兵庫(但馬地方)の山城

2009年10月18日 (日)

東河黒田西城(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町宮にあって、ルート図に示した様に黒田城(規模が小さいので支城の可能性もある)とはほぼ隣接しているが、先にリポート掲載を終えた仮名「東和田城」、あるいは他の一部の東河地区の城跡と同様に城跡呼称が未だはっきりとは判明していない。この城跡に関しては現状ある程度呼称の見当は付いてはいる(推定 上山城)のだが、今回は敢えて明確になるまでは黒田城を本城とした場合の仮名「黒田西城」としてリポートさせて頂く事になった(判明次第報告の予定)。

城跡へは先にリポート掲載を終えた久田和城あるいは黒田城を起点すれば非常に分かり易い位置にあり、城跡進入口もルート図及び概念図を参考にすれば道路沿いの分かり易い場所にあるので、旧神社参拝道を利用すれば難なく到達出来る(5分内)とは思われる。

1_1 登城ルート

6 進入口

3a 城跡概念図

2 宮地区の城塞群

14_kirikisi 19 圧倒される切岸見所

22_gedan1_heki_1 帯郭

27_shukaku 主郭内

32_horikiri_1 堀切見所

23_sita_yasiki_1 副郭(居館か)

現状(九月)城跡は神社敷地(現在は社殿だけ)となっている事からも、ある程度整備されているので、城跡を形成する残存遺構は少ないながらも、全て判別可能な良い状態にはある。ただ神社敷地となれば近年において多少の造成地形改変はあったものと解釈しても良さそうには思われるが、見る限りは小規模でもあり、当時の郭跡地をそのまま転用したものの様には見受けられた。最高所に櫓台(主郭)が備わり、居館跡とも思われる広い郭跡の二郭で形成されたこの城跡はコンパクトで砦規模ではあるが、主郭背後には縦堀に繋がる堀切、それを取り巻く帯郭、更に状態の良い切岸は未だ健在でもあり、下から見上げれば主郭までは20m近い高低差を誇る切岸は、正に圧巻とも言える様相を呈している。他に際立った遺構が少ない事を思えば、木々にも邪魔されず全体像が窺える、この凄い切岸が見学の全てである様には感じられるのである(画像に注目)。単純に遺構の見応えだけを問われれば、この城跡に遺る切岸は恐らく東河地区の城跡の中では、ナンバーワンと言っても差支えなさそうには思えた。

個人的には東河川沿いに点在する城塞群は、この城跡を含めて合計七城は踏破した計算にはなったが、東河七城がどれに匹敵するものかは現状はっきりとは分からずじまいに終わってしまった(地元の城跡に詳しい方でも分からず)。何れの城跡もコンパクトにまとまったものであり、縄張りプランにおいても特筆に値する城跡は窺われなかったが、中でもこの宮地区に多くの城跡が集中している事を思えば、当然上道氏はここを領土支配における中心部、あるいは防備としても最終的な要としていたものとも察せられるが、大規模な城跡を一つ構えるより、小規模な砦を多く構える事の方が領土支配においては、より機能的で効果的であったのかも分からない。ただ個人的に感じられたのは、現地で地元の方に訪ね所在は確認したものの、黒田城(本城)があの程度(砦規模)の城跡で終わるはずは無いとも思えるのである、既に今まで踏破した東河川沿いの城塞群からも窺える様に、ひょっとすれば丹波の黒井城塞群には及ばずとも、それに匹敵するぐらいの城塞群にも思えるのである(本来の中枢を成す本城を見落としていた可能性もある)。

どうしてもまだ煮え切らない部分もあるので、これからも東河城塞群は現地で知り合った方との共闘作戦で、城跡呼称と所在地がある程度明確になるまでは追求して行くつもりではあるが、まだまだ時間は要すとも思われる事から、興味のある方にはしばらくの間ご猶予を頂きたいと思う。尚、ルート図には示したが、これも出城とも見受けられる山城が、黒田城の東側に二城(一城は既にリポート掲載済)確認されたので概念図と共に画像を載せたが、興味のある方は上り易い参拝登山道が山上まで(5分程度)は通じているので、東河地区の山城巡りの一環として、是非ついでに覗いて頂きたいと思うのである。

(仮)黒田東城

Higasijyou 城跡概念図

Higasijyou_1 進入路

Higasijyou_3 山上主郭

Higasijyou_2 東堀切

2009年10月16日 (金)

東和田城跡(兵庫県朝来市)

城跡は兵庫県朝来市和田山町東和田にあって、先にリポート掲載を終えた久田和城からみれば、東河川を挟んだ北側の低丘陵上に位置しており、現在城跡の南側(市道側)の数十段にも及ぶ小規模な削平地は、古い時代の集合墓地(郭跡の転用地だろう)となっている。

この城跡も東河川に沿って点在する上道氏の出城あるいは東河七城の中の一つなのかも知れないが、集中点在する城塞群の城跡呼称の判別は現状難しく、詳細は地元の方に訪ねても分からずじまいでもある(個人の推定では大治賀城の可能性あり)。ほぼ無名に近く規模も小さい城跡である為に、公的な資料にも明確には記されていない様にも窺えるが、この明確に判別出来る遺構を目の当たりにすれば、当然既に発掘調査は終えているとは思えるのである。今回は呼称の断定までは至る事が出来なかったので、取り合えず位置する地区名から仮名「東和田城跡」としたが、個人的には遠距離訪問でもあり、現地で知り合った歴史好きの方にこの城跡に関して少しでも分かっている情報があれば、是非ご一報して頂く様にと後事を託したのだが、余り期待は出来ないかもしれない。(判明次第報告の予定)

1 登城ルート

4_1 城跡遠望

1_1 城跡概念図

11_minami_karahori 7_minami_kaku_karabori 南郭1と空堀見所

10_naka_shukaku 中郭2

14_kita_karahori 北空堀見所

12_shukaku_yori_kitakaku 中郭2より北郭3側

16_kita_heki15_kitakaku_heki  北郭3の郭切岸

20_kita_sakuheiti 北削平地

城跡へは久田和城を起点にすれば、ルート図からも直ぐ分かる位置にあり、車でほぼ直進移動すれば5分とはかからない。概念図に示したが、道路沿いからは墓地も直ぐ目に留まるので、そのまま墓地に歩いて向えば自ずと本郭群には到達可能である。

現状(九月)城跡は最北の郭跡地(広い削平地)は教育実習用の研修広場となっているので、全体的にも樹木はまばらとなっており、見学するには申し分のない状態にある。低い丘に築かれたこの砦規模(総全長100m足らず)の城跡は、但馬地方あるいは丹後地方でもよく見受けられる、空堀を間に挟んだ連続土塁壇が特徴でもあり、黒田城あるいはその出城でもお目にかかったものとほぼ機能は同一の様にも感じられた。具体的にこの小規模な土塁壇(10m四方が三つ並ぶ)をどの様に使いこなしていたのかは、見学者が見たままを想像するしか無い様にも感じられたが、この空堀(現在では1m程度の高低差)も500年近い堆積物を考えれば、当時は5~6m前後の深い空堀であった様な気がしないでもない。発掘調査の有無までは分からないが、機能や当時の空堀の様子を想像するだけで楽しくなってくるのである。

この城跡は見応えがあるとはとても言えないが、明確に判別出来る連続土塁壇と空堀、あるいは高低差は無いが未だ鋭角に残る郭切岸は、覗いて見る価値は充分ある様には感じられた。当時の城跡の風情を味わえれば良しとし、久田和城を含めた東河地区の城跡巡りの一環とすれば、この城跡も含めて自ずと充実した城跡巡りが出来るのではないだろうか。

2009年10月14日 (水)

久田和城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町久田和(クタワ)にあって、東河(トガ)川より南にある久田和集落西側の、川に向いて突き出した山上(標高269m)に位置している。半年前ぐらいに山城巡りの一環として当地を訪れた際、地元の方から色々情報を聞き及んだが、この東西に流れる東河川沿いには、東河七城と呼ばれる上道氏の傘下にある城跡、あるいは出城(砦跡)なら無数に点在しているとの事でもあり、今回は前回見逃していた城跡を探索する為に、再び現地を訪れる事になった。

この山城も場所の目星はおよそ付いていたが、地元で得た情報は相当曖昧なものにも拘らず、取り合えず城跡呼称だけは判明した。よって城史に関しての詳細は現状全く不明でもあるが、黒田城を本城とした上道氏の傘下にあった城跡か、あるいは一族の城跡の何れかである様には推察される。もちろん上道氏自体が戦国武将として表舞台で活躍した訳ではないので、当然情報が少ないのも当たり前でもあり、まして敗軍の将の歴史などは余り語られないのが現実でもある。現時点においては、先にリポート掲載を終えた黒田城(地元の方に聞いて確認)ですら曖昧なものに思えて来るのである。

Kutawa_1 登城ルート

5_1 城跡

7tozanguti 入山口

Kutawa_2 城跡概念図  

城跡へは前回の黒田城への案内ルートを参考にして頂ければ分かり易いとは思われるが、国道9号から「一本柳」交差点を北上して、東河川沿いに市道273号を東進すればよい。中地区に入れば右手に中腹に鉄塔が建つ急峻な山が目に留まるが、この山上がこれから目指す城跡でもある。城跡の位置が確認出来れば、概念図あるいは画像に示した様に市道273号から養鶏場を目指して南下、その突き当たりにある開閉フェンス(入山口)を潜り、その先の木橋を渡れば自ずと鉄塔経由で主郭までは辿り着ける。尚、木橋を渡った後は直ぐ竹林地となるが、火の用心」の標識が数箇所に窺えた踏み跡程度の道があるので、道は途絶えても山上を目指せば難なく到達出来る筈である。(山上までは15分前後

12_higasi_kaku 東郭の現状

18_shukaku 主郭内

19_shukaku_dorui_1 主郭大土塁見所

18_shukaku_1 主郭切岸

21_horikiri_dorui 21_horikiri_dorui_3 堀切土塁見所

現状(九月)城跡はこの時期でも移動あるいは遺構見学に難渋もせず、ほぼ縄張りは見て回れる状態にある、藪漕ぎは覚悟の上で登ったものの、人の手の入らない山城としては中々見学し易い良い状態とも言えるだろう。城跡の形態は概念図を見て頂ければ一目瞭然とは思えるが、直線的な尾根上に広い削平地(東郭)と山上主郭の二郭で形成される、全長100m程度の規模の山城である。見所は多くはないが主郭背後を断つ縦堀に繋がる堀切及び付随する土塁、主郭内の大土塁は挙げられようが、他で際立った遺構が無いのもこの山城の特徴かも、、、ただ思ったより遺構残存度は高そうに思えたので、無名の山城でも興味のある方にはお薦め出来そうにも思えた山城の一つである。もちろん有名無名を問わず険峻な山城が好きな自分としては、十分な満足感に満たされた事は言うまでもないが、、

尚、ルート図中に示した、北に位置する他の二城のリポート掲載は次で予定

2009年10月 3日 (土)

但馬山内城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町山内にあって、集落の川を挟んだ南側にある、ほぼ単独で聳える形の急峻な低山山上に位置している。付近は城ノ根(ジョウノネ)とも呼ばれている事からも、付近で城跡を訪ねれば年配の方はほとんど御存知である様にも感じられたが、無名に限りなく近いこの山城は、上った事は一度も無い様な、話題にも取り上げられない山城の様にも思われるのである。当時においては竹田城主太田垣氏の傘下にあった、足羽氏の居城が伝わっているだけであるが、これから先は存在すら忘れ去られていく山城の一つになる可能性は大である様にも感じられた。

城跡へは先にリポート掲載を終えた物部城を起点とすれば分かり易いが、国道312号の「伊由市場」交差点を逆の東側(526号)に進路を取って山内地区を目指せばよい。少し走れば直ぐにでも進行方向右手に見えてくる、道路沿いの険峻な山がそれであり、確認は容易く出来るとは思われる。ルート図あるいは概念図に示した様に、城跡へ通じる入山口は現在この一箇所だけだと思われるので、道路側から走りながら注意して窺う必要はあるだろう(画像に示したが、分かり易い位置にある)。フェンスを開閉すればそのまま山道から向えばよいが、途中から無数に連なる屋敷跡地(近世のものだろう)を横切って、急斜面を直登すれば入山口から山上までは20分内で到達出来る筈である。この山道は更に城跡の南東側へ回り込む形で繋がっており、南斜面からでも上れそうにも思えたが確証は無い。

1route_2 登城ルート

4_1 城跡遠望

6 入山口への進入路

3ya 城跡概念図

13_horikiri_1 北尾根の堀切

15_shukaku_1 主郭内

16_shukaku_dorui 主郭土塁

22_tatebori 縦堀

現状(九月)城跡は、かつて植林地であった道路側斜面が、伐採によってむき出しになっているので、主郭に佇めば集落全域がほぼ見渡せる状態でもあり、山上郭においても木々が少ない為に、少ない遺構ではあるがほぼ判別確認可能な状態にある。概念図に示したまでが明確に判別可能な遺構群であるが、城跡の見所は主郭内に唯一遺された土塁、北側の尾根を断つ堀切、土塁は挙げられるが、他は縦堀地形が目に留まっただけでもあり、多少見応えに欠ける様には感じられた。道路側の崖状急斜面は低い草木に覆われており、外見からの視認は困難、更に滑り易く危険な状態にあったので踏破は断念せざるを得なかったが、何の期待もせず予備知識もなく訪れた事もあってか、充分満足感に浸ることは出来た。個人的には山城を上ってみて、険峻さを体感する事が出来ればそれだけで山城としてはまずは合格点なのである。もちろん更に見応えのある遺構があれば、尚更言うに越した事は無いのだが、、。

城跡を評価すれば、見応えのある遺構が目に留まらなかった事からも、とてもお薦めとは言い難いが、年々山上から下界を見通せる山城が少なくなっている事を思えば、貴重な城跡と言えるのかも知れない。こんな無名に近い山城でも、但馬地方の山城に興味を持たれていた方にとっては、よりタイムリーな現況報告となったものと思いたい。

2009年10月 1日 (木)

但馬物部城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町物部にあって物部八幡神社側からみれば背後にあたる真北側の山上尾根に位置している。但馬竹田城とも近いことから、その支城あるいは出城とも見受けられなくもないが、現状城跡の古い形態を考えれば、とても戦国期を乗り切った城跡の様には窺われず、山裾の神社敷地を当時の居館とすれば、山上主郭は規模の小さな詰城、あるいは物見といった程度の城跡でもある。戦国期においては代々物部氏の居城は伝わっているが、何代目かの城主は戦死しており、城はその時より廃城となった可能性は高いものと推察される、もちろん同氏が活躍した時代背景の詳細は分からないのが現状でもある。

城跡へは県道70号よりルート図の如くJR「青倉駅」を目指せば分かり易く、道路沿いにある二箇所の「中物部」バス停の間から神社に上る道があるので、そこから進入すれば直ぐに神社駐車場までは到達可能である。社殿左手側の、屋敷跡地の様にも窺われた広い削平地からは、登山道(旧参拝道?)が北山上に向いて繋がっているので、山上主郭までは10分程で迷わず辿り着く事が出来るだろう。

1route 登城ルート

7 神社を見上げる

10 登山口

3mo 城跡概念図

現状(九月)城跡は山上主郭までは、登山道に任せれば万遍なく見て回れる状況にあり、尾根上の郭跡(削平地)を判別確認しながら上れば効率よく見学出来る。とは言っても山上主郭までの遺構は、縦堀地形は二箇所で窺われたものの、ほぼ尾根上の郭跡を体感する程度の事でもあり、山城の風情などは感じられても、見応えを問われると返答に困るのが現実でもある。概念図に示したものが個人的に遺構と判別出来たものであるが、確実にそれと判別出来る技巧的な遺構は皆無でもあり、郭跡を除けば主郭周りの切岸だけが当時を偲ばせる遺構の様にも感じられた。

11_tatehori 縦堀地形

12_kaku 南尾根上の郭

15_higasi_kaku 東郭

15_minami_gedan_kaku_1 南下段郭

17_shukaku 山上主郭

19_kitagawa_heki 主郭北背後の切岸

古い形態の山城でもあり、見応えのある遺構が存在しない事からも、山城ファンにはお薦めとはいかないが、当時における山城の風情を味わう程度と割り切った訪問であれば、充分納得の行く見学が出来るのではないだろうか。見通しは利かないが山上主郭には休憩所(近年まで小社があったとも窺われた)まで設置されており、登山道が主郭まで通じている事からも、一般の史跡見学者あるいは城跡ファンにはお薦め出来る城跡かもしれない。逆に見応えはなくとも、当時の史跡としてみれば充分価値は感じられるのである。

2009年9月29日 (火)

十二所城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市養父町十二所にあって、西側に大屋川を望む事の出来る「西願寺」の北東背の、急峻な尾根先端に位置している。当時は秋山氏の居城が伝わるが詳細は不明。

城跡へはルート図の如く「西願寺」を目指せば分かり易いが、現在城跡の北斜面は土砂採取現場となっているので、大屋川に沿う県道からも直ぐに城跡の位置確認は出来る筈である。ただ登山道がある訳ではないので、直登取り付き地点から山上主郭まで、20分前後に及ぶ斜面との格闘は是非頭に入れて臨んで頂きたいと思う。 

山上へは概念図に示した様に、寺院背後から谷沿いを少し上った場所にある旧配水施設を目印として向い、その左手斜面から取り付き、左側の稜線に向いて斜行しながらジグザグに上って行く方が上りやすいとは思われる。この激斜面は比較的樹木が少ない代わりに、砂利が多く滑りやすいので、木々に手をかけながらの登頂となり、より慎重な登山が要求される。特に下山は上りより遥かに滑り易く感じられるので、木にすがり付きながら30分以上要してでも、足元だけには細心の注意を払って下る必要はある。もちろん東尾根先端から谷沿いに下れば、多少は斜面も緩いのかも知れないが、その分かなり時間は要しそうには思われる、確証は無いが、、。

12 登城ルート

4 城跡遠望

8 進入口

11_torituki直登 取り付き地点

12_1 城跡概念図

現状(九月)山上郭群における主郭は雑木も蔓延り見通しも利き難い状態にあるが、他は尾根上を東に向うほど間伐が行われた跡が窺え、木々も少なく土砂採取斜面側は下界の眺望も利き、郭跡及び堀切などは全体像が拝めるほどの状態にある。この山城の見所であり魅力は、堀切に尽きと言っても過言ではなく、主郭側から東側へかけて望まれる、郭を東西に分断する四本の堀切(一部縦堀に繋がる)群は、見通しの良い事も相俟って壮観さすら感じる事が出来る。長年の堆積物などによって相当埋もれてはいるが、これほど判別し易く残っていれば全く問題にはならないだろう。現状堀切の高低差もまちまちではあるが、当時はより深く薬研堀の如く屹立していたとも想像出来そうに思えたが、特に概念図に示した東堀切3、4における遺構は、分厚い土塁を間に挟んだものであり、相当な見応えを感じる事が出来た。更に山上郭群は西側の主郭から東尾根先端の自然堀切地形に至るまで200m以上はあり、山上尾根がほぼフラットな状態あるいは幅がある事からも、山上における郭占有面積も大きく、城跡は随分巨大なイメージとして目には映ってしまうのである。ただし縄張り妙味は感じられないが、、、

13_shukaku_nisigawa 主郭西端

15_shukau_higasi_gawa_1 主郭より東側を望む

19_shukaku_heki 主郭の堀切壁見所

21_horikiri_heki 堀切見所

26_naka_horikiri3_1 堀切3見所

29_higasi_2ren_horikiri 土塁を挟んだ二連堀切見所

30_horikiri4 堀切4より東削平地見所

先に触れた様に、かなりリスクを背負う登山となるので安易にお薦めはし難いが、山上における堀切遺構は決して期待を裏切るものとは思えないので、これから先は土砂採取によって遺構が消失してしまう危険性も含んでいる事を考えれば、一般の城跡(史跡)ファンには中々お薦め出来ないが、山城ファンにのみ、それも足腰に不安の無い方のみに、是非トライして頂きたいと思うのである。 人の手がほとんど入らない山上に、まさかこれほどの堀切が残っていようとは、夢にも思わなかったのが本音でもある。

2009年9月15日 (火)

市御堂城跡(兵庫県朝来市)

最初にこの城跡(平山城)を訪問した上での結論から述べさせて頂くが、現状(八月)この城跡は藪漕ぎもせず簡単に山上までは登れるが、山上郭群は全域が矢竹の密生地と化しており、到達地点の一部の狭い範囲以外は歩き回るにも事欠き、およそ人が踏み入る事の出来る状態にはなく、首まで届く矢竹によって地表すらほとんど見えない、非常に醜い状態にある。郭群も恐らく山上に展開されるだけだとも見受けられたが、一応外見から僅かに矢竹藪の中に主郭と思われる切岸、あるいは本郭群の外壁にあたる切岸を窺う事だけは出来たが、内部の構造まではとても把握出来なかった。取り合えず木々の比較的少ない斜面側の切岸より全体を一周する事を試みたが、一部崖状切岸斜面は滑りやすく非常に危険な状態でもあり、それすら叶わなかった。ただ下山ルートで西側斜面を下った付近に出郭とも思える郭跡、更にそこでは土塁と思われる構造物も眼にしたが、それも密生する竹薮あるいはその堆積物によって判別は非常に困難でもあった。結果的には城跡を斜面に沿って半周したが、南側はともかく北斜面は倒木や草木が蔓延り、相当荒れ放題でもあり、縦堀らしき地形も掘削跡も見て取ることは出来なかった。以上が訪問における現況をリポートしたものだが、決して誇張はしていないので、これから訪れる方は是非これを目安にして頂きたい。

1route 登城ルート

5 進入路

7toutatu_ti 山上郭到達地点

9_minami_obi 主郭南側帯郭

10_shukaku_heki 主郭の切岸

12_nisi_demaru 出郭の土塁か?

城跡は朝来市和田山町市御堂にあって、城跡へ向うには国道312号を走りローソンを目印として進行すれば分かり易いとは思われるが、ローソン付近の道路沿いには市御堂城跡の案内標識も出ており、ここから既に城跡は望めるので直ぐ分かるはずである。後はルート図に示した通りに進行すればスタート地点となる墓地までは容易に到達出来る。この城跡は西側の川を挟んだ対岸に枚田城がある事からも、両者は呼応しあっている状態でもあり、枚田氏あるいは太田垣氏(竹田城主)と何らかの関係にあった城跡とみて良いのかもしれないが、詳細は不明

取り合えず一度気になるので覗いてみようかと思われた方には、登城ルート図に山上まで一番上り易いルート(南側墓地背後から直登)を赤線で示したので参考にして頂きたい。このルートはこの時期でも木々が比較的少なく、藪漕ぎも無く上れるのである意味で楽に思えたが、休まず登り切れば10分内で山上には辿り着く事が可能でもある。ただ上る際には左側へ向いて上ることが肝心となる(右側は最終的には雑木密生地となる)、このルートでの郭到達地点が一番地表が窺える場所でもあり、一番ほっと出来る場所でもある。これから先この城跡の状態が良い方へ改善されるとはまず思われ難いが、自分を含めた山城ファンはそれでも確認の為に一度は覗いておきたいと思うものでもあり、まだ未訪の方にはせめて夏季訪問は絶対に避けるべしと、声を大にしてアドバイスしたいのである。

2009年9月13日 (日)

但馬上野城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市養父町上野にあって、既にリポート掲載を終えた軽部城跡からみれば、ほぼ真南側に聳える山の山頂(標高240m)に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡へは国道9号からも直ぐ望める位置にある軽部城跡を起点にすれば分かり易いが、ルート図の如く願照寺の集合墓地付近から尾根に向いて直登するルートと、図中では下山ルートとしたが資材置場からの逆を上るルートが考えられる。どちらを選択しても植林地なので藪漕ぎは皆無であるが、この激斜面を登り切る事は非常にハードでもあり、体力は相当消耗させられるので覚悟は必要かも。取り付き地点の分かり易さから言えば後者がお薦めルートかも知れないが、こちらは画像に示した場所(切岸が道路からでも見える)より上れば直ぐにでも居館跡とも呼べそうな広いフラットな空間に到達可能となっている。もちろんここから更に山上を目指して上らなければならないが、休まず上れば約20分で主郭に到達出来るとは思われる。

Ueno_1 登城ルート

Ueno_4 直登進入口

Ueno_3 城跡概念図

26_yasiki_1 25_yasiki 居館跡にも窺える北出郭

15_horikiri2 堀切

23_kita_one_kaku 北尾根削平地

18_shukaku_1 フラットな主郭

20_shukaku_minami_heki 主郭南側切岸

22_obi 東帯郭

現状(八月)城跡は、この時期でも木々が比較的少なく見通しが利くほどの状態でもあり、山上における遺構は全て判別可能となっている、ただ相当地表風化が激しい為に、堀切(空堀)などは細部に渡って地形の変化をじっくり見て取る必要はあるだろう。反面規模の大きい主郭は画像で確認して頂ければお分かりの様に、ほぼフラットな状態が現在でもキープされており、見通しが利くことからも広さも充分視認によって確認出来る良い状態にある。概念図に示したものが遺構として個人的に判別出来たものであるが、郭間に高低差が余り無い事、あるいは堀切も随分埋もれている事からも、山城としての醍醐味や見応えには少し欠ける様な気はした。城跡全体を評価すれば、縄張り変化にも富んでおらずかなり大味な城跡と言えるのかも、、。

山上郭群における現存遺構及び山上に到達するまでの直登の辛さを考えれば、興味を持たれた山城ファンにはお薦め出来ても、一般の城跡ファン(史跡見学者)までには余りお薦め出来ないのが現実でもある。個人的には5世紀以上に渡って現在に至るまでの遺跡は、古墳と山城だけだと言っても過言とは思えず、何時もの事ではあるが、状態の良い郭跡を目の当たりにすれば、ただそれだけで単純に感動を覚えてしまうのである。

2009年9月12日 (土)

小佐城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市八鹿町小佐にあって、現在の「洞仙寺」敷地からその付近が城跡と伝わっているが、ほとんど無名に近い城跡なので情報も現状では皆無に等しい。僅かな情報としては歴史も相当遡る事にはなるが、13世紀頃に伊達氏の居城を伝えており、養父市における山城(丘城)の一つでもある一部城跡より北西山上に位置する沖田城跡(まだ未訪)も伊達氏の居城を伝える事から、自ずと当時の支配は広域に及んでいたものと推察される。戦国期から江戸時代まで続いた東北の雄でもある、あの伊達氏との関係までは深くリサーチするまでには及んで居らず、詳細は不明のまま終わりそうとも思える。

城跡へは先にリポート掲載を終えた八鹿愛宕山城跡を起点にすれば分かり易いが、城跡南側の商店街を東西に繋ぐ狭い道路より267号に合流して西進、あるいは県道6号から針路変更しても合流出来る筈である(非常にややこしい道路)。小佐地区に入ればルート図の如く進行すれば「洞仙寺」駐車場までは難なく到達出来る筈である。

1x 登城ルート

4 県道より遠望

6 本来は郭跡である現状

9 郭転用地と見受けられる南側農地

O_7 山上詰城か?

O_6 山上堀切地形

現状(七月)城跡は、寺院建立(まだ新しい)の際には造成工事によって相当な地形改変があったものと推察されるものであり、集落に少し突き出した形状の丘陵上は寺院及びその住居、あるいは農地で占められており、当時を思い起こす事の出来る遺構は何一つ残っていない状況にある。城跡を東側面から望めば、僅かながら切岸状態は見て取れ、何とか集落を見通す事の出来る丘陵地形から城跡らしい雰囲気は感じ取れるが、現状ではかつての城跡の雰囲気を味わう程度であると思って頂ければ良いだろう。個人的には寺院北背後の集合墓地から更に山上を目指したが、山上は痩せ尾根上に物見と推察される削平地が40m程度に渡って遺される程度であり、その東先端斜面にある自然堀切地形だけが、僅かに当時の山上郭(確証は無いが当然物見として考えられる)を偲ばせるものとなっている。規模から察しても砦の域は出ないものと見受けられたが、前述の沖田城跡がまだ未訪である為に、この城跡が当時伊達氏にとってどの様な機能を持ち合わせていたものかは、現状推察すら出来ない状況にある。

遺構らしいものがほとんど見当たらない城跡も今となっては珍しくはないので、落胆するまでには至らなかったが、本音を言えば堀切もしくは土塁跡の一つでも目に留まれば、ある程度は納得の行く山城巡りとなっていたかもしれない。これから訪問する準備のあった方、この城跡が気になっていた方には今回のリポートをおよその目安にして頂ければよいとは思われるが、現況報告としてよりタイムリーなものとなったのであれば、これ幸いでもある。

2009年9月10日 (木)

養父神社城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市養父町養父市場にあって、広い敷地面積を所有する養父神社の沢を跨いだ社務所あるいは神社境内を屋敷跡あるいは居館跡と想定した場合、その南背後の後方尾根上に位置している。当時は垣屋氏の居城を伝えているが、垣屋氏惣領家となる本城はまだ未訪ではあるが、大規模を誇る楽々前(ササクマ?)城と聞いており、この養父神社城は一族の拠った支城として位置付けて良いのかも知れない、垣屋氏はその後も豊臣大名として生き残っている所をみれば、在地但馬勢力の中でも最初から秀吉側に組していた様にも思われる。

城跡へは先にリポート掲載を終えた上野城跡を起点にすれば分かり易いが、国道9号「上野」より国道312号へ針路変更後北上、その後は「大屋橋」を東へ渡れば、ほぼルート図の如く進行すれば難なく目的地でもある養父神社には到達出来る。社殿の建立されている敷地が当時の居館跡とも見受けられたが、相当近年において造成整備された状況でもあり、現状では城跡としての雰囲気は全く感じられない。むしろ沢を西へ跨いだ側にある、社務所側上段に位置する規模の大きい郭跡の方が見ようによってはそれらしく感じられた。本来の目的でもある山上郭群は形態から考えても詰城の様相を呈しており、概念図を参考にして土塁の目に留まる地点より踏み跡の残る木々の少ない斜面を上れば、10分内で難なく山上主郭までは到達出来るとは思われる。

1route2 登城ルート

Jinnjya 養父神社

3ya 城跡概念図

11_yasiki_1 居館跡か?

16_dorui 土塁跡(山上へ)

18_3dan_kaku 北三段郭

24_karabori_dobasi_2 北空堀土橋見所

25_2maru_2 二の丸

28_shukaku_yori_dobasi 29_dobasi_3 中央の空堀土橋見所

31_shukaku_yagura 主郭櫓台見所

33_haigo_minami_horikiri_1 南堀切見所

現状(八月)城跡はこの時期でも藪化までには至っておらず、非常に見て回り易い良い状態にあり、山上における城跡遺構は全て判別可能な状況でもある。5世紀に渡る風化を考えれば全体的に切岸は甘くはなっているが、空堀に付随して設けられた土橋などは、まるで当時の状態が今でも保持されている様にも窺われ、城跡にあっては抜群の存在感を誇っている。もちろん城跡唯一最大の見所でもあり、この三本の空堀(堀切)とそれに付随する状態の良い土橋が見学の全てである、とも言い切れる遺構の様には思われた。反面、他で見応えのある遺構に巡り合えなかったとも言えるのだが、、、。しかしこの城跡は社殿東側(先端尾根の裏側)にも土塁を付随した虎口、あるいは堀切(道)地形、数段に重なる屋敷跡の様な地形が相当広域に渡って目に留まり、更にその背後尾根上には削平地(物見か)と、城跡を構成する遺構は目白押しとなっている。これらが全て当時の遺構といった確証はないが、見る人が見れば沢を跨いで展開される城域の広さを充分体感出来るのではないだろうか。個人的には夕方近くに訪れた事もあってじっくり見学する事は叶わなかったが、それでも充分な満足感に浸ることは出来た。山上詰城、麓に根小屋(居館)の形態は一目瞭然の縄張りプランでもあり、戦国期を物語るには充分過ぎる最良の教本ともなりえる城跡とみた。山城ファンは元より、一般の城跡見学者にも、神社参拝ついでに寄られる事を是非お薦めしたい城跡の一つである。

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