進入口は見つかり(見つからなくてもすぐ直登出来る)、西出郭先端部には到達出来る。

城跡は現状東側が民家及び住宅地あるいは畑地になっている為に、どれだけ地形改変があったのかは想像するしか無いが、肝心の主郭周りは社殿もある事からか人の手も入っておらず、荒れ放題ではあるが土塁、空堀、堀切などの遺構が判別確認出来る状態にある。もちろん主郭を形成している切岸も鮮明に残存しており全体の残存度は非常に高いものと言える、特に城跡南側は水田脇の小川まで高い高低差を以って直接切岸が鋭角に落ち込んでおり、当時の丘城としての状態を想像させるものともなっている。現在の東民家側は地形的には広大な平坦台地となっているが、案外本来からこの様な縄張りプランであったのかも知れない。

1_2 登城ルート

5 城跡進入路

3on 城跡概念図

7_nisi_kaku 西郭

10_horikiri_dobasi_1 堀切土橋

15_shukaku_kita_dorui_2 主郭の土塁

21_yagura_e_dorui_1 主郭櫓台切岸

20_yagura 櫓台

24_karabori_1 空堀

27_higasi_yasiki 広大な屋敷跡地

外見から判断する処、小規模な砦跡を想像して赴いたのだが予想に反して規模は大きく、山城とまではいかないので技巧的な遺構は求められないが充分に満足感を得る事は出来た。国道から10分内で訪問出来る環境にあるので国道を通った際には軽い気持ちで立ち寄ればそれ以上の期待には必ず応えてくれる、そんな城跡の一つである

城跡は地形から察する処、道路を隔てた東側の尾根上も城域になるのかも知れないのだが、今日の訪城予定を考えれば長居は出来なかったので踏破までには至らず、次の目的地に急ぐ事を優先した。

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