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2010年10月 2日 (土)

やっと本来の意布伎城跡を踏破(京都府京丹後市)

1 登城ルート

8 進入路

Photo_2 3_ob 城跡概念図

この山城に関しては、公に意布伎(イブキ)城と呼ばれている山城の東側に隣接した丘陵上にある城跡を、以前(仮名)意布伎東城として紹介したが、継続したリサーチの結果、城跡呼称は公的資料にも登場している「油池城」と既に判明した。今回は本来の意布伎城を訪れるに及んだが、この山城も所在地を採用してか、別名「油池城」と呼ばれている事が分かり、訪ねる際には多少紛らわしくも感じられる。個人的には概念図に示した城跡の位置関係から、この二城は明らかに集落を挟んだ形で一体となって守備した形態でもあり、二城を併せたものが意布伎城あるいは油池城の本質とも感じられたが、、、

16_demaru_horikiri 東出郭の土橋付き堀切見所

44_demaru_honkaku_1 東出郭内の現状

城跡は京丹後市久美浜町油池にあって、訪れるには既にリポート掲載を終えた油池城の訪問ルートと同一なので、ここでは割愛させて頂くが、「意布伎神社」付近に車を路駐すれば、ルート図の如く歩いて入山口まで向かえば良い。この山道は山上主郭を経由した大師道でもあるので、この山道に任せて上れば、山上までは迷わず20分足らずで辿り着ける筈である。この山城は当時一色氏の家臣「佐野備前守」の居城が伝わるが、既にリポート掲載を終えた佐野城を本城としたあの佐野氏でもある。信長の命を受けた細川氏による侵攻を食い止める為に築かれた城跡と聞いたが、佐野氏本人は友重城主でもある小国友重(若狭守)にこの城を守備させ、自身は佐野城で細川軍(松井軍)を迎え撃ったと伝わっている。この地で激戦の末、小国友重(若狭守)は戦死したらしいが、佐野氏に関しては佐野城を脱出して生き延びたという伝承も残っているようである(現地ネタ)。どちらにしても弓木城と並び、一色氏最後の抵抗の地と呼んでも差し支えないのかも知れない。

22_2maru 便宜上の二の丸

25_dorui 土塁見所

27_shukaku_yagura_1 主郭の現状

29_yagura_obi 主郭壁と帯郭

35_minami_daihorikiri 南端堀切見所

32_kita_dankaku_gun_5 北段郭群の切岸見所

現状(九月)城跡は、地元の方による年に一度の整備(草木の伐採程度)のお陰かも知れないが、時期を考えれば移動もし易く、それなりに見学しやすい状態にはある。ただ主郭と二の丸に関しては、ほとんど夏草や低草木で覆い尽くされているので、内部に残された遺構までは目が届かない状況となっている。自ずと郭形状も含めて明確な判別確認はし難いとは思われるが、この山城の醍醐味は、櫓台とも思える主郭東先端部に佇めば、ほぼ三方に眺望が利く事であり、遠く真西に位置する久美浜城までが一望の元にある。下界が望めるという事は当時に思いを馳せる事も容易く、山城訪問において味わえる最大の醍醐味とも言えるものであり、久美浜湾も一望出来るこの状況は、正しく素晴らしいロケーションと言えるものとなっている。尚、残存遺構に関しては数は少ないが、南端斜面に施された堀切が一番見応えがあり、城跡最大の見所遺構と呼べそうには思われた。他ではルート図に示した、登山道中における東出郭を遮る土橋付き堀切が挙げられるが、この郭跡はかつて意布伎神社転用地となっていたらしく、削平も切岸処理も行き届いてはいるが、今となっては竹林雑木藪地と化しているので、中々郭内を移動し難いのが現実でもある。

個人的に城跡を評価すれば、自身は二城の同日訪問は叶わなかったが、油池城を併せた二城の見学こそが、意布伎城の本質を探る事にも繋がり、これから訪れる方には是非同日訪問はお薦めしたいのである。

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