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2010年6月22日 (火)

ついに実態が判明した桐村城跡(京都府福知山市)

この山城は以前「所在地判明」として、桐村氏に関して地元の古老から得た情報とルート図を同時に掲載しましたが、今回やっと自身が踏破する機会に恵まれ、念願でもあったこの山城の実態を把握する事が叶えられました。前回所在地は記したので既に訪問された方も居られるとは思いますが、まだ未訪の方には是非この記事を参考にして現地に赴いて頂けたらと思います。

尚、同じ大呂地区にあって、桐村氏からみれば宗家にあたる金山氏が拠ったとされる天寧寺城は、一度は現地情報あるいは外部情報に惑わされた事もあって、独自の判断で暫定)金山城と呼称を訂正しましたが、その後の追跡リサーチ及び今回の再訪によって、この暫定)金山城としたものは、最初にリポート掲載した通りに「天寧寺城」と呼ばれるものとして間違いない事が分かりました。よって昨年掲載に及んだリポート内容は据え置き、取り違えた城跡呼称だけを天寧寺城として既に改訂しましたので、改めてお知らせしたいと思います。と同時に、本来の金山城の所在地はまだ踏破確認していないので、ルート図中に明確に位置を記せないのが残念なのですが、ほぼ所在地は掴む事が出来ました。狭い集落の周囲は全てそれらしく見える山塊が連なる地域なので、間違っている可能性も含んでいる事から、興味のあった方には近いうちに訪問し、遺構確認した上でリポート掲載に及びますので、今しばらくお待ち頂けたらと思います。

(以下本文)

1route 

登城ルート

9jinjya_tyokutokuti 神社直登口

2_2 社殿にあった桐村氏の説明書き

結果から先に述べれば、最初の予想通りにこの桐村氏の拠った山城は、大中臣氏の末裔の築いた城跡として充分相応しいものであり、これだけ険峻極まりない山上にありながらも、空堀を駆使して築かれた縄張りプランは技巧も兼ね備えており、標高は低いが比高が二百m近い山城としては、中々他では拝めないものとして眼には映った。自身が踏破した範囲と判別確認可能な遺構は全て概念図には記したが、特に眼を引く空堀群は、三連の堀切、郭間を断つ大堀切、縦堀、横堀(武者隠し)といった具合に、土塁を付随させたものや、要所に施された縦堀などの様に、高低差を誇る状態(美しいと言えるもの)の良い切岸と並んで相当な見応えが感じられた。この山城の持つ佇まいや遺構の醍醐味、そして遺構を前にした時の臨場感は中々言葉では表現し切れないものを感じたのである。

3ki 城跡概念図

21_horikiri 西郭の堀切見所

28_toutan_horikiri 東端尾根の掘切見所

34_shukaku 主郭内部の現状

55_shukaku_nisi_heki 主郭北西切岸壁美しい

40_daidorui_horikiriheki_1 北郭大土塁と背後堀切見所

42_kitademaru_1 北出郭

46_sita_karabori_tatebori 北土橋付き空堀~縦堀見所

52_2jyuu_hori_1 西斜面の二重堀切見所

現状この時期(六月)でも、余り人の踏み入らない山城としてみれば、充分過ぎるほどの状態が自然保持されており、移動に差し支える事も無く、概念図に示したまでの遺構の判別確認は容易く、主郭周りの斜面は急ではあるが足元にさえ気を使えば充分見て回れるとは思われる。流石に主郭だけは内部の倒木や低草木(常緑樹が密生蔓延っている)によって見通しは全く利かず、その全体像(形状)や内部における土塁の有無を確認するまでには至れなかったが、西端隅に僅かに櫓台とも思われる大型の土塁壇が備わっている様には見受けられた。尚、地形図あるいは縄張りプランからも更に西側尾根に郭の展開は充分予想はされたが、この山城に関しては城域(縄張り)などは余り問題ではなく、次々と目の前に現れる遺構の醍醐味に触れて感動する事の方が、より一層城跡を楽しむ事に繋がるような気がするのである。とにかくこの城跡の遺構残存度には抜群なものがあり、更に四季を問わずこの状態(主郭以外)が維持され続けるものとも思われた。よってこれから現地へ赴かれる山城ファンの方とは、間違いなく自分と同じ感動を共有出来るものとも思えたので、まだ未訪の方には個人的にも推奨に値するとも思われたこの山城の訪問を、是非お薦めしたいのである

城跡は福知山市大呂奥谷にあって、訪れるには既にリポート掲載を終えた天寧寺城を起点とすれば分かり易いのでここでは割愛させて頂くが、大呂奥谷集落の西側最奥に鎮座する「鹿嶋神社」を目指せばよい。人家の途絶える場所まで道路は舗装されているが、それから先は未舗装林道となるので、僅かな林道空きスペースに車は駐車するしか方法は見当たらない。軽自動車なら直接社殿傍までは到達可能であるが、、、、神社に辿り着けば社殿背後から取り付いて、そのまま尾根伝いに北に向いて上れば、迷わず主郭南切岸斜面下までは到達可能(社殿から15分~20分程度)となっている。ただこの上り斜面は相当な激斜面となっているので、藪漕ぎはなく非常に上り易いとは言えるのだが、最初に登山する覚悟を決めて上る事が肝心ではあろう。

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コメント

京丹後市峰山町出身の「桐村」と申します。
興味あるお城あとですね。
1度私も尋ねたくなりました。
その後
機会があれば、その感想など送ります。
早々

TAKUです、コメント拝見致しました。
桐村さんには折角のコメントを頂戴しておりながら、此方の色んな諸事情により、コメントを拝見出来る状態にはなかった事を先にお伝えしなければなりません。今回拝見する事が遅れた事、又それに対してのご返事が遅れた事に関しては、どうぞご理解下さい。
コメント中にある様に、「山城賛歌」が訪問のきっかけを作ったのであれば、これほど嬉しい事はありません。
又機会があれば訪問結果もお知らせ下さい。

始めまして 私も京都に住む桐村です
以前父親に 桐村城が有ると聞いた事があるの
こちらのHP発見したときは感動ものでした
先日 福知山の桐村部落に行って来ました
ほとんどの家が桐村さんで ちょっと嬉しかったです
丹波の出身なのですね 桐村さん

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