次回更新についてのお知らせ
永らくお待たせしましたが、やっと「闘城賛歌」でのウォーミングアップが終わりました。
第一回目リポート更新は明日11月1日からとさせて頂きます。
リンク先「闘城賛歌」http://kt22fight.blog.fc2.com/
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TAKUです、およそ6年間に渡って近畿圏内における山城情報(約1100城)を発信して来ましたが、ここにきてブログでのサーバー許容量が残り僅かとなり、このままブログを更新し続ける事が困難な状況となってしまいました。もちろん書き込みコメントを受け付ける程度の余裕は持たせてありますが、これからの更新は続編として準備予定のある、ブログ「闘城賛歌(トウジョウサンカ)」で発信させて頂きたいと思います。
尚、サーバーが変わる事から、当ブログでの編集パターンやレイアウトに慣れ親しんで来られた方々には多少戸惑いもあるかも分かりませんが、「山城賛歌」における趣旨、あるいはスタンスは今まで通りそのまま受け継がさせて頂きたいと思います。尚、ブログ「闘城賛歌」でのハンドルネームはTAKUを改め闘城鬼(トウジョウキ)と名を変えて、新たな気分で山城に挑み続けて行く所存です。
ブログ読者の方々並びに山城ファンの方々には、これまで多くの山城情報あるいは励みとなるコメントを頂戴して来ましたが、自身のモチベーションを維持していく上においては心強くもあり、大きなアシストと成り得ております、当ブログをきっかけとして、初めて城跡巡りの楽しさを味わった方々も少なからずおられる事と思いますが、「闘城賛歌」で再び山城巡りの楽しさを味わって頂ければ幸いです。自身今まで「山城賛歌」はマニアックな男性城跡ファンの方々だけが対象のブログと勝手に決め付けていたのですが、昨今「歴女」なる読者の方も増えているようで、非常に満足のいく結果となっております。単独で女性が山城を訪れるには少し抵抗があるやも知れませんが、無名に近い城跡でありながら登山道の設置された山城も少なからずあります。この現況リポートによって上り易い登山道のある城跡を吟味して頂き、更にグループで示し合わせて訪れるのであれば、不安も解消されて一層楽しめるのではないでしょうか、、、
城跡は京都府福知山市二箇上にあって、集落北背後の低丘陵上に位置している。城史に関しては一色氏の居城が伝わり、現在主郭跡には「一色修理之亮義正」の名が入った石碑が祠と共にひっそりと佇んでいる。
城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた北有路城を起点とすれば判り易い位置にあるので、細かい訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、由良川に沿って南北に走る県道55号線に進入する事が先決となる。集落に辿り着けば登城ルート図を参考にして頂きたいが、民家庭先をかすめる(画像に注目)墓地へ向かう参拝山道を利用して上る事になる。墓地から先は概念図を参考にすれば分かり易いが、林道から眼に留まる旧配水施設を目印として西側へ向かえば、直ぐにでも大堀切が迎えてくれる筈である。ちなみに林道を利用しても充分車で登れると思うが、道中における道路状況までは把握していないのでどうか悪しからず、、
城跡概念図
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、山上ほぼ30m四方に渡る主郭の占有面積は大きく、南郭や付随する腰郭なども含めれば、充分砦の域ははみ出た城跡という事にはなろうか。見所遺構として挙げられるのは先に触れた大堀切、並びにそれに伴う縦堀及びその切岸壁、高低差6mを誇る主郭切岸跡と言う事になるが、いずれも見応えは抜群なものであり、訪れた値打ちは充分感じられる筈である。現状(七月訪問)城跡は、それなりに見学し易い状況にあると思って頂いてもよいが、主郭跡には隙間なく小笹が蔓延っており、虎口のある南郭以外は青竹も蔓延り、麓に向かうほど藪化は相当進行している。故に腰郭跡などはくまなく動き回れる状況にあるとはとても言えないが、空堀跡なども含めて他で複雑な遺構が眼に留まらなかった事から、遺構見学としては充分満足のいくレベルにあると思って頂いても良いのかも知れない、、、(郭跡も含めて縄張りを極める事は至難の業)
西腰郭
城跡を個人的に評価すれば、見学材料は少し乏しいかも知れないが、主郭に佇めば充分臨場感が得られる事、たった一箇所ではあるが縦堀を伴う見応えのある堀切が拝める事、高低差を誇る切岸の醍醐味に触れられる事、これらに10分内で迷わず辿り着けるお手軽感まで加味すれば、充分お薦め出来る城跡の一つという事にはなろうか。
城跡は京都府福知山市牧にあって、牧集落の北背後に聳える標高約370m(比高約300m)の険峻極まりない山頂に位置しているが、自分にとっては三年ほど前、堂屋敷城南城砦群を訪れた際、尾根上数箇所に渡って展開された広範囲に渡る城郭遺構のお陰で、本郭群を極める事が叶わず、東峰(標高375m地点)の広い削平地を覗いただけで気力も体力も尽き果て、後ろ髪を引かれる思いで踏破断念した苦い記憶の残る山城の一つである。今回はその直登道中で思いもかけず眼に留まった砦跡を先にリポートしたが、今回はそのリベンジともいうべき訪城となった。
城跡を訪れるには、先にリポート掲載に及んだ(仮名)牧北砦跡と同様の訪問ルート、あるいは登城ルートとなるので今回は割愛させて頂くが、牧北砦跡Bからは尾根に沿って真北に向いて上ればよい。その直登道中において城郭遺構は眼に留まらなかったが、山頂斜面手前では明らかにそれと分かる痩せ尾根の両岸を削った明瞭な土橋地形(画像に注目)を眼にする事が出来た、、、、長い道程とはなるが藪こぎもなく40分程度で迷わず辿り着ける筈である。
城跡概念図
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、郭総全長は40m程度で、それに帯郭の付随した砦規模の山城と思って頂いても良いだろう。山上本郭群の東西には堀切が施されており、現状西尾根を断つ堀切は地表風化が激しく明瞭なものを拝む事は出来ないが、土橋地形あるいは僅かに窺われる縦堀地形で直ぐそれと分かるだろう、東斜面側の堀切は縦堀は伴っておらず、自然露岩を受け土塁の代用とした、武者隠し的な空堀と思って頂ければよいかも、、、見所遺構と呼べそうなものは概念図に記したが、帯郭から立ち上がる高低差を誇る切岸、あるいは下草の蔓延らない状態の良い切岸といったところも決して見逃してはならない遺構の一つだろう。
東堀切見所
現状(七月訪問)城跡は、認知度の非常に低い山城としてみれば(推察)、それなりに見学し易い状態が自然維持されており、概念図に描いたまでの遺構の判別は容易く、動き回り易い状況にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価すれば、砦規模の城跡に縄張り妙味までは望めず、更に城郭遺構に見応えまでは感じられなかったが、険峻極まりない山頂に城跡が佇む様、あるいは山頂の両サイドを切岸化して築かれた様は、「正しくこれぞ山城!」と呼ぶに相応しいものであり、自分と同様に山城をこよなく愛する人にとっては、充分お薦め出来る山城の一つと言えるだろう。この堂屋敷城は城域があまりにも広域に渡る事から、南城砦群までも含めた同日訪問は少し厳しいと思えるが、堂屋敷城の本質を究める意味においては、登城ルート図に集約される東西両尾根に点在した郭群の見学は是非お薦め!もちろん直登山に慣れた山城ファンの方々のみが訪城の対象となるが、、、
城跡は京都府福知山市牧にあって、以前「新しく発見された山城」として堂屋敷南城砦群をリポートした事があったが、その南城砦群の中の南先端郭からみて、谷状地形を挟んだ直ぐ西側の尾根先端部に位置している。この二砦跡は現状まだ調査報告されていない城跡と見受けられたが、自身が本来訪れるべく堂屋敷城山上本郭群を目指して登りかけた直登道中において偶然眼に留まったものであり、二箇所における明瞭な空堀跡(縦堀も含む)及び僅かに窺われる土塁跡、並びに削平地と、城郭遺構は丘陵先端部二箇所に渡っている。この二砦跡の機能から察すれば、この地より尾根を更に北へ上った山頂に位置する堂屋敷城の出郭跡という事も考えられるが、山上本郭群と区別する為に、今回は字名を採用して牧北砦跡とし、更に二箇所に分かれた郭群においては砦跡A、砦跡Bとした。既に認識されて調査報告もされた城跡かも知れないが、城跡呼称に関しては何時もの様に柔軟に対応して頂きたい。
城跡を訪れるには、堂屋敷南城砦群を起点とすればその位置も直登取り付き地点(登城口詳細図参照)も判り易いと思われるので、細かい訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、車を停めて5分程度で砦跡Aには辿り着けよう。
城跡概念図
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、二砦跡のどちらにも郭背後には堀切が施されている。特に物見程度の機能が想像される、狭小郭砦跡Aの背後における堀切は明瞭なもので、片側は縦堀となって数十m西斜面に連続しており、充分見応えの感じられる遺構となっている。もちろん堀切背後にはお定まりとも言える土橋(画像に注目)も施されているが、これは後世における山林事業の為に施されたものかも知れない、、、 砦跡Bの郭跡背後には僅かに半分欠けた土塁及び薄い堀切跡(片側は明瞭な縦堀)、更に片側が郭跡と地繋がりの土橋(画像に注目)が見て取れるが、この土橋も砦跡Aにおける土橋と同様に、後世における山林事業用に施されたものとみてまず間違いのないところか、、、謎。
城跡を個人的に評価すれば、物見程度の城跡ではあるが二箇所における見応えのある縦堀が拝める事、それに更に圧倒的お手軽感も加味すれば、充分訪れる値打ちのある城跡という事にはなろうか、、もちろんこの後リポート予定している堂屋敷城(山上本郭群)と併せた同日訪問、あるいは南城砦群と併せた同日訪問が前提という事にはなるが、、、
今回取り上げたこの三氏城は三重県伊賀市中友田にあって、生活道路によって菊永氏城は少し隔てられているが、深井氏城と中友田東城はほぼ隣接した低丘陵上にある。ちなみに菊永氏城は城址碑が道路沿いに備わるだけで、その内部は深刻化した藪化によって、踏破は極めて困難な状況にあると思って頂いても良いだろう。もちろん近年における生活道路造成工事によって、当時の遺構はほぼ壊滅したものと察せられた事から、雑木林の中を覗くまでには及ばないと思われるが、、、、城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた中谷氏城を起点とすれば分かり易い位置にある事から、城跡までの細かいアクセス法は割愛させて頂くが、目印とした鞆田郵便局から車を預ける事になる集会所まではルート図を参考にして頂きたい。集会所脇を抜けてその背後から西に向いて丘陵上を歩けば、直ぐにでも深井氏城に辿り着ける筈である。更にそこから少し西に歩いた場所に中友田東城があるので、遺構見学とすれば二城同日訪問は当然考慮の対象となるだろう。
城跡の形態は、丘陵上全域が竹林雑木藪地となっている為、両城共に見通しも利かず、更に郭内部の踏破も叶わなかった事から、今回は遺構を示した概念図すら描けなかったが、伊賀では普通にお目にかかれる、土塁の施された定番の居館跡と思って頂ければ察しも付き易いだろう。中友田東城には土塁背後に横堀(画像に注目)が施されていたようだが、深井氏城では全体踏破出来なかったせいもあって、お目にかかる事は叶わなかった。現状(六月)両城共に藪化は深刻化しており、郭内部は蔓延る青竹や低草木によって、探索踏破は非常に困難な状況にあると思って頂いても良いだろう。当然見通しも利かないので低土塁などは傍に寄っての確認は余儀なくされるが、高土塁を形成すべく切岸壁は、青竹の隙間から何とか確認可能(画像に注目)と言ったところか、もちろん郭内部に佇み臨場感に浸るまでには、とても至れなかった事は言うまでもないが、、、
深井氏城土塁内壁
中友田東城土塁上
城跡を個人的に評価するのであれば、遺構のほぼ壊滅した菊永氏城は別として、この二城は遺構見学としても史跡見学としても、とてもお薦め出来る物件とは言えないが、「城跡の現況報告として、少しでもお役に立てたのであれば由としたい」、と言ったところになろうか、、、
城跡は三重県伊賀市下友田にあって、先にリポート掲載を終えた竹内氏城とは同じ丘陵を共有したものであり、その痩せ尾根上を切り込んで仲良く郭を並べた様は、正しく竹内氏一族の城と呼んでよいものとは思われる。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、竹内氏城と同じ登城ルートを辿る事になるので、今回は割愛させて頂くが、竹内氏城からは二重堀切を越えれば直ぐに辿り着けよう。
城跡概念図
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、竹内氏城とは東側を二重堀切によって遮られており、その主郭の土塁西端には尾根を断つ堀切が設けられている。この堀切は両岸が縦堀となって落ち込み、更に明瞭な土橋も備わるが、これは風化に任せたまま現在に至った当時の土橋とみて良いものかも知れない、、、土塁は高土塁として郭北背後に施されているが、本来は東西両翼にも施されていたのではないだろうか、、謎。主郭は現状不整形であるが、郭南側は一部崩落した形跡があり、本来の形状は見学者の想像に全て委ねられよう。
土橋付堀切見所
縦堀見所
現状(六月)城跡は竹内氏城と同様、比較的見学し易い状況にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価するのであれば、伊賀の居館跡らしく縄張り妙味には少し欠けるが、圧倒的お手軽感、比較的高い遺構残存度、鋭角に削り落とされた切岸の醍醐味、更に堀切の醍醐味にも触れられる事を思えば、当然お薦め出来る城跡と言った事になるだろう。