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2010年4月

2010年4月30日 (金)

音羽氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市音羽にあって、ルート図でお分かり頂ける様に先にリポート掲載を終えた音羽北城から見れば直ぐ東に聳える山の山上に位置している。当時は音羽半兵衛の居城を伝えるも、城史に関しての詳細は不明である

1_1 登城ルート

4 登山口

1_2 1_3 城跡概念図

城跡へ向うには道路沿いのルート図(画像に注目)に示した場所から、登山道が山上主郭まで繋がっているので、10分もあれば迷わず辿り着けるだろう。現状(三月)山上郭群の主郭だけに限れば、木々も伐採されて下界の見通しは利く状態にあり、地元で聞き及んだ通りに最近桜が植樹されており、史跡公園あるいは地元の方の憩いの場として生まれ変わろうとしている事は充分窺えた。もちろん木々の伐採される以前を知らないので、ビフォアー、アフターとして比べる事は出来ず、現状の見たままをリポートさせて頂くのだが、概念図に示した遺構群は崩落石も含めて、残存大石垣跡、主郭三方を囲む大土塁、その周囲における切岸跡、空堀と言った具合に、明確に判別確認可能であり、山城としてはこれ以上望めない非常に良い状態にある。流石に櫓台周辺は風化、あるいは石垣の崩落が激しく、地形からその当時の状態を想像するのは至難の技とも思えたが、二段程度の郭段差は推察出来そうには思えた。その櫓台北背後には僅かながら空堀跡も窺え、土橋状の仕切り土塁から更に西側の斜面に空堀跡も窺う事が可能である。

8_koguti 大手虎口側

12_koguti_isigaki 虎口石垣見所

16_nisi_dorui 櫓台より主郭

16_nisi_kadoisi土塁 内壁の隅石見所

19_kita_heki_isi 櫓台内壁

21_nisigawa_heki 主郭西切岸見所

26_karabori_1 空堀見所

城跡最大の見所を挙げれば、やはり大石を使用して築かれた石積みに尽きるとも言えるが、主郭大手にはかつて櫓門でも存在していたかの様な石垣跡(画像に注目)が虎口を形成しており、未だ隅石と共に現存している。主郭三方を巡る土塁内壁には、そのまま土に埋もれたままの石垣もあるが、随所に石垣跡は露見しており、使用された巨大な大石がこの山城の特徴となって、更にその醍醐味に華を添えた形となっている。

城跡を個人的に評価すれば、遺構が目白押しの城跡ではないが、未だ現存する石垣跡、内壁を石垣で構築した堅固な様相、山上に佇めば南麓の集落までが一望出来る状況などを含めれば、自ずと当時に思いを馳せる事も可能であり、当然是非お薦め出来る山城と言う事にはなるだろう。

2010年4月29日 (木)

音羽北城(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市音羽にあって、次でリポート掲載予定の音羽氏城から見ればルート図の如く真西側の丘陵先端に位置しているが、訪問結果としては音羽氏城の出城機能?を持った城跡の様にも窺えた。城史に関しての詳細は不明

城跡へ訪れるには、スタート地点によれば様々なルートが考えられるので、ここでは割愛させて頂くが、音羽地区の道路沿いにある「西音寺」を目印として目指せば分かり易いだろう。この音羽地区には先に触れた音羽氏城も隣接している事から、自ずと二城同日訪問は考慮に入れたい処ではある、個人的には先に北城に寄り谷状地形を越えて、そのまま東側の斜面に取り付き最短ルートを直登したが、山上へ到達するまでは藪漕ぎを強いられた事からも、これから訪問される方にはどちらを先に見学したとしても、ルート図の如く一旦城山を下りて少し遠回りにはなるが、無難に山道から向われる事をお薦めしたい。概念図(画像に進入口)に記した山道から向えば、5分もあれば迷わず辿り着けるとは思われる。

1_1 登城ルート

4_yamamiti 道路沿いからの進入口

3ok 城跡概念図

城跡の形態としては北端に堀切を備え、丘陵上ほぼ二郭で形成されているものであり、現状(三月)判別確認可能な遺構群は概念図に示したが、この城跡には未だ主郭を巡る土塁内壁、櫓台土塁内壁、あるいは郭外壁随所に石垣痕が残っており、数百年に渡る風化及び相当な堆積物(4~5m前後)を考えれば、小規模な城跡には似つかわしくないものでもあり、当時においては充分石垣城が想像されるものでもある。現状だけを単純に窺えば、崩落石の状態からも土留め石程度にしか見受けられないが、櫓台内壁あるいは土塁底部を掘り起こせば、まだ石垣が眠っていそうとも思えるのである。見所はもちろん郭周囲を巡る土塁及び石垣跡(石垣痕程度)と言う事にはなろうが、主郭櫓台北背後には埋もれて浅くはなっているが、土塁を挟んで二連の空堀跡も充分目を楽しませてくれている。全体の状態は人の手が入らず自然任せの藪化は相当進行しているが、遺構はほぼ完存とも見受けられる状態で自然保持されており、郭内は雑木(枯れ木)によって多少見通しは利き難いが、小規模な事も手伝って移動に差し支えるまでには至ってはいない。少なくとも個人的に概念図に示したまでの遺構は全て確認出来る筈である。

7_kita_horikiri 北端の堀切

12_karabori 主郭背後の空堀見所

14_yagura_dorui 櫓台大土塁壁見所

17_isi 石垣跡見所

19_nisigawa_dorui 土塁壁の石垣痕

20_nisi_gaiheki_isi_1 土塁西外壁の石垣跡見所

城跡を個人的に評価すれば、郭総全長50mにも満たない砦規模の城跡ではあるが、現存する遺構群から当時に思いを馳せる事も容易く、車を停めて5分程度で主郭まで到達可能なお手軽感、更に遺構残存度も含めて、後でリポート掲載予定の音羽氏城も併せた同日訪問とすれば、間違いなく薦め出来る城跡と目には映った。もちろんこの二城を見学する事によって、音羽地区に築かれた二城の本質が見えてきそうに思われるのは言うまでもないが、、。

2010年4月27日 (火)

夜久野 西山城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市夜久野町大油子西山にあって、先にリポート掲載を終えた秋葉城から見れば北西側に聳える標高240m(比高100m程度)の山頂に位置している。秋葉城と呼応し合いながら谷筋を挟んだ形態は自ずと二城の関連性は窺われるも、秋葉城と同様に情報は皆無に近く、推察の域は出ないものでもある。城史に関しての詳細は不明

城跡へはルート図の如く秋葉城あるいは段城を起点とすれば判断は付き易いが、秋葉城直登開始地点より少し北に向いて歩けば直ぐ神社が目に留まるが、その社殿背後の谷状地形をそのまま直登し、途中から勾配がきつくなれば左側の尾根に沿って上り、それを上り切れば山上郭群には迷わず到達可能である。きつい斜面を直登する事にはなるが、神社から15分程度あれば山上郭が歓迎してくれる筈である。尚、下山時においては真南の尾根先端部にある墓地に下り立ったが、こちらから上る方が激斜面でもあり、相当きつそうに感じられたので、これから臨まれる方には分かり易い神社背後からの直登ルートを選択される事をお薦めしたい。

1_akiba_2_2 登城ルート

4 城跡遠望

1_2 3nis 城跡概念図

12_nobori_dorui 上り土塁虎口見所

17_minami_dankaku_1 南段郭群

20_shukaku 主郭内

23_sita_horikiri_1 堀切見所

26_toutan_horikiri_ato_1 最北の堀切見所

現状(三月)城跡は、ほぼ全域が植林地化されており、間伐も行われているので見通しも効き、非常に見学し易い状態にあるが、見所と言える箇所は少なく、最北の尾根を断つ二連の堀切、切岸跡、上り土塁虎口挙げられる程度でもある。その中にあっては折れの生じた上り土塁虎口は空堀状の部分が武者隠しに見えなくもなく、その機能を想像するだけで充分楽しめそうには思えた。個人的に一番見応えを感じた部分は、険峻な山上を削り落として築かれた切岸で、主郭両サイドから切岸が崖状急斜面として落ち込む様、あるいは堀切の堀底部まで落ち込む様は、木々の少ない斜面においてはその全体像が窺えるものでもあり、険峻な山上に位置したこの山城の風情を楽しむ分には最適かとも感じられた。技巧を有した遺構はほとんど目に留まらず、縄張り妙味に満ち溢れた城跡とは言えないが、大油子地区に存在する山城巡りの一環とすれば、決して欠かす事の出来ない山城である様には目に映ったのである。

2010年4月25日 (日)

秋葉城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市夜久野町大油子にあって、集落に向いて北側から枝状に突き出した、数多い枝尾根の一つでもあるその丘陵先端に位置している。名が語る様に近年までは秋葉神社が存在していたのかも知れないが(現在山上には社殿跡はない)、その痕跡かどうかの判断は非常に難しいが、一部に石垣跡が見受けられたのでほぼ間違い無いものとは思われる。結果的にルート図中に示した「西山城」との位置関係、立地環境を考えれば、自ずと二城の関連性は充分窺えるが、その二城共に城史に関しての情報は皆無に近いものであり、各々で推察して頂くより他ないのが現状でもある。

城跡へ向うには既にリポート掲載を終えた、高内城あるいは段城などを起点とすれば分かり易いだろう。ルート図に示した四城共に、個人的には同日訪問の山城巡りとして赴く事が出来たが、遠距離訪問でもあり早朝に自宅をスタートしなければならなかった。京都府あるいは兵庫県でも北に在住の方であれば、余裕を持って日帰りで臨む事が可能であり、この四城は移動距離も少なく山上郭までの到達時間も少ない事、更にその形態の違い(山城、丘城、館城)から縄張りの違いに至るまで、中世山城の風情を含めて堪能する事が出来ると思われた事からも、この四城は大油子地区の山城巡りとして、是非お薦めしたい物件ではある。特にこの秋葉城は小規模ではあるが残存状態は抜群であり、遺構残存度も完存に近いものなので、単独訪問としても是非お薦め出来る城跡と目には映った。

1_akiba_2 登城ルート

5 城跡直登ルート

1_akiba_3 城跡概念図

8_tatehori_1 南斜面の縦堀見所

24_nisi_koguti 西側空堀状の虎口か?見所

14_shukaku 主郭内

20_dobasi_horikiri_3 20_dobasi_horikiri_4 土橋付き堀切見所

23_nisi_une 畝堀か?見所

この城跡は概念図(画像に注目)に示した付近から激斜面を上れば、直ぐに豪快な縦堀(材木切り出し道の可能性もあり)に遭遇出来るはずである、ただこれが当時の遺構かどうかの判定は難しいが、、、縦堀に沿って上れば5分程度で山上主郭までは到達可能である。尚、下山時には踏み跡程度の山道から、南東側にある民家の敷地をかすめながら非常にややこしい道を下りたが、地元の方に尋ねれば上り口を教えてもらえるかも知れないので念の為に、、、、現状(三月)山上郭群は全て植林地化されており、先に触れた様に山城としてみればその状態は非常に高いレベルにあり、ほぼ単郭構造と言える郭全体像の見通しは利き、切岸跡、土橋付き堀切、大土塁、空堀、縦堀、虎口郭といったものは、全て判別確認可能な状態にある、自ずと当時に思いを馳せる事もロマンに浸る事も容易い様には感じられたのである。他では東西斜面上(概念図に記した)に畝堀とも見受けられる縦堀の痕跡が数箇所で窺われ、長年における地表風化も重なり判別は非常に難しく思えたが、個人的には連続した土塁のコブがある事、城跡の形態、あるいは縄張りにおける必然性を考えた上で、充分畝状空堀群と考えても良さそうには思えたのである、、、結果的には想像も含めて思った以上に楽しめた城跡の一つになった。

2010年4月24日 (土)

小田宿野城跡(京都府宮津市)

この山城に関しては、前回中津山城を訪れた際に地元の方より「ここより更に原発側に向えば当時小倉氏の居城と伝わっている小田宿野城がある」と言った情報を得た事から始まるが、その時は詳しい所在地も分からぬままであった事から、今回の宮津地方の山城巡りの中では是非探して訪れるつもりでいた。城跡の位置は既にリポート掲載を終えた中津山城を起点とすれば、ルート図を見れば直ぐにお分かり頂けるとは思われるが、宮津市小田宿野/城司ヶ谷にあって、永福寺」の直ぐ西側の丘陵上がそれに当たる。当時の城主として挙げられるのは小倉筑前守と聞いたが、一色氏の重臣の一人でもあった上宮津(喜多城)城主、小倉播磨守の一族とみてまず間違いは無いものとは思われる。中津山城主は堀江氏と聞いているが、この人物も小倉氏一族の一人なのかも分からない(推察)。

1_1 登城ルート

5 進入口

1_2 城跡概念図

城跡へは、寺院敷地内にある小さな消火用水池背後(画像に注目)から上れば、直ぐにでも当時の居館跡とも見受けられる広大な削平地に到達可能であるが、本来の山上郭はその背後の直立に近い数十mもある切岸壁を上らなければならない。流石に防備とした切岸とあって人を寄せ付けないのも当たり前だが、この激斜面を窺うだけで腰が引けそうになる、一気に上るには無理があるので縦土塁側から斜面を斜行して上ったが、5分とかからず主郭には到達出来た。

9_yasiki_1 居館跡(推察)

10_yasiki_dorui 居館跡の大土塁見所

15_kita_dai_dorui 縦土塁見所

21_minamikaku_yori_shukaku 主郭南切岸

25_horikiri 堀切見所

22_shukaku 主郭内の現状

現状(四月)城跡は相当藪化が進行しているが、冬枯れ後ともあって移動に支障を来たすまでには至っておらず、主郭背後の堀切から東側に至るまでの遺構は、ほぼ判別確認可能な状態にある。この城跡の形態は館城の様相でもあり、山上郭は詰城あるいは物見機能が想像される小規模なものであるが、主郭は突出した高さ(丹後地方の山城の特徴)にあり、周囲は崖状の切岸となってそのまま谷あるいは麓まで落ち込んでおり、山城の醍醐味は充分味わえよう。個人的にはこの山城の急峻な佇まいだけで、充分満足感は得られたのではあるが、目に留まる遺構は非常に少なく、郭跡を除けば、堀切、切岸跡、土塁だけに限られてくるのが現状でもある。

尚、今回の山城巡りの一環として宿野山城も同日訪問したが、この規模の小ささ(砦規模)からすれば、恐らく小田宿野城の出城程度の城跡であったものかもしれない。見応えのある遺構に巡り合える事は叶わなかったが、取り合えず見たがままの概念図は載せた(興味のある方が覗く分には決して無駄足には終わらないとは思われたが、)。

5_2 宿野山城の概念図

3 山上主郭

4_2

三段帯郭の切岸

 

この栗田湾内にある城跡は、この城跡も含めて中津山城、小田宿野城、高妻山城、小寺山城と、ほとんど訪れた計算にはなったが、まだ未訪の方には中津山城、高妻山城、小田宿野と、この三城は遠距離でも早朝より出向けば余裕で同日訪問は可能であり、タイプの異なる三城の山城巡りを是非楽しんで頂きたいと思うのである。

2010年4月22日 (木)

姥ヶ城跡(京都府綾部市)

この城跡は綾部市五津合町向上山にあって、先にリポート掲載を終えた比丘尼城の直ぐ真北側に位置する低山山上に位置している。城史に関しての情報は皆無に近く詳細は不明であるが、隣接する比丘尼城が古い時代(何時まで遡るかは?)に蔵持氏の居城を伝えており、城の成立はほぼ同時代かも知れない、比丘尼城が館城、あるいは陣城の性格を備えているのに対して、此方は自ずと山上詰城の性格が窺えるものでもある。ただ個人的に比丘尼城は利便性に優れている事からも、改修が施されながらも戦国期を乗り切った城跡の様には見受けられたが、此方の山城は古い形態のまま改修も施されず、そのまま廃城になった可能性が高い様には見受けられた。

1_1 登城ルート

5 城跡進入路

8 直登口

1_4 城跡概念図

城跡を訪れるには、比丘尼城を起点としてルート図を窺えば一目瞭然とは思えるが、その谷間に挟まれた休耕田には沢水が流れ込んでおり、既に湿地帯(沼地に近い)と化しており、最短移動ルートとなる北側の休耕田を横切って山上までの直接移動は叶わず、比丘尼城概念図に記した様に、西端の民家脇を通過しての遠回りの移動訪城は余儀なくされる状況となっている。直登進入口まではルート図に記した赤ラインを辿れば良いが、畦道あるいは山道で繋がっているので、分かり難い事はないだろう。画像に示した場所から直登すれば、藪漕ぎも無く5分内(比丘尼城からは10分強)で山上主郭には到達出来るものとは思われる。

14_minami_yagura_2 南櫓台土塁見所

18_nakaku_1 中郭

20_karabori_sikiri_1 空堀土塁と仕切り土塁見所

31_nisi_karabori_1 西側空堀土塁見所

29_horikiri_2 堀切見所

27_shukaku_dorui_1 主郭端の土塁跡

24_shukaku_minamigawa 主郭南側

現状(三月)山上にはまだ積雪が残っていたが、概念図に示したまでが踏破に及んだ地域及び判別確認出来た遺構群である。この城跡の特徴でもあり見所となるのは山上本郭群の周囲を巡る空堀土塁で、長年の堆積物や風化によって相当埋もれてはいるが、充分目は楽しませてくれている。その数箇所には空堀を遮ったか、あるいは移動用(土橋機能)に用いられたものかは分からないが、仕切り土塁とも思われる土橋地形は窺われた。主郭北側には僅かに土塁跡が残り、その背後には唯一の堀切が備わっている。主郭自体は風化によって切岸も曖昧になっており、僅かな切岸と郭段差で何とかその境が分かる程度、西斜面から西麓にかけては数段の削平地、あるいは広い屋敷跡地形は窺えたが、当時のものか後世に営まれたものかどうかは、地形からの判断では不可能とも思えた。ただルート図に示した南側には、自然地形を取り込んだ形の巨大空堀を挟んで、広大な削平地を窺う事が出来たが、この一帯は現状矢竹で覆われてはいるが、城跡の形態から考えても居住空間が存在したか、あるいは駐屯地的な機能を持っていた場所と推察出来るのかも知れない、、、?

個人的に城跡を評価すれば、比丘尼城と隣接する事からも、当然両城併せた同日訪問は考慮に入れたい所でもあり、今まで掲載してきた上林地区における山城巡りの一環として考えれば、訪問の手ごたえは充分感じられる様には思えるのである。

2010年4月21日 (水)

上林比丘尼城跡(京都府綾部市)

城跡は綾部市五津合町弓削にあって、先に訪れた瀬尾谷城とは上林川を挟んで真北側の丘陵上に位置している。当然この山城を既に訪問された方ならルート図を見れば直ぐお分かり頂けようが、上林中学校を東へ過ぎれば正面にそれらしい丘陵が直ぐ目に留まるので、位置確認は容易い筈である。尚、城史に関しての詳細は不明であるが、古い時代に蔵持氏の居城が唯一伝わるようである。

主郭まで上るには、ルート図に記した二通りのルート(民家に挟まれた参拝道と東側の参拝山道)が考えられるが、どちらも墓地経由の参拝道で迷わず丘陵上までは到達可能である。個人的には直ぐ北側の山上に位置する「姥ヶ城」に寄る事も考えていたので、東端の参拝山道を利用して訪れたが、結果的には後の姥ヶ城のリポートで触れる事にもなるが、直接谷間の休耕田を越えて向かう事が叶わず、これから訪れる方には二城同日訪問を前提とするなら、1号線沿いの橋の手前付近(路駐スペースあり)に車を停めて、そこから歩いて向われる事をお薦めしたい。

1_1_2 登城ルート

6 進入路B

1_3_2 1_2 城跡概念図

この城跡は堀低部に墓地のある東端に備わる自然巨大空堀地形(堀切道)を境にして、東側へ大規模な郭を三郭並べたものであり、内部に郭段差は見とめられるが、アバウトに表現すれば大土塁とそれに付随する箱堀を挟んで、東西に分かれた二郭構造でもある。全長二百mにも及ぶ丘陵上はほぼフラットに近いものであるが、大土塁より西側の広大な削平地を便宜上の主郭として考えれば、一番納得が行きそうには思われる。巨大空堀地形のある東端には櫓台を想像させる三段構造の段郭が備わっているが、この部分が城跡中一番高低差のある突出した部分であり、堀切側の見張り機能とも推察出来そうである。広大な規模を誇る主郭内には連続土塁、あるいは部分的に土塁痕が残るが、後世から近世にかけては屋敷が営まれていた可能性も考えられるので、土塁はその残欠なのか、土塁そのものは当時の状態のままなのかの判断は非常に難しいのが現状でもある。ただ郭を東西に分断する大土塁は、ほぼ当時のままとも思えるものであり、直線で横たわる様は全体像が拝める状況にあるので、非常に見応えが感じられた。

8_toutan_sizen_karabori 東端の自然巨大空堀地形

12_higasi_yagura_1 東端の三段郭

18_daikarabori_1 大空堀(箱堀)見所

20_dorui_koguti 中央土塁虎口

25_shukaku_yori_daidorui 主郭内より大土塁見所

28_kita_obi 北帯郭見所

26_seitan_dorui_1 西端の大土塁見所

現状(三月)郭内は倒木も多く自然任せの荒れ放題となっており、移動し難い箇所も多々あるが、ある程度見通しが利く事から、遺構の判別確認に支障を来たすまでには至ってはいない。ただ後世における地形改変までは分からないが、、、取り合えず概念図に示したまでが個人的に踏破した範囲であり、その地形から遺構と判別したものと解釈して頂ければ良いだろう。現在これだけの広さを所有する館城は中々御目にかかることも叶わず、個人的には非常に値打ちのある城跡とも思えたが、もちろんお薦めしたい城跡の中の一つでもある。

2010年4月19日 (月)

小寺山城跡(京都府宮津市)

この城跡に関してのリポート記事は、編集途中にパソコンの不調により消失してしまいましたが、事前にコピーを取っていたお蔭で何とかそのままを載せる事が出来ました。その内容に関しては多少見辛いかも分かりませんが、「リポート内容」をクックして拝見して頂ければ幸いです。

1r_2 登城ルート

2ko リポート内容

4_2 駐車場より城跡

3ko_2 城跡概念図

5_2 上り口

6_2 三の丸へ

K_2_2 主郭切岸

K_3_2 二の丸

2010年4月18日 (日)

高妻山城塞群(京都府宮津市)

この山城は高妻山(山上郭)城跡として既にリポート掲載したものだが、前回の訪問においては中々余裕を持たせた見学も叶わず、気になっていた北東尾根を覗く事も出来ずに、後ろ髪を引かれる思いで山上郭を後にした苦い記憶が残っている。今回は先に記事掲載した「判明した城跡呼称 3」でも触れた様に、地形図からも本郭群が存在するのではないかと思われた事もあって、気になっていた北東尾根の探索の為に再トライする事になったものである。

結果的には小規模な山上郭群を遥かに凌駕するほどの、高妻山城本郭群と呼ぶに相応しい城跡に遭遇する事になったが、前回訪問時に地元で城跡を尋ねれば、かつて山上郭には箕面神社が建立されていた事もあってなのかも知れないが、城山としての認識は此方の本郭群の方ではなかった。この本郭群の自然に任せたままの荒果てた様相は、近年山に入った人も限られて来る様には思われたが、この城跡はこのまま風化に任せて自然と一体化し、更に地元の人々からも忘れ去られて行くのが目に見えている様でもあり、残念と言う言葉しか浮かんで来ないのが現状でもある。今回のリポートでは、この便宜上の本郭群は山上郭と比べて圧倒的に規模が勝る事から、高妻山城塞群(本郭群)として掲載に及んだが、公あるいは郷土史などでは山上郭群と本郭群は区別されており、違う城跡呼称が付けられているのかも分からないので、そこは柔軟に対応して頂きたい。ただ今回も山頂から三方に延びる枝尾根全てに渡って踏破確認した訳ではないので、遺構も決して概念図に示した限りではないものとは思って頂きたい。

1 登城ルート

5 進入口A

1_2_2 1_3_2 城跡概念図

城跡は京都府宮津市上司にあって、ルート図でお分かり頂ける様に、前回掲載した高妻山上郭群から見れば、海に向いて迫り出した北東尾根上にある。城跡への最短直登ルートは進入口Aを画像に載せた国道沿いからで、そこから下に向いて下りて上れば、直ぐにでも郭跡の転用地とも見受けられる、かつての神社跡に到達出来る筈である。そこから尾根に沿って連なる郭跡を確認しながら上れば、途中から山道に合流可能であり、主郭背後の堀切までは迷わず辿り着けるとは思われる。個人的には進入口Bより上ってAに下山したが、進入口が分かり易く主郭まで上り易いのは進入口Aの方だろう、、。

9karabori_dorui 東郭群最上段の空堀土塁見所

11 主郭東側の凄い!切岸

11_shukaku 主郭内の現状

12_nisi_horikiri_1 主郭西背後の堀切見所

13_kita_dorui_karabori 主郭北側の土塁空堀見所

14_horikiri_1 中央片堀切見所

17_dorui_kaku 北郭群の土塁見所

25_obi_heki 帯郭より北郭切岸

城跡の見所は、ほぼ概念図に示した通りだと思って頂ければ良いが、突出した高さにある主郭の切岸は、他の丹後地方に存在する山城と同様に「凄い!」と言った表現でしか言い表せないものであり、城跡にあっては抜群の存在感を誇っている。この城塞群は山上郭の形態は古そうにも窺われ、風化は著しい(堀切は判別し難い)が、本郭群の方は状態は悪い(東郭群は雑木密生につき最悪)が、木々を避けて歩き回れば、遺構は明確なものが拝める筈である。遺構は目白押しとは言わないが、土塁、堀切(空堀)、縦堀と言った具合に、山城を構成する遺構は全て眼にする事が可能でもある。

城跡を個人的に評価すれば、山上郭と本郭を併せた同日訪問が高妻山城の本質を探る上では良いのかも知れないが、麓から山上までの上り下りを考えると、遠距離訪問者にとっては少し厳しい山城巡り(夏季は更に厳しいだろう)となるかも分からない。しかしどちらにしても、是非お薦めの山である事だけは断言出来そうにも思われたのである。

2010年4月16日 (金)

熊野城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市夜久野町大油子水谷にあって、先にリポート掲載を終えた段城とは川を隔てた真北側に位置する低山山頂に位置している。両城が川を挟んで呼応し合っている形態を考えれば、この山城は段城(居館)の支城あるいは出城(北砦)とも思えるものであり、二城で谷筋を挟んだこの形態は、正しく山間部に位置する山城で多く見受けられるものであり、自ずと東側の集落に繋がる谷筋を守備していたものとも推察されよう。

更にこの二城に隣接した山の山上には、菅谷城」なるものも存在するらしい事を事前情報でキャッチしていたが、城跡の目星は付けて臨んだものの、地元では明確な所在地も確認する事が出来ず、次回の山城巡りの機会までお預けとなってしまった。尚、城跡の所在地は「水谷」にあるのだが、麓に熊野神社が建立されている事からなのか、府の遺跡データの中での呼称は「熊野城」となっており、文献資料などによっては水谷城となっているのかも分からないので? 赴かれる際には、呼称は違っても同じ城跡である事の認識が必要とは思われる。城史に関しての詳細は不明

1 登城ルート

7 直登口

3ku 城跡概念図

城跡を訪ねるには段城を起点とすれば分かり易いが、ルート図の如く同じルートで訪ねる事が出来るので、ここでは割愛させて頂く。登山口となるのは先に触れた熊野神社からで、社殿背後の激斜面に取り付いて上れば、藪漕ぎもなく10分もあれば山上郭群に辿り着く事が出来る。

12_koguti 土塁虎口見所

19_minamikaku_gawa_dorui 土塁見所

17_shukaku_dan マウンド地形の櫓台か?

20_shukakukitagawa 主郭北側

28_horikiri 堀切見所

現状(三月)城跡は、全域が植林地となっている為かある程度見通しも利き、風化あるいは長年の堆積物によって、地形から郭境などを明確に判断する事は困難であるが、土塁、虎口跡、堀切、櫓台機能とした土塁壇と、判別確認は可能な比較的良い状態にある。形態としては山上本郭は単郭(内部は三郭構造)で形成されており、ほぼ概念図に示した通りと思って頂ければ良いだろう。山上郭周囲の斜面を覗いては見たが、明確な縦堀は堀切に付随した縦堀だけで他では目には留まらなかった。城跡は縄張り妙味もなく安普請に終わっている事からも、当然砦の域は出ないものであるが、段城あるいは大油子地区の山城も併せた同日訪問であれば、多くの山城がひしめき合う大油子地区の風情を楽しみながら、更に城跡遺構も味わえる充実した山城巡りとなる様な気はするのである。

2010年4月15日 (木)

大油子/段城跡(京都府福知山市)

この城跡は福知山市夜久野町大油子(オオユゴ)/段にあって、文献資料などで眼にする事が出来る範囲内では、一般的には「大油子城」と呼ばれている様だが、大油子地区にはこれからリポート掲載の予定の山城が、少なくとも別に三城(熊野城、秋葉城、西山城)は存在しているので区別もし辛く、探して訪れる方にとっては非常に紛らわしいのが現実でもある。現状城史に関しての情報も皆無に近く、詳細はほとんど不明ではあるが、当時は藤岡氏の居城が伝わると聞いた。

1_4 登城ルート

4zenbou 城跡進入口

1_1_2 城跡概念図

実際には大油子地区の字「段」にあるので、この城跡は「段城」と呼ばれているのだとは思われるが、個人的に過去色んな城跡を訪ねた経験から判断すれば、段(ダン)は訛りを加えるとデン(殿)にも繋がり、字「段」にある多くの城跡が支配者における居館跡であった事を思えば、この城跡も殿(デン/ダン)と呼ばれている以上、当時の居館跡であった可能性は非常に高いものと見受けられる。当然、字「段」の名が示す場所は、間違いなく過去に殿(デン)のあった場所であり、城跡であった場所とも言える(もちろん断定は出来ないが、、)ので、これから山城に興味を持たれた方で、無名に近い山城を訪ねる際には、これを知っておくと多少探し出す手間も省けると思われるので、是非情報の少ない山城を訪ねる際の参考にして頂きたい。地元に残された地名は城跡遺構と同様に、唯一過去を探る事の出来る無形の遺とも思えるのである。

12_shukaku_1 主郭内

15_dorui15_dorui_2  中央仕切り土塁見所

17_nisi_heki 西側切岸

19_nakakaku_1 中郭

24_nantan_horikiri 南端の堀切地形

城跡は先に触れた様に館城の如く規模が大きく、南北に渡る丘陵上の全域が縄張りとも見受けられ、遠く外見から望んでも郭壁を形成する切岸は直ぐ目に留まるので、非常に確認し易い城跡ではある。縄張り内においては多少の郭段差は見受けられるが、限りなくフラットに近く、丘陵上の中央に仕切り土塁を挟んで北が主郭、中郭、南郭、東郭とほぼ四ブロックで形成されている様には見受けられた。現状(三月)遺構として判別確認可能なものは郭跡、切岸跡、土塁、南端の堀切地形だけに限られてくるが、事前情報から遺構はほぼ完存と聞いていたので、現在眼にする事の出来る遺構、あるいは縄張りの全てが風化はしているが、ほぼ当時のままのものと見て良いとは思われる。自ずと当時に思いを馳せる事も容易く、見応えのある遺構は存在しないが、便宜上の南郭から見通しの利く北西側の集落、更に川に沿った西側を見渡せば、限りなく戦国ロマンに浸れそうには思えるのである。

城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた高内城を起点とすれば分かり易いが、位置的にはその背後の巨大な山塊を越えた北側にあり、育英小学校の南側の交差点を右折して県道56号へ進路変更、後はルート図を参考にすれば難なく辿り着けるとは思われる。概念図及び画像に示した箇所からそのまま上れば、直ぐにでも主郭が迎えてくれる筈である。

2010年4月14日 (水)

判明した城跡呼称 3

この度、信頼出来うる外部情報、あるいは訪問後の追跡リサーチによって、個人的には城跡遺構と判断してリポート掲載には及びましたが、無名に近い城跡の為に情報も乏しく、城跡と断定するまでには至れなかったものが、今回一部判明しましたのでお知らせしたいと思います。

1) 川北山ヶ市城(京都府福知山市)1

前回記事の一部と概念図

この城跡は(仮名)川北城跡として2009.1月に紹介しましたが、その後の信頼出来る外部情報、あるいは重なる追跡リサーチから判断した上で、やっと「川北山ヶ市城」であると断定出来るまでに漕ぎ着ける事が出来ました。もちろん無名に近い城跡のほとんどがそうである様に、郭跡には当然城址碑もなく、明確に城跡とするには決定打とも言える深い堀切跡もなかった(土塁は窺われたが)事、公的資料にもピンポイントで所在地が記されていない事から、呼称判明に至るまで長い間時間を要した訳ですが、、、取り合えず気になっていた方には朗報になるのかも分かりません。

2) 後野愛宕山城Photo

この山城は随分前のブログ記事に遡りますが、丹後金屋城跡(京都府与謝野郡)を紹介した際に、個人的には城跡遺構と判断しましたが情報も乏しく、前回はただの城跡遺構として金屋城跡と併せてルート図を掲載したものです。しかし今回追跡リサーチによって、やっとその中で城跡遺構としたものが、「後野愛宕山城」の呼称を持った山城と判明しました。再びルート図を載せましたので参考までに、、、

3) 百合東城3yuri

この山城に関しては、以前京都丹後地方の城跡カテゴリーの中で丹後温江城跡(京都府与謝野郡)の枝尾根先端に位置する城跡として合西城を紹介しましたが、個人的には当然あって然るべき、相対する百合東城も同時に探し求めてきました。前回の山城巡りの中では探し出す事が叶いませんでしたが、今回の再訪、あるいは追跡リサーチした甲斐もあって、やっとこの度、以前温江城跡のリポート掲載をした中で、既に概念図の中に描いた南麓枝尾根の一部に相当する南郭が、百合東城と呼ばれている事が判明しましたので、改めてお知らせしたいと思います。

4)高妻山城(京都府宮津市)

この山城に関しては判明した城跡呼称の中には入りませんが、前回山頂部に位置する郭群を高妻山城としてリポート掲載したものの、山上郭群は規模も小さく詰城の域は出ないものであり、個人的にはまだ未踏に当たる北東尾根に本来の本郭群が展開されている様に思えた事から、今回再び当地を訪れての探索となったものです。そこでは山上郭群を遥かに凌駕するほどの、本郭群と呼ぶに相応しい郭群が展開されておりましたが、この訪問リポートは高妻山城塞群として近日中にリポート掲載に及びたいと思いますので、前回のリポートで興味を抱かれた方、あるいはまだ未訪の方は是非楽しみにして頂きたいと思います。

2010年4月13日 (火)

瀬尾谷城跡(京都府綾部市)

城跡は綾部市八津合町後ヶ谷にあって、先にリポート掲載を終えた弓削城から見れば真西に聳える標高247mの山上に位置している。城史に関しての詳細は弓削城と同様に不明

城跡の位置確認は、ルート図に示した上林中学校を起点とすれば一目瞭然ではあるが、その県道1号線沿いからも直ぐ望める位置にある。この山城は郭北端に電波施設が設けられている事からも、メンテナンス用の登山道があるものとして安心して現地に赴いたが、全く登山道は存在せず、結果的には弓削城と同様に激斜面の直登を余儀なくさせられた。直登取り付き地点は概念図には示したが、東麓の墓地から取り付き、そのまま急斜面を左手側に向いて直登すれば、主郭南側の堀切付近には15分で辿り着く事が可能である。下山はルート図に記した空き地に下り立ったが、どちらを選択しても短時間ではあるが相当厳しい登山になるので覚悟は必要かも、、、ただ今までのリポートの中で、厳しい直登の要求される険峻な山城として紹介した、幾つかの城跡に上った方であれば難なく上り切れる様には感じられた(激斜面ではあるが上り難い事はない)が、、。

1_1_3 登城ルート

1_2_3 城跡概念図

この山城の位置する山上は起伏に富んだものではなく、中央に位置する主郭を最高所として南北に渡る尾根上が城跡と見受けられ、その遠く南、北先端部には出郭あるいは物見としての機能を持った郭跡が存在している。そこに行き着くまでの痩せ尾根上には、明らかに削平跡の窺える郭が展開されており、山上は全て城域と推察されるものでもある。現状積雪の中にありながら、遺構として明確に判別可能なものは概念図に記したが、堀切、主郭の土塁跡、郭切と数は少なく、これから訪問される方にとっては、見応えのある遺構が皆無に近いものでもあり、当時における山城の風情を味わう為の訪城とした、割り切った考え方が必要である様には感じられた。

9_horikiri 堀切

9_horikiri_tate 縦堀見所

10_minami_onekaku_iwa_1 南尾根郭

15_shukaku 主郭

18_kita_one_kaku_1 北尾根郭

19_kita_demaru_e 北出郭の段郭

23_gedan_yori_demaru 北出郭切岸

このほぼ地形任せで山上を削平されて築かれただけに終わっている山城は、縄張りプランも単純なものであり、当然縄張り妙味も感じられないが、個人的にはこの状況(積雪)にも拘らず山上を動き回れた事、山城らしい風情を感じられた事、あるいは探索心を煽られた事もあって、充分満足感に浸ることは出来た。弓削城と比較すれば、山城としての魅力あるいは見応えには到底太刀打ち出来ないが、規模、見応えを問わずどんな山城でも、自分を含めた純粋に山城を楽しみたい者にとっては、地形あるいはその山容から想像出来る縄張りを、歩き回って確認せずには居られないものなのである。

2010年4月11日 (日)

弓削城跡(京都府綾部市)

城跡は綾部市五津合町東山にあって、上林川に沿って多く点在する山城の中の一つでもあり、ルート図の如く県道1号線沿いにある上林中学校」を目印として進行し、その東側にあるコスモ石油(GS)で針路変更、後はルート図の如く南下して城跡まで向えば、付近までは難なく辿り着けるとは思われる。城史に関しての詳細は不明

この山城は遠く外見から望んでも直ぐに判断出来そうには思われるが、山容は非常に急峻でもあり、ルート図から推察される様に等高線は狭く、低山ではあるが山頂までの登山は、どこから取り付いても相当厳しいものが予想された。直登取り付き地点に選んだのは、眼につき易い配水施設のある付近で、そこまでは一部未舗装ではあるが砂利道が繋がっており、直登進入口まではそれを利用して向えば良いだろう(直登進入口付近には車二台程度の駐車スペースはある)。 直登取り付き地点(画像に示した)から山頂までは木々が少なく(間伐)、頂上付近までは見通しの利く激斜面(60度近い)を10分程度上れば、最初に眼にする事の出来る見応えのある遺構の一つでもある、大堀切とそれに付随する大土塁が間違いなく歓迎してくれるものとは思われる。

1_1 登城ルート

8_tozanguti 北麓からの直登取り付き地点

1_2 城跡概念図

城跡は郭総全長100m程度の規模であるが、その切岸壁周囲は切り立つ崖状の斜面となっており、人馬も寄せ付けないほど急峻な上に、箱堀も含めた三本の空堀で守備されている。その中でも郭自体を独立させた、中央と北西端に刻まれた二本の堀切は、現在は多少埋もれているとは言え、当時その切岸は薬研堀が想像されるほどの高低差を持ち、更に鋭角に刻まれたものでもあり、城跡にあっては圧倒的存在感を誇っている。当然見応えもあり、状態の良い切岸と並んで充分目を楽しませてくれる事は請け合いとも思えた。郭跡の状態も植林地にある事からある程度見通しが利き、画像を見ればお分かり頂ける様に、限りなくフラットに近い状態が未だ自然保持されている。判別可能な遺構群あるいは山上で目に留まった遺構群は概念図には記したが、難を言えば単純な縄張りであるが為の、縄張り妙味に少し欠ける事だけかも、、、

10_daihorikiri_daidorui 10_daihorikiri_daidorui_3 北西大堀切と大土塁見所

13_shukaku_2 主郭の現状(素晴らしい状態)

14_tyuuou_horikiri_1 中央堀切見所

15_shukaku_horikiri_heki 主郭堀切壁見所

17_higasi_hakohori_2 箱堀見所

21_nkayori_higasikaku 中郭より東郭切岸

城跡を個人的に評価すれば、状態の良さ、ほぼ完存とも思える様な城跡の佇まい、あるいは遺構の見応えを加味すれば、山城ファンにおいては間違いなく是非お薦めの城跡と言う事にはなるが、一般城跡ファンの方には、短時間ではあるが山上を目指すまでの厳しい激斜面との戦いは、心が折れそうに思われる事からも敢えてお勧めはしないつもりである。ただ辛い思いをして上っても、必ずや期待していた以上の見返りはあるとは思われたので、本音を語れば、是非トライして頂いて、当時から現在に至るまで残された切岸、堀切の醍醐味、山城の様相を含めた全てを味わって頂きたいと思うのである。

2010年4月 9日 (金)

青嶽山城跡(三重県伊賀市)

  城跡は三重県伊賀市石川にあって、「天正伊賀の乱」に際しては、織田信長に対して最後の抵抗を試みる拠点として築かれた伊賀勢の山城と伝わっているが、城史に関しての詳細は不明となっている。

城跡へ訪れるには、先にリポート掲載を終えた高藤氏城を起点とすれば分かり易いが、ルート図の如く穴石神社を目印あるいは登山スタート地点として目指せばよい。神社からは直ぐ傍にある橋を渡れば、現在は山上主郭に青嶽神社跡石碑が建つだけではあるが、かつての参拝登山道へ直ぐ合流できるので、迷わず山上までは辿り着ける筈である。山上主郭までは20分もあれば到達可能となっている。

1_1

登城ルート

7 登山道進入路

1_2 城跡概念図

訪問結果として個人的に感じた事は、伊賀で多く見受けられる丘陵上にある館城の域は相当はみ出しており、完全に山城に近い形態を成しているものでもある。城域は東西尾根上の広域に渡っており、山上最高所に城中最大郭となる主郭を構え、東尾根上に展開される郭群は自然地形を取り込む形の堀切(巨大空堀)で遮られ、ほぼ三ブロックに分かれた構造ともなっている。ほぼ自然地形に任せた縄張りプランであり、山上における突出部分を削り出して築かれたものと見受けられたが、削り出された郭跡、大土塁、急峻極まりない自然地形を利用して、更に掘削された縦堀などは未だ良好な形で現存しており、山城としての醍醐味も見応えも充分兼ね備えた城跡と目には映ったのである。ただ近世において主郭には青嶽神社が建立されていた(石碑がある)事もあり、どこまで地形改変があったのかは各々の推察、想像に委ねられるが、、、

13_dankaku_1 南東出郭群

19_tatehori_1 見事な縦堀見所

22_higasi_demaru_2 東出郭の奥土塁見所

30_anbu_horikiri 中央鞍部の堀切地形

37sanjyou_shukaku

山上主郭

40_yaguradai_dorui 主郭櫓台土塁見所

41_nisi_horikiri_1 西背後の堀切見所

44_seitan_dobasi_1 西端土橋付き堀切見所

概念図に描いたまでが個人的に踏破した範囲、あるいは遺構と判別出来たものを記したものであるが、見所としては突出した形の主郭周辺の遺構は全て挙げられよう。主郭及び便宜上の東出郭に備わる大土塁(櫓台)、その背後の土塁郭を伴った堀切、西端の状態の良い土橋付き堀切、主郭東側を遮る堀切と縦堀と、見る者の目を楽しませてくれる事は請け合いとも思えた。概念図は平面図でもあり分かり難いかも知れないが、山上は起伏に富んでおり、主要郭間は先に触れた様に全て自然地形を取り込んだ空堀で分断されており、主郭まではほぼ四箇所の狭い土橋を渡らなければならない防備にも優れた構造となっている。現状、全体を通して状態が良い事もあって、歩き回ればその縄張りプランも形態も容易に把握出来る様には思われた。

個人的には起伏に富んだ形態からも探索心を煽られ、非常に楽しむ事の出来た山城になったが、まだ未訪の方にも伊賀では中々味わう事の出来ない高所にある山城を、かつての攻防を思い浮かべながら是非楽しんで頂きたいと思うのである。

2010年4月 8日 (木)

高藤氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市石川にあって、芝出集落の北西側にあるほぼ独立した丘陵上に位置している。名が語る様に高藤氏の居城と伝わるが、詳細は不明。

城跡を訪れるには、名阪国道「壬生野」ICが最寄の乗降口となるが、既にリポート掲載を終えた陽夫多神社のある宮山城を起点とすれば分かり易い。ICを降りればそのまま県道49号へ合流して北進、「阿山中学校」の信号で674号へ左折針路変更、後はルート図あるいは概念図を参考にして頂ければ、難なく付近までは辿り着けるとは思われる。直登取り付き口は概念図に示したが、道路脇から直ぐに目に留まる空堀道に見える地形(画像に注目)から進入して、左手側の斜面に取り付けば、そこは既に城域と見受けられる地域でもある。

1_1_2 登城ルート

6 進入口

1_2 城跡概念図

山上郭群はほぼ二郭構造で、最高所に位置するのが主郭と呼ぶに相応しく、四方を低土塁で囲まれた方形郭となっており、土塁の北側と東側は堀切によって遮られている。便宜上の副郭には高低差を伴う分厚い土塁が付随しており、この形態からも伊賀の定番中の定番でもある館城は充分想像させてくれる。自ずと縄張りプランに斬新な箇所は見受けられないが、本郭群が山腹に築かれておらず、独立した山上最高所に築かれている部分が多少他と違う部分であり、少し新鮮に感じられた部分でもある。現状、主郭周囲は植林地となっており、間伐されてはいるが画像でお分かり頂ける様に、伐採された枝葉によって地表の露見した箇所は皆無に近く、細部に渡る見学は困難を来たす状況でもある。副郭側は更に雑木が密生しており、今回概念図に描いた郭形状は推察を含めたものと思って頂きたい。取り合えず概念図に描いたまでが判別確認可能な遺構であり、目に留まった遺構と言うことになるが、見所としては両郭に付随する土塁、堀切(二箇所)、土塁虎口は当然挙げられるだろう。尚、主郭西側あるいは南側斜面は全域が低草木に覆われており、視認も困難な状況にある為、(山上から西麓の集落までは見通せるが、、)縦堀の有無までは確認に至れなかったので、どうぞ悪しからず。

10_horikiri_gawa 進入口付近から堀切側

31_shukaku_dorui 31_shukaku_dorui_4 主郭土塁見所

29_kita_horikiri 堀切見所

28_shukaku_koguti 主郭北虎口見所

個人的に城跡を見る限り、他の伊賀で見受けられる館城の多くは、民家あるいは農地が迫っているせいもあってか、土塁が消失して更に人の手が加わったりするケースも多く、その原形は想像に委ねられる部分が多いのだが、この城跡に関しては自然任せの山上に位置する事もあってか、ほとんど地形改変は受けていないように感じられたのである。よって個人的には当時の状態を今に残す貴重な城跡とも思えたのだが、状態が良く無いので是非お薦めとは言えないのが難点な部分ではある。

2010年4月 6日 (火)

山内城跡(京都府綾部市)

城跡は綾部市睦寄町山内にあって、大きな谷間にある「二王公園」パターゴルフ施設から見れば、直ぐ西側に聳える山の山上に築かれている。当時は高田豊後守の居城が伝わるが、この人物は本来は織田信長の家臣であり、上林氏の居城でもある上林(カンバヤシ)城を攻め落とした人物でもある。一時的に城は返還した模様であるが、後に高田氏が上林地区を領有したとも伝わっている。追われた上林一族は十家に及ぶものと伝わっており、後に秀吉に重用されて宇治茶の支配を任された(宇治地区を領有したか?)人物でもあるが、徳川時代までその地位は維持していたと伝わっている。尚、多くの文献資料に目を通した訳ではないが、この山城は「奥上林城」とも呼ばれているらしい(支城としての意味かも?)ので、この山内地区に別にもう一城、異なる城跡が存在する訳ではない事の再確認は必要となる。

1_1 登城ルート

6 直登取り付き地点

8_1 直登ルートの現状

1_2_2 城跡概念図

城跡を訪れるには上林川に沿った唯一の県道1号線を利用して向えばよいが、目印となる「二王公園」は、睦寄町に入れば道路沿いに案内道標が設置されている事からも分かり易く辿り着けるとは思われる。山上まで上る事の可能な山道は現状存在しておらず、直登は余儀なくされたが、直登進入口となるのは概念図(画像に注目)に示したパターゴルフ施設の道路脇付近で、その谷状地形を少し入った箇所から山上を覗けば、見通しが利く為に切り立った主郭切岸、あるいは堀切付近までも視界に入る筈である。この直登ルートは間伐後に放置された木々、あるいは倒木の為に多少上り辛いが、そのまま上り切れば堀切には10分内で到達出来るものとは思われる。個人的にはピンポイントで所在地を特定する事が叶わず、遠く南側尾根からの直登を余儀なくされたが、これから訪問をされる方には、積雪にも拘らず容易に下山出来た事からも、迷わず概念図に示したルートで上って頂きたいと思うのである。尚、南側尾根上は削平地と見受けられる地形は存在したが、明確にそれと分かる堀切、切岸などは目に留まらなかったので、取り合えず参考までに、、、。

14_sita_horikiri 堀切

20_shukaku_heki 主郭切岸

21_gedankaku_yori_shukaku_heki 郭1より主郭

25_gedan_kaku2 郭2

27_kita_demaru 北出郭

城跡の形態は主要三郭で成立したものであり、山上本郭群の規模は小さく全長70mにも満たないほどの、砦規模の山城と言えば分かり易いかもしれない。目に留まった遺構はほぼ概念図に記した通りだと思って頂ければ良いが、郭跡を除けば土塁、堀切と非常に数も少なく、更に四方に広がる枝尾根が少ない事を思えば、郭の展開にも限りがあり、城域もほぼ推察出来そうには思われた。ただ低山ではあるが、山上周囲は崖に近い切岸となって麓まで落ち込んでおり、険峻極まりない山上に築かれた様相は正しく山城のそれであり、個人的には切岸だけでも見応えは充分であり、上ってまで窺う価値はあるものと感じられたのである。冬季(三月)にも拘らず常緑樹が多く目に付いたが、この規模を考えれば決して移動に難渋する状態までには至っておらず、上林地区における山城巡りの一環として赴けば、充分満足感には浸れそうには思われたのである。

2010年4月 4日 (日)

折山城跡(京都府綾部市)

城跡は綾部市忠町/睦合町にあって、忠町集落から見れば上林側に向いて西側へ突き出した山上部分から西尾根上に位置している。その形態は、現状稲荷神社へ向う参拝道となっている大堀切(切り通し)を中央に挟んで、東側が折山山上本郭群、西側が西城郭群と二城が独立した構造となっている。東西に渡るその城域は二百m以上に及ものであり、上林川に沿って多く点在する山城の中にあっては、有数の規模を誇る山城とも見受けられた。しかし、これだけの規模を誇りながら城史に関しての情報は皆無に近く、当時の城主すらはっきりと判明していないのが現状でもある。

1 登城ルート

5 進入山道

1_2 城跡概念図

城跡を訪ねるには、先にリポート掲載を終えた赤道城などを起点とすれば分かり易いとは思われるが、まずは府道1号(小浜綾部線)に進入する事が先決、この道を走って睦合町に向えばよいのだが、道路沿いにある河牟奈備(カンナビ)神社が城跡を目指す目印となるので、注意して見逃さない事が肝心である。神社に到達すれば、ルート図の如くその向いの道路へ進路変更して城跡を目指せばよい。川沿いにある集落の、北西端にある民家付近(車の駐車可能なスペース有)からは稲荷神社(西城)に向う山道が繋がっているので、迷わず城跡へは辿り着ける筈である(山上主郭までは10分内)。

9_2 中央大堀切

16_shukaku_1 山上主郭(奥土塁)

21_sita_karahori_1 東大堀切見所

31_horikiri2_1 西城二重堀切見所

32_tatehori_1 二重堀切(縦堀)見所

34_nisi_yagura_1 西城主郭

37_hakobori_1 主郭西箱堀見所

40_seitan_dorui_horikiri_1 西先端部の大土塁および堀切見所

まず折山本郭群にあたる東山上郭は、概念図に描いた様にほぼ二郭構造で、主郭壁には数本の縦堀が見受けられ、東斜面の空堀あるいは見応えのある大堀切と並んで充分目は楽しませてくれている。木々が少なく見通しの利く主郭内には朽ちた祠があるが、そこには櫓台とも見受けられる土塁も存在しており、山上郭群における当時の遺構は、ほぼ判別確認可能となっている。便宜上の西城郭群へは、中央大堀切から削平地を通過して西側に向かえばよいが、まずは西城主郭に到達する手前に位置する二重堀切が最大の見所となっており、現在では土橋が付随して祠に向い易くなってはいるが、当時は大土塁を間に挟んで完全に遮られていた様にも見受けられた。この堀切に関しては、特に北側斜面は豪快な縦堀となって落ち込んでいるので、非常に見応えも醍醐味も感じられる筈である。主郭の整地された空間(土塁壇)には現在祠が建っており、多少の地形改変はあったのかも知れないが、その西側に備わる空堀(箱堀)が充分堅固さを物語っている。更に西尾根上には箱堀を挟んで郭が連なるが、その西先端には大土塁を付随した見応えのある堀切が横たわっているので、是非この地点までは足を延ばして頂きたいと思うのである。

城跡を個人的に評価すれば、比較的全域にかけて木々が少なく、山城としては見学し易いレベルの高い状態にあり、縄張りを把握し易い状況、遺構残存度、あるいは山道で直ぐ到達可能なお手軽感も加味すれば、間違いなく訪問をお薦め出来る山城と思えたのである、当然推奨に値する値打ちのある山城と見た。

2010年4月 2日 (金)

鳴岩城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市夜久野町額田鳴岩にあって、ルート図の如く「下夜久野駅」から見ればほぼ真西側に突き出した丘陵上にあり、東光寺」の西背後の山がそれにあたる。山城の多くが点在集中している夜久野町額田地区においては、井田城、千原城、扇山城などと既にリポート掲載は終えた山城もあるが、何れも大型の山城は少なく、今回の山城巡りの中では先に紹介した荒神城と同様に、この山城も小型の部類に入るものである。当時この地区を支配していたのは、荒神城(由利城)を居城とした夜久氏と伝わるが、この山城も位置関係から考えて、その支城あるいは出城の図式は成立するのかも知れない。城史に関しての詳細は不明

Route 登城ルート

1_2 城跡概念図

城跡へ向うにはルート図の如く「東光寺」を起点とすれば一目瞭然であるが、その西背後の集合墓地から便宜上の東出郭までは山道が繋がっているので迷わず辿り着けよう。現在郭転用地とも見受けられる出郭には祠、あるいは画像を載せた奇妙な展望所が建っているが、この削平地(多少造成整地跡は窺える)を窺うだけで充分山城の風情は感じられる筈である。ここから概念図の如く一旦下って鞍部に位置する郭(土塁が付随)を通過して、更に急斜面を上り切れば山上主郭までは難なく到達出来よう。

8_higasi_demaru 東出郭

10_naka_kaku_1 鞍部中郭の土塁見所

16_shukaku 主郭内

17_shukaku_dorui 主郭の土塁見所

18_horikiri_dobasi_2 土橋付き堀切見所

21_obi 切岸と帯郭見所

24_kita_doruikoguti 土塁虎口見所

現状(三月)城跡は全域が植林地化されているので、見通しも利き、移動もし易く、山城としてはこれ以上ない、非常にハイレベルな見学し易い状態にある。縄張りプランとしては、山上を地形に任せて削平した単純明快なもので、更に複雑な技巧を伴う遺構も目に留まらなかった事もあり、少ない遺構ではあるが、ほぼ全ての遺構が判別確認出来る状態にあると言っても良いだろう。少ない遺構群の中では、判別し易い土橋付き堀切、土塁虎口(平虎口には終わっていない)は真っ先に挙げられるが、個人的には薬研堀などの様にインパクトのある遺構ではないが、木々の少ない中で全体像が拝める状態の良い切岸に惹かれたのである。この切岸は山城の縄張りを形成する上、あるいは防備としても必要不可欠なものであり、この城跡の様に切岸の落ち込む先まで見える状態の山城は数も少なく、切岸の醍醐味に触れる事の出来る、非常に値打ちのある山城と感じたのである。特に主郭南側は眺望も利く状況にあるので、周囲を見渡せば当時に思いを馳せる事も容易い様には感じられた。

城跡を個人的に評価すれば、縄張り変化にも富んでおらず見応えには少し欠けるかも知れないが、現在に至るまでの手付かずの遺構は、ほぼ完存とも見受けられるものであり、この険峻な地に築かれた様相も含めて、是非お薦めの山城として目には映ったのである。

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