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2009年9月16日 (水)

桐村城の所在地判明

この山城に関しての前回のリポート掲載(今年1/21日)では、明確に所在も判明せぬままではありましたが、山上には明らかな城跡遺構が存在する事から、呼称も確定せぬまま自身による判断で、暫定「桐村城」という形で異なる城跡をリポートさせて頂きました。今回(九月)は何としてでも本来の桐村城の場所を突き止めたい気持ちが優先した事から、再訪に併せて奥谷地区にお住まいでもある、大呂地区(桐村氏)の歴史に一番精通した方を現地で紹介して頂きました。ブログ読者の方の情報からも「桐村城はもっと奥に入った場所にあった」と言ったコメントを頂戴しており、地図上ではある程度目星は付いておりましたが、お陰様でやっと所在地(福知山市大呂字奥谷)だけは確認する事が出来ました。

場所は地図には記しましたが、標高291mに及ぶ低山ではあるが非常に険峻な山でもある山頂が城跡です。しかし城域はその東側に連なる二峰にも跨り、山上尾根全域に及んでいる様にも窺われる大規模な山城の様にも感じられました(推察)。しかし今(三時)からの比高200mに及ぶ藪漕ぎの考えられる登山、あるいは熊の出没も考えられるリスクを考えれば、現状上って下山するには余りにも無謀と考えられた事からも、今回は断腸の思いで訪問を断念する結果となりました。今回は地元の方から聞き及んだ城跡に関しての情報の概略を掲載しましたので、興味のある方だけに読んで頂ければ、再訪の価値は充分あったとは思われます。尚、この山城に関しては福知山市史に載せられているそうでもあり、自分の様な遠距離訪問者にとっては、寄って資料を窺う余裕も無いのが現実なのですが、時間に余裕のある方は一度目を通して訪問された方が、山城巡りをする際に置いてはより楽しめるのではないでしょうか。

Kirimura2 城跡所在地

Photo_2 1_2 城跡遠望

(地元で聞いた情報)  この桐村氏は13世紀頃常陸の国に在住していた鹿島中臣氏を発祥とするもので、この地には地頭職を与えられて赴いた事から始まっている(集落奥には鹿島神社もある)。本来はこの地を支配したのは金山氏が先であり、その庶流がこの桐村氏にあたるもので、金山氏は足利政権の下では「丹波金山衆」として名を馳せたものの徐々に没落の道を歩んだ。室町期には同族同士の争いでこの金山氏は滅んだとも伝わるが、戦国期においては桐村氏がそれに取って代わるほどの力を身に付け、この地は桐村氏によって長く統治された。戦国期は八木城主でもある内藤氏の傘下で活躍したが、赤井氏との抗争によって敗れるも、明智による丹波平定後は再び旧領に復帰する。その後は秀吉による「太閤検地」によって土着の道を歩んだ模様。

以上が聞き及んだ事を簡単にまとめたものですが、実際には話は随分と長くに及んだものであり、個人的にも桐村氏に関しての情報としては、非常に満足度の高いものとなりました。先に掲載に及んだ(暫定)桐村城は推測にはなりますが、この奥谷地区の入り口にあたる事からも、東側を抑える為の出城あるいは伝承にもある金山城であるとも考えられそうですが、未だに確証は得られておりません。ルート図には示しましたが、(暫定)桐村城の対岸神社敷地にも城跡遺構らしき跡がある事を考えれば、集落入り口を南北から挟んだ構造は、正しく古来からの集落を中心とした防備の一環の様にも見受けられます。この城跡自体は無名に近く深く追求する程のものとは思えないのですが、一度乗りかかった船でもあり、個人的には再訪が叶うかどうかは分かりませんが、これから訪城準備のあった方、あるいは気に留めていた方にのみ参考になれば幸いでもあります。尚、付近には天寧寺山城も存在する事から、当時この大呂地区一帯を支配していた桐村氏の勢力を知る上でも、前回掲載の(暫定)桐村城跡は(仮名)桐村東城としてそのまま掲載は据え置くつもりでおります。 

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コメント

何時も楽しく拝見させていただいています。
桐村城ご苦労され様ですが、福知山市史の記載されている城と思いますが、私自身まだ行っていませんので調査した友人に聞くと、レポートの通り奥谷の山が桐村城で天寧寺の向いが金山城と友人は言っていました。
金山城の金山氏は幕府の有力者で、桐村城の城主は金山氏の一族で、在地の有力者で有ったようで在地の支配を本家より奪ったとの事、このような奥深い所に勢力があったのは、京都に上がる街道があったようで、一色氏が桐村氏(?)に通行を認める要な文書があるようなこと教えてもらいました。
レポート参考にさせていただいて松茸の季節が終われば登ってみたいと思っています。
最近は、また伊賀のレポートされているので期待しています。明日は私たちも伊賀の城を調べに行く予定にしています(丸山城、神戸のほうでなく)。
友人は、高土塁(その上にまた土塁囲みの郭ある)をめぐらした伊賀型の城注目していますが、私はどちらかというと天正期と考えられる、比較的高度のある山頂(丘)にある土塁(低い)囲みの城(陣城)
に興味を持っています。
例(青山を中心に)「堺目砦」「行者山城」「妙楽寺城」「桐之木の陣城」と「矢鉢山城」など行っています。
これからも、色々と参考にさせて頂きます。
宜しくお願いします。

TAKUです、コメント拝見させて頂きました。
桐村城の確かな場所は地図上だけではありますが、今回やっと確認する事が出来ました。訪れるには南山麓にある鹿島神社から最短の直登ルートを選択して、東側の峰を跨いで遺構などを確かめて下山されるのが良いのかも分かりません。常に単独登山をしている自分なので、流石に「熊が出没する可能性がある」と聞けば、登山を諦めざるを得ない状況になりました。「熊のいやがる金属音(鈴など)あるいは声を発しながら上りなさい」とアドバイスは受けましたので、再訪が叶えば是非その様にしたいとは思いますが、、。
現地で伺った事なのですが、この金山氏は当時相当な権力を持っていたそうでもあり、その庶流にあたり金山氏と取って代わった桐村氏の山城は、相当規模が大きいものの様に感じられます(推察)。金山氏の築城とされる天寧寺城は同日訪問しましたが、これも連休中にはリポート掲載の予定でおりますので、是非拝見して頂けたらと思います。
コメントの中に偶然出た来ましたが、「妙楽地」地区における城跡の一つでもある、新氏城及び松田城は一応これからの掲載予定にしておりますので、現況報告としてはある程度参考になるかとは思われます。この二城の中、松田城(丘城)に関しては縄張りプランなどが伊賀の城跡のイメージからは相当かけ離れているものでもあり、個人的には陣城あるいは向城の様には感じられました。残念ながら妙楽寺城は行けませんでしたが(場所の確認が取れていない為)、、、

御返事有難うございます。
「妙楽寺城」の位置ですが、妙楽寺集落の道を隔てて南の山です。麓に川があり橋を渡ると北に張り出した尾根に山仕事用の道が中腹までありそこからは、直登になり炭焼き釜を過ぎると土塁外側の切岸が見えます。
「妙楽寺城」の西の麓には、「藪内氏城」があります。

TAKUです、情報のご提供有難うございます。
伊賀に赴いた際には是非寄ってみたいと思っております。

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