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2009年12月

2009年12月30日 (水)

将監城跡(京都府綾部市)

今年も残すところ後一日となりましたが、「山城賛歌」も今年最後のリポート掲載となりました。今年も出来るだけ情報の少ない山城を対象に山城巡りを続けて来ましたが、個人的に存在は既に認識していながらも、長い間所在地などの特定に手間取り、今回やっと場所を特定する事が出来た上で、念願でもあった「将監城」の訪問を果たす事が出来ました。訪問結果としても今年の大トリを飾るに相応しい山城とも思えたので、急遽編集に及んだところでもあります。まだ未訪で、この訪問リポートを拝見された方には、是非訪問をお薦めしたいと思います。

(本文) この山城は綾部市高津町菅谷にあって、既にリポート掲載を終えた高津八幡城の谷を隔てた背後にあたる、南西側の丘陵上にある。現在の綾部一帯から福知山にかけて威を振るった、大槻氏一族(大槻将監)の居城であり、今までに訪問した丸山城、高城、観音寺城、高津八幡城、高槻城、多保市城、石原城、一尾城など数多くの大槻氏の山城の中の、どの山城よりも縄張り妙味に富んでおり、山城としての規模も大きく、更に遺構の見応え(特に空堀群)も抜群であり、個人的には遺構残存度、あるいは状態(良いとは言えないが山城としてはましな部類)の全てを含めた上で、賞賛に値する城跡と目には映った。最近の山城訪問の中では一番感動を受けて印象に残った、丹後「明石城」より多少印象が劣るとは言え、素晴らしいものと言えそうにも思えたのである。

1 登城ルート

6 城跡進入路

1_2 城跡概念図

ちなみに将監城とあっても、この「将監」は歴代の官名(大槻氏当主の名乗りかも?)でもあり個人名ではないので、歴代「将監」の城ということになるとは考えられるが、、、どちらにしても大槻一族における築城技術の集大成としたものが、この山城からはひしひしと感じられるのである。北尾根先端部の広大な規模の郭跡から始まり、便宜上の北主郭までにかけては規模の大きい郭で全て覆われており、当然その大きさ(一城に匹敵)にも感嘆させられるが、特に先に触れた空堀群は畝状空堀を筆頭として、堀切、縦堀など斜面に佇めば全体像が窺える(木々が少ない)ものでもあり、見応えは抜群で、北主郭背後から南最高所にある山上郭までの間の、空堀群には圧倒される事は請け合いとみた。

14 北郭群

27_tatebori_1 北堀切部分の縦堀見所

28_kita_shukaku 北主郭

30_tatebori 北主郭背後の縦堀見所

32_nisi_une_1 畝堀見所

34_2ren_horikiri_2 二連の縦堀見所

35_2ren_tatebori_2 縦堀側面より

40_sannjyou_unebori_4 山上主郭西の畝堀見所

43_shukaku_1 山上主郭内

城跡へは高津八幡城を起点にすれば分かり易いが、ルート図から分かる様に県道8号より高津駅の向いの道路へ進入して南下すればよい。谷筋は非常に狭い道が連続するが、道標「深谷林道」のある橋の手前付近に駐車スペースはあるので、そこから林道に沿って数十mほど歩けば、右手側の矢竹藪に少し伐採された部分が目に留まるはずである。ここから進入すれば5分とかからず北端の広大な郭跡に到達可能である。自作概念図に示したまでが踏破して目に留まった遺構群になるが、この城跡の規模形態から考えれば、遺構も決してこの限りではないものとは思える。探せばまだまだ隠れた遺構が眠っているようにも感じられるこの城跡は、ほとんど世間に公表されていない事実もあるが、大槻氏を語る上では避けて通れない城跡と思えた事からも、個人的に言えば何としてでも後世まで遺して頂きたいと思える山城の一つなのである(個人所有の山と知った上で、)。尚、ルート図中にある段山城までは編集出来なかったが、来年早々にはリポート掲載の予定

来年も、更に日の当たらない優れた山城を中心にリポートして行きたいとは思いますが、今年同様山城巡りにおけるアシストとして、是非「山城賛歌」のリポートを活用して頂き、その結果として更に遺構見学を充実したものにして頂く事が私自身の願いでもあります。もちろんその先には、城跡遺構を後世まで大事に保全していくといった自身の訴えも多少はありますが、、、 TAKU

2009年12月29日 (火)

長峰城跡(京都市西京区)

城跡は京都市西京区大原野石造町にあって、当時でも今でも丹波まで抜ける事が出来る、旧道沿いにある「長峰寺」の直ぐ東側の丘陵上に位置しており、現在郭跡地とも見受けられる敷地の一部には、八幡神社の社殿が建立されている。城史に関しての詳細は不明

城跡へ向うには、出発地点によっては色んなルートが考えられるので、ここでは割愛させて頂くが、とにかく市道733号に入ることが先決となる。城跡はこの733号沿いに面しているので、ルート図を頼りに長峰寺あるいは八幡神社を目印として向えば、難なく辿り着けるとは思われる。尚、神社にも寺院にも駐車場は備わっておらず、車で訪問する方には当然自己責任に置いての路駐はやむを得ないだろう。(付近の道路は狭く、近くに有名な大原野神社がある事からも、中高年の方が山歩きを兼ねて周辺をぞろぞろ歩いているので、土日の訪問は少し避けた方が無難かも知れないが、探せば何とか見つかるはず)。

1_1 登城ルート

4_2 城跡進入路

1_2_2 城跡概念図

10_naka_kaku 社殿背後

11_shukaku_gawa 主郭切岸

14_isi_2 近世の石垣か?

16_higasi_gawa_kaku 主郭東側

13_shukaku 主郭の近年削られた跡?

26_kita_heki 郭北側の切岸

35_kitagawa_kyodai_karabori_3 空堀地形

現状(11月)城跡の直ぐ傍までは住宅地が迫っており、神社敷地も含めてどこまで造成地形改変があったのかは、見学者の判断に全て委ねられる状況にある。個人的にもこの地形から残存遺構を判別確認する事は不可能に近いとも思えたが、主郭に相当する郭跡の南切岸及び北側斜面の郭切岸、概念図に示した大規模な空堀地形だけは、一部当時のままの状態の様には見受けられた。櫓台とも思える主郭は、東側が少し鋭角に削られた跡がある事、あるいは土塁状の構造物に石垣が見受けられたことからも、形状は近世において相当改変が窺われるものであり、更に東側から南にかけて広がる、大規模な竹林地の一部も、内部に近世における石積みが残る事から、後世敷地を所有された方の屋敷として、造成された可能性は充分ある様には感じられた。西の社殿から寺院側は、削平地としてそのまま現在まで至ったような気がしないでもないが、、。

この大原野地区には、かつては低丘陵上を利用して多くの城跡(上羽城、灰方城など)が築かれていたと思われるが、現在の宅地化によって、ほとんどの城跡が半壊消滅したものと察せられる。この城跡はその中でも、比較的ましな状況にあると言っても良いとは思われるが、自分の様にかつての縄張りを知る術もない人間にとっては、この現状の地形から当時の縄張りを想像するのは至難の技でもあり、想像も付かないのが現状でもある。自作概念図に興味を示された方のみが対象となる城跡と思われた事からも、個人的には敢えてお薦めはしないつもりではあるが、小さいながらも八幡神社の佇まいには何となく惹かれたので、通りすがりに神社参拝ついでに寄る程度なら、決して無駄足には終わらないものとみた。

2009年12月28日 (月)

阿賀城跡(広島県安芸高田市)

城跡は広島県安芸高田市八千代町下根にあって、標高484mの山頂に位置している。城史に関しての概略は「現地案内紙、、」をクリックの事

城跡へは国道54号を利用して向えばよいが、最寄の高速道路は中国自動車道が「三次」IC、山陽自動車道が「広島」ICとなるので、そのほぼ中間に位置する城山へのアクセスは多少中途半端ではある。その国道沿いには「阿賀城登山口」の道標も設置されているので、登山口は直ぐ目に留まるはずである。南北二箇所の登山口のどちらを選択しても所要時間は大して変わらないと思えるが、遺構見学においてはどちらから上っても、南北へ縦断した方が険峻さを含めた山城の全てを味わえるものとみた。個人的には北登山口から上って南登山口へ下山したが、山頂までは少し休憩を挟み、ゆっくり上って50分程度は要した。尚、駐車場は国道沿いのバス停「下根宮ノ上」傍の集落センターを利用すればよいものと思われるが、北登山口から数100m南に位置する南登山口も、駐車場として集会所の利用が可能となっている。ちなみに南からの方が若干上り易そうには思えたが、、。

1 登城ルート

2_4 現地案内紙より城史概略

1_2 現地登山道案内図

1_1 現地案内板

現状(12月)城跡は整備保全が行き届いており、非常に見学し易く、山上郭群における全ての遺構は判別可能なとても良い状態にある。山上から覗く下界の景色(西側のみ)も、車の駐車場までも見通せる状況でもあり、抜群のロケーションを誇っている。多少置かれた環境は変わっても、当時の人達と同じ景色を山上から眺めているのかと思えば、非常に感慨深いものがあり、山上に佇むだけで充分ロマンに浸れそうとも思えた。城跡の形態はほぼ概念図に示した通りと思って頂ければ良いが、これだけ高所(比高200m)にある山城にしては意外に規模は大きいもので、外見上インパクトのある遺構は目に留まらなかったが、土塁跡、未だ良好な切岸が充分見学者の目を楽しませてくれている。その中にあって、案内板縄張り図に記された井戸跡とされるものは、過去に最高所に位置する土塁上に井戸が築かれた前例がない事もあって、個人的にはどうしても根こそぎ跡にしか見受けられなかったのだが、既に発掘調査を終えて井戸跡として判明したものかも知れない、、、? 尚、南側急斜面を下りれば、谷筋を土塁で守備した郭跡(番所か?)が現存しているので決して見逃してはならない。

1_3 城跡概念図

15_umaarai_1 馬洗い淵

23_higasikaku_dorui_2 東郭土塁見所

29_minami_gawa 南郭側

32_shukaku_3 36_4 主郭内

34_kita2_yori1_1 北郭1より主郭切岸見所

35_kita2 北郭2より北郭1切岸

40_dorui_1 南登山道沿いの土塁付き郭跡見所

城跡の評価としては、遺構残存度が抜群に高い事、山上まで登山道で迷わず上れる事、当時に思いを馳せる事が充分可能なほど整備されている事などからも、史跡ファン、城跡ファン、更にトレッキングファンにも、間違いなくお薦めできそうには思えた。もちろん山城ファンにもお薦めしたい事は言うまでも無いが、、。

2009年12月27日 (日)

大場山城跡(広島県福山市)

城跡は福山市本郷町城山にあって、本郷川の西側、低山ではあるが急峻な山容の標高143mの山頂に位置している。本来は本郷城なのであろうが、ここでは案内板にも大場山城とある様に、大場城跡としてリポート掲載に及んだ(個人的には現地案内板の呼称を出来るだけ採用している)。城史に関しては現地案内板をクリックの事

城跡へは山陽自動車道「福山西」ICが最寄の乗降口となる、県道48号に進入して北上すれば数分で付近までは到達出来るが、城跡登山口までの進入路はルート図に示したA、Bの二ルートがある。個人的には地元の方の薦めもあって、個人私設道を通過するAルートから登山口まで向ったが、この道は住宅敷地内の一部を通過する為に、本来のBルートで向われる事をお薦めしたい。尚、車の駐車には付近一帯の道路も狭く難渋するが、少し離れた南側には路駐可能なスペースもあったので、探せば何とかなるだろう。案内板の設置された登城口からは10分程度で山上主郭に到達可能である。

1 登城ルート

5 南より遠望

1_3 登山口

1_4 現地案内板

1_5 城跡概念図

現状(12月)城跡は城跡公園として、ある程度整備されているので、郭全体の見通しも利き、山上郭群の全てが非常に見学し易く、見て回りやすい状態にある。何時もながら、広島県の史跡とした山城は、地元の方の史跡に対する(史跡保全)意識レベルは高く、全てとは言わないまでも、登山道を始めとして郭内も整備がある程度までは行き届いているので、非常に好感が持てる。遠距離訪問でわざわざ訪ねて来た甲斐があるというものである。個人的に判別確認出来た遺構は、案内板略図にプラスして、その位置あるいは確認に及んだまでのものを概念図中に示したが、更に三方の急斜面までは雑木も蔓延り窺う事が出来なかったので、遺構もこの限りではないのかもしれない。この城跡を見学した上での醍醐味あるいは見所を挙げれば、まず当時の石垣跡が一部現存、主郭背後には規模の大きい土塁が現存、更に主郭西背後には直立に近い形の薬研堀が刻まれている事、西出郭には相当地表風化が進行して分かり辛いが、よく見れば畝状にも見受けられる連続縦堀が備わっている事、その他にも、、、数々の遺構を楽しむ事が可能でもある。

16_higasi_kaku_1 東郭群

23_2maru_2 二の丸および北帯郭

29_2maru_isigaki_1 二の丸北壁石垣跡見所

26_shukaku_dadorui 主郭内

26_shukaku_dadorui_1 主郭大土塁見所

33_horikiri_2 西大堀切見所

36_karabori_dobasi_1 西空堀見所

42_une_bori_ka_1 畝堀状の地形

個人的には概念図に示した遺構は決して見逃して欲しくない遺構群なのであるが、畝堀に関しては、個人的に長年の経験から縦堀と判断したものであり、真偽のほどははっきりしないのが現状でもある。これは見た者が想像の上で判断を下せば、それで充分楽しめるのではないだろうか。この様にコンパクトにまとまった縄張りの中には、満足感の味わえる遺構が目白押しでもあり、遺構残存度も圧倒的に高く、この状態の良さ、下界の眺望が利く、あるいは上り易い登山道がある事も含めれば、間違いなく推奨に値する山城であり、当然是非お薦めの城跡、全ての城跡ファンが納得した見学が可能な城跡と目には映った。

2009年12月25日 (金)

高妻山城跡(京都府宮津市)

城跡は宮津市上司にあって、北近畿タンゴ鉄道「栗田」駅から望むことの出来る、西側に聳える山の山上に位置しており、その山麓の国道178号沿いには「龍源寺」があるので分かり易いとは思われる。当時の城主としては河島備前守宣久が記録に残されているが、この人物は、先にリポート掲載に及んだ中津山城の中の記事で触れた、小倉氏の一族とも聞き及んだが、情報は定かなものではなく、詳細は不明。ただこの「龍源寺」は宣久が開山したものでもあり、ここには現在でも宣久の肖像、あるいは所持品が多少残されており、住職にお願いすれば、それらは拝見させて頂けるのかも知れないが、確証はない、、、。

城跡へは中津山城を起点とすれば分かり易いが、そこからは国道178号を2km程度南下すれば、道路沿いに「龍源寺」は直ぐ確認出来るだろう。かつては山上郭の一部には「箕尾神社」が建立されていた事からも、画像に示した道路沿いの墓地から神社までは、旧参拝道で繋がっているので、山道に従えば迷わず到達出来るとは思われる(15分程度)。尚、この箕尾神社は中身の御神体が麓の住吉神社に移されているそうなので、現在では社殿(殻)だけが近年まで神社であった事を知る材料となっている。

1 登城ルート

8tozanguti 登山口

1_2 城跡概念図

12_kyoseki 尾根上の巨石、物見か?

18_karabori_dou 凄い土塁に挟まれた空堀道

21_yasiro_ato 社郭(東郭)

22_yasiro_nisi_kaku_2 社殿背後の郭跡

20_yasiro_kaku_yori_1 社殿跡地からの眺望

25_shukaku_1 山上主郭

26_kita_horikiri_dobasi 北堀切土橋

現状(11月)城跡は、かつて鎮座していた神社が移動している事からも、城山を訪れる人は皆無に近いものと見受けられ、郭転用地とも窺われた神社敷地を除いては、自ずと藪化も進行している状況にある。ただ詰城とも窺える小規模な山城である為に、複雑な遺構も見受けられず、当時における縄張りは、ある程度掴み易いものとはなっている。現状判別確認出来た遺構群は概念図に示したが、郭跡を除けば風化が進んで明確に判別はし辛いが、北側尾根を断つ土橋付き堀切、西側尾根も同様に明確ではないが堀切が窺える程度であり、山城としての醍醐味にも見応えにも多少欠けそうな気はした。しかし山城の縄張りとしての特徴でもある、尾根上に小郭らしきものが点在する様相は、山城としての風情は充分感じられるものであり、山上に至るまでの登山道中には、巨石を伴う物見風の箇所が窺えたり、尾根の両岸が巨岩を伴い崖になって、土橋状に見える山道を渡ったり、更に土塁で両サイドを狭めた(防備か?)深い空堀道に見える箇所があったりと、これらも当時の遺構として想像しただけで楽しめる要素でもあり、充分ロマンに浸れそうとも思えるのである。

旧神社跡からは直ぐ近くに若狭湾を望む事も可能であり、個人的には山登りあるいは山城探索の両方を楽しむ事が出来る事からも、自分を含めた険峻な地にある、楚々とした山城が好きな方には、取り合えずお薦め出来そうには思えた。尚、山上を詰城とした場合、麓には当然根小屋としての居住空間が予想されるが、この山城が小さな山上郭だけで終わるものとはとても思えない事からも、これから訪れる方には、未踏には終わったが、ルート図に記した辺りまで足を延ばせば、間違いなく本来の郭群が展開されている様には予想される。個人的には時間の関係で見過ごしてしまったが、北東尾根上に本来の中枢となる郭跡がある様に思えてならないのである。

2009年12月23日 (水)

鎌谷南城跡(京都府船井郡)

城跡は京都府船井郡京丹波町鎌谷中にあって、既にリポート掲載を終えた鎌谷城とは川を隔てた南側に位置しており、その丘陵上にある。当時は細見氏の居城が伝わるが、地元の年配の方に尋ねれば、「細見の殿様」に関しては意外に御存知であり、先に鎌谷城を訪ねた際に聞き及んだ事になるが、鎌谷城山上郭に建立された神社には、それを偲んだものかどうかまでははっきりと分からないが、祭りの日には近年までちょうちん行列が延々と続いたそうである、しかもこの神社に灯された火は、遠く伊勢神宮より持たされたものであるとの事でもあり、この事から考えれば、恐らくこの細見氏は、古来より神事を司っていた一族の様にも窺われるのである。当然推察の域は出ないが、、、

尚、この細見氏は細見辻城を居城とした細見氏の庶流、あるいは宗家とも考えられるが、どちらにしてもその一族とみて良いものとは思われる。余談にはなるが、丹後で一色氏の重臣として名を馳せた小倉氏(上宮津城主)は細見氏出身と伝わっている。

城跡へは鎌谷城訪問ルートと同様、国道9号を経由して水原地区の信号より一般道711号へ針路変更、その後は鎌谷城を右手に見ながら2km程度南下すれば、三叉路付近手前からは、城跡の位置する丘陵は正面に見えているので、場所は直ぐ確認出来るとは思われる。直登口は概念図には示したが、南側の墓地からそのまま上り切れば、自ずと堀切までは直ぐ辿り着ける(最短ルート5分内)はずである。

1route 登城ルート

2_3ka 城跡概念図

17_horikiri_2 堀切見所

22_minami_yori_horikiri_1 南より堀切側

23_shukaku_1 主郭内

20_daidorui_2 土塁見所

28_2maru_heki_1 二郭より主郭切岸見所

26_3maru 三郭

現状(11月)城跡は植林地となっているので見通しもある程度利き、小規模なことからも非常に見て回りやすい状況にある。全体的に見れば鎌谷城より此方の方が規模も大きく、館城の様相を呈しているので、恐らく居住空間があったものと推察される。二城で川あるいは街道を挟んで形成された形態は、集落の出入り口を固めたものでもあり、細見辻城とも相通じる部分がある事から、正しく細見氏の縄張りプランそのものと言ってよいのかも分からない。城跡の見所は唯一主郭背後に備わる堀切及び土塁という事にはなるが、直立に近い形で切り立つ高低差のある郭切岸も、充分見応えは感じられよう。

鎌谷城は昨年リポート掲載は終えているので、既に訪ねられた山城ファンもおられるとは思うが、まだ未訪の方には是非、この南城と急峻な山上に位置する鎌谷城とを併せた同日訪問をお薦めしたい。個人的には年を改めての別々の訪問となったが、この二城併せた形態そのものが、鎌谷城の本質とも思えるのである。

2009年12月22日 (火)

外畑城跡(京都市西京区)

城跡は京都市西京区大原野外畑(トノハタ)町にあって、市内にあっても高槻市との境に近い山間の地の、住宅もまばらな外畑集落まで車を走らさなければならないが、集落から見れば農作地を挟んで直ぐ南側丘陵上先端が城跡となっている。城史に関しての詳細は不明

城跡へ京阪神側から向うには、まず県道6号を経由して、とにかく市道733号まで入らなければならない。京都側の長岡市側から向えば県道10号を経由すればよいが、こちらは現地までは非常にカーブの多い狭い道路(対向車があれば退避する場所は限られる)が連続しているので、出来れば県道6号から向われる事をお薦めしたい。現地に到着すればルート図あるいは概念図を参考にすれば分かり易いとは思われるが、城跡は東西二城で成立した形態でもあり、出城まで足を延ばさない本城のみの見学であれば、概念図に示したルートで迷わず辿り着けるだろう。どちらも進入路の画像は載せたが、住宅も点在しており、城跡へ向う道も限られてくるので、分かり難い事はないとは思われる。

1_1 登城ルート

1_2 城跡概念図

まず便宜上の本城は、市道から民家横の生活道を歩いて向えば、5分とかからず主郭には到達出来るはずである。現状(11月)ほぼ全域が植林地となっているので、見通しも利き見学し易く見て回りやすい状態となっている。山上郭群で目に留まった遺構は概念図には示したが、郭跡を除けば堀切(現状浅い)、土塁程度でもあり、単純な縄張りプランである事も相俟って、見応えがあるとはとても言えない城跡ではある。ただ東西に山上郭を挟んだ形の谷状地を居住空間あるいは中枢とみれば、自ずと全体の縄張りプランも見えて来そうには思われ、状態が比較的良い事もあって、充分楽しめそうに感じられた。

6 進入路

9_isigaki_110  屋敷跡か?

12_heki 山上郭切岸

13_shukaku_dorui_karabori_1 主郭背後の土塁と空堀見所

12_shukaku 主郭

15_shukaku_kita_heki 主郭北側

便宜上の西出城は、図に示した廃屋までは道が通じているが、廃屋横からそのまま尾根に向けて上れば直ぐにでも到達可能となっている。こちらは自然風化に任せて藪化も相当深刻化しており、この時期でも木々の間を中腰で移動させられる羽目にはなるが、尾根上に僅かな土塁の高まりと堀切だけは、判別確認する事が出来た。ほぼ単郭で成立した城跡とみてよいものとは思われるが、堀切も浅く、非常に防備に手薄な城跡と目には映った。ただ東側に延びる緩い傾斜の尾根上も城域と考えれば、それなりの城跡といった事にはなるのだろうが、、、。

3 西出城進入路

1 堀切

両城併せて考えれば、お薦め出来なくもない城跡と言う事にはなろうが、出城の方は藪化が深刻化している事、あるいは遺構の期待感も余り持てない事もあって、敢えて二城の訪問はお薦めしないつもりである。取り合えず本城だけを押さえて、興味を持たれた方のみが出城まで足を向ければ、それで充分であるようには思えた。

2009年12月20日 (日)

沓掛城跡(京都市西京区)

城跡は京都市西京区大枝沓掛(クツカケ)町にあって、国道9号線の老ノ坂峠を北側にみた標高320mの山上に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡へはもちろん国道9号を走って向えばよいが、ルート図に示した様に、城跡直ぐ近くまでは車で乗り付ける事が可能と思えた道路は、現在は通行止めとして、ゴミ処理センターの車両のみが通行可能な様に、ゲートには厳重な施錠がかかっている。本来ならこの道で難なく辿り着く事が可能と思えたのだが、これから訪れる方は、図に示した車の空きスペースだけを利用して、そこから歩いて最短ルートで向われる事をお薦めしたい。ただしこの道路は現状山歩き用としても一応侵入禁止となっており、ここで登山ルートを説明すれば、ルール違反を承知の上で、最短ルートを奨励する事にも繋がるので、概念図を見た上で、自分自身の判断で訪城ルートを設定して頂きたい。個人的には車を停めて山上までは、15分内で到達出来た事だけは付け加えておきたいが、、、。  山上尾根には遊歩道、道標、あるいは休憩用ベンチが設置されている事からも、恐らく東遠方からになるとは思われるが、登山口はあるのだろう、、、?

1 登城ルート

5 車両通行止めゲート

1_2 城跡概念図

現状(11月)城跡は、一部が登山遊歩道も兼ねているので、見て回りやすい状態にはあり、遊歩道から外れて東段郭群を経れば、直ぐにでも山上主郭が迎えてくれるはずである。郭移動に際しては藪漕ぎもなく、山城としては比較的遺構の判別し易い状況にはあるが、深い堀切などの様な遺構は存在していないので、残存遺構の見応えには余り期待はしない方が良いだろう。概念図に示したまでが個人的に踏破確認した遺構群になるが、郭高低差の余りない事からも、山城としての醍醐味には少し欠ける様な気がしないでもない。見所は主郭西側の土塁を伴う空堀(埋もれて非常に浅い)、東端の土橋付き空堀と言う事になろうが、事前に一部の郭には石垣跡が残っているといった情報も得たが、これは確認するまでには至れなかった。

10_anbu_kaku 鞍部の道標

16_shukaku_2 主郭内

18_nisi_karabori_2 西土塁、空堀見所

26 郭跡にベンチ

29_dobasi_1

30_karabori_1 土橋付き空堀見所

K_41 南出郭

この山城の形態としては、東西尾根上に200mに渡る城域は持っているが、ほぼ自然地形に少し手を加えただけ(ほぼ削平のみ)のものであり、防備機能としては堀切が二箇所に備わる程度の縄張りプランに終わっており、当時の機能を推察すれば、峠監視用の山城としてみればそれでよいのかも分からない。中央の鞍部(郭跡か?)を境にして、南峰も縄張りと見受けられるが、こちらは削平地が残るのみで、郭内部でこれといった遺構は目に留まらなかった。個人的に城跡を評価すれば、市内からも相当外れた山間の奥地に、ほぼ当時のままで城跡が存在していることだけでも、見学する値打ちは充分ある様には感じられたが、、。

2009年12月19日 (土)

温江稲荷山城跡(京都府与謝郡)

この城跡は先にリポート掲載に及んだ、百合西城と同様に情報も皆無に等しいものであるが、唯一山上主郭跡には神社が建っているとの事前情報だけを頼りに、場所も確定(地元で聞いたが判明せず)せず臨んだが、取り合えず事前に地図上に目星を付けた場所で、はっきりそれと分かる遺構と巡り合うことが出来た。

城跡は主郭に稲荷神社が建立されていた事からも、ほぼ呼称に関しては稲荷山城として間違いないものと思えるのだが、谷垣城が此方では温江城の呼び名になっていたりする事もあって、探す方は混同して非常に苦労しているのが現状でもある。この城跡も文献などによっては、案外他の呼称が付いているのかも知れないが、もし間違っていたらご容赦願いたい(郷土史などによっても様々に呼ばれているケースが多々ある)。

1route_2 登城ルート

6_2 城跡進入路

3tani 城跡概念図

城跡へはルート図に示した様に、百合西城を起点とすれば分かり易いが、目印として「常栖寺」を目指せば分かり易い。寺院駐車場に車を預ければ、ほぼ概念図通りに向えば良いが、墓地の最奥最上段からは直ぐ参拝道となり、そのまま上り切れば社殿(殻だけ)の建つ山上主郭までは、10分内で到達出来るものとは思われる。尚、寺院傍の住職の住居を通過しても、最短で東側の墓地は目指せるが、敷地あるいは庭先を直接通過する事になるので、このルートは余りお薦めは出来ない。

11_nisi_gawa_1 西郭

14_shukaku_1 主郭

16_shukaku_dorui_2 主郭背後の土塁見所

19_higasi_horikiri_1 東大堀切見所

22_kita_horikiri_1 北堀切見所

24_minami_horikiri_1 南斜面の土塁と堀切見所

現状(11月)城跡は、山城としては非常に見学し易い状態にあり、概念図に描いた遺構群は全て明確に判別可能な状況にある。規模自体は温江西城と同様に小規模なものではあるが、こちらは縄張り妙味にも富んでおり、四方の尾根を断つ四本の堀切見学が全であると言い切れそうには感じられた。中でも二本の堀切の備わる北、東斜面は堀底まで高低差(10m近い)がある事からも、非常に見応えがあり、残存遺構としても申し分のないものと目に映った。他では主郭背後に備わる土塁、あるいは縄張りプランにおいても中々ユニークと感じる部分(見学者が現地で直接肌で感じる部分)もあり、充分目を楽しませてくれる材料となっている。この山城は先に紹介した百合西城と併せた訪問でなくとも、個人的には遺構の見応え、あるいは山城の醍醐味共に満足出来るレベル以上にあるとは思われたので、単独訪問としても間違いなくお薦め出来る城跡の一つではある。丹後には無名であっても、まだまだこれだけ遺構残存度の高い城跡が現存しているのである。個人的には遠距離訪問でもあり、この温江地区から見渡せるそれらしい山は全て踏破してみたいのだが、それも叶わないのが置かれた現状でもある。

2009年12月17日 (木)

百合西城跡(京都府与謝郡)

城跡は与謝郡与謝野町温江(アツエ)にあって、標高182mに位置する温江城(谷垣城)から、なだらかに裾野を広げた南西側枝尾根先端に位置している。再びこの地を訪れたのは、昨年リポート掲載を終えた、温江城が思ったよりも小規模であり、余りにも大味で防備の手薄な詰城的な山城に思えた事から、必ず山麓には居住空間なり、幾つかの出城、あるいは砦跡が存在するのではないかとも予想され、今回はそれを確かめる意味での再訪となったものでもある。

結果的には小規模ではあるが、明らかな城跡遺構を南側山麓の東西枝尾根に、二城(ルート図に記す)確認する事が出来た。城史に関しての情報も皆無である為に、この城跡が温江城からみた時に、当時どの様な機能を持っていたのかは想像に委ねられるが、少なくとも細川氏によって攻略される前までは、丹後守護職にあった一色氏の傘下にあったものとみて、まず間違いのない処ではあろう(推察)。尚、この城跡に関しては、地元で数人に尋ねてみたものの情報を得る事は全く叶わなかったが、これだけ明確な遺構が現存しているのであれば、間違いなく既に調査は行われたものとも見受けられ、少なくとも郷土史には載せられているのかも知れない、、、。

1route 登城ルート

6 城跡進入口

3nia 城跡概念図

この城跡は概念図に描いた通り、三本の堀切によって尾根上の郭を分断した、丘陵上にある城跡としては定番とも言える形態であり、全長は70m前後、小規模ではあるが確実に切岸跡の窺われる、決して安普請に終わっていない城跡でもある。三本の堀切は薬研堀とまでは呼べないが、縦堀にまで繋がるものであり、充分見応えは感じられる。主郭東側には表面の土は流失して高さは失われているが、土塁で囲まれた形跡の窺われる方形状の郭跡も確認する事が出来、他で大した遺構は目に留まらなかったものの、それなりに目は楽しませてくれそうには思われた。

10_shukaku 主郭内

12_shukaku_nisi_dorui 主郭西の土塁見所

12_higasi_horikiri1 東堀切1見所

22_toutan_horikiri_1 東堀切2見所

19_toutan_tatebori 東端縦堀見所

24_horikiri_heki 堀切側壁

城跡への道順は、国道176号線を訪問における基幹線とした場合、既にリポート掲載を終えた温江城、あるいは尾上城の訪問ルートを参考にすれば分かり易いとは思われるが、付近に到着後は概念図を参考にすれば、進入口は直ぐ見つかるはずであり、そこからは墓地を経由した山道が山上までは繋がっているので、難なく城跡までは辿り着けるとは思われる。次でリポート掲載予定の稲荷山城と併せた訪問であれば、主郭まで5分内で上れるお手軽感と両城の移動距離が短い事からも、当然お薦め出来る城跡と言う事にはなるだろう。

2009年12月15日 (火)

中津城跡(京都府宮津市)

城跡は宮津市中津にあって、かつては栗田(クンダ)村として広域に渡る集落の一部であったものとされているが、海辺に面している中津集落の、直ぐ西側にある丘陵先端部がそれにあたる。当時は堀江伊予守の居城が伝えられており、現地で得た情報から察すれば、この人物はここから更に北側にある集落「小田宿野」周辺に本拠を構えた(場所は確定出来ず)とされる、小倉筑前守の配下にあった武将か、あるいはその一族の一人とも窺われる。ちなみにこの小倉氏は、上宮津城を本城とした小倉播磨守(一色氏の重臣)の一族でもあり、他の丹後の氏族と同様に、最後まで丹後攻略軍と攻防を続けたが、力及ばず主家と同様、細川氏によって滅ぼされている模様。更にこの小倉氏は、時代考証までは説明出来かねるが、丹波の細見氏(細見辻城主)出身とも伝わっているので、非常に興味深い話ではある。

城跡へは、宮津市内を走る国道178号より市道605号を経由して向えばよいが、中津集落付近からはルート図を参考にすれば、市道沿いからも直ぐ低丘陵は確認出来るはずである。進入口は画像に示したが、市道沿いにあるガレージ脇からは、郭跡を転用地とした墓地まで墓参道が繋がっているので、迷わず主郭までは到達出来るだろう。

Nakatu 登城ルート

8_tozanguti 進入口

Nakatu_2 城跡概念図

現状(11月)城跡は一部矢竹が密生している箇所もあるが、全体的に見学に差し支えるまでには至っていないので、概念図に示したまでの遺構は全て判別可能な状況にある。特別技巧を有した遺構も目に付かなかった事からも、縄張り妙味に満ち溢れた城跡とは言えないが、このほぼ当時のままとも見受けられる城跡の縄張りは、正しく賞賛に値するものでもあり、比較的見学し易い状況、あるいは進入口から5分とかからず主郭まで辿り着けるお手軽感を思えば、是非お薦め出来る城跡の一つと言う事にはなろうか。

13_minami_kaku2_1 南郭2

13_minami_kaku2 南郭1の切岸

17_higasi_kaku 東郭

26_shukaku_dorui_1 主郭背後の土塁見所

28_karabori 主郭北背後の空堀

18_shukaku_higasi_heki 主郭東切岸

31_hokutan_tatebori_2 北端の縦堀見所

自作概念図に示した様に、現存する遺構自体の見所が多い訳でもなく、見応えのある堀切(薬研堀)がある訳でもないが、個人的には遺構残存度の高い城跡の佇まいそのものが、城跡最大の見所でもあり、魅力である様にも感じられたのである。城跡は過去一般的に出版された文献などには記述もなく、ほぼ現地の情報だけを頼りにして臨んだのだが、ここまでの状態の城跡が拝めるとは、とても思ってもいなかったので、久し振りにアドレナリンの湧き出てくる訪城となった。尚、先に触れた小倉筑前守の城跡までは時間に余裕も無く、更に場所を特定する事も叶わなかったので、これは次回の山城巡りまでの楽しみとしたい。

2009年12月13日 (日)

大村城跡(京都府南丹市)

この城跡は京都府南丹市園部町城南にあって、自分流の何時もの好奇心において、地図上からも外見からも、城跡の佇まいを前から感じていたものであり、まして城跡としても好立地条件下にある事からも、何時か機会があれば山上を覗いて見たいと思っていた。今回は口丹波周辺の山城探索の一環としてやっと訪れる事になったが、幸運にも山上で城跡遺構はもちろん、予想もし得なかった状態のよい山城遺構と巡り合える事となった。

下山後、色々な資料から、あるいは外部情報から得た中で、この山城は自分の中ではずっと所在地が謎のままで、ずっと探し続けていた山城の中の一つでもある、大村城跡とやっと今判明に至らす事が出来た。文献、資料などで存在は充分認識していたのだが、所在地が今まで定かではなく、長年に渡って不明山城として自分の頭の中では整理されていた。当時の記録としては、室町期に田中河内守によって築かれた城跡で、丹波攻略軍である明智氏の軍門に下ったされるだけが、現状唯一外部から得た情報でもある。それにしても、長年山城巡りをしていれば、偶然ではあるが、こういったラッキーな事も舞い込んで来るのだと、改めて山城と巡り合えた余韻に浸るのである。(個人的には城跡遺構より、偶然見つけた喜びの方が断然大きい)

1_3 登城ルート

7_tera_1 寺院より東郭

1_2_3 城跡概念図

城跡へはルート図の如く、県道477号より城跡取り付き地点とした「青松禅寺」を目指せばよいが、位置的には園部城跡の南西側にあたる丘陵上にある。車は寺院の駐車場に預ければよいと思われるが、寺院内の墓地最奥最上段の背後を直登で上り切れば、直ぐにでも便宜上の東郭群が迎えてくれるはずである。後は概念図に示した様に、踏み跡程度の山道が尾根上まで繋がっているので、道に任せれば直ぐにでも主郭までは到達出来よう。

10_karahori_miti_1 東郭の空堀道(堀切か?)

14_dobasi_karahori 空堀土橋見所

14_dobasi_karahori_2 側面より空堀

15_shukaku_dorui_1 主郭土塁見所

17_karahori 武者隠しか見所

21_2maru 二ノ丸より主郭切岸

30_daikarabori 北出郭側大空堀見所

現状(11月)城跡は冒頭に触れた様に、山城としては藪化までは至っておらず、見学し易く見通しもある程度利くので、非常に見て回りやすい状態にあり、遺構としての複雑な地形も目に留まらなかった事からも、全ての遺構は判別確認可能な状態にある、と言っても過言とは思えないものである。見所を挙げれば、主郭背後の土塁を伴う空とそれに付随する土橋(状態が良いので一見の価値あり)、主郭東側壁の武者隠し的な空堀北出郭側の巨大空堀と、遺構は目白押しではないものの、充分目は楽しませてくれている。外見から窺うにはさほど急峻な様相には見えなかったが、山上郭群から下を見下ろせば、相当な急峻さを感じ取る事が出来、便宜上三の丸とした郭壁を下から見上げれ(20m以上の高低差)ば、ほぼ全体像が窺える事からも、この山城の醍醐味は充分味わえる様には感じられた。個人的に思い入れの強い山城ではあるが、まだ未訪の方にも是非お薦めしたい城跡の一つには数えられる。

2009年12月12日 (土)

判明した城跡呼称 2

今まで踏破した山城の中で、情報が少ない為に所在地と城跡呼称が結びつかず、取り合えず仮名としたものが、今回の追跡リサーチによってやっと呼称が判明しました。と同時に、城跡名を取り違えていた山城も一城判明しましたので、ここでお知らせしたいと思います。尚、この城跡呼称に関しては公的(府あるいは市)資料から情報を得たものであり、地元あるいは現地の郷土史などでは、過去の経験からも別の呼称で呼ばれている可能性も充分考えられますので、その辺は柔軟に対応して頂きたいと思います。

まず呼称の判明した城跡

1、京都府綾部市高倉町にあって、仮)高倉山城としたものは高倉城1_1

2、兵庫県篠山市熊谷にあって、仮)熊谷城山としたものは熊谷城1

3、前回の呼称判明の中に後で追記として載せましたが、まだ拝見しておられない方の為に再び載せたもので、三重県伊賀市島ヶ原にあって、仮)恒矢南城としたものは高瀬城 尚、隣接する恒矢城は、本来の「恒」「垣」と間違えて表示しておりましたので、既に誤字を訂正した事もお知らせしたいと思います。

4、これも追記した分で、京都府南丹市八木町北広瀬にあって、仮)広瀬城としたものは北広瀬城

5、興味のあった方には長い間お待たせしましたが、個人的に城跡遺構として確認した但馬、東河城塞群の中で、一部の城跡の呼称が判明しましたので、ここでお知らせしたいと思います。

兵庫県朝来市和田山町宮地区にあって、仮)黒田東出城あるいは黒田東砦とした二城は、フタタ城、白井城と呼ばれる事が判明しました(概念図及び地図を参考に)。3 3_2

と同時に、仮)黒田西城あるいは地元で所在地は確認したものの、砦規模である為に今ひとつ納得の行かなかった、黒田城として掲載に及んだ城跡は、黒田城(山上郭あるいは本城)の出城あるいは支城である事も、地元の方との共闘作戦(追跡リサーチ)のお陰で、ある程度まで判明しました。ある程度としたのは、自身が現地で直接城跡遺構を確認していない為でもありますが、本来の黒田城(山上郭)は、ほぼ地図に示した場所と断定して良いものと思われます。よって前回掲載しました黒田城は、自ずと出城と言う事にもなりそうですが、城跡呼称の候補としては小川城あるいは寺木城が挙げられます、どちらも隣接しているので、所在地などから判明に至らすことは出来ず、現状からの判断では、前回リポート掲載に及んだ(仮)黒田西城、黒田城の二城は、この小川城、寺木城のどちらかであるとまでは分かりました。Photo1_2

ここではまだ個人的な推察に留めておきたいのですが、(仮)黒田西城としたものは小川城、黒田城としたものは寺木城と考えられます。この二城は付近にお住まいの方に訪ねても、明確に所在地が判明しなかった城跡でもあり、これから多くの情報は望めそうにないのが現実でもありますが、次回に本来の黒田城(山上郭)を訪れる際には、是非判明させたいとは思っています。尚、現在の乏しい資料あるいは文献の中では、様々な呼称が飛び交っているので、東河七城がどれにあたるものかは専門家でも相当判断は難しいと思えます。黒田山上郭から末端尾根にかけては、まだ未踏の砦跡もあると考えられますが、城跡呼称は個々にあっても、黒田城の本質は前回触れた様に、丹波八上城などと同様に、山上郭を頂点とした黒田城塞群と考えても良さそうには思われます。更に新たな情報が入ればお知らせしますが、取り敢えずは、黒田本城を先に訪問する事が先決と思えますので、今年中には無理かも分かりませんが、機会があり次第再訪の予定です。個人的にも踏破して城跡遺構と判断したものの、確信にまで至る事が叶わず、ずっとやきもきしておりましたが、現地の方のご尽力もあり、やっと城跡遺構の確定までは漕ぎ着けれました、まだ(仮)東和田城も含めて、呼称の確定という宿題は残っておりますが、取り合えず満足感には満たされている状態です。(ほとんど諦めていたので、、)。

城跡呼称を取り違えているものは京都府福知山市篠尾にあって、石井城(篠尾城)として掲載に及んだ城跡で、城跡呼称は福知山市史の中にある篠尾向段城が正解です。3sasaodan 本来石井城と呼ばれる城跡は、この城跡の直ぐ真南に隣接しており、篠尾向段城と同様に、丘陵上にあるとの情報は既に掴んでおりますが、まだ未訪でもあり詳しい現況報告が出来ないのが少し残念な処ではあります。本来の石井城は訪問次第リポート掲載の予定ですが、来年になるものと思われますので、興味のある方はそれまで少し待って頂きたいと思います。

福知山市内にあっても、この地域には既にリポート掲載を終えた羽合城、半田城、新庄城と、まだ低丘陵上の至る場所に城跡遺構は存在していそうでもあり、今回の様に一つ尾根を間違えると別の城跡名になったりで、呼称の確定には随分泣かされてはおりますが(山城ファンなら分かって頂ける、、)、この地域の未訪の城跡も含めて、これから何とか所在地の確定、あるいはそれを踏破した現況をこつこつとリポートして行きたいと、更に意欲を燃やしている今日です。

2009年12月11日 (金)

惣村城跡(京都府宮津市)

城跡は宮津市惣にあって、北近畿タンゴ鉄道「宮津駅」からも望める、南東側にある低山の山上に位置しており、城域にある便宜上の北出郭には、現在「城寿神社」が建立されている。当時の城主としては、フルネームで北庄鬚九郎が挙がっているが、本来は丹後守護職にあった一色氏の居城(八幡山城の支城)であった事からも、この人物は推察にはなるが、一色氏家臣あるいはその一色氏の滅んだ後を受けた、細川氏の武将である可能性は高いものの様には思われる。詳細は不明

城跡を目指すには、北近畿タンゴ鉄道「宮津駅」を目印とすれば分かり易いが、ルート図に示した様に、駅から直ぐ車で渡れる踏切が近くにはないので、国道178号を走れば駅に向わず、国道から直接南下した方が良さそうには思えた。ルート図中の赤線を辿れば分かり易いとは思われるが、付近の道路は全て駐禁でもあり、車の駐車には少し難渋するかも知れない。山上主郭に向うには概念図には記したが、民家脇に道標のある「城寿神社」への参拝登山道を利用すれば、迷わず辿り着ける筈である(付近に駐車したとして10分内)。

Soumura 登城ルート

4 進入路

Soumura_4 城跡概念図

現状(11月)城跡は神社の建立された北出郭、あるいは最高所に位置する主郭から北側は比較的見学し易く、段郭群及び直立に近い状態の良い郭切岸などは、非常に目を楽しませてくれているが、便宜上の二の丸側(南側)付近だけは、倒竹などによって移動も出来ず、身動きも取れない状態、更に下草や矢竹が密生しているので、外見からは郭内部の地形を覗ける状況にないのが現実でもある。ただ他は見学に差し支えるまでには至ってはいないので、城跡全体とすれば比較的状態の良い山城と言えるのかもしれない。見る限りでは、土塁あるいは薬研堀などの様に、地形から直ぐ判別し易いインパクトのある遺構は目に留まらなかったが、南端の出郭境には、状態の良い箱堀(幅のある空堀)も見受けられ、多くの郭跡に窺われる状態の良い郭切岸と並んで、見応えは充分感じられた。他では西側斜面に数十段にも刻まれた段郭群、あるいは主郭東側の帯郭群には、下から見上げれば圧倒される事は請け合いとも思えた。ただ西段郭群に関しては、近世における治山事業の一環とも考えられるので、これは見た者が判断を下せばそれでよいのではないだろうか。個人的にはこの城跡の形態(低山ではあるが周囲は非常に急峻な地形である事、切岸の崩落を防ぐ為、あるいは防備の意味で狭く刻まれる必要があった)からも当時のものと思いたいが、、、。

15_kita_demaru_1 北出郭(神社)

20_shukaku_e 北より主郭切岸

25_shukaku 主郭内部

27_obi_yori_shukaku_heki 主郭東切岸見所

30_kitakaku_heki 北郭群切岸見所

46_nisi_dankaku_gun 西段郭群

39_hakobori_1 南出郭の箱堀見所

この山城も、他で見受けられる丹後地方の山城と同様に、風土のせいもあるのかも知れないが、当時を今に再現したかの様にも見受けられるものであり、遺構残存度は非常に高いものと目には映った。更に状態さえ良ければ賞賛に値する城跡である様には感じられたが、現状から見ても充分お薦め出来る城跡である事に変わりはないだろう。

2009年12月10日 (木)

播磨黒田城跡(兵庫県西脇市)

城跡は西脇市黒田庄町黒田にあって、JR「本黒田駅」のほぼ真東に聳える低山山上に位置している。秀吉の懐刀でもある黒田如水(黒田官兵衛)は軍師としてあまりにも名を成しているが、ここを居城とした黒田氏の一族と伝わっている。

城跡へは京阪神から向えば中国自動車道「滝野社」ICが最寄の乗降口であり、降りれば国道175号より北上を続ける。黒田庄に入ればJR「本黒田駅」を目印として「田高」交差点を右折、後はルート図の如く進行すれば城山は直ぐ視界に入るので、迷わず城跡へは到達出来るものと思われる。個人的には車は付近に路駐して西側の神社参拝道より山上を目指したが、楽をしたい方は城跡の東背後に回り込む形で砂利道の車道が駐車場まで繋がっており、そちらからでも登城可能。

1route 登城ルート

4 北より城跡遠望

6 山上へ

3kuro 城跡概念図

9_sandou_1 山上主郭へ

10_sanjyou_shukaku 10_sanjyou_shukaku_2 山上主郭

12_shukaku_higasi_gawa 主郭東背後

15_higasi_horikiri 東堀切(縦堀)

現状(三月)城跡は参拝道沿いの削平地を含めて全て神社敷地と化しており、当時からどこまでの地形改変があったのかは見学者の想像に委ねられるが、明らかに造成されたと思われる駐車場を除けば、ほぼ当時の山上郭跡をそのまま神社転用地としたものの様には見受けられた。山上郭は規模も小さく、ここを当時どの様な機能で利用していたのか見当も付き難いが、居住空間とすれば随分小さな屋敷跡としか見受けられず、現状見る限りでは砦あるいは物見程度の機能しか思いつかないものでもある。遺構として明確に判別可能なものは東端の堀切(縦堀)、高低差は余り無いが郭切岸跡程度であり、残存遺構の醍醐味あるいは見応えを求めた訪問であれば、落胆する事は必至である様にも見受けられた。ただ後で得た情報によれば、更にここから東へ尾根続きに上った(比高100m程度)先には、山上郭群(規模の大小は判明せず)が存在しているらしいので、まだ未訪の方には、これだけでは終わらない城跡と言う事だけは付け加えておきたい。

以上の事から、今回の麓に位置するこの砦規模の城跡だけに限れば、山城の風情を味わう程度、あるいは史跡見学として割り切って訪れる事が大事だとは思われるが、神社参拝ついでの訪問となれば、決して無駄足には終わらないものとみた。

2009年12月 8日 (火)

安井城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市安井にあって、安井集落の最北側、由良川に向いて西側に突き出した尾根上に位置している。由良川は日本海側と丹波側を結ぶ上での、水運の道として古来より使用されており、その通行利権絡みによるものなのか、水上を監視する砦跡なら無数に点在している様にも見受けられる、この山城も規模からすると、ほぼそれに近い城跡とは思われるが、城史に関しては全く不明である。

城跡へ京阪神側から向うには、国道9号を利用して牧城跡の望める「牧」交差点を右折して国道175号へ針路変更、その後はルート図通りに赤線を辿れば、自ずと直登取り付き口付近にある石碑までは到達出来る。概念図に示した石碑直ぐ近くには、県道55号沿いに小型車なら一台分の路駐スペースがあるので、車はそこに停めれば迷惑はかからないものと思われる。取り付き口は画像に示した様にガレージ背後の竹薮地からで、そのまま上り切れば5分とかからず城跡へ辿り着ける筈である。

1route 登城ルート

4 進入口

3y 城跡概念図

8_nisi_yagura 西端櫓土塁壇見所

10naka_kaku_1 主郭側

12_shukaku 主郭内

16_higasi_kaku 山上郭東側

20_horikiri_yori_higasikaku_1 東端堀切見所

21_horikiri_1 堀切側面

現状(10月)城跡の尾根上は、移動し易く見て回りやすい比較的良い状態にあるが、山上尾根は東西100mに渡って連続する、ほぼ単郭構造で成立する城跡でもあり、複雑な技巧を含んだ遺構も見当たらないので、見学する分においては非常に味気なく感じられる。目に留まった遺構は、郭跡を除けば櫓台とも思える西端の土塁壇、東端に備わる尾根を断つ堀切が挙げられる程度でもあり、山城としての醍醐味も見応えも、本音を語れば余り感じられないものである。ただ個人的には、この二箇所に存在する遺構、及び風化に任せたままではあるが、恐らく当時のままの状態で現存していると思える、史跡としての城跡に値打ちを感じるのである。

尚、ルート図には記したが、この城跡の真北側にある通信施設の建つ丘陵先端部も一応筈巻(ハズマキ)城として伝わっている。地元の方はこの城跡(砦跡)に関しては全くご存知ではなく、現状では城跡の所在地あるいは呼称の確認すら得る事が出来なかったが、山上は踏み入る事の出来ないほどの矢竹密生藪地でもあり、通信施設の周囲もジャングル化しているので、平坦地すら眼にする事が出来ない状態にある。自ずと地表が満足に見られない事もあって、郭跡すら確認出来なかったのだが、あったとしてもこれだけの施設が建っているのであれば、遺構はほとんど消滅したとも見受けられた。尾根上は東へ延々と削平地が連続するが、ここは「かつて戦時中においては芋畑であった」と言った回答回答は得られた、、が、それ以前は?となると、、、、? 取り合えず筈巻城は推定地ということにしたが、個人的には確認の為の再訪は、まず無いものとは感じられた。

2009年12月 6日 (日)

丹後においては屈指ともいえる巨大城砦 明石城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町明石(アケシ)にあって、この地方では有名な作山、蛭子山古墳群の真東側の、山上及び尾根上に位置している。

この山城は、京都府の北部全域あるいは丹後地方にあっては、吉原山城、宮津八幡山城と同等か、それを軽く凌駕するほどの規模をもった、明石巨大城砦群と呼ぶに相応しい城郭かとも思われる。四峰に跨るほどの城域は、一般的な山城四城分に軽く匹敵するが如く、大規模を遥かに通り越した郭占有面積を誇っており、現状から窺える遺構残存度の高さ、及び遺構の判別し易さなどを含めなくとも、丹後における山城としては、賛辞の言葉も見つからないほどの、他に比類なき素晴らしい巨大山城と目には映った。

現状、城史に関しては皆無に近い城跡であり、当時は市田氏の居城を伝えるのみでもあるが、これほどの山城が一般的にはほとんど公表されていない事実、あるいはこの丹後地方に存在している事自体が信じられない思いでもある。取り合えずこの山城を語り出せば限がないので、自身が入念ではないが、ほぼ四峰を歩き回って判別確認出来た遺構群を概念図中に示した。もちろん更に北東側に分かれた枝尾根までは踏破していないので、遺構もこの限りではないものとは思われるが、、、とにかく帰宅してもその興奮の余韻が収まらないほど、感動を与えてくれた城跡の一つでもある。

1 登城ルート

4 進入口

1_2 城跡概念図

20_naka 西郭群24_tatehori1_gawa_1

84_daihorikiri_1 神社背後の薬研堀見所

概念図を見ればある程度お分かり頂けようが、主要郭間は全て堀切で分断されており、それも非常に見応えのある薬研堀(幅のある箱堀も存在)に近いものであり、判別し易い片堀切状の縦堀も含めると、軽く14本以上を眼にする事が出来るはずである。起伏に富んだ地形を活かした縄張りプランもさることながら、急峻な地形(山上郭は突出して急峻)を含めて、山城としての醍醐味の全てを兼ね備えた城跡の様には感じられた。まだ未訪の方には、是非、是非訪問をお薦めしたい、正しく推奨に値する城跡と言えよう。

45_dobasi_karahori_1

山上郭北側の土橋付き空堀見所

50_dorui_karahori_2 山上郭北の空堀土塁見所

47_dorui_gawa_heki 北側より山上郭壁

55_sanjyou_kaku_dorui 山上主郭の土塁跡?見所

33_dai_horikiri_2 山上郭の凄い!西大堀切

73_daihorikiri 73_daihorikiri_1 北郭の大規模な箱堀見所

81_1 北郭群

城跡へは国道176号より作山、蛭子山古墳群を目印として目指せば分かり易いとは思われるが、登城スタート地点は古墳群の真東に位置する「慈徳院」からなので、車は寺院駐車場に預ければ良いものとは思われる。見学ルートは概念図に示した二通りが分かり易いのでベストとは思われるが、城域が広いので全域踏破となれば時間も有する事から、時間に余りゆとりのない方には、寺院背後から丘陵上まで山道が繋がっている、最短ルート(5分内)で到達可能な、便宜上の西郭群(一城に匹敵)だけの見学をお薦めしたい。最初から山上郭を経由した、便宜上の北郭あるいは西郭群までの全域見学をしたい方は、移動に際しては起伏は激しいが、概念図中にある寺院からスタートしても神社側の堀切側からのどちらからでも良いとは思われる。個人的には多少時間はかかっても、南東最高所に位置する山上主郭を含めて、北側の尾根上の郭群の堀切の見応え、あるいは高低差のある直立に近い切岸の醍醐味は、半端なものではないとも思えたので、是非概念図に描いた北端までは、足を延ばして頂きたいと思うのが本音でもある。(ここまで見学しないと、この山城の本質は見えて来ない)

尚、この城塞群は堀切によって主要な郭は分断されてはいるが、当然全て含めて明石城跡として良いものとは思われる。しかし、これだけの城域をもった山城なので、便宜上の北郭群も西郭群(寺院側)も、地元で付けられた城跡呼称は個々にあるのかも知れない、、、 個人的には遠距離訪問でもあり、ここまでの城跡とは思ってもみなかった事から、追跡調査も及ばず、更に明確にする事も出来なかったが、どうぞ悪しからず。

2009年12月 5日 (土)

乙原城跡(兵庫県三田市)

城跡は三田市乙原(オチハラ)にあって、二本の川に挟まれた「天瑞寺」の背後にあたる、東西に長い丘陵上に位置しており、丘陵西端が主郭と見受けられる。当時は増田氏の居城が伝わるが、詰城とも窺える小規模な城跡なので、恐らく居住空間は別に存在するとは思われる。寺院付近がそうであるのかもしれないが、城跡情報も皆無に近い為に、推察の域は出ないものでもある。

城跡へ向うには国道176号を北上すればよいが、色んなルートが考えられるので、ここでは割愛させて頂くが、最終的には県道49号へ合流して、天瑞寺を目指せば難なく到達出来るものとは思われる。寺院からは概念図に示した様に、墓地背後を上り切れば直ぐにでも丘陵上に達する事が出来る。

1route 登城ルート

5 西より遠望

6_tenzuiji_1 天瑞寺(進入口)

3o 城跡概念図

ちなみに丘陵上は戦略的に考えても全て縄張りとは思われるが、確実に縄張りプランが見極められるのは、丘陵西端部に刻まれた明確に判別可能な堀切(縦堀に繋がる)土橋から西側であり、ここを虎口とした場合は、自ずと主郭として間違いないものとは推察される。主郭内部には大型の土塁壇が二箇所備わっており、櫓台機能の様にも窺われるものであり、唯一目を楽しませてくれてはいるが、他はこれと言った遺構も見当たらないのが現状でもある。結果的に丘陵上は西から東まで全域を踏破したが、東側の最高所まで自然地形に任せた削平地が繋がっているだけで、見応えのある遺構(堀切)には遭遇出来なかった。最初に触れた様に詰城の様相でもあり、本来の縄張りプランも、物見を兼ねた程度の安普請で構わなかったのかもしれないが、当時における増田氏の勢力も、この城跡を窺えばある程度想像出来そうにも思えるのである。

12_oku_horikiri

堀切側

15_dai_dorui_1 主郭大土塁

16_shukaku_1 主郭内の現状

10_higasi_kaku 東尾根TOP

城跡の評価としては、移動に難渋はしないが状態は非常に悪く(11月)、見学する価値のあると思われる箇所が、西端の主郭周りのみである事から考えても、個人的には敢えてお薦めはしないつもりである。今回のリポートでは興味のあった方への現況報告、あるいは城跡概念図が参考になったのであれば、これで良しとしたい。

2009年12月 4日 (金)

丹波和田城跡(京都府船井郡)

この山城は昨年まで遡るが、城跡情報など多くの有難いコメントを提供して頂いているS氏より、現地道路脇に中世城跡跡として標柱の建っている場所がある事を紹介して頂いていたのだが、S氏もこの時点では場所も分からず、まだ未訪だとも聞いていた。個人的には好奇心からも、頭の中にはずっとこの城跡の存在はありながらも、長い間訪問機会を失っており、今回は福知山の山城巡りを終えた後の、余裕のある時間の中でやっと訪ねる事が出来た。現地では道路脇に城址標柱は確認出来たものの、城跡らしき場所も見当たらず、付近で農作業中の年配の男性に尋ねたところ、「世間では誰も知らない様な城跡をよく訪ねて来られた」と感心しきりの様子でもあった。更には作業の手を休めてまでも「自分も数十年振りに登ってみたいが、腰が悪いのでそれも出来ない」と言う事で、直登取り付き口までわざわざ付き合って頂いた。

城跡は京都府船井郡京丹波町大朴(オオボソ)にあって、ルート図でも分かる様に既にリポート掲載に及んだ暫定)和田城の直ぐ近くにあり(最近、垣内城と判明)、国道9号と国道173号の交わる「和田」交差点横にある「ローソン」からは、南西側に望める低山山上が城跡でもあり、直ぐ確認する事は出来よう。図中に示した公民館敷地に車を預ければ、ほぼ赤線ルートを辿れば山上までは難なく到達出来る(公民館からは7分内)とは思われるが、現在麓の一部を道路造成工事をしているので木も伐採されており、直登口は簡単に見つけられる筈(画像参考)である。

4 南より遠望

1ooboso_route_1 城跡の標柱

1ooboso_route 登城ルート

5tozanguti 城跡進入路

8_1 東削平地

11_shukaku 主郭

12_shukaku_nisi_karahoritikei 主郭西の空堀地形

14_naka_one_kaku_1 中尾根上の郭跡

16_nisi_gawa_onekaku 西側へ延々と繋がる削平地

ただ訪問結果として城跡遺構は郭跡(削平地)及び僅かに切岸が窺われる程度であり、縄張り形態も古く見応えのある城跡遺構は皆無でもある。東西数百mに跨る山上は全て郭跡とも見受けられる削平地となっており、城域は相当広いものであるが、全域にかけて地表風化が激しい事、あるいは倒木も多く荒れ放題である事からも、自ずと目に留まる遺構にも限度はある。個人的には大味な縄張り形態からも、南北朝期まで遡る城跡の可能性が高く、とても戦国期をこの状態(防備が手薄)で乗り切った様には思われなかった、反面この規模から考えれば、陣城と言った可能性も否定出来ないものがあり、後は見る者の想像と判断で楽しんでもらえば良いものとは感じられた。

地元の方による情報からは、「当時綾部城主の配下の居城であった可能性は高いが、現状明確に判明している事は皆無である」と言っただけのものでもあり、文献あるいは資料にも全く顔を出さない山城なので、これからもこの城跡に関しての情報は期待できそうに無いのが現実の様でもある。当時の史跡として訪れる分には、風情は味わえるかも知れないが、山城ファンにおいては流石に物足りなさは感じられる様には目に映った。

2009年12月 3日 (木)

松ヶ崎城跡(京都市左京区)

城跡は京都市左京区松ヶ崎東山にあって、「五山の送り火」の一つとして有名な東山(標高186m)の東尾根上に位置しており、その東側には天然の水堀としての高野川が南北に流れている。戦国期においては比叡山門徒の一揆によって落城の歴史が伝わり、御蔭山城あるいは三宅八幡城とも近い事から、山本氏あるいは佐竹氏の出城とも思われるが、推察の域は出ないものである、詳細は不明。

城跡へ向うには、もちろん松ヶ崎にある東山を目指せばよいが、ルート図の如く高野川に沿った通称「川端通り」を車で北上して、「北山通り」を左折すれば一番分かり易く辿り着けよう。登山口となる「白雲稲荷神社」は東山の南麓にあるが、社殿に向いて石段を登れば、右手側から山上までは登山道が通じているので、それに従えば迷うことなく山上までは到達出来る(10分程度)はずである。山上尾根には「STOP」と記された看板が東方向(右手)に設置されているが、城跡のあるその方角へは確かな山道が繋がっているので、城跡遺構は自己責任において見学すれば良いものとは思われる。

1route_2 登城ルート

7 登山口へ

2_3matu 城跡概念図

15_horikiri 西端の堀切見所

17_dorui 西端の土塁見所

20_sanjyou_kaku_2 山上郭の現状

21_nisi_hasi_heki 山上郭東端の切岸

22_one_kaku_1 北尾根上の削平地

23_onekaku_monomi 北端大岩、物見か

Sinai_enbou_1 市内を望む

現状(10月)城跡は、山道に任せれば概念図に示したまでの城域は、ほぼ見て回る事が出来る状態にあり、数少ない城跡遺構の中では、西端の郭端に土塁を伴う堀切(空堀)、東端の郭切岸だけは明確に判別可能となっている。全長100m以上にも達する山上郭内には相当雑木が密生し、低草木も蔓延っているので、山道からは内部を覗く程度になるが、特別技巧を凝らした遺構は目に留まらなかった。もちろん縄張りプランから考えても砦規模の山城でもあり、敢えて防備の為に技巧を駆使する必要はなかったものとも考えられるが、、、。いずれにしても岩倉地区の城跡は、古い形態の城跡が多く見受けられるので、信長が京都を手中に収めたまでが、この山城の本来の値打ちなのかも分からない。

城跡に山城としての見応えも魅力も個人的には余り感じられなかったが、低山でありながら、当時でも現在でも、場所によっては市内が一望できる城跡は数少ないものでもあり、トレッキング気分で訪れるなら、山上では僅かな遺構も味わえて、充分納得の行く山城巡りとなるのではないだろうか、、、

2009年12月 1日 (火)

岩倉上蔵城跡(京都市左京区)

城跡は京都市左京区岩倉上蔵(アグラ)町にあって、京都では有名な「実相院」西背後の尾根に位置しており、ここより直ぐ東側に望める単独で聳える低山、小倉山を本拠とした地元士豪の一人である山本氏の居城(支城)と伝わっているが、詳細は不明。

城跡へは京都市内でも相当北の奥に位置する岩倉地区を目指せばよいが、目印となるのは「実相院」あるいは「北山病院」であり、車で訪れた場合、有料駐車場を使用しない場合は、路駐箇所を探すには非常に難渋するのが現状でもある。城跡への登山口(山道がある)は詳細ルート図には示したが、赤線ルートを辿れば道標は設置されてはいないが、認知症療養病棟の建物の直ぐ裏側に辿り着け、そこからは山道に任せてそのまま上ればよい。ただ登山口は病棟建物の直ぐ背後でもあり、裏に回る為に一旦小さな駐車場を通過する事になるので、もし病院勤務の方と目が合えば、事情を説明した方が怪しまれずに済むのではないかとは思われる。ここから上れば、斜面上に展開される郭群をゆっくり見学しながら、20分もあれば山上主郭までは辿り着ける筈である。

Agura_1 登城ルート

4_3 進入口

Agura_2 城跡概念図

現状(10月)城跡は山城らしく当然藪化は進行中にあるが、移動あるいは見学に差し支えるまでには至っておらず、山上に展開される郭跡を含めた遺構群は、ほぼ判別確認可能な状態にある。ただ自然に任せた風化は相当進行しているので、郭切岸などは非常に曖昧なものであり、土塁なども僅かにそれと判別出来る状態、空堀なども相当土で埋もれてしまっているので、細部における地形の変化を注意して窺う必要はあるだろう。概念図に示したまでが踏破した範囲であり、目に留まった遺構をそれなりに記したものだが、古い形態の山城とみえて、現状これ以上の遺構は余り期待出来ないようにも感じられた。結果的には山上郭群は高低差も少ない事から、切岸高低差などの醍醐味も味わえず、薬研堀などの様なインパクトのある遺構も眼にする事が出来なかったが、総全長300mにも及ぶ城域あるいは遺構残存度の高さ、急峻過ぎる地形などからも、山城としての醍醐味は充分満たしてくれていそうには思えた。

10_heki 北側斜面の郭跡

13_kita_dankaku_gun_1 北段郭群

16_shukaku_dorui 主郭の土塁見所

20_2aru_minami_karahori_1 二の丸南空堀見所

24_3aru_karabori_ato 三の丸僅かな空堀跡

25_koudai_na_kaku_1 南郭

28_nantan_horikiri_1 南端の埋もれた堀切

城跡を個人的に評価したなら、見応えのある遺構は皆無に近いが、風化に任せた遺構群も、想像を働かせれば充分戦国ロマンには浸れそうとも思えるし、縄張りを含めた古い形態の山城そのものが、見応えを感じる部分なのかも分からない。史跡ファンには状態も良くないので余りお薦め出来ないかも知れないが、山城ファンにおいては、山道を利用すれば迷わず到達出来る事からも、充分お薦め出来る城跡とは目に映ったが、、、

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