三重県の山城跡

2009年11月25日 (水)

伊賀宮山城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市馬場にあって、陽夫多(ヤブタ)神社直ぐ背後の低山の山上に位置しており、現在この山上では古墳も多く目にする事が出来、神社からは古墳見学も含んだ案内板及び見学し易い遊歩道が設置されている。宮山城自体は一城を指すものではなく、現地案内板あるいは案内パンフには記載されているが、宮山1号城から3号城まで三城が分かれて東西に渡る丘陵上に位置しており、各々に城主は不明、更に城にまつわる伝承も残されていない事から、区別する為に三城を数字で示したようには感じられた。

伊賀の城跡の多くは、土塁で周囲が覆われた館城であり、この宮山三城もその中の一つにはなろうが、見る限り山上は起伏も無く、三城の間はほぼフラットな状態であり、この丘陵上も全て城域として機能していたものの様には窺われた。ちなみにこの地域が馬場となっている事からも、山上は規模の大きい馬場跡であったような気がしないでもない。案内板には信長による伊賀侵攻の際に築いた、陣城の可能性があるように記載されてあったが、この土塁に囲まれた郭跡は、紛れも無く定番とも言える伊賀の城跡の縄張りプランであり、仮に織田軍の陣城だとすれば、城を落とした後に山上を陣城として利用しただけのものとも思えるのである。

1route_4 登城ルート

Miyayama 現地案内板より

3_1_2 城跡概念図

11_koguti 3号城、虎口

14_kakunai_1 3号城、内部

16_karabori_1 3号城、空堀

25_dorui_heki 2号城、土塁内壁

21_2gou_karabori 2号城、空堀見所

29_karabori_dorui 1号城、土塁と空堀見所

31_kakunai_3 郭内部

32_dorui_heki_1 高土塁の内壁見所

35_horikiri_miti 西堀切見所

城跡へは陽夫多神社を目指せば難なく辿り着けるが、遊歩道進入口は社殿背後となっており、そこからは古墳見学ルート(城跡見学も兼ねる)に従って歩けば、3号城(ここまで5分)から一番西側に位置する1号城までの城跡遺構は、案内道標もあるので見落とす事無く見て回れるはずである。

現状(10月)城跡はほどよく整備されているので、歩き易く見学し易い状態にあり、全てとは言わないまでも、各々に備わる遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。三城の中では一番規模の大きい1号城が最も見応えがあり、堀切より更に西端までは藪地である為に踏破出来なかったが、高低差のある土塁、状態の良い空堀といった具合に、充分目は楽しませてくれそうには思われた。2号城は少し小規模ながらも1号城と同様に土塁周囲には空堀が巡らされており、3号城は恐らく当時は土塁で覆われていたとは思われるが、僅かにその痕跡を地形から窺う事が出来た。この郭跡には周囲全てを覆っている訳ではないが、東西に随分埋もれた空堀の痕跡も残っており、東端にある古墳も物見として縄張りに取り込まれていたようにも窺われた。個人的に目に留まった遺構は概念図に記したが、丘陵上の西端まで踏破した訳ではないので、遺構もこの限りではないのかも知れない、、、 見学し易い事からも、古墳群も含めた史跡としての訪問、あるいは城跡としての訪問、どちらにしても充分お薦め出来る城跡の一つであるようには目に映った。

2009年11月23日 (月)

松山氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は伊賀市青山町比土にあって、既にリポート掲載を終えた龍王山城から見れば、峠を挟んだ北側に位置しており低丘陵先端部にある。この城跡は伊賀にあっては珍しくない、城の居館跡が空堀を挟んで対峙している形態であり、南側が松山氏城、直ぐ北側が早山氏城となっている。

城跡へは先に触れた龍王山城の登城ルートと共通で、国道165号の「阿保」信号を通過した場合、1km西側にあるパチンコ店より右折北上すればよい。ルート図の如く峠を越えれば、謎の店舗(どの様な店か分からない)の手前50m付近に車は停めて(空きスペースはここしかない)、右手側の小高い丘状地形に向いて進入すれば、直ぐ空堀地形とマウンド(土塁か?)地形が目に留まる筈である。ここからは浅い谷状地形を越えれば、直ぐにでも松山氏居館跡の周囲を覆う大土塁が迎えてくれる運びとなる(5分程度)。尚、この城跡は概念図中に示した様に、城跡の西虎口から店舗兼住居の裏庭に、いきなり山道が通じている事からも、店舗経営者の所有する土地とも考えられるので、場合によっては声をかけた方が良いかも分からない。とにかく西側の虎口土塁付近に近寄っただけで番犬が吠え続け、流石に近所迷惑になったとも考えられるので、西側(虎口側)の見学には余り長居はしない方が良いものとは思われる。

1_1 登城ルート

1_2 城跡概念図

10_minami_ukedorui 松山氏 受け土塁見所

30_yagura_1 松山氏 櫓台

20_dorui_4 松山氏 土塁見所

25_dai_karabori 中央大空堀見所

現状(10月)城跡は相当藪化は進行しており、特に松山氏城の郭内はほとんど見通しは利かず、周囲を巡る高土塁と空堀遺構の見学が精一杯の状況となっている。しかし内部の様子は窺い難いが、土塁虎口跡あるいは武者隠し的な受け土塁は明確に判別可能な状態でもあり、土塁背後を巡る空堀と並んで、充分目は楽しませてくれよう。早山氏城の方が状態は比較的ましとは思われるが、郭内部もある程度見通しが利くので、見事な高土塁の切岸、あるいは分厚い土塁上をそのまま歩く事によって、空堀までの高さも体感する事が充分可能な状況となっている。

Haya_kakunai 早山氏 郭内部

Haya_naiheki 早山氏 土塁内壁見所

Haya_koguti 早山氏 土塁虎口見所

Haya_jyoudan_kakugun_9 早山氏 東側郭群

この二城の見所は何と言っても空堀と高低差のある高土塁に尽きとは思われるが、二城に挟まれた幅のある巨大な空堀は、城跡にあっては圧倒的な存在感を誇るものでもある。早山氏の丘陵上東背後側には、土塁で囲まれた郭跡、あるいは空堀地形まで窺う事が出来、更にそれを跨いだ形で、東側には大規模な土塁を伴う郭群が、これでもかと言わんばかりに広い範囲に展開されている。個人的には山城巡り最初となる一回目の早朝訪問でもあり、次の予定を考えれば東側更に北側丘陵上まで探索する事は叶わず、悔しい思いを残しながら城跡を後にしたのだが、これら東側における縄張りも併せたものとすれば、城域は概念図に示したものより、遥かにはみ出ている様には感じられるのである。この二城はあくまで居館と捉えただけのものであり、丘陵上は更に北側にも縄張りは展開されている様にも感じられたので、個人的には再訪の余地を少し残してしまったのが残念な処ではある。評価としては多くの伊賀の城跡とも共通するが、高土塁の魅力あるいは深い空堀は他を圧倒するものでもあり、土塁の残存度及び高さだけで比較するなら、近畿圏では伊賀の城跡に敵う城跡はないものと感じられるのである。

2009年11月22日 (日)

別府 城氏城跡(三重県伊賀市)

この城跡は既にリポート掲載を終えた、同じ伊賀市青山町(伊勢路)にある城氏城跡と同名でもあり、混同を避ける為に位置する地区名でもある「別府」を頭に付けて掲載に及んだが、距離的にも伊勢路の城氏城跡はここから東へ3km離れている程度なので、城氏の支城あるいは本城と位置付ければ良いのかも分からない。こちらの城氏城は、当時の記録としてフルネームで「城 八太夫」の名が挙がっているが、詳細は不明でもある。

城跡が位置するのは、近鉄大阪線「青山町」駅の直ぐ北側にある低山(丘陵)の東端で、国道165号からも直ぐ望めるので確認はし易いだろう、京阪神から向う場合は国道165号より青山駅を目指せば、迷わず付近までは辿り着ける。現地付近ではルート図及び概念図を参考にすれば、山上に向う山道は直ぐ見つかるはずだとは思われるが入山口から主郭までは5分強)、車は入山口に近い広い道路の角付近に路駐可能なスペースがあるので、自己責任において停めれば良いものとは思われる。

1route2 登城ルート

6 城跡進入路

3jo 城跡概念図

現状(10月)城跡は相当藪化は進行しており、移動に余り難渋はしないが、概念図に示した山上本郭群はとても醜い状態にある。特に便宜上の二の丸は、外見から内部を覗く事も踏み入る事も非常に困難な状況、土塁に囲まれた穴蔵状の主郭は何とか踏み入る事が可能な状態となっており、周囲を巡る土塁も穴蔵形状も明確に判別する事が可能である。他はさほど見学に支障は来たさない程度だと思って頂ければ良いだろう。

城跡の見所は山上本郭群の周りの全と言っても良いとは思われるが、伊賀にあっては掛田城、山村城、小鴨氏城などでも見受けられた、櫓台の土台とも思える穴蔵状の構造物は真っ先に挙げられる。先に挙げた三城も恐らく同じ機能として築かれたものだとは思うが、機能に関しては個人で想像を膨らませ、楽しんでもらうのが一番良いものとは感じられた。次に来るのは主郭を北から南にかけて巡る空堀でもあるが、これは比較的状態が良い事からも、充分観賞に耐えられるものとなっている。山上本郭群の規模はさほど大きいものではないが、三方に広がる尾根上、特に西側尾根上はかなりの広さで連続する削平地が窺われ、主郭に向かう為に通過して来た南側にも、草木が相当蔓延って郭形状までは把握出来なかったが、相当な広さの郭跡が見とめられた。

22_shukaku_dorui 22_shukaku_dorui_1 主郭穴蔵内部と土塁見所

26_nisi_karahori 西空堀見所

36_higasi_gedankaku_dorui 東郭の土塁見所

32_kitagawa_karahori_1 北側の土塁と空堀見所

37_higasi_karahori_1 東側の空堀

38_higasi_kaku_2 東出郭

低山ではあるが地形をフルに活用した縄張りプランは、城跡の形態としては山城のそれに近いものがあり、訪問するにおいてはお手軽感はあるが、状態が良いとは言えないので、一般の城跡ファンには余りお薦め出来ないが、伊賀の山城に興味のある方、あるいは山城ファンにおいては、覗いて落胆するような事は絶対に無い様には感じられるのである。

2009年11月 8日 (日)

藪内氏城跡(三重県伊賀市)

この城跡は、先にリポート掲載を終えた妙楽寺城跡からみれば西麓に位置しており、同じ伊賀市青山町妙楽地にあるが、名が語る様に藪内氏の居館と伝わっており、かつては「藪ノ内屋敷」とも呼ばれていた様である。個人的には先に触れた妙楽寺城とは、山頂と麓の違いはあるが、同じ山塊を共有する事からも、此方を居館とすれば山上は自ずと藪内氏詰城(山上郭)の様にも窺われたのだが、、、、当然推察の域は出ない。

城跡へはルート図の如く、「新妙楽寺橋」を渡る手前より、川に沿った畦道を利用して向えば、直ぐにでも到達可能となっている。この城跡は伊賀にあっては数多く見受けられる方形城館の一つでもあり、土塁で周囲を囲んだ定番中の定番とも言える縄張りを持つ城跡でもあるが、比較的規模は大きく(50m近い)、一部北側の土塁の崩落は見とめられるが、未だ四方に土塁がそのまま現存している事からも、貴重な城跡と目には映った。現状遺構として判別確認出来たものは、土塁虎口、土塁外壁の周囲に巡らした空堀、空堀の仕切りとなる土塁(石積みが見受けられた)などであるが、中でも東に備わる土塁虎口は大型でもあり、状態の良い空堀と並んで見応えも感じられ、一番目を引くものの様には思われた。方形居館跡の東西にも付随するそれらしい削平地、あるいは溝状ではあるが堀切跡の様にも見て取れた地形が存在しているが、恐らくこれらも当時の遺構としてまず間違いのないものの様には見受けられる。

1route_2 登城ルート

4 城跡進入口

Ya Yabu 城跡概念図

現状(10月)屋敷跡は自然任せの荒れ放題となっており、城跡の周辺は竹林地あるいは雑木藪となっているが、他の伊賀における丘陵上にある居館跡を思えば、随分ましな部類に入り、ある程度敷地内の全体像が窺える事、あるいは周囲を巡る土塁も、部分的には良いものが拝め、更に内壁高低差も充分見て取る事が出来るので、比較的見学し易い状態にあると言っても良いものとは思われる。

8_1 8_2 背後を巡る空堀見所

15_kuruwa_nai_2 郭内部

12_dorui_naiheki_2 高土塁内壁見所

22_koguti_2 虎口跡見所

25_kitagawa_dorui 北側の低土塁

20_sikiri_dorui 空堀仕切りの石積み

この地域(勝地から妙楽地にかけて)には既にリポート掲載を終えた新氏城、松田城、甚二郎城、妙楽寺城と、比較的コンパクトな城跡が数多く現存している様には見受けられたが、個人的に何の予備知識もなく、偶然訪れた松田城は文献などには記述も無く(公的資料には載っているのかも知れないが、、、)、まだ多くの砦跡あるいは城跡がこの地域には眠っている様にも思われる(所在はルート図には記したが、遺構としての確証は得られず)のである。まだ未訪の方には、山城巡りの一環として、上記の城跡を併せた同日訪問とすれば、より充実した山城巡りが出来るようには感じられたが、、。

2009年11月 7日 (土)

妙楽寺城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町妙楽地にあって、妙楽地集落の川を隔てた、南側の標高300m(比高90m)の山頂に位置しており、天正伊賀の乱における際の陣城あるいは詰城の様相を呈している。現状、城跡に関しての記述も皆無に等しい事から、その機能に関しては見学者の想像に委ねられる様な気はする。

この城跡は何時も貴重な城跡情報をブログに提供して頂いている、S氏より紹介されたものであるが、存在は既に認識していたものの、所在地が全く分からず(現地では確認出来なかった)今まで訪問を見合わせていた経緯があったが、以前寄せられたコメントの中で、城跡に関しての所在地が記載してあった事からも目星が付けやすく、今回は近くにある藪内氏城あるいは甚二郎城と併せた訪問を計画して臨む事になった。(S氏に感謝、、)

1route 登城ルート

5 城跡進入路

3_1 城跡概念図 

城跡へは、既にリポート掲載を終えた松田城を起点にすれば分かり易いが、松田城からは真南に位置しているので確認はし易いだろう、妙楽地集落に入る為には「新妙楽地橋」を通過する事になるが、ルート図に示した様に、製材所の南西数十m手前から入山口に向う小道があるので、それを利用すれば自ずと山の中腹までは山道で上れる状況にある。道が途絶えれば途中からは直登(藪漕ぎは無い)となるが、そのままだらだら続く斜面を上り続ければ、山上までは20分内で到達出来る筈である。

11_shukaku_heki 山上主郭の外壁(切岸)

12_nisi_obi 帯郭

16_shukaku_dorui_1 17_dorui 主郭の低土塁

24_koguti_1 東虎口

25_minami_karabori_1 南空堀

現状(10月)城跡は、植林地となっているので木々も少なく、ほぼ単郭で形成される城跡は見通しも利き、全体像が窺える為に良い状態にあると言っても良いとは思われるが、地表は全て低い笹で覆い尽くされているので、細部に渡る地形の変化を読み取る事は非常に困難な状況にある。もちろん最初から縄張り妙味に期待する山城ではないので、そこまで拘る必要はないとは思われるが、、、 城跡の形態は自作概念図を見て頂ければお分かりの様に、遺構として判別出来るものは空堀、虎口跡、周囲を巡る低い土塁(分厚い)と少なく、見応えには少し欠けるかもしれない、規模も山上郭群の全長は60m前後であり、単郭である事も相俟って、当然山城としての醍醐味を感じるまでには至ってはいない。しかしこの小振りな城跡も、全体像が窺える状態にある事からも、当時の山城がそのままタイムスリップして現在に至った様にも感じられて、自ずと当時に思いを馳せる事は容易いものとも思われる。5世紀を経ても尚、この状態が拝めるのであれば、自ずと史跡価値は相当高いものとも見受けられたが、、、、。

尚、ルート図には示したが、この城跡の西麓に位置する藪内氏城のリポートは次で掲載の予定

2009年11月 5日 (木)

甚二郎城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町勝地にあって、既にリポート掲載を終えた新氏城の谷を挟んだ直ぐ南西側に位置しており、全体像から窺えばほぼ平城に近いものである。名が語る様に甚氏の居城、あるいは屋敷跡として間違いないものとは思えるが、詳細は不明。

ちなみに個人的な見解にはなるが、当時は新(シン、実際にはアライかも分からないが、)氏と呼ばれた氏名は神(シン、ジン)氏とも置き換える事が可能であり、甚氏のジンは本来は神(ジン)氏のジンから当て字されたものの様にも思える事から、少し強引かもしれないが「新氏」は本来「甚氏」と同じ一族であり、当て字が変化しただけである様にも思えるのである。よってこの二城は呼称は僅かに違うが、本来新氏の山上郭を詰城とすれば、こちらは居館とも言えるシン(ジン)氏の城跡の形態が、自ずと見えてくる様にも思えるのである。

1route_3 登城ルート

4_2 城跡進入路

Sz1 3ji 城跡概念図

城跡へは、先に触れた新氏城を起点とすれば分かり易いが、進入路としてはルート図あるいは概念図に示した二通りの向い方がある。南の民家脇からの小道より向えば、直ぐにでも城域となる便宜上の主郭及び副郭に到達出来、図中に示した最上段に位置する東西の物見郭(推察)までは、崩落の見受けられた斜面、あるいは郭仕切りとも見受けられた縦土塁を上れば、一気に到達可能となっている。尚、車は集落内における生活道が狭い事からも、JA付近の道路空きスペースを利用するか、少し遠くなるが公民館の駐車場に預ければよいものとは思われる。

9_isigaki_1 主郭南の謎の石積み

13_dorui_kado_isi_1 副郭角の土塁と石積み見所

15_shukaku 主郭の現状

19_dorui_karabori_1 西物見の空堀跡見所

22_monomi_nai_1 西物見の内部

20_dorui_heki_isi_1 土塁内壁の石垣痕

24_higasi_monomi_karabori 東物見の空堀見所

現状(10月)城跡の主郭となる削平地は、本来高低差を伴って屹立していたかとも思われる、郭背後の切岸からは土砂が随分崩落流失しており、大部分はただの斜面の如き様相になっている。副郭は土塁(底部に石積み)も明確に残存しており、判別し易い状態にはあるが、郭内部は荒れ放題でもあり、雑木が密生して外見から中を覗く事は非常に困難な状況にある。先に触れた便宜上の物見郭は、この主郭の東西上段(高低差10m以上)に左右に分かれて備わっているが、内部は非常に状態が悪いので、小規模でありながらも全体像を外見から覗く事は非常に困難、しかし土塁あるいは背後の空堀は判別し易く残っている(特に東側は状態が良い)ので、中々目は楽しませてくれる様には感じられる。尚、この二郭は直ぐ背後の林道からも窺える距離にあるので、最初にこちらから見学しても良いかもしれない、、

この城跡の、ほぼ平城に近いが地形を利用した縄張りプランは、非常にユニークなものがあり、充分見学する値打ちはあるものと感じられたが、まだ未訪の方には「新氏城跡」、あるいは、これから紹介する事になる、妙楽寺城などと併せた同日訪問を是非お薦めしたい。

2009年10月19日 (月)

福地城跡(三重県伊賀市)

この城跡へは個人的には10数年振りの再訪となったが、近年の城郭ブームによって非常に整備の行き届いた城跡として生まれ変わっていた。当然縄張り構造は変わっていないのだが、前回主郭虎口西側に造成されていた側壁を石積みとした荒地には「伊賀小屋組みの家」といった民芸茶屋らしきものも新築されており、その名阪国道側は通路として大きく様変わりしていた。当然相当な地形改変が窺われたのだが、本来の郭転用地とすれば最低限許せる範囲なのかもしれない、多少残念な気持ちにはなったが、城跡ファンのみならず一般の史跡見学者にとっても非常に訪れ易くなったとは思われる。 

更に訪れたタイミングが良かったせいもあって、前回は虎口前の空堀から北郭にかけては下草で覆われて、遺構すら確認出来なかったものが見事なまでに全貌があらわになっていた。この城跡はある程度公園化されているので状態も良く、現状(七月)において現存する遺構は、北側山裾に位置する広大な規模の居館跡も含めて、全て判別確認出来る状況にあり、規模はそう大きくは無いが、縄張りを含めて中世の城跡の佇まいを存分に堪能する事が出来そうには思える。

1 登城ルート

6_1 現地案内説明版より

3fu 城跡概念図

6_2 登城口

34_shukaku_nisi_karabori 虎口前の空堀見所

2022虎口石垣跡見所

26_shukakunai_ido 主郭内井戸跡見所

29 石蔵跡見所

30_dorui_jyou 主郭土塁上

38_kitakaku_nai_1 北郭の土塁見所

10yakata_karabori_1 居館跡の土塁、空堀見所

12_iyakata_zenbou 居館跡の全貌

 

伊賀においてはこの城跡より規模も大きく、状態は悪いが遺構残存度の高い城跡はまだ数多くあるのだが、居館と詰城がセットで、しかも良い状態のままで全体像が窺える城跡は数も少なく、中世の城跡(城館)を見学する分には最高の教材と言えるのではないだろうか。この城跡に関してはネット上あるいは文献でも数多く採り上げられていると思えるので、敢えて多くは語らないが、この城跡を史跡として見学された方も、これをきっかけとして土塁城(土城)の魅力を再認識して頂きたいと思うのである。今までもブログ中で何度か触れた事ではあるが、5世紀以上に渡って当時の構築物がそのまま現在まで残されているのは、古墳と山城遺構だけと言っても過言ではなく、未だに当時の原形を留めている土塁や切岸は、日本の風土から考えれば脅威に値するとも思えるのである。正に当時の土木技術抜きにしては考えられないものでもあり、今まで天守閣の存在する近世の石垣城ばかり訪問されていた方も、是非こういった土塁城にも足を向けて頂きたいと思うのが本音でもある。当然この城跡はこのブログを拝見して頂いている山城ファンのみならず、一般の史跡見学者あるいはこれから城跡を訪問する準備のある方にも、是非訪問をお薦めしたい城跡の一つである。

城跡は三重県伊賀市伊賀町柘植にあって、京阪神から向えば名阪国道「上柘植」ICが最寄の乗降口となる、位置的には伊賀サービスエリヤの西側の小山がそれであり、地図からも場所は確認し易いとは思われる。国道25号よりルート図を参考にして「萬壽寺」を目指せば難なく城跡までは到達出来る筈である。

2009年9月27日 (日)

松田城跡(三重県伊賀市)

この城跡は先に寄った新氏城跡を後にしてからは、県道2号より北上進行中に集落に舌状に延びた尾根が山城の如き様相を呈していたので、つい気になって訪問探索したものであるが、結果的には城跡遺構と呼べる堀切(空堀)あるいは土塁などは間違いなく現存しており、伊賀の城跡ではよくお世話になっている、城跡を示す「松田城」と記された青色タグによって城跡としても間違いの無い事が判明した。今回のリポートでは城跡が平凡な単郭土塁城で終わっていない事からも、所有する乏しい資料の類にはこの城跡は記されていないのだが、現地に掲げてあった標識(タグ)を信頼した上で、そのまま松田城としてリポート掲載に及んだ。よって詳細は全く不明でもある

城跡は三重県伊賀市青山町妙楽地にあって、先にリポート掲載に及んだ新氏城からは車で県道を北進すれば数分の距離にあり、目印としてはルート図に示した様に「稲谷口」バス停を目指せば分かり易いと思われる。この付近の空きスペースに車は充分駐車可能であり、ここからは概念図を参考にすれば5分もあれば城跡の先端郭に到達可能となっている。

1route 登城ルート

6 城跡進入路

3m 城跡概念図

現状(八月)城跡はこの時期においても比較的郭移動も容易く、見て回るにも難渋はしない状態にある。残存遺構も目白押しとは言えないが、先に触れた様に伊賀特有の高土塁は使用されておらず、丘陵上を二本の空堀と付随する土塁によって分断して郭を形成している。郭高低差あるいは縄張り妙味が特別ある訳ではないので、山城としての醍醐味も見応えも感じる事は出来ないが、南東側の空堀には僅かながら判別可能な仕切り土塁が付随しており、状態は良くはないが縦土塁あるいは縦堀に繋がる様は、この城跡の唯一の見所とも言えよう。他では現状相当地表風化によって埋もれてはいるが、中央に位置する空堀、土が流失して高さは失われているが、付随する土塁は間違いなく見学者の目を楽しませてくれるようには感じられた。

10_toutatu_kaku 南東先端郭

11_dankaku_1 段郭

12_tatehori_dou 縦堀あるいは空堀道見所

16_shukaku_heki_2 主郭切岸見所

20_naka_karabori_dorui 20_naka_karabori_dorui_1 中央空堀土塁見所

23_sanjyou_gawa_kaku 山上側の郭

縄張りの全長は現状100mにも満たない城跡ではあるが、現在民家及び農地が直ぐ傍まで迫っている事を考えれば、近年において相当地形改変はあったものと解釈され、城域は現在のものより当時は県道沿いにまで相当はみ出ていた様にも推察される、、?今回の城跡訪問は偶然が生んだ産物でもあり、空手形に終わらなかった事からも充実した山城巡りとなったが、過去における他での探索回数から考えれば、徒労に終わったケースも多く、今回はラッキーな一面もあったが、満足感も含めた二重の喜びを味併せてもらった。

2009年9月25日 (金)

新氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町勝地にあって、集落中央にある「勝福寺」の西側にほぼ単独で聳える形の低山山上に位置している。当時は新左近の居城が伝わるが、詳細は不明

城跡へは京阪神から向う場合、伊勢街道と呼ばれる国道165号より掛田城跡を右手に見ながら、その先で県道2号へ左折針路変更、そのまま道任せに進行すればルート図からも目指す「勝福寺」までは難なく到達出来るだろう。「勝福寺」山門前には公民館があるので車の駐車に気を使う必要は無いとは思われるが、ここからは概念図と画像に示した様に、道路沿いにある白塗りのガレージが城跡へ向う為の目印となり、更に山道への進入口となるので決して見過ごさない様に!このガレージの左横から狭い畦道を通過して、右手に民家の立派な塀を見ながら山に向って上れば、ほどなく広い屋敷跡(当時のものかも?)とも窺われる削平地に辿り着ける、ここからは踏み跡を辿って急斜面を上りきれば、素晴らしい高土塁に囲まれた山上主郭が迎えてくれる筈である(10分内)。

1route_1 登城ルート

5 進入口

3si 城跡概念図

現状(八月)城跡は、山城としてはこれ以上望めないほどの良い状態にあり、木々も少なく下草もほとんど無いことからも、山上で形成される遺構は全て判別確認可能な状況にある。単郭で形成される非常に小規模な城跡ではあるが、主郭周りに凝縮された遺構群は見る者を必ず魅了してくれるである。当時が甦るかのような状態も残存度も抜群な高土塁、あるいは主郭の東、西を断つ縦堀に繋がる二箇所の堀切は城跡最大の見所ともなっており、この小振り過ぎる城跡においては抜群の存在感を誇るものとなっている。数多い伊賀の城跡の中でも一、二を争うほどの状態の良さでもあり、五世紀に渡る風化に任せた状態でよくぞここまで保持されたと驚くべきものでもある、個人的にはこのままでよいので是非史跡として認定して頂きたいと思うのだが、、、。山上郭は規模が小さい事からもほぼ物見程度の機能しか浮かんで来ないが、それにしては削平だけに止まらない過ぎるほどの防備機能、更に縦堀などの技巧も採り入れており、残存遺構の全てが見所とも思えるのである。規模は小さいが遺構残存度、あるいはこの素晴らしい状態からも正しく推奨に値する山城であり、是非訪問をお薦め出来る城跡と自分の目には映った。

17_shukaku_higasi_dorui 主郭東側土塁

18_shukaku_nisi_dorui 主郭西側土塁見所

20_yagura_ue 土塁を伴う櫓台見所

23_dorui_ue_1 土塁上

26_higasi_horikiri_2 東堀切見所

28_higasi_hasi_karabori 東端空堀

31_higasi_yori_kitaheki 主郭北側切岸

32_nisi_horikiri 西側堀切見所

尚、寺院背後の山上にも小規模ではあるが、物見(狼煙台)とも窺われる削平地が存在していたのでまだ未訪の方の参考までに、、、この城跡は山上を物見あるいは詰城とすれば、その別尾根東側に位置する寺院敷地が当時の居館跡とも思えるのだが、推察の域は出ない、更には民家背後の山裾に展開される、東西に広がる削平地が家臣団の屋敷跡とも窺えるのだが、、、。

2009年9月19日 (土)

若山城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町老川にあって、既にリポート掲載を終えた峰出城とは川を挟んだ対岸の丘陵先端部に位置しており、名が語るように若山氏の居城と伝わっている。詳細は不明であるが、伊賀地域の国人はほぼ織田軍によって壊滅されている事からも、「伊賀の乱」においては当然若山氏も同じ道を辿ったとは思われる。(近所には数軒若山姓を名乗る家屋があるので、御子孫である可能性が高い)

城跡へは先に触れた峰出城へ向う起点ともなった、「青山文化センター」からは丁度真北側に位置しているので方向は定め易いとは思われるが、集落付近の生活道路は非常に狭く、ルート図あるいは概念図に示した広い道路のカーブ付近に路駐して、工務店作業所(現在廃屋に見えた)を目印として歩いて向われる(5分程度)事をお薦めしたい。現地付近に到達すれば、画像に示した辺りより登れば直ぐにでも主郭まで辿り着ける。青山文化センター側から向われる場合は、道路川沿いの「公民館前」バス停付近に路駐スペースはあるので、そこから北進して集落を潜り抜ければ自ずと辿り着く事は可能である。

1route 登城ルート

5_sinnyuukuti 城跡進入口

3w 城跡概念図

この城跡は他の伊賀の城跡と同様に所有する資料も情報も皆無に近く、何時もの如く場所も特定出来ずに訪れる事になったが、現地付近で地元の方に尋ねれば直ぐ場所は特定することは出来た。他の情報としてはこの城跡の他に中村氏城あるいは島野氏城などが老い川地区に現存しているとの事でもあったが、現在は山道も途絶えているので鎌を持っての訪問は余儀なくされるとの事でもあり、流石に訪城は諦めざるを得なかった。既に訪問を終えた峰出城なども併せれば、この狭い山間部にはまだ相当数の城跡が眠っている様にも感じられるのである。

7_koguti_dorui_1 虎口櫓台土塁見所

8shukaku_dorui 主郭土塁

12_shukaku_nai 主郭内部

15_horikiri_3 北堀切1見所

16_horikiri_dorui_1 堀切に付随する大土塁見所

19_2jyu_horikiri_2 中央土塁、二重堀切の全貌見所

20_yasiki当時の屋敷跡か?

現状(八月)城跡は地元の方から聞き及んだ通り藪化の真っ只中にあるが、意外にもこの時期にしては余裕で動き回れる状態でもあり、遺構の判別確認も容易に出来る状態にある。現状判別出来た遺構は図に示した様に、主郭三方を取り囲む高土塁、虎口に備わる大型土塁、北背後を断つ二重堀切(縦堀)などが挙げられるが、見所としては土塁郭を間に挟んで縦堀として繋がる二重堀切に尽きると言っても良いとは思われる。この遺構は北東側から望めば全体像がほぼ拝める事からも、相当な見応えを感じる事が出来るものであり、充分観賞に耐えられるものでもある。城跡そのものは館城の性格を持っているので、当然縄張り規模もそれ程大きくは無いが、訪れて決して落胆する事は無い様には感じられた。尚、ルート図には示したが、川沿いの道路側から見上げれば立地環境からもそれと分かる、規模の大きい敷地を持つ民家(現在廃屋に見えた)があったが、その敷地北背後には凄い土塁(分厚い上に高低差もある)も窺えたので、おそらく当時は居館跡と呼んだものなのかもしれない(推察)? 無駄足に終わるとは思われなかったので、取り合えずまだ未訪の方の参考までに、、。

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