京都府の山城跡

2009年12月13日 (日)

大村城跡(京都府南丹市)

この城跡は京都府南丹市園部町城南にあって、自分流の何時もの好奇心において、地図上からも外見からも、城跡の佇まいを前から感じていたものであり、まして城跡としても好立地条件下にある事からも、何時か機会があれば山上を覗いて見たいと思っていた。今回は口丹波周辺の山城探索の一環としてやっと訪れる事になったが、幸運にも山上で城跡遺構はもちろん、予想もし得なかった状態のよい山城遺構と巡り合える事となった。

下山後、色々な資料から、あるいは外部情報から得た中で、この山城は自分の中ではずっと所在地が謎のままで、ずっと探し続けていた山城の中の一つでもある、大村城跡とやっと今判明に至らす事が出来た。文献、資料などで存在は充分認識していたのだが、所在地が今まで定かではなく、長年に渡って不明山城として自分の頭の中では整理されていた。当時の記録としては、室町期に田中河内守によって築かれた城跡で、丹波攻略軍である明智氏の軍門に下ったされるだけが、現状唯一外部から得た情報でもある。それにしても、長年山城巡りをしていれば、偶然ではあるが、こういったラッキーな事も舞い込んで来るのだと、改めて山城と巡り合えた余韻に浸るのである。(個人的には城跡遺構より、偶然見つけた喜びの方が断然大きい)

1_3 登城ルート

7_tera_1 寺院より東郭

1_2_3 城跡概念図

城跡へはルート図の如く、県道477号より城跡取り付き地点とした「青松禅寺」を目指せばよいが、位置的には園部城跡の南西側にあたる丘陵上にある。車は寺院の駐車場に預ければよいと思われるが、寺院内の墓地最奥最上段の背後を直登で上り切れば、直ぐにでも便宜上の東郭群が迎えてくれるはずである。後は概念図に示した様に、踏み跡程度の山道が尾根上まで繋がっているので、道に任せれば直ぐにでも主郭までは到達出来よう。

10_karahori_miti_1 東郭の空堀道(堀切か?)

14_dobasi_karahori 空堀土橋見所

14_dobasi_karahori_2 側面より空堀

15_shukaku_dorui_1 主郭土塁見所

17_karahori 武者隠しか見所

21_2maru 二ノ丸より主郭切岸

30_daikarabori 北出郭側大空堀見所

現状(11月)城跡は冒頭に触れた様に、山城としては藪化までは至っておらず、見学し易く見通しもある程度利くので、非常に見て回りやすい状態にあり、遺構としての複雑な地形も目に留まらなかった事からも、全ての遺構は判別確認可能な状態にある、と言っても過言とは思えないものである。見所を挙げれば、主郭背後の土塁を伴う空とそれに付随する土橋(状態が良いので一見の価値あり)、主郭東側壁の武者隠し的な空堀北出郭側の巨大空堀と、遺構は目白押しではないものの、充分目は楽しませてくれている。外見から窺うにはさほど急峻な様相には見えなかったが、山上郭群から下を見下ろせば、相当な急峻さを感じ取る事が出来、便宜上三の丸とした郭壁を下から見上げれ(20m以上の高低差)ば、ほぼ全体像が窺える事からも、この山城の醍醐味は充分味わえる様には感じられた。個人的に思い入れの強い山城ではあるが、まだ未訪の方にも是非お薦めしたい城跡の一つには数えられる。

2009年12月 8日 (火)

安井城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市安井にあって、安井集落の最北側、由良川に向いて西側に突き出した尾根上に位置している。由良川は日本海側と丹波側を結ぶ上での、水運の道として古来より使用されており、その通行利権絡みによるものなのか、水上を監視する砦跡なら無数に点在している様にも見受けられる、この山城も規模からすると、ほぼそれに近い城跡とは思われるが、城史に関しては全く不明である。

城跡へ京阪神側から向うには、国道9号を利用して牧城跡の望める「牧」交差点を右折して国道175号へ針路変更、その後はルート図通りに赤線を辿れば、自ずと直登取り付き口付近にある石碑までは到達出来る。概念図に示した石碑直ぐ近くには、県道55号沿いに小型車なら一台分の路駐スペースがあるので、車はそこに停めれば迷惑はかからないものと思われる。取り付き口は画像に示した様にガレージ背後の竹薮地からで、そのまま上り切れば5分とかからず城跡へ辿り着ける筈である。

1route 登城ルート

4 進入口

3y 城跡概念図

8_nisi_yagura 西端櫓土塁壇見所

10naka_kaku_1 主郭側

12_shukaku 主郭内

16_higasi_kaku 山上郭東側

20_horikiri_yori_higasikaku_1 東端堀切見所

21_horikiri_1 堀切側面

現状(10月)城跡の尾根上は、移動し易く見て回りやすい比較的良い状態にあるが、山上尾根は東西100mに渡って連続する、ほぼ単郭構造で成立する城跡でもあり、複雑な技巧を含んだ遺構も見当たらないので、見学する分においては非常に味気なく感じられる。目に留まった遺構は、郭跡を除けば櫓台とも思える西端の土塁壇、東端に備わる尾根を断つ堀切が挙げられる程度でもあり、山城としての醍醐味も見応えも、本音を語れば余り感じられないものである。ただ個人的には、この二箇所に存在する遺構、及び風化に任せたままではあるが、恐らく当時のままの状態で現存していると思える、史跡としての城跡に値打ちを感じるのである。

尚、ルート図には記したが、この城跡の真北側にある通信施設の建つ丘陵先端部も一応筈巻(ハズマキ)城として伝わっている。地元の方はこの城跡(砦跡)に関しては全くご存知ではなく、現状では城跡の所在地あるいは呼称の確認すら得る事が出来なかったが、山上は踏み入る事の出来ないほどの矢竹密生藪地でもあり、通信施設の周囲もジャングル化しているので、平坦地すら眼にする事が出来ない状態にある。自ずと地表が満足に見られない事もあって、郭跡すら確認出来なかったのだが、あったとしてもこれだけの施設が建っているのであれば、遺構はほとんど消滅したとも見受けられた。尾根上は東へ延々と削平地が連続するが、ここは「かつて戦時中においては芋畑であった」と言った回答回答は得られた、、が、それ以前は?となると、、、、? 取り合えず筈巻城は推定地ということにしたが、個人的には確認の為の再訪は、まず無いものとは感じられた。

2009年12月 4日 (金)

丹波和田城跡(京都府船井郡)

この山城は昨年まで遡るが、城跡情報など多くの有難いコメントを提供して頂いているS氏より、現地道路脇に中世城跡跡として標柱の建っている場所がある事を紹介して頂いていたのだが、S氏もこの時点では場所も分からず、まだ未訪だとも聞いていた。個人的には好奇心からも、頭の中にはずっとこの城跡の存在はありながらも、長い間訪問機会を失っており、今回は福知山の山城巡りを終えた後の、余裕のある時間の中でやっと訪ねる事が出来た。現地では道路脇に城址標柱は確認出来たものの、城跡らしき場所も見当たらず、付近で農作業中の年配の男性に尋ねたところ、「世間では誰も知らない様な城跡をよく訪ねて来られた」と感心しきりの様子でもあった。更には作業の手を休めてまでも「自分も数十年振りに登ってみたいが、腰が悪いのでそれも出来ない」と言う事で、直登取り付き口までわざわざ付き合って頂いた。

城跡は京都府船井郡京丹波町大朴(オオボソ)にあって、ルート図でも分かる様に既にリポート掲載に及んだ暫定)和田城の直ぐ近くにあり(最近、垣内城と判明)、国道9号と国道173号の交わる「和田」交差点横にある「ローソン」からは、南西側に望める低山山上が城跡でもあり、直ぐ確認する事は出来よう。図中に示した公民館敷地に車を預ければ、ほぼ赤線ルートを辿れば山上までは難なく到達出来る(公民館からは7分内)とは思われるが、現在麓の一部を道路造成工事をしているので木も伐採されており、直登口は簡単に見つけられる筈(画像参考)である。

4 南より遠望

1ooboso_route_1 城跡の標柱

1ooboso_route 登城ルート

5tozanguti 城跡進入路

8_1 東削平地

11_shukaku 主郭

12_shukaku_nisi_karahoritikei 主郭西の空堀地形

14_naka_one_kaku_1 中尾根上の郭跡

16_nisi_gawa_onekaku 西側へ延々と繋がる削平地

ただ訪問結果として城跡遺構は郭跡(削平地)及び僅かに切岸が窺われる程度であり、縄張り形態も古く見応えのある城跡遺構は皆無でもある。東西数百mに跨る山上は全て郭跡とも見受けられる削平地となっており、城域は相当広いものであるが、全域にかけて地表風化が激しい事、あるいは倒木も多く荒れ放題である事からも、自ずと目に留まる遺構にも限度はある。個人的には大味な縄張り形態からも、南北朝期まで遡る城跡の可能性が高く、とても戦国期をこの状態(防備が手薄)で乗り切った様には思われなかった、反面この規模から考えれば、陣城と言った可能性も否定出来ないものがあり、後は見る者の想像と判断で楽しんでもらえば良いものとは感じられた。

地元の方による情報からは、「当時綾部城主の配下の居城であった可能性は高いが、現状明確に判明している事は皆無である」と言っただけのものでもあり、文献あるいは資料にも全く顔を出さない山城なので、これからもこの城跡に関しての情報は期待できそうに無いのが現実の様でもある。当時の史跡として訪れる分には、風情は味わえるかも知れないが、山城ファンにおいては流石に物足りなさは感じられる様には目に映った。

2009年12月 3日 (木)

松ヶ崎城跡(京都市左京区)

城跡は京都市左京区松ヶ崎東山にあって、「五山の送り火」の一つとして有名な東山(標高186m)の東尾根上に位置しており、その東側には天然の水堀としての高野川が南北に流れている。戦国期においては比叡山門徒の一揆によって落城の歴史が伝わり、御蔭山城あるいは三宅八幡城とも近い事から、山本氏あるいは佐竹氏の出城とも思われるが、推察の域は出ないものである、詳細は不明。

城跡へ向うには、もちろん松ヶ崎にある東山を目指せばよいが、ルート図の如く高野川に沿った通称「川端通り」を車で北上して、「北山通り」を左折すれば一番分かり易く辿り着けよう。登山口となる「白雲稲荷神社」は東山の南麓にあるが、社殿に向いて石段を登れば、右手側から山上までは登山道が通じているので、それに従えば迷うことなく山上までは到達出来る(10分程度)はずである。山上尾根には「STOP」と記された看板が東方向(右手)に設置されているが、城跡のあるその方角へは確かな山道が繋がっているので、城跡遺構は自己責任において見学すれば良いものとは思われる。

1route_2 登城ルート

7 登山口へ

2_3matu 城跡概念図

15_horikiri 西端の堀切見所

17_dorui 西端の土塁見所

20_sanjyou_kaku_2 山上郭の現状

21_nisi_hasi_heki 山上郭東端の切岸

22_one_kaku_1 北尾根上の削平地

23_onekaku_monomi 北端大岩、物見か

Sinai_enbou_1 市内を望む

現状(10月)城跡は、山道に任せれば概念図に示したまでの城域は、ほぼ見て回る事が出来る状態にあり、数少ない城跡遺構の中では、西端の郭端に土塁を伴う堀切(空堀)、東端の郭切岸だけは明確に判別可能となっている。全長100m以上にも達する山上郭内には相当雑木が密生し、低草木も蔓延っているので、山道からは内部を覗く程度になるが、特別技巧を凝らした遺構は目に留まらなかった。もちろん縄張りプランから考えても砦規模の山城でもあり、敢えて防備の為に技巧を駆使する必要はなかったものとも考えられるが、、、。いずれにしても岩倉地区の城跡は、古い形態の城跡が多く見受けられるので、信長が京都を手中に収めたまでが、この山城の本来の値打ちなのかも分からない。

城跡に山城としての見応えも魅力も個人的には余り感じられなかったが、低山でありながら、当時でも現在でも、場所によっては市内が一望できる城跡は数少ないものでもあり、トレッキング気分で訪れるなら、山上では僅かな遺構も味わえて、充分納得の行く山城巡りとなるのではないだろうか、、、

2009年12月 1日 (火)

岩倉上蔵城跡(京都市左京区)

城跡は京都市左京区岩倉上蔵(アグラ)町にあって、京都では有名な「実相院」西背後の尾根に位置しており、ここより直ぐ東側に望める単独で聳える低山、小倉山を本拠とした地元士豪の一人である山本氏の居城(支城)と伝わっているが、詳細は不明。

城跡へは京都市内でも相当北の奥に位置する岩倉地区を目指せばよいが、目印となるのは「実相院」あるいは「北山病院」であり、車で訪れた場合、有料駐車場を使用しない場合は、路駐箇所を探すには非常に難渋するのが現状でもある。城跡への登山口(山道がある)は詳細ルート図には示したが、赤線ルートを辿れば道標は設置されてはいないが、認知症療養病棟の建物の直ぐ裏側に辿り着け、そこからは山道に任せてそのまま上ればよい。ただ登山口は病棟建物の直ぐ背後でもあり、裏に回る為に一旦小さな駐車場を通過する事になるので、もし病院勤務の方と目が合えば、事情を説明した方が怪しまれずに済むのではないかとは思われる。ここから上れば、斜面上に展開される郭群をゆっくり見学しながら、20分もあれば山上主郭までは辿り着ける筈である。

Agura_1 登城ルート

4_3 進入口

Agura_2 城跡概念図

現状(10月)城跡は山城らしく当然藪化は進行中にあるが、移動あるいは見学に差し支えるまでには至っておらず、山上に展開される郭跡を含めた遺構群は、ほぼ判別確認可能な状態にある。ただ自然に任せた風化は相当進行しているので、郭切岸などは非常に曖昧なものであり、土塁なども僅かにそれと判別出来る状態、空堀なども相当土で埋もれてしまっているので、細部における地形の変化を注意して窺う必要はあるだろう。概念図に示したまでが踏破した範囲であり、目に留まった遺構をそれなりに記したものだが、古い形態の山城とみえて、現状これ以上の遺構は余り期待出来ないようにも感じられた。結果的には山上郭群は高低差も少ない事から、切岸高低差などの醍醐味も味わえず、薬研堀などの様なインパクトのある遺構も眼にする事が出来なかったが、総全長300mにも及ぶ城域あるいは遺構残存度の高さ、急峻過ぎる地形などからも、山城としての醍醐味は充分満たしてくれていそうには思えた。

10_heki 北側斜面の郭跡

13_kita_dankaku_gun_1 北段郭群

16_shukaku_dorui 主郭の土塁見所

20_2aru_minami_karahori_1 二の丸南空堀見所

24_3aru_karabori_ato 三の丸僅かな空堀跡

25_koudai_na_kaku_1 南郭

28_nantan_horikiri_1 南端の埋もれた堀切

城跡を個人的に評価したなら、見応えのある遺構は皆無に近いが、風化に任せた遺構群も、想像を働かせれば充分戦国ロマンには浸れそうとも思えるし、縄張りを含めた古い形態の山城そのものが、見応えを感じる部分なのかも分からない。史跡ファンには状態も良くないので余りお薦め出来ないかも知れないが、山城ファンにおいては、山道を利用すれば迷わず到達出来る事からも、充分お薦め出来る城跡とは目に映ったが、、、

2009年11月30日 (月)

西ノ上城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市三和町草山にあって、県道59号沿いにある天満神社より北側に数100m移動した道路に迫り出した尾根先端部に位置しており、三和町パンフの中では「ニシンジョ城」とも記載されている。立地環境から考えれば、同じ三和町にあってダマ城を本拠としたと考えられる細見氏の出城とも推察出来るが、歴史に語られるほどの城跡ではない為に詳細は不明。

城跡へは国道9号から現地を目指した場合、「芦渕」交差点より県道59号へ西に針路変更、目印となる天満神社あるいは概念図にある「草山」バス停を目指せば分かりやすい。バス停付近には充分路肩に空きスペースもあるので、そこから城跡を目指しても主郭までは10分程度で辿り着ける筈である。ただこの城跡は遺構は完存であると聞いていたので非常に期待して赴いたのだが、現状見る限り山上は荒れ放題となっており、更に雑木に覆われて移動も困難、地表が露見している箇所も僅かであり一息付ける場所もないのが現実である。それでも郭に備わる土塁、堀切は確認可能でもあり、何とか面目は保たれているが、縦堀などの遺構はあったとしても視認は困難、小規模な城跡である為に縄張りを把握するまで漕ぎ着ければ良しとするしかないようにも思われた。遺構の完存は充分うなずけたが、この状態では雑木藪の見学に訪れた様なものでもあり、確認し辛い残存遺構あるいは際立った遺構が目に留まらなかった事をを考えれば、三和町における細見氏の城塞群に興味のある方以外では余りお薦め出来ないのが本音かも知れない。

1route 登城ルート

N_13 南より遠望

4_tozanguti 直登取り付き地点

3ni 城跡概念図

6_dankaku_heki 東段郭群の切岸

7_shukaku_genjyou 主郭の現状

9_horikiri 堀切

今回の山城巡りでは既に訪問を終えた本郷城は別として、同日訪問で三和町パンフに記載されてあった小見山城(辻野屋敷)、ダマ城、殿屋敷城、そして今回の西ノ上(ニシンジョ城)城跡と細見氏の城塞群はほぼ踏破した計算にはなったが、何れも小規模な城跡が多く、丹波在地豪族の一人でもあった細見氏の勢力も、城跡巡りをしていればある程度窺えそうにも思われるのである。細見氏の菩提寺が本郷城のある松隣寺にある事からも、この地が細見氏最後の地あるいは最後の拠点なのかも知れないが、細見氏が小さな勢力で最後まで巨大勢力でもある明智軍と渡り合った事を思えば、勇猛かつ硬骨な武将であった事は事実とも思えるのである。

2009年11月18日 (水)

扇山城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市夜久野町井田にあって、標高225mの「扇山」山上に位置しており、先にリポート掲載を終えた千原城からも、充分望むことが可能な位置にある。この山城も城史に関しての情報は皆無であるが、衣川氏が居城とした千原城を、当時では山上郭からは充分望めた(現状では木々に遮られ不可能)こと、あるいは古来の街道が扇山東側の川沿いにあった可能性を考えれば、自ずと有事の際には千原城(本城)に、事を逸早く伝達出来た物見(狼煙台)砦、あるいは最前線における出城とも窺えるものである(推察)。

城跡へは、千原東城を起点とすれば分かり易いが、東城からも直ぐ望める北側の川を隔てた、通信施設のある場所が城跡への登山口となる。この山道はかつて南尾根先端にあった薬師寺跡まで(15分前後)道が繋がっており、そこから郭跡とも見受けられる、尾根上の平坦地形を窺いながら尾根に沿って上れば、登山口から山頂までは藪漕ぎもなく、ゆっくり上っても30分内で到達可能となっている。もちろんルート地形図に記された、西側の林道からも可能とは思えるが、見るからに長い距離、あるいは山上西側の地形は等高線が非常狭い事からも、凄い斜面が予想されるものでもあり、まだ未訪の方には、迷わず此方からの登山をお薦めしたい。30分は長く感じられようが、薬師寺跡から先は、山上郭手前まで厳しい斜面を上ることはないので、比較的楽な登山である様には感じられた。

Photo_2 登城ルート

7_tozanguti 登山口

1 城跡概念図

10_yakusiji_ato_2 南端の薬師寺跡

14 尾根上の平坦地形

22_horikiri_2 23_horikiri_dorui 堀切見所

25_shukaku_heki 矢竹の隙間に主郭切岸

26_higasi_kaku 東郭

現状(11月)、規模の小さな山上主郭は細い矢竹で覆い尽くされており、内部の様子はほとんど外見から窺う事は困難な状況となっているが、他は地表がほぼ露見しているので、見学に余り支障は来たさない状態にはある。とは言っても、目に留まった城跡遺構は、郭跡を除けば土塁の付随する堀切縦堀かもしれない地形、土橋状の細い移動尾根程度でもあり、見応えのある遺構は皆無に近いものである。しかし山上郭群の周囲はほぼ崖状地形でもあり、この険峻極まりない山上に位置する、城跡の形態そのものが充分見学に値する様には感じられるのである。山上郭のみで考えれば、単体でおよそ15m程度の規模でもあり、物見か狼煙台としての機能しか浮かんで来ないのだが、自然に任せたままの城跡の縄張りは、現状からでも充分把握が可能であり、遺構残存度は案外高いものとも見受けられた。城跡は限りなく無名に近い山城ではあるが、興味を持たれた方、あるいは登山する事に苦がなく、楚々とした山城が好きな山城ファンにのみ、比較的山頂までは迷わず楽に登れる事からも、個人的には薦めしたいとも思えるのである。

2009年11月17日 (火)

千原東城跡(京都府福知山市)

この城跡は先にリポート掲載を終えた、千原城からも望むことが可能でもあり、尾根を一つ隔てた直ぐ東側の丘陵上に位置している。城史に関しての情報は、隣接する千原城と同様に現状では皆無に等しいが、市の遺跡呼称の中では「東シ城」となっている事からも、まさかトウシ城と呼ばれたとは思われず、ここでは千原城の東側に位置する東支城(ヒガシシジョウ)として解釈した上で、訪問リポートは「千原東城跡」として掲載させて頂いた。自ずと千原城の支城としての認識があった様には感じられるのだが、、、。

城跡へは千原城を起点とすれば分かり易いが、外見から望んでも直ぐ城跡と分かる山容は、位置確認もし易く概念図の如く公民館から出て、墓参道を利用すれば、直ぐにでも丘陵上までは到達可能となっている。

Tihara_1_2 登城ルート

6_tiharajyou_yori 千原城より東城遠望

Photo 2 城跡概念図

8_hokutan_kaku_1 先端の郭跡

9_isizumi_1 謎の石積み

10_kita_2kaku_1 北西郭と土塁見所

13_kita_horikiri 堀切見所

16_dobasi_dorui 最奥の堀切に備わる土橋地形

17_horikiri_1 城跡最奥の堀切見所

現状(11月)、主郭に相当する郭跡地のほとんどが、集合墓地として造成地形改変されたものと窺われ、取り合えず自作概念図に示したまでが、個人的に判別確認出来た遺構と言う事になるが、丘陵上では二箇所の土塁、空堀、堀切とした場合の縦堀跡最奥に施された堀切などが目に留まった。城跡の先端部分も北東側斜面も、治山工事によって大部分が切岸化されており、当時の遺構は相当消失したものとは見受けられたが、城跡の形態は郭高低差の余りない、ほぼフラットな地形をそのまま利用したものの様には見受けられた。当然、当時の郭形状などは訪れた者の想像に委ねられる状況にあるが、この城跡の形態から考えても、規模の大きい集合墓地内には、複雑な遺構は大して存在しなかったとも言えるのかもしれない。尚、この城跡との中間に位置する枝尾根上も、戦略的には縄張りと考えても良さそうには思われたが、踏破確認するまでには至れなかった。他では城跡先端部に方形状に石積みが窺えたが、これは恐らく近年における炭焼き窯跡、あるいは何らかの形で近年構築されたものの様には窺えた、、、謎。

千原城(本城)に直ぐ隣接する事からも、二城併せた同日訪問は当然お薦め出来るものでもあり、二城の位置関係及び築城された環境、あるいは形態の違いなども併せて見学すれば、自ずと有意義で充実した城跡巡りが出来るのではないだろうか。

2009年11月15日 (日)

夜久野 千原城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市夜久野町千原/下千原にあって、千原川となる二つの川に挟まれた形の丘陵上に位置している、この城跡はほぼ無名に近いが、訪問結果としてはほぼ完存とも見受けられる素晴らしい遺構残存度を誇っており、丘陵上の一部は、ある程度整備されていた様にも窺えるものであり、見学し易く状態も比較的良い事、あるいは縄張りも直線的で単純ではあるが、二箇所の大空堀で守備された形態は、非常に見応えが感じられるものであり、個人的にも是非訪問をお薦めしたい城跡の一つである。

城史に関しての詳細は不明ではあるが、古くは奥州より移り住んだ衣川氏の居城とだけ伝わっており、この周辺の集合墓地には、その子孫の方かも知れないが、衣川の名を刻んだ墓石が数多く見受けられた。 城跡へは国道9号を走れば「額田」交差点で南へ針路変更、後はルート図の如く集落(公民館)を目指せば、付近までは難なく辿り着けるだろう。現在、城山までは画像(概念図)に示したガレージ脇から、道標は無いが細い山道が城山まで繋がっているので、迷うことなく主郭までは到達可能である。尚、車はバスの旋回地となっている公民館には預けられないが、付近の市道を探せば路駐可能な空きスペースは多く見当たるはずである。

Tihara_1 登城ルート

10tozanguti 登城口

Tihara_2 城跡概念図

現状(11月)城跡は先に触れた様に、竹林地となっている東郭の一部を除けば、郭内は樹木も少なく見通しも利く事からも、非常に見学し易い状態にあるので、遺構の判別は容易い状態にあると言っても良いだろう。個々の郭規模が比較的大きいので、城跡規模も随分大きいものとも感じられるが、実際には縄張り総全長は200mにも満たないものであり、縄張りプランも単純なものではある。見所は何と言っても、主郭を挟んだ形で築かれた二箇所の大空堀に尽きるとは思われるが、主郭背後は薬研堀(堀切、前面は幅を持たせた空堀と、縄張りとしての工夫は充分窺え、主郭には判別し易い土塁が半周ほど巡っており、堀切壁ともなる大土塁と並んで、非常に目を楽しませてくれる様には感じられた。複雑な技巧を伴う遺構が見当たらない事からも、特別縄張り妙味を感じる城跡ではないが、民家が直ぐ傍まで迫りながら、5世紀を経た今日でも、ほぼ当時の姿のままで見学出来る状況にあるこの城跡は、正しく推奨に値する城跡とも見受けられ、城址案内板の一つでも設ければ、史跡見学者も含めた、多くの城跡ファンが見学に訪れる様な気はするのである。

22_3maru_2 三の丸

44_3maru_heki 三の丸切岸

24_karabori_nai_1 中央大空堀見所

31_shukaku_nai 主郭内

30_shukaku_dorui_1 主郭土塁見所

32_shukaku_daidorui 主郭背後の大土塁見所

35_daihorikiri_6 35_daihorikiri_5 大堀切見所

歴史の表舞台にも登場しない城主を持った、超マイナーな城跡ではあるが、現状から窺う限り、余り手入れのされていない山城(丘城)としては、遺構の判別し易さ、及び全体の見学し易さは群を抜くものでもあり、一般城跡ファンにおいても山城ファンにおいても、覗いて期待を裏切られる様な事はまず無いものと、目には映ったのである。尚、ルート図中にある東城と扇山城のリポートは、引き続き掲載予定

2009年11月14日 (土)

三宅八幡城跡(京都市左京区)

城跡は京都市左京区岩倉花園町にあって、三宅八幡神社の背後東尾根上から北東側にかけての山上に位置しており、先にリポート掲載を終えた御蔭山城を本城とした佐竹氏の支城とも推察されるが、詳細は不明。

城跡へ向うには電車なら叡山電鉄鞍馬線「八幡前」駅で下車、車なら三宅八幡神社を直接目指せば一番分かり易が、神社駐車場に車を預ければ、ほぼルート図に示した二通りの行き方で迷わず主郭までは到達出来るとは思われる。概念図には高樹院墓地からのルート(駐車場から主郭まで10分程度)を示したが、神社資料館から南側の三明院に向う道より直接左手斜面に取り付いても、尾根上削平地には直ぐ到達出来、そこからはそのまま北東側に移動しただけの、主郭までは5分程度の距離にある。

1route 登城ルート

4_2 三宅八幡神社

3hati 城跡概念図

現状(10月)城跡は木々も比較的少なく、相当風化は進行中にあるが遺構見学にも移動にも余り支障は来たさない、比較的ましな状態にはある。しかし主郭より西側は現在ゴルフ練習場として、相当な造成地形改変が窺われるものであり、当時のままの姿をそのまま拝める状態にはないので、どこまで遺構が消失したのかは見学者の想像に委ねられるが、現状から窺う限り西郭として存在したと思える地域は、全てゴルフ施設となっている様には見受けられた。現存する遺構だけで城跡を判断すれば非常に規模は大きく、南側は尾根上の先端にある三明院(砦跡か?)まで、北側は主郭背後の堀切から更に山上削平地に向いての縄張りは明確なものであり、三方尾根に縄張りは広がっているが、ほぼ単独で裾野を広げた一山から成立している山城とも思えた。

8_minami_sakuheiti 南側の削平地

10_shukaku_heki_1 二の丸、主郭の切岸

15_shukaku_1 主郭内の現状

17_horikiri_dobasi 17_horikiri_dobasi_2 堀切土橋見所

20_tatebori 巨大空堀見所

22_kita_sanjyou_kaku 北山上郭

見所は古い形態の山城である為にそう多くは無いが、主郭北背後の土橋を伴う、それも巨大空堀に繋がる堀切は真っ先に挙げられるが、技巧を伴う土塁虎口あるいは横堀などは最初からこの城跡に期待してはいけないものでもあり、他で縦堀が二条目に留まった程度に終わってしまった。ただ城跡の評価としては見所は数少ないかもしれないが、この起伏に富んだ地形及び縄張りを考えた上で、山城としての醍醐味は充分満たしてくれる様には感じられた。遺構の見応えを抜きにして、当時を物語る史跡見学、あるいは神社参拝ついでに寄れるお手軽感を考えれば、充分お薦め出来る城跡とは言えよう。

今回の京都市内における山城巡りは「中尾城」訪問以来となったが、個人的には青春時代を過ごした地に再び戻って来たせいもあってか、岩倉地区周辺を車を走らせるだけで非常に感慨深いものがあり、山城巡り以外でも他の地方では味わう事が出来ない、変わらぬままの京都独特の風情までも堪能する事が出来た。

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