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2010年6月

2010年6月30日 (水)

呼称の訂正が必要と判明した城跡

今まで「山城賛歌」の趣旨として、無名に近い山城にも光を当てるべく、個人的にも敢えて城跡としての情報が乏しい山城ばかり訪ねてその現状をリポートして来ました。個人的には情報量の少なさを理由に、誤認あるいは呼称の取り違いなどを出来るだけ避けるために、訪問後も追跡リサーチは継続しておりましたが、今回はその中にあって追跡リサーチ及び外部で得られた情報などによって、公に公表されたものとは所在地が異なる城跡が、京都府丹後地方における山城の中で四城判明しましたので、ここで呼称の変更と同時に訂正に及びたいと思います。

1) 京丹後市久美浜町友重 「友重城跡」

Tomo_1この城跡は現地で明確な堀切(空堀)四本、郭を構成する三連の土塁壇が窺えた事から、現地名をそのまま採用して友重城としてリポート掲載に及んだものですが、その後の外部から得られた情報によって、本来の公的呼称を名乗る友重城は別の山に存在する事をリークしました。まだ場所の確定までには至っておりませんが、出城と本城の取り違いがあるかも知れない山城として、一応念の為にお知らせしたいと思います。別の山に友重城が存在するのであれば、現段階ではこの紹介した城跡は利便性から考えてその出城、あるいは支城とも考えられそうですが、この城跡の更に西側には坂井城の名を持つ山城があるらしい事を思えば、この坂井城の出城とも推察されそうに思われます。リポート掲載に関しては明確になるまでは城跡呼称は訂正せず、そのまま掲載は据え置く予定ですが、先にリポート掲載を終えた天寧寺城跡も、現地ネタあるいは色んな外部情報が交錯して、城跡呼称が二転した事を思えば、今回は判明するまで気長にリサーチを続けるつもりです。

2) 京丹後市久美浜町油地 「意布伎城跡」

Obuki_1この山城も友重城と同様に、訪問後の追跡リサーチ及び外部情報によって公的呼称の付けられた本来の「意布伎城跡」は、この地より直ぐ西側に聳える山の山頂(ルート図に記した)にあるらしい事が判明しました。となれば、以前紹介した城跡の呼称は、、、? と言う事になりますが、紹介した城跡は集落を挟んで直ぐ麓に隣接する事、縄張りの中には明確に堀切や土塁が窺える事、そしてこの館城としての形態から考えれば、当然城跡遺構(居館跡か?)としてまず間違いは無いものと思えますが、麓を居住空間(推察)とするのであれば、自ずと山上郭と併せたものが意布伎城跡であるとも考えられます。二城セットとして考えれば、山上は当然詰城的な機能が考えられそうに思われますが、山上郭にはまだ訪れていないので現状では何とも言えません。追跡リサーチはこれからも継続しますが、別に呼称があって既に城跡として認知されているのであれば、判明次第報告の予定です。尚、リポート掲載においては、取り合えず本来の意布伎城跡と混同を避ける為に、仮名にはなりますが、城跡呼称は「意布伎東城跡」に変更させて頂きます。

3) 宮津市田原 「田原城跡」

2この山城は以前田原集落にある龍燈寺背後の丘陵上を田原城として紹介しました。寺院案内板にもこの地を田原城とする記述があった事や、地元での軽い聞き込み、地形から遺構と見受けられた切り通し、郭切岸跡、段郭群などから見ても城跡遺構としてまず間違いの無いものであり、更に築城環境なども考慮した上で、この地が田原城であると決め付けておりましたが、本来(公的資料にある)の城跡は、この地より道路を隔てた西側に聳える山の山頂にあることが判明しました。ただこの山城はまだ遺構も踏破確認していないので、現段階では所在地はまだ推定と言う事にはなりますが、ほぼ断定してよいものと思われます。当然前回城跡遺構と断定して掲載に及んだ山城の呼称は、、? と言う事になりますが、現時点では資料も乏しく未だ判明しておりません。ただ個人的には田原城を本城とした場合の出城、あるいは当時の居住空間であったものと見るのが妥当かとは思えます。取り合えず前回田原城跡としてリポート掲載に及んだものは、仮)田原東城と訂正して掲載は据え置きたいと思います。

4)京丹後市久美浜町芦原 「芦原城跡」   

1route_2 3as この城跡は概念図でお分かり頂ける様に、城跡遺構としては一見の価値に値するとも思われた、見応えのある三本の薬研堀を備えており、規模も大きく、現地名を採用した芦原城跡として昨年リポート掲載に及びましたが、この度公的に認知された芦原城は別に存在する事が判明(ルート図に記した)しました。外部情報では二城で成立した城跡と言う事もリークしていますので、特別呼称を変更するまでには及ばないとも思いましたが、既に公的に認知された本来の芦原城との混同を避けるために、ここでは芦原西城」と改訂した上で、リポート内容はそのまま据え置きたいと思います。

個人的には現地で得た情報を重要視した訪城を心がけているので、城跡呼称の取り違えは少なからずあり、更に文献などに多く眼を配る方でもないので、この城跡が既に認知されて既に呼称の付いている城跡かどうかまでは、現時点では把握出来ておりません。しかしこれだけ明確な城跡遺構が現存していながら、公的に調査もされず城跡として認識されていないとは思われず、取り合えず呼称が判明するまでは上記の呼称を使用しますので、柔軟に対応して頂きたいと思います。判明次第報告の予定です

(総括) 但馬地方から丹後地方にかけての山城巡りの最中には、過去三人の先輩方と偶然ですが現地で遭遇しました。何れも自分の様に無名に近い山城ばかりをチョイスして訪ねておられる山城ファンの方の一人でしたが、共通する話題は必ず無名に近い城跡を訪ねる際の苦労話などになります。特に丹後地方は情報量の少ない山城の数が圧倒的に多く、半端な数ではない事も聞き及びました。尾根一つ変われば別の城跡名になったり、それらしい砦跡なら無数にあるとの情報も得ましたが、それならば何とか「山城賛歌」で所在地を明確にし、これから赴かれる山城ファンの方々の為にも、出来るだけ迷わず城跡に訪れやすいルートを開拓したいと、益々意欲を燃やしている今日です。現地で遭遇した先輩諸氏には、これからも自分の今まで養って来られた眼力を頼りに、情報の少ない山城巡りを是非末永く続けて頂きたいものと改めて思った次第です。これは自分自身に言い聞かせている部分も多少はあるのですが、、、

2010年6月29日 (火)

周枳城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市大宮町周枳(スキ)にあって、古代において祭祀場があったとされる由緒ある神社、「大宮(?)神社」東側のほぼ独立した丘陵上に位置している。当時の城主して荒須帯刀あるいは横田氏が伝わるが、この城も丹後在地勢力のほとんどが一色氏傘下にあった事を思えば、おそらく丹後を統一した細川氏によって滅んだものとも考えられる。私見にはなるが、丹後地域における山城は比較的規模が大きい事から、個々における勢力は、独自では相当な力を持っていたものとも思われた。城史に関しての詳細は不明、主基城」、「北村城」の別称がある。

城跡を訪れるには国道312号を走り、「大宮(?)神社」を目指せば分かり易いだろう。神社の駐車場に車を預ければ、概念図の如く城跡南側からの唯一の入山口(画像に注目)まで歩き、そこから上れば直ぐにでも主郭が迎えてくれよう。

1_1 登城ルート

8tozanguti 南側唯一の入山口

1_2 城跡概念図

城跡の中心部は独立した丘陵上の西側にあるが、縄張りとして削平の行き届いた郭跡は、全長200m以上はありそうに思われ、更に未踏ではあるが、縄張りから察しても城域はまだまだ丘陵上東側に延びていそうには感じられた。見学対象となるのは当然この本郭群と言うことになるが、最高所に主郭を構え、独立した丘陵地である事から、インパクトのある堀切などは備わってはいないが、切岸の状態は良いもので、郭境は明確に判別可能である。現状(五月)郭内においては、雑木密生までには至っていないが、低草木が蔓延り、見通しは利き難く、全体像を拝む事は多少困難な状況にある。ただ城跡が大柄である為に、郭跡に佇んだ時の臨場感は抜群なものが感じられた。取り合えず概念図に示したまでが個人的に踏破確認に及んだ遺構群であり、移動に難渋せず動き回れた範囲でもあるが、南北斜面上は雑木が密生しており、細部における踏破確認には及べなかったので、残存遺構もこの限りではないものとは思われる。これから訪問される方は、最低限ここまでは判別確認可能であるので、是非このリポートを参考にして臨んで頂きたいと思うのである。

13_shukaku_gawa_1 主郭東側郭群切岸

16_shukaku_gedan2 主郭東下段郭

17_shukaku 主郭内の現状

19_karabori 僅かに空堀跡

20_higasikaku_dorui_1 東郭の土塁

個人的に城跡を評価すれば、人家が直ぐ傍まで迫りながらも、本郭周りの遺構はほぼ当時のままとも察せられ、遺構残存度は比較的高ようには感じられた。城跡に郭高低差が余りない事、あるいはインパクトを感じる堀切などが備わっていない事から、遺構の見応えや山城としての魅力には多少欠けるが、城跡に佇んだ時の臨場感は先に触れた様に抜群なものが感じられ、主郭に到達までの圧倒的お手軽感も加味すれば、山城ファンにおいても一般城跡ファンにおいても充分お勧め出来るものとは思われる。

2010年6月27日 (日)

両合院相谷城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市夜久野町直見にあって、先にリポート掲載を終えた宮山城から見れば、遠く北側の山頂(標高約380m)に位置している。宮山城でのリポート記事で触れた様に、その様相はに「天空の城」をイメージさせるものであり、山頂からは眺望が利く事、遺構残存度の高さ(ほぼ完存、山城としての険峻な様相や遺構の醍醐味、あるいは縄張りを把握し易い状況も加味すれば、最短ルートとなる踏み跡を辿っての登山では、片道30分(宮山城から)は要するが、山城ファンの方々には是非お薦め出来る城跡と眼には映ったのである。尚、自然と触れ合いながらのトレッキングを楽しみたい方にも、専福寺のある麓から尾根伝いに歩いて山頂を目指せば、道中には下界を望める箇所も数箇所あるので、充分楽しめそうには感じられたが、、、城史に関しての詳細は不明。

1route 登城ルート

3ai 城跡概念図

城跡を訪れるには、概念図に記したように作業用林道(軽トラ用)が城跡真下の直ぐ傍まで繋がっているので、林道の状況まではよく分からないが、小型(コンパクト車)の四駆であれば、充分ここまでは上って来れるとは思われた。ただ歩いて上る(林道入山口は不明)のであれば、麓からは相当時間もかかり距離もたっぷりある様には感じられたが、、、取り合えず個人的に利用したルートは踏み跡も残っており、迷わず山上までは辿り着けるとは思われたので、宮山城を先に見学された方には、その背後にある巨大空堀地形から、更に北側尾根に沿って上るルートをお勧めしたいのである。ただ下山においては尾根が三箇所に限られるが、二つに分岐する場所もあるのでルートを間違えないように、用心の為にマーキングを施しておく必要はあるだろう。

9 南斜面の堀切、土塁見所

16_shukaku_1

主郭内

18_shukaku_kitaheki_1 主郭北切岸

24_nisinaka_kaku 西郭

26_nakakaku_heki_1 西郭切岸

19_kita_horikiri_dorui_2 北側の堀切、土塁見所

22_horikiri_heki 堀切壁見所

31_tatehori 西端の縦堀見所

現状(五月)城跡は、先に触れたように山上郭全体像の見通しも利き、更に遺構も判別し易く、山城としては非常に見て回りやすいレベルの高い状態にある。よって概念図の如く、個人的に踏破した範囲内で目に留まった遺構は全て判別確認可能な状況でもある。この城跡の所は様相も含めて、山上郭群全てとも言い切れそうに思われるものであり、本郭群の規模は70mにも満たない小規模なものではあるが、高低差を誇る切岸、あるいは堀切などは、充分眼を楽しませてくれる筈である。この山城で何よりもお薦め出来ると思われたのは、木々の伐採された山上に一人佇んだ時の下界のロケーションであり、近年山の手入れをする後継者が減った事を思えば、何よりも変え難いものである様に感じられたのである。険峻な山城を踏破した時の喜びは、残存遺構はもちろんの事ではあるが、次に達成感と同時に、当時に思いを馳せる事の出来る状況であり、それが限りない戦国ロマンに浸れる要素に繋がるとも思えるのである。

険峻な山城に余り上り慣れておられない城跡ファンの方には、少し厳しい登山になるのかも知れないが、トライしてみたい気持ちのある方には迷わずお薦めしたい山城の一つである。

2010年6月26日 (土)

夜久野 宮山城跡(京都府福知山市)

この山城は福知山市夜久野町直見にあって、「専福寺」北東背後のほぼ独立した丘陵上がそれにあたり、京都府内においても福知山においても、ほぼ無名に近い山城の中の一つではあるが、訪問結果として非常に遺構残存度は高く、遺構はほぼ完存とも見受けられた。恐らく山裾に神社(名は不明)がある事から、名が語る様に神聖なる宮山として手が付けられないまま現在に至ったものとは思われるが、そのお陰で風化してはいるが、当時のままの城跡遺構が山上に存在していると思えば、一山城ファンとしては非常に有難いと言わざるを得ない。もちろん小規模が故に縄張りも把握し易いものとなっているが、ある程度整地された山上主郭には、現在傾いた展望所(画像に注目)の様なものが建てられており、かつては地元の方々の憩いの場であった様な気がしないでもない。城史に関しての詳細は不明

1route 登城ルート

5_tyokuto_kuti 社殿横からの登山口

3mi 城跡概念図

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた高内城、あるいは秋葉城を起点とすれば分かり易いとは思われるが、目印となるのはほぼ県道63号沿いにある「精華小学校」あるいは「専福寺」で、国道9号から直接県道63号へ進入しても良いし、県道56号を経由して向かっても良い。寺院の駐車場に車を預ければ、その背後にある神社を目指して概念図の如く歩けばよいが、社殿横からは分かり易い踏み跡が山上まで繋がっているので、それを辿れば5分とかからず辿り着けよう。

6_minami_karahori_dorui_1_2 南空堀、土塁見所

12_karahori_tate 北斜面の土塁と縦堀見所

13_shukaku 主郭内

20_kita_horikiri_dorui_1 堀切と土塁見所

21_horikiri_heki 主郭北壁

23_sita_kydai_karahori 自然巨大空堀地形見所

現状(五月)城跡は、縄張り全域が植林地化されており、先に触れた様に郭全体の見通しは利き、非常に見学し易い良い状態にある。形態としては山上本郭はほぼ単郭で形成されており、主郭北背後には唯一堀切が備わっており、概念図に描いた箇所には相当風化して分かり難いが、土塁を付随した空堀(虎口かも?)地形、あるいはそれから縦堀に繋がる地形、更に状態が良く全体像の拝める切岸などは、充分見学者の目を楽しませてくれている。この山城は遺構の醍醐味や見応えを最初から捨てて臨む事が肝心とは思われるが、最初に触れた様に、当時のまま現在に至ったと思われる、手付かずの遺構そのものが一番素晴らしいと感じられた部分であり、山城としての風情も同時に味わえるものとは思えた。尚、主郭から堀切を越えて更に北側に足を延ばせば、縄張りの北端とも思える削平された広い北郭に到達するが、この郭跡の北側斜面真下に窺えるのが、自然地形を取り込んだ形の巨大な堀で、高低差が20m以上はあろうかとも思われる、城跡中一番とも言える見応えのある地形となっている。正に山城ならではのもので、自然地形を巧みに利用した巨大空堀と言えるものだろう。

ルート図には同時に「両合院相谷城」も記したが、この山城はイメージは正しく「天空の城」であり、遺構残存度の高さ、あるいは山城の風情も含めれば、山城ファンの方には是非お薦めしたい城跡と目には映った。よってまだ未訪で、この宮山城に少しでも興味を持たれた方には、次で掲載予定の「両合院相谷城」のリポートを是非楽しみにして頂きたいのである。

2010年6月24日 (木)

明田城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市大宮町明田にあって、家屋の密集する集落西側の「高原寺」真北背後の丘陵上から、西側山上にかけてが城域となる。当時は成吉越中守の居城が伝わっているが、城史に関しての詳細は不明。 

城跡を訪れるには先にリポート掲載を終えた三重城、あるいは森本城を起点とすれば分かり易いとは思われるが、国道312号より一般道655号へ進入した付近に三重城があるが、それより更に北上を続ける。登山口として目印となるのは「高原寺」であるが、車の駐車を考えればルート図に記した、麓に位置する「心木神社」あるいは「明田公民館」を目指して進行すれば良い。車を公民館に預ければ、そこからは直ぐの距離にある「高原寺」まで歩き、墓参道を利用して郭転用地とも窺えた墓地のある東郭群を通過、更にそのまま山上を目指せば、15分程度で迷わず主郭までは辿り着けよう。

1 登城ルート

6tozanguti 登山口

1_1 城跡概念図

現状(五月)僅かな踏み跡を辿れば、山上主郭までの間ではインパクトを感じる堀切には遭遇出来ないが、尾根上を連続する規模の大きい東郭群(ほぼフラットな空間)、突出した高低差を誇る便宜上の三の丸から主郭にかけての切岸跡、更に主郭東側の虎口郭に設けられた埋もれて浅い空堀跡は充分判別確認可能となっている。縄張りプランとしては尾根上に郭を単純に並べただけに終わっているので、特別縄張り妙味を感じる事はないが、東西三百m近くに達する城域を歩き回れば、臨場感は充分味わえる筈である。主郭西背後には切岸高低差10m以上を誇る、凄い堀切!を窺うことが出来るが、この片側に土橋を設けた堀切が、城跡最大の見所遺構と呼んでも差し支えないものとは思われた。主郭には小さな朽ちかけの社殿(画像に注目)が建立されてはいるが、今となっては参拝する人も途絶え、敷地は低草木が蔓延り荒れるに任せた状態となっている。山上本郭群の切岸斜面も雑木が密生した状況にあるので、自ずと郭内部の僅かな地形の変化、あるいは外見から斜面上の構築物は判別確認出来ない状況下にあり、本来の残存遺構は概念図に示したものが全てではないとは思って頂きたい。

9_higasi_kakugun_2 東郭群

20_shukaku_higasi_karabori_1 主郭東、空堀跡見所

22_shukaku 主郭内の現状

24_horikiri_2 堀切見所

25_horikiri_dobasi 土橋見所

26_shukaku_heki 主郭切岸見所

城跡を個人的に評価すれば、寺院から城域に達するまでは5分とかからず、非常にお手軽感を感じる山城ではあるが、郭転用地でもある東郭群を除けば、他は状態に少し厳しいものがある(夏季訪問は更に厳しい事が予想される)ので、是非お勧めとは言い難い。しかし主郭背後における堀切の手応えは相当なものとも感じられたので、この堀切と高低差を誇る切岸に興味を持たれた山城ファンの方にのみ、三重城あるいは森本城と併せた同日訪問をお勧めしたいのである。

2010年6月22日 (火)

ついに実態が判明した桐村城跡(京都府福知山市)

この山城は以前「所在地判明」として、桐村氏に関して地元の古老から得た情報とルート図を同時に掲載しましたが、今回やっと自身が踏破する機会に恵まれ、念願でもあったこの山城の実態を把握する事が叶えられました。前回所在地は記したので既に訪問された方も居られるとは思いますが、まだ未訪の方には是非この記事を参考にして現地に赴いて頂けたらと思います。

尚、同じ大呂地区にあって、桐村氏からみれば宗家にあたる金山氏が拠ったとされる天寧寺城は、一度は現地情報あるいは外部情報に惑わされた事もあって、独自の判断で暫定)金山城と呼称を訂正しましたが、その後の追跡リサーチ及び今回の再訪によって、この暫定)金山城としたものは、最初にリポート掲載した通りに「天寧寺城」と呼ばれるものとして間違いない事が分かりました。よって昨年掲載に及んだリポート内容は据え置き、取り違えた城跡呼称だけを天寧寺城として既に改訂しましたので、改めてお知らせしたいと思います。と同時に、本来の金山城の所在地はまだ踏破確認していないので、ルート図中に明確に位置を記せないのが残念なのですが、ほぼ所在地は掴む事が出来ました。狭い集落の周囲は全てそれらしく見える山塊が連なる地域なので、間違っている可能性も含んでいる事から、興味のあった方には近いうちに訪問し、遺構確認した上でリポート掲載に及びますので、今しばらくお待ち頂けたらと思います。

(以下本文)

1route 

登城ルート

9jinjya_tyokutokuti 神社直登口

2_2 社殿にあった桐村氏の説明書き

結果から先に述べれば、最初の予想通りにこの桐村氏の拠った山城は、大中臣氏の末裔の築いた城跡として充分相応しいものであり、これだけ険峻極まりない山上にありながらも、空堀を駆使して築かれた縄張りプランは技巧も兼ね備えており、標高は低いが比高が二百m近い山城としては、中々他では拝めないものとして眼には映った。自身が踏破した範囲と判別確認可能な遺構は全て概念図には記したが、特に眼を引く空堀群は、三連の堀切、郭間を断つ大堀切、縦堀、横堀(武者隠し)といった具合に、土塁を付随させたものや、要所に施された縦堀などの様に、高低差を誇る状態(美しいと言えるもの)の良い切岸と並んで相当な見応えが感じられた。この山城の持つ佇まいや遺構の醍醐味、そして遺構を前にした時の臨場感は中々言葉では表現し切れないものを感じたのである。

3ki 城跡概念図

21_horikiri 西郭の堀切見所

28_toutan_horikiri 東端尾根の掘切見所

34_shukaku 主郭内部の現状

55_shukaku_nisi_heki 主郭北西切岸壁美しい

40_daidorui_horikiriheki_1 北郭大土塁と背後堀切見所

42_kitademaru_1 北出郭

46_sita_karabori_tatebori 北土橋付き空堀~縦堀見所

52_2jyuu_hori_1 西斜面の二重堀切見所

現状この時期(六月)でも、余り人の踏み入らない山城としてみれば、充分過ぎるほどの状態が自然保持されており、移動に差し支える事も無く、概念図に示したまでの遺構の判別確認は容易く、主郭周りの斜面は急ではあるが足元にさえ気を使えば充分見て回れるとは思われる。流石に主郭だけは内部の倒木や低草木(常緑樹が密生蔓延っている)によって見通しは全く利かず、その全体像(形状)や内部における土塁の有無を確認するまでには至れなかったが、西端隅に僅かに櫓台とも思われる大型の土塁壇が備わっている様には見受けられた。尚、地形図あるいは縄張りプランからも更に西側尾根に郭の展開は充分予想はされたが、この山城に関しては城域(縄張り)などは余り問題ではなく、次々と目の前に現れる遺構の醍醐味に触れて感動する事の方が、より一層城跡を楽しむ事に繋がるような気がするのである。とにかくこの城跡の遺構残存度には抜群なものがあり、更に四季を問わずこの状態(主郭以外)が維持され続けるものとも思われた。よってこれから現地へ赴かれる山城ファンの方とは、間違いなく自分と同じ感動を共有出来るものとも思えたので、まだ未訪の方には個人的にも推奨に値するとも思われたこの山城の訪問を、是非お薦めしたいのである

城跡は福知山市大呂奥谷にあって、訪れるには既にリポート掲載を終えた天寧寺城を起点とすれば分かり易いのでここでは割愛させて頂くが、大呂奥谷集落の西側最奥に鎮座する「鹿嶋神社」を目指せばよい。人家の途絶える場所まで道路は舗装されているが、それから先は未舗装林道となるので、僅かな林道空きスペースに車は駐車するしか方法は見当たらない。軽自動車なら直接社殿傍までは到達可能であるが、、、、神社に辿り着けば社殿背後から取り付いて、そのまま尾根伝いに北に向いて上れば、迷わず主郭南切岸斜面下までは到達可能(社殿から15分~20分程度)となっている。ただこの上り斜面は相当な激斜面となっているので、藪漕ぎはなく非常に上り易いとは言えるのだが、最初に登山する覚悟を決めて上る事が肝心ではあろう。

2010年6月20日 (日)

木坂城跡(京都府綾部市)

この山城は綾部市内に数多くある山城の中にあっては、影も薄く一般文献資料などにはほとんど登場せず、情報は皆無に近い城跡の一つである。前から色んな資料に眼を通していたので充分その存在は認識していたが、所在地が綾部市七百石町にあるとだけの確認で、取り合えず地図上で目星だけは付けて現地に赴いた。町内は集落の点在している山ばかりの地域であったが、目星を付けた付近の集落で何人かの地元の方に尋ねた処、三人目の方の情報で、幸運にも城跡の所在地だけは突き止める事が出来た。城史に関しては不明

1route 登城ルート

7 城跡進入路

1 城跡概念図

流石に山の多い地域だけに、目星を付けた場所と城跡の位置はずいぶんかけ離れていたが、訪問結果を先に述べれば、山上本郭群は比較的大きな二郭構成、中腹尾根に便宜上の広い三の丸、更に山裾にも広い削平地と、三段構えに郭を配した非常にシンプルな縄張りプランで、状態もこの時期(六月)にしては郭移動にも難渋せず、比較的見て回りやすい状態にあった。踏破した範囲内で判別確認に至った遺構は、ほぼ概念図に描いた通りだと思って頂ければ良いが、真南側の枝尾根あるいは堀切を隔てた北側の尾根上までは覗く余裕がなかったので、残存遺構も城域もこれだけに止まるものとは思われ難い。結果的には全く実態の掴めないまま訪れた山城ではあったが、本郭群における空堀を付随した櫓台土塁、北側二方の尾根を断つ二本の堀切、比較的状態の良い郭切岸と、縄張り妙味には多少欠けなくもないが、是非お薦めの城跡として眼には映ったのである。特に概念図に示した空堀を付随させた櫓台土塁は、当然見所の一つでもあるが、他の山城では中々お目にかかれないものであり、一見の価値に値するものと見た、、、城跡にあっては唯一ユニークさが感じられた部分でもある。

16_3maru_obi 三の丸帯郭

20_shukaku_heki_1 主郭南切岸

23_shukaku 主郭内

28_yagura_karabori 櫓台と空堀見所

31_higasi_horikiri 東堀切見所

33_kita_horikiri_dorui 北堀切と大土塁見所

城跡を訪れるには、ルート図でお分かり頂ける様に「綾部JC」直ぐ西側にある「慈眼寺」を目として目指せば、迷わず城跡付近は到達出来るだろう。寺院(無住)に車を預ければ、脇の農道(画像に注目)を利用して北上、左手側に集合墓地が見えてくるが、更に北上して概念図の如く左手の畦道に進入すれば、直ぐに山道と合流出来る筈である、すこし歩いて左手尾根の上りやすい地点からそのまま尾根上に向いて直登すれば、尾根上の削平地には直ぐにでも到達可能となっている。後は尾根に沿う形で三の丸を経由して山上を目指せば、何の前触れもなく然と現れる主郭切岸が、充分な感動を与えてくれる筈である。(寺院から20分)。尚、最初の尾根までの進入路が分からない方には、山裾にある集合墓地背後から上っても、迷わず山上主郭までは辿り着けそうには思われた。

2010年6月19日 (土)

赤尾城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町温江にあって、ルート図でお分かり頂ける様に、既にリポート掲載を終えた稲荷山城から見れば、直ぐ真南側にある丘陵先端部に位置している。この城跡も立地環境から、温江城を中心とした城塞群の一部とも見受けられるが、対岸に位置する稲荷山城を含み、西側に並んで築かれた東、西百合城を思えば、機能としては東側に繋がる谷筋を、意識的に防備したとしか想像が付かないのが現状でもある。城史に関しての詳細は不明

1_1_4 登城ルート

6 城跡進入口

1_2_6 城跡概念図

城跡を訪れるには、先に触れた温江稲荷山城を起点とすれば分かり易いが、既にこの山城を訪れた方であれば位置確認は容易い筈である。これから臨まれる方は国道176号を走って向い、ルート図における常栖寺を目指して赤線を辿れば迷わず辿り着けるとは思われる。直登口は概念図(画像に注目)に示したが、ビニールハウス横の畦道を通過してそのまま藪の少ない箇所を登り切れば、直ぐにでも主郭が迎えてくれる筈である。

現状(四月)城跡は全域に渡って矢竹が蔓延っており、その間をすり抜けての移動は余儀なくされる状態にあり、全体像の視認は非常に困難を来たす状況でもあるが、それでも歩き回れば、何とか郭跡及び堀切の確認は出来るまでの状況にはある。主郭は規模も小さく砦規模の城跡と言う事にはなろうが、南尾根上までも縄張りとして取り込んだとも見受けられ、一部の郭跡には切岸跡の窺える削平地も存在している。現在ビニールハウスのある西側は農地として随分地形改変が窺われるものであり、郭跡も多少消失したものとも察せられたが、東側は沢水の流れる自然空堀地形(溝状)となっているので、ほぼ当時のままとも見受けられた。

14_shukaku 主郭内部の現状

16_horikiri_1 堀切見所

15_horikiri_dobasi 堀切土橋

18_higasi_sanjyou_kaku_1 山上郭

城跡を個人的に評価すれば、状態がもう少し良いのであれば、何とかお薦めの城跡として紹介は出来たが、冬枯れ後の状態でこれでは、これから先も多くは期待出来ず、興味のある方のみが対象となる城跡と言う事になるだろう。この温江地区に存在する城跡訪問の一環とするのであれば、何とか納得の行く山城巡りとなる様な気はしたが、、、。

2010年6月17日 (木)

丹後 森本城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市大宮町森本にあって、現在その主郭には秋葉神社が建立されている。この城跡も後でリポート掲載予定の明田城と同様に、当時は成吉越中守の居城が伝わっているが、此方はその縄張りの形態から窺っても、明らかに館城が想像されるものであり、街道筋から近い利便性、あるいは規模の大きい主郭からも充分それを感じ取る事が出来る。

城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた三重城を起点とすれば分かり易いが、三重城から一般道655号を更に北上すればよい。家屋の密集する森本地区西手前には、周辺の史跡案内板も設置されているので、そこで直登取り付き付近となる「大屋神社、あるいは主郭転用地にある「秋葉神社」を確認して向かえばよいだろう。車は森本公民館の空きスペースを利用し、そこからは概念図に示した地元消防施設を目印として、大屋神社に向いて歩けばよいが、その正面に望めるのが城跡であり、位置確認は容易いとは思われる。尚、本来の参拝登山道は、東側の民家が建ち並ぶ付近に畦道としてあるが、現状参拝する人もほとんど途絶えたものと見受けられ、登山道は荒れるに任せて場所によっては沢水が入り込んで非常に歩き辛く、登山口を探すにも少々手間がかかると思われたので、5分とかからず南郭跡に到達可能な直登口(竹林地)を概念図には記した。

1_2

登城ルート

5 進入路

1_2_2 城跡概念図

現状(五月)城跡は、載せた画像で多少お分かり頂けるとは思われるが、社殿の建つ主郭内は低草木が蔓延り、他は全て竹林地、あるいは雑木藪と化している状況にある。概念図(今回は正確さに自信が持てない)に記したまでが、個人的に判別確認出来た遺構群と言う事になるが、主郭内部は神社敷地として後世においてどこまで地形改変(造成拡張)があったものかは想像も付かず、遺構残存度に関しては評価は少し難しいものがある。ただ主郭背後の堀切(箱堀)、あるいは帯郭群南郭群などは当時のまま現在に至ったものである様には窺われたが、、、堀切より更に北側にも、切岸跡の残る規模の大きそうな副郭が見受けられたが、踏み入る事も出来ない状況にあり、自ずと踏破は断念した。

7_minami_kaku_1 南郭群

8_doruidan_heki 南郭の土塁壇

16_shukaku_2 主郭の現状

18_dai_horikiri_1 堀切(幅のある箱堀)見所

20_higasi_obi 東帯郭

城跡を個人的に評価すれば、状態が良くないので是非お薦めとは言い難いが、館城としてその縄張りを窺えば、高低差のある切岸などからも非常に見応えが感じられるものであり、技巧に富んだ遺構はお目にかかれないが、郭が単純に配されていない分、縄張りプランにユニークさと独自性を感じる事は出来た。よって状態は悪いが、充分見学する価値のある城跡と言う事にはなるだろう。

2010年6月15日 (火)

小半田城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町平田にあって、先にリポート掲載を終えた伊野城から見れば、西垣城の山塊を左手に見ながら更に国道を北上した、平田集落より川を挟んだ南側の丘陵先端部に築かれている。この山城は伊野城よりも更に詳細が不明であり、地元の方に尋ねた処では、所在地はおろか城跡の存在すらご存知ではなかった。しかし小半田という字名と地図で目星を付けた山城が正しく一致した事、更に山上では正しく城跡遺構と呼ぶに相応しい、見応えのある土塁郭を挟んだ三連の空堀と遭遇出来た事により、間違いなくこの地が小半田城であると確信が持てるに至った事から、今回は地元で確認する事は出来なかったが、自信を持って小半田城跡としてリポート掲載に及んだ。

1route_2 登城ルート

6 進入路

7 最短入山口(開閉フェンス)

3ko 城跡概念図

城跡を訪れるには、ルート図に示した西垣城を起点とすれば位置関係は分かり易いとは思われるが、国道426号を平田地区に向いて走ればよい。集落の手前付近に比較的新しい「田尻橋」が架かっており、この橋を渡って南西側に三棟の農具小屋が見える、その背後の丘陵が城跡でもあるので、位置は分かり易いだろう。田尻橋を渡れば概念図に示した(画像にも注目)様に、白い農具小屋を目印として歩き、その左横から山に向いて踏み跡を辿れば、難なく入山口となる開閉フェンスまでは辿り着ける筈である。尚、最短となる開閉フェンスはここしかないので、迷わずこのルートで向かわれる事をお勧めしたい。右手側の尾根をそのまま上れば、5分内で主郭には到達可能である(田尻橋からは10分程度)

14_kita_sokumen_yori_shukaku 北上り斜面より主郭側

12_kita_heki 主郭切岸見所

21_horikiri 主郭背後の堀切見所

22_nisi_yori_horikiri 西より主郭と堀切見所

23_2ren_doruikaku 堀切見所

25_seitan_horikiri 西端の堀切見所

現状(五月)城跡は全域に渡って植林地となっており、山上郭群の全体像が窺えるほど見通しは利き、更に移動に差し支える事もなく、非常に見学し易い状況となっている。山上本郭群は、但馬地方特有の築城形態とも言える、小規模な三連の土塁郭が三連の空堀を挟む形で形成されたもので、その東先端郭には低土塁まで備わっているのが目に留まった。現状、三連の堀切は相当埋もれており、さほど深さはない(それでも3m近い)が、数百年における堆積物を考えれば、当時は相当な高低差があったものとは察せられる。ただこの小規模な土塁郭は未だに機能としての想像が付かず、見る限りでは物見用の櫓台としか思えない様なものでもあり、なぜ三連必要であるのかは、これからも解明は難しいものとは思われる、、、ずっと謎のままで終わりそうである。

個人的に城跡を評価すれば、砦規模の山城ではあるが山上郭までの所要時間、あるいは遺構残存度(風化はしているが破壊されていない)、あるいは残存状態(遺構の分かり易さ)は、他の山城を圧倒している様にも感じられた。この佇まいは正しく賞賛に値する城跡でもあり、少しでも興味を持たれた方には、迷わず背中を押して訪問をお勧めしたいのである。城域も狭く縄張り変化にも乏しいので、見所は先に触れた部分のみとなるが、それでもこの楚々とした山城の風情は中々捨て難いものが感じられるのである。伊野城との同日訪問であれば、間違いなく満足感には浸れそうに思われたが、、、

2010年6月13日 (日)

伊野城跡(兵庫県豊岡市)

この城跡は出石川に沿って多く築かれた山城の中の一つでもあるが、既にリポート掲載を終えた西垣城や他の山城と同様に、存在の認識は充分ありながらも長い間所在地の確定に手間取っていた。今回は後で掲載予定の小半田城と同様に、地図上で城跡の目星だけを付けて、現地で地元の方数人に訪ねたお陰で何とか所在地を明確にすることが出来たが、情報の少なさから実態が今まで謎に包まれていた、念願の伊野城の城跡遺構をやっと山上で目にする事が叶えられた。城史に関しての情報は、唯一室町時代に伊野綱高の居城が伝わるのみである。

1route 登城ルート

5_3 直登取り付き口

3ino 城跡概念図

個人的には砦規模の小城を想像して臨んだのだが、比較的規模は大きく(総全長約150m)、結果的にはノーマークに近い山城としては予想を遥かに上回る遺構残存度でもあり、状態の良い城跡遺構には圧倒されっぱなしとなった。自身が踏破した範囲内で作成に及んだ概念図を見れば、およその実態はお分かり頂けるとは思われるが、ほぼ地形に任せて削平された縄張りプランは、さほど縄張り妙味の感じられる城跡ではない、更にインパクトの感じられる堀切(薬研堀)も備わってはいないのである。しかし数百年レベルで風化に任せた切岸などの遺構の現状を見れば、遺構の見応えや縄張り妙味などはどうでもよくなってくるのである、とにかく縄張りだけは明確なものが拝めるのである。それだけ状態が良く、見て回りやすい事は言うまでもないのだが、植林地でもなく、ほとんど人の手も入らずこの状態が自然保持されていたとは驚くべき事でもあろう(この地方の風土が成せる技か?)。もちろん人が長い間山に踏み入った形跡のない山城として見た、私見に過ぎないものではあるが、、、、

13_gedan1_yori_heki 西段郭の切岸

14_nisikaku_yori_yagura 北櫓台の切岸見所

23_naka_yori_3maruheki_1 中郭より三の丸切岸

24_naka_yori_kitayagura 中郭より北郭

27_shukaku 主郭、奥土塁見所

30_horikiri_ato_1 僅かに空堀跡見所

32_hakihori 箱堀見所

現状(五月)目に留まった遺構は全て概念図には記したが、郭跡を除けば埋もれて判別し難い空堀跡、箱堀、土塁跡、もちろん切岸跡と、はっきり言えば他では城跡として技巧を感じる部分は少なく、遺構の見応えには余り期待は出来ないものとは思われる、しかし山城の初期形態を色濃く残す城跡として見れば、山城の風情も含めて史跡としても非常に値打ちのある城跡と感じられたのである。今まで多くの山城を訪ね歩いたが、これほどまでに上って爽快な気分(全く期待していなかった事も手伝って、、)にさせられたのは久しぶりでもある。もちろん状態の良い遺構群に感動したのは言うまでもないが、、、個人的に城跡を評価すれば、山城ファンの方においては間違いなくお薦め出来る城跡と言う事にはなるだろう。但馬地方には今までリポート掲載してきた多くの城跡も含めて、比較的状態の良い山城がまだ数多く残っている様にも感じられたが、この山城を訪れてみて、改めてそれを知らされた思いでもある。

城跡は豊岡市但東町佐田にあって、訪れるには既にリポート掲載を終えた西垣城を起点とすれば、其の位置は直ぐ分かるとは思われるが、国道426号へ進入する事が先決となる。付近まで到達すればルート図あるいは地形から位置確認をして頂くより他ないが、直登取り付き地点とした場所までは、広い山道が繋がっているので分かり易いとは思われる。後は概念図参照の事、、(車を置いて20分内で北郭に到達可能)

2010年6月11日 (金)

塔城跡(京都市右京区)

城跡は京都市右京区京北塔町にあって、国道162号線沿いにひしめく塔集落から見れば北側に位置しており、低丘陵上の最高所を主郭として、南麓枝尾根上に城域は広がっている。現状城史に関しての詳細は不明であるが、この形態を窺う限り、縄張り妙味などは求める以前の話であり、見応えのある遺構は皆無、縄張りプランも地形任せに尾根上を削平しただけに終わっており、防備とする堀切も土塁も目に留まらなかった。辛うじて主郭の切岸跡、主郭北側に風化して分かり辛い、空堀かも知れない地形を確認したが、とても断定出来る状態にないので、推察程度に終わってしまった。

1_1 登城ルート

5 進入口

1_2 城跡概念図

8_nanntou_kakugun_2 南東郭群(曖昧な地形)

19_nanseikaku_gun_1 南西郭群

12_shukaku_1 主郭の現状

15kita_karabori_tikei 北、僅かな空堀地形

現状(五月)、城域とされる南麓に展開される郭群は、ある程度全体の見通しが利き、それなりに規模も把握し易く見て回りやすい状態にあるが、山上主郭においては、画像を載せた様にとても醜い状態にある。主郭は物見あるいは狼煙台程度のものであり、山城ファンにおいては、完存と伝わる遺構には間違っても期待を持って訪問はしない方が良いものとは思われた。もちろん史跡としての価値は決して下がるものではないが、、、、個人的には事前に探索するつもりで寄ってみた、北西丘陵上にある神社敷地の方が、城跡遺構とすれば切岸跡あるいは縄張りプランも明確であり、よほど城跡らしい風情が感じられた。此方も一応概念図は載せたが、府の遺跡分布図の中には、塔城の城域としては含まれて居らず、城跡としての認識は全くないものと思われる。谷状地形を挟んで隣接するこの状況は、戦略的に考えても自ずと塔城の城域として考えられるのだが、、、、。

Photo 社殿までの最短ルート進入口

1 3 城跡遺構か?推定参考地

城跡を訪れるには既にリポート掲載を終えた京北宮城、あるいは中江城を起点とすれば分かり易いが、周山街道(国道162号)を経由して、周山で国道477号へ針路変更、後はルート図あるいは概念図に進入口(入山口)は示したので、これを見れば直ぐお分かり頂けるだろう。

2010年6月10日 (木)

関宮 片岡城/愛宕山跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市関宮町関宮にあって、ルート図に示した様に立地環境からも二城の関連性は充分窺えるものであるが、片岡城を本城とした場合の愛宕山城は出城機能としたものかも知れない。片岡城に関しては名が示す様に片岡氏の居城と伝わっており、櫓台土塁上にはその子孫の方の手によるものと思われるが、片岡家墓碑が建立されていた。当時、秀吉による但馬征伐から難を逃れて現在までに至ったものとも推察されるが、片岡氏に関して記載された文献資料は乏しいものであり、愛宕山城と共に現状詳細は不明である。

二城を訪問する事を前提とするのであれば、まず先に片岡城を訪れることになるが、先にリポート掲載を終えた蛇ヶ尾城あるいは白岩城を起点とすれば分かり易いだろう。国道9号線沿いにある三柱神社の看板の掲げられた、東手前の林道入口からが城跡への進入路となるが、上り始めると直ぐ東側(右手)に望める丘陵先端部が片岡城であり、切り通し(堀切)を通過した林道沿いの画像に示した箇所から向えば、直ぐに城跡へ到達可能である。

1_2_2 登城ルート

5_kiritoosi 進入口

1_3 城跡概念図

6_dorui_1 櫓台へ

8_dorui 墓碑と土塁見所

10_yagura_heki 櫓台切岸見所

11_shukaku 主郭内

片岡城の形態は概念図に描いた様に館城の様相で、主郭背後には大型の櫓台土塁が備わり、墓碑が建立された背後には土塁も備わっている。この更に北背後は本来堀切となっていたと思われるが、現在は林道となり地形改変が窺われるものとなっている。現在主郭周辺は家屋あるいは畑地が直ぐ傍まで迫っており、当時を偲ばせるものは恐らく概念図に示した三郭だけである様にも目に映ったが、他の部分においては見学者の想像に全て委ねられるだろう。

愛宕山城へは、ルート図を参考にして林道に任せてそのまま上れば良いが、舗装林道における最終地点が公園となっており、ここが本来の愛宕山城とされる場所に相当する。現在では画像でお分かり頂ける様に、郭跡地は造成整地が行き届いており、どこまで地形改変があったものかは想像も付き難い状況であるが、先端にある展望デッキからは集落のほとんどが見通す事が出来、この状態は現在と状況こそ違え、当時の人達が見ていた風景と同じものかと思えば、非常に感慨深いものがある。この展望デッキからは白岩城、中瀬城(未訪)、あるいは尼ヶ城(未訪)まで見通す事が出来、当時でも今でも抜群の立地環境を誇っているものと言えるだろう。

愛宕山城の状況

1_42_3 3 

尚、ルート図中に記した岩倉城に関しては、地元で確かな所在地の確認が取れず、今回は推定地としたが、ほぼここで間違いは無いものとは思われる。ただ山上は削平地が残るのみであったが、、、個人的にこの関宮における二城を評価すれば、遺構残存度は低いものであり、想像に委ねられる部分も多いが、圧倒的お手軽感と山城らしい佇まいを考えれば充分お薦めは出来よう。

2010年6月 8日 (火)

直見城跡(京都府福知山市)

  城跡は福知山市夜久野町直見(ノウミ)桑谷にあって、先にリポート掲載を終えた西垣城から見れば川を挟んだ真西側にあり、標高約402mの山上最高所に位置している。当時(室町時代後期)は直見武綱の居城が伝わっているが、この地方では有名な「夜久野合戦」において戦死した模様。その後の詳細は不明

城跡を訪れるには、西垣城を起点とすれば位置関係は掴み易く、先に西垣城へ赴けば神社からも真西側に直ぐ望めるので確認もし易いとは思われる。ルート図の如く「西垣バス停」向かいの道路から、桑谷集落の上段に位置する公民館を目指せばよいが、到着後は車はここに預けて、画像を載せた民家横の畦道から、広い二段の削平地(居館跡か?)を経由して、旧神社跡を目指して上れば良い。この旧神社跡地(郭転用地)まで向かう山道は、別に公民館から更に西に向かう林道を経由しても繋がっているので、もちろん此方を利用しても良いものとは思われるが、ただこのルートで上れば、先に触れた屋敷跡地と見受けられる規模の大きい二段の削平地、あるいは谷筋に段状に配された削平地も同時に見学出来る事から、広大な規模を誇る城域も掴み易く思われたので、個人的にはこのルートをお薦めしたいのである、、、、神社跡地からはそのまま尾根伝いに上れば、迷わず山上主郭へは到達可能(公民館から西郭まで約15分)となっている。

1route

登城ルート

6tozanguti

進入口

3no

城跡概念図

現状(五月)山上本郭群は、ほぼ全域が植林地となっているので、全体の見通しも利き、山城としては非常に見て回りやすい状態にあるが、地表風化が激しく、地形から細部における遺構を判別確認する事は中々難しい状況にある。個人的に踏破した範囲と、地形から遺構として判別確認出来たものは概念図に示したが、大きな窪みや空堀とも窺える地形は、他にも多々見受けられたので、これらは見学者が想像して楽しめばそれで充分とは感じられた。事前情報で遺構はほぼ完存に近いものと聞いて訪れたが、これほどまでの状態(山城としては申し分のないもの)にあるとは驚くばかりでもあり、過去訪れた秋葉、西山、段、日置谷、鳴岩、千原城など挙げれば限がないが、遺構残存度が高く、比較的状態の良い山城が多い夜久野地方の城跡に、再び酔いしれて城跡を後にしたのである。

22_horikiri_tatehori_1

西側斜面の堀切

24_seitan_kaku_1

西端郭(奥は土塁)

27_dorui_haigo_karabori

西郭背後の土塁と空堀見所

36_minami_yori_shukakuheki_1 南郭側の郭切岸

37_minami_tatehori 南縦堀

36_shukaku_koguti 主郭切岸と虎口

40_shukaku_dorui 主郭土塁見所

44_higasi_horikiri_1 東堀切見所

45_hhigasi_yori_shukaku_1 東郭側より主郭

見所を挙げれば明確なものを拝める縦堀を含めた空堀群、更に主郭や他の郭跡にも備わる土塁と言う事になろうが、この山城の醍醐味であり魅力は、風情あるいはその様相、更に縄張りプランも含めた城跡そのものと言った方が良いものとは感じられた。山上本郭群だけ採り上げれば規模はさほど大きくはないが、麓に展開される多くの削平地、あるいは神社跡地も取り込めば、城域は相当広いものの様には感じられた。と同時に、直見氏の当時の勢いも、この山城を窺うだけで充分感じられるのである。先に触れた西垣城と併せた訪問なら更に充実した山城巡りとなろうが、単独でも是非お薦めしたい山城の一つである。

2010年6月 6日 (日)

夜久野 西垣城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市夜久野町直見西垣にあるが、この城跡の形態を説明するのは少し難しい。見る限り丘城でもなく山城でもなく、山塊の先端急斜面を掘削して規模の大きい主郭を強引に設けた構造となっており、麓の街道にあたる道路までは、比高差は80mに達する築城環境となっている。しかも概念図(側面図)を見ればお分かり頂ける様に、主郭背後は垂直に近い形で山の如く屹立する切岸(大袈裟ではない!)、主郭から更にその背後を10m以上上った上段には直線的に空堀(横堀)を設け、その両サイドは数十m下まで縦堀が落ち込んでいる。主郭三方が空堀(横堀と縦堀)と付随する土塁と切岸、更に前面は切岸急斜面として、主郭はほぼ孤立した状態と言えば分かり易いとは思われる。

1route 登城ルート

1_1 進入ルート

1_3 城跡概念図

この城跡から川を隔てた東対岸山上には、ルート図に示した様に直見城が築かれている事を思えば、この二城の関連性は充分窺われるのであるが、この城跡の形態は伊賀の深い空堀、あるいは高土塁を駆使した館城の形態とは異なり、夜久野地方では決してお目にかかれないものであり、福知山から但馬地方にかけては更に類を見ないものでもある。よって個人的には直見城に対しての付け城か陣城、あるいは別の勢力によって築かれた、比較的新しい城跡の様な気もするのである。もちろん城史に関しても謎に近い城跡なので、その結論は永久に出ないのだが、見学者においてはその想像も含めて、土塁を絡めたスケールの大きい空堀遺構の醍醐味を是非味わって頂きたいと思うのである。城跡は非常に大味な縄張りではあるが、とにかく遺構残存度は高く、この状態も含めれば推奨に値する城跡の一とは言えそうに思えた。

14_shukaku_higasi_heki_1 主郭東側切岸

16_shukaku_haigo_heki 主郭背後切岸見所

17_minami_tatehori 南側縦堀、土塁見所

19_karabori_dorui_4 19_karabori_dorui_6 主郭背後上段の空堀土塁見所

24_sita_kara_tatehori_2 北側の縦堀、土塁見所

28_monomi_isi 物見郭か見所

現状(五月)郭跡は植林地となっているので見通しは利き、非常に見て回りやすい状態にあり、現存する遺構はほぼ判別確認可能と言える状況にある。館城の様相でもあるこの城跡に対しては、縄張り妙味には余り期待出来ないが、前述の遺構群を目の当たりにすれば、一般城跡ファンあるいは山城ファンの方々とは、間違いなく自分と同じ感動を共有出来るものとは思われた。

城跡を訪れるには国道9号あるいは426号を経由して、県道63号へ進入する事が先決となるが、付近まで到達すればルート図を参考にして、「西垣バス停」北側の生活道路から車を駐車する事になる神社(画像に注目)を目指せばよい。神社からは北側の城跡に向いて農道を経由して畦道から向かえば、古い集合墓地を経由して5分もあれば主郭へは辿り着ける筈である。尚、先に触れた未だ完存に近い形で遺構が残り、状態も比較的良く、個人的には見応えも山城としての醍醐味も素晴らしいものと感じられた、直見城に関してのリポートは次で掲載の予定。

2010年6月 4日 (金)

中藤八幡城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町中藤にあって、中藤集落の北側に聳える標高約320m(比高約150m)の山頂に位置しており、今回直登取り付き口として選んだ八幡神社は、城跡から見ればその南麓に位置している。城史に関しては、この城跡も但東地区に多く存在する山城と同様に、情報は皆無に近いものであり詳細は不明でもある。

1_1_2 登城ルート

8_tozanguti 神社の直登取り付き地点

1_2_3 城跡概念図

城跡へ訪れるには、先にリポート掲載に及んだルート図中に示した、愛宕城を起点とすれば一目瞭然とは思えるが、県道2号線を隔てて北側にある玉宗寺」を目印として目指せば、難なく登山口までは辿り着けるとは思われる。車は寺院西側の八幡神社が望める箇所にある空き地(駐車場か?)を利用すれば良いものとは思われるが、そこから神社まで歩き、その背後の激斜面を上れば多少穏やかな斜面となるので、そのまま北尾根に沿って上れば良い。ひたすら上り続ければ20分内で到達可能であるが、山上までは僅かにそれと分かる程度の削平地が窺われるだけなので、このまま到達出来るものか多少不安に駆られてしまいそうになる。しかし山頂へ辿り着く直前には、何の前触れも無く忽然と郭切岸が目の前に現れるので、是非この感動をこれから訪れる方にも味わって頂きたいと思うのである。中々言葉で上手く表現出来ないが、辛い思いをした後には必ず達成感と心地よい快感が待っているのである。

16_obi 南帯郭

20_3maru_yori_2maruheki 三の丸より二の丸側

21_2maru_1 二の丸内

25_shukaku 主郭の現状

29_horikiri_daidorui 西尾根側の堀切と大土塁見所

32_kita_horikiri_2 北尾根側の堀切見所

33_horikiri_dorui 堀切土塁見所

現状(四月)城跡は載せた画像でお分かり頂ける様に、藪化は当然進行中にはあるが、意外にも郭内の見通しは利き、見学には余り難渋しない状態にある。山上郭群の形態としては、主要三郭を並べて形成された単純な縄張り構造の山城と言う事になるが、ほぼフラットに自然保持された広い空間は、郭総全長が100mにも満たない城跡を感じさせないほどの規模が感じられた。個人的に当時の遺構として目に留まったものは概念図に全て記したが、主郭背後の北側と西側尾根を遮る二本の堀切が城跡最大の見所とも思われ、その空堀に巨大土塁が付随するその様相は、郭周囲の外壁を覆う切岸と並んで、見応えも山城としての醍醐味も充分感じ取る事が出来た。山城を覗いた上で一番楽しめる部分は、見学者によっては多少異なるとは思われるが、その多くは城跡の風情であり、機能の想像も含めた遺構への期待感であり、遺構の見応えなのである。縄張り妙味には余り期待出来ないと思われたこの山城は、この全てをクリヤーしているとは思えないが、無名に近い情報量の少ない山城としては、遺構残存度は非常に高く、比較的見て回りやすい状態も加味すれば、充分お薦め出来る城跡と目には映ったのである。

2010年6月 2日 (水)

口藤城跡/中藤愛宕城跡(兵庫県豊岡市)

この二城はルート図でお分かり頂ける様に、川を隔てて東西に分かれた位置にあり、同じ兵庫県豊岡市但東町にあっては、口藤城は口藤地区、愛宕城は中藤地区にある。どちらも城史に関しての詳細は不明

まず先に口藤城を訪れるには、既に掲載を終えた中山愛宕城を起点とすれば分かり易いが、国道482号を進行すれば中山地区で県道2号線に針路変更して中藤集落を目指せばよい、後はルート図を参考にすれば難なく辿り着けるとは思われる。この城跡へは位置を確認すれば道路沿いから畦道を利用すれば直ぐにでも到達可能となっているが、愛宕城の方も道路沿いからは直ぐ望める位置にあり、道路沿いから直ぐの距離にある、丸木橋を進入口とした参拝道が山上まで通じているので、直ぐにでも到達可能となっている。尚、この丸木橋を渡るのが怖い方は、東側からでも畦道を利用すれば難なく辿り着けるので、心配には及ばないだろう。

1口藤城 登城ルート

3 城跡直登口

4 空堀、土塁見所

5 土塁壇(見辛い)

6 郭内の現状(厳しい)

口藤城跡の現状(四月)は、一面が低草木に覆われており、更に画像でお分かり頂ける様に笹が密生しており、地面も余り露見していない状況にある。判別確認可能な遺構としては、郭跡を除けば空堀、付随する土塁、櫓台に見えなくもない土塁壇程度は挙げられるが、郭移動にも難渋する現状では、中々細部までの見学は困難でもあり、全体踏破は自ずと出来なかった。よって当然遺構もこの限りではないものとは思えるが、それほど期待できる城跡の様には目に映らなかった。ただ低山の山上を全て占める城域は、相当広いものの様には感じられたが、、、。

1_1 愛宕城登城ルート

8_tozanguti 参拝登山口

11_fukukaku_2 副郭

15_shukaku 主郭

20_2jyuu_horikiri_1 18_horikiri 二重堀切見所

愛宕城跡の現状は、ほぼ主要二郭で形成されたものであり、主郭西側斜面は笹が密生しているので、ほとんど外見からの判断にはなるが、主郭に付随して二段程度の帯郭が備わっているのだけは確認出来た。山上に残された遺構としては、郭跡を除けば主郭背後に備わる二重堀切(一部土塁が消失)は挙げられるが、砦規模の小さな城跡なので、多くは望めないものでもある。ただ山上に佇めば集落は見通せる状況にあり、自ずと当時に思いを馳せる事も容易く、麓から城跡を望んでも山城(丘城)の風情は充分感じられるので、城跡の規模、あるいは遺構の見応えさえ問わなければ、充分観賞には耐えられそうな城跡と目には映った。個人的には山城巡りの一環として、後で訪ねた八幡城跡などと併せた訪問であれば、充実した城跡巡りとなりそうには感じられたが、、、。

2010年6月 1日 (火)

真野城/土野城跡(京都府綾部市)

この二城は綾部市睦合町にあって、ルート図からお分かり頂ける様に、丘城と山城と言う部分においては機能の違いで随分差はあるが、ほぼ隣接しているので山城巡りの一環とすれば、ある意味効率よく訪れる事が出来そうには思われる。城史に関しては当時における城主だけではあるが、真野城の方が杉山氏、土野城(肘野城)が温井氏の居城と伝わっている。詳細は不明である

1_1 登城ルート

1_2_2 城跡概念図

14_oo_koguti_2 当時の虎口か判断し難い

17_minami_kaku_1 南郭3

19_shukaku_1 主郭

20_shukaku_dorui_2 土塁見所

23_kita_kaku 北郭より主郭土塁

まず真野城へ向うには、府道1号沿いにある宝蔵寺を目印として目指せば良いが、寺院まで行けば行過ぎとなるので、その手前にある大きな施設JAの向いの道路から、ルート図の如く山麓にある集落まで上る、集落の西端には集合墓地(墓地の周辺には充分車の空きスペースはある)があるが、そこから尾根伝いに山頂を目指して上れば良い。20分弱の道程にはなるが、踏み跡を辿っての登山は迷わず山頂まで辿り着けるとは思われる。この踏み跡程度の山道は、かつて山上郭に祠があった時の参拝登山道らしく、現在は相当荒れ放題ではあるが、尾根上に展開される削平地を確認しながら上れば、急峻な山上に位置するこの山城の風情も充分体感出来るとは思われる。山上郭群は主郭北側に備わる仕切り土塁までを本郭群とすれば、ほぼ四郭構造となっており、見る限り縄張り内に堀切の類は見受けられなかった。唯一縦堀を土塁東側に一箇所だけ確認する事は出来たが、他では眼にする事は叶わなかった。土塁より北側の尾根上には延々と削平地が連続しているが、これも縄張りとして取り込めば比較的大規模な山城と言えるのかも分からない、、。

土野城へは画像に示した場所から、ルート図を参考にして沢沿い山道(墓参道)に向かい、それに従えば尾根上全域を占める広大な郭跡地には直ぐにでも到達出来る筈である。この郭跡地は部分的に墓地敷地、あるいは整地された状態となっているので、近世においてある程度の地形改変はあって当然とも考えられるが、縄張り形態そのものは当時と余り変わってはいない様な気はした、、、? 現在遺構として判別可能な箇所は、主郭周囲の切岸跡、東側の帯郭、中央の郭境となる切岸部分と、限られてくるのが現状でもあるが、二百mにも達するほどの城域の広さは、巨大な館城を想像させるほどの規模であり、更に全体の見通しが利く事からも、より巨大なものに見えてくる。この城跡は風情あるいはその規模を歩いて体感する程度に終わるかも知れないが、遺構の醍醐味さえ求めなければ、当時の館城の様相まで想像可能であり、史跡としても充分値打ちは感じられるのである。ただどこまで造成地形改変があったのかは想像も付かないので、現状見たままから戦国ロマンに浸るしかないのだが、、、、

Photo_2登城ルート

2_2 土野城への進入路

3_2 帯郭と主郭切岸

5_2 中央の郭境

6 広大な主郭の一部

この二城は、個人的には機能、形態が違う事からも充分楽しめたのだが、遺構残存度が比較的低いと感じられた事からも評価は難しく、取り合えず概念図あるいは記事を参考にして頂いて、興味を持たれた方だけにお薦めしたいと思うのである。

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