三重県の山城跡

2009年11月 8日 (日)

藪内氏城跡(三重県伊賀市)

この城跡は、先にリポート掲載を終えた妙楽寺城跡からみれば西麓に位置しており、同じ伊賀市青山町妙楽地にあるが、名が語る様に藪内氏の居館と伝わっており、かつては「藪ノ内屋敷」とも呼ばれていた様である。個人的には先に触れた妙楽寺城とは、山頂と麓の違いはあるが、同じ山塊を共有する事からも、此方を居館とすれば山上は自ずと藪内氏詰城(山上郭)の様にも窺われたのだが、、、、当然推察の域は出ない。

城跡へはルート図の如く、「新妙楽寺橋」を渡る手前より、川に沿った畦道を利用して向えば、直ぐにでも到達可能となっている。この城跡は伊賀にあっては数多く見受けられる方形城館の一つでもあり、土塁で周囲を囲んだ定番中の定番とも言える縄張りを持つ城跡でもあるが、比較的規模は大きく(50m近い)、一部北側の土塁の崩落は見とめられるが、未だ四方に土塁がそのまま現存している事からも、貴重な城跡と目には映った。現状遺構として判別確認出来たものは、土塁虎口、土塁外壁の周囲に巡らした空堀、空堀の仕切りとなる土塁(石積みが見受けられた)などであるが、中でも東に備わる土塁虎口は大型でもあり、状態の良い空堀と並んで見応えも感じられ、一番目を引くものの様には思われた。方形居館跡の東西にも付随するそれらしい削平地、あるいは溝状ではあるが堀切跡の様にも見て取れた地形が存在しているが、恐らくこれらも当時の遺構としてまず間違いのないものの様には見受けられる。

1route_2 登城ルート

4 城跡進入口

Ya Yabu 城跡概念図

現状(10月)屋敷跡は自然任せの荒れ放題となっており、城跡の周辺は竹林地あるいは雑木藪となっているが、他の伊賀における丘陵上にある居館跡を思えば、随分ましな部類に入り、ある程度敷地内の全体像が窺える事、あるいは周囲を巡る土塁も、部分的には良いものが拝め、更に内壁高低差も充分見て取る事が出来るので、比較的見学し易い状態にあると言っても良いものとは思われる。

8_1 8_2 背後を巡る空堀見所

15_kuruwa_nai_2 郭内部

12_dorui_naiheki_2 高土塁内壁見所

22_koguti_2 虎口跡見所

25_kitagawa_dorui 北側の低土塁

20_sikiri_dorui 空堀仕切りの石積み

この地域(勝地から妙楽地にかけて)には既にリポート掲載を終えた新氏城、松田城、甚二郎城、妙楽寺城と、比較的コンパクトな城跡が数多く現存している様には見受けられたが、個人的に何の予備知識もなく、偶然訪れた松田城は文献などには記述も無く(公的資料には載っているのかも知れないが、、、)、まだ多くの砦跡あるいは城跡がこの地域には眠っている様にも思われる(所在はルート図には記したが、遺構としての確証は得られず)のである。まだ未訪の方には、山城巡りの一環として、上記の城跡を併せた同日訪問とすれば、より充実した山城巡りが出来るようには感じられたが、、。

2009年11月 7日 (土)

妙楽寺城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町妙楽地にあって、妙楽地集落の川を隔てた、南側の標高300m(比高90m)の山頂に位置しており、天正伊賀の乱における際の陣城あるいは詰城の様相を呈している。現状、城跡に関しての記述も皆無に等しい事から、その機能に関しては見学者の想像に委ねられる様な気はする。

この城跡は何時も貴重な城跡情報をブログに提供して頂いている、S氏より紹介されたものであるが、存在は既に認識していたものの、所在地が全く分からず(現地では確認出来なかった)今まで訪問を見合わせていた経緯があったが、以前寄せられたコメントの中で、城跡に関しての所在地が記載してあった事からも目星が付けやすく、今回は近くにある藪内氏城あるいは甚二郎城と併せた訪問を計画して臨む事になった。(S氏に感謝、、)

1route 登城ルート

5 城跡進入路

3_1 城跡概念図 

城跡へは、既にリポート掲載を終えた松田城を起点にすれば分かり易いが、松田城からは真南に位置しているので確認はし易いだろう、妙楽地集落に入る為には「新妙楽地橋」を通過する事になるが、ルート図に示した様に、製材所の南西数十m手前から入山口に向う小道があるので、それを利用すれば自ずと山の中腹までは山道で上れる状況にある。道が途絶えれば途中からは直登(藪漕ぎは無い)となるが、そのままだらだら続く斜面を上り続ければ、山上までは20分内で到達出来る筈である。

11_shukaku_heki 山上主郭の外壁(切岸)

12_nisi_obi 帯郭

16_shukaku_dorui_1 17_dorui 主郭の低土塁

24_koguti_1 東虎口

25_minami_karabori_1 南空堀

現状(10月)城跡は、植林地となっているので木々も少なく、ほぼ単郭で形成される城跡は見通しも利き、全体像が窺える為に良い状態にあると言っても良いとは思われるが、地表は全て低い笹で覆い尽くされているので、細部に渡る地形の変化を読み取る事は非常に困難な状況にある。もちろん最初から縄張り妙味に期待する山城ではないので、そこまで拘る必要はないとは思われるが、、、 城跡の形態は自作概念図を見て頂ければお分かりの様に、遺構として判別出来るものは空堀、虎口跡、周囲を巡る低い土塁(分厚い)と少なく、見応えには少し欠けるかもしれない、規模も山上郭群の全長は60m前後であり、単郭である事も相俟って、当然山城としての醍醐味を感じるまでには至ってはいない。しかしこの小振りな城跡も、全体像が窺える状態にある事からも、当時の山城がそのままタイムスリップして現在に至った様にも感じられて、自ずと当時に思いを馳せる事は容易いものとも思われる。5世紀を経ても尚、この状態が拝めるのであれば、自ずと史跡価値は相当高いものとも見受けられたが、、、、。

尚、ルート図には示したが、この城跡の西麓に位置する藪内氏城のリポートは次で掲載の予定

2009年11月 5日 (木)

甚二郎城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町勝地にあって、既にリポート掲載を終えた新氏城の谷を挟んだ直ぐ南西側に位置しており、全体像から窺えばほぼ平城に近いものである。名が語る様に甚氏の居城、あるいは屋敷跡として間違いないものとは思えるが、詳細は不明。

ちなみに個人的な見解にはなるが、当時は新(シン、実際にはアライかも分からないが、)氏と呼ばれた氏名は神(シン、ジン)氏とも置き換える事が可能であり、甚氏のジンは本来は神(ジン)氏のジンから当て字されたものの様にも思える事から、少し強引かもしれないが「新氏」は本来「甚氏」と同じ一族であり、当て字が変化しただけである様にも思えるのである。よってこの二城は呼称は僅かに違うが、本来新氏の山上郭を詰城とすれば、こちらは居館とも言えるシン(ジン)氏の城跡の形態が、自ずと見えてくる様にも思えるのである。

1route_3 登城ルート

4_2 城跡進入路

Sz1 3ji 城跡概念図

城跡へは、先に触れた新氏城を起点とすれば分かり易いが、進入路としてはルート図あるいは概念図に示した二通りの向い方がある。南の民家脇からの小道より向えば、直ぐにでも城域となる便宜上の主郭及び副郭に到達出来、図中に示した最上段に位置する東西の物見郭(推察)までは、崩落の見受けられた斜面、あるいは郭仕切りとも見受けられた縦土塁を上れば、一気に到達可能となっている。尚、車は集落内における生活道が狭い事からも、JA付近の道路空きスペースを利用するか、少し遠くなるが公民館の駐車場に預ければよいものとは思われる。

9_isigaki_1 主郭南の謎の石積み

13_dorui_kado_isi_1 副郭角の土塁と石積み見所

15_shukaku 主郭の現状

19_dorui_karabori_1 西物見の空堀跡見所

22_monomi_nai_1 西物見の内部

20_dorui_heki_isi_1 土塁内壁の石垣痕

24_higasi_monomi_karabori 東物見の空堀見所

現状(10月)城跡の主郭となる削平地は、本来高低差を伴って屹立していたかとも思われる、郭背後の切岸からは土砂が随分崩落流失しており、大部分はただの斜面の如き様相になっている。副郭は土塁(底部に石積み)も明確に残存しており、判別し易い状態にはあるが、郭内部は荒れ放題でもあり、雑木が密生して外見から中を覗く事は非常に困難な状況にある。先に触れた便宜上の物見郭は、この主郭の東西上段(高低差10m以上)に左右に分かれて備わっているが、内部は非常に状態が悪いので、小規模でありながらも全体像を外見から覗く事は非常に困難、しかし土塁あるいは背後の空堀は判別し易く残っている(特に東側は状態が良い)ので、中々目は楽しませてくれる様には感じられる。尚、この二郭は直ぐ背後の林道からも窺える距離にあるので、最初にこちらから見学しても良いかもしれない、、

この城跡の、ほぼ平城に近いが地形を利用した縄張りプランは、非常にユニークなものがあり、充分見学する値打ちはあるものと感じられたが、まだ未訪の方には「新氏城跡」、あるいは、これから紹介する事になる、妙楽寺城などと併せた同日訪問を是非お薦めしたい。

2009年10月19日 (月)

福地城跡(三重県伊賀市)

この城跡へは個人的には10数年振りの再訪となったが、近年の城郭ブームによって非常に整備の行き届いた城跡として生まれ変わっていた。当然縄張り構造は変わっていないのだが、前回主郭虎口西側に造成されていた側壁を石積みとした荒地には「伊賀小屋組みの家」といった民芸茶屋らしきものも新築されており、その名阪国道側は通路として大きく様変わりしていた。当然相当な地形改変が窺われたのだが、本来の郭転用地とすれば最低限許せる範囲なのかもしれない、多少残念な気持ちにはなったが、城跡ファンのみならず一般の史跡見学者にとっても非常に訪れ易くなったとは思われる。 

更に訪れたタイミングが良かったせいもあって、前回は虎口前の空堀から北郭にかけては下草で覆われて、遺構すら確認出来なかったものが見事なまでに全貌があらわになっていた。この城跡はある程度公園化されているので状態も良く、現状(七月)において現存する遺構は、北側山裾に位置する広大な規模の居館跡も含めて、全て判別確認出来る状況にあり、規模はそう大きくは無いが、縄張りを含めて中世の城跡の佇まいを存分に堪能する事が出来そうには思える。

1 登城ルート

6_1 現地案内説明版より

3fu 城跡概念図

6_2 登城口

34_shukaku_nisi_karabori 虎口前の空堀見所

2022虎口石垣跡見所

26_shukakunai_ido 主郭内井戸跡見所

29 石蔵跡見所

30_dorui_jyou 主郭土塁上

38_kitakaku_nai_1 北郭の土塁見所

10yakata_karabori_1 居館跡の土塁、空堀見所

12_iyakata_zenbou 居館跡の全貌

 

伊賀においてはこの城跡より規模も大きく、状態は悪いが遺構残存度の高い城跡はまだ数多くあるのだが、居館と詰城がセットで、しかも良い状態のままで全体像が窺える城跡は数も少なく、中世の城跡(城館)を見学する分には最高の教材と言えるのではないだろうか。この城跡に関してはネット上あるいは文献でも数多く採り上げられていると思えるので、敢えて多くは語らないが、この城跡を史跡として見学された方も、これをきっかけとして土塁城(土城)の魅力を再認識して頂きたいと思うのである。今までもブログ中で何度か触れた事ではあるが、5世紀以上に渡って当時の構築物がそのまま現在まで残されているのは、古墳と山城遺構だけと言っても過言ではなく、未だに当時の原形を留めている土塁や切岸は、日本の風土から考えれば脅威に値するとも思えるのである。正に当時の土木技術抜きにしては考えられないものでもあり、今まで天守閣の存在する近世の石垣城ばかり訪問されていた方も、是非こういった土塁城にも足を向けて頂きたいと思うのが本音でもある。当然この城跡はこのブログを拝見して頂いている山城ファンのみならず、一般の史跡見学者あるいはこれから城跡を訪問する準備のある方にも、是非訪問をお薦めしたい城跡の一つである。

城跡は三重県伊賀市伊賀町柘植にあって、京阪神から向えば名阪国道「上柘植」ICが最寄の乗降口となる、位置的には伊賀サービスエリヤの西側の小山がそれであり、地図からも場所は確認し易いとは思われる。国道25号よりルート図を参考にして「萬壽寺」を目指せば難なく城跡までは到達出来る筈である。

2009年9月27日 (日)

松田城跡(三重県伊賀市)

この城跡は先に寄った新氏城跡を後にしてからは、県道2号より北上進行中に集落に舌状に延びた尾根が山城の如き様相を呈していたので、つい気になって訪問探索したものであるが、結果的には城跡遺構と呼べる堀切(空堀)あるいは土塁などは間違いなく現存しており、伊賀の城跡ではよくお世話になっている、城跡を示す「松田城」と記された青色タグによって城跡としても間違いの無い事が判明した。今回のリポートでは城跡が平凡な単郭土塁城で終わっていない事からも、所有する乏しい資料の類にはこの城跡は記されていないのだが、現地に掲げてあった標識(タグ)を信頼した上で、そのまま松田城としてリポート掲載に及んだ。よって詳細は全く不明でもある

城跡は三重県伊賀市青山町妙楽地にあって、先にリポート掲載に及んだ新氏城からは車で県道を北進すれば数分の距離にあり、目印としてはルート図に示した様に「稲谷口」バス停を目指せば分かり易いと思われる。この付近の空きスペースに車は充分駐車可能であり、ここからは概念図を参考にすれば5分もあれば城跡の先端郭に到達可能となっている。

1route 登城ルート

6 城跡進入路

3m 城跡概念図

現状(八月)城跡はこの時期においても比較的郭移動も容易く、見て回るにも難渋はしない状態にある。残存遺構も目白押しとは言えないが、先に触れた様に伊賀特有の高土塁は使用されておらず、丘陵上を二本の空堀と付随する土塁によって分断して郭を形成している。郭高低差あるいは縄張り妙味が特別ある訳ではないので、山城としての醍醐味も見応えも感じる事は出来ないが、南東側の空堀には僅かながら判別可能な仕切り土塁が付随しており、状態は良くはないが縦土塁あるいは縦堀に繋がる様は、この城跡の唯一の見所とも言えよう。他では現状相当地表風化によって埋もれてはいるが、中央に位置する空堀、土が流失して高さは失われているが、付随する土塁は間違いなく見学者の目を楽しませてくれるようには感じられた。

10_toutatu_kaku 南東先端郭

11_dankaku_1 段郭

12_tatehori_dou 縦堀あるいは空堀道見所

16_shukaku_heki_2 主郭切岸見所

20_naka_karabori_dorui 20_naka_karabori_dorui_1 中央空堀土塁見所

23_sanjyou_gawa_kaku 山上側の郭

縄張りの全長は現状100mにも満たない城跡ではあるが、現在民家及び農地が直ぐ傍まで迫っている事を考えれば、近年において相当地形改変はあったものと解釈され、城域は現在のものより当時は県道沿いにまで相当はみ出ていた様にも推察される、、?今回の城跡訪問は偶然が生んだ産物でもあり、空手形に終わらなかった事からも充実した山城巡りとなったが、過去における他での探索回数から考えれば、徒労に終わったケースも多く、今回はラッキーな一面もあったが、満足感も含めた二重の喜びを味併せてもらった。

2009年9月25日 (金)

新氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町勝地にあって、集落中央にある「勝福寺」の西側にほぼ単独で聳える形の低山山上に位置している。当時は新左近の居城が伝わるが、詳細は不明

城跡へは京阪神から向う場合、伊勢街道と呼ばれる国道165号より掛田城跡を右手に見ながら、その先で県道2号へ左折針路変更、そのまま道任せに進行すればルート図からも目指す「勝福寺」までは難なく到達出来るだろう。「勝福寺」山門前には公民館があるので車の駐車に気を使う必要は無いとは思われるが、ここからは概念図と画像に示した様に、道路沿いにある白塗りのガレージが城跡へ向う為の目印となり、更に山道への進入口となるので決して見過ごさない様に!このガレージの左横から狭い畦道を通過して、右手に民家の立派な塀を見ながら山に向って上れば、ほどなく広い屋敷跡(当時のものかも?)とも窺われる削平地に辿り着ける、ここからは踏み跡を辿って急斜面を上りきれば、素晴らしい高土塁に囲まれた山上主郭が迎えてくれる筈である(10分内)。

1route_1 登城ルート

5 進入口

3si 城跡概念図

現状(八月)城跡は、山城としてはこれ以上望めないほどの良い状態にあり、木々も少なく下草もほとんど無いことからも、山上で形成される遺構は全て判別確認可能な状況にある。単郭で形成される非常に小規模な城跡ではあるが、主郭周りに凝縮された遺構群は見る者を必ず魅了してくれるである。当時が甦るかのような状態も残存度も抜群な高土塁、あるいは主郭の東、西を断つ縦堀に繋がる二箇所の堀切は城跡最大の見所ともなっており、この小振り過ぎる城跡においては抜群の存在感を誇るものとなっている。数多い伊賀の城跡の中でも一、二を争うほどの状態の良さでもあり、五世紀に渡る風化に任せた状態でよくぞここまで保持されたと驚くべきものでもある、個人的にはこのままでよいので是非史跡として認定して頂きたいと思うのだが、、、。山上郭は規模が小さい事からもほぼ物見程度の機能しか浮かんで来ないが、それにしては削平だけに止まらない過ぎるほどの防備機能、更に縦堀などの技巧も採り入れており、残存遺構の全てが見所とも思えるのである。規模は小さいが遺構残存度、あるいはこの素晴らしい状態からも正しく推奨に値する山城であり、是非訪問をお薦め出来る城跡と自分の目には映った。

17_shukaku_higasi_dorui 主郭東側土塁

18_shukaku_nisi_dorui 主郭西側土塁見所

20_yagura_ue 土塁を伴う櫓台見所

23_dorui_ue_1 土塁上

26_higasi_horikiri_2 東堀切見所

28_higasi_hasi_karabori 東端空堀

31_higasi_yori_kitaheki 主郭北側切岸

32_nisi_horikiri 西側堀切見所

尚、寺院背後の山上にも小規模ではあるが、物見(狼煙台)とも窺われる削平地が存在していたのでまだ未訪の方の参考までに、、、この城跡は山上を物見あるいは詰城とすれば、その別尾根東側に位置する寺院敷地が当時の居館跡とも思えるのだが、推察の域は出ない、更には民家背後の山裾に展開される、東西に広がる削平地が家臣団の屋敷跡とも窺えるのだが、、、。

2009年9月19日 (土)

若山城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町老川にあって、既にリポート掲載を終えた峰出城とは川を挟んだ対岸の丘陵先端部に位置しており、名が語るように若山氏の居城と伝わっている。詳細は不明であるが、伊賀地域の国人はほぼ織田軍によって壊滅されている事からも、「伊賀の乱」においては当然若山氏も同じ道を辿ったとは思われる。(近所には数軒若山姓を名乗る家屋があるので、御子孫である可能性が高い)

城跡へは先に触れた峰出城へ向う起点ともなった、「青山文化センター」からは丁度真北側に位置しているので方向は定め易いとは思われるが、集落付近の生活道路は非常に狭く、ルート図あるいは概念図に示した広い道路のカーブ付近に路駐して、工務店作業所(現在廃屋に見えた)を目印として歩いて向われる(5分程度)事をお薦めしたい。現地付近に到達すれば、画像に示した辺りより登れば直ぐにでも主郭まで辿り着ける。青山文化センター側から向われる場合は、道路川沿いの「公民館前」バス停付近に路駐スペースはあるので、そこから北進して集落を潜り抜ければ自ずと辿り着く事は可能である。

1route 登城ルート

5_sinnyuukuti 城跡進入口

3w 城跡概念図

この城跡は他の伊賀の城跡と同様に所有する資料も情報も皆無に近く、何時もの如く場所も特定出来ずに訪れる事になったが、現地付近で地元の方に尋ねれば直ぐ場所は特定することは出来た。他の情報としてはこの城跡の他に中村氏城あるいは島野氏城などが老い川地区に現存しているとの事でもあったが、現在は山道も途絶えているので鎌を持っての訪問は余儀なくされるとの事でもあり、流石に訪城は諦めざるを得なかった。既に訪問を終えた峰出城なども併せれば、この狭い山間部にはまだ相当数の城跡が眠っている様にも感じられるのである。

7_koguti_dorui_1 虎口櫓台土塁見所

8shukaku_dorui 主郭土塁

12_shukaku_nai 主郭内部

15_horikiri_3 北堀切1見所

16_horikiri_dorui_1 堀切に付随する大土塁見所

19_2jyu_horikiri_2 中央土塁、二重堀切の全貌見所

20_yasiki当時の屋敷跡か?

現状(八月)城跡は地元の方から聞き及んだ通り藪化の真っ只中にあるが、意外にもこの時期にしては余裕で動き回れる状態でもあり、遺構の判別確認も容易に出来る状態にある。現状判別出来た遺構は図に示した様に、主郭三方を取り囲む高土塁、虎口に備わる大型土塁、北背後を断つ二重堀切(縦堀)などが挙げられるが、見所としては土塁郭を間に挟んで縦堀として繋がる二重堀切に尽きると言っても良いとは思われる。この遺構は北東側から望めば全体像がほぼ拝める事からも、相当な見応えを感じる事が出来るものであり、充分観賞に耐えられるものでもある。城跡そのものは館城の性格を持っているので、当然縄張り規模もそれ程大きくは無いが、訪れて決して落胆する事は無い様には感じられた。尚、ルート図には示したが、川沿いの道路側から見上げれば立地環境からもそれと分かる、規模の大きい敷地を持つ民家(現在廃屋に見えた)があったが、その敷地北背後には凄い土塁(分厚い上に高低差もある)も窺えたので、おそらく当時は居館跡と呼んだものなのかもしれない(推察)? 無駄足に終わるとは思われなかったので、取り合えずまだ未訪の方の参考までに、、。

2009年9月17日 (木)

霧生城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町霧生(キリュウ)にあって、地元では関(カン)城跡とも呼ばれている様である。当時は北畠氏の家臣でもある福山氏の居城が唯一伝わっているが、詳細は不明でもある

城跡へは国道165号「阿保」より県道29号へ進路変更して、そのまま南下を続ければ目的地でもある霧生集落には難なく辿り着ける。集落においては川が合流する付近が中心部でもあり、ルート図を参考にして川沿い道路付近から南側を望めば直ぐにでも城跡の位置は確認する事が出来る筈である。概念図に示した付近(通行止め)には駐車スペースもあり、そこから画像に示したコンクリ道から直登すれば、10分内で山上主郭までは到達可能である。

1route_2 登城ルート

6 進入口

3ki 城跡概念図

この城跡も存在は資料などから認識する事は出来ていたが、場所も特定出来ずに事前に目星を付けた地図だけを持って現地に向った。現地では最初に出くわしたお母さんに訪ねたお陰で、城跡の位置する場所は直ぐに確認する事が出来たが、それは正しく自分が地図に印を付けた場所でもあり、僅かながらの自己満足を胸に山上を目指す事になった。

8_toutatu_titen_dorui 山上到達地点の郭

17_shukaku_dorui_naiheki_1 主郭大土塁の内壁

17_shukaku_nai_1 主郭内部

13_kitagawa_dorui 主郭土塁上

20_minami_horikiri_1 主郭南側堀切見所

Higasi_yori_horikiri 東側より堀切

22_minami_kata_horikiri 片堀切(縦堀)見所

現状(八月)城跡は予想通りの藪化進行中にあるが、城跡が小規模な事あるいは複雑な遺構も目に留まらなかった事からも、城跡を形成する遺構群はほぼ判別確認出来る状態にあり、見て回るにも余り難渋はしない状況にある。形態としては伊賀に多く見受けられる三方を高土塁で囲んだ館城の様相を呈しており、その南側には尾根を分断する二連の縦堀を含んだ堀切が備わっている。伊賀における城跡の中でも、特にオーソドックスな縄張り形態でもあり、縄張り妙味を感じられる山城とはとても呼べないが、見所を挙げるとすれば唯一この二連の堀切は挙げられよう。小規模ではあるが風化に任せた遺構はほぼ完存状態とも窺えるものであり、個人的には数多い伊賀の館城の中でも限りなく普通に近いとは思えたが、この時期でもそれなりに見学出来る状態から察すれば、充分見学に値する城跡と言えるのかもしれない、、。尚、南尾根伝いに山上までは踏破する余裕はなかったが、本来は詰城と呼べる山上郭が存在していても不思議はないものと思えた。

余談にはなるが、この城跡にも先に寄った若山城にも、先達の方による城跡名を記す「青色の小さなタグ」が掲げてあった。自分の様に場所も特定出来ず、見切り発車で気ままに現地を訪れる者にとっては非常に有難いものであり、自ずと親近感を覚えてしまうものでもある。特に城跡の雰囲気を感じる事が出来れば、直ぐにでも上って確認せずにはおられない自分にとっては、城跡呼称の確認も同時に行えるので、非常に助けられているのが現状でもある。

2009年9月 8日 (火)

松島氏城跡(三重県名張市)

最初に断っておかなくてはならないが、この山城は西麓に位置する松島氏城(喜屋敷とも呼ばれる居館跡)跡からみれば、南東側の山上に位置している山城でもあり、自ずと松島氏居館の詰城とも推察されるものであり、個人的には山上における意外にも大規模な縄張り(相当広い城域であり無数の仕切り土塁や防備としての土塁、郭群が存在)あるいは見応えのある遺構に酔いしれたお陰で、下山後に肝心の居館跡に立ち寄るのも忘れてしまい、本来「喜屋敷」と呼ばれる筈の居館遺構(資料によると土塁、空堀遺構が現存)も見学出来ずに終わってしまった。よって今回のリポート掲載に於いては山城遺構のみのリポートになるが、本来の喜屋敷跡を見学したい方にはルート図に推定地を記したので参考にして頂きたい。

現在所有する乏しい資料の中には、松島氏城(喜屋敷)山上詰城に関しての記述もなく、正式に呼称が判明している訳でもないが、恐らく居館跡からみれば詰城とみてまず間違いないと思える事から、今回は松島氏山上詰城としてリポートとさせて頂いた。尚、山上広域に渡る山上郭に関しては深くリサーチしていないので知る術も無いが、既に発掘調査は終えているのかも分からないし、少なくとも専門家の方には知られているのかも分からない、、、。

1 登城ルート

M_29 集会所より遠望

城跡へは先にリポート掲載を終えた吉村氏城を起点にすれば分かり易いが、ルート図の如く道路沿いにポンプ施設のある「奈垣集会所」に車を預け、そこからは既に視界に入る「妙楽寺」まで歩いて目指せばよい。寺院背後の集合墓地から既に城域とも見受けられ、切岸処理のされた高い側壁がそれを僅かに物語っている様でもあった。さらに尾根に沿って途中までは空堀道とも窺える山道が繋がっており、上るにつれて状態は非常に悪くなる一方であるが、広域に広がる段郭群を経て山上郭群最高所に位置する主郭櫓台までは辿り着くことが出来る。主郭及び櫓台の状態は雑木に覆われており良いものではないが、背後に土塁も現存しており唯一目を楽しませてくれる材料ともなっている。更にここからは背後に備わる城中最大見所とも言える、切岸高低差10m以上を誇る見応えのある大空堀が直ぐ拝める。これは凄い!正に一見の価値のある遺構と目には映った。

M_3 墓地側壁

M_7 尾根上の郭虎口

M_13 M_19 大空堀見所

M_22 M_24 主郭櫓台土塁見所

M_14 主郭北帯郭の土塁虎口見所

現状(八月)下山時においても方角を間違うほど郭群(西側尾根と南側尾根上)は広がっており、主郭と同様に倒木が多く、更に藪化もそれに追い討ちをかけ、郭移動にも難渋する状態ではあるが、この主郭に遺された櫓台土塁、及びその背後に備わる大空堀は、遺構の醍醐味を味わう事を目的とする訪問であれば、決して期待は裏切らないとも思えるのである。個人的には本来の目的である居館跡を訪ねる事が叶わなかったので、満足感には今一浸れなかったが、これから訪れる方には是非居館跡も覗いて頂きたいと思う。山上郭群は状態が悪いので一般見学者にはお薦めとは言えないが、山城ファンにおいては覗いても決して損はしない遺構である様には感じられるのである。

2009年9月 6日 (日)

吉村氏城跡(三重県名張市)

城跡は三重県名張市奈垣にあって、先にリポート掲載を終えた比奈知城からみれば南へ直線3km内の距離にあり、伊賀地方の城跡らしく低い丘陵上に位置している。当時は吉村氏の居城と伝わるが、他の伊賀の城跡と同様に織田軍によって落城したものとみて、まず間違いないものとは思われる、詳細は不明。

城跡へは比奈知城(下山氏城)を起点にすれば分かり易いが、比奈知城西側を走る一般道693号でそのまま現地を目指せば難なく到達出来るが、この道路は谷沿いを通過する余りにも狭いカーブの多い林道であるので、出来れば「つつじが丘」ニュータウン内の一直線の道路を通過して楽に向かわれる事をお薦めしたい。後はルート図と概念図を参考にすれば難なく直登進入口までは辿り着けると思われる。城跡南側の山裾にも山に入れる道があったが、どちらを選択しても5分もあれば郭跡までは到達出来るものと思われる。個人的には縄張り全域を踏破したい欲望から、城跡案内板よりそのまま東郭に進入して藪漕ぎにて北物見(櫓台)まで上り、更に腰郭周辺から北側まで足を延ばし、やっと主郭櫓台背後の堀切に辿り着いたが、主要二郭の遺構見学で良しとする方には、概念図と画像に示した道路脇から上れば、直ぐにでも大堀切が迎えてくれる筈である。尚、車は城跡案内板の先には小型車なら充分路駐スペースがあるので心配はないだろう。

1route 登城ルート

6a 城跡進入路

8 城跡進入口

3yo 城跡概念図

現状(八月)城跡は方形に近い主郭を除けば下草も多く、副郭を始めとして北出郭群までは相当藪化も進行しており、縄張りの全体踏破を目的としない通常の遺構見学においては主要二郭で充分とも見受けられる。この城跡の最大の見所は縦堀まで繋がる南北尾根を分断する大堀切と主郭周囲を巡る分厚い土塁、櫓門でも存在していたかの様な大型土塁とその虎口、更に主郭北背後に直立に聳え立つ櫓台であり、その背後には土塁までも備わっている。主郭内部は植林地とあって見通しも利き、全体像が窺える事からも相当な見応えを感じる事が出来、遺構見学の醍醐味は全てこのゾーン(主郭周り)に凝縮されていと言っても過言ではないものと見受けられた。尚、虎口の土塁隅あるいはその付近には石垣痕が目に留まったが、伊賀地方には土城でありながらも、意外に土塁などの要所には石垣が使用されている城跡も多く見られ、この城跡もその中の一つであろう。

12_daihorikiri 大堀切見所

18_shukaku_nai 主郭内

20_nisigawa_dorui 主郭西側の土塁見所

16_sahukaku_koguti_1 虎口

25_yagura_heki_1 櫓台切岸見所

23_yagura_nai 櫓台の内部

22_yagura_nai_dorui_1 櫓台背後の土塁見所

31_fukukaku 副郭の現状

道路脇から5分で堀切まで到達出来るお手軽さ、あるいは主郭の状態の良さとこの素晴らしい遺構残存度を考えれば、規模は小さく他で見所の多い城跡ではないが、充分お薦め出来る城跡の一つと目には映った。尚、この城跡の直ぐ南側の山上には状態は悪いが城跡遺構(松島氏居館の山上詰城か?)が存在、その現況リポートは次で掲載の予定。

2009年8月31日 (月)

青木城跡(三重県名張市)

この城跡は三重県名張市青蓮(ショウレン)寺にあって、ほぼ独立した主郭丘陵上には現在「地蔵院」及び住職の住居が建っており、その一帯は「青蓮寺公園」として整備されている。自ずと当時を物語る遺構も相当消失したものと推察されるが、当時よりどの程度まで地形改変があったのかは、実際に現地を訪れて個人で確認あるいは想像して貰うより他ない状態でもある。しかしながら現存する唯一の遺構でもある、主郭周囲を「コの字形」に巡る土塁、更にその周囲を囲む状態の良い空堀(横堀)と大型の土塁は高低差を伴うものでもあり非常に見応えは感じられた。よって小規模な城跡ではあるがお手軽さも踏まえた上で、充分お薦め出来る城跡とも思われたので、今回その現況をリポートさせて頂いた。別名「青蓮寺城跡」とも呼ばれているが、青木氏の居城が伝わるのみで詳細は不明(概略は現地案内板をクリックの事)

城跡へは国道165号より青蓮寺湖あるいは青蓮寺公園を目指して百合ヶ丘経由で向えば難なく到達出来る。道路沿いには駐車場も案内板も設置されており、その横から長い石段を上れば直ぐにでも北側を巡る土塁が迎えてくれる筈である、個人的にはルート図の如く城跡南背後から車で直接地蔵院駐車場(本来は縄張り)まで乗り付けたが、後者の方が駐車場から見れば、寺院正門側の西背後に土塁、あるいは主郭内部にある通信施設が目に留まるので、直ぐにでも空堀跡まで歩いて向う事が出来る。

1route_2 登城ルート

2x 現地案内板

5 城跡進入路

3ao 城跡概念図

16_kitagawa_116_kitagawa 北側の空堀土塁

19_nisi_gawa_1 西側空堀と主郭土塁

21_shukaku_dorui 主郭を巡る土塁

20_shukaku_nai_1 主郭内

現状(八月)城跡は前述の様に、主郭周囲を巡る空堀及び土塁は夏草も刈り取られ全体像を窺う事も可能であり、整備されている事からも切岸も状態の良いものが拝め、高低差を体感する事も可能である、更に空堀の堀底上を歩いて見学すれば、深さも体感する事が自ずと出来る状況にある。主郭内部は画像を見てもらえば分かり易いが、畑地と化した内部は夏草で覆われており荒れ放題、幸いにも周囲を巡る高さはないが幅のある分厚い土塁は充分見て取る事が出来たが、住職個人の所有地ともあって勝手に踏み入る事も出来ず、歩いて広さを体感する事は叶わなかった。案内板によるとこの青蓮寺の地には上出城、雪岡城、愛宕山砦など三箇所の城跡があるとの事でもあり、機会があれば是非訪れてみたいものである。

2009年8月29日 (土)

薦生城跡(三重県名張市)

城跡は三重県名張市薦生にあって、薦生(コモオ)集落の南側背後の標高294mの山上に位置しており、かつて金毘羅神社が郭跡に鎮座していた事から、その石碑が郭転用地に建立されている。別名「有綱城跡」とも呼ばれている事から、鎌倉期まで遡れば源有綱の築城によるものかも知れない(確証はないが)、その後の詳細は不明。

城跡へは先にリポート掲載を終えた黒田城跡を起点にすれば分かり易いが、国道165号「黒田」の信号から北進して黒田城の山塊を左手に見ながら更に「東町」の信号まで直進、ここから左折して県道80号を走り、目印となる旧金毘羅神社登山口を目指せばよい。付近に駐車可能なスペースはないので、その少し先のルート図に示した「薦生バス停」まで向えば、その西側に小型車なら路駐可能なスペースは充分確保できる筈である。ここから登山口となる旧参拝道を目指して少し歩き、山上を目指せば10~15分程度で北郭群(旧金毘羅社敷地)に辿り着く事が可能である。尚、登山口から少し上った付近にも当時と現代の混在する屋敷跡とも窺える広い削平地が数段在ったので参考までに。

1route 登城ルート

4tozanguti_1 登山口

3ko 城跡概念図

現状(八月)城跡は郭転用地と見受けられた旧神社敷地以外は藪化も進行中であり、移動に難渋はしないが郭内の見通しは悪く、藪漕ぎまでには至っていないが全体像の視認は困難でもあり、とにかく歩き回っての探索は余儀なくされる状態にある。ただ城跡規模がそれほど大きくないが為に、歩き回れば山上における全ての郭跡を体感する事も出来、更に縄張りを掴む事もある程度容易いものとなっている。城跡の形態としては南北二城に分かれた縄張りプランと表現すれば分かり易いかも知れない。社跡のある北郭群の方が郭切岸がしっかりしている事、あるいは郭数が多い事からも此方を本郭群としても良いとは思われたが、個人的に南郭群の最高所に位置する郭跡の規模は城中最大でもあり、櫓台土塁構造の見受けられる事、あるいは南尾根背後を断つ大堀切が設けられている事を踏まえて便宜上の主郭として概念図には示した。此方(南郭群)は緩い斜面上の郭跡を含めてほぼ四郭で形成されているものであるが、長年の風化により土塁の土も流失しており、郭切岸も更に曖昧なものになっている。当然南郭群の方が先に構築されたものと目には映ったが、確証は持てない。地形から察しても東側は崖状急斜面、主郭西側尾根上は郭群の展開はある程度予想されたが、現状での縄張りプランあるいは遺構群から推察しても、それほど多くは望めないとも目には映ったので、踏破は断念するに至った。

5_1 上り始めに目に留まった地域

10_yasiro_ato 山上北郭群

14_nisi_kosi_kaku_1 西腰郭

15_yagura_heki_1 北櫓台切岸

25_minami_shukaku 南山上主郭

26_shukaku_yagura_dorui 土塁跡

30_horikiri 堀切

個人的には遺構に見応えを感じるまでには至れなかったが、郭高低差あるいは起伏の多いことからも山城としての醍醐味は充分味わう事が出来た。訪れる直前に地元の古老に城跡の情報を求めたが、かつて山上に館が存在したとの情報だけは仕入れる事は出来たが、それ以上の情報は得る事も出来ず、現状では城跡遺構だけが当時を知る唯一の材料なのかもしれない。登山道がしっかりしている事、この時期でもほぼ山上踏破出来た事を思えば、城跡に過度な期待を求めなければ、ある程度お薦め出来る城跡という事にはなろうか。

2009年8月27日 (木)

黒田城跡(三重県名張市)

城跡は三重県名張市黒田にあって、当時は延木(ノブキ)氏の居城を伝えるが、天正伊賀の乱の折織田軍によって落城、その時の城主延木左馬允は討ち死にしたと伝えられている。伊賀にあっては館城の形態を採っておらず、数も比較的少ない山城に分類されるが詳細は不明、別名延木(ノブキ)氏城跡

城跡へはどの様な経路で向っても、最終的には国道165号(伊勢街道)を走る事になる。信号「黒田」の交差点で針路変更後、北進して現地に向えばよいが、目印となるものが見当たらないので、ルート図の赤線あるいは現地付近では概念図を参考にしてもらえれば分かり易いとは思われる。登山口は画像及び概念図に示したが、集落より山手側に向う道はそう多くはないので、案外迷わず登山口となる法然寺(小さな供養塔のみ)までは到達出来るはずである。ただここからは山上までは山道(旧参拝道)が繋がっており、迷わず山上主郭まで(10分前後)は到達出来るのだが、確実に民家の敷地内を通過する事になるので必ず住民の方に声をかける必要はある。尚、人の目を気にせず直登したいのであれば、図に示した下山時に使用したルートの逆を上っても山上には到達可能である(急斜面ではあるが藪漕ぎもなく上りやすい)。

1_route 登城ルート

4 城跡東より進入口

3ku 城跡概念図

15_higasi_kaku_1 東段郭群

16_kaku_heki 段郭群切岸

20_monseki_yasiroato 社跡か?門石

22_kaku 東郭群

34_shukaku_yagura 主郭櫓台

23_shukaku_haigo_1 主郭北背後の堀切見所

29_kita_naka_horikiri_1 北尾根中堀切見所

30_saihoku_horikiri_2 最北堀切より北郭群見所

現状(八月)城跡は植林地となっている為に、この時期でも下草は少なく木々も少ないので残存する遺構はほぼ全て判別確認が可能な状態にある。郭壁の随所に石垣跡あるいは石垣痕があり、柱穴のある門石が二個転がっている事からも、後世においては神社敷地として転用された様にも見受けられたが、土留め石などは相当古さも感じさせてくれており、多少当時に思いを馳せる事も出来るとは思われる、ただ当時のものかどうかの判断は難し過ぎるが、、、。城跡の形態としては小規模な山上最高所に櫓台土塁を配し、東側斜面を掘削して郭を数段連ね、主郭北背後は堀切によって郭を分断、更に北尾根上には郭を挟んで二連の堀切が設けられており、より堅固な構造が見て取れる。当然見所はこの三本の堀切と言うことになるが、その内二本は縦堀とつながっているものでもあり、相当な見応えを感じる事が出来る。この縦堀を含めた堀切群は状態も比較的良いものでもあり、これだけの為に訪れたとしても決して後悔する様には思われず、登山道がある事あるいは時期を問わず訪問可能な現状から察しても、当然お薦めしたい城跡と言うことにはなるだろう。規模も小さく縄張り妙味にも富んではいないのだが、意外に山城としての醍醐味も見応えも感じられた城跡なのである。

2009年8月25日 (火)

比奈知城跡(三重県名張市)

城跡は三重県名張市下比奈知にあって、名張市におけるニュータウンの一つである「つつじが丘」への北側の道路進入口からみれば、北東丘陵上に位置している。当時は下山甲斐守の居城を伝えるが、奈垣地区にある下山氏城はこの城跡からみれば本城にあたるものと思われる。此方は「奥屋敷」と呼ばれる様に居館跡とも見受けられるが、詳細は不明。

城跡へは名張街道と呼ばれる国道368号より向えばよいが、名阪国道「上野」ICから南下した場合、国道165号交差点を過ぎて2km先の短いトンネルを過ぎれば直ぐに右折、後は赤線で示したルート図の如く進行すれば、難なく民家の点在する城跡付近までは到達出来る。小型車なら付近を探せば何とか路駐出来るが、城跡進入口としては概念図に示した二箇所からが可能であり、個人的には民家の途切れる北側に目に留まった入山口から、ネットを開閉して踏み跡を辿りながら上ったが、そのまま道が途絶えても5分程度で間違いなく広大な規模の郭跡に到達出来る筈である。尚、参考ルートからの登城は住宅敷地をかすめる事になるので、怪しまれない為にも必ず住民の方に声をかける必要はあるだろう。此方からの山道を利用すれば前者よりは楽に早く空堀西端に到達可能である。個人的には前者の入山口から上り後者を利用して下山した。

1route 登城ルート

6tozanguti 入山口

3simo 城跡概念図

11 北側の広大な郭跡

13_karahori_dorui 12_kita_dorui_heki 東西に跨る空堀、土塁見所

15_koguti 土橋を付随させた虎口見所

25_karabori_shukaku_heki 主郭壁北角

30_dorui_heki 主郭の土塁内壁

36_minami_dobasi_horikiri 主郭南側の土橋付き堀切見所

38_tatebori_dorui_2 大土塁と縦堀見所

41_horikiri 出郭南の堀切見所

現状(八月)城跡は、北の広大な植林地でもある郭跡の一部を除いて、南出郭までに至る張りの全域が藪化及び風化の真っ只中にある。時期的にも仕方のない事かもしれないが、常緑樹が多い事、倒木がやたら多い為歩き辛く、四季を問わずこの醜い状態は継続されるものと予想される。自ずと納得の行く見学、あるいは満足の行く見学は出来ないものとも思われるが、木々の少ない場所を選んで歩き回れば、何とか主要な遺構は見学出来る様には思われた。概念図に描いたものが今回動き回れた範囲であり、目に留まった遺構を記したものでもあるが、方形主郭から南側尾根を断つ堀切までは何とか遺構も判別確認可能な状態にあるが、主郭より北側の三ブロックで形成されると見受けられた広大な郭跡は、全域にかけて削平の甘い(地表風化も含む)雑木密生地でもあり、郭内の移動にも難渋する始末で歩測も困難、外見から内部地形の変化を読み取るのは至難の技でもあり、今回概念図に示した郭形状などは外見からの推察を交えたものでもある。以上挙げたことからも、現状では醜い部分ばかりと思われがちだが、取り合えず目に留まった見応えのある遺構は、主郭四方を巡る土塁、更にその周囲を巡る空堀(これらはほぼ完存とみた!)、主郭南側の土塁を付随させた土橋を伴う堀切(縦堀に繋がる)、北側の丘陵全体を遮る形の東西に跨るスケールの大きい空堀、及びその一箇所だけに備わる状態の良い土塁虎口などである。現状の様相からみても、とても一般の城跡ファンにはお薦め出来る状態にない城跡ではあるが、上記の遺構群は、城跡の規模(南北に400m前後)の大きさと併せて、興味のある方にとっては充分満足出来るレベルにあるとは思われる。冬季訪問となれば状態も少しはマシかと思われるが、僅かではあるがそれに期待するしかないのが現状でもある。

2009年6月10日 (水)

田矢伊予守城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市阿山町川合にあって引接寺の直ぐ西背後の低山山上に位置している、城跡への道順としては西名阪道「壬生野」ICが最寄の乗降口、ICを降りればルート図の如く県道49号を経由して引接寺を目指せばよい。後は概念図に示される山道から城跡に向いて上れば直ぐ主郭には到達出来るが、現状倒竹などで行く手は遮られるのでいきなり竹薮から直登した方が早いとは思われる。2x_1 田矢氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡は個人的には夏季(7月)、冬季(2月)における二回の訪問となったが、いずれも生い茂る雑木あるいは密生する竹林の為に移動も困難、更に視認にも支障を来たす状態となっており、挙句の果てには昼間でも薄暗い中での遺構撮影はほとんどピンボケ状態に終わってしまった。縄張り図を所有していないのでどこまで踏破したものか見当も付かないが、自作概念図に示される城跡遺構は二度に渡る訪問の結果自身の目で踏破確認する事が出来たものである。ほぼ南北に渡り踏破したものとも思えるが、西側は移動にも困難を来たす状況でもあり今回もまた踏破を断念する結果に終わってしまった。二度の訪城で感じられたのは本郭(二郭)の規模も大きいが、堀切を挟んだ北側及び南側に連なる出郭が存在する事からも相当城域の広い山城(案内板には南北に350mと記載)であると言う事である。

見所は主郭を形成する分厚い大土塁と言う事になるが土塁内壁が大石垣で覆われた様は中々見応えが感じられる、一部虎口付近に大石垣が露出しているだけではあるが恐らく当時土塁内壁は全て石垣で覆われていたとも推察される。現状主郭及び副郭共に竹林地である為に堆積物及び長年の風化によって相当荒れ放題と化してはいるが、ある程度広さは体感する事が出来る状態にあるのでこの薄暗い条件下を考えれば良しとしなければいけないだろう。尚、主郭北にある大堀切を挟んだ北側には状態の良い土塁で形成された出郭が存在するので決して見逃してはならない、南出郭に関しては小規模な段郭群で形成されているので、現状の冬季においても凄まじい藪を考えれば敢えて見学には及ばないものとは思われる。

個人所有の城山とも見受けられるこの城跡はこれから先良いほうに状態が改善されるとはとても思えず、個人的にも三度目の訪問は無さそうにも思えてくるのである。

1route_1 登城ルート

Nawa 城跡概念図

13_tozanguti 進入口

13_dorui12_minamikaku_1 南出郭

18_shukakunai_ooisi_3 18_shukakunai_ooisi_4 主郭土塁内壁の石垣跡見所

21_daihorikiri 北大堀切見所

25_demaru_dorui_2 北出郭土塁見所

2009年3月17日 (火)

垣矢南城跡(三重県伊賀市)

この城跡遺構は先にリポート掲載に及んだ垣矢氏城跡中に記載している様に、近世造成された道路を挟んだ南側丘陵上に位置している。個人的にも外見からあまりにも山城の様相が窺えたので寄ってみた所、伊賀の城跡らしく居館跡とも見受けられる三方土塁を巡らした主郭跡(現状は畑地)、櫓台とも見受けられる土塁最高所の郭跡、空堀に見える掘削された跡、土塁虎口などが確認出来た。もちろん発掘調査の有無あるいはその結果などは知らないので独自による推察と言う事になるが、自作概念図に描いたものが独自で判断した遺構と呼べそうなものである。現状の主郭(畑地)周囲を巡る分厚い土塁、社殿のある削平地は櫓台とも見受けられるもので、伊賀の城跡を見て回っている方なら直ぐ城跡の形態として判別出来るものでもあり、垣矢氏城跡に関連した南出郭群とも窺えそうに思えたので、今回は(仮名)垣矢南城跡(現状城跡呼称は文献にて照会中)としてリポートの掲載に及んだ。尚、くれぐれも城跡遺構としたものは独断と偏見によるものであり、個人的にも垣矢氏城跡を見学ついでに寄って城跡遺構を確認しても、絶対に無駄足には終わらないものと判断したものである。藪化していないだけに全体像も窺う事が出来、城跡遺構としては非常に見学し易く貴重な存在であると目には映ったが、、、

城跡遺構へはルート図中にある進入路より最上段に位置する民家横より直接山上まで上れるのだが、住宅地庭先あるいは横の畑地を通過する事になるので住民の方に了解を得たほうが良いとは思われる。(個人的には偶然畑仕事をされていた地元の方に許可を得て通過させてもらったが、、、)

現状(二月)城跡と見受けられる主郭に相当する丘陵上は畑地となっており見通しも利くので三方を囲む土塁を含めて全体像を窺う事が出来る状態にある。この地を城跡と断定した上での見所はやはり現在土も流れ出して高さは失われていると思えるが分厚い土塁、良好に残存する土塁虎口、社殿の建つ一際高い位置にある櫓台大土塁といった処になると思われる。

もしブログ読者の方で既にこの城跡遺構を見学して、城跡呼称の確認までされた方が居られるのであれば是非情報を提供して頂けると有難いのですが、、、

3ka_2 城跡概念図

4a 西より遠望

8_kitakaku_yagura_1 北郭より櫓台壁

11_dorui_koguti 土塁虎口と目に映った

14_yagura 櫓台

15_shukaku_dorui 主郭土塁見所

18_shukaku_minamigawa 主郭南側

20_minami_yori_shukaku 南郭より主郭土塁見所

22_karabori_ato_dorui 当時の空堀に見えた

2009年3月16日 (月)

垣矢氏城跡(三重県伊賀市)

この城跡は島ヶ原地区大道にあって、先にリポート掲載を終えた清助山城、杉山城とは程近い距離にあり、正月堂を起点にすればルート図の如く東側に進路変更して城跡を目指せばよい、川を渡れば進行する道路方向の左右南北に山に近い丘陵が見えてくるが、さも山城の様に窺える右手の山がこれから向う城跡ではなく、峠に近い場所まで上った概念図に示す左手側が垣矢城跡であり、空き地から直登すればいきなり南郭の土塁が迎えてくれる。尚、前述の山城の様に窺えた右手南丘陵上も後で立ち寄った結果、個人的にも城跡と判断出来る遺構を眼にする事が出来たので、その現況リポートは次で掲載の予定。城跡は名が語る様に垣矢氏の居城と伝わるが詳細は不明

現状(二月)城跡は、下草や雑木に覆われて全体像を窺う事が出来ない主郭内を除けば、それなりに見通しも利くので郭跡、堀切、土塁、櫓台土塁といった主だった遺構群は全て判別確認は容易に出来る状態にある。丘城の多い伊賀にあってはこの城跡もそれに近いものがあるが形態は山城に近く、周囲を巡る高土塁も使用されておらず背後に櫓台の設けられた主郭だけが突出した高低差を以って構築されている。見所は便宜上の二の丸と三の丸境に位置する巨大仕切り土塁、主郭の背後を断つ大堀切と更に北に付随する巨大土塁で、堀切北側の土塁の方は高低差及び分厚さから櫓台としての機能も推察され、見応えのある深い堀切と相俟って更に相当な迫力も醸し出している、中央の仕切り機能を持つ巨大土塁は二の丸側にある虎口の備えである様にも見受けられた。

現状三の丸から南郭に向いては、住宅地側の郭跡切岸が敷地に合わせて不自然な形で削り取られ、更に堀切及び土塁もいきなり西側が不自然に削られた格好となっている為、ある程度近年の宅地造成によって縄張り内は地形改変があったのではないかとも見受けられた。直登到達地点における南郭端の堀切土塁と思われた構造物も造成地の為に削り取られた後の残欠とも見受けられるもので、推察の域は出ないが南側は相当郭遺構が消失している様にも感じられた。しかし現存する遺構だけでも充分当時に思いを馳せることは出来るので、残る遺構から当時の城跡の状態を想像する楽しさも含めれば充分楽しむ事の出来る城跡と言えよう。

1r 登城ルート

4_tozanguti_2 直登口

3_2 城跡概念図

7_horikiri 南郭堀切見所

9_minami_gawa 三の丸より堀切側

14_2maru_yori_dorui_1 二の丸より巨大土塁見所

18_shukau_nobori_koguti 主郭上り虎口

18_shukaku_2 主郭の現状

20_shukaku_yaguradai 主郭櫓台土塁見所

23_horikiri 北大堀切見所

2009年3月10日 (火)

島ヶ原杉山城跡(三重県伊賀市)

島ヶ原地区の城跡巡り三弾目となるこの城跡は概念図でも分かる様に清助山城から望めば農作地を挟んだ東側の丘陵先端部は城跡でもあり、小屋(農機具小屋)のある背後より上れば直ぐにでも南郭に到達出来る。尚、名前が語るように杉山氏の居城として良いのだろうが、伊賀には杉山の呼称を持つ城跡が少なくとも三城存在する事から今回は区別する為に島ヶ原杉山城として掲載に及んだ、城史に関しての詳細は不明。

この城跡は麓居館、山上郭群(詰城)の二段構の様相を呈しており、伊賀にあってはさほど珍しくない構造と言えるものでもある。主郭は方形にあらずほぼ半円形状を描いておりその周囲は分厚い大土塁を巡らしている、最高所にあたる櫓台大土塁は蔓延る木々に妨げられて主郭内から直接望む事は出来ないが相当な高低差を伴っている。主郭内の規模はさほど大きいものではないが土塁背後は直ぐに住宅が迫っており、此方も郭跡と判断すれば案外ユニークな構造と言えるものではある。現状土塁の一部は住宅地敷地として削られた形跡があるが、ほぼ櫓台最高所までは当時のままとも見受けられるものであり、この櫓台背後の状態の良い堀切を越えれば山上郭まで10分程度で到達出来る。現在送電鉄塔の建つ小規模な山上郭跡(二段削平地)は大きな破壊は免れており、北斜面には二連の堀切跡も確認する事が出来る。城跡の見所は土塁最高所(相当高い位置にある)に位置する少し変形の二段櫓台土塁、その背後を断つ堀切が真っ先に挙げられる、いずれも状態が良いので訪れても必ず満足感の味わえる遺構とは思われる。尚、城跡の形態を把握する為にも山城ファンであるなら必ず山上郭(味気ないが、、)は覗く必要があるものとは思われる。

寺院東側の尾根先端に隣接する二城は形態も随分違い、更に両城の機能の違いなども想像すれば楽しめる要素でもあり、メリハリの利いた楽しい城跡巡りが出来る事請け合いの城跡と言っても良いのではないだろうか。

3 Dd 城跡概念図

5_1 進入口

11_minami_kaku_1 南郭

9_dorui 主郭内土塁見所

13_dorui 土塁背後

16_yagura_yori_sita二段櫓台見所

19_horikiri 堀切見所

22_horikiri_kita_kaku 北郭より堀切側

26_sanjyou_kaku_1 山上郭

27_kita_horikiri 山上北堀切

2009年3月 9日 (月)

清助山城跡(三重県伊賀市)

このところ伊賀地方の巨大土塁と空堀の付随する城跡にはまっており、今回も伊賀島ヶ原地区まで足を運ぶ事になったが、今回は島ヶ原地区案内看板にある城跡(清助山城、杉山城、垣矢城)中の清助山城を最初に訪ねる運びとなった。城跡あるいは城主に関しての詳細は不明

城跡へは先にリポート掲載に及んだ増地氏城からは更に正月堂を目指して北上する、後はルート図の如く進行し奥村地区にありスタート地点にもあたる「善福寺」駐車場を目指せば迷わず到達出来る。ここから城跡は既に真東に望める位置にあり丘陵先端部は郭跡でもある、位置を確認すればほぼ小川沿いに畦道を進み、写真にある先端部左手より取り付き上れば5分もあれば主郭まで到達出来る。丘陵上にあるのでどこから取り付いても直ぐに上れそうに思われるが、ここ以外は矢竹雑木が密生しているので上るのには難渋することにもなり、迷わずここからの直登をお薦めしたい。

現状(二月)城跡は外見から望んだ通りの藪化中にあるが、東先端に位置する東郭(前面矢竹藪)を除けば郭跡、大小の土塁、櫓台土塁壇、堀切とほぼ判別確認可能な状況にあり、主郭は外見から察するより意外に切岸は切り立っており高さもあるので中々人を寄せ付けない迫力は感じられる。城跡を全体的に見れば小規模で縄張り変化にも富んでいないので見応えがあるとはとても言い難いが、個人的には伊賀にあっては当たり前である方形館跡でない部分に多少でも惹かれ満足の行く訪城と言えるものにはなった。現在城跡周辺は造成農地となっているので近世においてどこまでの地形改変があったのかは想像するしかないが、現状のままを当時の状態としてみても充分城跡としての値打ちは下がらないだろう、個人的にも楚々とした山城に近い城跡は好きな部類に入るが、この城跡も過度の期待を抱かず訪れた事もあって充分満足感を味わう事は出来た。

Route 登城ルート

5 城跡直登進入口

3se 城跡概念図

13_shukaku_heki_1 主郭壁を仰ぎ見る

15_shukaku_heki 主郭切岸

10_shukaku_gawa 東段郭より主郭櫓台壁

17_shukaku_higasi_gawa 主郭櫓台側

22_horikiri_1 22_horikiri 堀切

28_nisi_e 西端郭

2009年3月 8日 (日)

増地氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市島ヶ原中村にあって、ルート図の如くJR関西本線「島ヶ原駅」を目指せば分かり易い。駅に到達すれば北東側の踏み切りを超えて正月堂側へ向いて少し北上すれば峠付近左手に休憩所が見えてくるが、そこを進入口として山道に任せれば自ずと副郭土塁空堀道を通過して主郭虎口まで辿り着く事が出来る。在地士豪の一人である増地氏の居城を伝えるが詳細は不明。

現状(二月)城跡は冬季にも拘らず副郭は踏み入る隙間のないほどの矢竹雑木藪となっており、背後を巡る大土塁及び櫓台を除いては当然郭内の視認による遺構確認、郭形状の確認はほぼ無理、主郭は比較的ましではあり方形郭三方を巡る土塁などは鬱蒼とした郭内からでも充分確認出来る状態にある。一際高い方形櫓台上は笹藪地でもあり広さを体感する程度、周囲を囲む空堀も矢竹で一部を外見から覗ける程度の状況でもある。小規模な主郭背後には堀切が土橋を伴って残存しており、主郭方形櫓台と並んで城跡の見ともなっている。他の伊賀の城跡よりは幾分高所に位置する事からも高さのある巨大土塁はお目にかかれないが、副郭は主郭の南斜面下側に位置しており変則的な縄張りは中々味があって面白く感じられた。尚、堀切を越えた山上側には古い石積みで内壁が囲まれた小さな郭跡が確認出来たが、当時の遺構か近世のものかの判断は非常に難しいものがある。主郭南側及び副郭南側は現状凄まじい雑木藪地となっているので踏み入ることも外見を覗く事も出来なかったが、地形から考察しても南側は郭の展開は予想される場所でもあり、城域も現在見て回る事が出来た狭い範囲からは、相当出ている様には感じられた。

現状から察するには城跡の夏季訪問は相当厳しいものがありそうに思えるが、主郭のみと割り切れば道路沿いから5分程度で到達出来るので充分納得した見学が出来るのではないだろうか。(個人所有の城山とも見受けられ、恐らくこれからも城跡が良い方向に改善されるとは思われ難い)

1route 登城ルート

4_tozanguti 城跡進入口

3mas 城跡概念図

7_1 空堀と副郭大土塁見所

18_koguti_daidorui 主郭虎口土塁

20_shukaku 主郭内

22_yagura_nobori_koguti 櫓台上り虎口見所

27_kita_karabori_dorui 北側空堀土塁

24_horikiri_1 堀切見所

35_kaku_isi_1 山上内壁石積み郭

2009年3月 3日 (火)

増田氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市四十九町にあって「上野総合市民病院」の南背後の丘上に位置している、増田氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは西名阪道「上野東」ICが最寄の乗降口、国道422号を南下すれば上野総合市民病院への標識もある事から交差点は右折、そこからはルート図を参考にすれば迷わず辿り着けるが、城跡進入口となるのは西出公民館東側の民家横の細い山道からで、公民館の直ぐ背後には既に郭切岸が迫っている。公民館に駐車出来るスペースは無いが、車は付近に路駐可能な路肩スペースもあるので、まずそこに停めてから山道に進入しても直ぐ到達出来る距離にある。

現状(二月)城跡はほぼ全域が竹林地となっており密生する雑木竹薮の為に郭全体像の視認には困難を極める、移動に難渋する状態でもないので歩き回れば残存遺構の判別確認はある程度出来る状況となっている。丘上全域がほぼ削平地に近いもので規模も相当なものと見受けられるが、中枢を成す本郭群はほぼ三郭構造と言えるもので郭北背後には全て土塁及び空堀(横堀)を伴っている、中でも目を引くのは最大規模でもある主郭三方を囲む高土塁で、内壁高低差は最大10mに達しそうにも見受けられ、巨大で分厚い土塁は城跡においても圧倒的存在感を誇っている。その西背後に備わる横堀も本来は水堀であったかの如く現在でも多少の水溜まりとなっており、よく見れば更に二重空堀となっている構造が見て取れる。流石に郭内は三郭共に竹が蔓延り視認し辛いが、空堀群は外見からも充分窺える状態にあるのである程度の満足感は得られると思われる。

郭内を歩き回らないと広さなどを体感する事は困難な状況にはあるが、分厚い土塁上からは土塁の巨大さを体感することは出来、空堀も当時より深さは相当失われていると思われるが存在感は抜群でもあり、城跡を語る上においてはまず最初に挙げられる遺構群と言えるものになっている。

1route_3 登城ルート

6_tozanguti 進入口

3ma 城跡概念図

11_fukukaku 副郭内の現状

26_dorui_masuda_bohi 大土塁上の増田氏墓碑

36_dorui_heki 主郭内

33_shukaku_nai_dorui_1 主郭内の土塁構造物

30_nisi_karabori_3 主郭西空堀見所

42_2jyuu_karabori 二重空堀見所46_nisikaku_dorui

西郭土塁

終始竹に悩まされた訪城となったが、高土塁で構築された二城にも匹敵する城跡の規模は想像した以上に大きく、とにかく見応えのある土塁が全てとも言い切れる城跡であるように感じられた。夏季訪問は全体が鬱蒼としており、更に藪蚊が多そうで少しきついかも、、、、尚、増田氏城の西側丘陵先端に位置する中森氏城も同時見学の出来る近距離にあるので概念図に示すルートを参考に見学するのも時間の無駄にはならないとは思える。3n10_dorui_koguti_2

2009年3月 2日 (月)

浜田氏城(三重県伊賀市)

この城跡は先にリポート掲載に及んだ幸至城跡からは池を隔てて真西に位置しており、登城スタート地点である徳楽寺からは図の様に真北に位置しており、ルート図を参考にしてもらえれば迷わず辿り着く事が出来る。浜田氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡の形態はほぼ平城と言ってよいもので、当時から存在していたものかどうかは分からないが、主郭の南北は池で遮られており現状を窺う限りでは天然の水堀として機能していた様にも見受けられる。隣接する幸至城跡とは自ずと形態は異なっており周囲は池で防備されていたと見てよいのか、高土塁で周囲を囲んでいた形跡は見受けられない。模の大きい二郭でほぼ形成される本郭は、背後に分厚く高い櫓台が備わりその背後には更に大堀切が設けられており城跡最大の見所ともなっているが、現状雑木竹薮となっているので中々全体像は窺い難い。しかしこの堀切は櫓台背後からの切岸高低差がある為か、相当な見応えを感じる事が出来た。

現状城跡の周辺は近年の農地造成あるいは河岸工事、更に住宅地も迫っており相当な地形改変があったものとも思われるが、幸いにも本郭遺構は破壊を免れている様にも窺えた。見所としては主郭背後の櫓台土塁と大堀切のみの様にも感じられたが、幸至城跡とセットで考えれば充分城跡巡りとしては充実したものになる思われる。

尚、個人的には寺院背後の集合墓地も縄張りの一部と考えられるので、墓地を通過しながら周辺も見て周りほぼ一周した計算になったが、全体的にも墓地を含めて近年相当造成されている様相でもあり、残存遺構の期待は無理である様にも感じられた。

2z 3 城跡概念図

7_sinnyuukuti 進入口

10_shukaku_1 主郭

11_dan_oti_kaku_2 主郭段落ち郭

15_yagura_heki_1 櫓台土塁壁見所

16_yagura_dorui_ue_1 17_dorui_yasiro 櫓台土塁上

20_daihorikiri 大堀切の現状見所

22_fuku_kaku 副郭

2009年3月 1日 (日)

幸至氏城跡(三重県伊賀市)

この城跡は名前が語る様に幸至氏の城跡と伝わるが、幸至図書の名が伊賀の乱において見付けられる程度で詳細は不明である。しかし見て回った結果としてはこの城跡に遺された巨大空堀(幅も深さも凄いものが拝める)、その内と外を巡る高低差のある分厚い巨大土塁だけは状態の良い事も相俟って、個人的には今まで見て来た伊賀の城跡の空堀、土塁を遥かに凌ぐものでもあり、他を圧倒しているものの様にも見受けられた。流石に郭内は竹が密生しており見通しも利き難くいが、全体としては比較的ましな部類と見受けられるので是非訪問をお薦め出来る城でもある。形態としては山上に位置する山上郭群(詰城)と麓居館(二郭)で形成される城跡と見受けられるが、山上郭群を併せた規模は比較的大きく、山城の醍醐味も兼ね備えているので見る者を必ず満足させてくれる見応え抜群の城跡と目には映った。

城跡は伊賀市西高倉にあって、阪神側から向う場合は西名阪道「上野」ICが最寄の乗降口で降りればそのまま国道422号を北上する、後は目印となるスタート地点でもある徳楽寺を目指せば迷わず辿り着ける筈である。寺院の駐車場を借用すれば直ぐ北側の池を越えた場所にも浜田氏城があるので、どちらが先になっても散策がてらここを起点として歩いて二城を訪問する事をお薦めしたい(幸至氏城跡の南民家付近には路駐も可能ではあるが、歩きによって二城の立地環境などをより把握出来る)。城跡への進入ルートは図を参考にすれば分かり易いと思われるが二通りある、整体治療院の看板が池傍に見えれば其の玄関先をかすめて池沿いに歩けば自ずと副郭と見受けられる土塁まで数分で辿り着けるし、東側の小さな池傍からでも難なく土塁を伴う郭跡に到達出来る。

1rote 登城ルート

5_1 進入口

3 城跡概念図

現状(二月)城跡は先に述べた様に二郭で形成される本郭内は竹が密生しており見通しも利き難いが、最大の見所でもある巨大空堀(幅があるので移動も兼ねたか?)、巨大土塁側は全体的にも竹が少なく、ある程度全体像まで窺える状態にある。外周を巡る土塁から山上郭群に足を延ばせば風化は激しいが切岸、堀切、埋もれた空堀跡などが窺え、山上郭群も手抜き無く築かれている事を判断する事が出来た。

この城跡を訪問した事によって伊賀における城跡の本来の巨大土塁と空堀の凄さ(凄い土木量)を改めて認識する事にも繋がり、この空堀が自分にとって今後「巨大である」と言える基準(上限)となる様な気もするのである。尚、浜田氏城跡は別にリポート掲載予定

14_fukukaku_haigo_karabori_1 空堀角

28_shukaku_kan_karabori 主郭中央空堀見所

19_shukaku_higasi_karabori 東側空堀

33_shukaku_haigo_dai_karabori 35_shukaku_kita_karabori_1主郭北側空堀見所

23_shukaku_dorui_yori_yagura_1 主郭土塁と空堀見所

31_fukukaku_nai_1 副郭内

46_sanjyou_shukaku 山上主郭

45_horikiri 山上堀切見所

2009年2月20日 (金)

本田城跡(三重県伊賀市)

この城跡は伊賀市柏尾にあって先にリポート掲載に及んだ小鴨氏城とは道路を隔てた真南に位置する丘陵上にある、伊賀の乱に於いて落城の記録が残っており、本田氏を始めとして何名かの士豪が立て篭もった城跡とも見受けられるが詳細は不明。

城跡へは小鴨氏城から歩いても直ぐ行ける距離にあり、写真画像に示す道路造成の為に切岸処理された付近から直登すれば、5分とかからず堀切及び丘陵先端部にある居館とも見受けられる小規模な郭跡に到達出来るが、堀切より逆に東側へ少し上れば本田東城とも呼べる東山上郭群へ到達可能でもあり、丘陵上全域を占める広大な削平地を眼にする事が出来る。一部整地された山上には現在社殿が建立されており、その東側に僅かに残る土塁堀切跡が物語る様に、ここを山上主郭の境として東側へは更に広大な削平地としての郭跡が連続しているのが見て取れる。この様相は伊賀の乱において何千もの兵が立て篭もるには充分過ぎる広さでもあり、対岸の小鴨氏城とも連携すれば更に強大な勢力と成り得たのが想像出来そうでもある。

現状(二月)城跡西端にある三方を土塁で囲まれた主郭は雑木及び竹が多少蔓延ってはいるが規模も大きくないので遺構の判別確認は容易に出来る状態にあり、土塁はもちろんであるが土塁壁底部を支える土留め石、石垣跡まで窺う事が出来る。目に付いた石垣跡は小鴨氏城でも見られた様に川原石を積み上げたもので土塁の補強程度のものと見ても差し支えなさそうには思える。特別縄張り妙味のある城跡ではないので見所を挙げるのに苦労するが、前述の堅固さには程遠い土塁補強石垣は当時のこの地方における石積み技術を物語るものでもあり、見所と言うに相応しいものではなかろうか

先に赴いた小鴨氏城の放つインパクトが強烈過ぎて此方はやや印象が薄いものとなってしまったが、恐らく当時においては機能重視のせいもあって大味な縄張りになったのではないかとも察せられる。小鴨氏城と併せれば二城同日訪問が楽に可能でもあり、充実した山城巡りが出来る事請け合いの城跡と言えるのではないだろうか。

4_1 城跡進入口

3z 3ho 城跡概念図

14_horikiri_temae_kaku_1 堀切手前の郭跡

15_horikiri_3 堀切見所

26_koguti_gawa 主郭南側

25_isigaki_ato_1 土塁底部の土留め石見所

29_dorui_hasi_heki_isi_1 土塁壁補強石垣跡見所

7_sanjyou_kaku_2 東山上主郭

10_sanjyou_horikiri_1 山上堀切跡

12_sanjyou_higasigawa_1 連続する山上削平地

2009年2月19日 (木)

小鴨氏城跡(三重県伊賀市)

この城跡は伊賀にあっては珍しくない丘城でありながら、山城的な縄張りプランによって築かれており、縄張り妙味も持ちながら本郭部における遺構残存度及び残存状態は現状を見る限り賞賛に値するものでもあり、是非訪問をお薦めしたい城跡の一つである。小鴨氏の居城と伝わっているが詳細は不明

城跡は三重県伊賀市岡田にあって岡田集落より国道と川を挟んだ南側丘陵上に位置しており、先にリポート掲載に及んだ龍王山城を起点にすれば分かり易く、国道422号「阿保」の交差点は逆に左折、針路変更後国道165号を東進、掛田城へ向うルートでもあり岡田付近から川を挟み南側に鉄塔あるいは稲荷神社の赤い鳥居が見えてくれば、西出郭にあたる城跡の先端部は直ぐ確認出来る。神社の望める国道沿いには充分な駐車スペースがあるのでそこから橋を渡って鳥居を潜り山上を目指せばよいが、逆に出郭を後回しにするのであればルート図に示す墓地側から登れば直接主郭に到達出来る。

1route_4 登城ルート

4_2 城跡進入口

3ko 城跡概念図

現状(二月)城跡は手入れのされた植林地となっているので見通しも利き、雑木下草も少ないので主郭周りに残存する遺構は全て判別確認が容易に出来る状態にある。中でも特に状態の良い主郭及び周囲を巡る高さはないが分厚い土塁は幅が6~7mはあり、一郭としても成立しそうに思えるもので、穴倉状に西に付随する郭跡と並んで城跡の最大の見ともなっている。この穴倉構造物は掛田城でも既にお目にかかっており、機能は個人でそれぞれ想像するしかないが、かつては巨大な櫓の土台であった様にも窺える(更に主郭と見受けられる郭跡は馬出しの様にも思えてくる)。土塁内外壁及び空堀外周の土塁には石垣痕が随所に窺われ、本郭部の整合感のある構造からも案外石垣城が想像出来るものでもあり、個人的には織豊系と呼べるものではないが、なぜかそれに通じるものを感じ取れた。山城巡りにおいて楽しいのは残存する遺構機能の想像も含まれており、この城跡に関しては細部に渡り他で見当たらない遺構を確認出来るので、限りなく想像も広がり更に目を楽しませてくれるのも現実となっている。

丘城と言えば必ず竹薮は避けて通れないのが現実でもあるが、この城跡に限っては一切竹薮は存在しないので安心して赴いて頂きたい。尚、最初に登城口に選んだ社のある山上西出郭は二連の堀切と二郭で形成されており、土塁も備わる事からも充分見学に値する遺構となっているので、後回しになっても決して見逃してはならない。(ルート図に記す本田城は次で掲載の予定)

10_nisi_demaru_2 西出郭

16_horikiri2 西出郭堀切見所

28_shukaku_1 主郭と外周土塁見所

29_shukaku_1 主郭より虎口側

35_kitagawa_dorui_ue 主郭土塁上

25_anagura_dorui_1 穴倉構造物見所

30_shukaku_yori_ana_koguti 穴倉へ虎口土塁

40_kita_karabori_dorui_1 主郭北側土塁空堀

44_higasi_horikiri_1 東堀切

51_karabori_1 南土塁郭の空堀見所

2009年2月17日 (火)

城氏城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市伊勢路にあって、既にリポート掲載に及んだ掛田城跡からみれば東側の別丘陵上に位置しており、善福寺背後の丘陵上が城跡でもあり目と鼻の距離に位置している。もちろん戦国期における城氏の居城とは伝わるが詳細は不明

城跡へは掛田城を起点にすれば直ぐにでも分かり易く、ルート図の如く善福寺を目指して移動、寺院駐車場から集合墓地のある丘陵上まで上り、そのまま右(西側)手に移動すれば直ぐに城域となるが、墓地敷地も本来なら郭跡の転用で近世において多少造成整地したものと見受けられる。西端に位置する主郭までは東西に連続する相当な規模の郭跡を移動する事になるが途中に埋もれた堀切跡、石組み井戸?、郭内に人為的な凹状地を窺う事が出来る。

現状(二月)城跡は樹木も下草も比較的少なく見学し易く遺構の判別確認は容易に出来る状態となっている。主郭は方形居館跡の様相を呈しており、伊賀では定番とも思える分厚い高土塁あるいは虎口櫓台土塁は未だ健在でもあり、主郭三方を廻る空堀と並んで城跡最大の見所ともなっている。最上段に位置する土塁内壁には石垣跡も残存しており、随所に残る石垣痕あるいは崩落石から窺われる様に土塁内壁は全て石垣で補強されていた様にも見受けられる。館城の為に縄張り妙味には欠けるが、状態の良いのも相俟って主郭内から見上げる直立に近い土塁壁あるいは前述の虎口櫓台土塁は全体像を窺う事も出来、相当な迫力と見応えを感じ取る事が出来る。

個人的には掛田城とは日を改めての訪城となりリポート掲載も後手を踏む事になったが、まだ未訪でこれから訪問準備のある方にとっては効率の良い二城同日見学をお薦めしたい。画像でも確認出来るように主郭内は見通しも利き、下草も少なくこれ以上望めない状態が保持されているので、居館跡として見学する分においては申し分のない状況下にある。先に掲載に及んだ掛田城と同日訪問すれば間違いなく満足感に浸れて、それ以上のものが必ず得られると断言してもよい、是非お薦め出来る城跡と自分の目には映った。

1route_2 登城ルート

3j 城跡概念図

26_shukaku_yori_koguti_1 主郭内櫓台土塁

27_shukaku_nai_heki 主郭土塁壁見所

35_shukaku_koguti_2 主郭土塁虎口

23_dorui_naiheki 主郭上段櫓台

22_dorui_heki_isi_2 土塁壁の石垣跡見所

21_gaishuu_dorui 主郭大土塁上

18_dorui_yokobori 南側横堀と土塁見所

28_horikiri_dobasi_isi 西郭境の土橋側面石積み見所

2009年2月16日 (月)

龍王山城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市比土にあって、阿保の中心部より川に沿って西側に聳える台形上の山の山上が城跡であり現在山頂には「八大龍王社」が建立されている、無名に近い山城である事からも、ここに社参拝を目的として訪れても城跡として訪れる者は非常に少ないと察しの付く山城でもある、城史に関しての詳細は不明。

城跡へは名阪国道「上野東」ICが最寄の乗降口、国道422号を南下し「阿保」より国道165号へ右折進路変更、国道を走れば直ぐ目の前に立ちふさがる台形状の山がそれで概念図に示すパチンコ店を過ぎて直ぐ右折、後は道に任せれば社への道標も出ているので迷わず参拝道より山上主郭まで辿り着ける。車は付近に路駐可能

現状(二月)城跡は社周りを除いては冬季にも拘らず相当藪化しており、全体像の視認はまず困難、特に主郭西側はジャングルと化しており密生する雑木によって距離感も掴めず、郭形状あるいは郭内に存在するであろう土塁などの確認も困難を来たす状況となっている。縄張りプランに関してはほぼフラットな山上を削平して築かれたものと思えるので余り郭高低差も無く、ただ広大な面積を所有する主郭のみといった印象が強いが、南郭側には空堀あるいはそれに伴う土塁虎口なども眼にする事が出来、間違いなく城跡遺構は存在している。参拝道中鉄塔北側にも唯一土塁堀切の備わる郭跡も確認出来、谷を挟んだ西側には大手とも窺われる本来の踏み跡道も溜め井戸(池)も窺う事が出来た。自作概念図に示された遺構が現状確認可能なもので、藪化も風化も激しく特に見応えのある遺構は存在しないが、本来の山城としての縄張りプランも大味で余り技巧の用いられなかったものの様にも推察される。山城の形態そのものが丘城の多い伊賀においては珍しいものでもあり、山城としての醍醐味には少々欠けるが、なぜか新鮮なものを自分の中で感じ取る事が出来た。まだ未訪の方にとっては国道沿いでもあり、車を降りて5分も歩けば城跡遺構に巡り合えることからも、移動の際に覗いても決して無駄にはならない山城とは思えるのである。

1route 登城ルート

4 国道より城跡

2_3ry 城跡概念図

11_kitakaku_horikiri_dorui 北郭堀切

18_shukaku_kita_gedan_1 主郭北下段

16_dorui_karabori 東側空堀土塁

23_minami_karabori_2 南郭空堀

25_minamikaku_dorui_kado_2 南郭土塁角

26_shukaku_yasiro_2 主郭石碑

29_mizunote 水の手

2009年2月14日 (土)

奥ノ谷城跡(三重県伊賀市)

この城跡は三重県伊賀市老川にあって、先にリポート掲載に及んだ峰出城跡とは堀切道一つを隔てた南丘陵上に位置している。峰出城でも目印とした二つのカーブミラーの中間辺りより直登すれば直ぐにでも北端の郭跡あるいは堀切(相当埋もれている)に到達する事が出来る。

現状城跡は同日訪問となった峰出城とは比べるレベルにないほど状態は悪く全域が荒れ放題と化している、其の分手付かずの為に遺構残存度は高いと見受けられるが、肝心な主郭全域にかけても雑木あるいは竹が蔓延り、鬱蒼とした状態でもあるので中々良い遺構画像が残せないのが現実でもある。しかし冬季ともあって移動して見て回る分には支障を来たす事はないので、残存度の高い遺構はほぼ判別確認は可能である。

二重堀切によって丘陵上は分断されており、南側に延びる削平された山上郭群を併せれば規模も中々大きい事が分かり、主郭は当然方形居舘跡とみて良いとは思われるが、周囲には土塁が巡り櫓台とも見受けられる大土塁も目に留まる。見所を一つ挙げれば二重堀切ということになるが、大土塁を挟んで深く掘削された様は全体像を窺う事が出来るので、迫力及び見応えは訪問者を必ず満足させてくれるものでもある。特別縄張り妙味がある城跡ではないので見学対象となるのは主郭周りの遺構ということになるが、南山上まで少し足を延ばせば削平地の中にほぼ風化状態にはあるが方形状の薄い土塁で囲まれた郭跡を窺うことも出来る。直ぐ隣接する峰出城との関係までは調べるまでには至っていないが、堀切道を隔ててここまで隣り合わせだと一城別郭とした一族郎党の居城であったとも想像出来るし、当時においては堀切道もなかったとすれば図に示す様に本来は繋がっていた城跡であった可能性も充分考えられる。どちらにしても伊賀においてここまで山奥の辺境の地にある城跡としては規模も大きく、無名に近い一士豪によって築かれた城跡にしては大した城普請でもある。二城併せれば是非お薦めしたい物件と言えるものである。

1route 登城ルート

4 城跡遠望

7_tozanguti

直登口

2z8 3 城跡概念図

13_shukaku_nisi_dorui 主郭西土塁

14_shukaku_minami_yagura 主郭櫓台土塁見所

21_2jyuu_hori_1 24_horikiri_dorui_1 二重堀切全体像見所

23_dai_horikiri_2 二重堀切1

31_nisi_gedan 西郭群

25_minami_kaku_1 南郭

28_sanjyou_kaku_1 山上郭

2009年2月13日 (金)

峯出城跡(三重県伊賀市)

この城跡は三重県伊賀市老川にあって、先に訪問を終えた小竹氏城とは直線にして3km山中を北東に移動した似たような立地条件下(山中丘陵上)にあり、同日訪問となった奥ノ谷城とは堀切道を挟んで隣接している。城史に関しても城主に関しても詳細は不明

城跡へは小竹氏城を起点にすれば説明し易いが、一般道691号から767号へと進入すればルート図の如く「青山文化センター」を目指して進行、道路沿いには道標もある事から場所の確認は容易い。車は個人的にはセンターの駐車場に停めたが、更に城跡側に上れば路駐可能な場所は沢山あったようには思われる。民家の畑地背後(西出郭)から上れば一通り城域を見て回れるが、直ぐにでも主郭に到達出来るのは写真に示す目印となるカーブミラーのある場所からで、一番手っ取り早く主郭までは辿り着ける。

現状(一月)城跡は草木に邪魔をされることもなく、見通しも良く非常に見て回りやすい状態にあり、残存状態も非常に良く小規模な丘城(居舘跡か?)である事も相俟って遺構はほぼ判別確認が容易となっている。城域は主郭から二本の堀切を経て痩せ尾根上に出郭(墓地)、更に南西側民家近くの農作地までは及んでおり、その間には土塁虎口?などの遺構も目に留まる。見所は主郭内における状態の良い櫓台土塁、周囲を巡る土塁で、全体像が拝める状態にあるので非常に醍醐味を感じる事が出来る。規模は小さいがこの山奥山中にひっそりと眠る、ほぼ完存と呼んでもよい主郭周りの遺構は非常に価値のあるものと自分の目には映った。

今回の訪城もそうであった様に今まで訪れた伊賀の城跡のほとんどに城跡と個人ネームの記された青いタグが木に掲げてあり、それが目に留まる事によって個人的には励みともなり、更に城跡の呼称を確認する上で非常に助かっているのが現実でもある。自分と同様にここにも無名に近い城跡を訪ねる山城ファンがいるのだと思うとなぜか青いタグに親近感を覚えてしまうのである。尚、奥ノ谷城跡は次(現在編集中)でリポート掲載に及ぶ予定。

1route_4 登城ルート

5_1 城跡遠望

6_tyokuto_kuti_1 直登口

3m1 城跡概念図

11_nisi_horikiri_1 西出郭側堀切

16_fuku_kaku_1 副郭土塁

17_dai_dorui 仕切り大土塁

23_shuui_dorui 23_shuui_dorui_1 主郭周囲の土塁

20_yaguradai_1 20_yaguradai 櫓台大土塁見所

2009年2月11日 (水)

山村氏城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市上林にあって地区内にある神戸小学校の北東側の丘陵上が城跡、山村氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは阪神側から向えば西名阪道「上野東」ICが最寄の乗降口、国道422号より南下し伊賀丸山城跡を左手に見ながら更に南下、神戸小学校の西側にある信号機付き交差点が見えてきた地点(手前50m付近)からルート図の如く「持沸寺」側に左折して城跡進入口となる道沿いにあるゲートボール場付近まで進行、駐車スペースは充分付近にあるので畑側からそのまま城跡側へ進入すれば直ぐに城域となっている。

現状(一月)城跡は全域が冬季にも拘らず自然任せの凄まじい雑木藪地と化している。それでも落葉樹が多い為に枯れ木も多く、郭内の移動は余り難渋もせず充分可能な状態と言えるが、見通しは非常に利き難く遺構群も相当傍まで寄らないと判別確認には難渋する状況となっている。特に一番肝心な遺構でもある主郭周りを巡る土塁は、郭内からは枯れ枝に邪魔をされて全体像を拝む事はほぼ不可能であり、広さなどを視認によって確認する事も不可能となっている。全体的に城跡をみれば丘上全域がほぼ削平地となっており、ただむやみに広いだけで広さを体感する事は出来るが、見て回る分には非常に大味な城跡に感じられる。城跡の見所としては規模の大きい主郭周囲を囲む分厚い土塁、主郭北西隅に設けられた掛田城跡でも見受けられた穴倉状になった方形土塁構造物は挙げられるが、他にこれといった見応えのある遺構が少ないのも確かな現実であり、特別縄張り妙味もあるわけではないので個人的には余り印象に残らない城跡となってしまった。後になって思うには同日訪問した掛田城跡が予想を超えて見応えがあり、更に縄張り妙味もあった事から余計此方が霞んで見えたのかも、、、ただ遺構残存度は自然任せで長い年月経過していると見受けられる為に非常に高く、ほぼ完存と言っても差し支えないものと目には映った。

城跡は現状から予想しても夏季の訪問は絶対に避けるべきだと思われるが、恐らくこれから先も人の手が入るとも思われないのでむしろ冬季限定と言った方が良いのかも知れない。

1route_3 登城ルート

6_2 進入口

3y 城跡概念図

15_nisi_kaku_minami_dorui_1 二の丸南側土塁

25_ygura_dorui 25_ygura_dorui_3 穴倉構造物の土塁見所

27_shukaku_dorui 27_shukaku_dorui_1 主郭土塁内壁

28_shukaku_nai_1 主郭内

30_shukaku_heki 主郭切岸

29_shukaku_minami_karabori 主郭南側空堀

2009年2月10日 (火)

掛田城跡(三重県伊賀市)

最初に、この城跡は比較的残存状態も良く山上郭群を併せた規模には相当なものがあり、付近には直ぐ民家が迫ってはいるが遺構はほぼ当時の状態のままであるとも見受けられるもので、残存度は非常に高く、更に見応えのある事からも是非訪問をお薦め出来る城跡の一つである。城跡は富増氏の居城を伝えるものであるが詳細は不明

城跡は伊賀市青山町下川原にあって、阪神側から向えば西名阪道「上野東」ICが最寄の乗降口、国道422号を走り「阿保」交差点より国道165号に進入すれば東進、登城口目印となるのは「下川原」バス停で、そこから東数10m先右手にある自販機の並ぶ民家とガレージの間の細い路地(数m)を抜けて石段を上れば既に城域となる。尚、自販機横辺りには路駐出来る路肩スペースもあるので駐車に気を使う事は無いと思われる。1route_2

現状(一月)城跡は植林地となっているので見通しは利く状態にあり、主郭土塁上などの様に部分的には低い笹や草木の生い茂り地表も見えない箇所もあるが、遺構はほぼ判別確認出来る状態にあると言って良いものである。城跡は居館跡とも見て取れる主郭から山上郭に至るまでが城域と見受けられ、山上には社殿は建立されているが背後は土塁、空堀跡(相当埋もれている)が窺われ、更に東へ削平地として大規模な郭跡が広がっている。数箇所の郭壁には切岸も窺われるので、当時においては麓居舘郭群及び山上郭群の二段構の構造が想像出来るものでもある。5 3k

城跡概念図

見所はやはり主郭回りの遺構で、主郭虎口には櫓門があったかのような見事な大土塁が聳え立ち、土塁底部には土留め石まで眼にする事が出来る、石垣痕は主郭周囲土塁の至る場所で見受けられるので、案外周囲は石垣で固められていた可能性はあるのかも知れない、、ほぼ方形に近い主郭内南隅には土塁で囲まれた天守(櫓台)としての機能を持った、穴倉(8m四方)の様にも窺われる構造物が存在しているが、機能は推察するのみで他に余り類を見ない(伊賀山村氏城にも現存するが、、)ユニークなものでもあり、一見の価値のあるものと目には映った。大堀切を越えれば東郭群と呼べる現在多少傾斜地になってはいるが郭跡が窺え、土塁虎口跡を伴う郭まで存在している。探せば城跡の至る所に土塁が設けられているが、これらは城跡の見所であると同時に堅固さも充分窺えるものでもあり、想像力が掻き立てられ更に縄張り妙味も尽きる事がなく非常に目を楽しませてくれている。伊賀にあってはよく見受けられる方形居舘跡の域を遥かにはみ出た城跡なのである。

10_oote_koguti_he 大手虎口大土塁

11_koguti_temae_dorui_karabori_2 虎口手前空堀土塁見所

15_yagura_isi_1 虎口土塁の土留め石

18_shukaku_kita_dorui 主郭土塁

23_anagura_koguti 穴倉構造物虎口見所

28_dai_horikiri_4 大堀切見所

40_yagura_nisidorui_karabori 主郭西側空堀土塁

35_higasi_kaku_dorui_koguti 東郭群

46_dorui_haigo_yori 山上郭土塁壁

2009年2月 7日 (土)

喰代氏城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市喰代(ホオジロ)にあって既に訪問リポートの終えている奥氏城跡から見れば小川を挟んで北西に位置する丘陵先端が城跡、喰代氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡へは阪神側から向えば西名阪道「上野東」ICあるいは「中瀬」ICが乗降口、県道56号に進入すれば分かり易く到達出来、ほぼルート図の如く喰代集落を目指せば付近には案内道標の設置されている百地丹波城跡もある事から位置関係は把握出来るはずである。小型車であれば奥氏城跡西側小川付近に路注スペースはあるので、そこからは写真に示す進入口より住宅地脇をかすめて上れば難なく副郭までは辿り着ける。尚、進入口はルート図に示される様に北側山道からも可能であり、県道2号線(永井氏城跡側)を利用して北から進行して来た場合はこちらの方が早く城内に進入出来るとは思われる。

現状(一月)城跡はほぼ竹薮となっており全体の見通しは非常に悪いが、移動に支障を来たす訳ではないのでほぼ二郭で形成されるシンプルな城跡の遺構は判別確認が容易に出来る状態にはある。見所として挙げられるのは主郭三方を覆う伊賀特有でもある巨大且つ幅のある高土塁、あるいは主郭の東西を断つ堀切で、土塁の高低差は7~8mはありそうで相当な見応えを感じ取る事が出来る。現状高土塁は堀切を挟んで副郭背後まで延びているが、それより先は直ぐ民家となっているので当時の副郭の形状は見る人の想像に委ねられるのが現実でもある。西側は堀切を挟んで物見と見受けられる規模の小さい北郭跡へ繋がっているが、現状相当藪化しているので郭内に進入するのは非常に難渋を極める。(この郭跡には低土塁は窺われたが特筆するべく遺構はないように思えた)訪問を終えて感じられる事は「流石に伊賀の城跡の土塁は半端ではなく凄い!」という事になろうか、、

尚、前述の百地丹波城跡、奥氏城跡、永井氏城跡と併せて訪問した場合、四城共に移動距離も少なく近距離にあるので個人的には年を別にして訪れたが、効率よく動けば案外同日訪問が可能であるのではないだろうか。

1route_3 登城ルート

5 進入口

3_2 城跡概念図

7_kaku 東副郭

10_horikiri_1 中央堀切見所

12_dorui 副郭土塁

17_shukaku_dorui_2 主郭土塁上

31_shukaku_dorui_heki 主郭内土塁壁見所

32_shukaku_jyoudan 主郭内

19_nisi_horikiri_dorui 西堀切土塁見所

24_horikiri_demaru_e 北出郭へ堀切

百地丹波城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市喰代にあって、この地域は奥氏城、吉田氏城、喰代氏城、上山氏城と特に城跡が密集している地域でもある、其の中にあっては一番名前が有名でもあるこの百地丹波城は青雲寺(郭跡の転用地)の西側背後に位置しており、個人的には年を別にして訪れてはいるが、見所は高低差のある大土塁と虎口程度でさほど印象に残っていないので、訪問リポートの掲載も今日まで随分遅れてしまった経緯がある。

現状(七月)主郭周囲は寺院敷地あるいは農作地と化しており相当地形改変が窺われ、現状を見る限りでは二郭跡のみが唯一往時を物語る遺構として、見学対象となりうるものと見受けられる。主郭虎口南側にも池に繋がる当時の水堀らしき跡が見受けられたが、草木に覆われており判別は難しい状態にある。現地縄張り図には東側の小高い丘上にも郭跡が記載されてはいるが、この草木で覆われた状況ではまず移動も出来ず確認も困難である事が予想された、しかも更に追い討ちをかけるように猿が大量に押し寄せてくる始末(地元の方が遠くから大声で知らせてくれた)で、結局東側は踏破する事は断念した。

個人的には整備されていなくても少々藪状態であっても往時の状態のままを見学したかったのだが今となってはそれも叶わず、城跡としては多少物足りなさは感じられたが、一般見学者にとっては整備(主郭の案内板付近のみ)されている事に越した事はないのでこれでよいのかも知れない。訪問した時期が悪かったせいもあるが、個人的には北側の農作地を隔てて隣接する整備されていない奥氏城跡、喰代氏城跡の方が遥かに城跡としての魅力を感じられた。

尚、喰代氏城跡に向かう冬季訪問(一月)の際にも一帯に大量の猿を見かけたので、なるべく目は合わさないように立ちサルのが一番得策かとは思われる。

1z2 登城ルート

2_1 現地案内板より

3_3 現地城跡縄張り図

5_horikiri_kakud 当時の堀切跡か?

12_koguti 主郭虎口

15_higasigawa_dorui 主郭東側土塁

16_daidorui_1 主郭北虎口側土塁見所

20_horikiri_1 中央堀切見所

23_horikiri_kitagawa 堀切北虎口

26_kakub_nai 東郭

2009年2月 6日 (金)

岡島砦跡(三重県伊賀市)

この城跡は現地の稲荷神社入り口に「岡島砦祉」と表札があったように岡島氏の居城と察せられるが、現状手元にある文献などで調べてはいるが岡島氏城あるいは岡島砦祉として掲載されておらず、今回はそのまま現地呼称を使いリポート掲載に及んだ。

城跡はルート図が示す様に「前山城跡」の南側丘陵上に位置(中村地区)しており、結果的には轟城跡を起点として歩いての三城同日訪問となった。城跡へはほぼルート図の如く進行すればよいが、写真に示す城跡南側進入口から稲荷神社が建立されている城跡までは参道が通じているので5分内で到達出来る。

1route_2 登城ルート

6 参拝道進入口

Oka1 二城の位置関係概念図

3 城跡概念図

現状(一月)丘陵上は神社がある事からある程度整備されており、主郭に相当する東西櫓台と見受けられる大土塁に挟まれた郭跡から、東西尾根に向いての城跡遺構はほぼ判別確認出来る状態にある。主郭周囲に土塁が回っている事からも館城の性格は感じられるが、伊賀特有の高土塁は使用されておらず、形態としては通常の山城に近いもので東西に渡る尾根上はほぼ郭跡によって占められている。現在主郭西側の土塁上、社殿の建っている場所が櫓台を転用したものと見受けられ、西側に向いて規模の小さい段郭群が形成されているのが見て取れる。中央堀切を挟んで東側尾根上には切岸処理の見られない削平地が広がっており、更にその南側にも規模の大きい削平地がある事からも城域は意外に広く、砦跡にしてはその域は出ている様にも感じられた。

11 主郭東櫓台へ

14_shukaku_heki_isi_1 主郭石垣跡見所

15_shukaku 主郭内

20_shikaku_dorui_1 主郭土塁

18_shukaku_nisi_gawa_1 主郭西櫓台切岸

31_nisi_yagura_gedan 西段郭群

28_higasi_kaku_gun_1 東尾根郭群

城跡は後世に神社が建立されることによってどれだけの地形改変があったのかは想像に委ねられるが、神社の世話をしておられる地元の古老に聞いた話では、主郭の側壁の石垣(高さは無いが数10mに及ぶ)は当時のものであり、丘陵上における城跡遺構もほぼ当時のままであるとの見解であった。

個人的には三城同日訪問した事によって鳳凰寺地区三城の形態及び機能の違いもある程度推察する事が出来、非常に充実した山城巡りになったが、この隣接する三城の関係までは謎のまま終わりそうに思える。

2009年2月 5日 (木)

前山城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市鳳凰寺にあって先にリポート掲載に及んだ轟城跡からは真南に位置する丘陵上先端が城跡、薬師寺(駐車場)からは既に望める位置にあり、歩いて移動しても5分程度で城跡へは辿り着ける。別名「十市屋敷」と呼ばれている様にかつては十市氏の居館であったと解釈して良いのかも知れない。

城跡へは轟城を起点にすればルート図の如く歩いて移動、写真に示す道路突き当たりにあるカーブミラーと「鳴塚古墳」道標の間よりガレージ敷地をかすめて進入すれば直ぐ到達出来る。

現状(一月)城跡は主郭内及び西民家側は竹林地と化しており見通しは利き難いが、他は植林地となっているので下草も少なく、ほぼ単郭構造である為に縄張りは把握し易く遺構も判別確認し易い状態にある。見所は伊賀の城跡に共通する分厚く高低差のある巨大土塁と東堀切から西へ繋がる空堀で、幅のある土塁最高所には背後に土塁が備わる櫓台遺構も残存しており、主郭回りの遺構は空堀も含めてほぼ完存の様にも窺える。大堀切から繋がる空堀は現状数100年レベルの堆積物によって相当埋もれてはいるが、土塁を伴う分多少高低差があり、当時は相当深く掘削されていた様子が想像出来る。ほぼ単郭構造とは言え、主郭回りに凝縮された遺構群は状態も比較的良い事から充分見応えを感じる事も出来、轟城跡と同日訪問する事によって二城の機能、あるいは形態の違いなども理解する事が出来るので、更に城跡巡りが楽しく充実したものになるのではないだろうか。

規模も小さく縄張り妙味もある城跡とは言えないのだが、個人的には高低差を伴った迫力のある巨大土塁を眺められただけで充分満足感に浸る事は出来た。昨年までは丹波から但馬方面の山城巡りが多く、直立した高低差を伴う切岸に圧倒されっぱなしであったが、城跡規模に関係なく伊賀地方独特の巨大土塁の前には、それも多少霞んで見えてしまうのは新鮮さゆえの事か、、

1route 登城ルート

6tozanguti 城跡進入口

3m 城跡概念図

9_hokusei_dorui 北西空堀土塁

11_kita_kaku 北西郭

15_shukaku_dorui 主郭巨大土塁見所

17_yagura_dorui_1 櫓台見所

20_shukaku_nai 主郭内

24_higasi_daihorikiri 東大堀切見所

29_shukaku_nannsei_gedan 南西下段郭

2009年2月 4日 (水)

轟城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市鳳凰寺にあって、付近道路沿いにも案内道標のある「薬師寺」の北背後の丘陵上が城跡、城史に関しての詳細は不明

城跡へは阪神側から向えば西名阪道「中瀬」ICが乗降口、そのまま国道163号を東に向かい、先にリポート掲載の終えた永井氏城跡に向かう為に右折した交差点は県道2号へ逆に左折する。後はルート図の如く一筋目を右折して薬師寺を目指せばよい、車は空き地に駐車可能であり、そこからは写真に示す公民館と民家の小道からすぐ北の丘陵を目指して直登すれば、5分内で土塁に囲まれた南郭には辿り着ける。

1route_3 登城ルート

4a_1 進入口

3_2 城跡概念図

この城跡は防備としての土塁を多用した本格的な土塁城で、到達地である南端郭から北側に望まれる郭跡の東面は全て土塁が備わっており、分厚い土塁から薄い土塁まで明確に見て取る事が出来る状態にある。その西面は主郭切岸壁となっており10m以上はありそうな相当高低差のある郭壁によってより堅固に守備されている。山上主郭は規模も大きく高さは相当失われているが分厚い土塁が周囲を囲んでおり、更に櫓台と見受けられる土塁壇も見て取れる。背後には当然堀切が設けられており独立性が保持されており堀切を挟んだ北側にも更に副郭が備わっている。一文献によれば「轟西城も同じ丘陵を共有しており西に位置する」とあったが、幅も深さも伴う見応えのある大空堀を挟んだ西側の規模の大きい郭跡がそうであるように思われた。空堀側背後は高土塁によって守備され郭隅には櫓台と見受けられる土塁壇が遺されている事からも、まず西城として間違いのない処ではあろう。城跡の見所としては個々の郭跡に必ず窺われる状態の良い土塁、郭切岸、西城との郭境に備わる大空堀、更に西城に至るまでの縄張り妙味も挙げられ、丘陵上にありながらも山城の醍醐味を感じる事も出来、遺構も次から次へと期待を持って飽きることなく見て回る事が出来る。

8_minami_dorui_kaku_1 到達地の南土塁郭

10_dorui_kaku 東大土塁見所

12_kaku 東郭群見所

19_shukaku 主郭内

18_shukaku_dorui_dan_3 主郭土塁壇

21_kitakaku_yori_shukaku_heki 副郭より堀切壁

23_nisigawa_karabori_1 西郭空堀見所

28_nisijyou_karabori_1 西城大空堀見所

29_nisijyou_dorui_1 西城大土塁

現状(一月)主郭回りは植林地でもある事から下草は少なく非常に見て回りやすい状態となっており、遺構もほぼ判別確認可能な状態にあるが、西城は相当雑木に覆い尽くされているので郭跡などは外見から確認するのが精一杯の状態でもある。更に空堀を挟んだ北側も同様な状態にある事からも踏破は無念ではあるが断念に至る。

現地に赴くまでは勝手に小規模な方形館城を想定していたのだが、城跡は規模も大きく予想を遥かに覆すほどの状態(本郭群のみ)にあり、遺構残存度も非常に高いと見受けられる事からも、個人的には充分推奨に値する城跡と目には映った。

2009年2月 2日 (月)

永井氏城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市出後にあって集落にある萬像寺より真南側に位置する低山の山上が城跡、永井氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡へは阪神側から向えば西名阪道「中瀬」ICが乗降口、そこから国道163号をしばらく東へ走り大山田地域から県道2号へ右折進路変更する。後はルート図の如く萬像寺(公民館)を目指せば駐車も可能となっているので、到着後そこから真南側に位置する山を目指せば15分もあれば山上主郭までは辿り着ける。

麓進入口からは神社参拝道を経由し、「中出山城」と比定される城跡遺構を見学する事も可能ではあるが、現状においては広大な地域に後世の神社跡の石垣跡、あるいは敷地(郭跡の転用)、郭切岸、大型土塁などが目に留まるだけでどこまでが当時の城跡遺構であるのか、あるいは城域であるのかは判別が非常に難しいのが現実でもあり、案内板も設置されていないので自分の目で見た中で判断するのが一番良いのではないだろうか。

永井氏城跡へはそのまま南に上れば到達出来るが、これは凄い!堀切を越えた主郭周囲を囲む巨大土塁(高低最大10m近い)は言葉にならないほどのもので、当時のままとも見受けられ、ほぼ完存に近い形のものを拝む事が出来る。更にこれだけ見通しが良く主郭を取り巻く土塁全体像あるいは虎口まで拝める城跡は中々他では見当たらないものでもあり、伊賀独特でもある圧倒的迫力の高土塁は周囲を更に空堀で囲み、更に周囲は低い土塁でより堅固に防備されているのが見て取れる。主郭の東西には規模の大きい郭群が麓まで連なっており一見家臣団の屋敷跡とも想像させられ、単郭館城を越えた比較的規模の大きい山城と見受けられるものでもある。

1route_2 登城ルート

4tozanguti 進入口

3 城跡概念図

現状(一月)城跡は下草は相当蔓延ってはいるが、植林地である為に主郭より東側は見通しもよく郭跡(切岸)、石垣痕などの判別確認は容易な状態にはある、しかし西側は郭跡及び空堀土塁跡を含めて相当な雑木藪地となっており、遺構の視認判別は外見からは難しく、多少の藪漕ぎ覚悟で臨まなければ判別確認は出来ない状況下にある。それでも主郭の巨大土塁と堀切は他の遺構の全てを消し去るほどの存在感で迫ってくるものでもあり、個人的にはこの遺構だけで充分満足感には浸る事は出来た。それにしても伊賀地方の城跡は規模は小さいものの分厚い土塁の高さには圧倒されっぱなしで、遺構の見応えにおいてはどれも相当なものがあるのは確かである。

10_kita_kaku_1 北郭

14_kita_dai_horikiri_2 大堀切見所

18_shukaku_kita_heki 主郭内土塁

21_koguti_yori_shukaku 主郭虎口土塁見所

41_nisi_karabori_dorui_2 主郭西空堀土塁見所

32_higasi_gedan_dorui 東郭群2

34_isigaki_ato_1 東郭2の土塁石垣跡見所

2009年2月 1日 (日)

我山城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市上神戸我山にあって、集落より西側後方の山に位置している。当時伊勢国司でもあった北畠具教の弟である具親の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは阪神側から向えば西名阪道「上野東」ICが乗降口、国道422号をそのまま南下し上林地区にある神戸小学校西側の橋を渡り我山集落に向う。後は説明し難いのでルート図を参考にして頂き、写真で示す道路沿いからの直登山口を目指せばよい。(車は付近路肩に路駐するスペースが多少ある)

この城跡は北畠一族の築城したものと聞いていたので、伊賀に赴いた際にはどうしても訪ねてみたい山城の一つであったが、結果的に現状(一月)冬季にも拘らず、近年人の手の全く入らない城山として雑木は生い茂り、地表は自然任せの荒れ放題と化しており、郭間の移動は極めて困難、尚且つ覆い尽くされる雑木によって見通しは利き難く、外見から遺構の判別あるいは郭形状などの確認は非常に困難を極める状況となっている。特に山上本郭においては倒木あるいは長年の堆積物によって地形から郭構成を判断するのはほぼ不可能な状態でもあり、他の遺構及び縄張りを把握する為に木々の隙間を縫っての進軍は余儀なくされたが、自作城跡概念図にある郭跡、土塁、堀切などは何とか確認する事が出来た。もちろん北側麓まで展開されているであろう城跡全体の踏破は出来なかったが、山上で形成される郭跡はほぼ踏破し、そこに備わる遺構はほぼ確認する事は出来た。

視認し辛い中でも敢えて見所を挙げるのであれば、郭跡を除けば高低差は失われているが分厚い土塁といった処で、現状からでも山城を得意とする北畠氏の城跡の雰囲気は充分味わう事は可能であり、個人的にはある程度の満足感に浸ることは出来た。しかし予想を覆すほどの藪城でもあり、納得のいく見学が出来なかったのは残念ではあるが、これが数100年の時を経た厳しい山城の現実でもあるのである。

注)訪城の際には城跡縄張りが四方尾根に広がるものでもあり、更に見通しも利き難くいので位置確認の為に方位磁石は必ず携帯する必要がある(登城は容易であるが下山時に尾根を間違えると山中を徘徊する事になる) 夏季の訪城は絶対に禁物!

1route 登城ルート

4_2 南より遠望

5 直登進入口

3wa 城跡概念図

7_higasi_one_ue 東尾根上削平地

11_kitakaku_dorui_1 北郭土塁

12_kita_gedan 北郭下段の祠

13_kita_sakuheiti 北削平地

20_nisikaku_dorui 西郭土塁

19_horikiri_dorui_1 堀切土塁

2009年1月30日 (金)

小竹氏城跡(三重県伊賀市)

この城跡は三重県伊賀市種生にあって非常に山深い、現在でも当時においても伊賀の中でも辺境の地と言わざるを得ない、隠れ里の如き山奥の更に又山奥に位置している。もちろん小竹氏の居城であるが詳細は不明、しかし伊賀の一士豪にしては似つかわしくない規模の大きい山城でもあり、この辺りは標高は高いとは思われるが現地においては比高は大したものではなく、ほぼ丘城と言っても良い城跡かも知れない。情報皆無に近い城跡でありながら、結果的には自分の予想を遥かに超えた見応えのある素晴らしい遺構群が現地には残存しており、いち早く鮮度の高い城跡の情報を掲載する運びとなった。

城跡へは西名阪道「上野東」ICが最寄の乗降口、国道422号で南下すれば「阿保」交差点より県道39号に進入して更に南下する。後は目印でもある「常楽寺」あるいは「種生神社」をめざして進行し、神社向の道から図に示す直登口まで車で上る。峠切り通し道付近には路駐スペースもあり、そこから取り付けば直ぐ城跡南端に位置する南出郭までは到達出来る。

現状(一月)城跡は低い笹あるいは雑木も相当蔓延ってはいるが、郭内の移動も容易に出来、遺構の判別確認には余り支障は来たさない状況にはある。道路脇から取り付けば直ぐ南出郭の堀切が迎えてくれるが、これは当時のままとも思える素晴らしい状態が自然保持されており、10m下の畑地まで縦堀となって落ち込む様は正に圧巻の一言に尽きるものでもある。この出郭から50~60m先の主郭堀切まで高い切岸を伴う土塁道を通って主郭に向う構造となっているが、主郭は後で訪問リポートを掲載する事になる永井氏城跡の縄張りにも酷似しており、分厚く高低差(内壁最大10m前後)のある巨大土塁は上部に更に櫓台とも見受けられる土塁も備わり、前述の堀切と周囲を取り巻く空堀土塁と併せて城跡最大の見所ともなっている。

主郭の北側堀切を越えれば更に広大な一部切岸の窺われる削平地が北西側に連続しており、城跡の規模を計り知る事が出来るが、この城跡は規模の大小に関係なく現存する遺構の素晴らしさであり、見応えのある遺構群の前には圧倒される事請け合いでもある。伊賀でも更に辺境の地にこれだけの城跡が存在している現実に驚きは隠せないが、現地における状況から考えても生産性の上がる広い水田地域はほとんど見当たらず、統治する領内においても全く利便性の無いこの地を築城地に選んだ事が全く理解出来ないのも現実である。個人的には現在ベストの状態と思える冬季に是非見学してもらいたいと思う、正に推奨に値する城跡と断言出来るものである! 

1route 登城ルート

4 城跡

3ko 城跡概念図

6 直登口

10_horikiri_2 出郭より南大堀切見所

11_minamikaku_dorui_2 南郭大土塁見所

11_minamikaku_dorui 主郭へ土塁道

20_shukaku_2 主郭の現状

18_shukaku_dorui_1 主郭虎口大土塁見所

19_yokobori_yori_kita_kaku_1 主郭北堀切より北郭群

27_kita_kaku 北郭

23_koguti 主郭虎口

2009年1月27日 (火)

近津長谷城跡(三重県多気郡)

三重県多気郡多気町長谷にあって城山のほぼ山上に位置する「近長谷寺」の北背後の山の山上が城跡2x

城跡へは伊勢自動車道「勢和多気」ICが乗降口で一般道702号から丹生大師を目指して北上する、丹生大師手前から東に向いて近長谷寺に向う道があるが道標がないので注意が必要であるが、寺院さえ目指して進行すればとりあえず辿り着く事は出来る。道路行き止まりの駐車場からは少し上れば寺院となるが、社殿背後には城跡の案内板及び道標も設置されているのでそれに従えば迷わず山上主郭へは到達出来る。

現状(一月)城跡は山上主郭までは快適に遊歩道で上れるが、周囲は全て雑木笹藪によって覆い尽くされており、当然眺望は全く利かず他の郭跡への移動は難渋を極める状態にある。それでも木々の比較的少ない西側へ下りると土塁を伴う立派な空堀を拝む事が出来、更に周辺には下草で覆われてはいるが郭跡が目に留まる。現状移動及び視認出来る範囲は限られてくるが、主郭北大堀切(外見から判断)側から延びる二本の堀切は、大土塁を頂点として西側へ放射状に縦堀となって豪快に谷まで落ち込んでおり、それに挟まれる形で郭群が形成されているのは見て取れる。この見応えのある遺構も全体像を鮮明に窺う事が出来ないのが少し残念ではあるが、この現状を考えれば仕方のない事か、、

城跡は冬季にも拘らずこの状態であれば、夏季の訪問は絶対に禁物!全体像などを把握する事は当然不可能とも予想される。個人的に訪れた数ある山城の中でも五本の指に入る藪城でもあり、これから先も良い状況に変わるとはとても思えない。しかし一人の山城ファンとしては山上までは遊歩道で上れるのであれば、せめて見通しの利く状態にまでは改善して欲しいと願うのみである。

結果的には城跡全体の恐らく1/3程度しか見て回る事は出来なかったと思われるが、個人的には二本の大堀切によって山城の醍醐味は感じる事が出来たので、期待していなかった分まずまずの訪城と言えるのかも、、、しかし見応えのある堀切画像が残せなかったのが非常に残念な処ではある。

1routo 登城ルート

9_tozanguti 登城口

K_6 主郭土塁虎口

K_8 主郭

K_11 西空堀

K_27 西郭跡

K_20 堀切見所

2009年1月26日 (月)

坂内城跡(三重県松坂市)

城跡は三重県松坂市阪内町脇谷にあって、国道166号を経由して県道29号より阪内川に沿って西に向う。2kmも走れば目指す坂内神社に辿り着けるが、登山口は其の少し手前に「天守、ガイコツ峠」の矢印の入った看板のある場所からであり、車は個人的には路駐したが神社西側の居館跡地とされる「子育て支援センター」の広い敷地に駐車可能だと思われる。1route_2

登城ルート

30_yakata_ato

居館跡地「子育て支援センター」

2a_2 敷地内の案内説明版より

登山口からは道に任せれば15分程度で山上郭群には到達出来 るが、途中に道標などは無いので山道分岐点は山側を目指して上れば良い。現状遊歩道整備中でもあり、何れにしても案内道標は近いうちには設置されるのではないだろうか。

現状(一月)かつて「天守」と呼ばれた山上郭群は城址碑あるいは休憩所も建っており整備されているが、詰城とも呼べる非常に小規模な山上郭であり、南側斜面と西側斜面に小さな郭が付随するだけの山城跡である。遺構としては郭跡、南北斜面には土塁を伴う二重堀切、主郭東壁には石垣跡、登山道中の中腹に小規模な郭跡程度であるが、これだけ急峻な山上斜面に堀切が設けられている事で、多少でも山城の醍醐味に触れる事は出来る。ただ東壁に少し残る石垣跡に関しては非常に古そうに感じられたので、個人的には当時の石垣跡と決め付けたが、過去の調査結果を知らない為に推察の域は出ないものでもある。

見学の際にはくれぐれも麓登山口看板にある「天守」と言う名、あるいは北畠一族の城跡であるという事から過剰に山上郭群を期待してはいけない、前述の様に詰城あるいは物見の機能を担ったと見受けられる小規模な郭群なのである。個人的には予備知識もあり想定内には納まったが、二重堀切及び石垣の存在までは想定外であった為に非常に嬉しい誤算となり、改めて訪ねた甲斐があったと、後で一人で納得するのである。

5tozanguti

登山口

3sa 城跡概念図

12_shukaku 山上主郭

18_isigaki_1s 石垣跡見所

20_nisikaku 西郭

24_kita_horikiri_2 北堀切見所

27_2jyuu_horikiri2_1 南二重堀切の2見所

2009年1月25日 (日)

五箇篠山城跡(三重県多気郡)

三重県多気郡多気町古江にあって、町の中心部を流れる川を隔てて南側に位置する、独立した山塊の山上全域が城跡。野呂氏代々の居城と伝わるが詳細は不明2z

城跡へは伊勢自動車道「勢和多気」ICが最寄の乗降口、そこから国道368号を経由すればルート図の如く進行、迷わず丘陵上に建つ図書館向側の登城口までは辿り着ける。目指す山上郭(主郭)へは公園化されている事からも、遊歩道を上れば5分程度で到達出来る。

最初に到達した木々の無い眺望の利く郭跡が主郭に相当するものと思われ、周囲は土塁で囲まれた跡があり、東側は二重堀切(二重土塁)によってより堅固に構築されている。主郭は北麓道路上からも既に望む事が出来、裸山に近いので当時に思いを馳せる事も容易な状態にあるが、二重堀切を越えて東側は遊歩道によってある程度縄張りは把握可能なものの、北側帯郭内は前面竹林地、東一、二郭内は雑木矢竹密生地と化しており踏破は非常に困難、おまけに地表も見えない状況となっている。もちろん郭内の遺構に限っては視認も出来ないので確認は不能でもある。それでも郭間に施された高低差のある直立に近い切岸及び堀切は状態も良く城跡の最大の見所ともなっており、郭を連続して堀切で分断しただけの単調な縄張りプランではあるが、この山上に掘削された五本の堀切は非常に見応えがあり、主郭の状態の良い土塁と並んで城跡を語る上では一番誇れる遺構群であると目には映った。願わくば状態の良い主郭と同様に東郭跡も木々の伐採を行って、外見から覗いても容易に当時の山城が想像出来る状態にまで整備して欲しいものである。(規模もそれほど大きくはないので、やる気があれば充分可能とは思われる)

しかし他の県指定史跡に認定された山城のことを考えれば、ここまでの状態が保持されているのであれば文句も言えず、山城遺構を後世まで遺そうとする意欲は充分表れているので個人的には非常に好感が持てた。駐車場からも直ぐ上れてお手軽に山城を味わう事が出来、遺構残存度も非常に高いと見受けられるので、間違いなく訪問をお薦め出来る物件の一つと言う事にはなる。

1route 登城ルート

3go 城跡概念図

8 山上へ

16_gedan_yorishukaku_e 主郭南下段

19_shukaku 主郭土塁見所

19_shukaku_2 主郭

24_dorui_higasi_horikiri 二重堀切の1

27_2kaku_horikiri_1 東2郭の堀切

29_2kaku_higasiheki 東2郭切岸

32_higasi_horikiri 東端大堀切見所

2009年1月10日 (土)

高城跡(三重県松坂市)

城跡は三重県松坂市大阿坂町にあって、ルート図の如く県道58号より農機具店の南側数10mより西に向う細い道路に進入、後は西側の大池までそのまま向かえば池そばの空きスペースに車は駐車可能、そこからはほぼ直立した郭壁に木々の隙間から縦堀も窺われるが、よじ登るのは少しきついので図に示す箇所まで歩けば、山道から城跡まで進入する事が出来る。もちろんこの辺りより既に城域でもあり、一面笹で覆われた地表の見えない削平地を通過すれば、自ずと西側に位置する主郭までは到達出来る。2a

現地案内板より

現状(一月)城跡は冬季にも拘らず雑木あるいは矢竹が密生しており、主郭を除いては移動はもちろん視認も困難な状況にあり、城跡全体を見て回るには非常に難渋する状態でもある。特に主郭西側は前面雑木矢竹密生地となっており、郭の展開は予想されるが踏み入る事はまず無理で、土塁の一部を外見から確認出来る程度と思ってもらえばよい。しかし主郭においては木々も少なく見通しが利く為に規模の大きさを体感する事も出来、西土塁虎口跡、櫓台大土塁、周囲を取り巻く分厚い土塁など明確で見応えのある遺構を拝む事が出来る。主郭内の地表は凹凸も激しく人為的なものか風化の為かは判別出来ないが空堀とも窺える様な窪み地形は見て取れた。

現状東郭より東側は笹藪地帯あるいは農地となっているが、恐らく東端の農地から民家に至るまでは本来の縄張りであるようには見受けられた。進入口に選んだ辺りには外見からは直ぐに判断出来ないが、笹藪を少し掻き分けると農地を跨いで鋭角に掘削された堀切が窺われ、これは更に北側の池までも繋がっていた。ただこの見応えのある堀切は水路として近世に設けられた可能性もあるので、現状見たままを凄いと思う以外はどうしようもないのが現実でもある。城跡は見所が多いとは決して言えないが残存度の高い主郭回りの遺構群(特に分厚い土塁)は中々見応えはあり、戦国期における土塁城の姿を再現している様でもあり、この城跡遺構の素晴らしさには充分な満足感を得る事が出来た。

1route 登城ルート

3ta 城跡概念図

12_higasi_horikiri_1 東端の堀切見所

14_higasikaku_koguiti_e_1 東郭虎口

18_shukaku_e 主郭東虎口

20_shukaku 主郭

22_koguti_gawa 主郭東虎口側

25_yagura_sita_koguti_1 櫓台より西虎口見所

21_oku_nisi_koguti 奥西虎口見所

2009年1月 9日 (金)

八田城跡(三重県松坂市)

城跡は三重県松坂市嬉野八田町にあって、伊勢自動車道を走れば「一志嬉野」ICが最寄の降り口となる、そこから県道67号を南下すれば2km内に位置しており、ルート図の如く島田橋を越えれば二筋目を右折する、直ぐに左手側に丘陵(城跡)が見え、更に進めば城跡と分かる矢倉風建造物が見えてくる。ここを潜れば既に城域となるが、写真にある手前広場が駐車場なのかどうかはっきりせず(表示が無い)、個人的には公民館前まで少し戻って車は路駐した。

1_3 登城ルート

7 進入路

2x 現地案内板による城跡説明

3ha 城跡概念図

現状(一月)城跡は地元の人達の史跡に対する意識レベルの高さもあって、整備もある程度行き届いており、遺構の判別確認は容易に出来る状態にある。特に規模の大きい主郭は周囲に至るまで見通しが利く事からも広さを体感する事が出来、周囲を取り巻く分厚い土塁、一際高い位置にある巨大櫓台土塁、土塁を伴う二箇所の虎口など何れも素晴らしい状態のものを見学する事が可能となっている。縄張りは主郭に付随する二郭及び大堀切を挟んで南東丘陵上に位置する規模の大きい出郭より形成されており、小規模ではないが大きくもないレベルの城跡と感じられた。見所としては前述の主郭回り以外では主郭南側を分断する深い堀切が真っ先に挙げられ、戸跡近くまで縦堀として掘削されており、更に状態も良い事から圧巻と呼ぶに相応しい様相が窺える。南東出郭は城跡案内紙には城域にも入っておらず、現状自然任せの雑木天国と化してはいるが、明らかに削平された跡も見受けられ、東側先端に近い箇所には土橋を伴う堀切まで備わっており、当然縄張りの一部と解釈しても良さそうには思われた。尚、出郭最高所から南に下りれば深い堀切が東西に渡っているので、これも見逃してはいけない。

11_dorui_koguiti_1 登城最初の虎口土塁

20_shukaku_1 主郭

21_shukaku_dorui_1 主郭南側土塁

24_yaguradai 櫓台土塁見所

25_shukaku_minami_koguti 主郭南虎口見所

32_horikiri 南堀切見所

34_horikiri_1 縦堀全体像見所

38_ido 井戸跡

全体を見て回って感じられた事は、遺構残存度はずば抜けて高く(完存に近い)、更に遺構保全状態の良い事から遺構も判別し易く、戦国期を物語る土塁城としては最高の教本にも値する城跡だと言えるのではないだろうか。城跡は自分の事前予想を大きく超えたレベルでもあり、公園化されてはいるが遺構は破壊されておらず非常に好感が持てた。これらの事からも個人的には推奨に値する城跡として、是非訪問をお薦めしたい城跡の一つには挙げられる。

2008年12月 4日 (木)

細野城跡(三重県津市)

三重県津市美里町北長野にあって、案内板には長野氏城跡とあったが別に細野城とも呼ばれているらしく、西側の遠方山上には長野城跡が位置する事からも紛らわしいので、ここでは細野城として載せさせて頂く。城跡はもちろんかつては長野氏の居城であるが詳細は不明。

城跡へは大阪から向う場合、国道163号に進入する事が先決となる、この国道沿いに城跡は位置している事からも非常に分かり易く、道路沿いにある「美里農産物加工センター」を過ぎて橋を渡れば、すぐ左手(北側)道路沿いに案内板を見つける事が出来る。そこから東西城跡に挟まれた谷状地を北へ向えば既に城域でもあり、分岐点には道標もあるので迷わず城跡へは到達出来る。しかし城跡は東、中、西城と三箇所に分かれて郭群が配されているので、見学においては必ず三城を覗く事が大事である。三城を覗いてこそ、この城跡の縄張りの素晴らしさが理解出来るであり、更に個々の郭群の機能も窺う事が出来るのである。

現状(11月)城跡は比較的残存状態が良く、歩き易く見て回りやすい状態にはあるが、主要な郭跡を少しでも外れると藪化も激しく、竹林あるいは雑木で踏み入る余地の無い場所も多々ある。三城を見る限りにおいては、東城が街道沿いにあり利便性も含んだ監視用砦、中城がより堅固に構えられた戦闘用の砦、西城は規模も大きく居館あるいは詰城といった処か、、中でも中城が堀切、土塁などを備えており、見る分には一番醍醐味があり見応えが感じられる。城跡の形態としては三城が独立した形ではあるが、戦闘時においては三位一体となり、攻守において一番能力を発揮出来るように考えられた縄張りプランである様には見受けられた。残存状態も良く、更に縄張りも含めて充分推奨に値する、素晴らしい城跡と言える。

1_3a 登城ルート

3_2 現地案内説明板

10_oku_nakasiro_e 東城分岐点、奥は中城へ

10_isi_horikiri 東城へ、堀切

13 堀切石垣跡(当時のものか?)

18_higasi_shukaku 東城

26_horikiri 中城の堀切

30_shukaku_daidorui 中城大土塁

34_nisi_shukaku_e 西城主郭切岸

35_nisi_shukaku_nai 西城最高所

2008年11月28日 (金)

家所城跡(三重県津市)

三重県津市美里町家所にあって地区にある辰水小学校の西側にある丘陵上が城跡、家所氏の居城と伝わるが、信長の侵攻により落城した模様。詳細は不明

城跡へは大阪から向う場合、まず国道163号に進入する事が先決。城跡は民家と畑地を挟んで一般道657号にほぼ面しており、北側道路沿いの民家畑地を抜ければどこからでも縄張り内に進入する事は出来るが、通常のルートで臨めば辰水小学校よりルート図の如く南側から城跡案内板を経て、そこから上れば一番早く本郭部には到達する事が出来る。

現状(11月)、規模の大きな本郭部は整備されており、石垣跡、土塁跡、櫓台、空堀などの明確な遺構には、丁寧に表示がされているので見て回りやすい状態となっている、しかしこの城跡の遺構群は本郭部のこれだけにあらず、東西北側へ三方に広がっている縄張り内の遺構群であり、特に本郭部より北側は、民家あるいは農作地にまで広い屋敷跡、郭跡と見受けられる削平地、あるいは空堀土塁跡と井戸跡、石垣跡などの遺構を眼にする事が出来る。この区域は城跡を探索する分においては絶対に見逃してはならない、まだ多くの隠れた遺構の集中する区域と言える。

近年においては郭跡も民家敷地あるいは畑地として転用され、どれだけの地形改変があったのかは想像も付かないが、その部分も含めて城域として見る限りでは、それなりの規模を持った城跡の様に感じられた。今回は遠方への山城巡りとあって、余り一箇所に長居をする事も出来ず、東側を残して全域を踏破するまでには至れなかったが、城跡は見所も多く、見応えもあり充分過ぎるほど城跡の醍醐味は感じ取る事が出来た。又機会があれば再訪して、今度こそ全域を踏破して見たいとも思わせる、推奨出来る城跡の一つである。

1route 登城ルート

3 進入路

1x_1 現地案内板

11_karabori_horiwari 主郭北側の大空堀見所

20_horikiri_1 主郭西側の堀切

24_monseki_1 主郭大手虎口

27_shukaku_nai 主郭内の土塁

29_yagura_dai 櫓台

31_shukaku_miharidai 主郭内の大土塁

33_karabori 東郭と大堀切見所

36_horikiri_isi_1 石垣跡見所

2008年11月24日 (月)

浅井 木原氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市上野予野にあって、先にリポート掲載に及んだ杉山氏城とは目と鼻の先の距離にある。立正寺を目指せば直ぐ辿り着く事が出来、向の池傍から公民館敷地内を通過して、そのまま堀切を越えれば木原城跡、更に土塁堀切を越えれば浅井城跡に到達出来る。

城跡の形態としては両者が連結してはいるが、土塁と二重の堀切を挟んで独立した構造となっており、深い堀切(空堀)、櫓台も兼ねたと思われる分厚い高さのある大土塁が、両者に共通する最大の見所遺構ともなっている。規模は木原城の方が大きく、より堅固であり土塁もより高く、周囲を取り囲む空堀などの深さにもそれが顕著に表れている。現状(12月)とは言え、城跡の全域にかけて覆われる竹林、雑木藪の為に視認もし辛く、動き回って遺構は判別確認しなければいけない状態になっているが、肝心の空堀、土塁などは明確に判別出来るもので、城跡の見所を損なう状況までには達してはいない。

城跡の南側のフェンスから先はいきなり崖状に削られた形跡があり、現在では住宅敷地となっているが、どこまで宅地造成による地形改変があったのかは想像に任せるしかなく、当時の縄張り規模も推察するのみの状況となっている。基本的には連郭式方形居館跡なので、其の周囲における遺構がある程度明確に把握出来ただけでもマシかも知れないが、、 残存状態は決して良いとは言えないが、予想を上回る遺構の醍醐味に酔いしれる事は出来た城跡ではある。

1z 登城ルート

3 城跡概念図

4 南より遠望

11_kihara_dorui_yori_nisikarabori_1 木原東側の大堀切見所

13_kihara_nai_1 木原主郭内部

15_daidorui_yagura_2 木原櫓台土塁

17_kihara_nai_dorui_heki 木原の高い土塁見所

21_karabori 木原北側の空堀

24_asai_kita_karabori 浅井北側の空堀見所

20_asai_e 浅井へ土塁道

33_asai_nai_1 浅井主郭内部

杉山氏城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市予野にあって、花垣小学校の北側の丘陵上が城跡、杉山氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは西名阪道「治田IC」を車で降り、一般道687号から道任せにそのまま東へ向う、後はルート図の如く花垣小学校手前の道を左折、少し走り道路沿いの民家横にある、枯れた池が見つかれば、その傍から竹薮目指して上れば直ぐに主郭には到達出来る。

現状(12月)城跡は全域が竹林雑木藪地となっており、移動に困難は来たさないが、薄暗く見通しも悪い為に、全体像は掴み辛い状態にある。それでも縄張り規模が小さく、方形館跡を中心にしてまとまっているので、動き回れば遺構はほぼ判別確認は出来、見所でもある高さのある分厚い土塁、深さのある空堀などは充分堪能する事が出来る。見応えのある遺構はたったこれだけではあるが、充分見学する価値はあると思える。直ぐ東側の丘陵上には木原、浅井両氏の城跡もあり、同日訪問すれば三城の違いなども含めて、有意義な城跡巡りにはなるだろう。

1z 登城ルート

8 城跡進入口

3_3 城跡概念図

12_karabori_2 西空堀土塁

12_karabori_4 大空堀

17_shukaku_daidorui_1 主郭大土塁

20_minami_kaku 南郭

23_higasi_karabori_dorui 東空堀土塁

28_kita_gawa_horikiri_1 北大堀切

2008年11月 8日 (土)

赤桶城跡(三重県松阪市)

三重県松阪市飯高町赤桶(アコウ)にあって、谷出集落にある西願寺の西背後の山の山上が城跡、城史に関しての詳細は不明。

城跡は既にリポート掲載の終えている下滝野城跡より車で西に数分の距離にあり、国道166号を更に西に走り赤桶橋を越えれば直ぐの位置にある西願寺を目指せば分かり易く辿り着ける。しかし本来登山道があったとも思われるが、現状では直登で上るしか手がなく寺院側からも山道が無いので、ルート図あるいは写真の如く国道沿いの茶畑から作業道を上り、直接山上を目指して上った方が良いかも知れない。(国道沿いの公民館より10分程度で到達出来た)

現状(四月)山上主郭には鐘突き櫓が設置されているが、周囲に雑木が蔓延っている事を考えればほとんど人は登って来ていない様に感じ取れる。幸い城跡の規模も小さく縄張りを把握する事も、遺構を判別確認する事も容易に出来る状態にはある、城跡唯一とも言える最大の見所は主郭と西郭を分断している二重堀切で、残存状態が良い事からも縦堀となって下まで落ちる様がつぶさに見て取れる。もちろんこの遺構を見るだけの為に山上まで上っても、決して後悔はしないものでもある

現状の城跡を見る限りに置いては砦あるいは狼煙台規模でもあり、通常では物見程度で機能していたと見るより他は見当が付かない。先に訪れた下滝野城跡が石垣及び土塁を用いて本格的に築かれていただけに、こちらは下滝野城の出城あるいは西方の抑えとして機能していただけのものかも知れない、、

1route_3 登城ルート

4_1x 公民館より遠望

3_2 城跡概念図

8_shukaku 主郭

12_nijyuu_horikiri 12_nijyuu_horikiri_1 二重堀切の1 見所

15_horikiri_dobasi 二重堀切の2 見所

18_dorui_dou 西郭下の土塁道

20_nisi_hasi 西端の郭

九曲城跡(三重県松阪市)

三重県松阪市飯高町粟野九十九曲(ツズラクマ)にあって、国道166号よりルート図の如く奥香肌峡キャンプ場の案内板が見えれば南側へ進路変更、すぐに民家側に登山口と書かれた案内板が目に留まるのでそこから鳥居に向いて上れば、登山遊歩道で山上主郭までは迷わず辿り着ける(10分程度)。粟野氏の居城と伝わるが詳細は不明

山上郭群はほぼ二郭で形成されており、現在主郭内には社殿が建立されている。主郭周りには帯郭あるいは尾根上の狭い郭跡が付随しており、川側は前面崖状切岸斜面となっているので低山にも拘らず簡単には人を寄せ付けない。遺構として残存するのは堀切、土塁、縦堀などで、整備が比較的行き届いているのでどれも判別確認は容易に出来る。山城としては非常に小規模ではあるが残存状態も良く、遊歩道を利用すれば全体像もほぼ把握する事が出来、充分山城の持つ雰囲気は味わう事が出来る。

九十九曲集落に繋がる唯一の国道166号は、奈良から伊勢街道として松阪あるいは伊勢まで抜けれるので、同じ国道沿いからはそう遠く無い下滝野城跡、赤桶城跡と三城併せて同日訪問すれば効率よく山城巡りが出来るように思われる。

1route_2 登城ルート

5 西より遠望

6 登山口

3 城跡概念図

14_fukukaku_dorui 副郭土塁より主郭側

17 主郭

17_shukaku_yori_fuku 主郭より副郭

20_shukaku_yori_minami_horikiri 主郭南側堀切土塁

29_horikiri_dobasi 副郭東側の堀切

2008年10月24日 (金)

伊勢霧山城(三重県津市)

三重県津市美杉町下多気にあって国指定史跡となっている北畠城館跡あるいは神社を目指せば道路沿いに看板も設置されており辿り着く事は容易に出来るが、、、これは相当な山奥である。しかし北畠氏はなぜ当時でも現在でも相当不便であったと思われる、山深く、まるで隠れ里に近いこの辺境の地を選択して築城したのであろうか?

霧山城跡はここ城館跡から北西側の標高560mの山上にあり、登山遊歩道を利用すれば約40分で山上に到達出来、その間には館詰城跡や尾根上の大規模な郭跡、点在する郭跡などを確認しながら上れるので、距離の長さをあまり感じる事無く山上までは辿り着ける。登山口から少し上ると最初に詰城とされる城跡らしい規模の大きい方形郭跡が現れるが、その高低差10mに及ぶ郭切岸には圧倒されてしまう、興奮を覚えながら更に上るとすり鉢状になった馬場跡にも窺える広い郭跡があり、更に数箇所に点在する郭群を確認しながら山上まで上る事になる。

1_2 登城ルート

8 館詰城跡の概念図

14_tumejiro_nai 詰城主郭

22_baba_dorui_dou_1 詰城西側の馬場跡か

山上郭群は主郭及び副郭の二郭と別峰にある南郭の三郭から形成されており、険峻な山上に位置する為に規模は大きくは無いが、残存状態は素晴らしく整備もされているので遺構及び縄張り共に分かり易く、快適に見て回る事が出来る。見所も多く郭間の深い堀切、谷底まで落ち込む切岸、分厚い土塁など、どれを挙げても見応えのする山城遺構ばかりで、これだけ状態が良いのであれば往時に思いを馳せる事などは容易に出来る。

この険峻極まりない山容から察しても、更にこの城跡遺構から考えても、正に天空の城と呼ぶに相応しい山城であり、おまけに山上からの眺望も抜群で、戦国期山城と共に山登りも楽しめて、尚且つ広がる大自然との一体感も味わえる数少ない城跡の一つと言えよう。

近畿圏において険峻な地にある山城(土塁城)でありながら、これほど整備の行き届いた城跡に出会える事はほとんど不可能! まだ未訪の方は是非この本格的山城を麓居館跡から山上まで順を追って見学して頂きたいと思う。

3_1 霧山城跡の概念図

33_minami_kaku_kanetukidou 南郭(鐘突き堂)

42_shukaku_koguti 主郭土塁虎口

46_komegura_yori_yagura 米倉跡より主郭及び大土塁

47_yagura_heki  主郭西側美しい切岸斜面

56_higasi_fuku_2 東副郭

59 堀切

鹿伏兎城跡(三重県亀山市)

三重県亀山市関町加太市場にあって、JR加太駅に隣接する神福寺の北西側に聳える山の山上が城跡、もちろん名前の如く加太氏の居城と伝わり寺院は居館跡とされるが、近年の発掘調査によっては西側地点が推察居館地域とされている様である。

城跡へは県指定史跡でありながら明確な登山道は現状では見当たらなかった、仮にあったとしても道標などは期待出来ず、現状を見る限りにおいては荒れて踏み跡すらないと推察される。もちろん最初から登山道には期待していなかったので寺院西側の居館推定地とされる谷状地形から北側に取り付き直登を敢行するが、この付近には石組み井戸跡及び屋敷跡群も残っており、当然これらは当時の遺構の様には見受けられた。

結果的に20分~30分程度は斜面との格闘になったが、そのお陰で南出郭あるいは尾根上の郭跡などは確認する事が出来たので幸いではあった。結果的には城跡へどの様な経路で上ったのかは見当が付き難く、未訪の方へのルート説明にはならないのだが一応登山における現況報告とさせてもらう。(現状アドバイス出来る事は西側屋敷跡から迷わず北側斜面に向いて上れば間違いなく南出郭には到達出来る)

現状(11月)山上郭群は荒れ放題となっており地表の風化も激しく、視認に困難な状態にまでは至ってはいないが相当な藪化進行状態にある、しかし最大の見所でもある石垣跡、石組み井戸跡、土塁虎口跡などは充分な状態で残存しており、ここまで登って来た甲斐はあったと胸を撫で下ろす。規模はさほど大きくは無いが見応えは抜群!低山ではあるが険峻さを以って人を寄せ付けず、これぞ山城と呼ぶに相応しい城跡と言える。

1 登城ルート

4 神福寺登山口

3ka 城跡概念図

11 西虎口横の大石垣跡

13_koguti 西土塁虎口

17 西郭

18dorui 西郭土塁

19_ido 東郭井戸跡見所

21_shukaku 主郭櫓台

27nansei_yori_shukaku_gawa 主郭南切岸見所

30_dobasi

南尾根の土橋

下山時においては登山道らしき山道が西虎口から下に向いて通じていたので、これで楽に下山出来ると思ったのだが、途中から山道は消えて再び谷に向いての急斜面を下りる羽目になった。何とか最初の屋敷跡群までは降り立つ事が出来たが、県指定史跡であるならもう少し登山道は整備してくれても良いのではないだろうか。

2008年10月18日 (土)

草生城跡(三重県津市)

三重県津市安濃町草生(クサワ)にあって、既に掲載済みである長野城を支城とする長野氏の一族で草生氏の居城と伝わる

城跡へは国道163号伊勢街道から県道28号に入れば道任せでルート図の如く菅原神社東の大師堂を目指し進む、到着後はその東側の丘陵上が城跡となるので住宅地の背後にあるフェンス沿いを進めばすぐに城跡西端に辿り着ける。

現状(11月)城跡は下草も雑木も多く蔓延ってはいるが、遺構はほぼ判別確認可能な状態となっており、最大の見所でもある主郭周囲を囲む空堀土塁は現在でも深さを保持しており楽に築城時の状態に思いを馳せる事が出来る。

他の見所としても石垣跡が二の丸空堀壁に残存し、更には低い主郭櫓台壁にも石垣痕が残っており土中を掘り返せばまだまだ残存している様にも窺える、小規模ではあるが見る限り本格的に築き上げられており、見る者にとっては非常に好感の持てる城跡でもある。小規模が故に全体の縄張りは把握し易いが、現在南側に住宅が隣接している為に、どこまでの縄張りにおける地形改変があったのかは見る者が判断するより方法は無い状況である。

道路沿いから5分も掛からずにこれだけの遺構を拝める城跡など他では中々見受けられない! 一見の価値のある城跡と言える

1_2 登城ルート

2zz_2 城跡概念図

3_kuti_2 住宅背後の進入路

8_shukaku_sita_karabori_1_2 9_2 主郭周囲の空堀

18_2maru_hori_isi_2 二の丸空堀壁の石垣跡

22_2maru_yori_shukaku_2 二の丸より主郭切岸

27 主郭櫓台

12_higasi_kakugun 東郭群

伊賀丸山城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市下神戸にあって近鉄伊賀線丸山駅より川を隔てて南東に位置する丸山の山上が城跡、天正伊賀の乱で有名となった城跡で織田信雄が築城と伝わる

城跡へは名阪国道「上野東」ICで降り国道422号で南下、丸山駅を越えて更に橋を渡り消防署で左手に折れる、後はルート図の如く進み案内道標は無いが民家横より登山道が山上まで通じているので、それに従えば尾根上の郭跡までは10分もあれば辿り着ける。

現状(12月)城跡は冬季ともあって落葉は多いが下草も少なく、山上全域を占める郭群に限って言えば、残存状態も見通しも良く遺構の判別確認は容易に出来る状態にある。城を形成するべく技巧的な遺構は全て備わっており、更に縄張り妙味も加わり城跡全体を飽きることなく観て回る事が出来る、広大な主郭には小型ではあるが土塁で囲まれた櫓台(天守台)も備わり、別に虎口を監視する櫓台までも設けられており、土塁城でありながらも石垣城の様相を呈している。見所を挙げるとすると天守櫓台周りを筆頭に主郭東虎口横の大土塁を伴う二重空堀、更には堀切を挟んで整然と並んだ北郭群になるが、どれも切岸の状態が良く当時を思い起こすに充分な遺構群であると言える。

1 登城ルート

3z 城跡概念図

山上郭群以外では登山道中に段郭群を確認する事が出来たが、上るにつれて雑木も密生しているので斜面上は郭跡の存在を外見から確認するのみで終わり、主郭より麓民家に繋がる南枝尾根上にも郭の展開は予想されたがこちらは踏破は断念する。

城跡は流石に織田の関わっただけに立地環境を含めた縄張りプランが素晴らしく膨大な土木量で本格的に築き上げられており、見るものに少なからず感動を与えてくれるものである。未踏地の部分を含めなくとも城域は相当な規模でもあり、やはり「伊賀随一の城」と言う名に相応しい事を改めて実感する事が出来た。

20_one_horikiri_1 尾根上の郭跡

28_nisi_demaru 西出郭群

34_tenshu_minami_gedan 天守櫓台と虎口郭

42_tenshu_higasi_heki 天守台東切岸

43_shukaku_nai 主郭

47_2jyuu_dorui 二重空堀土塁

56_kita_demaru_e 北郭群

48_2jyuu_karabori_2 東虎口空堀

2008年10月 4日 (土)

吉原氏城跡(三重県名張市)

三重県名張市吉原にあって先に訪問した北畠城跡からはルート図の如く車で数分足らずの距離にあり薬師寺の東向かいの丘陵上が城跡、国司でもある北畠氏の傘下に入る吉原氏の居城と伝わるが信長による伊賀の乱に置いては討ち死にした模様。

城跡は集落の入り口にあたる無住の薬師寺下の駐車可能な空き地に案内板もあり分かり易い。ただ道順は記されて無いので直登となるが、進入経路としては南側に少し歩き小さな橋を渡り水田の畦道から竹林地に向いて上ればどの地点からでも山上主郭まで辿り着けそうである。結果的には城跡南端に堀切道が備わっていたので南から小川沿いに大回りして堀切を登れば主郭にはすぐ到達出来たのかも知れない。

城跡へは竹林地より直登し主郭周りの郭跡にはすぐに辿り着いたが現状(六月)荒れ放題の竹林雑木地帯と化しており更に地表の風化も激しく堆積物によって郭段差などは曖昧で構造も非常に判別し辛い状態にある。それでも竹林と格闘しながらそれなりの概略図(敢えて縄張り図とは呼ばない)を作成するまでには漕ぎ着けたが今回に限っては余り自信がない、それほど切岸などは曖昧でどこからが郭跡なのか推察するしか手がない状態なのである。しかし空堀、堀切、土塁など明確に判別出来る遺構もあり、堀切を挟んだ北側の郭群は随分ましな状態でもあり一安心ではあった。

全体像を見る限りでは縄張り妙味も含めて城跡としての完成度は相当なものである思える、外見からは雑木に覆われて判断出来ないが麓から重なり合い山上まで連なる郭群はまるで要塞の如く相当な見応えのあるものである

この風化を促進させている竹林雑木林さえなければ素晴らしいを何回でも連呼するところなのだが、やはりこの状態ではそう言う訳にも行かない。主郭周りに限れば数年もすればほぼ自然と一体化しているのは必定であるとも思われ、訪問時期は夏季を外せば早いほど良いとも考えられる。

1route_1x 登城ルート

5 薬師寺上から望む城跡

3_2 城跡概念図

18_shukaku_nai 主郭

19_shukakunai_dorui 主郭土塁

12 西側郭跡

28_hokutou_dankaku 北東段郭群

24_shukaku_kita_karabori_1 主郭北空堀

22_higasi_karabori 主郭東空堀

北畠具親城跡(三重県名張市)

三重県名張市奈垣にあって先に訪問リポートした下山城跡の遠く西側にあり国津小学校の北東向かいの山が城跡、城史に関しての詳細は不明

城跡へは一般道693号より南下すれば目印となる国津小学校まで辿り着けるのだが道幅も狭くこの道に進入するまでは非常にややこしい説明になるので省略させてもらう。少なくとも土地勘のない自分にとっては先に下山城跡に寄った事もあって道順には自信が持てない。むしろ下山城跡からはルート図の如く分かり易い

城跡は高台にある国津小学校からは既に北東側に見えており、その前の道を民家側に下りれば城跡案内板が道路沿いの民家横にあるので、そこから上へと上れば難なく辿り着ける。現状城跡は六月(梅雨時)ともあって相当な藪を覚悟して上ったが意外にもましな状態で、一部は植林地のせいか下草も雑木も蔓延っておらず案外見通しも効くので縄張りの七割以上は把握する事が出来たかも知れない。それでも熊笹で覆われた郭跡などは地表も見えないので推察によるしか手がなかったが切岸処理はされていた様には窺われる。大規模な主郭には虎口に櫓門でもあったかの様な土塁が備わり、規模の大きい櫓台が背後に土塁を伴って設けられている。堀切を挟んでは東郭を配し更に東南に向うほど藪はきつくなるので視認し辛いが東郭の堀切より南側にも郭は展開されていた様には見受けられる。

この時期の訪問であるが故に城跡には全く期待していなかったが予想以上に動き回る事が出来たのが収穫で、郭跡はもちろん土塁、堀切、空堀に至る技巧的な遺構まで判別確認する事が出来た。藪に覆われた南東未踏地を残したので全域を把握するまでには至れなかったのが残念ではあるが名門北畠氏の本格的な城跡に触れる事も出来、充分な満足感に浸ることも出来た。

1z 登城ルート

7_tozanguti 登城口の道標

3 城跡概念図

20_nisi_hasikaku 西端郭跡

28_shukaku_koguti_gawa 主郭内虎口側

30_kita_dankaku_gun_2 北段郭群

26_dorui_karabori 主郭空堀土塁

35_yagura_haigo_horikiri_2 櫓台背後の堀切

38_higasi_daihorikiri_1 東郭側の大堀切

2008年10月 3日 (金)

下山甲斐守城跡(三重県名張市)

三重県名張市奈垣にあってグリーンヒル名張GCとは一部でほぼ隣接した地にあり隠れ里の如き山間地の丘陵上に存在する城跡、名前の如く下山氏の居城であるが詳細は不明

城跡は道順としては非常に説明し難い位置にあり一般道693号からルート図の如く細い道路で城跡に向かうしか手立ては無い。場所も「こんな所にあるのか」と言った具合の山間地にあり案内板も細い農道脇にある程度なので非常に見つけ難い。地図にある様に道路がカーブを描く場所に大きな住宅があるのでその付近に車を路駐するしか手立ては無く、そこから東側に下りて行く農道に沿って歩くと小さな案内板がありその北側丘陵が城跡にあたる。

辿り着くには少し苦労を要したが見学者にとっては「素晴らしい」以外言葉も出ない位の残存度及び残存状態を保持する城跡であった。現状(六月)梅雨時ではあるが植林地の為か下草も少なく見通しも良いので遺構はほぼ判別確認できる状態にある。特に見所は主郭周囲の大土塁で櫓台も伴い分厚く高さも有しており、この見応え及び存在感には感動すら覚えてしまう。主郭以外の郭跡は地表の風化も激しく凸凹としているがこの程度であれば充分に遺構判別も出来るので、縄張り変化に富んだ枝尾根上の郭跡、技巧的な空堀、堀切、土塁虎口と飽きることなく見て回ることが出来る。

1z 登城ルート

3si 城跡概念図

現在でもこの様な状態が保持されている処からすれば訪問時期はほぼ四季を問わないものでもあり、冬季においてはより快適に見て回れそうに思われ必ず満足感には浸れ尚且つ期待に応えてくれる事請け合いの城跡と断言出来る。

17_karabori_dorui_1 空堀土塁

24_higasi_yori_shukaku_dorui_1 東郭より主郭側

21_horikiri_tatebori 主郭東堀切

25_shukaku_karabori 主郭外周の空堀見所

31_shukaku_nai 32 主郭を囲む大土塁見所

38_umadasi_koguti 主郭虎口

50_horikiri_yori_nisikaku_1 堀切より西郭大土塁

奥氏城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市喰代の里にあり伊賀地方にあっては有名な百地丹波城の北側の尾根に位置する城跡、奥氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡へは西名阪道を友生ICで下りた場合県道56号より喰代に向かう。集落に入ればルート図の如く三城も隣接しているので訪問はどの順番からでも効率よく見て回れるが、この奥氏城跡は道路から既に東側丘陵に郭跡が窺えるので直接休耕地より上っても良いし北側の集落を回り込んで二の丸(副郭)から進入しても何れも城域をほぼ見て回る事が出来る。

城跡はこの地域特有の方形単郭を繋げた形で構成されており縄張り妙味には欠けるが、やはり大土塁虎口と周囲を囲む土塁は相当見応えのある遺構となっている。特に西側の主郭虎口には二重とも見受けられ織豊系とも見て取れる高さのある大土塁が備わっている。現状(7月)ほぼ全域が竹林地及び雑木藪と化しており、夏季とも相俟って状態は良いとは言えないが遺構残存度は非常に高そうに思える。

尚、この城跡の北側集落にある尾根先端には館跡もあると聞くがこちらも現状全域に置いて竹林地と化しており状態も悪く、おまけに民家側からの進入を余儀なくされるので踏破には至る事が出来なかった。

1z 登城ルート

3 城跡概念図

7 道路沿いの直登口

15_koguti_daidorui 西土塁虎口見所

24_shukakunai_koguti_1 主郭内より虎口

21_yagura_heki 主郭東側切岸

31_2maru_dorui 二の丸土塁

30_2maru_yori_shukaku 二の丸より堀切

34 堀切

2008年9月25日 (木)

長野氏城跡(三重県津市)

三重県津市美里町桂畑にあって国道163号伊賀街道にある細野集落からは南に位置する険峻な山の山上が城跡、南北朝期の国人領主である長野氏の居城跡として国指定史跡に認定されている

城跡へは国道163号沿いにある美里農産物加工センターより数100m北西側より桂畑に向かう道路があるので、そこから集落内の細い道を通り桂畑川沿いの道路に出てそのままルート図の如く城跡を目指す。山上駐車場までは未舗装の悪路(二年前)で辿り着けるが車が大事であるなら程々の場所で降りて歩いた方が良さそうに思える道である。

現状(11月)城跡は整備されており木々も下草も少なく、山頂からの見通しも非常に良く郭群及び遺構は全て判別確認可能な状態にある。一番の見所は北側にある北郭を繋ぐ大土塁を伴う虎口跡で、分厚く高さもあり唯一見応えのある遺構となっている。

Nag 登城ルート

3_2 城跡概念図

5 駐車場から城跡上り口

11_shukaku_nai 主郭内

16_dorui_sita_yori 土塁虎口見所

17_dorui 虎口大土塁

18hokutou_kaku_isi 北郭壁の石垣跡

22_dobasi_isi 北土橋側壁の石垣跡

2008年9月23日 (火)

吉田氏城跡(三重県上野市)

三重県上野市蓮池にあって木代神社境内及び北側丘陵地上が城跡、吉田氏の居城であるが詳細は不明

現地に向かうまでは伊賀地方の城跡という事で方形館のイメージがあり単郭が並んだ程度を予想していたが、これは予想を遥かに超えた城跡で縄張りも複雑で全く見飽きない、そして凄い高さの切岸を有した素晴らしい城跡でもあった。中々この状況を言葉にするのが難しいほどで、まだ未訪の方は現地を訪れて直接確認体感して頂くしかない。

現状(12月)惜しむらくは冬季であるにも拘らず北側に向かうほど雑木藪(常緑樹)及び竹林で視認にも難渋し判別確認も難しく身動きも取れない状態となっており、夏場の訪問は相当な覚悟がいると想像出来る。お陰で城跡全体像までは把握し切れなかったがそれでも充分満足感には浸ることが出来た。1z

登城ルート

3 城跡概念図

3o 状況及びコメント

6_yasiro_nai_horikiri_1 境内にある堀切

18_yaguraheki_higasi_karabori_1 櫓台東側の空堀

20_yaguradai_jyou_1 主郭櫓台

27_higasi_yakata_nai 東郭(副郭)の大土塁虎口

28_yakata_nai_tatedorui 主郭縦土塁

30_kitakaku_gun 北郭群

33_kita2_yori_kita1_heki 北郭切岸

2008年9月15日 (月)

中森氏城跡(三重県津市)

三重県津市美杉町太郎生にあって国道368号沿いにある小学校からは西側にある丘陵上が城跡、中森氏代々の居城と聞くが詳細は不明。

城跡へは国道368号を北上した場合太郎生郵便局を過ぎすぐ西(左折)の細い道路へ進入、後は概念図にある最短ルートを参照すれば難なく辿り着ける。

1route

登城ルート

3 城跡概念図

4 南から城跡遠望

城跡は国人あるいは土豪クラスのものの様には思われず規模も大きく豊富な土木量を持って築城に携わったと見受けられる。主要三郭を直線的に配置した単純な縄張り構成ではあるが壁の様に立ちはだかる土塁には圧倒的迫力がある。特に北側から仰ぎ見る北郭の土塁虎口は周囲に木々の少ない事からも麓から鋭角にせり上がって来る切岸が鮮明に見て取れる状態で更に迫力に拍車をかけている。現状(四月)郭全体を通して下草の多さは仕方が無いが木々も少なく見通しも良いので遺構の判別確認は容易であり、残存状態も自然風化が激しいにも拘らずかなり良い部類に入る。伊賀地方にあると言う事で方形館跡程度を予想して臨んだのだが予想を遥かに覆され大変満足のいく訪城となった。

道路から5分もあればこれだけの遺構群を拝む事が出来るのだから、お手軽で尚且つ満足感にも浸れる申し分のない城跡と言える。

17_shukaku_dorui_dou 主郭へ土塁道

20_shukaku_nai_2_2  主郭

22_shukaku_nisi_karabori 主郭西空堀土塁

31_kitakaku_nisi_dorui_1 北郭西側の土塁

33_kita_dorui_koguti 北郭土塁虎口

36_kita_e 北側の細尾根

下滝野城跡(三重県松阪市)

三重県松阪市飯高町下滝野中之郷にあって国道166号沿いの新田中バス停と公民館の間に位置する山の山上が城跡、城史に関しては詳細は不明。

城跡へは橋を渡る手前を川に下りて行く形で北へ向いて進入する、後は概念図にあるが通りに川に沿って進むと屋敷跡と見受けられる規模の大きい郭跡、東側斜面を登れば主郭まで到達出来る。

城跡の最大の見所でもあり醍醐味を味わう事が出来るのは尾根を南北に分断する堀切で、主郭側の堀切壁は数100mに渡り全て石垣で固められている。これだけの遺構は他の城跡では中々お目にかかれないもので一見の価値のあるものである。

1route 登城ルート

3_3 城跡概念図

3x 状況及びコメント

24 川沿いの屋敷跡

26 屋敷跡土塁内側の石垣

21_koguti_isi 虎口の石垣跡

17_horikiri_nisi_e_2 15_kita_horikiri_isi

堀切石垣跡見所

11_shukaku_nai_dorui 主郭土塁

8_higasikaku_dorui 東郭土塁

10_shukaku_heki 主郭切岸

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