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2011年7月

2011年7月31日 (日)

見所満載の探索冥利に尽きる山城 栗山城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は兵庫県豊岡市日高町栗山にあって、既にリポート掲載を終えた森山城から見れば、北西側の低山山上に位置しており、その北麓には現在「大渓寺」が建立されている。城史に関しての情報は現状皆無に近いが、この日高地方一帯は戦国大名とも呼べる垣屋氏惣領家のお膝元にあたる事から、自ずと垣屋氏一族、あるいはその息のかかった武将の城跡という事になるのかも知れない。もちろん推察の域は出ないが、山上尾根に連なる郭群の郭占有面積や、郭壁を全て切岸化して枝尾根全てに堀切を施した様は、多大な労働力を以って築かれた山城だという事を如実に物語っている。

城跡を訪れるには、先に触れた森山城を起点とすればその位置は分かり易いが、今回入山登城口とした「大渓寺」を目印として目指せば良いだろう。城跡へは概念図に示した如く、寺院本堂横(画像に注目)から墓地に繋がる参拝山道があるので、それを利用して山上に向いて上れば、便宜上の北郭群までは直ぐ辿り着ける筈である。主郭は北郭南端に施された堀切背後急斜面(比高15m前後の切岸斜面)を上り切った先にある。

1route 登城ルート

4enbou 城跡遠望

7 進入経路

3_1 城跡概念図

現状(七月)城跡は、実態の分からない知名度に欠ける他の山城と同様に、藪化は当然進行中にあるが、山上郭群には下草や木々が余り蔓延っていない(斜面は藪化中)せいもあってか、意外に見通しが利き、この時期でも遺構見学や郭移動に差し支える事も無く見て廻れる、人の手の入らない山城としては「それなりに良い!」と言える状態にある。概念図に示したものが城跡の大雑把な形態であり、自身が踏破した範囲、更に当時の遺構と判別確認に及んだものという事になるが、この城跡の最大の見所であり特徴となるのは、枝尾根を断つ堀切、主要な郭斜面に施された縦堀(空堀道もあり)、広大な規模を誇る便宜上の東出郭で、ある程度見通しの利く広大な東出郭跡に佇めば、そのただならぬ臨場感には圧倒されよう。堀切に関しては少なくとも五箇所でお目にかかれるが、縦堀に関しては全ての枝尾根を踏破した訳ではないので何とも言えない、、、とにかく概念図に示した限りには決して終わらない、縄張り妙味のある城跡と思って頂いても良いとは思われる。

17_shukaku_touheki_1 二ノ郭と主郭切岸

20_nisi_hakobori_2 西大堀切(箱堀)見所

29_2maru_minami_obi 二ノ郭切岸と帯郭

30_tatebori_1 東段郭群の縦堀見所

35_higasi_demaru_karabori 東出郭の空堀見所

40_minami_dorui_horikiri 南尾根を断つ堀切見所

37_higasi_demaru 広大な東出郭の一部

城跡を個人的に評価すれば、自身が過去訪れた但馬地方における大型の山城で、期待はずれに終わった山城は皆無に近く、この山城も遺構の見応え、縄張り妙味共に申し分のないものであり、期待はずれに終わる事は決して有り得ないと思えた事もあって、当然是非お薦めしたい城跡の一つという事にはなるだろう。既にリポート掲載を終えた出石にある中村城と同様に、これだけの山城が文献資料の類にはほとんど公表されていない事実を思えば、非常に残念な気はするが、今後もこの城跡の祖形が出来るだけ自然維持されて行く事を願わずにはいられない、、、、

2011年7月29日 (金)

見応えには欠けるが、戦国ロマンには充分浸れる 浮ノ城跡(大阪府豊能郡)

城跡は大阪府豊能郡能勢町山田にあって、既にリポート掲載を終えた山田城から見れば、山田川を挟んだ北側の低山山上に位置している。当然往時に置いては、山田城から浮ノ城はほぼ見下ろせた築城環境にあり、戦国期までこの城郭が機能していたものとすれば、自ずと出城あるいはその支城と言う事になるのかも知れない。ただ山田城の土塁を駆使した先進的な縄張りを考えれば、この城跡の単純な縄張りプランや、現在に至るまでの地表風化の進み具合から、築城年代は山田城より相当遡るものと見受けられたのである。

地元でこの地域の史跡に詳しい方に城跡の情報を求めた結果、その所在地の回答は直ぐ得られ、更にこの城跡は鎌倉期以前に多田源氏によって築かれたものだとも聞くに及んだが、現在文献の類による城跡情報は皆無に近いものであり、何時頃まで機能していたものかは、自ずと見学者の想像に委ねられるだろう。

1_1 登城ルート

5 進入経路

1_2 城跡概念図

現状(七月)城跡は、藪化は当然進行中にはあるが、この時期の山城にしては蔓延る下草も山上における樹木も比較的少ないので動き廻りやすく、ある程度見通しが利く事によって、比較的見学し易い状況にあると思って頂いても良いだろう。よって城郭を形成する概念図に示した数少ない遺構は、ほぼ判別確認可能な状態にあるが、この大味な形態から思えば、遺構そのものの見応えまでは望めないとは思われる。見所遺構として挙げられるのは、地表風化の激しい中にあっても明確にそれと分かる縦堀(堀切部分は埋もれて判別不能)、本郭における一部の切岸といったところになるが、この広大な山上本郭に佇めば、その当時の臨場感だけは充分味わえる筈である。

13_tatebori_tikei_1大空堀( 縦堀)見所

15_kita_tatebori_1 北側の堀切地形見所

17_shukaku_heki 本郭部西側の切岸跡

28_shukaku 主郭の現状

25_shukaku_kitagedan_1 主郭北下段郭

27_houkei_kidan 構築年代不明の基壇

城跡を個人的に評価すれば、遺構の見応えには程遠く、所在地の確認、あるいはその実態報告程度で本来ならリポートは終えたいが、このブログによって初めてこの山城の存在を知り得た方、更にこれを機にこの山城へ興味を持たれた方だけに、敢えてお薦めする理由を見つけるとするならば、「そこには限りない戦国ロマンがあったから」と言う事になるのかも、、、

城跡を訪れるには、先に触れた山田城を起点とすれば良いので、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、国道173号「栗栖」の交差点から602号へ針路変更して向かえば、迷わず付近までは到達出来るだろう。後は概念図を参考にして、目印とした湯小屋神社(祠だけ)から入山口にある獣避けゲートを潜り、そのまま山道に任せて進めば、自ずと城跡北端に備わる大空堀(縦堀)までは難なく辿り着ける筈である(藪漕ぎなし)。ちなみに神社からは10分程度

2011年7月27日 (水)

正垣城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市大宮町奥大野にあるが、この城跡の情報は現状皆無に近いものともあって、当時の城域及びその形態は、今回自身が踏破して確認に及んだ範囲内(枝尾根)では、本郭群を限定するまでには至れなかったのが実情と思って頂ければ有り難い。既にリポート掲載を終えた野中城、須田城といった古い形態を持つ丹後地方の山城は、山頂を主郭とした場合、山麓枝尾根末端にまで郭が展開されているケースが多く、城跡を過大評価するのであれば、この山城も未踏に終わった西山上に本来の本郭群が存在するのかも分からない、、、

1route2 登城ルート

7 城跡進入経路

3 城跡概念図

今回踏破した範囲内で判別確認に及んだ遺構群は、二枝尾根に跨る明瞭な切岸跡の残る削平地(郭跡)及び明らかにそれと分かる段郭群だけ、と言っても過言ではないが、判別し易い空堀の類は尾根上では目には留まらなかった。よって山城としての醍醐味を味わうまでには至れなかったと言う事にはなるのだが、城跡遺構が当時より現在に至るまで手付かずの状態にあることを思えば、史跡としての価値は決して下らないようには感じられたのである。現状(七月)城跡は藪漕ぎ移動もなく、倒木は多いがこの時期でも比較的動き廻り易い状況にあり、概念図に示した自身が踏破した範囲内で確認に及んだ遺構は、全て判別可能な状態にあると思って頂いても良いだろう。もちろん先に触れた様に見応えのある遺構を眼にする事は出来ないが、このリポートに興味を持たれた方だけには、状態が比較的ましな事を理由にすれば、決して訪城も無駄足には終わらないと思えたのである。

9_2進入口付近の郭群?

12_minami_toutankaku_1 南尾根上の郭

17_sanjyou_kaku 山上における削平地

18_kitakaku 北尾根上の郭

21_heki 切岸跡

23_dan_kaku北尾根段郭群

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた鶴賀城(谷内北城)を起点とすれば分かり易いとは思われるが、国道312号を経由して谷内地区で県道76へ針路変更すればよい。後はルート図あるいは概念図を参考にして頂ければ、迷わず城跡へは辿り着けるだろう。此れを機に訪れる用意のある方には、自身が未踏に終わった西山上までは是非踏破して頂きたいとは思うのだが、、、

2011年7月25日 (月)

森本大谷城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市大宮町森本にあって、既にリポート掲載を終えた森本城からみれば南西側の丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、成吉越中守の居城を伝える森本城との距離、規模、あるいはその築城環境までも考えれば、自ずとその出城機能は察せられるかも知れないが、推察の域は出ないものである。

城跡を訪れるには、森本城と同様の訪問ルートとなるので今回は割愛させて頂くが、京阪神側から訪れるのであれば、国道312号を経由し、655号へ進入して森本地区へ向かう事になる。城跡までの進入路は概念図には示したが、かつての古道(現状畦道)を利用して切り通し(堀切)手前まで向い、その付近から左手の削平地が連なる斜面に取り付いて上れば、10分内で山上主郭まで辿り着ける筈である。

1 登城ルート

8 進入経路(切り通しへ)

1_1 城跡概念図

以前森本城を訪れた際には、この大谷城の所在位置の見当は付かず、目星を付けた丘陵上の南西端だけの踏破に終わり、藪に阻まれて丘陵上を縦断する事は叶わなかった。その時はそれらしい削平地の確認は出来たのだが、他で城跡遺構と断定可能な遺構(堀切など)は目に留まらず、又月を改めて赴くつもりで帰路に着いた記憶が残っている。今回は地元で年配の方に城跡を尋ねたお陰もあって、直ぐに所在地の回答は得る事が出来たが、おまけとして前回踏破した場所(丘陵南西端)は、地元においては現在でも砦跡と伝承に残る地 である事も判明した。もちろんこの大谷南西砦を含めたものが森本大谷城の本質であるとは思われるが、、、1_2

南西砦跡

現状(七月)城跡は藪化は相当進行中にあり、小規模な主郭に至っては全域が草木に覆われており、郭内には落ち着いて佇む事も出来ない状況となっている。自ずと郭全体像は窺う事が出来ないが、その背後に施された三重堀切だけはほぼ全体像が窺えるものであり、何とか訪問した甲斐はあったと一人胸を撫で下ろすのである。城跡の本郭群周りの形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても良いとは思われるが、主郭から東側に向いての斜面上は雑木密生地につき踏破確認には及んでいないので、残存遺構もこの限りではないものと思って頂きたい。

12_touge_kiritoosi 切り通し見所

18_dorui_ato 北郭における僅かな土塁跡

20_shuaku_nai_1 主郭の醜い現状

22_3jyu_horikiri_2 三重堀切の一部見所

28_horikiri3_1 三重堀切の末端見所

30_horikiri3_haigo 堀切背後

城跡を個人的に評価すれば、見所は小規模な主郭を守備した形の三重堀切だけと言っても過言とは思えないものであり、この状態の醜さも含めれば全ての城跡ファンの方にお薦めとはとても言い難いが、このリポート記事に興味を持たれた山城ファンの方だけにはお薦めしたいと思うのである。理由を聞かれれば「大土塁を付随させた三重堀切の醍醐味は、非常に捨て難いものがある」と感じられたからと思って頂ければ良いだろう、、、、

2011年7月23日 (土)

河江城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は兵庫県豊岡市日高町河江にあって、川沿いに数えられるほどの人家の建ち並ぶ集落の、南西側に突き出した丘陵先端部に位置しており、かつてはこの谷沿いが街道となっていたものとも考えられようが、数年後には限界集落となるのが目に見えていそうな集落や農地の規模、あるいはこの谷に挟まれた環境を思えば、当時でもそれほど要衝の地であった様にはとても思えない場所にある。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた八代城を起点とすれば、その所在地は分かり易いとは思われるが、国道312号を経由して県道1号へ進入する事が先決となる。後はルート図を参考にすれば城跡の位置する麓集落の三叉路までは難なく辿り着けよう。城跡へは道路沿いの墓参道(画像に注目)を利用して上る事になるが、藪漕ぎもなく直ぐに広々とした主郭が迎えてくれる筈である。

1route 登城ルート

5 進入経路

3_1 城跡概念図

城跡の形態はほぼ概念図に近いものと思って頂いても良いとは思われるが、規模の大きい主郭に櫓台と見受けられる郭が付随し、その背後の山上にはお愛想程度の物見郭が設けられている。総合的に城跡を捉えれば、館城的な大味縄張りを持つ城跡と言う事にはなるが、主郭を全周する薄い低土塁山上郭における浅い二連の堀切、当時の構築物とも思える古そうな野面積の石垣跡は、見学者の目は充分楽しませてくれよう。ただ石垣跡が当時のものか否かの判定は、調査後の結果をリサーチをしていないので分からないのだが、見たままを想像して楽しめばロマンにも浸れる事も出来、それで良いのではないだろうか、この石垣跡に関しては、廃城後に郭跡が神社や寺院の敷地として転用されたケースも充分考えられる事から、後世に構築されたものとも考えられようが、土中から僅かに顔を覗かせる様は、まぎれもなく当時の石垣跡と自分の目には映ったのである、、、

8_1土中より 露見する石垣跡見所

11shukaku_1 主郭内、土塁跡見所

20_yaguraheki_1 櫓台切岸

21_yaguradai_1 櫓台

16shukakuheki_isi_2 主郭壁の石垣跡見所

24_sanjyou_horikiri_1 山上郭の堀切見所

現状ほぼ二郭で成立した本郭群だけに関しては、この時期(七月)においても非常に見学し易い状態が自然維持されており、木々の少ない広々とした主郭跡に佇めば、抜群の臨場感を感じる事が出来るが、山上郭は藪化風化共に激しく、小規模ではあっても堀切を含めた全体像までは中々覗えないのが現実でもある。城跡を個人的に評価すれば、山城ファンの方にとっては、この辺境地にある考えさせられる築城環境だけでも、充分訪れる値打ちのある城跡と言えようが、縄張りの掴み易さや圧倒的お手軽感、更に見学し易い状態(本郭群のみ)を思えば、史跡ファンの方も含めて是非お薦め出来る城跡と言う事にはなるだろう。ただし規模や縄張り妙味は絶対に問わない事が前提となるが、、、

2011年7月21日 (木)

三河内比丘尼城/香久山城跡(京都府与謝郡)

この二城は京都府与謝郡与謝野町三河内にあって、三河内集落の西背後にある巨大な山塊の低山山上に位置しており、集落からなだらかな尾根が山頂まで繋がる、その「標高176mのテレビ塔の建っている場所がかつての比丘尼城跡である」、と麓にお住まいの方からは聞き及んだ。香久山城の方は地元で尋ねた方に認識がなかったせいもあって、所在地を特定する事が叶わず、今回のリポートにおいては香久山城跡推定と言う事にさせて頂きたいが、遺構と断言出来そうなものに遭遇しなかったから、あるいは遺構として明確に判別可能な地形にも遭遇出来なかったから、と解釈して頂ければ良いだろう。

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた作山城跡を起点とすればその位置は分かり易いとは思われるが、テレビ塔まで繋がる林道入り口は非常に分かり辛いので、是非ルート図を参考にして判断して頂きたい。最終的には車両行き止まり地点に充分駐車スペースはあるので、城跡すぐ傍までは車で乗り付ける事が可能となっている。

1route 登城ルート

まず比丘尼城の現状は、載せた画像 でおよそ判断して頂きたいが、かつての郭跡は中継施設が目一杯占拠しており、城跡としての佇まいも、臨場感までも感じる事が出来ない状況となっている。もちろんその周囲斜面は密生する雑木藪地と化しているので、切岸跡すら確認できず、現状(六月)においては探索すら困難な状況にあると思って頂いても良いだろう。ただ冬季の状況までは分からないが、、、、 山上郭は小規模な二郭で形成されたものと見て良いのかも知れないが、相当な造成地形改変の窺われる現状からは、かつての郭構成は推察すら付かない状態にあり、見た限りではほぼ狼煙台程度の規模と思って頂ければ分かり易いかも知れない、、、1

比丘尼城跡の現状

推定)香久山城跡の方は、ルート図を見てその位置は把握して頂きたいが、その候補としてルート図に示した二箇所(二峰)が挙げられる。結果的にその二峰を踏破して確認した限り、先に触れた様に城跡遺構と断言出来るまでには至れなかったが、両峰において小規模な削平地形、あるいは切岸跡らしきもの、東峰では尾根上で堀切地形(画像に注目)に遭遇する事が出来たのだが、この地を城跡と断定出来るまでの遺構とは思えなかったのである。事前に「香久山城は比丘尼城に隣接している」と言う情報は掴んで訪れているので、恐らくこの二峰の小規模な削平地がかつての城跡(比丘尼城を山上郭と見立てた場合の出城かも?)とは思えるのだが、自身が踏破確認した場所とは異なる可能性も多少含んでいる事もあって、ほぼ間違いないとは思えるが、今回は香久山城跡推定地とさせて頂いた訳でもある。

1_2 比丘尼城に近い峰の切岸跡のある山上郭?

1_3 東峰の山上削平地形

1_1_2 東峰の尾根上堀切地形

両城共に藪化は相当深刻化しており、遺構の判別確認すら難渋を極める現状、間違ってもお薦めとは言えないが、早朝の山歩きは存分に楽しむ事が出来たので、山歩きを前提とした訪城なら、それなりに楽しめるのではないだろうか。

2011年7月19日 (火)

ユニークな縄張りそのものが見所 丹後割谷城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府与謝郡与謝野町上山田割谷にあって、昨年リポート掲載を終えたサイ谷城跡の中でも、この山城に関しては少し触れた(隣接しているらしい事)が、地元の方におよその所在地だけは教えて頂いたものの、結果的にはその場所(山頂か尾根か)も特定出来ず、実態も分からぬまま帰路に着いた山城の一つである。今回も前回同様に所在地の特定が出来ぬまま挑む事になったが、幸いな事に目星を付けたサイ谷城から見れば真北側の中腹尾根上で、明確な割谷城の城跡遺構と対面する事となった。尚、城史に関しての情報は現状サイ谷城と同様に皆無に近く、郷土史などをリサーチすればある程度までは把握出来るのかも知れないが、下山氏の居城と伝わる山田城のほぼ対岸に位置するこの山城の築城環境から察すれば、自ずと支城といった事になるのかも知れない(推察)、、、詳細は不明

1_2

登城ルート

4 直登取り付き口

1_3 城跡概念図

城跡を訪れるには、サイ谷城跡と全く同様の訪問ルート(直登取り付き口が僅かに異なる)となるので今回は割愛させて頂くが、概念図に示した(画像にも注目)場所から取り付き、そのまま尾根に沿って上れば、迷わず中腹に位置する便宜上の本郭群までは辿り着けよう。ちなみに東端に位置する規模の大きい郭跡(東出郭)までは5分程度

9_higasi_demaru_1 東出郭

11_dobasi_1 東尾根上の土橋地形

18_shukaku_doruidan 主郭東マウンド地形

20_shukaku_yaguradorui 主郭土塁郭跡、櫓台か

21_kitakaku_yori_shukakugawa 北郭より主郭側

22_kitakaku 広大な北郭

この山城の形態は概念図を見ればある程度お分かり頂けるとは思うが、中枢となる本郭群は山上郭(削平地)ではなく、その中腹尾根に位置しており、縄張りプランとしては自然地形に任せたまま尾根上を削平し、郭外壁を切岸処理しただけに終わっているとは言え、非常に特異なものであり、丹後地方の山城にあっては中々類を見ないものでもある。この形態が故に堀切などは目に留まらなかったが、本郭群の北端から便宜上の東出郭までを城域とした総全長は軽く300mには達するものであり、館城の性格を持った大規模な城跡」と呼んでも差し支えなさそうには思えた。ただ「見応えのある遺構は?」と聞かれれば返答には少し困るが、個人的にはこの縄張りのユニークだけで充分満足感には浸れた。現状(六月)入梅となったこの時期でも、藪漕ぎもなく比較的歩き回り易い状態は自然維持されており、郭内は比較的樹木が少ないので見通しが利き、この広大な郭跡に佇めば、当時の臨場感は間違いなくそのまま得られるものの様に自分の目には映ったのである。

城跡を個人的に評価すれば、遺構そのものに見応えは余り望めないが、一見の価値に値すると思われた縄張りのユーニクさだけで、充分お薦め出来そうには思えたのである。サイ谷城がまだ未訪の方には、この山城と併せた同日訪問は是非考慮して頂きたい。

2011年7月17日 (日)

高土塁を伴う横堀は一見の価値あり! 堂ヶ谷城跡(京都府宮津市)

城跡は京都府宮津市中津堂ヶ谷にあって、既にリポート掲載を終えた堀江伊予守の居城とされる中津山城から見れば、丘陵を間に挟んだ真西側の低丘陵上に位置している。城史に関しては現状詳細は不明であるが、細川氏入部以前この地域は、一色氏の家臣でもある堀江氏の支配地であった事を思えば、自ずとその支城とも窺えようが、推察の域は出ないものでもある。

城跡を訪れるには、先に触れた中津山城を起点とすれば、ルート図からもその位置は直ぐ確認出来ようが、宮津市内を国道178号で通過して栗田(クンダ)トンネルを抜け、その先を左折すれば正面に望める丘陵(画像に注目)が城跡でもあるので、向かう城跡の位置は直ぐ確認に及べるだろう。概念図を参考にして城跡東側の山道から城跡へ進入すれば、直ぐ目の前に豪快な堀切が出現するが、更に最短で主郭まで到達可能な取り付き地点は、画像に示した事業所の所有する造成空き地からで、傍まで寄れば主郭に付随する帯郭切岸は直ぐ目に留まる筈である。

1route 登城ルート

4enbou_1 城跡遠望

3d 城跡概念図

現状(六月)城跡は、自然任せの藪化進行中にはあるが、入梅となったこの時期でも意外に樹木は少なく下草も余り蔓延っていない事から、見通しは利き難いが遺構の判別確認は容易に出来る状況にある。知名度に欠ける山城としては、まずまずの状態にあると思って頂いても良いとは思われるが、取り合えずそのお陰もあってか全体踏破する事は出来た。その結果として概念図に示したまでが自身が踏破して確認に及んだ遺構群と思って頂ければ良いが、この城跡の見所となるのは、東郭の東側斜面に施された空堀(横堀)で、堀底から高低差がある土塁を伴っている事、更に連続している(30m近い)事によって、非常に見応えを感じるものとなっている。他でも主郭と山上郭間に施された堀切(縦堀であるが現状堀底道)なども見応えは抜群で、その堀切を形成する切岸なども他の郭壁と同様に鋭角に刻まれたものであり、切り立つ切岸の醍醐味にも直接触れる事が可能となっている。ただ城跡の南端部が多少配電施設によって削られた形跡は窺えたが、農地が直ぐ傍まで迫ったこの状況を思えば、この遺構残存度の高さは賞賛に値するものとも思えたのである。

9_horikiri 9_horikiri_1 堀切見所

11_shukaku_heki 主郭切岸(堀切側)

13 西帯郭見所

18_shukaku_yori_2maru 主郭より二ノ郭

29_higasikaku_2 東郭

31_higasi_karabori_dorui 36_higasikaku_waki_yokohori_2 高土塁を伴う横堀見所

城跡を個人的に評価すれば、縄張りは全長100m足らずの小規模な城跡と言う事にはなろうが、横堀に付随する大土塁や大堀切(縦堀)を含んだ縄張り妙味、本郭群と山上郭群が明確に堀切によって遮られた、機能の想像が楽しめる部分、更に切り立つ切岸の醍醐味などを併せれば、城跡に小規模さを覆い隠すほどの見応えが感じられた事から、当然「是非お薦め出来る城跡の一つ」、と自分の目には映ったのである。同時に一山城ファンとしては、非常に満足度の高い遺構見学が出来た事だけは付け加えておきたい。

2011年7月15日 (金)

丹後 関城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市久美浜町関にあって、関集落北背後の低丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を京阪神側から訪れるには、既にリポート掲載を終えた大井城(一分城)を起点とすれば位置は分かり易いが、国道312号を走り一般道668号へ進入すればよい。そのまま北上を続ければ目印となる「田村小学校」までは難なく辿り着けるが、城跡進入経路となるのは、概念図に示した「関公民館」向いにあるお地蔵さん横の脇道で、この道に任せてそのまま上れば、迷わず丘陵西端部の堀切地形までは辿り着ける(5分内)筈である。

1_2 登城ルート

4enbou 城跡遠望

5_nyuuzanguti 入山口

1_3 城跡概念図 

この城跡の形態を的確に伝えるのは現状を見る限り中々難しいものがあるが、この丘陵上のほぼ全域が削平された広大な空間(郭跡)と思って頂ければ分かり易いかも知れない。したがって内部に郭境となる切岸(低い)が一箇所にあるものの、空堀の類は全く目に留まらず、辛うじて土塁壇らしき高まりが数箇所で目に留まるだけで、この地形が当時のままのものとすれば、広大な郭跡と並んで唯一城跡を感じさせてくれるものと言えるのかも知れない、、、もちろん内部には空堀状(窪地)になった大手と見受けられる虎口跡らしき地形もあるが、この地を後世における神社敷地と考えれば、これらを当時の遺構とするかどうかの判定は中々下せそうにないのが現実とも言えそうである。個人的に一番城跡らしく感じられた場所は、山道の到達地点でもある堀切地形から西端まで連なる非常に小規模な郭群で、ここでは僅かな空堀跡や、櫓台らしき切岸を伴う土塁郭が唯一城跡らしさを感じさせてくれた。本来はこの西郭群が関城と呼ばれる本郭群なのかも知れないが、調査後の結果まではリサーチしていないので、確かな縄張りや当時の城域までは分からずにいるのが現状でもある。

16_koudai_sakuheiti_1 低丘陵上全域に渡る削平地

17_doruidan_tikei 内部の土塁壇

10_yagura_3 西郭櫓台地形

12_karabori 西郭群空堀地形

14_nisi_sentanbu_1 西端郭

個人的には落城後に陣城として改修が施された城跡としか見えなかったが、最初からこの様に大味な縄張りを持った城跡であったのかも知れない、、、謎。城跡を個人的に評価すれば、「遺構の醍醐味を感じるまでには程遠い城跡」といった事を踏まえれば、このリポートに少しでも興味を持たれた方だけが訪問の対象となる城跡と言ったところか、、、。

2011年7月13日 (水)

浦明城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市久美浜町浦明にあって、北近畿丹後鉄道「丹後神野」駅から見れば、真東にあたる低丘陵上に位置している。字、鳥取の地にある事から「鳥取城」とも呼ばれており、当時一色氏における家臣、栗田内膳正の居城が伝わっている。この城跡も丹後における他の山城と同様に、一色氏の家臣である以上、自ずと細川氏の手によって落城したものと察せられるが、推察の域は出ない。

城跡を訪れるには、まず国道178号へ進入する事が先決となるが、「丹後神野」駅を目印として目指せば、付近までは難なく辿り着けるとは思われる。後は国道沿いにあるJA施設あるいは「道の駅」を目印として東へ進路変更すれば、城跡進入口とした貯水施設までは迷わず辿り着けよう。そこからは5分とかからず主郭へは到達可能となっている。

1route_2 登城ルート

3_1_3 城跡概念図

この城跡の形態は概念図に示した様に、丘陵上の突出した高さに位置する規模の大きい主を頂点とし、北西側に縄張りが広がるものであり、縄張りに特別な特徴を持つ城跡とは言えないものでもある。見所遺構はほぼ主郭周りで目に留まる遺構群と言う事になろうが、口跡、背後に備わる大土塁、主郭南尾根を断つ巨大空堀(自然地形かも?)に繋がる堀、北郭群だけに限るが状態の良い切岸などは挙げられよう。突出した高さにある主郭の切岸は、長年の風雪によって表土が相当流出しており、今となってはその高き壁の如き高低差に醍醐味は感じられるが、丹後における山城の特徴でもある、本来の切り立つ切岸までは拝めないのが現状である。

13_kitakaku_heki 状態の良い北郭切岸見所

14_kitakaku_gun_1 北郭群

40_hokusei_fumoto_dankaku 北西段郭群

21_shukaku_2 残念な主郭の現状

22_shukaku_daidorui_2 主郭大土塁見所

25_sita_horikiri_2 堀切見所

現状(五月)城跡は、冬枯れ後とは言え藪化は深刻化しており、見通しは利き難く、肝心の主郭に至っては倒木が多く荒れ放題となっており、木々の隙間を縫っての移動は余儀なくされる状況にある。北郭群は比較的ましな状態にあるが、北西に向かうほど藪化は激しく、今回は残念ではあるが全域を探索する気にはとてもなれなかった。よって北郭群から西側は未踏に終わったので、縄張りも概念図に示しただけには決して終わらないものと思って頂きたい。丘城に近く山城とは言えないので、未踏の地にまだ多くの縄張り妙味のある残存遺構が残っている様には思えなかったが、、、

これから夏季にかけての訪城は更に藪化に拍車がかかり、遺構見学も相当厳しい事が予想されるが、城跡を個人的に評価すれば、満足の行く見学が出来ないと予想される以上、決してお薦めの城跡とは言えないが、主郭周りの土塁と堀切だけは覗く価値があるものと自分の目に映った事から、今回のリポートに興味を持たれた方だけが、訪城の対象となる山城と言ったところか、、、

2011年7月11日 (月)

葛畑城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市葛畑にあって、道路沿いに建ち並ぶ集落から見れば、北東側に突き出した丘陵先端部に位置しており、当時西谷家章の居城が唯一伝わる程度の、比較的知名度の高い城跡の多い養父地方にあっては、全く知名度には欠ける山城の一つでもある。

城跡を京阪神側から訪れるには、どこからスタートしても不便さは否めないが、既にリポート掲載を終えた白岩城、あるいは片岡城などの関宮地区の山城を起点とすれば、その位置は分かり易いとは思われる。国道9号より関宮地区で県道87号へ針路変更し、更に一般道269号へ進路変更する事になるが、ルート図に示した葛畑集落の「城山橋」を目印とすれば、その真東側の丘陵がそれにあたるので、所在地は直ぐ確認出来る筈である。橋からそのまま植林地急斜面(画像に注目)を直登をすれば、10分内で山上主郭までは辿り着けるだろう。

Zx 登城ルート

5 城跡直登進入口

K_2 主郭の現状

K_12 主郭北切岸

K_9 武者走りか

現状(六月)城跡は、直登道中とは裏腹に相当藪化は進行しており、中々遺構見学を楽しめる状況にはないが、複雑な縄張りプランでない事や、城跡が小規模(郭総全長60m程度)な事もあって、狭い山上における遺構はほぼ判別確認可能な状態にはある。とは言っても、堀切が施されていたり、内部に土塁が備わっていたりする訳ではないので、遺構の見応えには随分欠ける山城と言う事にはなるだろう。現状郭跡を除いて城跡を醸すものは切岸跡程度といったところでもあり、今回のリポートにおいては、この山城に興味があった方への所在地の確認、あるいは簡単な現況報告とした程度でご容赦願いたい。この「単純極まりない縄張りプランや状態を思えば、城跡を評価するまでには及ばない山城」、と言ったところが自身の本音かも、、、、

2011年7月 9日 (土)

かつてこの地を巡っての攻防が歴史に残る 滝上山城跡(京都府宮津市)

この山城に関しては、中世においてこの谷と山及び山麓にかけて、一色氏に対しての武田氏、細川氏連合軍による攻防戦の歴史が伝わっており(沢沿いにある案内板にも記述)、当時この「如願寺」付近一帯が戦場と化した事は言うまでもないが、今回リポート掲載をした城跡が、丹後史の中に登場する山城としての「如願寺城」なるものかどうかは、この地区には細川氏あるいは京極氏時代の城跡(宮津山城)も現存している事から区別も付き難く、おまけにリサーチ不足のせいもあって現状判明せずにいる。よって今回は本郭群から見れば東側にある展望所の設置された滝上山(標高約120m)山頂部が、縄張りの一部(物見出郭と見受けられた)と察せられた事から、仮名)滝上山城跡あるいは推定)如願寺城として紹介に及ぶ事になった。城跡呼称が判明次第報告予定

1 登城ルート

1_2 現地観光案内板より

1_1 史跡案内板より

3djpg1 城跡概念図

尚、案内板には滝上山の西側に「狼煙嶽」があったと記述にあるだけで、その所在地までは明確にされていないが、展望所から西側に聳える高い山がそれの様にも感じられた。明らかにそれと分かる城跡遺構は、その推定「狼煙嶽」から滝上山の中間部にあたる中腹尾根上に位置しており、登山道の一部が主郭内を通過している事から、山城ファンの方であれば概念図中に示した尾根を断つ堀切(箱堀)、削平及び切岸処理の行き届いた広い主郭跡、連なる南段郭群、階段上の帯郭や鋭角なまでの切岸跡などを見れば、状態が比較的良いことからも、誰でも判別確認は容易い筈である。結論から先に述べれば、この地をまだ城跡として認識のない山城ファンの方、あるいは史跡ファンの方も含めて、是非一度訪れて遊歩道に近い登山道に任せた山歩きを楽しみながら、遺構見学も含めて山麓における如願寺などの史跡巡り、あるいはその当時の攻防の歴史も含めて、存分に戦国ロマンに浸って頂きたいと思えたのである。特に山歩きを楽しまれる方には、滝上山展望所からの眺望(天橋立の全景が望める)が素晴らしい事だけはお伝えしたい。

9_higasi_demaru 滝上山展望所(推定東出郭)

15_horikiri_1 堀切(箱堀)見所

18_shukaku_gedan_1 主郭東郭

22_shukaku_yori_2maru_2 主郭より二ノ郭

21_shukaku_obi_1 帯郭と主郭切岸見所

23_dankaku_heki_2 南段郭切岸見所

26_minami_kaku 南段郭群

城跡は京都府宮津市万年にあって、訪れるにはルート図だけで充分お分かり頂けるとは思うが、宮津中心部より北西側に位置するのが滝上山であり、市内からも丘陵先端部にある展望所は充分望めるので、その位置は分かり易いとは思われる、先に触れた如願寺を目印として目指せば、迷わず麓までは辿り着けるが、如願寺直ぐ西側の広い運動場公園入口脇にある、小さな「滝上稲荷社」が登山スタート地点となる。登山道は表と裏の左右に分かれているが、表からの方が比較的上り易いとは思われた。

尚、今回の山城巡りでは案内板に記述された狼煙嶽に惹かれたお陰で、本来訪問予定であった宮津山城は踏破する事が叶わなかったが、何とか所在地の特定は出来たので日を改めての訪問は予定している。個人的にはこの明確なまでの城跡遺構が、史跡の宝庫となっているこの地域の案内板になぜ記されてないのか?不思議に思われたのと同時に非常に残念でならないが、発掘調査の有無まではリサーチに及んでいないのが現状である。

2011年7月 7日 (木)

丹後 山崎城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市大宮町口大野にあって、独立した小さな丘陵上に位置しており、ルート図を見ればお分かり頂ける様に、先にリポート掲載を終えた大野城からはほど近い距離にある。成吉加賀守の居城が一応伝わってはいるが、近世城郭である大野城とは違って、戦国期に築かれた砦(出城)とみれば良いのかも知れない(推察)。詳細は不明

城跡を訪れるには、大野城とほぼ同一の訪問ルートとなるので割愛させて頂くが、大野城からはルート図の赤線を辿れば迷わず辿り着ける筈である。付近に到着すれば道路沿いのどこから取り付いても、数mの距離を上る程度なので、直ぐ主郭までは到達可能となっている。

1_1

登城ルート

4 進入口

1_2 城跡概念図

城跡の形態はほぼ概念図に示したものと思って頂いても良いとは思われるが、小規模極まりないものであり、郭総全長は50mにも満たないものでもある。よって縄張りは掴み易いとは言えるが、現状(六月)地表風化も藪化も相当進行しており、小規模とは言っても低草木が蔓延っているので見通しは利かず、全体像の確認は困難を極める状態にある。その中で判別確認に及んだ遺構は全て概念図には記したが、ほぼフラットな状態が自然維持されている主郭、空堀地形に見えなくもない櫓台との境、虎口かも知れない地形、と言っただけに限られて来るのが現状であり、他の遺構(武者走り、土塁の残欠など)となると中々判別確認はし難く、現状の地形から機能を想像するには非常に困難な状況にあると思って頂いても良いだろう。

6_yagura 僅かな空堀地形

7_yagura_heki_1 櫓台切岸

12_shukaku 主郭の現状

18_kitagawa_kaku 北側の小郭

城跡を個人的に評価すれば、遺構見学とすれば楽しむまでには至れなかったが、史跡見巡りの一環として、大野城見学ついでに寄って見る程度なら、決して無駄足には終わらない城跡と言ったところか、、、

2011年7月 5日 (火)

丹後 大野城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市大宮町口大野にあって、北近畿丹後鉄道「丹後大宮駅」の直ぐ北西側の独立した低丘陵上に位置しており、現在主郭転用地と思われる平坦地には「大野神社」が建立されている。この城跡は案内説明版に記載されてあるように大野氏の居城でもあり、「大阪夏の陣」で豊臣家と運命を共にした大野治長は、その父となる道犬と並んで全国的にも名が知られている。

城跡を車で訪れるには、まず国道312号へ進入する事が先決となるが、「丹後大宮駅」を目として目指せば付近までは迷わず辿り着けよう。駐車に関しては付近は道路も狭く、中々路駐スペースを探すには苦労させられるが、自身の口からここに駐車出来たとは言えないので、ルート図を手がかりに訪れた方が自己責任において路駐スペースを確保して頂きたい。

1route 登城ルート

2z 現地案内板より

3a 城跡概念図

この城跡は16世紀後半(豊臣政権時代)に築かれたものとあってか、縄張り妙味には全く期待は出来ないものであるが、自身が見た限りでは、拝殿の建つ主郭から二ノ郭までが、ある程度当時の祖形が維持されたものであって、当時の縄張りは全て見学者の想像に委ねられるものと思われる。現在直ぐ傍まで住宅地が迫った状況、あるいは神社敷地としてこれだけ整備されておれば、近年において相当な造成地形改変があったものと考えられるが、主郭外壁となる切立つ切岸だけは当時のままとも見受けられた。

102maru_3 二ノ郭

102maru_4 二ノ郭より主郭側

13_shukaku_minami_heki_1 主郭南側切岸見所

15_shukaku 主郭

以上の事から城跡を個人的に評価すれば、遺構見学として訪れるのであれば落胆する事は必至でもあり、史跡見学として訪れるのが一番納得の行く訪城となる様な気がするのである。一山城ファンとしては切立つ切岸だけで充分満足感には浸れたが、、、城跡としての風情は間違いなく味わえる筈である。

2011年7月 3日 (日)

縄張りプラン及び遺構の見応え、共に素晴らしい山城! 常吉城跡(京都府京丹後市)

最近は個人的にも大型の城郭が多く、更に縄張り妙味のある城郭の多い丹後の山城に魅せられて、この地方の山城を訪れる機会が圧倒的に多くなっている。この山城も地元にあっては知る人ぞ知る城跡の一つなのかも知れないが、ここを居城とした最後の城主と思われる、進藤山城守の墓碑が主郭にひっそりと佇んでいた。

城跡は京都府京丹後市大宮町上常吉にあって、訪れるには既にリポート掲載を終えた鶴賀城(谷内北城)を起点とすれば分かり易いとは思われるが、まず国道312号へ進入する事が先決となる。鶴賀城のある谷内地区から県道76号で南下し、目印となる「経典寺」を目指せば、山門から堀切(切り通し)まで繋がる山道へは迷わず辿り着けるだろう。

1_1 登城ルート

10_horikiri 城跡進入山道

1_2

城跡概念図

この城跡も知名度に欠ける他の丹後の城跡と同様に、ここ数年に限れば城郭関連の文献資料などでの紹介は皆無に近く、今回も何の予備知識もなく、更にその実態も分からぬままの何時もの気ままな山城巡りとなったが、その結果として、高低差を伴う直立に削られた切岸や巨大な堀切、横堀と縦堀を絡ませて防備した絶妙な縄張りプラン、更に主郭を中心として枝尾根上に郭を配置した広大な城域、どれを採っても一流の素晴らしい城跡と巡り合う事が叶えられたが、この山城に残された残存度の高い遺構群は、正に推奨に値する城跡の一つと自分の目には映ったのである。今まで訪れた数多くの丹後の山城の中でも、自分の中にある一流の山城の条件を全て満たしており、全てにおいて常にトップにランクインしている、あの明石(アケシ)城砦群は流石に超えられるものではないが、縄張り妙味だけを採り上げれば、既にリポート掲載を終えた宮津八幡山城、金谷城、大井城は充分超えているとも思えたのである。とにかく「訪れて落胆する様な事は決して在り得ない!」と思えた事から、この素晴らしい城跡遺構は、山城ファン、城跡ファン、史跡ファンを問わず、是非一度訪れてその縄張りの素晴らしさや、遺構の醍醐味を堪能して頂きたいと思うのが本音でもある。

70_nisi_horikiri

切通し

17_2maru

状態の良い二ノ郭

26_shukaku 主郭の現状

30_horikiri_kitagawa 北堀切(薬研堀)凄い

34_tate_yokohori 37_daidorui_yoko_tate 北斜面における空堀群最大見所

43_3maru_yori_shukaku_heki_1 三ノ郭より主郭切岸見所

46_higasi_2dankaku_heki_1 東郭群

48_hokutou_horikiri 北東大堀切見所

54_kitakaku 北郭

状態に関しても、この時期(六月)の山城としてみれば、望みようがないほどのコンディションを誇っており、郭内や郭壁に蔓延る木々も比較的少なく、遺構は全て判別し易くもあり、探せばまだ機能の想像の付き難い遺構はいくらでも見つかりそうには思えた。自身が踏破した範囲内で目に留まった遺構は、ほぼ概念図には記したつもりであるが、今回の山城巡りでは最後の訪問地となった事から、北に続く長い尾根、東側の枝尾根、更に主郭背後にあたる西側の峰までは、踏破確認までには至れなかった。よって今回概念図に描いたものは、本郭群廻りと北郭群だけと言う事になるが、この山城の形態から察する限り、前述の未踏地域にも数多くの城跡遺構が残されている様にも思われたのである。次に訪れる機会があれば、今回未踏に終わった部分は何としてでも踏破してみたいと思うが、、、

2011年7月 1日 (金)

星原城跡(京都府綾部市)

城跡は京都府綾部市星原町にあって、標高約221mの山頂に位置しており、その真東側の山麓枝尾根先端部には「栄宝寺」が建立されている。現在この寺院は無住となっているが、地元有志の方々によって小さな文殊堂がリメイクされつつある。この山城も綾部に点在する山城と同様に、ほぼ無名に近い事から所在地も判明せず、地元で所在地を尋ねればどうにかなるだろうとの思いで臨んだが、地元ではこの星原町に山城がある事などは全く認識がなく、またしても先の見えない見切り登山となってしまった。個人的には最初から城跡の目星を付けたこの山塊を縦断するつもりでいた事もあって、寺院からの直登を迷わず選択したが、幸運にも二つ目の峰で城跡遺構と巡り合う事が叶った。ちなみに寺院から15分程度の所要時間

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた高倉山城を起点とすればその位置は分かり易いが、ルート図中の494号沿いにある綾部工業団地を目印として目指せば、「城山」交差点から目的地となる栄宝寺までは直ぐの距離にある事から、迷わず辿り着けるとは思われる。

1_1 登城ルート

4 城跡遠望

1_2 城跡概念図

この山城の形態は小郭が主郭の東西に付随はしているが、ほぼ単郭で成立したものであり、その本郭群の東西には立派なものとは言えないが一応堀切が施されている。城郭の規模は自然地形に近い東尾根上の郭跡も含めれば、全長は100mにも満たないものであり、縄張り変化にも富んでおらず、切り立つ切岸の醍醐味には全く触れる事も出来ず、お世辞にも見応えの感じられる城跡とは言えないものでもある。ただ概念図中に示した移動尾根上の削平地も取り込めばそれなりの山城とは言えようが、、、現状(六月)城跡はこの時期でも主郭内及び直登道中は、藪漕ぎ移動までには至っていないのが唯一の救いでもあるが、概念図中に示したまでが山城ファンの方であれば誰でも判別可能な遺構群と思って頂ければよいだろう。この形態から考えても未踏の地(東側と西側の峰)にまだ多くの遺構が残っているようにはとても思えなかった、、、、

8_one_kaku 東尾根上の広い削平地

14_horikiri 東郭より堀切

16_horikiri_heki 堀切見所

18_shukaku 主郭の現状

20_nisi_horikiri_2 西堀切見所

城跡を個人的に評価すれば、見応えにはほど遠い二箇所の堀切見学が全てとも言えるこの山城に対しては、とても是非お薦めの城跡とは言えないが、綾部に現存する山城に興味を持たれている山城ファンの方にだけは、この考えさせられる築城環境、集落から城跡を望んだ時の風情、あるいは山上における城跡の楚々とした佇まいも含めれば、遺構に見応えは全く感じられなかったが、楽しみ方によっては見返りも少なくないのではないかとも思われたのである。

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