兵庫(但馬地方)の山城

2009年10月18日 (日)

東河黒田西城(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町宮にあって、ルート図に示した様に黒田城(規模が小さいので支城の可能性もある)とはほぼ隣接しているが、先にリポート掲載を終えた仮名「東和田城」、あるいは他の一部の東河地区の城跡と同様に城跡呼称が未だはっきりとは判明していない。この城跡に関しては現状ある程度呼称の見当は付いてはいる(推定 上山城)のだが、今回は敢えて明確になるまでは黒田城を本城とした場合の仮名「黒田西城」としてリポートさせて頂く事になった(判明次第報告の予定)。

城跡へは先にリポート掲載を終えた久田和城あるいは黒田城を起点すれば非常に分かり易い位置にあり、城跡進入口もルート図及び概念図を参考にすれば道路沿いの分かり易い場所にあるので、旧神社参拝道を利用すれば難なく到達出来る(5分内)とは思われる。

1_1 登城ルート

6 進入口

3a 城跡概念図

2 宮地区の城塞群

14_kirikisi 19 圧倒される切岸見所

22_gedan1_heki_1 帯郭

27_shukaku 主郭内

32_horikiri_1 堀切見所

23_sita_yasiki_1 副郭(居館か)

現状(九月)城跡は神社敷地(現在は社殿だけ)となっている事からも、ある程度整備されているので、城跡を形成する残存遺構は少ないながらも、全て判別可能な良い状態にはある。ただ神社敷地となれば近年において多少の造成地形改変はあったものと解釈しても良さそうには思われるが、見る限りは小規模でもあり、当時の郭跡地をそのまま転用したものの様には見受けられた。最高所に櫓台(主郭)が備わり、居館跡とも思われる広い郭跡の二郭で形成されたこの城跡はコンパクトで砦規模ではあるが、主郭背後には縦堀に繋がる堀切、それを取り巻く帯郭、更に状態の良い切岸は未だ健在でもあり、下から見上げれば主郭までは20m近い高低差を誇る切岸は、正に圧巻とも言える様相を呈している。他に際立った遺構が少ない事を思えば、木々にも邪魔されず全体像が窺える、この凄い切岸が見学の全てである様には感じられるのである(画像に注目)。単純に遺構の見応えだけを問われれば、この城跡に遺る切岸は恐らく東河地区の城跡の中では、ナンバーワンと言っても差支えなさそうには思えた。

個人的には東河川沿いに点在する城塞群は、この城跡を含めて合計七城は踏破した計算にはなったが、東河七城がどれに匹敵するものかは現状はっきりとは分からずじまいに終わってしまった(地元の城跡に詳しい方でも分からず)。何れの城跡もコンパクトにまとまったものであり、縄張りプランにおいても特筆に値する城跡は窺われなかったが、中でもこの宮地区に多くの城跡が集中している事を思えば、当然上道氏はここを領土支配における中心部、あるいは防備としても最終的な要としていたものとも察せられるが、大規模な城跡を一つ構えるより、小規模な砦を多く構える事の方が領土支配においては、より機能的で効果的であったのかも分からない。ただ個人的に感じられたのは、現地で地元の方に訪ね所在は確認したものの、黒田城(本城)があの程度(砦規模)の城跡で終わるはずは無いとも思えるのである、既に今まで踏破した東河川沿いの城塞群からも窺える様に、ひょっとすれば丹波の黒井城塞群には及ばずとも、それに匹敵するぐらいの城塞群にも思えるのである(本来の中枢を成す本城を見落としていた可能性もある)。

どうしてもまだ煮え切らない部分もあるので、これからも東河城塞群は現地で知り合った方との共闘作戦で、城跡呼称と所在地がある程度明確になるまでは追求して行くつもりではあるが、まだまだ時間は要すとも思われる事から、興味のある方にはしばらくの間ご猶予を頂きたいと思う。尚、ルート図には示したが、これも出城とも見受けられる山城が、黒田城の東側に二城(一城は既にリポート掲載済)確認されたので概念図と共に画像を載せたが、興味のある方は上り易い参拝登山道が山上まで(5分程度)は通じているので、東河地区の山城巡りの一環として、是非ついでに覗いて頂きたいと思うのである。

(仮)黒田東城

Higasijyou 城跡概念図

Higasijyou_1 進入路

Higasijyou_3 山上主郭

Higasijyou_2 東堀切

2009年10月16日 (金)

東和田城跡(兵庫県朝来市)

城跡は兵庫県朝来市和田山町東和田にあって、先にリポート掲載を終えた久田和城からみれば、東河川を挟んだ北側の低丘陵上に位置しており、現在城跡の南側(市道側)の数十段にも及ぶ小規模な削平地は、古い時代の集合墓地(郭跡の転用地だろう)となっている。

この城跡も東河川に沿って点在する上道氏の出城あるいは東河七城の中の一つなのかも知れないが、集中点在する城塞群の城跡呼称の判別は現状難しく、詳細は地元の方に訪ねても分からずじまいでもある(個人の推定では大治賀城の可能性あり)。ほぼ無名に近く規模も小さい城跡である為に、公的な資料にも明確には記されていない様にも窺えるが、この明確に判別出来る遺構を目の当たりにすれば、当然既に発掘調査は終えているとは思えるのである。今回は呼称の断定までは至る事が出来なかったので、取り合えず位置する地区名から仮名「東和田城跡」としたが、個人的には遠距離訪問でもあり、現地で知り合った歴史好きの方にこの城跡に関して少しでも分かっている情報があれば、是非ご一報して頂く様にと後事を託したのだが、余り期待は出来ないかもしれない。(判明次第報告の予定)

1 登城ルート

4_1 城跡遠望

1_1 城跡概念図

11_minami_karahori 7_minami_kaku_karabori 南郭1と空堀見所

10_naka_shukaku 中郭2

14_kita_karahori 北空堀見所

12_shukaku_yori_kitakaku 中郭2より北郭3側

16_kita_heki15_kitakaku_heki  北郭3の郭切岸

20_kita_sakuheiti 北削平地

城跡へは久田和城を起点にすれば、ルート図からも直ぐ分かる位置にあり、車でほぼ直進移動すれば5分とはかからない。概念図に示したが、道路沿いからは墓地も直ぐ目に留まるので、そのまま墓地に歩いて向えば自ずと本郭群には到達可能である。

現状(九月)城跡は最北の郭跡地(広い削平地)は教育実習用の研修広場となっているので、全体的にも樹木はまばらとなっており、見学するには申し分のない状態にある。低い丘に築かれたこの砦規模(総全長100m足らず)の城跡は、但馬地方あるいは丹後地方でもよく見受けられる、空堀を間に挟んだ連続土塁壇が特徴でもあり、黒田城あるいはその出城でもお目にかかったものとほぼ機能は同一の様にも感じられた。具体的にこの小規模な土塁壇(10m四方が三つ並ぶ)をどの様に使いこなしていたのかは、見学者が見たままを想像するしか無い様にも感じられたが、この空堀(現在では1m程度の高低差)も500年近い堆積物を考えれば、当時は5~6m前後の深い空堀であった様な気がしないでもない。発掘調査の有無までは分からないが、機能や当時の空堀の様子を想像するだけで楽しくなってくるのである。

この城跡は見応えがあるとはとても言えないが、明確に判別出来る連続土塁壇と空堀、あるいは高低差は無いが未だ鋭角に残る郭切岸は、覗いて見る価値は充分ある様には感じられた。当時の城跡の風情を味わえれば良しとし、久田和城を含めた東河地区の城跡巡りの一環とすれば、この城跡も含めて自ずと充実した城跡巡りが出来るのではないだろうか。

2009年10月14日 (水)

久田和城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町久田和(クタワ)にあって、東河(トガ)川より南にある久田和集落西側の、川に向いて突き出した山上(標高269m)に位置している。半年前ぐらいに山城巡りの一環として当地を訪れた際、地元の方から色々情報を聞き及んだが、この東西に流れる東河川沿いには、東河七城と呼ばれる上道氏の傘下にある城跡、あるいは出城(砦跡)なら無数に点在しているとの事でもあり、今回は前回見逃していた城跡を探索する為に、再び現地を訪れる事になった。

この山城も場所の目星はおよそ付いていたが、地元で得た情報は相当曖昧なものにも拘らず、取り合えず城跡呼称だけは判明した。よって城史に関しての詳細は現状全く不明でもあるが、黒田城を本城とした上道氏の傘下にあった城跡か、あるいは一族の城跡の何れかである様には推察される。もちろん上道氏自体が戦国武将として表舞台で活躍した訳ではないので、当然情報が少ないのも当たり前でもあり、まして敗軍の将の歴史などは余り語られないのが現実でもある。現時点においては、先にリポート掲載を終えた黒田城(地元の方に聞いて確認)ですら曖昧なものに思えて来るのである。

Kutawa_1 登城ルート

5_1 城跡

7tozanguti 入山口

Kutawa_2 城跡概念図  

城跡へは前回の黒田城への案内ルートを参考にして頂ければ分かり易いとは思われるが、国道9号から「一本柳」交差点を北上して、東河川沿いに市道273号を東進すればよい。中地区に入れば右手に中腹に鉄塔が建つ急峻な山が目に留まるが、この山上がこれから目指す城跡でもある。城跡の位置が確認出来れば、概念図あるいは画像に示した様に市道273号から養鶏場を目指して南下、その突き当たりにある開閉フェンス(入山口)を潜り、その先の木橋を渡れば自ずと鉄塔経由で主郭までは辿り着ける。尚、木橋を渡った後は直ぐ竹林地となるが、火の用心」の標識が数箇所に窺えた踏み跡程度の道があるので、道は途絶えても山上を目指せば難なく到達出来る筈である。(山上までは15分前後

12_higasi_kaku 東郭の現状

18_shukaku 主郭内

19_shukaku_dorui_1 主郭大土塁見所

18_shukaku_1 主郭切岸

21_horikiri_dorui 21_horikiri_dorui_3 堀切土塁見所

現状(九月)城跡はこの時期でも移動あるいは遺構見学に難渋もせず、ほぼ縄張りは見て回れる状態にある、藪漕ぎは覚悟の上で登ったものの、人の手の入らない山城としては中々見学し易い良い状態とも言えるだろう。城跡の形態は概念図を見て頂ければ一目瞭然とは思えるが、直線的な尾根上に広い削平地(東郭)と山上主郭の二郭で形成される、全長100m程度の規模の山城である。見所は多くはないが主郭背後を断つ縦堀に繋がる堀切及び付随する土塁、主郭内の大土塁は挙げられようが、他で際立った遺構が無いのもこの山城の特徴かも、、、ただ思ったより遺構残存度は高そうに思えたので、無名の山城でも興味のある方にはお薦め出来そうにも思えた山城の一つである。もちろん有名無名を問わず険峻な山城が好きな自分としては、十分な満足感に満たされた事は言うまでもないが、、

尚、ルート図中に示した、北に位置する他の二城のリポート掲載は次で予定

2009年10月 3日 (土)

但馬山内城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町山内にあって、集落の川を挟んだ南側にある、ほぼ単独で聳える形の急峻な低山山上に位置している。付近は城ノ根(ジョウノネ)とも呼ばれている事からも、付近で城跡を訪ねれば年配の方はほとんど御存知である様にも感じられたが、無名に限りなく近いこの山城は、上った事は一度も無い様な、話題にも取り上げられない山城の様にも思われるのである。当時においては竹田城主太田垣氏の傘下にあった、足羽氏の居城が伝わっているだけであるが、これから先は存在すら忘れ去られていく山城の一つになる可能性は大である様にも感じられた。

城跡へは先にリポート掲載を終えた物部城を起点とすれば分かり易いが、国道312号の「伊由市場」交差点を逆の東側(526号)に進路を取って山内地区を目指せばよい。少し走れば直ぐにでも進行方向右手に見えてくる、道路沿いの険峻な山がそれであり、確認は容易く出来るとは思われる。ルート図あるいは概念図に示した様に、城跡へ通じる入山口は現在この一箇所だけだと思われるので、道路側から走りながら注意して窺う必要はあるだろう(画像に示したが、分かり易い位置にある)。フェンスを開閉すればそのまま山道から向えばよいが、途中から無数に連なる屋敷跡地(近世のものだろう)を横切って、急斜面を直登すれば入山口から山上までは20分内で到達出来る筈である。この山道は更に城跡の南東側へ回り込む形で繋がっており、南斜面からでも上れそうにも思えたが確証は無い。

1route_2 登城ルート

4_1 城跡遠望

6 入山口への進入路

3ya 城跡概念図

13_horikiri_1 北尾根の堀切

15_shukaku_1 主郭内

16_shukaku_dorui 主郭土塁

22_tatebori 縦堀

現状(九月)城跡は、かつて植林地であった道路側斜面が、伐採によってむき出しになっているので、主郭に佇めば集落全域がほぼ見渡せる状態でもあり、山上郭においても木々が少ない為に、少ない遺構ではあるがほぼ判別確認可能な状態にある。概念図に示したまでが明確に判別可能な遺構群であるが、城跡の見所は主郭内に唯一遺された土塁、北側の尾根を断つ堀切、土塁は挙げられるが、他は縦堀地形が目に留まっただけでもあり、多少見応えに欠ける様には感じられた。道路側の崖状急斜面は低い草木に覆われており、外見からの視認は困難、更に滑り易く危険な状態にあったので踏破は断念せざるを得なかったが、何の期待もせず予備知識もなく訪れた事もあってか、充分満足感に浸ることは出来た。個人的には山城を上ってみて、険峻さを体感する事が出来ればそれだけで山城としてはまずは合格点なのである。もちろん更に見応えのある遺構があれば、尚更言うに越した事は無いのだが、、。

城跡を評価すれば、見応えのある遺構が目に留まらなかった事からも、とてもお薦めとは言い難いが、年々山上から下界を見通せる山城が少なくなっている事を思えば、貴重な城跡と言えるのかも知れない。こんな無名に近い山城でも、但馬地方の山城に興味を持たれていた方にとっては、よりタイムリーな現況報告となったものと思いたい。

2009年10月 1日 (木)

但馬物部城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町物部にあって物部八幡神社側からみれば背後にあたる真北側の山上尾根に位置している。但馬竹田城とも近いことから、その支城あるいは出城とも見受けられなくもないが、現状城跡の古い形態を考えれば、とても戦国期を乗り切った城跡の様には窺われず、山裾の神社敷地を当時の居館とすれば、山上主郭は規模の小さな詰城、あるいは物見といった程度の城跡でもある。戦国期においては代々物部氏の居城は伝わっているが、何代目かの城主は戦死しており、城はその時より廃城となった可能性は高いものと推察される、もちろん同氏が活躍した時代背景の詳細は分からないのが現状でもある。

城跡へは県道70号よりルート図の如くJR「青倉駅」を目指せば分かり易く、道路沿いにある二箇所の「中物部」バス停の間から神社に上る道があるので、そこから進入すれば直ぐに神社駐車場までは到達可能である。社殿左手側の、屋敷跡地の様にも窺われた広い削平地からは、登山道(旧参拝道?)が北山上に向いて繋がっているので、山上主郭までは10分程で迷わず辿り着く事が出来るだろう。

1route 登城ルート

7 神社を見上げる

10 登山口

3mo 城跡概念図

現状(九月)城跡は山上主郭までは、登山道に任せれば万遍なく見て回れる状況にあり、尾根上の郭跡(削平地)を判別確認しながら上れば効率よく見学出来る。とは言っても山上主郭までの遺構は、縦堀地形は二箇所で窺われたものの、ほぼ尾根上の郭跡を体感する程度の事でもあり、山城の風情などは感じられても、見応えを問われると返答に困るのが現実でもある。概念図に示したものが個人的に遺構と判別出来たものであるが、確実にそれと判別出来る技巧的な遺構は皆無でもあり、郭跡を除けば主郭周りの切岸だけが当時を偲ばせる遺構の様にも感じられた。

11_tatehori 縦堀地形

12_kaku 南尾根上の郭

15_higasi_kaku 東郭

15_minami_gedan_kaku_1 南下段郭

17_shukaku 山上主郭

19_kitagawa_heki 主郭北背後の切岸

古い形態の山城でもあり、見応えのある遺構が存在しない事からも、山城ファンにはお薦めとはいかないが、当時における山城の風情を味わう程度と割り切った訪問であれば、充分納得の行く見学が出来るのではないだろうか。見通しは利かないが山上主郭には休憩所(近年まで小社があったとも窺われた)まで設置されており、登山道が主郭まで通じている事からも、一般の史跡見学者あるいは城跡ファンにはお薦め出来る城跡かもしれない。逆に見応えはなくとも、当時の史跡としてみれば充分価値は感じられるのである。

2009年9月29日 (火)

十二所城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市養父町十二所にあって、西側に大屋川を望む事の出来る「西願寺」の北東背の、急峻な尾根先端に位置している。当時は秋山氏の居城が伝わるが詳細は不明。

城跡へはルート図の如く「西願寺」を目指せば分かり易いが、現在城跡の北斜面は土砂採取現場となっているので、大屋川に沿う県道からも直ぐに城跡の位置確認は出来る筈である。ただ登山道がある訳ではないので、直登取り付き地点から山上主郭まで、20分前後に及ぶ斜面との格闘は是非頭に入れて臨んで頂きたいと思う。 

山上へは概念図に示した様に、寺院背後から谷沿いを少し上った場所にある旧配水施設を目印として向い、その左手斜面から取り付き、左側の稜線に向いて斜行しながらジグザグに上って行く方が上りやすいとは思われる。この激斜面は比較的樹木が少ない代わりに、砂利が多く滑りやすいので、木々に手をかけながらの登頂となり、より慎重な登山が要求される。特に下山は上りより遥かに滑り易く感じられるので、木にすがり付きながら30分以上要してでも、足元だけには細心の注意を払って下る必要はある。もちろん東尾根先端から谷沿いに下れば、多少は斜面も緩いのかも知れないが、その分かなり時間は要しそうには思われる、確証は無いが、、。

12 登城ルート

4 城跡遠望

8 進入口

11_torituki直登 取り付き地点

12_1 城跡概念図

現状(九月)山上郭群における主郭は雑木も蔓延り見通しも利き難い状態にあるが、他は尾根上を東に向うほど間伐が行われた跡が窺え、木々も少なく土砂採取斜面側は下界の眺望も利き、郭跡及び堀切などは全体像が拝めるほどの状態にある。この山城の見所であり魅力は、堀切に尽きと言っても過言ではなく、主郭側から東側へかけて望まれる、郭を東西に分断する四本の堀切(一部縦堀に繋がる)群は、見通しの良い事も相俟って壮観さすら感じる事が出来る。長年の堆積物などによって相当埋もれてはいるが、これほど判別し易く残っていれば全く問題にはならないだろう。現状堀切の高低差もまちまちではあるが、当時はより深く薬研堀の如く屹立していたとも想像出来そうに思えたが、特に概念図に示した東堀切3、4における遺構は、分厚い土塁を間に挟んだものであり、相当な見応えを感じる事が出来た。更に山上郭群は西側の主郭から東尾根先端の自然堀切地形に至るまで200m以上はあり、山上尾根がほぼフラットな状態あるいは幅がある事からも、山上における郭占有面積も大きく、城跡は随分巨大なイメージとして目には映ってしまうのである。ただし縄張り妙味は感じられないが、、、

13_shukaku_nisigawa 主郭西端

15_shukau_higasi_gawa_1 主郭より東側を望む

19_shukaku_heki 主郭の堀切壁見所

21_horikiri_heki 堀切見所

26_naka_horikiri3_1 堀切3見所

29_higasi_2ren_horikiri 土塁を挟んだ二連堀切見所

30_horikiri4 堀切4より東削平地見所

先に触れた様に、かなりリスクを背負う登山となるので安易にお薦めはし難いが、山上における堀切遺構は決して期待を裏切るものとは思えないので、これから先は土砂採取によって遺構が消失してしまう危険性も含んでいる事を考えれば、一般の城跡(史跡)ファンには中々お薦め出来ないが、山城ファンにのみ、それも足腰に不安の無い方のみに、是非トライして頂きたいと思うのである。 人の手がほとんど入らない山上に、まさかこれほどの堀切が残っていようとは、夢にも思わなかったのが本音でもある。

2009年9月15日 (火)

市御堂城跡(兵庫県朝来市)

最初にこの城跡(平山城)を訪問した上での結論から述べさせて頂くが、現状(八月)この城跡は藪漕ぎもせず簡単に山上までは登れるが、山上郭群は全域が矢竹の密生地と化しており、到達地点の一部の狭い範囲以外は歩き回るにも事欠き、およそ人が踏み入る事の出来る状態にはなく、首まで届く矢竹によって地表すらほとんど見えない、非常に醜い状態にある。郭群も恐らく山上に展開されるだけだとも見受けられたが、一応外見から僅かに矢竹藪の中に主郭と思われる切岸、あるいは本郭群の外壁にあたる切岸を窺う事だけは出来たが、内部の構造まではとても把握出来なかった。取り合えず木々の比較的少ない斜面側の切岸より全体を一周する事を試みたが、一部崖状切岸斜面は滑りやすく非常に危険な状態でもあり、それすら叶わなかった。ただ下山ルートで西側斜面を下った付近に出郭とも思える郭跡、更にそこでは土塁と思われる構造物も眼にしたが、それも密生する竹薮あるいはその堆積物によって判別は非常に困難でもあった。結果的には城跡を斜面に沿って半周したが、南側はともかく北斜面は倒木や草木が蔓延り、相当荒れ放題でもあり、縦堀らしき地形も掘削跡も見て取ることは出来なかった。以上が訪問における現況をリポートしたものだが、決して誇張はしていないので、これから訪れる方は是非これを目安にして頂きたい。

1route 登城ルート

5 進入路

7toutatu_ti 山上郭到達地点

9_minami_obi 主郭南側帯郭

10_shukaku_heki 主郭の切岸

12_nisi_demaru 出郭の土塁か?

城跡は朝来市和田山町市御堂にあって、城跡へ向うには国道312号を走りローソンを目印として進行すれば分かり易いとは思われるが、ローソン付近の道路沿いには市御堂城跡の案内標識も出ており、ここから既に城跡は望めるので直ぐ分かるはずである。後はルート図に示した通りに進行すればスタート地点となる墓地までは容易に到達出来る。この城跡は西側の川を挟んだ対岸に枚田城がある事からも、両者は呼応しあっている状態でもあり、枚田氏あるいは太田垣氏(竹田城主)と何らかの関係にあった城跡とみて良いのかもしれないが、詳細は不明

取り合えず一度気になるので覗いてみようかと思われた方には、登城ルート図に山上まで一番上り易いルート(南側墓地背後から直登)を赤線で示したので参考にして頂きたい。このルートはこの時期でも木々が比較的少なく、藪漕ぎも無く上れるのである意味で楽に思えたが、休まず登り切れば10分内で山上には辿り着く事が可能でもある。ただ上る際には左側へ向いて上ることが肝心となる(右側は最終的には雑木密生地となる)、このルートでの郭到達地点が一番地表が窺える場所でもあり、一番ほっと出来る場所でもある。これから先この城跡の状態が良い方へ改善されるとはまず思われ難いが、自分を含めた山城ファンはそれでも確認の為に一度は覗いておきたいと思うものでもあり、まだ未訪の方にはせめて夏季訪問は絶対に避けるべしと、声を大にしてアドバイスしたいのである。

2009年9月13日 (日)

但馬上野城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市養父町上野にあって、既にリポート掲載を終えた軽部城跡からみれば、ほぼ真南側に聳える山の山頂(標高240m)に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡へは国道9号からも直ぐ望める位置にある軽部城跡を起点にすれば分かり易いが、ルート図の如く願照寺の集合墓地付近から尾根に向いて直登するルートと、図中では下山ルートとしたが資材置場からの逆を上るルートが考えられる。どちらを選択しても植林地なので藪漕ぎは皆無であるが、この激斜面を登り切る事は非常にハードでもあり、体力は相当消耗させられるので覚悟は必要かも。取り付き地点の分かり易さから言えば後者がお薦めルートかも知れないが、こちらは画像に示した場所(切岸が道路からでも見える)より上れば直ぐにでも居館跡とも呼べそうな広いフラットな空間に到達可能となっている。もちろんここから更に山上を目指して上らなければならないが、休まず上れば約20分で主郭に到達出来るとは思われる。

Ueno_1 登城ルート

Ueno_4 直登進入口

Ueno_3 城跡概念図

26_yasiki_1 25_yasiki 居館跡にも窺える北出郭

15_horikiri2 堀切

23_kita_one_kaku 北尾根削平地

18_shukaku_1 フラットな主郭

20_shukaku_minami_heki 主郭南側切岸

22_obi 東帯郭

現状(八月)城跡は、この時期でも木々が比較的少なく見通しが利くほどの状態でもあり、山上における遺構は全て判別可能となっている、ただ相当地表風化が激しい為に、堀切(空堀)などは細部に渡って地形の変化をじっくり見て取る必要はあるだろう。反面規模の大きい主郭は画像で確認して頂ければお分かりの様に、ほぼフラットな状態が現在でもキープされており、見通しが利くことからも広さも充分視認によって確認出来る良い状態にある。概念図に示したものが遺構として個人的に判別出来たものであるが、郭間に高低差が余り無い事、あるいは堀切も随分埋もれている事からも、山城としての醍醐味や見応えには少し欠ける様な気はした。城跡全体を評価すれば、縄張り変化にも富んでおらずかなり大味な城跡と言えるのかも、、。

山上郭群における現存遺構及び山上に到達するまでの直登の辛さを考えれば、興味を持たれた山城ファンにはお薦め出来ても、一般の城跡ファン(史跡見学者)までには余りお薦め出来ないのが現実でもある。個人的には5世紀以上に渡って現在に至るまでの遺跡は、古墳と山城だけだと言っても過言とは思えず、何時もの事ではあるが、状態の良い郭跡を目の当たりにすれば、ただそれだけで単純に感動を覚えてしまうのである。

2009年9月12日 (土)

小佐城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市八鹿町小佐にあって、現在の「洞仙寺」敷地からその付近が城跡と伝わっているが、ほとんど無名に近い城跡なので情報も現状では皆無に等しい。僅かな情報としては歴史も相当遡る事にはなるが、13世紀頃に伊達氏の居城を伝えており、養父市における山城(丘城)の一つでもある一部城跡より北西山上に位置する沖田城跡(まだ未訪)も伊達氏の居城を伝える事から、自ずと当時の支配は広域に及んでいたものと推察される。戦国期から江戸時代まで続いた東北の雄でもある、あの伊達氏との関係までは深くリサーチするまでには及んで居らず、詳細は不明のまま終わりそうとも思える。

城跡へは先にリポート掲載を終えた八鹿愛宕山城跡を起点にすれば分かり易いが、城跡南側の商店街を東西に繋ぐ狭い道路より267号に合流して西進、あるいは県道6号から針路変更しても合流出来る筈である(非常にややこしい道路)。小佐地区に入ればルート図の如く進行すれば「洞仙寺」駐車場までは難なく到達出来る筈である。

1x 登城ルート

4 県道より遠望

6 本来は郭跡である現状

9 郭転用地と見受けられる南側農地

O_7 山上詰城か?

O_6 山上堀切地形

現状(七月)城跡は、寺院建立(まだ新しい)の際には造成工事によって相当な地形改変があったものと推察されるものであり、集落に少し突き出した形状の丘陵上は寺院及びその住居、あるいは農地で占められており、当時を思い起こす事の出来る遺構は何一つ残っていない状況にある。城跡を東側面から望めば、僅かながら切岸状態は見て取れ、何とか集落を見通す事の出来る丘陵地形から城跡らしい雰囲気は感じ取れるが、現状ではかつての城跡の雰囲気を味わう程度であると思って頂ければ良いだろう。個人的には寺院北背後の集合墓地から更に山上を目指したが、山上は痩せ尾根上に物見と推察される削平地が40m程度に渡って遺される程度であり、その東先端斜面にある自然堀切地形だけが、僅かに当時の山上郭(確証は無いが当然物見として考えられる)を偲ばせるものとなっている。規模から察しても砦の域は出ないものと見受けられたが、前述の沖田城跡がまだ未訪である為に、この城跡が当時伊達氏にとってどの様な機能を持ち合わせていたものかは、現状推察すら出来ない状況にある。

遺構らしいものがほとんど見当たらない城跡も今となっては珍しくはないので、落胆するまでには至らなかったが、本音を言えば堀切もしくは土塁跡の一つでも目に留まれば、ある程度は納得の行く山城巡りとなっていたかもしれない。これから訪問する準備のあった方、この城跡が気になっていた方には今回のリポートをおよその目安にして頂ければよいとは思われるが、現況報告としてよりタイムリーなものとなったのであれば、これ幸いでもある。

2009年9月10日 (木)

養父神社城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市養父町養父市場にあって、広い敷地面積を所有する養父神社の沢を跨いだ社務所あるいは神社境内を屋敷跡あるいは居館跡と想定した場合、その南背後の後方尾根上に位置している。当時は垣屋氏の居城を伝えているが、垣屋氏惣領家となる本城はまだ未訪ではあるが、大規模を誇る楽々前(ササクマ?)城と聞いており、この養父神社城は一族の拠った支城として位置付けて良いのかも知れない、垣屋氏はその後も豊臣大名として生き残っている所をみれば、在地但馬勢力の中でも最初から秀吉側に組していた様にも思われる。

城跡へは先にリポート掲載を終えた上野城跡を起点にすれば分かり易いが、国道9号「上野」より国道312号へ針路変更後北上、その後は「大屋橋」を東へ渡れば、ほぼルート図の如く進行すれば難なく目的地でもある養父神社には到達出来る。社殿の建立されている敷地が当時の居館跡とも見受けられたが、相当近年において造成整備された状況でもあり、現状では城跡としての雰囲気は全く感じられない。むしろ沢を西へ跨いだ側にある、社務所側上段に位置する規模の大きい郭跡の方が見ようによってはそれらしく感じられた。本来の目的でもある山上郭群は形態から考えても詰城の様相を呈しており、概念図を参考にして土塁の目に留まる地点より踏み跡の残る木々の少ない斜面を上れば、10分内で難なく山上主郭までは到達出来るとは思われる。

1route2 登城ルート

Jinnjya 養父神社

3ya 城跡概念図

11_yasiki_1 居館跡か?

16_dorui 土塁跡(山上へ)

18_3dan_kaku 北三段郭

24_karabori_dobasi_2 北空堀土橋見所

25_2maru_2 二の丸

28_shukaku_yori_dobasi 29_dobasi_3 中央の空堀土橋見所

31_shukaku_yagura 主郭櫓台見所

33_haigo_minami_horikiri_1 南堀切見所

現状(八月)城跡はこの時期でも藪化までには至っておらず、非常に見て回り易い良い状態にあり、山上における城跡遺構は全て判別可能な状況でもある。5世紀に渡る風化を考えれば全体的に切岸は甘くはなっているが、空堀に付随して設けられた土橋などは、まるで当時の状態が今でも保持されている様にも窺われ、城跡にあっては抜群の存在感を誇っている。もちろん城跡唯一最大の見所でもあり、この三本の空堀(堀切)とそれに付随する状態の良い土橋が見学の全てである、とも言い切れる遺構の様には思われた。反面、他で見応えのある遺構に巡り合えなかったとも言えるのだが、、、。しかしこの城跡は社殿東側(先端尾根の裏側)にも土塁を付随した虎口、あるいは堀切(道)地形、数段に重なる屋敷跡の様な地形が相当広域に渡って目に留まり、更にその背後尾根上には削平地(物見か)と、城跡を構成する遺構は目白押しとなっている。これらが全て当時の遺構といった確証はないが、見る人が見れば沢を跨いで展開される城域の広さを充分体感出来るのではないだろうか。個人的には夕方近くに訪れた事もあってじっくり見学する事は叶わなかったが、それでも充分な満足感に浸ることは出来た。山上詰城、麓に根小屋(居館)の形態は一目瞭然の縄張りプランでもあり、戦国期を物語るには充分過ぎる最良の教本ともなりえる城跡とみた。山城ファンは元より、一般の城跡見学者にも、神社参拝ついでに寄られる事を是非お薦めしたい城跡の一つである。

2009年8月23日 (日)

芳賀野城跡(兵庫県朝来市)

この山城(ハガノ城)は二年前の2007年11月に新聞にも掲載されたが、地元の郷土研究家のY氏によって発見されたものである。一度は訪ねたいと思いながらも先延ばしになっていたが、今回は場所も確定出来ぬまま取り合えず地元で訪ねれば何とかなるだろうとの思いで現地に向った。幸いにも現地で山城の発見者でもあるY氏と偶然出合うことが出来、更に予想していた以上の城跡遺構にも巡り合う事が出来た。おそらくまだ新聞以外の文献に限れば、現地での詳細は余り報告されていないとも予想され、今回はまだ未訪でこの城跡が気になっていた方にとっては、よりタイムリーな現況報告とも思えた事から、早速リポート掲載に及んだ。現状城史に関しての情報は皆無でもあり、詳細は不明

城跡は朝来市岡にあって、先にリポート掲載を終えた法道寺城跡あるいは岡城跡からは車で南へ数分の距離にある。ルート図を参考にすれば分かり易いとは思われるが、国道9号より527号へ進路変更した後は法道寺城跡の山塊、岡城跡を右手に見ながら集落を南下すればよい。この道路の行き止まり三叉路手前辺りより、現在工事中でもある高架支柱に沿う形で左折、そのまま道任せで上り、道路造成工事中で通行止めの柵まで到達すれば、城跡へはここから車を降りて歩いても直ぐの距離にある。概念図に示したカーブミラーを目印として、右手側にある沢沿いに進入して、最初に目に留まる遺構でもある縦堀に沿う形で尾根まで登り切れば、北西の先端郭には5分もあれば辿り着く事が出来る筈である。

Hagano 登城ルート

Hagano_1 城跡進入口

8_tatehori_tozanguti 直登ルート

Hagano_2 城跡概念図

現状、城跡は画像を見てお分かり頂ける様に、この時期(八月)でも藪漕ぎも無く、郭移動も容易く、ある程度見通しも利くことから、山上尾根に残存する遺構群はほぼ判別確認可能な状態にある。植林地でもない山深い奥地に存在する城跡としては、非常に見学し易い良い状態にあると言っても過言とは思えないものでもある。この城跡の最大の見所は北東側斜面に掘削された畝状縦堀群(6~7条)と主郭南背後を断つ二連の堀切に尽きるが、堀切(空堀)箇所には土橋も鮮明に残っており、畝堀群は長年の風雪により深さは失われているが、山城ファンが見れば明確に判別出来る状態でもある。城跡は小規模である事や、余り縄張り変化には富んでいない事、郭間の高低差もほとんど無いに等しい状態である事からも、山城としての醍醐味は感じられ難いが、前述の遺構だけで充分感動は与えてくれそうにも感じられた。この時期でも縄張りの全域を見て回れる事を思えば、四季を問わず訪問は可能でもあり、状態の良い法道寺城跡、岡城跡と三城併せた訪問とすれば、最高の山城巡りとなりそうにも思えるのである。山城ファンだけに止まらず、一般の城跡ファンにもお手軽さを踏まえれば、充分お薦め出来そうにも思えた。

12_sentan_gawa_dankaku 北西段郭群

15_shukaku_1 主郭の現状

26_une_5 26_une_3 畝状縦堀群見所

16_horikiri_dobasi_1 堀切土橋見所

21_horikiri_tatedorui 堀切より縦堀へ繋がる見所

19_nantan_horikiri_1 南端堀切見所

尚、現地でお世話になったY氏とは山城談義で時間の経つのも忘れて盛り上がり、非常に充実した時間を過ごさせて頂いたが、養父市から朝来市周辺に限っては、無数に点在する山城のことごとくを踏破しておられる凄い健脚の持ち主でもあり、地形から読み取った山上尾根の隅々に至る遺構の数々を、全て作図によって記録されておられるのには非常に感銘を受けた。別な意味で山城探索にかける凄い執念を感じ取る事も出来たが、そうした積み重ねが新しい城跡の発見に繋がったのではないかとも思えるのである。個人的には遠距離訪問が多く、中々縄張りの全てを踏破したくても出来ないのが現実でもあり、仮に出来たとしても尾根伝いに山塊の全てをくまなく踏破するのは、実際には至難の技とも思えるのである。今回はこの山城を訪問したお陰で、個人的には非常に素晴らしい出会いをする事が出来たが、山城巡りをしていると必ずそうした人との触れ合いもあり、更に山歩きする事によって自然との一体感も同時に味わう事が出来るのである。

2009年8月13日 (木)

大藪城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市養父町大藪にあって、付近には大藪古墳群のある事からも古墳群見学の為の遊歩道コースは設置されてある様に見受けられたが、現在この山城を訪れる為だけの登山道は見当たらず、城山に上るには整備された古墳見学ルートを利用して、途中からは急斜面の直登(木々が少なく藪漕ぎはほとんど無い)を余儀なくされるのが現実でもある。ただ訪問結果としてこの城跡は、この時期(7月)にしては郭間移動もし易く、比較的状態もまし(郭内の見通しは困難)な方であり、残存遺構はほぼ判別確認可能な状況にある事からも、規模は小さいが山城ファンには充分楽しめる城跡として掲載に至った。城史に関しての詳細は不明

城跡へは先にリポート掲載を終えた寺谷城を起点とすれば分かり易いが、寺谷城へ向かう為に右折した一般道104号はそのまま豊岡に向いて進行、「千石橋」交差点まで辿り着けば右折、後はルート図に示す様に現地古墳案内板を右折して「こうもり塚古墳」を目指して進行すればよい。この付近には狭いながらも路駐スペースはあるので、ここからが城跡目指してのスタート地点となる(道が狭いので他には路駐箇所は無い)。ルート図には複雑で紛らわしいので示さなかったが、個人的には「こうもり塚古墳」背後からの見学ルートで城跡を目指した、しかしこのルートは途中から山道が三方に分かれており、道標も設置されていないので迷う恐れのある事からも、これから訪れる方には迷い難く城跡までは最短で到達出来るであろう、溜池経由の整備されたルートを赤線で示した。直登取り付き地点は山道沿いの沢筋、軽トラの廃車が放置されてある地点を目安にすれば分かり易く、その手前あるいはそれを過ぎて左手(西側)急斜面に取り付けば、10分とかからず山上主郭には到達出来る(「こうもり塚古墳」からは20分要す)はずである。

1route 登城ルート

4 城跡進入路

3oo 城跡概念図

10_horikiri_1 北大堀切見所

12_shukaku_heki 堀切壁見所

13_shukaku_1 主郭内の現状

15_shukaku_minamiheki 南下段郭より主郭側

19_ninomaru_gawa_1 二の丸側切岸

22_horikiri_2 西堀切と大型土塁見所

27_nansei_kaku_gun 南西郭群

28_dankaku_heki_1 南西郭群の切岸

城跡は概念図に示したまでが自身で歩き回った範囲であり、目に留まった遺構群であるが、南側に向う枝尾根全ての踏破は周囲が崖状斜面ともあって叶わなかった、当然図中に示したまでが縄張り、あるいは遺構の数々とは思われないのだが、山上郭群はほぼ踏破出来たので、ある程度の満足感に浸ることは出来た。(城跡の形態あるいは地形上からも未踏南枝尾根上に見応えのある遺構が存在する様には見受けられなかった、、)城跡の見所としては主郭北尾根を断つ豪快な堀切(切岸の高低差は凄い)、高低差のある切岸壁数箇所の斜面に明確に残る縦堀(全体的に周囲斜面上には数本の縦堀地形は窺われたが、、?)などが挙げられるが、縄張り変化に富んだ城跡の形態そのものも充分見所と言えるものでもある。小規模な城跡ではあるが自分の中ではなぜか印象度の高い山城の一つになった。

2009年8月11日 (火)

高田城(兵庫県朝来市)

城跡は兵庫県朝来市和田山町高田にあって、現在若宮神社の境内から敷地内が城跡(平山城)と伝わっている。詳細は不明であるが、当時のこの一帯を支配していた山名四天王の中の一人でもある太田垣氏(ウスギ城あるいは竹田城が本拠)の支城、あるいはその傘下にあった城跡の可能性は高いものと見受けられるが、推察の域は出ない。

城跡へは国道9号を進行して既にリポート掲載済でもある土田城をかすめ、ルート図の如く国道沿いの西側に位置する若宮神社を目指せばよいが、国道沿いからは小さな鳥居も目立ち難いので、神社入り口向いにあるレストラン「但馬牛ほくぶ」を目印とすれば分かり易い。中型車までであれば北側から直接神社敷地まで乗り入れる事も可能である。

現状(7月)城跡は全域が神社敷地と化しており、整備されているので当然全体の見通しはある程度利く状態にあるが、郭跡などは社殿敷地として近世に転用されたものとも窺え、近年どこまで郭跡が造成整備拡張されたものかは想像も付かない状況にある。現在城跡としての面影を残すものは、最高所に位置する規模の小さい社殿敷地(主郭跡か?)あるいはその高低差を伴う切岸壁、その北側真下に位置する社殿敷地、東側斜面に蔓延る低い笹や下草の中に僅かに数本の縦堀とも窺える地形が目に留まるだけで、醍醐味を感じるほどの遺構に巡り合えないのが現実でもある。独立した低山を利用している為に堀切などは地形上期待出来ない状況にあるが、横堀、土塁などの地形も目に留まらなかったので、当時はそれほど技巧に富んだ城跡ではなかった様にも見受けられた。現状を見る限り縄張りを含めて見学者の推察あるいは想像力に全てが委ねられる、と言っても過言であるとは思われないが、これから訪問される方には是非この言葉を目安にして頂きたい。

1x 登城ルート

T_11 城跡入り口

T_1 若宮神社社殿

T_6 山上主郭内

T_7 主郭より北郭側

T_10 主郭北壁

T_8 東側斜面の現状

遺構の醍醐味を求めて訪問するのであれば恐らく落胆する事は必至の城跡と言えるが、当時における城跡の立地環境、あるいは城跡の風情を味わう程度であれば、国道沿いから5分とかからず赴けるお手軽さもあり、山城巡りの際、国道移動中に少し立ち寄る程度の事であるならば決して時間の無駄にはならないものとは思える。

2009年8月 9日 (日)

寺谷城跡(兵庫県朝来市)

城跡は兵庫県朝来市和田山町寺谷にあって、JR播但線「和田山」駅からすれば円山川を挟んだ真北側に望む事の出来る突き出した尾根の山上に位置している。但馬地方の城跡の多くは当時山名氏の傘下にあったと思われるが、この城跡も地元の方の話によれば竹田城(山名四天王の中の一人太田垣氏の居城)の支城あるいは出城と伝わっているとの事でもあり、恐らく円山川を挟んだ西側の近距離にある太田垣氏の支城でもある土田(ハンダ)城と同様に、一族の拠った支城とみてよいものかも知れない。詳細は不明

城跡へは国道9号と312号の交わる「一本柳」の交差点を北上して線路を渡る、その後は一般道104号へ自然に合流するが、ルート図の如く「寺谷」交差点を右折し直進すれば、今回車を預ける事になる公民館までは難なく辿り着く事が出来る。ただ今回の訪問では個人的には山上まで上れそうな山道は、公民館より東側集落のほぼ端に近い民家脇に発見出来たのだが、時期的にも夏草で山道は覆い尽くされており、更にマムシの生息する危険性もあったので、迷わず付近にお住まいの方に別のルートを案内して頂いた。このルートでは直接住宅地の敷地内を通過して上ることになるので今回は参考ルートとしたが、民家の最奥最上段にある水田傍の害獣避けフェンスを開閉すれば、直ぐ真上に聳え立つ西端郭の切岸が迎えてくれる筈である。取り合えず進入口は画像に示したが、夏季訪問においては必ず付近の民家に声をかけて敷地内を通過する了解を得る事が先決となろう。冬季訪問においては前述の山道さえ探し当てれば、そのまま山上に上れる(地元の方にも上れると聞いた)とは思われるので、わざわざ了解を得る必要はなさそうではあるが、、、。

1route 登城ルート

6 参考城跡進入口

3te 城跡概念図

どちらにしてもこの山城は進入口から5分もあれば城域に到達可能でもあり、充実した訪問内容から考えても是非お薦めの城跡でもある。山上主郭と便宜上の二の丸、主郭北背後の堀切、個々に於ける郭切岸だけはこの時期(7月)でも素晴らしい状態が保持(植林地)されており、無名に近い山城である事を考慮すれば絶賛に値する山城と言えるものでもある。概念図に示したまでが現状判別確認する事が出来た遺構群であるが、遺構残存度は非常に高いものがあり、当然風化はしているもののほぼ完存とも思える遺構群には少なからずとも感動を覚えてしまう。城跡最大の見所は遺構としても判別し易い堀切(空堀)群という事になるが、図に示した主郭の北側尾根を断つ堀切(直立に近い凄い堀切壁)、西堀切(縦堀に繋がる様相)、西先端物見郭の幅を持たせた高低差のある大空堀は、正に圧巻と呼ぶに相応しい遺構と目には映った。技巧を伴う遺構が目白押しの城跡ではないが、この三箇所における堀切と下草の少ない美しい郭切岸が見学の全てとも言い切れる山城の様には感じられた。尚、山上郭に佇めば木々の隙間からでも和田山の街並みや他の山々が望める事からも、今となっては珍しい山上主郭から景色が望める非常に値打ちのある山城と言えるのかも、、、。

15_3maru_heki 三の丸切岸見所

22_3maru 三の丸内

26_nisidamaru_horikiri 26_nisidamaru_horikiri_2西堀切(縦堀へ)見所

27_nisi_demaru_1 西出郭

28_daikarabori_1 西大空堀見所

39_2maru_nai 木々の少ない二の丸

37_horikiri_heki 主郭北堀切見所

33_shukaku_1 山上主郭の現状

2009年8月 7日 (金)

諏訪城跡(兵庫県朝来市)

この城跡は山城の多い但馬地方にあっては、分類すれば丘城あるいは平山城という事になるが、事前に地形図から予想しても比高30m前後でもあり、自ずと規模の小さな館城(居館)が想像された。しかし現地に訪れてみると館城でありながらも規模は相当大きく、全長300m前後あろうかと思われる独立した低山の南北に跨る主要二郭で形成されており、その中央には二箇所の空堀と櫓台的な郭を挟み、更に城跡の西側には土塁を付随させた横堀、一部は畝状にも見える縦堀(目に留まったものだけでも概念図に示した南北に至るまでの合計10本前後)、主郭西側には土塁までも張り巡らされ、相当技巧に富んだ城跡と目には映った。

城跡は兵庫県朝来市山東町大月にあって、山東CCの池を挟んだ真東側の独立した低山に位置しており、室町期まで遡れば当時は釘貫氏の居城が伝わっており、秀吉の但馬侵攻により山名氏と同時に衰退の道を歩んだと思われる。詳細は不明

城跡へは国道427号の「矢名瀬」から北近畿豊岡道に向いて南下するのが一番分かり易く、ルート図の如く進行すれば城跡進入口付近までは難なく辿り着ける。後は画像に示した道路沿いの小屋の脇にある害獣避けフェンスを開閉して進入すれば、直ぐにでも縦堀(空堀道)を通過して主郭東側の郭跡(帯郭)に到達可能である。

1route2 登城ルート

10 城跡進入口

3su 城跡概念図

現状(7月)城跡は人の手も入らず自然任せの荒れ放題と化しており、更に相当藪化も進行している事からも、郭内に限れば外見から視認による全体像の判別確認は非常に困難な状態にある。ただし前述の土塁跡、あるいは空堀、縦堀群などは遺構残存度も高く、明確に判別可能な事からも、竹林地にありながらも見学者にとっては非常に目を楽しませてくれる材料ともなっている。特に便宜上副郭とした西側斜面に形成される土塁と横堀、あるいは縦堀を絡めた構造(畝状に見える)は非常に目を引くものとなっており、相当技巧的でもあり城跡最大の見所と言えるものでもある。城跡の北端側は竹林雑木藪、南端側は膝まで生い茂る笹で外見から遺構の判別確認は困難を極め、城跡南東側あるいは南端側までは踏破確認する事は出来なかったが、遺構も概念図に示した限りにあらずと断言出来そうにも思える、まだまだ多くの隠れた遺構が遺されている城跡の様には感じられるのである。縦堀などの現状判断可能でもあり目に留まった遺構群は図に示したが、当然東斜面側には西側斜面と同様に相当数の縦堀(畝状縦堀もありか?)が設けられている様にも想像される。状態が良くないので一般の史跡見学者にはとてもお薦め出来ないが、遺構の醍醐味を求められる方、あるいは縄張りに関心のある方には見学の見返りは必ずあるものと断言出来そうにも思えたので、個人的には是非訪問をお薦めしたい城跡の一つである。

15_horikiri_1 中央堀切見所

20_karabori_dorui_2 横堀と土塁見所

40_shukaku_heki 主郭切岸(8m前後あり)

35_shukaku_nai 主郭内

41_shukaku_minami_dorui 主郭南側の大型土塁

34_shukaku_kita_dorui_2 主郭北端の土塁見所

47_dorui_karahori 副郭西側の横堀と縦堀見所

51_tatehori 縦堀見所

13_shukaku_minami_isi 構築時代不明の石垣跡

2009年7月16日 (木)

大谷城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市大谷にあって当時においては中沢氏の居城(砦跡)が伝わっているが、宮井城を居城とする篠部氏との抗争では敗北した模様、詳細は不明

城跡へは先にリポート掲載を終えた福田城を起点とすれば分かり易いが、国道178号「福田」交差点より左折して福田城の西側を走る一般道242号へと更に左折、そのまま直進すれば大谷集落までは難なく辿り着ける。集落に入れば道路沿いにある派出所を過ぎて橋を渡り左折、既に右手側に望める丘陵先端部が城跡でもあり、もう一度橋を渡れば更に確認も容易である。直登口は川沿いの民家の最奥からで、ルート図と写真に示した付近から急斜面に取り付いて斜行し、そのまま登り切れば丁度堀切南側辺りの尾根上に到達可能である。

現状(六月)城跡は相当藪化も深刻化している状態にあるが、全長30mにも満たない砦規模(物見程度)の城跡でもあり、南尾根を断つ堀切、主郭背後の土塁、付随する小郭など城跡を形成する遺構は全て判別確認出来る状況となっている。主郭は幅6m程度で20mあるかないかの規模であり、しかも痩せ尾根に築かれている事もあって相当狭いものに感じられる。恐らく人間が常駐するのは当時でも現在でも相当困難であると察せられるが、それには全く相応しくない立派な高低差を伴う堀切が備わっているのにはただ驚くばかりでもある。見る限りにおいて、この小さな砦を攻略した上での値打ち、あるいは効果があるものとはとても思えないのである。見応えがある城跡とは決して言えないが、砦には相応しくないこの土塁と堀切は、興味のある方が一度覗く分には決して無駄足にはならないものとみた。

1route_2 登城ルート

4_1_2 城跡遠望

7 直登進入口

10_horikiri_heki 堀切壁

11_shukaku 主郭

13_dorui 主郭土塁

2009年7月13日 (月)

但馬荒木城跡(兵庫県豊岡市)

この城跡は豊岡市出石町荒木にあって、先にリポート掲載に及んだ鳥居城跡の尾根をそのまま南側へ山上目指して上った先にある。この城跡に関しては少なくとも自分が手にする資料、文献類に記述が無く、ほぼ無名に近い事からも今回の訪問リポートでは独自の判断で、地域名を採用した「仮名、荒木城跡」としてリポート掲載に及んだが、実際には但馬地方史あるいは出石町史の中で荒木城として登場している山城なのかも知れない、、、(他に本来の荒木城と呼ぶ城跡が存在するのであれば訂正しなくてはならないが、現状では照会する資料も乏しい為にまだ呼称も判明してはいない)

鳥居城からみれば尾根を共有しているので詰城の様にも窺われるが、鳥居城の形態とは随分異にしており、見る限り相当古い形態とも窺えるもので、山上から尾根にかけて地形任せに段郭を連ねて堀切で郭を分断しただけの縄張り構成でもあり、見学する分には醍醐味には少し欠けそうに感じられた。現状(六月)遺構として判別可能なものは尾根上に延々と連なる規模の小さな段郭跡(削平地)、但馬地方特有の空堀地形を挟んだ連続する土塁壇、かなり埋もれて判別し難いが郭間に備わる堀切土橋付き堀切(二箇所)、空堀(横堀)などが挙げられるが、意外にも判別可能な遺構がまだ数多く残っていた。

1route_2 登城ルート

3araki_2 城跡概念図

4_dorui_dan 土塁壇

6_horikiri 堀切

11_doruidan_kaku 郭跡

11 空堀跡

12_dobasi_karabori_1 土橋、空堀跡

15_one_kaku 削平地

16_karabori_ato 空堀土塁跡

18_sanjyou_kaku_1 山上郭

縄張り内における郭移動に関しては藪漕ぎ箇所が無いので、この時期にしては快適に見て回る事が出来たが、埋もれた堀切跡などの様に地表風化が相当激しい事、あるいは技巧さを有する遺構が見当たらない事からも、少なくとも戦国期を乗り切った山城の様にはとても見受けられなかった。現在鉄塔の建つ付近が山上主郭とも呼べそうな郭跡(削平地)と見受けられたが、土塁も空堀も付随している訳ではないので確証には至れなかった。ただ東側斜面には空堀土塁跡と見受けられる地形は見受けられたが、、。

麓にある鳥居城から山上まで移動して歩き回った結果として、何とか城跡概念図までは描く事が出来たが、個人的に図中に示したものが城跡遺構としてまず間違いのないものと判断したものに相当する。ただ見学者によっては違った見方になるかも分からないが、よほど物好きな山城ファンでもない限り、この山上まで上って遺構探索まではしないものと思われる、よって見応えが無いのが欠点ではあるが、この城跡概念図を見て興味を持たれた方のみが見学対象となる山城と言って良いのかも知れない、、。

2009年7月11日 (土)

鳥居城跡(兵庫県豊岡市)

この城跡は豊岡市出石町鳥居にあって、以前より国道426号を利用して出石町から豊岡市内へ向かう度に城山の位置確認はしながら通過していたが、ここ最近になって山肌がむき出しになっている事から、どうも発掘調査あるいは住宅造成工事の掘削跡とも見受けられたので、遺構が破壊されない今の中に覗いておこうと思い立って現地を訪れたものである。

城跡へは国道426号よりほぼルート図通りで到達出来るが、426号から鳥居橋を渡る事は現状出来ない(東西通行止め)ので、一旦通り過ぎて北側から国道482号に向いて車は進行しなければならない。現地に到着すれば車の路駐スペースは鳥居橋付近に充分あるので心配はないと思われる。そこからは概念図に示したように歩いて城跡まで向えばよいが、道路上から東側の植林地を覗けば、木々の隙間からもはっきりと分かる主郭切岸と大堀切が直ぐ目に留まるはずである。

結果的に城跡の傍には隣接して新しい住宅地が建っており、多少遺構は造成工事によって消失したものとも予想されたが、いざ城跡まで上ってみると見事に発掘調査の跡(掘削穴)が一部の郭跡に残っていた。どうやら推察通りに近年発掘調査がなされた模様であるが、見る限り余り破壊も受けておらず遺構もほぼ当時のままの様には感じられた。もちろん調査後のリサーチはしていないので、どの様な調査結果が出たのかは知る術も無いし、調査後に数100年間に渡って風雪を凌いで来た当時の構築物を確実に後世まで保全して行くといった姿勢が見えて来ない限りは、個人的には余り期待も興味も持ってはいないのではあるが、、、。(当時の土木技術の凄さを窺い知る為にも是非このまま遺構は保存し遺して頂きたい)

1route 登城ルート

5 鳥居橋より遠望

3to 城跡概念図

個人的には当時における縄張りプランと優れた土木技術を伴う遺構の見学だけが目的であり、目の前にした遺構だけが真実であり、その醍醐味を素直に味わう事に全てをかけているので、何時もの事ながら現状(六月)見たままをリポートさせて頂くが、結論から先に言えばこの城跡は道路側から5分とかからず直立に近い凄い堀切(切岸が美しい上に主郭までの高さが凄い)まで到達出来る事、あるいはコンパクトにまとまっている為に縄張り妙味は余り感じられないが、状態も比較的良い事を踏まえれば、充分見学に値し是非訪問をお薦めしたい城跡と言うことにはなりそうである。城史に関しての詳細は不明

13_horikiri 13_horikiri_1 南大堀切見所

16_shukaku_yagura_1 主郭南櫓台?見所

18_shukaku_dorui 主郭西側の土塁見所

21_higasi_koguti_1 主郭東虎口跡

27_fukukaku_1 副郭内

26_fukukaku_tatebori_2 副郭東の縦堀地形

30_higasi_kaku 東郭

33_minami_one_tatebori 南尾根上の縦堀

城跡を歩き回った結果、自作概念図に示したものが自身で判断した遺構と呼べそうなものになるが、明確に判別出来る遺構としての見所は前述の大堀切、南郭に備わる縦堀、主郭東半分を巡る土塁(南端には櫓台土塁)、便宜上副郭とした東側虎口に備わる三本の縦堀地形が挙げられる。副郭には一部土塁跡は窺われたが、北西側に設けられた配水施設跡の造成土盛の様な気がしないでもない。ただ北斜面下方側に現在住宅地が建っているので、本来の郭跡がどこまで削り取られて、どれ位消失したものかは想像に任せるしか無い様にも思われた。尚、ここから南へ尾根沿いに上れば形態の明らかに違う城跡遺構が山上にかけて残っているが、そちらの現況報告は次で掲載予定

2009年7月 8日 (水)

樋口城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市庄境にあって鶴城跡からは東南直線3km内の距離にある、もちろん樋口氏の居城として良いものと思われるが、詳細は不明。ただ鶴城とは至近距離にある事からも、支城あるいは出城としての機能を担っていた可能性は非常に高いものと見受けられた。

城跡へは国道312号を利用すれば色んなルートが考えられるので、ここでは割愛させて頂くが、登城ルート図を参考にすれば現地近くまでは難なく辿り着く事が出来ると思われる。(探せば付近に路駐スペースあり) 山上主郭(比高100m)まで上るルートは偶然付近で出くわした城山を一部保有する方に教わる事が出来た上、更に上り口の案内までして頂いたが、写真に示した空き地の直立に近い鉄梯子(怖くて腰が引けそうになる)を上り、更に山上までは急斜面(激斜)を登り切らねばならず、個人的には余りお薦めする事が出来ないので、これから訪問される方はできるなら別ルートを探して上られた方が良いのではないかと思われる。ましてこれから先この空き地に住宅が建ってしまえば、当然この梯子を利用して上るのは不可能とも予想され、南西側(全て崖状地形の上、ネットが張り巡らされている)からの直登は避けた方が良いものと感じられた。地形から考えれば南側から遠回りに上れば何とかなりそうには思われたが、、、。

1route 登城ルート

6_2 リスクを背負う参考直登口

3hi 城跡概念図

8_shukaku_nisi_gedan 南西下段郭

9_shukaku_dorui_dan 主郭内の土塁壇

11_minami_yori_shukaku_gawa 主郭南より

15_karabori_ato 南郭空堀跡

18_dorui_dou 片堀切と土塁道見所

21_horikiri_3 南堀切見所

26_nisi_horikiri 西郭群堀切見所

28_horikiri_nisikaku_2 西郭群

現状(六月)城跡はこの時期にしては状態も比較的まし(藪漕ぎは無い)であり、ある程度見通しも利く事から山上における遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。郭跡を除けば明確に判別可能な三本の堀切、相当埋もれているが判別は可能な空堀跡、土塁、土塁土橋、連続する土塁壇(マウンド)といったところが、現状見て回れた範囲の中で地形から個人的に判断出来た遺構群でもある。砦規模の城跡なので縄張り妙味まで求める訳には行かないが、山城としての風情あるいは醍醐味は充分感じられる城跡と目には映った。状態も良い部類に入る事からも四季を問わず訪問が可能であるとは思われるが、安全面を重視すれば今回は自分でも納得の行く直登ルートが紹介出来なかったのが少し残念な処ではある。下山後には直登口を案内して頂いた城山所有者(歴史には詳しい)にお礼を述べた上で状況を報告したいと思い訪ねたが、自分の山がかつて戦国期において城跡であった事実を、自身が現地で描いた簡単な縄張り図を示して説明しても「今までそんな事は先祖から聞いた事も無ければ、他で耳にした事も無い」の一点張りで、とうとう最後まで信じてはもらえなかったのが非常に残念でもあり、改めて400年に渡って現在に至る「城跡の価値」を現実として知らされた思いでもある。尚、城山所有者は自分の事を山の風景写真を撮影しに訪れた者とどうやら勘違いされていた事も後の話で分かった。

2009年7月 6日 (月)

上郷城跡(兵庫県豊岡市)

今回は当方の不手際により、折角編集した上郷城跡のブログ記事が失われてしまいました。よって少し見苦しいかも分かりませんが、最初に記事を作成した時における原稿のコピーを載せる事にしました。詳しい城跡の現況リポートに関しては、「城跡の詳細」をクリックして読んで頂ければ幸いです。

2kami2 城跡の詳細

1rpute 登城ルート

4a 城跡遠望

6 直登進入口

3ka 城跡概念図

9kitaone_horikiri 北尾根上の堀切

15_kitakaku_kirikisi_1 上方北郭の切岸

19_sita_kaku_2 下方郭跡

20_sita_kaku下方北側の腰郭

24_kita_dankaku_1 下方北段郭群

28_shukaku_1 主郭内

30_shukaku_yori_kita_yagura_1 北櫓台土塁見所

34_horikiri_1

南堀切

2009年6月28日 (日)

福田城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市福田にあって、国道178号の信号「福田」の交差点からは直ぐ西側の丘陵先端に位置しており、国道からも充分確認出来る位置にある。当時この城跡もこの周辺に点在する城跡(海老手城など、、)と同様に山名氏の傘下にあったとは思われるが、当然秀吉による但馬攻略軍によって落城あるいは投降したものと察せられる。城史に関しての詳細は不明

城跡へはルート図あるいは概念図の如く「福田」交差点で針路変更後、集落西最奥にある住宅までは直進、その横をかすめて進めば自ずと登城道でもある墓参道に合流する事が出来る。住宅地背後からはそのまま道に任せて上り、集合墓地に到達後は尾根上を北進すれば、主郭までは10分程度で難なく辿り着く事が出来る。(車は交差点直ぐ西側の小川の流れる側道付近に空きスペースあり)

現状(六月)城跡はこの時期にも関わらず雑木密生状態までには至っておらず、それなりに動き回れる事を考えれば比較的ましな状態と言えるかも知れない。ただ低い下草は登城道から墓地を過ぎれば、南郭群から主郭にかけては地表も見えないほど蔓延っているので、細部における地表の変化から遺構を判別するのは非常に困難な状況にはある。それでも埋もれて判別し難い二連に見える堀切跡(縦堀は明確に判別可能)は判別可能でもあり、主郭の南壁を巡る土塁と共に城跡唯一の見所となっている。主郭より北側には細い土塁道が櫓台とも言える北出郭の大土塁(推察)に向いて繋がっている様だが、視認による外見からの確認だけで、密生する雑木藪の為に出郭内部まで踏み入る事は非常に困難でもあり、踏破して広さ(土塁上から見れば相当広く見えた)などを体感する事は叶わなかった。

1route 登城ルート

5 進入口

3fu 城跡概念図

17_horikiri_tatehori_3 南側堀切跡

17_horikiri_tatehori 縦堀

19_shukaku_minamigawa_dorui 主郭の土塁見所

22_fukukaku_1 副郭内

28_kita_kaku 北郭

29_kita_shukaku_heki 主郭北切岸

城跡の規模は小さいが明確に判別出来る土塁、直立に近く削られた主郭の切岸、縄張り変化には富んでいないが、住宅地が城跡直ぐ傍まで迫りながらもこれだけの遺構残存度、以上の点を踏まえれば見学する分には充分なものでもあり、10分足らずで主郭まで到達出来るお手軽さを加味すれば、自ずとお薦め出来る城跡と言う事になろうか、、、400年前後に渡って厳しい風雪を凌いで来た、主郭南半分を巡る土塁は一見の価値のあるものとみた!

2009年6月26日 (金)

森津城跡(兵庫県豊岡市)

この城跡は先日のブログで現地訪問後に詳細をお伝えした様に、先にリポート掲載に及んだ森津城は規模が小さく本来の城跡(本城)は、谷を挟んだ直ぐ東尾根の山上に位置している事が判明した。掲載する上においては前回訪問した規模の小さい城跡を森津西城として、今回訪れた此方が本来の森津城としてリポート掲載に及ぶ運びとなった。どちらにしても二城一体とした形態が森津城でもあり、これから訪問する方には是非二城を同日訪問として訪れるのが効率も良く見て回れそうに思われる。西城より更に西側に隣接する呼称不明の城跡(海老手城と誤認した)も森津三城(城塞群)として考えれば、自ずと規模が大きい事からも屋敷跡あるいは居館であったとも考えられるが、個人的推察の域は出ないものである。城史に関しての情報は現状一切不明である。

城跡は豊岡市森津にあって前回リポート掲載に及んだ西城を起点にすれば、そこから東に見える先端尾根上が城跡でもあり、直ぐに確認することは出来る。当然登山道などは無いので、概念図に示す某建設会社の手前側にある住宅地横の畑地に向う山道(写真に示した)から背後に回り、そのまま直登する形で斜面を上る事になるが、直登口付近で多少の藪漕ぎが必要とされるだけで、15分もあれば山上南堀切までは容易に辿り着く事が出来る筈である。

1route_2 登城ルート

6 城跡遠望

7_tozanguti 進入口

3_1 城跡概念図

現状(六月)城跡は当然の如く藪化進行中にあるが、高低差の少ないほぼ二郭で形成される山城である為に縄張もシンプルであり、この時期でも難渋する事も無く移動出来るので、現存する遺構はほぼ判別確認出来る状態にはある。郭内の全体像などは生い茂る雑木の為に外見から判断する事は出来ないが、郭に設けられた土塁などは確認可能でもある。城跡最大の見所は山上郭の南北尾根を断つ大堀切(薬研堀)で、直立に近く切り立つ堀切壁は状態も良く、高低差もある事から存在感あるいは見応えも抜群なものがあり、他に遺構として目を引くものがある訳でもない事を思えば、この二本の堀切見学がこの山城の全てと言っても過言ではない様にも感じられた。全長100m前後、幅の狭い痩せ尾根上を削平して目一杯築かれたこの山城は、西城よりは当然規模では勝るが、砦規模でもあり個人的には城跡としての醍醐味を感じるまでには至れなかった、しかしこの状態の良い二本の堀切だけは、一度覗いて見ても決して期待を裏切られる事は無いような気はするのである。先にリポート掲載に及んだ海老手城あるいは森津西城との同日訪問においては、充分満足感の味わえる有意義な山城巡りになるのではないだろうか。 

15_fukukaku_heki_1 南副郭堀切壁

17_minami_horikiri_1 18_horikiri 南大堀切見所

21_fuku_dorui_2 副郭土塁

21_fuku_yori_shukaku 副郭より主郭

25_shukaku_kita_dorui 主郭北側土塁見所

28_kita_horikiri_5 北大堀切見所

尚、既にリポート掲載を終えた森津西城は今回訪れた森津城とも重なり紛らわしい事からも、一旦記事は削除して森津城の出城(西城)として今回こちら側に同時掲載しました。一応概念図は掲載しておきましたので参考までに、、。

Nisi 森津西城概念図と前回記事

3_1_2 海老手城と誤認した城跡概念図

2009年6月24日 (水)

海老手城跡(兵庫県豊岡市)

6/21のブログで詳細をお伝えした様に、最初にリポート掲載した海老手城跡は本来の城跡ではない(誤認)事が判明しました、今回は確かな現地情報を元に前回のリベンジをするべく実際の海老手城跡を訪問しました。結果的には予想を上回る規模、状態としては相当藪化進行中にはあるが、手付かずの為にほぼ完存とも言える遺構群の残存度の高さには素晴らしいものがあり山城としての醍醐味あるいは見応えもかなりレベルの高いものと目に映ったので、是非お薦め出来る山城として現況をリポートさせて頂きました。

1route 登城ルート

8 城跡進入口

(本文) 城跡は豊岡市滝にあって、鶴城の支城として栗坂氏の居城が伝わるが、丹後に居城を持つ垣屋氏によって攻略されている模様である。前回誤認した城跡からは水田地帯及び国道178号を隔てて、ほぼ南対岸側の低山山上に位置している。城跡へは豊岡市内より国道178号で福田西の信号を越えれば「豊岡市清掃センター」を目印として向えばよいが、途中で崖が崩れており一般車両は通行不可となっているので、車はその手前に路駐、後は歩いてルート図の如く清掃センターを目指せばよい。ゲートまで到達すれば概念図あるいは写真に示すルートで直登口まで向かい、そこから斜面に向いて取り付けば10分程度で主郭までは辿り着く事が出来る。ただし個人的には平日に訪れた事もあって、ゲートが開いていたので難なく直登口までは行けたが、祝日あるいは土、日にゲート(車両用)が開いている確証は無いので、事前に確認した方が良いかもしれない、ただ人は脇からでも通り抜け出来た様には思えたがこれも確証はない。この城跡へ上るには北側からは橋が全く無いので、ここ以外から直登口まで辿り着くことはほぼ無理な様にも思われる。

現状(六月)城跡は前述の様に相当藪化進行中にあるが、この時期においても縄張り内の移動、あるいは遺構見学がし難い状態までには至っておらず、縄張りも掴み易く残存度の高い遺構群はほぼ判別確認が出来る状況にはある。自作概念図に示したまでが自身で見て回れた範囲であり、確認に及んだ遺構であるが、郭周囲の急斜面は密生する雑木藪地でもあり、外見からの縦堀の判別は非常に困難(但馬地方の山城には畝状縦堀が多く見受けられるが、、)、よって当然備わっていると思われる縦堀の確認までには至れなかった。城跡最大の見所は西尾根を断つ大堀切(薬研堀)が真っ先に挙げられるが、この遺構は主郭からの高低差が20m近くもあり、相当な醍醐味と見応えを感じる事が出来る、他では便宜上の三の丸及び二の丸の土塁、東斜面に連なる段郭群、堀切、郭壁における石垣痕などは挙げられるが、北側は崖状急斜面あるいは天然の水堀(大浜川)とし、山容(地形)も縄張りとして取り込んで築かれた様は、正しく戦国期における山城の様相ではある。現状植林地でもなく、人の手の入らない山城として考えれば、400年余りの自然風化の割には非常に良い状態にあるとも言え、これだけでも貴重な城跡とも言えよう。これだけの遺構が残存しているのであれば、個人所有とも見受けられる城山に対しては少し失礼かも知れないが、是非市に訴えかけて指定史跡として後世まで遺して頂きたいと願うばかりである。

3eb 城跡概念図

12_3maru_dorui 三の丸土塁見所

13_3maru_nai_1 三の丸の現状

19_2maru_dorui_heki 二の丸土塁壁

22_shukaku_naka_dan 主郭内

27_dai_horikiri_4 西大堀切見所

37_horikiri_2 東郭堀切見所

40_isigaki_ato 東郭壁石垣痕

尚、最初の訪問により海老手城と誤認した方の城跡(明確な堀切、郭跡と土塁が残存)は、城史に関しての情報も現状皆無である事からも未だ呼称が判明していないが、仲良く三城が並ぶ様相はとても向城(付け城)とは考えられず、規模も比較的大きいものでもあり、森津三城(城塞群)の中の一つとすれば充分納得の行く城跡なのかもしれない。

2009年6月17日 (水)

大谷向山城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市関宮町大谷にあって、大谷集落より国道及び八木川を隔てた南対岸の低山山上に位置している。養父市内の八鹿地区から関宮地区あるいは大屋地区にかけては数多くの山城(砦跡)が点在しており、当然その中の一つに含まれるであろうこの山城も、ほぼ無名に近い事からも城史に関しての詳細は全く不明であるが、山上には小規模ではあるが比較的良い状態のままの城跡遺構が残存しており、是非とは言わないが関宮地区の山城巡りの際には、リスペクトして頂きたい城跡としてリポート掲載に及んだ。

城跡へは先にリポート掲載に及んだ尾崎天王山城と同様に国道9号(山陰道)より向えばよい、国道を大谷集落まで走ればルート図の如く南側へ左折、渓流展望所でもあり駐車場となる休憩所は橋を渡って直ぐ左手にある。ここを拠点として登山開始となるが、後はほぼ概念図通りに西側山道にある獣避けフェンスを開閉して、数10m歩いた後に沢を渡り斜面に取り付けばよい、直登斜面は植林地でもあり藪漕ぎの必要は無いので意外に急斜面も苦にはならない、なるべく左手側へ少し斜行しながら直登すれば15分もあれば縦堀の備わる北郭群に辿り着く事が出来る。(主郭までは約20分) 参考までに下山ルートも示したが、フェンス開閉口が何箇所もある訳ではないので急斜面を下りる際には必ず概念図付近に下り立つ事が大事となる。尚、逆にこの場所から取り付いても尾根に沿って上れば山上主郭までは到達出来る。

1route 登城ルート

5_inrijinjya_yori 城跡遠望

3oo1 城跡概念図

14_gedan2_tatehori 北郭群縦堀見所

16_kita_gadan1_1 北郭下段

21_horikiri_1 堀切見所

23_horikiri_ato 埋もれた堀切跡

28_minami_horikiri 南堀切

25_shukaku_1 主郭内

現状(6月)城跡はこの時期にあっても藪化はしておらず、見学し易く比較的見て回りやすい状態にあり、縄張りを把握する事も遺構の判別確認をする事も容易に出来る状況でもある。城跡の見所は堀切(縦堀)群であり、風化によって埋もれた箇所も含めて合計5本の堀切を眼にすることが出来た。形態としては主郭を最高所として北側尾根上に郭がほぼ直線的に展開されるだけで、縄張り変化には富んでおらず小規模な事からも見応えがあるとは言い難いが、この状態の良さ、あるいは遺構残存度の高さを加味すれば、充分満足の行くレベルにある山城の様には感じられた。個人的にはこの城跡から西へ数分の距離にある尾崎天王山城とは同日訪問となったが、山城としての醍醐味は断然此方が勝っている様に思われた。

尚、この地区にはルート図1route_2 に示した様に、休憩所から東へ向いて直ぐの距離にタイコ山古墳の墳丘を利用して築かれた和土城があるが、興味のある方は寄っても無駄足にはならないとは思える。ただ発掘作業の結果をリサーチしていないので分からないが、遺構と呼べるものは堀切道(現状集合墓地への参拝道)だけの様にも見受けられた、現状を見る限りでは砦跡としての風情を感じる程度の城跡と思って頂ければ良いのかも、、。

2009年6月16日 (火)

尾崎天王山城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市関宮町尾崎にあって、尾崎集落より真東側の国道9号線に向いて突き出した尾根先端部に位置している。ほぼ無名に近い山城ではあるが石垣が残存しているとの情報だけを頼りに、地形図でおよその目星だけ付けて訪問する運びとなった。藪漕ぎしながら上った結果、ほぼ単郭構造ではあるが国道側の郭壁に石塁を伴った山城に巡りあう事が出来た。当然城史に関しての詳細は不明

城跡へはどの様な道を経由しても、養父市内より国道9号さえ走っておれば容易く尾崎地区には辿り着ける、現地近くまで来れば国道沿いにある「中村自動車整備」を目印としてルート図あるいは概念図の如く進行し、城跡進入口でもある尾崎浄水場施設を目指せばよい。施設付近には駐車スペースは充分あるので、そこから尾根先端に向えば難なく主郭までは辿り着く事は出来る。個人的にはこのルートは下山時に利用したが、国道沿いからの最短距離を選んで直登したお陰で、凄まじいばかりの藪漕ぎを強いられる結果となってしまった。まだ未訪の方には下山時に利用した前者のルートを迷わず選択して赴かれる事をお薦めしたい(それでも時期的に多少の藪漕ぎは仕方が無いが、、)。

現状(6月)城跡は自然任せの風化真っ只中にあり、人の手は入らず荒れ放題と化しており、一部は地表も見えないほどの下草や矢竹、笹に覆われているが、シンプルな構造ともあって縄張りはある程度掴みやすい状態にはある。当時のものと見受けられる石塁は高さは無い(1m程度)が、国道側の外壁をほぼ巡っている形で残存しており、藪漕ぎしながら登って来た甲斐はあったと一人納得をするのである。石垣跡は大小の瓦礫を適当に積み上げたかの様でもあり、お世辞にも素晴らしい見応えのある石積みとは言えないが、往時(突貫工事で築かれたか?)を物語る遺構としては素晴らしいものと目には映った。他では相当埋もれてはいるが空堀跡、あるいは石垣は崩落しているが虎口構造に見えた地形などは当時の残存遺構としてよいのかも知れない。自作概念図に示したまでが現状歩き回れた範囲であり、自分の目に留まった遺構であるが、南東側斜面までは覆い尽くされる矢竹に阻まれてとても探索する気にはなれなかった。当然残存遺構もこの限りではないものとは思われるのだが、この区域は外見からの視認は非常に困難でもあり、推察すら出来ないのが現実なのである。

1route 登城ルート

7 進入口

3te 城跡概念図

12_sekirui 12_sekirui_4 12_sekirui_5 石塁見所

14_karahori_dorui_1 空堀跡見所

16_higasi_isigaki 虎口付近の石垣跡

13_shukaku_1 主郭内

20_koguti_dorui_1 北虎口土塁

この城跡は残存石垣を見たいだけの為に訪れるのであれば、充分納得の行く訪城となる様には思われるが、他の遺構あるいは縄張り妙味などを期待すれば自ずと落胆する事にもなりかねない気がする(大味過ぎる!)。個人的には数100年の歴史を刻んだ石垣がそこにあるだけで充分満足感は得られたが、現状を踏まえれば石垣跡に興味のある方だけに是非お薦め出来る物件と言わざるを得ない。

2009年6月15日 (月)

坂津城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町坂津にあって国道482号を走れば、「日本モンゴル民族博物館」より加悦に抜ける一般道701号へ進路変更、後はルート図の如く目印とした民宿「八平」の看板より右折南進すればよい。車道行き止まりは神社敷地となっており、社殿敷地の背後から直登すれば山上主郭までは5分もあれば辿り着ける。城史に関しての詳細は不明

この山城も他の但東地区の山城(後城、河本城、大河内城など)と同様に非常に規模は小さく、村の城あるいは物見(狼煙台)程度のほぼ単郭で形成された城跡と見てよいものである。その中にあって明確に判別可能な堀切とそれに付随する土塁は唯一の見所でもあり、城山全体が藪化進行中にありながらも比較的良い状態にはある。ただ狼煙台程度の規模でもある主郭は相当雑木に覆われ、更に風化中にある為に数段の狭小郭までの判別は難しい状況にある。尾根沿いに少し上れば痩せ尾根を削平したと見受けられる郭跡も窺う事が出来るが推察の域は出ず、自然地形の可能性も充分考えられるものである。どちらにしても他に枝尾根も見当たらないので、縄張りもほぼ尾根上のみに限定されるものと思われる。

この城跡も先にリポート掲載を終えた河本城と同様に、「但東町の山城を訪ねる」と言った見学コンセプトでも掲げれば、充分見学に値する城跡だと思われるのだが、遺構あるいは縄張り妙味などの見応えを求められれば、返答に困ってしまうのが現実でもある。個人的には但東町に現存する山城の全てとは言わないものの、踏破探索してみたい欲望から訪問する気になったのだが、やはり城跡の佇まいであり縄張りプランなどは現地をこつこつと歩き回らなくては感じられない部分でもあり、特にこのような形態(村の城、逃げ込み城)の山城は築城による立地環境から始まって、見学者を想像に掻き立ててくれる部分も多く、ある意味余計ロマンに浸れるとも言えそうである。ただこの様に小規模な山城は、集落の防備として周りの地形そのものを取り込み築かれたケースも他で見受けられる事から、集落の入り口付近には小さな砦跡が点在していた可能性は充分あるものと察せられる。

1_1 登城ルート

5 城跡進入路

3sa 城跡概念図

8_minami_yorishukaku 南小郭より主郭

11_horikiri_211_horikiri 堀切土塁見所

13_sanjyou 尾根上削平地

個人的に城跡を評価すれば、但東地区一帯に点在する山城巡りの一環と考えれば、充分楽しめる山城の様な気はするのである。

2009年6月14日 (日)

仏清城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町畑山にあって亀ヶ城を居城とした太田氏一族の一人でもある羽尻左馬助の居城と伝わっており、亀ヶ城の東を抑える東出城(支城)と呼べるものでもある。

城跡へは西に位置する岩吹城あるいは亀ヶ城を起点すれば分かり易く、そこから更に東進し国道482号沿いにある「下畑山」バス停を目印として向かう。バス停手前の橋を左折して渡れば直ぐ右手にプレハブ作業小屋が数棟見えてくるが、その間から今回直登山口とする稲荷神社に向けては参拝登山道が通じているので、迷わず社殿までは到達出来る。社殿手前からはどこからでも取り付きやすい場所を探して、東に向いて緩い斜面を直登すれば山上郭群には難なく辿り着く事が出来る。(橋付近からの所要時間は20分程度)

現状(五月)城跡は全域にかけて植林地となっている為に見通しも良く、ある程度全体像が視認出来るので縄張りなどは把握し易いが、地表はほぼ低い熊笹で覆われている為に、細部における地形の変化(土塁)までは視認し辛い状態にある。ただ城跡最大の見所でもある凄い高低差を誇る大堀切は非常に状態が良いもので、幅もあり相当な見応え感じる事が出来る。城跡の形態としては東西200~300mに渡る山上に、ほぼ三郭で形成されたものであるが、主郭の規模の大きさからしても支城として充分相応しいものと言えそうである。縄張り変化には富んでおらず、見る分には非常に大味な気がしないでもないが、他の但東地区にある小規模な山城からすれば随分醍醐味は感じられた。

1route 登城ルート

3a 亀ヶ城パンフより抜粋記事

3bu 城跡概念図

12 直登口

17_2maru 二の丸

19_karabori_kaku 空堀状の小郭

22_shukaku 主郭内

25_shukaku_kita_1 主郭北側

27_horikiri 29_horikiri_heki_1 大堀切見所

概念図に示した部分が遺構として現状確認出来たものであり、一面を覆う熊笹の為に土塁あるいは埋もれた空堀などの様に、細部における地形変化から遺構の判別確認は非常に難しいのが現実でもある。尚、南北斜面上も笹に覆われている事から踏破はしておらず、残存遺構(空堀など)はこの限りではないのかもしれないが、、、。個人的には本城あるいは岩吹城とセットで同日訪問とすれば、充分充実した山城巡りが出来るのではないかとは思えた。

2009年6月13日 (土)

岩吹城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町木村にあって、既にリポート掲載済でもある「亀ヶ城」の支城でもあり、太田氏一族の居城と伝わっているが、今回は本城から見れば西の抑えとしたこの山城へは年を改めての訪問となった。あの素晴らしい本城から察すれば相当遺構にも縄張り妙味にも期待が持てそうには思われたが、結論から先に述べれば、本城が凄過ぎる為に当然全てに於いて見劣りはするものの、残存遺構としての堀切、連続縦堀、櫓台大土塁、鋭角に削られた郭切岸と縄張り妙味もさることながら、歩き回っても次から次へと目を楽しませてくれる山城であり、藪化は進行中にあるがこの時期(五月)でも存分に歩き回れることが出来る状態でもあり、是非お薦め出来る城跡としてリポート掲載に及んだ。

城跡へは本城でもある亀ヶ城訪問コース(但東町へ京阪神から向うルート)国道426号を経由して「出合」交差点は右折、そのまま国道482号を走れば木村集落手前の道路沿いに目印となる「メモリアルホールおのえ」の看板を確認、後は図に示した様に看板先の墓参道より墓地を経由したルートで、多少踏み跡の残る急斜面を巨大岩壁を右手に見ながら斜行して登れば、10分程度で南側斜面に備わる堀切までは到達可能である。

1route1_2 登城ルート

6 城跡進入口

3i 城跡概念図

現状、城跡はこの時期にしてみれば非常に見学し易い状態にあり、概念図に示した遺構群はほぼ判別確認出来る状態でもある。ただ連続縦堀(畝状に見える)にも見えそうな空堀(三条)は緩い斜面上に設けられている事からも相当埋もれており、じっくり全体像を眺めなければ中々判別は難しそうには思える(当然見学者の判断に委ねられる)。見所としては先に述べた堀切(空堀を含めた)群、西郭の防備として設けられた大土塁、南郭の櫓台大土塁は真っ先に挙げられるが、主郭北斜面を数10mほど下りた辺りに展開される、土塁虎口あるいは切岸処理を伴う広大な郭跡(便宜上北出郭とした)も見逃してはならない遺構群と思えた。この郭跡には古来より神社が建立されていたと聞いたが、見る限り雑木に覆われた地表は荒れ放題でもあり、その面影は全く感じる事が出来ず、恐らく当時の広大な郭跡を後世に神社敷地として転用したものとして解釈しても良いのかもしれない。

12_horikiri 南堀切見所

15_minami_kaku_1 南郭、奥大土塁見所

23_shukaku_1 主郭内

26_nisikaku_daidorui 西郭の大土塁見所

30_demaru_horikiri 西堀切見所

31_daikarabori 西出郭の大空堀見所

32_une_1 連続縦堀見所

35_kitakaku_dorui_koguti 北出郭土塁虎口見所

今回は、山城としての魅力の全てを備えた亀ヶ城が今でも脳裏に焼き付いている事からも、支城としての機能を持つこの山城には出来るだけ先入観を持たずに訪問したが、予想を上回る縄張り妙味、期待した以上の遺構の醍醐味にも触れる事が出来、個人的には充分過ぎるほどの満足感を得る事が出来た。

2009年6月12日 (金)

大河内城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町大河内にあって、山名氏の傘下にあった桑垣氏の居城と伝わるが詳細は不明。この但東町一帯は古くは但馬守護職の地位にあった亀ヶ城城主太田氏の支配の下に置かれていたが、太田氏の没落それによる山名氏の台頭と共にほぼ全ての小領主は山名氏の配下に組み入れられたものと見受けられる。この辺境の山深い奥地にある小規模な「村の城」程度の山城跡も、秀吉による但馬攻略までの激動の戦国期を乗り越えながら、尚且つ、数100年の時を刻み現在に至ったのだと思われるが、他の但東地区に多く現存する山城と同様に非常に規模は小さく、村の城の域は出ず有事の際の詰城あるいは逃げ込み城としての機能しか想像は付かないものでもある。個人的には既に但東地区の山城として沢田城から始まって七城程度を訪問した事になるが、規模の大きさ(城域の広さ)で亀ヶ城と中山城を双璧とすれば、他の山城は相当見劣りがするのが現状でもある。

城跡へは京阪神から向う場合、国道9号経由で426号を北上、既にリポート掲載済でもある一ノ宮竹石城をかすめながら更に北進する、長い「登尾トンネル」を抜ければ城跡は直ぐ傍の位置にあり、逆進する形で右折、後はルート図の如く旧国道を谷川沿いに進行すれば、終点でもある通行止めとなっている柵までは到達出来る。そこからは図に示した墓参用の山道があるので、それに従えば自ずと墓地を経由して山上主郭までは10分内で辿り着く事が出来る。

1route1 登城ルート

3oo 城跡概念図

9 登城口付近の削平地

11_hasi 北西端の郭跡

13 郭跡転用か?墓地

20_shukaku_dorui 主郭

16_shuakau_dorui_1 主郭土塁見所

23_kirikisi_1 美しい切岸見所

22_koguti_1 枡形地形の虎口見所

現状(五月)城跡は植林地となっている為に、下草も少なく見通しも利き非常に見学し易い状態にある。概念図に示したまでが判別確認可能な遺構と見受けられるもので、深い堀切あるいは縦堀などは備わっておらず、山城ファンに於いては相当味気なく映るかもしれない、しかしこの状態の良さ、城跡北壁側を谷川に向って絶壁とした佇まい主郭の土塁、枡形虎口の様にも見て取れた地形、鋭角に削られた切岸などは見応えはあり、中々目を楽しませてくれるのが現状でもある。尚、主郭に到達するまでは北西尾根上の墓地も通過する事になるが、この一帯はかつての郭跡を敷地として転用としたものの様には見受けられた。

国道から数分の距離でもあり、車で移動中に寄れる手軽さを踏まえれば充分見学に値するする城跡であると自分の目には映った。

2009年6月11日 (木)

河本城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町河本にあって河本氏の居城と伝わるが詳細は不明、城跡へは国道426号の「出合」交差点より南西側に少し移動した信号機付き三叉路より県道56号へ針路変更、後は河本地区を目指し南下すれば写真に示すバス停手前(川を挟んで城跡の位置は確認出来る)より橋を左折して渡ればよい。ルート図の如く民家を通過して奥に向い、朽ちた小社の少し奥にある小橋を渡って墓参道より西尾根先端側に向って直登すれば、5分程度で堀切の備わる主郭までは辿り着く事が出来る。尚、駐車に関しては前述のバス停付近の路側に充分な空きスペースはある

この山城も現状(五月)を見る限りでは村の城の域を出ない小規模な城跡でもあり、確認出来た遺構としては削平地及び堀切のみである。堀切を挟んだ西側に位置するのが主郭と見受けられるが、痩せ尾根上に全長30m前後、幅5~6m規模の削平地が窺われる程度で土塁などの遺構は目に留まらなかった。しかしこの一本の堀切だけは状態も良く、わざわざ遠くから訪ねて来た甲斐があったと無理やり納得するのである。尾根伝いに山上中腹付近まで踏破してみたものの、城跡遺構らしきものはほとんど見当たらず、縄張り妙味も感じられないほぼ単郭構造でもあり、非常に味気ない思いを抱きながら城跡を後にする事になった。収穫と言えば文献に掲載されている山城の場所と、現在の遺構残存状態を把握出来たぐらいで、ほぼ山城の佇まいを味わいに訪れた程度に終わってしまった気はする。ただこの出郭の様相を呈した城跡は、本来この尾根に繋がる遠く山頂328mの地点までは足を延ばしてはいないので分からないが、ひょっとすれば本郭群を誤認している可能性もありそうに思えてくる、しかし但東地区における他の城跡の規模を考えれば過大評価もありえるので、余り深く追求はしない方が良いのかも、、、

訪問リポートは掲載(ブログ運営趣旨によって)したものの、多くの読者の方あるいは山城ファンの方には、ほぼ場所を特定出来ただけに過ぎない山城としてこれから先も忘れ去られ、流石に訪問の対象とは成り得ない城跡の様な気もして来るのである。国道移動ついでに寄って見学する価値があるかどうかの判断は記事を読まれたブログ読者の方々にお任せしたいのが本音でもあり、この山城に以前より興味を持っておられた方、あるいはこれから訪問する準備のあった方にとっては、よりタイムリーな現況報告であったものと思いたい。

1_1 登城ルート

4 目印

6 城跡進入口

13_horikiri_e 削平地より主郭側

14_horikiri_1 14_horikiri_3 堀切一の見所

17_shukaku_hasi 主郭西側

2009年6月 9日 (火)

細見城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市出石町細見にあって現在須義神社の建立された山上が主郭にあたり、八幡宮山古墳として町史にも指定されているようである。城史などの詳細は全く不明であるが、古墳を利用して築かれた城跡としてまず間違いのない処ではあろう。

城跡へは先にリポート掲載を終えた浅間城を起点にすれば分かり易いが、同じ県道2号を利用してそのまま出石に向いて車を走らせれば、ほぼルート図通りで神社までは迷わず辿り着く事が出来る。神社参拝石段前に車は一台駐車可能となっている

現状(五月)城跡は社殿の建つ事からほぼ二郭で形成された山上主郭は整備されており、古墳の墳丘をそのまま削り出したと見受けられる切岸などは、ある程度当時のままの状態を見学出来るようには感じられた。南側尾根続きに下りた付近には自然地形状態の堀切が備わり、更に出郭と見受けられる二段の削平地を挟んで幅のある空堀(自然地形とは思われなかった)が設けられている。縄張り変化にも富んでおらず、お世辞にも見応えがあるとは言えないが、街道監視用砦あるいは出城程度としての機能であるならば、当時でも充分な規模の城跡であった様には窺われた。墳丘をそのまま利用している事からも技巧さまでは要求出来ず、更に神社敷地として後世に於いてどれだけ地形改変があったのかは想像も出来ず、見学者には多少物足りないかも知れないが、参拝道を利用すれば5分とかからず到達出来るお手軽さを考えた上で、「町史跡」として見学する分にはそれなりに臨場感も味わえ、何とか楽しめるのではないだろうか。城跡見学として数をこなす方にとっては打って付けの城跡と言えよう。

3h 登城ルート

4 進入路より遠望

5_2 登城口

9_shukaku_heki_1 主郭切岸

10_shukaku 主郭

8_gedan 主郭南下段郭

11_sizen_horikiri_1 南自然地形堀切

15_kaku 南下段2郭

2009年6月 8日 (月)

安良城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市出石町安良にあって既にリポート掲載を終えた福居城跡からみれば川を挟んだ北東側の八幡山山上に位置している。安良十郎左衛門の居城と伝わるが、古くは鎌倉時代より成立していた城跡でもあり、同氏がどの時代における城主なのかはリサーチするまでに至っていないのが現状でもある。山名氏の本城となる比隅山城が直ぐ近くに位置している事からも、この周辺の山城と同様に山名氏傘下にあったか、その家臣の城跡であったとみてほぼ間違いのない処かも知れないが、、、

城跡へは福居城跡を起点にすれば分かり易いと思えるが、国道426号からはほぼルート図の如く向えば八幡神社参拝登山口までは容易に辿り着く事が出来る。(車は周辺に空きスペースあり)

現状(五月)城跡は神社敷地となっている主郭転用地はある程度整備されており、南北における郭群も比較的見学し易い状態にはある、、とは言っても縄張り妙味がありそうな山城には見受けられず、山上本郭群の規模も大きくはない(北尾根上から東西枝尾根上全てを踏破した訳ではない)ので、ほぼ神社の参拝に訪れた程度の山城巡りに終わってしまった。個人的に残存遺構として判別確認出来たものは郭跡、虎口跡(あるいは縦堀かも、、)、切岸程度でもあったが、見る限りに於いては近世に神社敷地として大きな地形改変があったようには見受けられず、山城の風情は多く遺しているものでもあり、この古い形態の山城を思えば充分納得の行く訪城と言えるのかも知れない。城跡に過度な期待を持って赴かなければそれなりに楽しめる山城とは言えるが、遺構の見応えであり醍醐味を求めるのであれば、まず落胆する事にも繋がるので最初から多くの期待を寄せない事が肝心であると感じられた。ただ北側に延びる尾根上に展開されると推察される縄張りの全てを踏破した訳ではないので、当然城跡もこの限りでは無いかも分からないが、、、ほぼ隣接する福居城跡に訪れたついでに寄る程度であれば、充分納得の行く山城巡りが出来るのではないだろうか。

1route 登城ルート

5 進入口

A_3 南郭

A_2 虎口あるいは縦堀?

A_1 主郭切岸

A_5 山上主郭

A_12 北郭1

A_8 北郭虎口跡

2009年6月 7日 (日)

下鉢山城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市下鉢山にあって、先にリポート掲載済でもある上鉢山城からみれば真北側に単独で聳える低山の山上に位置している。現在山上には熊野神社が建立されており、神社への参拝道が西側の住宅地から通じているので、ルート図の如く進入口(鳥居が見える路地)さえ確認すれば迷わず山上までは辿り着く事が出来る。この城跡の真北側には三開山城、あるいは真南側に上鉢山城がある事からも、それらの支城あるいは出城とも見受けられるが、推察の域は出ず城史に関しても詳細は不明。

城跡の形態としては主郭と見受けられる社殿敷地から、南側には幅の狭い小郭を交えた南段郭群、北側は主郭帯郭下より規模の大きい郭跡(便宜上、中郭とする)、更にその北側には高低差を以って北郭櫓台とも呼べそうな土塁郭が見て取れる。

現状(五月)中郭から更に北側も密生する雑木竹薮地と化しており、その堆積物などによって地形の変化や細部における遺構の判別は非常に困難を極める状況にあり、概念図における様に北郭より以北及び以西の縄張り、あるいは郭形状などは全体像を視認する事も出来ず、推察を交えたものに終わってしまった。そのお陰で更に北側の尾根上も、西側における郭推定地も未踏に終わってしまったのが、今回の山城巡りの中では非常に残念な結果でもあり、唯一心残りともなってしまった。もちろん冬季訪問としても竹薮が冬枯れするとは思えず、伐採されるとも到底思われないので、南北尾根上の納得の行く探索縦断はこれから先もほぼ無理な話である様には感じられる。縄張りにおいても見応えのある遺構(堀切など)も見当たらず、城跡を確認し体感した程度で終わってしまったが、未踏地も含めれば山上尾根は起伏に富んではいないが、郭群で覆い尽くされている様にも窺われたので、決して砦規模では終わっていない城跡の様には感じられた。

個人的にはお薦めとまでは行かなくとも、ほぼ隣接する三開山城の訪問ついで、あるいは上鉢山城との同日訪問とすれば、何とか充実した山城巡りが可能なのではないだろうか。 

1route 登城ルート 

3si 

城跡概念図

5 南側より城跡遠望

7 参拝道進入口

9_minamikaku1 南郭群

20_minami_dankaku_gun_3 南段郭群の切岸

10_shukaku 主郭内

15_naka_kaku_1 中郭の現状

16_kitakaku_heki 北郭切岸

2009年6月 6日 (土)

上鉢山城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市上鉢山にあって、既にリポート掲載を終えている三開山城から見れば下鉢山城跡を間に挟んで真南側に位置しており、切り通し(堀切道)を挟んで単独で二つ並んだ西側の低山の山上が城跡にあたる。田和豊後守の居城を伝えるが詳細は不明

城跡へは三開山城と同様に国道426号より北上し、加陽城跡の望める「五条大橋東詰」の交差点を右折東進、後はほぼ道任せのルート図通りで城跡進入口となる神社までは難なく辿り着く事が出来る。車は神社に向う手前に公民館があるので、その敷地を借りて停めれば良いのではないかとは思われ、そこから歩いて切り通しに向かい墓参道から墓地を経由して上れば、公民館からは10分もかからず山上東郭までは到達可能である。

現状(五月)城跡は藪化は進行中にあるが、郭移動は容易く、見通しは悪いが遺構の確認に差障る状態までには至っていない、とは言っても特筆に値する見応えのある遺構が存在している訳ではないので、山城としての雰囲気は充分味わう事が出来る範疇にあるとだけ思って頂ければよい。概念図に示した範囲が城跡の縄張りと見受けられるものであるが、郭跡、郭切岸が当時の遺構として確認出来たものである。西出郭に向う移動尾根上にも食い違いの片堀切跡らしきものが窺えたが、判別は非常に難しいのが現状でもある。主郭南側の集合墓地の敷地も本来は縄張りの一部として郭跡に見えなくも無いが、これは見学者の判断に委ねられる。尚、切り通しを挟んで東に位置する社殿のある山上も東出郭として縄張りの一部の様にも窺われたが推察の域は出ないものである。

城跡を評価すれば自分の予想した以上に規模は大きく(主郭の東西は50m以上)、本郭群はほぼ四郭から形成されており、更に西出郭削平地まで城域とすれば、充分砦の域は出ているようには感じられた。田和氏がこの山城でどの様な役を担っていたかは知る術も無いが、後でリポート掲載の予定にある下鉢山城とセットで同日訪問すれば、何とか充実した山城巡りと成り得るのかも知れない。

1route_2 登城ルート

5_1 城跡遠望

3ka 城跡概念図

6tozanguti 進入路

8_kiritoosi 切り通し

12_shukaku_heki 主郭東切岸

14_shukaku_2 主郭内

18_nisi2 西郭

20_horikiri 片堀切か?

2009年6月 3日 (水)

八鹿愛宕山城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市八鹿町八鹿にあって、繁華街南側を見下ろす形で八木川に迫り出した尾根、通称愛宕山の山上に位置している。現在山上主郭には小さな社殿が建立されている事からも、登山参拝道あるいは登山道(道標は無い)からの二通りのルートで上ることが出来る。城史に関しての詳細は不明であるが、この八鹿一帯には無数の城跡(砦跡)が点在する事からも、規模の大きさからすれば砦あるいは出城といった処であるとは思われるが、地理的にも街道監視用の砦とすればまず間違いのない処かも知れない。

城跡へは繁華街の奥に位置する「永源寺」を目印とすれば一番分かり易い、寺院の駐車場からはルート図あるいは概念図を参考にすれば登山口は容易に見つける事が出来、登山道に従えば難なく金毘羅社経由で山上主郭までは辿り着ける筈である(登山口より5分程)。

現状(6月)城跡は社殿の建つ山上主郭以外は下草は蔓延り荒れ放題でもあるが、小規模な上にさして縄張り妙味のある山城でもないので、見学に支障を来たすまでには至ってはいない。ただ登山道まで夏草が伸びており、歩き難い現状から察すれば当然山上郭群に対しての期待感は薄れるのも現実である。城跡の形態としては登山道中における金毘羅社の敷地も当時の郭跡の転用とも見受けられるが、南側斜面まで郭の展開が成されている様には見受けられず、ほぼ山上三郭と中腹に位置する金毘羅郭で形成される小規模な山城と見てよいものと思われる。城跡唯一の防備施設としては東尾根を断つ空堀が目に留まった程度でもあり、斜面上に縦堀が数本備わる様な縄張りを持ち合わせた山城の様にはとても見受けられなかった。

1 登城ルート

6 登山口

2_3at 城跡概念図

7_2 金毘羅社郭転用地か

9koguti_dorui 土塁虎口か

15_shukaku_heki 主郭壁西側

19_shukaku_nai_1 主郭内

21_shukaku_heki 空堀より主郭側

見応えのある山城とはとても言えないが、遺構残存度は比較的高い様にも見受けられるものであり、この八鹿一帯の山城巡りの一環とすれば登山口からは5分程度で上れるお手軽さもあって、城跡訪問としての数をこなされる方にとっては打って付けの城跡と言えるのかも知れない。

2009年5月31日 (日)

大杉城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町大杉にあって、大杉地区にあっては地元の誰もが御存知でもある大福寺、あるいは古来より由緒のある二ノ宮神社の西背後の山上尾根に位置しており、県道6号から県道48号へと乗り継ぎ、前述の二ノ宮神社を目指せば登山口までは難なく辿り着く事が出来る。もちろん登山口(登城口)がある訳ではないので、神社と大福寺が共存する敷地内からの直登は余儀なくされるが、概念図に示す大福寺本堂奥のフェンスを開閉すれば、そのまま左側急斜面に取り付いて山上尾根を目指せば、自ずと山上主郭までは辿り着く事が出来る(10分程度)。尚、最上段のお堂には「大杉城登山道」と掲げられた木の表札があったが、それには決して惑わされ無いように(登山道は無い!)

この城跡も他の大屋町の山城と同様に、個人的には乏しい資料の中で存在だけを確認して場所の目星だけ付けて訪れたのだが、途中で地元の方に場所を確認したら偶然にもこの大屋町の山城をある程度知っておられた方であったので、幸いにも神社背後に現存している城跡に苦労せず辿り着く事が出来た。自分の様な遠距離訪問者にとっては時間の関係もあって、支所などに寄って城跡の資料を取り寄せる事も中々難しい状況でもあり、城史に関しての詳細は現状では不明である。

現状(四月)城跡は多少の藪化程度で見通しもある程度利く状態でもあり、山上郭群に遺された三本の堀切、土塁跡、郭切岸などが判別確認出来る遺構となっている。ほぼ主要二郭で形成された山上郭は規模も小さく、山城としての醍醐味あるいは縄張り妙味にも少し欠ける様には感じられるが、この見応えのある三本の堀切だけが城跡最大の見所とも思われ、この堀切見学だけで訪れても充分満足感は得られるような気はするのである。ただ他に特筆すべき遺構が目に留まらなかったので、是非お薦めと言う訳には行かないかもしれないが、他の大屋町内に存在する由良城、一ノ宮城、加保城などを含めた山城巡りの一環とすれば、充分見学に値する山城の様には見受けられたが、、、

1route1 登城ルート

8 城跡進入口

3oo 城跡概念図

20_hiroi_obi 東帯郭

22_fuku_kaku_1 副郭

18_kita_heki 山上郭切岸

27_shukaku_dorui_ato 主郭内

23_horikiri_4 東堀切見所

28shukaku_sita_horikiri1 32_horikiri2_nisigawa 二重堀切見所

2009年5月30日 (土)

大屋一ノ宮城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町中にあって、由良城跡側から見れば北東側の突き出た尾根上先端に位置しており一ノ宮神社の丁度南背後にあたる。もちろん限りなく無名に近い城跡なので事前に地元の方に訪ねても色々な異なる情報が耳に入り過ぎて、結果的には最初に自分で描いた想定登山ルートを城跡の目星だけ付けて上る羽目になった。今回はもっと上り易いルートがあったのかも知れないが、取りあえず自分で選択した分かり易いと思われる墓地経由の直登ルートを赤線で図に示した。随分遠回りにはなるが謎の広大な二段の削平地までは山道を利用し、そこを通過しても藪漕ぎもなく20分内で到達出来たので、そんなに時間の無駄にはなっていない様な気はするのだが、、、

現状(四月)城跡はそれなりに見学し易く、小規模な山上郭及び最大見所とも言える二重堀切まで充分確認出来る状態にある。山上主郭は20m程度の規模で出郭か砦の様相でもあり、本音を語れば折角苦労して上った割には味気なさ過ぎて、少々肩透かしを食らってしまった。この様な城跡の形態であれば必ず尾根続きの山上側には山上郭群が存在して当然とも思われたが、山上は切岸処理のされていない削平地のみであり、およそ城跡遺構と断定出来るもの(堀切や土塁)には巡りあう事が出来なかった。ただ東尾根までは踏破していないので、案外城跡もこの限りではないのかも知れないが。

尚、ルート図に示した居館跡の如く広大な規模の削平地は未だに謎なのであるが、近世における寺院跡の様な気がしないでもない、本来なら居館跡と思った方が想像も広がって楽しめそうとも思えるが、やはり城跡遺構ではない様には思われる。

この大屋川沿いにはまだ文献でも紹介されていない数多くの山城あるいは砦跡がある(地元民の情報による)そうなので大変興味はそそられるが、個人的には何分遠距離訪問でもあり、そう何度も訪れる事が出来ないのが非常に残念な処ではある。ちなみに地元の方の情報によれば田和城、高取城、三方城の砦、大杉城の出城などが現存するそうであるので参考までに、、、

1route_2 登城ルート

6 西より遠望

3iti 城跡概念図

10_sakuheti_jyoudan_3 広大な削平地上段

12_horikiri 山上物見南側の堀切地形

16_2jyuuhorikiri 16_2jyuuhorikiri_2 二重堀切見所

18_shukaku_1 主郭

2009年5月29日 (金)

由良城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町由良にあって、由良集落から望めば南側に単独で聳えるほぼ独立した低山の山上に位置している。この山城も大屋川沿いに数多く存在する山城と同様に詳細は不明であるが、存在および場所の確認は文献あるいは地元の方から事前情報を入手していたので直ぐに探し当てる事は出来た。城跡へは先にリポート掲載した三方城、大杉城、あるいは加保城と同じく県道6号より向えばよいが、目印となる主要な建物も見当たらないのでルート図に示す養鶏場?より谷沿いに歩けば分かり易い、民家の最奥突き当たりには獣避けフェンスが設置されているので、それを開閉して山道に任せて上れば城域南端と見受けられた堀切跡までは、10分もあれば迷わず辿り着く事が出来る。ただ山道も相当荒れ放題と化しており、倒木も多いので何度も迂回を強いられる事にはなるが、、

現状(四月)城跡は藪化もしておらず非常に見学し易く見て回りやすい状態にあるが、山上郭は小規模、見応えのある遺構としては南尾根を分断している二重堀切のみでもあり、概念図に示した通り山上は単郭構造で東側急斜面には数段から形成される小郭群が備わってはいるが、縄張り妙味も余り感じられない事からも非常に味気ない見学となりそうには思われる。当時の状況として麓の谷筋辺りを屋敷群と想定したなら、山上は詰城あるいは物見の機能を担う程度のものであった様にしか見受けられず、山城としての醍醐味は多くは望めない城跡の様には感じられた。ただ今回未踏に終わったが麓から城跡を望んだ時、城跡より東側斜面の木の伐採が行われた辺りが、それとなく平坦地形に見て取れたので、案外この辺りが居館跡の可能性はあるのだが、所詮推察の域は出ないものでもある。

尚、ルート図に示した北東側の突き出した尾根先端には一ノ宮城跡が存在しているが、二城セットとしての同日訪問であれば、何とか有意義な山城巡りが出来るのではないだろうか。此方のリポート掲載は次の予定 

1route 登城ルート

4 東より遠望

3yu 城跡概念図

12_2 南端堀切

13_one_1 南移動尾根

15_2jyuu_horikiri 15_2jyuu_horikiri_1 二重堀切見所

18_shukaku_3 山上主郭

22_higasi_dankaku_gun 東段郭群

2009年5月26日 (火)

三開山城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市大篠岡木内にあって「瑞峰寺」南東側の三開山山頂(標高202m)に山上郭、中腹にかけては広大な規模を持つ当時の屋敷跡が展開されている。古くから成立している山城である為に幾度も城主は交代している様だが、特に山名氏の居城として有名。当然秀吉による但馬攻略の際には落城したと思われるが、その後秀吉側によって改修が施されたのかあるいは廃城となったのかは詳細は不明。

城跡へは国道426号で北上し「丸山大橋」手前で一般道703号へ右折針路変更すれば既に右前方に望める形の整った山がそれであり、ルート図の如く六万川を渡り直ぐ右折すれば山口となる「瑞峰寺」には容易に到達出来る。現在ハイキングコースとして四ルートが四方の麓から山上まで繋がっているが、今回は最短(南下すれば「駄坂」から最短ルートはある)ではないが、遠距離訪問者に一番分かり易く駐車場も設置されている寺院からの登山ルートを選択した。ここからは遊歩道任せで古墳を経由して途中から西郭群へ直登すれば、30程度で山上主郭までは到達可能である。ただ直登すれば南郭群を通過する事は出来ないが、、、分岐地点の道標からは「千畳敷き」と称される屋敷跡にも向かえるが、時間に余裕のある方はほぼ遊歩道任せで南郭群から山上郭群を見学して、下山時にじっくり屋敷跡などを見学した方が効率もよく、より納得出来る見学が出来そうには感じられる。それだけ見所も多く見応えのある遺構も多い城跡なのである。

2route 登城ルート

2a 現地案内説明板より

3m 城跡概念図

現状(五月)山上郭群は下草は多く蔓延っているが、周囲を遮る木々も少なく整備されているので非常に見学し易く見て廻り易い状態にある。山上に佇めば素晴らしいロケーションでもあり、素晴らしい遺構群を前にすれば長く感じられた距離も時間も全て過去のものとなってしまうほどである。山上郭群は中腹における居館跡からすれば詰城とも見受けられるもので、凄い規模を誇るものでもなく縄張り変化にも富んでいる訳ではないが、多く備わる空堀、堀切群(畝状縦堀は埋もれて判別し難い)は比較的状態もよく(主郭東側の縦堀まで繋がる堀切は凄い!)非常に目を楽しませてくれる。現地縄張り図における全ての縦堀を覗いた訳ではないが、相当数の縦堀が備わっている様である。畝状縦堀群より下りた辺りの千畳敷き(居館跡)及び井戸跡の窺われる屋敷跡は、相当荒れ放題と化しており非常に歩き辛いが、見通しは利くので全体像を伺う事も出来、素晴らしい臨場感を味わう事も出来る。未だに郭壁には当時の遺構として石垣跡も窺う事が出来、容易に当時に思いを馳せる事にも繋がっている。結果的には南郭群までは覗けなかったが、居館跡と一体となったこの山城は状態も良く、正に推奨に値する是非お薦め出来る城跡の一つと言えよう。

21_nisikaku4_tatebori 西郭4の縦堀見所

21_unebori_2 畝状縦堀群見所

30_shukaku 主郭

32_nisikaku_gawa 西段郭群

37_shukaku_heki_1 東郭

39_tatebori_e 40_1東側堀切1見所

43_higasi_horikiri2_1 東堀切2見所

50_1 千畳敷き見所

53 石垣跡見所

2009年5月25日 (月)

浅間小城跡(兵庫県養父市)

この城跡は先にリポート掲載に及んだ浅間城(本城とみた)からみれば支城あるいは出城機能を担ったものかも分からないが、お互いに隣接する事からも佐々木氏の持ち城としてまずは間違いのない処か、、、ただ秀吉の但馬攻略軍の軍門に下った歴史から考えれば、畝状縦堀群の設けられた此方は改修が施されていない様に見受けられたが、浅間城の方が分厚い櫓台土塁、深い堀切(空堀)、武者隠しなどが備わる事からも、多少秀吉側における改修があったものと推察して良いのかも知れない、もちろん個人的推察の域は出ないが、、、

城跡防備としての主郭東西に於ける斜面に掘削された畝状縦堀群は、山名氏関連の城跡(鶴城、三開山城など他の但馬地方の山城でも多々見受けられる)ではさほど珍しくはないが、小規模ではあるが優れた縄張りプランを想像させるものでもあり、現状(五月)相当な風化あるいは付近の土砂の流失などによって、肝心の縦堀の深さは失われているが判別確認は充分可能となっている。既にリポート掲載に及んだ同じ町内にある「大江堀城跡」とも畝状縦堀群で相通じるものはあるが、規模あるいは残存度、残存状態で此方が若干劣っている様には感じられた。現状城跡の状態も悪くない事からも、概念図に示した少ない遺構群(縦堀の本数はおよそ)はほぼ判別確認出来る状態でもあり、浅間城でも触れた様に、二城同日訪問によって形態の違い、縄張りに施された工夫あるいは技巧を推察しながら楽しんで頂きたいと思うのが本音でもある。

1route 登城ルート

6 進入口

3a 城跡概念図

11 北郭群より主郭側

14_karabori_dorui 空堀と方形土塁郭

16nisigawa_une_1 西側畝状縦堀見所

24_higasigawa_une 東側畝状縦堀見所

23_gedan_yori_shukaku 主郭

22_kita_gedan_1 主郭北下段

19_minami_horikiri_1 南堀切見所

城跡へは浅間城と同様に、浅間地区に入ればルート図に示す付近にあるオレンジ色の屋根が目印となる「浄化センター」を目指せば分かり易く、付近の空きスペースには路駐も可能である。そこから川を挟んで東側に見える北に突き出た尾根先端が城跡でもあり、位置を確認すればルート図に示す墓地を目指して川沿いの農道を歩き、橋を渡れば直ぐ墓地脇の獣避けフェンスまでは到達出来る。フェンスを開閉すれば、どこから取り付いても直登5分程度で山上主郭には到達出来るが、山上主郭には朽ちた祠がある様に、祠南背後の堀切跡からも山道が参拝道として東側に繋がっていたのかも分からない、、、

2009年5月24日 (日)

浅間城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市八鹿町浅間にあって佐々木近江守の居城を伝え、当時は他の豊岡周辺の武将と同様に山名氏の傘下にあったか、あるいはその家臣であった可能性は非常に高いと見受けられるが、秀吉の但馬攻略の際にはその軍門に下った模様である。詳細は不明

訪問結果から先に述べれば、この山城は主要三郭で形成されたもので、小規模ではあるが山上郭群の南北斜面と西斜面には二重堀切を含めた合計5本の堀切が備わり、主郭には櫓台の機能を持つと見受けられる分厚い土塁、あるいは南側斜面には武者隠しとも想像出来そうな空堀土塁、わざと段を違えて形成された小郭など細部に渡って創意と工夫が施されており、縄張りプランにおいても非常に技巧さに富んだ城跡と目には映った。現状(五月)藪化は進行中ではあるが郭移動に難渋するまでには至っておらず、遺構残存度も高いことからも全ての遺構は判別確認が容易に出来る状態でもあり、今回西側へ隣接する浅間小城と並んで、是非お勧めしたい山城として現況をリポートしたものである。浅間小城(リポートは次で掲載予定)側からすれば此方が本城と言う事になるのかも分からないので、個人的には先に寄った小城のリポートは後回しにした、、

城跡へは京阪神から向う場合、国道9号より養父市内に入れば国道312号へ針路変更、そのまま北上し「下小田」の交差点で出石に向いて県道2号へ右折すればよい。浅間地区に入れば「上浅間」バス停向の道から城山は確認出来るので、ルート図の如く川を越えて向えばよいが、山道に備わる獣避けフェンスを開閉すれば直ぐ左手側の害獣捕獲オリ側から谷沿いを通過してに向うか、そのまま山道から小さな池傍を通り過ぎて向うかの、二通りのルートの何れかで凄い縦堀(堀切)の備わる西斜面には到達する事が出来る。どちらにしても方向さえ間違えなければバス停付近からは15分前後の所要時間で容易に辿り着ける筈である。尚、この城跡付近には路駐の容易に出来る場所が見当たらず、先に小城を訪れた場合は地区の「浄化センター」付近の空きスペースに車を停めて、小城を見学した後に多少距離はあっても、そこから歩いて向かわれる事をお薦めしたい。

3_2a 城跡概念図

5 登山進入口

9_tatebori 北側縦堀見所

9_tatebori_2 北堀切見所

15_kita_2_1 北郭2

18_shukaku 主郭土塁

16_yagura_dorui 主郭櫓台土塁見所

21_minami_karabori_dorui_2 武者隠しか?見所

24_horikiri1_2 南二重堀切1見所

25_2jyuu_hori_2 二重堀切土塁見所

32_2jyuu_horikiri_1 西二重堀切1見所

浅間小城と同日訪問する事によって、山城ファンに於いては遺構見学における醍醐味も満足感も間違いなく味わえると思われ、どちらも小規模ではあるが縦堀を含めた堀切遺構あるいは縄張りプランはかなりの見応えがあり、一流の縄張りが施された正に推奨に値する山城(二城併せて)として非常に印象付けられる事になった。

2009年5月14日 (木)

加保城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町加保にあって、加保集落から見れば大屋川の東側背後の独立した小さな小山に位置している。三方城跡などと同様に県道6号沿いにあるが、路脇には「城山」と掲げられた看板が直ぐ目に留まる位置にあるので非常に分かり易く、道路脇のスペースに車を停めれば直ぐにでも主郭までは到達可能でもある。栃尾氏の居城と伝わるが詳細は不明

現状(四月)城跡は史跡として非常に整備が行き届いており、コンパクトな縄張りと相俟って概念図に示したように数少ない遺構群ではあるが、小山上の郭跡、堀切、あるいは土塁といったところは全て判別確認出来る状態にある。中でも中央を分断する堀切はこれ以上ない素晴らしい状態を誇っており、少ない遺構群にあっては最大の見所と言えるもので、砦規模の城跡にしては分不相応な立派な堀切でもある。最大全長50m足らずの小規模な城跡ではあるが、当時の砦跡の形態を窺うには申し分のない材料でもあり、城跡西側は大屋川を利用した天然の水堀(川面までは急崖)とし、東側は30m近い高低差を誇る急崖で防備されており、地形あるいは立地環境まで縄張りに取り込み、削平された郭跡あるいは切岸処理などからみても、本格的普請によって築かれたものと推察される。

今までの山城巡りの中でも砦跡(出城と思えた)としてここまで整備保存されたものには中々御目にかかった事も無く、道路脇より直ぐにでも到達出来るお手軽さも加味すれば、規模は小さいが正しく推奨に値する城跡と言えよう。全体を見学しても10分足らずで終わってしまう程度の味気ない城跡なのだが、前述の様に築城された周囲の環境あるいは縄張りなどを考えれば、実に奥の深い城跡なのである。

1route_2 登城ルート

5 城跡上り口

3kaho 城跡概念図

10_minami_dankaku 南段郭群

12_fuku_kaku_1 副郭

13_fukukaku_dorui 副郭堀切側の土塁

14_horikiri 堀切見所

15_horikiri_fukukaku_heki_1 堀切壁

20_kitakaku 北郭

21_kitakaku_yori_shukakuheki_1 北郭より主郭切岸

2009年5月13日 (水)

ウスギ城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市建屋(タキノヤ)にあって、建屋集落より川を挟んだ西側に位置する山塊のほぼ三方に渡る尾根上に郭は展開されている。当時は太田垣氏の居城と伝わり、この地を本拠として竹田城を築き但馬守護代に上り詰めたと思われるが、本城を移動した際は竹田城の支城として家臣でもある建屋氏が城代となった模様、詳細は不明

この城跡は訪問した結果、東側の遠く山上尾根も含めた三方尾根上に郭は削平地として点在しており、相当城域の広い山城と見受けられた。遺構見学としての本命は北尾根先端に位置する本郭群であり、二本の見応えのある大堀切によって南北尾根は分断され、城中最大規模を誇る南郭には形のある程度整った土塁が高低差のある郭切岸と並んで非常に眼を楽しませてくれている。もちろんこれらが城跡最大の見所と呼べるものでもあるが、直登ルートから本郭群に向う尾根上、更に東側尾根上にも郭跡(切岸処理のない削平地)は眼に留まり、城跡をより巨大なものに感じさせてくれている。個人的にはルート図に示した東側まで踏破したが尾根上には連続する削平地が幾つも点在しているのを確認する事が出来た。現状(三月)本郭群だけを見れば木々も少なく全体的に見通しも利くので前述の遺構群は全て判別確認出来る状態にあり、城跡の醍醐味あるいは素晴らしさに更に拍車をかけている。比高は100m程度なのだが主郭周囲は急崖でもあり、簡単には人を寄せ付けない凄みを感じられた。全ての枝尾根上までは踏破することは出来なかったが、歩き回る事によって充分過ぎるほど山城の規模、あるいは魅力を体感する事は出来た。個人的にも是非お薦めしたい山城の一つには数えられる。

1route_4 登城ルート

5_tozanguti_2 直登進入口

3u 城跡概念図

11_horikiri_1 南堀切見所

12_minamikaku_dorui_3 南郭の土塁見所

15_dorui_gawa_1 南郭

18_shukaku_horikiri_e 南より主郭切岸

21_horikiri_2 北堀切見所

24_kitakaku_1 北郭

22_shukaku_2 主郭内

25_shukaku_kita_heki_3 主郭北切岸

城跡へは国道312号より北上した場合は交差点「立野」で県道70号へ左折針路変更、線路を越えれば更に左折してそのまま八鹿に向いて10km程度直進すれば建屋地区に辿り着く事は出来る。集落からはルート図の如く直登山口となる金毘羅社を目印として進行すればよいが、最短ルートでの直登なら道路沿いからV字谷に向いて取り付けばそのまま主郭南背後に到達出来るものと思われる(金網フェンス有無の確認をしていないので確証は無い)。個人的には最短ルートとして北側にある集落センター付近からの直登を想定したが厳重な金網フェンスが張り巡らされているので開閉も出来ず諦めた経緯があるが、そこから更に西側へ向えば山道があったのかも知れない。個人的には西側の別峯も探索の対象としていたので、敢えてルート図に示した金毘羅神社から上ったが、時間を要しても良いのであれば随分遠回りにはなるが、フェンスも藪漕ぎもなしで確実にルート図通りで到達出来る赤線ルートをお薦めしたい。

2009年5月12日 (火)

三方城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町宮垣にあって、国道9号を経由して大屋川沿いに県道6号を走り、トンネルを潜り終えればほぼ左手(南側)に望める低山ではあるが険峻な山容の山上尾根先端に位置している。この山城に向うまでにはルート図に示す県道沿いに男坂神社が目に留まるが、此方にも男坂城なる砦跡が社殿敷地を主郭として二段の郭跡、切岸、及び背後の堀切は近年の石段増設工事によって消失してはいるが縦堀は僅かに痕跡が残っており、寄って見学しても決して無駄にはならないとは思われる。

男坂神社からは三方城跡の位置は直ぐ確認出来るので、南側の橋を渡り概念図に示す登城スタート口でもある「いぼ地蔵」まで向えばよい。この付近に路駐スペースはあるので車を停めれば、どちらを選んでも崖状急斜面を上ることに変わりはないが、概念図に示した二通りの直登ルートで尾根上の主郭までは到達する事が出来る。ただ武家屋敷跡も見学するのであれば自ずと愛宕社経由の最短直登ルート選択にはなるとは思われるが、、どちらにしてもこの城跡への登山は斜面も相当きつく滑りやすいのでスニーカーは危険!主郭までは15分程度)

現状(四月)城跡は植林地となっている為に下草はほとんど無く、郭全体像の見通しも利く為に残存する遺構群である郭切岸、石積み、堀切、櫓台土塁跡などは全て判別確認可能であり、自然任せの風化中にはあるが見学し易い素晴らしい状態が保持されている。山上には事前に地元の方に聞いたとおりに僅かな石積み跡も残存しており、遺構群の中では凄い高低差を伴う堀切が最大の見所である様には感じられた。郭内では川原石が多く目に留まった箇所が見受けられたが、地元の人の話によれば城跡に侵入して来る敵にぶつける為の「つぶて石」との見解でもあった。(個人的には数100年経た現在に至るまでの堆積物を考えれば、それは無いだろうと思うのではあるが、、、)

1route 1z登城ルート

9_2  愛宕社経由の直登進入口

3mi 城跡概念図

15_buke_yasiki_1 武家屋敷跡

23_kita_3dankaku_gunn 北三段郭

22_isigaki_ato 石積み跡見所

25_fuku_yori_shukaku_1 副郭より主郭

31_shukaku_yagura_2 主郭櫓台土塁見所

33_horikiri_1

南大堀切見所

36_horikiri_minamikaku_heki 堀切と南出郭

城跡を個人的に評価したなら、男坂城を含めた同日訪問であれば二城で集落入り口を固めた構造、あるいは二城の形態から機能の違いにまで目を向ける事が出来るので、自ずと当時の状態にまで思いを馳せる事が容易であり、状態の良さも加味すれば当然お薦め出来る城跡という事にはなる。尚、この城跡の東側山道沿いには当時の城主でもあった三方氏の墓地跡が墓碑と共に残っていたので参考までに、(近年において子孫の方が建立したものとも思われる)

3 2 8_mikatajyou_yori 男坂城跡

2009年4月23日 (木)

宮城跡(兵庫県朝来市)

城跡は先に掲載に及んだ黒田城と同様に宮集落内の道路を隔てた真東の小山に位置しており、詳細は不明ではあるが黒田城に隣接する事からも上道氏の持城として良いのかも分からない。

城跡へは現在山上付近に朽ち果てたままの小さな社殿が建立されているので、麓の竹林地より参拝道を利用すれば難なく山上までは到達出来るが、最短ルートは城跡の東側に車を路駐した後に畦道を通過して写真に示した付近より直登すれば5分とかからず山上主郭まで到達可能である。

現状(三月)城跡は藪化はしていないが下草や熊笹で覆われている箇所も多く、更に長年の風化によって土も流れ出しているので、ある程度想像に委ねられる部分もあるが、見て回りやすく遺構はほぼ判別確認出来る状態にはある。城跡の見所は主郭周囲を巡る空堀土塁、高さが失われた櫓台土塁、あるいは二連の堀切(郭を遮るだけの空堀に近い)といった処になるが、空堀(横堀)は場所によっては相当埋もれているので、深さを感じる事が出来ないのが少し残念な処ではある。しかし判別出来るだけまだましとも言え、小規模な主郭を空堀土塁が巡る様は本格的な城普請が行われたとも見受けられるので、別な意味で見応えを感じる事は出来た。先に寄った黒田城が思ったよりも期待外れに終わったので、この城跡が余計に素晴らしいものに思えてくる。上道氏の本城と聞いた黒田城から推察すれば、恐らくこの地区周辺に点在するであろう城跡あるいは砦跡の規模も遺構残存度もある程度想像が付きそうではあるが、まだ目星を付けて踏破していない城跡も多く残っており、これからの東河地区の山城巡りが非常に楽しみになってくる処ではある。

1route_3 登城ルート

5_tozanguti 進入口

3 3m1 城跡概念図

11_karabori_dorui 空堀土塁見所

16_horikiri_dorui_1 主郭北堀切土塁見所

18_2ren_horikiri 北堀切

23_shukaku_doruidan 主郭土塁壇

24_shukaku_dan 主郭

25_shukaku 主郭内

27_nisigawa_karabori_dorui 主郭西側空堀見所

2009年4月22日 (水)

東河黒田城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町宮にあって、戦国期当時は山名氏傘下の上道氏の居城(本城と聞いた)と伝わるが、同じ和田山町にある竹田城を初めとして、他のこの近辺の城跡と同様に秀吉の但馬攻略軍によって落城したとみてまず間違いのない処とは思われる。

この東河(トガ)地区は東河川に沿った集落の付近には上道氏関連の多くの城跡あるいは砦跡が点在しており(地元の方の情報と資料による)、推察ではあるがこの付近の小山や丘陵地は狼煙台程度の遺構も含めれば、ほぼ当時の城跡の様な気もするのである。実際に東河地区の山城巡りにおいては素性の分からないままの城跡も踏破しており、この黒田城跡とは今回便宜上の出城として同時掲載に及んだ。時間に余裕があれば更に目星を付けた区域二、三箇所も踏破したかったのだが、次の予定を考えればそれも叶わなかったのが少し残念な処ではあった。

城跡へは国道9号あるいは国道312号より和田山へ向えば、交差点「一本柳」で針路変更し一般道273号へ進入すればよいが、宮集落に入ればルート図の如く左折、直ぐ正面の民家背後に現れる丘陵が城跡でもあり、後は概念図に示す墓地から上れば5分内で主郭まで辿り着く事が出来る。

1route_2 登城ルート

4 進入路

3kuroda 城跡概念図

8_koguti_kaku 虎口か?

18_kaku 主郭下段郭

16_kita_kaku_gawa_1 主郭北側の現状

23_kita_3ren_doruidan_2 北郭の土塁壇

26_horikiri_2 最北の堀切

現状(三月)城跡の主郭と見受けられる辺りから東斜面及び北郭にかけては地表も見えないほどの笹あるいは雑木が密生しており、中々満足の行く遺構見学は出来ない状態にあるが、郭跡を除けばかろうじて概念図に示した三連の方形土塁壇及び堀切だけは判別確認することが出来た。この三連の土塁壇は一見櫓台に見えなくも無いが、但馬地方の城跡に数多く見受けられるものであり、一体どの様な機能があったのか非常に気になるところではある。普通に見れば二本の空堀を間に挟んだ様にも見えるが、当時空堀ほどの深さがあったようには見受けられず未だに謎のままである。この城跡は結果的には後で見て回る事になった東の小山に位置する宮城跡あるいは南東側の出城と同日訪問で、何とか充実した山城巡りが出来る様には思えたが、個人的にはこの城跡に遺構の醍醐味も見応えも感じる事が出来なかったのが本音でもある。しかしながら上道氏本城と聞くからには東河地区の城跡巡りの一環としては絶対に避けて通れない城跡の様には感じられた。尚、ルート図に示したが南東側に出城とした尾根上にも、この城跡と同様に三連の立派な土塁壇と削平地の残る砦跡が存在するので、ついでに見学しても無駄足にはならない様な気はするのである。

Dejiro 便宜上の黒田城出城跡

Dejiro_2 西郭群と主郭切岸

Dejiro_1 方形土塁壇

2009年4月21日 (火)

高生田城跡(兵庫県朝来市)

この城跡は既にリポート掲載を終えた和田城跡とも同じ県道10号沿いにあり、和田城跡と同様に素晴らしい残存状態、あるいは見応えのある遺構群(堀切あるいは凄い切岸)が残存している事からも、個人的には同日訪問出来なかったが状態の良さあるいは遺構の醍醐味を踏まえた上で充分お薦め出来る山城と思えたので、まだ未訪の方は是非二城同日訪問の上でこの戦国期山城の全てを堪能して頂きたいと思う。城史に関しては和田城跡と同様に福島(福富)甲斐守の居城と伝わるが、個人的には規模あるいは山城としての完成度の高さから此方が本城である様には見受けられた。他の和田山地方にある城跡と同様に秀吉の但馬攻略軍によって落城した可能性は非常に高いと思われるが、詳細は不明。

城跡へは県道10号より和田山町高生田へ向い、妙法寺が目指す直登山口でもあり、ルート図の如く和田山町寺内集落を過ぎれば右手に大きな廃校(現、作業工場)敷地のある道路の反対側に寺院がある。車は路駐スペースはあるが寺院の駐車場を借りても良さそうには思えた。寺院墓地脇の西側民家の間にある山道より上り始め、獣避けフェンスを開閉して目の前に現れる縦堀(現状見る限り縦堀)に沿って左手急斜面を登り切れば、東出郭と呼べる堀土橋の備わる郭跡までは10分強(主郭までは20分内)で辿り着く事が出来る。(直登急斜面は木々も下草も少ないが、足場も少ない分落葉などで非常に滑りやすいのでスニーカーは危険)

現状(四月)城跡は最初に述べた様に山城としてみれば風化に任せながらも素晴らしい状態が自然保持(一部植林地)されており、見応えのある直立に近い鋭角な切岸、縦堀、堀切、生々しいほど平坦な主郭跡など、城跡を形成する縄張り上の遺構は全て判別可能な状態を誇っており、特に堀切における高低差を伴う切岸などは本来の薬研堀の如く、当時が今直ぐにでも甦りそうな凄い様相を呈している。郭周囲は全て崖状急斜面でもあり立地環境からも和田城とも共通する部分が多く見受けられるが、規模も縄張り妙味(縦堀が多く備わる)も此方が若干勝っており、大名クラスの山城ではないが起伏に富んだ形態からも山城としての醍醐味は充分味わう事が出来る様に感じられた。

1route 登城ルート

6tozanguti 直登進入口

3tak 城跡概念図

11tatebori 出郭まで繋がる縦堀

13_horikiri_dobasi 東出郭の堀切土橋見所

18_minami2_yori_3kaku 南段郭群

24_shukaku 主郭内

25_shukaku_dorui 主郭土塁

28_daihorikiri_1 大堀切最大見所

31_demaru_yori_shukaku_heki 北出郭より主郭壁見所

37_shukaku_higasi_tatebori 主郭東斜面の縦堀見所

朝来を含めた但馬地方には今回訪問した和田城あるいは高生田城の様に一部の文献に名前が掲載されている程度で、一般には詳しい城跡情報の入って来ない、ほとんど無名に近い山城もまだまだ数多く残っており、これからその様な山城をこつこつと踏破するのが非常に楽しみとなってくる処ではある。

2009年4月20日 (月)

但馬和田城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町和田にあって、当時山名氏の家臣でもあった福富氏の居城を伝えるが、秀吉の但馬攻略によって落城の歴史あり。

この城跡も他の但馬地方の山城と同様に情報も皆無に近く、場所も確定出来ないままの事前に目星だけを付けた見切り登山となったが、結果的に山上では期待していた以上の遺構と巡り合う事が出来た。シンプルな郭構成である為に縄張り妙味のある山城とは思えないが、状態も山城として見学する分には申し分のない状態でもあり、規模の大きささえ問わなければ間違いなくお薦め出来る山城と眼には映ったが、、、

城跡へは国道9号より和田山に入れば「宮田」の信号で右折し県道10号へ針路変更、後は出石町に向けて左折するまでは直進すればよい。この左折する左手側の山が城跡でもあり直ぐに確認する事は出来るが、ルート図に示した小さな「大師堂」付近に路駐スペースは充分あるのでここからがスタートとなる。ルートは二通り考えられ、個人的には写真に示す北側の墓地背後から事前の最短想定ルートを選択して急斜面を左手に縦堀(天然かも)を眼にしながら直登したが、東郭までは僅か10分で到達出来た。逆に下山に使用した踏み跡程度の山道は倒木も多く、更に九十九折道となっているので上るには相当時間を要しそうには思えた。よってお薦めルートは自ずと直登によって短時間で山上を目指し、楽に安全に下りる為に下山時にこの道を利用して下りたほうが良さそうには思われる。

1route 登城ルート

6_2 直登進入路

現状(三月)城跡は前述の様に藪化もしておらず状態が良い事から遺構の判別確認は容易でもあり、複雑な遺構地形も見当たらないので全て確認出来る状態にある。見所は北尾根を分断する堀切、高低差のある切岸を含めた山城の状態の良さそのものでもあり小規模(それでも山上主郭は60m以上はある)ではあるが郭全体像が視認出来る為に相当な臨場感を感じる事が出来る。堀切は南北に二箇所確認出来たが、登山中に常に左手側に見えた大縦堀(美しい)はどうしても人工物としか見えず、これが当時のままの遺構とすれば一番見応えのある遺構(縄張りにおける必然性からみれば遺構)と言う事になるのだが、、判断は自ずと見学者任せになるとは思われる。概念図に示したものが独自で判断した遺構群であるが、南斜面には麓に向いて更に小規模な小郭が無数に連なっている状態を確認する事は出来た。

3w 城跡概念図

10_higasi_kaku_1 東郭

12_higasikaku_dorui 東郭土塁見所

13_kitakaku_1 北郭

15_kita_horikiri_1 北堀切見所

19_shukaku_yaghura_1 主郭櫓台

21_shukaku_3 主郭内

23_shukaku_higasi_heki 主郭東壁

26_horikiri 南堀切土塁見所

2009年4月15日 (水)

枚田城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町枚田にあって、有名な但馬竹田城の北方約3km離れた山上尾根に位置している。竹田城と近いことからも支城の機能を担っていたとも窺え、当然当時の竹田城主太田垣氏の家臣でもあった枚田氏の居城が伝わっている。

城跡へは国道312号からはほぼルート図の如く進行すれば登山口でもある「市御堂バス停」までは難なく到達出来る、バス停付近には路駐スペースもあるので車を停めれば写真に示す城跡看板傍からネットを越えて谷沿いに上ればよい。ただ山道(荒れ放題)は無いに等しく沢沿いに上る事になるが、地面は湿地に近く、倒木、倒竹で難渋するので途中からは左手急斜面を直登した方が遺構見学に於いても効率が良さそうに思われた。個人的にも直登のお陰で東斜面上の郭跡を通過して山上東郭までは15分程度で登り切ることが出来、ここから西端の二重堀切までは満遍なく見て回れたので、下山時を谷沿いに下りた方が安全且つ楽に下りれる様には感じられるのである。

現状(三月)城跡は外見から判断した通りに山上は木々も少なく更に下草も無く、山上に佇めば枯れ枝の隙間から眺望も充分利く状態なので、当然全ての遺構の判別確認は容易に出来る素晴らしい状態(倒木を除けば)にある。低山ではあるが非常に急峻な痩せ尾根上を東西に渡り眼一杯利用して築かれたこの山城は、規模は小さいものの、西端には状態も良く全体像が拝める見応えのある二重堀切が備わり城跡最大の見所ともなっている。主郭の南側には僅かではあるが土塁の高まりも見受けられ、この崖状急斜面を考えればここまでやらずともと、つい思ってしまうのである。現状写真でお分かり頂ける様に、山上はほぼ裸山に近い状態なので自ずと当時の状態にまで思いを馳せる事が容易に出来、期待をせずに訪れた事を考えれば砦規模ではあるが、完存に近い形の戦国期山城を堪能する事も出来たので、非常に満足の行く訪城と言えるものにはなった。現在の状態を城跡が当分維持出来るのであれば四季を問わず何時でも訪問可能な山城と言ってもよい気がするのだが、、

1route 登城ルート

4_1 東より遠望

6_tozanguti_1_2 登山口

3h 城跡概念図

9heki 東郭切岸

15_minami_heki 主郭南壁

17_shukaku_yori_dorui 主郭土塁跡見所

18_shukaku 主郭

21_nisikaku 西郭

23_horikiri_dorui_2 二重堀切土塁1見所

24_2jyuu_horikiri 手前土橋より二重堀切見所

2009年4月 4日 (土)

福居城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市出石町福居にあって、現在箱根神社の建立されている敷地及び東側の現状堀切道(切り通し)を挟んだ低山の山上尾根上ほぼ全域に渡って、郭跡及び城跡遺構は展開(北尾根上は未踏)されている。神社敷地は西出郭に相当しているものと見受けられるが、更に東側の道路を挟んで孤立した丘上にも、便宜上福居東城とするが出城なるものが存在している。城跡の情報及び城史に関しては全く詳細が不明

城跡へは国道426号より箱根神社を目指せば分かり易く、路駐スペースに車を停めルート図及び写真に示す旧参拝道から急斜面を上れば5分程度で箱根神社のある便宜上の西出城に辿り着く事が出来る。山上東西に渡る城域内には現在集合墓地あるいは古い配水施設等が建っており、神社敷地も含めて後世において多少の地形改変はあって当然とは思われるが、当時の遺構とも見受けられる郭跡はもちろんの事、堀切(空堀)跡、切岸跡などは明確に判別出来るものが現存しており、低山ではあるが幾つも連なる段郭群などからも、山城の醍醐味は充分感じられるものとなっている。

現状(三月)城跡は郭跡(西出城)の転用と見受けられる箱根神社敷地は、多少整備されているので郭跡の判別確認は容易に出来、山上本郭群も一部雑木矢竹が蔓延っている箇所を除けば冬枯れしている事も相俟って比較的見通しが利き、郭移動も容易く出来る状態にはある。

見所としては当時の遺構とすれば凄いものとも言い切れる、城跡東西を分断する高低差のある大堀切(現在集落を南北に移動する切り通し道)は真っ先に挙げられ、本郭群に備わる二箇所の空堀と共に非常に眼を楽しませてくれている。他では特筆すべき技巧的な遺構は眼に留まらなかったが、東西の端から端まで縦断する事によって城跡の規模は体感する事が出来た。それでも縄張りとして郭跡の展開が充分予想される北東尾根は踏破しておらず、改めて東出城を含まずとも全山総郭を想像させられる規模の大きい山であると目には映った。

1route 登城ルート

4tozanguti_1 最短登城口

3fuk 城跡概念図

Higasi_jyou_1 東出城の進入口

Higasi_jyou 東出城概念図

7_yasiro_kaku 箱根神社(西出郭)

11_horikiri_1 大堀切見所

23_higasi_heki 主郭切岸斜面

21_karabori 空堀見所

27_higasikaku_gun_e 東郭群切岸

30_higasi_karabori 東空堀

31_kaku 東端郭跡

余談になるが便宜上の福居東出城斜面で現在弥生期の遺物発掘調査がされており、そのリーダーとの会話の中で、この出石付近の山はここも含めてどこへ上っても戦国期の狼煙台あるいは小規模な砦跡には遭遇出来ると言ったアドバイスを受け、その事が妙に印象に残った今回の山城巡りであった。

2009年4月 3日 (金)

但馬八木城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市八鹿町八木にあって八木古城とした土塁城も北西尾根上に残るが、今回訪問したのは豊臣時代の石垣跡が残る山城として有名な八木城でもあり、別所氏の築城による石垣城の方にあたる。この城跡は総石垣城とは呼べないが但馬竹田城と並んで知名度も高く、既に訪問された方も多いと思われるので今回はまだ未訪の方の為に簡単な現況報告をさせて頂く。

城跡へは国道9号より八木集落を目指せば良いが、到着すれば車の路駐場所は考えなければならない。ルート図に示す案内板とパンフレットの置かれた東登山口が一番見て回るに効率が良、道中の東屋から始まり尾根上の削平地、段郭群、側壁石垣跡などの遺構を確認しながら山上主郭までは順を追って上って行ける様には思えた(登山口より30~40分要す)。

1_yagi 登城ルート

1annai 現地パンフより抜粋

Yagi 現地案内縄張り図

3_dobasi 登山道(土橋に見える)

5_isi 東段郭群の石垣見所

7_3nomaru_mitugao 仮)三の丸

10_shukaku 13 主郭石垣跡見所

14_nansei_isi 主郭南西側石垣見所

18_dankaku 南西帯郭石垣

26_yaguradai_dorui_yori 主郭内

25_shukaku_oku_yaguradai 主郭櫓台土塁見所

個人的には二度目の訪問となるが、数年前の初回は下草で郭跡も肝心な石垣跡も覆い尽くされており、地表も見えない状態であった(木々が少ないので全体の見通しは利く)ので、ろくな見学も出来ず退散した苦い記憶がある。現状(11月)石垣跡はほぼ露出している事からも前回より随分マシではあるが、郭内には相変わらず下草が蔓延っている状態でもある。ただ今回は草木で覆われていた主郭南西壁及び下に繋がる帯郭壁の石垣跡まで窺う事が出来、主郭周りに残存する石垣跡はほぼ目の当たりにする事が出来た計算にはなった。この山城の醍醐味であり見所は高石垣に尽きると言っても良いほどであり、二度目の訪問にしてやっと満足感に浸る事が出来た。現状見た限りでは尾根上に堀切などは見受けられなかったが、現地縄張り図にも記されていなかったので本来設けられていなかったのであろう。豊臣時代の山城としては丹波岩尾城跡の山上にもおびただしい石垣跡が残存しているが、どちらの石垣跡も甲乙付け難く見応えは抜群でもあり、正しく推奨に値する城跡と言えるものである。

尚、今回はたまたま城跡見学としては良いタイミングで訪れる事が出来たが、前回の事を思えば遺構(石垣跡)は常に良い状態のものを見学出来る訳ではないので、訪問時期によっては期待外れに終わる事も充分予想されるが、トレッキングも楽しめる事を加味すれば何回でもトライしてみる価値はある城跡と目には映った。今回も北西側に位置する八木古城までは見て回る余裕がなかったが、この下草の多さから予想すれば、自ずと地表も見えず土塁なども確認出来ないまま終わりそうとも考えられたが、、

2009年4月 1日 (水)

宮井城跡(兵庫県豊岡市)

この山城は南殿城と同様に城史の詳細はもちろん、城跡情報としても篠部氏の居城を伝えるのみで現状皆無に近いが、南殿城でも記載した様に山上には自分の予想を遥かに上回る見応えのある遺構群、単調な郭構成ではあるが郭高低差がある事から山城の醍醐味も充分味わう事が出来、更に全体的に状態が良く三連の堀切などは相当な見応えがある事からも、南殿城とセットで是非訪問をお薦めしたい城跡の一つである。

直登取り付き地点を選択するにあたっては非常に苦労したが、取りあえずルート図に示す赤線ルートを参考に上るのが分かり易く、最短で短時間ルートであるようには思われる(他に踏み跡程度の遠回りの道はあったのかも知れないが、急峻な山容である為に尾根斜面に直接取り付いた方が山上までは迷わず上れる)。直登取り付き地点までは図に示す様に、南殿城を起点にすれば川の西側の休耕田の畦道より向うが、背丈ほどもあるカヤが密生している場所が多く、それを避けながらルート図が示す様に沢水が少し流れ出る(当時水田に引いたもの)場所を目指せばよい。ただ川に沿う東側の農道からは川を渡る際に橋が無いので、間違ってもそちら側に向かわない事! 山上主郭までは急斜面できついが、比較的藪漕ぎ箇所も少なく(なぜか中腹辺りから人の手が入り矢竹が伐採されている)、途中の郭跡や遺構の確認時間を含めて30分もあれば到達可である。

現状(三月)山上郭群は辺境の奥地にある山城としては思っていたよりも藪化に至っておらず、近年において人の手が多少入ったとも見受けられ、ある程度見通しも利くので風化されるがままの当時の遺構と見受けられる土塁、三連の大堀切、郭壁随所で窺われる石垣跡などは充分判別確認出来る状態にある。もちろんこれらが城跡における最大の見所とも言えるものでもあるが、高低差を伴う切り立つ郭切岸も存在感を充分に醸し出しており、戦国期における山城を歩き回る事によって体感する事も出来、そのお陰で当時に思いを馳せる事が容易に出来る事にも繋がっている。城跡は比較的個々の郭規模が大きくもあり、状態も良い部類に入るので山城としての印象度、あるいは好感度も抜群なものがあり、おまけに予想もしていなかった石垣跡(郭壁に崩落石の多い事、あるいは石積みが土中に埋もれている事からも当時のものと独自で判断)まで窺う事が出来たので、個人的には満足感及び達成感の両方を充分過ぎるほど味あわせてもらった。

4 直登取り付き地点

3miyai 城跡概念図

11_demaru_1 出郭

18_kaku4_3 郭4

26_kaku1_heki_isi 郭1壁の石垣跡

30_shukaku_heki_1 主郭東側切岸

31_shukaku_minami_dorui_1 主郭内南土塁見所

33_shukaku_kita_kado_isi_2 主郭北角石垣跡見所

37_minami_yori_heki 南郭より主郭切岸

40_3ren_horikiri_1 42_horikiri_1 三連の堀切見所

訪城においては梅雨時までが理想のタイミングとも思えるが、夏季訪問においては直登口まで向うのに利用する荒れ放題の休耕田(水浸しの恐れあり)が、どの様な状態になるのかは想像が付かない、、

2009年3月31日 (火)

南殿城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市宮井にあって、ほぼ宮井集落の西端の神社背後の山上尾根先端に位置している。次の掲載予定でもある宮井城の支城、あるいは東側を抑える意味においての砦とも窺えるが、推察の域は出ず詳細も不明。

城跡へは豊岡市内を東西に走る国道178号より一般道242号へ「福田」交差点より針路変更、後はルート図の如く宮井集落へ向いて右折、右折箇所には「宮井」方面へと道標があるので、確認さえすれば迷わず目印でもある公民館までは辿り着ける。車を停めるスペースのある公民館からは図に示すように神社まで歩き、その背後からいきなり直登すれば直ぐにでも南郭跡までは到達出来る。

現状(三月)城跡は手入れがされていないので下草は相当蔓延ってはいるが、植林地でもあり、ある程度見通しも利くので遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。城跡の形態としては最高所の主郭から東側の急斜面を利用して段郭を並べた単純なものではあるが、遺構の醍醐味としての但馬地方特有の郭境の高い切り立つ切岸は未だ健在でもあり、見所の主郭南背後の二重堀切と並んで、非常に存在感を感じる事が出来るものとなっている。堀切以外には他で技巧を伴う遺構には出会えなかったが、日も暮れる頃の急ぎの訪問となった為に、見落とした遺構も在ったかも知れない。

個人的には宮井本城に先に寄って此方に訪れたのだが、直登に選んだ箇所の急斜面は相当きつく、体力温存の意味においても此方を先に見学する事をお薦めしたい。

尚、宮井城は自分の予想を大きく覆すほどの規模、険峻な上に更に石垣を使用してより堅固な防備を誇ったものとも見受けられる素晴らしい山城と目に映ったので、どちらが先でもこの二城はどうしても同日訪問としてお薦めしたい城跡ではある。

1route1 登城ルート

4_1 東より城跡遠望

3nan_2 城跡概念図

6_tozanguti 直登口

21_shukaku_heki 主郭切岸

20_shukaku 主郭内

26_horikiri1 26_horikiri1_2二重堀切1と土塁見所

24_2jyu_horikiri_3 二重堀切2見所

2009年3月29日 (日)

気比高城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市気比にあって、標高180mの山上主郭には現在白山神社の社殿が建立されている。城史に関しての詳細は不明

城跡へは有名な城崎温泉を目指せば分かり易く、県道3号より温泉街を越えて円山川沿いから東を見れば一際高い山頂は直ぐ確認する事が出来る。その後、県道11号へ右折針路変更しルート図の如く向えば、道路沿いに白山神社登山口は直ぐ見つけることが出来る、そこから(路駐スペースあり)獣避けフェンスを開閉すれば、そのまま登山道によって迷わず山上までは辿り着くことが出来る(約20分)。

現状(三月)ほぼ三郭で形成される山上郭群のうち、主郭と見受けられる広い郭跡は社殿のあることから造成整備されており見通しも利くが、他二郭は冬枯れはしているのである程度見通しは利くが地表は相当荒れ放題でもある。目に留まる防備施設は虎口を固める土塁程度で、他は土塁の残欠なのか近世においての造成整地された跡なのかは素人判断では難しい状態にあり、他の二郭も郭内部に土塁などは目に留まらず切岸は健在であるが、非常に大味な縄張りと感じられた。険峻な山城である為に余り技巧さは要求しなかったものと見て良いのかも知れないが、山上郭群周囲の切り立った斜面までは雑木密生地でもあり、縦堀の有無までは踏破確認する事は出来なかった。

尚、登山口から少し登れば登山道に沿って自然構築物なのか人為的なものかは判別不能であるが、防備の為の必然性から考えても城跡遺構に見えた、登山口付近まで達するスケールの大きい凄い深さの空堀に遭遇したが、現状の様相だけ眺めて「凄い!」と思っても想像が広がって楽しめるのではないだろうか。(遺構であれば凄いと言う表現がズバリ当てはまる)

1route 登城ルート

7tozanguti 登山口

3taka 城跡概念図

T_5 登山道中

T_11 山上郭群東尾根

T_14 東郭2

T_16 東郭1

T_28 主郭土塁虎口見所

T_20 虎口土塁

T_21 主郭内

T_25 主郭西端

城跡を個人的に評価すれば、縄張り妙味あるいは見応えのある遺構を望むなら余り期待は出来ない山城という事になるが、登山道も設置されているので自然と触れ合い更にトレッキングも楽しむ目的に比重を置くなら、当時の険峻な山城の風情は充分味わう事が出来るので、それなりにお薦め出来る城跡と目には映ったのだが、、

2009年3月27日 (金)

簸磯城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市城崎町簸磯(ヒノソ)にあって、集落の山手に位置する福泉寺の西側の簸磯谷を挟んだ尾根上から、東尾根先端部のほぼ孤立した低山に跨って郭が展開されている。橋本氏の居城と伝わり、秀吉の但馬攻略において落城した模様。

城跡へは城崎温泉を目指すと分かり易く、豊岡市内より県道3号を北上し福泉寺を目指せば難なく辿り着ける。ただどこかで山陰本線の低く幅の狭い高架下を潜らなければならないが、大きなミニバンタイプの車両は間違いなく通過不能となるので、随分手前あるいは踏み切りの備わる場所を探して通過する必要はある。寺院からは南に歩いてルート図の如く青山神社参拝道経由で上り、社殿背後より直登すれば郭跡及び堀切に至るまでの城跡遺構は順を追ってほぼ見て回る事が出来る。便宜上東出城とした郭跡もルート図に示す墓地より上れば直ぐ到達出来る筈である。

現状尾根上郭群及び東出城共に自然任せでもあり当然藪化は進行中にあるが、冬枯れともあって移動に支障を来たすまでには至っておらず、単調な縄張りプランでもある事からも、遺構はほぼ判別確認可能な状態にあると言っても良いと思われる。図中の主郭と見受けられる背後の土塁及び堀切が城跡唯一明確に残存する遺構あるいは見所でもあり、遺構の見応えを期待しての訪問は出来るなら避けた方が良いと思われる。ただ東出城から山上尾根に向かうまでの城跡の形態は恐らく当時の状態のままとも思えるので、見て回る分には想像も膨らみ案外楽しめる様な気はする。個人的には東出城の方が明らかに櫓台とも見受られる土塁が備わっており、小規模ながらも味がある事から楽しめたが、、

尚、西側山上(標高200m付近)に至るまでの踏破出来なかったが物見程度の郭の展開は予想されるものでもあり、主郭から東側の尾根東端辺りに相当藪化している屋敷跡とも窺われる広い削平地があったが、寺院跡の様にも窺えるもので当時のものかどうかは見学者の推察に委ねられる。

1route 登城ルート

2a 現地案内板

6tozanguti 城跡進入路

2zz 城跡概念図

17_shukaku 主郭

18_shukaku_dorui 主郭土塁

20_horikiri_1 主郭背後の堀切見所

21_nisi_horikiri_1 西堀切

37_naka_dorui_koguti_ka 東出城土塁虎口か

40_higasi_yori_yagura 東出城土塁見所

2009年3月22日 (日)

後城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町後(ウシロ)にあって、先に訪問リポートを終えた愛宕山城とは程近い距離にあり、国道426号から久畑関所跡を越えれば県道63号へ左折南下する、後はルート図の如く出石川を渡り神社を目指して進行すれば難なく辿り着ける。室町から戦国期においては石坪氏の居城が伝わるが詳細は不明。

神社の社殿背後を登り切れば直ぐ主郭が迎えてくれるが規模は小さく、遺構としても郭跡を除けば主郭東側の堀切が目に留まる程度で、見応えのある遺構は当時の遺構とすれば堀切及び社殿の建立された敷地の直立に近い切岸は挙げられるが、敷地自体が背後が削られた形跡があるので、これも当時のものかどうかは見学者の判断に委ねられる。但東地区にはこの様な小規模な山城あるいは丘城が多く見られるが、どの城跡も当時但馬守護職であった太田氏関連あるいは傘下の城跡とみてまず間違いのない処か、、

余談になるが、地元の方に城跡の情報として聞き及んだ処によれば、この集落名の「後」ウシロはオシロ(御城)が訛ってウシロに変化したものとの言い伝えがあるそうであり(確かに古代においては「オ」と「ウ」は共通した語源であった事が所有する文献に載っていた)、当時城を中心として出石川に向いて民家あるいは家臣の屋敷が重なり合っていたとも想像出来そうに思えた。

遺構だけ捉えればとても見応えがあるとは思えないが、至近距離に位置する久畑愛宕山城、あるいは同じ国道北西3km地点に位置する西垣城と、セットとして同日訪問すれば充分納得の行く山城巡りになるのではないだろうか。

1 登城ルート

7_2 出石川より遠望

3usiro 城跡概念図

U_1 神社の凄い切岸

U_12 神社敷地(郭跡か)

U_3

主郭の現状

U_5 堀切

2009年3月21日 (土)

西垣城跡(兵庫県豊岡市)

この城跡は豊岡市への移動も兼ねて頻繁に利用していた国道426号沿いから直ぐ望める山上に位置しているが、かねてより山容及び立地環境などから考えても山城としか考えられず、どうしても確認したい欲望にかられ久々に向う豊岡移動の際に見当だけ付けて登ってみた。結果的に山頂には規模は小さいが山上郭並びに明確に判断出来る素晴らしい二重堀切が南北尾根に横たわっており、興奮を抑え切れずいち早く鮮度の高い情報を掲載するに及んだものである。

城跡は下山後乏しい文献で調べた処、西垣城と言う呼称は判明したが、西垣氏の居城が伝わるだけで詳細に関しては不明である。但東地区は秀吉による但馬攻略以前、古くは太田氏(亀ヶ城主)の支配地でもあり、推察ではあるが太田氏家臣在城の山城であった可能性は高いと想像される。城跡へは国道426号を利用して既に訪問リポート掲載済である沢田城跡を起点にすれば分かり易いが、豊岡市但東栗尾地区よりルート図の如く国道から川を越える、車は酪農場手前付近に路駐可能でもあり、そこから山道に沿って上り、途中から尾根先端斜面に取り付いて急斜面を登れば、20分程度で山上主郭に辿り着く事が出来る。

現状(三月)城跡の北東斜面は全て木々が伐採されており裸状態でもあり、山上に佇めば素晴らしいロケーションも目の当たりにする事が出来る。お陰で北側尾根を断つ二重堀切も全体像を窺う事が出来、山上郭はもちろんの事、麓より望めば裸同然の当時の山城の状態(写真画像にある)に思いを馳せる事も容易に出来る。城跡最大唯一の見所は前述の二重堀切と南側に備わる二重堀切で、長年の堆積物及び風化を差し引いても状態は山城としては申し分のない状態でもあり、ほぼ完存とも見受けられる戦国期山城を充分堪能する事が出来そうに思えた1route_2

登城ルート図

4_1a 城跡遠望

7 進入路

3nisi2 城跡概念図

N_6 主郭の現状

N_8 主郭北側

N_4 北尾根二重堀切見所

N_10 二重堀切1と土塁

N_16 堀切と主郭壁見所

N_29 N_32 南側二重堀切見所

今回は数年来より気になっていた山城跡をやっと踏破する事が出来、おまけに素晴らしい二重堀切にも出会え、これ以上ない感動を胸に仕舞いながらの下山となったが、この楚々とした山城は規模は小さいが当時の雰囲気を残す裸同然の郭壁、及び南北二箇所の堀切を窺う為だけで訪れても、決して後悔する事のない城跡であると自分の眼には映った。個人的にも是非訪問をお勧め出来る山城の一つである。

2009年3月20日 (金)

鶴城跡(兵庫県豊岡市)

この城跡は個人的には二度目の訪問となるが、低山の山上はほぼ全域が郭跡とも見受けられ山上における郭占有面積は大きく、畝堀あるいは石垣跡、井戸跡、土塁、堀切など素晴らしい遺構群が目白押しとなっており、縄張り変化にも相当富んでいる事から見て回っても時間の経つのを忘れる程でもあり、見応えのある遺構群は非常に眼を楽しませてくれる、正に推奨に値する城跡と目には映った。

数ある遺構の中でも貴布祢神社のある出郭背後を断つ堀切の高低差は凄まじく、他の尾根を断つ堀切(二本)と並んで城跡最大の見所と言えるものになっている。この三本の堀切と現状相当埋もれているので明確に判別はし難いが、概念図中の東側の畝堀は決して見逃してはならない! 尚、現地案内縄張り図には主郭北壁にも畝堀が記載されてあったが、現状を見る限り低い熊笹で一面覆い尽くされており、中々外見からは判別し難い状況でもある(結果的には確認出来なかった)。

城跡へは国道178号からルート図の如く北から進入しても良いが、豊岡市内から北上すれば川沿いに走り、堀川橋を渡れば登山口でもある公民館横には分かり易く到達出来る。貴布祢神社からも登山口があるが、お薦めしたいのは公民館横に車を停めて妙見堂経由で山上郭群の遺構見学をしながら貴布祢神社に下りて行くルートである。個人的にはどちら側からも上ったが、今回お薦めする方が比較的楽な登山の様に感じられた。

1route_2 登城ルート

2x 現地案内板

6_tozanguti 登山口

3a 城跡概念図

17_naka_yori_atago 山上郭群

21_tameido 溜め井戸か見所

22_atago_heki_isi 愛宕郭東壁の石垣跡見所

25_unebori_1 東斜面の畝堀見所

30_shukaku_dorui_1 主郭土塁

40_koguti_dorui_1 北西郭群土塁虎口

45_hokusei_horikiri_1 北西堀切見所

50_kibune_horikiri_4 貴布祢出郭の大堀切見所

現状(三月)城跡内は一部では下草も蔓延っているが、遺構判別に支障を来たすまでには至っておらず(郭斜面は別)、遺構保全状態も比較的良く、更に樹木も少ない事から見通しも利くので、前述の主要な城跡遺構はほぼ判別確認出来る状態にある。城跡の形態としては自然地形を上手く利用し、山上主郭から四方尾根に郭を展開させた城域の広い山城と見受けられ、低山でありながらも郭斜面は非常に急峻でもあり、畝堀や堀切、おまけに一部郭壁に石垣まで用いた、戦国期における本格的山城の様相を呈しているものでもある。愛宕神社及び妙見堂周辺は神社敷地として後世において多少造成地形改変があった様にも思われるが、郭跡の転用とすれば当然当時の城跡の一部でもあり、戦国期山城を体感する上では大して影響は及ぼさないものとみた。

城跡の南北尾根先端までは踏破確認出来なかったが、山上郭群はまとまったものでもあり、見学し易く更に遺構の判別確認もし易い事から、まだ未訪の方には是非訪問をお薦めしたい山城の一つと言えるのは確かである。

2009年1月18日 (日)

一部城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市八鹿町八鹿にあって、県道6号を走ればその道路沿いにある「コープこうべ」を目印にして進行すれば分かり易い。「コープこうべ」からは入り口より道を隔てた向側の細い道路に進入すれば、行き止まりでもある玉島神社には直ぐに辿り着ける。敷地は駐車可能となっており、そこから目指す城跡の位置だけ確認すればルート図の如く東側から墓地経由で城跡を目指せばよい。墓地側から南側は直ぐ城跡でもあり当時は堀切が備わっていた様にも見受けられる。尚、城史に関しての詳細は不明

現状(12月)城跡は進入口周辺から南側の二連の堀切までは雑木が蔓延ってはいるが、主郭から南側の郭跡はまだマシでもあり、遺構の判別確認にはさほど差障りはない状態にある。遺構として現存しているのは郭跡以外では相当埋もれてはいるが二連の堀切とそれに付随する土塁、上り土塁、縦堀と行ったところで、特筆すべき遺構群は見当たらない、ただ個人的に見て感じられた事は、小規模でありながらも切岸、堀切群から窺われるように、本格的な普請が行われている様にも見受けられ、街道監視としても大変重要な城であった様には思われる。

規模も小さいので全体を見て回ってもそんなに時間を要する事もなく、墓地を南に越えれば直ぐ城跡でもあり、更に縄張りも容易に把握出来る事からも非常にお手軽と言える城跡ではある。城跡の機能から考えれば北西側の山上には別の城跡(未訪)があるらしく、その枝尾根先端に位置するこの城跡は、案外その出郭の可能性もあるとは思われる。

1route 登城ルート

4 神社側より遠望

3iti 城跡概念図

6tozanguti 城跡進入口

7_kita_karabori_dorui 北堀切土塁

11_shukaku 主郭

12_minami_gedan_1 南下段郭

13_gedan_yori_shukaku_heki 主郭切岸

15_higasi_gedan_dorui 東郭土塁と主郭切岸

16_higasi_obi 東帯郭

2009年1月16日 (金)

向山城跡(兵庫県朝来市)

兵庫県朝来市山東町新堂にあって、集落より国道9号及び山陰本線を挟んだ南側に位置するほぼ独立した山塊の山上が城跡。位置関係からも磯部城あるいは城跡南西側に位置する滝野城の支城の様にも見受けられるが、佐藤氏の居城を伝えるのみで詳細は不明

城跡へは国道9号を走ればほぼルート図の如く進行、直登口となる線路横周辺は空きスペースもあり路駐可能となっており、写真に示す辺りより山上に向いて上れば、急斜面ではあるが10分程度で城跡東端の堀切には辿り着ける。西側からも尾根伝いに上れるが、45度に近い急斜面でもあり距離も長く、更に踏み切りの無い線路を横切る事にもなるので余りお薦めは出来ない(下山時は使用したが、、)

現状(12月)城跡は木々も少なく見通しは非常に良いが、地表は低い笹によって覆い尽くされており、郭内部における微妙な地形は感じ取り難い状態にある。それでも全体像は掴み易く、郭群を分断する五本の堀切及び直立に近い高低差のある切岸などは城跡の最大の見所ともなっている。郭を連結させただけの直線的で単調な縄張りプランなので、山城の持つ醍醐味は余り感じられないが、山上は急峻でもあり堀切を形成する切岸は高さもあるので非常に見応えを感じる事は出来る。郭壁周辺は急斜面でもあり低木下草が蔓延っている為に、縦堀の有無までは確認できなかったが、城跡における堀切の多用から考えても、縦堀は当然設けられていると解釈しても良さそうには思われる。

個人的には予想を上回る事は無かったが、期待していた通りの山城でもあり満足の行く訪城と言えるものにはなった。

1route_3 登城ルート

5tozanguti 直登進入口

3mu 城跡概念図

10_higasi_kaku_gun_3 東郭群

11_dai_horikiri 主郭東大堀切見所

12_shukaku_heki 堀切側の主郭切岸見所

14_shukaku_1 主郭

20nisi_horikiri 西堀切壁見所

20nisi_horikiri_1 西大堀切

21_nisikaku2 西郭群

22_nisikaku2_horikiriheki_1 西郭堀切壁

2009年1月15日 (木)

軽部城跡(兵庫県養父市)

兵庫県養父市養父町上野にあって、国道312号と国道9号の交わる交差点の西側に位置する独立した丘陵上が城跡、城史に関しての詳細は不明

城跡へは国道9号を走れば「上野北」信号交差点を西に進路変更、城跡は既に国道からも望める位置にあるので確認すればルート図の如く、但馬魚市場の西側より南側の進入口となる山道まで少し歩けばよい、駐車は周辺空きスペースに路駐可能であるが、南側には広い空き地も見られたので直接そちらに乗り付けても良かったのかも知れない。(個人的には個人所有地の可能性もあるので路駐したが、、)

現状(12月)城跡は下草は満遍なく蔓延ってはいるが、冬枯れのせいもあり特別移動に難渋する事もなく、ある程度見通しも利くので南北に連なる郭群及び郭間四箇所の堀切は明確に見て取ることが出来る状態にはある、ただ図中における主郭は地表が見えないほどの草木に覆われているので外見から内部を窺うのみで、とても踏み入る状態にはないのが現状でもある。城跡を外見から判断しただけではただの低い丘陵としか目には映らず、削平地のみで堀切などがあるとは思われなかったが、状態が悪いのにも拘らず見事な堀切が備わっているのには驚くばかりであった。主郭北に備わる二本の堀切は何れも高低差はさほど無いものの、東壁はいきなり絶壁状態でもあり非常に見応えは感じられたが、近世において削り取られた感(個人的に郭の形状に少し不自然さを感じる)もあるので、この現状だけを見て素直に凄いと感じるしかない状況にある。

個人的にも国道を移動中に立ち寄った程度の城跡なので何も期待していなかったが、意外にも堀切遺構は残存しており、嬉しい誤算を含めて満足感は味わう事が出来た。5分程度でお手軽に訪問出来る城跡ではあるが、現状を窺う限りにおいては夏季の訪城は避けた方が良いとは思われる。

1route_2 登城ルート

4_1 北より城跡遠望

3karu 城跡概念図

6tozanguti_2 進入口

10_3maru_gawa 二の丸より三の丸側

14_dai_horikiri_1 中央堀切見所

16_shukaku_1 主郭内部

17_yagura 櫓台か

19_shukaku_kita_horikiri 主郭北堀切

22_kita_hasi_kaku 北端の郭

2009年1月12日 (月)

土田城跡(兵庫県朝来市)

この城跡は戦国期における大田垣氏の居城を伝えるのみで情報は皆無に等しく、他の但馬地方の城跡と同様に今回も場所を確定出来ぬままの訪問となったが、幸運にも地図上から想定した通りの場所に位置しており、無難に山上主郭までは辿り着く事が出来た。

結果的にこの城跡は自分の予想を遥かに上回る規模と遺構残存度を誇っており、これまでこの城跡に関しての情報が無かった事が不思議で仕方が無い(もちろん但馬史の中には登場していて既に調査されていたとも思われるが、、)ほどのものである。個人的にはこういった城跡は戦国期を物語る史跡として後世まで遺して欲しいし、この素晴らしい遺構群が見学の対象になれば、いずれにしても町起こしにも繋がるので、一人の山城ファンとしては切にそれを望むところでもある。決して期待は裏切らない正に推奨に値する山城と言えるものである。

城跡は兵庫県朝来市和田山町土田(ハンダ)にあって、国道9号にほぼ面している西側山上に位置しており、「ローソン」駐車場からは国道を挟んで西側を望めば既に見えており位置確認は直ぐ出来る。後は国道沿いにあるGS「ジョモ」を越えて直ぐ川沿いを西側に走り登山口となる神社に向う。神社からはルート図の如く山裾を巻く細い山道を通り、伐採の行われた段郭群まで少し歩き、そこから直登すれば堀切の備わる出郭、あるいは居館跡とも見受けられる規模の大きい山中腹郭群には難なく辿り着ける。更に西側へ東尾根段郭群を経由して上れば自ずと山上主郭までは到達出来る。(個人的には神社側から直登して東尾根より下山したが、その逆の方が上り易いし分かり易い)

城跡はとにかく城域が広い為に、自作概念図に示される縄張りを全て見て回るにはかなりの時間も要すが、見て回る分には期待も膨らみ更に楽しみが増すのも現実である。山上最高所に位置するのが主郭櫓台と見受けられ、それほど規模は大きくはないがそこを頂点として更に南山手側、北側尾根、直登口にあたる東尾根側へと隙間無く郭群が連なっており、数箇所の堀切で以って山上郭群は分断されている。状態は自然に任せた荒れ放題でもあり決して良いとは言えないが、一部は植林地あるいは冬季ともあって雑木密生地は少なく、山上から中腹に至るまでの遺構群はほぼ判別確認は可能、縄張りも容易に把握出来る状態にはある。特別これが凄いと言った技巧的な遺構は無いが、手入れのされていない無名に近い山城において、ここまで当時のままの縄張りが自然保持されているのは驚異でもあり、これが城跡最大の見所と言うべきものでもある。語れば限が無いが但馬地方に赴かれた際には是非一度訪ねて欲しいと思う山城の一つである。

1route_4 登城ルート

4 城跡遠望

3h1 城跡概念図

5_tozanguti 登山口となる神社

46_horikiri_gawa_1a 東出郭群奥堀切見所

39_horikiri 東出郭大堀切見所

40_horikiri_one_gawa 堀切より尾根上郭

8_kita_demaru 北出郭と堀切見所

16_2maru_yori_shukaku 主郭側

20_minami_gawa_daidorui_1 主郭南側下の大土塁見所

21_dorui_sita_horikiri_1 南堀切見所

2009年1月11日 (日)

筒江城跡(兵庫県朝来市)

この城跡は兵庫県朝来市和田山町筒江にあって、丘陵上に位置している事からも館城の性格が窺われ、ほぼ主要二郭で形成される分においては縄張り妙味には余り期待出来ないが、それを補って余りある遺構残存度の高さ、直立に近い切岸及び空堀の見応えなどは抜群でもあり、外見から城跡を窺う以上の醍醐味を感じ取る事が出来る。知名度も無いに等しく相当マイナーな城跡ではあるが、国道からも寄り道程度で訪問出来るのでお手軽でもあり、個人的には是非訪問をお薦め出来る物件でもある。

城跡へは国道312号を走れば「加都北」交差点で東側に針路変更、後はルート図の如く城跡目指して向えば難なく辿り着ける。城跡は丘陵上にあるので進入口としてはどこから取り付いても直ぐ主郭に到達出来るように思えるが、周囲は直立に近い切岸と深い笹藪に遮られ、写真に示す南端の民家の間の細い道から向うのがベストな選択だと思える。

現状(12月)城跡は状態も良い部類に入り、北側の密生する雑木笹藪地を除いては視認及び移動にも差障り無く、現存する遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。中でも主郭と副郭を繋ぐ上り土橋それに付随する空堀、主郭北側の大土塁を伴う大空堀などは残存状態も良く、高低差を誇る切岸と並んで当時に思いを馳せる事も容易となっている。もちろん城跡最大の見所とも言えるもので、規模の大きい二郭と併せた城跡は予想した以上に見応えがあり、日も暮れそうな時分に立ち寄った為に足元が見え難くなるのも忘れて、何度も遺構回りを行ったり来たり繰り返してしまったほどである。お陰で画像も鮮明さが失われており、遺構の説得力には少し欠けてしまってはいるが、冒頭に述べた様に戦国期を物語る残存遺構には素晴らしいものがあり、国道の移動ついでに寄れば決して期待は裏切らない城跡と断言出来るものでもある。

しかしながら但馬地方における城跡の郭切岸の高さ、状態の良さはどれも半端なものではなく、縄張りプランあるいは保持されて来た自然環境によるものとは思われるが、現在でも当時の切岸を再現したかの様にも窺われ、しかも相当明確に残っているので何時もの事ながら感動を覚えてしまう。

1route 登城ルート

6tozanguti 南端の進入口

3tu 城跡概念図

7tojyou_dorui 堀切へ

10_horikiri_dobasi_2 主郭へ上り土橋見所

13_horikiri_yori_fuku 堀切より副郭

22_fukukaku_horikiri 堀切見所

15_shukaku 主郭

23_kita_karahori_3 23_kita_karahori_4 北堀切土塁見所

2009年1月 8日 (木)

中山比丘尼城跡(兵庫県豊岡市)

兵庫県豊岡市但東町中山にあって、先に掲載した中山城跡の北端に設けられた大堀切に道標が備わっており、そこから遊歩道に従い北に向いて100m程度歩けば更に道標が備わっているので、城跡へは難なく辿り着く事が出来る。外垣氏の居城と伝わるが尾根を共有している中山城との関係までは現状調べるまでには至っていない。

現状(12月)城跡は木々も比較的少なく見通しも利くが、中山城とは比べるレベルにないほどの下草、あるいは低い笹によって全域が覆い尽くされており、地表が表れない部分の面積の方が多く、郭形状などは非常に把握し辛く、遺構も相当近寄らないと判別し難い状態にある。もちろん移動は遊歩道に沿えば良いので難渋する事はないが、形状のはっきり分かる堀切群に関して言えば、それなりに満足のいくレベルのものを拝む事が出来る。規模は小さいが本郭群を形成する縄張りの中に遺構は凝縮されているので、非常に見学はし易いものとなっているが、見所を挙げればやはり本郭群を南北で挟む形の堀切で、痩せ尾根を分断する様は小規模とは言え、中々見応えは感じられるものである。ユニークな処では南郭西側面には櫓台に向いて移動用土塁土橋が設けられているが、西面の守備にも一役買っていそうにも思われる。

冬枯れしない笹のお陰で満足の行く見学は出来なかったが、個人的にはある意味中山城よりは楽しめたかも知れない。

但馬地方にあってもこの但東地区には亀ヶ城跡を中心とした城跡、支城あるいは砦跡が規模の大小は問わずまだまだ眠っていると思われるが、これからの山城巡りが益々楽しみに思えてくる処ではある。

1route_2 登城ルート

3 城跡概念図

4 途中の道標

11_kita_horikiri_1 北端堀切見所

14_kitakaku 北主郭

16 土橋間の堀切

16_naka_kaku_dorui_dan_1 南郭群の土塁壇

23_shukaku 南郭櫓台

26_shukaku_minami_hori_1 櫓台南空堀見所

31_horikiri_yori_doruikaku 南端堀切見所

2009年1月 7日 (水)

但東中山城跡(兵庫県豊岡市)

兵庫県豊岡市但東町中山にあって、二つの川に挟まれた中山地区中心部にある丘陵上が城跡。堀直正の城跡と伝わるが詳細は不明

城跡へは国道482号を走り、中山地区に入ればルート図の如く城跡の南端に位置する如布神社を目指せば分かり易い。車は神社敷地にスペースがあるので駐車可能であるが、既にそこから北側に見えている丘陵が目指す城跡であり、図に示す延命地蔵尊とゴミ置き場の間から、墓参用の山道が山上までは通じているので、墓地経由で5分もあれば主郭には辿り着ける。

郭跡の転用とも見受けられる南側墓地に到達するまでの山道からは、郭壁面に土中から古い石垣跡も覗いており、かつては壁面に石垣も使用されていた事が想像される。現状(12月)城跡は公園化されており、残存状態も良く下草は蔓延ってはいるが見通しも利き、山上における遺構群は全て判別確認可能な状態にある。

丘陵上は全て郭群で占められており規模は南北に渡って300m近くはある様に見受けられ、遺構として目に留まる主だったものは、堀切、土塁、主郭中央の土塁壇(近世に盛り土した可能性はある)と言った処である。城跡は主郭南側の低い熊笹で覆われた出郭(地表が見えない)以外は全ての郭に切岸処理は見受けられ、古い形態の城跡の様には見えるが、石垣跡がある事、あるいは現在の切岸の状態からも、戦国期までは充分機能していた城跡の様には感じられた。城跡の見所は迷わず堀切群と言う事になるが主郭南北を分断する大堀切及び北出郭側の堀切は高低差及び形状(V字形)とも当時のままに近い思われるもので、全体像も窺う事が出来、更に高さもある事から抜群に見応えを感じるものであり、中山城を語る上で一番の誇るべき城跡遺構と言えよう。

尚、北端堀切を下りると道標に「比丘尼城跡450m」と記されており、そのまま遊歩道に導かれて北側に向えば比丘尼城跡も見学出来るので、中山城跡とセットで同日訪問が可能でもあり、比丘尼城跡と併せて考えれば充分推奨に値する城跡と言える。(比丘尼城跡の訪問リポートは次で掲載の予定)

1route 登城ルート

3n 城跡概念図

6_tozanguti 登山口

10_minami_isi_3 石垣跡見所

14_horikiri_yori_minamigawa 堀切より南郭群

18_minami_kaku_horikiri_dorui 主郭南堀切と土塁

24 24_shukaku_kitagawa_1 主郭

31_shukaku_gawa_1 北大堀切見所

28_kita_dai_horikiri 堀切北出郭見所

2009年1月 5日 (月)

亀ヶ城跡(兵庫県豊岡市)

この山城は訪城を終えた結果、正に2009年の「山城賛歌」トップを飾る城跡に相応しく、今年一番最初の訪問リポートとして掲載に及んだ。

城跡は文献に畝状縦堀が残存しているとして記載されている事からも、今回の但東方面の山城巡りにおいては必ず立ち寄るつもりでいたが、ネット上でも余り情報が得られず、場所の確定は出来たが当然登山口も分からないまま現地に赴く事になった。余り期待もせずに訪れたものの、結果的には自分の予想を遥かに上回る残存状態の良さ、遺構残存度の高さ、規模の大きさを誇っており、賛辞の言葉も見つからないほどの城跡遺構にはただ驚くばかりであった。まだまだ近畿圏内にはこの様に隠れた状態の良い山城が存在しているのである。

城跡は豊岡市但東町太田にあって、国道から少し入った森本神社の北側に聳える低山の東西に跨った山上に位置している。城跡は代々太田氏の居城と伝わるAnnnai

地元パンフレットより抜粋

城跡へは国道482号を走り太田集落に入ればすぐ国道沿いに大きな「亀ヶ城跡」の大きな立て看板が目に留まるので車は傍の空き地に駐車、後はルート図の如くそのまま北東側に向いて数10m歩き、地蔵尊の真向いの畑畦道より山に向いて進入する。現在幸運にも地元の区長あるいは有志の方々によって登山遊歩道設置作業中でもあり、迷わず山上主郭までは到達出来たが、山上は現状植林地となっており、見通しも良く手入れもされているので、城跡遺構群は全て判別確認可能となっている。山上は前述の様に想像以上に素晴らしい状態が保持されているので、戦国期における山城の姿並びに縄張りに至るまで、余すことなく堪能する事が出来るが、特に城跡最大の見所でもある畝状縦堀群及び東城と西城を断つ大堀切南西側の尾根を断つ巨大土塁を挟んだ二本の堀切は、すぐにでも当時が甦りそうにも感じられ、山城ファンにとっては感涙を呼ぶ遺構とも言えるものである。但馬地方特有の高さを伴う直立した郭切岸も未だ健在でもあり、北側の切岸斜面などは数10m下に位置する馬駆け場まで一気に落ち込んでおり、言葉にならない程の迫力及び凄みを感じるものとなっている

1route_2 登城ルート

5_2 城跡進入路

3kame_2 城跡概念図

11_tyuuou_kaku_1 遊歩道中の郭跡

22_higasi_shukaku_2 東城主郭

25_shukaku_yagura 東主郭の大土塁

32_horikiri_heki 中央大堀切見所

36_nisi_yagura 西城主郭櫓台

40_une_dai_horikiri_2 南西大堀切と大土塁見所

46 42_unebori 44_une_2 畝状縦堀群見所

現在整備中の遊歩道あるいは郭跡などの無駄な木々の伐採が片付けば、これから更に状態も良い方に改善されると思われるが、地区を挙げて史跡を後世に遺す事も含めて、現在城跡の話題作りにも取り組んでおられる事も肌で感じたので、四季を問わず訪問が可能な戦国期山城として生まれ変わり、これから益々期待の持てる城跡になりそうだとも思われる。むしろ無償で整備されておられる地元有志の方々の苦労が報われる為にも、是非訪ねる人達で賑わう城跡となって欲しいと願うばかりである。

縄張り妙味、遺構残存度、残存状態全てにおいて山城としては上位にランク付け出来るものでもあり、戦国大名クラスの城跡にも匹敵するほどの規模を持つ、個人的にも期待は絶対に裏切らないと断言してもよい、正に推奨出来る山城の一つである。

2008年12月29日 (月)

大江堀城跡(兵庫県養父市)

この城跡に関してのリポート掲載は来年早々を考えていたのだが、余りにも素晴らし過ぎる技巧的な畝堀群の前には情報鮮度を少しでも落としたくないので、本年度最後を飾るに相応しい城跡としてラスト掲載に及ぶ運びとなった。

城跡は養父市八鹿町大江にあって、集落中心部を東西に流れる川の南側に位置しており、地元の氏神を祭る神社のすぐ背後の山がそれである。城跡は限りなくマイナーに近いもので、地元の方に訪ねたら場所は当然知っておられたが、城史に関してまでは全く知り得ないとの見解であった。

道順としては既にリポート掲載済でもある坂本城跡を起点にすれば説明し易く、ルート図の如く坂本城跡直登山口への分岐地点は直進し大江集落に向う。川沿いに走れば左手側の山中腹に寺院が見えてくるので、その手前道路沿いにある公民館の敷地を借りて駐車、そこからは歩いて逆に100m前後戻り、沢水の流れる沢沿いを真直ぐ南側へ上る。途中に獣避けフェンスがあるが開閉してそのまま参拝道で神社を目指せば10分もあれば神社に辿り着けるが、社殿背後に高く聳え立つ切岸は城跡の一部でもあり、下から見上げればこの城跡の放つ強烈なインパクトも既に伝わってくる。

現状(12月)城跡は山城としては申し分のない状態で、ほぼ単郭で成立しているので全体像も掴み易く、縄張りも非常に把握し易い状況となっている。前述の畝堀は相当堆積物、あるいは長年の風化によって深さも失われ、相当埋もれてはいるが土塁を伴ったおよその構造は把握出来、同じ但馬地方にある残存状態の良い伊賀谷城跡とまでは行かないまでも、この畝堀は他に類を見ない優れた技巧も伴っており、正に一見の価値に値する城跡と目には映った。主郭北壁には石垣痕も残存しており、西側には崩落石の多いことからも当時は壁面全てではないにしても、石垣で固められていた可能性は高いと思われる。

小規模な城跡ではあるが、社殿側から見上げれば20m以上の高低差を持つ直立に近い切岸、あるいは大土塁の迫力、周囲に放射状に延びる畝堀など全てが見所でもあり、凝縮された遺構の数々には圧倒される事請け合いの城跡と言えよう。 

1route 登城ルート

5 進入路

3oo 城跡概念図

11_oku_dorui 社殿側から望む

16_minami_dai_horikiri 南端大堀切見所

19_shukaku 主郭

21_shukaku_kitaheki_isi_1 主郭北壁石垣痕

26_une 26_une_2 畝堀見所

33_hokutou_dai_dorui_1 北東大土塁と空堀見所

2008年12月28日 (日)

但東沢田城跡(兵庫県豊岡市)

兵庫県豊岡市但東町小谷にあって、国道に沿う小谷集落の北東背後の尾根先端が城跡、現在主郭には社殿が建立されており沢田氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡訪問のきっかけは一部の文献によれば空堀はもちろんの事、石垣が残存しているとも記されてあり、石垣フェチの自分としては早速但東方面への山城巡りを計画し、それが今回の訪問へと繋がった訳である。城跡へは国道426号を走り集落到着後、概念図あるいはルート図に記す地蔵尊より墓地経由で、山上の社殿に向けての山道を利用すれば10分もあれば迷わず辿り着ける。この但馬地方においては久畑愛宕城もそうであるが、愛宕神社が数多く目に留まり、しかも過去においては城跡(砦)であった場所にほぼ間違いなく神社が建立されているので、地図上からもある意味においては城跡の目星も付け易く、推察もし易いので非常に助かっている。

現状(12月)城跡は社殿のある事からも整備されており、更に小規模な城跡なので全ての遺構は判別確認出来る状態にある。期待を持って窺った社殿正面を覆う石垣跡も、見る限りにおいては正しく当時構築されたものと見受けられ、自然岩を取り込みながらも大小不規則な形の石を利用して積み上げられており、改めて石垣の使用された城跡に感動を覚える事となった。ただ崩落石が周りに多い事からも、近世においては社殿建立の際に多少積み直された可能性がある事は否定は出来ない。社殿背後を山上に向けて少し上れば、現状埋もれて浅いが堀切が備わっており、更に山上削平地へと繋がっているのが見て取れる。

個人的にはこの城跡の石垣跡は部分的に積み直されてあったとしても、ほぼ当時の状態を遺しているものと判断したが、見る者によっては違った見解になるとも思われるので、気になる方は実際に現地に赴いて自分の目で見て判断して頂くより他はない。小規模で単純すぎる縄張りを持つ城跡ではあるが、石垣に見応えを感じ、全体を通しても満足感に浸ることは出来たので訪問した甲斐は充分にあった。

尚、ルート図に示す神社の建つ西側の低山山上にも、風化の真っ只中にある城跡遺構が残存(堀切、土塁、削平地のみ確認)しているが、これが小谷地区にあるもう一つの城跡である「京川城跡」にあたるものかもしれない、、しかしこの城跡に関しての呼称の確認は取れていないのが現状である。

1route1 登城ルート

6tozanguti 登山口

3sawa 城跡概念図

9 虎口跡

13 15_shukaku_1本郭

16 石垣跡見所