多保市城跡(京都府福知山市)
城跡は福知山市多保市(トオノイチ)にあって、現在の厄除け神社及び中腹に位置する旧厄除け神社を含んだその東側山上に位置している。当時は大槻氏の居城と伝わり、他の丹波の在地豪族と同様に光秀の丹波平定によって落城しているが、その後は黒井城主赤井氏の傘下に入った模様。この大槻氏はかつて綾部北部一帯を領有した、あの大槻一族と同一かどうかまでは分からないが、この末裔は豊臣政権下まで存続し、更にその後は土着(帰農)の道を歩んだとも伝えられている。多くの丹波衆が光秀による丹波平定の際に滅ぼされた事を思えば、赤井氏同様過酷な戦国期を上手く乗り越えた氏族とも言えよう。
城跡へはルート図を参考にして厄除け神社を目指せば分かり易く、国道9号から少し入った場所にあるので直ぐ目に留まる筈である。車も駐車可能となっており、到着後は社殿の背後より舞鶴若狭自動車道の上に架かる跳道を通過して山上を目指せばよい。ただこの城跡のある尾根は現在自動車道によって相当地形改変が窺われるものでもあり、どこまで遺構が消失したかは各々が想像するしかないものとは思われる。
山上尾根より神社側
判別可能な残存遺構は現状(九月)としては非常に少ないが、郭跡を除けば厄除け神社境内(郭跡地の転用と見受けられる)の社殿背後より側面かけて掘削された空堀、あるいはその高低差のある切岸、尾根上をだらだらと連続する山上削平地の縦堀地形、あるいは土橋を伴う空堀は一箇所で目に留まったが、ほぼこれだけと言っても過言ではなく、遺構の見応えを期待すると間違いなく落胆する様にも感じられた。尾根上を東山上に向いて延々と繋がる削平地などは、本当にここが城跡なのか、これが山城としての本来の縄張りプランなのかと自分の目を疑ってしまうほどでもある。古い形態の山城と言ってしまえばそれで話は終わってしまうのだが、それほど大味な城跡なのである。とにかく尾根上は削平跡は窺えるが切岸処理はされておらず、尾根を分断する定番の堀切跡も見受けられない。見応えのある遺構にはほとんど期待出来ない現状からも、流石に延々と続く削平尾根上を通過して山上まで向かう気力は既に消え失せており、ついに東山上一歩手前で下山してしまったが、今回は少し悔いを残した訪問になってしまった。「ついでに山上まで踏破しておけばよかった」と後になって思うのである。登城ルート図に示したまでが踏破した範囲であり、目に留まった遺構を記したものだが、山上まで踏破しておれば遺構もこの限りでは無かったのかも知れない。これから訪問準備のあった方に対してタイムリーなリポートとなったのであれば幸いではあるが、個人的にこの山城を評価したなら、当時の城跡としての風情を味わえる程度と理解して頂ければ良いとは思われる。
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