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2011年5月

2011年5月30日 (月)

まるで軍艦島の佇まい!金谷城跡(京都府京丹後市)

この山城は久美浜町に数多く築かれた城跡の中でも、大井城(一分城)と並んで山城ファンの方は言うまでもないが、状態の良い山上本郭群周りの見学だけなら、城跡ファンの方にも是非訪問をお薦めしたいの一つである。とにかくイメージは陸に上がった要塞の如し「軍艦島」を想像して頂ければ良いとは思われるが、中でも山上本郭間を断つ箱堀を含んだ4本の堀切だけは、状態も良く素晴らしい事を理由に、絶対に見逃してはならない!特に本郭群の南北に施された縦堀に繋がる堀切は圧巻!

今回自身が踏破した範囲内で判別確認に及んだ遺構群、あるいは本郭群を中心とした大雑把な縄張り程度なら、自作概念図である程度お分かり頂けるとは思われるが、この程度では直立に高く高くそそり立つ壁の如き切岸や、堀切を形成する切岸壁や郭壁の醍醐味郭跡に佇んだ時の臨場感、あるいは遺構残存度の高さなど全て含めて、どう説明すればこの山城の魅力が伝わるのか少々もどかしい状況にある。特別空堀を多用した城跡でもないし、特別縄張り妙味があるとも思えないが、この山城の醸し出すものは単純に凄い!」と言った言葉だけでブログ読者の方に充分伝わるとは思えず、正に山そのものを切り刻んで築かれたその様相は、風情も含めてこれを機に訪問して、感じて頂くより他ない様にも思われた。

1_1 登城ルート

6_sanpaidou 参拝道経由の参考ルート

1_2a 城跡概念図

結果的にこの山城のほぼ全体を踏破した事になったが、北は山上本郭群から北端の社殿敷地まで、山上本郭群の西側は麓までの全域を縄張りとしたものであり、城域は相当広く、概念図には竹林地となる西麓の民家背後まで郭群が複雑に、しかも規模の大きい郭群が無数に重なり合う様相までは描けなかったが、あの素晴らしい山城、大井城(一分城)の重なり合う郭群が直ぐに思い浮かんだのである。現状(五月)城跡は拝殿が建っていた事から、近年までは人の出入りがあったものと思われ、山上本郭群だけに関しては、樹木も比較的少なく見通しも利き、山城としては見学し易い状態が自然維持されている。もちろん北端まで展開される郭群においても状況は変わらず、歩き易く見学し易い状況にあると思って頂いても良いだろう。ただし西麓に重なり合う郭群(居住空間か?)は全域が竹林地と化しており、倒竹や堆積物で荒れ放題となっており、中々踏み入るのは躊躇してしまう状況にある。

9_hokutan_kaku 社殿の建つ北端郭

17_horikiri_dorui 中央大堀切と土塁見所

19_renzoku_tatebori_1 麓まで連続する縦堀見所

21_kaku2 北段郭切岸

28_hakohori_1 箱堀見所

31_shukaku_gawa_horikiri 二ノ郭より堀切側

37_hakohori_dobasi

主郭側の箱堀と土橋見所

44_nantan_horikiri 南端大堀切見所

41_shukaku_1 主郭の現状

城跡は京丹後市久美浜町金谷にあって、訪れるには先にリポート掲載を終えた金屋本丸城を起点とすれば一目瞭然とは思えるが、ルート図に記した登城ルート(神社参拝道経由)は、中央堀切に備わる2m近いフェンスを越えねばならず(身軽な方なら越えれるがリスクが大きい)、これを機に訪れる方には西麓の川沿い民家側にある神社付近から上られる(かつての参拝道がある)事をお勧めしたい。もちろん開閉口は地元で尋ねなければならないが、個人的には下山時に民家背後のフェンスが壊れていたので、そこを通過して川沿いの道路まで出られた事だけはお伝えしておきたい。

2011年5月28日 (土)

金屋本丸城跡(京都府京丹後市)

この城跡は久美浜町内における山城巡りの際(出角城訪問時)に、道路沿いの史跡案内板で偶然見つけたものであり、その中には「金屋本丸城」と記載されてあった。個人的には今回の山城巡り(金谷城訪問が主目的)の中には当然チョイスされていなかったし、認識としても全くなかった山城の一つであるが、案内板に記載されている以上、地元においての知名度はそれなりに高く、郷土史などには既に載せられている城跡とは思われる。ただ金谷城が野村監物の居城を伝える事から、この傍に隣接するこの城跡の築城環境を考えれば、自ずと金谷城の出城として考えられなくもないが。

今回のリポートでは、城跡呼称として案内板に記載されてあった「金屋本丸城」をそのまま採用させて頂く事になったが、結果的には後で訪れた金谷城と同様に、縄張りは掴み易く、規模の大小は別にして、山城としては状態及び遺構の見応え、遺構残存度共に申し分ないものとして目に映った事から、後で掲載予定の金谷城も含めての同日訪問は是非考慮に入れて頂きたいし、当然是非訪問をお薦めしたい城跡の一として挙げられよう。

1 登城ルート

2map_2 現地史跡案内板より

4 進入口

1_1 城跡概念図

現状(五月)城跡は、主郭転用地と見受けられた集合墓地を始めとして、山城としては動き回りやすく比較的見学し易い状態にあるが、コンパクトにまとまった形態、あるいは地形上枝尾根がない事からも、踏破確認に及んでいない地域に、まだ多くの遺構が残されている様にはとても思えなかった。大雑把な形態あるいは見所遺構はほぼ概念図に示した通りと思って頂いても良いとは思われるが、縦堀を含めた堀切は直立に近い切岸壁と並んで間違いなく目は楽しませてくれよう。特に丹後における山城の特徴及び見所として、今まで必ず屹立する切岸だけは挙げてきたが、この城跡も他の山城と同様に、郭壁、堀切壁に施された切岸見学だけでも、充分訪れる値打ちがあるものと思えたのである。この地方の風土や地質がそうさせるのかも知れないが、四世紀を経たものにはとても思えない、、、とにかく下草も蔓延らず、地表の露見している切岸は素晴らしい!

8_koguti_1 虎口から見上げた美しい主郭切岸

10_koguti_yori_sita_1

虎口見所

20_yagura 櫓台より主郭(墓地)側

24_horikiri_2 主郭背後の堀切見所

25_tate 縦堀見所

33_naka_kaku 山上中郭

35_higasi_horikiri 東堀切見所

城跡は京都府京丹後市久美浜町金谷にあって、集落の東側低丘陵上にある。訪れるには既にリポート掲載を終えた友重城、あるいは出角城を起点とすれば分かり易いが、国道312号を経由して706号で南下、「川上小学校」を目印として目指せば分かり易いとは思われる。進入口は概念図に示した廃屋の脇からで、そこからは墓参道が主郭までは繋がっているので、直ぐにでも辿り着ける筈である。

2011年5月26日 (木)

加都城跡(兵庫県朝来市)

城跡は兵庫県朝来市和田山町加都にあって、以前筒江城をリポートした事があったが、そこから集落を隔てた西側に隣接する低丘陵上に位置している。筒江城と比べれば遥かに知名度の低い城跡ではあるが、見る限り陣城の形態を採っており、縄張りに大味な事は否めないが、丘陵上はほぼフラットに近い削平された空間が、僅かな段差を伴いながらも広域に渡って広がっている。

城跡を訪れるには、筒江城を起点とすればその位置は一目瞭然とは思われるが、国道312号の「加都北」交差点を目印として向かえば、その位置から鉄塔の建つ丘陵は直ぐ視界に入るので位置確認は容易く、迷わず付近までは辿り着けるだろう。城跡へ向かうには概念図に示した道路沿いからの分かり易い二通りのルートがあるが、どちらを選択しても5分程度で主郭へは到達可能である。

1_1 登城ルート

6_2 進入口

1_2 城跡概念図

この城跡は先に触れた様に城域が広く、便宜上の主郭から北側に向いては、多少緩い傾斜は伴うが、全て削平された空間となっており、この見通しの利く広い削平地に佇めば、このただならぬ臨場感には圧倒されてしまいそうになる。判別確認可能な遺構として挙げられるのは、見所遺構でもある主郭東側に施された連続する低土塁、櫓台の様に見えなくもない高さのある大型の方形土塁(二箇所)、虎口土塁に見えなくもない地形、西側傾斜面に連なる段郭群とその鋭角な切岸跡入城道の様にも窺える大型の空堀地形で、大型方形土塁に関しては、朝来から養父地方にかけては古墳が多く残されている事もあって、古墳を縄張りに取り込んで活用したものとも目には映った。これらが全て当時の遺構とは言えないが、縄張りの中での必然性を考えれば、機能の想像は付き難い部分もあるが、その可能性は非常に高いものと思われる。

11_yagura_dorui 主郭側大型土塁(古墳の活用か)

15_shukaku 広大な主郭見所

16_dorui 16_dorui_2 主郭東土塁見所

22_nisi_dankaku_heki 西段郭群の切岸見所

20_naka_yagura_2 中央の大型土塁(古墳の活用か)

25_kita_kaku 北郭

結論としてこの城跡を陣城遺構とすれば、この縄張りの大味さは充分理解出来るものであり、郭境にしっかりした切岸が施されている部分と、明らかに曖昧な部分があるのもうなずけるのである。この城跡がどこまで公的に調査されたものかはリサーチに及んでいないので分かりかねるが、機能の想像も含めた城跡探索とすれば、自分の中では非常に楽しめた城跡の一つになったのである。

城跡を個人的に評価すれば、人家が直ぐ傍まで迫った低丘陵上に、これだけの圧倒される郭跡が、農地にもならず未だ残されている事がとても信じられない気持ちではあるが、遺構そのものに見応えを感じるまでには至れなかった事から、少しでも興味を持たれた方が訪れる分には、決して無駄足には終わらない城跡と言った処か、どちらにしてもこの圧倒的お手軽感は捨て難いものがある、、、、

2011年5月24日 (火)

出角城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市久美浜町出角(イズスミ)にあって、東西に長い低山の山上に位置しており、主郭と察せられる西端郭跡には社殿が一人取り残されている。城史に関しては細川氏が丹後へ入部する以前までは、安達兵庫輔の居城が伝わっているが、詳細は不明。

城跡を訪れるには、国道312号を走り、既にリポート掲載を終えている友重城の山塊を右手に見て、706号を南下する経路が道順としては一番分かり易いとは思われる。ルート図に示した出角城へ向かう分岐地点の道路沿いには、地元の児童によって描かれた(稚拙さが何とも言えず好感が持て、素晴らしい!)史跡案内板が設置されており、それを目印として進路変更すれば良いだろう。尚、この案内板には個人的には今まで全く認識のなかった金屋本丸城が記されてあったが、今回の訪城に際しての本命とも言える金谷城と並んで、後で立ち寄る事になったので、編集が終わり次第リポート掲載予定。この金屋本丸城跡に関しては、案内板にある様に地元では充分知られた存在ではあろうが、訪問結果としても見応えのある素晴らしい城跡と感じられた事だけは先にお伝えしておきたい。

1_1

登城ルート

8 参拝登山道進入路

1_2 城跡概念図

現地に到着すれば、車は「出角公民館」に預ける事になるが、その背後にある民家敷地の一部を通過(画像に注目)して、かつての参拝登山道へ進入しなければならない。当然通過する際には一言声をかける必要はあるが、、、そこからは5分程度で社殿の建つ郭跡(便宜上の主郭)へ辿りつける筈である。

城跡の形態はほぼ概念図に示した通りと思って頂いても良いとは思われるが、地形に任せて山上尾根を削平しただけに終わっている縄張りからは、インパクトの感じられる堀切や、高低差のある切岸の醍醐味には、余り触れる事が出来ないのが現状と言えよう。堀切は尾根上で合計五箇所確認出来たが、何れも長年の堆積物や風化によって相当埋もれており、主郭背後の堀切(箱堀)を除いては、見応えには余り期待出来ないかも知れない。現状(五月)冬枯れ後と言えども城跡の藪化は進行しており、東端の山上郭跡までは取り合えず移動に難渋せず辿り着けたが、これから夏季に向けての郭移動は、当然厳しくなる事が予想されよう。

11 虎口と土橋見所

13 山上主郭へ

17_heki 主郭背後の切岸

18_hakobori 堀切(箱堀)見所

22_dorui_kaku 土塁と郭跡

23_horikiri 土塁背後の空堀見所

28_sanjyou_kaku_1 山上東郭

城跡を個人的に評価すれば、見応えのある遺構を拝む事はほとんど出来なかった事から、久美浜町における山城巡りの一環として考えた上での訪城なら、十分訪れる値打ちのある城跡と言ったところか、、、、、

2011年5月22日 (日)

此隅山城と並び称されてもおかしくない素晴らしい山城 但馬中村城跡(兵庫県豊岡市)

この山城はタイトルに「此隅山城と並び称されてもおかしくない城跡」とした様に、かつては有子山城を本城とする以前に山名氏における本城でもあった、全山要塞化された此隅山城と比べれば城域では随分劣るとは言え、山上全てに渡って郭化されたその総全長は軽く300mには達するほどの、山名四天王の山城に勝るとも劣らない大型の山城と見受けられたのである。しかも山上本郭群だけにおける郭占有面積を考えれば、此隅山城を遥かに凌駕するほどの規模を備えたものと自分の目には映ったのである。

結果的にはルート図にある北側の出郭に相当すると思えた尾根上も、南端尾根端までは踏破は出来ずに終わってしまった(城域が広い)が、規模も残存遺構も概念図に示しただけには決して終わらず、南北における山上尾根全域が戦略的に縄張りと推察しても良さそうには思えた。現状城史に関しての情報は皆無に近いが、規模や城普請における莫大な労働力を察すれば、山名氏一族による築城とも思えた(推察)のである。よって結論から先に述べれば、山城ファンの方に限れば背中を押してでも訪問をお薦めしたい城跡」という事にはなるだろう。先に触れた山名四天王の城跡と比べれば遥かに知名度には欠ける(無名に近い)が、山名氏のお膝元にまだこれだけの山城が残っていたとは、、、、「山名氏の当時の勢いがそのまま反映された城跡」と言っても決して過言とは思えない、遺構残存度抜群の素晴らしい城跡の一つでもある。

1_1 登城ルート

7 直登ルート

1_2 城跡概念図

城跡は豊岡市出石町中村にあって、標高221mの険峻極まりない山頂に位置しており、有子山城から見れば出石川を隔てた西対岸にある。訪れるには多くの山城ファンの方が既に訪れていると思われる有子山城、あるいは近世城郭でもある出石城を起点とすれば分かり易いが、まず国道426号へ進入する事が先決となる。今回直登入山口としたのは城跡東麓(画像に注目)の、遠くから城跡を望んでも藪漕ぎもなく上れそうな植林地からで、この激斜面を登り切った先には、間違いなく見応えのある空堀(横堀)が待ってくれている筈である。ちなみに25分の所要時間が必要

13_yokohori_1 横堀見所

14_heki 空堀壁となる見事な切岸

22_obi_dan_1 北郭の段郭群見所

26_nobori_isidan 北郭の上り虎口と石段跡見所

30_kitagedan_shukakuheki 主郭北下段郭

32_shukaku フラットに近い主郭の現状

39_minami_kaku 南郭群の見事な切岸

48_horikiri 南堀切見所

54_tatebori_1 豪快な縦堀見所

58_yokobori 南郭の横堀と土塁見所

現状(五月)踏破した範囲内における限りでは、植林地にあらずとも人の手が入らない山城としては木々が比較的少なく、郭移動にも難渋せず、ある程度見通しが利く事によって、概念図に示したまでの残存遺構は、ほぼ判別確認出来る状況にあると思って頂いても良いだろう。見学する場所によっては此隅山城よりコンディションは良いものであり、「国史」にある此隅山城と比べても遜色ない状態にあると言っても良いのかも知れない(意外!)。山上郭群だけにおける大雑把な形態は、ほぼ概念図通りと思って頂いても良いとは思われるが、見所は堀切以外にも数多くあり、見応えのある遺構も目白押しとなっている。山上郭群は堀切や中央の鞍部でほぼ四ブロックに分かれた縄張り変化に富んだ構造となっており、横堀と土塁に縦堀も絡めた縄張り妙味屹立する郭切、段郭群で構成された防備に秀でた北郭群と、見応えのある残存遺構の数々には圧倒されるものとも感じられた。とにかく概念図に示した見所とした遺構は、最低見逃して欲しくない遺構と思って頂いても良いし、北端郭から南端尾根付近までは、踏破する値打ちのある山城と思って頂いても良いだろう。

2011年5月20日 (金)

稲津里城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市稲津城ヶ原にあって、既にリポート掲載を終えた井垣城から見れば、川を挟んだ東側の丘陵上に位置しており、今回登城入山口とした「地蔵堂」からは、井垣城が丁度視界に入る位置にある。城史に関しては井垣城同様不明である

城跡を訪れるには、井垣城を起点とすればルート図からも直ぐ分かるとは思われるが、県道70号から新しく造成している道路傍を通過して、稲津集落に向いて橋を渡れば良い。道路沿いにある地蔵堂からは、谷に沿う形で墓地に向かう山道(画像に注目)が直ぐ目に留まるが、ここが山上主郭に向けてのスタート地点となる。墓地から山上主郭までは明確とは言えないが、藪漕ぎなしの踏み跡程度の山道が繋がっており、10もあれば迷わず主郭までは辿り着けよう。

1route 登城ルート

6 登城入山口

3 城跡概念図

現状(四月)城跡は当然藪化進行中にあるが、見学に差し障るまでには至っておらず、本郭群がで成立したシンプル極まりない城跡の形態からも、概念図に示した遺構群は判別し易く、比較的見学し易い状態にあると思って頂いても良いだろう。ただ主郭内部は僅かに郭段差は見止められるが、長年の地表風化あるいは堆積物によって曖昧なものと化しており、現状の地形から郭構成の判断は非常に難しいものとなっている。防備機能としては主郭を挟む形で二本の堀切が備わっており、主郭南側の堀切は縦堀に繋がるもので、現状を覗う限り縦堀も風化によって薄くなっており、特に見応えは感じられなかったが、北背後を断つ堀切は、切り立つ切岸の醍醐味も併せれば、非常に見応えは感じられた。

14_minami_horikiri_1 南堀切見所

17_horikiri_sokumen 堀切側面(僅かに縦堀)

18_shukaku_1 主郭の現状

21_horikiri 北堀切見所

22_shukaku_higasi_heki 主郭東側の切岸見事

23_nisi_obi 主郭西側の犬走り?

城跡を個人的に評価すれば、二本の堀切見学が全てとも言える山城であり、小規模な上に縄張り妙味にも期待出来る訳ではなく、味気なさは否めないのではあるが、この山城の醸し出す楚々とした風情には捨て難いものがあり、掲載した城跡概念図、あるいは訪城リポートに少しでも興味を持たれた方だけには、お薦め出来そうな気はしたのである。井垣城がまだ未訪の方には、二城併せた同日訪問とすれば更に充実した山城巡りとなるのではないだろうか。

2011年5月18日 (水)

別名城跡(兵庫県赤穂郡)

城跡は兵庫県赤穂郡上郡町別名(ベツミョウ)にあって、先にリポート掲載を終えた大聖寺山城から見れば、安室川を隔てた南西側の山頂に位置しており、大聖寺城からも充分望める位置にある。この山は井ノ山(標高203m)と呼ばれており、その山頂に位置する城跡は「井ノ山城」の別称があるが、城史に関しては宇喜多氏の山城と伝わっている様でもある。ただ現状明らかにされている訳ではないので、詳細は当然不明でもある。城跡を訪れるには、大聖寺山城を起点とすれば、ルート図に示した様にその位置は一目瞭然とは思われるが、直登取り付き地点としたのは道路沿いにある「須賀神社」で、社殿背後からそのまま山頂を目指して上れば、迷わず主郭までは辿り着ける筈である。直登道中は冬枯れ後という事もあって、藪漕ぎまでには至っていないが、激斜面に多く蔓延る、枯れ木の隙間を縫って登らなければならない箇所も多々ある。ちなみに15分程度で主郭へは到達可能

1_2 登城ルート

1_4 直登ルート

1_3 城跡概念図

現状(四月)城跡は、主郭だけに関して言えば、木々が少ないので意外に見通しが利くが、概念図に示した西側における規模の大きい郭群においては、藪化は相当進行しており、西出郭までは充分見て廻れる状況にはあるが、枯れ木の隙間を縫っての探索は余儀なくされるのが現実でもある。この時期でもこの様だと、夏季訪問だけは出来るだけ避けた方が良いかも知れない、、、この山城は険峻な山容から察せられる以上に、山上郭群の規模は大きいものであり、郭総全長は200m以上に達するものとも思えた。主郭だけが突出した形で、他の郭群は大した高低差もなく、西側尾根上にだらだらと連なっているが、この間には空堀の類は全く見受けられず、最大で1m前後の切岸だけが、削平された空間と併せて唯一城跡を醸すものとなっている。ただ山上における地表風化が相当激しい事(落葉樹が多い為、その堆積物で曖昧な地形が多い)から、判別確認に及べる遺構も数が限られており、取り合えず概念図に示したまでが、大雑把な縄張りと共に、自身の確認に及んだ範囲だと思って頂ければ良いだろう。

10_tyuufuku_kitakaku_2 中腹の東郭

12_shukaku_heki

主郭東壁

15_shukaku_2 主郭の現状

14 主郭北下段郭

30_obi 西郭群の帯郭

18_karabori_dorui_tikei 空堀土塁地形

見応えのある遺構は皆無に近いが、自然に任せたままの状態で現在まで至ったと見受けられる、城跡としての価値は非常に高いものであり、その佇まいを味わう程度の割り切った訪城であれば、別な意味で訪れる値打ちも感じられるのではないだろうか。状態さえ問わなければ、山城ファンの方だけには充分お薦め出来る城跡と言った処か、、、

2011年5月16日 (月)

城跡に関してお知らせ/但馬荒木城跡(兵庫県豊岡市)

お知らせ)

この城跡に関しては、以前自身が踏破確認した上で城跡遺構に間違いないものとして、所在地を同じ(豊岡市出石町荒木)にする事から、城跡呼称が判明しない推定山城跡を、仮名「荒木城跡」としてリポート掲載に及んだ事がありましたが、現地在住の方の信頼出来る情報により、やっと本来の荒木城を名乗る山城の所在地が判明しました。今回はその所在地をお知らせすると同時に、改めてその現況を「但馬荒木城跡」としてリポートさせて頂く運びとなりましたが、仮名「荒木城跡」としてリポート掲載した山城遺構は、そのままにしておくのは紛らわしいこともあって、一旦削除して今回のリポートの中に参考物件として、引き続き城跡概念図だけを掲載する事にしました。ただ相当古い形態(地表風化が著しい)の山城である事から、同じ尾根を共有する鳥居城の前身(推察)ということは充分考えられそうに思われます。もちろん現地在住の方も認識のない山城ですので、これからの進展(呼称の判明)は余り期待出来そうにないのが現状と言えますが、、、。

以下本文)

城跡を訪れるには、国道426号を経由して県道2号へ進入する事が先決となるが、既にリポート掲載を終えた細見城を起点とすれば、その位置は一目瞭然とも言えよう。細見城の位置する丘陵の真北に聳える、標高222mの山頂に荒木城跡は位置しており、直登取り付き地点となる「須義神社」の背後より、尾根にそって踏み跡を辿りながら上れば、迷わず山上主郭へは辿り着けるだろう。約15分程度

1_2 登城ルート

1_1_2 直登ルート取り付き口

1_2_2 城跡概念図

この城跡の城域は山頂だけに限られるものと見受けられたが、小規模な事も相俟って縄張りは掴み易く、その形態はシンプル極まりないものでもあり、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても良いとは思われる。山上郭はほぼ二郭で成立したものであり、主郭にはそれを取り囲む形で帯郭が付随しているが、地形上突出した形の単独峰である事、あるいは枝尾根がない事からも、堀切や空堀の類は最初から期待が持てそうには思われなかった。ただし南急斜面側の中腹尾根は未踏に終わったので推察の域は出ないが、、、ただ見た範囲内では事前予想通りと言えようか。

14_obi_shukaku_heki_2 帯郭と主郭切岸見所

20_shukaku_doruidan_1 主郭の土塁壇

22_kesiki_1 眺望

23_2maru 二ノ郭

24_shukaku_gawa_heki 二ノ郭より主郭側切岸見所

現状小規模な事から移動範囲は限られており、山上における数少ない遺構(フラットに限りなく近い郭跡、屹立する切岸跡だけ)は全て判別確認可能な、山城としては非常に良いコンディションの下にある。その中で見所を敢えて挙げるとすれば、「状態の良い切岸も含めた、楚々とした佇まいそのもの」と言った処か、、、知名度の低い山城ではまず考えられないが、個人的には遺構残存度の高さ、山頂に佇めばある程度眺望が利く事を理由に、楚々とした山城にロマンを感じる山城ファンの方だけには、充分お薦め出来る物件として目には映ったのである。

過去、仮名)荒木城跡として掲載した山城

3 4_2

2011年5月14日 (土)

畑南谷城跡(京都府宮津市)

城跡は京都府宮津市畑字南谷にあって、当時でも現在でも山深い辺境の地と呼べそうな、「陸の孤島」と言った表現がぴったりの、畑集落の直ぐ南西側に突き出した尾根上に位置している。この築城環境から察すれば、狭い谷状地形を開墾して築かれた、棚田に近い農地を含んだ集落を守備した山城の様にも窺われるが、自分にとっては今まで訪城してきた数多くの山城に共通する、築城環境における既成概念を大きく覆した城跡の一つでもある。こんな隠れ里に近い山奥の更に丘陵上に城跡を築き、狭い集落の何を守備したかったものか見当も着き難いものであり、この地に城跡を築く発想は現代人には到底理解出来難いものでもある。今回は畑地区に二城ある山城の中、本城とも呼べそうな畑城は所在地の確認も出来ず(地元では畑城も南谷城も認識にない)に終わったが、この谷間の狭い集落に二城も築かれた事がとても信じられない思いでもある。城史に関しての詳細は不明

1_1 登城ルート

6_nyuuzanguti 東尾根先端郭進入口

1_2 城跡概念図

現状城跡は藪化、地表風化共に相当進行しており、郭内も自然に任せたままの荒れ放題と化しているが、冬枯れしているせいもあって、ある程度見通しが利く事から、コンパクトな縄張りは把握し易く、数少ない残存遺構は全て判別確認可能な状態にはある。郭内には四月に入っても尚残雪が残っていたが、木々が斜面上に這うように延びていたことから察すれば、冬季においては風雪の厳しい過酷な環境が予想されよう。見所遺構としては小規模な主郭背後を断つ堀切とその切岸はまず挙げられるが、それに続く遺構となると少々言葉に詰まってしまうのが現実でもある。ただこの山城の魅力を個人的に敢えて語るとするならば、「築城された環境も含んだ佇まいそのもの」と言った表現が適切なのかも知れない。限りなく無名に近い山城であり、遺構の見応えには程遠い城跡と言うことにはなるが、辺境の地にあるが故の山城の風情に、これを機に訪れる方には少しでも触れて頂きたいと思うのが本音ではある。個人的には取り合えずこのリポートによって、この山城が認識される結果となったのであればそれで充分といった処か、、、、本城とも言える畑城の所在地を確認出来なかったのが心残りとはなったが、次回宮津を訪れた際には、何とか所在地を突き止めるつもりではいる。

12_obi 帯郭(犬走り)

15_shukaku_heki 主郭東切岸

16_shukaku_1 主郭の現状

19_horikiri 堀切見所

20_horikiri_shukaku_heki 堀切を挟んだ主郭壁見所

城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた日置浜城を起点とすれば、訪問ルートは分かり易いものとは思われる。まず国道178号へ進入する事が先決となるが、「天橋立」を目印として目指し、「籠神社」傍を通過した後、日置地区に入れば県道75号へ針路変更、その後は一般道617号で畑集落を目指せば良いだろう。現地に到着すればルート図に示した様に尾根先端小郭までは山道が利用出来るので、画像に示した付近から上り、尾根に沿って更に山上を目指せば自ずと山上主郭までは辿り着けよう。所要時間は麓から15分程度

2011年5月12日 (木)

小規模が故に全貌が窺える! 宮本城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町宮本字高取にあって、丘陵先端部にあり、文献資料による違いはあるが、字名をそのまま採用して高取城とも呼ばれている。城史に関しての詳細は不明

大屋川に沿って築かれた山城は、過去既に大杉城、三方城、田和城、左近山城、由良城、一宮城などとリポート掲載を終えたが、この城跡は田和城(通称、加保城)を起点とすれば分かり易いとは思われる。国道9号を利用して向かう場合、まず県道6号へ進入する事が先決となるが、県道6号沿いにある田和城を通過してそのまま南下すれば、自ずと宮本集落へは到達出来よう。直登開始地点は概念図を参考にして頂ければ良いが、、現状(四月)郭壁は全て枯れ木と化しているので、道路沿いからでも堀切は充分目に留まる(画像に注目)はずであり、それに向いて激斜面を上り切れば、三分内で主郭までは到達可能となっている。

1_1 登城ルート

5_2  直登ルートと城跡遠望

1_2 城跡概念図

形態は小規模(砦規模)である事からも縄張りは掴み易く、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても良いとは思われるが、本郭群は三郭構造で、その前後を堀切で断った縄張りプランはシンプル極まりないものでもある。屹立する郭壁には切岸処理が施されており、郭内には蔓延る木々が少なく見通しも利き、状態の良さと相俟って当時に思いを馳せる事も容易い状況となっており、ほぼ完存とも見受けられた遺構残存度の高さに、更に花を添える形となっている。

15_horikiri_1 南堀切と見事な堀切壁見所

16_horikiri_sokumen_1 南堀切側面

26_2maru 二ノ郭(素晴らしい状態)

29_3maru_1 三ノ郭(素晴らしい状態)

27_2maru_yori_shukaku_heki_1 見事な主郭切岸見所

23_shukaku_1 主郭の現状

20_horikiri_shukaku_heki 主郭背後の堀切見所

城跡を個人的に評価すれば、木々が少なく見学し易い状態にあるので遺構の判別がし易い事、堀切を含めた切岸の醍醐味に触れる事が可能な事、砦規模が故に縄張りが掴み易い事、それに圧倒的お手軽感も加えれば、「規模さえ問わなければ間違いなく是非お薦め出来る城跡の一つ」、と自分の目には映ったのである。養父市内にあっても大屋川に展開される城跡は特にマイナーな城跡が多いが、先に触れた大屋町の他の城跡と同様に、規模は小さいが防備機能として確実に切岸処理、あるいは堀切が施されている処が、城跡としての特徴でもあり逆に魅力とも思えたのである。大屋町に向かうにはどこからスタートしても交通の不便さは否めないが、大屋町の山城巡りの際には、冒頭に挙げた城跡の全て(非常に困難)とは言わないまでも、この宮本城(高取城)保全整備された素晴らしい状態を誇る田和城、及び三方城の三城だけは、堀切を含めた切岸に見応えがある事を理由に、是非チョイスして頂きたいと思うのである。

2011年5月10日 (火)

市野瀬城跡(兵庫県三木市)

城跡は兵庫県三木市吉川町市野瀬にあって、東吉川小学校の広い溜池を挟んだ北側の丘陵先端に位置している、当時においては藤田氏の居城が伝わっているが詳細は不明

城跡を訪れるには、中国自動車道「吉川」ICが最寄の乗降口となるが、県道17号を経由して「市野瀬」交差点を右折、その後は目印となる「東吉川小学校」を目指せばよい、506号道路上からは農作地を挟んで既にその郭切岸は窺えるが、道路沿いからは概念図にある溜池ルートで歩いて向かえば、5分内で主郭までは辿り着けるだろう。尚、北側の農道から車で上っても、堀切付近までは直接乗り付ける事が可能となっている。

1_1_2 登城ルート

4 道路から覗いた城跡東側

1_2 城跡概念図

この城跡の形態は、主郭の西側には数mほどの高さで櫓台とも見受けられる小規模な郭が構えられ、その西背後を堀切で断っているものであり、ここまでを本郭群としたならば非常に小規模な城跡と言う事になりそうである。現状主郭の東側には明らかに土塁と見受けられる地形が存在していたが、あまりにも土塁内壁部が垂直にえぐれていた事、あるいは郭内部が水平にあらず傾斜していた事もあって、多少ではあるが当時の土塁、あるいは郭跡とするには疑問が生じた。偶然付近で農作業中にあった土地所有者に、城跡に関して問いただしてみた処、近年郭内部の土は隣接する溜池の堤防を造成する際に相当採取されたそうである、やはり、、、更に城跡の南北(溜池と造成農地)から西側(民家敷地と農作地)に跨る地域も、相当造成による地形改変があったとの事であり、城跡としては現在の堀切までが土のさらわれた主郭と並んで、ほぼ当時の状態に近いものであるとの見解でもあった。もちろん堀切などはある程度埋められたものとも考えられるが、これだけ郭跡及び周囲に地形改変が窺われる以上、本来の姿は見学者の想像にほぼ委ねられるだろう、残念ではあるが、、、

8_shukaku_2

主郭の現状

6_kezurareta_tikei_2 土塁に見えた残土

10_yagura_heki 櫓台切岸

11_yaguradai 櫓台

13_horikiri_haigo_2 背後の堀切

今回は偶然土地(城跡)所有者に出くわしたお陰で、疑問に思えた部分も直ぐに解消する事が出来たが、城跡自体を個人的に評価すれば、遺構残存度は非常に低い城跡と言う事になろうが、圧倒的お手軽感を加味すれば、何とか興味を持たれた方が山城巡りの移動中に立ち寄る程度であれば、訪れる値打ちも充分生まれて来そうには思えたのである。

西畑城跡(兵庫県三木市)

城跡は兵庫県三木市吉川町西奥にあって、観音堂建立の為に造成整地された敷地を含めた部分と、その背後の丘状地に展開された大規模な削平地が当時の本郭であったと思われる。城史に関しては室町期に中西兵助正常によって築城されたものであるが、戦国期においては別所氏傘下に取り込まれたと伝わっている。自ずと別所氏と同様、三木合戦においては滅亡への道を辿った一族なのかも知れないが詳細は不明。

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた有安城を起点とすれば分かり易いとは思われるが、県道17号から有安城の真南側にある交差点で354号へ針路変更して、目印となる「吉川総合公園」を目指せばよい。運動公園から観音堂までの道順はルート図に示した赤線を辿れば迷わず辿り着けるだろう。観音堂背後の石塔から上れば直ぐにでも主郭が迎えてくれる筈である。

1route_2 登城ルート

4_2 観音堂

5_2 城跡進入口

3_3 城跡概念図

現状(四月)主郭と見受けられた大規模な削平地はかなりいびつな構造となっており、真新しい観音堂あるいは生活道路を民家まで通している為に、主郭の一部は明らかに削り落とされて消失したものの様に見受けられたが、主郭内部は比較的木々が少ないので見通しが利き、現在でも限りなくフラットに近い郭跡に佇めば、臨場感だけは得られる様に感じられた。その形態は館城を想像させるものであり、防備とした堀切あるいは土塁などの判別し易い遺構はほとんど目には留まらず、縄張りプランから考えれば非常に大味と言わざるを得ない城跡である様に自分の目には映った。播磨地方の平野部には今となっては遺構の消失した丘城も数多く見受けられるので、この城跡も残存遺構にはほとんど期待せずに訪れたのだが、取り合えず思ってもいなかった大規模な郭跡には驚きは隠せなかったのが本音と言えようか、もちろん規模にしても前述の有安城とは比べるレベルには達していないのが現実ではあるが、、、、

7_shukaku_1 主郭の現状

9_minami_gawa_1 道路を隔てた南西側地域

12 出郭の様にも窺われた集合墓地

城跡を個人的に評価すれば、三木合戦に係わる城跡に興味のある方には、史跡としてその風情を味わう程度の訪城とするのであれば、訪れても決して無駄足に終わるとは思えないが、山城ファンの方々においては、所在地の分からなかった方に対しての現況報告、あるいは実態報告程度でリポートは終えたいと思うのである。

2011年5月 8日 (日)

城跡と並んで棚田の醸す風情が素晴らしい!上世屋城跡(京都府宮津市)

城跡は京都府宮津市上世屋字本丸にあって、数えられる程度の民家が建ち並ぶ小さな上世屋集落の東側の低丘陵上に位置している。「本丸」と呼ばれる字名が語る様に、この地がかつての主郭に相当するものと伝わっているが、城主として一応名が挙がっている上野甚太夫が何時頃の人物なのかは不明。もちろん他の丹後地方の城主のほとんどが、当時(細川氏入部以前)一色氏傘下にあった事を思えば、この城主もその息のかかった一人と考えても良いのかも知れないが、現地在住の年配の方には、5万石の城主と伝わっている事、城主が馬を走らせた馬場跡(馬駆け場)は、今でも二の丸(推定)北側に広大な農地としてそのまま残っている事を聞き及んだ。

3kamiseya 登城ルート及び城跡概念図

2x_1 県道沿いにある史跡案内板

4 県道から棚田及び主郭を望む

この城跡は訪問結果から先に述べさせてもらえれば、「素晴らしい!」の一言に尽きるものであり、それは本丸背後に備わる見事な堀切、規模の大きい郭跡、屹立する切岸などの残存遺構に対してだけのものではなく、この本丸から見通せる棚田を含めた集落の在り方、築城環境も含めた城跡の佇まい、あるいは遠く外見から望んだだけで充分当時に思いを馳せることの出来る状態であって、これを機に訪れる方には、是非載せた画像でそれを判断して頂きたいのである。はっきり言って残存遺構に山城としての醍醐味や見応えは期待出来ない、それでも当時の縄張りの祖形がほとんど失われていない現状の地形を思えば、丘城としては他に比類なき素晴らしい城跡と自分の目には映ったのである。地元の方の見解によれば、城跡はもちろんのこと、本丸から南側あるいは西側に築かれた棚田も、東側における集落の中心部も当時と何一つ変わっていない状況にあり、近年集落まで繋がる県道が新しく整備された程度のものらしく、正にタイムスリップしてきた感覚に陥りそうに思えたのである。更に驚くべきは、県道がなかった時代(明治後期まで)は、遠く成相寺(府中城がある)に繋がる、険し過ぎる山の尾根が唯一の生活道路であったらしい、、、自分も含めた都会人とってはとても信じられない話しの内容である。

5_1

城跡南側切岸

12_shukaku 主郭

17_shukaku_higasi_heki 主郭東壁見所

14_horikiri_3 14_horikiri_1 堀切見所

16_2maru_baba_gawa 堀切を隔てた馬場跡見所

18_2maru_yori_shukaku 二ノ郭より主郭側

地元の方には他にも興味深い話しを数多く聞かせて頂いたが、この地区における忌まわしい過去の史実として、本当に「姥捨て山」が存在した事、この地から更に山を上れば木子(モッコ)地区に行けるが、この地はかつて平家の落人が住み着いた集落として伝わる事、ガラシャ幽閉の地として有名な味土野(ミドノ)は更にその先の山間部にある事などから、史跡ファンの方には城跡を含めた史跡巡りを、是非考慮に入れて頂きたいと思えたのである。

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた下世屋城、あるいは日置浜城を起点とすれば分かり易いが、日置浜城の望める国道178号の交差点を県道75号へ針路変更、後は県道に従ってそのまま車を走らせれば、自ずと上世屋集落までは辿り着ける筈である。

2011年5月 6日 (金)

小富士城跡(兵庫県丹波市)

城跡は兵庫県丹波市春日町小多利にあって、ほぼ独立した山塊の小富士山(標高231m)山頂に位置しており、黒井城に対しての明智光秀が築いた陣城と伝わっている。当然大味な縄張りは予想されるが、意外に規模は大きく(郭総全長100m近い)、主郭外壁は全て切岸処理されたものとなっている。ただ東郭群の境は長年の地表風化によって曖昧で、その形状などは非常に掴み難いが、段差程度の切岸で山上郭群の削平は充分行き届いていたものと感じられた。北郭には受け土塁の形で分厚い土塁まで施されており、この険峻な山頂(比高約150m)を築城環境に選んだからには、数ある陣城の中でも司令塔の様な機能を備えていたのかも知れない、、、。

1_1 登城ルート

9

入山口

1_2 城跡概念図

城跡を訪れるには、まず国道175号へ進入する事が先決となるが、黒井城を左手(真西)に望んだ時点で、右手の視界に入る秀麗な山がこれから挑む小富士山であり、直ぐ確認は出来るだろう。道標は設置されていないが、これから向かう「桃源寺」が登城口となる。その背後の墓地(画像に注目)からスタートする事になるが、縦堀地形に見えなくもない激斜面を上り始めれば、途中三箇所の展望所(大岩群)を通過する事によって、山頂までは(20分内)で迷わず辿り着ける筈である。

14_tenbousho2

展望所より黒井城遠望

20_shukaku 主郭の現状

25_shukaku_higasi_obi 主郭切岸と帯郭

24_sita_kitaku2 北郭2

23_kitakaku1_daidorui 北郭1の土塁見所

26_kirikisi_1 北郭切岸見所

30_higasi_kau_heki 東側の切岸斜面見所

現状(三月)城跡は、主郭に社殿が取り残されている事から察すれば、近年までは参拝者があったものとは思われるが、その為なのか意外に木々は少なく見通しも利くので、山上郭群においてはくまなく見て廻れる比較的良い状況にある。陣城であるが為に大味は否めない縄張りとなっており、その形態はほぼ概念図に示したものと思って頂いても良いとは思われるが、見所を挙げれば状態の良い北郭の切岸、それに伴う分厚い土塁、更に東帯郭から下まで落ち込む切岸壁と言う事になろうが、堀切も施されてはおらず、切り立つ切岸の醍醐味にも触れる事はできないので、遺構の見応えには余り期待しない方が良いだろう。

個人的に城跡を評価すれば、山頂までは最低三箇所で眺望を楽しめ、確かな登山道があるとは言えないが登山も楽しめ、更に遺構見学も楽しめる事を考えれば、充分お薦め出来る山城と自分の目には映ったのである。手軽な山登りを好まれる方には是非お薦め!

2011年5月 4日 (水)

辺境地の更なる山頂に佇む、豪快な山城 下世屋城跡(京都府宮津市)

城跡は京都府宮津市下世屋にあって、渓谷といった感じのする谷沿いに人家を連ねた、下世屋集落の北西側に聳える、通称「城山」と呼ばれる標高約300mの山頂に位置しており、当時は前野半助あるいは片岡七郎左衛門の居城が伝わっている。その大雑把な形態は、険峻極まりない山頂に主郭を構え、谷沿いに建ち並ぶ集落に向かって比較的規模の大きい郭群を連ねたものでもあり、現在でも恐らく当時でも辺境の地にある事は否めないが、現在の廃校(公民館)跡からは、かつては石高を左右する小さな棚田が、西側の山上郭群に向いて無数に重なりあっていた形跡が外見からも充分窺われた。

1_2 登城ルート

10_tozanguti 公民館からの直登ルート

1_3 城跡概念図

この山城は先に触れた様に、陸の孤島とも呼べそうな辺境の地にありながらも、規模は非常に大きく、山上郭群の総全長は300mにも及ぶものであり、集落の規模を考えれば、とてもそれに似つかわしくないもの、あるいは文献資料などには決して登場もしない前野氏には、とても分不相応な城跡と言えそうに感じられたのである。ただ一色氏一族が普請に拘った山城であれば話しは別になるが、、、 形態は直線的に繋がる痩せ尾根を地形に任せて削平し、更にその郭外壁や郭境は全て切岸化し、尾根上を二本の堀切で断った、シンプルが故に分かり易い縄張りプランとなっているが、特筆すべきは郭壁に石垣が使用されている事であり、この険峻極まりない築城環境も含めれば、非常に要害堅固な山城と目には映ったのである。この石垣跡に関しては、僅かに地表に露見しているだけではあるが、現状下草の蔓延る中で何とか目に留まった箇所、あるいはまとまった形で残存する石垣跡(余り見応えは感じられないもの)だけを概念図には示した。まだ探せばいくらでも見つかりそうには思えたが、郭内や斜面に残る崩落石の多さも考慮すれば、郭壁は全て石垣で覆われていた様な気がしなでもない(推察)、、、

19_dorui_1 東郭の土塁跡見所

21_higasi_horikiri_1 東堀切見所

25_kaku7_yori_6heki 郭7より郭6切岸

27_isigaki 高さはないが幅10mに渡る石垣跡見所

見所遺構は先に挙げた二本の堀切、石垣跡、切り立つ切岸(特に二ノ郭の高低差を伴う切岸)などは真っ先に挙げられるが、後世に全く人の手が入らず(植林地にあらず)、自然任せのままで現在に至ったと思われる、ほぼ完存とも見受けられた山城の佇まいも含めれば、この築城環境も含めた城跡の全てが見所」、と言っても過言とは思えないような気がしたのである。現状(四月)藪化は当然進行中にあり、肝心な主郭は熊笹が全て覆い尽くす状態にはあるが、全体的に見れば郭移動にも見学にも差し支えるまでには至っておらず、山城としてみればまだましとも言える状態が僅かな救いか、、、

29_kaku4_heki 郭4切岸

34_3maru_1 三ノ郭

35_2maru_heki 二ノ郭切岸凄い!

39_shukaku_heki 主郭の残念な現状

42_sita_horikiri 主郭背後の堀切見所

城跡を個人的に評価すれば、山城としても城主の知名度にも随分欠ける城跡ではあるが、先に触れた様に、完存とも見受けられた遺構の醍醐味や、その佇まいも踏まえれば、是非お薦めの山城である事だけは確かであろう。とにかく戦国期山城を堪能する事の出来る、丹後においては比較的規模の大きい城跡の一つとも感じられたのである。

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた日置浜城を起点とすれば分かり易いとは思われるが、県道75号で集落に入れば、ルート図に示した二通りの箇所から直登を敢行すれば良い。赤線ルートを辿れば迷わず山上主郭までは辿り着けるが、道路沿いの朽ちた小屋を取り付き口とした激斜面ルートは藪漕ぎのないルート、公民館側から上る尾根に沿ったルートは、激斜面ではないが一部が熊笹に覆われて歩き難いルートとなっている。どちらを選択しても、20分程度で先端部の堀切までは到達可能である。

2011年5月 2日 (月)

日置上城跡(京都府宮津市)

城跡は京都府宮津市日置上にあって、東南の方角に海が望める低丘陵上に位置している。当時一色氏の家臣であった日置(弾正)小次郎の居城が伝わるが、後の細川氏による丹後支配では、その弟でもある松井興長が細川氏の重臣として活躍した事が伝えられている。

城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた日置浜城を起点とすれば、その位置は分かり易いとは思われるが、国道178号より県道75号へ針路変更後、ルート図に示した大きな配水施設(白い配水タンク)を目指して車を走らせる事になるが、その配水施設の手前にある集合墓地が城跡への登城口となる。ここから山道に従って上れば、直ぐにでも北端の出郭らしき削平地に到達出来、更に山道に任せて上れば、南郭の明瞭な虎口を通過して、二ノ郭と三ノ郭を分断する大堀切までは迷わず辿り着ける筈である。

1route 登城ルート

6 墓地最奥から進入経路

3heki 城跡概念図

現状(四月)城跡は相当藪化が進行しているが、概念図に示したまでが踏破確認に及んだ遺構群、あるいは移動に難渋もせず見て廻る事が出来た範囲と思って頂ければ良いだろう。丘陵最高所に位置する主郭においては、現在その転用地となる敷地を目一杯配水施設が占領しており、その周囲には矢竹が蔓延り、見学も容易に出来ない状況となっているが、他の郭跡は充分郭跡に佇む事が可能となっている。見所遺構は主要三郭を分断している、三箇所に備わる堀切と言う事になるが、特に中央の堀切は薬研堀と呼ぶに相応しいものであり、掘削幅や屹立する切岸の醍醐味を併せれば、相当な見応えを感じ取る事が出来た。の堀切は箱堀に近いものではあるが、その堀切を形成する切岸の醍醐味も併せれば、充分見学者の目は楽しませてくれるとは思われる。

15_koguti 南郭の虎口見所

16_koguti_kaku 南虎口郭

21_minami_yagura 南櫓台(推察)

32_tyuuou_horikiri_1 中央大堀切見所

34_horikiri_3maru_heki 三ノ郭切岸見所

37_2maru_1 二ノ郭の現状

42_shukaku_higasi_gawa_koguti 主郭の現状(施設の為に明らかに地形改変あり)

ほぼ自然任せに近い現状の藪化(西側と北側は深刻化)を考えれば、本郭群における北、西、東側までは足を延ばす事が出来なかったが、東側におけるなだらかな斜面上は、外見からも段状に連なる削平地が覗けた事から、更に麓近くまで郭群が展開されている様には見受けられた。よって城域の広い大規模な山城と言う事だけは想像が付きそうに思われる、、、、(推察)

城跡を個人的に評価すれば、状態が良いとは決して言えない(保全整備されていない山城として見れば普通)が、ある程度縄張りが想像出来る比較的残存度の高い遺構群や、堀切を含めた見応えのある切岸を目の当たりにすれば、自ずとお薦め出来る山城の一つと言う事にはなるだろう。日置浜城も状態は良いとは言えないが、宮津地区の山城巡りの際には、是非同日訪問は考慮に入れて頂きたいと思えたのである。

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