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2010年7月11日 (日)

やっと探し当てた大呂金山城跡(京都府福知山市)

この山城に関しては、既にリポート掲載を終えた桐村城跡の中で触れた様に、地元で何とか城跡の所在する方角、あるいはその付近までは教えて頂いたが、道路に面した集落側からは城跡の位置する山塊を望む事は全く出来ず(視界に入らず)、今回は天寧寺城跡から更に北側に連なる、二箇所の峰を越えた標高251mの山頂を目指して上った。この二箇所の峰は過去既に天寧寺城側から上って踏破しており、城跡遺構に関しての有無は既に分かっていた(削平地のみの狼煙台ネットワークか?)ので、今回は消去法から残ったこの山頂だけが、金山城の存在する場所であるものと確信を持って臨んだ。その結果として山上では素晴らしい遺構群に巡り合う事が出来たが、この山城の実態を出来るだけ早く山城ファンの方々に知って頂きたい思いから、今回の逸早いリポート掲載と相成った訳でもある。

1_1 登城ルート

5 直登取り付き口

1_2 城跡概念図

城跡は福知山市大呂上谷にあって、訪れるには桐村城跡を起点とすれば位置関係は掴み易いとは思われるが、それまでの道程は天寧寺城、桐村城跡でも触れているので今回は割愛させて頂く。ルート図を見ればほぼお分かり頂けるとは思うが、林道(砂利)から終点となる施設(謎の)までは普通車でも通行可能であり、この付近には駐車可能なスペースも充分ある。ここから土砂採取現場(休業中)をかすめて(画像に注目)いきなり右手側の削平地に取り付き、真北に向いて尾根を上れば(直登)、藪漕ぎもなく15分程度で山上主郭までは辿り着けるはずである(南端の堀切までは5分強)。

城跡はこの時期(六月)にしては蔓延る木々も少なく(画像に注目)、見学にも移動にも差し支える事が無く、概念図に示した範囲までの遺構は全て判別確認可能な状態にある。城跡の形態から察しても、更に別尾根まで郭が展開されている様には見受けられなかったが、この城跡の醍醐味を感じる部分あるいは見所は、桐村城跡と同様に要所に刻まれた状態の良い空堀群にあると断言出来そうには思えた。出来るだけ簡潔で分かり易いリポートを心がけている事もあって、これ以上多くは語らないが、とにかく山上を覗いて期待はずれに終わる事は絶対に有り得ない!と思えた事からも、まだ未訪の方には是非一度訪れて、技巧を伴う空堀群(縦堀、堀切、二重堀切など)の醍醐味に触れて頂きたいと思うのである。桐村城跡も同様に、状態あるいは遺構残存度などの全てを含めた上で素晴らしい城跡と感じられたが、個人的にはこの山城も正に山城と呼ぶに相応しい素晴らしい城跡と目に映ったのである。 

29_shukaku_2 主郭の現状

50_sita_higasi_horikiri1_1 東堀切(二連の1)見所

52_tatehori 東縦堀(堀切)見所

31_kitakaku_1 北郭の土塁

30_shukaku_kita_horikiri_dorui 主郭北堀切、土塁見所

34_hokutan_horikiri_dorui 北端堀切見所

36_nisi_dadorui_horikiri 二の丸側大土塁、堀切素晴らしい!

41_seitan_horikiri_2 西端堀切見所

この二城は文献(城跡関連の)などでは決して採り上げられない城跡の一つでもあるが、福知山から綾部地方にかけて多く存在する、比高100mを越える山城(丘城は別にして)の中では、遺構残存度、残存状態、縄張り妙味、ついでに本郭群の規模の大きさまで加味すれば、個人的な思い入れも多少入るが、直見城、河守城、高龍寺山城、山家甲ヶ峯城などと並んで、トップ3を形成する山城の一つには挙げられよう。この山城もここまでの状態で現在まで自然維持されて来たのであれば、是非「指定史跡」として認定して頂き、これからは多少なりとも整備して、何とか後世まで大事に残して頂きたいと思うのである。本音を語れば、これからこのリポートをきっかけとして訪れる方は別としても、大呂地区における両山城の魅力は、自分も含めた一部の山城ファンだけに語り継がれるだけで決して終わって欲しくはないのである。

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京都(福知山)の山城」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。
私、郷土の山城をこよなく愛するものです。

この度の突然のお便りは、城跡の名称が間違えておりますので、訂正をお願い致したく思いまして…。(誤)加保城跡→(正)田和城跡
城主:藤堂高虎→居相孫作→栃尾源左衛門
(上記、藤堂家の文書・その他より確認。)

また、近くには未確認ではありますが、藤堂高虎の住居跡(野面積みの高さ5m×2段(10m弱)をメインに総石垣の構え。)総面積1200坪以上かと推測しております。
この未確認の住居跡を中心に右手に田和城・左手に権現山城を配し直接延びる道が一部確認できます。
加保城跡も存在致しますが、場所は大屋中学校の裏山で東に連なる遺構が確認できます。主郭の部分は道路と土取りの為、半分程しか残っておりません。

初めてで、誠に勝手な事を申しましたが、お許し頂きたく、いつの日かお出会い出来て色々とご教授頂ければ幸いかと思います。
                      合掌

TAKUです、コメントご拝見致しました。
郷土の山城を愛して居られるとの思いは、コメント内容からも充分に伝わって来ました。
コメントの中にあった加保城に関しましては、今年の二月のブログ記事になると思いますが、「城跡」カテゴリーの中で「山城ファンに向けて」と題して呼称の訂正記事を載せております。もしまだご覧になられておられないのでしたら、是非一度拝見して頂ければ嬉しく思います。
もちろんその中で、一般城跡ファンの間、あるいは地元でも、通称「加保城」と呼ばれているものは、本来は「田和城」という呼称の城跡である事も説明しておりますが、城跡呼称に関してはこの城跡もそうであった様に、郷土史あるいは伝承、あるいは公的な資料の中で城跡名が全て統一されている訳ではありませんので、どの呼称が正解であるのかは、私如きの一介の山城ファンにとっては中々結論が出せないのが現実でもあります。
個人的には呼称の誤認を避ける為に、訪問後も追跡リサーチをしながら誤りは訂正して行く形を採っておりますが、この「山城賛歌」の趣旨は決して城跡遺構の研究成果を発表する場ではありませんし、更に城史に及ぶまで深く追求したものでもありません。訪れた結果として自分が感じた事、あるいは情報を得た部分を単純にリポートとしてまとめただけのものであり、城跡を訪れる為のアシストして気軽に活用して頂く事だけが、私自身の最大の喜びでもあるし願いでもあるのです、どうぞお含み置き下さい。
これからも是非身近にある郷土の誇りとも言える、この山城を愛し続けて頂きたいと思います。この度は本来の加保城の所在地から現状まで報告して頂き有難うございました。
又機会が訪れましたら足を向けたいと思っております。

いつも、TAKUさまの山城探索の情熱に感動しています。
また、山城攻めに際して、おおいに参考にさせていただいております。
金山城址のリポート拝読しました。
わたしも、以前より縄張図などを収集して、登ろうと思っていた城でした。今月末あたりに雪が融けたころを見計らって、登ろうと思っています。また、リポートを参考にsあせていただきます。

TAKUです、コメント拝見させて頂きました。
リポートが少しでもお役に立てたと言う事でもあり、非常に嬉しく思うのと同時に、今後の山城巡りの励みとさせて頂きたいと思って居ります。
金山城はそれほど上り斜面のきつい山城ではなく、短時間で上れる事もあって、気軽な気持ちで赴ける事と思います。
ただ単独で訪れる場合には、福知山、綾部は特に熊の出没が多いと聞いておりますので、熊を遠ざける為にも是非鈴を付けて上られる事をお勧め致します。

昨日、東北・関東が大変な状態のなか、天寧寺城→金山城に登ってきました。
金山城は想像以上に規模壮大で、曲輪・切岸・竪堀・堀切・土塁などなど残存状態は良好で素晴らしいものでした。金山城の付近には天寧寺城、桐村城、牧堂屋敷城などの城砦が集中していますが、金山氏の威勢のほどがうかがわれるとともに、あの山村を支配する領主にそこまでの力があったことに驚きます。
山城に登るたびに思うのですが、中世においては現代以上に人口は少なかったことと思われ、よくぞ今に伝わる山城群を構築・維持したものと不思議の感にとらわれます。中世山城に登り、その城が機能したころのことを想像すると、われわれが知っている以上に戦国領主の存在は地域密着型であったと思われます。
いま、山城が注目され、その考古学的見地から中世=戦国史が塗り替えられることも増えてきました。金山城の存在も丹波の戦国史において重要である!ということを、実際に登ってみて実感した次第です。TAKUさんも書かれていますように、これだけの山城が忘れられた存在であることは残念なことです。なによりも城址山麓の土取り場は城址への大手道を消し去ったことは間違いなく、城址保存(郷土の歴史伝承)に対する意識の低さに義憤すら覚えました。
ともあれ、今回の山城攻めにもTAKUさんのブログを参考にさせてちいただきました。ありがとうございました。

TAKUです、コメントご拝見致しました。
今回は訪城後の御感想までお知らせ頂き有難うございました。訪問においてはリポート記事が少しでもお役に立ったという事でもあり、大変嬉しく思っております。
私もこの山城を初めて訪れた時の事を思えば、播磨屋さんと全く同じ見解を持った者なのですが、あの当時の金山衆の勢力は、この二城あるいは庶流ともなる桐村城を窺うだけで、充分想像がつきそうとも思われます。
戦国史にも余り登場しない金山氏なのですが、いにしえよりこの大呂地区を拠点とし、戦によって領地を更に広げる訳でもなく、都から遠く離れたこの辺境の地を永らく拠点とした理由は、中々想像が付き難いのが現状とも言えます。
私自身この山城は今まで訪れた城跡の中でも、特に戦国ロマンに浸る事が出来ましたが、この隠れ里の様な地に山城がひっそりとあるからこそ、余計ロマンを感じる事が出来たのかも分かりません、、、
これからも播磨屋さんにとって「山城賛歌」が少しでもお役に立てる事を願って止みません。

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