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2010年2月16日 (火)

山城ファンに向けて

個人的に今までの山城巡りの中では、敢えて情報の乏しい無名に近い山城ばかりをチョイスして、城跡(史跡)ファンも含めた山城ファンの方々に、是非その存在を知っていただく為、あるいは訪れて同じ感動を味わって頂く為に、訪城リポートを掲載して来ましたが、特に地方に行けば地元では文献などと全く異なる城跡呼称、あるいは単純に地域名でそのまま呼ばれている山城も多々見受けられます。それゆえに尾根一つ間違えば城跡呼称が異なる山城も数多く見受けられ、呼称の混同は避けて通れないのが現実でもあります。

特に自分も含めて、無名に近い山城を探索するのをライフワークとする方には、所在地を探し当てる際には色々な呼称が飛び交い、混同して非常に難渋しているものとも感じられます。私よりも先達となる山城大好き人間の方々も、恐らく私と同じ道を歩んで来られた様には思われるのですが、これから訪れる方には、ブログ内ではルート図で分かり易く記しているつもりではありますが、出来るだけ訪城における煩わしさをなくす為、あるいはピンポイントで城跡に辿り着ける様に、今回は今まで訪れた中の城跡呼称で気が付いた点(注意事項)を挙げました。

個人的には、混同や呼称の取り違いを出来るだけ避ける為に、訪問した山城に関しては、常に現地在住の方との連携した追跡リサーチを心がけておりますが、今回はその追跡リサーチなどによって、同じ城跡でありながら文献資料などに登場している呼称と、一般に呼ばれていたりするものと異なるもの、更に個々の文献によっても多少異なる呼称の山城が幾つか判明しましたので、これから訪れる方々にとっては、混同を避ける為に是非参考にして頂きたいと思います。その中でも今回は但馬地方における山城が中心となりますが、幾つかの城跡名をお知らせしたいと思います。

1)但馬の山城 「加保城」2_1_2

地元では加保地域にある事から、そのまま加保城と呼ばれているが、文献などによっては田和城とも記載されており、正確に言えば地元ではほとんど知られていないが、「加保の城山」として呼ばれるものは別にあるらしい事が判明。個人的には、現地で手を尽くして田和城を訪ね回り、ついに探し出す事が出来ず断念した記憶があるのですが、やっと加保城と呼ばれていたものが、本来の田和城であった事が判明しました(断定は出来かねるが95%の確立で)。私同様「田和城」を探しておられた方にとっては、少しばかり朗報かも分かりませんが、、、。

2)但馬の山城 「土田城」

地元で訪ねれば、土田(ハンダ)城はリポート掲載に及んだ城山を指すらしい(規模が大きいからか?)のですが、実際の呼称は「土田観音山城」が正解、一部の文献資料などに登場している土田城は、別の尾根上にある山城を指す事も判明。ただこの山城は広大な城域を持っているので、紹介した便宜上の規模の大きい一城にも匹敵する東出郭(居館跡か?)は、文献資料などによっては更に別の城跡呼称があるとも考えられます、もしそうであれば、本来の山上郭群と混同しないよう注意が必要と思われます。

3)但馬の山城 「尾崎天王山城」

地元ではほとんど正式な名前で呼ばれていない(ただの城山)が、文献資料などによっては別に「横尾城」と呼ばれる事が判明しました(公的資料に関しては分からず)。これも別にもう一城が同地域に存在する訳では無い事を踏まえる必要があります。尚、直ぐ東に隣接した尾根上に位置する城跡は、上ノ山城と呼ばれるもので、既に踏破はしましたが、明確に残る遺構は郭跡程度でもあり、敢えてリポート掲載はしておりません。

4)但馬の山城 「大谷向山城」3_2

この山城は共有する別枝尾根上に位置するものが大谷向山城であり、本来この山城は谷山崎城とした呼称があるらしく、同じ尾根を共有しているので判別し易くした為とも思われるのですが、探し当てる分には非常に紛らわしく思われます。個人的には大谷城として統一(一部の文献資料では向山城として統一されている)して欲しいとも思いますが、ここでは敢えて追求するつもりはありません。混同を避ける為にも、これから訪問される方には注意が必要だとは思われました。現状位置確認までは出来ていませんが、聞いた話では、ほとんど一城として考えてよいものらしいのですが、、、

5)丹後地方の山城 「温江城」

この城跡は温江谷垣地区にある事からも、一部の文献資料においては谷垣城としているものもありますが、現地の城址碑では「温江城」となっていた事からも、別城と勘違いしない必要があります。ただし、この山城は裾野が相当広いので、末端の砦跡も含めた総称としての「温江城」なのかも分かりませんが、、、、地元で探せば他で谷垣城なるものが存在していても何ら不思議はなく思えますので、柔軟な対応が必要だと思われます(現状はっきりとは把握出来ていない)。地元の方にとっては、文献資料などに記載された呼称は問題ではなく、地方に存在する城跡のほとんどは、その所在地を採用して呼ばれているように見受けられます。

以上が、今回城跡を訪ねる上で特に気付いた注意事項になりますが、個人的にも呼称に関してはまだ曖昧に思っている山城が二、三ある事からも、今まで同様に追跡リサーチは続けて行くつもりでおります。いずれにしても、個々で所有される文献資料などによっても多少異なるのも事実であり、どれが正解であるのかは答えの出しようがありません。取り合えず、私を含めて無名に近いマイナーな山城を求めて訪問される方々には、柔軟な対応で城跡を探し当てる他無い様には思われます。

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コメント

おひさしぶりです。
先日、谷垣城へ行ってきました。
こちらの記事を拝見し、諸説あるとのことで、京都府立総合資料館で自分なりに下調べして行きました。
『京都府与謝郡誌(下)』(大正12年刊)には谷垣城には木積神社がある、との事でした。
また、温江城には稲荷があり、水道跡がある、と書かれていました。
ゼンリンの住宅地図になんと山頂に谷垣城の表記がありました。

実際に登城したところTAKUさんの縄張り図ですが、温江城の位置が若干違う様に思われます。
山頂部では無く、地形図の常栖寺の『栖』字の西側の尾根に当たる部分と思われます。
愛宕権現の有る遺構を更に北上し大きな石が二つ有ってその間にお地蔵さんがあり、さらに進むと左手上に削平地、真っ直ぐ進むと堅堀、土橋が二連有ります。
そこに木積神社跡?と思われる方形の盛土、そして三角点が有りました。
私の想像では愛宕権現の有る所が百合東城かな?なんて思ったりしています。
余談ですが愛宕権現の内壁に『明和十四年文月二十六日 慰問會 百合少年』と落書がありました。明和は9年までのようで私のメモ間違いか百合少年が年号が変わった事を知らなかったのか?(笑)

さらに、常栖寺の方とお話が出来、「谷垣地区に城があるらしい」との事でしたが山上の城跡の存在をご存じなかったので谷垣城=谷垣地区と思ったのかもしれませんので不明確です。
山頂から沢山の尾根が派生し、尾根先に沢山の城郭、砦があったと思われるのでいろんな可能性がありますね。

あと、この辺りには熊が居るそうです。
子安地蔵の周りをウロウロしてたそうですよ!
今は電気柵を張り巡らしています。

参考までに私の撮った写真のURLを載せました。
長文で失礼しました。

私の温江城についての指摘は既に解決済みだったんですね・・・
書き込み後に気づきました。
失礼いたしました。

TAKUです、コメント拝見させて頂きましたが、既に解決済みの件とは言え、更なる情報のご提供有難う御座いました。
知名度の低い山城を探し当てるには相当苦労も付きまといますが、この温江城に関しては、社殿の建つ山上主郭に城址碑がある事で、文献資料による違いはありますが、谷垣城と呼ばれる城跡は此方では温江城と呼ばれている事が分かりました。
温江は広い地区を指すもので、谷垣はその中の更に狭い集落を指すことから、どちらの呼称が採用されてもおかしくはないとは思えます。
今まで色んな山城を訪れて来ましたが、必ずしも文献資料に登場する城跡呼称がその山城に相応しいものとは限りません、実際に地方の山城は二つの集落に跨った村境にある事が多く、地元の方から見ればどちらもその地域の顔となる山城と言えるのです。
私自身は文献などに載せられている城跡呼称などより、その地域で呼ばれている呼称を出来るだけ優先採用してブログに載せておりますが、現在の城跡呼称は城跡を区別する為に地域名(字名)を採用して付けられたものであって、城跡遺構がそこに存在する限り、そのどちらであっても全く支障はないものと解釈しております。
まったり屋さんにとっては久し振りのコメントとなりましたが、お元気そうで何よりです、有難う御座いました。しばらくは不順な天候が続きそうに思われますが、是非その合間を縫って山城巡りを楽しんで下さい。

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