大阪府の山城跡

2012年10月 4日 (木)

能勢 井内城跡(大阪府豊能郡)

この城跡は大阪府豊能郡能勢町宿野にあって、既にリポート掲載を終えた下見砦跡と同様に、山城ファン(ブログ読者)の方からの情報により、その存在及び所在地を知り得たものだが、下見砦との同日訪問は個人的諸事情により叶わなかった。今回やっと訪れる事に相成ったが、下見砦とは同じ山塊を共有しており、下見砦が丘陵西先端に位置するのに対し、この城跡は東側丘陵上に位置している。その名が語る様に井内氏の城として伝わっているが、その詳細は不明。

城跡を訪れるには、先に触れた下見砦とほぼ同様のアクセス方法となるので今回は割愛させて頂くが、54号線沿いに掲げられた「常慶寺」看板を目印として目指せばよいだろう。車は当然寺院駐車場に預ける事になるが、その敷地西端(画像に注目)に取り付き、蔓延る木々の少ない左手斜面側へ回り込みながら(必ず!)上れば、藪漕ぎもなく10分内で辿り着ける筈である。

1route 登城ルート

9 直登取り付き口

3iu 城跡概念図

城跡の形態はほぼ概念図に近いものと思って頂いても良いかもしれないが、本郭群の総全長は50mにも満たない砦規模の城郭である。自ずとお目にかかれる遺構の数も知れているが、長年の堆積物によって深さの失われた空堀跡、それに付随する縦堀跡、主郭あるいは帯郭における高低差に欠ける切岸跡などが、現状唯一明確に判別確認可能な遺構と思って頂いてもよいだろう。もちろん遺構に見応えや醍醐味を感じるまでには至れなかったが、付かずの遺構群の残存度は高い(ほぼ完存か)ものであり、城郭遺構としての値打ちは非常に高いものとも感じられた。

11 南東先端郭

14_1 南帯郭

14_2 帯郭切岸

16 主郭内

19 主郭南堀切壁(切岸)見所

20 堀切見所

21 縦堀見所

現状(九月)山上郭群は藪化進行中にあり、それによる堆積物も相当なものと眼に映ったが、自分を含めたマニアックな山城ファンの訪城に限られてくる山城としては、直登ルートも含めて蔓延る木々は比較的少なく、更に郭移動に差し支える事なく見て回れる状況にはある。ただし低草木の蔓延る西急斜面側は覗いていないが、、、、城跡を個人的に評価すれば、先に触れた下見砦との同日訪問であるのなら何とかお薦めも出来ようが、遺構の見応えも含めて、規模や縄張り妙味は絶対に問わない事が大前提とはなるだろう、、、

2012年9月30日 (日)

陣城の如き広大な郭跡が特徴 岸本屋敷跡(大阪府豊能郡)

この城跡に関しては、城ノ腰城探索ついでに気になっていた谷状地形を挟んだ南西尾根を覗いた事から話しは始まるが、その尾根上では単郭構造の館城か陣城の如き広大な規模を誇る削平地、西尾根を断つ明瞭な堀切跡(縦堀に繋がる)虎口の痕跡、東端の高低差を誇る切岸跡といった具合に、紛れのない城郭遺構と対面する事となった。もちろんこの推察城郭遺構の素性を探るべく、下山時において麓で数人の年配の方に情報を求めたが、その結果この地は昔から岸本屋敷(古名)と呼ばれている事が判明した。数日後図書館に寄って「北摂の歴史」を調べた結果、古地図に岸本屋敷及び東隣の梶ヶ谷の地で古城マークを確認する事が出来たが、位置的には梶ヶ谷の地にある事から、形態だけ採り上げれば陣城の様な気がしないでもない、、、今回は明確な城跡呼称が判明しないまま、岸本屋敷跡として現況をリポートする事に及んだが、既に紹介されて識別呼称の付いた城跡である可能性は充分考えられるので、その点に関しては柔軟に対応して頂きたい。

城跡は豊能郡豊能町余野にあって、先にリポート掲載に及んだ城ノ腰城とは、谷状地形を挟んで南西側尾根上に対峙している。城跡までのアクセス方法は概念図を参考にして頂きたいが、城ノ腰城西切り通し(ここまでは小型車通行可能)からは、赤ラインを辿って頂ければ良いだろう。左手に見えてくる小さな沢を跨いで丘陵上を目指して上れば、直ぐにでもり空堀道を含めた虎口跡(推察)が迎えてくれる筈である。

1route_2 登城ルート

4 城跡遠望

Photo 城跡概念図

城跡の形態は、アバウトに描いた概念図を参考にして頂ければ良いが、先に触れた単郭構成の広大な規模を誇る本郭、それに西尾根を断つ堀切(数十m)、虎口跡、更に川に面した東側斜面に残る明瞭な切岸跡が、自身の眼に留まった現在拝める数少ない遺構群、あるいは見所遺構という事になろうか。尚、この地は岸本屋敷と今でも呼ばれてはいるが、単純に屋敷跡(館城)とすれば余りにも規模が大きい事もあって、個人的には陣城の様にも目に映ったが、それはこれから訪れる方の想像に全て委ねられる事になるだろう、、、

11 進入経路(現状空堀道)

6 東切岸見所

8_100_3 主郭内部

10 虎口跡(推察)見所

13_1 13_2 縦堀に繋がる堀切見所

現状(九月)、単郭で成立した本郭は藪化が進行中ともあって倒木も多く、全体的に荒れ放題の様相を呈しているが、探索移動に差し支えるまでには至っておらず(場所は限られてくる)、見通しの利く空間(画像に注目)も少なからずあり、その広い空間に佇めば充分臨場感は味わえる筈である。これを機に臨まれる用意のある方には、城ノ腰城と併せた同日訪問は充分お薦め出来るだろう。

2012年9月27日 (木)

城ノ腰城跡(大阪府豊能郡)

この城跡は山城ファン(ブログ読者)の方からのコメント情報で、初めてその存在と所在地を知り得たものだが、大阪府豊能郡豊能町余野にあって、既にリポート掲載を終えた余野本城南東側の、余野集落に向いて突き出した丘陵尾根先端部に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、築城環境から考慮するのであれば、余野本城を築いた能勢一族の城と考えて良いのかも知れない、、、

城跡を訪れるには余野本城を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、国道423号線交差点「切畑口」の信号からは「城ノ腰橋」を渡り、ルート図における赤ラインを辿って頂ければ、5分前後で本郭群までは辿り着ける筈である。

1route 登城ルート

3si 城跡概念図

本郭群の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても良いとは思われるが、規模は全長百mに達するものであり、本郭群の西堀切(地形改変の窺える切り通し道)を隔てて、更に西側痩せ尾根上の削平地から西端尾根上の堀切(現状豪快な縦堀に繋がる地形)、更にその上段付近の削平地までも縄張りとすれば、城域はそれなりに広く、砦規模は充分はみ出た城郭の一つと言えるのかも知れない、、、、見所遺構がそう多くあるようには思えなかったが、主郭あるいは腰郭を形成する明瞭な切岸、二ノ郭西端の土塁郭(櫓台?)、先に触れた西端尾根に刻まれた堀切及び縦堀などは、間違いなく見学者の目は楽しませてくれると思えた。概念図に描いたまでが自身が踏破して判別確認出来た遺構群という事になるが、木々の蔓延る南側斜面までは踏破確認に至っていないので、小規模な郭跡や空堀に関しては、この限りではないものと思って頂きたい。館城(丘城)に近い城跡の形態から考えても、そう多くの残存遺構は望めそうには思われなかったが、、、、

14_horikiri 進入経路(西端の切り通し)

20_2kaku_shukaku 二ノ郭より主郭側

16_yagura 土塁郭見所

21_shukaku 主郭

24_gedan_shukaku_heki 主郭東切岸見所

32 西尾根郭

30 西端堀切見所

31 縦堀(空堀道か?)見所

34 堀切西背後

現状(九月)城跡は、郭跡に多くの木々が蔓延らない事で見通しが利き、比較的見学し易い状態が自然維持されており、歩き回って縄張りを把握する事も容易く、遺構の醍醐味には充分触れる事が出来る状況にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価すれば、見応えのある遺構は数少ないが、直ぐ傍まで農地や家屋が迫った現状を察すれば、遺構残存度は非常に高いものであり、ほぼ当時のままの祖形が維持されていると眼に映った事、更に圧倒的お手軽感も加味すれば、間違いなくお薦め出来る城跡の一つ、という事にはなるだろう。

2012年9月18日 (火)

高山二城の中の一つ 高山城跡(大阪府豊能郡)

この高山城に関しては、数年前リポート掲載は終えているが、訪城後における山城ファンの方からの情報により、この高山地区にはもう一つ山城跡が存在する事が既に判明していた。同時に以前リポート掲載を終えた山城は「高山向山城」Photo という識別呼称があるという事も判明したが、その時城跡を覗かれた方からの現地情報では、「遺構らしきものは山上におけるそれらしい削平地のみだった」と聞かされていた事から、自ずと残存遺構には期待が持てず、個人的には随分訪問を先送りにしていた経緯がある。今回やっと訪問する機会に恵まれ、現況報告をする事に及べたが、頂戴した情報通り「見るべきものは山上削平地のみ」と言っても過言とは思えないものであり、これを機に訪れる方には、是非「高山右近の足跡を辿るべく、高山の里も含めた史跡巡り」と割り切って、現地に赴いて頂きたいと思えたのである。尚、以前高山城として載せた高山向山城のリポート記事は、城跡の形態上(どちらが本城とも言えない)訂正しないままの状態にしてあるが、今回再度概念図は載せたので、取り合えず二城の位置を確認して頂きたい。

1route 登城ルート

6 城跡進入経路

3 城跡概念図

城跡は大阪府豊能郡豊能町高山にあって、ルート図に示した如く高山向山城とは西方寺を挟んだ直ぐ北西側の丘陵上に位置している。城史に関しては在地士豪でもある高山飛騨守の居城と伝わり、その息子となる高山右近は戦国史には必ず登場するほどの、武勇に秀でた武将の一人、キリシタン大名として余りにも有名。

城跡を訪れるには、先に触れた高山向山城を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、「高山バス停」からは概念図にある「西方寺」を目印として赤ラインを辿って頂きたい、山上本郭までは数分で辿り着ける筈である。

T_4 空堀の痕跡

T_5 主郭

T_7 主郭北側

T_10 腰郭跡

城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、近年敷設されたと察せられる林道が郭内を通過している為に、郭内部に相当な地形改変が見受けられた事、更に大味極まりない縄張りプラン、更に郭外壁に切岸ラインを見て取る事が出来ない曖昧な地形が重なって、その城域も縄張りも全て見学者の判断に委ねられると思って頂いてもよいかも知れない。ただ主郭の境となる林道脇には、僅かに空堀地形(画像に注目)が窺われた事だけは報告しておきたいが、、、、

2012年9月15日 (土)

砦規模ではあるが佇まいが値打ち 水牢古城跡(大阪府豊能郡)

城跡は大阪府豊能郡豊能町野間口にあって、当時は野間口集落あるいは遠く余野集落まで見通せたと察せられる、標高527mの山頂(水牢古城山)に位置している。城史に関しては能勢氏の庶流が築いたものと伝わっており、既にリポート掲載を終えた水牢城こと余野本城は、その後裔となるものと考えれば良いのかもしれない。

城跡を訪れるには、先に触れた余野本城(水牢城)を起点とすれば分かり易い位置にある事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、国道423号交差点「妙見口」からは登城ルート図を参考にして頂きたい。尚、今回の登城においては、「清滝バス停」付近から山頂までは、尾根を辿れば迷わず辿り着けると思われたことから、敢えて直登を選択したが、地図上の登山道が示す様に、山頂で偶然出会った登山パーティーの方から、南尾根側からは登山道で上れると聞いたので、今回の直登ルートは取り合えず参考程度にして頂きたい。ちなみに直登ルートでは踏み跡も僅かに残っており、木々の隙間を縫っての登山(藪漕ぎまでは至らず)は余儀なくされるが、10分内で主郭まで辿り着けた事だけはお知らせしておきたい。

1route 登城ルート

5 直登取り付き口

3 城跡概念図

城跡の形態は、アバウトに描いた概念図に限りなく近いものと思って頂いても差し支えないとは思うが、全長30m程度の砦規模の山城である。郭西側に施された地表風化の激しい分厚い土塁(高低差は失われている)が、唯一この地を城跡として物語るものでもあるが、未だほぼフラットに自然維持された見通しの利く郭跡(意外!)に佇めば、充分当時に思いを馳せる事も可能であり、臨場感も同時に味わえるはずである。主郭東側斜面においては明瞭な切岸、あるいは狭小腰郭跡を眼にする事も出来るが、斜面上で縦堀あるいは尾根を断つ空堀の類は確認出来なかった。恐らく最初から施されていなかったのだろう、、、、

8_kirigisi_1 切岸跡

9_shukaku 見通しの利く主郭

9_shukaku_kita 主郭北側

12_dorui_2 土塁跡見所

14_kosi_kaku 腰郭

現状城跡は山頂に三角点がある事から、トレッキングを目的とした方々も少なからず訪れる様に察せられたが、無名に近い山城としては、非常に見学し易いコンディションの下にあると思って頂いてもよいだろう。城跡を個人的に評価すれば、残存遺構は郭跡を除けば切岸及び土塁のみであり、縄張り妙味は感じられず、更に規模は小さく、遺構見学だけを目的とした訪城とするのであれば、落胆する事は必至の山城とも言えようが、小規模ではあるがほぼ完存に近い縄張りの値打ち(史跡価値)、見学する分には非常に味気ないが、このほぼ全体像の窺える楚々とした佇まいを思えば、北摂の山城に興味を持たれている山城ファンの方々に対してだけは、充分お薦めは出来るだろう。史跡ファンの方々にも、この山を古城跡と知った上で、トレッキングついでに山城見学を楽しんで頂きたいが、、、

2012年7月15日 (日)

下見砦跡(大阪府豊能郡)

城跡は大阪府豊能郡能勢町宿野にあって、54号線沿いにある「西方寺」背後の丘陵上(比高約80m)に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには「能勢町役場」を目印として向かえば分かり易いが、54号線沿いにある「中宿野バス停」脇が登城スタート地点となる。バス停より北進すれば右手に直ぐ小さな山道が目に留まるが、そこから右斜面に取り付いて上れば、10分内で主郭までは辿り着けよう。道中藪漕ぎまでには至っていないが、急斜面に蔓延る木々の隙間を縫いながらの直登は余儀なくされよう。尚、車は先に触れた西方寺の駐車場に一旦預ける事になる

1_1 登城ルート

6_2 登城スタート地点

Si 城跡概念図

城跡の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても差し支えないかも知れないが、地形に任せたまま痩せ尾根上を削平しただけに終わっている様は、砦とするに相応しく、郭総全長はそれなりのものがあるが、削平された郭跡を除けば、東尾根を断つ空堀(僅かに土橋の痕跡)が唯一判別確認可能な遺構と思って頂いてもよいだろう。もちろん判別可能とは言っても、それなりに地表風化は進行しているので、明瞭なものとは言えないのだが、、、

7_kaku 西端小郭

11_rogan_daiyou_dorui 土塁の代用か?露岩

12_sanjyoukaku_higasi_gawa_1 山上郭

14_wazukana_karabori_dobasi 空堀見所

現状(六月)城跡は、藪化は当然進行中にあるが、比較的木々の少ない郭内の移動は容易く、西先端部の狭小郭跡から東空堀までは難なく見て回れる状況にある。空堀から更に東側へも削平地は続いているが、東へ向かうほど藪化は深刻化した状態にあるので、この城跡に関しては他に遺構も期待は出来ず、深く探索する値打ちはないのかもしれない、、、、ただ寺院直ぐ北背後の尾根上に規模の大きい削平地が窺われた事だけは報告しておきたい。

城跡を個人的に評価すれば、既にリポート掲載を終えた宿野城を始めとした、能勢町における山城巡りの一環とすれば、何とか訪れる理由も生まれてくる城跡といったところか。

2012年7月10日 (火)

能勢垂水城跡(大阪府豊能郡)

城跡は大阪府豊能郡能勢町垂水にあって、既にリポート掲載を終えた山田城とは、谷状地形を挟んだ南西側の山上に位置している。自ずと山田城の出城とも窺えようが、推察の域は出ないものでもある。よって城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、ルート図に示した様に周辺に林立して築かれた山城を起点とすれば、分かり易い位置にあるので、それまでの訪問ルートの説明は今回は割愛させて頂く。山田城と同一の登城ルートで、目印となる最奥にある溜池まで向かう事になるが、そこからは概念図を参考にして更に山道を上れば、迷わず辿り着ける筈である。車の駐車に関しては、溜池付近に小型車なら充分駐車スペースは確保出来るとは思われる。

1route 登城ルート

3 城跡概念図

8_1 山道突き当りとなる土塁地形

現状訪れた時期も悪いが、藪化は深刻化しており、地表風化も更に追い討ちをかけた非常に醜い状態にある。それでも規模が小さいので、何とか全体踏破は出来たが、小規模な主郭内は低草木で覆い尽くされており、踏み入る事は非常に困難な状況にあると思って頂ければ良いだろう。その中にあって判別確認可能な遺構は、主郭と帯郭間における一部の切岸跡(高低差は余り無い)、地表風化によって相当埋もれた堀切(僅かに土橋付き)、虎口地形に付随した縦堀地、南西端の斜面に施された堀切地形が挙げられるが、主郭背後の堀切や一部の切岸を除いては、何れも風化の進んだ地形からは判別し難いものであり、これらの機能の想像は、ほぼ見学者の想像に委ねられるといっても良いだろう。

11_obi

帯郭と主郭切岸

10_heki 主郭側面と内部の現状

12_horikiri_1 土橋付き堀切見所

18_seitan_horikiri_1 山道が繋がる堀切地形

城跡を個人的に評価すれば、知名度に欠けるほとんどの山城がそうである様に、この山城も冬季訪問に僅かな期待が持てるかも知れないが、訪れるに際しては、遺構の見応えや縄張り妙味は最初から絶対に問わない事が肝心、、、

2011年9月11日 (日)

圧倒的お手軽感と状態の良い切岸だけは誇れる 能勢吉良居館跡(大阪府豊能郡)

城跡は大阪府豊能郡能勢町天王にあって、国道173線からもその丘陵は直ぐ望める位置にある。名が語る様に吉良氏の居館跡と伝わっているが、この吉良氏に関しての情報は皆無に近いものであり、これからの情報にも余り期待は望めないだろう。ただこの比較的規模の大きい居館跡や、主郭に付随する緩い傾斜を伴う広大な削平地、あるいは切岸処理の行き届いた郭群を窺う限り、能勢においてはそれなりの勢力であった事は充分窺えるが、、、

城跡を訪れるには、国道173号へ進入する事がまず先決となるが、天王小学校を目印として目指せば分かり易い。ルート図に示した天王小学校の位置から、城跡の所在場所は確認して頂きたいが、国道に面している事もあって、城跡の位置確認は容易いとは思われる。入山口は概念図に示したが、ここから郭転用地と見受けられた古い墓地を経由して上れば、直ぐにでも主郭が迎えてくれる筈である。

1route 登城ルート

3_1 城跡概念図

この城跡は、自分にとっては山城巡りの移動ついでに、何時でも気軽に寄れる環境にある事を理由に、ここ数年間は再訪もせず、リポート掲載も未だに及んでいなかったが、今回は山城巡りの帰路において十分な時間が採れた事もあって、やっと現況をリポートする事に及べた。ただ初回訪問時においては、見通しの利く状態の良い主郭に佇んで、充分な臨場感を味わう事が出来たが、現在では主郭から更に山上に向いて、2m近い高さの獣避けファンスが張り巡らされているので、現状主郭内に踏み入る事は出来ない状況(入山ゲートは付近になかった)となっている。主郭跡に佇む事が出来ないのは非常に残念ではあるが、城域が全て植林地にある事で、郭全体像がほぼ窺える状況から、フェンスのお陰で遺構見学に差し支えるまでには至っていないのがまだ救いか、、、、

10 入山後直ぐ主郭切岸が望める

12_kaku 郭転用地

15_naka_kaku 東郭群切岸見所

19_shukaku_heki 見事な主郭切岸

24_shukaku_sokuheki_1 主郭東側の切岸見所

19_shukaku_nai_2 主郭内

22_shukaku_dorui_1 主郭土塁跡見所

遺構見学において一番醍醐味の感じられる部分は、空堀などは一切施されてはおらず、唯一の防備機能とも思えた郭切岸で、下草も蔓延らず当時のままとも言える素晴らしい状態の切岸には、感動させられる事は請け合いとも思えたのである。現状踏破した範囲で目に留まった遺構は、概念図中に記した土塁だけに限られるが、居館としたその佇まいには、その状態の良さも相俟って、充分な満足感には浸れよう。

個人的に城跡を評価すれば、数年経っても初回訪問時よりほとんど変わらない、状態の良さだけは特筆に値するものであり、時期を問わず遺構見学が楽しめるこの状況は、圧倒的お手軽感を含めずとも、間違いなくお薦め出来る城跡の一つと自分の眼には映ったのである。ただ縄張り妙味は感じられず、遺構の見応えは切岸だけに限られるものと思われるので、これを機に訪れる方は、決して過大な期待を持って城跡を訪れない事が肝心、、。

2011年9月 1日 (木)

田尻東山城跡(大阪府豊能郡)

城跡は大阪府豊能郡能勢町下田尻にあって、既にリポート掲載を終えた田尻城からみれば、田尻川を隔てた南東側標高約366mの山頂に位置しており、田尻城からも充分望む事が可能である。この山城は文献資料による違いはあるが、田尻御所とも呼ばれており、名が語る様にこの険峻な山頂を居館としたとは思われないが、当時の事情を考慮すれば、その可能性も否定は出来ないだろう。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、田尻城を起点とすれば当然その位置は分かり易いが、ルート図には県道4号へ進入した上での分かり易い目印となる、「アートレイクGC」からの登城ルートを示した。直登開始地点付近までは林道が利用出来るが、現在(八月)その途中が道路工事中にあるので、車はルート図に示した付近に自己責任においての路駐という事になる。林道沿いからは藪漕ぎのない植林地を直登する事になるが、5分程度で主郭へ到達出来る筈である。ちなみに路駐箇所からは20分内

1route_2 登城ルート

7 林道沿いの直登取り付き付近

3_1 城跡概念図

現状(八月)城跡は藪化進行中にはあるが、意外に樹木が密生しておらず、場所によっては木々の隙間を縫っての移動は余儀なくされるが、移動範囲(枝尾根がないので山頂のみ)も限られたものであり、取り合えず郭移動に難渋することもなく、全体をくまなく見て廻れる状況にはある。城跡の形態は概念図には示したが、相当古い時代に築かれた山城と察せられ、それに伴う地表風化も激しく、切岸跡が確認できる箇所は空堀付近だけに限られてくるのが現実でもある。ただこの山城の形態を考えれば、縄張りプランまで敢えて追求する必要性は感じられなかったが、、、その中にあって唯一判別し易い遺構は、主郭の両端に施された空で、特に南側の空堀は土塁を伴ったものであり、深さは失われているがそれなりに目は楽しませてくれる筈である。北側の空堀に関しては、僅かな深さと土橋の痕跡が窺える程度と思って頂ければ良いだろう。

10_horikiri 10_horikiri_2南空堀、土塁と主郭切岸見所

12_shukaku_yagura 主郭の露岩を含んだマウンド地形

15_shukaku 主郭の現状

18_karabori_dobasi 分かり辛い土橋付き空堀見所

城跡を個人的に評価すれば、遺構の見応えだけを問われれば、返答に困るのが現実と言えるかも知れないが、古い形態が故に醸し出されるこの山城の風情は捨て難いものがあり、当時に思いを馳せる事が充分出来る事を思えば、北摂の山城に興味を持たれている山城ファンの方だけに限れば、何とかお薦めできそうには思えたのである。もちろん遺構の見応えは最初から捨てて臨む事が前提であり、林道から直ぐの距離にあるお手軽感を含めての話しになるのだが、、、

2011年8月26日 (金)

田尻城跡(大阪府豊能郡)

この城跡は既にリポート掲載を終えた能勢町にある杉原城と同様に、個人的には今まで全く城跡としての認識がなく、ブログ読者の方からの情報により、初めてその存在と所在地を知り得た城跡の一つでもあるが、文献資料の類に田尻御所として呼ばれ記載されている山城は、別称「田尻東山城」として別に存在するので、この城跡と混同しない事が必要。城史に関しての詳細は不明

城跡は大阪府豊能郡能勢町下田尻にあって、「長久寺」直ぐ背後の丘陵上に位置しており、訪れるにはこの寺院を目印として目指せば迷わず辿り着けよう。城跡へは取り付き易い場所から上り始めれば良いが、画像に示した寺院駐車場の近くから上れば木々が少なく、比較的上り易いのではないだろうか。五十m程度を上り切るだけなので、直ぐにでも(5分強)山上主郭が迎えてくれる筈である。

1route_2 登城ルート

4 城跡遠望

7_2 直登進入口

3ta 城跡概念図

現状(八月)城跡は、全てに渡って自然任せの荒れ放題となっており、下草はほとんどないものの、郭跡及びその切岸壁までも覆う倒木を含めた堆積物によって歩き辛く、郭跡は削平跡すら確認も出来ないほどの凸凹地形と化しており、遺構見学にも郭移動にも差し支え、残存遺構をゆっくり味わう事も出来ない、遺構見学としては楽しむ余裕の無い状況にある。ただ救いは比較的見通しが利く事によって、堀切や縦堀などの遺構はそれなりに確認し易い状況にある事で、取り合えず概念図に示したまでの遺構は、一部で窺われる明瞭な切岸跡と並んで、山城ファンの方であれば充分判別確認可能とは思われる。この状況の中で見所を敢えて挙げるのであれば、主郭背後に備わる見応えのある堀切土塁の付随する横堀(縦堀へ繋がる)、斜面上に施された縦堀という事になろうが、これだけの手付かずの遺構が揃っていながら、状態の悪さが足を引っ張って、中々城跡としての良いイメージが湧いて来ないのが現実と言えようか、、、

25_karabori_dorui_2 中腹の横堀と土塁見所

26_tatebori 縦堀見所

21_hokutou_kakugun_1 一番状態の良い郭切岸

18_horikiri_1 堀切見所

14_shukaku 主郭内部の現状

今回の訪城では郭跡を覆い尽くす堆積物によって郭構成さえ掴む事が出来ず、縄張りも含めて掴めないままに終わってしまったが、これが近年人の踏み入った形跡の無い本来の山城の姿とすれば自ずと諦めも付くし、状態は悪いが城郭としての祖形は全く失われていないと感じられた事から、城跡としての史跡価値は決して下がらないものと自分の目には映ったのである。取り合えず空堀(縦堀を含めた堀切と横堀)が拝めるだけの理由で、能勢の山城に興味を持たれている方だけには何とかお薦め出来るかも、、、、

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