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2010年8月

2010年8月31日 (火)

枝ヶ城跡(京都府与謝郡)

この山城は京都府与謝郡与謝野町明石にあって、既にリポート掲載を終えた石川城から見れば南側にある山塊の最高所にあり、標高215mの山頂に位置している。当時の城主としては刑部氏が挙げられるが、城史に関しての詳細は不明でもある。

城跡を訪れるには、先に触れた石川城を起点とすれば位置は把握し易いが、国道176号を進行して県道16号へ進路変更後、そのまま南下して大宮神社を経由して向かえばよい。神社からはルート図の赤線を辿れば難なく入山口までは到達可能ではあるが、個人的に利用した最短直登ルートは、石材所が所有する作業現場を含めて、林道も通過する事になるので、作業が休みの日(日曜)に限られるが、入山口にある石材所で一旦了解を得て、林道及び作業現場内を通過させて頂く必要がある。入山口から石切作業現場までの所要時間は10分程度、石切作業現場(画像に注目)からは、概念図に示した小さな小屋を目印として、その脇の斜面に取り付いて、谷状地形に沿う形で激斜面を上り切れば、15分後には山上郭群が間違いなく迎えてくれる筈である。

1_1 登城ルート

5 東麓より遠望

7 直登口となる石切現場

1_2 城跡概念図

概念図に示したまでが、自身が踏破した範囲内で判別確認に及んだ遺構と言う事になるが、現状(七月)を考えれば、主郭周りの斜面上を全て踏破した訳ではないので、遺構もこの限りではないものとは思って頂きたい。現状山上本郭群は意外にましな状態(人の手の入らない山城としては)にあり、主郭内部も含めて全体的に低草木が多く蔓延ってはいるが、密生状態までには至っておらず、意外に見通しは利き、郭移動に難渋しなかった事が、無名に近い山城の探索としては唯一の救いでもあった。この山城は縄張りに関しては余り特徴のある城跡ではなく、見所と言える遺構は堀切、横堀、縦堀などの空堀群になるとは思われるが、V字に掘削された薬研堀などの様に、インパクトを感じる堀切は備わってはいない。その中で特に見応えが感じられた空堀(堀切)は、主郭西側に位置する西郭群の郭を遮る二本の堀切で、両者共に土橋を付随しており、一方は縦堀まで繋がる素晴らしい状態の堀切を残してくれている。主郭南側斜面にも二連の堀切を窺う事が出来たが、斜面上という事も手伝って土砂が相当流出しており、現在では非常に浅いものになっている。ただ堀切壁は自然岩を伴うものであり、一応山城らしい風情を残す堀切とは言えるが、、、、。

12_kita_gedan_1 主郭北下段

14_kita_karabori_dorui_1 主郭北、横堀と土塁見所

16_shukaku 主郭の現状

18_nantan_horikiri 南端堀切見所

21_horikiri_dobasi_3 土橋付き堀切1見所

24_seitan_dobasi_horikiri 西端の土橋付き堀切見所

現状、山上郭群の一部は、見る限り主郭から東側斜面が石材採掘の為に削り取られており、空堀(横堀)及び付随する土塁は南斜面の堀切も含めて、いきなり東側が地肌の露出した作業現場となっている。自ずと郭跡も多少ではあろうが消失したものと察せられ、本来の縄張りは見学者の想像にある程度委ねられるものと感じられた。麓から山上までの道程を考えれば、気軽にお薦めの城跡とは言えないのが難点ではあるが、興味を持たれた山城ファンの方に限って言えば、充分楽しませてくれる城跡と言う事にはなろうか。

2010年8月29日 (日)

日高八代城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は兵庫県豊岡市日高町八代/谷にあって、谷集落の背後に聳える標高約180mの山頂を主郭として、南麓に向いて迫り出した三方尾根上が城域となるもので、その縄張りは尾根の末端にまで達するものであり、山上における郭占有面積は非常に大きく、日高地方における戦国大名の一人でもある、垣屋氏(山名四重臣の一人)の居城と並び称されてもおかしくはない、「大型の城郭」と呼ぶに相応しい山城と感じられた。名が語る様に八代氏の居城としてもよいのだろうが、文献の類では藤井氏の名が挙がっている様に、明確にされている訳ではないので、これから先も城主の特定は難しいと地元で聞くに及んだ。当然乱世を思えば何度かの城主交替劇はあって然るべきとも考えられるので、ここでは敢えて追求はしない。

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた宵田城を起点とすれば分かり易いが、国道312号から県道1号へ針路変更し、そのまま谷集落にある「谷公民館」を目指せば良いだろう。ここが登山スタート地点となるが、画像に示した進入口から民家の間を通過して、谷状地形を真直ぐに北に向いて上って行けば、南郭には15分程度で辿り着ける筈である。かつてこのルートで山上までは登山道が繋がっていたと聞いたが、現状夏草や低草木で覆われた荒れた状態(削平地が重なる)でもあり、登山道と感じられる様な踏み跡は最初だけなので、とにかく山上に向いて谷状地形をそのまま上る事が肝心である。

1route2 登城ルート

7_tozanguti 登山進入口

3ya 八代城南郭群の概念図

2 未踏に終わった「奥八代城砦群」の所在地

訪問後の結果から先に述べれば、現状(七月)時期も悪いのだが、自作概念図における範囲外は、密生する矢竹あるいは低草木で移動も視認も困難を極める状況にある。よって移動可能な範囲は限られており、主郭と思われる直立に近い切岸とその郭内部を少し覗いただけで、主郭及び以北の縄張りは、流石に踏破確認する事が叶わなかった。よって今回の概念図におけるものは、踏破可能であった南麓まで展開される南郭群だけと言う事になるが、未踏の地(主郭から以北)を含まなくとも、南枝尾根上の広域に渡る郭の展開は、正に大型の山城のそれであると自分の眼には映ったのである。下山後、地元にお住まいの年配の方に、数十年前に描かれたと思われる縄張り図を見せて頂いたが、未踏地には規模の大きそうな主郭、及び付随する郭群、東西の尾根を遮る堀切、更に数本の縦堀まで描かれてあった。やはり想像通りの山城と確信が持てたのである。

12_minamikaku_2 南郭1と2見所

13_tatehori_dobasi 南郭中央の土橋付き空堀見所

15_dai_horikiri_1 南郭背後の大堀切見所

17_nisikaku_horikiri_2 西尾根郭の堀切見所

23_higasi_one_kaku 東尾根上郭

21_higasi_horikiri 東尾根郭の堀切

南麓に展開される郭群の見所遺構は概念図には記したが、本郭群と南郭群との境を断つ、状態の良い大堀切と付随する縦土塁、更に南側の枝尾根上に施された堀切は挙げられるだろう。此方の郭群は南へ向かうほど削平は甘く、堀切は浅く、更に郭切岸も曖昧なものとなっているので、形態も含めれば山上郭群あるいは便宜上の南郭1より先に成立した郭群と言う事にはなるだろう(推察)。見る限り徐々に山上へ向いて縄張りを広げていった様には感じられたのだが、、、、山上本郭群の実態が把握出来ていない以上、推察のままで終わりそうとも思える。この現状を見れば、これから先良い方に城跡が改善されるとはとても思われず、このまま山城ファンの方々からも忘れ去られて行く運命にあるのかと思えば、城跡遺構も非常に勿体無いばかりではある。冬枯れ後の城跡に期待したい処ではあるが、矢竹は枯れてもそのままの状態で残るので、一掃しない限り城跡の縄張りはずっと把握出来そうにないだろう、、、、残念!

2010年8月28日 (土)

石川高津城跡(京都府与謝郡)

この城跡は与謝野町に数多い山城の中でも、地元の方が砦跡として認識している程度の山城であり、ほぼ無名に近いものでもある。以前この地区を訪れた時に地元の方から得た情報としては、「北西山上に位置する石川城の出城、あるいは砦の様なものだろう」との見解でもあった。自ずと村史に採り上げられる程度の城跡だと思われた事から、長きに渡って訪問を引き延ばしにしていたが、今回の与謝野町の山城巡りの中でやっと訪れる機会に恵まれた。もちろん地元の伝承に残る程度の山城なので、文献の類での照会は出来ず、城跡呼称も愛宕山城が一番相応しいのだろうが、この丹後地方では圧倒的に愛宕神社が多い事から、この山城に関しては地域名を採用して石川高津城跡として紹介させて頂いた。ただ自身の所有する乏しい資料に載っていなかっただけで、既に公に認知されて調査の終わった城跡なのかも知れないが、、、

1 登城ルートと概念図

6 愛宕神社参拝道

城跡は京都府与謝郡与謝野町石川高津にあって、現在縄張りの南端(出郭か?)には「愛宕神社」が建立されている。城跡を訪れるには先に触れた石川城を起点とすれば位置関係は直ぐ把握出来るものとは思われるが、京阪神側からスタートして向かう場合は、ルート図の如く国道176号沿いにある「ケーズデンキ」を目印として向かい、その手前の道路を右折して愛宕神社を目指して東進すればよい。参道は民家の間から直ぐ目に留まるので分かり易い筈である。長い石段を上れば社殿のある便宜上の南出郭には、5分もあれば到達可能である。

8_demaru 社殿敷地(南郭)

10_horikiri_dobasi 土橋付き堀切見所

13_tate_horikiri_2 堀切(縦堀)見所

19_shukaku_e_dankaku 北本郭群

20_shukaku 主郭の現状

城跡は事前に砦程度の山城と聞いていたので何の期待もせずに訪れたが、整地された社殿の建つ南郭と北側尾根上の主郭との境では、正しく当時の遺構と見受けられる土橋付き堀切(画像に注目)と付随する土塁跡目にする事が出来た。小規模な削平地程度を予想していたので、自分でも驚きは隠せなかったが、ここまで明確な城跡遺構が残されていたとは、わざわざ訪れた甲斐があったと言うものでもある。堀切から更に北側に位置する本郭群に向かえば、当時の郭跡でもある削平地は、低草木が密生状態になっており、流石に満足の行く見学は出来ない状態にあった。それでも藪漕ぎをしながら最高所に位置する主郭までは辿り着く事ができたが、藪漕ぎ中は目測も出来ない状況なので、自ずと郭形状も内部における遺構、あるいは斜面上の縦堀の有無までは確認出来ずに終わってしまった。体感上では郭間に余り高低差は無く、小規模な郭群とだけは分かったが、まだ未訪の方には、現状本郭群は郭跡を感じる程度の見学で終わる事が予想されると思って頂ければ良いだろう。「愛宕神社参拝ついでに堀切だけでも覗いて見ようか」と言った、軽い気持ちで訪れるのであれば、それなりに山城の風情も味わえて楽しめるのではないだろうか。

2010年8月26日 (木)

久斗城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は兵庫県豊岡市日高町久斗にあって、既にリポート掲載を終えた祢布城跡から見れば、隣接する西側の山塊にあたる標高184mの山上に位置しており、垣屋氏の居城でもある宵田城跡からも充分望める位置にある。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるにはルート図を見ればお分かりの様に、宵田城跡あるいは祢布城跡を起点とすれば、位置関係は歴然としているので、既にこの二城を訪れた方は迷わず到達出来るとは思われる。京阪神側から赴かれる場合は、国道312号を経由して宵田トンネルを過ぎて国道482号へ左折針路変更すれば良いが、少し走れば城跡の位置する山塊は視界に入る。城跡進入口は概念図(画像に注目)を参考にして、ガレージ脇から上り、踏み跡のある右手側(尾根先端を回り込む)へ移動して、谷状地形を通過後、更に右手側の斜面の雑木竹林地に取り付いて上れば、概念図に示した堀切の備わる南郭群には、10分内で辿り着けるとは思われる。見学の本命とも言える山上本郭群はここから更に急峻な斜面を上り続けなければならないが、直登斜面上は木々も多く蔓延り、この時期(七月)ともあって多少の藪漕ぎは強いられたが、麓から山上までは所要時間約20分で辿り着く事が出来た。

1route2 登城ルート

5 進入口

3ku 城跡概念図

この山城は山上主郭から南尾根上(直登斜面上)に郭を展開したものであり、道中最初に眼にすることの出来る、中腹に位置する南段郭群、あるいは尾根上の削平地も縄張りとして取り込めば、それなりに城域は広く感じられるが、郭占有面積が小さいので、やはり砦の域は出ない山城と言う事にはなりそうか、、、。山上郭本群には帯郭及び小規模な小郭が付随しているが、全長50m程度の主郭は段差程度の切岸高低差をもって三ブロックで成立したものであり、多少の形態の違い、規模の違いはあるが、但馬地方の山城特有の郭構成でもある、三連の土塁壇はここでも窺う事が出来た。堀切は主郭背後に備わっているが、現状土砂が流出して随分埋もれており、下草も多く蔓延っている事から、よく見ないと少し判別は難しい状態にある。ただ山上郭群は画像を見ればお分かり頂けようが、意外に藪化までには至っていないので、ほぼ全体像を掌握する事が可能であり、山上に佇めば臨場感は充分味わう事が出来るものとは思われる。

34_minami_dan_kakugun 南段郭群

33_minami_horikiri_1 南郭群の堀切見所

17_shukaku_gawa 山上本郭群北側

18_shukaku 主郭

25_shukaku_heki 主郭切岸

9_gedan2 南下段郭

この城跡には高低差のある堀切が刻まれていない事もあって、見応えのある遺構は皆無に近く、期待をして赴けば落胆する事は必至とも思われた。更に直登道中における多少の藪漕ぎを考えれば、全ての城跡ファンの方にお薦めはし難いが、掲載した概念図及びリポートに少しでも興味を示された方、あるいは自分も含めて楚々とした山城に魅力を感じる山城ファンの方には、充分お薦め出来る山城と言えるかも、、、。

2010年8月24日 (火)

轟美久仁城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市竹野町轟にあって、「中竹野小学校」の南背後の丘陵先端部がそれにあたる。この山城は築城環境から考えても、轟城の北側を抑える出城機能は充分推察可能ではあるが、現状情報は皆無に近く、城史に関しての詳細は不明でもある。

城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた轟城跡を起点とすれば一目瞭然とは思えるが、轟城からはルート図の赤ラインを辿れば付近までは迷わず到達出来るとは思われる。入山口は中竹野小学校寄りにある道路沿いの開閉フェンス(画像に注目)で、派出所側にも備わっているので、どちらを利用しても良いだろう。ただ開閉フェンスどちらを通過して上っても、この時期(八月)に無名に近い城跡を訪ねるにあたっては、多少の藪漕ぎは覚悟しなければならないとは思われる。10分内で主郭までは到達可能となっている。

1_1_3 登城ルート

4 進入口

1_2_2城跡 概念図

城跡は現状低草木によって覆い尽くされてはいるが、見所となる縦堀に繋がる堀切の状態はまだましでもあり、縦堀に繋がる様(画像に注目)は中々見応えは感じられた。主郭内部は低草木が全域に蔓延り、地表も満足に見えない状況にあるが、堀切に沿う形で土塁は確認出来た。更に主郭南西側には帯郭あるいは空堀とも言えそうな地形を確認する事が出来たが、地表が風化中にある事を思えば、どちらとも言えそうで明確に判断は下せそうな状況にはなかった。ただそれに付随した縦堀は一条確認する事が出来たが、此方の斜面も草木に覆われており、更なる縦堀を眼にするまでには至れなかった。現状主郭の前面(北西先端部)は、明らかに道路造成工事の結果いきなり削り取られた形となっており、本来の規模、あるいは主郭北西先端部の地形は、ほぼ見学者の想像に委ねられるものとも思われた。現状の主郭の規模(目測全長15m前後)から察すれば、余りにも小規模であり、相当工事によって郭跡は消失したものとも思われるのである。

6_horikiri 堀切見所

7_tatehori 縦堀見所

10_shukaku_genjyou 主郭内部の現状

13_nisi_obi 帯郭?

15_tatehori 縦堀2

城跡を個人的に評価すれば、縄張り妙味も余り感じられず、遺構残存度は前述の様に低いものとも思われ(推察)た事から、明確に判別可能な当時の堀切、土塁遺構に興味を抱かれた山城ファンの方には、轟城と併せた訪問で何とかお薦め出来そうには思えたが、この藪に包まれた現状を思えば、一般の城跡ファンの方には中々お薦めとまでは言えないのが本音ではある。

2010年8月22日 (日)

但馬 轟城跡(兵庫県豊岡市)

この山城は山名四天王と呼ばれた中の一人でもある、垣屋氏一族の居城でもあるが、山名氏の衰退と共に主家に取って代わる勢力となった垣屋氏の勢いは、この山城を覗くだけで充分窺えるものの様には感じられた。垣屋氏本城ともなる楽々前城はまだ未訪ではあるが、支城とも言えるこの山城でさえこの規模であるのなら、本城は相当な巨大山城とも想像出来よう。この垣屋氏に関しては歴史書物、あるいは城跡関連の文献には頻繁に登場するので、ここでは多くは語らないが、今まで訪れた宵田城、養父神社城、更に日高地方において垣屋氏の息のかかった城跡も含めれば、その実態は戦国大名のそれに限りなく近いものであり、一族の拠ったこの山城を窺うだけで、垣屋氏は山名氏に取って代わるに相応しい、正しく戦国大名と呼べる一族と感じられるのである。

同じ山名四天王の中の一人でもあり、最終的には垣屋氏によって滅亡の道を辿った、田結庄氏の拠った大型の城郭「鶴城」と比べても同等か、あるいはそれ以上のものは感じられた。もちろんこの鶴城も垣屋氏によって占領後、改修拡張されたものかも分からないが、、、とにかく訪問結果としては、推奨に値する素晴らしい城跡と眼には映ったが、この残存度の高い遺構群、あるいは自然任せではあるが、この時期でもほぼ全体踏破可能な誇れる状態からすれば、史跡ファンも含めてあらゆる城跡ファンの方にお薦め出来る山城の一つとも感じられたのである。1_1

登城ルート

6_1 登山口

1_2 城跡概念図

城跡は豊岡市竹野町下塚にあって、豊岡市内を通過して訪れる場合は、国道178号を経由して県道1号へ針路変更し、竹野川に沿って日本海を目指して北上を続ければよい。取り合えずルート図に示した「蓮華寺」を目指せば分かり易いが、そこまで行けば通り過ぎてしまうので道路沿いにある道標「蓮華寺」が目に留まれば、逆に戻る形で登山口まで向かった方が分かりやすそうには感じられた。入山口は県道からも目に留まる木橋(画像に注目)で、橋を渡れば廃屋の背後にある墓地脇から、登山道が山上尾根までは一気に繋がっているので、山道に任せれば迷わず主郭までは辿り着ける筈である。ちなみに南郭までは所要時間15分らずと思って頂ければ良いだろう。

14_minami_horikiri1_2 南二重堀切1見所

13_minamikaku_daidorui_1 南郭群の大土塁見所

29_shukaku 主郭内部

33_shukaku_heki_2 美しい主郭東壁

31_2maru 二の丸

41_kita_horikiri_2 北二重堀切1見所

43_kita2ren_hoerikiri_1 北二重堀切見所

55_toutankaku_isi_1 東端郭の石垣跡見所

57_toutan_horikiri 東端堀切見所

46_kita_daidorui北郭奥の大土塁 見所

この山城を語り出せば限がなくなるが、山上における郭占有面積には相当なものがあり、狭小段郭は皆無、その規模は通常の山城三城分には軽く匹敵しそうには思われた。形態は縄張り妙味に満ち溢れ、櫓台とも呼べる大型の土塁、深く刻まれた縦堀が付随した堀切(薬研堀)、更に二重堀切、直接斜面に刻まれたV字形の堀切(縦堀)と、見応えを感じる遺構は目白押しとなっており、とにかく山城を形成する最低限の城跡遺構は、この山城を見学するだけで充分事足りそうには思われたのである。更に主郭周りの切岸、あるいは一部の郭壁に残存石垣、郭壁随所に石垣痕が窺われる様に、崩落石も含めれば全てとは言わないまでも、主要な箇所はほぼ石垣で覆われていた様にも感じられた。特にこの城跡を語る際に忘れてはならないのは、直立に近い形で屹立する切岸で、とにかくこの高さを伴う状態の良い郭切岸には圧倒されそうには思われた。いずれ垣屋氏本城(楽々前城)も訪れるつもりはしているが、遠距離訪問を思えばまだまだ先延ばしになりそうとも思えるのである。

2010年8月21日 (土)

伊久知(幾地)城跡に関してのお知らせ

つい最近リポート掲載に及んだ伊久知城跡に関してお知らせがあります。

結論から先に述べさせて頂ければ、京都府与謝郡与謝野町幾地にあって、丹後の山城「伊久知城跡」として掲載に及んだ城跡は、地元にお住まいの方から寄せられた信頼出来得るコメント情報より、来の伊久知城跡と呼ばれている山上本郭群は、紹介した城跡の別の山(隣)にある事が判明しました。

この山城に関しては城址碑脇に登山口がある事からも、地元で城跡を尋ねて上る場合でも分かり易いのですが、素直に助言に従って上れば本来の山城とは別方向にある、城跡から外れた大師山に辿り着く可能性が高いように見受けられます。今回の私の様に登山道に従うまま上った結果、紹介に及んだ尾根上の小規模な城跡遺構を伊久知城跡の本郭群と勘違いして、城跡を後にされた方も過去において数多い様にも感じられます。 私自身もメール交換で得られた伊久知城跡の情報の中で、二郭構造の砦規模の山城で空堀が備わっている」と言った実態内容を事前に聞かされて訪れた事も重なり、正にそのアドバイス通りの山城として納得して城跡を後にした一人なのですが、、、、、今頃この山城を紹介した方も「えーマジでー」と、一人つぶやかれている様にも窺われます。

伊久知城跡の実態を早く知りたい方には、頂戴した公開中のコメント内容から察して訪問される事を是非お薦めしたいと思いますが、私自身も地元の方から寄せられたコメントを頼りに近日中に再訪の予定をしております。今回は結果的に砦跡を紹介しただけに終わっており、返ってこの山城の実態が気になり出した城跡ファンの方も居られるやも知れませんが、興味を持たれている方には、出来るだけ早く訪問結果を報告したいと思っております。Photo_2

尚、今回伊久知城跡としてリポート掲載に及んだ尾根上に位置する城跡は、空堀を挟んで二郭で形成され、その形態は明らかに城跡(砦)遺構とも見受けられるので、仮に本郭群を間違えて見学したとしても、決して無駄に終わるものとは思えなかった事から、これから本来の伊久知城跡を訪問するまでは、仮)伊久知東砦跡としてリポートは据え置きたいと思います。

二ツ山城跡(京都府綾部市)

城跡は綾部市物部町/二ツ山にあって、名が語る様に北側の牧場から臨んでも、外見状二つの山になった山容は直ぐ確認可能である。城跡はその東側に縄張りを持つものであり、西側の山も戦略的には自ずと城域と考えても良いものとは思われる。この山城も周辺に点在している山城と同様に、城史に関しての詳細は不明である。

城跡を訪れるには、ルート図中に示した物部城、東野城、高屋城を起点とすれば位置確認は容易いとは思われるが、高屋城の南の道路から、一直線に牧場を目指して進行すれば分かり易いだろう。東麓から直登する事になるが、画像及び概念図に示した辺りから進入して、木々の比較的少ない斜面を上り、そのまま西山上を目指せば、10分程度で山上主郭までは到達可能となっている。

1_1_2 登城ルート

6_1 直登進入口

1_2_3 城跡概念図

10_karabori 東先端郭と空堀跡

21_shukaku_higasi_gedan 主郭より東下段郭

24_sanjyou_shukaku_1 主郭壁

27_sizen_karabori 巨大空堀(自然地形の代用?)

28_tatebori_1 西端の縦堀

城跡の形態としては、自然地形を代用したと見受けられる巨大空堀を境に、西山上の本郭群と東出郭群で分かれた構造であり、自然地形に任せたまま山上を削平して築かれただけの、比較的規模の大きい山城とは言えよう。よって長年の堆積物も含めた地表風化は充分考えられるが、切岸は非常に曖昧でもあり、現状から郭境を読み取るの少しばかり困難でもある。切岸跡が多少でも窺われたのは、主郭東段郭群の一部だけに限られ、中々目を楽しませてくれるまでには至っていないのが現状ではある。主郭西端には、これも自然地形をそのまま代用した巨大空堀地形が目に留まるが、唯一堀切道の形で、縦堀が南側斜面に向いて刻まれているのだけは確認出来た。東出郭先端にも唯一空堀跡は確認出来たが、これは相当埋もれているので、地形の窪んだ状態から判断するしか無い様には感じられた。

城跡は西側の主郭に向うほど藪化は進行(移動に余り差障りはないが、郭全体像の視認は困難)しており、これ以上状態が良くなるものとは決して考えられないので、まだ未訪で興味を持たれた方だけの対象とはなるが、訪れるのであれば夏季までの訪問をお薦めしたいのである。個人的には、物部町周辺に存在する山城巡りの一環として少し寄り道してみる程度、あるいはこの山城の所在地、現況が気になっていた方へのタイムリーなリポートになったのであれば良しとしたい。

2010年8月19日 (木)

聖谷城/大城ヶ鼻城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町下山田、聖谷にあって、小聖神社」の北背後の丘陵上に位置している。この山城も地元の方の「小聖神社背後に城跡がある」と言った情報だけを頼りに訪れたのだが、先にリポート掲載を終えた広田城などと同様に、郷土史に載る程度の無名に近い山城だとは思われる。よって城史に関しての詳細は現状全く不明でもある。

城跡を訪れるには、北近畿タンゴ鉄道「野田川駅」を目印として目指せば分かり易いとは思われる。城跡へは小聖(コヒジリ?)神社社殿背後を直登で上る事になるので、ルート図の如く駅を起点とすれば、地元の狭い生活道路を通過して神社を目指して進行すればよい。その行き止まりは神社、あるいは小さな公園となっているので、ここの空きスペースを利用すれば車の駐車には困らないだろう。尚、城跡への最短ルートとなる直登取り付き地点は社殿背後としたが、山上に連なる段郭群に沿う形で山道が見えていたので、探せば本来の入山口は別にあるとは思われる。概念図に示したルートでは、数m程度の藪漕ぎは覚悟しなければならないが、5分内で主郭には到達可能となっている。

1_2_2 登城ルート

5 小聖神社(進入口)

1_3 城跡概念図

8_shukaku 主郭内の現状

11_hakobori_1 主郭北側の箱堀見所

14_dankaku_gun 北段郭群

丘陵上の南先端部に位置するのが主郭に相当するものと見受けられたが、一応城中最大規模を誇っている。この郭跡には現在倒壊した社殿がそのまま放置されており、その郭内部も現状(七月)草木が生い茂るままの荒れ放題の様相を呈している。更に主郭北側に向かえば、城跡唯一の堀切(箱堀)が眼を楽しませてくれてはいるが、深さのある空堀ではないので見応えには少々欠けるかもしれない。ここを境として、北東山上側に沿った斜面に重なり合う段郭群が、この山城の見所でもあり縄張りプランとしての特徴とも感じられたが、ここまで段郭群が山上に向いて延々と連なる形態は、余り他の山城ではお目にかかれないものと眼には映った。山上に向いて連なる郭跡の全ては概念図に描き切れなかったが、狭小段郭群も含めれば、一応20段以上の郭跡は確認出来た。もちろん段郭群の終わりが見えてこないので、流石に途中で下山したが、、、、

城跡を個人的に評価すれば、与謝野町に現存する山城として今まで紹介した山城と併せた同日訪問であれば、この城跡も含めて充分充実した山城巡りが出来そうな気はするのである。尚、ルート図中には大城ヶ鼻城の所在地も同時に記したが、最短ルートとなる城跡進入口(画像に注目)からは、溜池をかすめながら小さな墓地を経由して向かえば、直ぐにでも城域に達する事が可能となっている。ただ城跡の全域が密生する竹林地、あるいは雑木藪地となっているので、自ずと郭跡の全体像を窺う事は出来ず、郭移動も困難を極める状況にある。個人的には何とか城跡を縦断し、北端に備わる堀切道までの規模は大きい事と、郭切岸は直立に近い形でしっかりしたものが一部で残っているので、それなりに楽しめそうには思われたが、興味を持たれた方だけを対象とした城跡と眼に映ったのが本音でもある。

1 大城ヶ鼻城の進入口

3 郭切岸

2 北端の堀切道

2010年8月17日 (火)

日高森山城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は兵庫県豊岡市日高町森山にあって、ほぼ独立した低丘陵上にある。この地から垣屋氏の居城でもある楽々前城(まだ未訪)は眼と鼻の先の距離にある事を思えば、自ずと垣屋氏の支城とも察せられるが、推察の域は出ず城史に関しての詳細は不明でもある。

ただこの城跡は、低丘陵上にありながらも、城跡遺構はほぼ自然に任せたまま現在まで至ったものとも窺われ、近世における地形改変の痕跡は余り見止められず、遺構はほぼ完存とも感じられた。当然地表風化も激しく藪化も進行中にある事から、時期的(七月)にも状態は決して良いとは言えないが、空堀あるいは土塁を駆使した技巧に富んだ縄張りは、縄張り妙味には満ち溢れたものでもあり、訪れて期待を裏切られる事は決してないものとも自分の目には映ったので、道路から5分とかからず城跡に到達可能な圧倒的お手軽感も含めて、是非訪問をお薦めしたい城跡の一つとしてリポート掲載に及んだものである。

1_1 登城ルート

6 城跡進入口

1_2 城跡概念図

城跡を訪れるには豊岡市を目指して車を走らせれば良いが、まず国道482号に進入し西進する事が先決、この道路沿いには「植村直巳冒険館」がある事から目印にはなるが、その手前より一般道259号へ針路変更し南下、その後はルート図に示した、目印となる自動車整備工場を目指せば、難なく城跡付近までは辿り着けるだろう。後は概念図を参考にして、画像に示した箇所から進入すれば、直ぐにでも堀切となる縦堀地形が眼に飛び込んでくるはずである。

10_tatebori 主郭東側の縦堀見所

10_horikiri 主郭背後の堀切見所

11_yoko_kara_tate_2 堀切(縦堀へ繋がる)見所

17_shukaku_yagura_heki 主郭櫓台の現状

24_3maru_daidorui 三の丸内の大土塁見所

27_hasi_dorui 三の丸北の大土塁

35_nantan_horikiri_1 南端の堀切見所

自作概念図に描いたまでが、藪化進行中の中で自身が踏破した範囲、あるいは判別確認可能であった遺構になるが、城跡の見所となるのは、先に触れた様に技巧に富んだ土塁を付随させた空堀群にある」と言っても過言とは思われないものでもあり、空堀群は横堀、縦堀、本来の郭間を断つ堀切(三本)と言った具合に、本来城跡を形成する空堀は、ほぼこの城跡で眼にする事が可能と思って頂いても良いだろう。中でも主郭東側に施された空堀は横堀と縦堀が微妙に組合わさっているものでもあり、一部仕切り土塁も含んで、特に技巧を感じさせてくれるものでもある。自ずとこの一帯における遺構群が、城跡にあっては一番眼を楽しませてくれる箇所でもあり、見応えを感じる部分でもあろう。三の丸北側に備わる、武者隠し機能とも窺われた分厚い土塁の付随する横堀は、現状長年の堆積物によって深さは相当失われてはいるが、構造も相まって色んな機能の想像が可能であり、更に眼を楽しませてくれる事は請け合いとも思えた。

現状、三の丸内部あるいはその東西斜面上だけに限るが、特に藪化(矢竹藪)は進行しており、その郭形状も内部における残存遺構の確認も困難を極める状況にある。自ずと概念図に示したまでが、城跡における遺構の全てとは言えないが、他は見学に差し支えるまでには至っていないので、空堀群だけに限って言えば、この時期でも充分楽しめそうな気はするのである。

2010年8月15日 (日)

日高岩山城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は兵庫県豊岡市日高町朝倉にあって、国道312号の通過する朝倉トンネルのほぼ真上に位置しており、その周囲は険峻極まりない地形となっている。ここを居城としたのは、既にリポート掲載を終えた浅間城を居城とした佐々木近江守でもあるが、本城をどちらとしたものかは不明、両城ともに佐々木氏の持城とすればよいものとは思われるが、、、。秀吉の但馬侵攻においては、戦わずして秀吉側に降った伝承が伝えられてはいるが、その反面で家臣想い、あるいは領民想いの城主と言えそうには思われる。

城跡を訪れるには、まず国道312号へ進入する事が先決、京阪神側から向かえばルート図にあるトンネル手前の「赤崎」の信号で右折針路変更、その後は険峻な山容を眺めながら城跡に沿って国道を走り、「コヤマリビング」を通過してその先で左折し、今回における登山スタート地点(駐車可能)となる「兵主神社」を目指せば良いだろう。後は概念図に示した入山口(獣避け電線開閉口)まで歩いて向かい、広い山道を数m上って左手斜面に取り付いて上り出せば、間も無く踏み跡程度の山道と合流できる筈である。この山道をそのまま辿れば難なく北東端に備わる大堀切までは辿り着けるものとは思われる。所要時間は入山口から10分程度と思って頂ければよい。

1_route 登城ルート

6_2 城跡進入路

3_2 城跡概念図

現状(七月)城跡は、藪化は当然進行中にあるが、山城としては比較的見学し易く、移動に差し障る事も無く見て回れる事からも、概念図に示したまでの、踏破確認に及んだ遺構群は、ほぼ容易に判別確認可能な状況にあると思って頂ければ良いだろう。この山城は険峻な地形そのものも縄張りプランとして取り込んだものであり、中でも北東側尾根を断つ二箇所の堀切は、自然地形をそのまま縄張りに取り込んで、岩盤を削ってまで構築されたとも窺える、巨大と呼ぶに相応しい堀切で、この城跡にあってはその様相も含めて、城跡の白眉とも言える見応えのある遺構と目には映った。もちろん図中に示した北西斜面に施された縦堀群の状態も判別し易く、素晴らしいものと感じられたのだが、それにしてもこの二本の堀切の見応えだけは特筆ものとも思えたのである。「城跡は痩せ尾根を削平して築かれた小規模な砦規模の山城」、と言えば、その全体像はある程度想像出来そうには思われるが、この険峻極まりない地形の上に、更に堀切四本、おまけに縦堀まで設けた縄張りプランは、同じように小規模ではあるが、空堀を駆使して築かれた浅間城ともダブって感じられた。

9_hokutan_kydai_hori_3 北東端の巨大堀切2凄い!

12_kita_dankaku_gun 北東段郭群

14_kyodai_karahori_1 巨大堀切1見所

18_shukaku 主郭の現状

21_nisi_obi_2 西側帯郭

35_shukakugawa_tatehori_1 34_tatehori_gun_2_2 北西斜面上の縦堀見所

城跡を個人的に評価すれば、砦規模の山城にしては余りにも似つかわしくない空堀群には、久し振りに「山城賛歌」を贈りたい気分にさせられたが、楚々とした険峻な山城が好きな方には迷わず訪問をお薦めしたいのである。自分の頭の中には、忘れ去る事の出来ない記憶に残る山城の一つとして、浅間城(小城も含めて)と並んでずっと残るようには思われたが、、、

2010年8月13日 (金)

サイ谷城跡(京都府与謝郡)

この山城を訪れるきっかけとなったのは、先にリポート掲載を終えた広田城を紹介して頂いた地元の方からの情報で、山田城の向かい側西尾根上にサイ谷城あるいは割谷城と呼ばれる山城が二城現存していると言った内容のものであったが、地元の方は「実際にはまだ未訪でもあり、その実態を把握するまでには及んでいない」という事でもあった。この城跡も郷土史に載せられる程度の城跡と聞いていたので、期待もせず何時ものように地図でおよその目星だけ付けた訪問となった訳であるが、何とかその山上で城跡遺構と遭遇する事が叶えられた。ただ今回はこの山城が割谷城の可能性も僅かながら含んでいる(二割程度)ので、もし追跡リサーチによって呼称の取り違えが判明すれば、当然後で報告する事にはなるだろう、、

城跡は京都府与謝郡与謝野町上山田にあって、既にリポート掲載を終えた山田城から見れば、呼応する形で国道312号を隔てた真西側丘陵上にある。よって山田城の支城あるいは出城とも察せられようが、現状城史に関しての詳細は不明でもある。

1route 登城ルート

4 進入口

8 取り付き地点目印

3saitani 城跡概念図

城跡を訪れるには、山田城を起点とすれば直ぐ位置関係は把握出来ようが、まずは国道176号へ進入する事が先決となる。国道312号が交わる交差点は左折して「北近畿タンゴ鉄道」の橋梁手前に掲げられた、「安養寺」の看板(画像に注目)を目印として目指せばよいが、この付近に小型車なら充分な駐車スペースがあるので、ここからが登山スタート地点となる。直登取り付き地点は概念図に示したが、立石のある地点(画像に注目)からで、ここからそのまま左手急斜面に取り付いて上れば、植林地なので藪漕ぎもなく、山上主郭までは15分もあれば辿り着ける筈である。

現状(七月)城跡は、山城としては非常に見学し易く、更に遺構の判別確認し易い、これ以上望めない良い状態にある。よって少ない遺構ではあるが、郭跡を除けば概念図中に示した堀切、縦堀が判別可能な遺構と思って頂ければ良いだろう。ただ城跡が古い形態の為なのか、それとも長年の堆積物あるいは風化によるものかは、はっきりと分からないが、尾根を断つ三本の堀切(箱堀も含む)は深さも鋭角さも失われており、シンプルな郭構成である為に縄張は掴み易いが、見応えには少々欠けるのが現状でもある。もちろん郭切岸も曖昧となっているので、鋭角な切岸までは望めない状況でもある。

16_horikiri_gawa 郭跡と奥切岸

22_shukaku_gawa 連なる郭群

24_shukaku_heki_1 主郭切岸

30_horikiri 西端土橋付き堀切見所

18_karabori 空堀(堀切)見所

城跡を個人的に評価すれば、状態が申し分ない事、あるいは険峻な様相からも山城としての風情は充分味わえる事、更に情報が皆無に近い城跡である事も加味すれば、自ずとお薦めの城跡と言う事にはなるが、遺構の見応えを期待すると肩透かしを食う恐れもあるので、ほどほどの期待を抱いて訪れる分には決して期待は裏切らない城跡と言えば、未訪の方にとっては判断が付き易くなるのかも知れない、、、

2010年8月12日 (木)

千妻城跡(京都府南丹市)

この山城は以前リポート掲載をした、同じ南丹市にある諏訪山城の後で紹介の予定をしていたが、長い間編集が忘れ去られていた、よって半年遅れの鮮度の落ちたリポートとなってしまったが、その分に関してはご容赦願いたい。城跡は京都府南丹市園部町千妻朝倉にあって、京都府指定文化財(天然記念物)でもある「朝倉神社の大杉」が有名な、朝倉神社の南背後の標高237mの山上に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡へ向うには先に触れた諏訪山城、あるいは隣接した太鼓山城を起点とすれば分かり易いが、ルート図の如く園部IC降口北側府道19号を一筋目で東へ進路変更すれば、正面右手に望める山がそれであり位置確認は容易いだろう。朝倉神社まで辿り着けば、その社殿背後より斜面に取り付き、尾根沿いに上れば10分とかからず(藪漕ぎは無く、間伐が行われているので上り易い)山上までは到達可能である。

1_1 登城ルート

7 神社直登口

1_2 城跡概念図

11 北郭群

17_shukaku_dan 山上主郭

18_kirikisi_1 切岸

20_minami_kaku 南郭

現状(二月)、城跡は藪化も自然任せの風化も共に進行中ではあるが、枯れ枝の隙間からでもある程度までは見通しが利く状態にある。風化の激しい中で目に留まった遺構は概念図には記したが、上る途中に見受けられた北段郭群あるいは南尾根上における切岸の甘くなった郭群と削平地は充分判別可能だが、郭境となる切岸はどれも風化によって曖昧になっており、切岸の醍醐味にはほとんど触れる事が出来ない様には感じられた。山上郭群の中央には僅かに空堀跡と土塁壇が窺われたが、明確に判別出来るものではなく、取り合えずは推察程度に終わってしまった。全体的に規模も小さく縄張り妙味にも欠ける事から、城跡を評価するのは非常に難しいが、この山城は所在地の確認、あるいは存在の確認程度でもよいのではないだろうか。もちろん興味を持たれた方には、諏訪山城、太鼓山城と併せた山城巡りであれば移動距離も短くて済み、何とかお薦め出来そうには思えたが、、、。朝倉神社の大杉に興味を持たれた方には、神社参拝ついでに山上を覗いても決して無駄足には終わらないとは思えた。

2010年8月10日 (火)

伊佐割谷城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市八鹿町伊佐割谷にあって、円山川に架かる伊佐橋に向いて突き出した尾根先端部から東側山上にかけてが城域となる。この山城はルート図に示した様に、山上から西側にかけてが本来の割谷城跡と呼ばれる遺構群であり、大堀切(切り通し)を境にして西先端部に位置する便宜上の割谷西城は、その出城に相当するものと見受けられた。今回は堀切から山上郭間は密生する矢竹雑木の為に踏破する事が叶わなかったが、山上郭群の現状リポートと、充分一城に匹敵するとも思えた割谷西城のリポートを掲載するに及んだ。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには出石側からでも八鹿側からでもよいが、県道2号へ進入する事が先決となる。目印として「伊佐小」を目指せば分かり易いが、現地付近まで到達すれば伊佐橋と伊佐小の間の道路をルート図の如く東進すればよい。西城への進入口(画像に注目)は概念図に示した様に、墓参道が主郭までは繋がっているので迷わず辿り着けるとは思われる。本来の割谷城(山上郭群)へは、西城の大堀切(切り通し)からそのまま東山上まで上り切れば良かったのだが、先に触れた様に藪化が深刻化している状態なので、これから訪れる方にはルート図に示した住宅地まで歩き、その最奥から山道を利用して上られる事をお勧めしたい。

1 登城ルート

4 西城進入口

1_1 割谷西城概念図

7_horikiri_dou_1 堀切(現状墓参道)

10_nisikaku 西郭

13_kitakaku_koguti 北郭と虎口

16_shukaku_karabori 主郭土塁壇と空堀見所

20_minami2_dorui 南郭縦土塁見所

まず西城の現状(六月)としては、当時の郭跡と見受けられる整地された削平地は集合墓地となっており、どこまで地形改変があったのかは見る者の想像にほぼ委ねられるが、全体としては遺構は余り破壊されず、ほぼ当時のままと見受けられたのである。見所としては但馬地方特有の築城形態とも呼べる、空堀を挟んでの三連の土塁壇は未だ健在でもあり、風化に任せて切岸などは多少曖昧ではあるが、充分眼は楽しませてくれよう。概念図に描いたまでが自身が踏破して確認した遺構と言う事になるが、ほぼ独立した一山からなる砦規模の城跡である為に余り多くは望めないだろう。ただ後で寄った山上郭群と比べれば、遥かに此方の方が城跡として見応えは感じられたが、、、

割谷城(山上郭群)の形態は、主郭から北西側斜面に小規模な段郭群を並べて配しただけに終わっているものであり、主郭背後の地表風化が進んで分かり難いが、必然性あるいは地形から土橋付き空堀(画像に注目)が唯一城跡を物語るものと見た。山上郭群はルート図に示したまでが移動し易く見て回りやすい部分で、その中でも見応えを感じる事の出来る遺構は皆無に近く、山上に佇んで山城の風情を味わう程度の見学で良いのではないだろうか、、、

29_karabori_dobasi_2 山上郭の堀切見所

30_shukaku_1 山上主郭

個人的に城跡を評価すれば、割谷西城は見応えのある遺構は少ないが、状態が比較的ましでもあり、圧倒的お手軽感(主郭までは5分程度)を含めば充分お薦めは出来よう。割谷城(山上郭群)の方は興味のある方が上って楽しむ分に限っては、それなりに価値が見出せるものと見た。

2010年8月 8日 (日)

ほぼ無名に近い山城なれど、遺構の見応えは抜群! 広田城跡(京都府与謝郡)

この山城は以前から何度となく訪れている、与謝野町の山城巡りの中で知り合った地元の方から得た情報源だけを頼りに訪れたものであるが、その方いわく、村史あるいは郷土史に載る程度の山城という事でもあり、城跡は「岩屋小学校」の背後の山にある事だけが事前に得られた情報でもあった。自ずと実態が判明していないので、全く期待を抱かずに現地に赴いたが、その山上では思いもよらず自分の期待を遥かに凌駕するほどの、山城としては状態も良く、縄張り妙味に満ち溢れた素晴らしい城跡遺構と遭遇する結果となった。もちろん伝承に残る程度の城跡と聞いたので、まだ発掘調査はされていないのかも知れないが、とにかく文献(城郭関連の)資料などに眼を通しても、一切城跡名が見当たらないのが現状でもあり、先に述べた様に素晴らしい城跡遺構であると同時に、訪れて期待を裏切られる様な事は決して無いものと自分の目には映ったので、このリポートと概念図を拝見した上で、少しでも興味を持たれた方には、山城ファンだけに止まらず、史跡ファン、城跡ファンも含めて是非訪問をお薦めしたいのである。

1route 登城ルート

3hi 城跡概念図

城跡は与謝群与謝野町岩屋広田にあって、ここを訪れるには先にリポート掲載を終えた伊久知(幾地)城を起点とすれば、位置も道順も分かり易いとは思われるが、ルート図に示した岩屋小学校あるいは保育園を目指せば難なく城跡南麓までは辿り着けよう。城跡へ向かうルートは二通りあるが、ここでは保育園の広い駐車場を借用し、休日に訪れたとしての前提で最短ルートを紹介させて頂く。駐車場からは広大な運動場を北へ横切って、その東西両尾根先端部の藪の途切れた地点から右手の尾根に向いて直登すれば、5分程度あれば大師道が通過している南郭群に到達可能となっている。別のルートは駐車場から観音堂まで歩いて向かい、生い茂る下草で分かり辛いが、概念図を参考にして入山口となる大師道さえ探し当てれば、自ずと城跡までは辿り着ける筈である。

8_minami_kaku2_1 南郭2

10_nantan_horikiri_dobasi 南土橋付き空堀見所

14_dai_dorui 南郭1の土塁見所

15_dorui_haigo_horikiri_1 南郭背後の堀切見所

現状(七月)城跡は、縄張り内を大師道が通過している事もあって非常に見て回りやすい状態にある、南郭背後に備わる薬研堀から主郭、更にその周囲に展開される郭群は、若干状態は落ちるが、それでも山城としてみればかなりコンディションは良い部類に入るだろう。自作概念図に示したまでが踏破した範囲内で目に留まった遺構群であるが、これらは全て判別確認し易い状態にあると思って頂ければ良い、この城跡で最も誇れる部分であり見応えを感じる箇所は、土塁の醍醐味であり、状態の良い空堀群と言う事になろうが、主郭に備わる大土塁、南郭に備わる櫓台土塁(機能は推察)、東西の尾根を断つ堀切に付随した土塁郭とも呼べる巨大な土塁、武者隠しと思える受け土塁etcなど、土塁の見事さには圧倒される事請け合いとも思えた。もちろんその土塁背後に刻まれた空堀、あるいは縦堀に繋がる堀切、土橋付き堀切なども、とても良い状態のものが拝める状況にある事は言うまでもないが、、。

21_shukaku_daidorui_2 主郭の大土塁見所

23_nisi_horikiri_1 西堀切と大土塁見所

26_hokutan_horikiri_dobasi 主郭背後の大堀切見所

37_higasi_horikiri_kyodai_dorui_3 東堀切と巨大土塁見所

42_higasi_yasiki 東側の屋敷跡か?

丹後地方には無名に近いが数多くの山城が未だ山間部に現存している、特にこの与謝野町には明石城、山田城、石川城などと、知名度はほとんどないにも拘らず、訪れてみれば意外に状態は良く、遺構残存度の高い山城が数多く見受けられるが、この城跡もその山城の一角に加えても良さそうには思われた。これだけの城跡遺構が人知れず残っている事は驚異に値する事でもあり、丹後地方の村史あるいは郷土史だけに載せられているだけで、山城ファンの方々にも知れず、このまま眠らせておくには勿体無いばかりと眼に映ったのである。個人的には絶対に城址碑を設けて頂きたい城跡の一つである。

2010年8月 7日 (土)

伊久知東砦跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町幾地にあって、幾地集落の北背後の山上尾根先端に位置している。当時の城主としては一色氏の家臣である石川氏が伝わっている様であるが、詳細は不明。

城跡を訪れるには国道176号へ進入する事が先決となるが、既にリポート掲載を終えた明石城、あるいは隣接する「作山古墳」を目指せば分かり易いとは思われる。国道を北上した場合は「作山古墳」を過ぎて県道76号へ左折進路変更すればよいが、幾地集落内の道路は非常に狭く、車の駐車可能なスペースを捜すには少し苦労をさせられる。個人的には訪れた日が日曜であった事から、ルート図に示した広い保育園駐車場を勝手に借用させて頂いたが、自己責任において駐車する事が前提となる。そこからは城跡まで繋がる登山口まで歩いて向かえば、傍に城址碑(伊久知城)のある赤い鳥居(画像に注目)は直ぐに目に留まる筈である。ここから山道(大師道)に任せて上れば、10分程度で山上主郭までは辿り着けよう。

1_1

登城ルート

4 登城口

1_2 城跡概念図

城跡はほぼ二郭で形成されており、非常に小規模なものであり総全長は40mにも満たなものでもある。当時は街道に睨みを利かせた程度の、物見か狼煙台程度の機能しか窺われないものでもあり、遺構の見応えを期待して赴けば落胆する事は必至とも思えた。現状(七月)、小規模な郭内は自然任せの荒れ放題と化しており、何とか郭を遮る浅い堀切は判別出来たが、切岸などは安普請で築かれたものか長年の風化によるものか判断は難しいが、非常に甘いものであり、判別し難い堀切も含めれば、この地が城跡であったと感じさせてくれる部分は、山上の削平地程度だと思って頂ければ良いだろう。当然城址碑がなければ自分を含めた山城フアンは別にしても、史跡見学で訪れる者は皆無である様にも感じられたのである。赤い鳥居から少し歩けば、登山道沿いに直ぐ当時の屋敷跡地にも窺える広い空間が目に留まるが、この地が居館跡であったかどうかは見学者の想像に委ねられるだろう。山上がこの程度の規模のものであれば、自ずと根小屋としての居館跡は想像出来るのかもしれないが、、、謎。

7 屋敷跡地か?

11_kaku_1 主郭手前の削平地

13_shukaku 主郭の現状

15_karabori 僅かな堀切跡

17_haigo 背後の尾根

この城跡を評価するのは少し難しいが、山城ファンの方に限っていえば、麓に城址碑が備わる以上、与謝野町を通過する際には絶対避けて通れない城跡と見たが、、、一度は訪れておいても損はないだろう。

2010年8月 5日 (木)

京川城跡(兵庫県豊岡市)

この山城に関しては、既にリポート掲載を終えた沢田城跡の記事中で、沢田城から見れば集落を挟んだ西側の丘陵端を自身が踏破した上で、この小谷地区にあるとされる京川城の城跡遺構かもしれない、としてルート図中に記したとは思うが、今回はその確証を得る為に再びこの地を訪れるに及んだ。前回隣接する沢田城訪問時には、地元の方と接触する事が出来なかったので、城跡としての確証も、京川城の所在地も明確にする事が出来ずに終わってしまったが、今回は山上本郭群の所在地及び僅かではあるが、城史に関しての情報を地元で得る事が出来たのでお知らせしたい。

城跡は豊岡市但東町奥小谷にあって、城跡へ訪れるには沢田城あるいは出合城と同様の訪問ルートでもある、国道426号を利用して向かえばよいが、山上本郭に上るにはルート図に示した様に、神社背後の尾根から山上に向かうルートと民家の背後から上る二通りのルートが考えられる。今回選択した民家側のルートは、農作地を通過する必要があるので、隣家の方に逢えば必ず声をかける必要はあるが、このルートは藪漕ぎのない前方がひらけた激斜面を上り切れば10分内で山上主郭には到達可能となっている。

1route 登城ルート

6 参考直登進入口

3k 城跡概念図

この城跡は名が語る様に京川氏の居城と伝わっており、直ぐ麓にお住まいの年配の方から直接伺った話しでは、かつて沢田氏の拠る沢田城と抗争があった模様である。恐らく勝敗が一度の戦いで付いたとは思われ難いが、取り合えず京川氏側に軍配が挙がったものと伝承にあるらしい、、、この地区には京川、あるいは沢田を名乗る方が今でも多くお住まいになれていると聞くに及んだが、その末裔にあたる方々なのかも知れない。城跡の位置する場所は「オバガタ」と呼ばれている山にあたる事も判明したので参考までに、、 城跡の形態としては、ほぼ概念図(山上郭群のみ)の通りと思って頂ければよいが、防備として目に留まった遺構は主郭を巡る低土塁だけであり、陣城の如く規模の大きい大味な城跡と言えば、未訪の方には分かり易いとは思われる。ただ先に触れた様に、南西丘陵上先端部には削平地及びそれらしい空堀地形、あるいは土塁地形が目に留まったので、この地も出城として考えれば、自ずと縄張りは更に広いものとも言えるのではないだろうか(推察)。

12_dorui_1 12_dorui_3 主郭を巡る土塁見所

13_dorui_gaiheki 土塁外壁

14_shukaku_1 主郭内部の現状

15_koguti_dorui 土塁虎口跡見所

30_kaku 南西先端郭(推定出城跡)

36_dorui_ato_1 推定出城跡の土塁らしき地形

尚、今回新しく得られた情報として、隣接する沢田城に関しての事になるが、この城跡には既に紹介した丘陵先端郭から更に連続する北東尾根を上った、険峻極まりない山上(標高488m、比高約300m)に、沢田城本郭があるらしい事を聞いたのでお伝えしたい。ただ今回は踏破に及んでいないので実態(削平地のみらしい)ははっきりとは分からないが、本来(文献あるいは公的資料にある)の沢田城が山上郭群だけを指すものなのか、あるいは既に紹介した尾根先端部を指すものなのかは判断が付き難いので、これから山上郭を訪れた方が、遺構を確認した上で判断して頂きたいと思うのである。個人的には当然山上郭と尾根先端部を併せたものが、沢田城の本質である様には感じられるのだが、、、

2010年8月 3日 (火)

樽水城跡(京都府福知山市)

この山城は福知山市樽水にあって、谷筋に人家が点在している樽水集落のほぼ南最奥に位置しており、周囲が非常に急峻な低丘陵上にある。当時の城主として樽水縫殿助が挙がってはいるが、詳細は不明

城跡を訪れるには、国道9号を利用して現地に向かう場合、福知山市内に入れば「新庄」交差点で国道429号へ針路変更すればよい。この国道沿いには既にリポート掲載を終えた庄城、半田城、山崎城などが和久川に沿って築かれているので、既にこれらの城跡を訪れた方は、道順としては分かり易いとは思われるが、樽水地区まではしばらく国道に任せて西進すればよい。国道から樽水地区に入るには、分かり易い目印となるものがないので、ルート図から城跡の位置を割り出し、直登開始地点は概念図を参考にして頂くしか手はないが、ルート図には二箇所の分かり易い直登口(画像に注目)を示した。ちなみに最短直登ルートを利用すれば、激斜面にはなるが藪漕ぎもなく5分程度で主郭に辿り着ける筈である。

1_2 登城ルート

6

北からの進入口

5 最短直登ルート進入口

1_2_2 城跡概念図

この城跡は非常に小規模でもあり、形態としてはほぼ概念図に示した通りと思って頂ければ良いが、判別し易い遺構としては、現状(六月)郭跡を除けば主郭南側に備わる堀切だけと言っても過言とは思えないものである。当然遺構の見応えを望む事は出来ず、更に縄張り妙味においては、語るまでにはほど遠い城跡と言う事にはなりそうである。ただ城跡遺構は当時から現在に至るまで、手付かずの風化に任せたままとも見受けられたので、史跡としての価値は高いと言えるのかも知れないが、、、。城跡は小規模な事、あるいは状態も比較的良い事からも見学し易く見て回りやすい状況にあるが、縄張りプランを考えればシンプル過ぎるために見る分には非常に味気なく感じられた。

12_onekaku_kitagawa 北尾根上の削平地

14_nakaku_noboridorui 中郭における上り土塁跡

18_shukaku 状態の良い主郭

20_horikiri 堀切見所

城跡を個人的に評価すれば、城跡の所在地の確認、あるいは以前からどの様な城跡か興味を持たれた方だけにお薦め出来る城跡と言う事になるだろう。

2010年8月 1日 (日)

大畠城跡(京都府綾部市)

城跡は綾部市大畠町/城浦にあって、既にリポート掲載を終えた丸山城跡から見れば真北側の山上がそれにあたる。現状、城史に関しての情報は皆無に近いが、当時この一帯が大槻氏の支配地であった事、あるいはこの山城の真南側に位置し、館城の様相でもある丸山城が大槻氏の拠った城跡である事を思えば、自ずと大槻氏関連の城跡とは察せられよう(推察)。

城跡を訪ねるには土地勘の無い方には迷わずルート図に示した赤ラインを辿る事をお薦めしたい。とにかく丸山城と同様に民家の点在する山間部にあるので、他の狭い道に間違って進入すると中々辿り着き難いのが現状でもある。登山口として目印となるのは「瑠璃寺」で、その横の神社からは概念図の如く、ほぼ山上近くにある祠までは参拝登山道が通じているので、迷わず祠までは辿り着けるはずである。祠からは数m程度の藪漕ぎにはなるが、直ぐにでも主郭までは到達可能となっている。寺院からは10分程度の所要時間

1_1_2 登城ルート

6 瑠璃寺(登山口)

1_2_2 城跡概念図

現状(六月)城跡は、鉄塔メンテナンス道が山上主郭を通過しているので、非常に見学し易く見て回りやすい状態にある。当然山城として見れば最高のコンディションと言っても差し支えはなさそうには思われた。ただシンプル極まりない縄張りプラン、あるいは特に複雑な遺構が目に留まらない分、縄張り妙味などには決して期待してはいけない。その中で残存する遺構は僅かにはなるが、郭跡を除けば主郭を挟んだ形の二本の堀切、切岸跡程度になるのが現実でもある。概念図に示したものがほぼ眼にする事の可能な遺構と思って頂ければ良いが、更に北尾根、南斜面までは覗いていないので、遺構も決してこの限りではないのかも知れない、、、城跡の見所はもちろん、見応えもあり(全体像が窺える)状態の良い二本の堀切(土橋付きもある)と言う事になるが、個人的には山城ファンの方だけに限って言えば、この遺構見学の為だけに訪れても決して後悔する様には思えなかったのである。もちろん山上までの上り易さや、所要時間も考慮した上での事ではあるが、、、丸山城にまだ訪れていない方には、迷わず二城併せた同日訪問はお薦めしたい処である。

13_shukaku 山上主郭

20_minami_gedan 主郭南下段郭

15_dobasu_tuki_horikiri_2 北土橋付き堀切見所

23_minami_horikiri_2堀切を挟んだ南郭

24_horikiri_2 南堀切見所

26_minamikaku_yori_horikiri_gawa

主郭側

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