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2010年7月

2010年7月30日 (金)

美山 松山城跡(京都府南丹市)

この山城は京都府南丹市美山町大野にあって、山の多い南丹市にあっては更に山深き地の山間部に位置しており、美山町大野集落の西側に聳える標高約410m(比高250m)の山の山頂がそれにあたる。城史に関しては唯一「松平石見守兵部」の居城が伝わってはいるが、詳細は不明でもある。

城跡を訪れるにはスタート地点によっては色んなルートが考えられるが、京阪神側から向かうのであれば国道27号、あるいは周山街道と呼ばれる国道162号を利用して府道12号へ進入し、大野小学校」を目印として目指せば分かり易いとは思われる。「大野小学校」の西背後の山が城跡なので位置確認は容易いだろう。後は登山口となる府道12号沿い(画像に注目)にある「金毘羅社」の道標を確認して、まずは社殿まで石段を上ればよい。社殿脇からはルート図の如く登山道(踏み跡程度)に従って上れば良いが、登山道の消える下界が望める箇所(画像に注目)からは、山上に向いての岩場の直登を余儀なくされるので、足元に細心の注意を払って上る事が肝心とは思われた。社殿から山上までの所要時間は約30分程度と思って頂ければ良いだろう。

1_1 登城ルート

7_konpira_tozanguti_1 登山進入口

12_tatebori_ka_1 縦堀に近いもの、自然地形か?

15_1 下界を望める地点

18_sanjyou_kaku_3 18_sanjyou_kaku_9 山上郭群(平坦地形)

この山城に関しては情報は皆無に近く、地元では更に出会う人もなく、城跡に関しての情報は一切仕入れる事が出来なかったが、もちろん地元の方に尋ねた処で、この山を城跡として認識して居られる方はいないものとは思われた、、。自ずと最初から城跡としての形態も、その実態も分からぬままの訪城となったが、結果としては山上郭群は延々と東西に連続する、起伏の少ない痩せ尾根に削平を施しただけのものであり、尾根上を分断する堀切、あるいは土塁などは一切窺われなかった。ただ痩せ尾根上とは言え、その尾根上には高低差はないが、僅かな段差程度で比較的規模の大きい郭跡が、中央と西側(到達した付近の郭跡が一番規模が大きい)に見受けられた。よって東西に跨る山上尾根の全てが城域と考えれば、その郭占有面積は相当ものを感じたのである。これも山城としては一つの形態なのであろうが、、、。

現状(五月)、当時の遺構と思えたものは郭跡のみであり、遺構の見応えは無きに等しいが、険峻極まりない山城としては中々類を見ない形態(山上は高低差のない、ほぼフラットな状態)、更にこの時期でも移動に差し支える事もなく、尾根の端から端まで容易に動き回れた事を思えば、この山城に少なからず興味を抱かれた方、あるいは足腰に不安の無い方だけには何とか訪問をお薦め出来ようか。ただし、遺構の醍醐味を求める事は最初から捨てて臨み、山城の風情を味わい、規模を体感する程度の訪問として割り切る事が前提ではあるが、、、個人的には登山として充分楽しめたので満足感に浸る事は出来た。

2010年7月29日 (木)

但馬 新宮城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市十二所小谷にあって、養父中学校の北背後に聳える山の尾根先端部に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには既にリポート掲載を終えた十二所城、軽部城などを起点とすれば分かり易いとは思われるが、国道9号から県道6号へ進路変更した後はルート図の如く「養父中」を目印として進行すればよい。直登取り付き地点となるのは老人ホームの北側にある集合墓地の奥からで、墓地背後の斜面に取り付いてそのまま山上を目指せば15分程度で主郭へは辿り着ける筈である。ただ砦規模の山城とは言え険峻さを誇る山城でもあり、自ずと激斜面を上る(藪漕ぎはない)事になるので、最初に登山する覚悟が必要とは思われる。

1route 登城ルート

4_2 城跡遠望

7 直登口

10_minami_horikiri 南堀切見所

12_shukaku_2 主郭の現状

13_kita_horikiri 北堀切見所

現状(六月)城跡は藪城を覚悟して臨んだが、意外にもある程度見通しが利く状態にあり、この時期にしては雑木も密生していないので動き回り易く、郭跡を除けば分かり易い遺構でもある主郭を挟んだ形の二本の堀切は、明確なものを拝む事が可能な状況となっている。山上郭群は僅かながらの高低差で四段に分かれていたものと察せられるが、長年の風化によって段差は非常に曖昧なものとなっており、現状では単郭の城跡としか見受けられないものでもある。もちろん砦規模の山城なので最初から多くは望めないが、数百年に渡る風雪をしのいで現在まで至ったのかと思えば、非常に感慨深いものを感じるのである。

城跡を個人的に評価すれば、無名に近い山城であればこその風情は充分感じられるので、この状態を思えば上ってまで窺う価値は充分あるものと見た。規模を問わず険峻な山城が好きな方にはお薦めは出来るだろう。

2010年7月27日 (火)

宮川城跡/養源寺城跡(京都府亀岡市)

この宮川城跡猪倉養源寺城跡の二城は同じ亀岡市宮前町宮川にあって、国道372号及び本梅川を挟んで東西に対時しており、前者は北西背後に聳える神尾山城の砦あるいは出城と伝わっているが、後者に関しては真南側丘陵上には井内氏の居城、猪倉城(井内城)がある事からも、当時においては猪倉城との関連、あるいは丹波五大山城の一つでもある神尾山城との関連性も窺われそうには思えたが、詳細は不明である。ただ神尾山城の城主は柳本氏から始まり、数度の領主交代劇が窺われる模様であるが、最終的には丹波を平定した明智光秀のものとなっているので、この二城は自ずと平定される前まで機能していただけの山城とも思えるのである(推察)。

城跡へはスタート地点によって様々なルートが考えられるのでここでは割愛させて頂くが、取り合えず国道372号へ進入する事が先決となる。どちらもルート図で確認して頂ければ分かり易いとは思われるが、まず宮川城跡の登山進入口は画像に示した神尾山金輪寺の案内板のある箇所で、ここから山道に進入して、そのまま山上へ向いてだらだら続く斜面を上り切れば(途中から踏み跡程度)10分程度で山上主郭には到達可能である。養源寺城跡の方は養玄寺を目指せば分かり易いが、寺院左手にある墓地より尾根に向いて直登(他からの進入口は厳重なフェンスによって困難)すれば、5分程度で山上主郭には到達出来るはずである。

1_1 登城ルート

1 宮川城付近詳細図

7 宮川城進入口

20_kita_karahori 僅かに空堀跡

22_shukaku 主郭内の現状

23_shukaku_heki 主郭切岸

現状(三月)、両城共に郭内は長年の風化によって自然任せの荒れ放題と化しており、案外見通しは利く状況にはあるが、地形の変化から遺構を判別するのは中々難しい状態にある。どちらも安普請で築かれた山城と見受けられるが、宮川城は風化が激しいものの、郭周りで切岸跡北郭では僅かに空堀跡(画像に注目)は窺う事が出来た。規模も尾根上の削平地を取り込んだとすれば比較的大きいもので、砦の域は充分出ている様には感じられた。尚、未踏に終わったが、麓には居館跡(場所の特定は出来なかった)があるらしいので参考までに、、、。猪倉養源寺城の方は全域が自然地形をそのまま削平しただけに終わっており、堀切も切岸跡も窺う事が出来ず、自ずと郭の境界が判別出来ないので、どこまでが縄張りであるのかは非常に見当が付き難い状態でもある。しかし規模(城域)は意外に大きいものである。

1_2 猪倉養源寺城2

個人的にこの二城に関しての評価は難しいが、遺構の見応えあるいは縄張り妙味などを期待して訪れるならば、落胆する事は必至の様にも思われた。この山城の所在地あるいは現状が気になっていた方にとっては、多少でも値打ちのあるリポートになったものと思いたいが、数百年の時を経て現在に至る山城遺構は、見応えには欠けても史跡としての価値が下がるものではないので、興味を持たれた方にとっては、宮川地区における山城巡りの一環としての訪問ならば、何とか面目は保たれそうには感じられるのである。

2010年7月25日 (日)

常願寺愛宕山城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市夜久野町常願寺にあって、険峻極まりない標高338mの愛宕山山頂に築かれたものである。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、国道9号(山陰道)を経由すれば「野花」の信号で国道426号へ針路変更、そのまま北上(出合城へ訪れるルート)を続ければよいが、ルート図に示した付近で道路沿いの小さな「森尾神社、愛宕山」の道標を確認すれば、谷沿いに左折針路変更して森尾神社を目指せばよい。ただ森尾神社には明確な道標がないので、画像に示した参拝道入り口にある石灯篭を目印として頂くより方法は無い。ここから神社まで上り、その社殿背後から山頂までだらだら続く連続急斜面(藪漕ぎまでには至らず)を北に向いて上り切れば、25分は要するが山上郭群が間違いなく迎えてくれる筈である。山頂には愛宕社(朽ちた祠のみ)が祭られていた事からも、かつては山上に繋がる参拝登山道があったものとは思われるが、現状登山道を探すのも一苦労するものと思われるので、これから訪れる方には直登口が分かり易い事もあって、迷わずこのルートをお勧めしたいのである。

1_1 登城ルート

5 森尾神社登山口

1_2 城跡概念図

城跡の形態は、険峻な山頂を削平しただけに終わったもので、山上郭群はほぼ主要二郭で形成され、それに帯郭が付随しただけのものでもある。ここまで険峻で突出した形の山上郭においては、防備としての堀切は必要としなかったものとは思われるが、三方尾根に対しては明確な堀切は目に留まらなかった。しかし主郭には虎口を形成するものと見られる、明確に判別可能な土塁が未だ健在しており、少ない遺構群にあっては唯一眼は楽しませてくれるものとは思えた。現状(六月)郭跡は、植林地となっているお陰で見通しは利く状態にあり、小規模なるが故にほぼ全体像が窺える状況にあるが、かつての愛宕神社敷地も含めて地表は荒れ放題と化している。山上に佇めば木の隙間からではあるが、下界は充分望める状況でもあり、険峻な地にある楚々とした山城を体感するという部分においては、これ以上ない城跡と眼には映ったのである。当時でも今でもこの山深き地の更なる山奥に、山城を築かなければならなかった理由は自ずと見学者の想像に委ねられるが、これだけ山間の険峻な地に山城が存在する事自体が信じられない気持ちでもある。

13_minami_obi_heki 帯郭切岸

16_shukaku_dorui_minamigawa 副郭より主郭土塁見所

17_dorui_utigawa_2 主郭内より土塁

18_shukaku_doruiato 主郭内、土塁跡見所

21_higasikaku1 東郭1

城跡を個人的に評価すれば、険峻な山城が大好きと自認する山城ファンの方には是非お薦とは思えたが、一般城跡(史跡)ファンの方には、この厳しい連続上り斜面を考慮すれば中々お薦めとは言えないのが本音でもある。

2010年7月23日 (金)

野条城/畑中城跡(京都府南丹市)

城跡は京都府南丹市八木町野条にあって、既にリポート掲載を終えた新庄城からみれば、大規模な工場敷地を挟んで南東側の丘陵上に位置している。立地環境からも新庄城の出城とも窺われるが、推察の域は出ない。詳細は不明

城跡へは新庄城を起点にすれば分かり易いが、国道9号「吉富」交差点より408号へ針路変更後、新庄橋を越えて府道25号へ右折、後はルート図の如く進行して、直登口となる観音像の建つ集合墓地(府道からも望める)を目指せばよい。概念図に記した直登口から山上までは、僅かな踏み跡が繋がっているので、迷わず主郭までは到達(10分)出来る筈である。

1_1_2 登城ルート

6 進入路

1_2 城跡概念図

15_shukaku_4 山上主郭

18_shukaku_minami_gedan 南下段郭

19_one_horikiri 20_tatehori_1 堀切

現状(三月)、城跡は自然任せの藪化進行中にあるが、移動にも難渋せず見学に差し支えるまでには至っておらず、比較的ましな状態にある。形態としては丘陵上は余り高低差もなく、直線的に尾根が繋がっているだけであり、主郭から堀切を隔てた南側は、平坦地形が更に連続している。自ずと主郭を含めた郭間には余り高低差は見受けられず、切岸の醍醐味に直接触れる事が出来ないのが現状でもある。もちろん見応えのある遺構は皆無であり、先に触れた堀切と平坦地形が唯一城跡を物語るであろう遺構となっている。この堀切も相当埋もれたと窺われるもので、両サイドに刻まれた縦堀で何とか堀切と判別可能な状態でもある。

尚、別ルート図には畑中城 を記したが、この山城は砦の域は出ないが、比較的規模の大きい単郭で形成されており、目に留まった限りでは土塁らしき跡、堀切(北端)は現存しており、相当風化は進行中にあるが、ほとんど手付かずの縄張りは覗いてみる価値はあるものとみた。興味を持たれた方には移動距離が少なくて済む事からも、この野条城と併せた訪問であれば、山城巡りとしても充分楽しめるのではないだろうか。

1_1_3

2010年7月21日 (水)

三江路城跡(兵庫県養父市)

この山城は兵庫県養父市奥米地/丸山にあって、現在は「花と緑の希望王国」と名付けられ、丸山公園として公園化されているが、この公園敷地が城跡でもある。

城跡を訪れるには先にリポート掲載を終えた宮谷城を起点とすれば分かり易いとは思われるが、養父市場集落からは「米地橋」を渡って、米地川に沿う一般道255号へ針路変更、その後は目印として先に触れた「花と緑の希望王国」及び「ホタルの館」を目指せば、迷わず丸山公園には到達出来る筈である。

1 登城ルート

7 城跡進入口

1z 現地イラストマップ

1_2_3 城跡概念図

この城跡は地元の方もご存知とは思われないほどの、限りなく無名に近い城跡の一つでもあり、近年整備されたと思われる公園にも城跡としての案内説明はなかった。非常に残念な事ではあるが、それが故に城跡としての認識がどこまであったものかは想像も付かず、どこまで造成整備されて地形改変があったものかは、全て見学者の想像に委ねられるものと思われた。個人的に踏破した範囲と、遺構と判別可能と思えたものは概念図には示したが、物見程度の規模である山上郭から便宜上の主郭、更に西郭群にかけては整地されてはいるが、ほぼ当時の郭跡を転用したものの様には窺われた。もちろん造成整地されているので、郭境となる現状鋭角なまでに削り落とされた切岸が、その当時のままとはとても思えないが、全体的な縄張りはほぼ当時のままと見てよいものとは思われたのである。

15_shukaku_e 山上郭の背後堀切

12_kita_horikiri_1 堀切見所

17_shukaku 山上郭

23_2maru_1 便宜上の主郭

21_2maru_dorui_1 主郭背後の土塁跡

26_dankaku_sokuheki 西段郭群

その中で明確に遺構として判別可能なものは、郭跡を除けば山上郭東背後に備わる大堀切主郭における土塁(残欠か?)といっただけに限られてくるのが現実でもあるが、他は見学者それぞれが城跡を歩いて体感し、更に想像を膨らませて楽しめばそれで良いものとは思われた。見る限り必要最小限の地形改変(推察)に抑えられたこの城跡は、公園としても史跡見学としても遊歩道が設置されているので、歩き回りやすく非常に好感が持てたのである。

今回訪れたのは日曜日ではあるが、休日にも拘らず公園で見かけた人は皆無でもあり、せめて史跡見学者、あるいは城跡ファンに存在を知って頂く為にも、城跡としての案内板は是非設置して頂きたい処ではある。城跡を個人的に評価すれば、この公園化によって別な意味で城跡ファンの方々も訪れ易くなっており、公園を散歩しながら遺構見学も楽しめば、更に充実した一日が過ごせるのではないだろうか。公園化されても山城としての風情は充分残っており、是非にとは行かないまでも、充分お薦め出来る城跡の一つには変わりは無いだろう。もちろん最初から遺構の醍醐味は期待しない事が前提とはなるが、、、、

2010年7月19日 (月)

公庄下城跡/愛宕山城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市大江町公庄(グジョウ)にあって、北近畿タンゴ鉄道「公庄」駅より国道を挟んでほぼ真北側にある、ほぼ単独で孤立した丘陵上の東先端部に位置している。

この山城に赴くきっかけとなったのは、車で国道を移動中に休憩を取っていたところ、通りかかった地元の古老にこの付近での城山伝承地の有無を尋ねた事から始まるが、驚いた事にこの裏山(愛宕山)がそうであるとの返答が直ぐ得られた。しかし別の方に尋ねれば、警察署(派出所)の裏の山がそれであるとの返答でもあった。結果的にはこの二城は呼称の確認も含めて二度訪れた事になったが、後で調べた結果、後者は「公庄下城跡」と呼ばれる事が判明、前者は古老の話によれば「城跡の呼称までは知らないが、一度調査も入っているので市に問い合わせれば分かるだろう」との見解でもあり、恐らく「公庄下城跡」の詰城、あるいは由良川を監視すべく物見機能を備えた砦跡だろうと言うことに落ち着いた。今回は仮)公庄愛宕山城としてリポート掲載に及んだが、砦跡として地元に伝承が残っている以上、城跡として間違いはないものとは察せられる。結果的にこの砦跡は遺跡分布図の中には含まれていなかったが、城跡とするには明確な堀切跡がないので、恐らく遺跡としては正式に扱われていないものとも思われる(推察)。

1routegujyou 登城ルート

4 直登取り付き地点

3gu 城跡概念図

8_nisi_horikiri_2 西堀切見所

13_horikiri_1 堀切と土塁見所

14_shukaku_dorui 主郭内より土塁見所

15_shukaku 主郭の現状

17_minamikaku1_3 南切岸見所

まず「公庄下城跡」の形態は、ほぼ概念図の通りと思って頂ければよいが、堀切より西側は未踏に終わっているので、遺構も縄張りもこの限りではないのかも知れない、、、規模は小さいながらも、主郭の堀切側には大土塁が付随しており、西郭側にも尾根を断つ堀切が備わっている。もちろん見所はこの二本の堀切と土塁であると言う事は言うまでもないが、主郭南側の帯郭壁となる直立に近い切岸の状態も良いので、見応えは相当なものが感じられた。現状、城跡は城域が狭い事も相俟って、この時期(六月)でも郭移動に差し障る事もなく、更に遺構の判別確認にも支障は全く来たさない状態にある。城跡を個人的に評価すれば、公庄下城はもちろんの事、愛宕山城(砦跡)も取り込んだと察せられる築城環境は、充分見学の価値がある様には感じられたが、更に二城併せたものがこの城跡の本質であるとも考えられるのである。尚、「仮)公庄愛宕山城跡」の現状リポートは画像をクリックの事

20 仮)公庄愛宕山城のリポート

20_2 愛宕山城進入口

20_5 20_6 愛宕山城山上郭

城跡を訪れるには、まず国道175号に進入する事が先決となるが、「公庄駅」あるいは「妙心寺」を目印として向かえば、難なく付近までは到達出来るとは思われる。城跡までは比高30m程度を上る事になるが、直登取り付き地点は概念図に示した国道沿いにある民家の庭先手前(画像に注目)からで、そのまま斜面に沿って上れば、5分もあれば主郭に到達可能となっている。個人的には「妙心寺」側の激斜面を登って国道側に降り立ったが、寺院側からの直登はリスクが大き過ぎるので余りお勧めは出来ない。

2010年7月17日 (土)

小貝城跡(京都府綾部市)

この山城は綾部市小貝町にあって、先にリポート掲載を終えた石原城から見れば真南に聳える山塊の山上がそれにあたる。当時は川北石見守の居城と伝わるが、綾部一帯の多くの城跡と同様に、明知光秀の攻略により落城の歴史あり。その後の詳細は不明

城跡を訪れるには石原城を起点とすれば位置関係も分かり易く、ルート図通りに林道から茶畑を経由して向かえば、迷わず山上主郭までは辿り着けよう。現在この一帯は「綾部市創造の森」といった、広域に渡る自然公園になってはいるが、過去城跡であった事を示す案内板は設置されておらず、城跡としてここを訪れる史跡ファンあるいは城跡ファンの方は、皆無に近い様には感じられた。更に公園としながらも徐々に荒れ果てていく様は、非常に忍びないものも感じられた。折角公園として整備されながらも、城跡を認識させる案内板がないのでは史跡として訪れる方はおらず、非常に勿体無いばかりである。近年の城跡ブームに乗って無名に近い城跡の一つではあるが、是非城史を載せた案内板の設置を希望したい処ではある。

1route 登城ルート

7_3 東からの林道進入口

3ko 城跡概念図

現状(六月)城跡は訪れる人も余りなく、自然任せの荒れた状態、あるいは下草や夏草に全て覆われた状態となっているが、まだ近年整備された公園とあってなのか、歩き回るには余り支障は来たさない状態にある。ただ備わる当時の遺構となると、見通しの利く便宜上の二の丸付近から主郭にかけては、流石に当時の郭跡らしく感じられるが、斜面に至っては雑草や雑木が蔓延り、とても遺構探索は困難な状況となっている。その中にあって当時の遺構と眼に映ったのは、今にも腐って朽ち果てる寸前の木橋の下の堀切跡、主郭手前に備わっていたと思われる堀切跡、これは公園化の為に埋められた縦堀跡だけが両サイドに僅かに残っている程度なので判別は少し難しいが、何となくそれらしくは感じられた。全体を通して見れば、どこまで公園として造成地形改変が行われたものかは想像も付かず、様相も含めた山城としての佇まいを味わう程度の訪問となる様には感じられた。せめて山上に佇んだ時、周囲の眺望が利くのであれば、また違ったものになるとは思われたが、、、

12_3maru 三の丸(便宜上の)

13_horikiri 堀切跡(下)に架かる木橋

18_horikiri_ato 堀切跡と見受けられる地形

20_shukaku 主郭内の現状

この記事をきっかけとして城跡に赴かれる方には、「堀切に備わる腐りかけの木橋を渡る場合には細心の注意が必要」なので、渡る前には是非この記事を思い出して頂きたいのである。城跡を個人的に評価すれば、公園化が行き届いているので史跡ファンの方には別な意味でお薦め出来ようが、山城ファンの方には風情を味わう程度の訪問として納得して訪れて頂きたいのである。石原城と併せた同日訪問であれば、ついでに伺う価値は充分あるものとは思われたが、、、

2010年7月15日 (木)

綾部 石原城跡(京都府綾部市)

城跡は京都府綾部市石原町坊ヶ谷にあって、集落北背後の丘陵上がそれにあたる。この城跡は個人的に見る限り、綾部一帯に数多く築かれた大槻氏一族の城跡とは形態が異なり、更に他の在地勢力の城跡とも形態を異にするものと眼に映った。さも織豊系の築城技術が採り入れられたかの様に、主郭には分厚い高土塁と空堀を張り巡らせ、更には土塁で囲まれた馬出しの様な郭跡まで存在している。もちろん城史に関しても情報は皆無に近く、見学者の想像に全て委ねられるのだが、綾部一帯では中々お目にかかれ難い縄張りプランを持ったこの城跡は、まだ未訪の方には是非訪問をお薦めしたいのである。

1_1 登城ルート

7_2 入山口

1 城跡概念図

城跡を訪れるには既にリポート掲載を終えた高龍寺山城、位田城などを起点とすれば位置は掴み易いが、府道74号を経由して「私市円山古墳」を目指して走ればよい、後はルート図の如く進行すれば難なく付近までは辿り着けるだろう。城跡進入口としての目印となるのは民家のひしめきあう中にある「三柱神社」で、概念図の如く神社西側家屋の隙間にある入山口から進入して、そのまま山道に従えば5分とかからず主郭には到達出来る筈である。

現状(六月)城跡は自然任せの藪化は進行中にあって、郭内の見通しは利き難いが、移動に差し障るまでには至っておらず、歩き回れば概念図に示した遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。むしろこの時期の山城にしては状態は良い部類に入るかもしれない、、、この城跡の見所は最初に触れた様に、主郭を巡る高土塁及びそれに付随する空堀で、空堀は長年の堆積物によって相当埋もれてはいるが、高土塁は形は崩れながらも未だ健在でもある。更にその土塁の特徴としては横矢が設けられており、分厚い高土塁と並んで更に眼を楽しませてくれている。山上郭群はほぼ三郭構造と見てよいものと思われるが、主郭北側に広がる削平地なども城域とすれば、山上がほぼフラットに近い状態もあって、全長百m足らずの城跡ではあるがより巨大な城跡として眼には映ってしまう。土塁に覆われた主郭は特に大規模なもので、その中央に佇めば抜群とも言える臨場感を感じる事が出来よう。

15_fukukaku_dorui_koguti_1_2 副郭の北土塁虎口見所

19_fukukaku_nai_dorui_2_3 副郭土塁見所

23_shukaku_kita_dorui_heki_2 主郭北土塁壁

22_higasi_karabori_2 主郭東土塁壁と空堀見所

20_yokoya_karabori_2 横矢構造の土塁見所

30_dorui_2_2 主郭土塁

城跡を個人的に評価すれば、綾部一帯では中々お目にかかれない形態の城跡でもあり、はっきりそれと分かる判別し易い遺構群、あるいは山道を利用すれば直ぐにでも辿り着ける、圧倒的お手軽感もそれに加味すれば、先に触れた様に間違いなくお薦めできる城跡の一つと言えよう。状態がもう少し良いのであれば、推奨に値する城跡として扱わして頂けたのだが、、、ルート図には同時に小貝城跡を記したが、この山城も併せた同日訪問とすれば、更に山城巡りが充実したものになる様には感じられた。

2010年7月13日 (火)

但馬 宮谷城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市養父市場/宮谷にあって、既にリポート掲載を終えた養父神社城から見れば、養父神社のある大きな谷筋を挟んだ真東側の山上尾根に位置している。城史に関しての詳細は全く不明でもあるが、養父神社城が垣屋氏の居城であった事から考えれば、自ずとその支城あるいは出城とも察せられる。個人的には築城環境、あるいはその単純な縄張りプラン(高低差のない尾根上を掘り切っただけ)が良く似ている事からも、正しく垣屋氏によるものと判断したが、、、、ただ養父神社城は神社敷地を当時の居館跡と診立てた場合、すぐ背後の山上郭は詰城の様にも窺えたが、この城跡に関しては北西山麓に養父神社が位置するものの、機能としては中々想像し難いものがある。

1_1_2 登城ルート

7_tyokuto_kuti 直登口

1_2_2 城跡概念図

城跡を訪れるには、養父神社城を起点とすれば位置関係は歴然としているが、国道9号を走り一般道271号へ針路変更して、家屋のひしめく養父市場集落の中にある警察署、あるいは今回直登山口とした「三柱神社」を目印として目指せば分かり易いとは思われる。今回この神社を直登口としたのは、養父神社側から上るのであれば枝尾根が多く、登山あるいは下山においてルートを間違い易く感じられた事によるものであるが、此方からのルートでは、等高線を見ればお分かりの様にルートを間違えないメリットはあるが、上り傾斜だけは相当きつい(藪漕ぎは無く非常に上り易いが、)ものがある。神社から15分程度であれば山上主郭までは到達可能であるが、足腰に相当負担は強いられるので、ある程度の覚悟は必要かも知れない。多くの険峻な山城を踏破して来られた方には、別に何でもない事なのではあるが、、、尚、付近の狭い道路に駐車スペースは中々見当たらず、訪れた日が日曜ということもあって、個人的には警察署の東にあるJAの広い駐車場を勝手に借りたが、平日の訪問では駐車には一苦労するものと思われた。

20_v_horikiri_1 20_v_horikiri_3 V字形堀切見所

23_shukaku_1 主郭内

26_dobasi_horikiri_1 主郭南土橋付き堀切見所

28_demaru_dorui 南出郭と土塁跡見所

29_dobasi_horikiri_1 南端堀切見所

この城跡の醍醐味あるいは見所は、尾根を遮る三本の堀切見学が全と言い切れそうには思えたが、特に主郭北側に備わる堀切は高低差はないが他に中々類を見ないものでもあり、V字形にカットされた空堀(確か京都府の北山間部にある今宮城にも似たものがあったか?)は一見の価値に値するものとも思われた。空堀の片側は縦堀として刻まれており、長年の風化や堆積物などを考えれば、この状態は素晴らしいと言えるものでもある。他の二本の堀切も余り高低差はないものの、土橋を伴った様相は判別し易い状態も含めて、充分見応えは感じられるものである。

縄張り妙味には全く期待出来ない城跡ではあるが、先に触れた三本の堀切は上ってまで窺うに充分価値のある遺構と思われた事からも、この時期(六月)でも郭内の見通しが利く状態の良さ(山城としてはこれ以上望まれない状態、あるいは当時から手付かずの状態で残された残存度の高い遺構も含めれば、山城ファンの方には是非お薦め出来る城跡の一つと言う事にはなるだろう。

2010年7月11日 (日)

やっと探し当てた大呂金山城跡(京都府福知山市)

この山城に関しては、既にリポート掲載を終えた桐村城跡の中で触れた様に、地元で何とか城跡の所在する方角、あるいはその付近までは教えて頂いたが、道路に面した集落側からは城跡の位置する山塊を望む事は全く出来ず(視界に入らず)、今回は天寧寺城跡から更に北側に連なる、二箇所の峰を越えた標高251mの山頂を目指して上った。この二箇所の峰は過去既に天寧寺城側から上って踏破しており、城跡遺構に関しての有無は既に分かっていた(削平地のみの狼煙台ネットワークか?)ので、今回は消去法から残ったこの山頂だけが、金山城の存在する場所であるものと確信を持って臨んだ。その結果として山上では素晴らしい遺構群に巡り合う事が出来たが、この山城の実態を出来るだけ早く山城ファンの方々に知って頂きたい思いから、今回の逸早いリポート掲載と相成った訳でもある。

1_1 登城ルート

5 直登取り付き口

1_2 城跡概念図

城跡は福知山市大呂上谷にあって、訪れるには桐村城跡を起点とすれば位置関係は掴み易いとは思われるが、それまでの道程は天寧寺城、桐村城跡でも触れているので今回は割愛させて頂く。ルート図を見ればほぼお分かり頂けるとは思うが、林道(砂利)から終点となる施設(謎の)までは普通車でも通行可能であり、この付近には駐車可能なスペースも充分ある。ここから土砂採取現場(休業中)をかすめて(画像に注目)いきなり右手側の削平地に取り付き、真北に向いて尾根を上れば(直登)、藪漕ぎもなく15分程度で山上主郭までは辿り着けるはずである(南端の堀切までは5分強)。

城跡はこの時期(六月)にしては蔓延る木々も少なく(画像に注目)、見学にも移動にも差し支える事が無く、概念図に示した範囲までの遺構は全て判別確認可能な状態にある。城跡の形態から察しても、更に別尾根まで郭が展開されている様には見受けられなかったが、この城跡の醍醐味を感じる部分あるいは見所は、桐村城跡と同様に要所に刻まれた状態の良い空堀群にあると断言出来そうには思えた。出来るだけ簡潔で分かり易いリポートを心がけている事もあって、これ以上多くは語らないが、とにかく山上を覗いて期待はずれに終わる事は絶対に有り得ない!と思えた事からも、まだ未訪の方には是非一度訪れて、技巧を伴う空堀群(縦堀、堀切、二重堀切など)の醍醐味に触れて頂きたいと思うのである。桐村城跡も同様に、状態あるいは遺構残存度などの全てを含めた上で素晴らしい城跡と感じられたが、個人的にはこの山城も正に山城と呼ぶに相応しい素晴らしい城跡と目に映ったのである。 

29_shukaku_2 主郭の現状

50_sita_higasi_horikiri1_1 東堀切(二連の1)見所

52_tatehori 東縦堀(堀切)見所

31_kitakaku_1 北郭の土塁

30_shukaku_kita_horikiri_dorui 主郭北堀切、土塁見所

34_hokutan_horikiri_dorui 北端堀切見所

36_nisi_dadorui_horikiri 二の丸側大土塁、堀切素晴らしい!

41_seitan_horikiri_2 西端堀切見所

この二城は文献(城跡関連の)などでは決して採り上げられない城跡の一つでもあるが、福知山から綾部地方にかけて多く存在する、比高100mを越える山城(丘城は別にして)の中では、遺構残存度、残存状態、縄張り妙味、ついでに本郭群の規模の大きさまで加味すれば、個人的な思い入れも多少入るが、直見城、河守城、高龍寺山城、山家甲ヶ峯城などと並んで、トップ3を形成する山城の一つには挙げられよう。この山城もここまでの状態で現在まで自然維持されて来たのであれば、是非「指定史跡」として認定して頂き、これからは多少なりとも整備して、何とか後世まで大事に残して頂きたいと思うのである。本音を語れば、これからこのリポートをきっかけとして訪れる方は別としても、大呂地区における両山城の魅力は、自分も含めた一部の山城ファンだけに語り継がれるだけで決して終わって欲しくはないのである。

2010年7月 9日 (金)

左近山城跡(兵庫県養父市)

この山城は養父市あるいは但馬地方に数多くある山城の中にあっても、ほとんど無名に近く情報も皆無に近い城跡の一つである。県道6号に平行して流れる大屋川沿いに築かれた山城では、過去十二所城、三方城、大杉城、由良城、etc.などをリポートして来たが、何れも小規模な山城が多く見受けられた。しかしその多くは遺構残存度が高く、残存状態が優れた城跡が多かったのも確かな事実ではある。この山城も規模は非常に小さいが、この時期(六月)でも山城としては移動し易く見て回り易い状態にあり、シンプルが故に当時のままが今に甦った様な遺構残存度を誇る城跡でもあった。

1_1 登城ルート

4 入山口

8 墓参道

1_2 城跡概念図

城跡を京阪神側から訪れるには、国道9号を走り南但馬トンネル手前の交差点より県道6号へ針路変更し、そのまま左近山集落を目指せばよい。城跡への進入口(画像に注目)は概念図に示した地元消防団施設の斜め向かいにある、家屋の間から集合墓地に繋がる墓参道で、山道に従って上れば大きなダムが見えてくるが、手前にある集合墓地を通過してフェンスを開閉した後、そのまま右手尾根を目指して上れば、直ぐにでも便宜上の山上本郭群が迎えてくれる筈である。ちなみに山上詰城までは、麓から15分強の所要時間が必要

便宜上の主郭は、見る限り痩せ尾根上に展開される郭群の中では一番規模が大きく、その背後には尾根を遮る堀切(空堀)が横たわっている。更に尾根伝いに上れば中腹尾根上にも郭跡、更にその山上には物見あるいは詰め城としての郭が配されている。この山城の一番の見所は、最初に触れた堀切も含むが、その全体像が窺える山上郭背後に備わる二重堀切(縦堀に繋がるもの)であり、充分な見応えを感じる事が出来た。個人的にはこんな小規模な山城でも、縄張りの中に二重堀切が存在する事に驚きは隠せなかったが、今まで訪れた但馬地方の山城の多くがそうであった様に、狼煙台程度の規模の城跡でも必ず尾根の背後を断つ堀切が備わるのが、但馬地方における山城の特徴でもあった。もちろんこの地域は秀吉に攻略されるまでは、ほとんどの在地勢力が山名氏の傘下にあった事実を思えば、山名氏の築城における技法、あるいは縄張りプランがほぼ全域に渡って行き届いていたと言う他ないものとも感じられたのである。ちなみに丹波地方では、この程度の山城に二重堀切が備わるのは珍しい事でもあり、めったにお目にかかれないのが現実でもある。

16_horikiri_3 主郭背後の堀切見所

20_minami_kaku 主郭内

26_shukaku_1 山上郭

28_2jyuu_horikiri 29_2jyuuhorikiri_2

二重堀切見所

個人的に城跡を評価すれば、小規模な城跡でもあり規模あるいは遺構の醍醐味を求めて訪れたなら、恐らく落胆する結果となりそうには思われるが、楚々とした山城の風情を味わいたい方、あるいは険峻な山城を体感したい方にとっては、山上郭までの上り易さ、あるいは所要時間なども加味すれば、間違いなく薦め出来る物件の一つと眼には映った。この山城を訪れた方には、決して尾根先端に位置する本郭群だけで満足せず、是非山上郭(詰城)背後に備わる二重堀切までは足を延ばして頂きたいのである。

2010年7月 7日 (水)

河辺北谷城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市大宮町河辺にあって、既にリポート掲載を終えた周枳城からはほど近い距離にあり、ほぼ独立した低山山上に築かれている。この城跡は城史に関しての情報は皆無に近く、当時三宅氏が居城とした河辺城からは、北側に向いて直ぐの距離にあり、自ずと出城機能は窺われるが、推察の域は出ない。

城跡を訪れるには国道312号へ進入する事が先決となるが、この国道と平行して東側を走る一般道656号を経由して、ルート図中に示した「皇大神社」を目印として向かえば分かり易いとは思われる。ただこの「皇大神社」は地元の極端に狭い生活道路を経由して向かわなければならないので、実際にはルート図の赤ラインを辿って直接城跡を目指した方が良いだろう。付近に到達すれば、車は概念図に記した「尾崎鉄工所」付近に路駐箇所が見当たるので、そこからは未舗装農道を歩いて画像に示した直登口を目指せばよい。畦道からそのまま取り付けば、直ぐにでも堀切が迎えてくれる筈である。尚、先に触れた広そうな「皇大神社」敷地が河辺城とされるらしいのだが、今回は踏破するまでには至れなかった。

1_1_2 登城ルート

5_1 城跡進入路

1_2 城跡概念図

現状(五月)城跡は、全域にかけて藪化は進行中であり、主郭を始めとして郭跡のほとんどが低草木で覆われ、見通しは非常に利き難く、傍まで寄っての遺構見学は余儀なくされる状態にある。取り合えず概念図に示したまでが判別確認出来た遺構、あるいは踏破確認出来た範囲と思って頂ければ良いが、縦堀まで含めた空堀は、少なくとも四箇所で確認出来たので、この状況からして思えばそれなりに収穫があったとは言えるだろう。見所はもちろんこの空堀群と言えるのだが、中でも概念図中で最大見所と記した空堀(縦堀)は、見事な土塁が付随するものであり、見応えも申し分のないものなので、城跡にあっては絶対に見逃してはならない遺構とは思えた。今回は蔓延る草木に遮られ、郭全体の見通しも利かず、歩測も目測も出来ず、更に方向も見当が付き難く分かり辛かったので、概念図における方位も郭形状にも自信が持てないが、冬季の訪問ともなれば踏破可能な範囲も更に広がるものとは思われるので、残された遺構も決してこの限りではないものとは思って頂きたい。

8_kita_horikiri_3 北堀切見所

9_kitakaku_1 北郭の現状

11_karabori_1 中空堀見所

13_nisi_horikiri_1 西堀切(見事な縦堀

15_2ren_karabori_1 土塁を挟んだ二連の空堀見所

城跡を個人的に評価すれば、農道からは直ぐにでも到達可能な距離にあり、非常にお手軽感はあるが、この状態を思えば城跡ファンの全てにお薦めとは決して言えそうにない。個人的には城跡に備わる空堀群は、充分見学に値する値打ちのある遺構と目に映った事からも、藪を苦ともしない、この空堀群に興味を持たれた山城ファンの方にのみ、訪問をお薦めしたいのである。

2010年7月 6日 (火)

河辺古城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市大宮町河辺にあって、既にリポート掲載を終えた周枳城からは北西側に少し移動した低山山上に位置しており、当時ここを居城としたのは三宅美作守と伝わっているが、後に河辺(新)城として現在の「皇大神社」のある場所へ移動した模様、よって此方は辺古城と呼ばれている。城史に関しての詳細は不明であるが、この城跡を見る限りでは規模(城域)も相当大きく、三宅氏の当時における勢力も充分窺えそうには思われた。

城跡を訪れるには周枳城を起点とすれば分かり易いとは思われるが、ルート図には国道からの道順を示した。先に周枳城を見学して赴くのであれば、一般道656号から詳細図を参考にして、未舗装農道(画像に注目)を東進して城跡へ向かえばよい。車は小型車なら何とか突き当たりにある橋の手前付近に駐車は可能であり、その小橋を渡って竹林地に進入すれば、そのまま城域に達する事にもなる。

Kawabekojyou 登城ルート

4 城跡進入路

10_kaku_heki 16_kaku 規模の大きい郭跡

19_heki 郭切岸

18_dorui_heki 郭跡と奥大土塁見所

21 主郭の切岸

23 主郭背後の堀切見所

現状(五月)城跡は、全域がほぼ竹林地、あるいは雑木や低草木が郭跡全てに蔓延り、自然任せの荒れ放題の様相となっている。自ずと見通しも利き難く、判別確認可能な遺構も限られてくるが、山上主郭までは幾段にも及ぶ大小の郭群がひしめき合っており、自分の向かう山上主郭の方角すら分からなくなってしまいそうにも思われる。とにかく主郭から山裾にかけての西、南、北の三方は、現状竹林で覆われてはいるが全て削平あるいは切岸化されている。取り合えず山上主郭までの移動範囲内で目に留まった遺構は、郭跡を除けば土塁、主郭背後を断つ堀切と限られてくるのが現状ではあるが、この移動にも難渋する状況においては、城域全てを踏破する事は非常に困難でもあり、流石に今回は城跡概念図すら描く事が出来なかった。取り合えず状態がましな箇所の画像だけは掲載したが、まだ未訪で興味を持たれた方には、周枳城を訪ねたついでにでも訪ねて頂きたいと思うのである。ただ竹林地にありながらも直立に近い形の切岸の醍醐味や、全体的に広々とした空間は、城跡の臨場感だけは充分味わえるとは思えた、、、、今回は状態が悪過ぎて一気に山上郭群を目指したお陰で、縦堀や空堀(横堀があるかも?)など見逃した遺構も数多いものとなってしまったが、それにしてもこの城跡の規模だけは、推察も含めて相当な規模と思えるのである。

2010年7月 4日 (日)

梅谷城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市梅谷にあって、梅谷集落から見れば川を挟んだ南対岸のほぼ独立した八巻山の山上がそれにあたる。この山城も情報は皆無に近く、城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるにはもちろん国道9号を利用する事になるが、京阪神側から向かえばルート図に示した様に、「ローソン」を目印として「梅谷バス停」東側の橋を南側へ渡ればよい。橋からは既に城跡は望める位置にあるので確認は容易い筈である、付近の農道には駐車空きスペースもあるので駐車に困る事はなく、概念図に示した付近にある低いコンクリ砂防壁の隙間から取り付いて、そのまま山上に向いて直登を敢行すれば、藪漕ぎもなく(植林地)直ぐにでも(5分内)主郭には到達可能となっている。

1_1 登城ルート

4 橋より城跡遠望

1 城跡概念図

ただ遺構見学に際してはどの山城もそうである様に、必ず何人かの所有者がいるものと心得なければならないが、直登開始地点付近の農道沿いには「許可無く立ち入り禁止」と書かれた立て札が掲げられていたので、当然赴かれた方は必ず自己責任において入山して頂きたいと思うのである(一応念の為に)。個人的には直ぐ付近で草刈をしておられた地元の方に出逢い、軽く挨拶を交わした上で山上まで上ったが、何も咎められる事はなかったので気にせず見学させて頂いたのだが、、、、

9_dorui_karabori 北東空堀、土塁見所

16_higasigawa_kaku_2 郭跡

20_shukaku_yori_higasi 主郭

25_shukakuheki 主郭切岸

21_nisi_dorui_horikiri_3 南西空堀、土塁見所

この山城の山上郭群の全長は、50m前後の非常に小規模なもので、その形態としては主郭に僅かな段差は見受けられるが、ほぼ単郭で形成されており、その主郭を挟む形で二箇所に防備としての空堀と土塁が備わっている。この空堀は現状の地形から判断したところ、縦堀に繋がるものとは見受けられなかった事から、土塁は受け土塁、空堀は武者隠し的な機能が備わっていたものと思われた(推察)。現状(六月)判別確認出来た遺構は、ほぼ概念図に示した通りと思って頂ければ良いが、とても縄張り妙味がある城跡にはあらず、見応えのある遺構は皆無に近いものである。しかし数百年の風雪に耐えながら現在に至った事を思えば、縄張りも遺構もシンプルが故に、ほぼ完存に近いものと見受けられたこの城跡は、史跡としての価値が決して下がるものとは思われないのである。

城跡を個人的に評価すれば、決して遺構の見応えを求めて訪れてはいけない、規模を問わず楚々とした山城にロマンを感じる事の出来る、少しマニアックな山城ファンの方を対象としてお薦めしたいのである。もちろん興味を少しでも持たれた方も、その対象となるのは言うまでも無いが、、、

2010年7月 3日 (土)

主計城跡/坂津城跡(兵庫県豊岡市)

今回リポート掲載した二城の中、坂津城は昨年になるが既にリポート掲載は終えている。しかし明確な堀切、土塁は存在していたが、余りにも城跡の規模が小さかった為に、出城の可能性が窺えた事により、個人的には現在に至るまで追跡リサーチを続けていた。今回は限りなく本命(公的資料に登場している)に近い坂津城と思われる山城が、別の山頂に存在する事が判明した事もあり、以前紹介した坂津城は改めて暫定)坂津東城として再び同時掲載に及んだ。ただこの山城も情報が皆無に近いものである事、更に地元では知る人もなく、今回は坂津城と断定するまでには漕ぎ着ける事が出来なかった。よって今回は、推定)坂津城として主計城と同時リポート掲載させて頂いた。(主計城の方は地元で確認済み)

1_3 登城ルート

Photo 進入口

1_2 坂津城として前回掲載した記事内容

3kaz 主計城跡概念図

城跡を訪れるには国道482号から一般道701号へ進入すればよいが、法華寺」を目指せば分かり易いだろう。付近に到着すれば、道路沿いに「鬼子母神法華寺」と案内看板が設置されている事からも、迷わず辿り着けるものとは思われる。法華寺に車を預ければ、概念図の如く歩いて城跡を目指せばよいが、5分もあれば到達出来る筈である。推定)坂津城もルート図に示した様に、参拝登山道を利用して山頂に位置する「鬼子母神」を目指せば迷わず辿り着けるとは思われる。ただ個人的には西山上三角点270m(削平地のみ)まで上り、更に直登で山頂まで上ったので、所要時間は分からないのだが、急な登山道(道標有)を700m以上登り切らなければならないので、20分は要すものと考えられる。

まず主計(カズサ?)城は豊岡市但東町赤花にあって、法華寺南西背後の丘陵先端に位置している。この城跡は様相から窺える様に館城とも言えそうに思われるが、小規模な主郭には現在祠(大年神社)が建立されている。主郭の両脇には数段の帯郭が配されているが、周囲が農地(休耕地)となっている現実を思えば、後世における地形改変も充分考えられる事から、主郭の形状は当時のままとも窺えたが、当時の縄張りは見学者の想像にほぼ委ねられるものとは思われる。現状、集落が見通せる状況にある事からも、自ずと当時に思いを馳せる事は容易く、居館跡としての機能の推察も充分可能ではあるが、遺構の見応えには程遠いものが感じられた事もあり、この城跡は史跡として割り切って訪れる事が肝心と思われた。

1 主計城主郭

2 東帯郭

3 南郭

推定)坂津城は但東町坂津にあって、これ以上無い険峻な山上に位置しており、完全に山城の様相を呈すものでもある。現在主郭に相当する最高所には鬼子母神を祭る社殿が建っているが、遺構として目に留まったものは土塁跡?(画像に注目)、切岸跡程度であり、インパクトのある堀切には遭遇出来なかった。個人的にはほぼ90%の確率でここが本来(公的資料にある)の坂津城と思われたのだが、城跡として断定可能な堀切も窺われなかった事により、現状ではやはり推定とするのが一番良い判断とは思えたのである。限りなく無名に近いこの山城を訪ねるに当たっては、まだ推定ではあるが、鬼子母神参拝ついでに山上における山城の風情も味わうと思えば、何とか納得の行く訪城となるのではないだろうか。

1_4 推定)坂津城跡概念図

6_tozanguti 道標

18 山上へ

21_fuku_kaku 正面社殿

22_minami_1 主郭

23_minami_dorui_1 土塁跡か?

2010年7月 1日 (木)

但馬 土田城跡(兵庫県朝来市)

この山城に関しては、地元で城跡としての認識があって(通称)土田城として呼ばれているのは、巨大と呼ぶに相応しい規模を誇る土田観音山城の方を指す事からも、以前紹介した時には土田観音山城の方を土田城として紹介したが、今回は改めて地元ではほとんど認識のない、公的呼称としての土田城跡の方を訪れた。

城跡は朝来市和田山町土田(ハンダ)にあって、既にリポート掲載を終えた土田観音山城から見れば、ルート図の如く谷を挟んで直ぐ西隣にある丘陵上にある。当然この山城へ辿り着くには山道など存在しないので、これから訪れる方には概念図を参考として、自身が最短直登ルートとして選んだ、カーブミラー横から旧墓地を通過して山上まで登り切るルートをお勧めしたいのである。ルート図にある等高線を見ればお分かりの様に、非常に狭くなっているので相当な激斜面は予想されるが、全域が植林地となっている為に前が開けており、藪漕ぎは皆無、意外に上り易く感じられたのである。少し休憩を挿まなければとても登り切れないが、斜面との戦いは15分程度と思って頂ければ良いだろう。1_1

登城ルート

4 直登進入口

1_2 城跡概念図

現状(六月)城跡は相当な藪城を覚悟して臨んだにも拘らず、意外にも移動に差し障ることもなく、むしろこの時期における山城としては状態は良い部類に入るものであり、遺構の判別確認は容易い状況でもあった。特に主郭内部は未だフラットな状態(画像に注目)が保持されており、申し分のない状態と言えるものでもある。山上郭群における形態は、ほぼ概念図の通りと思って頂ければ良いが、縦堀に関してはそれらしい地形はまだ目に留まってはいたが、必然性を含めて個人的に明確に縦堀と判断できたものに関してだけを図中に示した。この山城は間違っても隣接する観音山城と比べてはいけない、個人的には規模あるいは形態も含めて、観音山城の出城あるいは支城と呼んでも差し支えないものと眼に映ったが、防備としての遺構は、堀切は一箇所だけ目に留まったものの、この急峻な地形を利用した縦堀にっただけのものと見た。ただ今回は未踏に終わったが、地形図から窺っても更に北尾根上にかけて郭の展開は充分予想され、この山城はこの山上本郭群だけでは決して終わらないものとも感じられたのである。

14_shukaku_nai_1 ほぼフラットな主郭内の現状

11_shukaku_e 主郭北背後

16_shukaku_heki 主郭北切岸

18_kitakaku_horikiri_3 北堀切見所

17_minami_tatehori 21_tatehori 縦堀

下山後に地元で公的事業に係っておられる方から直接伺った事であるが、この土田城は来年には登山道を新たに整備して、山上主郭には更に櫓も建てる構想がある事をリークした。当然ブログでその事を城跡ファンの方達に向けて先に発信しても良いか尋ねた処、快く了解を頂いたので間違いなく実現するものとは感じられた。着工予定日までは分からないが、工事は城跡を熟知した方がされる訳ではないので、どこまで遺構が破壊されるものかは想像も付かず、この山城のビフォアー、アフターが気になる方には、是非年中の訪問をお薦めしたいのである。更に先に触れた観音山城、寺谷城までその候補対象に挙がっていると言うから、この朝来市においての町興し事業、あるいは史跡(山城遺構)に対しての熱の入った取り組み様が自ずと窺えて来るのである。山城ファンあるいは史跡ファンの方々には、登山道が整備されたこの山城を是非期待して頂いても良いのではないだろうか、、、

尚、この土田城に関してのその後は、個人的にこれからも現地での経過をブログ中で発信していく予定をしております。

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