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2009年11月

2009年11月30日 (月)

西ノ上城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市三和町草山にあって、県道59号沿いにある天満神社より北側に数100m移動した道路に迫り出した尾根先端部に位置しており、三和町パンフの中では「ニシンジョ城」とも記載されている。立地環境から考えれば、同じ三和町にあってダマ城を本拠としたと考えられる細見氏の出城とも推察出来るが、歴史に語られるほどの城跡ではない為に詳細は不明。

城跡へは国道9号から現地を目指した場合、「芦渕」交差点より県道59号へ西に針路変更、目印となる天満神社あるいは概念図にある「草山」バス停を目指せば分かりやすい。バス停付近には充分路肩に空きスペースもあるので、そこから城跡を目指しても主郭までは10分程度で辿り着ける筈である。ただこの城跡は遺構は完存であると聞いていたので非常に期待して赴いたのだが、現状見る限り山上は荒れ放題となっており、更に雑木に覆われて移動も困難、地表が露見している箇所も僅かであり一息付ける場所もないのが現実である。それでも郭に備わる土塁、堀切は確認可能でもあり、何とか面目は保たれているが、縦堀などの遺構はあったとしても視認は困難、小規模な城跡である為に縄張りを把握するまで漕ぎ着ければ良しとするしかないようにも思われた。遺構の完存は充分うなずけたが、この状態では雑木藪の見学に訪れた様なものでもあり、確認し辛い残存遺構あるいは際立った遺構が目に留まらなかった事をを考えれば、三和町における細見氏の城塞群に興味のある方以外では余りお薦め出来ないのが本音かも知れない。

1route 登城ルート

N_13 南より遠望

4_tozanguti 直登取り付き地点

3ni 城跡概念図

6_dankaku_heki 東段郭群の切岸

7_shukaku_genjyou 主郭の現状

9_horikiri 堀切

今回の山城巡りでは既に訪問を終えた本郷城は別として、同日訪問で三和町パンフに記載されてあった小見山城(辻野屋敷)、ダマ城、殿屋敷城、そして今回の西ノ上(ニシンジョ城)城跡と細見氏の城塞群はほぼ踏破した計算にはなったが、何れも小規模な城跡が多く、丹波在地豪族の一人でもあった細見氏の勢力も、城跡巡りをしていればある程度窺えそうにも思われるのである。細見氏の菩提寺が本郷城のある松隣寺にある事からも、この地が細見氏最後の地あるいは最後の拠点なのかも知れないが、細見氏が小さな勢力で最後まで巨大勢力でもある明智軍と渡り合った事を思えば、勇猛かつ硬骨な武将であった事は事実とも思えるのである。

2009年11月29日 (日)

藍岡山城跡(兵庫県三田市)

城跡は三田市藍本にあって、藍本地区を南北に流れる武庫川の西側に位置しており、比高20m前後の低丘陵上にある。当時の城主としては変遷も激しい模様ではあるが、川を隔てて直線で東側2kmの距離にある、本庄丸山城を本拠とした森鼻氏の支城あるいは出城とも推察されよう、詳細は不明ではあるが、付近には「森鼻」を名乗る看板のある商店が目に留まったので参考までに、、。

城跡へは京阪神から向えば、篠山市内まで繋がる国道176号を利用して北上を続ければよいが、藍本地区にある「波多橋」交差点を過ぎれば、ルート図の赤線を辿れば概念図に記した付近までは、難なく到達出来るものとは思われる。車は城跡西側にある、ゴミ集荷所の付近に空きスペースは充分あるので、自己責任において停めれば良いものとは思われる。そこからは丘陵に向いて畦道を歩けば、自ずと城域に繋がる西端堀切に、到達出来るはずである。

1route_1 登城ルート

4_1 国道より城跡遠望

9 進入口

3ai 城跡概念図

現状(11月)城跡は、雑木も相当蔓延ってはいるが、一部の矢竹密生地を除けば、移動に難渋するまでには至っておらず、東西に渡る直線的でシンプルな縄張りは、ほぼ把握する事が可能な状況にある。判別可能であり目に留まった遺構は概念図に示した通りではあるが、丘陵上西端の堀切(現状堀切道)、主郭西背後の空堀、虎口に見えた空堀地形が見所と言えるものだろう、他では主郭の南側壁あるいは西空堀壁にあたる切岸などが、未だに鋭角さを保持しており、見る分においては非常に満足度の高いものと感じられた。主郭の空堀側には僅かに土塁跡の高まり(櫓台か?)が窺われたが、恐らく盛り土(掻き揚げ)の土塁である為に、その多くが長年の風化によって流失したものの様にも見受けられた。

13_seitan_horikiri_1 西端堀切見所

16_karabori_1 主郭西空堀見所

20_shukaku_minamikaku 主郭南切岸見所

20_shukaku_minamikaku_1 南郭

18_shuaku 主郭内

数多くの土塁城を訪問された方なら既にお分かりだとは思われるが、土塁だけを取り上げれば、ほぼ二通りの構築の仕方があって、古代の山城あるいは古墳などは版築によって築かれたものもあるが、戦国期の山城の多くは常に臨戦体制にあった為か、圧倒的に削り出しの土塁が多く見受けられる、その多くは郭跡と一体化している為に、未だに僅かではあるが形状が保たれているので遺構と判別し易いが、この城跡の様に土の流れ出した土塁(見極めは切岸がしっかりしているのに土塁の切岸だけが明らかに消失しているケース)は、ほぼ盛り土式の土塁と見て良いのかも分からない。しかしそれでも非常に判別し難いのが現状ではある。もちろん地形から窺える遺構の想像が、城跡巡りの中でも遺構の見応えと並んで一番楽しめる部分でもあり、縄張りプランと並んでウェイトを占める部分でもあるが、この城跡の様に風化が進んでおれば、土塁虎口及び郭境などと並んで判別は難しいものでもあり、そのほとんどは見学者の想像に委ねられるとは思われる。見応えにさえ拘らなければ、状態は良いとは言えないが、縄張りも含めた比較的残存度の高い遺構群、更にお手軽感を考えれば、充分お薦め出来る城跡とは言えようか。

2009年11月27日 (金)

池谷城跡(神戸市西区)

城跡は神戸市西区櫨谷町池谷にあって、訪れる際の目印となる櫨谷小学校側からは直ぐ視界に入る、南東側の丘陵上の先端部に位置している。当時は端谷城を本城とした支城として位置付けられているが、秀吉による三木城攻めの際には、本城あるいは数多い支城と共に落城した歴史が伝えられており、鎌倉時代より続いた衣笠氏の歴史も、ここで終止符が打たれた模様である。

城跡へは県道52号を経由して「櫨谷小学校」を目指せば分かり易が、現地に到着すればルート図の如く神社のある「老人憩いの家」傍の空きスペースに車は停められるだろう。そこからは東側に望める、通信施設の鉄塔が建つ丘陵が城跡でもあり、直ぐに場所は確認する事は出来るが、直接進入口となるのは通信施設脇からでも良いし、そこから山裾を巻く山道のどこから進入しても、竹林地(郭跡)を通過すれば主郭までは5分もあれば到達可能である。

3 登城ルート

6_2 城跡進入路

現状(10月)城跡は予想通りに藪化は深刻化しており、郭移動にも木立の間を縫いながらの移動は余儀なくされ、更に生い茂る低草木によって郭跡全体像の視認、あるいは遺構の判別確認は非常に困難な状況となっている。おまけに風化も更に追い討ちをかけている事から、土塁と見て取れた地形も郭切岸も非常に曖昧なものとなっており、竹林地に重なり合う郭跡などは、長年の堆積物(枯れ葉)などによって切岸も判断し辛い状況となっている。現状全域を踏破した訳ではないが、何とか目に留まった遺構を挙げれば、郭跡を除けば土塁及びそれに付随する虎口跡、空堀(空堀道か?)、縦土塁などであり、丘城でありながら起伏に富んだ地形からも、縄張り妙味はありそうには感じられたが、それも判別し難い地形の為に遺構の断定までには至らず、残念ながら自分の中では中途半端な城跡となってしまった。現状一番判別し易い遺構は通信施設の東側(主郭から見れば西側)に備わる空堀、その上部に位置する地表がフラットな数段の郭跡及びその切岸程度であると言っても過言ではなさそうに思える。もちろん主郭などは平坦地形ではあっても、草木に覆われて郭形状も掴めない状況にある。

11_kaku 北側の郭跡

20_nisikarabori_dorui 僅かに判別可能な空堀土塁

22_dorui_karabori_3 西側の空堀

24_heki 25_kaku_heki 郭切岸

Shukaku_nai 主郭の現状

以上挙げた限りでは訪問には値しない城跡の様に感じられるとは思うのだが、状態がこれほど悪くなければ、遺構の判別も意外に規模の大きい城跡も歩き回って体感出来たのではないかとも思えるのである。当然冬季(それも12月から2月まで)訪問が限定の城跡とも言えようが、5分程度で主郭まで到達可能な事を思えば、評価は甘くなるが「見ておいても決して損にはならない城跡」、と言うのが自分の出した結論になろうか、、、 

2009年11月25日 (水)

伊賀宮山城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市馬場にあって、陽夫多(ヤブタ)神社直ぐ背後の低山の山上に位置しており、現在この山上では古墳も多く目にする事が出来、神社からは古墳見学も含んだ案内板及び見学し易い遊歩道が設置されている。宮山城自体は一城を指すものではなく、現地案内板あるいは案内パンフには記載されているが、宮山1号城から3号城まで三城が分かれて東西に渡る丘陵上に位置しており、各々に城主は不明、更に城にまつわる伝承も残されていない事から、区別する為に三城を数字で示したようには感じられた。

伊賀の城跡の多くは、土塁で周囲が覆われた館城であり、この宮山三城もその中の一つにはなろうが、見る限り山上は起伏も無く、三城の間はほぼフラットな状態であり、この丘陵上も全て城域として機能していたものの様には窺われた。ちなみにこの地域が馬場となっている事からも、山上は規模の大きい馬場跡であったような気がしないでもない。案内板には信長による伊賀侵攻の際に築いた、陣城の可能性があるように記載されてあったが、この土塁に囲まれた郭跡は、紛れも無く定番とも言える伊賀の城跡の縄張りプランであり、仮に織田軍の陣城だとすれば、城を落とした後に山上を陣城として利用しただけのものとも思えるのである。

1route_4 登城ルート

Miyayama 現地案内板より

3_1_2 城跡概念図

11_koguti 3号城、虎口

14_kakunai_1 3号城、内部

16_karabori_1 3号城、空堀

25_dorui_heki 2号城、土塁内壁

21_2gou_karabori 2号城、空堀見所

29_karabori_dorui 1号城、土塁と空堀見所

31_kakunai_3 郭内部

32_dorui_heki_1 高土塁の内壁見所

35_horikiri_miti 西堀切見所

城跡へは陽夫多神社を目指せば難なく辿り着けるが、遊歩道進入口は社殿背後となっており、そこからは古墳見学ルート(城跡見学も兼ねる)に従って歩けば、3号城(ここまで5分)から一番西側に位置する1号城までの城跡遺構は、案内道標もあるので見落とす事無く見て回れるはずである。

現状(10月)城跡はほどよく整備されているので、歩き易く見学し易い状態にあり、全てとは言わないまでも、各々に備わる遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。三城の中では一番規模の大きい1号城が最も見応えがあり、堀切より更に西端までは藪地である為に踏破出来なかったが、高低差のある土塁、状態の良い空堀といった具合に、充分目は楽しませてくれそうには思われた。2号城は少し小規模ながらも1号城と同様に土塁周囲には空堀が巡らされており、3号城は恐らく当時は土塁で覆われていたとは思われるが、僅かにその痕跡を地形から窺う事が出来た。この郭跡には周囲全てを覆っている訳ではないが、東西に随分埋もれた空堀の痕跡も残っており、東端にある古墳も物見として縄張りに取り込まれていたようにも窺われた。個人的に目に留まった遺構は概念図に記したが、丘陵上の西端まで踏破した訳ではないので、遺構もこの限りではないのかも知れない、、、 見学し易い事からも、古墳群も含めた史跡としての訪問、あるいは城跡としての訪問、どちらにしても充分お薦め出来る城跡の一つであるようには目に映った。

2009年11月23日 (月)

松山氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は伊賀市青山町比土にあって、既にリポート掲載を終えた龍王山城から見れば、峠を挟んだ北側に位置しており低丘陵先端部にある。この城跡は伊賀にあっては珍しくない、城の居館跡が空堀を挟んで対峙している形態であり、南側が松山氏城、直ぐ北側が早山氏城となっている。

城跡へは先に触れた龍王山城の登城ルートと共通で、国道165号の「阿保」信号を通過した場合、1km西側にあるパチンコ店より右折北上すればよい。ルート図の如く峠を越えれば、謎の店舗(どの様な店か分からない)の手前50m付近に車は停めて(空きスペースはここしかない)、右手側の小高い丘状地形に向いて進入すれば、直ぐ空堀地形とマウンド(土塁か?)地形が目に留まる筈である。ここからは浅い谷状地形を越えれば、直ぐにでも松山氏居館跡の周囲を覆う大土塁が迎えてくれる運びとなる(5分程度)。尚、この城跡は概念図中に示した様に、城跡の西虎口から店舗兼住居の裏庭に、いきなり山道が通じている事からも、店舗経営者の所有する土地とも考えられるので、場合によっては声をかけた方が良いかも分からない。とにかく西側の虎口土塁付近に近寄っただけで番犬が吠え続け、流石に近所迷惑になったとも考えられるので、西側(虎口側)の見学には余り長居はしない方が良いものとは思われる。

1_1 登城ルート

1_2 城跡概念図

10_minami_ukedorui 松山氏 受け土塁見所

30_yagura_1 松山氏 櫓台

20_dorui_4 松山氏 土塁見所

25_dai_karabori 中央大空堀見所

現状(10月)城跡は相当藪化は進行しており、特に松山氏城の郭内はほとんど見通しは利かず、周囲を巡る高土塁と空堀遺構の見学が精一杯の状況となっている。しかし内部の様子は窺い難いが、土塁虎口跡あるいは武者隠し的な受け土塁は明確に判別可能な状態でもあり、土塁背後を巡る空堀と並んで、充分目は楽しませてくれよう。早山氏城の方が状態は比較的ましとは思われるが、郭内部もある程度見通しが利くので、見事な高土塁の切岸、あるいは分厚い土塁上をそのまま歩く事によって、空堀までの高さも体感する事が充分可能な状況となっている。

Haya_kakunai 早山氏 郭内部

Haya_naiheki 早山氏 土塁内壁見所

Haya_koguti 早山氏 土塁虎口見所

Haya_jyoudan_kakugun_9 早山氏 東側郭群

この二城の見所は何と言っても空堀と高低差のある高土塁に尽きとは思われるが、二城に挟まれた幅のある巨大な空堀は、城跡にあっては圧倒的な存在感を誇るものでもある。早山氏の丘陵上東背後側には、土塁で囲まれた郭跡、あるいは空堀地形まで窺う事が出来、更にそれを跨いだ形で、東側には大規模な土塁を伴う郭群が、これでもかと言わんばかりに広い範囲に展開されている。個人的には山城巡り最初となる一回目の早朝訪問でもあり、次の予定を考えれば東側更に北側丘陵上まで探索する事は叶わず、悔しい思いを残しながら城跡を後にしたのだが、これら東側における縄張りも併せたものとすれば、城域は概念図に示したものより、遥かにはみ出ている様には感じられるのである。この二城はあくまで居館と捉えただけのものであり、丘陵上は更に北側にも縄張りは展開されている様にも感じられたので、個人的には再訪の余地を少し残してしまったのが残念な処ではある。評価としては多くの伊賀の城跡とも共通するが、高土塁の魅力あるいは深い空堀は他を圧倒するものでもあり、土塁の残存度及び高さだけで比較するなら、近畿圏では伊賀の城跡に敵う城跡はないものと感じられるのである。

2009年11月22日 (日)

別府 城氏城跡(三重県伊賀市)

この城跡は既にリポート掲載を終えた、同じ伊賀市青山町(伊勢路)にある城氏城跡と同名でもあり、混同を避ける為に位置する地区名でもある「別府」を頭に付けて掲載に及んだが、距離的にも伊勢路の城氏城跡はここから東へ3km離れている程度なので、城氏の支城あるいは本城と位置付ければ良いのかも分からない。こちらの城氏城は、当時の記録としてフルネームで「城 八太夫」の名が挙がっているが、詳細は不明でもある。

城跡が位置するのは、近鉄大阪線「青山町」駅の直ぐ北側にある低山(丘陵)の東端で、国道165号からも直ぐ望めるので確認はし易いだろう、京阪神から向う場合は国道165号より青山駅を目指せば、迷わず付近までは辿り着ける。現地付近ではルート図及び概念図を参考にすれば、山上に向う山道は直ぐ見つかるはずだとは思われるが入山口から主郭までは5分強)、車は入山口に近い広い道路の角付近に路駐可能なスペースがあるので、自己責任において停めれば良いものとは思われる。

1route2 登城ルート

6 城跡進入路

3jo 城跡概念図

現状(10月)城跡は相当藪化は進行しており、移動に余り難渋はしないが、概念図に示した山上本郭群はとても醜い状態にある。特に便宜上の二の丸は、外見から内部を覗く事も踏み入る事も非常に困難な状況、土塁に囲まれた穴蔵状の主郭は何とか踏み入る事が可能な状態となっており、周囲を巡る土塁も穴蔵形状も明確に判別する事が可能である。他はさほど見学に支障は来たさない程度だと思って頂ければ良いだろう。

城跡の見所は山上本郭群の周りの全と言っても良いとは思われるが、伊賀にあっては掛田城、山村城、小鴨氏城などでも見受けられた、櫓台の土台とも思える穴蔵状の構造物は真っ先に挙げられる。先に挙げた三城も恐らく同じ機能として築かれたものだとは思うが、機能に関しては個人で想像を膨らませ、楽しんでもらうのが一番良いものとは感じられた。次に来るのは主郭を北から南にかけて巡る空堀でもあるが、これは比較的状態が良い事からも、充分観賞に耐えられるものとなっている。山上本郭群の規模はさほど大きいものではないが、三方に広がる尾根上、特に西側尾根上はかなりの広さで連続する削平地が窺われ、主郭に向かう為に通過して来た南側にも、草木が相当蔓延って郭形状までは把握出来なかったが、相当な広さの郭跡が見とめられた。

22_shukaku_dorui 22_shukaku_dorui_1 主郭穴蔵内部と土塁見所

26_nisi_karahori 西空堀見所

36_higasi_gedankaku_dorui 東郭の土塁見所

32_kitagawa_karahori_1 北側の土塁と空堀見所

37_higasi_karahori_1 東側の空堀

38_higasi_kaku_2 東出郭

低山ではあるが地形をフルに活用した縄張りプランは、城跡の形態としては山城のそれに近いものがあり、訪問するにおいてはお手軽感はあるが、状態が良いとは言えないので、一般の城跡ファンには余りお薦め出来ないが、伊賀の山城に興味のある方、あるいは山城ファンにおいては、覗いて落胆するような事は絶対に無い様には感じられるのである。

2009年11月21日 (土)

判明した城跡呼称

今までブログに紹介した山城の中で、自分自身では城跡として目星を付けながらも、無名で文献資料などには僅かな記載である為に、城跡遺構と明確に判明しながらも呼称が判明せず、所在地と城跡名が結びつかない山城が幾つかありました、その中で今まで止むを得ず、暫定あるいは仮名としてリポート掲載したものが、その後の追跡調査、外部からの情報、あるいは色んな資料に目を通した事によって、何とか城跡呼称を判明させる事が出来ました。

今回は今まで暫定、あるいは仮名としたものの中で、新たに公的に使用されている城跡呼称が判明した分と、城跡名を取り違えている可能性の高い城跡を二つお知らせしたいと思います。

1、京都府船井郡京丹波町和田にあって暫定)和田城跡としたものは垣内(カイチ)城跡1_3 Photo_5

08/11/3日掲載のリポート暫定)和田城は、既に垣内城として改訂済み 

尚、ルート図には記しましたが、本来の和田城と呼ばれる無名に近い城跡は、国道を隔てた南西側の山上に存在しており、既に訪問は終えました。この山城も世間では全く知られておりませんが、近日中にはリポート掲載に及びたいと思っております。

2、京都府亀岡市稗田野町鹿谷にあって千手寺城塞群の中で暫定)西山城塞南砦としたものは西山城跡1_2

Photo_4

3、京都府福知山市大呂奥谷にあって仮)桐村城砦跡か?としたものは奥谷城跡1route_2 Kita_betu_mine_kaku_2 Kita_betu_mine_kaku_1_3

この城跡は、「桐村城所在地判明」記事の中では少し触れたと思うが、ルート図に示した様に、現在城跡には神社が建立されており、その敷地一帯周辺を城域とすれば良いものとも思われるが、規模は比較的大きく、敷地内には良好に郭跡(削平地)が残っている。ただ近世においては造成地形改変があったものとも見受けられる事から、当時の状態は自ずと見学者の想像に委ねられる様には感じられた。隣接する金山城などとの山城巡りの一環として、少し寄り道訪問しても、決して無駄足には終わらないとは思えるが、、。

4、三重県伊賀市島ヶ原にあって(仮)恒矢南城としたものは高瀬城跡  尚、同じ大道地区にある恒矢城跡は、掲載において「恒」を「垣」と誤字している事が最近になって判明しましたので、改めて訂正のお知らせをしておきたいと思います。正確には恒矢(ツネヤ)城1r 3ka

5、京都市南丹市八木町北広瀬にあって、(仮)広瀬城としたものは北広瀬城跡

他にはまだ確証までには至っておりませんが、京都府福知山市川北の仮名)川北城跡としてリポート掲載した城跡は、城跡の南麓に山ヶ市観音堂がある事からも、この城跡は川北山ヶ市城跡(市の遺跡データにある事が判明)の可能性が高いものとも見受けられます。同じ川北地区には、ほぼ東側丘陵上に隣接していると聞いた川北上村城跡が現存している事からも、この城跡の規模から考えれば、自ずとその出城の可能性があるとは思われますが、この山ヶ市城跡の形態が、城館とした分類になっているのも確かであり、中々確信するまでには至っていないのが現状です。機会が何時訪れるかは分かりませんが、上村城跡訪問の際には、是非判明させたいと思っています。尚、訪問記事自体は変わりようがないので、仮名としたものが実際の城跡名と合致するまでは、そのままにしておきます。

城跡呼称を取り違えた山城は、京都府宮津市里波見にある高尾城跡京都府亀岡市稗田野町にある茶屋城跡で、前者は同じ地区で他に高尾城が隣接している事からも、高屋の「」と「」を取り違えて掲載していた事が最近になって分かりました。よって高尾城跡としてリポートしたものは、本来は高屋氏の拠った城跡、高屋城跡の誤りであったので、ここで改めて訂正したいと思います。

後者の茶屋城はまだ確証までには至っておりませんが、最近になって本来の茶屋城は、道路を隔てた反対側に位置していると言った情報を掴みました。現状の乏しい資料の中では、まだ確認も確証にも至っておりませんが、この明確に現存する規模の大きい城跡遺構は、別の呼称を持った城跡、あるいは他の支城とも考えられる事から、過去リポート掲載した茶屋城跡に関しては、これからも判明するまでは追求していきたいとは思います。しかし今回はほぼ別に同名の山城が存在している情報を得た事からも、紛らわしい事もあって、記事は一旦削除して、明確になり次第再び載せる事にしました。もちろん本来の茶屋城は、いずれにせよ探して訪れるつもりではおりますが、、、取り合えず今回は茶屋城を除いては、やっと呼称の判明に漕ぎ着けた城跡もあり、個人的には二歩前進と言った処でしょうか。

2009年11月20日 (金)

西浦城跡(神戸市北区)

城跡は神戸市北区大沢町日西原にあって、神戸市内にあっても三田市に近い北端の山間部に位置する「城山」の地名を持つ丘陵上にある。当時は高井氏の居城が唯一伝わっているが、詳細は不明

城跡へ向うには、高速道路も色んな選択肢が考えられる事から、ここでは割愛させて頂くが、既にリポート掲載を終えた上津茶臼山城を起点とすれば分かり易いだろう。吉川あるいは滝野社に繋がる県道17号を走り現地に向えば、ルート図に示す様に県道沿いにある、城山バス停、あるいは現状看板だけではあるが、ドライブイン城山」を目印として目指せばよい。現地に到着すれば城跡進入口は図中にある東西二箇所考えられるが、車を停めて5分内で城域に入れるのは、西側の県道の歩道沿いからで、ここは全て竹林地となっているが、二の丸とも見受けられる広い空間に真っ先に到達可能でもある。東側から進入する方が、造成された道もあるので少し楽ではあるが、若干遠回りにはなるだろう。

1route 登城ルート

6_tozanguti 直登進入口

3ni 城跡概念図

この城跡はニュータウン建設による宅地化によって、比較的遺構残存度の低い城跡の多い、三田市に近い地域にありながらも、城域の一部を除いてはほぼ縄張りは当時ままとも見受けられる状態が自然保持されており、訪問結果としては極めて遺構残存度の高い城跡と見受けられた。しかし現状(11月)城跡は、竹林化あるいは藪化が相当深刻化しており、非常に見学し難い状況となっているので、生い茂る竹林を苦ともしない、あるいは竹林の隙間からでも遺構の判別、想像がある程度可能とも思える、城跡に興味を持たれた山城ファンの方にのみ、ここでは訪問をお薦めしたいと思う。

先に触れた様に、一部の地域だけは重機が入って資材置場として相当造成地形改変された形跡が窺えるが、取り合えず歩き回って独自で判別確認出来た遺構は概念図に示した。見所は西直登進入地点から最初に覗く事の出来る、便宜上の二の丸から東側にかけての重なり合う段郭群で、これらは生い茂る竹林地にありながらも、画像に示した様に直立に近い切岸、ほぼフラットに近い削平地の状態が未だ自然保持されており、非常に目を楽しませてくれている。他では枯れ池なのか空堀(武者隠し)なのか、凹状の判別し難い地形も主郭南側に見て取れたが、これらは見学者の想像に委ねたい。

7_2maru_110_2maru_dan 二の丸内見所

10_2maru_dan_2 郭切岸

27_dankaku_heki_2 27_dankaku_heki_1 南段郭群切岸見所

18_shukaku 山上主郭の現状

結果的には、城跡の形態が低山の一山から形成される縄張りである為に、見応えのある堀切などは目に留まらなかったが、一山全体がほぼ郭跡として占められた、比較的規模の大きい城跡なので、非常に見応えを感じる事は出来た。藪漕ぎ移動までには至ってはいないが、ほぼそれに近い山上郭群までも草木に覆われる現状、歩き回れば規模も体感出来るし、縄張りも何とか掴めるとは思われるが、この現況リポートによって、城跡に少しでも足を向けて頂ければ、少なからずとも紹介した値打ちはあったものと感じられる。

2009年11月18日 (水)

扇山城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市夜久野町井田にあって、標高225mの「扇山」山上に位置しており、先にリポート掲載を終えた千原城からも、充分望むことが可能な位置にある。この山城も城史に関しての情報は皆無であるが、衣川氏が居城とした千原城を、当時では山上郭からは充分望めた(現状では木々に遮られ不可能)こと、あるいは古来の街道が扇山東側の川沿いにあった可能性を考えれば、自ずと有事の際には千原城(本城)に、事を逸早く伝達出来た物見(狼煙台)砦、あるいは最前線における出城とも窺えるものである(推察)。

城跡へは、千原東城を起点とすれば分かり易いが、東城からも直ぐ望める北側の川を隔てた、通信施設のある場所が城跡への登山口となる。この山道はかつて南尾根先端にあった薬師寺跡まで(15分前後)道が繋がっており、そこから郭跡とも見受けられる、尾根上の平坦地形を窺いながら尾根に沿って上れば、登山口から山頂までは藪漕ぎもなく、ゆっくり上っても30分内で到達可能となっている。もちろんルート地形図に記された、西側の林道からも可能とは思えるが、見るからに長い距離、あるいは山上西側の地形は等高線が非常狭い事からも、凄い斜面が予想されるものでもあり、まだ未訪の方には、迷わず此方からの登山をお薦めしたい。30分は長く感じられようが、薬師寺跡から先は、山上郭手前まで厳しい斜面を上ることはないので、比較的楽な登山である様には感じられた。

Photo_2 登城ルート

7_tozanguti 登山口

1 城跡概念図

10_yakusiji_ato_2 南端の薬師寺跡

14 尾根上の平坦地形

22_horikiri_2 23_horikiri_dorui 堀切見所

25_shukaku_heki 矢竹の隙間に主郭切岸

26_higasi_kaku 東郭

現状(11月)、規模の小さな山上主郭は細い矢竹で覆い尽くされており、内部の様子はほとんど外見から窺う事は困難な状況となっているが、他は地表がほぼ露見しているので、見学に余り支障は来たさない状態にはある。とは言っても、目に留まった城跡遺構は、郭跡を除けば土塁の付随する堀切縦堀かもしれない地形、土橋状の細い移動尾根程度でもあり、見応えのある遺構は皆無に近いものである。しかし山上郭群の周囲はほぼ崖状地形でもあり、この険峻極まりない山上に位置する、城跡の形態そのものが充分見学に値する様には感じられるのである。山上郭のみで考えれば、単体でおよそ15m程度の規模でもあり、物見か狼煙台としての機能しか浮かんで来ないのだが、自然に任せたままの城跡の縄張りは、現状からでも充分把握が可能であり、遺構残存度は案外高いものとも見受けられた。城跡は限りなく無名に近い山城ではあるが、興味を持たれた方、あるいは登山する事に苦がなく、楚々とした山城が好きな山城ファンにのみ、比較的山頂までは迷わず楽に登れる事からも、個人的には薦めしたいとも思えるのである。

2009年11月17日 (火)

千原東城跡(京都府福知山市)

この城跡は先にリポート掲載を終えた、千原城からも望むことが可能でもあり、尾根を一つ隔てた直ぐ東側の丘陵上に位置している。城史に関しての情報は、隣接する千原城と同様に現状では皆無に等しいが、市の遺跡呼称の中では「東シ城」となっている事からも、まさかトウシ城と呼ばれたとは思われず、ここでは千原城の東側に位置する東支城(ヒガシシジョウ)として解釈した上で、訪問リポートは「千原東城跡」として掲載させて頂いた。自ずと千原城の支城としての認識があった様には感じられるのだが、、、。

城跡へは千原城を起点とすれば分かり易いが、外見から望んでも直ぐ城跡と分かる山容は、位置確認もし易く概念図の如く公民館から出て、墓参道を利用すれば、直ぐにでも丘陵上までは到達可能となっている。

Tihara_1_2 登城ルート

6_tiharajyou_yori 千原城より東城遠望

Photo 2 城跡概念図

8_hokutan_kaku_1 先端の郭跡

9_isizumi_1 謎の石積み

10_kita_2kaku_1 北西郭と土塁見所

13_kita_horikiri 堀切見所

16_dobasi_dorui 最奥の堀切に備わる土橋地形

17_horikiri_1 城跡最奥の堀切見所

現状(11月)、主郭に相当する郭跡地のほとんどが、集合墓地として造成地形改変されたものと窺われ、取り合えず自作概念図に示したまでが、個人的に判別確認出来た遺構と言う事になるが、丘陵上では二箇所の土塁、空堀、堀切とした場合の縦堀跡最奥に施された堀切などが目に留まった。城跡の先端部分も北東側斜面も、治山工事によって大部分が切岸化されており、当時の遺構は相当消失したものとは見受けられたが、城跡の形態は郭高低差の余りない、ほぼフラットな地形をそのまま利用したものの様には見受けられた。当然、当時の郭形状などは訪れた者の想像に委ねられる状況にあるが、この城跡の形態から考えても、規模の大きい集合墓地内には、複雑な遺構は大して存在しなかったとも言えるのかもしれない。尚、この城跡との中間に位置する枝尾根上も、戦略的には縄張りと考えても良さそうには思われたが、踏破確認するまでには至れなかった。他では城跡先端部に方形状に石積みが窺えたが、これは恐らく近年における炭焼き窯跡、あるいは何らかの形で近年構築されたものの様には窺えた、、、謎。

千原城(本城)に直ぐ隣接する事からも、二城併せた同日訪問は当然お薦め出来るものでもあり、二城の位置関係及び築城された環境、あるいは形態の違いなども併せて見学すれば、自ずと有意義で充実した城跡巡りが出来るのではないだろうか。

2009年11月15日 (日)

夜久野 千原城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市夜久野町千原/下千原にあって、千原川となる二つの川に挟まれた形の丘陵上に位置している、この城跡はほぼ無名に近いが、訪問結果としてはほぼ完存とも見受けられる素晴らしい遺構残存度を誇っており、丘陵上の一部は、ある程度整備されていた様にも窺えるものであり、見学し易く状態も比較的良い事、あるいは縄張りも直線的で単純ではあるが、二箇所の大空堀で守備された形態は、非常に見応えが感じられるものであり、個人的にも是非訪問をお薦めしたい城跡の一つである。

城史に関しての詳細は不明ではあるが、古くは奥州より移り住んだ衣川氏の居城とだけ伝わっており、この周辺の集合墓地には、その子孫の方かも知れないが、衣川の名を刻んだ墓石が数多く見受けられた。 城跡へは国道9号を走れば「額田」交差点で南へ針路変更、後はルート図の如く集落(公民館)を目指せば、付近までは難なく辿り着けるだろう。現在、城山までは画像(概念図)に示したガレージ脇から、道標は無いが細い山道が城山まで繋がっているので、迷うことなく主郭までは到達可能である。尚、車はバスの旋回地となっている公民館には預けられないが、付近の市道を探せば路駐可能な空きスペースは多く見当たるはずである。

Tihara_1 登城ルート

10tozanguti 登城口

Tihara_2 城跡概念図

現状(11月)城跡は先に触れた様に、竹林地となっている東郭の一部を除けば、郭内は樹木も少なく見通しも利く事からも、非常に見学し易い状態にあるので、遺構の判別は容易い状態にあると言っても良いだろう。個々の郭規模が比較的大きいので、城跡規模も随分大きいものとも感じられるが、実際には縄張り総全長は200mにも満たないものであり、縄張りプランも単純なものではある。見所は何と言っても、主郭を挟んだ形で築かれた二箇所の大空堀に尽きるとは思われるが、主郭背後は薬研堀(堀切、前面は幅を持たせた空堀と、縄張りとしての工夫は充分窺え、主郭には判別し易い土塁が半周ほど巡っており、堀切壁ともなる大土塁と並んで、非常に目を楽しませてくれる様には感じられた。複雑な技巧を伴う遺構が見当たらない事からも、特別縄張り妙味を感じる城跡ではないが、民家が直ぐ傍まで迫りながら、5世紀を経た今日でも、ほぼ当時の姿のままで見学出来る状況にあるこの城跡は、正しく推奨に値する城跡とも見受けられ、城址案内板の一つでも設ければ、史跡見学者も含めた、多くの城跡ファンが見学に訪れる様な気はするのである。

22_3maru_2 三の丸

44_3maru_heki 三の丸切岸

24_karabori_nai_1 中央大空堀見所

31_shukaku_nai 主郭内

30_shukaku_dorui_1 主郭土塁見所

32_shukaku_daidorui 主郭背後の大土塁見所

35_daihorikiri_6 35_daihorikiri_5 大堀切見所

歴史の表舞台にも登場しない城主を持った、超マイナーな城跡ではあるが、現状から窺う限り、余り手入れのされていない山城(丘城)としては、遺構の判別し易さ、及び全体の見学し易さは群を抜くものでもあり、一般城跡ファンにおいても山城ファンにおいても、覗いて期待を裏切られる様な事はまず無いものと、目には映ったのである。尚、ルート図中にある東城と扇山城のリポートは、引き続き掲載予定

2009年11月14日 (土)

三宅八幡城跡(京都市左京区)

城跡は京都市左京区岩倉花園町にあって、三宅八幡神社の背後東尾根上から北東側にかけての山上に位置しており、先にリポート掲載を終えた御蔭山城を本城とした佐竹氏の支城とも推察されるが、詳細は不明。

城跡へ向うには電車なら叡山電鉄鞍馬線「八幡前」駅で下車、車なら三宅八幡神社を直接目指せば一番分かり易が、神社駐車場に車を預ければ、ほぼルート図に示した二通りの行き方で迷わず主郭までは到達出来るとは思われる。概念図には高樹院墓地からのルート(駐車場から主郭まで10分程度)を示したが、神社資料館から南側の三明院に向う道より直接左手斜面に取り付いても、尾根上削平地には直ぐ到達出来、そこからはそのまま北東側に移動しただけの、主郭までは5分程度の距離にある。

1route 登城ルート

4_2 三宅八幡神社

3hati 城跡概念図

現状(10月)城跡は木々も比較的少なく、相当風化は進行中にあるが遺構見学にも移動にも余り支障は来たさない、比較的ましな状態にはある。しかし主郭より西側は現在ゴルフ練習場として、相当な造成地形改変が窺われるものであり、当時のままの姿をそのまま拝める状態にはないので、どこまで遺構が消失したのかは見学者の想像に委ねられるが、現状から窺う限り西郭として存在したと思える地域は、全てゴルフ施設となっている様には見受けられた。現存する遺構だけで城跡を判断すれば非常に規模は大きく、南側は尾根上の先端にある三明院(砦跡か?)まで、北側は主郭背後の堀切から更に山上削平地に向いての縄張りは明確なものであり、三方尾根に縄張りは広がっているが、ほぼ単独で裾野を広げた一山から成立している山城とも思えた。

8_minami_sakuheiti 南側の削平地

10_shukaku_heki_1 二の丸、主郭の切岸

15_shukaku_1 主郭内の現状

17_horikiri_dobasi 17_horikiri_dobasi_2 堀切土橋見所

20_tatebori 巨大空堀見所

22_kita_sanjyou_kaku 北山上郭

見所は古い形態の山城である為にそう多くは無いが、主郭北背後の土橋を伴う、それも巨大空堀に繋がる堀切は真っ先に挙げられるが、技巧を伴う土塁虎口あるいは横堀などは最初からこの城跡に期待してはいけないものでもあり、他で縦堀が二条目に留まった程度に終わってしまった。ただ城跡の評価としては見所は数少ないかもしれないが、この起伏に富んだ地形及び縄張りを考えた上で、山城としての醍醐味は充分満たしてくれる様には感じられた。遺構の見応えを抜きにして、当時を物語る史跡見学、あるいは神社参拝ついでに寄れるお手軽感を考えれば、充分お薦め出来る城跡とは言えよう。

今回の京都市内における山城巡りは「中尾城」訪問以来となったが、個人的には青春時代を過ごした地に再び戻って来たせいもあってか、岩倉地区周辺を車を走らせるだけで非常に感慨深いものがあり、山城巡り以外でも他の地方では味わう事が出来ない、変わらぬままの京都独特の風情までも堪能する事が出来た。

2009年11月13日 (金)

八瀬御蔭山城跡(京都市左京区)

城跡は京都市左京区上高野東山にあって、叡山電鉄「八瀬比叡山口」駅の真南側、高野川に向って迫り出した尾根上最高所に位置しており、西側山麓には「御蔭神社」が建立されている。岩倉地区の小倉山に本拠を構える山本氏と同様に、在地士豪の一人でもある佐竹氏の本城と伝わっているが、詳細は不明。

城跡へは京都市内である事からも、車で訪れる場合は駐車には非常に気を使わなければならないが、本来なら叡山電鉄の終点地でもある「八瀬比叡山口」駅あるいは一つ手前の「三宅八幡」駅を利用して歩いて目印となる御蔭神社まで向っても、そんなに時間はかからないとは思える。ここでは個人的に車で移動(赤線ルート)したルートを紹介させて頂いたが、このルートは京都らしく非常に道幅は狭く、住宅は密集しているので車の路駐場所には相当気を使う事になる。当然お薦め出来るルートとは言えないので参考程度にして頂きたいが、住宅地東端の車は行き止まりとなっている付近には住宅造成地があった事、あるいは早朝でもあった事から、自己責任において敢えて付近に車は停めさせてもらった。住民に迷惑のかかる路駐を奨励するつもりは決してないので、ここでは駅付近に駐車場を借りて、そこから歩いて現地に向われる事をお薦めしたい。

Mikage_2 登城ルート

4 進入路

Mikage_1 城跡概念図

11_2jyuu_tatehori 12_tatehori二重 縦堀あるいは虎口見所

15_kitakaku_1 北郭

19_horikiri_heki_1 山上郭堀切壁見所

21_dobasi 堀切土橋見所

御蔭神社に到着すれば脇にある山道を利用して東背後にある広大な削平地を通過、更に概念図に示した縦土塁の付随する二重縦堀地形(一方は虎口への進入道かも?)まで向かい、それを上れば直ぐに最初の郭跡が迎えてくれる筈である(神社より10分内)。尚、城跡遺構としては断定出来るまでに至らなかったが、更に比高100mを登山道を利用してそのまま東山上中腹まで上れば、画像は載せたが、緩い斜面の規模の大きい削平地及び凄い空堀地形を眼にする事が出来る。これは削平地に沿って直線的に縦に深く掘削されたもの(70m近い)であり、分厚い土塁が付随している事からも相当な見応えを感じる事が出来た(空堀以外で機能としての想像が付き難い)。

これを当時の遺構とするか否かは当然見学者の判断に委ねられるが、本来の山上郭が物見あるいは狼煙台規模で非常に見劣りのする山城であっただけに、個人的には城跡遺構とすればこれが一番目を引いたものになった。恐らくこの城跡の縄張りとしては、この地点までは過去においては調査はされていないものとも思われた事から、判断は難しいが載せた画像を見て気になった方、あるいは時間にゆとりを持って訪問出来る山城ファンにのみ、お薦めしたいところではある。尚、肝心の山上郭は先に触れた様に物見程度、北側斜面の城中最大規模である郭跡も小規模、見所は東尾根を絶つ堀切、前述の虎口かもしれない二重縦堀のみでもあり、個人的には余り見応えを感じるまでには至れなかったのが本音ではある。ただこの城跡を神社周辺の広大な削平地を中枢としたものとすれば、非常にユニークな形態の城跡であるとだけは目に映ったが、、、

3mikageyama_2 推定城域

29_higasi_sanjyou_kaku_2 東山上尾根

30_dai_karabori 30_dai_karabori_3 大空堀

2009年11月11日 (水)

福谷城跡(神戸市西区)

城跡は神戸市西区櫨谷町福谷にあって県道52号「福谷」交差点のほぼ真北側の丘陵上に位置しており、現在主郭に相当すると見受けられた郭跡には、「秋葉神社」が建立されている事からも、非常に訪ねやすい城跡となっている。当時は端谷城(衣笠氏居城)を本城として周辺には多くの支城(砦跡)が築かれていたが、この城跡もその中の一つでもあり、支城として機能していたようだが、秀吉によって本城と同様に落城の道を辿った模様である。

城跡へは先に触れた県道52号「福谷」交差点を目指すのが一番分かり易く、交差点からはそのまま北上すれば、概念図に示した県道65号「福谷北」交差点脇にある秋葉神社参拝道入り口までは難なく辿り着ける。車は自己判断において、参拝道入り口付近の空きスペースを利用すれば良いものとは思われるが、そこからは参拝道に従えば5分もあれば山上主郭までは到達出来るはずである。

1route 登城ルート

Enbou 城跡遠望

6 参拝道進入口

3fu 城跡概念図

Yagura 推定主郭

Dorui

土塁

Tatebori 縦堀

Kaku 郭跡

現状(10月)城跡は社殿の建立されている敷地を除けば相当深刻な藪化状態にあり、取り合えず概念図に示したまでが移動可能、あるいはある程度視認が可能な地域と思って頂ければ良いが、踏み跡から外れると藪漕ぎ移動は余儀なくされる状況にあるので、東西斜面はもちろんのこと北側に繋がる尾根上までの踏破は断念するに至った。目に留まった遺構としては土塁、縦堀(片堀切)、枡形に見えた土塁虎口などが挙げられるが、どれも矢竹藪の中で窺うものでもあり、明確な判別は難しいのが現状でもある。よって図中に示した縄張りはアバウトなものでもあるが、遺構の位置する箇所程度の事では多少の参考にはなるだろう。北尾根上までは踏破していないので、縄張り全域の規模を体感する事は出来なかったが、郭転用地とも思えた神社敷地から想定する限り、規模の大きそうな城跡には見えなかった。現在社殿の建つ脇には矢倉風の展望所が設けてある事からも、城跡を意識した粋な計らいが窺われ好感が持てたが、遺構見学を重要視した訪問においては、最初から見応えには期待しないほうが良いものとは感じられた。尚、ルート図には示したがこの城跡から川を挟んだ南東側丘陵上には城ヶ谷城(砦跡)が存在しているので参考までに、、、ここも全域が藪状態にあるので、一部を残して全域踏破は出来なかったが、ほぼフラットに感じられた広大な削平地だけは眼にする事が出来た。

8 福谷城より城ヶ谷城遠望

Jyougatani_4 山上の現状

訪ねやすい事からも城跡巡りの一環、あるいは存在確認の為の史跡見学としてなら充分お薦め出来るが、山城ファンにおいては最初から期待を捨てて臨まれる事が肝心ではあろう。

2009年11月10日 (火)

篠尾羽合城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市篠尾/羽合(ハアワセ)にあって、国道9号を走れば車窓からも望める丘陵上に位置しており、加茂神社の南側背後の裏山あるいは共栄学園高校のグラウンド場から見れば西側の丘がそれにあたる。城史に関しては不明

城跡へは福知山市内に入れば、国道9号沿いにある「ツタヤ」あるいは「ユニクロ」を目指せば分かり易いが、「ユニクロ」付近からはルート図の赤線を辿れば、登城口でもある加茂神社までは難なく到達出来よう。車は児童公園(概念図に示した)付近の広い道路には充分な空きスペースがあるので、自己責任において停めればよいものとは思われるが、そこから歩いて目印となる神社を目指しても5分とはかからない。神社敷地も当時の郭跡とも見受けられるものであり、既にここから城域に足を踏み入れている事にもなるが、社殿背後より山道に従えば、自ずと主郭と南郭の堀切までは直ぐにでも到達可能となっている。

1route 登城ルート

7 進入口

3h 城跡概念図

現状(10月)城跡は思ったより藪化は進行しておらず、主郭は木々に遮られて見通しも悪いが、他は風化は激しいものの遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。結論から先に言えば、この城跡は住宅が直ぐ傍まで迫りながらも、遺構残存度には素晴らしいものがあり、南東側がグラウンド場の造成の為に、どれだけ遺構が消失したものかは想像もし難いが、とにかく現状だけでも充分満足の行く遺構見学が出来、縄張りも手に取るように窺えるものとは思われる。目に留まった城跡遺構は概念図に記したが、城跡を形成する上では定番とも言える、堀切(空堀)、土塁(縦土塁も含む)、櫓台土塁、縦堀、虎口などは全て眼にする事が出来、細部まで目を配れば、機能の想像し難い地形(遺構)も多少あるが、縄張り妙味も含めて現存する遺構を堪能する事が出来そうにも感じられた。当然山城ファンだけに止まらず、城跡ファンなら誰でも楽しんで見て回れそうにも思えたのである。

12_shukaku_higasi_karabori_1 空堀

13_shukaku_kita_heki 主郭北側切岸

14_yagura_1 主郭櫓台土塁見所

17_nisi_horikiri_1 主郭西堀切見所

25_nisi_daidorui_1 西大土塁(縦土塁)見所

27_gedan_dorui 主郭南下段郭の土塁跡

28 南堀切(堀切道)見所

37_oku_daidorui

西大土塁側壁

見所は先に触れた遺構及び城跡の佇まいも含めた全と言っても過言とは思えないが、先にリポート掲載を終えた、近くにある半田城(遺構残存度が非常に高い)と同様に、非常に訪ね易い場所にあるので、同日訪問も充分可能であり、国道を移動中に寄り道気分で訪問する事も出来るお手軽さを思えば、是非訪問をお薦めしたい城跡という事にはなろうか。

2009年11月 8日 (日)

藪内氏城跡(三重県伊賀市)

この城跡は、先にリポート掲載を終えた妙楽寺城跡からみれば西麓に位置しており、同じ伊賀市青山町妙楽地にあるが、名が語る様に藪内氏の居館と伝わっており、かつては「藪ノ内屋敷」とも呼ばれていた様である。個人的には先に触れた妙楽寺城とは、山頂と麓の違いはあるが、同じ山塊を共有する事からも、此方を居館とすれば山上は自ずと藪内氏詰城(山上郭)の様にも窺われたのだが、、、、当然推察の域は出ない。

城跡へはルート図の如く、「新妙楽寺橋」を渡る手前より、川に沿った畦道を利用して向えば、直ぐにでも到達可能となっている。この城跡は伊賀にあっては数多く見受けられる方形城館の一つでもあり、土塁で周囲を囲んだ定番中の定番とも言える縄張りを持つ城跡でもあるが、比較的規模は大きく(50m近い)、一部北側の土塁の崩落は見とめられるが、未だ四方に土塁がそのまま現存している事からも、貴重な城跡と目には映った。現状遺構として判別確認出来たものは、土塁虎口、土塁外壁の周囲に巡らした空堀、空堀の仕切りとなる土塁(石積みが見受けられた)などであるが、中でも東に備わる土塁虎口は大型でもあり、状態の良い空堀と並んで見応えも感じられ、一番目を引くものの様には思われた。方形居館跡の東西にも付随するそれらしい削平地、あるいは溝状ではあるが堀切跡の様にも見て取れた地形が存在しているが、恐らくこれらも当時の遺構としてまず間違いのないものの様には見受けられる。

1route_2 登城ルート

4 城跡進入口

Ya Yabu 城跡概念図

現状(10月)屋敷跡は自然任せの荒れ放題となっており、城跡の周辺は竹林地あるいは雑木藪となっているが、他の伊賀における丘陵上にある居館跡を思えば、随分ましな部類に入り、ある程度敷地内の全体像が窺える事、あるいは周囲を巡る土塁も、部分的には良いものが拝め、更に内壁高低差も充分見て取る事が出来るので、比較的見学し易い状態にあると言っても良いものとは思われる。

8_1 8_2 背後を巡る空堀見所

15_kuruwa_nai_2 郭内部

12_dorui_naiheki_2 高土塁内壁見所

22_koguti_2 虎口跡見所

25_kitagawa_dorui 北側の低土塁

20_sikiri_dorui 空堀仕切りの石積み

この地域(勝地から妙楽地にかけて)には既にリポート掲載を終えた新氏城、松田城、甚二郎城、妙楽寺城と、比較的コンパクトな城跡が数多く現存している様には見受けられたが、個人的に何の予備知識もなく、偶然訪れた松田城は文献などには記述も無く(公的資料には載っているのかも知れないが、、、)、まだ多くの砦跡あるいは城跡がこの地域には眠っている様にも思われる(所在はルート図には記したが、遺構としての確証は得られず)のである。まだ未訪の方には、山城巡りの一環として、上記の城跡を併せた同日訪問とすれば、より充実した山城巡りが出来るようには感じられたが、、。

2009年11月 7日 (土)

妙楽寺城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町妙楽地にあって、妙楽地集落の川を隔てた、南側の標高300m(比高90m)の山頂に位置しており、天正伊賀の乱における際の陣城あるいは詰城の様相を呈している。現状、城跡に関しての記述も皆無に等しい事から、その機能に関しては見学者の想像に委ねられる様な気はする。

この城跡は何時も貴重な城跡情報をブログに提供して頂いている、S氏より紹介されたものであるが、存在は既に認識していたものの、所在地が全く分からず(現地では確認出来なかった)今まで訪問を見合わせていた経緯があったが、以前寄せられたコメントの中で、城跡に関しての所在地が記載してあった事からも目星が付けやすく、今回は近くにある藪内氏城あるいは甚二郎城と併せた訪問を計画して臨む事になった。(S氏に感謝、、)

1route 登城ルート

5 城跡進入路

3_1 城跡概念図 

城跡へは、既にリポート掲載を終えた松田城を起点にすれば分かり易いが、松田城からは真南に位置しているので確認はし易いだろう、妙楽地集落に入る為には「新妙楽地橋」を通過する事になるが、ルート図に示した様に、製材所の南西数十m手前から入山口に向う小道があるので、それを利用すれば自ずと山の中腹までは山道で上れる状況にある。道が途絶えれば途中からは直登(藪漕ぎは無い)となるが、そのままだらだら続く斜面を上り続ければ、山上までは20分内で到達出来る筈である。

11_shukaku_heki 山上主郭の外壁(切岸)

12_nisi_obi 帯郭

16_shukaku_dorui_1 17_dorui 主郭の低土塁

24_koguti_1 東虎口

25_minami_karabori_1 南空堀

現状(10月)城跡は、植林地となっているので木々も少なく、ほぼ単郭で形成される城跡は見通しも利き、全体像が窺える為に良い状態にあると言っても良いとは思われるが、地表は全て低い笹で覆い尽くされているので、細部に渡る地形の変化を読み取る事は非常に困難な状況にある。もちろん最初から縄張り妙味に期待する山城ではないので、そこまで拘る必要はないとは思われるが、、、 城跡の形態は自作概念図を見て頂ければお分かりの様に、遺構として判別出来るものは空堀、虎口跡、周囲を巡る低い土塁(分厚い)と少なく、見応えには少し欠けるかもしれない、規模も山上郭群の全長は60m前後であり、単郭である事も相俟って、当然山城としての醍醐味を感じるまでには至ってはいない。しかしこの小振りな城跡も、全体像が窺える状態にある事からも、当時の山城がそのままタイムスリップして現在に至った様にも感じられて、自ずと当時に思いを馳せる事は容易いものとも思われる。5世紀を経ても尚、この状態が拝めるのであれば、自ずと史跡価値は相当高いものとも見受けられたが、、、、。

尚、ルート図には示したが、この城跡の西麓に位置する藪内氏城のリポートは次で掲載の予定

2009年11月 5日 (木)

甚二郎城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町勝地にあって、既にリポート掲載を終えた新氏城の谷を挟んだ直ぐ南西側に位置しており、全体像から窺えばほぼ平城に近いものである。名が語る様に甚氏の居城、あるいは屋敷跡として間違いないものとは思えるが、詳細は不明。

ちなみに個人的な見解にはなるが、当時は新(シン、実際にはアライかも分からないが、)氏と呼ばれた氏名は神(シン、ジン)氏とも置き換える事が可能であり、甚氏のジンは本来は神(ジン)氏のジンから当て字されたものの様にも思える事から、少し強引かもしれないが「新氏」は本来「甚氏」と同じ一族であり、当て字が変化しただけである様にも思えるのである。よってこの二城は呼称は僅かに違うが、本来新氏の山上郭を詰城とすれば、こちらは居館とも言えるシン(ジン)氏の城跡の形態が、自ずと見えてくる様にも思えるのである。

1route_3 登城ルート

4_2 城跡進入路

Sz1 3ji 城跡概念図

城跡へは、先に触れた新氏城を起点とすれば分かり易いが、進入路としてはルート図あるいは概念図に示した二通りの向い方がある。南の民家脇からの小道より向えば、直ぐにでも城域となる便宜上の主郭及び副郭に到達出来、図中に示した最上段に位置する東西の物見郭(推察)までは、崩落の見受けられた斜面、あるいは郭仕切りとも見受けられた縦土塁を上れば、一気に到達可能となっている。尚、車は集落内における生活道が狭い事からも、JA付近の道路空きスペースを利用するか、少し遠くなるが公民館の駐車場に預ければよいものとは思われる。

9_isigaki_1 主郭南の謎の石積み

13_dorui_kado_isi_1 副郭角の土塁と石積み見所

15_shukaku 主郭の現状

19_dorui_karabori_1 西物見の空堀跡見所

22_monomi_nai_1 西物見の内部

20_dorui_heki_isi_1 土塁内壁の石垣痕

24_higasi_monomi_karabori 東物見の空堀見所

現状(10月)城跡の主郭となる削平地は、本来高低差を伴って屹立していたかとも思われる、郭背後の切岸からは土砂が随分崩落流失しており、大部分はただの斜面の如き様相になっている。副郭は土塁(底部に石積み)も明確に残存しており、判別し易い状態にはあるが、郭内部は荒れ放題でもあり、雑木が密生して外見から中を覗く事は非常に困難な状況にある。先に触れた便宜上の物見郭は、この主郭の東西上段(高低差10m以上)に左右に分かれて備わっているが、内部は非常に状態が悪いので、小規模でありながらも全体像を外見から覗く事は非常に困難、しかし土塁あるいは背後の空堀は判別し易く残っている(特に東側は状態が良い)ので、中々目は楽しませてくれる様には感じられる。尚、この二郭は直ぐ背後の林道からも窺える距離にあるので、最初にこちらから見学しても良いかもしれない、、

この城跡の、ほぼ平城に近いが地形を利用した縄張りプランは、非常にユニークなものがあり、充分見学する値打ちはあるものと感じられたが、まだ未訪の方には「新氏城跡」、あるいは、これから紹介する事になる、妙楽寺城などと併せた同日訪問を是非お薦めしたい。

2009年11月 3日 (火)

上津茶臼山城跡(神戸市北区)

この城跡は神戸市北区長尾町上津台5丁目にあって、大規模なニュータウンとなっている上津台の北端にある「たかつこ公園」として整備されたすぐ北側の丘陵上(茶臼山緑地)に位置している。(城史概略は現地案内板をクリックのこと)

城跡へは上津台5丁目を目指して、県道17号経由でルート図に示した赤線ルートを辿れば、一番分かり易く公園までは辿り着けるとは思われるが、公園用としての駐車場は設置されていないので、車で訪れた方は迷惑のかかり難い場所を探しての路駐となる(小型車なら公園入り口付近に可能)。公園からは遊歩道も設置されているので遊歩道に従えば迷わず主郭までは到達出来る。

1route 登城ルート

6 公園より進入路

2annai 現地案内板より

3tya 城跡概念図

現状(10月)城跡は公園化によって整備が行き届いているので見学し易く、非常に見て回りやすい状態にあるが、その反面当時の縄張りは遺構も含めて、南側は地形改変によって相当消失したものとも思われ、当時における状態は想像も付き難い状況となっている。まさかこの主郭と南郭の二郭だけで形成された城跡とも思われず、公園を始めとした広大な造成地の一部も当然当時の城域であったようには窺われた。しかし現存する二郭だけではあるが、郭周りに付随している空堀、土塁、縦堀などの遺構は充分目を楽しませてくれる様には感じられ、特に主郭と南郭間の大空堀は縦堀(東側)にも繋がるものでもあり、現状風化あるいは遊歩道によって土塁も二重に見える空堀も一部消失してはいるが、想像を膨らませばスケールの大きい大空堀(堀切)であった事が十分窺える。個人的にはこの土塁の付随する大空堀は見応えも抜群である事からも、城跡の最大の見所と言っても良さそうには感じられたのである。

18_minami_horikiri 南堀切跡

20_minami_kaku 南郭

23_daikarabori_1 大空堀見所

27_dorui_tatebori_1 大空堀、土塁見所

34_higasi_tatehori_1 縦堀へ繋がる見所

31_shukaku_heki 主郭南切岸

29_shukaku_2 主郭内

規模も小さく遺構も目白押しではない事からも、見応えには少し欠けるかもしれないが、遺構も判別し易く程よく整備された状態、更に訪問し易いお手軽感もあって、一般の城跡ファン、史跡ファンはもちろんの事、山城ファンにも是非お薦め出来る城跡とは目に映った。

2009年11月 2日 (月)

殿ノ奥城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市三和町ユリにあって、既にリポート掲載を終えた経ヶ端城跡からみれば川合川を挟んで真西の丘陵上に位置している。この川合地区には地元で聞いた話によれば、相当数の砦跡を含む城跡がこの地区を中心として四方に点在しており、中でもこの山城は名が語る様に樋口氏の本城であった可能性もあり、規模も一番大きいものとされているとの事である。別名「川合ユリ城」

事前に伺っただけでも、この山城の山裾から見える範囲においては、川を挟んだ直ぐ真向かいの丘陵台地にも伝承地としての屋敷跡、更に経ヶ端城跡の東山上には砦跡(削平地)、更に南側のタタズ城、北東の山上には日向(ヒナタ)城と聞いただけでも四城には達してしまう、恐らくこの山城からみればどれも砦規模、あるいは物見程度の城跡だとは思われるが、、、。戦国期の城主としては樋口加賀守の居城が唯一伝わるが、恐らく明智の丹波攻略軍によって落城したものとは察せられる、詳細は不明

1route 登城ルート

6 進入路

3ok 城跡概念図

城跡へは福知山へ向う国道9号を利用した場合は「芦渕」交差点で県道59号へ右折針路変更、後はルート図の如くユリ集落のバス停を目印として進行すればよい、県道沿いには路駐スペースも充分あるので、そこから北側に見える集荷所前を通過して配水施設に向いて上れば、その脇にある入山可能な簡易的な獣避け開閉扉は直ぐ目に留まる筈である。ここから栗林を抜けて山上を目指せば、かつての参拝道(郭跡に小さな朽ちた祠があった)には直ぐ合流できるので、迷うことなく山上までは到達(15分程度)出来るとは思われる。ただし現状(九月)栗林は収穫時期に入っているので、怪しまれない為にも収穫時期の訪問は避けた方が良だろう。個人的には時期的にも松茸山であれば訪問も断念する事は覚悟の上で赴き、幸運にも偶然栗林で出くわした土地所有者の了解を頂いて上ることが出来たが、時期さえ外せば敢えて了解は得ずとも良いのではないかとは思われる。

15_higasi2_kaku 東郭2の現状

16_sikiri_dorui それと分かる仕切り土塁

18_shukaku_higasi_karabori_tikei 空堀地形

21_shukaku_dorui 主郭土塁見所

25_daihorikiri 西堀切見所

26_nisi_yori_horikiri 縦堀へ

現状(九月)城跡は藪化も相当進行しているが、移動に困難するまでには至っておらず、山上における残存遺構はほぼ判別確認出来る状態にはある。長年の風化によって当然土塁などは原形は留めてはいないが、充分それと判別可能なものであり、現状では主郭西背後の二重堀切、主郭櫓台とした場合の土塁壇と土塁、僅かに地形から判別可能と思えた空堀仕切り土塁などが目に留まった遺構群になる。規模も山上本郭群だけをみれば100mにも満たないものであり、郭間に余り高低差の無いことからも、山城としての魅力あるいは醍醐味には少し欠ける様には感じられた。ただ自然任せで人の手が入らず、状態は悪いが遺構残存度は非常に高いものと目には映ったので、興味を持たれた方にとっては訪れても決して無駄足にはならないものとみた。

2009年11月 1日 (日)

明智東ノ古城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市三和町友渕にあって、既にリポート掲載を終えた西ノ古城からみれば友渕川を挟んで真東側に位置しており、こちらは西ノ古城が山城であるに対して低丘陵上の先端部にあるが、当時は西ノ古城同様に臨戦時における陣城と伝わっている。よって非常に安普請とも見受けられるものであり、残存遺構の見応えだけを取り上げれば、数多い明智の携わった城跡(金山城、周山城、法貴山城など、、)の中でも低位にランクされるものと感じられた。当然陣城としての機能だけの城跡なので、明智の城として期待をして赴くと落胆し兼ねないとも思われる事からも、まだ未訪の方には西ノ古城と併せた訪問をお薦めしたい。

城跡へは国道9号「菟原」交差点から県道97号へ針路変更、後はルート図を参考にすれば迷わず辿り着けるものと思われるが、車は概念図に示した付近に広い空き地があるのでその場所を借りて停めれば良さそうに思えた。そこからは既に左手東側前方に望める丘陵がそれであり、歩いて住宅地の横にある開閉フェンスまで向えばよい。後は図に示した直登ルートでフェンス沿いに上れば、主郭までは5分程度で到達出来るだろう(車を駐車した場所からは10分程度)。

1route_1 登城ルート

5 進入ルート

3hi 城跡概念図

現状(十月)城跡は予想通りに藪化は進行し、地表も自然任せの荒れ放題と化してはいるが、縄張り形態もシンプルなものであり特別技巧を凝らした複雑な遺構が見当たらない事からも、概念図に示したまでの遺構は全て判別可能となっている。先に触れた様に急造された陣城なので縄張りも非常に大味なものとなっており、防備機能としては土塁及びその背後に堀切が備わる程度でもあり、東側に向いてだらだらと数百mに渡って連続する削平地が妙に印象に残った。西側斜面の狭い段郭群より少し下りれば便宜上西郭とした広い規模の郭跡を眼にする事が出来るが、内部に凹状の窪地を確認する事は出来た。郭跡だけを見れば居住空間とも考えられるが、これがどの様な機能を持ったものなのかは想像も付き難く、長い年月の堆積物あるいは地形変化を考えれば自然の成せる業かも知れない、当然見学者の判断に委ねた方が良さそうには思えた。

8 防壁の様な巨岩

14_shukaku 主郭の現状

15_shukaku_dorui_1 主郭土塁見所

16_horikiri_4 堀切見所

20_nisikaku_1 西郭

21_nisikaku_kuboti 西郭内の窪地

個人的には岐阜県を所在地とする明智城も含めて、明智関連の城跡(改修も含めて)はほぼ訪問した計算にはなったが、陣城を除いた城跡としては何れも縄張り妙味に富んだ山城が多く、非常に見応えも醍醐味も感じられたものが多い。後世において随分改修されたと見受けられる亀岡城、福知山城などは、現在でも石垣が残っている事からも別な意味で見応えは感じられるが、それよりも更に築城年代が遡り、人の手の余り入っていない明智の山城の方にずっと魅力を感じるのである。今となっては湖底に沈む坂本城(滋賀県)の雄姿は想像する事も出来ないが、その当時フロイスをも唸らせた信長に続く城跡は、水城(石垣城)としての縄張りも素晴らしく、豪壮でさぞ凄いものであった様には思われる、、、。

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