城跡

2009年12月12日 (土)

判明した城跡呼称 2

今まで踏破した山城の中で、情報が少ない為に所在地と城跡呼称が結びつかず、取り合えず仮名としたものが、今回の追跡リサーチによってやっと呼称が判明しました。と同時に、城跡名を取り違えていた山城も一城判明しましたので、ここでお知らせしたいと思います。尚、この城跡呼称に関しては公的(府あるいは市)資料から情報を得たものであり、地元あるいは現地の郷土史などでは、過去の経験からも別の呼称で呼ばれている可能性も充分考えられますので、その辺は柔軟に対応して頂きたいと思います。

まず呼称の判明した城跡

1、京都府綾部市高倉町にあって、仮)高倉山城としたものは高倉城1_1

2、兵庫県篠山市熊谷にあって、仮)熊谷城山としたものは熊谷城1

3、前回の呼称判明の中に後で追記として載せましたが、まだ拝見しておられない方の為に再び載せたもので、三重県伊賀市島ヶ原にあって、仮)恒矢南城としたものは高瀬城 尚、隣接する恒矢城は、本来の「恒」「垣」と間違えて表示しておりましたので、既に誤字を訂正した事もお知らせしたいと思います。

4、これも追記した分で、京都府南丹市八木町北広瀬にあって、仮)広瀬城としたものは北広瀬城

5、興味のあった方には長い間お待たせしましたが、個人的に城跡遺構として確認した但馬、東河城塞群の中で、一部の城跡の呼称が判明しましたので、ここでお知らせしたいと思います。

兵庫県朝来市和田山町宮地区にあって、仮)黒田東出城あるいは黒田東砦とした二城は、フタタ城、白井城と呼ばれる事が判明しました(概念図及び地図を参考に)。3 3_2

と同時に、仮)黒田西城あるいは地元で所在地は確認したものの、砦規模である為に今ひとつ納得の行かなかった、黒田城として掲載に及んだ城跡は、黒田城(山上郭あるいは本城)の出城あるいは支城である事も、地元の方との共闘作戦(追跡リサーチ)のお陰で、ある程度まで判明しました。ある程度としたのは、自身が現地で直接城跡遺構を確認していない為でもありますが、本来の黒田城(山上郭)は、ほぼ地図に示した場所と断定して良いものと思われます。よって前回掲載しました黒田城は、自ずと出城と言う事にもなりそうですが、城跡呼称の候補としては小川城あるいは寺木城が挙げられます、どちらも隣接しているので、所在地などから判明に至らすことは出来ず、現状からの判断では、前回リポート掲載に及んだ(仮)黒田西城、黒田城の二城は、この小川城、寺木城のどちらかであるとまでは分かりました。Photo1_2

ここではまだ個人的な推察に留めておきたいのですが、(仮)黒田西城としたものは小川城、黒田城としたものは寺木城と考えられます。この二城は付近にお住まいの方に訪ねても、明確に所在地が判明しなかった城跡でもあり、これから多くの情報は望めそうにないのが現実でもありますが、次回に本来の黒田城(山上郭)を訪れる際には、是非判明させたいとは思っています。尚、現在の乏しい資料あるいは文献の中では、様々な呼称が飛び交っているので、東河七城がどれにあたるものかは専門家でも相当判断は難しいと思えます。黒田山上郭から末端尾根にかけては、まだ未踏の砦跡もあると考えられますが、城跡呼称は個々にあっても、黒田城の本質は前回触れた様に、丹波八上城などと同様に、山上郭を頂点とした黒田城塞群と考えても良さそうには思われます。更に新たな情報が入ればお知らせしますが、取り敢えずは、黒田本城を先に訪問する事が先決と思えますので、今年中には無理かも分かりませんが、機会があり次第再訪の予定です。個人的にも踏破して城跡遺構と判断したものの、確信にまで至る事が叶わず、ずっとやきもきしておりましたが、現地の方のご尽力もあり、やっと城跡遺構の確定までは漕ぎ着けれました、まだ(仮)東和田城も含めて、呼称の確定という宿題は残っておりますが、取り合えず満足感には満たされている状態です。(ほとんど諦めていたので、、)。

城跡呼称を取り違えているものは京都府福知山市篠尾にあって、石井城(篠尾城)として掲載に及んだ城跡で、城跡呼称は福知山市史の中にある篠尾向段城が正解です。3sasaodan 本来石井城と呼ばれる城跡は、この城跡の直ぐ真南に隣接しており、篠尾向段城と同様に、丘陵上にあるとの情報は既に掴んでおりますが、まだ未訪でもあり詳しい現況報告が出来ないのが少し残念な処ではあります。本来の石井城は訪問次第リポート掲載の予定ですが、来年になるものと思われますので、興味のある方はそれまで少し待って頂きたいと思います。

福知山市内にあっても、この地域には既にリポート掲載を終えた羽合城、半田城、新庄城と、まだ低丘陵上の至る場所に城跡遺構は存在していそうでもあり、今回の様に一つ尾根を間違えると別の城跡名になったりで、呼称の確定には随分泣かされてはおりますが(山城ファンなら分かって頂ける、、)、この地域の未訪の城跡も含めて、これから何とか所在地の確定、あるいはそれを踏破した現況をこつこつとリポートして行きたいと、更に意欲を燃やしている今日です。

2009年11月21日 (土)

判明した城跡呼称

今までブログに紹介した山城の中で、自分自身では城跡として目星を付けながらも、無名で文献資料などには僅かな記載である為に、城跡遺構と明確に判明しながらも呼称が判明せず、所在地と城跡名が結びつかない山城が幾つかありました、その中で今まで止むを得ず、暫定あるいは仮名としてリポート掲載したものが、その後の追跡調査、外部からの情報、あるいは色んな資料に目を通した事によって、何とか城跡呼称を判明させる事が出来ました。

今回は今まで暫定、あるいは仮名としたものの中で、新たに公的に使用されている城跡呼称が判明した分と、城跡名を取り違えている可能性の高い城跡を二つお知らせしたいと思います。

1、京都府船井郡京丹波町和田にあって暫定)和田城跡としたものは垣内(カイチ)城跡1_3 Photo_5

08/11/3日掲載のリポート暫定)和田城は、既に垣内城として改訂済み 

尚、ルート図には記しましたが、本来の和田城と呼ばれる無名に近い城跡は、国道を隔てた南西側の山上に存在しており、既に訪問は終えました。この山城も世間では全く知られておりませんが、近日中にはリポート掲載に及びたいと思っております。

2、京都府亀岡市稗田野町鹿谷にあって千手寺城塞群の中で暫定)西山城塞南砦としたものは西山城跡1_2

Photo_4

3、京都府福知山市大呂奥谷にあって仮)桐村城砦跡か?としたものは奥谷城跡1route_2 Kita_betu_mine_kaku_2 Kita_betu_mine_kaku_1_3

この城跡は、「桐村城所在地判明」記事の中では少し触れたと思うが、ルート図に示した様に、現在城跡には神社が建立されており、その敷地一帯周辺を城域とすれば良いものとも思われるが、規模は比較的大きく、敷地内には良好に郭跡(削平地)が残っている。ただ近世においては造成地形改変があったものとも見受けられる事から、当時の状態は自ずと見学者の想像に委ねられる様には感じられた。隣接する金山城などとの山城巡りの一環として、少し寄り道訪問しても、決して無駄足には終わらないとは思えるが、、。

4、三重県伊賀市島ヶ原にあって(仮)恒矢南城としたものは高瀬城跡  尚、同じ大道地区にある恒矢城跡は、掲載において「恒」を「垣」と誤字している事が最近になって判明しましたので、改めて訂正のお知らせをしておきたいと思います。正確には恒矢(ツネヤ)城1r 3ka

5、京都市南丹市八木町北広瀬にあって、(仮)広瀬城としたものは北広瀬城跡

他にはまだ確証までには至っておりませんが、京都府福知山市川北の仮名)川北城跡としてリポート掲載した城跡は、城跡の南麓に山ヶ市観音堂がある事からも、この城跡は川北山ヶ市城跡(市の遺跡データにある事が判明)の可能性が高いものとも見受けられます。同じ川北地区には、ほぼ東側丘陵上に隣接していると聞いた川北上村城跡が現存している事からも、この城跡の規模から考えれば、自ずとその出城の可能性があるとは思われますが、この山ヶ市城跡の形態が、城館とした分類になっているのも確かであり、中々確信するまでには至っていないのが現状です。機会が何時訪れるかは分かりませんが、上村城跡訪問の際には、是非判明させたいと思っています。尚、訪問記事自体は変わりようがないので、仮名としたものが実際の城跡名と合致するまでは、そのままにしておきます。

城跡呼称を取り違えた山城は、京都府宮津市里波見にある高尾城跡京都府亀岡市稗田野町にある茶屋城跡で、前者は同じ地区で他に高尾城が隣接している事からも、高屋の「」と「」を取り違えて掲載していた事が最近になって分かりました。よって高尾城跡としてリポートしたものは、本来は高屋氏の拠った城跡、高屋城跡の誤りであったので、ここで改めて訂正したいと思います。

後者の茶屋城はまだ確証までには至っておりませんが、最近になって本来の茶屋城は、道路を隔てた反対側に位置していると言った情報を掴みました。現状の乏しい資料の中では、まだ確認も確証にも至っておりませんが、この明確に現存する規模の大きい城跡遺構は、別の呼称を持った城跡、あるいは他の支城とも考えられる事から、過去リポート掲載した茶屋城跡に関しては、これからも判明するまでは追求していきたいとは思います。しかし今回はほぼ別に同名の山城が存在している情報を得た事からも、紛らわしい事もあって、記事は一旦削除して、明確になり次第再び載せる事にしました。もちろん本来の茶屋城は、いずれにせよ探して訪れるつもりではおりますが、、、取り合えず今回は茶屋城を除いては、やっと呼称の判明に漕ぎ着けた城跡もあり、個人的には二歩前進と言った処でしょうか。

2009年9月16日 (水)

桐村城の所在地判明

この山城に関しての前回のリポート掲載(今年1/21日)では、明確に所在も判明せぬままではありましたが、山上には明らかな城跡遺構が存在する事から、呼称も確定せぬまま自身による判断で、暫定「桐村城」という形で異なる城跡をリポートさせて頂きました。今回(九月)は何としてでも本来の桐村城の場所を突き止めたい気持ちが優先した事から、再訪に併せて奥谷地区にお住まいでもある、大呂地区(桐村氏)の歴史に一番精通した方を現地で紹介して頂きました。ブログ読者の方の情報からも「桐村城はもっと奥に入った場所にあった」と言ったコメントを頂戴しており、地図上ではある程度目星は付いておりましたが、お陰様でやっと所在地(福知山市大呂字奥谷)だけは確認する事が出来ました。

場所は地図には記しましたが、標高291mに及ぶ低山ではあるが非常に険峻な山でもある山頂が城跡です。しかし城域はその東側に連なる二峰にも跨り、山上尾根全域に及んでいる様にも窺われる大規模な山城の様にも感じられました(推察)。しかし今(三時)からの比高200mに及ぶ藪漕ぎの考えられる登山、あるいは熊の出没も考えられるリスクを考えれば、現状上って下山するには余りにも無謀と考えられた事からも、今回は断腸の思いで訪問を断念する結果となりました。今回は地元の方から聞き及んだ城跡に関しての情報の概略を掲載しましたので、興味のある方だけに読んで頂ければ、再訪の価値は充分あったとは思われます。尚、この山城に関しては福知山市史に載せられているそうでもあり、自分の様な遠距離訪問者にとっては、寄って資料を窺う余裕も無いのが現実なのですが、時間に余裕のある方は一度目を通して訪問された方が、山城巡りをする際に置いてはより楽しめるのではないでしょうか。

Kirimura2 城跡所在地

Photo_2 1_2 城跡遠望

(地元で聞いた情報)  この桐村氏は13世紀頃常陸の国に在住していた鹿島中臣氏を発祥とするもので、この地には地頭職を与えられて赴いた事から始まっている(集落奥には鹿島神社もある)。本来はこの地を支配したのは金山氏が先であり、その庶流がこの桐村氏にあたるもので、金山氏は足利政権の下では「丹波金山衆」として名を馳せたものの徐々に没落の道を歩んだ。室町期には同族同士の争いでこの金山氏は滅んだとも伝わるが、戦国期においては桐村氏がそれに取って代わるほどの力を身に付け、この地は桐村氏によって長く統治された。戦国期は八木城主でもある内藤氏の傘下で活躍したが、赤井氏との抗争によって敗れるも、明智による丹波平定後は再び旧領に復帰する。その後は秀吉による「太閤検地」によって土着の道を歩んだ模様。

以上が聞き及んだ事を簡単にまとめたものですが、実際には話は随分と長くに及んだものであり、個人的にも桐村氏に関しての情報としては、非常に満足度の高いものとなりました。先に掲載に及んだ(暫定)桐村城は推測にはなりますが、この奥谷地区の入り口にあたる事からも、東側を抑える為の出城あるいは伝承にもある金山城であるとも考えられそうですが、未だに確証は得られておりません。ルート図には示しましたが、(暫定)桐村城の対岸神社敷地にも城跡遺構らしき跡がある事を考えれば、集落入り口を南北から挟んだ構造は、正しく古来からの集落を中心とした防備の一環の様にも見受けられます。この城跡自体は無名に近く深く追求する程のものとは思えないのですが、一度乗りかかった船でもあり、個人的には再訪が叶うかどうかは分かりませんが、これから訪城準備のあった方、あるいは気に留めていた方にのみ参考になれば幸いでもあります。尚、付近には天寧寺山城も存在する事から、当時この大呂地区一帯を支配していた桐村氏の勢力を知る上でも、前回掲載の(暫定)桐村城跡は(仮名)桐村東城としてそのまま掲載は据え置くつもりでおります。 

2009年6月21日 (日)

TAKUよりお知らせ

先月「城跡呼称に関して訂正」の必要があると掲載しました、兵庫県豊岡市にある海老手城並びに森津城が、今回の現地訪問によって本来の城跡の場所の確定、及びその実態まで明らかになりましたのでお知らせしたいと思います。

まず海老手城跡の方は前回現地情報より推察お知らせした通りに、最初に海老手城と紹介した城跡より南側の国道及び川を隔てた対岸の低山に位置している事が判明しました。とすれば最初にリポート掲載に及んだ城跡の呼称は、、?と言う事になりますが、この地域には城跡(砦)が密集しているといった現地情報からも、未だ呼称の特定までには至っておりません。もちろん付近住民の方数人に訪ねても存在すら知られていない状況でもあり、当然出版物あるいは資料にも登場していない無名の城跡とも見受けられ、これから先も城跡としての呼称の特定は期待出来そうにないのが現実でもあります。ただ深く但馬史あるいは郷土史に関わっておられる方であれば、明確に判別可能な土塁あるいは堀切が残存している事からも、案外知っておられる可能性はあるとは思えますが、、。

取り合えずこの城跡に関してのリポートは、現在編集中の本来の海老手城とも紛らわしくなって来るので一旦削除したいと思いますが、城跡概念図の方はこれから山城巡りの一環として訪れる方もおられるかも知れず、森津城に隣接している事からも登城ルートと共に、引き続き呼称判明までは森津城と同時掲載をし続けるつもりでおります。もちろん呼称が判明次第報告はしたいと思っておりますが、お薦め出来るほどの見応えのある遺構が残っている訳でもなく、余り深く追求する必要は無いのかも分かりません、、、

一方森津城跡の方は最初にリポート掲載をした城跡の谷を隔てた直ぐ東側の山上に本来の森津城(今回のケースでは便宜上本来の、、と呼ばせて頂きました)があることが判明しました。此方の城跡は一部の城跡に詳しい方の話によれば「どちらも森津城であり別に城跡を分けて考える必要もなく、二城一体とした形態であるなら規模の小さい方が出城かも知れない」と言った見解でもあり、取り合えず既に紹介した規模の小さい森津城は掲載する分には紛らわしいので、差別化する意味合いで森津西城と訂正し直して、新しくリポート掲載に及ぶ森津城跡の中にそのまま掲載する形にしたいと思います。どちらの城跡も現況リポートに関しては現在編集中でもあり、近日中に掲載に及びたいと思っております。

尚、開設以来ほぼ毎日更新を続けて来ましたブログですが、流石にここに来てプライベートも含んだ諸事情により、毎日の更新が困難となりました。訪問はしたものの掲載が追いつかず未掲載のままになっている近畿圏外の山城もまだ数多く残しており、これから毎日の更新が困難ともなれば、当然リポートとしての鮮度も落ちる事にも繋がるので、これから先も日の目を見ることも無く終わってしまいそうかと思うと少し残念な気はします、しかし拠点に近い京都府、大阪府、兵庫県の中に限っては、訪れた山城はほぼリポート掲載に及ぶ事が出来ましたので非常に満足はしております。

これからのブログ掲載は不定期になるものと予想されますが、数十年来続けて来たライフワークとしての山城巡りの回数が極端に減る訳ではありませんので、時間の許す限り編集しながら情報鮮度が落ちない程度に城跡リポートは発信して行くつもりでおります。ブログ更新回数は減るとは思われますが、これまで同様山城訪問におけるアシストとして「山城賛歌」を活用して頂ければ、自分にとってもこれ以上の喜びは無いものと思えます。

2009年5月23日 (土)

城跡呼称の訂正

結論から先に述べさしてもらえれば、最近頻繁に訪れている但馬地方における山城巡りの中で三月分のブログに掲載しました、豊岡市にある海老手城及び森津城がブログ外での現地(聞き込みネタ)情報を元にしてまとめた結果、呼称を取り違えているか、あるいは本来は別に城跡呼称があるのではないか思われる事が発覚しました。

ただネタ元も「確証は無いが」、、との事なのですが、現地情報によればこの周辺には小規模な山城跡あるいは砦跡なら無数にあるとの事でもあり、城跡呼称誤認の可能性はかなり高そうに思われます。現状では推察に過ぎませんが、この海老手城と紹介した山城の川を隔てた南側に位置する山上が、本来の海老手城の場所ではないかと思われます。とすれば紹介した城跡遺構はその出城(砦跡)あるいは全く別の呼称を持った城跡とも推察されますが、現時点では追跡リサーチ不足のせいもあって明確な判断は下せておりません。森津城の方は縄張り妙味はあるものの余りにも小規模である事から、本来直ぐ近くに存在すると思われる森津城の出城、あるいは逆に海老手城の出城(砦跡)とも考えられますが、これも現時点においては確証を持てるまでには至っておりません1route1

今回(三月時)ブログ掲載した事によって既に訪問された方もおられるかも分かりませんが、現時点では聞き込みネタ情報だけの事でもあり、誤認と確信する材料も不足している事から、近いうちに再び現地を訪れて本来の城跡呼称を再確認すると同時に、間違いがあれば再びこの場を借りて訂正をしたいと思っております。

もしブログ読者の方に、この本来の二城を既に訪れて呼称の確認まで取られた方が居られるのでしたら、曖昧な情報でも一向に構いませんので、コメントとして書き込んで頂ければ非常に助かると共に有難く思います、よろしくお願い致します。

2009年2月24日 (火)

是非読んで頂きたい事項

TAKUです、最近個人的にも伊賀の高土塁に魅せられて山城巡りも三重県に行く事が多いのですが、久しぶりに掲載した奈良県の城跡に関して先頃読者の方よりコメントを頂戴(非常に無礼な内容と感じられたので既に削除)しました。内容はもう少し掘り下げたリサーチを要求したものであり、遺構の誤認などの指摘、おまけにブログ内容にもダメ出しと、非常に困惑するところでもあります。しかしながら本来このブログを開設した趣旨、あるいは城跡の独自による訪問リポートをご理解出来ないまま、少し勘違いされている読者の方もおられる事が今明らかになりましたので、ここでもう一度改めて「山城賛歌」開設における趣旨をはっきりさせておきたいと思います。

ブログトップページに記載した様に、この訪問リポートは城跡を自分自身の目で見て回ったリアルな現況報告、あるいは城跡の遺構でありその状態などを自分の独断と偏見で以って、他の情報に出来るだけ捉われない素直な感想を掲載する事を大前提として成り立っているものであり、自ずと遺構見学された方との遺構判別による見解の違いも出てくるし、遺構などの確認においてはあくまで外見からの判断によるものでもあり、誤認も生じて当然だとも思っております。数100年の時を刻んだ城跡には相当な風化あるいは現在に至るまでの民間あるいは個人よる地形改変(堀切など)があって然るべきだとも思います。専門家でもない一山城ファンが外見からの地形判断で当時の遺構の判別などは至難の技であると思うのが個人的な見解でもあり、縦堀などに至っては後世の木材切り出し道もある事から判別には困難を来たすのも当たり前の現実です。しかし、判別出来ず謎が多いから遺構と目に映ったものに対して機能などの想像が膨らみ、当時に思いを馳せる事もロマンに浸る事も出来ると言えるのです。ブログ中でいつも述べているように遺構は見学者が現地で見たままを素直に感じて判断するのが一番適切な事でもあり、このブログは城跡未訪の方の為の単なるアシストに過ぎません。

自分の城跡訪問のスタンスとしては出来るだけ外部の情報(現地における縄張り図など)、公的な調査結果などに捉われず、城跡をこつこつと歩き回って現状己が見たままを概念図として作成(当然正確なものにあらず)し、己の感じたままの感想を掲載するのが目的でもあり、城史あるいは遺構に関しての調査報告結果までは今後も深くリサーチするつもりも準備もありません(多くの時間が必要とされるから)、もしそれを望まれるのであれば迷わず他のサイトに移動される事をお薦めします。あくまでも個人的に城跡を訪問して感じられた独自の主観のみをリアルに現状報告として掲載するのが趣旨であり、それによって遺構の判別は訪れた方が現地でそれなりに判断を下すのが城跡巡りの一番の楽しさだとも考えます。

単純にこの訪問リポートをきっかけとして訪れた方に山城巡り(山登りも含めた自然との触れ合い及び遺構見学)の楽しさを味わって頂きたいのが願いでもあり。その結果として訪れた方が満足感を味わえ、更にその上で同じ感動を共有、あるいは味わう事が出来たなら自身の目的はほぼ達成されたとも言えるのです。くれぐれもこの訪問リポートは専門的に城跡を追求したものではないとご理解して頂いた上、軽い気持ちで「山城賛歌」を拝見して頂ければ自身にとっても非常に満足の行くブログになると感じられます。

今年も暖冬ではありますが山上付近には積雪のある地域も多く、足元には充分気をつけて山城巡りを楽しんで頂きたいと思います。

2008年12月29日 (月)

「山城賛歌」本年度最終章

「山城賛歌」のTAKUです

2008年は残すところ後、二日ほどになりましたが、このブログ「山城賛歌」も開設して既に半年を経過する事となりました。過去二年間における山城巡りのリポートは、新しく訪れた分も併せて整理しながら掲載し、ブログを毎日更新する事によって意外に早く予定を消化する事が出来ました。現在やっと近畿圏に限れば八割程度は掲載に及ぶ事が出来ましたが、未整理状態の近畿圏外の城跡に関しては来年より少しずつ掲載して行く予定ではおります。

取り合えず今年におけるリポート掲載は12/29日を以って区切りとし、来年からは今年の様に毎日のブログ更新とは行かないかも分かりませんが、出来るだけ鮮度の高い山城情報をいち早くブログに載せて行きたいと思っております。尚、正月を挟んだ一週間はプライベートを含み、山城巡り(天気は悪いらしいが、、)に更に拍車をかけるつもりでいますので、1/4日まではブログの更新は流石に無理となりますが、この結果としての訪問リポートは、来年1/5日掲載を以っての第一弾として予定しておりますのでご期待下さい。

尚、ブログを開設して以来激励を頂戴した方々、コメントを寄せて頂いた方々、毎日あるいは定期的にでもブログを御覧になられている読者の方々には、これからも期待に沿えるべく、なるべく歴史からも遠ざけられた、あるいは情報不足の山城にも目を向けながらの基本方針は崩さず、簡潔に情報を掲載して行くつもりでおりますので、是非来年も期待して「山城賛歌」をご拝見下さい。今年掲載した訪問リポートが、少しでも山城訪問の手助けになれたのであれば、自分としても本意であり非常に満足でもあります。

来年も山城を愛する御同胞の方々と、今年以上に感動を共有出来る素晴らしい山城と巡り合う事が、自身最大の希望でもあり願いでもあります。

尚、本年度ラスト更新分として予定している城跡は、但馬地方にあっては小型の山城ながら、超技巧的な畝堀が素晴らしいと思えた大江堀城跡の予定です。今年度最後を飾るに相応しい、正に推奨に値する山城でもあり現在急遽編集中です。

 

2008年7月14日 (月)

ブログを開設しました

本日よりブログ「山城賛歌」を開設しました。

趣旨としては山城巡りをする事による自然との触れ合い、あるいは遺構見学の楽しさをより多くの方に知って頂く事であり、自分自身が過去に訪れた主に近畿圏からその周辺の山城跡の紹介及び感想、又これから訪れる事になる山城跡を出来るだけ外部の情報に捉われず、己の目で見たままを城跡概念図として作成し、己の見たがままの素直な感想を鮮度の高い現況報告として載せていく事でもあります。

まだ情報資料の乏しい城跡あるいは一度も紹介されていない城跡遺構も数多くあると思われますが、そういった城跡にも出来るだけ足を向けて現地の情報及び感想をリアルに伝えて行くつもりです。このブログは山城巡りにおいて必要とされる部分へのアシストでもあり、これをきっかけにして山城に興味を持って頂ければ非常に満足でもあり、更にこれから訪問される方あるいは既に訪問された方々と同じ感動を味わう事が出来れば、自分にとっても非常に満足のいく結果となります。

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