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2014年9月

2014年9月28日 (日)

堀切と切岸が見所 竹内氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市下友田にあって、先にリポート掲載を終えた雨請山城の真南側の丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明だが、名が語る様に竹内氏居城と伝わっている。雨乞山に近隣の士豪等と立て篭もった山内氏と運命を共にしたものか、、、

城跡を訪れるには、先に触れた雨請山城を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、城跡までの細かいアクセス法は割愛させて頂くが、集会所に車を預けた後は、ルート図の赤ラインを辿って頂ければよい。淨光寺前を通過して向かう事になるが、獣避けフェンスを開閉後(画像に注目)は、左手側の荒地を通過して斜面に取り付けばよいだろう。数分で便宜上の東郭に到達出来る筈である。

1route登城ルート

3tk_2城跡概念図





城跡の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても差し支えないとは思うが、規模の大きい東郭は、全体踏破も出来ないほど低草木に覆われており、更に近世においてどこまで農地として地形改変があったものかは想像も付き難く、郭形状や規模、あるいは僅かに窺われる土塁痕は推察を交えたものと思って頂きたい。現状を覗いた限りでは、ほぼ四郭構成の城郭で、西奥が主郭と察せられるが、痩せ尾根自然地形を切り込んで構築されたと見えて、主郭、副郭共に背後に施された土塁は上り土塁の様な形状をしており、その北背後は全て谷状地形まで鋭角に削り落とされた、見事な切岸壁となっている。他では同じ丘陵を共有した西側最奥に位置する、寺坂間を遮る形の土橋付大堀も挙げられるが、縦堀が麓近くまで連続する様は木々の少なさも幸いしてか、その全体像が窺えるものであり、これも見応え抜群の城郭遺構と言って良いものだろう。実際には寺坂城における縄張りも共有していると考えられるので、外見は二重堀切(画像に注目)と言う事になるが、、、

7_doruikon東郭、土塁痕

11_nobori_dorui副郭上り土塁見所

13_shukaku_2主郭内部

14_shukaku_dorui_1主郭土塁

15_2jyuu_horikiri二重堀切見所

17_tatebori_1

縦堀見所

現状(六月)城跡は、藪化は相当進行中にあるが、郭内部はともかくとして、痩せ尾根土塁上を移動すれば郭移動に難渋することも無く、先に挙げた遺構は全て判別確認も容易く、それなりに見学し易い状態が自然維持されている。ただ同時に地表風化も進行しているので、曖昧な地形と化した土塁最高所における櫓台などは、推察を含んだものと思って頂きたい。城跡を個人的に評価するのであれば、先に触れた切岸の醍醐味、更に堀切の醍醐味まで含めれば、自ずと「お薦め出来る城跡の一つ!」という事にはなるだろう。この後リポート掲載予定の寺坂城も併せれば是非お薦め!

2014年9月24日 (水)

鷹山飛騨城跡/中谷氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市上友田にあって、先にリポート掲載を終えた高殿城からみれば、その最高所から派生する南東尾根先端に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、その名が語る様に鷹山飛騨守の居城として伝わっている。

城跡を訪れるには高殿城を起点とすれば一目瞭然の位置にあるので、城跡までの細かいアクセス方法は割愛させて頂くが、673号線からは概念図中に示した赤ラインを辿って頂ければよい。池の畔まで辿り着けばそれらしい切岸(右手側)が直ぐ眼に留まるが、それは高土塁を形成する切岸でもあるので、既に城域に入った事が分かる筈である。

1route登城ルート

3_t_2城跡概念図





城郭の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、伊賀では定番とも言える方形居館跡としての縄張りプランと思って頂ければ良いだろう。土塁は主郭四方に巡らされており、高土塁と分厚い低土塁に明確に分類されるが、一部南側に消失した痕跡が残る事から、土塁は完存とはとても呼べないものである。空堀は高土塁背後に施されてあったのかも知れないが、低草木で覆われ地表も露見していないこの状況を思えば、見極めるのは至難の業とも思えたのである。切岸に関しては土塁西外壁で見事なものを拝むことが出来るが、他は余り期待しないほうが良いかも知れない、、、。

10_obi_nisiheki帯郭より高土塁外壁見所

11_dorui_naiheki高土塁内壁

12_shukaku_teidorui_1主郭と低土塁

12_shukaku_teidorui_3低土塁上

現状(六月)城跡は、地表も露見していないほどの下草で郭内部は覆われており、その南側や東側も藪化が随分進行してはいるが、植林地にある事から見通しが利き、何とかその全体像が窺える状況にある程度と思って頂ければ良いだろう。城跡を個人的に評価するのであれば、圧倒的お手軽感はあるが、農地として近世相当な地形改変が窺われた事(個人的主観)や、それが故の遺構残存度の低さ、あるいは見学材料がほぼ切岸と土塁のみに限られる事を思えば、高殿城を訪れたついでに寄る程度、あるいは城跡巡りの一環として立ち寄る程度の城跡といった事になろうか。もちろん状況がこれから良い方に、少しでも改善されるのであれば話は別になるが、、、、

尚、ルート図中に個人的に造成農地として当時の祖形はほとんど失われている、と判断した中谷氏城も記したが、かつての主郭となる広大な農地北背後には、僅かに高土塁の一部が残り、その背後には僅かながら空堀の痕跡(画像に注目)が見受けられたので、興味を持たれた方が史跡見学として訪れる分には、決して無駄足には終わらないかも知れない。

3中谷氏城跡概念図

1主郭跡の現状

2土塁及び空堀跡

2014年9月20日 (土)

四方土塁を含めた遺構はほぼ完存か 高殿城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市上友田にあって、当時は上友田集落が見通せたと思われる丘陵最高所に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、当時甲賀に抜ける街道が今回登城ルートとした林道と重なる(現地ネタ)事、あるいはその規模を思えば、この城跡の機能は峠監視用の見張り城と考えるのが妥当な所かも知れない、、、ちなみに現地で城跡はクランドと呼ばれており、麓にお住まいの年配の方にとっては、幼少期における絶好の遊び場(かくれんぼが想像出来る)であったそうである。

城跡を訪れるには673号線に進入する事が先決となるが、道路沿いにある「鞆田郵便局」を目印として目指せば分かり易いだろう。城跡までの進入経路はルート図中に示したが、生活道路の途切れる住宅最奥にあるガレージをかすめれば、更に林道に任せて峠を目指せばよい。峠はかつての深い堀切(現状切り通し)の様にも窺えたが、そこから右手の切岸斜面を上り切れば、直ぐにでも土塁上に佇む事が出来よう。ちなみに路肩(画像に注目)に車を停めて10分程度の所要時間。尚、西方からも最短ルートとなる林道が地図に描かれているが、その道路状況までは把握していないのでどうか悪しからず、、、

1route2登城ルート

5進入経路

3_2城跡概念図





城跡の形態は、縄張りが丘陵最高所だけに限られると思われた事から、自作概念図に限りなく近いものと思って頂いても差し支えないと思うが、伊賀では定番とも言える郭四方に土塁を巡らした方形居館跡、あるいは見張り城と呼ぶに相応しいものである。ただし小規模ではあるが、分厚い高土塁背後には尾根を遮る形で幅のある空堀(横堀)が施されており、低土塁も含めた土塁はほぼ完存に近いものであり、南側に開いた土塁虎口跡、あるいはかつての堀切と思われる切り通しと並んで、充分見学者の眼は楽しませてくれる筈である。もちろん岸の醍醐味(郭側壁)にも充分触れる事が可能であり、このほぼ完存に近い佇まいそのものが非常に値打ちあるものと自分の眼には映ったのである。

10_kirigisi_2西切岸見所

13_karabori_1空堀(横堀)見所

16_dorui高土塁上

20_shukaku主郭と土塁見所

17_dorui_naiheki_1高土塁内壁見所

21_koguti

虎口跡見所

22_koguti_kaku_2虎口郭




現状(六月)城跡はそれなりに藪化は進行しているが、遺構見学に差し障るまでには至っておらず、近年村人の入った形跡のない山城としては、非常にましな状態にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価するのであれば、高い遺構残存度が物語る縄張りの掴み易さ、遺構(特に土塁)の見応え、更にお手軽感まで加味すれば、自ずと「規模さえ問わなければ是非お薦め出来る城跡の一つ」、と言った事にはなるだろう。

2014年9月16日 (火)

天若世木林城跡(京都府南丹市)

城跡は京都府南丹市天若世木林にあって、日吉ダムによって堰き止められた人造湖「天若湖」に向いて細長く突き出した、半島状の尾根先端部に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには50号線に進入する事が先決となるが、50号線からの進入経路はルート図を参考にして頂きたい。車止めからは徒歩で尾根先端を目指すことになるが、唯一とも言える直登取り付き口は、かつての駐車場(広場)となる向かい側の切岸工事された斜面(画像に注目)で、そこをスタート地点として丘陵上に向いて強引に上れば、直ぐに空堀が迎えてくれる筈である。

1route_3登城ルート

3s_1城跡概念図





この城跡の存在と所在地をを知り得たのは、京丹波地区を中心に山城巡りをされている方からの情報によるものであるが、その方曰く「訪れたものの城郭遺構が長い丘陵上のどの部分に当たるものか見当が付き難かったので、一度機会があれば訪れて遺構の確認をして頂きたい」、と言った内容のものであった。もちろんそこまで頼りにされるのであれば、断る理由は何一つなかったので、情報を頂戴してから少しばかり月日が経ってしまったが、やっと訪れる機会に恵まれたので、今回はその結果も兼ねた現況リポートと相成った。

城跡は情報を頂戴した通りの尾根先端部に当たり、アバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、削平された郭総全長40m前後の本郭群の東背後には片堀切(縦堀)、更にその痩せ尾根を跨いだ反対側には、自然地形に近いが巨大とも言える空堀地形が見て取れた。よって結果的にこの地が間違いなく城跡であると個人的に判断を下した事になるが、現状城跡に関しての情報は、確かな所在位置も含めて皆無に近いものであり、城郭遺構としての正否の判定に対しては多少の不安が残る事から、これを機に臨まれる方にも是非その判断を下して頂きたい。個人的には更に南側尾根上も踏破したが、ここまで削平された地形や空堀地形は眼に留まらなかった。郭間及びその側壁における高低差を伴う切岸、あるいは尾根を断つ明瞭な空堀(横堀)でもあれば、間違いなく百パーセント城郭遺構と断言出来るのだが、、、、

5tatebori縦堀

7_horikiri_gawa_one堀切側尾根

11_kaku_2主郭

9_sentan_kaku北端郭

10_sentan_kirigisi北端郭切岸




2014年9月12日 (金)

山内氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市下友田にあって、先にリポート掲載を終えた雨請山城からみて東端枝尾根上に位置しており、その名が語る様に雨請山城を詰城とした、山内氏の居館跡と伝わっている。

城跡を訪れるには、一部雨請山城と共通する登城ルートとなるので、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、集会所からは登城ルートに示した赤ラインを辿って頂ければよい。途中分岐地点に山内氏石碑が建立されているが、傍にある道標に従えば迷わず登山口までは辿り着けよう。城跡への最短進入経路は、獣避けフェンスを開閉した先にある、雨乞山登山口道標手前(画像に注目)の畦道になるが、そこから尾根上を目指して直登すれば、数分で空堀が迎えてくれよう。

1route2_2登城ルート

6_tyokuto_kuti直登取り付き口

3_2城跡概念図




城跡の形態はシンプル極まりない事から、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても差し支えなさそうに思うが、伊賀では定番とも言える郭四方に土塁の張り巡らされた方形居館跡思って頂いてもよいだろう。お定まりの空堀は土塁北側と西側の二方に施されているが、西側の空堀(横堀)は深さはあるが、途中で消滅した形となっており、当時は北側の空堀(縦堀)と繋がっていたとも考えられるが、これは見学者の判断に委ねられる部分となるだろう。北側の空堀は随分深さは失われているが、高低差を伴う土塁あるいはその鋭角に削り落とされた切岸と相俟って、見応えは充分なものとなっている。他見所遺構としては土塁虎口跡や、主郭側壁を形成する切岸も挙げられるが、南下段郭まで落ち込む高低差を伴う見事な切岸、あるいは先に触れた北側土塁外壁となる切岸は、間違いなく見学者の眼を楽しませてくれる筈である。

8_shukaku_1主郭内部

13_koguti_2東虎口跡見所

14_koguti_sita虎口下 

15_haigo_daidorui_2高土塁内壁

18_kita_karabori_2北側土塁と空堀見所

23_minami_heki南切岸見所

25_minami_kaku南郭

現状(六月)城跡は、載せた画像でお分かり頂ける様に、植林地にあるお陰で蔓延る草木は少なく、更に見通しは利き、遺構見学とすれば判別確認もし易い、非常に楽しめる状況にあると思って頂いても良いだろう。ただ全体的に地表風化は進行しているので、想像に委ねられる部分(郭内部や土塁の形状、空堀の形状)は多く、これを機に臨まれる方には見学し易さも含めて、是非見たままを楽しんで頂きたいと思えたのである。山城巡りとすれば効率の良い、雨請山城と併せた二城同日訪問は充分お薦め出来るだろう。

2014年9月 8日 (月)

伊賀の士豪等が立て篭もった山城 雨請山城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市下友田にあって、標高268mの「雨乞山」山頂に位置している。城史に関しては、伊賀の乱においてこの山を詰め城として、一族や近隣の士豪と共に立て篭もった山内氏の活躍が伝わっているが、その後の詳細は不明

城跡を阪神側から訪れるには、名阪国道「下柘植」ICが最寄の乗降口となるが、そこからは133号線に進入して北上すればよい。ルート図中にある鞆田橋から673号線へ左折すれば、今回車を預ける事になる集会所までは直ぐの距離にあるが、その駐車場の片隅には登山道を示した案内板が掲げられているので、それに従えば迷わず山頂までは辿り着ける筈である。ちなみにルート図中に示した山内氏城(居館跡)のリポートはこの後になるが、直接山頂を目指すのであれば、15分程度の所要時間と思って頂ければ良いだろう。

1route2登城ルート

9登山口

2_1山頂案内説明板より

3_s城跡概念図




城跡の形態は、山上本郭群だけを記した概念図を参考にして頂きたいが、山頂を主郭として東側に郭を六段程度重ねたものであり、その本郭群両端、あるいは郭間に空堀の類は施されてはいないようである。土塁は痕跡程度のものを主郭東端で確認出来るが、造成整地後の残土とも見受けられるものであり、これは見学者の判断に委ねられるだろう。切岸は東郭群における郭境、あるいは側壁で状態の良い明瞭なものを拝めるので、遺構見学とすれば何とか面目は保たれると言ったところか、、、、尚、登山道を少し外れた二箇所の東尾根(ルート図参照)では、居館跡とも推察される土塁の施された広い郭跡(画像に注目)、更にその直ぐ南側尾根では、切岸跡の明瞭な砦跡(東出郭)を眼にする事が出来るので、この山城の本質を究めたい方には、道中直ぐの距離にあるので、ついでにそちらまでは足を延ばして頂きたいと思うのである。

11_sita_kyokan土塁の施された居館跡か見所

14_higasi_demaru_1東麓出郭切岸

22_higasi_dankaku_gun_226_kaku_2山上東郭群

25_sokuheki切岸見所

33_shukaku


主郭



現状(六月)城跡は、山頂に史跡としての案内説明板が備わっている様に、史跡見学としては、それなりに見て回り易く整備された状態にある。恐らく四季を通して見学し易い状態は維持されているものと察せられるが、山上を削平しただけに終わっている城郭に、縄張り妙味までは求められず、山城ファンの方にとっては残存遺構に過大な期待を持って臨まない事が肝心となるだろう、、、城跡を個人的に評価するのであれば、遺構見学とすれば随分味気ない気がしないでもないが、当時に思いを馳せることの出来る城郭遺構が、軽い山登りで楽しめる事、切岸の醍醐味には触れられる事、見通しの利く山頂に佇めば充分臨場感は味わえる、あるいは登山道で迷わず登れる事なども理由にすれば、少ない材料ではあるが、史跡ファンの方も含めて充分薦め出来る山城の一つと言えようか。山城ファンの方に限れば、先に触れた山内氏城と併せた城跡巡りは是非お薦め!

2014年9月 4日 (木)

丸田斎宮城跡(京都府舞鶴市)

城跡は京都府舞鶴市丸田にあって、先にリポート掲載を終えた丸田宮ノ谷城からみて、真北側の丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、先に触れた丸田宮ノ谷城あるいは丸田東城を起点とすれば所在位置も分かり易いが、国道178号線「丸田東」の信号を目指し、その北側にあるドライブインダルマ」を目印として向かい側の道路に進入、後はルート図の赤ラインを辿って頂ければ、難なく直登スタート地点(画像に注目)までは辿り着けるだろう。ここからは勾配のきつい斜面をひたすら上る事になるが、藪こぎもなく主郭までは15分程度あれば到達可能である。

3_2_2登城ルート及び城跡概念図

4torituki直登取り付き口

城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、郭の展開が予想される東尾根上はうっかり覗くのを忘れており、今回は山上本郭群のみのリポートと思って頂きたい。ただこの城跡の本郭群の規模や形態を思えば、郭の展開は山上だけに限られるのかも知れないが、、、山上本郭群は尾根上の削平地及び狭い帯郭が主郭に付随したものであり、全長30m足らずの砦規模の山城と思って頂ければ良いだろう。堀切は直登道中の北斜面に施されているが、現状薄くなった縦堀を伴っており、取り合えず城跡唯一の見所遺構と呼ぶに相応しいものか、、。

6_horikiri_1堀切見所

7_tatebori薄い縦堀

9_shukaku_2主郭

10_haigo_kaku_2主郭背後

現状(五月訪問)城跡は、年間訪れる山城ファンも限られる、無名に近い山城としてみれば比較的コンディションは良く、数少ない遺構ではあるが、その楚々とした佇まいも含めて充分楽しめるものとは思われた。よって個人的に城跡を評価するのであれば、規模や縄張り妙味は一切望まないとの前提条件付きで、興味を持たれた少しマニアックな山城ファンの方にのみ、何とかお薦め出来る山城といった事になろうか。

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