桐村城の所在地判明
この山城に関しての前回のリポート掲載(今年1/21日)では、明確に所在も判明せぬままではありましたが、山上には明らかな城跡遺構が存在する事から、呼称も確定せぬまま自身による判断で、暫定「桐村城」という形で異なる城跡をリポートさせて頂きました。今回(九月)は何としてでも本来の桐村城の場所を突き止めたい気持ちが優先した事から、再訪に併せて奥谷地区にお住まいでもある、大呂地区(桐村氏)の歴史に一番精通した方を現地で紹介して頂きました。ブログ読者の方の情報からも「桐村城はもっと奥に入った場所にあった」と言ったコメントを頂戴しており、地図上ではある程度目星は付いておりましたが、お陰様でやっと所在地(福知山市大呂字奥谷)だけは確認する事が出来ました。
場所は地図には記しましたが、標高291mに及ぶ低山ではあるが非常に険峻な山容でもある山頂が城跡です。しかし城域はその東側に連なる二峰にも跨り、山上尾根全域に及んでいる様にも窺われる大規模な山城の様にも感じられました(推察)。しかし今(三時)からの比高200mに及ぶ藪漕ぎの考えられる登山、あるいは熊の出没も考えられるリスクを考えれば、現状上って下山するには余りにも無謀と考えられた事からも、今回は断腸の思いで訪問を断念する結果となりました。今回は地元の方から聞き及んだ城跡に関しての情報の概略を掲載しましたので、興味のある方だけに読んで頂ければ、再訪の価値は充分あったとは思われます。尚、この山城に関しては福知山市史に載せられているそうでもあり、自分の様な遠距離訪問者にとっては、寄って資料を窺う余裕も無いのが現実なのですが、時間に余裕のある方は一度目を通して訪問された方が、山城巡りをする際に置いてはより楽しめるのではないでしょうか。
(地元で聞いた情報) この桐村氏は13世紀頃常陸の国に在住していた鹿島中臣氏を発祥とするもので、この地には地頭職を与えられて赴いた事から始まっている(集落奥には鹿島神社もある)。本来はこの地を支配したのは金山氏が先であり、その庶流がこの桐村氏にあたるもので、金山氏は足利政権の下では「丹波金山衆」として名を馳せたものの徐々に没落の道を歩んだ。室町期には同族同士の争いでこの金山氏は滅んだとも伝わるが、戦国期においては桐村氏がそれに取って代わるほどの力を身に付け、この地は桐村氏によって長く統治された。戦国期は八木城主でもある内藤氏の傘下で活躍したが、赤井氏との抗争によって敗れるも、明智による丹波平定後は再び旧領に復帰する。その後は秀吉による「太閤検地」によって土着の道を歩んだ模様。
以上が聞き及んだ事を簡単にまとめたものですが、実際には話は随分と長くに及んだものであり、個人的にも桐村氏に関しての情報としては、非常に満足度の高いものとなりました。先に掲載に及んだ(暫定)桐村城は推測にはなりますが、この奥谷地区の入り口にあたる事からも、東側を抑える為の出城あるいは伝承にもある金山城であるとも考えられそうですが、未だに確証は得られておりません。ルート図には示しましたが、(暫定)桐村城の対岸神社敷地にも城跡遺構らしき跡がある事を考えれば、集落入り口を南北から挟んだ構造は、正しく古来からの集落を中心とした防備の一環の様にも見受けられます。この城跡自体は無名に近く深く追求する程のものとは思えないのですが、一度乗りかかった船でもあり、個人的には再訪が叶うかどうかは分かりませんが、これから訪城準備のあった方、あるいは気に留めていた方にのみ参考になれば幸いでもあります。尚、付近には天寧寺山城も存在する事から、当時この大呂地区一帯を支配していた桐村氏の勢力を知る上でも、前回掲載の(暫定)桐村城跡は(仮名)桐村東城としてそのまま掲載は据え置くつもりでおります。





