三重県の山城跡

2014年10月 5日 (日)

中友田三氏城跡(三重県伊賀市)

今回取り上げたこの三氏城は三重県伊賀市中友田にあって、生活道路によって菊永氏城は少し隔てられているが、深井氏城と中友田東城はほぼ隣接した低丘陵上にある。ちなみに菊永氏城は城址碑が道路沿いに備わるだけで、その内部は深刻化した藪化によって、踏破は極めて困難な状況にあると思って頂いても良いだろう。もちろん近年における生活道路造成工事によって、当時の遺構はほぼ壊滅したものと察せられた事から、雑木林の中を覗くまでには及ばないと思われるが、、、、城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた中谷氏城を起点とすれば分かり易い位置にある事から、城跡までの細かいアクセス法は割愛させて頂くが、目印とした鞆田郵便局から車を預ける事になる集会所まではルート図を参考にして頂きたい。集会所脇を抜けてその背後から西に向いて丘陵上を歩けば、直ぐにでも深井氏城に辿り着ける筈である。更にそこから少し西に歩いた場所に中友田東城があるので、遺構見学とすれば二城同日訪問は当然考慮の対象となるだろう。

1route_2登城ルート

4kikunaga登城スタート地点

城跡の形態は、丘陵上全域が竹林雑木藪地となっている為、両城共に見通しも利かず、更に郭内部の踏破も叶わなかった事から、今回は遺構を示した概念図すら描けなかったが、伊賀では普通にお目にかかれる、土塁の施された定番の居館跡と思って頂ければ察しも付き易いだろう。中友田東城には土塁背後に横堀(画像に注目)が施されていたようだが、深井氏城では全体踏破出来なかったせいもあって、お目にかかる事は叶わなかった。現状(六月)両城共に藪化は深刻化しており、郭内部は蔓延る青竹や低草木によって、探索踏破は非常に困難な状況にあると思って頂いても良いだろう。当然見通しも利かないので低土塁などは傍に寄っての確認は余儀なくされるが、高土塁を形成すべく切岸壁は、青竹の隙間から何とか確認可能(画像に注目)と言ったところか、もちろん郭内部に佇み臨場感に浸るまでには、とても至れなかった事は言うまでもないが、、、

1_2深井氏城低土塁

Photo深井氏城土塁内壁

6中友田東城空堀

6_3中友田東城内部

6_2中友田東城土塁上



城跡を個人的に評価するのであれば、遺構のほぼ壊滅した菊永氏城は別として、この二城は遺構見学としても史跡見学としても、とてもお薦め出来る物件とは言えないが、「城跡の現況報告として、少しでもお役に立てたのであれば由としたい」、と言ったところになろうか、、、

2014年10月 1日 (水)

竹内氏城と尾根を共有 寺坂城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市下友田にあって、先にリポート掲載を終えた竹内氏城とは同じ丘陵を共有したものであり、その痩せ尾根上を切り込んで仲良く郭を並べた様は、正しく竹内氏一族の城と呼んでよいものとは思われる。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、竹内氏城と同じ登城ルートを辿る事になるので、今回は割愛させて頂くが、竹内氏城からは二重堀切を越えれば直ぐに辿り着けよう。

1route_2登城ルート

3t城跡概念図





城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、竹内氏城とは東側を二重堀切によって遮られており、その主郭の土塁西端には尾根を断つ堀切が設けられている。この堀切は両岸が縦堀となって落ち込み、更に明瞭な土橋も備わるが、これは風化に任せたまま現在に至った当時の土橋とみて良いものかも知れない、、、土塁は高土塁として郭北背後に施されているが、本来は東西両翼にも施されていたのではないだろうか、、謎。主郭は現状不整形であるが、郭南側は一部崩落した形跡があり、本来の形状は見学者の想像に全て委ねられよう。

5_2jyuu_horikiri_2二重堀切見所

12_higasiheki_horikiri2主郭東切岸

14_shukaku_1主郭の現状

17_dorui_naiheki高土塁内壁見所

18_dorui_ue_1土塁上

22_dobasi_horikiri_2

土橋付堀切見所

19_seitan_tatebori縦堀見所




現状(六月)城跡は竹内氏城と同様、比較的見学し易い状況にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価するのであれば、伊賀の居館跡らしく縄張り妙味には少し欠けるが、圧倒的お手軽感、比較的高い遺構残存度、鋭角に削り落とされた切岸の醍醐味、更に堀切の醍醐味にも触れられる事を思えば、当然お薦め出来る城跡と言った事になるだろう。

2014年9月28日 (日)

堀切と切岸が見所 竹内氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市下友田にあって、先にリポート掲載を終えた雨請山城の真南側の丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明だが、名が語る様に竹内氏居城と伝わっている。雨乞山に近隣の士豪等と立て篭もった山内氏と運命を共にしたものか、、、

城跡を訪れるには、先に触れた雨請山城を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、城跡までの細かいアクセス法は割愛させて頂くが、集会所に車を預けた後は、ルート図の赤ラインを辿って頂ければよい。淨光寺前を通過して向かう事になるが、獣避けフェンスを開閉後(画像に注目)は、左手側の荒地を通過して斜面に取り付けばよいだろう。数分で便宜上の東郭に到達出来る筈である。

1route登城ルート

3tk_2城跡概念図





城跡の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても差し支えないとは思うが、規模の大きい東郭は、全体踏破も出来ないほど低草木に覆われており、更に近世においてどこまで農地として地形改変があったものかは想像も付き難く、郭形状や規模、あるいは僅かに窺われる土塁痕は推察を交えたものと思って頂きたい。現状を覗いた限りでは、ほぼ四郭構成の城郭で、西奥が主郭と察せられるが、痩せ尾根自然地形を切り込んで構築されたと見えて、主郭、副郭共に背後に施された土塁は上り土塁の様な形状をしており、その北背後は全て谷状地形まで鋭角に削り落とされた、見事な切岸壁となっている。他では同じ丘陵を共有した西側最奥に位置する、寺坂間を遮る形の土橋付大堀も挙げられるが、縦堀が麓近くまで連続する様は木々の少なさも幸いしてか、その全体像が窺えるものであり、これも見応え抜群の城郭遺構と言って良いものだろう。実際には寺坂城における縄張りも共有していると考えられるので、外見は二重堀切(画像に注目)と言う事になるが、、、

7_doruikon東郭、土塁痕

11_nobori_dorui副郭上り土塁見所

13_shukaku_2主郭内部

14_shukaku_dorui_1主郭土塁

15_2jyuu_horikiri二重堀切見所

17_tatebori_1

縦堀見所

現状(六月)城跡は、藪化は相当進行中にあるが、郭内部はともかくとして、痩せ尾根土塁上を移動すれば郭移動に難渋することも無く、先に挙げた遺構は全て判別確認も容易く、それなりに見学し易い状態が自然維持されている。ただ同時に地表風化も進行しているので、曖昧な地形と化した土塁最高所における櫓台などは、推察を含んだものと思って頂きたい。城跡を個人的に評価するのであれば、先に触れた切岸の醍醐味、更に堀切の醍醐味まで含めれば、自ずと「お薦め出来る城跡の一つ!」という事にはなるだろう。この後リポート掲載予定の寺坂城も併せれば是非お薦め!

2014年9月24日 (水)

鷹山飛騨城跡/中谷氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市上友田にあって、先にリポート掲載を終えた高殿城からみれば、その最高所から派生する南東尾根先端に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、その名が語る様に鷹山飛騨守の居城として伝わっている。

城跡を訪れるには高殿城を起点とすれば一目瞭然の位置にあるので、城跡までの細かいアクセス方法は割愛させて頂くが、673号線からは概念図中に示した赤ラインを辿って頂ければよい。池の畔まで辿り着けばそれらしい切岸(右手側)が直ぐ眼に留まるが、それは高土塁を形成する切岸でもあるので、既に城域に入った事が分かる筈である。

1route登城ルート

3_t_2城跡概念図





城郭の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、伊賀では定番とも言える方形居館跡としての縄張りプランと思って頂ければ良いだろう。土塁は主郭四方に巡らされており、高土塁と分厚い低土塁に明確に分類されるが、一部南側に消失した痕跡が残る事から、土塁は完存とはとても呼べないものである。空堀は高土塁背後に施されてあったのかも知れないが、低草木で覆われ地表も露見していないこの状況を思えば、見極めるのは至難の業とも思えたのである。切岸に関しては土塁西外壁で見事なものを拝むことが出来るが、他は余り期待しないほうが良いかも知れない、、、。

10_obi_nisiheki帯郭より高土塁外壁見所

11_dorui_naiheki高土塁内壁

12_shukaku_teidorui_1主郭と低土塁

12_shukaku_teidorui_3低土塁上

現状(六月)城跡は、地表も露見していないほどの下草で郭内部は覆われており、その南側や東側も藪化が随分進行してはいるが、植林地にある事から見通しが利き、何とかその全体像が窺える状況にある程度と思って頂ければ良いだろう。城跡を個人的に評価するのであれば、圧倒的お手軽感はあるが、農地として近世相当な地形改変が窺われた事(個人的主観)や、それが故の遺構残存度の低さ、あるいは見学材料がほぼ切岸と土塁のみに限られる事を思えば、高殿城を訪れたついでに寄る程度、あるいは城跡巡りの一環として立ち寄る程度の城跡といった事になろうか。もちろん状況がこれから良い方に、少しでも改善されるのであれば話は別になるが、、、、

尚、ルート図中に個人的に造成農地として当時の祖形はほとんど失われている、と判断した中谷氏城も記したが、かつての主郭となる広大な農地北背後には、僅かに高土塁の一部が残り、その背後には僅かながら空堀の痕跡(画像に注目)が見受けられたので、興味を持たれた方が史跡見学として訪れる分には、決して無駄足には終わらないかも知れない。

3中谷氏城跡概念図

1主郭跡の現状

2土塁及び空堀跡

2014年9月20日 (土)

四方土塁を含めた遺構はほぼ完存か 高殿城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市上友田にあって、当時は上友田集落が見通せたと思われる丘陵最高所に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、当時甲賀に抜ける街道が今回登城ルートとした林道と重なる(現地ネタ)事、あるいはその規模を思えば、この城跡の機能は峠監視用の見張り城と考えるのが妥当な所かも知れない、、、ちなみに現地で城跡はクランドと呼ばれており、麓にお住まいの年配の方にとっては、幼少期における絶好の遊び場(かくれんぼが想像出来る)であったそうである。

城跡を訪れるには673号線に進入する事が先決となるが、道路沿いにある「鞆田郵便局」を目印として目指せば分かり易いだろう。城跡までの進入経路はルート図中に示したが、生活道路の途切れる住宅最奥にあるガレージをかすめれば、更に林道に任せて峠を目指せばよい。峠はかつての深い堀切(現状切り通し)の様にも窺えたが、そこから右手の切岸斜面を上り切れば、直ぐにでも土塁上に佇む事が出来よう。ちなみに路肩(画像に注目)に車を停めて10分程度の所要時間。尚、西方からも最短ルートとなる林道が地図に描かれているが、その道路状況までは把握していないのでどうか悪しからず、、、

1route2登城ルート

5進入経路

3_2城跡概念図





城跡の形態は、縄張りが丘陵最高所だけに限られると思われた事から、自作概念図に限りなく近いものと思って頂いても差し支えないと思うが、伊賀では定番とも言える郭四方に土塁を巡らした方形居館跡、あるいは見張り城と呼ぶに相応しいものである。ただし小規模ではあるが、分厚い高土塁背後には尾根を遮る形で幅のある空堀(横堀)が施されており、低土塁も含めた土塁はほぼ完存に近いものであり、南側に開いた土塁虎口跡、あるいはかつての堀切と思われる切り通しと並んで、充分見学者の眼は楽しませてくれる筈である。もちろん岸の醍醐味(郭側壁)にも充分触れる事が可能であり、このほぼ完存に近い佇まいそのものが非常に値打ちあるものと自分の眼には映ったのである。

10_kirigisi_2西切岸見所

13_karabori_1空堀(横堀)見所

16_dorui高土塁上

20_shukaku主郭と土塁見所

17_dorui_naiheki_1高土塁内壁見所

21_koguti

虎口跡見所

22_koguti_kaku_2虎口郭




現状(六月)城跡はそれなりに藪化は進行しているが、遺構見学に差し障るまでには至っておらず、近年村人の入った形跡のない山城としては、非常にましな状態にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価するのであれば、高い遺構残存度が物語る縄張りの掴み易さ、遺構(特に土塁)の見応え、更にお手軽感まで加味すれば、自ずと「規模さえ問わなければ是非お薦め出来る城跡の一つ」、と言った事にはなるだろう。

2014年9月12日 (金)

山内氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市下友田にあって、先にリポート掲載を終えた雨請山城からみて東端枝尾根上に位置しており、その名が語る様に雨請山城を詰城とした、山内氏の居館跡と伝わっている。

城跡を訪れるには、一部雨請山城と共通する登城ルートとなるので、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、集会所からは登城ルートに示した赤ラインを辿って頂ければよい。途中分岐地点に山内氏石碑が建立されているが、傍にある道標に従えば迷わず登山口までは辿り着けよう。城跡への最短進入経路は、獣避けフェンスを開閉した先にある、雨乞山登山口道標手前(画像に注目)の畦道になるが、そこから尾根上を目指して直登すれば、数分で空堀が迎えてくれよう。

1route2_2登城ルート

6_tyokuto_kuti直登取り付き口

3_2城跡概念図




城跡の形態はシンプル極まりない事から、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても差し支えなさそうに思うが、伊賀では定番とも言える郭四方に土塁の張り巡らされた方形居館跡思って頂いてもよいだろう。お定まりの空堀は土塁北側と西側の二方に施されているが、西側の空堀(横堀)は深さはあるが、途中で消滅した形となっており、当時は北側の空堀(縦堀)と繋がっていたとも考えられるが、これは見学者の判断に委ねられる部分となるだろう。北側の空堀は随分深さは失われているが、高低差を伴う土塁あるいはその鋭角に削り落とされた切岸と相俟って、見応えは充分なものとなっている。他見所遺構としては土塁虎口跡や、主郭側壁を形成する切岸も挙げられるが、南下段郭まで落ち込む高低差を伴う見事な切岸、あるいは先に触れた北側土塁外壁となる切岸は、間違いなく見学者の眼を楽しませてくれる筈である。

8_shukaku_1主郭内部

13_koguti_2東虎口跡見所

14_koguti_sita虎口下 

15_haigo_daidorui_2高土塁内壁

18_kita_karabori_2北側土塁と空堀見所

23_minami_heki南切岸見所

25_minami_kaku南郭

現状(六月)城跡は、載せた画像でお分かり頂ける様に、植林地にあるお陰で蔓延る草木は少なく、更に見通しは利き、遺構見学とすれば判別確認もし易い、非常に楽しめる状況にあると思って頂いても良いだろう。ただ全体的に地表風化は進行しているので、想像に委ねられる部分(郭内部や土塁の形状、空堀の形状)は多く、これを機に臨まれる方には見学し易さも含めて、是非見たままを楽しんで頂きたいと思えたのである。山城巡りとすれば効率の良い、雨請山城と併せた二城同日訪問は充分お薦め出来るだろう。

2014年9月 8日 (月)

伊賀の士豪等が立て篭もった山城 雨請山城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市下友田にあって、標高268mの「雨乞山」山頂に位置している。城史に関しては、伊賀の乱においてこの山を詰め城として、一族や近隣の士豪と共に立て篭もった山内氏の活躍が伝わっているが、その後の詳細は不明

城跡を阪神側から訪れるには、名阪国道「下柘植」ICが最寄の乗降口となるが、そこからは133号線に進入して北上すればよい。ルート図中にある鞆田橋から673号線へ左折すれば、今回車を預ける事になる集会所までは直ぐの距離にあるが、その駐車場の片隅には登山道を示した案内板が掲げられているので、それに従えば迷わず山頂までは辿り着ける筈である。ちなみにルート図中に示した山内氏城(居館跡)のリポートはこの後になるが、直接山頂を目指すのであれば、15分程度の所要時間と思って頂ければ良いだろう。

1route2登城ルート

9登山口

2_1山頂案内説明板より

3_s城跡概念図




城跡の形態は、山上本郭群だけを記した概念図を参考にして頂きたいが、山頂を主郭として東側に郭を六段程度重ねたものであり、その本郭群両端、あるいは郭間に空堀の類は施されてはいないようである。土塁は痕跡程度のものを主郭東端で確認出来るが、造成整地後の残土とも見受けられるものであり、これは見学者の判断に委ねられるだろう。切岸は東郭群における郭境、あるいは側壁で状態の良い明瞭なものを拝めるので、遺構見学とすれば何とか面目は保たれると言ったところか、、、、尚、登山道を少し外れた二箇所の東尾根(ルート図参照)では、居館跡とも推察される土塁の施された広い郭跡(画像に注目)、更にその直ぐ南側尾根では、切岸跡の明瞭な砦跡(東出郭)を眼にする事が出来るので、この山城の本質を究めたい方には、道中直ぐの距離にあるので、ついでにそちらまでは足を延ばして頂きたいと思うのである。

11_sita_kyokan土塁の施された居館跡か見所

14_higasi_demaru_1東麓出郭切岸

22_higasi_dankaku_gun_226_kaku_2山上東郭群

25_sokuheki切岸見所

33_shukaku


主郭



現状(六月)城跡は、山頂に史跡としての案内説明板が備わっている様に、史跡見学としては、それなりに見て回り易く整備された状態にある。恐らく四季を通して見学し易い状態は維持されているものと察せられるが、山上を削平しただけに終わっている城郭に、縄張り妙味までは求められず、山城ファンの方にとっては残存遺構に過大な期待を持って臨まない事が肝心となるだろう、、、城跡を個人的に評価するのであれば、遺構見学とすれば随分味気ない気がしないでもないが、当時に思いを馳せることの出来る城郭遺構が、軽い山登りで楽しめる事、切岸の醍醐味には触れられる事、見通しの利く山頂に佇めば充分臨場感は味わえる、あるいは登山道で迷わず登れる事なども理由にすれば、少ない材料ではあるが、史跡ファンの方も含めて充分薦め出来る山城の一つと言えようか。山城ファンの方に限れば、先に触れた山内氏城と併せた城跡巡りは是非お薦め!

2013年1月12日 (土)

丘陵先端部に二城が軒を並べる 玉滝川上城(三重県伊賀市)

本年度における最初の山城リポートとなりますが、ブログを拝見して頂いている読者の皆様方には、遅ればせながら明けましておめでとうございます。今年も昨年同様「山城賛歌」が城跡のアシストとして役立つ事を願って止みませんが、訪れる場所によっては積雪も多く、安全を第一とした山城巡りは、これからも是非心がけて頂きたいと思います。

城跡は三重県伊賀市阿山町玉滝にあって、伊賀の居館跡に相応しく、利便性の良い低丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、二つの方形居館跡が堀切を境として丘陵上に軒を並べる様は、伊賀ではさほど珍しいものではなく、ここを居館とした一族、あるいは二氏における居館跡と考えればそれで良いのかも知れない、、、

城跡を訪れるには阪神側から名阪国道を利用して車を走らせた場合、「壬生野IC」が最寄の乗降口となるが、降りて後は県道49号線に進入して、城跡に一番近い信号「玉滝」交差点を目印として車を走らせればよい。玉滝交差点から城跡まではルート図及び概念図を参考にして頂きたいが、県道沿いからは墓地(画像に注目)を通過して、そのまま丘陵上を目指せば数分で一号城跡までは辿り着けるはずである。尚、車の駐車に関しては、県道沿いに路駐可能な広い路肩があるので、全く気は使わなくてもよいだろう。

1route 登城ルート

5 城跡進入口

3k 城跡概念図

二城が立並ぶ形態は概念図を参考にして頂きたいが、丘陵北端部が川上一号城で、その南側にあるのが識別呼称として川上二号城となっている。まず一号城は本来なら四方に土塁が施されていたものと思われるが、現状土塁は三方のみとなっており、西側に施されていたと思われる土塁は、直ぐ西側にある住宅造成の際に削り落された(推察)ものと察せられた、、、?。土塁は南側がより高い(内壁高低差5m前後)ものとなっており、比較的面積が広い事から櫓台の存在は充分想像されよう。この土塁背後に施された大堀切が城跡にあっては最大の見所遺構となるが、掘削幅も高低差もあるもので、非常に見応えを感じるものとなっている。この堀切から更に南側に、土塁を跨いで二重堀切として浅い空堀が設けられているが、これは二号城における武者隠し程度の空堀と考えるのが妥当なところか、、、、

14_shukaku_dorui 14_shukaku_dorui_1 一号城主郭内部と土塁見所

15_dorui_yori_kakunai_1 櫓台より虎口側

18_sita_horikiri 櫓台より大堀切見所

22_sita_2jyuu_horikiri 二号城より望む二重堀切見所

二号城は土塁が四方を廻っているが、高低差を伴うものにはあらず、土塁としての見応えにはほとんど期待できないかもしれない、ただこの低土塁は南切岸斜面背後に備わる空堀と並んで、遺構はほぼ完存に近い(推察)ものであり、城郭遺構としての値打ちは充分感じられたが、、現状二号城の郭内部及び周囲斜面の藪化は深刻化しており、移動探索は困難を極める状況にあり、東側斜面は踏破探索する事も叶わず、概念図を描くまでには至れなかったが、一号城は大堀切も含めて、比較的見学し易い良い状態にある事だけはお伝えしておきたい、、、

31_kakunai 二号城郭内部の現状

27_dorui 低土塁見所

33_horikiri 南空堀見所

城跡を個人的に評価すれば、二城同日訪問が理想とは言えるが、二号城の深刻化した藪化を思えば、一号城背後の大堀切までの遺構見学はお薦め出来るが、二号城背後の空堀までは、踏破探索意欲に溢れた方にのみお薦めしたいと言ったところか、、、

2012年12月23日 (日)

蓮池上山氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市蓮池にあって、登城ルート図を見れば直ぐお分かり頂ける様に、先にリポート掲載を終えた村井氏城からも直ぐ望める程近い距離にあり、「蓮生寺」直ぐ東背後の丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、上山氏の居館跡と伝えられている。

城跡を訪れるには、先に触れた村井氏城を起点とすればその位置も分かり易い事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、「蓮生寺」集合墓地東背後の雑木竹林地の中が城跡でもあり、墓地背後より上れば直ぐにでも土塁上に佇む事が可能となっている。

1route_1 登城ルート

7 城跡進入経路

3u 城跡概念図

城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、伊賀の居館跡に相応しく土塁で主郭四方を固めたもので、その四方を廻る土塁はほぼ完存、しかも虎口付近には組みの痕跡が残る井戸跡、更に当時の遺構かどうかの正否の判定は難しいが、郭周囲には排水溝の様な石列が廻っている。お定まりとも言える空堀(箱堀)は主郭東背後に施されているが、堆積物によって深さは相当失われており、見応えには少々欠けるかも知れない。この空堀には空堀に沿う形で石垣も一部残っているが、遺構としての正否の判定は見学者の判断に委ねられるといったところか、、、、空堀を越えて更に東側に足を延ばせば、二方を土塁(内壁に石積跡)で仕切られた形の削平地を眼にする事も出来るが、これも縄張りの一部と見て良いのかも知れないが、空堀下の直ぐ南側に展開される規模の大きい削平地(石組み井戸と郭壁随所に石垣跡が残る)と同様に、後世における寺院跡地とみるのが妥当なところかも、、、、謎。

20_shukaku  主郭内部の現状

12_idoato 井戸跡見所

23_douri_naiheki 配水溝か?石列

22_dorui 土塁見所

23_minami_dorui_heki_1 土塁外壁

16_karabori 空堀見所

18_isigaki_1 空堀、石垣

現状(12月)城跡は郭内部も含め、その一帯は風化も藪化も相当深刻化しており、青竹や低草木が一面に蔓延っている上に、更に倒竹が追い討ちをかける状態となっており、郭内をくまなく歩き回る事は困難を極める状況にあると思って頂いてもよいだろう。もちろん四方を廻る土塁の全体像を拝む事も出来ないが、比較的見通しが利き、蔓延る木々の少ない土塁上を移動すれば、先に触れた遺構群は何とか判別確認も出来るだろう。城跡を個人的に評価すれば、残存遺構に見応えまでは望めそうにないが、空堀や土塁、更に井戸跡も含めた、ほぼ完存とも言える遺構群の史跡としての値打ちは高く、その状態さえ問わなければ、圧倒的お手軽感も加味して「充分見学する値打ちのある城跡の一つ」、といった事にはなろうか、、、、

2012年12月19日 (水)

村井氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市蓮池にあって、蓮池地区に数多く築かれた居館跡と同様に低丘陵上に位置している。城史に関しては、その名が語る様に村井氏の居館跡と伝わっているが、詳細は不明。

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた和田城や大北東城を起点とすれば、その位置も分かり易いが、住宅敷地の一部をかすめながら竹薮に進入すれば、直ぐにでも主郭に辿り着ける筈である。

1route_1 登城ルート

4 城跡遠望

3_2 城跡概念図

城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、伊賀に数多く見受けられる、土塁に空堀が伴う方形居館跡に近いもの思って頂いても良いだろう。現状土塁は東側のみに残るが、本来は郭南北にも備わっていたのかも知れない、、、? 空堀は土塁背後の東側と主郭北側にL字状に残るが、残存状態は比較的良く、掘削幅を伴う(6m前後)事から非常に見応えを感じるものとなっている。

10_higasi_dorui 東側土塁見所

10_higasi_dorui_2 土塁上

12_shukaku_1 残念な主郭の現状

9_shukaku_dan 主郭土塁壇

11_kita_dorui 主郭土塁コーナー部

15_karabori 大空堀見所

現状(12月)主郭跡には多くの青竹が蔓延り、郭内をくまなく歩き回る事は困難を極めるが、概念図に描いたまでの遺構の判別確認は、土塁上を移動しながら見て回れば、取り合えず難渋はしない状況にある。この後現況リポート予定をしている上山氏城や、脇田氏城なども併せた同日訪問とすれば、圧倒的お手軽感も加味して、何とかお薦め出来る城跡といったことになるかも知れないが、状態は決して問わない事が大前提とはなるだろう。空堀は充分見学する値打ちあり!

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