京都府の山城跡

2009年11月10日 (火)

篠尾羽合城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市篠尾/羽合(ハアワセ)にあって、国道9号を走れば車窓からも望める丘陵上に位置しており、加茂神社の南側背後の裏山あるいは共栄学園高校のグラウンド場から見れば西側の丘がそれにあたる。城史に関しては不明

城跡へは福知山市内に入れば、国道9号沿いにある「ツタヤ」あるいは「ユニクロ」を目指せば分かり易いが、「ユニクロ」付近からはルート図の赤線を辿れば、登城口でもある加茂神社までは難なく到達出来よう。車は児童公園(概念図に示した)付近の広い道路には充分な空きスペースがあるので、自己責任において停めればよいものとは思われるが、そこから歩いて目印となる神社を目指しても5分とはかからない。神社敷地も当時の郭跡とも見受けられるものであり、既にここから城域に足を踏み入れている事にもなるが、社殿背後より山道に従えば、自ずと主郭と南郭の堀切までは直ぐにでも到達可能となっている。

1route 登城ルート

7 進入口

3h 城跡概念図

現状(10月)城跡は思ったより藪化は進行しておらず、主郭は木々に遮られて見通しも悪いが、他は風化は激しいものの遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。結論から先に言えば、この城跡は住宅が直ぐ傍まで迫りながらも、遺構残存度には素晴らしいものがあり、南東側がグラウンド場の造成の為に、どれだけ遺構が消失したものかは想像もし難いが、とにかく現状だけでも充分満足の行く遺構見学が出来、縄張りも手に取るように窺えるものとは思われる。目に留まった城跡遺構は概念図に記したが、城跡を形成する上では定番とも言える、堀切(空堀)、土塁(縦土塁も含む)、櫓台土塁、縦堀、虎口などは全て眼にする事が出来、細部まで目を配れば、機能の想像し難い地形(遺構)も多少あるが、縄張り妙味も含めて現存する遺構を堪能する事が出来そうにも感じられた。当然山城ファンだけに止まらず、城跡ファンなら誰でも楽しんで見て回れそうにも思えたのである。

12_shukaku_higasi_karabori_1 空堀

13_shukaku_kita_heki 主郭北側切岸

14_yagura_1 主郭櫓台土塁見所

17_nisi_horikiri_1 主郭西堀切見所

25_nisi_daidorui_1 西大土塁(縦土塁)見所

27_gedan_dorui 主郭南下段郭の土塁跡

28 南堀切(堀切道)見所

37_oku_daidorui

西大土塁側壁

見所は先に触れた遺構及び城跡の佇まいも含めた全と言っても過言とは思えないが、先にリポート掲載を終えた、近くにある半田城(遺構残存度が非常に高い)と同様に、非常に訪ね易い場所にあるので、同日訪問も充分可能であり、国道を移動中に寄り道気分で訪問する事も出来るお手軽さを思えば、是非訪問をお薦めしたい城跡という事にはなろうか。

2009年11月 2日 (月)

殿ノ奥城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市三和町ユリにあって、既にリポート掲載を終えた経ヶ端城跡からみれば川合川を挟んで真西の丘陵上に位置している。この川合地区には地元で聞いた話によれば、相当数の砦跡を含む城跡がこの地区を中心として四方に点在しており、中でもこの山城は名が語る様に樋口氏の本城であった可能性もあり、規模も一番大きいものとされているとの事である。別名「川合ユリ城」

事前に伺っただけでも、この山城の山裾から見える範囲においては、川を挟んだ直ぐ真向かいの丘陵台地にも伝承地としての屋敷跡、更に経ヶ端城跡の東山上には砦跡(削平地)、更に南側のタタズ城、北東の山上には日向(ヒナタ)城と聞いただけでも四城には達してしまう、恐らくこの山城からみればどれも砦規模、あるいは物見程度の城跡だとは思われるが、、、。戦国期の城主としては樋口加賀守の居城が唯一伝わるが、恐らく明智の丹波攻略軍によって落城したものとは察せられる、詳細は不明

1route 登城ルート

6 進入路

3ok 城跡概念図

城跡へは福知山へ向う国道9号を利用した場合は「芦渕」交差点で県道59号へ右折針路変更、後はルート図の如くユリ集落のバス停を目印として進行すればよい、県道沿いには路駐スペースも充分あるので、そこから北側に見える集荷所前を通過して配水施設に向いて上れば、その脇にある入山可能な簡易的な獣避け開閉扉は直ぐ目に留まる筈である。ここから栗林を抜けて山上を目指せば、かつての参拝道(郭跡に小さな朽ちた祠があった)には直ぐ合流できるので、迷うことなく山上までは到達(15分程度)出来るとは思われる。ただし現状(九月)栗林は収穫時期に入っているので、怪しまれない為にも収穫時期の訪問は避けた方が良だろう。個人的には時期的にも松茸山であれば訪問も断念する事は覚悟の上で赴き、幸運にも偶然栗林で出くわした土地所有者の了解を頂いて上ることが出来たが、時期さえ外せば敢えて了解は得ずとも良いのではないかとは思われる。

15_higasi2_kaku 東郭2の現状

16_sikiri_dorui それと分かる仕切り土塁

18_shukaku_higasi_karabori_tikei 空堀地形

21_shukaku_dorui 主郭土塁見所

25_daihorikiri 西堀切見所

26_nisi_yori_horikiri 縦堀へ

現状(九月)城跡は藪化も相当進行しているが、移動に困難するまでには至っておらず、山上における残存遺構はほぼ判別確認出来る状態にはある。長年の風化によって当然土塁などは原形は留めてはいないが、充分それと判別可能なものであり、現状では主郭西背後の二重堀切、主郭櫓台とした場合の土塁壇と土塁、僅かに地形から判別可能と思えた空堀仕切り土塁などが目に留まった遺構群になる。規模も山上本郭群だけをみれば100mにも満たないものであり、郭間に余り高低差の無いことからも、山城としての魅力あるいは醍醐味には少し欠ける様には感じられた。ただ自然任せで人の手が入らず、状態は悪いが遺構残存度は非常に高いものと目には映ったので、興味を持たれた方にとっては訪れても決して無駄足にはならないものとみた。

2009年11月 1日 (日)

明智東ノ古城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市三和町友渕にあって、既にリポート掲載を終えた西ノ古城からみれば友渕川を挟んで真東側に位置しており、こちらは西ノ古城が山城であるに対して低丘陵上の先端部にあるが、当時は西ノ古城同様に臨戦時における陣城と伝わっている。よって非常に安普請とも見受けられるものであり、残存遺構の見応えだけを取り上げれば、数多い明智の携わった城跡(金山城、周山城、法貴山城など、、)の中でも低位にランクされるものと感じられた。当然陣城としての機能だけの城跡なので、明智の城として期待をして赴くと落胆し兼ねないとも思われる事からも、まだ未訪の方には西ノ古城と併せた訪問をお薦めしたい。

城跡へは国道9号「菟原」交差点から県道97号へ針路変更、後はルート図を参考にすれば迷わず辿り着けるものと思われるが、車は概念図に示した付近に広い空き地があるのでその場所を借りて停めれば良さそうに思えた。そこからは既に左手東側前方に望める丘陵がそれであり、歩いて住宅地の横にある開閉フェンスまで向えばよい。後は図に示した直登ルートでフェンス沿いに上れば、主郭までは5分程度で到達出来るだろう(車を駐車した場所からは10分程度)。

1route_1 登城ルート

5 進入ルート

3hi 城跡概念図

現状(十月)城跡は予想通りに藪化は進行し、地表も自然任せの荒れ放題と化してはいるが、縄張り形態もシンプルなものであり特別技巧を凝らした複雑な遺構が見当たらない事からも、概念図に示したまでの遺構は全て判別可能となっている。先に触れた様に急造された陣城なので縄張りも非常に大味なものとなっており、防備機能としては土塁及びその背後に堀切が備わる程度でもあり、東側に向いてだらだらと数百mに渡って連続する削平地が妙に印象に残った。西側斜面の狭い段郭群より少し下りれば便宜上西郭とした広い規模の郭跡を眼にする事が出来るが、内部に凹状の窪地を確認する事は出来た。郭跡だけを見れば居住空間とも考えられるが、これがどの様な機能を持ったものなのかは想像も付き難く、長い年月の堆積物あるいは地形変化を考えれば自然の成せる業かも知れない、当然見学者の判断に委ねた方が良さそうには思えた。

8 防壁の様な巨岩

14_shukaku 主郭の現状

15_shukaku_dorui_1 主郭土塁見所

16_horikiri_4 堀切見所

20_nisikaku_1 西郭

21_nisikaku_kuboti 西郭内の窪地

個人的には岐阜県を所在地とする明智城も含めて、明智関連の城跡(改修も含めて)はほぼ訪問した計算にはなったが、陣城を除いた城跡としては何れも縄張り妙味に富んだ山城が多く、非常に見応えも醍醐味も感じられたものが多い。後世において随分改修されたと見受けられる亀岡城、福知山城などは、現在でも石垣が残っている事からも別な意味で見応えは感じられるが、それよりも更に築城年代が遡り、人の手の余り入っていない明智の山城の方にずっと魅力を感じるのである。今となっては湖底に沈む坂本城(滋賀県)の雄姿は想像する事も出来ないが、その当時フロイスをも唸らせた信長に続く城跡は、水城(石垣城)としての縄張りも素晴らしく、豪壮でさぞ凄いものであった様には思われる、、、。

2009年10月27日 (火)

小見山城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市三和町辻にあって、県道59号沿いにあるバス停「中ヶ市」からは細見川を隔ててほぼ真南側にあり、県道沿いからも位置は確認し易く、その低丘陵上に位置している。三和町文化財パンフによれば辻野左衛門屋敷とも記載されているが、一部の文献によっては先に掲載を終えたダマ城と同様に細見辻城と記載されているのもあり、区別する為に今回は別称でもある小見山城跡としてリポート掲載に及んだ。

この城跡は当時辻野屋敷と呼ばれた様でもあったが、細見将監の手によって城は奪われた形になっている、ちなみにこの細見将監なる武将は明智軍による攻撃を本郷城で一旦撃退した人物でもあり、あの知略に富んだ明智軍を退けるとは相当勇猛かつ知略に秀でた武将とも見受けられる。先に触れたこの「本郷城」は既にリポート掲載は終えているが、篠山市本郷にあって松隣寺を菩提寺とした細見氏一族の居城でもある。

1route_2 登城ルート

4_1_2 県道から遠望

7tozanguti 進入口

3tu 城跡概念図

尚、三和町文化財パンフ(有料)に地形図と共に印のある城跡所在地は、城跡の現存する場所とは若干異なっており、実際にはルート図にも示したが、谷を隔てた西側尾根先端部に位置しているので、パンフを参考にして現地に赴いた場合は、ただの丘陵見学だけに終わってしまう可能性もあるので注意が必要と思われる。もちろん地形から考えてもこの丘陵上(結果的には踏破していないので遺構はないとは言い切れないが、ここでは現地の伝承を信頼し重んじた)は当時何らかの形で戦略的に機能していたものとも考えられるが、公的な資料は全てが正しく記載(特に尾根の位置は間違いやすい)されている訳ではないので、間違いも少なからずある事を念頭に置いて訪問されるのが肝心とは思われる。個人的にはそれを鵜呑みにして何度か誤認した経験があり、なるべく参考程度で抑えてはいるが、本来なら現地での聞き込み確認が一番大事である様には感じられる。今回の訪問に際しても、念の為に麓に住まわれる御婆さんから事前に所在地の確認はしており、既に亡くなられた御爺さんが、かつてこの城山に鎮座していた祠を、大事に世話をしていた事も聞き及んで臨んだ結果、本来の城跡を直ぐ探し当てる事が出来た。地図を鵜呑みにしておれば恐らく誤認して落胆しながら帰宅したものと考えられるのである。

9_heki 主郭西側切岸

10_fukukaku 副郭

12_karabori_1 空堀

15_kitaone_hirati東尾根削平地

城跡へは先に触れたダマ城訪問ルートでもある国道9号から709号へ進路変更、後はルート図あるいは概念図を参考にしてバス停「中ヶ市」を目印として目指せば分かり易く到達出来るものと思われる。現状(10月)城跡は当然藪化は進行中ではあるが、小規模でもあり移動に困難を来たすまでの状況には至ってはいない。複雑な遺構も皆無である事からも、ほぼ二郭で形成された縄張り内における遺構(空堀、土塁壇、切岸など)は全て判別確認は可能な状態にあるが、空堀などは相当土で埋もれており、丘陵上における郭高低差も小さい事から、自ずと見応えのある遺構も皆無なのが現実でもある。この城跡は今回の様に三和町に点在する細見氏の山城巡りの一環として、その細見氏を探る史跡見学として割り切るならば、満足感には充分浸れるものとも思えるのである。

2009年10月25日 (日)

細見辻城跡(京都府福知山市)

この城跡は福知山市三和町辻にあるが、文献あるいは公的資料によっては様々な呼称が付いている事からも明確な場所も分かり辛く、今まで存在は認識していながらも、中々訪問に漕ぎ着けるまでには行かなかった経緯がある。今回は福知山に向いての移動中、偶然国道9号沿いで三和町の福知山支所が目に留まった事から、以前より気になっていた城跡所在地と呼称の確認の為に立ち寄ってみた事から話は始まるが、その資料館の中にあった三和町史跡パンフ(有料)の中には、地形図と共に城跡の位置が記載されており、取り合えず今まで分かり辛かった城跡所在地と呼称を一致させる事が出来た。

しかしこれも福知山の公的遺跡資料とは若干異なっており、三和町パンフの中では「ダマ城」とされていたが、今回のリポートでは地域名が入って城跡フアンにとっても分かり易い事からも、多く出版されている訳ではないが、一部の文献資料あるいは公的資料にも登場している「細見辻城」を呼称として採用させて頂いた。他にもシロカマタなどの別称もあるらしいが、当時は細見氏の居城が唯一伝わっている。地元で聞き及んだ処では古くからダマ城と呼ばれていた様であるが、恐らくこのダマもシロカマタも漢字に当て字をする以前、古来から呼ばれていた呼称とも思われるので、本来ならダマ城として市の資料の中で統一した方が分かり易いとは思われるのだが、、、 尚、城跡の傍に建つ民家にはつい近年まではダマさん(漢字の当て字までは分からない)が居住していたそうでもあり、ダマと言う変わったネームからも間違いなく古来よりここに住み着いていた方だとも思われる。

1route 登城ルート

4_1 道路より遠望

3da 城跡概念図

9 城跡進入路

11 18_shukakunai 主郭内

20_kita_heki 主郭北切岸

城跡へは京阪神から向えば国道9号を経由、「菟原」交差点をそのまま少し北上して一般道709号へ針路変更、城跡へ向う為の目印となるのは「梅田神社」であり、道路沿いには道標あるいはバス停もあるので分かり易いとは思われる。神社に車を預ければほぼ概念図通りに歩けば、5分もあれば主郭までは到達出来るが、城跡の形態としては丘城でもあり館城の様相でもあるので、堀切あるいは空堀などの様なインパクトのある遺構にはお目にかかれない、規模の大きい主郭に帯郭、腰郭を付随させただけものであり、遺構の見応えを求める事は最初から捨ててかかる事が肝心とも思えた。伊賀にある館城と違って防備も手薄であり、土塁すら目に留まらないのはこの地方の築城における特色なのかも分からない。

公的資料には遺構は完存と記載されてあったので、現在の主郭から周辺の休耕地までは地形改変は受けておらず、農地にはなっているがほぼ当時のままと解釈しても良いものとは思われる。道路側から望んでも丘状になったこの城跡は確認もし易く、現状(10月)郭内部は下草は蔓延ってはいるが木々もほとんどなく、見通しも利き、遠くから望んでも館城の風情は感じる事が出来るので、訪問における利便性も加味すれば、城跡ファンはもちろん史跡ファンにも充分お薦め出来る城跡の一つと言えよう。山城ファンにおいてはルート図には示したが、川を隔てた対岸の低山山上には、これも資料の中では完存とあった「殿屋敷城」が存在しているので、藪城(状態は悪い)ではあるが直登すれば10分内で到達可能でもあり、興味のある方は覗いても決して無駄足には終わらないものとみた。ただ小規模でもあり残存遺構(堀切、郭跡、土塁跡)の見応えには余り期待は出来ないので、無理にお薦めはしないつもりであるが、個人的には川を隔てて二城を配した形態そのものが細見辻城の本質とも思えたので、城跡を深く追求されたい方だけにはお薦めしたいのである。

Photo 殿屋敷城遠望

1 2 3 殿屋敷城の山上遺構群

2009年10月24日 (土)

今安城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市今安にあって、先にリポート掲載を終えた山崎城跡の直ぐ東側に位置する、二峰に分かれた低山山上に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡へは山崎城を起点にすれば分かり易いが、ルート図あるいは概念図の如く麓の集落にある六地蔵(画像に示す)より更に奥に進み、獣避けフェンスを開閉して山道より城跡を目指せばよい。この城跡は深い切り通し(堀切)を間に挟んで東西に郭群は分かれた縄張り形態を持つものと見受けられ、この堀切より手前西側斜面を直登すれば、便宜上の西城郭群には直ぐにでも到達可能であり、東側斜面を上っても直ぐ便宜上の東城出郭群が迎えてくれる筈である。もちろんその構造からも一城別郭としてよいものとも思われるが、両城共に確実に削平跡のある郭あるいは切岸跡は残存しているが、状態はよいものではなく自然任せの荒れ放題でもある。ちなみに西城はある程度見通しが利くので、下草は多くともフラットな郭跡などは外見からでも充分判別可能であるが、南側は矢竹密生によって踏破確認は不可能、東城も山上から南麓側に至るまでの尾根上は凄まじい藪でもあり、踏破は断念してしまった。しかし片堀切を挟んで西側に位置する西出郭群はまだましな状態でもあり、土塁壇(櫓台か?)あるいは切岸などは確認する事が出来た。自作概念図中に示したまでが踏破に及んだ範囲であり、取り合えず目に留まった遺構を示したものになるが、見応えのある遺構に遭遇出来なかったのが残念な処ではある。

1route_2 登城ルート

5 城跡への進入路

3im 城跡概念図

14 西城の郭跡

16 西城の郭切岸

21_kiritoosi_1 切り通し直登口

26 東城出郭

結果的には城域の全てを踏破した事にはならなかったので、城跡を評価する事は非常に難しいのだが、この状態の悪さや遺構の判別のし辛さ、縄張り妙味を考えれば特にお薦めしたい城跡の様には感じられなかった。先に触れた山崎城と同日訪問とした山城巡りとすれば、何とか面目は保たれるのかも知れないが、、、 今回の訪城ではこの城跡に興味があった方に対してのみ、タイムリーな現況報告となったものなら良しとしたい。

2009年10月23日 (金)

山崎城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市山崎にあって、集落の西側、和久川の北側に単独で聳える形の低山山上に位置している。現在南麓には武神社が建立されている事からも、場所の確認は容易いとは思われる。

城跡へは福知山市内を走れば国道9号から「新庄」交差点で429号に針路変更、後はルート図の如くおよそ3kmも走れば、直登口ともなる武神社には容易に到達出来る。この山城も登山道あるいは山道は当然の如く無いので、社殿背後から山上に向かっての登山になるが、比較的なだらかな山容でもあり10分もあれば山上主郭までは辿り着ける筈である。ただ時期的(九月)に仕方が無い事かも知れないが、山上主郭から東尾根上に限って言えば、密生する雑木藪となっているので、踏み入る事も出来ない状態になっている。他は歩き回れば概念図に示したまでの遺構はほぼ判別確認可能な状態にあるが、全体的にも藪化は相当進行している為に、一部では木々の隙間を縫って中腰で潜り抜ける場所も少なからずある。

この山城に関しては地図の上からだけではあるが、城跡としての築城立地条件を充分満たしている事からも、個人的に以前より城跡として間違いないものと確信していたものであり、今回は確認の為に福知山市内の通りすがりに意を決して立ち寄ったことから始まるものだが、いざ山上まで上って見れば確実に城跡遺構と判断出来る、削平された規模の大きい郭群、土橋付き空堀、郭切岸、縦堀地形などを眼にする事が出来た。下山後、資料などから既に発掘調査を終えた(何時頃かは不明)山崎城だと初めて認識する事が出来たが、城史に関してまでの詳細は不明。

1route 登城ルート

5 城跡遠望

3ya 城跡概念図

11_kaku_heki 南郭群の切岸

12_minamikaku 南郭

14_karabori_dobasi 北郭群の空堀土橋

16_kitakaku 北郭群

訪問結果として城跡は、縄張りプランとしての魅力に少々欠ける事からも、自ずと遺構の見応えにはほとんど期待出来ない状況でもあるが、未踏になった東尾根上の郭群(地形からも予想される)を含めなくとも、山上尾根における郭占有面積は比較的大きく、独立した山上のほとんどが削平され郭化されている様には見受けられた。ただ長年の堆積物あるいは風化によって郭内は荒れ放題でもあり、切岸処理が窺われる郭跡が非常に少ないのも現実である。この山城は形態が古そうに感じられたので、築城年代としては室町期あるいはそれ以上遡るのかも分からないが、考え方を変えれば臨戦時による急こしらえの様相でもあり、丹波攻略軍における陣城、あるいは向城の可能性も充分感じられるのである。先に触れた様に見応えのある遺構が皆無に近い為に、見所を探すのには非常に苦労するが、はっきり言って「ない!」と答えた方が、これから訪問される方に対しては、期待を捨てて城跡に臨めるとも思えるので、敢えてそう申し上げたい。しかし見学に値しない訳では無いので、決して誤解されないように、、、、この山城も数年後には更に藪化も進んでおり、かつてこの地が城跡であったことは誰の口からも語られる事が無いようにも思えてくるのである。  尚、ルート図中に記した今安城は次で掲載予定

2009年10月21日 (水)

多保市城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市多保市(トオノイチ)にあって、現在の厄除け神社及び中腹に位置する旧厄除け神社を含んだその東側山上に位置している。当時は大槻氏の居城と伝わり、他の丹波の在地豪族と同様に光秀の丹波平定によって落城しているが、その後は黒井城主赤井氏の傘下に入った模様。この大槻氏はかつて綾部北部一帯を領有した、あの大槻一族と同一かどうかまでは分からないが、この末裔は豊臣政権下まで存続し、更にその後は土着(帰農)の道を歩んだとも伝えられている。多くの丹波衆が光秀による丹波平定の際に滅ぼされた事を思えば、赤井氏同様過酷な戦国期を上手く乗り越えた氏族とも言えよう。

城跡へはルート図を参考にして厄除け神社を目指せば分かり易く、国道9号から少し入った場所にあるので直ぐ目に留まる筈である。車も駐車可能となっており、到着後は社殿の背後より舞鶴若狭自動車道の上に架かる跳道を通過して山上を目指せばよい。ただこの城跡のある尾根は現在自動車道によって相当地形改変が窺われるものでもあり、どこまで遺構が消失したかは各々が想像するしかないものとは思われる。

1route 登城ルート

5 北より神社側

6 神社の切岸

8 社殿

12_karabori_1 空堀跡

15

山上尾根より神社側

19a 尾根上の連続削平地

22_karabori_dobasi_1 土橋付き空堀

判別可能な残存遺構は現状(九月)としては非常に少ないが、郭跡を除けば厄除け神社境内(郭跡地の転用と見受けられる)の社殿背後より側面かけて掘削された空堀、あるいはその高低差のある切岸、尾根上をだらだらと連続する山上削平地の縦堀地形、あるいは土橋を伴う空堀は一箇所で目に留まったが、ほぼこれだけと言っても過言ではなく、遺構の見応えを期待すると間違いなく落胆する様にも感じられた。尾根上を東山上に向いて延々と繋がる削平地などは、本当にここが城跡なのか、これが山城としての本来の縄張りプランなのかと自分の目を疑ってしまうほどでもある。古い形態の山城と言ってしまえばそれで話は終わってしまうのだが、それほど大味な城跡なのである。とにかく尾根上は削平跡は窺えるが切岸処理はされておらず、尾根を分断する定番の堀切跡も見受けられない。見応えのある遺構にはほとんど期待出来ない現状からも、流石に延々と続く削平尾根上を通過して山上まで向かう気力は既に消え失せており、ついに東山上一歩手前で下山してしまったが、今回は少し悔いを残した訪問になってしまった。「ついでに山上まで踏破しておけばよかった」と後になって思うのである。登城ルート図に示したまでが踏破した範囲であり、目に留まった遺構を記したものだが、山上まで踏破しておれば遺構もこの限りでは無かったのかも知れない。これから訪問準備のあった方に対してタイムリーなリポートとなったのであれば幸いではあるが、個人的にこの山城を評価したなら、当時の城跡としての風情を味わえる程度と理解して頂ければ良いとは思われる。

2009年10月12日 (月)

半田城跡(京都府福知山市)

この城跡は事前に地形図から窺うに、住宅地の迫った丘陵上に位置している事からも自ずと密生した竹薮地が直ぐ想像出来、今までも中々足を運ぶまでには至らず訪問もついつい先送りにしていた。今回は山崎城などの山城巡りの一環としてやっと訪れる事に相成ったが、城跡は想像とは裏腹に、竹薮地ではあるが密生はしていないのでこの時期(九月)でも非常に見て回りやすい状態にあり、丘陵上に展開される縄張り内の遺構はほぼ判別確認する事が出来る状態(良いと言えるまでのレベルではない)にあった。

城跡は福知山市半田にあって、既にリポート掲載を終えた新庄城から見れば南西側へ500mと離れていない和久川に沿った丘陵上に位置しており、現在郭跡の一部には小さな稲荷神社が建立されている。当時における城主も城史に関しての詳細も不明 

城跡へは国道9号から「新庄」交差点で429号へ針路変更、後はルート図の如く公民館を目印として目指せば難なく辿り着けるだろう。公民館付近には路駐可能な空きスペースもあるので、ここを出発点として川に向いて歩いて橋を渡り直ぐ川沿いに左折、画像に示した稲荷神社への参拝道からそのまま上れば、直ぐにでも東端の郭跡(祠のある郭跡)には到達可能となっている。

1route 登城ルート

5sinnyuukuti 参拝道への進入口

この城跡の魅力は何と言っても人家がここまで迫りながらも、地形改変がほとんど見受けられない遺構残存度の高さであり、直線的な縄張りではあるがその中にひしめき合う技巧を伴う遺構群であると断言出来そうにも思える。個人的にもその縄張りを含めた遺構の素晴らしさには足を止める時間も長く、つい時間の経つのも忘れてしまったほどである。小規模な為に見学するにもそう時間は要さないのだが、同じ福知山市内にあって遺構残存度が非常に高く、小規模ではあるが縄張り妙味にも富んだ中村城が直ぐ思い浮かんでしまった。見所を挙げるとすれば概念図には示したが、主郭北斜面に備わる分厚い縦土塁、大堀切とそれに沿う形の縦土塁、主郭背後の縦堀に繋がる堀切、武者隠しに見えた空堀土塁、東出郭を断つ横堀、二の丸の仕切り土塁などの技巧を伴う遺構群はどれを取っても見逃せないものばかりである。

3ha 城跡概念図

12_higasi_horikiri 東横堀見所

18_sikiri_dorui_1 仕切り土塁見所

20_shukaku_heki_2 主郭壁土塁

24_daihorikiri_2 西大堀切見所

27_tatebori_tatedorui 縦堀と縦土塁見所

30_kita_tatedorui 主郭北の縦土塁見所

33_mushakakusi 武者隠し?見所

28_nisihasi_horikiri 西端の堀切見所

27_nisi_yori_horikiri 西郭より堀切

車を停めて10分とかからず主郭に到達可能なお手軽感、遺構の見応え、遺構残存度、更に縄張り妙味まで含めれば正に推奨に値する城跡とも見受けられ、まだ未訪の方には是非訪問をお薦めしたい城跡の一つである。山城に抵抗のある方にとっても非常に訪ねやすい丘城なので、当然お薦めする事は言うまでも無いが、、、。

2009年10月 7日 (水)

三俣城跡(京都府福知山市)

この城跡に関しては何時もの気ままな山城巡りの中で、外見から窺った山容あるいは城跡としては好立地条件下にある事からも、個人的な好奇心から以前より機会があれば覗いてみようと思った事から始まったものであり、既に訪れて半年以上が経過したが、未だにここが城跡であると決め手になる遺構(分かり易い堀切あるいは必然性のある土塁)が存在しなかった事、あるいは色んな資料に目を通すものの、やはり城跡としての記述も情報も得られず、自分としては城跡としての確信は持ちながらも掲載を控えていたものである。しかし最近になって偶然山城巡りの中で知り合った方から、この城跡は福知山市の遺跡分布図の中に「三俣城」として記載されているとの信頼出来る情報を頂き、今回やっと「三俣城」としてのリポート掲載に漕ぎ着ける事が出来た。城史に関しての詳細は現状不明

城跡は福知山市三俣にあって、生野神社の直ぐ北背後にある丘陵上に位置している。ルート図の如く国道9号を利用して上六人部小学校あるいは生野神社を目印として目指せば難なく辿り着けるとは思われる。神社に到着すれば社殿背後よりそのまま上りきれば、直ぐにでも縄張り内には到達可能である。

1_1 登城ルート

1 現地概略図

4_1 城跡遠望

ただこの城跡の現況(状態)だけを説明する事は容易ではあるが、現地における地形を見ただけでは一体どこまでが城跡の一部なのか、あるいはこれが城跡としての形態なのかは非常に判断しかねる、他に類を見ない特異な形態であるのは確かである。取り合えず画像には城跡遺構として予測の付き易い分かり易いものを選んで載せたが、雑木も蔓延っているので全体像が窺えず、まして全体像の写真を残す事は尚更困難でもあり、載せた遺構画像だけで現地の様子を窺うのは少し無理があるかも知れない。とにかく概念図にも描き切れない様相をしているのである。目に留まった遺構は北側の山裾に向いて広がる広大な削平地、埋もれて現状浅くなってはいるが土塁を付随させた空堀部分的に石垣跡、縦堀地形そして先に触れたとても形容し辛く説明もし難い自然大岩(巨大岩盤を含む)に周囲を取り囲まれた巨大な穴倉状の地形、あるいは巨岩を利用したと見受けられるその穴倉虎口、付随する人為的な土塁など遺構とすれば驚愕に値するものと目には映った。現状ではこの巨大穴倉は長い年月をかけて相当崩落しており当時の原形すら想像も付かない状況となっており、機能においては個人で想像して頂くしか無い様には感じられるのである。Karahori A_3 A_23 A_28 A_29 A_34 A_32 A_16

取り合えずこのリポートに興味を抱かれた方にのみ訪問をお薦めしたいが、実際にこの地形を目の当たりにすれば、普通なら「自然の成せる業」と誰もが思うに違いないのだが、城跡ファンであればこれは明らかに人の手が加わったものであり、どの様に機能していたのかはある程度察しが付くのではないだろうか。個人的には数百人の収容が可能な、武者隠しの様な駐屯地的なものにも見受けられたのだが、、、。

2009年9月22日 (火)

大呂金山城跡(京都府福知山市)

(9/26日)記事一部改訂

これまで個人的に現地で情報を収集してまとめ上げた結果、今回天寧寺城跡としてリポート掲載した山城は、金山氏の本城とも言える金山城である事がある程度判明しました。本来の天寧寺城は広大な丘陵上における寺院敷地そのものであり、現在では数世紀に渡る造成拡張の為に相当な地形改変があったものと見受けられます(切岸には面影が多少残る)。この山城は個人的には天寧寺城の山上郭(詰城)の様にも窺えましたが、規模の大きさ(城域は概念図参考)あるいは福知山遺跡データによる城跡の位置関係などから察する処、やはり本城として間違い無さそうに思えます。現状まだ決め手に欠く事からも断定までには至っておりませんが、先に天寧寺城跡としてリポート掲載した城跡は、独自の判断で今回新たに暫定とした形で、大呂金山城としてリポートしたものに変えさせて頂きました。同じ山塊を共有するものでもあり、山上と丘陵上の違いだけでどちらにしても金山氏の城跡としては間違いは無いとは言えるのですが、ある程度明確にしておかないと金山城をこれからも永遠に探すことになり兼ねないので今回はそうさせて頂きました。又新しい情報によって別に本城が存在する事が発覚すれば話は別になりますが、、、個人的には明確にされるまでは、これからも大呂地区の城跡に関しても継続追及していくつもりではおります。

以下は最初のリポート掲載記事

城跡は福知山市大呂にあって、先に「桐村城の所在地判明」の記事の中でも触れた様に、大呂地区の中に出城も含めれば多く存在していると思われる山城の中の一つでもある。名が語る様に戦国期においては天寧寺そのものも城跡の一部であったとも考えられるが、院の背後に聳える二峰に跨る山上から枝尾根上に位置している。城郭寺院として考えれば山上は詰城と考えられなくも無いが、当然推察の域は出ないものでもある。この寺院は遠い常陸の国を発祥とする大中臣氏(名を改めて金山氏)がこの地に地頭として赴いた事から始まるが、南北朝時代に氏の菩提寺として建立されたものと伝わっている。この金山氏のその後については「桐村城の所在地判明」の中の僅かな記事を読んで頂ければ多少なら分かるとは思われるが、この山城は鎌倉期に成立したとも伝わる事から、既に寺院より先にこの金山氏の山城があったものと解釈しても良さそうには思われる。金山氏の本城は地元の歴史に詳しい方でも御存知なかったのだが、やがて没落して庶流である桐村氏に取って代わられた事を思えば、この山城も桐村氏の山城と言えなくも無いのである。

1_2 登城ルート

1_1 大呂地区二城

6m 登山口

1 城跡概念図

城跡へは福知山市あるいは大江町では有名な「天寧寺」を目指せば難なく辿り着けるが、山上までは概念図(画像)に示した様に、拝殿左手奥から山道が更に奥へ繋がっており、途中から尾根に沿う形で直登すれば、迷わず山上北主郭までは到達(約15分)出来るとは思われる。ただ峰に跨った縄張り形態なので、縄張り全域における遺構見学となると、相当長い距離を歩く事は余儀なくされるだろう。取り合えず概念図に示したものが自身で踏破して判別確認した遺構群になるが、古い時代に成立した山城のせいか、特に北城の方は相当凸凹と地表風化が激しく、北先端に向うほど郭内は矢竹が密生しており荒れ放題でもある。しかし図中に示したまでの範囲は間違いなく踏破可能でもあり、藪漕ぎも無く移動が出来る状況にある範囲でもあるので、これから訪れる方はこれを目安にして頂ければよいとは思われる。遺構が目白押しと言える山城ではないが、郭跡を除けば土塁跡、空堀跡、堀切までは、山城ファンなら誰でも充分判別確認は可能である様には感じられた。見応えのある遺構を問われれば返事に困るのが現実でもあるが、尾根上を藪漕ぎしてまでの移動が無い事が、唯一のお薦め出来る要素かも、、、金山氏あるいは桐村氏の歴史に少しでも興味のあった方にはお薦めとは言えるが、、。

10 南城南郭

13_karabori 南郭の空堀跡

15_minamikaku_top 南城主郭

16_horikiri_2 中央堀切

21_shukaku_1 北城主郭内の現状

24_higasi_karabori_1 北城東郭の空堀跡

27_higasi_kaku南城東郭群

2009年9月21日 (月)

河守城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市大江町河守(コウモリ)にあって、先にリポート掲載を終えた蓼原城からみればほぼ北側の山上に位置しており、「浄仙寺」背後の山がそれにあたる。蓼原城でも触れた様に当時は新治氏の居城と伝わっており、蓼原城と共に赤井氏によって滅亡への道を辿ったものと考えられるが、詳細は不明

城跡へは国道175号より「浄仙寺」を目指せば一番分かり易く、現地付近からはルート図の如く「大江駅」の反対側の道へ入れば難なく寺院までは辿り着けよう。道路沿いには広い寺院専用の駐車場もあるので車はそちらに預ければ良いものとは思われるが、山上へは本殿の脇から秋葉社まで参拝道が通じており、それを利用して社殿背後からそのまま山上を目指せばよい。秋葉社までは5分程度でもあり、そこからは尾根上に配された郭跡や遺構などをゆっくり味わいながら山上を目指せば、およそ20分程度で最高所にある主郭までは到達出来るはずである。

Tadehara_2 登城ルート

7tozanguti

登山口

3ko_2 城跡概念図

現状(九月)城跡は年間を通じて見学者も非常に少ないとも思えるが、人の手の入らない山城としては充分過ぎるほどの良い状態にあり、縄張り内における遺構群は全て判別可能とも言える状況にある。自然任せである為に一部では倒木や下草で荒れ放題の様相ではあるが、見学に差し支えるまでには至っておらず、縄張りを含めて山城遺構は堪能出来る様にも感じられた。自作概念図に示したまでが踏破した範囲であり、目に留まった遺構群でもあるが、見所は地形をフルに利用した高低差のある郭切岸に尽きるとも言える。図中に示す二箇所の切岸(一部は堀切まで落ち込む)は10mにも及ぶもので、はっきり形が表れる堀切などと違って、地味ではあるが非常に見応えが感じられた。それ以外では特に主郭北壁の切岸は、樹木あるいは草木が蔓延っていないせいもあって美しく、当時の状態にまで思いを馳せることは容易である様にも感じられた。郭から斜面下の周囲を覗く限り、単独で備わる縦堀地形は目に留まらなかったが、この険峻さを考えれば敢えて必要としなかったとも言えるだろう、ただ見落とした可能性は充分考えられるが、、、

19_3maru_heki_1 三の丸切岸凄い!

20_3maru_2 三の丸内

25_shukaku_higasi_heki 主郭東切岸

26_shukaku_nai_3 主郭内

31_gedan_yori_shukaku_heki 北側より主郭上り土塁見所

32_shukaku_kita_heki_1 主郭北側の美しい切岸

36_kita_horikiri_1 北堀切見所

城跡の形態としては、険峻な痩せ尾根上に郭をほぼ直線的に並べただけのものではあるが、縄張り総全長は300mに達するもので、個人的にはこの山容からすればここまでの山城であるとはとても考えてもいなかった。この意外性と驚き、更にこの遺構残存度の高さは、久し振りに「山城賛歌」を贈りたい気分にさせられた。技巧を有する遺構の少ない事からも、縄張り妙味のある山城とは言えないが、遺構残存度の高さ、高低差を伴う切岸の醍醐味、あるいは険峻さも兼ね備えたこの山容は、これぞ山城と呼ぶに相応しいものであり、まだ未訪の方には是非お薦とも言える山城の様には目に映った。

2009年9月20日 (日)

蓼原城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市大江町蓼原(タデハラ)にあって、集落の西側丘陵上に位置しており、国道に突き出した尾根先端から山上に向いての尾根上が城跡。この城跡も大江町にあっては、由良川沿いに数多く点在する無名に近い山城の一つでもあるが、進入口となる国道沿いには少し朽ちた城址標柱もある事から、この地区においてはある程度知れ渡っている城跡なのかも知れない。同日訪問となった直ぐ近くの山に位置する河守城と同様に、その当時は新治(ニイハリ?)氏の居城と伝わっているが、やがて赤井氏によって滅ぼされている模様。京丹後市の峰山町新治に居城を構えた、一色氏の一族でもある新治氏とは同族、あるいはその庶流となるものかも分からないが推察の域は出ない。尚、規模あるいは縄張り形態から察する処、河守城からみれば此方は支城の可能性が高いものと見受けられた。

城跡へは国道175号より由良川沿いに宮津に向いて車を走らせればよいが、近畿タンゴ鉄道「大江」駅の手前付近が蓼原地区でもあり、ルート図を参考に国道沿いの「六地蔵」を目に向えば、難なく城跡への進入口(画像に示した)は見つけられるとは思われる。進入口となる「六地蔵」数十m手前の国道沿いには、居眠りパーキングも設置されているので駐車に困る事は無いが、そこから集合墓地に到達すれば、最上段の墓地(新治家、桐村家の墓所がある)からは直ぐにでも尾根上の郭跡に到達可能である(パーキングからは10分内)   

Tadehara 登城ルート

5_tozanguti 進入口

Tadehara_1 城跡概念図

10_2jyuu_horikiri 二重堀切見所

12_tate_horikiri_2 縦堀に繋がる堀切

17_2jyuu_hori_dorui_2 巨大土塁を伴う二重縦堀見所

21_shukaku 主郭内の現状

26_kitakaku_karaboridou_1 北郭群の空堀道見所

31_kitakaku_nobori_koguti 北郭上り虎口見所

30_kita_sentankaku 北郭先端

37_dobasi 長い土橋見所

現状(九月)城跡はこの時期においても移動に難渋する事も無く、縄張り内における遺構は画像を見ればお分かりの様に、ほぼ判別可能な比較的良い状態にある。城跡の見所は便宜上主郭とした大規模な郭跡の背後に横たわる二重堀切は挙げられるが、堀切を挟んだ形の大土塁は一部中央は欠けてはいるものの、充分な幅(堀切幅は10m以上)を持たせたものでもあり、縦土塁を伴って縦堀に繋がる様は正に圧巻と呼ぶに相応しいものの様には感じられた。長年の堆積物を考えれば当時においては薬研堀の如く相当な高低差があったものと想像される。ここから北西側に位置する便宜上(概念図上)の北郭群へ移動するには数分とはかからないが、この北郭群における遺構(土塁跡、上り虎口)は、風化は激しいが充分判別は可能でもあり、虎口から麓にまで繋がる深い堀切道と並んで非常に目を楽しませてくれている。更に北西側山上に向う、連続する長い土橋も見所の一つ  

既に何回も行き来しているこの国道ではあるが、これだけ小さな城址標柱では当然目にも留まらなかったはずである。もう少し国道からも目に留まりやすい大きさの案内板にして頂ければ、寄り道してでも訪れる城跡ファンは必ず増える様な気はするのだが、、、 遺構見学のし易さ、あるいは直ぐ到達出来るお手軽さを踏まえれば、次でリポート掲載予定でもある河守城と併せた訪問としても、間違いなく充実した山城巡りが出来そうにも思われた。 当然お薦め(単独としてもお薦め)出来る城跡と言うことにはなるだろう。

2009年7月29日 (水)

山崎天王山城跡(京都府長岡京市)

城跡は長岡京市大山崎町天王山にあって、JR「山崎」駅、あるいはほぼ隣接している阪急京都線「大山崎」駅のほぼ真北側に聳える天王山山頂に位置しており、古くは南北朝期より成立している山城でもあり、かつては山名氏、赤松氏などが居城とした事は一般的には余り知られておらず、秀吉が大阪城を築城するまで在城した事と、ここを舞台にした「天王山の合戦」は城跡ファンならずとも一般的にも知れ渡っており余りにも有名な史実。又、山頂には石垣を巡らせた天守を設けた事でも有名であり、現在でも石垣痕あるいは崩落石と共に荒い石積み跡が郭壁の随所に窺われる。別名天王山宝寺城あるいは山崎城

城跡へは名神「大山崎」ICが最寄の乗降口、国道171号よりほぼルート図の如くJR「山崎」駅を目指して進行すれば一番分かり易いとは思われるが、この周辺は山手に向う道路は非常に狭く、線路あるいは高架を横断する箇所も少ない為に、中々登山口となる観音寺(山崎聖天)までは辿り着くのが困難でもあり、これから初めて訪れる方は迷わずJR「山崎」駅の前を通過して東側の線路を越えて北進して向われる事をお薦めしたい。登山口は二箇所あるが今回は一番分かり易い山崎聖天からのスタートを選択した。個人的には平日の訪問でもあり路駐も充分可能であったが、探せば駐車場はあったのかも知れない。しかし土日祝日は予想が付かないほど付近は混みそう?とも思えるので、駅付近の有料駐車場を利用してそこから上られた方が良いかも分からない。山崎聖天稲荷神社傍からは山上主郭まで登山遊歩道を利用すれば酒解神社経由で迷う事無く辿り着く事は出来る。(道中の郭跡などの見学を含めれば主郭まで40分程度は必要)

Ya1 登城ルート

6_dai_tatebori_2 登山道中の大空堀地形?見所

10_isigaki_1 道中における郭壁石垣跡見所

17_dorui_karabori 土塁空堀地形

24_shukaku_nai_1 山上主郭

25_yaguradai_ato_1 櫓台跡見所

40_2maru_yori_yagura_haigo 櫓台背後

31_2maru_yori_shukaku 二の丸より主郭側

29_ido_ato 井戸跡

36_isigaki_ato_1 南郭群石垣跡見所

38_minami_dankaku_3 南段郭群

現状(二月)城跡は登山道から少しでも外れると、この時期でも雑木が密生している場所も多く、山上に展開される大規模な郭群は中腹の酒解神社(郭跡の転用か?)背後から既に始まっているもので、山上主郭まではほぼ全てが郭跡で占められているので郭境も分かり難く、中々全体像も掴み難く縄張りも非常に把握し辛い状態にある。多少整備された山上主郭付近を除けばほぼ全体に渡って雑木竹林地でもあるので、見通しも悪く自ずと歩き回っての遺構見学は余儀なくされる。とにかく城域も相当広く、見学移動出来る状態にある全体の縄張りの六割を歩き回って体感出来たなら良しとしなくてはならないだろう。遺構として確認出来る状態にあるのは山上全域を占める郭跡を除けば、主郭南竹林地側における郭壁随所に見え隠れする石垣跡、井戸跡、土塁跡、切岸跡、空堀地形などが挙げられるが、見所でもある石垣跡を除けばどれも地表風化が激しいものであり、見学者の想像に委ねられる部分が多いのも現実である。

個人的には二度目の訪問となったが、未だに縄張りの全体像が掴み難い山城の一つでもあり、状態は良いとは言えないが、山歩きも楽しめて遺構見学も間違いなく楽しめると断言出来そうにも思える城跡の一つである。

2009年6月20日 (土)

広瀬城跡(京都府南丹市)

この城跡は南丹市八木町北広瀬にあって、国道9号より八木町に入れば八木交差点より477号へ針路変更、その後は桂川を渡れば直ぐ川沿いに左折し、目印となる「阿弥陀寺」あるいは隣接する「岡神社」を目指せばよい、直登取り付き地点は概念図の如く神社すぐ背後にある墓参道からで、道が途切れてもそのまま山上を目指して上れば、山上主郭までは10分内で藪漕ぎもなく辿り着く事が出来る。

この山城を訪問するきっかけとなったのは、昨年の刑部城跡訪問の際に西に聳えるなだらかな山容を持つ低山が、刑部城跡と同様に城山の風情を充分過ぎるぐらいに醸し出していた事からも、何時か機会があれば踏破探索してみようと思っていた事によるもので、今回はたまたま付近を通過した事も重なり、事前から描いていた南北二通りの直登想定ルートの中、南側に位置する岡神社側より直登を敢行した。(ちなみに北側先端に下山したが、この逆ルートでも分かり易く上れる)

結果的には昨年推察した通りに、山上には古い形態を持つ明らかに山城跡と呼べる遺構群北側に繋がる尾根上には数100mにも及ぶ郭群(削平地)、何れも地表風化によって埋もれて判別し難い状態にはあるが、堀切あるいは土塁などを伴って北尾根先端にまで縄張りは展開されていた。山上に向うまでには僅かな期待はあったが、これほどまでとは思っていなかったせいもあり、久し振りに味わう嬉しい大誤算にテンションの上がる訪城と相成った。しかし、これだけの城跡遺構がありながら手元に所有する資料の中からは城跡呼称を見出す事が出来ず、今回は是非山城ファンの方達に存在を知って頂く為に仮名としてリポート掲載に及ぶ運びとなった。当然既に訪問されて遺構の確認あるいは城跡呼称の確認まで行なわれた方も居られるかも分からないが、間違いなく城跡と断定出来る遺構群と見受けられたので、今回はまだ未訪の方の為に迷わず現況(六月)リポートさせて頂いた。

1route 登城ルート

8 進入口

3h 城跡概念図

現状、山上郭群においては長年の地表風化によるものか、最初から安普請で築かれたものかは判断出来かねるが相当地形は曖昧でもあり、部分的に切岸などは窺えるが高低差を伴う切岸は皆無、周囲はなだらかな斜面とあって当然縦堀なども設けられておらず、明確に判別出来る遺構も限られてくる状況にはある。それでも山上における僅かな土塁跡、あるいは他に類を見ない形態とも見受けられる土塁壇での本郭構成など、非常に見学者にとっては想像を掻き立てられて、推察も含めて楽しく見て回れる城跡と目には映った。連続する起伏の少ない北尾根上には、相当埋もれてはいるが堀切(空堀)跡や土塁壇なども目に留まり、連続する削平地を通過して先端部には城中最大とも見受けられる北出郭があり、相当距離を歩く事にはなるが充分目は楽しませてくれる様には感じられた。

個人的には今回(過去)の様に城跡として資料にあらずとも、外見から城山と感じれば直ぐに踏破探索してみたくなる性分でもあり、城跡呼称に関しては暫定あるいは仮名として既に掲載を終えた、京都府内に限れば桐村城、千手寺城、川北城などは今もって呼称確定にまでは漕ぎ着けていない現状なのだが、この山城も自ずとその中の一つに加えられそうな気もしてくる、、、。自身で歩き回った末、作成した概念図(当然正確ではない)に少しでも興味を持たれた方のみが対象となる山城かも知れないが、現状藪漕ぎ見学までには至っておらず、付近を通過したついでに寄る程度ならば見応えは少ないかも知れないが、縄張りを縦走して体感した見返りは決して少なくはないと感じられるのである。

13_minami_doruikaku_1 山上南土塁壇見所

15_doruidan 北土塁壇

16_dorui_ato 僅かな土塁跡

21_doruidan_kuboti 本郭群窪地

38_horikiri_dobasi 北郭群へ堀切土橋見所

41kitakaku_gun_horikiri_ato 僅かに残る堀切跡

44_kitademaru 北出丸

2009年4月12日 (日)

静原城跡(京都府左京区)

この山城は標高480m(比高260m)の城谷山山頂に位置しており、先に掲載に及んだ便宜上静原南城とした北大堀切からそのまま北に向いて斜面を上れば25分は要すが自ずと山上郭には辿り着く事が出来る。逆に静原神社背後よりルート図を参考に直接山上郭を目指すのであれば、写真に示す配水タンク手前を左に折れ造成空き地を西に抜ければ道標はないが、それと分かる山上まで繋がる踏み跡程度の山道には合流出来る。この山道は最初の進入口さえ間違わなければ迷わず山頂までは到達可能(40~50分は要す)であるが、南城までの遺構見学を前提とするのであれば下山口に迷う(急崖地形がある)事にもなるので、南城でも触れた様に南尾根先端に向いて斜面は少しきつい(木にしがみ付く)が直登ルートを選択し、下山道として山道を利用し神社側に下りられる事をお薦めしたい(踏み跡に任せれば楽に迷わず下山出来る)。

現状(三月)城跡は南城と同様に比較的見通しも良く、植林地である事からも下草は少なく非常に見学しやすい状況となっている。全体的に長年の堆積物などによって地表風化は激しいが、僅かながら虎口に顔を覗かせる石積み跡、石段跡あるいは郭切岸、堀切跡などの判別確認は充分可能な状態でもあり、急峻な山上に位置していながらも山上における郭占有面積は大きく、切岸処理や石垣跡あるいは縄張りプランからも窺える様に本格的に普請されている様にも見受けられ、流石に三好氏の城跡だと感心させられた。南城と同様に此方も探せば郭壁の至る箇所に僅かではあるが石積み跡は露見しており、土中には相当深くまで石垣跡が眠っている様にも感じられた。山上郭群は南城と比べれば遺構の見応えに於いては多少見劣りがする様にも思われたが、この標高を考えれば峻な山上に位置する山城の形態そのものが見所でもあり、この佇まいからも充分戦国ロマンには浸る事は出来そうにも思えた。

この三好氏の築いた山城も光秀攻略後にどの様な経緯を辿ったのかは不明であるが、山上に残された状態の良い城跡遺構は数百年経た現在に於いても、時代を超えて何かを語りかけてくれる様にも感じられたのである。

2z 静原二城の位置関係

3 城跡概念図

5_bunki 下山道or登山道

13_shukaku_kogutiisidan_ato_1 主郭虎口石段見所

16_shukaku 主郭内

10_higasi_gedan2_2 東郭

8_higasi_gedan3_isi 東郭群石垣跡

19_kitakaku 北郭

21_houkusei_horikiri 北西堀切見所

27_kirikisi_1 南郭群切岸

28_gedan2_sokuheki_isi 南虎口の石積み跡見所

2009年4月11日 (土)

静原南城跡(京都府左京区)

この城跡は静原城(城谷山山上郭)から見ればほぼ南側尾根先端部に位置する城跡でもあり、一城別郭としてみれば自ずと静原城南出城と呼ぶに相応しく思えるが、完全に山上郭とは北大堀切で分断されており、規模の大きさや独立した縄張り形態、城跡の完成度、あるいは遺された石垣跡などからも窺える様に、築城(あるいは改修)年代も山上郭とは多少異なるのではないかとも推察された。個人的には両城に共通して石垣が使用されている事、本郭虎口には共通する石段が設けられている事、山上と尾根上とで南北に郭群は分かれてはいるが同じ山塊にある事(その他諸々)などから、光秀によって攻略後改修はあったと解釈は出来そうでもあるが、石垣城(滝山城、芥川山城、飯盛山城など)を得意とする三好氏の縄張りは随所に窺われ、ほぼ多少の改修のみで山上郭は攻略後には破棄されたものの様にも感じられた。現状所有する文献類の中には総称としての静原城はあるが、この城跡に限っての呼称は見つけ出す事が出来なかったので、今回は便宜上(仮)静原南城として現況リポート掲載に及んだ

城跡は左京区静市静原町にあって、道順としては京都市内に入り「堀川通り」より北上を続ける、府道40号(鞍馬街道)から静原神社を目指せば分かり易く辿り着けるが、二度目となる訪問の経験からルート図及び写真に示した南城の南端にある住宅地裏庭背後から取り付いて、そのまま急斜面(相当きつい)を上る事をお薦めしたい。この直登ルートなら南城の規模の大きい先端郭跡には10分内で到達可能であり、西側の静原神社側から延々と続く斜面を40分前後かけて上り下りするより、静原山上郭群までは尾根上の縄張りを観察しながらメリハリの利いた遺構見学が楽しめ、更に山上郭からは逆尾根に踏み跡を辿る下山道がある事からしても、間違いなく楽に下山(ルート図神社側)出来る様な気がするのである。(ちなみに車は神社付近に路駐可能スペースあり)

1route2 登城ルート

7_tyokutoguti 直登口

3mi 城跡概念図

14_koguti_jyoudankaku 南郭群

15_isigaki_2 石垣跡見所

18_gedan2_koguti_isidan 本郭群への石段跡見所

20_kuboti_isi 内壁石積みの窪地見所

21_kuboti_ue_isi 郭壁の石垣跡

29_shukaku_dorui_2 主郭背後土塁見所

33_horikiri_1 34_horikiri_dobasi 大堀切及び土橋見所

現状(三月)城跡は比較的見通しも良く、郭切岸などの状態も良い部類に入るので山城としてはほぼ満足の行く遺構見学は出来るものと思われる、ただ本郭群より南側斜面の段郭群は地表風化が激しく郭境は非常に曖昧でもある。見所は前述の見応えのある土橋付き大堀切、探せばいくらでも郭壁に覗いていそうにも思えた石垣跡(概念図に示したものが全てではない)で、見る者によっては色々な想像を膨らませる事が可能であり、更に戦国ロマンにも満ち溢れ、山上から尾根先端に至るまでの縄張り妙味にも触れる事の出来る素晴らしい城跡と呼べそうには思えた、更に静原城として二城一体のものとして考えれば自ずと推奨に値する城跡と目には映った。 尚、本来の静原城(城谷山山上郭群)は次で掲載の予定

2009年4月 8日 (水)

堂ノ庭城跡(京都市北区)

城跡は京都市北区鷹ヶ峰城山にあって標高480mの山頂に位置しており、文献によっては明智氏の築城ともあるが詳細は不明。

城跡へは京都市内に入れば通称「千本通り」より北上を続ける、そのまま北上直進すれば鷹ヶ峰地区より自ずと目印としての京見峠(京見茶屋)までは到達出来るが、そこを通過して少し北上すればルート図の如く氷室地区へと右折(道標あり)すればよい。城跡への進入口は概念図に示す様に二箇所あるので、どちらから上っても車を降りて5分もあれば山上主郭までは到達出来る。東側の進入口の方が某独歩会による緑のタグもあるので分かり易いとは思われるが、、

現状(三月)城跡は藪化も相当進行しており、全体の見通しが悪いので歩き回る事で城跡の規模あるいは遺構の判別確認を余儀なくさせられる状態にあり、更に人の手がほとんど入らず荒れ放題と化して長年の風化によって郭境も曖昧になっている。現状当時の遺構として確認出来た範囲では主郭周囲に廻らされた空堀土塁(一部二重構造)、櫓台に見えた土塁壇、空堀の仕切り土塁などが挙げられるが、空堀などは地表風化によって明確な判別は難しく、窪地として捉えた場合に恐らく空堀だろうと判断出来る程度だと思って頂ければ良い。概念図におけるものが独自で判断した遺構群であるが、城跡に二重空堀以外ではそれほど手の込んだ技巧的な遺構が見当たらなかったので、他の部分は見学者による判断任せとしても良いのではないだろうか。山上は単郭構造の縄張りでもあり、遺構の見応えを求められれば返答に少し困るが、山城の醍醐味は市内(現在は無理だが当時は一望出来たはず)を見渡せるこの険峻な山上に築かれた事実、あるいは外見から望める山容などから味わう部分も含まれているので、仮に光秀が築城に携わったものとすれば余計にロマンも広がって別な意味で城跡を楽しめるような気がするのである。

城跡を個人的に評価すれば「この山城に遺構の醍醐味を期待してはいけない」、と言う事になるのだが、標高480mの険峻なる最高所に築かれたこの事実こそが山城の存在感でもあり、城跡を語る上あるいは見学する上での更なる値打ちだとも思えるのである。

1 登城ルート

5_tozanguti 進入口

3do 城跡概念図

15_shukaku_1 主郭内

11higasi_kuboti 東側窪地

13_higasi_dorui 土塁

21_kita_gawa_yagura 北側土塁壇

22_kita_karabori_dorui 空堀土塁見所

24_kita_obi 北側帯郭

2009年3月 7日 (土)

周山城跡(京都市右京区)

城跡は京都市右京区京北周山町にあって、町の中心より真西側に聳える標高約480m(比高230m)という険峻極まりない山上最高所に位置している。比高が200mを越えれば自ずと歩行距離も時間も費やすことになり、山上主郭までは途中の郭跡も見学すれば麓からはたっぷり50~60分はかかってしまう。山歩きは楽しめるが先がこれほど長いと山城巡りにおいては決して後の訪問に残さない事が大事であり、体力のあるうちに先に寄った方が色々な箇所を見て回れるような気はする。個人的にも今回は二度目の登山になるが結果的には城域が四方尾根上広くに渡っている事、あるいは見所も多い事から時間もかかり、まだ数箇所に点在する郭跡及び未踏尾根上を残した状況でもあり、全域踏破までには至っていないのが現状なのである。三度目は半日割いて今度こそ自作概念図を仕上げてみたいとは思うのではあるが、中途半端が嫌いな性格とあっては何度目の訪問で仕上がるのか見当が付かないのが現状でもある。

この城跡は明智光秀の築城として余りにも有名であり、同じ石垣を用いた光秀の山城としては丹波金山城を遥かに凌駕する規模を誇っており、もし全石垣が残存していたら総石垣城として名を馳せている但馬竹田城とも比肩しうる戦国期山城である様にも見受けられる。もちろん遺構保全状態は比べるレベルには到達してはいないが、個々の郭壁面(四方尾根上の郭跡も含めた全て)に相当な高さと量で残された石垣跡は崩落寸前の石垣跡と並んで相当見応えのあるもの、無骨に積まれたこれらの石垣跡はむしろ戦国期における臨戦時を物語っているものでもあり、整備されていないこの状態にある方がかえってロマンに浸れそうとも言える。

1route1 登城ルート

3 現地縄張り図

4_tozan_guti 登山口

現状(11月)郭内は植林地であることも幸いして比較的見通しは良いが、風化及び堆積物によって地表が露出していない部分が多く、細部に渡る遺構の判別は中々難しい状況にある。縄張り内においても石垣が崩落している箇所、あるいは風化による地表の凹凸も相俟って曖昧な部分が多く、郭境などの判断は非常に難しい状態でもある。しかしこの城跡に限って言えば、純粋に石垣跡の見応え及び醍醐味だけでも当時に思いを馳せる事が可能でもあり、それで充分納得した山城見学になる様には思われる、、

光秀の残したこの全山総石垣の山城は京都府に存在する改修の施されていない山城としては稀有な存在でもあり、整備さえすれば縄張り妙味も含めて但馬竹田城に充分匹敵するものでもあり、個人的には京都府唯一の戦国期に成立して現在に至る総石垣城として、是非とも保全整備される事を願わずにはいられない。

13_shukaku_e 二の丸より主郭へ

20_shukaku_dorui 主郭土塁

25_tenshudai 主郭内の曖昧な地形

39_takaya_nisi 鷹屋ノ丸西石垣見所

46_koshoumaru_isi 50_koshoumaru_isi 小姓丸石垣見所

43_koshoumaru_yori_nisimaru 郭境の石垣跡

56_nisimaru_koguti 西丸虎口石垣

2009年2月23日 (月)

観音寺城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市観音寺にあって、アジサイ寺でも有名な観音寺の南背後の尾根先端に位置する山城。大槻将監の居城と伝わり当時綾部一帯を支配していた高城、高津八幡城主でもあった大槻氏一族の城跡とみてまず間違いのない処か、、

城跡へは綾部市内を東西に結ぶ県道8号に進入する事が先決、この県道を走れば東西どちらからでも観音寺地区道路沿いに案内標識が設置されているので寺院までは迷わず辿り着ける。寺院の南側背後の集合墓地まで上れば墓参用駐車場もあり、其の背後より南東側に向いて直登すれば藪漕ぎもなく10分程度あれば主郭に到達する事が出来る。

1route_4

登城ルート

4

県道より遠望

3

城跡概念図

現状(二月)城跡は藪化進行中ではあるが移動に難渋する事も無く、地表は相当風化が激しく凸凹としているが遺構の判別確認に支障を来たす状態にまでは至ってはいない。主要二郭で形成される本郭群で目立った遺構は目に留まらなかったが、唯一主郭への中央上り土塁虎口は切岸と並んで全体像が拝めもので中々見応えを感じる事は出来た、更に主郭櫓台を越えて南東側山上へと足を延ばせば二連の堀切を経て直ぐ規模の比較的大きい南郭群となる。ここから更に山上までは空堀道が通じているので、それに沿って上れば自作概念図に示す大空堀(凄い!)、土塁郭、更に連続する縦堀群が目を楽しませてくれる事になるが、この縦堀群のある付近の山上物見から北郭群までが今回の地図上からの踏破計画でもあり、探索はここ山上物見までとして当初の予定通り下山と相成った。更に南東側へは尾根道が遠く高嶽(標高416m)の山頂までも繋がっている様でもあり、郭跡もその尾根上に点在している様にも思われたが推察の域は出ないものでもある。

今回の訪問結果感じられた事は観音寺城は尾根先端部の二郭だけの城跡にあらず、遠く南東側山上までも縄張りに取り込んだ相当な城域を持つ、しかも縄張り妙味も尽きる事の無い山城であったと言う事である。中腹に位置する本郭群の自然任せの残存度の高い遺構にも魅力が感じられるが、更に南東山上に至るまでにこれだけの城跡遺構が残存していたとは驚くより他無いのが現実でもあり、時間に余裕のある方は是非山上近くまで足を延ばして頂き大空堀、縦堀群以外にも探せばまだ見つかりそうにも思える大槻氏の山城遺構を味わって頂きたいと思うのが本音でもある。

6_kita_oote

北側大手土塁虎口

9_fuku_kaku_2 副郭より主郭

11_shukaku_nobori_koguti 主郭へ上り土塁見所

12_shukaku_heki 主郭切岸

18_yagura_heki_1 櫓台の背後土塁

30_minami_dorui_dan 南郭群

35_dai_karabori_2 大空堀見所

38_sanjyou_kita_kaku 山上北郭群

2009年1月23日 (金)

荒河城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市荒河にあって武神社の背後から北山上までが城跡、先にリポート掲載を終えた奥野部城跡とは国道とタンゴ鉄道を挟んで北東側に車で数分移動した場所に位置している。荒河(アラガ)氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは奥野部城跡を起点にすれば位置は分かり易いが、国道9号「下篠尾」の交差点を東に向かいルート図の如く武神社を目指せばよい。神社道路沿いには駐車場もあり、そこから神社まで上り、社殿東斜面に取り付けば南出郭に相当すると思われる郭には直ぐ到達出来る、ここの半分は集合墓地に占拠されているが、北側斜面には空堀土塁跡も残っており、城域が北山上からこの南端にまで及んでいた事が分かる。

山上郭群へは概念図に示す通りに移動すれば数分で到達出来るが、現状(12月)冬季にも拘らず山上は矢竹及び雑木でほぼ埋め尽くされており、全体像の視認はまず無理、ましてや郭間の移動も難渋する始末で、とても満足のいく見学は出来ない状態にある。もちろん個人所有の城山なので文句の言える立場ではないが、夏季訪問でなかった事が唯一の救いとなり、歩き回る事によって山上における縄張りの全体像はほぼ掴む事は出来た。郭北側斜面には唯一の見所でもある土塁を伴う深い堀切も残存しており、藪漕ぎしながらでも何とかここまで縦断して来た甲斐はあった。堀切より北側に向いては更に削平地があり、そのまま北端に位置する寺院までは城域とも窺われ、当然郭展開がされている様には見受けられたが、流石にこれ以上の藪漕ぎには耐えられず踏破は断念に至る。

城跡は推察も含めて南端の神社から北端の寺院に至るまでの、ほぼ山上全域に渡るものでもあり、相当規模の大きい山城と感じられたが、視認もし辛い藪の為に距離感も失われ、直接この大規模な山城を体感するまでには至れなかったのが、少し悔いも残り残念な処ではある。夏季の訪城は絶対に禁物!

1route 登城ルート

3ar 城跡概念図

7_dai_karabori 大空堀

11_kaku 南段郭

15_shukaku_1 主郭

18_horikiri_dorui_1 主郭北土塁堀切見所

18_horikiri 堀切

2009年1月22日 (木)

奥野部城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市奥野部にあって国道9号と和久川の交わる地点の北西側丘陵上が城跡、芦田氏の拠った城跡と伝わっているが詳細は不明

城跡へは国道9号を北上した場合、道路沿いにある大規模なショップ「インテルナモリイ」を目指して進行、城跡は其の西背後の丘陵上にあるので、手前橋から位置を確認すれば橋を越えて直ぐ左折する。後はルート図の如く走り、付近道路空きスペースに路駐、北側の住宅地横をかすめて社殿参拝道に進入すれば、自ずと社殿の建つ南丘陵上の主郭には辿り着ける。

城跡は最初に到達した南城郭群、北側の堀切を境にして別峯山上に位置する北城郭群、更にはその西側山上に位置する西山上郭群でほぼ形成されており、非常に広域に渡って郭の展開がされている規模の大きい城跡と見受けられる。社殿のある南城主郭が城中最大規模を誇っており、状態は一番良く高低差のある切岸、縦堀、堀切遺構などを見て取る事が出来る。北城主郭は南城より少し高所にあり規模は小さいが西側半分には土塁が残存し東斜面には縦土塁を境にして数段の広い屋敷跡が連なっている、鉄塔の建つ西山上郭群には土塁などの明確に判別し易い遺構は存在しないが、明らかに削平された数段の段郭群で形成されており、未踏ではあるが南側尾根上から参拝道近くまで郭が展開されている様にも窺われた。

現状(12月)冬季ではあるが南城北堀切から北山上の北城主郭まではほぼ自然任せの風化中でもあり、満遍なく覆い尽くされる雑木あるいは笹藪で、視認あるいは踏み入り移動するには少し難渋する状態にある。それでも北主郭の土塁などは確認出来たが、更に東側は国道沿い近くまで雑木に覆われており全て踏破するまでには至れなかった。福知山市内における数多い城跡の中でも三峯に跨る規模を持った城跡は少なく、戦国期を物語る史跡としても非常に貴重な城跡と感じられたが、個人所有の山とも見受けられるので、この遺構群を後世まで遺す事はこれから先も非常に困難である様にも感じられた。全体の状態がもう少し良好であれば推奨も出来たのだが、訪問時期(南城は何時でも可、他を見学するのであれば夏季は禁物)も限られるとあれば、中々お薦めとまではいかないのが現状を見る限りの個人的な見解である。

1route_2 登城ルート

6_1 進入路

3o 城跡概念図

8_minamijyou_heki 南城主郭切岸見所

10_koguti_e 虎口跡

11_minami_shukaku_1 南城主郭

17_nisi_heki 主郭西切岸

23_naka_horikiri 中央堀切

26_shukaku_dorui_1 北城土塁見所

30_sanjyou_dankaku 西山上郭群

2009年1月21日 (水)

桐村東城跡(京都府福知山市)

この城跡は福知山市大呂地区に存在する桐村城跡として場所を確定して訪問した訳ではないが、先にリポート掲載に及んだ(仮)川北城跡と同様に無名に近い存在である為に、現地での情報あるいは手元の資料からはこの地が桐村城跡と断定出来る情報は得られなかった。しかし判別確認可能である郭跡、堀切、土塁などからも山上には紛れも無く城跡遺構は残存しており、今回は呼称の確定までは至れなかったが(暫定)桐村城跡としてリポート掲載に及んだ。

大呂(オオロ)地区にはこの城跡を含め、他にも金山城など数箇所に無名に近い城跡がある事からも、自分を含めて一介の山城ファンにとっては場所を特定して探し出すのは難儀でもあり、期待感も味わえる代わりに非常に苦労しているのが現状でもある。もしブログ読者にこの城跡に関しての情報をお持ちの方がおられるのであれば、先に掲載済の(仮)川北城跡と同様に情報コメントを頂戴出来れば非常に有難いのですが、、、

(1/23日) 早速ブログ読者の方より「記憶では本来の桐村城跡はも少し奥の方だった」と言う情報提供を頂き、今回訪問の山城は少なくとも桐村城跡では無かった事が判明しました。今回訪問した山城の呼称確定まで一歩前進した感はありますが、引き続きこの城跡に関しての情報を待ちたいと思っております、ご協力のほどよろしくお願い致します。

(9/16日) 今回再訪した事によって本来の桐村城の所在地をやっと確認する事が出来ました。ただ訪れた時間帯も悪く山上踏破までは叶いませんでしたが、城史に関しての現地ネタなどは、9/16のブログ「桐村城の所在地が判明」を読んで頂ければ、ある程度までなら分かるとは思われます。尚、現在掲載中でもある、この(暫定)桐村城の呼称は未だ分からぬままではありますが、古い形態ながら明確な城跡遺構も存在する事からも東を抑える為の出城、あるいは伝承にもある金山城である可能性が非常に高いものとも思われます(推察)。桐村城自体が歴史の表舞台にも登場して来ない無名に近い城跡なので、余り深く追求する事も無いとは思うのですが、この山城に関しては(仮名)桐村東城として掲載はそのままにして置きたいと思います。

(仮名)桐村城跡へは国道9号を福知山市内から北上した場合、「牧」交差点より国道176号に針路変更、そのまましばらく北上すれば下天津駅の表示が道路沿いにあるのでそちらに左折進路変更する。後はルート図の如く登山口である八幡宮を目指し、到着後は其の背後からの尾根を登り切れば10分程度で山上主郭には辿り着く事が出来る。

現状(12月)城跡はほぼ植林地である為に見通しも比較的良く、移動も容易く、遺構の判別確認は容易に出来る状態にあるが、古い形態の山城でもあり更に自然任せの地表風化がそれに追い討ちをかけており、郭跡は凹凸が激しく相当荒れ放題と化している。それでも前述の主郭の土塁跡、西側の尾根を断つ大堀切は土塁も高低差も伴っており、城跡唯一の見所ともなっており、多少ではあるが満足感を得る事は出来た。しかしこういった情報の無い山城跡は最初から期待も少ないので、探索中に膨らむ期待感あるいは城跡遺構を見つけた時の喜びは大きく、山城巡りの醍醐味が倍増するのは確かなことではある。

1route 登城ルート

4 城跡遠望

3kiri 城跡概念図

6tozanguti 登山口

12_higasi_kaku 東郭群

17_kita_sita_dorui 東郭群斜面の土塁

19_shukaku_dorui_1 主郭土塁

20_shukaku_higasi_kaku 主郭東側

21_nisikaku_dorui_1 西郭土塁

24_nisi_dai_horikiri 大堀切

2009年1月20日 (火)

川北城跡(京都府福知山市)

最初に、この城跡は既にリポート掲載済でもある「高龍寺城」関連から、個人的に西側「川北」付近に城跡の目星を付けて探索中に偶然巡り会う事が出来たのだが、小規模でありながらも郭跡、郭切岸処理、土塁などの明確な城跡遺構が残存しており、城跡としての情報は皆無に等しいが、隠れた城跡として是非この城跡の存在を知って欲しいが為に今回は、仮名「川北城跡」として掲載に及ぶ事となった。(当然城跡は手元にある資料からも呼称は見つけ出す事が出来ず、もしブログ読者の方にこの城跡についての心当たりがあれば、是非情報コメントを提供して頂けると有難いが、、)

城跡へは福知山市内より北側を東西に走る県道74号より向う、川北集落に入れば県道沿いにある簡易郵便局の交差点から北側に望める丘陵がそれであり、直ぐ場所の確認は出来る。、後はルート図の如く川沿いに進路変更し、社殿参拝道を利用すれば主郭までは5分内で辿り着ける。(神社参拝進入口付近には小型車であれば一台駐車可能)

城跡は小さな社殿の建つ場所が主郭櫓台と見受けられ、南に向いて段郭群、北側は尾根沿い東側に土塁を伴った郭跡が確認出来る。この土塁は郭仕切り土塁、あるいは防備としても一役買っていそうに思えるもので、雑木藪の中ではあるが良い状態のまま自然保持されている。これは他に技巧的な遺構の見当たらない城跡にあっては唯一の見所と言えるものでもある。現状(12月)城跡は冬季にも拘らず主郭回りを除いては相当雑木あるいは竹が蔓延り、外見から全体像を窺う事はほぼ無理な状態にあるが、郭内に踏み入れば郭形状、土塁などは確認する事は出来る。

藪化進行中とはいえコンパクトな城跡なので全体の縄張りを把握する事は容易でもあり、県道からも数分で訪問出来る距離にあるのでお手軽感は強く、周辺移動中に立ち寄る程度の事であれば、充分納得して見学出来る城跡と言えるのではないだろうか。

1route 登城ルート

5tozanguti 参拝道進入口

3ka 城跡概念図

K_1 主郭櫓台

K_16 櫓台下段

K_15 南段郭群

K_14 主郭西土塁郭

K_4 東より主郭側

K_7 東郭の土塁

2009年1月14日 (水)

一ノ宮竹石城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市一ノ宮町竹石にあって、竹石集落より南東側国道に向いて伸びた丘陵上が城跡、城史に関しての詳細は不明

城跡へは福知山市内より国道9号を経由し国道426号を北上して一ノ宮町に向う。集落周辺に到着すれば国道沿いに、写真に示す「里の駅」と書かれた大きな看板が目に留まるので、手前よりルート図の如く集落に向う狭い道路に左折する、そのままほぼ赤線ルート図の如く走れば城跡周辺には路駐も可能であり、南東側に竹林を確認次第その方角にある農作地の畦道より進入、直ぐに規模の大きい主郭(現状休耕地)が迎えてくれる事になる。

城跡に関しては偶然付近で出くわした土地の所有者より事前に話を伺う事が出来、石垣跡のある事、あるいは空堀の残存する事、市より一度調査があった事などの情報を得る事が出来たが、城史に関してまでは御存知無い様であった。

現状(12月)城跡は広い主郭以外はほぼ雑木竹林地と化しており、更に下草も蔓延りとても見学し易い状態では無いが、残存遺構としての竹林地の中の郭跡、あるいは見所でもある三本の堀切、石垣跡と全て判別確認は出来る状態にはある。中でも概念図に示す箇所の堀切壁に残る石積み跡、その堀切東側の郭壁に残る幅5~6mに渡る二段の石垣は、当時堀切壁及び郭壁は石垣で構築されてあったと判断出来るものでもあり、当時に思いを馳せる事も容易となっている。堀切も自然風化及び倒木などで決して状態が良いとは言えないが、一番肝心な主郭回りに堀切、石垣跡などの遺構が集中して現存しているのにはただ驚くばかりであり、集落周辺が農地として地形改変が行われた中、よくぞここまで残っていたと感心するばかりでもある。主郭回りの手付かずの遺構群に関しては、折角ここまで自然保持されたのであれば、これから先も是非この状態のままで遺して欲しいと願わずにはいられない。尚、川を挟んだ南西側の広大な丘陵地(現状農作地)は当時の馬場跡でもあるらしい。

限りなく無名に近い城跡ではあるが、三本の堀切と残存する石垣跡は当時の本格的な普請を想像させるものでもあり、充分見学に値する遺構であると自分の目には映った。国道426号沿いからも城跡は望める位置にあり、移動の際に立ち寄っても時間の無駄には決してならないものと思われる。

1route_2 登城ルート

4 城跡進入路

3 城跡概念図

12_shukaku 主郭

15_shukaku_minami_horikiri_1 主郭堀切見所

24_higasi_gedan_1 堀切東郭

25_gedan_isigaki_1 25_gedan_isigaki_3 東郭壁の石垣跡見所

21_horikiri 出郭堀切見所

11_nisi_dan_1 西側の郭群

27_minami_gawa_baba_2 南丘陵上の馬場跡

2009年1月 6日 (火)

井田城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市夜久野町井田にあって、国道9号沿いにある加茂神社北背後に聳える山の山上が城跡、城史に関しての詳細は不明

城跡へは国道9号で井田集落に入ればルート図の如く交差点を右折、すぐ右手に公民館が目に留まれば車はここに駐車させてもらい、道標は無いが公民館を出てすぐ左手向いより写真に示す山道が加茂神社へ繋がっているので、ここから上れば自ずと神社背後からそのまま尾根伝いに登り切れば、山の如く聳え立つ山上主郭までは到達する事が出来る。もちろん神社からは登山道は無いが5分もあれば到達可能である。

現状(12月)城跡は全域が植林地となっており見通しは良く、下草もほとんど無いので山上郭群における遺構は全て判別確認が容易に出来る状態にある。特筆するほどの遺構は見当たらないが、外見から窺える主郭の切岸は直立に近いもので、高低差が7~8m前後はあり、しかも中央に孤立している為に相当な見応えを感じる事が出来る。主郭まで上るのには足場も少なく、直立に近いので案外苦労するほどである。主郭北側下には大土塁が形成されており随分埋もれてはいるが空堀跡も窺え、更に下に下りれば大規模な郭が直立に近い切岸を伴って展開されている。山上郭群だけを採り上げれば規模も小さく縄張り妙味も無い城跡と位置付けが出来るが、登山道中の緩い傾斜の連続する削平地及び現在の加茂神社の広大な敷地も居館跡あるいは郭跡と想定すれば、決して規模の小さい城跡とは言えなくなる。

堀切の存在も確認出来ず、技巧を伴う遺構も見受けられない古い形態の山城ではあるが、個人的に見て感じるには戦国期も改修を施されながら乗り切った城跡の様には見受けられず、光秀による丹波平定以前、あるいはその際に廃城となった可能性は非常に高いと思われる城跡と目には映った。

1route_3 登城ルート

6tozanguti_2 登山口

3i 城跡概念図

10_yasiro_kaku 社敷地郭跡

13_2 奥主郭

18_kita_dorui 北側の大土塁、空堀跡

22_shukaku_heki 主郭切岸見所

27_minami_kaku 南郭

33_oohiroma_1 北郭

2008年12月25日 (木)

ヒエガ谷城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市榎原にあって、既にリポート掲載済である榎原城跡に向う道路沿いに門柱が眼に留まる、観瀧寺から見れば道路を隔てた南西側に位置する山の山上が城跡、城史に関しての詳細は不明。

城跡へは福知山市内から向う場合、国道429号を走り口榎原地区に入れば109号に針路変更、観瀧寺が見えてくれば其の先の道をルート図の如く進入、最終的に住宅地のある場所で行き止まりとなるが、そこにある獣避けゲートを越えれば図に示す当時の郭跡とも思われる社殿敷地までは参拝道が通じているので直ぐ辿り着ける、ここからは尾根上を右に回る形で上れば山上郭に到達出来る。(城跡の現況については概念図中にあり)

Hi3z 登城ルート

3h 城跡概念図

6demaru_minami_yasiki 屋敷跡か?

8_kita_demaru 北出郭に相当

9_demaru_gedan_1 出郭下段

14_dobasi_koguti_1 山上虎口土橋付き空堀

17_shukaku 主郭

21_nisi_karabori_dorui 西側空堀土塁

22_kita_karabori_dorui 北側空堀土塁

2008年12月 5日 (金)

三ノ宮東城跡(京都府船井郡)

京都府船井郡京丹波町三ノ宮にあって、既にリポート掲載済でもある三ノ宮(西)城からは国道173号を隔てた直ぐ東側に位置している、もちろん山内氏の居城と伝わっている。

城跡へは三ノ宮(西)城跡と掲げられた大きな看板の見える国道交差点から、図に示した作業所寄りの辺りが直登取り付き地点になり、取り付き地点に多少のずれは生じても急斜面を登り切れば山上主郭まで到達出来ることには変わりは無い。ただ西側は山上近くが凄まじい笹藪となっているので、直登の際には出来るだけ国道寄りの木々の少ない南側を回り込む形で上った方が楽だと思われる。

過去、三ノ宮(西)城跡を訪れた際の案内説明紙に、東城は調査中との事が付記されてあり、そろそろ調査も終えた頃だろうと安易に訪れて見たが、現状(11月)城跡は調査中どころか全域が雑木、矢竹藪と化しており、伐採前の段階と思われる目印のピンクテープが至る所に貼りまくられている。移動は矢竹の隙間を縫って何とか出来るが、全体の視認はまず無理、記録写真もほぼ伸び放題の矢竹を撮っているだけで中々画像としては成立してくれない、取り敢えず移動出来るだけはまだマシで、木々の隙間を縫いながら歩き回ってやっと全体像は掴む事が出来た、山上はほぼ四郭から形成される山城と見受けられ、櫓台土塁を備えた規模の大きい主郭に、高低差を違えて郭群が付随しているものである。櫓台背後には風化によって随分埋もれてはいるが二重堀切は確認出来た。こうしてみると東城は、整備されている西城とは比べるレベルに無いほど藪化は進んでいるが、手付かずの為に遺構残存度は高く、規模も西城よりは相当大きく、これから木々が伐採されて全貌が明らかになった時が非常に楽しみになってくる。(現実そうなるとは限らないが、仮に調査に入れば木々は伐採される筈である)

夏季の訪問は絶対に避けた方が賢明であるが、山上を移動出来るだけマシと考えれば充分観賞には耐えられる山城と言える。 少ない遺構群の中にあって堀切は唯一最大の見所!

1route_3 登城ルート

4_1 直登取り付き地点

3san 城跡概念図

7_minami_kaku_1 南郭

13_shukaku_2 主郭

15_yagura 主郭櫓台土塁

18_horikiri_1 18_horikiri_2 堀切見所

2008年11月29日 (土)

塩貝城跡(京都府南丹市)

new この城跡に関しては既に「大戸城跡」として7/15ブログに掲載したが、今回は呼称に間違いがあり訂正しなければならない事が判明した。結論として先に述べれば7/15掲載の「大戸城跡」は「東胡麻城跡」の誤りで、詳しい経過説明はコメントも含めて既に訂正し終えた、7/15掲載の「東胡麻城跡」ブログ中にあるので、それを改めて参照して頂きたい。実際の大戸城跡は東胡麻城跡の直ぐ西隣に聳える山の山上にあり、東胡麻城跡とは目と鼻の先の距離にある事も判明した。今回は前回の汚名を返上すべく、本来の大戸城跡を改めて訪問したので、ここに鮮度の高い城跡の現況報告を掲載する運びとなった。尚、案内板にもある様に掲載においての呼称は塩貝城跡(別名 大戸城)とした。

城跡は東胡麻城跡を起点にすれば分かり易く、ルート図の如く東胡麻城跡進入口の西側真反対に位置している大戸集落からが登山口となる。まず麓の地区公民館の敷地に車は駐車させてもらい、数100m北の写真にある白いポリタンクまで歩き、そこからは山側の民家手前左側の小屋付近に墓地が見えるが、そこからが道標も備わっており、山上に向いての登城口ともなる。この場所にはかつては城主であった塩貝氏の墓碑もあるので案外確認し易い。尚、公民館の前にも小さな道標があるが、地元の方の情報によれば「こちら側の山道は現在ではどの様な状態になっているのか分からない」との事なので、迷わず前述のルートを選んで上ることが賢明と思われる。(出郭である鍛冶屋敷跡までは15分内

現状(11月)城跡は植林地でもあり町史跡ともあって、ある程度手入れされており、見学する分においてはこれ以上望めない(山城としては)良い状態にある。最初に到達する中腹に位置する出郭の鍛冶屋敷跡から山上主郭に至るまでの遺構は全て判別確認出来る状態でもあり、当時の戦国期山城を遺構も含めて、思う存分堪能する事が出来る状態でもある。城域も案外広く登城ルートから少し外れると、北側先端の尾根上まで縄張りとして広大な削平地が広がっているのが分かる。城跡の見所は残存状態の良さも含めた郭壁面を覆う美しい切岸、技巧を伴う堀切、出郭の食い違いに見える虎口土塁跡などが真っ先に挙げられが、中でも主郭北斜面上における数本の堀切群は城跡最大の見所と言えるものである。

山城も定期的に手入れを行えば、この状態にまで保持されるといった見本の様な城跡でもあり、東に隣接する東胡麻城跡と並び、残存状態は非常に高いレベルにあるので、是非訪問をお薦め出来る山城の一つに数えられる。

1route_2 登城ルート

5 進入口

3ooto1 城跡概念図

6 登山口奥塩貝氏の墓碑

13_yasiki_dorui 鍛冶屋敷土塁見所

17_horikiri_dobasi 堀切土橋

20_2jyuu_tatebori_3 二重縦堀見所

21_kitakaku_yori_shukaku_heki_1 主郭北側の美しい切岸

24_shukaku_1 主郭

25_shukaku_minami_horikiri 主郭南堀切

32_kita_koudai_na_kaku_4 北側の広大な削平地

2008年11月19日 (水)

坂井城跡(京都府船井郡)

new この城跡に関しては情報は無きに等しく、地図上でそれとなくめぼしき辺りに探りを入れていた処、丁度タイミング良く、和田城跡の訪問リポートでもコメントを頂いたS氏より、場所を特定する情報を提供して頂く事が出来、やっと訪問が叶い今回の現況報告となった訳である。

城跡は京都府船井郡京丹波町坂井にあって、和田城跡からは4km西へ移動した距離にあり、京阪神側から国道173号を北上した場合、角にローソンのある国道9号「和田」で左折、そのまま道任せに進み、井尻の信号を超えて「坂井」バス停に到達する手前の左の山が城跡にあたる。城跡へはバス停数十m手前の民家を目印とすれば、周辺どこからでも取り付き上れるが、一番分かり易いのは、民家背後の傾斜面を直接ルート図に示す様に上る方法で、これなら東削平地(郭跡と判断)から尾根沿いに上り、15分もあれば山上主郭までは辿り着く事が出来る。

現状(11月)城跡は藪化も風化も進んでおり、木々によって見通しは悪く、郭内も荒れ放題となっている。しかし移動に難渋する程の事は無く、ほぼ三郭で形成されるシンプルな構造である為、更に複雑な遺構も現存していないので、縄張りを把握するのは容易な状態と言える。城跡は余りにも普通過ぎて見所を探すのには苦労するが、強いて挙げれば山上郭群の外壁となる、切り立った切岸と言った処で、低山でありながら山上は非常に急峻で、切岸が下まで落ち込む様は中々迫力はある。恐らく地元の人も知らないと思われる楚々とした山城であるが、こうして自然風化されるがまま数百年の時を経てきたかと思うと、非常に感慨深いものがある。

山城巡りをする上で頻繁に使用する、国道9号線沿いの瑞穂地区には、東は豊田城から始まり橋爪、和田、井尻、鎌谷そして今回の坂井城と、小規模ではあるが本格的に築かれた城跡が数多く存在しており、非常に眼を楽しませてくれる。まだまだ歴史からも遠ざけられた城跡がこの辺りには密かに眠っている気もしないでもなく、これからも期待の持てる地域ではある。

1route1 登城ルート

5_1 城跡進入路

3sakai 城跡概念図

8_higasi_sizen_kaku 東郭(削平地)

13_nisi_yori_shukaku_heki 西郭より主郭切岸

15_nisi_2 西郭2

18_nisi_horikiri_2 18_nisi_horikiri_1 西側の堀切

最後に、情報を提供して頂いたS氏には非常に感謝しております、これからも良い物件があれば情報提供の程、よろしくお願い致します。

八田城跡(京都府船井郡)

new 城跡は京都府船井郡京丹波町八田高畑にあって、既にリポート掲載済である和田城、井尻城からも程近く、ルート図の如く「道の駅」手前の国道173号沿いから取り付き、急斜面を直登すれば比高は100m程度なので、15分程度あれば山上まで到達出来る。城史に関しての詳細は不明

現状(11月)山上は自然任せの荒れ放題で雑木が密生しており、視認もし辛く地表すら満足に見渡せない状態にある。主郭と察せられる最高所には三角点が設置されているだけであり、現状では切岸も土塁跡も確認出来ず、郭跡とは到底判別も出来ない。僅かに輪郭として付随する三四段の削平地が見て取れるだけとなっており、これを山城とは呼び難く、せいぜい物見あるいは狼煙台といった程度の機能をもったものの様にしか見受けられない。

むしろ北西麓の道路沿いにあって、「中世期地方豪族之濠遺跡」といった石碑が土塁上に建てられている場所の方が、いかにも居館跡といった雰囲気を醸し出しているものでもあり、城跡として見る分には納得して訪問出来る遺構ではないだろうか。

しかし、こちらも現状(月を別にした6月訪問)では、広大な郭跡全域が竹林で覆われており、視認し辛く移動にも困難を来たす状態にあり、最近まで畜産の営まれていた形跡のある廃屋が、そのまま敷地内に置き去りにされているが、これは本来の郭跡に建てられていたものの様には見受けられる。幸いにも外見から濠跡、道路沿いから覗いても草木の中に切岸を窺う事が出来たが、相当奥まで繋がる屋敷跡までは、隙間も無い竹林で遮られ、進入する事も出来ないので遺構の確認などは至難の技である。外見から窺う限りでは、相当な広さを持つ事からも、家臣団の住む屋敷跡、あるいは居館跡が想定出来る様には思われるが、、、

1route 登城ルート

4_1a 造成荒地より遠望

11_kaku_ato 11_kaku_ato_3 山上郭群

現地道路沿いの城跡碑Yakata_ato

Yakata_ato_1 濠跡

Yakata_ato_5 屋敷跡切岸

Yakata_ato_8 切岸

2008年11月 5日 (水)

高龍寺城(京都府福知山市)

new 十月における訪城を振返ってみると京都丹後方面の山城巡りが特に多かったが、中でも宮津八幡山城、山田城は遺構の見応え度、あるいは切岸の圧倒的迫力で特別印象に残った。今回は月の最後を飾るに相応しい超目玉と言うべく山城に巡り合えた(10/31訪問)ので一番鮮度の高い情報として早速リポート掲載に及んだ。

この山城は京都府福知山市報恩寺にあって既に訪問リポート済みである私市城跡の真西側に聳える標高195mの高龍寺山の山上が城跡である、ちなみに報恩寺城跡からは南側に位置している。内田氏の居城と聞くが詳細は不明

城跡へは府道74号を走り、私市円山古墳の手前から私市城跡をかすめる一般道492号へ進路変更、後はルート図の如く南部公民館の手前の道から左折して山道に入る、個人的には公民館に駐車して歩き、報恩寺城の前をかすめて直登山口まで向ったが、どちらにしても最終的には西奥にある農作業小屋で合流する事になる。車ではここまで来れるし路駐も可能である。農作業小屋からは山に向いて少し南へ歩けば右手にイノシシ捕獲用オリが見えてくるので、それを目印として左手側の斜面に取り付く、少し上ると踏み跡と共に赤いポールが数十mごとにあるので、それを確認しながら南側へ斜面を上れば山上東端の堀切まで15分内で到達する事が出来る(公民館から歩いても20分程度)。

とにかくこの山城の見所及び凄さは直立に切り立つ高い切岸、堀切(尾根分断)、空堀(本来の掘削したもの)に尽きる思われ、単独で聳える山容の為か、縄張り変化には富んではいないが圧倒される切岸、技巧を伴う堀切など遺構残存度の高さはずば抜けて高く、他のこの周辺にある山城を圧倒しているとも思われる。特に二の丸西側の堀切群には感動すら覚えてしまう。更に残存状態も比較的良い部類に入り、山上の半分以上が植林地となっている為に見通しも利き、下草及び木立も少ない方なので遺構の判別確認はし易く、縄張りを掴む事は容易に出来る状態でもある。基本的にはほぼ主要三郭から形成される城跡ではあるが、個々の郭面積が広い為に余計に巨大な城跡として捉えてしまう。

今回も前日の直登シュミレーション通りに、迷わず山上まで到達する事が出来た上に、城跡探索中は数々の遺構群にアドレナリンは出っ放しの状態で、期待を遥かに上回る山城にも巡り合えて、最高の一日を締めくくる事が出来た。

1route 登城ルート

8_tozanguti 直登進入口

3ko 城跡概念図

15_kita_dorui_horikiri_2 東側到達点の堀切土塁

16_heki 東郭切岸見所

23_3maru_yori_shukaku_heki 三の丸より主郭切岸

24_3maru_2 三の丸

26_shukaku 主郭

27_shukaku_sita_karabori_dobasi 二の丸空堀片土橋見所

28_2maru_yori_karabori_shukaku_heki 二の丸より空堀、主郭壁

35_nisikaku_sita_horikiri 西郭の堀切見所

44_higasi_saigedan_dorui 東最下段郭の土塁、空堀跡

北有路城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市大江町北有路にあって光明禅寺の西側に位置する愛宕山が城跡、山名氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡へは福知山市内より国道175号を北上した場合、ルート図の如く光明禅寺を目指せば分かり易く到達出来る。寺院に向いて少し上れば墓参用の駐車場もあり、そこからは山上愛宕神社に向いて参拝道も通じており5分もあれば迷わず辿り着ける。

この城跡の見所は主郭背後の大堀切及び切岸、西側の出郭から末端の堀切に掛けての残存度の高い遺構群で、残存状態も良い部類に入り、当時に思いを馳せる事が容易に出来るものでもある。この周辺の技巧を伴う遺構はどれも見逃せないものばかり、高い切岸及び横堀と縦堀の連携によって北西尾根からの攻め手をここで全てカット出来る縄張りプランとも見受けられる。比較的規模の大きい主郭には近年に置いて展望ウッドデッキが設置されてはいるが、城跡の説明案内などはされていない様なので、ここがかつて山城であったとは誰も気が付かないと思われる。しかしそれのお陰で木々もある程度伐採されて遺構も判別確認し易く、縄張り全体像も掴み易くはなっている。単純明快な縄張りではあるが、この城跡に置いての西出郭群の遺構は一見の価値のあるものとみた。現在主郭から東側中腹に広い集合墓地及び寺院、保育園があるが、こちらも間違いなく郭跡の転用と見受けられ、山上から東麓の集落までを当時の縄張りとして取り込めば、案外規模は大きい城跡であった事が分かる。

国道からは直ぐの距離にあり、少し上るだけで当時のまま完存とも思える遺構群を拝む事も出来、更に車で移動中にも寄れるお手軽さも含めれば、個人的には決して期待はずれには終わらないと思える推奨出来る城跡の一つと言える。

1route_2 登城ルート

4 南から遠望

5 進入路

3ki 城跡概念図

17_shukaku 山上主郭

16_shukaku 主郭西側

22_minami_2jyuu_tatebori 主郭西の二重縦堀見所

24 主郭西の大堀切見所

27_shukaku_kita_heki 主郭北側の切岸

31_nisihasikaku_yori_8m_heki 西出郭の10m近い切岸見所

2008年11月 3日 (月)

豊田城跡 其の2(京都府船井郡)

ブログを開設した際(7/15日)の訪問リポートのトップを飾った豊田城跡ではあったが、訪問後に気になっていた寺院を挟んで西側に位置する山の山上を踏破すべく、今回は鎌谷、和田城跡と訪問し、更に同じ国道9号を走ればそう遠くないこの地への再訪の計画を立てる。

城跡へは前回同様、国道9号から泉谷寺を目指せば分かりやすいが、今回はルート図の如く「ふれあいセンター」の向かいの道から神社を目指して、その背後にある山道を利用すれば山上までは辿り着いた。

最初に結論から述べると、豊田城跡に置ける山上西砦跡を予想して上った訳であるが、山上にはやはり全域を占める広大な削平地(巨大な空間)が存在した。現在小社が建立されている事からも鎮魂、あるいは当時から存在するものであれば、戦勝祈願の為に建てられた様にも見受けられる。深く考察すればそれが故の館跡、あるいは本来の本城である可能性も否定は出来なくなる。なにしろ規模も豊田城跡の三倍以上はあり、標高に置いても此方の方が20mも高い位置にあるのである。現状ではこの広大な削平地が当時の遺構かどうかもはっきりしていない(丹波史を研究されている方は知っておられるかも、、)ので、後は見る者による判断に手を委ねるしか方法は無さそうである。恐らく仮に此方も城跡遺構とした場合、どちらが主郭(本城)であるかは当時に置ける文書なり、書き物が残っていない限り永久に答えは出ないのである。

取り敢えず今回はかねてより気になっていた事が、自分なりに頭の中で整理決着が付いたので、非常にすっきりした気分で下山する事が出来た。

1route_2 登城ルート

3t 7/15日掲載分の訪問リポート

3to 西山上郭と想定した城跡概念図

5tozanguti 登山進入路

8_tozannguti 神社登山口

9_sanjyou_yasiro 山上の社

10_sanjyou_1 山上の広大な削平地

和田城(京都府船井郡)

new 最初にお断りしておかなければいけないが、この山城は現在手元にある情報あるいは資料の中には全く見当たらず(丹波地方史には載っているのかも知れないが)、今回の訪問リポートに置いては(暫定)和田城跡として扱わせて頂きたい。

訪問のきっかけは地図上で和田地区に「垣地」(この地名が付く場所は過去に置いて城跡であった地域がほとんどを占める)があることを見つけ、鎌谷城跡からも直ぐ近くに位置しており、ついでに寄り道探索するつもりでいたものである。ただ訪問した結果として、測量関係者以外は立ち寄った可能性が無きに等しく、更に人の手も全く入っていない様にも見受けられ、比較的残存度の高い遺構群は中々に見応えがある様に感じられる。まだ未訪で山城好きの方には是非存在を知って頂きたい、20分もあれば山上主郭まで到達出来る事もあって、人知れず歴史からも遠ざけられたこの山城は、機会があるのなら是非訪問をお薦めしたい物件でもある。

城跡は京都府船井郡京丹波町和田にあって、向う順路としては国道9号を走り、和田地区に入ればルート図の如くニュータウン分譲地(ほとんど住宅は建っていない)の細い道路に進入し、三筋目を右折して直登進入口に向う。そこからは北側に向いて上れば規模の大きな自然地形に近い郭を二箇所経て、間違いなく山上主郭へ辿り着ける。

現状(10月)城跡は当然の如く藪化真っ只中にあり、流石に直登中(僅かに踏み跡がある)は枝の隙間を縫って上る事もあったが、山上に置いては移動する事も遺構の判別確認も(容易とは言い難い)難渋はしない状態にはある。山上郭群は意外にも規模が大きく西側に迫り出した最大規模の郭跡は幅もあるが全長もある(目測で50m程度か、先に寄った鎌谷城跡の数倍)、直登中に確認した郭群も併せると案外城域は広く、規模もそれなりに大きい事が分かる。城跡の見所は手付かずの自然の中で未だに切岸を残す削平された郭群、堀切、土塁といった所で、年間を通して何人の人が訪れたのか大体想像の付くレベルにある山城と見受けられる。

山城探索を目的として見切り発車をした場合は空手形に終わる事も多いが、今回は城史も城主も謎に包まれたままの山城ではあるが、明確に残存する城跡遺構に巡りあえて非常に大きな充実感と満足感を味わう事が出来た。  

(この山城に関しての城史あるいは築城主なりをご存知の方は是非コメントを頂戴出来れば有り難く思います)

1_1 登城ルート

5 分譲地より遠望

6 直登進入口

3w 城跡概念図

8_one_kaku 尾根削平地

10_minamikaku 南郭

12_shukaku 藪状態の主郭

17_nisi_horikiri 西郭間堀切

20_nisi_saidai_kaku_1 西城中最大郭見所

鎌谷城跡(京都府船井郡)

new 京都府船井郡京丹波町鎌谷中にあって集落側へ北西から突き出した尾根先端が城跡、細見氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは国道9号を走り井尻周辺から一般道711号へと南に針路変更、南下を続けバス停「薬師寺下」を少し過ぎれば次のバス停「鎌谷中」との間に西側に単独で聳える山が確認出来る。この山の山上が城跡(社殿がある)となるので、後は道路沿い西側にある写真に示す漆喰壁のある民家脇の進入路より参拝登山道を利用して上れば、山上までは辿り着く事が出来る。

個人的には集落付近を徘徊しながらも最初に参拝登山道は確認出来たのだが、山容からも東側に延びる稜線が気になっていたので、薬師寺下のバス停から尾根を目指し直登を試みた。その急斜面上には小規模な二郭跡を確認する事が出来、10分程度を上り切れば山上郭群に到達出来た、そこでは小振りながらも、ほぼ三郭で形成された見事な切岸と西側に堀切を備えた山城に出迎えられる事となった。相当辺境地に或る事、更に城跡の情報が無い事から考えて、敢えて期待もせず訪れたのだが、意外にも切岸処理のされた本格的な山であったので驚きは隠せない。更に社殿の建つ事からも人の出入りが多少あると見受けられ、残存状態が良いので余計に城跡が素晴らしく思えてしまう。この山深い辺境の奥地で人知れず数100年の時を刻み、尚且つ風雪に耐えて来た、この楚々とした山城に「山城賛歌」を贈りたい気分である。

小規模で左程見応えがあるわけではないが、個人的には好感度の高い山城の一つに数えられる城跡である。

1route 登城ルート

4_1

登山進入路

3k

城跡概念図

10 虎口より主郭切岸

16_shukaku 主郭

14_higasi_kaku_2 東郭より主郭

17_shukaku_nisi_heki 西郭より主郭切岸

20_nisi_horikiri 西堀切

22_horikiri_yori_nisikaku 堀切より西郭切岸

2008年9月 4日 (木)

神吉城跡 其の2(京都府南丹市)

この城跡に関しては8/3記載の訪問リポートで中途半端で終わる形となっていたが、読者の方から新情報を提供して頂き「本来の城跡は反対(南)側の山に存在する」と言った内容でもあり今回改めて本来の神吉城とされる山城を訪ねる運びとなった。

地元の畑仕事をしていた古老に城跡について訪ねた処「ここは明智の城と伝わるが登っても何も残ってないよ」と言った回答で、何も無くてもこの話が本当なら戦国期の城跡であると推察出来少し期待を膨らませながら峠沿いの墓地を目指す。峠には堀切でもあるが切通しになっており、ここから東側尾根を登っていくと既に城域と見受けられ途中削平された自然地形に近い広い郭跡を通り山頂主郭までは難なく辿り着けた。

城跡はほぼ単郭構造の主郭を山上に置き東西枝尾根に自然地形に近い郭群を張り巡らしており、主郭のみに周囲を囲む土塁が残っており方形櫓台構造物まで備わっている。規模は砦程度で小さく、とても古老の言っていた明智の城を鵜呑みする訳にはいかないものである、古くから存在していた城跡を明智が改修したのかも知れないが、個人的には誰の城であろうがここに城跡が存在している事実が重要な事で、この悪くない状態から察すればやはり戦国期まで機能していた城跡の様にも窺える。

この地方の歴史書物には目を通していないので、ほぼ勝手な推察にはなるが8/3記載の幻とも思える神吉地区にある巨大山城(情報、コメントを頂戴出来れば有難い)に対しての向城あるいは陣城の可能性も否定出来ないのではないだろうか。本来(文献上)の神吉城はここで間違いないとは思われるが、個人的にはこの山城を神吉城と断定する裏付けとなる資料も文献類も持ち合わせていないので、素人レベルの判定ではあるが一応推定とさせてもらう。幻で終わりそうな神吉巨大山城と同様に、この山城に辿り着いた者のみが城跡を知り得る事になるので、そこで見たままの状態を個人が推察判断すればロマンに浸れてそれでも良いのではと思うのである。

1route_2 登城ルート

6 公民館付近より遠望

3k1 城跡概念図

9 峠の尾根分岐地点

11_horikiri 峠の堀切

16_kaku_1 西郭跡

24_shukaku_dorui 主郭周囲の土塁

26_shukaku_minami_1 主郭南側

25_shukaku_dorui 主郭土塁虎口か

25_shukaku 主郭内

2008年9月 3日 (水)

中江城跡(京都府京北町)

京都府右京区京北町中江にあって中江集落より東に位置する標高446mの山の山頂から西側の尾根上が城跡、堀氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡に関しては一切の情報が無く何時もの様に地形図頼みで目星だけ付け、直接現地で住民の方におよその場所だけは尋ね訪問する運びとなった。

国道477号線に入り道沿いの東側にある京北第二小学校とエネオス(GS)間の道路を南東に進路を取り突き当たりまで直進、後はルート地図を参考にすれば直登山進入口までは辿り着ける。進入口には小さなお地蔵さんの祠があるのでその先北数mの距離にあるネットを潜り細い山道で砂防ダムまで向かう、それを過ぎて左手(北側)の尾根斜面に取り付けばルート図通りで30分前後で山上主郭まで辿り着ける。

1route 登城ルート

4 西より遠望

8tozannguti 登山進入口

3n_2 城跡概念図

城跡は西側直登ルートから尾根伝いに登った場所に位置する削平地(出郭跡)、西段郭が付随する広大な西郭(二の丸に相当か)及び山上の主郭群から形成されていると見受けられ、個人的には想像していた以上の規模をもっており、複雑な縄張りではないが技巧さを要求しないほどの圧倒的な高さの切岸と険峻さでそれを補っている城跡とみた。見所は各郭群の切岸はもちろんの事であるが、主郭南側下の土橋を伴う二段の堀切は数100年の時を経たものの様には見えず素晴らしい状態のまま保持されている。周りに木々の少ない事からもその全体像を拝む事が出来感動に値する遺構となっている。他の郭群も現在植林地となっているせいもあり見通しが良く、下草もないので歩きやすく城跡の状態の良さ(9/1現在)に更に拍車をかけている。

とにかく九月でもこれ以上望めない状態が自然保持されており、四季を問わず訪城は可能であると思われる。個人的には勘頼みで先の見えない心細い登山にはなったがシュミレイション通りのルートで辿り着く事が出来、おまけに城跡は満足のレベルを遥かに越えたものでもあり大変有意義な訪城となった。

012_2 西段郭切岸見所

018 広大な二の丸

032 主郭マウンド

035 主郭下段より南側堀切土塁

041 堀切土塁見所

049 南二段目の堀切土橋見所

057 南出郭より土橋及び主郭側見所

2008年8月27日 (水)

船坂城跡(京都府南丹市)

京都府南丹市園部町船坂にあって九品寺の西背後の山の山上部が城跡、城史に関しては詳細は不明。

城跡へは九品寺の一番奥にある船坂社の背後のフェンスゲートを潜り抜けてから直登山となるが、山が低いので一気に山頂までは辿り着ける。山頂は小規模な物見程度の郭に狭い小郭が付随している砦規模であり、削平跡は窺えるが切岸処理はされていない。北西側に少し斜面を下りれば三段から構成される郭群があるがこちらも切岸処理のない自然地形に近いものである。逆の北東側の斜面には現在配水設備があるが本来郭跡地の転用にも窺えるものである。城跡を考えた場合やはり街道監視の砦か物見程度のものにしか見受けられず寺院を館跡に置き換えた場合に初めて城跡として成立するのではないだろうか。

現状(12月)城跡は雑木が密生しており葉が落ちている分、木々の間を縫って移動出来るが夏季訪問ともなれば相当移動にも視認にも難渋しそうに思える。低い山ではあるが独立した山塊になっているので方向を間違えやすく、下山に際しては必ず主郭から東側に向いて下りて行く事が大事である。

5 城跡遠望

1route 登城ルート

3z 城跡概念図

21_tozan_start 直登山口

23_koguti_dorui_iwa 中腹にある虎口土塁

28_shukaku 山上主郭

36_nisikaku_1 西郭

38_nisikaku_minamigawa_2dan_1 西段郭

尚この地より川を隔てた真北の丘陵上にも郭跡のみであるが城跡(砦跡)遺構が残存しているので立ち寄って見ても損は無いであろう。個人的には時期を別にして夏季に臨んだが、城跡へは小川沿いの空き地から民家背後のフェンスを潜り山上主郭まで数段の郭跡を確認しながら踏み跡を追って行けば迷わず辿り着ける。こちらも主郭は小規模であるものの郭跡には切岸処理が窺え西に延びる平坦地も併せて考えれば船坂城よりは城域も規模も大きそうに感じられる。ただ砦跡としての域は出ず見応えのあるものでも無く、船坂城とセットとして考えた時に初めて二城の位置関係は街道及び領地に睨みを利かせるには持って来いの場所であった様に思えるのである。

4_1 船坂北砦跡

5_tozanguti 城跡進入口

18_nisikaku 山上主郭西

17_nisikaku_heki 切岸

2008年8月24日 (日)

猪崎城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市猪崎にあって福知山城からは由良川を隔てて橋を渡ればすぐ見える真北側の丘状地が城跡、塩見氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは福知山市内より24号に入り由良川に架かる音無瀬橋を渡れば目の前に見えてくる丘がそれであり、冬季であれば樹木も枯れているのですぐ確認する事ができるはずである。車で進入するには北側の墓地(三段池公園西側)まで回り込まなければならないが墓地横に案内板があるのでここからは歩いてすぐ進入できる。

城跡は公園化されてはいるが現状は真夏とあってか夏草やシダでびっしり覆われており主郭以外は地表も見えていない状態である、遺構の残存保持状態は良いのだがこれ以上の整備を望むのは財政上酷なことか、、見所は主郭周囲を半周する空堀で、高い土塁を伴っているので余計に迫力及び見応えを感じるものとなっている。下草のお陰で郭内には踏み入る事が出来なかったがおよその縄張りは掴む事が出来た、冬季の訪問となれば案外下草も枯れて全貌も把握し易いのではないかと思われる。

この地から北に数分も移動すれば中村城跡(同じく塩見氏の居城)更に数分で池辺城跡とあるので三城同日訪問であればより効率よく見て回れるはずである。

Izaki_08318_1 冬枯れ時期の城跡(南から)

Isaki_2 登城ルート

3_2 城跡概念図

8_kita_yori_shukaku_gawa_dankaku 北段郭群

15_karabori_dorui_2 16_karabori_dorui_3

空堀土塁見所

19_shukaku_heki 主郭切岸

21_shukaku_nai_1 主郭

23_nansei_dankaku 南西段郭群

32_kitaigawa_kirigisi_1 北郭群の切岸

2008年8月19日 (火)

明智西古城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市三和町友淵にあって篠山側から丹南三和線97号を北上した場合友淵集落の西側にある山の南北尾根上が城跡。

この城跡は明智光秀が福知山在城時に支城となすべくこの地を自ら検分し土木作業に当たらせた最中に亀岡城主に任命されこの地を去ったとある(案内板より)。その後この城跡がどのように機能したものかは詳細は不明。

城跡へは友淵集落に入り97号道路西沿いに小さな案内看板が出ているので注意して見ればすぐ確認できる、そこから西側に向かう道路があるのでそのまま西側の山を真直ぐ目指し参道を上ると尾根分岐点である堀切に到達する。堀切から右手(北側)鳥居を潜り登ると既に城域となり、切岸処理のない南郭を通り過ぎて土橋の架かる堀切を越えると主郭に到達する。主郭周りは意外にも切岸処理が窺われ城跡としてはほぼ完成していた様にも見受けられる。

現状社殿のある櫓台に相当する小郭跡から下段郭北側全域にかけては身動きも取れないほどの雑木藪と化しており、視認も踏み入る事も出来ない状態となっている。三月(訪問時期)でこの様な状態では何時訪問してもほとんど北側を踏破するのは無理かも知れない。お陰で縄張り全体像は把握出来なかったが城跡自体は小規模である為、光秀の去った後も工事は進み砦として機能していた可能性も案外否定出来ない。尚尾根分岐点である堀切より南に向いて逆に登ると山上に物見あるいは狼煙台の機能を担ったと思われる削平地が残っている。光秀の関わった城跡と言う事でかなり期待をして臨んだがある意味期待をし過ぎた様でもあった。

1route 登城ルート

3ak 城跡概念図

10_kuti 堀切(尾根分岐点)

14_horikiri_dobasi 南側堀切土橋

15_shukaku_e 主郭側

16_koguti_dorui 主郭虎口

17_shukaku 主郭

19_yagura_e 最高所の櫓台

23_minami_sanjyou_norosidai_1 南山上の物見郭あるいは狼煙台

2008年8月16日 (土)

出野城跡(京都府船井郡)

京都府船井郡京丹波町出野にあって長願寺(癌封じの寺で有名)の真東に単独で聳える低い山の山上が城跡。片山氏の居城と伝わるが光秀には帰順しているので出野氏はその後の在城か、、詳細は不明

城跡へは国道27号線から車で訪れるのであれば長願寺を目指し南側にある山陰本線の線路が確認出来れば踏み切りを越える、寺院に到着すればその前の道を東に向かうと鉄塔があるのでその下から参道を利用して上ると社殿(主郭跡)まで到達出来る。

城跡は社殿が建立されているので整備されておりシンプル過ぎる縄張り非常に分かりやすい状態にある、ただ城跡は郭跡の転用で神社となっているのでどこまでの部分が当時の遺構なのかは判別不能である。石垣も使用されてはいるが古い石積み箇所と明らかに神社の為に積み直された近世の箇所とが混在しており、この判別は見る人の判断に委ねるしかない。現状では他に石垣痕も見られないので最初から石垣は使用されていなかった可能性も否定は出来ない。主郭から南参道側には畑地あるいは休耕地に見える荒地が数段あるが本来はこの辺りまでは城域として解釈しても良さそうである。

この地から国道27号線を西に5キロも進めば既に紹介した山家甲ヶ峯城跡もある事から、その寄り道程度でこの城跡を訪れると両城の持つ雰囲気の違いを味わう事が出来、更に二城を効率よく楽しむことにも繋がる。

1route 登城ルート

3 長願寺より城跡遠望

2z 城跡概念図

14 主郭へ

13_gedan_zanzon_isi_1

当時の残存石垣か

10_gedan1_yori_shukaku_1 二の丸に相当

12_gedan_sekiretu 古い石列

9_shukaku_nai 主郭

5_kita_horikiri 北斜面の堀切

2008年8月13日 (水)

宍人城跡(京都府南丹市)

京都府南丹市園部町宍人にあって集落中心を流れる園部川の西側に位置する丘陵地上が城跡、15世紀頃の小畠氏の居城を伝えるがその後についての詳細は不明。

城跡へは園部川沿いを走る453号から川を隔てた西側集落に進入する、多少道路も狭いが地域のグラウンド場と公民館を目印にすれば難なく辿り着ける。公民館の前を通り山に入る道があるのでそれに従うとそのまま城跡となる。

1z_2

登城ルート

S_92

東より遠望

Zz

城跡概念図

この城跡は歴史文献及び近年の城跡ブームによる定期新刊書、城郭雑誌等のどれにもほとんど採り上げられないでいる(ネット上では紹介されている)。この城跡を館跡程度に考えておられる人の為に敢えて紹介させてもらうが、居館跡と断言できるのは北側にある方形状の郭跡で、他の規模の大きい郭跡は当時では斬新である土塁に横矢構造を用い空堀と併用して更に防備を堅固にしたり武者溜りの様な空堀施設があったり独立した段郭があったりと山城に近い城跡そのものと言える構造物ばかりである。全体を通しての縄張り妙味には尽きることが無く、ただ広いだけの城跡ではない事が良く分かる。規模自体も近畿圏内では見ることが出来ないほどの驚愕に値する広大な郭占有面積を持っており、時代と共に改修されたとも見受けられる土塁と空堀を駆使した先進性に富んだ館城的な城跡と言えるものである

二年ぶりとなる二回目の訪問になるが、うねうねした土塁と空堀、延々と続く郭跡が脳裏に焼き付いており再び感動を味わうべく当地を訪れる事になった。現状城跡は(最新の情報)八月にも拘らず植林地ということもあってか下草も無く、前回は蔓延っていた雑木も刈られ、尚且つ杉の間引きも行われた後と見えて非常に見通しも良くて明るく、数々の遺構は全て露見している。特に前回は藪蚊にも悩まされ北側を探索していなかったのが唯一の心残りで今回は思う存分に歩き回れそうな状態である。

主要な郭跡の北側にある丘上地には周囲を土塁で囲み空堀まで伴った方形館跡が存在しており、期待していた以上のものに出くわし興奮を抑え切れない状況である。他の郭跡と同様に風化によって地表は荒れ放題で土塁も空堀も状態は悪いが明確に判別は出来る。規模も大きく土塁の使い方、馬出しに見える土塁囲みの郭跡などは織豊系に見えなくもないものである。城跡は広大な台地の中に五城に匹敵する郭跡が堀切(空堀)を挟んで形成されているが、とにかく見所満載で細かく言葉では説明し難いので願わくば縄張り概略図を参考にイメージを膨らませてもらうと有難い。これを見てまだ未訪の方には少しでも訪問のきっかけとなり、又その後には同じ感動を共有出来れば更に喜びも大きいと言うもの。

S_89 城跡進入口

S_2 土塁空堀

S_16 土塁空堀の奥横矢見所

S_59_2 空堀武者溜り見所

S_83 東側切岸

S_71 大堀切見所

S_12

空堀と土橋見所

S_66

堀切より北側郭跡

S_73二段郭跡(東最高所)

S_35北方形館跡

S_28

方形館外周の空堀土塁

2008年8月10日 (日)

経ヶ端城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市三和町上川合にあって集落の南側の西に突き出した尾根先端部が城跡、丹波史によると樋口氏の居城らしいが詳細は不明。

城跡は府道59号沿いにある川合小学校を目指せば道路から川を隔てた南側に木々の伐採された城跡らしい丘陵が見えてくるのですぐ場所は確認できる。学校南側の橋を渡れば東側に案内板のある小さな小屋(トイレ)が見えてくるのでその方向に行けば道任せで城跡に辿り着ける。

城跡は砦規模ではあるが現在山上に東屋も設置され整備が行き届いており非常に全体像の摑みやすい状態になっている、砦規模でありながら切岸処理はされており堀切、土塁、櫓台とくれば本格的な城跡の様相である。遺構から推察しても戦国期まで街道監視を担い機能していたと思えるフシも窺われる。

この城跡の一番素晴らしいのは何よりも裸状態の往時のままに見える戦国期山城を外側から眺められる事にある。多少のイメージを頭の中に加えるだけで小規模である分、往時の状態を楽に想像する事が可能である。 

1route

登城ルート(訪問日2007.3)

5_hinata_yori_enbou2 学校側より遠望

6_kita_yori_3 進入路より城跡

2 案内板にある縄張り図

17 堀切見所

19

堀切川から主郭

23_shukaku_nai_1 主郭の奥櫓台

25_gedan_horikiri_dorui 主郭西下堀切土塁

34_yagura_sita 櫓台東下堀切土塁

30_obi 主郭切岸と帯郭

2008年8月 4日 (月)

勝軍山城跡(京都府左京区)

京都市左京区一乗寺松原町にあって有名な詩仙堂から更に上った狸谷山不動尊の南側の山頂奥の院が城跡。

名前が物語る様に足利将軍の城であるが室町時代からの成立で廃城に至るまでは幾多の戦乱の歴史を刻んでおり一言では語れない城跡である。歴史に翻弄されながらも最終的には織田信長の陣城となっておりその後は廃城。1_route_2_2

登城ルート

城跡へは市内の白川通りを走行すれば一乗寺下り松交差点に狸谷山不動の案内看板及び詩仙堂の標識が出ているので、これを目指して山手に登って行けば広い駐車場のある場所まで辿り着ける。ここからは歩いて更に不動明王社殿のある奥の院登山口を目指すが一番奥まった赤い鳥居の見える場所が登山口となる、ここからは奥の院参道となり迷わず15分程度で山上主郭には到達出来る。3m 3k

城跡コメント

7_tozanguti_2 登山口

16_kita_one_kaku_1 北尾根上の郭跡

30_karabori_dou_1 空堀道(参道)

45_shukaku_nai_1 山上主郭

47_oku_no_in 主郭内の社殿

新庄城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市新庄にあって先に訪問紹介した石井城跡とは車で数分移動した距離にあるので効率よく二城同日に訪れる事が出来る、城史に関しては全くの詳細不明

こちらは石井城と違って登城ルートも分かりやすく福知山市内からでは国道9号から西側の429号に進入し川を渡り適当な箇所で西に右折するともう一度橋が見えてくる、その橋を越えた西側にある神社が登城口であり既に丘陵上は城跡となる。Photo 4 3z_2

城跡概念図

城跡のある神社は粟島神社となっており神社境内も本来は郭跡と見受けられる、社殿背後を登ると西側に便宜上二の丸とするが城中最大規模の郭跡が控えその更に西に主郭と思われる櫓台土塁を備えた郭跡がある。この西背後には見所でもある深い堀切が設けられて更に西側の郭群との境としている様である、便宜上西郭群は西城とするがこちらは東城より随分藪化が進んでおり視認もし辛く、風化も激しいので切岸も少し曖昧になっており判別もし難い。しかし雑木藪とは言え北西側の空堀は明確な状態で残存しており深く大土塁を伴う事もあって非常に迫力もあり見応えがあるものである。城跡自身の規模も小さくこれと言った際立った遺構の見られない中ではこの空堀は一見の価値のあるもので、手軽に城跡を覗ける分これを見るだけの為立ち寄っても決して後悔しないものでもある。この空堀を境にして西側にも郭跡は続いている様にも見受けられたがこの密生する雑木藪を前にしては踏破も叶わず、本来の城跡全体像は把握出来ないまま撤退する。

6_yasiro_kaku_1 社殿のある郭跡

10_yagura_dorui 主郭櫓台土塁

15_daihorikiri_1 大堀切

22_nisi_kaku_1 西郭

30_karabori 空堀

28_kita_dorui_karabori_1 大土塁壁と空堀見所

2008年8月 3日 (日)

神吉城跡(京都府南丹市)

京都府南丹市八木町神吉にあって集落中心にあたる日吉神社の背後の山の山上部が城跡1route_1(神吉城に関しての8/31最新情報が最後にあります)

登城ルート

3k 城跡概念図及びコメント

城史に関しては詳細不明、一度目が一月、二度目が五月と二回訪れたが遺構は南側に長く続く空堀、それに伴う土塁跡及び縦堀と見えなくも無い遺構のみである。山上は北と南に分かれておりどちらも削平跡の窺える広大な郭跡地である、恐らく進入ルートを確認しながら移動しないと方向感覚は無くなってしまいそうなぐらい巨大な空間である。相当古い形態の山城と見えて内部には土塁あるいは櫓台の痕跡すら窺われない、巨大さだけを取り上げるとどんな山城も足元にも及ばない比類無きものでもある。恐らく中世の成立と思われるが当時はただ広いだけの山城で寄せ手から対処出来たのであろうか?過去色々な山城を訪問して来たがこの様な形態の山城には出会ったことが無く頭の中で様々な想像が湧き出してくる。結果として当然何の結論も出ないまま山を下りる事になったが、城跡に関して一度は八木町史から調べてみる必要はありそうである。 Kam_2X_2_2

登山口の日吉神社

Kam_6 尾根土塁道

Kam_13 Kam_12

空堀と土塁

Kam_8 巨大な郭跡

8月31日 神吉城跡に関してのお詫びと最新情報

山城を愛する読者の方より「実際の神吉城はこの紹介した山城跡の反対側南向に位置する山にあります」とのコメントを頂戴しました。実際この城跡(一応遺構らしきものはある山城)に関しては中途半端なリポートで終わってしまっていたのでコメントを寄せて頂いた渡辺氏には感謝すると同時に今回は困惑する記事を載せてしまいお詫びしたいと思います。しかしながらこの謎の山城もまだ解明には至っていないので知っておられる方がいればコメント頂戴出来れば助かります。改めて実際の神吉城には訪問して来ましたので情報は9月4日前後になりますが整理次第載せるつもりです。

石井城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市篠尾にあって円応寺の西背後の丘陵上に城跡はある、石井氏の居城と聞くが詳細は不明。

城跡の道順に関しては福知山市内の国道9号から西側に入ればいいのだが一旦入ったとしてもストレートに広い道で行ける訳では無くゴチャゴチャと住宅地の密集する中の狭い道路を行ったり来たりした記憶しか残っていない、未だにルートが自分でも分からず今言えるのはとにかく円応寺か熊野神社を目指せば何とか到達出来ると言うことだけである。熊野神社からは北脇の道路より西側山に向いて進入した場合、基本的にはどの地点でも北側に取り付いて少し登る程度で郭跡には辿り着ける。他にも北側にある民家の背後から即進入出来そうであったが流石に遠慮して少し遠回りにはなるが西側の深い堀切跡(自然地形か?)から登っていった。Sin

登城ルート

3isi2 城跡概念図

城跡は熊野神社前の道路に平行する形で北東に向いて直線的に郭を配置し、それほど高低差の無い郭を堀切で分断した縄張りである。この堀切遺構は当時より相当堆積物で埋もれているとは思われるが郭面積が狭い分連続している様にも見え中々見応えのあるものである。現状城跡はほぼ自然任せの雑木竹林地と化しており部分的には移動も視認も難渋するが遺構自身は明確に判別出来る状態にはあり、切岸なども長年の風化に拘らずしっかりした良い状態のものを拝む事が出来る。見所と言えば堀切はもちろんであるが南郭跡の中央に設けられた土橋(空堀は相当埋もれている)で、今もって鮮明な形で残存している。丘陵上にある為高さでの防備には限度があり堀切によって個々の郭を独立させて守備すると言った縄張りプランと見受けられる。

今回の訪問で残念であったのは主郭周りの郭跡は雑木と竹林のお陰で余りにも薄暗く半分程度の画像はブレており、数々の遺構も画像として多く残せ無かった事である。

14_horikiri_dobasi_1

南郭の堀切土橋見所

18_minami_daihorikiri 堀切

40_2jyuu_horikiri_shukakugawa 主郭北側の連続堀切

37_horikiri_1 堀切、切岸

31_kita_oohiroma 北郭群

2008年8月 2日 (土)

島城跡(京都府南丹市)

京都府南丹市美山町島にあって先に紹介した中村城跡の真南に聳える標高403mの山頂が城跡。中村城跡とは至近距離にあるので同じ美山町内にある今宮城も併せて訪問すると三城の違いも同時に把握する事が出来、醍醐味も倍増となる事間違いなし。

この城跡も今宮城と同じく川勝氏の居城で戦国時代の後期の成立と見受けられる、今宮城と比べても縄張り妙味、築城における土木量、全てにおいてこちらの方が勝っている。(見る分には今宮城の四重堀切は凄いが、、)当然こちらの島城の方が後からの成立と言う事になる、しかしどちらも険しい山上に築かれているのは共通しておりやはり戦国期の事情を物語っているのか、、、

城跡へは周山街道162号を市内から北上した場合静原の信号手前にある橋を渡らず、手前を左折し道に任せて進むと数分で島城の案内看板まで辿り着ける。登山遊歩道が設置されているので迷わず山上までには到達出来るが20分強はかかる道程になる、現状山上郭群は多少整備されているとは言え草木が蔓延り荒れ放題となり、更に見通しも悪くとても良い状態とは言えない。しかし遺構は残存度も高くほぼ判別確認可能であり縄張り妙味も含めて充分山城を満喫する事は出来る。特別インパクトのある見所はないものの人を寄せ付けないこの険峻さは山城を味わうには必須条件でもあり、それも充分兼ね備えた城跡の一つである事は確かである。

1route 登城ルート

3x 城跡概念図

12_kaku_nai_mawari_dorui 北郭の周囲土塁

17_2maru_nai_2 二の丸

20_2maru_gawa_dorui 二の丸南側大土塁

24_nisikaku_nai_dorui 西郭の土塁

33_kaku_ooisi_koguti 主郭下段の虎口郭

37_shukaku_nai_1主郭

牧城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市牧にあって牧川沿いの国道9号線から真北、集落からは西側に位置する城跡

牧氏の居城を伝えるが光秀の丹波平定において城は落城、その後明智の滅亡と共に秀吉に仕えているらしいが詳細は不明。

城跡へは国道9号線から一宮神社を目指し集落に入る、既に進入道路からは少し高い位置に見えているのでその方向に向かえばすぐ辿り着ける。到着した神社背後は既に城域かと思われる土塁が窺われ一見郭跡にも見えるもので、堀切道の反対西側は現在広い畑地及び平坦荒れ地になっているが雰囲気的にも屋敷跡の様にも感じられ更に奥の竹林まで足を踏み入れさす気にもさせてくれる。覗くとやはり竹林の中は郭跡に見て取れる状態で、数段の郭跡が重なっており益々この地が屋敷跡又は居館に見えてくる。ただ荒地の一角に社殿跡の痕跡があったので古くは僧坊跡かあるいは神社であった可能性も否定は出来ない。1z

登城ルート

4 南東から城山遠望

3 城跡概念図

神社から出て西側に向かう細い道路を道任せに進むと浄水場に突き当たり、ここから西側の山に向けて参道があるのでそれを登ると数分で本命である山城に辿り着ける。城跡は二郭から形成されており切岸高低差も余りなく、ほぼ単郭構造と言っても差し支えないもので現状主郭内には社殿が建立されているが、規模はここが館跡と言ってもいいぐらいの広い空間になっている。見る者にとっては余りにも単純な縄張りで今一山城としての醍醐味にも欠け、近辺を車で通った際ついでに城跡を味わう程度の訪問なら納得出来るのではないだろうか。

38_yasiki_ato

38_yasiki_ato_1竹林の中の屋敷跡地

14_2maru 東副郭から主郭側

17_shukaku_ato_yasiro 主郭

15_2maru_minami_heki 副郭の切岸

三宮城跡(京都府京丹波町)

京都府京丹波町三宮にあって集落の北側にせり出した尾根先端部が城跡。

城跡はあの有名な初代土佐藩主である山内一豊の祖父久豊の居であり、この周辺は中世期山内庄と呼ばれ本来の山内氏の本貫地であったと伝わっており父盛豊もここで生まれ育ったと案内には記されてあった。既に訪問紹介済みの久豊の居城と伝わる橋爪城とはそんなに離れておらず規模からしても橋爪城の方が相当勝っており、察する処こちらは支城として機能していた様にも見受けられる。現状においては砦規模の物見の機能を持った城跡としか見受けられないものである。

城跡へは国道173号線を北上して来た場合、三宮集落に入る辺りで山中腹に大きな看板が出ているので場所はすぐその山が城跡だと確認出来る。そのまま看板を見過ごして数100m走ると寺院が見えてくるのでそこを左折すれば公園駐車場に着きそれより登城道があるので難なく山上まで辿り着ける。4_enbou

国道より遠望

現状山上郭群は公園化されており非常に整備も行き届いているので全ての遺構は判別確認出来る状態にある。郭構成も三郭から成立する砦規模の小さな城跡であるが堀切、縦堀なども設けられており残存状態の良い切岸と並んで案外見応えはあるかも知れない。尚国道を隔てた東側にも東城と名の付いた規模の小さい城跡が存在するらしいが現在調査中との事であった。

3s 城跡概念図

20_1 登城口

7_shukaku_sita_horikiri_1 主郭西下の堀切

9_shukaku_nai 主郭12_gedan_yori_shukaku_1

主郭切岸

11_shukaku_gedan 主郭より下段郭

2008年8月 1日 (金)

鬼ヶ城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市大江町にあって福知山市内からは数キロ離れた真北にあたる標高544mの山頂が城跡15iden_yori_onigasiro2

綾部位田城跡山上から望む美しい形の鬼ヶ城跡

戦国時代における丹波の雄である井氏によって築かれた城跡であるが赤井氏自身が立て篭もったかどうかははっきりと史実には残されていない。本来は黒井城を居城としているのでこの地は余りにも遠く離れ過ぎており、相当な辺境地でもあり尚且つ要衝の地でもある。城代となる配下を置く程度であったと思われるが光秀軍による丹波攻略によって最終的な戦況悪化に備える為の逃げ城である様にも見受けられる。2_oni

登城ルート

城跡へは数箇所の登山口があるようだが、恐らく一番近道で最短コースだと思われるのは南側から北上する場合の府道74号から既に紹介済みである私市、報恩寺城跡を通る道路492号に進入して観音寺を目指すルートである。観音寺からは登山道が山頂まで通じているので40分内で迷わず辿り着く事が出来る。ちなみに南西側からの登山道は府道55号沿いに大きく登山口案内板があり城跡まで約3.6キロと記されている。

城跡は山上郭群だけを見れば山頂に規模の小さい主郭を構え、それに二三段の郭を付随させ更に20m程度の高低差で斜面を下りた地に少し広い郭を設けただけの砦規模のものである(登山道中の尾根にも郭跡はある)。大手と思われる登山道側壁には一部石垣跡も露出しており現状草木によって視認出来ない部分にまでも相当多く石垣が用いられているとも考えられる、地形図から推察するだけであるが赤井氏の築いたこの城跡の規模がとても山上のみで終わるとも思われず、北側及び南西側尾根に向いても郭の展開はあるのではないかと見受けられるが10月と言うのに夏草や木々が鬱蒼と生い茂っており、とても尾根に向けての踏破は出来る状態にはなく今回は断念するに至った。再訪余地を残しての下山となったが充分登山も楽しめ近畿圏内ではこれ以上の最高所にはないと思える天空の城跡にまで到達出来た喜びと感動は忘れられないものとなった。

4_dorui 中腹の郭跡及び土塁虎口

6isigaki 郭壁の石垣跡見所

7 郭跡

10shukaku_orikiri_no_kaku 主郭より下段

13shukaku_nai 主郭

刑部城跡(京都府南丹市)

京都府南丹市八木町刑部にあって外見お椀を伏せたような独立した山塊の山上部が城跡である。歴史に関しては今のところ一切不明であるが川向いの西田城と関連のある城跡か?

訪城のきっかけとなったのは以前この城跡の川を隔てて南東に位置する西田城を訪れた時に向いにある綺麗な形の山に惹かれ、どうも城跡にはうってつけの形状をしており何時か踏破するつもりでいたら、やっと機会が訪れたと言う具合である。現地に赴くまでは城跡である確信も予備情報もなかったが、いざ登ってみるとやはり予想していた通りの古い形態を持つ山城であった。

城跡へは川沿いにある富本小学校を目指し、川沿いを歩いて智恵寺まで行きその背後を登りきれば数分で到達出来るが、この寺の御住職はこの城跡の存在は全く御存知ではなく、「登っても何もないよ」の一言でかたずけられてしまった。4 帰宅してこの城跡の存在と名前をチェックするに及んだら一応刑部城と名のついた城跡と言う事だけは知る事が出来た。

城跡遠望

1route2 登城ルート

3b 城跡概念図及びコメント

9_higasikaku 東端の郭跡

17_nisi_e 中央部の広大な郭跡

18_higasikaku_heki 主郭東の郭切岸

21_shukaku_heki 主郭切岸

26_dorui_ato_1 主郭西の郭の土塁

3

西田城概念図

2008年7月31日 (木)

宇津城跡(京都府京北下宇津町)

京都府京北下宇津町にあって宇津峡公園の川を隔てた対岸に位置する山城

城史から見れば代々宇津氏の居城であるが明智の丹波攻略により最後まで抵抗し滅亡、現在の城跡はその後当然明智による改修が施されていると思われ随所に石垣跡を眼にする事が出来る。1z

登城ルート

城跡へは黄徳寺から宇津峡公園を目指し町道364号に入りそのまま直進した道路沿いにある赤い鳥居の八幡神社が目印、その北背後の山上が城跡で登山道は設置されていない。社殿背後より直登で山上を目指し崖状急斜面を上るしか手立ては無いのが現状であり、縦堀と見受けられる遺構に沿って登り切ると20分内で辿り着ける。ただこの縦堀遺構は後世の木材切り出し道の可能性もあり、縄張りから察しても縦堀としての機能が余り発揮されていない場所に設けられているので遺構の断定はし難い。

縄張りは非常にシンプルでほぼ四郭で形成されており技巧さを伴う遺構は見当たらない、その分三方は崖に近い急斜面で唯一土橋状の細い尾根道が北側に向いて通路となっているが現状ではどこが大手に当たるのかさっぱり見当が付かない。郭間の切岸は高低差があり郭外壁の切岸は直立に近く下まで落ち込んでおり余計城跡の険峻さに拍車をかけている、まるで孤立した要塞の様にも見て取れる。見所でもある石垣跡が多く残存しているのは主郭の東壁で相当崩落はしているが数メートルに渡って残っており、往時を一番忍ばせている遺構となっている。3z

城跡概念図

規模はさほど大きくはないが険峻な山上にある事自体が相当な見応えを感じる城跡となっている。

八幡神社前の道路をそのまま西に向いて車を走らせると先に登城ルートを紹介した事のある支城と思える宇津嶽山城に向かう事が出来、効率よく二城を同時訪問する事が出来る。

8_minami_kaku_2 南郭

13_shukaku_e_koguti_dou 主郭南登り虎口

15_shukaku_nai_1 主郭

16_shukaku_nai_ido_ato 溜め井戸跡に見える

20_1 主郭東壁の石垣跡見所

23_kitakaku1_heki 北郭1の切岸

25_kitakaku2_heki 北郭2の高い切岸見所

須知城跡(京都府京丹波町)

京都府京丹波町市森にあって集落からは南東側に位置する、名勝琴滝の真北の山の山頂が城跡である。別名市森城

南北朝期から成立する本来須知氏の城であるが明智光秀の丹波侵攻によって落城し、その後光秀側の傘下に入っているが詳細は不明。同じ須知氏の居城であった上野城の集落には現在でも須知を名乗る子孫の方が在住しておられる事から考えれば案外戦国期をうまく乗り切った一族なのかも知れない。

城跡へは国道9号線を京都側から北上した場合、琴滝の看板が見えてくれば右折し琴滝か玉雲寺を目指す、寺院東側に聳える一際高い山がこれから登る城跡である。。寺院からは歩く事になるが直接東に向かわず山裾を北に向かう未舗装道を数100m進み北端の出郭に見える辺りから尾根に向けての山道があるので、それを見つけたらそれに沿って登る。この山道さえ見つければ一旦尾根に出ながら土橋(土塁道)を右手(東側)に登って行けば自然に山頂までは辿り着ける。案内標示も無いので分かり難いがこの道を外すと相当な藪漕ぎになるので注意して見逃さない事が大事である。山頂までは踏み跡程度の道しかなく郭跡の切岸は相当な急斜面となっているので注意して登る事が必要、麓からは50分程度の道程になるが山を登りきれば必ず期待していた以上の感動と達成感を味わえる事請け合いである

4_enbou 登山進入口

8_demaru_yori_dobasi 尾根到達点の土橋

1route_3 登城ルート32

城跡概念図

城跡は堀切を挟んで新旧の二城で形成されるが東城とされる方が少し形態も古く明智の改修を受ける以前の須知氏の城跡とも見受けられる、この城跡の最大の特徴は石垣の多用が挙げられ二の丸虎口及び西郭間の石垣、崩落しているが主郭間の石垣と主要な箇所は全て石垣造りである、中でも主郭東壁を形成する高石垣は特別高く積み上げられ同時に本来の高さも維持しており最大の見ともなっている。東城にも郭間の壁には随所に石垣跡を眼にする事が出来る。16_3maru_yaguradai

西郭

21_2maru_dankaku2_yori

西郭より二の丸石垣跡

25_2maru_nisi_isigaki

二の丸西石垣

36_shukaku_daidorui 主郭

26_2maru_koguti_isi_1 二の丸虎口見所

城跡全体を考えれば特別縄張り妙味がある訳でもなく、優れた技巧的な遺構がある訳でもないがやはりこの険峻な山上を削平し石垣を積み上げて築き上げられた事がロマンであり感動を誘う部分でもあると思う。

40_shukaku_kitagawa_3 42_shukaku_higasigawa_3

主郭東の残存高石垣見所

50_higasi_shukaku_nai

東城主郭

54_higasikaku_isi_2 東郭壁の石垣

現状城跡は冬季の訪城という事もあって見通しも良く縄張り全体像も把握し易く又密集する木々に阻まれる事もないので快適に見て回れたが、夏季においても比較的雑木は密生していないと思われ案外苦労せずに訪れる事が出来るのではないだろうか。しかし50分の登山はやはり体には相当堪えるものがある。

2008年7月30日 (水)

堀越城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市上野にあって国道九号線より少し入る生野天神社からは西側に位置する山の山頂から東に向いての尾根上が城跡

小倉氏の居城とだけは載っているが詳細は不明、この城主も恐らく明智による丹波攻略の煽りで最後まで抵抗を試みた赤井氏と運命を共にしたか、明智側に付いたのかのどちらかであると思われる。どちらにしても両者が滅んでいる以上その後歴史に顔を出すといった事は無いとも思われる。1route_2

登城ルート

城跡へは神社入口に対面する細い道を西に道に任せて進むと右手側(城跡)の山裾に集合墓地が見えてくるのでそちらを目指せば登山進入路となる配水施設に自然に繋がる。墓地の東側には当時のものかどうかは判断し難いが石垣跡を伴った屋敷跡とも見受けられる郭群が藪の中に隠れているので少し寄って見ても損はしないだろう。4_1

東より遠望

3_2

城跡概念図及びコメント

24_hokutou_sizenkaku 配水施設西側の郭跡

19_shukaku_kitagawa_heki 主郭北側の高い切岸

12_shukaku_nai_1 主郭最高所

10_shukaku_nisi_obi_2

主郭西帯

38_isigaki 当時のものかは判別し難い墓地横の屋敷跡の古い石垣

堀越城跡を後にして北西側の正後寺集落に市田氏(素性ははっきりとは分からないが小倉氏の一族かも知れない)の館跡があったらしいので目星だけ付けて寄ってみた。どうやら社殿と堀越公民館が建てられている地はどうもそれらしい雰囲気を醸し出しており、己の勘に頼るだけであるがこの佇まいは正しく屋敷跡に見受けられるものである。数段の広い郭跡が切岸を残して上方にある墓地まで重なりあっているのが見れる、発掘調査でもしない限り間違っても断定は出来ないが、見る人が見て自分なりの判断を下せばそれでも良いと思う。これも戦国期を思い起こす一つのロマンなのである。

Ya_1_2 道路から覗く居館跡と見受けられる公民館

Ya_6 郭跡の切岸

2008年7月29日 (火)

丹波八木城跡(京都府南丹市)

丹波八木城(その3)  北の丸跡(並河重郎郭と内藤五郎郭)

八木城本郭の馬場跡西の(仮)二の丸跡より北側に向いて下りると四段程度の一部土塁跡の窺われる段郭跡が斜面に連なり、更に北側に足を延ばすと幅のある土塁を伴った内藤五郎郭に到達する、その真下に設けられた堀切を越えると縄張り図に北の丸と付記されてあった並河重郎郭に辿り着ける。54_kitakakugun_nawa

八木城北の丸跡概念図

58_kitakaku_hasi 内藤五郎郭櫓台土塁

内藤郭62_kitademaru_horikiri 櫓台北下の堀切

68_namikawa_nai 並河郭の主郭

70namikawa_kitakaku_gun_2 並河 帯郭と切岸

70namikawa_kitakaku_gun_4 並河 北郭群

日を違えての訪問となったがやっと城跡説明板にある縄張りの七割から八割までは踏破出来た様に思われる、逆にこれだけ動き回ってもまだ二割近くも残しているのだから、いかにこの城跡の規模が大きいものかを改めて再認識される結果ともなった。今でこそ石垣は失われて部分的に残存するものしか見る事が出来ないが、主要な郭のほぼ全体が石垣で固められて在った様にも見受けられる。正に往時は天空の城と呼ぶに相応しい山城であったのではないだろうか、素晴らしい感動を与えてくれた城跡の一つである。

丹波八木城跡(京都府南丹市)

丹波八木城(その2)  南西支城群跡(分中では便宜上、烏嶽の尾根上の郭群は烏嶽北城、南城と呼ぶ)

八木城本郭より西側の大堀切を越え案内に付記されている内藤和泉なる土塁を伴った郭跡を確認しながら更に南西側に足を延ばすと八木玄藩なる郭跡に辿り着く。この郭は本郭と烏嶽支城群の中間に位置しており、ここを通り過ぎて更に西側の別尾根に登るとやっと内藤法雲と付記されてあった烏嶽47_2maru_nisi_horikiri支城群に辿り着く事が出来る。この烏嶽支城群は本郭跡に比べると残存状態は少し悪いが遺構としての見所は満載である。

西側大堀切3y_1z3y_1m見所

概念図

30_yagi_genbashukaku_heki_2 八木玄藩郭跡(最高所)

42_shukaku_dan 烏嶽南城主郭

43_shukaku_yaguradorui

烏嶽南城櫓台土塁

44_yagura_haigo_isi_3 櫓台背後の石垣跡見所

45_horikiri_yori_heki_isi_1 堀切より石垣跡

48_dai_sekiretu 南西郭虎口を形成する石垣か?

51_sizenkaku_ido_ato_2 岩盤を削った井戸跡か?

60_kita_shukaku_nai 烏嶽北城主郭

65_shukaku_horikiri_heki_isi_1 北城主郭壁の石垣跡

64_horikiri_1北城 主郭下の堀切

丹波八木城跡(京都府南丹市)

丹波八木城(その1) 山上本郭跡

京都府南丹市八木町にあって八木駅からは南西に聳える山塊の山上が城跡。城跡へは駅の南西に位置する春日神社を目指せば神社北西側に登山口が案内板と共にあるので高架下を潜ればそのまま迷わず山上までは辿り着ける。登山口から少し入ると広大な屋敷跡が段郭的に配置されており郭間を堀切で断った跡も残存しているのでうかつに通り過ぎてはいけない。1x

登城ルート

この城跡は丹波守護代である内藤氏代々の居城で丹波地方においては八上城、黒井城と並ぶ城域の広さを持っており本郭から四方尾根に郭群が広がる壮大な山城である。両城ともに既に訪れているが正しく丹波三大山城の一つ相応しいと言えるものである。時の城主である内藤氏は明智光秀による丹波攻略で城は落城、没落となるが如安(ジョアン)は明智の滅んだその後秀吉軍に加わり朝鮮に出兵しており講和において活躍している。最終的にはキリシタンと言うことで徳川幕府よりフィリピンに追放されこの地で没している様である。

この城跡全体を一日でじっくり見て回るのは難しいが最低でも麓の屋敷跡から順を追って対面所跡、本郭周り、北西側の烏嶽支城群は抑えておきたい処である。充分な余裕があれば北側にある北の丸跡(並河郭)まで足を延ばすと城跡全体の主要な郭群のほぼ八割を踏破した形になると思われる。規模の大きい分見所も多く城跡全体を通して残存状態が良いので遺構も確認し易く見て回りやすい状態になっている。この城跡は遺構はもちろんの事、縄張り妙味から随所に窺われる石垣跡に至るまでつぶさに見学しても見飽きる事が無く、晴らしいと言う以外は賛辞の言葉が見つからない近畿圏内でも有数の山城である。山城を語る上での技巧的な遺構は全て備わっている言っても言い過ぎでは無い城跡の一つでもある!

Ooyagi 対面所跡概念図

Ooyagi_2_2 対面所郭跡(大八木但馬)

Ooyagi_1 対面所堀切

3_1 八木城山上本郭概念図

26 主郭内

25 主郭東下段郭の変形土塁虎口

21 主郭東側切岸

27_nisigawa_dorui 主郭西側土塁

28_koguti_yagura_zanseki 主郭南虎口石垣痕

25_shukaku_kita_obi_isi 主郭北帯石垣跡

42_baba 馬場跡

45_2maru_nai_dorui 仮)二の丸の土塁

2008年7月28日 (月)

榎原城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市榎原にある山城であるが、城跡に関しての詳細は全く不明

城跡へは福知山経由で考えた場合国道429号線を西に向いて走り市道109号線を左折で南下する、しばらく川に沿って南下し続けると道路沿いにたくさんの民家が立ち並ぶ集落に遭遇するが、その辺りより右手(西側)の山中腹に集合墓地と用具小屋が見えて来たらその山の山上が城跡である。集落の中の細い道を通り墓地まではすぐの距離であるが、そこから山上に向けて旧社への参道があるのでそれを辿れば迷わず到達出来る。1route

登城ルート  

城跡は本来社殿があったらしく綺麗に整地されており草木も蔓延っていないので見通しも良く全体像も摑みやすい状態にあり、切岸などは往時の如く素晴らしい状態を保持している。縄張りは東西に直線的に跨る尾根を削平し築かれたもので二箇所の堀切によって分断される非常にシンプルで分かり易い構造で主郭、二の丸、西出郭のほぼ三郭から形成されている。縄張りに技巧さはまるで無く規模も小さい城跡であるが妙に味のある山城である。4

南より遠望

3z 城跡概念図

18_shukaku_koguti_dorui 主郭虎口土塁

10_horikiri 堀切

11_2maru_heki 西より堀切、二の丸切岸

21_shukaku_nai 主郭

8_2maru_nai_1 二の丸

石原城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市石原にある洞玄寺が居館跡、南東側に聳えるヌクモ山はその砦跡

戦国期、一帯に勢力を持っていた高津八幡山城主大槻氏の隠居城と伝わっており、洞玄寺はその居館でありヌクモ山は詰城及び物見の役を担っていたと思われる。

現在、府立工業高校と同じ丘陵を共有している居館跡される洞玄寺には深い空堀跡と土塁が残存しており、この遺構は横矢構造にもなるもので唯一の見所となっている。山城(ヌクモ山城)の方はここをスタートとした場合二箇所ある登山口のどちらかを利用すれば縦断と言う形でほぼ全域を踏破出来る。見つけ易い登山口は南側の池まで歩きそこから池に沿った形で東の道路に入り少し直進し橋の傍にアルミの梯子があるのでそれを上る。後は道に任せれば山上まで辿り着ける。山上主郭からはそのまま北虎口を通り社経由の山道が小学校横まで通じているので広い道路まで迷わず下山出来る。この縦断ルートで合理的に山城を見て回れるはずである。

肝心の山上郭遺構としては郭跡を除けば主郭北の虎口跡、郭切岸、移動土橋程度でこれと言った妙味のある遺構はほとんど残されていない、元々山上を削平するだけのプランに基ずいた山城であったとも見受けられる。現状真夏という事もあって登山道も含め相当藪化しているが複雑な遺構もないので山城の雰囲気は充分体感出来ると思われる。

1z 登城ルート

3_2 城跡概念図

35_karabori_dorui_4 居館の空堀と土塁

35_karabori_dorui_2 横矢土塁見所

7 寺院よりヌクモ山城

27_gezan_guti_1 登山口の梯子

18_shukaku_nai 主郭

20_shukaku_minami_onedou 土橋

15_koguti 主郭北虎口

2008年7月26日 (土)

報恩寺城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市報恩寺にあって集落内では南西に位置する城跡、私市城からは北西側の目と鼻の先の距離にある。

城跡の多いこの福知山から綾部にあってはこの城跡もほぼ詳細は不明、片岡氏の居城とだけあるが遠く諏訪を発祥の地とする物部城主上原氏との確執抗争は史上にも残されている。

城跡へは集落の南端にある道路沿いの南部公民館からスタートすると分かり易い、この辺りは小字名で城の内となっており地名の如く既に当時の城内である事が分かる。公民館からはそのまま西に向かう道があるがその先奥の小高い丘が郭跡となっており非常に分かり易い、そのまま竹林に入ると切岸が見えてくるがこれを登り切ると城跡らしい規模の大きい郭跡に辿り着く。便宜上ここでは三の丸とするがこの郭は二の丸を半周取り巻く広い郭跡で、その上段に位置する二の丸は築城時にも近い様な素晴らしい切岸を伴っている。更にその上段が主郭と呼べる最高所に当たる郭で背後には土塁も備わっている、現在石碑が建立されているが何かこの城跡にまつわるものかも知れない。土塁を越えればすぐ真下には規模の大きい郭跡があり先端には土塁も窺われる。 

城跡全体を考えれば主郭を中心に置きこじんまりとまとまった縄張りであるが郭配置には変化を持たせ切岸には段差を設けてより複雑に見せている、特に郭個々の切岸は残存状態もよく500年近く時を経たものには見えず見る者に感動すら与えてくれるものであ。残存状態もさることながら単純にして複雑な縄張りも期待以上のもので予想外に楽しむ事が出来た城跡である。

4_2

公民館からの進入路

1route_4 登城ルート

3hx 城跡概念図

10_3maru_higasi_gawa 三の丸より二の丸切岸

14_2maru_yori_shukaku_heki 二の丸より主郭

16_shukaku_nai_dorui 主郭

16_shukaku_nai_dorui_1 主郭土塁

23_kita_kaku

北西郭の奥土塁

私市城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市私市にあってこの辺りでは有名な私市円山古墳からは北西側に位置する丘陵を利用した城跡。

城跡に関しての情報は皆無に近く大志万氏が在城した事実があるだけの様だが詳細は不明。

城跡へは私市集落にある長園寺背後の民家の間より山道があり、そのまま上ると堀切道の形をとりながら広い郭跡に辿り着ける。ここより右手、左手のどちらも郭跡であるが左手側は北西に向かう尾根上に直線的に郭が配されており堀切を挟んで規模の大きい三郭から形成されている。真ん中に位置する郭跡が主郭とも見受けられ櫓台的な土塁も残されているが長年の風化で地表は相当荒れており郭段差などは非常に判別し難い状態である。北西端の居館跡に見える広い郭跡にも堀切を挟んで土塁(櫓台)が備わり現状では一番城跡らしい姿を留めている。登城道から右手はほぼ全域に渡って墓地となっておりどこまでが郭跡なのか判別し難いが、見た限りでは郭跡をそのまま墓地に転用した様に見受けられる、この区域は墓地以外は雑木に覆われて確認し辛いが空堀なども設けられ現在墓地になっている少し高台の場所は櫓台にも見て取れるものである。

全体を歩いて回ると高さのないなだらかな丘陵地にあり、郭間に高低変化もさほどなく、長い丘陵地を堀切でほぼ四区画に分断しただけの城跡に終わっているが、これでは防備の心配が真っ先に挙げられる。今見る者からすれば延々と続く広さにも圧倒され凄い城の一つに数えられるのだが乱世に果たしてこれで通用したのだろうか?城跡存続期間などは知る術もないが仮に攻められれば一番先に落とされたのではないかと思わされる様な縄張りでもある、しかし見る者にとっては非常に醍醐味を味わえる城跡である。

尚、城跡北西にある池を越えた神社背後の山上にも削平跡の窺える平坦地があり、ここは砦跡の様にも見受けられる。

Zw 城跡進入路

1route_3 登城ルート

3k 城跡概念図

9_nisikaku 北西郭

13_horikiri_1 堀切

15_shukaku_yagura 主郭と見れる中央に位置する郭跡

25_karabori 中央部から東の空堀

19_dorui_heki_1

中央部より西側の土塁壁

2008年7月25日 (金)

中畑城跡(京都府京丹波町)

京都府京丹波町中畑の集落より北西側に聳える山の山頂から南側にせり出した尾根までが城跡、別名北八田城

案内板によると十三世紀初頭北氏の祖先が丹後より遣ってきてこの地に築城し、南北朝時代を経て北道氏の代に本格的な山城となり十七世紀半ばに廃城となった北氏代々の城跡とある。

1route2_2 登城ルート

Photo 城跡概念図及びコメント

6koguti_dorui_1 城戸口土塁

18_dankaku_shukaku_e 狭小南段郭群

22_shukaku_yaguradai 主郭

31_2maru_dorui 二の丸内土塁

33_2maru_nisi_horikiri_1 二の丸西堀切

2008年7月24日 (木)

五合山城跡(京都府園部町)

京都府南丹市園部町小山にあって園部駅の南西にある台形状の山が城跡

地名から小山城とも呼ばれているが成立は南北朝まで遡り戦国期においては長沢氏と文献には載っている、この長沢氏は当時八上城主波多野氏に仕えた七頭家の中の一人と伝えられているが詳細は不明。

城跡へは南側麓の顕正寺横に老人会館があり、そこから北に向いて山道があるのでそれを利用すればすぐに分岐の大きな堀切跡に見える地点までは辿り着ける、ここから西側へ上れば踏み入る事の出来ない様な雑木密生地帯になっているが、外見から判断するには出郭とも見受けられる。逆に東に向いて踏み跡を辿り上れば難なく山上郭跡には到達出来る。

現状城跡の判別出来る遺構としてはほぼ単郭に近い主郭周囲を囲む土塁と空堀、及び土塁虎口、虎口郭と限られ、他は二月と言うのに身動きも取れない雑木藪と化しており視認も困難な状況にある。規模は山上全体を占めるもので相当な広さがあり当時は館城的な要素を持ち合わせていた様にも窺われる、南側を下りた尾根に向いても郭跡は展開されていると察せられるが移動も困難な藪の為、無念ではあるが踏破は断念する。

この城跡を居館城と位置付ければ充分納得できるが、山城とした場合には余りにも防備が手薄くとても戦国時代まで活用された様には見受けられない城跡と言うのが個人的所感である。

5_minami_gawa

南側から遠望

1route2 登城ルート

3z

城跡概念図

13_shukaku_nai_dorui  主郭を囲む土塁と空堀

15_shukaku_kita_gawa_1 主郭外周の土塁

16_obi_yori_dan_1 高低差の余り無い主郭

藁無城跡(京都府園部町)

京都府南丹市園部町船岡にある林松寺背後に聳える綺麗な形の山の山頂が城跡、難しい読み方ではあるがワラナシ城と読む

内藤氏の居城と伝わっている城跡ではあるが八木城主である内藤氏との関係まで調べるには至っていない、他の丹波の城と同様に平定される以前から戦乱の渦中にあったと思われるが平定後も詳細は不明。

城跡は船岡集落まで来ると小型の富士山の形をした山を探せばそこが城跡だとすぐ分かる、麓に当時の館跡と見受けられる林松寺があるが山頂に向かう登山道も無く、その脇にある神社背後から山上を目指して直登するしか手がない。神社から北西に向いて急斜面を登ると最短距離で時間にして20分弱で城跡の南端に辿り着く事が出来るが、すぐに南端郭跡の南外壁に石垣跡を確認出来る。外壁を石垣で覆っていたと見えて他は崩落しているが一部が顔を覗かせており郭跡と並んで当時を物語る遺構の一つとなっている。この遺構は直登で無ければ見逃している可能性もあり、結果的には藪漕ぎもありしんどいが最短の直登が幸いしたと言える。

縄張りは南最高所に小規模な櫓台程度の高まりがあり北側に段郭的に五段程度の郭が堀切まで連なっているもので小規模な詰城と言った処の山城である。自然岩も取り込んで郭壁を成しており崩落石垣も在る事から本来は外周相当な部分を石垣で覆っていた可能性があると思われる、石垣跡の事実からもこの城跡は丹波平定後も改修を受けて山城であるが故の街道監視的な役割を担っていたのではないかと勝手に想像推察してしまう。

現状季節的に秋口と言う事もあって雑木が生い茂っているが冬季の訪城であれば少しはましになり城跡探索もより楽しめるのではないかと思われる。雑木の中に僅かに顔を出す石垣跡ではあるが石垣城としてこの遺構は絶対に見逃してはならない!

2_1  城跡遠望

1route_2 登城ルート

1z 城跡概念図

5_minami_isi 南端壁石垣跡見所

7_shukaku_nai 主郭櫓台

9_2_3kaku_renketudorui 北郭3の連結土塁

9_3kaku_sita_isi 崩落石垣跡

10_3kaku_kubomi_dai

北郭3の大きな窪み

17_yakataato_isigaki 寺院の石垣

荒木城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市堀にある荒木山416m山頂が城跡である、この地は丹波市との丁度境にあたり当時の峠越え道路が一部セメント道となって今尚健在である

この城跡の成立は南北朝期と聞くが丹波守護であった仁木氏の居城で戦国期までは代々使用され、やはり丹波平定のあおりを受けて最終的には廃城となった可能性が高いものと思われる。丹波周辺は平定される以前より常に戦乱の渦中にありこの城もそうであるように、城は取ったり取り返したりと城主の変遷は仁木氏だけに限らず歴史の表面に出て来ないだけで相当あったと思われる。

城跡へは丹波市市島町側の市ノ貝より荒木山を目指し進み南麓の熊野神社が登城スタート地点となる。途中遠方から城山を眺めると相当険峻で距離も遠くに感じられ少し登るのには腰が引けそうになるが、これより峠越えの山道が北に向いてあるのでこれを利用して峠の切り通しまで上っていく。峠まで辿り着くと切り通し西側(左手)に取り付きこれからが本当の登り斜面との格闘になる、しかしここまで来れば距離はそんなに無いので正味15分程度だと思えば良い。山頂までに二箇所の郭跡らしき平坦地を通り過ぎ神社からは約30分で山頂に到達出来る。

城跡の規模はさほど大きくなく狭い山頂スペースに目一杯郭が配されている、やはり戦国期にありがちな物見か詰城かと言ったところで険峻が故に縄張り妙味もなく技巧的な遺構も堀切程度で他は見当たらず、戦国期まで利用されてはいるが改修は余り成されていない様である。現状相当な雑木藪で覆われてはいるが城跡内の遺構はほぼ確認判別出来る状態にあるので何とかここまで辿り着いた甲斐はあった。もし木々も取り払われて眺望もきき少しでも郭内が整備されていたら、違った意味でこの山城の醍醐味を味わう事が出来たのではないだろうか。

峠越えの切り通しは恐らく当時からのものと見受けられるが凄い高さのある切岸で一見の価値あり。

1route 登城ルート

4 市ノ貝側からの荒木山遠望

3

城跡概念図

21_touge_daihorikiri  峠切り通し大堀切見所

36_shukaku_koguti

主郭虎口石積み跡

38_shukaku_nai_1

主郭内

42_minami_sita_horikiri_dorui

主郭南の堀切

47_horikiri_heki_1 北側の堀切

48_gedan3_1 北郭

2008年7月23日 (水)

井尻城跡(京都府瑞穂町)

京都府瑞穂町井尻の集落西側の幾つか突き出た枝尾根の一角に城跡はある

城跡に関しての詳細は不明であるが集落に在住の方は城跡の存在は御存知らしく幼年期に遊んだ記憶から南尾根側に馬場跡の在る事まで教えて頂いた。流石に城跡の歴史までは及んでないが登山口まで丁寧に教えてもらったので難なく辿り着く事は出来た。

登城ルートは井尻公民館よりスタートした場合西側の橋を渡った所で北西側に聳える山を目指し集落に入り細い道路沿いに北に向いて進み、道路沿いの一本杉を確認出来ればその脇から山上までは山道が通じているので迷わず到達出来る。

現状城跡は藪化進行中ではあるが郭跡から堀切、土塁に至るまで明確に判別出来る状態にある、規模も思っていたより大きく主郭、副郭、山上郭のほぼ三郭で形成されているもので郭間は堀切で分断され独立性を保持した構造になっている。山上にも形の良いままの櫓台と見受けられる土塁も残存しており全体を通して小領地における戦国時代の城跡を体感する事が出来る。

見所を一つ挙げるとすると主郭と副郭間の堀切で高低差も6~7mはあり中々の迫力で迫ってくる、住民の方に教えて頂いた別尾根にある馬場跡までは足を踏み入れていないが外見から覗く事は出来た。シンプルな分残存度は非常に高い城跡と言える

1route3

登城ルート

4_2

城跡遠望、登山口

3iz

城跡概念図

13_higasi_kaku_2

副郭

18_dai_horikiri_1

堀切

31_karabori

主郭北の空堀と土塁

34_nisi_sanjyou_yagura_1

山上櫓台土塁

橋爪城跡(京都府瑞穂町)

京都府の瑞穂町橋爪にある橋爪城跡を訪れた際の現状報告

城跡は常照寺北背後の山にあり山内一豊の祖父である久豊の居城と伝わっている

Photo

西より城跡遠望

Photo_2

現地登城ルート

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城跡概念図

3a 訪城コメント

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主郭北の堀切

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二の丸

2

南郭2の切岸

3

南郭3の土塁虎口

2008年7月22日 (火)

埴生城跡(京都府園部町)

京都府南丹市薗部町埴生の集落北に突き出した尾根に主郭を構える単郭と言っても良い小規模な城跡

城跡は神尾山城の支城にあたるもので歴史的にも不明な部分が多いが、こちらにも周囲を石垣で覆っていたと思える石垣痕が随所に窺われ最終的には光秀によって改修を受けた可能性もある様に見受けられる。

山上へは山道があったのかも知れないが麓の最福寺東側の小川を渡り、当時の屋敷跡であると思える数段にもなる休耕地から直登すれば20分足らずで山上主郭に辿り着ける。

1

登城ルート

3

城跡概念図

6_fumoto_yakata_3

麓寺院東側の屋敷跡

11_koguti_sekiretu

大手の虎口石垣跡

12

主郭西壁の石垣跡

17_2maru_koguti_doruiisi

主郭

20_shukaku_heki

主郭櫓台切岸

22_shukaku_kado_isi

主郭南西角の石垣跡

27_shukaku_sita_horikiri

主郭南の大堀切

2008年7月21日 (月)

中尾山城(京都市左京区)

京都市左京区銀閣寺の谷奥真西の山上が城跡

城跡へは銀閣寺北側の谷筋に登山道があるので先に紹介した西城経由で上ることも出来るし本来の大文字登山道からでも辿り着ける。コメントに関しては城跡概念図に載せてある通りで山上に余り高低差の無い規模の大きな郭を直線的に配し、主要三郭で構成されているオーソドックスな縄張りを持つ山城である。

3_1a

城跡概念図及び訪城コメント

4_karabori_dorui_dou

西城からの上り空堀道

7_dorui_heki_1

西出郭の周囲土塁

28_shukaku_nai_1

主郭と奥土塁

16_horikiri

二の丸切岸と土橋付き堀切

仮)中尾西城跡(京都市左京区)

京都市内銀閣寺の北西側山上に主郭を構える古い形態の山城である、中尾山城から西に派生する尾根の最高所ほぼ独立した山塊に城跡はある

御存知足利将軍の城跡であるが、文献にもほとんど城跡としては登場して来ない。有名な中尾山城とは成立年代も異にすると思われ、こちらの方が山城としても古い形態を採っており相当風化も進んでいる。一城別郭と見受けられここでは便宜上中尾西城として紹介するが、城跡へは銀閣寺の北谷筋の中尾山登山口からすぐの朝鮮学校側の裏手に当たる南側倒木の多い荒地よりそのまま尾根を上る、この数段に渡る荒地も推察ではあるが随所に石垣跡が窺われ当時の屋敷跡の趣を残している。

最高所の主郭までは樹木も比較的少なく踏み跡を難なく上って行けるが、その間には郭跡はもちろんの事、土塁、縦堀、切岸、虎口跡などは明確に確認出来る。主郭周りの斜面上の郭跡に関しては地表が風化で相当荒れているため段差などは判別し難く自然と同化した状態になっている。最高所主郭には櫓台と思える土塁が東側の谷を背にして健在で、更にその下方には馬場跡にも見える広い空間があり巨大な土塁を伴っている。ここは城中一番の見応えのある郭跡で仰ぎ見る主郭切岸も更に素晴らしさに拍車をかけている。主郭より南東側の郭跡を下りて行くと丁度中尾山城との境目に当たる堀切に出会う、ここから尾根を上っていくと出郭を経由して中尾山城へ辿り着く事が出来る。

今回の訪城ルートでは中尾城の古い形態の城跡と本来の山城を順を追って見る事が出来、同時に両者の違いも把握する事も出来るので二重に楽しめる事は請け合いである。個人的な感想では風化中ではあるが縄張り妙味もあり、残存遺構にも迫力のあるものが多い西城の方に山城の醍醐味を感じる事が出来た。

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登城ルート

3_2

城跡概念図

9_tozanguti

朝鮮学校裏手の推定屋敷跡からの登山口

19_isi_1

推定屋敷跡の石垣跡

24_nisi_1kaku_koguti_dorui

西郭1の土塁虎口

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西郭の縦堀(二条)

48_shukaku_yagura_dorui

主郭櫓台土塁

53_baba_daidorui

馬場跡か?巨大土塁見所

今宮城跡(京都府美山町)

京都府美山町今宮の集落北西側に聳える一際高い山から延びる南東尾根上に城跡はある

この地より車で数分、南数キロ程度の距離にある島城と同じく川勝氏の居城であるが歴史の詳細については不明。

城跡への目印は特に無いが集落のある小さな小川の流れ出す谷沿いに山道があるのでそれを山に向いて上ると山裾に裾を取り巻く形で土塁空堀が見えてくる、これは遺構かどうかは判断し難いが、反対に後世にこの様なものを設けて一体どのような用途が在ったのかと言う観点から推察するしか手が無い様である。この付近を取り付き地点にして北斜面をひたすら上ると数十段の段郭及び堀切を経て最高所の主郭まで到達する事が出来る。

この城跡の主郭背後を断つ残存状態の良い四重堀切は、これだけの為に上ったとしても決して後悔しない見応えと醍醐味の両方を併せ持つ素晴らしい遺構である

1route

登城ルート

3

城跡概念図及びコメント

15_daihorikiri

大堀切見所

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大堀切正面より

20_higasi_dankaku_gun

東段郭群

31_shukaku_nai

主郭

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四重堀切(写真では三重)見所

2008年7月18日 (金)

新庄城跡(京都府南丹市)

京都府南丹市八木町船枝にあり、八木城の支城で船枝城とも呼ばれる井上氏代々の城跡であるがそれ以外他は詳細不明

城跡は船井神社を目指した場合、神社の西側の山が城跡にあたる。登山道としての道は整備されていないが東側の大池に回りこみ大池北側の堤防土手沿いに山に向いて進入して行くと山道がある、途中から道は消えても尾根中ほどにある堀切までは数分で到達出来るが、合理的に山上を踏破するのであれば先に中腹枝尾根上の東出郭跡に一度立寄って見て、尾根を上れる状態であればそのまま上ると直接主郭東側の郭に辿り着けるはずである。ちなみに今回の訪城では東出郭より一度は直登を試みたが雑木に阻まれ一旦下りて山道を堀切に向かうルートになった。

状態は余り良くないが遺構残存度はかなり高い城跡のひとつである。

1route_2

登城ルート

3w

城跡概念図

3f 訪城コメント

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主郭切岸

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主郭

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東郭の大岩を取り込んだ大土塁

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東端郭

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中腹東枝尾根上の出郭

2 主郭にある説明板

黒田城跡(京都府南丹市)

京都府南丹市園部町黒田小字片山にある木崎山山頂が城跡となっている。別名木崎山城又は片山城

古くを辿れば代々森氏の居城と聞くがこの一族も織田軍に敵対しており丹波攻略軍の前に最後の城主である森筑前守高之が丹波黒井城に追い詰められた、それ以後の豊臣政権で森一族がどのような形で関与して行ったのかは分からないが没落したのは間違いの無い処であろう。

現状城跡は登山口に分かり易いとは言えないが小さな案内板もあり、地元の方の整備によって登山道もあり非常に見学もし易く、ほぼ縄張り全体像は把握する事が出来る状態となっている。

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集落南側より遠望

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登城ルート

3k 城跡概念図

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南郭北側最低部の堀切

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主郭内の現状

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東郭

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東郭内の空堀見所

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堀切土橋を挟み北郭へ

上野城跡(京都府船井郡)

京都府船井郡京丹波町南上野にあり、形の良い美女山から繋がる枝尾根の末端北西麓丘陵地に位置する、館城の性格を持つと見受けられる城跡

須知氏の拠った城跡と聞いているがここより直線で数キロも離れていない須知城の支城と見受けられる。明智による丹波攻略の際は早くより織田方に組していたと見られる須知氏であるが故に、明智の改修した須知城とは立地状況が違うとは言え織豊系の縄張りを色濃く残す城跡となっている。特に居館跡などの虎口を形成する分厚い大土塁、空堀の使い方及び連結する副郭の縄張りなどは同じ織豊系である近江の土山城跡と数々の類似点が見受けられる。

現状居館跡と推察される郭跡の北西麓側は広大な荒れた造成地となり反対の南東側の山裾は住宅地及び水田地に転用されており、どこまでの地形改変があったのかは推察するしかないが、取りあえず心臓部である主郭から現状の最高所である物見までが良い状態を保持しているので見る者にとっては非常に有難いと言える。

主郭と副郭を形成する大土塁と虎口及び空堀はこの城跡の白眉と言っても言い過ぎでは無いものである。

付近にお住まいの方に聞いた話ではこの近くには須知氏を名乗る子孫の方が未だに在住しておられるそうです。

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登城ルート

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城跡概念図

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南東側の最高所、進入路

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道路沿いから入ったすぐの郭跡

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須知氏墓地手前の土塁

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高低差のある大堀切

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主郭土塁虎口と大堀切

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西側谷から見た堀切

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主郭と副郭間の空堀

2008年7月17日 (木)

宇津嶽山城(京都府京北町)

京都府京北町嶽山の宇津嶽山頂525mに主郭を置く宇都(宇津)氏の山城

城跡は宇津城から西に向いて車を走らせ集落の西端辺りから遠く西彼方に見える山頂の位置を確認する、この位置からはまだまだ相当遠くに感じられ今から臨む事になる険峻な山塊を見ると少したじろいでしまいそうになる。車では相当近い地点まで行けると思えるが今回は途中崖崩れとなっており、車を置いて地形図を確認しながら最短距離の直登山ルートを選択した、自分で選んだとは言え40度近い斜面との格闘は30分を要した。 

一時間に感じらる登山の末山頂主郭に辿り着いたが、待っていたのは鋭角なまでの切岸と削平された郭跡、二重堀切と今までの疲れは一気に吹き飛んでしまった。主郭は全長10m程度、幅5~6mの小規模なもので、物見砦か狼煙台程度の役割しか果たさないものと思えるが見る者にとってはこの険峻な山上に築かれた事自体に大きなロマンを感じてしまう。痩せ尾根を分断する二重堀切及び西端の大堀切も埋もれかけてはいるが樹木に邪魔されず全体像が把握出来る状態にあり、城跡の素晴らしさに一層拍車をかけている。

城跡とするには規模は小さすぎる様に感じられるが、本格的に山を削り出して造られた様は正しく城跡と言うに相応しいのかも知れない。

下山は直登急斜面を逆に下りたが途中より屏風の様に切り立つ長く細い尾根が気になり出し、そちらを通りながらこれも削り出された防塁の一つかなと、気にしながら山を下った。結果的には尾根から南に向いて下りた辺りに小さな用具小屋があり急な山道を下りれば本来の車道に繋がる事が分かった。

今回の訪城では相当な体力を使う羽目になったが、その分半端では無い達成感と満足感を味わう事が出来た。30_utudake

一際高い山が宇津嶽山城

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登城ルート

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城跡概念図

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北郭

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主郭

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主郭側から二重堀切

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南西大堀切

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大堀切より主郭側

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用具小屋下山道