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2009年10月

2009年10月30日 (金)

野村城跡(兵庫県加古川市)

城跡は加古川市八幡町野村にあって、大規模な敷地を所有する「厄除け八幡神社」と同じ丘陵上にあるが、その北側の枝尾根に位置している。正確には一つ丘陵を隔てた二つ目の西側尾根先端部が城跡(丘城)となっている。三木城を本城とした別所氏幕下の居城と伝わっているが詳細は不明。

城跡へは八幡神社を目指せば付近までは分かり易く辿り着けるが、車は神社の駐車場を借りてルート図の如く歩いて少し北進、図中にある様に仏壇店と住宅の間にある畦道(画像参考)より進入して、そのまま連続する上り土塁上(片側に空堀が備わる事から明らかに人為的な移動土塁に見えた)を尾根に向いて上れば、自ずと主郭までは直ぐ到達可能となっている。(駐車場からは10分前後、部分藪漕ぎは必要)

1route_1 登城ルート

4 城跡進入口

3no 城跡概念図

現状(九月)城跡は藪化の真っ只中にあり、時期的にも最悪とも思えるほど雑木が蔓延っており、郭内における全体像の視認は非常に困難な状況にあるが、地形の上からも直ぐ判別可能な空堀や大型の分厚い土塁などは、傍まで寄らなくとも外見から充分判別可能でもある。現状判別確認出来た遺構群は主郭背後の土塁、その東背後を断つ縦堀に繋がる大空堀、便宜上二の丸とした郭跡に備わる分厚い大土塁、それに付随して南北に繋がる空、更に二の丸と三の丸間に備わる空堀(土塁が付随)などで、これらは城跡においては全て見逃せないものばかりで、特に見応えも遺構の醍醐味も感じられるものである。中でも主郭背後を断つ大空堀は幅が10mはあろうかとも思われ、その北側の縦堀にまで繋がる様は非常にスケールの大きさを感じる事が出来た。空堀及び土塁などにも縄張りプランとしての工夫の跡が窺え、概念図には示したが空堀を付随させた土塁の横矢構造、同じ空堀にしても敢えて空堀同士を繋げない形のものであったりと、当時における遺構機能を想像するだけで充分楽しめそうにも思われる。ただ惜しむらくはこの城跡全体を覆ってしまうほどの藪化であり、風化も含めて年々状態も悪くなる一方なのではないかとも予想される。しかしながら現存している遺構群は状態は悪いが残存度は非常に高く、更に堆積物などによって地表風化は激しいが、遺構の見応えだけを問われたなら、間違いなく「素晴らしい!」と返答出来る様には思われる。

12_karabori 直登ルートにある空堀地形

16_shukaku_nai_3_2 主郭

21_karabori 大空堀見所

22_tyuou_karabori_dorui 二の丸空堀土塁見所

30_yokoya_karabori_dorui 横矢構造の土塁空堀見所

31_dorui_2 横矢土塁見所

33_nanboku_karabori_1 東側の空堀見所

今回は密生する雑木藪のお陰で方角も掴み難く、歩測あるいは目測によるアバウトな郭面積の表示も出来なかったが、踏破に至れなかった東側に広がる削平地あるいは南側未踏地を含めなくとも、規模の大きさは歩き回る事で充分体感する事は出来た。城域は概念図における縄張りよりも随分はみ出ている様には感じられるのである。

2009年10月29日 (木)

播磨春日山城跡(兵庫県神崎郡)

城跡は兵庫県神崎郡福崎町八千種にあって、鍛冶屋集落の東側に聳える飯盛山(標高198m)の山頂部に位置している。(城史に関しての概略は現地案内板をクリックの事)

城跡へは中国自動車道「福崎」ICが最寄の乗降口となるが、そこからは南東側に直線で3km程度の位置にあり、付近に到達すれば飯盛山は形の整った山なので直ぐ確認する事は出来るとは思われる。集落付近からはルート図に示した赤線ルートを辿れば、登山口でもあるキャンプ場までは難なく辿り着けるだろう。付近には駐車場もなく、個人的には既にキャンプシーズンも過ぎていた事から、人影も無かったので堂々と空きスペースに車は停めさせて頂いたが、「路駐迷惑」の看板も設置されている事からも、シーズン中の訪問は出来るだけ避けた方が良いとは思われる。キャンプ場の登山口には登山標識もあるので、そこから登山道に従って上れば、迷わず15分程度で山上には到達可能である

1route 登城ルート

6 城跡遠望

2k 現地案内板

3 現地案内板縄張り図

現状(九月)城跡の山頂部(山上主郭)は整備されているので見通しも利き、下界を見下ろした際の晴らしいロケーションも堪能する事が出来るが、他の郭跡は下草あるいは雑木が密生しているので踏み入る事も出来ず、山上で目に留まった案内縄張り図内の、遺構の全てを外見から確認する事はとても出来ない状態にある。とは言っても特別見応えのある遺構が存在する訳ではないので、それほど見学に差し支える事は無いとは思われるのだが、折角ここまで上ったからには、規模も小さい山城なので周囲から全体像を覗いてみたかったのが本音ではある。ただ険峻な山城を外見からも登山においても体感出来たので、取り合えず満足感に浸る事は出来たが、、、

10 登山口

12_horikiri_tikei_2 尾根上の堀切地形

17_shukaku_nai_3 17_shukaku_nai_4 山上主郭

18_tyozouko 貯蔵庫

23_shukaku_heki 主郭切岸

22_nisi_kaku_1 北西帯郭

現状外見から判別確認可能な遺構は、主郭(15mx30m前後)内にある貯蔵庫と表記された穴倉遺構、南側下段郭の方形状の空堀地形、主郭の切岸、帯郭の一部分と言ったところでもあり、見応えのある残存遺構を期待をして赴くと必ず落胆する事にも繋がるので、山頂からの眺望あるいは山登りを楽しむ気分で現地に赴くのが、一番ベストな訪問である様には感じられた。標識も設置されており、迷わず山頂まで上れることからも、山城に興味を持たれていた方、あるいは一般史跡見学者にも、自然と触れ合いながら山歩きも楽しめる打ってつけの山城と言えるだろう。尚、山頂に行き着くまでの尾根上には、随分埋もれてはいるが、登山道からも目に留まる堀切地形が存在していたので決して見逃さない様に。

2009年10月27日 (火)

小見山城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市三和町辻にあって、県道59号沿いにあるバス停「中ヶ市」からは細見川を隔ててほぼ真南側にあり、県道沿いからも位置は確認し易く、その低丘陵上に位置している。三和町文化財パンフによれば辻野左衛門屋敷とも記載されているが、一部の文献によっては先に掲載を終えたダマ城と同様に細見辻城と記載されているのもあり、区別する為に今回は別称でもある小見山城跡としてリポート掲載に及んだ。

この城跡は当時辻野屋敷と呼ばれた様でもあったが、細見将監の手によって城は奪われた形になっている、ちなみにこの細見将監なる武将は明智軍による攻撃を本郷城で一旦撃退した人物でもあり、あの知略に富んだ明智軍を退けるとは相当勇猛かつ知略に秀でた武将とも見受けられる。先に触れたこの「本郷城」は既にリポート掲載は終えているが、篠山市本郷にあって松隣寺を菩提寺とした細見氏一族の居城でもある。

1route_2 登城ルート

4_1_2 県道から遠望

7tozanguti 進入口

3tu 城跡概念図

尚、三和町文化財パンフ(有料)に地形図と共に印のある城跡所在地は、城跡の現存する場所とは若干異なっており、実際にはルート図にも示したが、谷を隔てた西側尾根先端部に位置しているので、パンフを参考にして現地に赴いた場合は、ただの丘陵見学だけに終わってしまう可能性もあるので注意が必要と思われる。もちろん地形から考えてもこの丘陵上(結果的には踏破していないので遺構はないとは言い切れないが、ここでは現地の伝承を信頼し重んじた)は当時何らかの形で戦略的に機能していたものとも考えられるが、公的な資料は全てが正しく記載(特に尾根の位置は間違いやすい)されている訳ではないので、間違いも少なからずある事を念頭に置いて訪問されるのが肝心とは思われる。個人的にはそれを鵜呑みにして何度か誤認した経験があり、なるべく参考程度で抑えてはいるが、本来なら現地での聞き込み確認が一番大事である様には感じられる。今回の訪問に際しても、念の為に麓に住まわれる御婆さんから事前に所在地の確認はしており、既に亡くなられた御爺さんが、かつてこの城山に鎮座していた祠を、大事に世話をしていた事も聞き及んで臨んだ結果、本来の城跡を直ぐ探し当てる事が出来た。地図を鵜呑みにしておれば恐らく誤認して落胆しながら帰宅したものと考えられるのである。

9_heki 主郭西側切岸

10_fukukaku 副郭

12_karabori_1 空堀

15_kitaone_hirati東尾根削平地

城跡へは先に触れたダマ城訪問ルートでもある国道9号から709号へ進路変更、後はルート図あるいは概念図を参考にしてバス停「中ヶ市」を目印として目指せば分かり易く到達出来るものと思われる。現状(10月)城跡は当然藪化は進行中ではあるが、小規模でもあり移動に困難を来たすまでの状況には至ってはいない。複雑な遺構も皆無である事からも、ほぼ二郭で形成された縄張り内における遺構(空堀、土塁壇、切岸など)は全て判別確認は可能な状態にあるが、空堀などは相当土で埋もれており、丘陵上における郭高低差も小さい事から、自ずと見応えのある遺構も皆無なのが現実でもある。この城跡は今回の様に三和町に点在する細見氏の山城巡りの一環として、その細見氏を探る史跡見学として割り切るならば、満足感には充分浸れるものとも思えるのである。

2009年10月25日 (日)

細見辻城跡(京都府福知山市)

この城跡は福知山市三和町辻にあるが、文献あるいは公的資料によっては様々な呼称が付いている事からも明確な場所も分かり辛く、今まで存在は認識していながらも、中々訪問に漕ぎ着けるまでには行かなかった経緯がある。今回は福知山に向いての移動中、偶然国道9号沿いで三和町の福知山支所が目に留まった事から、以前より気になっていた城跡所在地と呼称の確認の為に立ち寄ってみた事から話は始まるが、その資料館の中にあった三和町史跡パンフ(有料)の中には、地形図と共に城跡の位置が記載されており、取り合えず今まで分かり辛かった城跡所在地と呼称を一致させる事が出来た。

しかしこれも福知山の公的遺跡資料とは若干異なっており、三和町パンフの中では「ダマ城」とされていたが、今回のリポートでは地域名が入って城跡フアンにとっても分かり易い事からも、多く出版されている訳ではないが、一部の文献資料あるいは公的資料にも登場している「細見辻城」を呼称として採用させて頂いた。他にもシロカマタなどの別称もあるらしいが、当時は細見氏の居城が唯一伝わっている。地元で聞き及んだ処では古くからダマ城と呼ばれていた様であるが、恐らくこのダマもシロカマタも漢字に当て字をする以前、古来から呼ばれていた呼称とも思われるので、本来ならダマ城として市の資料の中で統一した方が分かり易いとは思われるのだが、、、 尚、城跡の傍に建つ民家にはつい近年まではダマさん(漢字の当て字までは分からない)が居住していたそうでもあり、ダマと言う変わったネームからも間違いなく古来よりここに住み着いていた方だとも思われる。

1route 登城ルート

4_1 道路より遠望

3da 城跡概念図

9 城跡進入路

11 18_shukakunai 主郭内

20_kita_heki 主郭北切岸

城跡へは京阪神から向えば国道9号を経由、「菟原」交差点をそのまま少し北上して一般道709号へ針路変更、城跡へ向う為の目印となるのは「梅田神社」であり、道路沿いには道標あるいはバス停もあるので分かり易いとは思われる。神社に車を預ければほぼ概念図通りに歩けば、5分もあれば主郭までは到達出来るが、城跡の形態としては丘城でもあり館城の様相でもあるので、堀切あるいは空堀などの様なインパクトのある遺構にはお目にかかれない、規模の大きい主郭に帯郭、腰郭を付随させただけものであり、遺構の見応えを求める事は最初から捨ててかかる事が肝心とも思えた。伊賀にある館城と違って防備も手薄であり、土塁すら目に留まらないのはこの地方の築城における特色なのかも分からない。

公的資料には遺構は完存と記載されてあったので、現在の主郭から周辺の休耕地までは地形改変は受けておらず、農地にはなっているがほぼ当時のままと解釈しても良いものとは思われる。道路側から望んでも丘状になったこの城跡は確認もし易く、現状(10月)郭内部は下草は蔓延ってはいるが木々もほとんどなく、見通しも利き、遠くから望んでも館城の風情は感じる事が出来るので、訪問における利便性も加味すれば、城跡ファンはもちろん史跡ファンにも充分お薦め出来る城跡の一つと言えよう。山城ファンにおいてはルート図には示したが、川を隔てた対岸の低山山上には、これも資料の中では完存とあった「殿屋敷城」が存在しているので、藪城(状態は悪い)ではあるが直登すれば10分内で到達可能でもあり、興味のある方は覗いても決して無駄足には終わらないものとみた。ただ小規模でもあり残存遺構(堀切、郭跡、土塁跡)の見応えには余り期待は出来ないので、無理にお薦めはしないつもりであるが、個人的には川を隔てて二城を配した形態そのものが細見辻城の本質とも思えたので、城跡を深く追求されたい方だけにはお薦めしたいのである。

Photo 殿屋敷城遠望

1 2 3 殿屋敷城の山上遺構群

2009年10月24日 (土)

今安城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市今安にあって、先にリポート掲載を終えた山崎城跡の直ぐ東側に位置する、二峰に分かれた低山山上に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡へは山崎城を起点にすれば分かり易いが、ルート図あるいは概念図の如く麓の集落にある六地蔵(画像に示す)より更に奥に進み、獣避けフェンスを開閉して山道より城跡を目指せばよい。この城跡は深い切り通し(堀切)を間に挟んで東西に郭群は分かれた縄張り形態を持つものと見受けられ、この堀切より手前西側斜面を直登すれば、便宜上の西城郭群には直ぐにでも到達可能であり、東側斜面を上っても直ぐ便宜上の東城出郭群が迎えてくれる筈である。もちろんその構造からも一城別郭としてよいものとも思われるが、両城共に確実に削平跡のある郭あるいは切岸跡は残存しているが、状態はよいものではなく自然任せの荒れ放題でもある。ちなみに西城はある程度見通しが利くので、下草は多くともフラットな郭跡などは外見からでも充分判別可能であるが、南側は矢竹密生によって踏破確認は不可能、東城も山上から南麓側に至るまでの尾根上は凄まじい藪でもあり、踏破は断念してしまった。しかし片堀切を挟んで西側に位置する西出郭群はまだましな状態でもあり、土塁壇(櫓台か?)あるいは切岸などは確認する事が出来た。自作概念図中に示したまでが踏破に及んだ範囲であり、取り合えず目に留まった遺構を示したものになるが、見応えのある遺構に遭遇出来なかったのが残念な処ではある。

1route_2 登城ルート

5 城跡への進入路

3im 城跡概念図

14 西城の郭跡

16 西城の郭切岸

21_kiritoosi_1 切り通し直登口

26 東城出郭

結果的には城域の全てを踏破した事にはならなかったので、城跡を評価する事は非常に難しいのだが、この状態の悪さや遺構の判別のし辛さ、縄張り妙味を考えれば特にお薦めしたい城跡の様には感じられなかった。先に触れた山崎城と同日訪問とした山城巡りとすれば、何とか面目は保たれるのかも知れないが、、、 今回の訪城ではこの城跡に興味があった方に対してのみ、タイムリーな現況報告となったものなら良しとしたい。

2009年10月23日 (金)

山崎城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市山崎にあって、集落の西側、和久川の北側に単独で聳える形の低山山上に位置している。現在南麓には武神社が建立されている事からも、場所の確認は容易いとは思われる。

城跡へは福知山市内を走れば国道9号から「新庄」交差点で429号に針路変更、後はルート図の如くおよそ3kmも走れば、直登口ともなる武神社には容易に到達出来る。この山城も登山道あるいは山道は当然の如く無いので、社殿背後から山上に向かっての登山になるが、比較的なだらかな山容でもあり10分もあれば山上主郭までは辿り着ける筈である。ただ時期的(九月)に仕方が無い事かも知れないが、山上主郭から東尾根上に限って言えば、密生する雑木藪となっているので、踏み入る事も出来ない状態になっている。他は歩き回れば概念図に示したまでの遺構はほぼ判別確認可能な状態にあるが、全体的にも藪化は相当進行している為に、一部では木々の隙間を縫って中腰で潜り抜ける場所も少なからずある。

この山城に関しては地図の上からだけではあるが、城跡としての築城立地条件を充分満たしている事からも、個人的に以前より城跡として間違いないものと確信していたものであり、今回は確認の為に福知山市内の通りすがりに意を決して立ち寄ったことから始まるものだが、いざ山上まで上って見れば確実に城跡遺構と判断出来る、削平された規模の大きい郭群、土橋付き空堀、郭切岸、縦堀地形などを眼にする事が出来た。下山後、資料などから既に発掘調査を終えた(何時頃かは不明)山崎城だと初めて認識する事が出来たが、城史に関してまでの詳細は不明。

1route 登城ルート

5 城跡遠望

3ya 城跡概念図

11_kaku_heki 南郭群の切岸

12_minamikaku 南郭

14_karabori_dobasi 北郭群の空堀土橋

16_kitakaku 北郭群

訪問結果として城跡は、縄張りプランとしての魅力に少々欠ける事からも、自ずと遺構の見応えにはほとんど期待出来ない状況でもあるが、未踏になった東尾根上の郭群(地形からも予想される)を含めなくとも、山上尾根における郭占有面積は比較的大きく、独立した山上のほとんどが削平され郭化されている様には見受けられた。ただ長年の堆積物あるいは風化によって郭内は荒れ放題でもあり、切岸処理が窺われる郭跡が非常に少ないのも現実である。この山城は形態が古そうに感じられたので、築城年代としては室町期あるいはそれ以上遡るのかも分からないが、考え方を変えれば臨戦時による急こしらえの様相でもあり、丹波攻略軍における陣城、あるいは向城の可能性も充分感じられるのである。先に触れた様に見応えのある遺構が皆無に近い為に、見所を探すのには非常に苦労するが、はっきり言って「ない!」と答えた方が、これから訪問される方に対しては、期待を捨てて城跡に臨めるとも思えるので、敢えてそう申し上げたい。しかし見学に値しない訳では無いので、決して誤解されないように、、、、この山城も数年後には更に藪化も進んでおり、かつてこの地が城跡であったことは誰の口からも語られる事が無いようにも思えてくるのである。  尚、ルート図中に記した今安城は次で掲載予定

2009年10月21日 (水)

多保市城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市多保市(トオノイチ)にあって、現在の厄除け神社及び中腹に位置する旧厄除け神社を含んだその東側山上に位置している。当時は大槻氏の居城と伝わり、他の丹波の在地豪族と同様に光秀の丹波平定によって落城しているが、その後は黒井城主赤井氏の傘下に入った模様。この大槻氏はかつて綾部北部一帯を領有した、あの大槻一族と同一かどうかまでは分からないが、この末裔は豊臣政権下まで存続し、更にその後は土着(帰農)の道を歩んだとも伝えられている。多くの丹波衆が光秀による丹波平定の際に滅ぼされた事を思えば、赤井氏同様過酷な戦国期を上手く乗り越えた氏族とも言えよう。

城跡へはルート図を参考にして厄除け神社を目指せば分かり易く、国道9号から少し入った場所にあるので直ぐ目に留まる筈である。車も駐車可能となっており、到着後は社殿の背後より舞鶴若狭自動車道の上に架かる跳道を通過して山上を目指せばよい。ただこの城跡のある尾根は現在自動車道によって相当地形改変が窺われるものでもあり、どこまで遺構が消失したかは各々が想像するしかないものとは思われる。

1route 登城ルート

5 北より神社側

6 神社の切岸

8 社殿

12_karabori_1 空堀跡

15

山上尾根より神社側

19a 尾根上の連続削平地

22_karabori_dobasi_1 土橋付き空堀

判別可能な残存遺構は現状(九月)としては非常に少ないが、郭跡を除けば厄除け神社境内(郭跡地の転用と見受けられる)の社殿背後より側面かけて掘削された空堀、あるいはその高低差のある切岸、尾根上をだらだらと連続する山上削平地の縦堀地形、あるいは土橋を伴う空堀は一箇所で目に留まったが、ほぼこれだけと言っても過言ではなく、遺構の見応えを期待すると間違いなく落胆する様にも感じられた。尾根上を東山上に向いて延々と繋がる削平地などは、本当にここが城跡なのか、これが山城としての本来の縄張りプランなのかと自分の目を疑ってしまうほどでもある。古い形態の山城と言ってしまえばそれで話は終わってしまうのだが、それほど大味な城跡なのである。とにかく尾根上は削平跡は窺えるが切岸処理はされておらず、尾根を分断する定番の堀切跡も見受けられない。見応えのある遺構にはほとんど期待出来ない現状からも、流石に延々と続く削平尾根上を通過して山上まで向かう気力は既に消え失せており、ついに東山上一歩手前で下山してしまったが、今回は少し悔いを残した訪問になってしまった。「ついでに山上まで踏破しておけばよかった」と後になって思うのである。登城ルート図に示したまでが踏破した範囲であり、目に留まった遺構を記したものだが、山上まで踏破しておれば遺構もこの限りでは無かったのかも知れない。これから訪問準備のあった方に対してタイムリーなリポートとなったのであれば幸いではあるが、個人的にこの山城を評価したなら、当時の城跡としての風情を味わえる程度と理解して頂ければ良いとは思われる。

2009年10月19日 (月)

福地城跡(三重県伊賀市)

この城跡へは個人的には10数年振りの再訪となったが、近年の城郭ブームによって非常に整備の行き届いた城跡として生まれ変わっていた。当然縄張り構造は変わっていないのだが、前回主郭虎口西側に造成されていた側壁を石積みとした荒地には「伊賀小屋組みの家」といった民芸茶屋らしきものも新築されており、その名阪国道側は通路として大きく様変わりしていた。当然相当な地形改変が窺われたのだが、本来の郭転用地とすれば最低限許せる範囲なのかもしれない、多少残念な気持ちにはなったが、城跡ファンのみならず一般の史跡見学者にとっても非常に訪れ易くなったとは思われる。 

更に訪れたタイミングが良かったせいもあって、前回は虎口前の空堀から北郭にかけては下草で覆われて、遺構すら確認出来なかったものが見事なまでに全貌があらわになっていた。この城跡はある程度公園化されているので状態も良く、現状(七月)において現存する遺構は、北側山裾に位置する広大な規模の居館跡も含めて、全て判別確認出来る状況にあり、規模はそう大きくは無いが、縄張りを含めて中世の城跡の佇まいを存分に堪能する事が出来そうには思える。

1 登城ルート

6_1 現地案内説明版より

3fu 城跡概念図

6_2 登城口

34_shukaku_nisi_karabori 虎口前の空堀見所

2022虎口石垣跡見所

26_shukakunai_ido 主郭内井戸跡見所

29 石蔵跡見所

30_dorui_jyou 主郭土塁上

38_kitakaku_nai_1 北郭の土塁見所

10yakata_karabori_1 居館跡の土塁、空堀見所

12_iyakata_zenbou 居館跡の全貌

 

伊賀においてはこの城跡より規模も大きく、状態は悪いが遺構残存度の高い城跡はまだ数多くあるのだが、居館と詰城がセットで、しかも良い状態のままで全体像が窺える城跡は数も少なく、中世の城跡(城館)を見学する分には最高の教材と言えるのではないだろうか。この城跡に関してはネット上あるいは文献でも数多く採り上げられていると思えるので、敢えて多くは語らないが、この城跡を史跡として見学された方も、これをきっかけとして土塁城(土城)の魅力を再認識して頂きたいと思うのである。今までもブログ中で何度か触れた事ではあるが、5世紀以上に渡って当時の構築物がそのまま現在まで残されているのは、古墳と山城遺構だけと言っても過言ではなく、未だに当時の原形を留めている土塁や切岸は、日本の風土から考えれば脅威に値するとも思えるのである。正に当時の土木技術抜きにしては考えられないものでもあり、今まで天守閣の存在する近世の石垣城ばかり訪問されていた方も、是非こういった土塁城にも足を向けて頂きたいと思うのが本音でもある。当然この城跡はこのブログを拝見して頂いている山城ファンのみならず、一般の史跡見学者あるいはこれから城跡を訪問する準備のある方にも、是非訪問をお薦めしたい城跡の一つである。

城跡は三重県伊賀市伊賀町柘植にあって、京阪神から向えば名阪国道「上柘植」ICが最寄の乗降口となる、位置的には伊賀サービスエリヤの西側の小山がそれであり、地図からも場所は確認し易いとは思われる。国道25号よりルート図を参考にして「萬壽寺」を目指せば難なく城跡までは到達出来る筈である。

2009年10月18日 (日)

寺木城(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町宮にあって、ルート図に示した様に黒田城(規模が小さいので支城の可能性もある)とはほぼ隣接しているが、先にリポート掲載を終えた仮名「東和田城」、あるいは他の一部の東河地区の城跡と同様に城跡呼称が未だはっきりとは判明していない。この城跡に関しては現状ある程度呼称の見当は付いてはいるのだが、今回は敢えて明確になるまでは黒田城を本城とした場合の仮名「黒田西城」としてリポートさせて頂く事になった(判明次第報告の予定)。

2010年5月 寺木城跡と判明しました

城跡へは先にリポート掲載を終えた久田和城あるいは黒田城を起点すれば非常に分かり易い位置にあり、城跡進入口もルート図及び概念図を参考にすれば道路沿いの分かり易い場所にあるので、旧神社参拝道を利用すれば難なく到達出来る(5分内)とは思われる。

1_1 登城ルート

6 進入口

3a 城跡概念図

14_kirikisi 19 圧倒される切岸見所

22_gedan1_heki_1 帯郭

27_shukaku 主郭内

32_horikiri_1 堀切見所

現状(九月)城跡は神社敷地(現在は社殿だけ)となっている事からも、ある程度整備されているので、城跡を形成する残存遺構は少ないながらも、全て判別可能な良い状態にはある。ただ神社敷地となれば近年において多少の造成地形改変はあったものと解釈しても良さそうには思われるが、見る限りは小規模でもあり、当時の郭跡地をそのまま転用したものの様には見受けられた。最高所に櫓台(主郭)が備わり、居館跡とも思われる広い郭跡の二郭で形成されたこの城跡はコンパクトで砦規模ではあるが、主郭背後には縦堀に繋がる堀切、それを取り巻く帯郭、更に状態の良い切岸は未だ健在でもあり、下から見上げれば主郭までは20m近い高低差を誇る切岸は、正に圧巻とも言える様相を呈している。他に際立った遺構が少ない事を思えば、木々にも邪魔されず全体像が窺える、この凄い切岸が見学の全てである様には感じられるのである(画像に注目)。単純に遺構の見応えだけを問われれば、この城跡に遺る切岸は恐らく東河地区の城跡の中では、ナンバーワンと言っても差支えなさそうには思えた。

個人的には東河川沿いに点在する城塞群は、この城跡を含めて合計七城は踏破した計算にはなったが、東河七城がどれに匹敵するものかは現状はっきりとは分からずじまいに終わってしまった(地元の城跡に詳しい方でも分からず)。何れの城跡もコンパクトにまとまったものであり、縄張りプランにおいても特筆に値する城跡は窺われなかったが、中でもこの宮地区に多くの城跡が集中している事を思えば、当然上道氏はここを領土支配における中心部、あるいは防備としても最終的な要としていたものとも察せられるが、大規模な城跡を一つ構えるより、小規模な砦を多く構える事の方が領土支配においては、より機能的で効果的であったのかも分からない。ただ個人的に感じられたのは、現地で地元の方に訪ね所在は確認したものの、黒田城(本城)があの程度(砦規模)の城跡で終わるはずは無いとも思えるのである、既に今まで踏破した東河川沿いの城塞群からも窺える様に、ひょっとすれば丹波の黒井城塞群には及ばずとも、それに匹敵するぐらいの城塞群にも思えるのである(本来の中枢を成す本城を見落としていた可能性もある)。

どうしてもまだ煮え切らない部分もあるので、これからも東河城塞群は現地で知り合った方との共闘作戦で、城跡呼称と所在地がある程度明確になるまでは追求して行くつもりではあるが、まだまだ時間は要すとも思われる事から、興味のある方にはしばらくの間ご猶予を頂きたいと思う。尚、ルート図には示したが、これも出城とも見受けられる山城が、黒田城の東側に二城(一城は既にリポート掲載済)確認されたので概念図と共に画像を載せたが、興味のある方は上り易い参拝登山道が山上まで(5分程度)は通じているので、東河地区の山城巡りの一環として、是非ついでに覗いて頂きたいと思うのである。

2010年5月 白井城跡と判明しました

Higasijyou 城跡概念図

Higasijyou_1 進入路

Higasijyou_3 山上主郭

Higasijyou_2 東堀切

2009年10月16日 (金)

東和田城跡(兵庫県朝来市)

城跡は兵庫県朝来市和田山町東和田にあって、先にリポート掲載を終えた久田和城からみれば、東河川を挟んだ北側の低丘陵上に位置しており、現在城跡の南側(市道側)の数十段にも及ぶ小規模な削平地は、古い時代の集合墓地(郭跡の転用地だろう)となっている。

この城跡も東河川に沿って点在する上道氏の出城あるいは東河七城の中の一つなのかも知れないが、集中点在する城塞群の城跡呼称の判別は現状難しく、詳細は地元の方に訪ねても分からずじまいでもある(個人の推定では大治賀城の可能性あり)。ほぼ無名に近く規模も小さい城跡である為に、公的な資料にも明確には記されていない様にも窺えるが、この明確に判別出来る遺構を目の当たりにすれば、当然既に発掘調査は終えているとは思えるのである。今回は呼称の断定までは至る事が出来なかったので、取り合えず位置する地区名から仮名「東和田城跡」としたが、個人的には遠距離訪問でもあり、現地で知り合った歴史好きの方にこの城跡に関して少しでも分かっている情報があれば、是非ご一報して頂く様にと後事を託したのだが、余り期待は出来ないかもしれない。(判明次第報告の予定)

1 登城ルート

4_1 城跡遠望

1_1 城跡概念図

11_minami_karahori 7_minami_kaku_karabori 南郭1と空堀見所

10_naka_shukaku 中郭2

14_kita_karahori 北空堀見所

12_shukaku_yori_kitakaku 中郭2より北郭3側

16_kita_heki15_kitakaku_heki  北郭3の郭切岸

20_kita_sakuheiti 北削平地

城跡へは久田和城を起点にすれば、ルート図からも直ぐ分かる位置にあり、車でほぼ直進移動すれば5分とはかからない。概念図に示したが、道路沿いからは墓地も直ぐ目に留まるので、そのまま墓地に歩いて向えば自ずと本郭群には到達可能である。

現状(九月)城跡は最北の郭跡地(広い削平地)は教育実習用の研修広場となっているので、全体的にも樹木はまばらとなっており、見学するには申し分のない状態にある。低い丘に築かれたこの砦規模(総全長100m足らず)の城跡は、但馬地方あるいは丹後地方でもよく見受けられる、空堀を間に挟んだ連続土塁壇が特徴でもあり、黒田城あるいはその出城でもお目にかかったものとほぼ機能は同一の様にも感じられた。具体的にこの小規模な土塁壇(10m四方が三つ並ぶ)をどの様に使いこなしていたのかは、見学者が見たままを想像するしか無い様にも感じられたが、この空堀(現在では1m程度の高低差)も500年近い堆積物を考えれば、当時は5~6m前後の深い空堀であった様な気がしないでもない。発掘調査の有無までは分からないが、機能や当時の空堀の様子を想像するだけで楽しくなってくるのである。

この城跡は見応えがあるとはとても言えないが、明確に判別出来る連続土塁壇と空堀、あるいは高低差は無いが未だ鋭角に残る郭切岸は、覗いて見る価値は充分ある様には感じられた。当時の城跡の風情を味わえれば良しとし、久田和城を含めた東河地区の城跡巡りの一環とすれば、この城跡も含めて自ずと充実した城跡巡りが出来るのではないだろうか。

2009年10月14日 (水)

久田和城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町久田和(クタワ)にあって、東河(トガ)川より南にある久田和集落西側の、川に向いて突き出した山上(標高269m)に位置している。半年前ぐらいに山城巡りの一環として当地を訪れた際、地元の方から色々情報を聞き及んだが、この東西に流れる東河川沿いには、東河七城と呼ばれる上道氏の傘下にある城跡、あるいは出城(砦跡)なら無数に点在しているとの事でもあり、今回は前回見逃していた城跡を探索する為に、再び現地を訪れる事になった。

この山城も場所の目星はおよそ付いていたが、地元で得た情報は相当曖昧なものにも拘らず、取り合えず城跡呼称だけは判明した。よって城史に関しての詳細は現状全く不明でもあるが、黒田城を本城とした上道氏の傘下にあった城跡か、あるいは一族の城跡の何れかである様には推察される。もちろん上道氏自体が戦国武将として表舞台で活躍した訳ではないので、当然情報が少ないのも当たり前でもあり、まして敗軍の将の歴史などは余り語られないのが現実でもある。現時点においては、先にリポート掲載を終えた黒田城(地元の方に聞いて確認)ですら曖昧なものに思えて来るのである。

Kutawa_1 登城ルート

5_1 城跡

7tozanguti 入山口

Kutawa_2 城跡概念図  

城跡へは前回の黒田城への案内ルートを参考にして頂ければ分かり易いとは思われるが、国道9号から「一本柳」交差点を北上して、東河川沿いに市道273号を東進すればよい。中地区に入れば右手に中腹に鉄塔が建つ急峻な山が目に留まるが、この山上がこれから目指す城跡でもある。城跡の位置が確認出来れば、概念図あるいは画像に示した様に市道273号から養鶏場を目指して南下、その突き当たりにある開閉フェンス(入山口)を潜り、その先の木橋を渡れば自ずと鉄塔経由で主郭までは辿り着ける。尚、木橋を渡った後は直ぐ竹林地となるが、火の用心」の標識が数箇所に窺えた踏み跡程度の道があるので、道は途絶えても山上を目指せば難なく到達出来る筈である。(山上までは15分前後

12_higasi_kaku 東郭の現状

18_shukaku 主郭内

19_shukaku_dorui_1 主郭大土塁見所

18_shukaku_1 主郭切岸

21_horikiri_dorui 21_horikiri_dorui_3 堀切土塁見所

現状(九月)城跡はこの時期でも移動あるいは遺構見学に難渋もせず、ほぼ縄張りは見て回れる状態にある、藪漕ぎは覚悟の上で登ったものの、人の手の入らない山城としては中々見学し易い良い状態とも言えるだろう。城跡の形態は概念図を見て頂ければ一目瞭然とは思えるが、直線的な尾根上に広い削平地(東郭)と山上主郭の二郭で形成される、全長100m程度の規模の山城である。見所は多くはないが主郭背後を断つ縦堀に繋がる堀切及び付随する土塁、主郭内の大土塁は挙げられようが、他で際立った遺構が無いのもこの山城の特徴かも、、、ただ思ったより遺構残存度は高そうに思えたので、無名の山城でも興味のある方にはお薦め出来そうにも思えた山城の一つである。もちろん有名無名を問わず険峻な山城が好きな自分としては、十分な満足感に満たされた事は言うまでもないが、、

尚、ルート図中に示した、北に位置する他の二城のリポート掲載は次で予定

2009年10月13日 (火)

青井山城跡(福井県小浜市)

城跡は小浜市青井にあって、後瀬山城の真西側にある海に面した山塊の山上に位置しているが、現在は「自然観察の森」として山上一帯は公園化されている。限りなく無名に近いこの山城は南北朝期に成立した城跡と伝わるが、戦国期を乗り越えているのであれば、せいぜい後瀬山城の砦あるいは海上に睨みを利かせた監視機能を持った城跡の様には感じられる(推察)

城跡へはほぼルート図の如く、国道27号「青井」の交差点で針路変更後山上に向けて進行すればよいが、かつて山上まで繋がっていたとも思われる車道は、途中から管理道として封鎖されており、図に示した峠付近(三叉路)に車は路駐して、そこからは歩いて上る事を余儀なくされる。山頂まではのんびりと海を眺めながらの道程になるが、15分程度で到達出来るとは思われる。

1route 登城ルート

2 現地案内板

025 小浜市内遠望

036 山上へ

Photo 山上最高所

033 東第二休憩所

現状(九月)城跡は先に触れた様に山上周辺は全て公園化されており、山頂に至るまでは歩き易いアスファルトの遊歩道、あるいは駐車場(恐らく小規模な郭跡地)となっているので、公園化によって相当な地形改変が行われたものと想像される。案内板における尾根上を東の第二休憩所までは周りの景色を眺めながら歩いてみたが、痩せ尾根上に削平地がある程度でもあり、かつての山城の面影は全く残ってはいないのが現状である。堀切程度はかつてあったのかも分からないが、現状それらしきものは目に留まらなかった。もちろん土塁と窺われる箇所があったとしても、それは恐らく遊歩道設置の際の残土(盛り土)とも見受けられるのである。

山上に佇めば直ぐ東側に後瀬山城、北側には小浜湾、市内を跨いで遠くには丸山城(茶磨山城)も望める事から、眺望を味わうには最適の城跡という事にはなるが、城跡遺構を期待するのであれば間違いなく期待はずれに終わるものと思われる。せいぜいかつての山城の風情を感じれば良しとする方には、最高のロケーションだけは味わえるので、自然を満喫しながらの山歩きという事になれば、お薦めは出来るかもしれない。

2009年10月12日 (月)

半田城跡(京都府福知山市)

この城跡は事前に地形図から窺うに、住宅地の迫った丘陵上に位置している事からも自ずと密生した竹薮地が直ぐ想像出来、今までも中々足を運ぶまでには至らず訪問もついつい先送りにしていた。今回は山崎城などの山城巡りの一環としてやっと訪れる事に相成ったが、城跡は想像とは裏腹に、竹薮地ではあるが密生はしていないのでこの時期(九月)でも非常に見て回りやすい状態にあり、丘陵上に展開される縄張り内の遺構はほぼ判別確認する事が出来る状態(良いと言えるまでのレベルではない)にあった。

城跡は福知山市半田にあって、既にリポート掲載を終えた新庄城から見れば南西側へ500mと離れていない和久川に沿った丘陵上に位置しており、現在郭跡の一部には小さな稲荷神社が建立されている。当時における城主も城史に関しての詳細も不明 

城跡へは国道9号から「新庄」交差点で429号へ針路変更、後はルート図の如く公民館を目印として目指せば難なく辿り着けるだろう。公民館付近には路駐可能な空きスペースもあるので、ここを出発点として川に向いて歩いて橋を渡り直ぐ川沿いに左折、画像に示した稲荷神社への参拝道からそのまま上れば、直ぐにでも東端の郭跡(祠のある郭跡)には到達可能となっている。

1route 登城ルート

5sinnyuukuti 参拝道への進入口

この城跡の魅力は何と言っても人家がここまで迫りながらも、地形改変がほとんど見受けられない遺構残存度の高さであり、直線的な縄張りではあるがその中にひしめき合う技巧を伴う遺構群であると断言出来そうにも思える。個人的にもその縄張りを含めた遺構の素晴らしさには足を止める時間も長く、つい時間の経つのも忘れてしまったほどである。小規模な為に見学するにもそう時間は要さないのだが、同じ福知山市内にあって遺構残存度が非常に高く、小規模ではあるが縄張り妙味にも富んだ中村城が直ぐ思い浮かんでしまった。見所を挙げるとすれば概念図には示したが、主郭北斜面に備わる分厚い縦土塁、大堀切とそれに沿う形の縦土塁、主郭背後の縦堀に繋がる堀切、武者隠しに見えた空堀土塁、東出郭を断つ横堀、二の丸の仕切り土塁などの技巧を伴う遺構群はどれを取っても見逃せないものばかりである。

3ha 城跡概念図

12_higasi_horikiri 東横堀見所

18_sikiri_dorui_1 仕切り土塁見所

20_shukaku_heki_2 主郭壁土塁

24_daihorikiri_2 西大堀切見所

27_tatebori_tatedorui 縦堀と縦土塁見所

30_kita_tatedorui 主郭北の縦土塁見所

33_mushakakusi 武者隠し?見所

28_nisihasi_horikiri 西端の堀切見所

27_nisi_yori_horikiri 西郭より堀切

車を停めて10分とかからず主郭に到達可能なお手軽感、遺構の見応え、遺構残存度、更に縄張り妙味まで含めれば正に推奨に値する城跡とも見受けられ、まだ未訪の方には是非訪問をお薦めしたい城跡の一つである。山城に抵抗のある方にとっても非常に訪ねやすい丘城なので、当然お薦めする事は言うまでも無いが、、、。

2009年10月11日 (日)

新保山城(福井県小浜市)

城跡は小浜市新保にあって、先にリポート掲載を終えた竹長城からみれば北東側に聳える山の山上に位置しており、竹長城側からも城山は直ぐ確認出来る筈である。当時、後瀬山城を本城とした若狭守護武田氏一族の支城でもあるが、織田軍による越前侵攻によって、朝倉氏と同様に滅亡への道を辿った。別名霞美ヶ城とも呼ばれている。

城跡へは竹長城を起点にすれば分かり易いが、ルート図の如く赤線を辿れば数分で現地には辿り着けるが、車は登山口手前の墓地付近に路駐スペースは充分あるので、駐車に気を使う必要はないとは思われる。ここから集落に向いて数10m先にある、画像に示した住宅地手前から左手に山に入る道があり、少し入れば右手側斜面を登って行けばよい。その付近には低い土塁で囲まれた広い削平地も直ぐ目に留まるが、これが当時の居館跡なのかどうかは確信は持てずにいる(標識が無い)。そこからいよいよ踏み跡程度の倒木の多い急峻山道を上ることになるが、城域と察せられる広い尾根上削平地に到達するまでは20分程度は要す、そこからは右手側に一旦下って(自然堀切地形まで)上る形となるが、更に山上主郭まで到達するには20分程度は要す事になる。それほど険峻な山城であり、南北に城域が広い城跡なのである。

1route 登城ルート

6_tozanguti_e 登山口

8_yakata_2 居館跡か(土塁跡)

3si 城跡概念図

現状(九月)城跡はこの時期にも拘らず郭移動もし易く、山城としては非常に見学し易い良い状態にあり、全ての枝尾根まで踏破した訳ではないが、山上における遺構は全て判別確認出来る状況でもある。恐らく四季を問わずこの状態は自然保持されているとも思われ、冬季訪問においては更に見学し易いことは予測が付く。この山城を語り出せば限がないとも思われるので、見たままをアバウトにリポートさせて頂くが、自作概念図を見て頂ければ分かり易いとは思われるが、急峻極まりない地形をそのまま縄張りとして取り込み、南北にほぼ直線的(本郭群だけでも200m前後ある)に郭を配した非常にシンプルな形態であり、山上は六本の縦堀に繋がる堀切で分断守備されている。山上本郭群は三郭の大規模な郭で形成されており、その一部には土塁も櫓台らしき土塁壇も備わっており、何れを主郭としても可笑しくはない構造でもある。

16_nantan_horikiri 17_horikiri_1 南端の堀切(縦堀へ)見所

28_shukaku_minami_heki 南主郭切岸

29_minami_shukaku_1 南主郭内

34_kitashukaku_heki 北主郭切岸

36_higasi_dorui_ato 主郭土塁見所

38_daihorikiri_2 大堀切見所

42_demaru_kita_dorui_1 北出郭より土塁見所

46_horikiri_heki 北堀切見所

この城跡の最大の見所でもあり見応えのある遺構は、先に触れた六本の縦堀に繋がる堀切(薬研堀を含む)に尽きとも思われるが、その切岸高低差は10m以上はあろうかとも思われ、正に当時をそのまま再現したかの様な圧巻とも呼べるものである。山上に到達するまでに急斜面との戦いは40分以上も続き、相当体力は消耗させられるが、山上に横たわる堀切群を目の当たりにすれば、その疲れは一掃される様にも感じられる。それほど状態も良く目を楽しませてくれる遺構群なのである。尚、地形からも北西側あるいは南東側の枝尾根にも郭の展開は予想されたが今回は未踏、概念図に示したものより城域は相当はみ出ている様には感じられた。個人的には既に再訪も果たしたが、此方より更に険峻でもある後瀬山城も山城としての魅力には満ち溢れているが、単純に現存する遺構の醍醐味、あるいは見応えだけを採り上げれば、インパクトのある堀切が多用されているこの山城の方が若干勝っているようには感じられたのである。 正に推奨に値する、是非お薦め出来る山城の一つである。

2009年10月10日 (土)

竹長城跡(福井県小浜市)

この山城は今回の新保山城をメインとした山城巡りにはチョイスしていなかったのだが、新保山城へ向う際の道路脇の案内板を覗いた結果、ここから直ぐ近くにこの城跡がある事が判明し、急遽予定を変更(加茂城を訪問する予定)して立ち寄ったものである。よって城史などの詳細は知る術もないが、案内マップに記されている以上は、当然小浜市においては既に発掘調査は成されているものと考えられる。詳細が知りたい方は市の教育委員会を訪ねれば良いのかも知れないが、、

城跡へは国道27号を走り「平野」で219号へ針路変更、そのまま北上3km程度走れば左手道路沿いに周辺の史跡を記した「案内マップ」が目に留まる筈である。ここから直ぐ先には郵便局もあり、そこから道路北西側(左手側)に望める丘陵尾根が城跡にあたる。登城ルートは概念図を参考にして頂ければよいが、三ルート(A、B、C)の何れも急斜面の直登ルートであり、時期的(九月)にも多少の藪漕ぎは覚悟しなければならないだろう。一番まだ上りやすいと感じられたのはCルートであり個人的には下山ルートとなった。便宜上の東出郭へはどこから取り付いても迷わず上れるとは思われるので、敢えてこの三ルートを選択しなくても良いかも分からないが、、(思ったより急峻な地形に阻まれAルートの直登では20分以上は要した)。

1route_2 登城ルート

2_1 現地史跡案内板

4_1_2 城跡遠望

6_gezanguti_1 Cルート直登口

3t 城跡概念図

城跡の形態としては、道路沿いに面した東出郭から西尾根上にかけて郭は直線的に展開されており、郭間に大して高低差があるわけでもなく、尾根筋に沿って狭小段郭群あるいは削平地が主郭まで繋がっているものである。地理的条件から考えても当然新保山城の出城あるいは砦機能は窺えるが、規模からすれば砦の域は出ている様には感じられた。見応えのある遺構を探すには苦労させられるが、なかった!と言うのが本音かも知れない。

10_tatebori 縦堀地形

23_higasi_demaru_karabori 東出郭空堀跡

22_toutan_kaku 尾根上の削平地

14_higasi_dankaku_gun_1 段郭群

17_shukaku_1 山上主郭

山城として醍醐味を感じられるのは切岸などにおける高低差であり、堀切などの様なインパクトのある地形、あるいは地形(山容)をも取り込んだ縄張りプランなのであるが、その何れも満たしていないのが城跡の現状でもある。個人的には予期せぬ城跡に巡り合えたので喜びの方が大きいのだが、これから訪ねられる方には決して遺構の見応えは期待しないで赴いて頂きたいと思うのである。山城としての醍醐味、魅力には少々欠けるが、決して戦国期を物語る史跡としての価値が下がるものではないので、山城としての風情を味わう程度の訪問なら、充分納得の行く見学が出来るのではないだろうか。尚、対岸に位置する加茂城は、これから向う新保山城への登山を考えて断念したが、取り合えずルート図に位置は示したので参考までに、、、この城跡以上に、上るには相当手強い山城(険峻)の様には感じられる。

2009年10月 9日 (金)

野間中城跡(大阪府豊能郡)

この城跡は個人的には既に野間城(本城)と並んで、昨年中にリポート掲載は同時に終えたものだと勝手に思い込んでいた処、最近になって忘れている事に気が付き、多少情報の鮮度は落ちてはしまったが、取り合えずまだ未訪の方の為に急遽掲載に及んだ。

城跡は大阪府豊能郡能勢町野間中にあって、当時丸山城を居城とした能勢氏の分かれが野間に城を築き、地域名である野間氏を名乗ったことにより始まっているが、野間豊後守によって小倉山に城を築くものの、完成間際で中止(理由は謎)になったものであると北摂の歴史では伝えられている。

城跡へは国道477号を走れば「野間中」交差点で県道4号で東へ針路変更、後はルート図あるいは概念図の如く城跡への進入口でもある目印となる「六地蔵」を目指せば、そこからは10分内で山上までは到達可能となっている。ただ途中までは山道らしいものはあるが、山上へ向いて通過する休耕地は、荒れ放題で下草も多いので直ぐ道は途絶えてしまう。しかし低山なので草木の少ない箇所を選んで上れば、どのコースでも縄張り内には難なく辿り着く事は可能でもある。

1z_1 登城ルート

4 城跡進入路

Noma_nakajyou_2 城跡概念図

18_horikiri 中央堀切見所

20_kaku1 西段郭群

21_kaku1_karabori_1 西下段空堀地形

24_kaku2 西下段2

28_shukaku_dorui 主郭土塁見所

31_kaku3_yori_shukaku_heki 北郭より主郭切岸

城跡の形態としては山上を東西に分断する中央堀切を挟んで二方に郭群は分かれて配されており、便宜上主郭とした西郭群の方が土塁、櫓台土塁、切岸、空堀状の窪などの様に、地形から遺構としてある程度判別し易く残ってはいるが、東郭群は削平も切岸処理も甘く、途中で築城が中止された事を充分物語っている様にも感じられた。遺構として判別可能なものは概念図に示したが、風化及び堆積物などの影響もあって、地形の変化から明確にそれと判別出来るものは限られてくるのが現状でもある。ただこの城跡が完成に漕ぎ着けていたなら本城である野間城よりは随分規模で劣るが、縄張り妙味に関してなら勝っている様にも感じられるのである。谷川沿いにある野間館を南の野間城、北はこの野間中城で挟む形で築かれたこの城跡は、縄張りプランから考えても砦の域は充分出たものであり、本城からみれば自ずと支城として考えれば良いのかもしれない。まだ未訪の方には野間城(本城)あるいは谷川沿いにある野間館跡と併せた、三城同日訪問を是非お薦めしたい。尚、車は三城同日訪問を前提とすれば、付近に路駐可能なスペースも見当たらない事からも、ルート図にある「円珠寺」に預ければよいものと思われる。

2009年10月 7日 (水)

三俣城跡(京都府福知山市)

この城跡に関しては何時もの気ままな山城巡りの中で、外見から窺った山容あるいは城跡としては好立地条件下にある事からも、個人的な好奇心から以前より機会があれば覗いてみようと思った事から始まったものであり、既に訪れて半年以上が経過したが、未だにここが城跡であると決め手になる遺構(分かり易い堀切あるいは必然性のある土塁)が存在しなかった事、あるいは色んな資料に目を通すものの、やはり城跡としての記述も情報も得られず、自分としては城跡としての確信は持ちながらも掲載を控えていたものである。しかし最近になって偶然山城巡りの中で知り合った方から、この城跡は福知山市の遺跡分布図の中に「三俣城」として記載されているとの信頼出来る情報を頂き、今回やっと「三俣城」としてのリポート掲載に漕ぎ着ける事が出来た。城史に関しての詳細は現状不明

城跡は福知山市三俣にあって、生野神社の直ぐ北背後にある丘陵上に位置している。ルート図の如く国道9号を利用して上六人部小学校あるいは生野神社を目印として目指せば難なく辿り着けるとは思われる。神社に到着すれば社殿背後よりそのまま上りきれば、直ぐにでも縄張り内には到達可能である。

1_1 登城ルート

1 現地概略図

4_1 城跡遠望

ただこの城跡の現況(状態)だけを説明する事は容易ではあるが、現地における地形を見ただけでは一体どこまでが城跡の一部なのか、あるいはこれが城跡としての形態なのかは非常に判断しかねる、他に類を見ない特異な形態であるのは確かである。取り合えず画像には城跡遺構として予測の付き易い分かり易いものを選んで載せたが、雑木も蔓延っているので全体像が窺えず、まして全体像の写真を残す事は尚更困難でもあり、載せた遺構画像だけで現地の様子を窺うのは少し無理があるかも知れない。とにかく概念図にも描き切れない様相をしているのである。目に留まった遺構は北側の山裾に向いて広がる広大な削平地、埋もれて現状浅くなってはいるが土塁を付随させた空堀部分的に石垣跡、縦堀地形そして先に触れたとても形容し辛く説明もし難い自然大岩(巨大岩盤を含む)に周囲を取り囲まれた巨大な穴倉状の地形、あるいは巨岩を利用したと見受けられるその穴倉虎口、付随する人為的な土塁など遺構とすれば驚愕に値するものと目には映った。現状ではこの巨大穴倉は長い年月をかけて相当崩落しており当時の原形すら想像も付かない状況となっており、機能においては個人で想像して頂くしか無い様には感じられるのである。Karahori A_3 A_23 A_28 A_29 A_34 A_32 A_16

取り合えずこのリポートに興味を抱かれた方にのみ訪問をお薦めしたいが、実際にこの地形を目の当たりにすれば、普通なら「自然の成せる業」と誰もが思うに違いないのだが、城跡ファンであればこれは明らかに人の手が加わったものであり、どの様に機能していたのかはある程度察しが付くのではないだろうか。個人的には数百人の収容が可能な、武者隠しの様な駐屯地的なものにも見受けられたのだが、、、。

2009年10月 5日 (月)

湯岡城跡(福井県小浜市)

城跡は小浜市湯岡にあって、有名な若狭武田氏の居城、「後瀬山城」の直ぐ東側に聳える山の山上尾根に位置している。別名池谷山城とも呼ばれており、戦国期においては南部氏の居城が伝わるが、城主は恐らく何度も交代している様には窺われる。城跡の成立は古くは南北朝期まで遡るとも言われているが、隣接する後瀬山城(武田氏)との関係までは調べるまでには至っていない。詳細は不明

城跡へは国道27号を走り、「湯岡」交差点で国道に沿う形で針路変更、後はルート図の如く数100mも移動すれば、登山口ともなる熊野神社までは難なく到達出来る。小型車であれば画像に示した鳥居手前付近に路駐スペースは確保出来る筈である。個人的には概念図に示した城跡の北西側麓にある、若宮神社より最短での直登ルート(20分)を選択したが、藪漕ぎの連続でもあり、更に急斜面がそれに追い討ちをかけて、山上到達までには相当体力を消耗してしまった。もしこのブログをきっかけに訪問される方は、下山時に使用した赤線で記したルート図を参考にして向われる事をお薦めしたい。このルートは熊野神社の直ぐ真後ろ側の丘陵上にある、水道施設西背後から直ぐ山上に向いて上るものであるが、踏み跡程度の山道が繋がっているので、山上主郭までは迷わず辿り着けるとは思われる。ただ距離的に1kmはありそうとも思えるので、所要時間として30分はみておく必要があるかもしれない、、、

1route 登城ルート

7 熊野神社

9 進入路

3 城跡概念図

26_kuruwa 北郭の現状

20_kita_dobasi_2 中央土橋見所

13_shukaku

主郭

12_minami_e_dobasi 南土橋

現状(九月)城跡は、この時期でも踏み跡程度の山道から反れない限りは移動に難渋する事も無く、尾根上に直線的に配された郭跡はほぼ見て回れる状態にある。ただ安普請によるものか古い形態によるものなのかは分からないが、主郭の高低差の少ない切岸などは相当甘く、他の郭跡にも切岸処理の跡は見受けられず、長年の堆積物によるせいもあるが、見る限り土塁跡あるいは空堀跡などは目に留まらなかった。ただ尾根上を分断する為の堀切の代用として、人一人が通過出来るのが精一杯といった土橋を尾根上三箇所で確認する事が出来た。今回は藪漕ぎの直登によって相当体力を消耗してしまい、本来水道施設の東側(出郭がありそう?)も踏破する予定でいたものがそれも叶わず、早々に城跡を後にしてしまった。個人的には現存している遺構群からは、山城としての見応えも醍醐味も感じる事が出来なかったが、山上まで到達する時間を考えても、中々お薦めの城跡とまでは言えないのが本音である。

2009年10月 4日 (日)

谷小屋城跡(福井県小浜市)

この城跡は何度か小浜に向いて車を走らせている時に、車窓越しに低山ではあるが、余りにも山城の如く急峻な佇まい(山裾には寺院、神社、周囲二方を取り囲むように川及び川沿いに集落の環境)が感じられる山塊があり、何時か機会があれば確認の為に訪れて見ようとチェックしていた事から始まったものであるが、今回は新保山城の訪問も兼ねて、自分の見た目に狂いが無い事、あるいは何としても城跡の有無を確認しておきたい気持ちが優先した事から、道すがりに意を決して立ち寄る事にしたものである。

結果的に山上では、ここ数十年は人の手が入ったと見受けられない、残存度の非常に高い素晴らしい城跡遺構を眼にする事となった。下山後に城山の山裾にあり登山口でもある、「妙祐寺」住職から寺院のパンフレットを頂いたが、その中に僅かではあるが城跡にまつわる伝承が記されており、この山城は「谷小屋城」と呼ばれるものと初めて認識する事が出来た。尚、御住職はこの城山の存在は知ってはおられたが、城跡呼称すら御存知ではなく、今まで一度も城山に登った事がないとも聞き及んだ。最初に御住職に声をかけておれば、一緒に同行して上れたかも知れないので非常に残念な思いはしたが、御住職の年齢を考えれば案外それも叶わなかったかもしれない。山上まで到達するには短時間ではあるが、非常に厳しい登山が待ち受けているのである。

御住職も城山の様子に聞き入っておられた事からも、それなりに興味は示され、「上れないが一度山上の写真(現状)を見てみたい」と言う事になり、画像は次の山城巡りの際には必ず持って伺う事を約束した上で寺院は後にした。これを機会に御住職からは是非、市に対して史跡として残せるように働きかけて頂き、この残存度の高い城跡遺構は何としてでも後世まで大事に遺して頂きたいとのである(近所にある大塩城より規模は小さいが見応えで勝る)。それが自分としては一番望む事でもあるのだが、、、。

1route_tani 登城ルート

Tani1z 城跡の概略(妙祐寺パンフより抜粋)

4_1 城跡遠望

3ta 城跡概念図

城跡は小浜市中井にあって、ルート図に示した様に国道162号より「妙祐寺」を目指せば難なく辿り着ける筈である。概念図の如く、寺院の最奥に位置する集合墓地背後から旧妙見社への参拝道を利用、その跡地背後より急斜面を登り切れば、便宜上の東出郭には15分もあれば到達出来ると思われる(藪漕ぎもなく迷わず上れるが、斜面は相当きつい!)。

10 登山口

16_higasi_demaru_1 東出郭の現状

17_higasi_horikir_1 東堀切見所

23_nakakaku_1 中郭

25_shukaku_e_noboridorui 主郭上り土塁見所

27_shukaku_2 主郭内

28_kesiki_2主郭からの眺望

35_nisihasi_horikiri_1 西堀切見所

33_2ren_dorui_karabori 二連の空堀土塁見所

現状(九月)城跡は、この時期においても郭間の移動には難渋する事も無く見て回れ、山城としては比較的良いと言える状態にある。もちろん自然任せである為に主郭などの地表は荒れ放題でもあるが、意外に山上主郭に佇めば一部集落の見通せる場所も残っており、残存遺構でもある堀切(三箇所)、郭跡、切岸、僅かに残る土塁跡(内壁に石列あり)、空堀(武者隠しかも?)などは全て判別確認可能な状況でもある。山上に直線的に配された郭形態からすれば、縄張り妙味には少し欠けそうではあるが、それを補って余りある高低差を伴う堀切(切岸)を代表とする様に、非常に見応えがあるものであり、遺構残存度の高さも含めてこの城跡の魅力の一つともなっている。城跡は自ずと四季を問わず訪問可能な状態が予想される事からも、山城ファンにおいては是非訪問をお薦めしたいと思うのである(史跡ファンには登山が少しきつい)。 言い忘れたが、寺院敷地にある「しだれ桜」は訪れる季節さえ間違わなければ、写真で見る限り一見の価値のあるものとして目には映った。

2009年10月 3日 (土)

但馬山内城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町山内にあって、集落の川を挟んだ南側にある、ほぼ単独で聳える形の急峻な低山山上に位置している。付近は城ノ根(ジョウノネ)とも呼ばれている事からも、付近で城跡を訪ねれば年配の方はほとんど御存知である様にも感じられたが、無名に限りなく近いこの山城は、上った事は一度も無い様な、話題にも取り上げられない山城の様にも思われるのである。当時においては竹田城主太田垣氏の傘下にあった、足羽氏の居城が伝わっているだけであるが、これから先は存在すら忘れ去られていく山城の一つになる可能性は大である様にも感じられた。

城跡へは先にリポート掲載を終えた物部城を起点とすれば分かり易いが、国道312号の「伊由市場」交差点を逆の東側(526号)に進路を取って山内地区を目指せばよい。少し走れば直ぐにでも進行方向右手に見えてくる、道路沿いの険峻な山がそれであり、確認は容易く出来るとは思われる。ルート図あるいは概念図に示した様に、城跡へ通じる入山口は現在この一箇所だけだと思われるので、道路側から走りながら注意して窺う必要はあるだろう(画像に示したが、分かり易い位置にある)。フェンスを開閉すればそのまま山道から向えばよいが、途中から無数に連なる屋敷跡地(近世のものだろう)を横切って、急斜面を直登すれば入山口から山上までは20分内で到達出来る筈である。この山道は更に城跡の南東側へ回り込む形で繋がっており、南斜面からでも上れそうにも思えたが確証は無い。

1route_2 登城ルート

4_1 城跡遠望

6 入山口への進入路

3ya 城跡概念図

13_horikiri_1 北尾根の堀切

15_shukaku_1 主郭内

16_shukaku_dorui 主郭土塁

22_tatebori 縦堀

現状(九月)城跡は、かつて植林地であった道路側斜面が、伐採によってむき出しになっているので、主郭に佇めば集落全域がほぼ見渡せる状態でもあり、山上郭においても木々が少ない為に、少ない遺構ではあるがほぼ判別確認可能な状態にある。概念図に示したまでが明確に判別可能な遺構群であるが、城跡の見所は主郭内に唯一遺された土塁、北側の尾根を断つ堀切、土塁は挙げられるが、他は縦堀地形が目に留まっただけでもあり、多少見応えに欠ける様には感じられた。道路側の崖状急斜面は低い草木に覆われており、外見からの視認は困難、更に滑り易く危険な状態にあったので踏破は断念せざるを得なかったが、何の期待もせず予備知識もなく訪れた事もあってか、充分満足感に浸ることは出来た。個人的には山城を上ってみて、険峻さを体感する事が出来ればそれだけで山城としてはまずは合格点なのである。もちろん更に見応えのある遺構があれば、尚更言うに越した事は無いのだが、、。

城跡を評価すれば、見応えのある遺構が目に留まらなかった事からも、とてもお薦めとは言い難いが、年々山上から下界を見通せる山城が少なくなっている事を思えば、貴重な城跡と言えるのかも知れない。こんな無名に近い山城でも、但馬地方の山城に興味を持たれていた方にとっては、よりタイムリーな現況報告となったものと思いたい。

2009年10月 1日 (木)

但馬物部城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町物部にあって物部八幡神社側からみれば背後にあたる真北側の山上尾根に位置している。但馬竹田城とも近いことから、その支城あるいは出城とも見受けられなくもないが、現状城跡の古い形態を考えれば、とても戦国期を乗り切った城跡の様には窺われず、山裾の神社敷地を当時の居館とすれば、山上主郭は規模の小さな詰城、あるいは物見といった程度の城跡でもある。戦国期においては代々物部氏の居城は伝わっているが、何代目かの城主は戦死しており、城はその時より廃城となった可能性は高いものと推察される、もちろん同氏が活躍した時代背景の詳細は分からないのが現状でもある。

城跡へは県道70号よりルート図の如くJR「青倉駅」を目指せば分かり易く、道路沿いにある二箇所の「中物部」バス停の間から神社に上る道があるので、そこから進入すれば直ぐに神社駐車場までは到達可能である。社殿左手側の、屋敷跡地の様にも窺われた広い削平地からは、登山道(旧参拝道?)が北山上に向いて繋がっているので、山上主郭までは10分程で迷わず辿り着く事が出来るだろう。

1route 登城ルート

7 神社を見上げる

10 登山口

3mo 城跡概念図

現状(九月)城跡は山上主郭までは、登山道に任せれば万遍なく見て回れる状況にあり、尾根上の郭跡(削平地)を判別確認しながら上れば効率よく見学出来る。とは言っても山上主郭までの遺構は、縦堀地形は二箇所で窺われたものの、ほぼ尾根上の郭跡を体感する程度の事でもあり、山城の風情などは感じられても、見応えを問われると返答に困るのが現実でもある。概念図に示したものが個人的に遺構と判別出来たものであるが、確実にそれと判別出来る技巧的な遺構は皆無でもあり、郭跡を除けば主郭周りの切岸だけが当時を偲ばせる遺構の様にも感じられた。

11_tatehori 縦堀地形

12_kaku 南尾根上の郭

15_higasi_kaku 東郭

15_minami_gedan_kaku_1 南下段郭

17_shukaku 山上主郭

19_kitagawa_heki 主郭北背後の切岸

古い形態の山城でもあり、見応えのある遺構が存在しない事からも、山城ファンにはお薦めとはいかないが、当時における山城の風情を味わう程度と割り切った訪問であれば、充分納得の行く見学が出来るのではないだろうか。見通しは利かないが山上主郭には休憩所(近年まで小社があったとも窺われた)まで設置されており、登山道が主郭まで通じている事からも、一般の史跡見学者あるいは城跡ファンにはお薦め出来る城跡かもしれない。逆に見応えはなくとも、当時の史跡としてみれば充分価値は感じられるのである。

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