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2010年9月

2010年9月30日 (木)

金屋比丘尼城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町金屋にあって、小倉山と呼ばれる低山山上に位置している。城史に関しての情報は皆無に近いが、一色氏傘下にあった城跡と見てまず間違いのない処ではあろう(推察)。

城跡を訪れるには、与謝野町に入る際に必ず通過する事になる、国道176号沿いにある道の駅「シルクの町かや」を目印とすれば分かり易いだろう。城跡進入口へはルート図の如く「道の駅」角にある信号から東進して向かっても良いし、そのまま国道の北側の道を右折して東進して向かっても良い。進入口となるのは数軒建ち並ぶ民家横からの畦道(画像に注目)で、民家付近には充分な路駐スペースもあるので駐車に困る事は無いとは思われる。ここから城跡は直ぐ視界に入るが、その北丘陵上(北郭群)には鉄塔が立っているので、主郭の方角(右手)は察しが付き易いとは思われる。後は概念図を参考にして城跡を目指せば、木々は多いが藪漕ぎ箇所も無く10分程度で山上主郭には辿り着ける筈である。

1_1 登城ルート

6 進入路

1_2 城跡概念図

現状城跡は、この時期(八月)の訪問でありながらも、郭移動に差し障る状態までは至っておらず、遺構自体の風化は相当進んではいるが、概念図に示したまでが踏破した範囲で判別確認出来た遺構群と思って頂ければ良いだろう。形態としては低山最高所に位置する主郭から、北側の山裾に向いて郭が展開されるもので、地形に任せて尾根上を削平しただけに終わっており、縄張り妙味は余り感じられないものとなっている。堀切は四箇所で確認する事が出来たが、明確なものは主郭東側の一箇所のみで、残り三箇所の堀切は両サイドの縦堀地形と僅かな掘削跡で、何とかそれと分かる程度と思って頂ければ良いだろう。余り高低差の無い段郭間には、充分切岸跡も窺えて眼は楽しませてくれるものの、その郭外壁は長年の風化によるものとも思われるが、現状相当甘いものとなっている。しかし城域は意外に広いものであり、主郭から北端郭に至るまでは200m近くはありそうに感じられた(更に北側の枝尾根は未踏)。

9_shukaku_1 主郭

10_shukaku_higasi_horikiri 東堀切見所

12_dankaku_kirikisi_2 主郭北段郭切岸見所

17_kita_dankaku_gun_1 北段郭群

16_kita_dankaku_heki 北郭群の切岸

21_tatehori 北端の堀切見所

23_minami_horikiri 主郭南の堀切地形

城跡を個人的に評価すれば、これと言った見応えのある遺構も少なく、インパクトの感じられる堀切も備わってはいないので、決して是非お薦めの城跡とは言えないが、ほぼ風化に任せたまま現在に至ったものと見受けられた、遺構群の残存度は非常に高いものであり、今までのリポート掲載を終えた町内における数多い山城と併せた同日訪問なら、何とか充実した山城巡りとなるのではないだろうか。

2010年9月28日 (火)

桑野本城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は兵庫県豊岡市竹野町桑野本(クワノモト)にあって、集落の真西側に聳える三角形をした山の山上尾根に位置している。この山城は地図上あるいは外見から判断しても、相当険峻な地にあり、その痩せ尾根上を想像すれば、最初から規模の大きさや縄張り妙味には期待は出来ないとは思えた。もちろん何の予備知識もなく、何の情報も得られないままの訪問となったが、地元では字名に城山としてある様に、城跡としてある程度の認識はある様には窺えた。訪問結果としては、予想通り村の城の域は出ないものであり、山上尾根では小規模な主郭跡、その背後を断つ堀切(縦堀に繋がる)、東尾根上には狭小郭群と、取り合えず城跡を形成する最低限の遺構には何とか遭遇する事が叶えられた。

1_1_4 登城ルート

6_2 険峻な山容

11 東麓の直登口

1_2_3 城跡概念図

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた須野谷城跡を起点とすれば分かり易いが、須野谷城跡より一般道135号を更に2Km程度南下すればよい。橋を渡れば桑野本集落になるが、この付近からは既に三角をした険峻な山は目に留まるので位置確認は容易いとは思われる。ルート図に示した公民館に車を一時預けてそこから直登口まで歩く事になるが、集落手前に「無断で山菜採りを禁止」した立て札が掲げられていた様に、直登口付近に空きスペースは充分あるが、これから訪れる方は怪しまれない為にも、路駐は出来るだけ避けた方がよいだろう。直登取り付き口は概念図を参考にすれば分かり易いとは思われるが、木々の多い急斜面を上り切れば、20分程度で主郭には到達可能となっている。尚、個人的には最短ルートとなる北側激斜面を藪漕ぎしながら登ったが、上り易さを考慮すれば、たとえ時間は要しても、東麓にあたる墓地側からの直登の方が無難な様には感じられた。

13_naka_shukaku 13_naka_shukaku_2 痩せ尾根上の段郭

17_shukaku_1 主郭の現状

20_horikiri_1 堀切見所

城跡の形態はほぼ概念図に示した通りと思って頂ければよいが、はっきり言って見応えの感じられる遺構は皆無、強いて挙げれば主郭背後の縦堀に繋がる堀切と言う事にはなろうが、この人馬も寄せ付けないほど険峻な山容も含めて、楚々とした山城にロマンを感じる方だけには、何とかお薦め出来そうには思えたのである。もちろん縄張り妙味や見応えのある遺構に期待しない事が前提とはなるが、、、、個人的には残存遺構に見応えは感じられなくとも、険峻な山城を制覇した喜びだけで充分満足感に浸れる方なので、更に堀切まで拝めた事を考えれば、今回の訪城は間違いなく充実したものであったと言えるのである。

2010年9月26日 (日)

三河内作山城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町三河内にあって、三河内集落の西側丘陵先端部に築かれており、現在「作山集合墓地」となっている周辺全域がかつての城域と見受けられる。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、与謝野町を訪れる際には必ず通過する事になる、国道176号を利用して向かえばよいが、目印となるのは「梅林寺」あるいは「三河内小学校」で、今回車を預ける事になる寺院向かい側の出雲大社(分社)の駐車場を目指せば良い。駐車場からは作山墓地入り口(画像に注目)にある「六地蔵」は直ぐ目に留まるが、ここから集合墓地の北奥まで道に任せて向かえば、自ずと便宜上の三の丸までは辿り着く事が可能である。(駐車場から5分程度)

1_2 登城ルート

4tozanguti_1 進入口

1_1 城跡概念図

この城跡の形態は丹後地方でも多く見受けられる、突出した高さに位置する主郭を頂点として裾野に向いて郭が展開されるもので、主郭自体の規模は小さいものである。現状主郭には配水施設が建てられており、本来の規模は想像するしかないが、見る限り整地しただけで余り手は加わっていない様には感じられた、、、現状この時期(八月)でも山上郭群だけに限れば、意外にも見通しが利き、移動もし易く、概念図に示した遺構は全て判別確認し易い状態にある。しかし墓地周辺は現在矢竹密生地と化しており、とても踏み入る状態にはないので、本来の縄張りは概念図に示したものより随分はみ出るものと思って頂きたい。個人的には矢竹藪の中で切岸跡の窺える郭跡を三郭までは確認出来たが、、、

6_3maru_boti_gawa_1 三の丸の現状

17_hako_bori_1 中央の箱堀見所

20_shukaku_nisi_heki_1 主郭西側の切岸見所

25_nisi_tatehori 西斜面の縦堀見所

11_2ren_tatehori_dorui_1 北端の二重縦堀見所

31_higasi_dankaku_gun 東段郭群

この城跡の見所は、突出した高さにある主郭外壁を形成する切岸で、斜面下から覗き込めばほぼ全体像が拝めるので、相当な見応えが感じられる筈である。更にこの切岸下部からは、自然地形を取り込んだとも窺える大空堀(縦堀)が麓まで落ち込んでいるが、明確なものを少なくとも三箇所で確認する事が出来た。他では二の丸北側に備わる土塁を挟んだ形の二連の縦堀が眼を楽しませてくれるが、この付近は地表風化が激しい為に、本来の巨大空堀地形は現状二重堀切としか見えないものとなっている。

城跡を個人的に評価すれば、限りなく無名に近い城跡ではあるが、屹立する切岸の醍醐味や空堀の見応え、更に圧倒的お手軽感を加味すれば、自ずとお薦め出来る城跡と言う事にはなるだろう。ここから程近い距離にある幾地城と併せた訪問であれば、更に充実した山城巡りとなりそうには思われる。

2010年9月24日 (金)

松梨城跡(京都府綾部市)

城跡は京都府綾部市下八田町松梨にあって、文献などによってはその形態から館城(居館跡)として認識されている様であるが、訪問結果から先に述べれば、大空堀とそれに付随する大土塁、あるいは高い切岸で主郭を孤立させた佇まいは、伊賀地方で多く見受けられる館城を連想させるものであり、正しくそれに近いものとは感じられた。ただ当時誰の手によって築かれたものなのかは、現状城史に関しての情報は皆無に近く、館城でありながらこの城域の広さ、あるいはこの一帯が当時大槻氏の支配に及んだ範囲である事を考慮すれば、自ずと一族の拠った館城、あるいはその家臣の居館跡と考えれば良いのかも知れない、、、。 尚、西側の山上に向かう斜面には、かつてここが大槻氏の居住空間であったかの様に(推察)、家紋入りの墓石が単独で立並ぶ墓地が目に留まったので、取り合えずまだ未訪の方の参考までに、、、

城跡を京阪神側から訪れるには、国道27号を利用して綾部に入れば良いが、ルート図の如く「下八田陸橋」の手前の信号で右折して、下八田陸橋を通過して進入口を目指せばよい。陸橋を数十mも過ぎれば、道路沿いからそれらしい土塁と空堀は直ぐ目に留まる(画像に注目)筈であり、ここから城跡へ進入する事になるが、更に奥まで続く大空堀で遮られた大土塁壁が、見るものを必ず圧倒に導いてくれるはずである。

1 登城ルート

4 進入ルート

7_nyuuzanguti 進入口3 城跡概念図

現状(九月)主郭を始めとした城域の全てが雑木藪地あるいは竹林地となっているので、全体の見通しも利き難く、荒れ放題と化した郭跡は風化あるいは倒竹などによって非常に歩き辛く、とても見学し易い城跡とは言えないが、唯一最大の見所でもある大土塁や、それに付随する大空堀は、外見からほぼ全体像を窺う事が出来る状況(画像に注目)にあるので、高低差のある土塁及び幅のある空堀の醍醐味は、充分堪能する事が出来るものとは思われる。見所遺構は数少ないが、他では主郭下段に位置する広大な郭跡の片隅には古そうな石組み井戸を窺う事が出来た。これは当時の郭跡地が屋敷として近年まで使用された結果、当時掘られた井戸もそのままの状態で現在に至ったものとも考えられるが、発掘調査の結果を知らないので当然謎のまま終わりそうである。

10_daikarabori 10_daikarabori_4 大空堀と土塁見所

14_shukaku 主郭と土塁内壁

17_2maru 二の丸の現状

19_isigumi_ido 石組み井戸

20_nisi_kaku 西郭群の現状

現状城跡の東側は、近年の道路造成工事によって遺構も随分消失したものと察せられたが、道路沿いからも直ぐに拝める土塁、空堀には充分見応えは感じられたので、過去紹介した綾部地方の山城と併せた山城巡りとするのであれば、その移動中に少し立ち寄って覗いても、決して無駄には終わらないものと感じられたのである。

2010年9月22日 (水)

海士城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市久美浜町海士(アマ)にあって、海士集落の東側に聳える低山の山上に位置しており、その愛宕山と呼ばれる愛宕神社のある山上からその西側中腹尾根、更にその末端に至るまでが城域と見受けられる。実際の海士城としての遺構は、中腹尾根に存在する居住空間とも見受けられる広大な削平地で、文献資料などによっては居館跡あるいは殿屋敷跡と認識がある様に思われる。愛宕神社のある山上郭群は「愛宕山城」として別に城跡呼称があると聞いたが、尾根を共有している事あるいは詰城として考えれば、個人的には山上郭群(愛宕山)とその中間に位置する物見的な郭群、更に居館跡を併せたものが海士城に相応しいものと思われたのだが、、、、当時の城主として仲原権之太夫の名は挙がっているが、城史に関しての詳細は不明である。

1route 登城ルート

6_tozanguti 進入口

3a 城跡概念図

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた油池(ユイケあるいはユケ)城(以前意布伎東城としてリポート掲載した城跡)あるいは友重城を起点とすれば分かり易いが、国道312号を経由して一般道669号へ進入する事が先決となる。久美浜高校を目印として車を走らせ、久美浜高校からは今回車を預けることになるルート図に示した海士公民館を目指せば良い。後は城跡への登山口(画像に注目)まで歩き、消えかけた参拝登山道の踏み跡を辿れば、今回の海士城と呼ばれる広大な遺構を経由して、間違いなく社殿のある愛宕山山上までは辿り着ける筈である。

この城跡は館城と呼ぶに相応しく広大な規模を誇るものでもある。屋敷跡とも窺える広い空間の背後を守備する、一部を櫓台とした分厚く高低差のある大土塁と数段の郭跡、帯郭で城跡は成立したものであり、現状明確に判別可能な堀切跡は目に留まらなかった。ただ西側に位置する長い土橋地形は、その両サイドが人為的に削り落とされてあった事と、そこに縦堀地形が見て取れたので、ここが堀切と呼べる防備の要とした箇所かも知れない、見所となるのはもちろんこの縦堀が窺える土橋地形と、そこから主郭に向かう為には避けて通れない土塁虎口で、特にこの虎口跡は状態が良い事からも、見応えは抜群!と言っても差し支えはないだろう。ここから更に山道に任せて上れば愛宕神社までは難なく辿り着けるが、この神社敷地も整地されてはいるが、かつての郭跡地と思えば良いのだろうか、、、?   更にその背後は削平跡の窺える広い空間が、多少の傾斜を伴って山上を連続支配しているが、その最高所までは踏破していないので、本来愛宕山城としたものの縄張りまでは把握出来ずに終わってしまった。恐らく規模は大きいが削平地程度の城跡と考えれば良いのかも分からない、、、、形態は謎

13_dobasi_1 両サイドが削り落とされた土橋見所

17_koguti_dorui 17_koguti_dorui_1 土塁虎口見所

18_dorui 主郭切岸と手前の土塁

21_koudai_yasiki 屋敷跡地の現状

26_daidorui 大土塁見所

29_higasi_one_kaku

主郭背後の東尾根上の郭跡

現状、時期的(八月)にも仕方がない事だが、土塁上や郭内部は特に低草木が蔓延っており、全体像の見通しは利き難く、郭形状あるいはその形態などが分かり難い箇所も多々ある。ただ幸運にも移動に差し障るまでには至っていないので、多くは無いが歩き回れば概念図に示した遺構はほぼ見学可能な状態にあり、無名に近い城跡の一つではあるが、興味を持たれた方が覗く分には、決して期待は裏切らないものと見た。3

愛宕神社

2010年9月20日 (月)

まるで要塞の如き佇まい 大井城跡(京都府京丹後市)

この山城は、先にリポート掲載を終えた友重城と共通する氏家氏の居城と伝わっているが、規模も比較にならないぐらい大きく、察する限り氏家氏の本城とも思えた。この氏家氏は一色氏の一族と伝わっている事からも、自ずと城普請には多大な労力を注げたものとも思われ、急峻な急斜面を強引に掘削して郭を削り出して築かれたその縄張りは、丹後地方における山城の縄張り形態(連郭式が多い)とは少し異にするものであり、最高所に位置する主郭から、四方における斜面、更に南末端尾根上まで展開されている郭群は、見る限り梯郭式とも呼べそうに思われた。一山全体が要塞の如き佇まいを持つこの山城は、正に難攻不落の巨大山城と呼ぶに相応しく感じられたのである。

城跡は京丹後市久美浜町大井/一分にあって、低山ではあるが険峻極まりない標高164mの山頂に位置しており、その山頂は村境にある事から、別名「一分城」とも呼ばれている。今まで一分城と大井城を全く別城として考えておられた方は、同じ地域に名前の異なる山城が二城存在する訳ではないので、ここで改めて明確にしておきたい。地元で城跡の所在地を尋ねれば、直ぐに登山道のある入山口をアドバイスして頂いたが、意外にこの山城は地元では知れ渡っている様にも感じられた。丹後には過去紹介した山城も含めて、文献資料の類には余り顔を出さない、素晴らしいと思える山城がまだまだ沢山ある様にも見受けられたが、今回の山城巡りの中でも改めてそれを再確認した処ではある。

1_1 登城ルート

11_dorui_koguti 入山口となる南端堀切、虎口見所

1_2 城跡概念図

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた女布城を起とすれば分かり易いとは思われるが、国道312号から一般道668号へ進入して、一分集落にある「泰平寺」を目印として目指せば良い。女布城から向かえば、集落の手前付近で形の整った山は既に視界に入るが、この山頂が城跡でもあるので確認は容易いだろう。車は寺院駐車場に預ける事になるが、少し歩いた西側からルート図に示した様に山に入る道があるので、それに任せて真北側の山頂を目指せば、迷わず山上主郭には辿り着ける筈である、寺院からの所要時間は10分内と思って頂ければ良いだろう。

16_tetehori2 明確な縦堀見所

27_kakuheki 重なり合う郭壁

29 屹立する切岸跡見所

37_nisi_horikiri_dorui_1 西堀切見所

50_shukaku_heki_2 主郭切岸見所

53_shukaku_2 状態の良い主郭内部見所

55_shukaku_dorui 主郭土塁跡見所

41_kita_daihorikiri 北薬研堀凄い!

この城跡の魅力、あるいは遺構としての醍醐味が感じられた部分は、「縄張りプランも含めた要塞の如き佇まいを持つ様相そのもの」と言えば、まだ未訪の方には分かり易いかも知れない。高低差を伴う屹立する切岸跡から窺える様に、とにかく山上主郭に向いて無数に重なり合う郭群の醍醐味、あるいはその郭壁となる直立に近い形の切岸には、山城ファンならずとも全ての城跡ファンは圧倒される様にも見受けられた。現状、この時期(八月)でも郭跡などは藪化までには至っておらず、下草の少ない土がむき出しの郭壁や、豪快極まりない大空堀(薬研堀)などは充分当時に思いを馳せる事が可能とも思えた。見所遺構を挙げれば土塁、堀切、縦堀、切岸、石垣痕etc、、と、語り出せば限のない城跡ではあるが、個人的には遺構残存度、残存状態共に、人の手が入らない山城としてはこれ以上望めない状態と眼に映った事からも、自ずと推奨に値する城跡と感じられたのである。このリポートと共に、自身が踏破した範囲内で描いた概念図に少しでも興味を持たれた方には、迷わず訪問をお薦めしたいが、状態の良い山城遺構を堪能する事が出来る、史跡としても非常に価値の高い山城と見た。

2010年9月18日 (土)

丈ヶ岡城/立石城跡(兵庫県三田市)

この二城は三田市寺村町にあって、南北二方を川で挟まれた東西に長く連なる丘陵上の、谷状地形を挟んで北側に位置するのが立石城南側に位置するのが丈ヶ岡城とされており、観世寺の北背後の広大な集合墓地の西側丘陵上に位置するのが丈ヶ岡城とされるものである。

何の予備知識も無く、その実態も分からぬまま訪れる分には、起伏のない丘陵上にある事からもその所在地は分かり難く、ピンポイントで城跡に辿り着くには非常に苦労するのが現状ではある。個人的には二回目となる今回で、やっと確かな城跡遺構と遭遇する事が叶えられたが、この二城の実態が気になっていた方には、ルート図には明確に進入口、あるいは入山口を示したので是非参考にして頂きたい。どちらも城史に関しての詳細は不明であるが、大味な縄張り形態から窺える様に、陣城あるいは付け城として考えれば良いものか、、、

1_1_3 登城ルート

7 丈ヶ岡城進入ルート

1_2_3 城跡概念図

この二城を訪れる為には、まず国道176号へ進入する事が先決となるが、JR「三田本町駅」東側にある信号より、ルート図の如く寺村公会堂」を目印として目指せばよい、ここに車を預ける事になるが、まず丈ヶ岡城へは詳細ルート図に記した赤ラインを辿れば、迷わず「観世寺」集合墓地の見える鉄塔までは辿り着けるだろう。直ぐ傍にある小さな池の西側に見える丘陵上に城跡はあるので、城跡の位置確認すればフェンス脇から大池まで向かい、その土手の端(画像に注目)からそのまま上に向いて直登すれば、直ぐにでも山上北郭が迎えてくれる筈である。ここでは丈ヶ岡城へ向かう為の一番分かり易いルートを説明したが、ルート図に記した下山道を逆に上っても、難なく辿り着けるとは思われる。ただし下山においては前者で上った場合、草木で覆い尽くされた現状(八月)を思えば、自身における方向感覚は全く当てには出来ないので、方位磁石の携帯は必須条件とも思われた。尚、丈ヶ岡城跡単独の訪問であれば、観世寺までは南側から車で直接駐車場まで乗り付ける事が出来るので、墓地側から向かわれる事をお薦めしたい。

9_kitakaku_1 北郭の現状

12_daihorikiri_5 12_daihorikiri_2 中央の堀切見所

15_minamikaku 南郭の現状

この城跡は幅のある土橋付き堀切を挟んで、規模の大きい北郭と南郭の二郭で形成されたものと見受けられた(推察)が、北側から西側にかけて僅かに土塁を伴う空堀跡は窺えた。もちろん郭外周を一周した訳ではないので郭周囲全てに渡って空堀が巡っていたかどうかまで判断は出来ない。この草木に覆われた現状では、視認にも移動にも差し支え、自ずと郭形状も遺構の判別も見学者の想像に委ねられるが、南郭の南端までは踏破出来る状況には無かったので、自ずと残存遺構も含めてリポートしたものが城跡の全てではないものと思って頂きたい。

立石城へは詳細ルート図を参考にして、公会堂を出て目印となる「心光寺」まで歩いて向かい、ここから参拝道で城跡の中心部(推察)となる山王社を目指せば、迷わず城跡へは辿り着ける筈である。この城跡は社殿の建つ付近が主郭であったものと思われるが、神社敷地として整地された現状からは、推察するしか方法はないものと感じられた。遺構としては数箇所に郭境となる切岸跡、縦堀とも窺われる空堀地形、土塁を伴う空堀地形は確認出来たが、草木に覆われた状態の中ではどれも判別は難しいものであり、当時の遺構と断定するまでには至れなかった。尚、この城跡も丈ヶ岡城と同様に藪化は深刻化しており、城域は広大なものとも見受けられたが、その全域を踏破出来る状況にはなかったので、城域も残存遺構も自ずと推察に委ねられる事になるとは思われる。冬枯れ後の城跡に期待をしたい処ではあるが、、、、、難しいかも。

10_jinnjya 山王社敷地(主郭か?)

10_jinnjya_1 社殿背後壁

12 社殿北側の郭跡

19 土塁地形

20_boti_minami_kaku_1 墓地南郭跡

2010年9月16日 (木)

嶋間城跡(京都府綾部市)

城跡は綾部市中筋町城ノ腰にあって、既にリポート掲載を終えた高城の支城とされる姫城跡から見れば、八田川を隔てて東側の丘陵上にある。この城跡は大槻氏一族(大槻備中守)の本城とも伝わる、高城の南西末端尾根上に位置する事から、その支城あるいは出城機能が窺える(地元の方の見解)ものでもあるが、この城跡の所在地に「城ノ腰」あるいは「二ノ段」、更に隣接して「舘(タチ)」の小字名がある様に、その佇まいは正しく低丘陵上に築かれた館城の様でもある(推察)。現地で年配の男性に城跡を尋ねれば、姫城と並んで直ぐに所在地の回答が得られた事からも、地元では高城と同様に、案外知る人ぞ知る城跡の一つなのかも知れない。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、姫城跡を起点とすればルート図に示した様に位置関係は把握し易いとは思われるが、484号を走って向かえば、姫城跡を訪れる際に目印としたポンプ施設で東側へ針路変更、その後は目印として「嶋萬神社」を目指せば分かり易いだろう。概念図に示した様に、神社手前の公共施設の広い駐車場に車を預ければ、その西側眼の前にある丘陵が城跡でもあり、画像に示した山道を利用すれば、直ぐにでも主郭には到達可能となっている。

1_1 登城ルート

7tozanguti 進入口

1_2 城跡概念図

駐車場から城跡を望めば、丘陵の北側半分は公共施設の為に随分遺構が削り取られた可能性があり、規模の大きい主郭に佇めば、主郭を始めとして北側に展開されていたと思われる郭跡は、相当消失した様にも感じられた。現状(九月)判別可能と見受けられた当時の遺構は、郭跡を除けば主郭西側に設けられた空堀(横堀)とそれに付随する土塁、南郭の土塁を伴った虎口主郭の土塁(残欠か)、郭切岸跡、あるいは入城道にも見える縦堀に近い形の空堀が挙げられる。これらは民家が直ぐ傍まで迫っていながら、辛うじて現在まで残り得た遺構とは思われるが、空堀や土塁虎口跡などは充分眼は楽しませてくれている。ただ空堀跡は現状竹林雑木藪地と化しており、その空堀の一部は倒竹などによって分かり辛くなっているのが現状でもあり、当然全体像の見通しは利かず、傍まで寄っての確認は余儀なくされよう。

11_minami_kaku 南郭

10_shukaku_heki 主郭切岸見所

17_karabori_dorui_1 土塁、空堀見所

13_dorui_koguti_sita 南郭、虎口土塁見所

20_shukaku 主郭内部

22_dorui 主郭土塁見所

城跡を個人的に評価すれば、公共施設などによって縄張りの一部は消失したものと思えるが、この圧倒的お手軽感と空堀遺構の一部、あるいは土塁が未だ現存している事を思えば、何とかお薦めは出来そうに思えた。これから姫城を訪れる予定のある方には、この城跡も併せた二城同日訪問は是非考慮に入れて頂きたい処ではある。

2010年9月14日 (火)

女布城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市久美浜町女布(ニョウあるいはニョウフ)にあって、売布(ヒメフあるいはメフ)神社のある女布集落から見れば、丘陵を間に挟んで北側に聳える標高132mの低山山上に位置している。当時、森脇氏の居城が伝わっているが、城史に関しての詳細は不明。

城跡を訪れるには、色んなルートが考えられるのでここでは割愛させて頂くが、既にリポート掲載を終えた竹藤城跡からは程近い距離にあるので、ここを起点とすれば位置関係は分かり易いものとは思われる。国道312号経由して向かえば、まず一般道668号へ進入する事が先決となるが、売布(ヒメフ)神社を目指して進行し、付近まで到達すればルート図を参考にし、広い農道を経由して入山口となるフェンス開閉口(画像に注目)を目指せば良いだろう。車は概念図中に示した付近に自己責任において停めれば問題は無いだろう。フェンス開閉口から先は、谷状地形(山上まで繋がる縦堀かも?)に沿う形で左手側斜面を直登すれば、10分足らずで西郭には辿り着ける筈である。

1route 登城ルート

5 入山口

8_sugoi_tatehori_tikei 直登口にあたる縦堀地形

3hi 城跡概念図

この城跡は、ほぼ自然地形に任せて山上を削平し築かれており、全体的にクネクネした地形そのままが縄張りとして取り込まれており、山上郭群における郭間には僅かな段差が窺えるだけのものである。よって丹後地方特有の築城形態でもある、郭境となる高低差のある切岸は僅かに西郭の一部で窺われるだけで、ほとんど眼にする事は出来ない状況にある。郭外壁にも切岸跡が見受けられなかった事からも自ずと安普請は窺われるが、現在に至るまでの数百年に及ぶ長い自然風化を考えれば、当時鋭角なまでの郭切岸は、その多くの土が流出したものとも考えられよう。現状城跡は藪化進行中にはあるが、この時期(八月)でも移動あるいは見学に差し支えるまでには至っておらず、概念図に示したまでが藪漕ぎもなく移動可能な範囲であり、その中で目に留まった判別可能な遺構と思って頂ければ良いだろう。郭跡を除けば「三箇所の堀切見学がこの山城の全て」とも言い切れそうに思われたが、特に東端に備わる二重堀切は土橋を伴ものであり、その全体像が窺える状態からは相当な見応えを感じる事が出来た。

11_one_dobasi_1_2 南尾根上の土橋見所

14_minami_horikiri 南尾根を断つ堀切見所

13_nisikaku_kita_horikiri_dorui_2 西堀切、大土塁見所

17_shukaku_nisigawa 主郭西側

24_2jyuu_horikiri_1 二重堀切の全体像見所

26_horikiri2_1 東端堀切見所

城跡を個人的に評価すれば、丹後地方の山城に共通して言える、屹立する切岸の醍醐味に触れる事はほとんど出来ないが、既に紹介した久美浜町に存在する山城、あるいはこれから紹介する形となる山城と併せた訪問とすれば、充分山城巡りも楽しめそうには感じられるのである。

2010年9月12日 (日)

判明した友重城跡(京都府京丹後市)

この山城は以前「呼称の訂正が必要と判明した城跡」の中でお知らせした様に、無名に近く情報も皆無に近い山城の為、訪問後も追跡リサーチを継続していたが、新たに本来の友重城跡が別に存在する事が分かり、今回は本来(公的資料にある)の友重城跡を訪ねるべく、再びこの地を訪れる事になった。結果としては幸運にも目星を付けた標高約150mの山上において、まず間違いのない友重城跡の遺構と巡り合う事が出来たが、今回はその実態を以前から興味を持たれていた方、あるいはこれから訪れる用意のある山城ファンの方に向けてお知らせしたい。この山城は一色氏の一族でもある氏家氏の居城が伝わるが、後に一色氏家臣でもある小国氏が在城した模様、城史に関しての詳細は不明。

尚、先に友重城跡として紹介した城跡遺構は、確かな呼称を地元で得る事が叶わなかったが、過去概念図に示した様に、堀切などは明確なものが残っているので、充分城跡として認知されている様には感じられるのである。よって地元の郷土史などには載せられている可能性が高いものと思われるが、周辺には更に坂井城なる山城も現存していると聞いているので、その出城の可能性も否定は出来ない(判明するまでは友重北城跡と改訂してリポート掲載は据え置き)。

1_3 登城ルート

5_2 城跡進入路

3t 城跡概念図

城跡は京丹後市久美浜町友重にあって、友重集落の南西背後に聳える山の山頂に位置している。既に友重北城跡を訪問された方なら、ルート図を見れば直ぐにお分かり頂けようが、聴部神社背後の山がそれにあたる。城跡を目指すには「聴部神社」を目印(画像に注目)とすれば良いが、車は道路沿いにある変電所の空きスペースを自己責任において利用させて貰えれば良いだろう。そこから神社を目指して歩き、社殿背後の尾根を西に向いて直登すれば、10分程度(社殿から)で山上南郭に辿り着く事が出来る筈である。ただこの直登ルートは取り付き地点が分かり易く最短とは言えるが、山頂に向いては途中から相当厳しい急斜面、あるいは木々の隙間を縫って登る事になるので、最初にその覚悟は必要かとは思われる。 それほど要害堅固な山城!

16_2maru_heki 二の丸切岸見所

20_shukaku_heki 主郭切岸

22_shukaku_dorui 主郭の現状

22_shukaku_dorui_2 主郭内の大型土塁見所

24_2maru_yori_shukaku_heki 主郭南壁見所

25_daihorikiri_2 箱堀見所

28_nisikaku_karahori_dobasi_1 西郭の土橋付き空堀跡見所

城跡は直登急斜面からは想像も付かないほど、この時期(八月)でも比較的見学し易い状態が自然維持されており、意外に木々が少ない事からも見通しが利く状態にあるので、コンパクトにまとまった縄張り内の遺構は、ほぼ判別確認可能とも言える状況にある。これは人の手が入らない山城としては文句の付けようのない状態とも言えよう。概念図に示したまでが自身が踏破確認に及んだ遺構と言う事になるが、未だ直立に近い形で屹立する切岸は健在、更に土塁の備わる主郭西背後10m以上降りた地点には、見応えのある箱堀が西郭の土塁を付随して横たわっている、もちろんこの遺構群が城跡の最大の見所でもあるが、個人的には急峻な斜面を登ってまで窺うに充分な遺構と感じられた。後でリポート掲載の予定をしている大井城(氏家氏の居城、本城の可能性あり)と比べれば、規模から考えても支城と呼べそうには思われるが、推察の域は出ないものである。

2010年9月11日 (土)

白髪城跡(京都府綾部市)

この山城は綾部市野田町にあって、既にリポート掲載を終えた井根山城(野田城)から見れば、尾根を共有した南東側に聳える山の、険峻な山上最高所(標高約253m)に位置している。「白ヶ城」の別称があり、当時梅原刑部太夫の居城が伝わってはいるが、詳細は不明

城跡を訪れるには、井根山城(野田城)を起点とすれば位置確認は容易いが、ルート図の如く国道173号より「井根山公園」駐車場を目指せばよい。井根山城をまだ訪れていない方には自ずと尾根をそのまま移動して向かえば良いが、ここでは駐車場から大師道を経由したルートを紹介させて頂いた。これは駐車場から道路に従って、大師道入り口となる目印の石仏を目印として向かい、そこからは尾根に向いて上り、更に山頂を目指して上るルートである。過去には登山道があったらしいが、現在は踏み跡すら消えており、数箇所で藪漕ぎ移動は余儀なくされた。上り斜面も中々厳しいものがあったが、所要時間20分(石仏から)で山上郭群に辿り着く事は出来た。

1_2 登城ルート

4 進入口

2 城跡概念図

現状(六月)城跡は藪化が深刻化しており、主郭は矢竹で全て覆われ、郭内に踏み入る事は困難を極める状況となっている。もちろん概念図に描いた主郭形状は外見からの推察になるが、低い段差で三郭に分かれている様には窺われた。その中で明確に判別可能な遺構は、主郭背後に備わる堀切帯郭程度と言う事になるが、矢竹の密生であれば、これから先も良い状態の城跡は拝む事は到底出来ないものと予測される。本来なら井根山城と併せた二城同日訪問をお薦めしたい処だが、この状態ではとてもお薦めは出来そうに無いのが現状でもある。むしろこれから「夏季においての訪問は絶対に禁物」と言う言葉しか浮かんで来ない。もしそれでも興味を持たれた山城ファンの方には、どの道主郭内の踏破は困難であったしても、山上までは僅かな藪漕ぎ程度で上れる事、あるいは険峻極まりない様相を呈した山城の風情は充分味わえるとは思われたので、トライしてみる価値はあるかも知れない、、、、

8tyuufuku_kaku_2 中腹尾根上の郭跡

9_nisi_kaku 西郭

11_obi 帯郭

14_horikiri 14_horikiri_1 堀切の現状

今回はこの山城が気になっていた方への、タイムリーな現況報告となったのであれば良しとしたい。

2010年9月 9日 (木)

須野谷城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は兵庫県豊岡市竹野町須野谷(スノタニ)にあって、竹野川から集落を望めばほぼ独立して見える丘陵上に位置(画像に注目)しており、位置確認は容易い筈である。この但馬地方においては、圧倒的に豊岡市内に山城は集中しているが、その山城の中でもこの城跡は情報が皆無に近いものであり、事前に「石垣跡が残っているらしい」と言う、外部から得た情報だけを頼りに現地に赴いた。

城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた神原城を起点とすれば分かり易が、「江野トンネル」を抜けた後は国道178号はそのまま更に西進し、一般道135号の道路標識のある場所で左折すればよい。ここからは次の左折箇所でもある「随音寺」を目指して南下すればよいが、その付近からは既に城跡の位置する丘陵は竹野川を跨いで視界に入るので、ルート図を参考にして今回車を預ける事になる公民館、あるいは城跡背後の切り通しを目指せば難なく付近までは辿り着けるだろう。個人的には公民館に車を預けて、大手とも感じられそうな谷筋から急峻な山容を眺めながら、直登口でもある南麓の墓地を目指したが、少しでも楽をしたいなら、城跡西背後の切り通し周辺に車の路駐スペースは充分あるので、ここから墓地に向かえば良いだろう。墓地背後斜面をそのまま直登で上れば、直ぐにでも山上郭が迎えてくれるはずである。

1route_2

登城ルート

5_2 城跡遠望

Zz 城跡概念図

11_shukaku_nai_genjyou_1 主郭内部の現状

13_isigaki 13_isigaki_4 石垣跡見所

14_obi_1 帯郭?

この山城は限りなく無名に近い城跡である事、更にこの時期(八月)の訪問ともあって、藪城は充分覚悟の上で臨んだつもりではあったが、ほぼ単郭と眼に映った山上主郭は夏草や低草木で一面覆い尽くされており、とても満足の行く見学は出来そうにない状態にあった。当然郭内部(画像に注目)の現状から考えても、目に留まる遺構(土塁など)は皆無に近く、郭形状(形態)などはほぼ推察に頼るしかない状況でもある。それでも主郭南東壁に低土塁の痕跡は確認、更に北西壁を全て覆い尽くしていたと思われる石垣跡は、高さが50cm程度ではあるが、数十mに渡って地表に露見しており、何とか今回の訪問における面目は保つ事が出来た。主郭北西壁を巡る石垣下は、地表が露見しないほどの下草で覆われた郭跡を確認する事が出来たが、これは空堀を伴った土塁なのかあるいは帯郭なのかは、はっきり判明しないままに終わってしまった、、、、残念!

城跡を個人的に評価すれば、縄張り妙味にも欠け非常に大味な城跡と言う事にはなりそうだが、遺構は手付かずのまま現在に至ったものとも察せられ、石垣跡も含めてほぼ完存に近いものと眼には映った。この石垣跡に興味のある方は、訪れても決して期待はずれに終わるとは思えないが、城跡自体(縄張りあるいは見応え)を期待して赴けば、落胆する事は必至とも思われた事から、ここは当時の石垣跡に興味のある方だけにお薦めの城跡、と言う事でリポートは終えたい。

2010年9月 7日 (火)

陣取城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町石川にあって、先にリポート掲載を終えた枝ヶ城から見ればほぼ真東に位置する山上にある。この山城も地域名が語るように、石川氏の持城として良いのかも分からないが推察の域は出ない、城史に関しての詳細は不明でもある。

城跡を訪れるには、枝ヶ城を起点とすれば位置関係は直ぐに把握出来るものとは思われるが、画像に示した道路沿いの石碑、あるいは「陣取り」の小さな標識を登山口としての目印とすれば分かり易いだろう。ここから山道で墓地まで向かえば、民家背後の物見の様な古墳までは難なく到達出来るが、山上主郭を目指すには更に尾根に沿って上らなくてはならない。15分程度で山上主郭には辿り着けるが、一部の箇所だけではあるが、多少の藪漕ぎは覚悟しなければならないだろう。尚、下山の際には地形状直登口とした古墳まで戻るのは至難の業に近いと思われるので、ルート図に示した様に、北西側の林道に降り立つ意識で下山すればよいものとは思われる。

1_1 登城ルート

2_7 登山口

1_2 城跡概念図

城跡はほぼ二郭で形成されただけのものであり、踏破した範囲内で目に留まった主だった遺構は、郭跡を除けば二本の堀切主郭背後の土塁程度であり、ほぼ概念図に示した通りだと思って頂ければ良いだろう、ただ現状(七月)郭内は自然任せの荒れ放題(画像に注目)と化しており、移動には余り難渋しないが周囲の斜面は下草や木々で覆い尽くされているので、縦堀の有無までは確認出来なかった。城跡の形態から考えても遺構は図中に示した以上に期待は持てないとは思われたのだが、調査結果を把握していないので、残された遺構もこの限りではないのかも知れない、、、?

9_kofun_1 物見とも窺える古墳

13_shukaku_nai 主郭の現状

12_shukaku_dorui_1 主郭背後の土塁見所

14_horikiri 15_tatehori 縦堀に繋がる堀切見所

18_minami_horikiri 南端の堀切見所

城跡を個人的に評価すれば、この現状、あるいは見応えを感じるまでには至らない遺構群から判断して、現況リポートに興味を抱かれた方のみが対象の山城と言う事にはなりそうだが、明確な堀切あるいは土塁が未だ山上に残されている事を思えば、限りなく無名に近くても、楚々とした山城に魅力を感じる山城ファンの方には、お薦め出来る物件かも知れない。

2010年9月 5日 (日)

神原城跡(兵庫県豊岡市)

この山城は兵庫県豊岡市竹野町森本にあって、神原集落の南西背後に聳える山の東尾根先端部に位置しているが、この森本地区には他に市場城、あるいは森本城が現存していると聞いた。現状では他の二城はまだ場所の特定には漕ぎ着けていないものの、今回の訪問でおよその見当を付けることは出来た。しかし今回は時間の関係もあって他の二城までは踏破する余裕がなかったが、この三城の中では一番規模が大きく(推察)、地形の上から考えても一番重要視された城跡であろうと思われた事から、まずこの山城が森本地区における最初の攻略城となった訳ではある。城史に関しての詳細は不明

1route 登城ルート

5 路駐箇所より城跡遠望

城跡を訪れるには、まず豊岡市内を通過した後に国道178号へ進入する事が先決、このルートでの訪城は以前伊賀谷城を紹介した事があったが、そのまま道路に任せれば鳥取まで向かえるルートでもある。国道178号が通過する江野トンネルを抜ければ、ルート図の如く左手側の側道より県道1号へ進路変更すればよい。後は道路沿いから確認可能な「山中神社」社殿を目印として目指せば、迷わず路駐箇所(画像に注目)までは辿り着けるだろう。ここから歩いて神社まで向かい、その背後から山道を利用して上れば、10分足らずで山上主郭までは辿り着けるとは思われる。3k

城跡概念図

9_horikiri_dorui_1 北端堀切、土塁見所

12_fuku_yori_shukaku 本郭部

13_fukukaku 副郭より南削平地

15_horikiri_dobasi_3 土橋付き堀切見所

21_kita_shamen_horikiri_dorui 北斜面の堀切見所

城跡の形態としては、ほぼ主要二郭で形成されたものであり、この二郭の全長は20m程度の非常に小規模な砦規模の城跡と言えば、まだ未訪の方にとっては分かり易いかも知れない。ただ三方の尾根に縦堀を伴う堀切、あるいは郭切岸跡が物語る様に、決して安普請で築かれた山城の様には見受けられなかった。見所を一箇所だけ挙げれば、本郭部背後を断つ土橋を付随させた堀切(画像に注目)、と言う事にはなろうが、この土橋は残存状態も良く空堀部分の片側に備わっており、その両サイドは縦堀として刻まれているので、非常に見応えは感じられた。城跡全体を見る限り山上郭は詰城、あるいは物見としての機能を持ち合わせたものと眼には映ったのだが、そうなれば北麓の台地状になった神原集落辺りが、当時の居住空間であったとも思えるのである。森本城が対岸に位置する尾根先端部にある事から察すれば、自ずとそれに挟まれた形で街道があったとも思われ、地形を城跡側から見渡せばより一層遺構見学も楽しめそうな気はするのである。

この時期でも(八月)概念図に示した遺構群は、全て判別確認可能とも言えるとてもよい状態にあるので、四季を問わず納得した見学が可能とも感じられたが、規模の大小さえ拘らなければ、楚々とした山城は充分堪能出来るものとは感じられた。山城ファンはもちろんの事、お手軽感からも城跡(史跡)ファンにもお薦め出来る山城の一つである。

2010年9月 4日 (土)

曽根城跡(京都府船井郡)

城跡は京都府船井郡京丹波町曽根中上にあって、中上集落西背後の丘陵上先端部に位置している。京丹波町にあっては、この城跡は規模が比較的大きい方に入るものとは思われるが、まだ未訪の方には陣城の如き大味な城跡と言えば察しが付き易いかも知れない。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、以前「塩田城跡」を紹介したと思うが、その訪問ルートとほぼ同様と考えれば分かり易いだろう。京阪神から向かう場合は国道9号を北上しても良いし、京都縦貫自動車道を利用したなら「丹波IC」で降りて、国道9号「須知」の信号を左折して一般道444号へ進入すればよい。曽根付近まで辿り着けば、ルート図に示した今回の直登取り付き地点となる、無住の小さな寺院を目印として目指せば分かり易いとは思われる。今回の訪城では車の駐車に困らない事から、寺院からの直登を選択したが、地形図を見る限り城跡の位置確認さえすれば、麓のどこから取り付いて上っても、間違いなく主郭には辿り着けるものとは思われる。この時期(三月)でも藪漕ぎ直登を強いられた事を思えば、どこから取り付いて上っても同じようには感じられたが、、、

3s 登城ルート及び概念図

5 取り付き地点

S_7 土塁見所

S_8 広大な郭跡

城跡の形態としては、広大な尾根上はほぼフラットな状態で、仕切り土塁を境として三ブロックに分かれた郭構成となっている。冒頭に述べた様に大味な城跡でもあり、郭跡を除けば土が流出して高さの失われた分厚い土塁が、唯一城跡を感じさせる遺構と思って頂ければ良いだろう。ただこの厚い土塁の両端は横矢構造となっており、多少ではあるが眼は楽しませてくれそうには思われた。尾根上を埋め尽くした三郭共に規模は大きいもので、木々が多く蔓延り歩測もし難い状況ではあったが、目測も含めて総全長150m規模の城跡と考えれば、未訪の方には察しは付き易いだろう。残存遺構に関しては、土塁は地形から充分判別確認が可能ではあったが、三方斜面上は蔓延る草木(密生に近い)の為に、縦堀の有無までの確認には至れなかった。

城跡を個人的に評価すれば、冬季でも藪漕ぎの直登が強いられる事、あるいは訪問時期も限られる(夏季は禁物!)とあっては、軽い気持ちでお薦めとは絶対に言えそうにない。もちろん目に留まる残存遺構も限られてくる事から、所在地の確認及び無名に近い城跡の紹介程度で、今回のリポートは終えたいと思う。ただ自分の見た限り、遺構は当時から現在まで手付かずのまま、ほぼ完存に近い形で自然保持されたものと眼に映った事からも、興味のある方が覗く分には、決して無駄足には終わらないものとは思われたが、、、

2010年9月 2日 (木)

実態が判明した伊久知城跡(京都府与謝郡)

この山城は以前「伊久知城に関して、、」の掲載記事の中でお知らせした様に、何の予備知識のないまま訪れると、敷設された大師道で大師山まで上ってしまうか、あるいは城跡遺構を見学出来ないままに下山するといった、最悪の結果に終わりそうとも感じられた。個人的にはメールでの事前情報から、先にリポート掲載を終えた砦遺構(本郭群と勘違いした)は何とか見学出来たが、これから訪れる方はルート図を参考に、間違いなく城山稲荷神社のある山上主郭まで辿り着ける、城址碑(本来の登城口となる)の西側にある参拝登山道(画像に注目)を利用して上られる事をお薦めしたい。もちろん城址碑経由でも大師道から少し反れて、踏み跡程度の急斜面を上れば到達(10分程度)出来るが、かつての登山道は荒れ放題と化しており、倒木で非常に上り辛いのが現状でもある(それでも山城ファンの方には、南三段郭とその虎口の醍醐味を味わって頂く為に、急峻な此方からの登山をお薦めしたいが、、、)。尚、西側にある参拝登山道は、民家の間から赤い鳥居が直ぐ望める位置にあるので、これを目印とすれば分かり易いとは思われる(此方に城址碑はない)

1_1 登城ルート

Nisi_tozanguti_1 城址碑西側の参拝登山道

1

東砦との位置関係

城跡を訪れる道順に関しては、伊久知(幾地)東砦跡のリポートで既に説明してあるので、ここでは割愛させて頂き、まず訪問結果をお伝えする事になるが、一言で城跡を語れば「連郭式の単純な縄張りプランではあるが、巨大とも言える空堀は縄張り妙味を感じさせるものであり、そのシンプルな形態は豪快極まりない城跡」と言う事になろうか。参拝登山道西側枝尾根斜面にも削平地が数箇所目に留まった(未踏に終わったので概念図には記していない)事からも、東砦を併せた城域は相当広いものであり、一色氏の重臣として活躍した石川氏の当時の勢力は、この山城を覗くだけで充分把握出来そうな気はするのである。尚、既にリポート掲載を終えた石川地区にある石川城も、名が語る様に石川氏の持城かも知れないが、詳細は定かではない。

1_2 城跡概念図

13_shukaku_1 主郭(社殿側)

18_dai_horikiri 東背後の大堀切見所

20_2ren_horikiri_dorui_1 二連の土塁を伴う巨大空堀見所

24_2maru_heki 二の丸切岸

31_dorui_nai_1 西郭1

33_seitan_horikiri 西端の大堀切見所

34_dai_tatehori_1 縦堀に繋がる空堀見所

41_nisikaku2_heki 西郭2切岸

この山城の見所、あるいは醍醐味を挙げるとすれば、先に触れた巨大とも言える空堀群(堀切)が真っ先に挙げられるが、主郭東背後と西郭群を遮る東西に設けられた空堀は、縦堀として相当長く麓まで繋がっており、土塁郭とも呼べる巨大な土塁を含めた様相は、縄張り妙味も含めて見応えは抜群なものと眼には映った。とにかくこの城跡の醍醐味あるいは魅力は、高低差のある堀切壁も含めた空堀群にあると断言出来そうには思われたのである。現状(八月)城跡の地表風化は激しく、郭跡は倒木も重なって荒れ放題と化しているが、郭切岸などには下草も生えていないので、その全体像は把握する事が出来、屹立する切岸の醍醐味に触れる事も充分可能な状況となっている。山上郭群だけを見れば、この時期でも移動見学に差し支えるまでには至っておらず、山上に位置する城山稲荷までは確かな参拝道で訪れる事も出来るので、城跡ファンの方は言うまでも無いが、神社からの眺望が利く事も思えば、史跡ファンの方にも是非訪問をお薦めしたいと思える城跡の一つである。個人的には現状の遺構残存度の高さ、あるいは城址碑の設置から窺える様に、郷土の誇りとも感じられる山城と思われた事からも、今後も城跡遺構を後世まで大事に伝えて行く事を思えば、これからの保全整備は神社敷地だけに限らず是非期待したい処ではある。

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