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2010年5月

2010年5月30日 (日)

三重城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市大宮町三重にあって、三坂谷にある事から三重三坂谷城とも呼ばれている。当時では大江氏の居城が伝わり、城主は代々「大江越中守」を名乗っていた模様であるが、この大江氏も一色氏の下にあったものと思われ、乏しい資料の中では弓木城への参戦が伝わっている。自ずと一色氏最後の砦とも言える、弓木合戦で滅んだ一族であるようには察せられるが、、、詳細は不明。

1 登城ルート

6tozanguti 登山口

1_3 城跡概念図

城跡を京阪神側から訪れるには、国道176号を経由して国道312号へ進入することが先決、付近に目印となる建物や史跡が見当たらないので道順の説明には困るが、コイン洗車場が目に留まる交差点で一般道655号へ進路変更、その後はルート図あるいは概念図を参考にして、登山口となる「六地蔵」(画像に注目)を目指せば良いだろう。付近に小型車なら路駐スペースはあるが、そこからは墓参道で郭転用地と見受けられた墓地まで向かい、その背後に備わる土橋付き空堀から、尾根に沿って連なる郭群を見学しながら上れば、難なく山上主郭までは到達出来るものと思われる。

9_1 土橋付き空堀見所

19 郭側壁

18_2maru_1 二の丸

20_naka_daihorikiri_3 20_naka_daihorikiri_4 中大堀切見所

25_shukaku_dorui 主郭、土塁見所

30_horikiri_1 西端の掘切見所

現状(五月)城跡は各郭共に藪化は進行中にあるが、移動に差し支えるまでには至っておらず、概念図に示した現存する遺構はほぼ判別可能であり、山城としてみれば比較的ましな状態にある。この山城の醍醐味であり魅力は、遺構残存度の高であり、堀切、堀切壁となる切岸を含めた全ての郭切岸、形は当然崩れているが分かり易い土塁と、とにかく遺構が判別し易い所にある。見所は様相あるいは風情も含めた山城の全てとも言えそうに思えたが、一つ挙げれば本郭群(主郭と二の丸)を挟んだ形の堀切と言う事になろうか。これは切岸高低差が10m近くに達するものであり、見応えはもちろん、遺構から受けるインパクトも凄いものが感じられた。更に縄張り変化にも富んでおり、枝尾根にかけても段郭が配される様は、これぞ山城と呼ぶに相応しいものであり、探索冥利に尽きる城跡と感じられた。この地域には他に旧三重城、あるいは出城なるものも存在するらしく、今回は場所も確定できぬままに終わってしまったが、この城跡の縄張り、あるいは遺構群を見る限りでは、非常に期待が持てそうには感じられた。

城跡を個人的に評価すれば、ほぼ完存とも思える遺構残存度の高さ、人の手の入らない山城としては見て回りやすい、比較的ましと思える状態、遺構の見応え、更に山城の醸し出す風情及び縄張りプランに至るまで、挙げれば限がないが、正に推奨に値する城跡であると自分の目には映ったのである。自ずと是非お勧めの城跡と言う事にはなり、山城ファンにとってはこの状態なら当たり前であっても、一般城跡ファンにとっては少し厳しいかも知れないが、是非一度このお手軽感のある城跡を訪れて、本来の山城遺構の醍醐味を味わって頂きたいと思うのである。

2010年5月28日 (金)

鶴ヶ岡 殿城跡(京都府南丹市)

城跡は京都府南丹市美山町鶴ヶ岡にあって、周山街道と呼ばれる国道162号線、鶴ヶ岡交差点のほぼ真北側にあたる、集落の背後西側に突き出した尾根先端に位置しており、「鶴ヶ岡城跡」の別称がある。この山城は川勝(丹波守光網)氏の居城と伝わっており、既にリポート掲載を終えた島城跡、中村城跡、今宮城跡と同様に、川勝氏一族が築き拠った山城でもある。街道筋の見張り機能を備えた中村城を別とすれば、後の三城は非常に険峻な山上に築かれており、山城を得意とした川勝氏の本領発揮の城と言った処か、、、この川勝氏は、領有地が若狭あるいは近江寄りの立地環境のせいなのか、丹波の勢力とは裏腹に織田信長に組していたが、乱世をしたたかに生き抜いて、赤井氏同様徳川政権においては、旗本として扱われたと伝わっている。この氏族も戦国期を上手に生き抜いた氏族の中の一つなのであろう、、、、。

城跡を京阪神側から訪れるには、国道162号線さえ走っておれば難なく鶴ヶ岡までは辿り着けるが、鶴ヶ岡交差点からは直ぐ郵便局が目に留まる(画像に注目)筈である。その背後の山が城跡でもあるので、確認すれば概念図の如く寺院(無住)を目指せばよい。直登口となるのは寺院背後の古い墓地からで、左手側(北西)の急斜面に取り付いてそのまま登り切れば、約10分程度で主郭の下段郭付近には到達出来る筈である。尚、車は画像に示した案内板のある付近に駐車させてもらえれば良いものとは思われる。

1 登城ルート

7 交差点より遠望

1_2 城跡概念図

現状(五月)城跡は、当然の如く藪化進行中にあるが、人の入らない山城としては意外にも見て回りやすい状態が自然保持されており、遺構の確認はもちろんの事、規模が小さいので縄張りも非常に把握し易い状況にある。少ない遺構ではあるが、郭跡を除けば切岸跡、堀切(箱堀)、主郭の土塁跡などが判別確認出来た遺構群である。縄張り妙味もほとんど無きに等しく、見所は状態の良い切岸と幅のある堀切(箱堀)だけと言った処かも知れないが、三方が崖状地形の険峻な尾根上に位置したこの城跡は、山城としては楚々とした風情でもあり、少年時代を想えば、男なら誰でも一度は秘密基地にしてみたいと思える様相ではある。

13 西郭群

19_shukaku_dorui 主郭内

19_shukaku_dorui_1 主郭の土塁跡見所

20_horikiri 堀切見所

24_seitan_horikiri_2 東尾根上

城跡を個人的に評価すれば、遺構はほぼ当時のままの手付かずとも窺われた事から、規模は小さいが史跡としての値打ちは相当高いものとは目に映った。全ての遺構が判別し易い状況にある事も加味すれば、自ずとお薦め出来る山城の一と言う事にはなるが、この直登斜面は少し厳し過ぎるかとも感じられたので、10分程度の登山ではあるが、険峻な山城にトライする覚悟は多少必要かも知れない、、、

2010年5月27日 (木)

万久里城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市関宮町万久里(マクリ?)にあって、万久里集落より更に谷筋を北に遡った標高338mの山上に位置している。この山城も限りなく無名に近い山城であり、現状城史に関しての詳細は不明となっている。

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた尾崎天王山城を起点とすれば分かり易いが、ルート図に示した様に国道9号線より尾崎集落の東手前に位置する万久里集落を目指し、集落に辿り着けば国道沿いに「ローソン」から北へ針路変更、後は林道に進入してそのまま配水施設まで車で上ればよい。四駆なら更に城跡付近までは向かえるが、車が大事ならこの配水施設に駐車してここから歩いて上られる事をお薦めしたい。ここから歩いても山上主郭までは20分程度で到達出来る筈である。

1 登城ルート

10_tozanguti_1 林道からの進入口

1_2 城跡概念図

12_2 登山中における石垣跡

17_gakejyou_dobasi_2 土橋地形見所

18_horikiri_2 堀切見所

21_shukaku 主郭内

23_obi_yori_heki 帯郭より主郭切岸

現状(四月)城跡は意外にも藪化までには至っておらず、砦規模の縄張りは見て回り易く把握し易い状態にある。概念図に示した様に目に留まる遺構は非常に数も少なく、僅かに窺われる土塁跡、堀切跡、痩せ尾根上の両サイドを削り落とした土橋地形が唯一城跡を物語るものであり、唯一尾根を断つ堀切と土橋地形が見所とも思えるが、深く刻まれた空堀ではないので、見応えには多少欠けるのが現状でもある。ただ遺構は手付かずのまま現在まで至ったものと思えた事から、遺構残存度は非常に高い城跡とも窺え、当時を物語る史跡としての値打ちは決して下がるものではないものと見た。

城跡を個人的に評価すれば、但馬地方における山城に興味のある方には、八木川に沿って点在する山城巡りとしての一環とすれば、先にリポート掲載を終えた八木城、尾崎天王山城、蛇ヶ尾城など、どの山城と併せても同日訪問は充分可能であり、より充実した山城巡りが出来そうな気はしたが、、、

2010年5月25日 (火)

東河 黒田本城跡(兵庫県朝来市)

この山城に関しては、南麓枝尾根に位置する支城、あるいは出城は既にリポート掲載したが、今回は現地でそれなりに城跡を知った方と巡り合える事が出来、前回曖昧に終わっていた寺木城小川城の位置をやっと確定する事が出来たが、その結果は地図中に示したので改めて拝見して頂きたい1_1_2

この黒田城跡は数回に渡る訪問において、山上から南麓に至るまで大規模な城砦群とも窺われたが、今回の訪問では黒田城の本来の姿(城域)を解明すべく、遠く標高約300m地点にある山上郭群を目指した。この山城も情報としては皆無に近い無名に近い山城の一つなので、この黒田城山上郭の訪問リポートは、興味のあった方だけが対象になるとは思えるのだが、まだ未訪の方には是非この訪城リポートを参考にして、見学に赴いて頂ければと思うのである。今回も残念ながら南麓に広がる枝尾根全域の踏破(広域過ぎる!)は叶わなかったが、既にリポート掲載を終えた支城群も併せれば、丹波黒井城砦群にはとても及ばないが、山上郭群を頂点として南麓まで郭の展開された、予想した通りの黒田城砦群と呼ぶに相応しい城跡と言う事もほぼ判明した。1_3

登城、下山参考ルート

4_enbou 真南からの遠望

1_5 黒田城山上郭群の概念図

山上郭群から南麓に向いて広がる各出城群はルート図に示した通りであるが、今回下山後に現地で聞き及んだ話(前回訪問時より別の地域)によれば、本来の黒田城はこの山上から麓までの全てを含めたものであり、更に居館跡と呼ばれる郭群が、山上郭群から南枝尾根側の寺木城との中間尾根上に位置している事でもあり、地元ではこの居館跡地は寺木谷にある事から、この地を寺木城と呼んでいるらしい事も分かった。反面神社敷地に展開される公の城跡呼称でもある寺木城、それに隣接している小川城はご存知ではなかったので、此方が驚いてしまったほどでもある。もちろん最初から地元の方がこの城跡の本来の姿を知っていたら、ここまで城跡呼称の判明に苦労はしなかったものとは思えたが、、、。

城跡へ訪れるには、当然山道など存在しないので個人的に利用した分かりやすい直登取り付き口をルート図に示した。それは小栗城直登口に近い神社背後から取り付いて城跡西側の尾根に沿って上る最短ルート(藪漕ぎはないが倒木は多い)になるが、主郭までは15分で辿り着くことが出来たので、これから臨まれる方には分かり易く到達出来る様には感じられた。

7_nisikaku_1 西郭

8_nisikaku_nobori_dobasi 西郭の上り土塁

11_horikiri 堀切(片堀切)見所

18_1 南出郭見所

19_demaru_higasi_heki 出郭切岸

11_shukaku_1 主郭の現状

13_shukaku_haigo 主郭背後

現状(四月)城跡は意外にも比較的見学し易く見て回りやすい状態にあったが、山上郭群の風化は激しく、当然の事ながら郭境は曖昧となっており、主要三郭と出郭で形成された縄張りが把握出来る程度と思って頂ければ良いだろう。もちろん出郭側面(画像に注目)の切岸などの様にしっかりしたものも残ってはいるが、堀切などは元から浅く掘削されたものかも知れず、見応えにはほど遠いものでもある。山上郭群はほぼ概念図に示したまでと思って頂ければ良いのだが、斜面に備わるかもしれない縦堀までは探る余裕はなかったので、遺構も決してこれだけには止まらないものと思って頂きたいのである。個人的には下山は小川城に繋がる尾根沿いに下りたが、最初から南尾根上に存在する居館跡が分かっていたのであれば、迷わずそちらに下山したのだが、今思えば非常に残念な結果となってしまった。これから赴かれる方には、自分は踏破出来なかったが、是非南尾根上にあると伝わる居館跡地までは覗いて頂きたいと思うのである。尚、先に触れた小栗は山上に削平地がある程度の山城2

でもあり、見逃していたかも知れないが、インパクトのある堀切は窺われなかったので、取り合えず参考までに、、、遠距離訪問の為に訪れる回数も限られ、今回で長く続いた東河川沿いの山城巡りは一息付いたが、又機会があれば山上主郭から寺木城に繋がる尾根上の居館伝承地も覗いて見たい気はする。

2010年5月23日 (日)

鶴賀城跡(京都府京丹後市)

この山城は京都府京丹後市大宮町谷内にあって、地域名を採用した「谷内北城跡」の別称がある。当時は山口氏の居城が伝わるが、氏の活躍を記した文献資料は皆無に近く、城史に関しての詳細は現状不明。北城があるからには本来「谷内城」もこの地域には存在すると思われたが、今回は未踏に終わった真南側の山上にあると聞いた。ただ地元で尋ねれば、その実態をご存知の方が居られなかったので、遺構残存状況などの詳細は不明である。

この城跡も他の丹後地方の山城と同様に情報は皆無に近く、実態が分からないので当然何の期待もせずに赴いたが、今回の大宮町の山城巡りの中では最も印象に残る城跡となった。この城跡を簡単に説明すれば、形態としては尾根上に直線的に郭が配された構造であるが、縄張りプランとして縦堀を含めた空堀を多様しており、要所には防備としての土塁が備わり、縄張り妙味に満ち溢れたものとなっている。次から次へと現れる遺構を判別確認しながらの見学は、正に山城冥利に尽きるものとも感じられた。状態は決して良いとは言えないが、遺構はほぼ判別し易い状況にあり、その機能を想像しながら見て回るだけで、当時に想いを馳せることも容易く、遺構の見応えも、山城としての醍醐味も充分味わえそうには思えた。

1 登城ルート

6tozanguti_1 進入墓参道

1_2 城跡概念図

城跡を訪れるには国道312号へ進入する事が先決となるが、谷内地区に入ればルート図あるいは概念図を参考にして、赤ラインを辿れば迷わず辿り着ける筈である。

今回踏破した範囲で目に留まった遺構は全て概念図には示したが、どれも決して見逃してはならないものばかりで、丹後地方における山城の特徴でもある、屹立する10mにも達する切岸深く刻まれた堀切巨大と呼べる空堀(縦堀)、分厚い縦土塁井戸跡(明確なもの)と挙げれば限がない。とにかく、この訪問リポートと掲載した概念図を拝見した上で、興味を持たれた方には迷わず訪問をお薦したいのである。集落の中心部を走る道路からは、墓参道を利用して上れば直ぐにでも到達可能であり、この圧倒的お手軽感も加味すれば、山城ファンの方だけに止まらず、是非一般城跡ファンの方にも、城跡としての機能を失った時からそのまま現在に至ったと見受けられる、残存度の高い城跡遺構を、機能を想像しながら見て回って頂きたいと思うのである。

10_nisi_daihorikiri_1 西堀切見所

15_waki_kaku_1_2 中郭群

17_kita_tatehori_2 北空堀見所

21_ido_1 井戸跡見所

42_minamikaku_dorui_1 南郭大土塁見所

36_higasi_horikiri_1 東大堀切見所

38_kita_daidorui 北空堀と大土塁見所

それにしても丹後地方における山城の屹立する高い切岸の存在感は凄いし、圧倒的インパクトを誇るものとなっている。個人的に城跡を評価すれば、訪れて期待を裏切られるとは決して思われない、正に推奨に値する城跡と言う事になろうか。

2010年5月22日 (土)

万願寺城跡(京都府亀岡市)

城跡は亀岡市西別院町万願寺岩ヶ谷にあって、「別院中学校」の真西側にある「積善寺」直ぐ西側の丘陵上先端に位置している。城史に関しての情報は現状皆無に近く、詳細は不明でもあるが、この山城は後述する様に非常に小規模なもので、村の砦の域は出ず、個人的にはリポート掲載するか否かで多少迷ったほどの城跡でもある。事前に得た情報では、丘陵先端部が城跡と聞かされていたので、まず間違いは無いものとは思われるが、遠く北山上には城域限界としての山上郭があったとしても不思議はないだろう(推察)。個人的にはかつて豊岡市丹東町にある坂津城、河本城をリポートした事があったが、この山城も規模が小さい(堀切及び郭切岸は明確に存在)事から、出城程度の城跡を覗いただけで、本来の山上本郭群を見逃していた可能性もある事から、現在でも追跡リーサーチはしているものの、未だ確認までには至ってはいないのが現状でもある。

1_1 登城ルート

1_2 南より遠望

7 登城口となる積善寺

訪問結果としては、尾根先端部に30mにも満たない削平地が存在する物見郭、あるいは狼煙台程度の規模であり、その北背後には明確に窺われる、尾根を断つ土橋を付随した片堀切が備わる程度で、自ずと縄張り妙味はなく、見応えもほとんど感じられない城跡ではある。ただ今まで個人的に頂戴したメールの中では、京阪神側から亀岡周辺までは、山城巡りとして足を延ばす方が多く見受けられた事、あるいは京都市内及び阪神側からも比較的訪ねやすい位置にある事から、とりあえず亀岡市内にある山城のリポートは必要だとも思えたので、今回のリポート掲載と相成った訳ではある。今回は亀岡市内に現存する山城に興味を持たれていた方、あるいは京阪神在住で、今までこの山城の所在地を掴めなかった方だけの為に、このリポートが少しでも役に立ったのであれば良しとしたい。

13horikiri 13horikiri_2 土橋付き片堀切見所

18_sanjyou_2kaku 20_shukaku 山上郭の現状

城跡を訪れるには、スタート地点によっては色んなルートが考えられるので、ここでは割愛させて頂くが、池田から亀岡まで繋がる摂丹街道とも呼ばれる、国道423号を利用して向えば「関西カントリークラブ」の数百m南の信号より、一般道733号へ針路変更するルートが一番分かり易いとは思われる。目印とするのは別院中学校で、この付近まで到達すればルート図からも寺院の位置は確認しやすいとは思われる。寺院(無住か?)には駐車場もあるので車はそこに預け、寺院北背後の谷状地形を山道に沿って上ればよい。少し上れば適当な箇所から左手斜面に取り付いて藪漕ぎ(数m)直登すれば、5分とかからず堀切付近には到達可能となっている。

2010年5月20日 (木)

中山愛宕城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は兵庫県豊岡市但東町中山にあって、既にリポート掲載を終えた中山城とは川を挟んだ東側の対岸に位置しており、現在その山上には小さな愛宕神社社殿が建立されている。この城跡も但東町に存在する多くの山城と同様に、城史に関しての情報は皆無に近いものであり、現状詳細は不明でもある。ただこの但東町にあっては、亀ヶ城を居城とした太田氏の支城群でもある岩吹城、あるいは仏清城なども含めて、山城としては比較的見学し易い状態にある事、更に見応えのある遺構群、あるいは現存する判別し易い遺構などを加味して、是非訪問をお勧めしたい山城としてリポート掲載に及んだ。

城跡を訪れるには、ルート図を参考にして先に触れた中山城を起点とすれば、位置確認は容易いとは思われるが、県道2号線沿いにある石灯篭を目印(画像に注目)とすれば更に分かり易いだろう。この付近には広い路肩スペース(画像に注目)があるので、車の駐車には難渋しないとは思われるが、ここから概念図の如く参拝登山道まで歩いて向かい、そこから山道に従って上れば、迷うことなく神社を経由して山上主郭まで(15分程度)は辿り着ける筈である。

1_2 登城ルート

5_2 進入口

1_2_2 城跡概念図

現状(四月)城跡は、比較的見学し易く見て回りやすい状態にあり、枝尾根の先端部を含めた全てを踏破した訳ではないが、概念図に示したまでが踏破確認出来た範囲、あるいは外見から判別確認可能な遺構と思って頂ければ良いだろう。郭内に備わる土塁は目には留まらなかったが、堀切、縦堀、高低差を伴う切岸跡などは充分な見所遺構とは思えた。中でも登山道中最初に目にする事の出来る、自然地形を利用したと思われる二連の縦堀を含む巨大空堀地形は、現状参拝道の為に歩き易く多少埋めたものとは目に映ったが、相当な見応えが感じられるものであり、縄張りとしては、その南、北に備わる虎口を含めて、城跡にとって一番防備の要とした部分であるようには窺われた。ここを含めて概念図に示した堀切遺構は合計六箇所に及ぶが、何れも見応えのあるものなので決して見逃してはならない。この山城は縦堀、箱堀、薬研堀、二重堀切、と、構築形態の違う空堀が全て備わっており、自分も含めた山城ファンにとっては、山城冥利に尽きるとも言える城跡と目には映ったのである。とにかく山城としての見応えはもちろん、醍醐味あるいは魅力には事欠かない、見所満載の城跡である事だけは確かである。

9_demaru_koguti_kyodaoi_karabori 南虎口跡から望む巨大空堀地形見所

10_daikarabori_2ren_horikiri 二連の堀切(縦堀)見所

13_minamikaku_koguti_1 南郭虎口見所

16_nisikaku_3 西郭

20_hakobori 箱堀見所

22_tyuuou_horikiri 中央堀切見所

28_shukaku 主郭の現状

30_higasi_daihorikiri_2 主郭背後の大堀切見所

この山城へは、確かな参拝登山道が社殿まで通じている(主郭へは直登)ので、山城ファンの方々はもちろん、一般城跡ファンの方々にも是非訪れて頂きたいと思うのであるが、くれぐれも、規模の大きい社殿敷地までが本来の城跡ではなく、そこから更に東側尾根の主郭背後に至るまでが、最も城跡として醍醐味が感じられる部分なので、是非ここから直ぐにでも到達可能な、更に山上主郭までは足を延ばして頂きたいと思うのである。

2010年5月18日 (火)

蛇ヶ尾城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市関宮町三宅にあって、既にリポート掲載を終えた但馬八木城の登山口からは車でほんの少し西へ移動した程度の距離にあり、集落の北背後に聳える山上に位置している。位置関係からも八木城の出城とも窺えようが、城史に関しての詳細は不明である。

城跡を訪れるには但馬八木城を起点とすれば分かり易いが、ルート図の如く国道9号を西に向いて車を走らせ、途中から側道へ進入して大興比神社を目指せばよい。城跡への登山口となるのは神社から西へ少し移動した位置にある、概念図に描いた防火用水(進入口の目印)からで、ここから沢筋に沿って(画像に注目)北へ上れば、道の途切れる砂防ダム手前までは難なく到達出来るだろう。ここからは沢を跨いで踏み跡の残る山道に従って上れば、迷わず山上郭群までは辿り着ける(15分前後)筈である。

1_1 登城ルート

5 進入路

1_2 城跡概念図

現状(四月)城跡は植林地化されてはいないが、画像でお分かり頂ける様に木々は少なく、山上に佇めば下界の眺望は利き、更に山上郭における全体像の見通しも利く事から、現存する当時の遺構はほぼ判別確認可能とも言える、山城としては申し分のない良い状態にある。山上郭群の規模は非常に小さいものであるが、物見程度の規模の主郭に三段程度の小郭が付随する、砦と呼ぶに相応しい山城と言えば未訪の方には分かり易いとは思われる。自ずと遺構にも余り期待は出来ないが、郭跡を除けば主郭に僅かに残された土塁跡、高低差は余り無いが切岸跡、南側に刻まれた片堀切跡が、ここが山城である事を物語る唯一の材料と言えるものになっている。主郭北側には尾根を断つ土橋を伴う空堀地形も窺われるが、地形に任せて両岸を削り落とした程度の土橋であり、防備としては余り役には立っていないものの様にも感じられた。主郭背後に備わる土塁底部に僅かに石垣痕が窺えたが、これが当時のものかどうかは掘り起こして調査をしない限り判別は難しいだろう。

9_saigedan_kaku 南最下段郭

12_heki 山上郭側

15_horikiri_dorui_1 堀切土塁見所

17_shukaku_1 主郭内

18_dorui_1 主郭土塁見所

城跡を個人的に評価すれば、遺構の見応えを求めて訪れたなら落胆する事は必至とも思えるのだが、風化はしているが当時のまま現在に至った、ほぼ手付かずの山城遺構が今そこにあると思えば、上ってまで窺う価値は充分感じられるのである。自分も含めて険峻な地にある楚々とした山城が好きな方には、間違いなくお薦め出来る城跡の一つと言えるが、これから山城を楽しみたいと思っておられる方にも、山上までは急斜面ではあるが、踏み跡を辿れば比較的上り易く感じられた事から、最初に山城を訪ねる第一歩として是非お薦めしたいのである。今となっては深い木々に遮られて、この城跡の様に山上から下界を望むことの出来る山城は非常に数も少なくなったが、山上から集落が見通せる事は遺構の有無を問わず、山城を楽しむ事の出来る立派な条件の一つなのである。

2010年5月16日 (日)

但東 出合城跡(兵庫県豊岡市)

この山城は豊岡市但東町出合にあって、険峻極まりない山頂に位置しており、当時における詳細は不明であるが、この但東町に存在する多くの山城が、当時亀ヶ城を居城とした太田氏の傘下にあった事を思えば、この城跡もその中の一つなのかも知れない。どちらにしても、街道が交わる要衝の地にある事を思えば、相当重要な城跡であった事は察せられよう。

城跡へ訪れるには、既にリポート掲載を終えた沢田城が直ぐ近くにある事からも、ここを起点とすれば分かり易いとは思われるが、京阪神側から向えばまず国道462号へ進入する事が先決となる。国道462号を走り続ければ自ずと国道482号と交わる「出合」交差点に到達出来るが、そこから直ぐ正面に望める険峻な山の山頂が城跡でもある。麓に大きな公共施設があるので、車はそこの大駐車場に預ければよいとは思われるが、ここからルート図に示した(画像に注目)如く、入山口となる沢沿いにある集合墓地まで歩いて向かい、更にその背後から西尾根に沿って、20分間ひたすら急斜面(藪漕ぎは無い)を上り続ければ、間違いなく当時のままの遺構を今に伝える、山上郭群と遭遇出来る筈である。

1_1 登城ルート

4 城跡遠望

7_tyokuto 進入直登口

1_2_2 城跡概念図

この山城は城史に関しての情報も皆無に近く、訪ねる山城ファンも少ないものと見受けられたが、個人的に現状を見た限りでは、後世において余り人の手が入っていないとも窺えるものであり、城跡としての機能が終わった時点より、遺構はそのまま現在まで至ったものの様に感じられた。よって遺構残存度は抜群に高いものであり、残存している遺構群も素晴らしものと自分の目には映ったのである。その中にあって特に目を引いたものは、主郭背後をつ三重堀切で、現状(四月)画像でお分かり頂ける様に、全体像が窺えるとても良い状態が保持されており、堀切間の櫓台とも見受けられる土塁郭、あるいは空堀が縦堀に繋がる様は非常に見応えも醍醐味も感じられた堀切と縦堀まで併せた空堀群は概念図に示した通り、現状でも数多く地形から窺う事が出来たが、見逃していた部分も思えば、小規模な山城には似つかわしくない、妙に技巧的な城跡と言う事にはなるだろう。規模も見応えも此方が相当勝るとは思われたが、似通った形態でもある、既にリポート掲載を終えた丹波「石生西河原城」が直ぐ思い起こされてしまった。尚、西山上に向う斜面には堀切が施されていたが、更にその先の山上まで辿り着けば、ある程度下界の見通しが利く規模の大きい山上郭群に辿り着けるので、この山城の縄張りを把握したい方には、是非ここまでは足を延ばして頂きたいと思うのである。もちろん削平地が窺われるだけに止まるのではあるが、、、

15_kita_horikiri_dorui_1 北尾根側の堀切

21_higasi_kaku_gun_1 東郭群

23_dorui_kaku 主郭北側の土塁跡見所

23_shukaku_dan 主郭内の段差

25_3ren_horikiri_naka_dorui_2 三重堀切見所の中土塁

27_dai_dorui_kaku 三重堀切見所の土塁郭壁

35_nisi_sanjyoukaku_1 西山上郭

城跡を個人的に評価すれば、地形に任せて削平された形態からも、郭間に施された切岸の醍醐味には触れる事は出来ないが、これぞ山城と呼べる険峻さを誇る城跡でもあり、山上までは多少時間は要すが、この三重堀切を目の当たりにすれば、辛い登山も直ぐ過去のものとなる様な気はしたのである。険峻な山城に登り慣れていない、一般城跡ファンの方には少しお薦めし難いが、山城ファンの方には是非お薦めしたい城跡の一つである。

2010年5月14日 (金)

小峠城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町明石にあって、先にリポート掲載を終えた愛宕山城から見れば、北端の古墳群から直ぐ東側に望める位置にあり、その低丘陵上の先端部が城跡となっている。城史に関しての詳細は不明であるが、明石城あるいは愛宕山城との位置関係から考えても、その出城機能は推察出来そうには思われる。

城跡へ訪れるには、ルート図を見れば直ぐお分かり頂けようが、先に触れた二城を起点とすれば、その位置の確認は容易いものとは思われる。以前紹介したこの周辺の山城をまだ訪れていない方には「作山古墳」、あるいは「蛭子山古墳」を目指して車を走らせれば、難なく辿り着けるとは思われるが、城跡への進入口も概念図を参考にして頂ければ、車を路駐した場所からは直ぐにでも到達可能となっているので、非常に訪れやすい城跡と言う事にはなるだろう。

1_1_2 登城ルート

4 城跡遠望

1_2_4 城跡概念図

この城跡は、外見あるいはルート図から直ぐ判断出来るように、直ぐその脇を走る道路は近年造成されたとも見受けられるものであり、城跡の南側における当時の縄張りは、ほぼ見た者の想像に委ねられるのが現状となっている。ただ見る限り、主郭から南側にかけての遺構は削られて消失した可能性はあるが、他の北側に展開される遺構群は、ほぼ当時のままとも見受けられるもので、郭を形成する美しい切岸は未だ健在、更に郭跡も一部を除いては比較的状態が良いものであり、主郭周辺だけに限れば縄張りはほぼ掴める状況にあると言っても良いものである。取り合えず概念図には判別確認可能な遺構も含めて、見たままの状態を記したが、インパクトのある深い堀切は施されておらず、当時を物語るものは郭跡と切岸跡だけと言った処が現状でもある。城跡西端側には、現在では切り通しを挟んで西出郭とした形で住宅背後まで郭跡が迫っているが、これが当時の堀切か否かの判断は、見た者の想像に委ねられるだろう。個人的には必然性から考えて、出郭を遮るべく当時の堀切として間違いないものとは思えたが、、、

10_nisikaku_2

西郭

12_nisikaku_yori_higasi 西郭より主郭側

15_shukaku_kita_heki_3 15_shukaku_kita_heki_1 主郭北側の美しい切岸見所

16_kitakaku 北郭

18_kita_obi_dan 北側帯郭

城跡を個人的に評価すれば、道路沿いから直ぐにでも到達可能な圧倒的お手軽感は、城跡を訪れるにあたっては非常に有利な条件の一つでもあり、多少の地形改変はあったとしても、これだけ当時の遺構を拝める事が出来るのであれば、充分観賞に耐えられる城跡とも自分の目には映ったのである。先に愛宕山城を訪れた方には、決して無駄足に終わるとは思われなかった事からも、是非足を向けて頂きたいと思うのである。

2010年5月13日 (木)

明石愛宕山城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町明石にあって、既にリポート掲載を終えた、明石城塞群北城(便宜上)とした城域の、集落を挟んで東側の低丘陵上に位置している。前回の明石城訪問後に、この巨大城塞群はまだまだこれだけで終わるとも思われなかった事から、再び当地を訪れて未踏地に当たる箇所の探索となった訳であるが、予想通り、しかも城址標柱まで設置された城跡と遭遇する事になった。もちろん城址標柱に「明石愛宕山城」と記されてあったので、そのままの呼称で掲載に及んだが、機能からすれば明石城塞群の支城として考えれば良いのかも知れない。この城跡も明石城同様に情報は皆無に近いものであり、城史に関しての詳細は不明。

1_2_3  登城ルート

5 城跡進入口

1_1 城跡概念図

城跡を訪れるには、明石城を起点とすれば直ぐお分かり頂けるとは思うが、ルート図の如く赤線を辿れば迷わず辿り着けるだろう。進入口となるのは概念図(画像に注目)に示した「明石ハイツ」の東向い側の山道からで、空堀道(現状)を通過して右手に向えば、直ぐにでも虎口に設置された城址標柱が目に留まる筈であり、この虎口から左右に広がる高低差のある切岸からも、スケールの大きい館城は直ぐ想像出来るものとは思われる。

10_koguti_1 虎口見所

12_heki 虎口西切岸見所

15_shukaku 主郭の現状

16_shukaku_dorui 主郭大土塁見所

17_horikiri 堀切見所

18_horikiri 主郭背後の切岸(堀切側)

20_higasi_karahori_dorui 東空堀土塁跡見所

現状(四月)縄張りと察せられる全域が自然任せの荒れ放題と化しているが、雑木密生までには至っていないので、歩き回れば遺構の判別確認はほぼ可能とは思えた、しかし縄張りに関しては、主郭周辺を除いて北側丘陵上は、恐らく近世において農地として転用されたものとも窺えるものであり、見た者の想像に委ねられるのが現実でもある。とにかく主郭から北側に向うほど自然風化も激しく低草木も蔓延り、地形から当時の郭形状、あるいは縄張りを想像するのは非常に困難を有する状態となっている。その中で見所を挙げれば、丹後地方の山城では通常とも言える、郭を形成する高低差のある直立に近い切岸、あるいは深く掘削された堀切は真っ先に挙げられるが、他の主郭南端に備わる大土塁、東側には埋もれて浅いが空堀跡?、それに付随する土塁なども充分目は楽しませてくれよう。概念図には地形が複雑すぎて描ききれなかったが、北端には内壁周囲が切岸化された広い削平地も窺えたので、これを機に訪れる方はついでにこの付近までは是非足を延ばして頂きたいとは思うのである。個人的にはこの城跡の規模、あるいは縄張りから考えても城域は広いものであり、この周辺の地形が当時のままの状態であるのなら、当然出郭跡地と考えても良さそうには思えたのである。

個人的に城跡を評価すれば、状態は決して良いとは言えないが、無難に薦め出来る城跡と言う事にはなろうか、、、まだ未訪の方には明石城は言うまでも無いが、後で掲載予定の「小峠城」との同日訪問は、是非お薦めしたい処ではある。

2010年5月11日 (火)

神谷城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市夜久野町額田神谷にあって「下夜久野駅」から牧川を隔てた南西側の丘陵上に位置しており、先にリポート掲載を終えた荒神城あるいは鳴岩城側からも充分望む事が可能な位置にある。城史に関しては不明

城跡を訪ねるにはルート図の如く、国道9号沿いにある「下夜久野駅」の西側の交差点から踏切を渡って「善照寺」を目指して向えばよいが、登城口となるのは概念図に示した墓地からで、この墓地石段を利用してそのまま尾根上に向いて踏み跡を辿れば、10分程度で山上主郭までは辿り着けるとは思われる。

1route 登城ルート

6_tozanguti 登城口

3kami 城跡概念図

上り出せば直ぐにスケールの大きい片堀切(画像に注目)が左手側で目に留まるが、必然性から堀切と思えたのであり、これが当時のままの遺構だと言う確証はないので、見たままを楽しめばそれで良いとは思われる(当時のものなら「凄い!」と言う表現がピッタリの遺構)。それを過ぎれば郭跡地の転用とも思える配水施設(廃屋)を通過し、更に連続する、移動尾根に沿って上れば、ほぼ二段で成立した段郭が最初に迎えてくれる手筈となる。城跡の形態としては、尾根上を地形に任せて削平し、本郭部の郭壁は切岸とし、主郭の南北を堀切で断ったほぼ三郭で成立したものであり、直線的で単純過ぎる形態の為に、縄張妙味には随分欠ける山城と言う事になるかも知れない。小規模である事からも、出城あるいは砦機能として考えれば良いものとは思われるが、見所としては明確に判別可能な遺構でもある、南北に横たわる堀切はまず挙げられようが、個人的には少々地味な存在ではあるが、木々の少ない斜面を下まで鋭角に落ち込む状態の良い切岸(画像に注目)が一番眼に焼きついた。他では主郭端に僅かながら土塁跡が窺われ、南側痩せ尾根上に沿って、連続した削平地が目に留まる程度と思って頂ければ良いだろう。

9_dai_karabori_2 当時の遺構なら凄い片堀切見所

15_kita_2dankaku_1 北二段郭、奥堀切

17_horikiri_1 北堀切見所

19_shukaku 主郭内

23_heki 主郭切岸見所

20_minami_horikiri_dorui_1 南堀切、土塁見所

現状(三月)城跡は植林地化されているので比較的見通しは利き、雑木が余り蔓延っていない事、あるいは城跡がコンパクトな縄張りである事も相俟って移動もし易く、山城としては比較的見学し易い良い状態にある、恐らくこれから四季を通してこの状態は自然保持されているとも思われるので、見応えのある遺構は少ないが、先に触れた二城と併せた山城巡りとするのであれば、充分訪問はお薦め出来そうには思われた。

2010年5月 9日 (日)

伊賀 上山城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市川合/上山にあって、既にリポート掲載を終えた宮山城から見れば真南側の丘陵上に位置している。当時の城主としては河合氏が挙げられようが、城史に関しての詳細は不明でもある。

城跡を訪れるには、宮山城を起点とすれば分かり易いが、名阪国道を利用した場合、最寄の乗降口となるのは「壬生野」IC、下りればそのまま北上すればよいが、途中までは宮山城訪問ルートと同様なので、ここでは割愛させて頂く。分かり易い城跡への最短進入ルート、及び進入口(画像に注目)は概念図に示したが、和楽器店を目印とすればその北側にある畑地からとなる。ここからは巨大な空堀道が南郭まで繋がっているので、見学する上においては一番効率の良い近道とはなるだろう。もちろん和楽器店からは、民家の間をすり抜けて北へ向う山道らしきものがあったので、此方を利用しても城跡北端の空堀付近には、間違いなく到達出来るものとは思われるが、、

1_2 登城ルート

7 最短進入ルート

1_3 城跡概念図

この山城の形態は、伊賀においてはさほど珍しくはないものであるが、高土塁で囲まれた郭跡(居館跡)が二つ堀切を挟んで繋がった、ほぼ二郭で形成された城跡と説明すれば分かり易いかも知れない。ただ他の伊賀の城跡と異なる点を挙げれば、山城の形態に近いものがあり、麓に至るまでは数段の郭群が展開されている。高土塁上も規模の大きな郭として機能しており、その土塁郭上には更に防備としての土塁が施されている。更に要所に土塁を駆使して築かれた縄張りプランは、縄張り妙味にも満ち溢れたものであり、虎口を固めたもの、櫓台としての土塁、あるいは郭間の防備として施されたものと、見る者の目を楽しませてくれる事は請け合いとも思えた。更に丘陵上の全てが郭あるいは土塁で埋め尽くされており、その郭壁は直立に近い形の切り立つ切岸として、未だに存在感をアピールしている。

12 巨大空堀道見所

14_2ren_tatebori_1 二連の縦堀見所

19_minami_kaku_daidorui 南郭大土塁見所

24_minami_shukaku 南城主郭

39_tate_dorui 南城縦土塁見所

27_horikiri_1 中央大堀切見所

33_kita_shukaku 北城主郭

31_kita_karahori_2 北城空堀見所

40_shukaku_higasiheki 北城主郭切岸見所

城跡にあって最大の見所となるのは、先に触れた切岸もさることながら、南、北両主郭を分断した空堀(薬研堀)と、南側の大手と見受けられる位置にある巨大空堀道で、この二箇所の空堀は伊賀の城跡らしく深く刻まれたものであり、その様相は非常にスケールの大きさを感じるものとなっている。現状(四月)便宜上とした南城の藪化は相当進行しており、冬枯れしているとは言え、郭移動あるいは全体像の視認には中々難渋するのが現状でもあるが、逆に北城の方は植林地化されているお蔭で見通しも利き、非常に遺構も判別し易く見て回りやすい状況にある。概念図に示したものが個人的に判別確認出来たものになるが、この状況でも歩き回れば、ほぼ縄張りは掴める状態にあると言っても良いだろう。

城跡を個人的に評価すれば、伊賀の城跡(館城)にしては珍しいほど縄張り変化に富んでおり、山城としての醍醐味も遺構の見応えも充分過ぎるほど感じさせてくれている事からも、当然是非お薦め出来る城跡の一と言う事にはなるだろう。とにかく見所の非常に多い、見飽きる事のない城跡の一つでもある!

2010年5月 7日 (金)

須津城跡(京都府宮津市)

城跡は京都府宮津市須津/倉梯山にあって、国道176号線に架かる須津大橋の南側にあり、北近畿タンゴ鉄道「岩滝口駅」から見れば、南東側の丘陵先端部に位置している。当時は田辺氏の居城を伝えるが、この丹後地方の勢力のほとんどが一色氏の傘下にあった事を思えば、一色氏と同様に細川氏によって滅亡への道を辿らされたか、あるいはそれと同時に細川氏に下ったものか、どちらかである様には考えられる。詳細は不明

城跡へ訪れるには、先に触れた北近畿タンゴ鉄道「岩滝口駅」を目指し、城跡へ訪れるスタート地点ともなる須津姫神社を目印とすれば一番分かり易いと思われる。車で向うなら国道176号へ進入する事が先決となるが、ルート図に記した様に、国道からは須津大橋手前(西側)の側道より高架下を潜り、そのまま南下すれば迷わず神社付近までは到達出来る筈である。車はこの付近に自己責任において駐車するしかないが、ここから概念図に示した進入口(画像に注目)まで歩き、社殿背後から墓参道を利用して上れば、直ぐにでも高低差10m前後の切岸を伴う、凄い堀切が迎えてくれる筈である(神社から歩いても10分内)。

1_1_3 登城ルート

7 川沿いの進入口

1_2_5 城跡概念図

この山城も丹後地方においては珍しくはなくなったが、司令塔にも思える突出した高さに設けられた主郭を特徴としており、その周囲における切岸斜面は人馬も寄せ付けないほどの崖状斜面に近いものである。これだけでも見応えは充分感じられるが、主郭には櫓台土塁と呼ぶに相応しい、高低差を伴う大型の土塁も備わっており、その背後を断つ大堀切と並んで城跡最大の見所と言えるものになっている。

15_kita_horikiri_3 北大堀切見所

20_kita_dankaku_gun_1 北段郭群

25_shukaku_heki 山の様な主郭切岸見所

31_yagura_heki 主郭と櫓台大土塁見所

31_horikiri 南大堀切見所

33_higasi_kaku_sokuheki 東郭側壁

38 東段郭群の切岸

個人的には未だ鋭角な状態を保持しているこの堀切と北側の尾根を断つ堀切は、上ってまで窺うに充分な遺構と目に映ったが、形態そのものは単純な縄張りプランで築かれたものであり、特に縄張り妙味を感じるまでには至れなかった。しかし丹後地方における山城独特の形態でもある、突出した高さに位置する主郭、あるいは低山にありながら険峻さを誇るその様相は、山城としての醍醐味は充分満たしてくれるものであり、山城ファンの方に限って言えば、是非お薦めの城跡の一つと言う事にはなるだろう。ただ現状(四月)の、冬枯れ後にも拘らずこの荒れ放題の様相(移動にさほど難渋はしないが、低草木が相当蔓延る)は、一般城跡ファンあるいは史跡ファンには少し厳しいかも知れないので、中々お薦めし難いのも本音である。一言付け加えれば、梅雨から夏季にかけての訪問は厳しいものが予想されるので、出来れば避けた方が無難かとは思われる。

2010年5月 5日 (水)

白岩城跡(兵庫県養父市)

この山城は兵庫県養父市関宮町吉井にあって、地元では白岩台地と呼ばれる地に、未だ新旧の屋敷跡地が現存しており、その屋敷跡地から南西側に聳える低山の山上に位置している。この山城を居城としたのは、当時の城主としては但馬竹田城を本城として、養父地方一帯に威を轟かせた太田垣氏一族が伝わるが、秀吉による但馬征伐では山名氏同様に滅亡の道を辿った一族でもある。しかし難を逃れた一族の中、太田垣新兵衛が再び旧地でもあるこの白岩に居を構え(帰農)た事により、初代白岩家が始まったものと伝わっている。現在に至るまでこの山城跡及び広大な屋敷跡地を所有しておられる白岩氏はその末裔でもある。

1route 登城ルート

1 城跡遠望

1_3 城跡概念図1

10_yasiki_1 新屋敷跡地の現状見所

10

御屋敷跡地見所

2 屋敷跡郭壁の石垣跡見所

簡単に城史は述べさせて頂いたが、実際にはこの白岩氏と現地で偶然(土地所有者なので偶然は可笑しいが、、、)遭遇する事が出来、氏にまつわる色んな興味深い話を聞かせて頂いた。話が随分長いものになるのでここでは割愛させて頂くが、氏は既に仕事は引退されており、川を渡った麓の集落側に居を構えておられるが、白岩家として昭和後半まで生活が営まれていた屋敷跡地を、時間の合間に訪れて自分で保全管理するのが毎日の日課である事も分かった(画像を見ればお分かり頂けるが、素晴らしい状態!)。 結果的に氏には、山城の案内説明から始まって、御屋敷跡(白岩家旧屋敷跡地)に至るまでの見学の全てに付き合って頂き、感謝の言葉も見つからないのだが、この新旧屋敷跡から山城遺構に至るまでの状態の良い遺構群は、城跡に余り興味の無い方でも当時に思いを馳せる事は容易く感じられ、限りなく無名に近いこの屋敷跡を含めた城跡遺構は、個人的には何としてでも後世まで伝えて頂きたい思うのである。氏より伺うには、かつて市よりこの山城を史跡として整備する話も一度はあったが、知らぬ間に立ち消えてしまったらしい、、、  このブログをきっかけとして、これから山城ファンの方々が訪れ易いように、せめて案内標識の設置などを、失礼は承知の上で個人的にお願いしたのではあるが、これは城山所有者でもある氏に全てを委ねるしかないのが現実の様でもある。

2_2 白岩城跡概念図

20_koguti_isidan 虎口石段跡と石垣痕見所

22_isigaki 中段の石垣跡見所

23_kaku_heki_isi 郭壁石垣跡

30_shukaku_isi 主郭石垣跡見所

31_shukaku 主郭内

32_horikiri_3 堀切見所

40_kado_isi 北物見の石垣跡見所

この山城の特徴を挙げれば、山上郭群は詰城、あるいは物見程度の機能が想像される砦規模の城跡ではあるが、郭壁全体がほぼ石垣で構築されたものとも見受けられ、崩落石の多さ、あるいは郭壁随所に点在露見する石垣跡などからも充分推察可能ではある。概念図でほぼお分かり頂けようが、縄張り変化には富んでおらず、縄張り妙味にも期待出来ない城跡ではある。しかし先に触れた様に、無骨に積み上げられた石垣跡の見応え、急斜面に沿って下まで落ち込む体像が拝める縦堀、主郭背後の深く掘削された状態を未だに保持している、状態の良い堀切(薬研堀)が城跡最大の見所と見た!尚、屋敷跡地に関しては、概念図1の如く溜池傍を通過して向っても良いし、道路側から直接向っても良いだろう。氏の申されるには、旧屋敷跡地の一番広い空間が「御屋敷」と呼ばれた場所で、ここが当時の居館跡地と伝わっているそうである。郭壁随所に残る石垣跡が当時を充分窺わせてくれているが、この石垣跡も当時の状態のままと聞くに及んだ。火災によって屋敷が消失してしまったので、新しく西側の台地に新屋敷を築き、更に溜池も同時に築いたと伝わっているようである。

この城跡へは、この日最終となる訪城物件として何の期待もせずに訪れたのだが、予想を遥かに超えた残存度の高い遺構群には、帰宅時間も忘れてしまうほど感動を味併せてもらった。ほぼ無名に近い山城でもあり、城跡遺構の見応えにも多少欠けるかも知れないが、まだ未訪で少しでも興味を持たれた方には、是非訪問をお薦めしたいのである。尚、白岩台地(新屋敷跡)周辺で人を見かけたら、それは間違いなく城山所有者と思われるので、是非声をかけて入山して頂きたい。個人的に氏とは何時か再び訪れる事を約束して城跡を後にしたのではあるが、その時は案内道標が設置されている事を是非期待して訪れたいと思うのである。

2010年5月 4日 (火)

水呑城跡(京都府船井郡)

この城跡は京都府船井郡京丹波町水呑(ミズノミ)にあって、八幡山古城」の別称を持っている。個人的には何時もの如く所在地の確定はもちろん、何の事前情報も得られないままの現地訪問となったが、城跡を地元で尋ねれば、年配の方のほとんど(四人)は城跡の存在すら御存知ではなかった。しかし城跡の所在地でもある八幡山(標高427m)を訪ねれば直ぐに確認する事は出来たので、無名に近い山城訪問としては幸先の良いスタートを切る事が出来た。この経緯あるいは山容(凄い険峻)から考えても、山頂までの厳しい直登は直ぐに頭をよぎったが、取り合えず直登ルートは掲載したので、これから訪れる方は是非参考にして頂きたい。尚、城史に関しての情報は皆無に近いものであるが、直ぐ近くに山内氏の居城でもある三ノ宮城がある事からも、一応山内氏一族の居城(出城とすればその家臣)は伝わっているようでもある、詳細は不明。

1_2 登城ルート

4_1 登山口

城跡へ訪れるには既にリポート掲載は終えたが、三ノ宮城を起点とすれば直ぐに位置関係は把握出来るものとは思われる。取り合えず国道173号へ進入する事が先決となるが、国道9号が交わる和田の信号から5kmも走れば右折して、そこから八幡山を目指す事になる。国道沿いからでも遠くにあるその険しい山容(三角錐)は直ぐ目に留まる筈であるが、直登口はルート図に示したバス停向いの丘陵先端にある墓地(画像に注目)からで、そこをスタート地点として、更に尾根伝いに山頂に向いて上られる事をお薦めしたい。尚、最短ルートは本谷集落側の墓地背後からで、流石に等高線でお分かり頂ける(比高150m以上)様に、藪漕ぎはもちろん激斜面の厳しい直登は余儀なくされた。それでも20分内で山頂まで何とか辿り着く事は出来たが、、、

14_one_horikiriato 南尾根上の堀切の痕跡

13_minami_one_kaku 南尾根上の削平地

11_sanjyoukaku_3 山上主郭

現状城跡は、四月に入っても尚山上には残雪が少しあったが、京丹波でも更に北に位置する事や、この標高を考えれば当然の事かも分からない。個人的に山上主郭を見る限り、多少の段差や切岸跡が僅かに窺われる狭小帯郭は見止められたが、突出した形の山上にほぼ単郭で形成されている、砦規模の山城である様には見受けられた。ただ更に山頂から北へ下りた尾根上(状態が非常に悪い)、更に本谷側における枝尾根上までは踏破出来なかったので、遺構も決してこの限りとは思えないのだが、、、? 他ではスタート地点とした墓地側の尾根上削平地に、僅かながら堀切の痕跡が見止められたが、これも掲載した画像でお分かり頂ける様に、倒木や下草で判別もし難く、遺構としての判定は現時点では下せなかった。

今回の訪問リポートでは未踏箇所が多く残った事もあって、城跡としての評価はし難いものがあるが、個人的には少しでもこの山城に興味を抱かれていた方への現況報告、あるいは山城の所在地確認として役立ったのであれば良しとしたい。

2010年5月 2日 (日)

滝城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町滝にあるが、限りなく無名に近く、更に情報量の乏しいこの城跡を訪ねるにあたっては、所在地を確定するまでには、現地で随分無駄な時間を費やしてしまった。と言うのも、地元で城山を尋ねた方が悪かったのか、自身が城跡として目星を付けた反対の山を自信を持って指差されたので、迷わずそちらの山へ向ったのである。

最初に地元で聞き及んだ情報によれば、山上には無数に石垣跡が残っているとの事でもあり、期待に胸を躍らせながら上ったが、上れど上れど郭跡も石垣も目に留まらず、止む無く途中で山を下りて、結果的に最初に目星を付けた山に一か八かでトライしたが、やっとその山上で素晴らしい城跡遺構と遭遇する事が叶えられた。これからこのブログをきっかけとして訪城される方には、地元で訪ねなくともピンポイント上れる様に、所在地と入山口をルート図に記したので是非参考にして頂きたい。尚、城史に関しての情報としては、唯一加悦(有吉)城を居城とした石川氏の居城が伝わるのみでもある。

1_1 登城ルート

6_3 入山口までの進入路

1_2 城跡概念図

城跡へは既にリポート掲載を終えた明石城、温江城などと同じ訪問ルートで訪れる事が出来るが、まず国道176号に進入する事が先決となる。ルート図を見れば直ぐお分かり頂けるとは思われるが、与謝野町に入れば701号へ針路変更して城跡へ向えばよい。城跡のある山上まで上るには、開閉フェンスのある入山口は城跡の北麓に一つしかないが、民家脇から入山口まで到達可能な確かな山道(画像に示した)があるので、それを利用すれば迷わず辿り着ける筈である。入山口からは急斜面の直登となるが、比較的上り易い状態となっており、麓の墓地付近から山上郭までの所要時間は、10分程度と思って頂ければ良いだろう。

現状(四月)城跡は、縄張り全域が植林地ということもあって、山上郭群の見通しは利き、現存する遺構は全て判別可能な、見学し易く見て回り易い、山城としては非常にレベルの高い状態にある。未だに随所に残された石垣跡や郭跡に散らばる崩落石の多さも加味すれば、当時は総石垣城をも想像させてくれそうには思われた。

17_ooisi 矢穴跡見所

20_sanjyou_higasikaku_heki 山上郭の切岸見所

25_higasi_isi 東郭外壁底部の石垣跡見所

29_isi 中央虎口の石垣跡見所

35_naka_kaku_1 中郭大土塁見所

44_kita_gedan2 主郭北下段郭壁

35_naka_kaku_1_2 中郭より東郭

38_sita_horikiri 西堀切見所

45_sita_yakenhori_1 51_yakenbori_gawa_2 北大堀切最大見所

この山城の見所及び醍醐味は、山上郭群の切岸から一気に麓まで落ち込む、未だ比類なき美しさを誇る切岸にあると言っても過言とは思えないものであり、当時に思いを馳せる事の出来る、スケールの大きい二本の薬研堀(正しくV字形)あるいは郭壁随所に露見している石垣跡と並んで、城跡の白眉と言えるものになっている。規模自体は山上郭の全長が70mにも満たないものであり、砦規模の山城と位置付け出来るのかも知れないが、この石垣から始まり大土塁、堀切に至るまでの練られた縄張りプランは、充分本格的普請が窺われるものでもあり、山城フアンだけに限らず一般城跡ファンの方にも是非、この山城に残された石垣跡や山城を形成すべく本来の姿に近い堀切、あるいは切岸の醍醐味を味わって頂きたいと思うのである。個人的には史跡としての価値も遺構としての値打ちも相当なものと見たが、、、、

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