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2010年10月

2010年10月31日 (日)

延利城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市延利(ノブトシ)にあって、ルート図を拝見して頂ければお分かりの様に、既にリポート掲載を終えた明田城を訪れた方には、川を隔てた東側の低山山上に城跡はあるので、その位置は掴み易いかも知れない。この地区には余りにも藪で踏み入る事が出来ず踏破断念した入谷城(旧明田城、これからリポート掲載を予定している高森、あるいは菊谷城と、狭い地域に少なくとも五城かつての山城跡が現存しているが、この山城は向山城あるいは緑多山城の別称があり、当時は吉田吉助の居城が伝わっている。

1_1 登城ルート

6 入山口

1nobutosi 城跡概念図

城跡を訪れるには、先に触れた明田城を起点とすれば分かり易いが、日本三景の一つでもある「天橋立」に向かう国道178号を経由すれば、男山(男山城がある)で県道53号へ針路変更して向かうルートが分かり易いとは思われる。目印となるのは高森城の城域ともなる「高森神社」で、概念図を参考にすれば今回の直登取り付き地点でもある、猪捕獲オリのある入山口(僅かに山道がある)は直ぐ見つける事が出来るだろう。地元で出くわした年配の方に登山道を尋ねれば、かつては北麓から山頂までは山道で登れたが、今となっては村の管理する城山(手入れが全くされていない)でもあり、山道の状態までは判らないとの事で、最短ルートでもあるこの谷筋を紹介して頂いた経緯がある。とにかく谷筋を山上目指して上れば主郭に到達可能ではあるが、ここでは概念図に示した様に、入山口左側尾根の先端部には、居住空間あるいは出郭とも想像出来そうな削平地が残っているので、この地を経由してそのまま尾根伝いに上れる、藪漕ぎまでは至らないルートをお薦めしたい。ちなみに主郭背後の堀切(かつての山道が通過)までは10分内で到達可能となっている。

8_kitayasiki_1 北西出郭(推察)

11_saigedan 出郭最下段

16_horikiri_1 堀切見所

21_shukaku_1 主郭の現状

20_shukaku_dorui_2 土塁見所

現状(十月)城跡は、事前に手入れのされていない山城と聞いていた通り、全域に低草木が蔓延り非常に見学し難い状態にある。その中で判別確認出来た遺構は、山上主郭と察せられる広い削平地、堀切、主郭背後に備わる土塁、切岸と言った程度になるが、主郭から東尾根上あるいは西側尾根上まではとても移動して踏破確認出来る状況にはなかったので、城跡遺構もその形態もリポートした限りではないものと思って頂きたい。これを機に訪れる方は、冬枯れ後であれば多少状態もましかとは想像が付くので、是非それに期待したいところではある、、、状態は決して良くはないが、自然に任せたままの状態で手入れがされていない分には、遺構残存度は非常に高いものと目には映ったのである。

2010年10月30日 (土)

尉ヶ腰城/牛河内城跡(兵庫県丹波市)

城跡は兵庫県丹波市春日町にあって、紹介する二城の中、尉ヶ腰城は棚原地区、牛河内城の方は牛河内地区にあるが、築城環境から考えれば、どちらもこの一帯を支配した赤井氏(荻野氏)の居城、黒井城を中心とした城砦群の一角を占める城跡だと見受けられる。尉ヶ腰(ジョウガコシ)城は三尾山城と黒井城の丁度中間に位置する事から、正に狼煙台機能を備えた砦の様にも見受けられ、牛河内城の方は、かつては黒井城から西に抜ける街道でもあった、由良坂峠を監視する機能を持ち合せた砦(関所)と見ればよいのかも知れない?そのどちらも低山山上に位置しており、その山上郭群だけを見る限りでは規模は小さく、安普請で築かれた砦の域は出ない山城でもある。城史に関しての詳細は不明

まず尉ヶ腰城跡を訪れるには、舞鶴自動車道「春日」ICが最寄の乗降口、県道69号を進行すればルート図の如く向かえば良いが、個人的には南東側から直登したが、かなりの藪漕ぎが強いられたので、下山ルートでもある藪漕ぎのない、北西側家屋付近からの直登をお勧めしたい。ただ取り付き口は此方側からでは目印となるものがないので、地形から判断して頂きたい。この城跡は標高約170mの山頂が主郭と見受けられるが、先に触れた様に小規模なものであり、地表風化で分かり難いが、箱堀を挟んだ二郭構造となっている。山上郭群の実態はほぼ概念図に近いものと思って頂ければ良いが、三方尾根には明確な削平地(特に北西尾根上は規模が大きい)が存在している。意外に城域は広く感じられたが、切岸処理などは僅かに主郭で窺われたものの、風化が激しい事から明確には判断は下せない状況でもある。尚、主郭四方の斜面上、更に南側の丘陵上までは踏破する事が叶わなかった(密生する雑木藪地)ので、残存遺構もこの限りではないものとは思って頂きたい。

1route 登城ルート

5_tera_tozanguti 由良坂進入路

1_2 城跡概念図

2_2 2_3 荒れ放題の山上郭

2_4 南郭群

2_5 規模の大きい中腹郭

牛河内城跡を訪れるには、過去既に長見城の中で軽くリポート掲載したとは思うが、ルート図中に示した山田城(砦)を起点とすれば、その位置関係は分かり易いとは思われる。まずは由良坂峠を目指さなければならないが、淨光寺」に車を預けた後は、その脇からの山道に任せれば迷わず由良坂峠までは到達出来る筈である。この城跡は概念図を拝見して頂ければ分かり易いとは思われるが、峠そのものが深く削られた凄い堀切(切り通し)となっており、その北東側山上が物見、あるいは狼煙台とした山上郭と呼べるものかも知れない。遺構分布図を持ち合わせていないので、どこまでが城域なのかは判りかねるが、堀切(切り通し)手前には台状になった番所か?あるいは関所を想像させる小規模な郭跡があるが、当時の遺構かどうかは謎、どちらにしてもその郭壁には石垣の痕跡が見受けられたので、機能の想像は見学者に委ねられるものとは思われる。山上郭は削平は行き届いているが、外壁に切岸処理は見受けられなかった。よって安普請で築かれた城と言う事にはなるが、この城跡の形態を探る上では、切り通しから山上郭までは必ず足を延ばすべきだとは思われる。

2 登城ルート

3 城跡概念図

14 台状の郭跡

19horikiri 切り通し見所

27_sanjyoukaku 27_sanjyoukaku_1 山上郭

2010年10月28日 (木)

井根城跡(京都府綾部市)

城跡は京都府綾部市井根町奥山にあって、井根集落の中にあっても更に北に向かった、屋の途切れる北端の広大な台地上に位置しており、城跡は数軒の民家があるその更に背後の丘陵上に位置している。

城跡を訪れるには、今まで上林川沿いにある山城を数多くリポート掲載して来たが、同様のルートでもある県道1号(小浜綾部線)を利用して向かう事になる。このルートでは以前赤道城をリポートしたが、これを起点とすれば分かり易いとは思われる。十倉に入り赤道城を右手に望んで車を走らせれば、交差点を過ぎて1km過ぎた付近で左折、そのまま北上して井根集落に向かえば良い。後はルート図の如く、台地の南端に設けられた真っ赤な祠のある稲荷神社(画像に注目)を目印として目指し、概念図に記したルートで民家脇からその背後の墓地にある五輪塔を経由し、かつての大師道を利用して山上主郭を目指せば、民家脇からは5分程度で迷わず辿り着けるだろう。

1_1 登城ルート

4 城跡のある台地の遠望

11 進入口

1_2a 城跡概念図

この城跡の形態は、ほぼ概念図に示した通りと思って頂ければ良いが、比較的規模の大きい主郭に付随する帯郭と、南西尾根あるいは登山道中の南尾根上の削平地で成立したものと見受けられる。その中で明確に判別可能な当時の遺構は、郭跡を除けば主郭北背後を断つ堀切と切岸程度と思って頂ければ良いが、この堀切は現在でも当時のままとも思える様な残存状態を誇っており、V字形に掘削された形状は未だに原型を保持している。更に両岸は縦堀にも繋がるものであり非常に見応えを感じる事は出来た。結果的にこの城跡の見所は堀切だけと言っても良いとは思われるが、個人的には地形図から察せられる様に、この広大な台地上(現在では田畑として開墾されている)が城跡の一部として機能していた様にも窺われ、その更なる上部の丘陵上に築かれた築城環境そのものに惹かれたのである。稲荷祠のある台地先端部の削平地(現在観音堂敷地)からは、谷沿いを通して更にその先の集落まで見通せる(物見か?)環境にあり、この高低差のある台地そのものが立派に防備として一役買っていそうにも思えたのである。車道から北側に望める稲荷祠を眺めれば、その先端部は城域としての先端(画像に注目)部に見えなくもない、、、。

15 民家背後の五輪塔

19_minami_one_kaku 南尾根上の削平地

21_shukaku_kitagawa 主郭

31_horikiri_3 見事な堀切

32_horikiri_1 縦堀へ見所

24_heki 主郭南端切岸

城跡を個人的に評価すれば、先に触れたように見所遺構は堀切だけと言っても良いが、上林川のある街道筋から更に北へ奥まった、今でも当時でも辺境とも言える地にあるこの山城は、当時の築城時における立地環境まで考えれば、別な意味で山城ロマンに限りなく浸れそうに感じられたのである。興味を持たれた方には迷わず訪問をお薦めしたいが、縄張り妙味のある城跡ではないので、遺構に多くの期待をしない事が前提とはなるだろう。

2010年10月26日 (火)

備後衆山砦跡(兵庫県豊岡市)

この備後衆山(ビンゴスヤマ)砦は兵庫県豊岡市日無にあって、現在かつての縄張り(城域)には「正福寺」が建立されている。この城は既にリポート掲載は終えているが、鶴城の真南に位置する事からも、その出城(砦)とも窺えるものであり、規模は小さいものである。もちろん今となっては寺院建設や道路造成の為に遺構の多くは消失したものと考えられるので、かつての規模は見学者の想像に委ねられるが、尾根先端部を本郭群と考えればそれなりに察しは付きやすいとは思われる。

城跡を訪れるには、まず豊岡市内に入り国道132号へ進入する事が先決、鶴城を既に訪れられた方には、それを起点とすれば位置関係は把握し易いが、梶原の信号手前で左折しルート図の如く向かえば、自ずと目印となる「正福寺」へは迷わず辿り着ける筈である。(駐車場は完備されている)

1 登城ルート

6 正福寺

1_2 城跡概念図

この城跡の形態はほぼ概念図に示した通りと思って頂ければ良いが、先に触れた様に造成新設された真新しい寺院の為に、本郭部と見受けられた南側の遺構はほぼ消失したものと察せられる。個人的には道路造成工事によって西側は削り取られ、極端な痩せ尾根と化した真南まで踏破したが、そこでは僅かにかつての堀切と思われる縦堀地形を目にする事が出来た。恐らく南尾根先端までが縄張りの一部であったものと思えるが、発掘調査後の結果はリサーチしていないので自身の推察という事にはなる。しかしこの城跡に残された見応えのある遺構は、多くはないが寺院の北側に集中しているのである。本郭部の背後を断ったと思われる、片側が縦堀に繋がる堀切(薬研堀)、北東側に繋がる郭端には土橋を伴う堀切と、およそ半分以上の遺構が消失したにも拘らず充分目は楽しませてくれている。この屹立した堀切壁上部には現在小さな祠(画像に注目)があるが、城跡の形態から推察すれば、かつてはこの祠の建つ敷地が櫓台であったかのようにも窺えるのである。他ではかつては「大石りく墓」まで繋がった横堀が備わっていたのではないかとも思わせる、土塁の残欠も南側で窺われたが、推察の域は出ないものである。

11_horikiri_3 堀切見所

14_tatebori 縦堀見所

18_yasiro 最高所にある祠

21_hokutou_kaku 北東郭跡

24_hokutou_horikiri_1 24_hokutou_horikiri_6 北東堀切見所

27_horikiri_ato 南尾根上の堀切跡

城跡を個人的に評価すれば、外見から城跡に当時の風情はほとんど感じられないが、寺院内には指定史跡ともなっている「大石りくの墓」があり、その見学も含めた訪城であれば、圧倒的お手軽感からも充分お薦め出来る城跡の一つではなかろうか。状態も良く更に見応えのある二本の堀切は、個人的にはその見学だけの為に訪れたとしても、決して無駄足に終わるものとは思われなかったのである。

2010年10月24日 (日)

畝状空堀の残る山城 久住別城跡(京都府京丹後市)

この城跡は京都府京丹後市大宮町久住にあって、同じ久住地区にある菊井氏が居城した久住城跡(木積山城)は過去既にリポート掲載したが、ルート図を見れば直ぐにお分かり頂ける様に、この山城から見れば真南側の丘陵先端部に位置している。久住城跡と区別する為に一応「別城」とした城跡呼称にはなっているが、本来は城主の名乗り(地区名と同一)が城跡名になっていたものと考えられる、もちろん出城とも考えられようが、、、。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには久住城跡と同様に、「天橋立」を目指した国道178号経由で、男山から府道53号へ進路変更するルートが一番分かり易いだろう。直登取り付き口には目印となるものが見当たらないので説明し難いが、現地に到着すれば府道沿いにある物置小屋(画像に注目)を目印として林道沿いを東へ歩き、草木の少ない取り付き易い箇所から、左手斜面に取り付いて上れば、5分内で山上の堀切までは達する事が可能となっている。

1route 登城ルート

5 城跡進入路

3ku 城跡概念図

この城跡はタイトルに「畝状空堀が残る城跡」と載せた様に、「畝状空堀の見学こそが、この山城の醍醐味でもあり魅力の全て」と言い切れそうには思えた。もちろん他の主郭東尾根を断つ堀切、北斜面に備わる堀切(縦堀に繋がる)も見逃せないものではあるが、やはり縄張りの特徴となるのは畝状空堀であり、この城跡を見学する上での圧倒的存在感にも繋がっている。当然、空堀(縦堀)自体は長年の風雪による地表風化によって深さは随分失われ、更に付随する縦土塁も土は随分流出したものとも窺われたが、主郭南斜面上にはおよそ十に渡って判別し易く現存している。現状では下草に相当覆われているので、その縦堀が下まで落ち込む全体像までは把握し難いが、コブ状の土塁地形が連続する様(画像に注目)は、山城ファンの方なら誰でも直ぐ判別可能な状況にあると言っても良いだろう。

11_horikiri_1 東堀切見所

22_unebori_4 南斜面上の畝堀見所

14_shukaku_nisi_gedan 主郭東下段

13_shukaku 主郭の現状

18_horikiri 北堀切見所

現状(十月)、郭内部においては移動に余り支障は来たさないものの、その全てが蔓延る下草で覆われており、確かな形態、あるいは確かな郭形状までは分からない状態にある。郭形状は一部推察も含めたものになるが、ほぼ概念図に近いものと思って頂ければ良いだろう。主郭内部や北斜面に残された遺構もこの限りではないものとは思えるのだが、コンパクトにまとまった小規模な山城という現実もあって、他で多くの遺構は望めない様には感じられた。

城跡を個人的に評価すれば、状態は決して良いとは言えないが、圧倒的お手軽感を含めなくとも、この幅数十mに渡る畝堀の醍醐味だけで、充分訪問をお薦め出来る城跡と目には映った。冬枯れ後の冬季訪問こそが、郭内部を含めて更に状態の良い畝堀を拝めるものと見たが、、、、

2010年10月22日 (金)

栗住城跡(兵庫県丹波市)

城跡は兵庫県丹波市青垣町東芦田にあって、既にリポート掲載を終えた芦田城跡への登山口にあたる「胎蔵寺」から見れば、芦田川を隔てた東側丘陵先端部に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を京阪神側から訪れるには、先に触れた「胎蔵寺」を目印として目指せば分かり易いが、県道7号を北上、沼城の位置する山塊が左手に見えてくる地点で一般道109号へ針路変更、最終的には城跡の直ぐ北側にある「瑞雲寺」の駐車場を借りる事になるので、「胎蔵寺」付近から東の狭い生活道路へ針路変更しなければならない。「瑞雲寺」に到着すればそこからルート図の如く西麓にある小さな墓地を目指せば良いが、ここが山上に建立された社殿に向いての入山口でもある。ここからかつての参拝登山道に従えば、山上主郭には迷わず到達出来る筈である。

1_1 登城ルート

4 県道側から城跡遠望

1_2a 城跡概念図

城跡の形態は、ほぼ自作概念図に描いた通りと思って頂ければ良いが、現状最高所に位置するのが櫓台とも見受けられる郭跡で、社殿の建つ敷地がそれにあたる。現状この東壁(前面)は低い石積みとなっているが、まさか当時の石垣とは思われない(推察)、、? 郭段差から想像すれば、ほぼ四郭で形成された城跡と見て良いものとは思われるが、神社敷地として整地されている以上、当時の形態はある程度想像を含めたものとなって来よう。便宜上の櫓台背後には見応えのある堀切が横たわっており、更にその西側山上尾根側に土塁跡、更に明確な土橋付き堀切までは充分判別確認可能となっている。個人的には更に西山上を目指して上ったが、斜面上には風化して分かり辛いが僅かに段郭跡、更にその山上には狼煙台とも呼べそうな削平地まで存在していた。おそらくこの付近までが城域として見て良いものとは思われるが、土橋付き堀切から以西は明確にそれと分かる遺構は現存していないので、見学する分においては土橋付き堀切までの見学で充分とは思われる。

117 113 郭跡(西側)

112 主郭側

Horikiri1 堀切見所

Horikiri_dobasi 土橋付き堀切見所

城跡を個人的に評価すれば、郭跡の全域が神社敷地として地形改変が窺われる以上、当時の形態は想像するしか方法は見つからないが、それでも二本の堀切は充分目は楽しませてくれているので、現状のほど良い状態も加味すれば、充分訪れる価値のある山城と言う事にはなるだろう。

2010年10月20日 (水)

松倉城跡(兵庫県丹波市)

城跡は兵庫県丹波市青垣町山垣にあって、ルート図に示した様に、足立氏本城となる山垣から見れば川を挟んだ西側の尾根先端部に位置している。自ずと西に睨みを利かせた砦跡と推察は出来ようが、城史に関しての詳細は不明。

城跡を訪ねるには、既にリポート掲載を終えた山垣城、あるいは「遠坂小学校」を目印として、国道472号を進行して目指せば良いが、登山スタート地点となるのは国道沿いにある、城跡東麓に位置する「平地公民館」で、今回はここに車を預けることになる。現在山上主郭には祠程度の秋葉社が建立されており、詳細ルート図の如く、林道入り口にある獣避け開閉フェンスから、数十m先の地点にある参拝登山道へ進入(右折)して、谷状地形を通過しながら道に任せて上れば、秋葉社のある山上までは10分もあれば辿り着けるとは思われる。尚、この付近には屋敷跡の様な広い空間が数段に渡って目に留まるが、地元の方に尋ねればこれはかつての水田跡との事である。

1_1_3 登城ルート

6 入山口

1_2_3 城跡概念図

この城跡は正しく砦の域を出ないものであり、単郭で形成されたこれ以上ない小規模な城跡ではあるが、先にリポート掲載を終えた田ノ口城と同様に、残存状態、遺構残存度共にハイレベルな状態にあり、主郭背後に備わる大型の土塁を伴う堀切(縦堀に繋がる)、あるいは郭切岸が下まで落ち込む様は非常に見応えが感じられた。この郭転用地ともなっている秋葉社の敷地では、年に一度今でも火祭りが行われているそうであるが、そのお陰もあって現在でも藪化に至らず、今でも当時のままの城跡遺構を楽しむ事が可能となっている状況は、自分も含めて無名に近い山城を訪ねる人間にとっては、非常に有難いと言わざるを得ないだろう。

14_shukaku 山上主郭

15_nobori_dorui 大土塁見所

20_kita_heki 美しい切岸跡見所

18_horikiri_dorui 堀切、大土塁見所

19_tatebori_1 縦堀見所

城跡を個人的に評価すれば、小規模な事からその全体像が窺われる事もあって、その佇まいの素晴らしさからは自ずとお薦めの城跡と言う事にはなるが、規模あるいは縄張り妙味は決して問わない事が大前提とはなろう、、、

2010年10月18日 (月)

但馬 小谷城跡(兵庫県朝来市)

城跡は兵庫県朝来市山東町小谷にあって、小谷集落へ向いて東から付き出した丘陵先端部に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには既にリポート掲載を終えた諏訪城を起点とすれば分かり易いとは思われるが、途中までは諏訪城訪問ルートと同じと考えれば良いだろう。ルート図に示した様に国道427号「矢名瀬」の交差点で針路変更して「梁瀬小学校」の傍を通過して西進すればよいが、今回車を預ける事になる小さな集合墓地駐車場は概念図には記した。ここからは墓地に繋がる道に従えば、迷うことなく城域に達する事は出来よう。ちなみに百mに渡って西側に繋がる尾根上も当時の城域とみて間違いは無いものとは思えるが、現状どこまで地形改変が行われたのかは知る術もないので、当然見学者の想像に委ねられるだろう。

1route 登城ルート

4_2 城跡遠望

3ko 城跡概念図

城跡の形態はほぼ概念図に描いた通りと思って頂ければ良いが、現状(九月)北側斜面は木々に覆われて踏破確認出来なかったので、遺構もこの限りではないものとは思って頂きたい。この城跡の特徴となるのは、やはり但馬地方特有の築城形態とも言える、空堀(二本)を挟んだ形の三連の郭(土塁郭より規模は大きい)で、空堀の深さは相当失われてはいるが、しっかり判別確認可能な状況にはある。以前和田山町の東河川沿いにある東和田城、最近では岩屋谷城も紹介したが、東和田城のそれに規模も形態も酷似しており、自分勝手な想像ではあるが、山名氏の築城技術を採り入れた、上道氏の縄張りプランの様にも窺われるのである。もちろんその想像も含めた部分が城跡巡りにおいて機能の想像と共に楽しめる部分ではあるのだが、どちらにしても個人的にはこの三連の郭は、今となっては相当数の山城で御目にかかっているので、それほど新鮮なものには感じられないが、、、しかし見所である事だけは確かだろう。他では北側の斜面に二本の縦堀跡、南に大型の縦堀が窺われたが、一本は明確に判別可能、もう二本はかつての登城用空堀道の様な気がしないでもない。

11_karabori1 空堀2見所

8_kaku3_1 三連郭の郭3

13_karabori2 郭1と空堀

19_kitakaku_1 北腰郭

18_kita_tatebori_1 18_kita_tatebori_3 北側斜面の縦堀地形見所

21_minami_kaku 南東郭

現状三連の郭内はほぼフラットな状態が自然維持されており、郭北壁には切岸跡も充分窺えるが、南側におけるなだらかな斜面は切岸は曖昧で、本来切岸処理が成されていなかったのかも知れない。もちろん地表風化の成せる業かも知れないが、、、この城跡を語るとすれば「はっきり言って見応えのある遺構は皆無、されど一部は集合墓地として変貌を遂げたのかも知れないが、最低限の明確な三連郭と空堀がここまで残っている事だけで充分満足!」と言った処が個人的評価と思って頂ければ良いだろう。少なくとも本郭群だけは、当時のまま現在に至ったものの様に見受けられたのである。

2010年10月16日 (土)

素晴らしい遺構残存度!田ノ口城跡(兵庫県丹波市)

個人的には久し振りに丹波の山城巡りとなったが、この城跡は兵庫県丹波市青垣町徳畑にあって、既にリポート掲載を終えた山垣城を居城(本城)とした足立氏の支城(出城)と伝わっている。城跡を京阪神側から訪ねるには、山垣城同様にまず国道427号へ進入する事が先決となるが、目印となるのは城跡南麓にある「鹿嶋神社」で、その参拝道となる国道沿いの入り口には、直ぐ目に留まる「六地蔵」があるので分かり易いとは思われる。

国道からは神社も直ぐに目に留まるが、その背後に望める山が城跡でもあり位置確認は容易いだろう。神社横を通過すれば「北近畿豊岡道」の高架下を潜る事になるが、潜って直ぐ左手に入山用の獣避け開閉フェンス(画像に注目)が直ぐ目に留まる筈であり、ここから社殿(秋葉?)のある山上までは、途中まで手すり付きの参拝登山道が設置されているので、迷わず到達可能となっている(5分前後)

1_1_2 登城ルート

7 分かり易い入山口

1_2_2 城跡概念図

この山城は訪問結果から先に述べれば、非常にコンパクトにまとまった縄張りを持つ小規模な城跡と言う事にはなるが、とにかく見る限り山上における遺構は完存に近ものと思われ、遺構残存度は圧倒的に高く、今直ぐにでも当時が甦りそうにも感じられたのである。おまけに縄張り内は全て植林地として間伐が行われており、全体の見通しも利く状態にあり、山城見学においてはこれ以上望めないほどの良い状態が自然維持されている。よって山上に展開される概念図に示した遺構は、全て判別確認可能な状態にあると思って頂ければ良いだろう。この城跡の魅力、あるいは見学する上での醍醐味は、当時がそのまま今に甦ったかの様な見応えのある二重堀切、他二本の尾根を断つ堀切、屹立する郭切岸、明確な縦堀と、どれをとっても全体像が窺えるものであり、その佇まいそのものが見所と言えるものの様に感じられたのである。

16_dankaku3 社殿の建つ郭跡

21_shukaku_dan 主郭マウンド地形

22_2jyuu_horikiri 23_2jyuu_horikiri1_4 二重堀切見所

34_2jyuuhorikiri_nisi_sokumen_3 主郭切岸と二重堀切の全貌見所

32_tate 縦堀見所

37_nisi_horikiri 西堀切見所

41_higasi_tatebori_1 東縦堀見所

48_demaru_1 南出郭

個人的に丹波地方においては過去多くの山城を訪ねたが、この山城の上を行くコンディションの山城には、今までお目にかかった事がないのが現実でもある。もちろん史跡として整備保全されていない山城と言う事が大前提にはなるが、、、、とにかく参拝登山道で気軽に山上まで登れる圧倒的お手軽感、遺構の判別し易さ、小規模なるが故の見学のし易さ、更に現在に至る城跡の佇まいそのものも含めれば、間違いなく推奨に値する城跡と目には映ったのである。これから訪問する準備のある山城ファンの方は言うまでもないが、史跡ファン、城跡ファンの方も含めた全ての方に、四世紀経た現在でも当時に思いを馳せる事の出来る、近世城郭では決して見ることの出来ない土塁城の醍醐味、あるいは当時の優れた構築物(遺構)の数々を、是非味わって頂きたいと思うのが本音でもある。

2010年10月14日 (木)

岩屋谷城/フタタ城跡(兵庫県朝来市)

この山城に関しては、既にリポート掲載を終えた東河城砦群の中の「小川城跡」の記事中では南東出城、あるいは「判明した城跡呼称2」の中ではフタタ城として紹介したが、このフタタ城から更に東側へ繋がる山上にも、城跡遺構が存在する事は個人的には既に分かっていた。この山城が今回訪問した上で現況報告する事になった岩屋谷城でもあるが、城跡の所在地は兵庫県朝来市和田山町宮岩屋谷にあって、標高211mの山頂に位置している。城史に関しては不明であるが、黒田城(本城)を中心とした東河城砦群の一角を占める城跡とみてまず間違いは無いものとは思える。ただ岩屋谷城から見ればフタタ城と尾根を共有している事からも、この二城の城跡呼称は違うが、概念図にも示した様に本来は岩屋谷城を山上郭とした、一つの山城として見て良いものとは思われる。

1 登城ルート

5 城跡進入口

2 3 城跡概念図

9_kofun_2ki_kaku 土塁として転用された?古墳

11_shukaku_1 山上主郭

13_minami_kaku 山上南郭

18_karabori 鞍部の土塁壇、空堀見所

岩屋谷城跡を訪れるには、小川城の記事中で触れてあるのでここでは割愛させて頂くが、ルート図の如く赤線を辿れば、難なく城跡進入口傍に建つ社殿までは辿り着けるとは思われる。付近に小型車二台程度の駐車スペースはあるが、ここをスタート地点として西尾根上に向いて歩けば、自ずと岩屋谷山上郭を経由した上で、更にフタタ城まで足を延ばせる計算にはなる。この城跡はほぼ自然地形任せに長く続く尾根上、あるいは山上を削平しただけに終わるものであり、山上郭群はほぼ三郭で形成されてはいるが、物見程度の規模と思って頂ければ良いだろう。山上主郭に到達するまでには三基の古墳を仕切り土塁(櫓台かも)として活用した形跡の残る尾根上削平地、更にフタタ城の城域になるのかも知れないが、鞍部に三連の土塁壇は窺われる。こちらは古墳に見えなかったので、明らかに但馬地方特有の築城形態でもある土塁壇として良いものとは思われるが、、、謎?

20_horikiri_ato僅かに 堀切跡

21_tatebori_ato 縦堀跡

25_shukaku_nisi_heki フタタ城主郭切岸

27_nisi_dankaku_1 フタタ城段郭群

28_heki 西端郭と切岸

今回紹介した岩屋谷城の方には見応えのある遺構は存在しなかったが、再訪となったフタタ城の方では、今回鞍部から主郭に至る尾根の境で、下草に埋もれて判別し難いが堀切跡、あるいはその両岸に明確な縦堀跡だけは窺えた。主郭から更に西側へ続く緩い斜面上は相当風化が進んでおり、段差程度で切岸が曖昧な削平地が40mに渡って連なっているが、更に西側斜面上では明確に切岸跡の窺える郭跡が五郭判別可能となっている。このフタタ城に関しては、前回の訪問では時間に余裕が無かった事からあっさりと見学を終えたが、今回は堀切から縦堀に繋がる地形が一箇所だけでも目に留まったのは唯一の収穫ではあった。この二城は一城として全体踏破するのであれば、何とか満足感の得られる訪城となる様な気はするのであるが、東河城砦群の山城巡りの一環とすれば、更に充実した山城巡りが楽しめるのではないだろうか。

2010年10月12日 (火)

栃谷城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市久美浜町栃谷にあって、栃谷川に沿った集落から見れば、北側の川に突き出した丘陵先端に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには国道312号へ進入する事が先決となるが、京阪神側から赴くのであれば、同じ国道沿いにある既にリポート掲載を終えた友重北城(仮名)を起点とすれば分かり易い。ここからは久美浜に向いて車を走らせればよいが、栃谷地区に入ればルート図あるいは概念図を参考に入山口(画像に注目)を目指せばよいだろう。国道沿いにある家屋の間の狭い山道を入山口とすれば、そこから谷沿いに少し歩き、右手斜面に巨大な空堀(画像に注目)に見えなくもない地形が目に留まれば、そこを取り付き口として右手の稜線に回り込み、なるべく激斜面を避ける形で上れば、部分的には木々の隙間を縫っての直登は余儀なくされるが、5分程度で山上郭へは到達出来る筈である。ちなみに付近で路駐スペースを探すには苦労させられるが、車を停めて10分もあれば到達可能と思って頂ければよいだろう。

1_1 登城ルート

4 進入口(入山口)

1_2 城跡概念図

8 直登取り付き口

2_16_shukaku_heki 主郭西側切岸

13_tatehori 主郭西斜面の縦堀見所

19_shukaku 主郭の現状

27_shukaku_kirikisi 主郭内部の切岸跡

23_dobasi 土橋付き堀切見所

この山城は全長60mにも満たない砦規模の城跡と言えば、未訪の方には実態が予想し易いとは思われるが、特徴としては縦堀の多用が挙げられる。個人的に明確に縦堀と判別出来たものだけを概念図中には記したが、尾根を断つ堀切も含めれば、合計8本と中々眼は楽しませてくれている。もちろん雑木に覆われた斜面上全てを踏破して確認した訳ではないので、残存する空堀遺構もこの限りではないものとは思って頂きたいが、、、 城跡はこの時期(九月)でもまだ藪化までには至っていないので、比較的見学し易い状態にはあるが、規模の大きい主郭内部は堆積物や風化によって、一部で切岸跡は窺えるが郭境までは判別し難いのが現状でもある。見所は縦堀群と東背後の尾根を断つ堀切(現状片側が堀切道)と言う事にはなろうが、堀切は更に主郭から東斜面を下りきった場所に設けられているので、明確にそれと分かるまでは是非足を向けて頂きたいのである。

城跡を個人的に評価すれば、規模の大小さえ問わなければ、遺構残存度が高い(ほぼ完存に近いもの)と見受けられたこの山城の醍醐味は充分味わえる筈であり、楚々とした山城に魅力を感じる山城ファンの方には、取り合えずお薦めは出来る城跡という事にはなるだろう。

2010年10月10日 (日)

隠れた素晴らしい山城 永留城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市久美浜町永留(ナガドメ)にあって、永留集落から見れば西側の台地状になった丘陵に位置している。ちなみに先にリポート掲載を終えた海士城のある愛宕山山頂からは、南側の尾根を経て繋がる南東枝尾根上が城跡でもある。

この城跡は現状情報は皆無に近くほぼ無名に近いとも言えるが、訪問結果から先に述べれば、自然風化に任せたままの手付かずの遺構群の残存度は非常に高いものがあり、規模が大きいので縄張りを把握するには多少時間は要するが、比較的状態の良い遺構群、機能を想像するだけで楽しめる遺構の醍醐味、縄張り変化に富んだ佇まい、更に入山口から5分程度で西端堀切に到達可能な、圧倒的お手軽感を含めれば、正に推奨に値する城跡と自分の目には映った。よってまだ未訪の方には迷わず訪問をお薦めしたい城跡として紹介したい。

1_1 登城ルート

4 入山口

1_2 城跡概念図

城跡を訪れるには先に触れた海士城を起点とすれば、位置関係は把握し易いとは思われるが、ルート図の如く国道312号を走り、永留集落に入る道路の西側の農道より目印となる池を目指して進行すれば、大きな溜池傍の入山口(画像に注目)までは難なく辿り着けよう。この付近は広い農道となっているので路駐スペースは充分確保出来るとは思われるが、ここから確かな山道に任せて上れば、概念図に示した西端堀切までは迷わず到達出来る筈である。

10_seitan_horikiri_2 西端堀切見所

39_shukaku_yagura 主郭、櫓台か

15_daihorikiri_2 主郭西堀切見所

22_shukaku_heki 主郭切岸見所

18_2ren_tatehori_1 主郭北、三連の空堀見所

25_kitakaku 北郭

66_minamikaku_koguti_1 南郭、虎口跡見所

57_dobasi 北東郭の土橋見所

58_2ren_tatehori_koguti_1 土橋に付随する二連の空堀見所

現状(九月)城跡は先に触れたように、植林地にあらずとも、人の手の入らない山城としてみれば非常に状態は誇れるものであり、地表も長年の堆積物あるいは自然風化によって多少荒れた程度で終わっており、概念図に示したまでの遺構はほぼ判別確認可能と言える状態にある。縄張りは主郭を中心として三方尾根に郭が展開されるもので、その郭占有面積も非常に大きい事から、縄張りを把握しながら見学すれば随分時間はかかるが、その中で目に留まる縦堀を含めた堀切、土塁、虎口跡などは、一部その形態が分かり難い箇所もあるが、機能の想像も含めれば、楽しく見て回れる事請け合いの城跡とも感じられた。結果的に池周辺まで繋がる削平地の全ては踏破出来なかったが、城域は相当広いものと目には映った。とにかく郭内は見通しが利くので、佇んだ時の臨場感は抜群なものがあり、切岸及び堀切の醍醐味と併せれば、見所満載の城跡である事だけは疑う余地もないだろう。

2010年10月 8日 (金)

綾部 中山城跡(京都府綾部市)

城跡は京都府綾部市中山町城山にあって、「城山」の字名が語る様に、広大な「上宮神社」敷地からその背後に至る、丘陵最高所までが城跡と伝わっている様である。個人的には自然地形なのか当時の巨大空堀なのか判断は出来ないが、それが池に繋がる谷状地形を挟んで西側の丘陵地も探索踏破に及んだが、規模の大きい郭跡(屋敷跡にも窺える削平地)が連なっていたので、城域は相当広域に及んでいたものとも察せられた。もちろんこれらは近世にまで及んだ屋敷跡地(民間を含んだ)とも窺われるものであり、その当時のものがそのまま現在まで至っているものとは思われないが、、、城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、国道27号を進行してJR「淵垣駅」を目印として「上宮神社」を目指せば迷わず辿り着けるとは思われるが、ルート図の如く「淵垣駅」手前の信号より484号へ進路変更すれば、城跡の位置する丘陵は直ぐ右手側に視界に入る筈である、ここから目指す神社駐車場までは直ぐの距離にあるので、道順は概念図を参考にすれば分かり易いだろう。

1_1 登城ルート

1_2 城跡概念図

6_jinjya_sikiti_kaku 6_jinjya_sikiti_kaku_1 広大な神社敷地

10_sanjyou_kaku_2 山上主郭の現状

12_kita_kirikisi_1 主郭北側の切岸跡

15_yasiki_e_horikiridou 神社西側の地形見所

19_nisi_yasiki_dan_2 屋敷跡地かも

現状(九月)広大な規模を誇る神社敷地は、近世において造成整地拡張跡が窺えるので、相当地形改変があったとも思われ、当時の城跡の形態はほぼ見学者の想像に委ねられるとは思われるが、丘陵最高所に位置する主郭及び神社敷地までが本郭群であったものと想定出来るかも知れない。主郭は風化も藪化も相当進行して荒れ放題の様相を呈しており、地形からその形状を把握するのは至難の業とも思えた。辛うじて北側に唯一明確な切岸跡は窺えたが、他は長年の風化によって表土は流出し、郭外壁は相当曖昧な地形と化している。

現状この城跡に関しての情報は皆無に近く、発掘調査の有無、あるいは調査後の結果もリサーチしていないので、その実態も城域もはっきりしていないのだが、本来この城跡は形態(堀切、土塁の類は目に留まらなかった)から考えても、とても戦国期を乗り切った城跡の様には見受けられなかった。個人的には館城の性格を持ったものである様な気がしないでもないが、神社西側に展開される地形(堀切道、切岸跡、郭跡、空堀地形)の方がより城跡らしく感じられたのである。

城跡を個人的に評価すれば、見応えのある遺構は皆無に近いものであり、既にリポート掲載を終えた綾部地方の山城巡りの一環として、神社参拝ついでに覗いて見る程度の訪問なら、何とか面目も保てそうには感じられた。

2010年10月 6日 (水)

岩屋倉谷城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町岩屋にあって、家屋の密集する岩屋集落の西側に位置する丘陵先端部にある。ルート図から既にリポート掲載を終えた、広田城を起点とすれば位置関係は分かり易いとは思われるが、幾地城の南側を走る2号線より、岩屋上」バス停を目印として向かえば、そこから道路沿いを西側に少し歩いた入山口までは、難なく辿り着けるとは思われる。車はバス停付近の空きスペースを借りて、自己責任において停めればまず問題はないだろう。

入山口とした農作業用の畦道(画像に注目)を北に向いてしばらく歩けば、新設された様な山道と合流可能でもあり、その道から地形図を目安にして、城跡の位置する丘陵先端部を確認後、画像及び概念図に示した付近から踏み跡程度の山道を上れば、迷わず山上主郭には到達可能である。(県道沿いの入山口より主郭までは10分程度)この山城も郷土史に載る程度の山城と聞いていたので、城史に関しての詳細は不明。

1_1_2 登城ルート

5 進入畦道

6 上り口

1_2_2 城跡概念図

城跡は訪れた時期(八月)は悪いが、現状見学に差し障るまでには至っておらず、山上に至るまでの遺構は、ほぼ判別確認可能な状態にある。その形態としては、直線状の尾根をそのまま地形に任せて削平し築かれたものであり、登山道中における東斜面に切岸跡の窺える狭小二段郭は設けられてはいるが、山上郭群に関してはほぼ単郭で形成されるものであり、その全長は50mにも満たない小規模なものとなっている。縄張りの中で目に留まった城跡遺構は、主郭西背後に設けられた土塁、その背後尾根を断つ堀切、主郭へ辿り着く手前で目に留まった、両岸が空堀状に削り落とされた土橋地形は挙げられるが、主郭外壁に鋭角な切岸跡は見受けられなかった。砦規模の城跡である事を考えれば、現状多くの遺構は望めないが、地元の方だけに認知された程度の、情報も皆無に近い山城としてみれば、自然風化に任せたままとは言え、山上に残る主郭跡のフラットに近い空間、土塁、堀切と、見学者の期待には中々応えてくれそうには思われた。

11_nobori_dobasi 上り土橋地形見所

9_higasi_2dankaku 東二段郭壁

14_shukaku_2 主郭内の現状

16_horikiri_1 堀切見所

19_nisi_yorihorikiri 西より主郭の土塁見所

この山城は城跡に関連した文献資料の類には一切顔を覗かせないでいるが、個人的には是非その存在を山城ファンの方には知って頂きたい事もあって、今回訪れる際の起点とした広田城と併せた同日訪問は何とかお薦めしたいのである(個人的には後でこの山城の事を聞くに及んだ事もあって、二城同日訪問は叶わなかったが、、、 )。 ちなみに既にリポート掲載を終えた幾地城とは三城共にほど近い距離にある事からも、これから訪問する用意のある方には、三城併せた山城巡りは充分考えられよう。

2010年10月 4日 (月)

大江口城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町石川大江口にあって、訪問における目印となる「物部神社」の建つ丘陵から見れば、ほぼ独立した形の西丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明

この城跡も既にリポート掲載を終えた石川城、山田城を起点とすれば、その位置関係は把握し易いとは思われるが、国道176号で与謝野町に入れば、ルート図の如くGSのある信号より野田川駅に向かう反対側の道路へ針路変更、そのまま赤ラインを辿れば迷わず物部神社駐車場までは辿り着けるだろう。後は概念図を参考にして主郭を目指せば、二箇所の進入口のどちらから上っても5分内で主郭までは到達可能となっている。

1_1 登城ルート

4 城跡進入ルート

6_higasi_nobori_guti 最短ルート

1 城跡概念図

現状城跡は、この時期(八月)における訪問であった事からも、木々の多く蔓延る主郭も含めて見通しは余り利かず、自ずとその全体像は掴み難い状況にある。特に主郭の三方斜面上は地表も見えないほど低草木が蔓延っており、外見から遺構を判断する事は非常に難しい状態にあった。取り合えず自身が踏破した範囲内で判別確認に及んだ遺構群は概念図中には示したが、冬季訪問ともなれば更に踏破可能な範囲も広がるものと思って頂ければ良いだろう。(遺構も決してこれだけには終わらないだろう、、)

13_gedankaku_heki 郭切岸

17_shukaku_heki_1 高低差のない主郭切岸

20_kita_monomi 北郭

この城跡は連郭式山城の多い与謝野町にあっては、他と形態を少し異にするものであり、、ほぼ独立した低丘陵上の最高所に主郭は位置するが、主郭三方を防備する形で帯郭群が無数(外見からの推察も含める)に重なりあっている。縄張りの形態上堀切の類は見受けられなかったが、屹立する郭切岸は未だ健在、現在集合墓地となっている西側の規模の大きい削平地も、当時の郭跡地(二の丸)の転用とすれば、城域は100mには軽く達するものであり、砦の域は充分出ている様には感じられた。

城跡を個人的に評価すれば、神社駐車場からは直ぐの距離にある圧倒的お手軽感、状態は良いとは言えないが遺構残存度の高さ、形態のユニークさを考慮すれば、何とかお薦め出来る城跡と言えるかも知れない。ただ訪れるのであれば、なるだけ夏季訪問は避けた方が良いものとは思われる。

2010年10月 2日 (土)

やっと本来の意布伎城跡を踏破(京都府京丹後市)

1 登城ルート

8 進入路

Photo_2 3_ob 城跡概念図

この山城に関しては、公に意布伎(イブキ)城と呼ばれている山城の東側に隣接した丘陵上にある城跡を、以前(仮名)意布伎東城として紹介したが、継続したリサーチの結果、城跡呼称は公的資料にも登場している「油池城」と既に判明した。今回は本来の意布伎城を訪れるに及んだが、この山城も所在地を採用してか、別名「油池城」と呼ばれている事が分かり、訪ねる際には多少紛らわしくも感じられる。個人的には概念図に示した城跡の位置関係から、この二城は明らかに集落を挟んだ形で一体となって守備した形態でもあり、二城を併せたものが意布伎城あるいは油池城の本質とも感じられたが、、、

16_demaru_horikiri 東出郭の土橋付き堀切見所

44_demaru_honkaku_1 東出郭内の現状

城跡は京丹後市久美浜町油池にあって、訪れるには既にリポート掲載を終えた油池城の訪問ルートと同一なので、ここでは割愛させて頂くが、「意布伎神社」付近に車を路駐すれば、ルート図の如く歩いて入山口まで向かえば良い。この山道は山上主郭を経由した大師道でもあるので、この山道に任せて上れば、山上までは迷わず20分足らずで辿り着ける筈である。この山城は当時一色氏の家臣「佐野備前守」の居城が伝わるが、既にリポート掲載を終えた佐野城を本城としたあの佐野氏でもある。信長の命を受けた細川氏による侵攻を食い止める為に築かれた城跡と聞いたが、佐野氏本人は友重城主でもある小国友重(若狭守)にこの城を守備させ、自身は佐野城で細川軍(松井軍)を迎え撃ったと伝わっている。この地で激戦の末、小国友重(若狭守)は戦死したらしいが、佐野氏に関しては佐野城を脱出して生き延びたという伝承も残っているようである(現地ネタ)。どちらにしても弓木城と並び、一色氏最後の抵抗の地と呼んでも差し支えないのかも知れない。

22_2maru 便宜上の二の丸

25_dorui 土塁見所

27_shukaku_yagura_1 主郭の現状

29_yagura_obi 主郭壁と帯郭

35_minami_daihorikiri 南端堀切見所

32_kita_dankaku_gun_5 北段郭群の切岸見所

現状(九月)城跡は、地元の方による年に一度の整備(草木の伐採程度)のお陰かも知れないが、時期を考えれば移動もし易く、それなりに見学しやすい状態にはある。ただ主郭と二の丸に関しては、ほとんど夏草や低草木で覆い尽くされているので、内部に残された遺構までは目が届かない状況となっている。自ずと郭形状も含めて明確な判別確認はし難いとは思われるが、この山城の醍醐味は、櫓台とも思える主郭東先端部に佇めば、ほぼ三方に眺望が利く事であり、遠く真西に位置する久美浜城までが一望の元にある。下界が望めるという事は当時に思いを馳せる事も容易く、山城訪問において味わえる最大の醍醐味とも言えるものであり、久美浜湾も一望出来るこの状況は、正しく素晴らしいロケーションと言えるものとなっている。尚、残存遺構に関しては数は少ないが、南端斜面に施された堀切が一番見応えがあり、城跡最大の見所遺構と呼べそうには思われた。他ではルート図に示した、登山道中における東出郭を遮る土橋付き堀切が挙げられるが、この郭跡はかつて意布伎神社転用地となっていたらしく、削平も切岸処理も行き届いてはいるが、今となっては竹林雑木藪地と化しているので、中々郭内を移動し難いのが現実でもある。

個人的に城跡を評価すれば、自身は二城の同日訪問は叶わなかったが、油池城を併せた二城の見学こそが、意布伎城の本質を探る事にも繋がり、これから訪れる方には是非同日訪問はお薦めしたいのである。

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