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2009年9月

2009年9月30日 (水)

音羽野城跡(滋賀県甲賀市)

城跡は滋賀県甲賀市土山町瀬音にあって、先にリポート掲載を終えた土山城を起点とすれば真北側の直線2kmの地にあり、県道9号を北上すれば野洲川に架かる青瀬橋の手前東側の丘陵上に位置している。橋の手前に備わる城址案内説明板からは、正面直ぐ右手側の杉林の中に見える丘陵がそれであり、ルート図あるいは概念図に示した南側の進入口まで向い、そこからは縄張り内にある旧社までは参拝道が繋がっているので、主郭までは迷わず辿り着けるとは思われる。車は探せば路駐可能なスペースはありそうでもあったが、個人的には南側県道沿いにある神社の駐車場に預けて、そこから歩いて向った。当時においては頓宮氏の居城が伝わるが、城史の概略に関しては現地案内板をクリックの事

1tuti 登城ルート

3_1 現地案内板

3o 城跡概念図

現状(二月)城跡は植林地となっている事からも、ある程度見通しは利く状態にあり、主郭(居館跡)に向うまでの当時のままかもしれない、広大な削平地全体像を窺う事も可能であり、方形主郭の全体像あるいは広さはある程度目視によって確認する事も可能な状況となっている。主郭に向うまでの南側の広大な削平地は、土塁に見えるウネウネした地形が全体を支配しているが、これらが当時の遺構の名残なのか、あるいは近世における神社としての敷地跡なのか、あるいは風化及びその体積物によってそうなったものか、現状推察すら出来ない状態でもある。現状ではただやたら広いだけで、郭を土塁などで仕切った形跡も見受けられなかった(後世において相当な地形改変があったのかも分からない)。ただ主郭周囲を巡る土塁の外周には、深さは失われてはいるが空堀(一部二重空堀)、付随する虎口などは明確に判別出来るものが現存している。郭内部には案内板に記されてあった様に庭園に使用されたと思われる庭石などがゴロゴロしており、それなりに当時の居館跡の雰囲気は漂わせている、主郭の北側は崖状の切岸として処理されており、杉林の中、数10m下まで切岸が落ち込んで行く様は中々迫力は感じられた。

18_oote_2jyuu_hori 南側の二重空堀見所

19_hori_dobasi 主郭の空堀と虎口土橋見所

20_shukaku_heki_hori 南側土塁壁と空堀

27shukaku_higasi_karabori_1 東側の空堀

22_shukaku_nai 主郭内部

25shukaku_teien_ato 庭園跡

29shukaku_dorui 主郭土塁見所

24_shukaku_kita_kirigisi 主郭北切岸

34_shukaku_nisikaku 主郭西側

主郭及び周辺の遺構(土塁、空堀)はほぼ完存とも見受けられたが、他の広い範囲(南側と東側の広大な削平地)でどこまでの地形改変があったのかは想像も付かず、ほぼ見学者の想像に委ねられるのも現実であり、逆に現在の状態を当時のままと解釈すれば、南側の茶畑まで至る相当城域の広い、しかも縄張り規模も大きい城跡と言えるのかもしれない。県道から5分もあれば主郭に到達出来るお手軽さ、あるいは完存に近い形の主郭を踏まえれば、見応えのある遺構は多くはないが、訪問する価値は充分あるのではなかろうか。

2009年9月29日 (火)

十二所城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市養父町十二所にあって、西側に大屋川を望む事の出来る「西願寺」の北東背の、急峻な尾根先端に位置している。当時は秋山氏の居城が伝わるが詳細は不明。

城跡へはルート図の如く「西願寺」を目指せば分かり易いが、現在城跡の北斜面は土砂採取現場となっているので、大屋川に沿う県道からも直ぐに城跡の位置確認は出来る筈である。ただ登山道がある訳ではないので、直登取り付き地点から山上主郭まで、20分前後に及ぶ斜面との格闘は是非頭に入れて臨んで頂きたいと思う。 

山上へは概念図に示した様に、寺院背後から谷沿いを少し上った場所にある旧配水施設を目印として向い、その左手斜面から取り付き、左側の稜線に向いて斜行しながらジグザグに上って行く方が上りやすいとは思われる。この激斜面は比較的樹木が少ない代わりに、砂利が多く滑りやすいので、木々に手をかけながらの登頂となり、より慎重な登山が要求される。特に下山は上りより遥かに滑り易く感じられるので、木にすがり付きながら30分以上要してでも、足元だけには細心の注意を払って下る必要はある。もちろん東尾根先端から谷沿いに下れば、多少は斜面も緩いのかも知れないが、その分かなり時間は要しそうには思われる、確証は無いが、、。

12 登城ルート

4 城跡遠望

8 進入口

11_torituki直登 取り付き地点

12_1 城跡概念図

現状(九月)山上郭群における主郭は雑木も蔓延り見通しも利き難い状態にあるが、他は尾根上を東に向うほど間伐が行われた跡が窺え、木々も少なく土砂採取斜面側は下界の眺望も利き、郭跡及び堀切などは全体像が拝めるほどの状態にある。この山城の見所であり魅力は、堀切に尽きと言っても過言ではなく、主郭側から東側へかけて望まれる、郭を東西に分断する四本の堀切(一部縦堀に繋がる)群は、見通しの良い事も相俟って壮観さすら感じる事が出来る。長年の堆積物などによって相当埋もれてはいるが、これほど判別し易く残っていれば全く問題にはならないだろう。現状堀切の高低差もまちまちではあるが、当時はより深く薬研堀の如く屹立していたとも想像出来そうに思えたが、特に概念図に示した東堀切3、4における遺構は、分厚い土塁を間に挟んだものであり、相当な見応えを感じる事が出来た。更に山上郭群は西側の主郭から東尾根先端の自然堀切地形に至るまで200m以上はあり、山上尾根がほぼフラットな状態あるいは幅がある事からも、山上における郭占有面積も大きく、城跡は随分巨大なイメージとして目には映ってしまうのである。ただし縄張り妙味は感じられないが、、、

13_shukaku_nisigawa 主郭西端

15_shukau_higasi_gawa_1 主郭より東側を望む

19_shukaku_heki 主郭の堀切壁見所

21_horikiri_heki 堀切見所

26_naka_horikiri3_1 堀切3見所

29_higasi_2ren_horikiri 土塁を挟んだ二連堀切見所

30_horikiri4 堀切4より東削平地見所

先に触れた様に、かなりリスクを背負う登山となるので安易にお薦めはし難いが、山上における堀切遺構は決して期待を裏切るものとは思えないので、これから先は土砂採取によって遺構が消失してしまう危険性も含んでいる事を考えれば、一般の城跡(史跡)ファンには中々お薦め出来ないが、山城ファンにのみ、それも足腰に不安の無い方のみに、是非トライして頂きたいと思うのである。 人の手がほとんど入らない山上に、まさかこれほどの堀切が残っていようとは、夢にも思わなかったのが本音でもある。

2009年9月27日 (日)

松田城跡(三重県伊賀市)

この城跡は先に寄った新氏城跡を後にしてからは、県道2号より北上進行中に集落に舌状に延びた尾根が山城の如き様相を呈していたので、つい気になって訪問探索したものであるが、結果的には城跡遺構と呼べる堀切(空堀)あるいは土塁などは間違いなく現存しており、伊賀の城跡ではよくお世話になっている、城跡を示す「松田城」と記された青色タグによって城跡としても間違いの無い事が判明した。今回のリポートでは城跡が平凡な単郭土塁城で終わっていない事からも、所有する乏しい資料の類にはこの城跡は記されていないのだが、現地に掲げてあった標識(タグ)を信頼した上で、そのまま松田城としてリポート掲載に及んだ。よって詳細は全く不明でもある

城跡は三重県伊賀市青山町妙楽地にあって、先にリポート掲載に及んだ新氏城からは車で県道を北進すれば数分の距離にあり、目印としてはルート図に示した様に「稲谷口」バス停を目指せば分かり易いと思われる。この付近の空きスペースに車は充分駐車可能であり、ここからは概念図を参考にすれば5分もあれば城跡の先端郭に到達可能となっている。

1route 登城ルート

6 城跡進入路

3m 城跡概念図

現状(八月)城跡はこの時期においても比較的郭移動も容易く、見て回るにも難渋はしない状態にある。残存遺構も目白押しとは言えないが、先に触れた様に伊賀特有の高土塁は使用されておらず、丘陵上を二本の空堀と付随する土塁によって分断して郭を形成している。郭高低差あるいは縄張り妙味が特別ある訳ではないので、山城としての醍醐味も見応えも感じる事は出来ないが、南東側の空堀には僅かながら判別可能な仕切り土塁が付随しており、状態は良くはないが縦土塁あるいは縦堀に繋がる様は、この城跡の唯一の見所とも言えよう。他では現状相当地表風化によって埋もれてはいるが、中央に位置する空堀、土が流失して高さは失われているが、付随する土塁は間違いなく見学者の目を楽しませてくれるようには感じられた。

10_toutatu_kaku 南東先端郭

11_dankaku_1 段郭

12_tatehori_dou 縦堀あるいは空堀道見所

16_shukaku_heki_2 主郭切岸見所

20_naka_karabori_dorui 20_naka_karabori_dorui_1 中央空堀土塁見所

23_sanjyou_gawa_kaku 山上側の郭

縄張りの全長は現状100mにも満たない城跡ではあるが、現在民家及び農地が直ぐ傍まで迫っている事を考えれば、近年において相当地形改変はあったものと解釈され、城域は現在のものより当時は県道沿いにまで相当はみ出ていた様にも推察される、、?今回の城跡訪問は偶然が生んだ産物でもあり、空手形に終わらなかった事からも充実した山城巡りとなったが、過去における他での探索回数から考えれば、徒労に終わったケースも多く、今回はラッキーな一面もあったが、満足感も含めた二重の喜びを味併せてもらった。

2009年9月25日 (金)

新氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町勝地にあって、集落中央にある「勝福寺」の西側にほぼ単独で聳える形の低山山上に位置している。当時は新左近の居城が伝わるが、詳細は不明

城跡へは京阪神から向う場合、伊勢街道と呼ばれる国道165号より掛田城跡を右手に見ながら、その先で県道2号へ左折針路変更、そのまま道任せに進行すればルート図からも目指す「勝福寺」までは難なく到達出来るだろう。「勝福寺」山門前には公民館があるので車の駐車に気を使う必要は無いとは思われるが、ここからは概念図と画像に示した様に、道路沿いにある白塗りのガレージが城跡へ向う為の目印となり、更に山道への進入口となるので決して見過ごさない様に!このガレージの左横から狭い畦道を通過して、右手に民家の立派な塀を見ながら山に向って上れば、ほどなく広い屋敷跡(当時のものかも?)とも窺われる削平地に辿り着ける、ここからは踏み跡を辿って急斜面を上りきれば、素晴らしい高土塁に囲まれた山上主郭が迎えてくれる筈である(10分内)。

1route_1 登城ルート

5 進入口

3si 城跡概念図

現状(八月)城跡は、山城としてはこれ以上望めないほどの良い状態にあり、木々も少なく下草もほとんど無いことからも、山上で形成される遺構は全て判別確認可能な状況にある。単郭で形成される非常に小規模な城跡ではあるが、主郭周りに凝縮された遺構群は見る者を必ず魅了してくれるである。当時が甦るかのような状態も残存度も抜群な高土塁、あるいは主郭の東、西を断つ縦堀に繋がる二箇所の堀切は城跡最大の見所ともなっており、この小振り過ぎる城跡においては抜群の存在感を誇るものとなっている。数多い伊賀の城跡の中でも一、二を争うほどの状態の良さでもあり、五世紀に渡る風化に任せた状態でよくぞここまで保持されたと驚くべきものでもある、個人的にはこのままでよいので是非史跡として認定して頂きたいと思うのだが、、、。山上郭は規模が小さい事からもほぼ物見程度の機能しか浮かんで来ないが、それにしては削平だけに止まらない過ぎるほどの防備機能、更に縦堀などの技巧も採り入れており、残存遺構の全てが見所とも思えるのである。規模は小さいが遺構残存度、あるいはこの素晴らしい状態からも正しく推奨に値する山城であり、是非訪問をお薦め出来る城跡と自分の目には映った。

17_shukaku_higasi_dorui 主郭東側土塁

18_shukaku_nisi_dorui 主郭西側土塁見所

20_yagura_ue 土塁を伴う櫓台見所

23_dorui_ue_1 土塁上

26_higasi_horikiri_2 東堀切見所

28_higasi_hasi_karabori 東端空堀

31_higasi_yori_kitaheki 主郭北側切岸

32_nisi_horikiri 西側堀切見所

尚、寺院背後の山上にも小規模ではあるが、物見(狼煙台)とも窺われる削平地が存在していたのでまだ未訪の方の参考までに、、、この城跡は山上を物見あるいは詰城とすれば、その別尾根東側に位置する寺院敷地が当時の居館跡とも思えるのだが、推察の域は出ない、更には民家背後の山裾に展開される、東西に広がる削平地が家臣団の屋敷跡とも窺えるのだが、、、。

2009年9月23日 (水)

瀬加山城跡(兵庫県神崎郡)

この山城は急峻な丘陵の山上に築かれた主郭と副郭のほぼ主要二郭で形成される小規模なものであるが、この城跡の見応えあるいは醍醐味となるのは空堀(堀切)群に尽きると言っても良いものであり、主郭の南北尾根を断つ空堀(堀切は縦堀に繋がる)、主郭東壁側に数10条連続して刻まれた畝状縦堀群は、この小規模な山城にはとても似つかわしくなく、険峻な山容と相俟って素晴らしい防備を誇っているものの様に感じられた。ただしこの畝状縦堀群は長年の堆積物及び風化などによって相当深さは失われているので、よく眼を凝らして窺う必要がある様には感じられたが、、、、個人的にも現状城史に関しての情報も皆無に近い為に何の期待せずに訪れたのだが、かつては神社でありながらも遺構はほとんど破壊を免れており、ほぼ完存に近いと思える遺構残存度の高さ、あるいは旧参拝道で迷わず山上まで上れる利便性からも、是非訪問をお薦めしたい城跡と目に映ったので、早速リポート掲載する運びとなった。

1route 登城ルート

6 参拝道への進入路

3se 城跡概念図

山城ファンにはもちろんではあるが、山上りが苦手で山城を避けて来た方、あるいは一般史跡ファンにも是非この技巧を兼ね備えた本格的な山城を味わって頂きたいと思うのである。現状(九月)山上においては、山城に備わる定番とも言える堀切、横堀、縦堀、畝堀、土塁などの遺構をほぼ主郭周りで眼にする事が出来、縄張りが広いものではないので、長い距離を歩く事も危険な斜面に遭遇する事もなく、山城初心者にとっても打って付けの城跡と思われる。このブログから山城に少しでも興味を持たれ、一度は赴いてみようかと思われた方にも是非お薦めと言える城跡の一つである。

16_2maru_yori_shukaku_heki 二の丸より主郭切岸

18_shukaku_sita_karabori 主郭南下の横堀見所

21_2maru 横堀より二の丸

23_shukaku_nai 主郭内

23_shukaku_nai_1 城址碑

26_horikiri_3 北側の大堀切見所

27_horikiri_dorui 側面から望む堀切土塁見所

30_une_bori_1 畝状縦堀の土塁上部見所

城跡は神崎郡市川町上瀬加にあって、上瀬加集落の北側に迫り出した尾根の山上に位置しており、瀬加小学校あるいは瀬加中学校から見れば一つ丘陵尾根を隔てた西側になる。現在その山上主郭には城址碑と石碑が新しく建てられており、かつてこの山上郭を敷地とした稲荷神社は東側の山裾に移転しており、麓からも眼につき易い位置にあるので、訪れる際には簡単な目印にはなるだろう。城史に関しての詳細は不明

城跡へは中国自動車道「福崎」ICが最寄の乗降口、そこから国道を経由して北上、県道34号に針路変更すれば「梅林寺」あるいは先に触れた稲荷神社を目指せば分かり易く辿り着けるとは思われる。集落に到達すればルート図あるいは概念図の如く貯水池の方向を目指して歩き、かつての神社参拝道より山上を目指せば15分もあれば到達可能である。尚、車は集落の集会所あるいは地元の消防施設付近の空きスペースを借りれば良いものとは思われる。

2009年9月22日 (火)

天寧寺城跡(京都府福知山市)

6/20 暫定)金山城跡の最新情報

この山城の呼称に関しては、現地で中々確かな情報を得ることが出来ず、最初のリポート掲載では天寧寺城としながらも、その後の現地情報も含めた色んな外部情報にも惑わされて、一度は(暫定)金山城としましたが、今回やっとその後の追跡リサーチ、あるいは確かな現地情報により、最初のリポート掲載通りに天寧寺城と呼ばれる山城だと言う事が、ほぼ明確になりましたのでお知らせしたいと思います。

(以下本文)

城跡は福知山市大呂にあって、先に「桐村城の所在地判明」の記事の中でも触れた様に、大呂地区の中に出城も含めれば多く存在していると思われる山城の中の一つでもある。名が語る様に戦国期においては天寧寺そのものも城跡の一部であったとも考えられるが、院の背後に聳える二峰に跨る山上から枝尾根上に位置している。城郭寺院として考えれば山上は詰城と考えられなくも無いが、当然推察の域は出ないものでもある。

この寺院は遠い常陸の国を発祥とする大中臣氏(名を改めて金山氏)がこの地に地頭として赴いた事から始まるが、南北朝時代に氏の菩提寺として建立されたものと伝わっている。この金山氏のその後については「桐村城の所在地判明」の中の僅かな記事を読んで頂ければ多少なら分かるとは思われるが、この山城は鎌倉期に成立したとも伝わる事から、既に寺院より先にこの金山氏の山城があったものと解釈しても良さそうには思われる。金山氏の本城は地元の歴史に詳しい方でも御存知なかったのだが、やがて没落して庶流である桐村氏に取って代わられた事を思えば、この山城も桐村氏の山城と言えなくも無いのである。

1_2 登城ルート

1te_1 大呂地区三城

6m 登山口

1te

城跡概念図

城跡へは福知山市あるいは大江町では有名な「天寧寺」を目指せば難なく辿り着けるが、山上までは概念図(画像)に示した様に、拝殿左手奥から山道が更に奥へ繋がっており、途中から尾根に沿う形で直登すれば、迷わず山上北主郭までは到達(約15分)出来るとは思われる。ただ峰に跨った縄張り形態なので、縄張り全域における遺構見学となると、相当長い距離を歩く事は余儀なくされるだろう。取り合えず概念図に示したものが自身で踏破して判別確認した遺構群になるが、古い時代に成立した山城のせいか、特に北城の方は相当凸凹と地表風化が激しく、北先端に向うほど郭内は矢竹が密生しており荒れ放題でもある。しかし図中に示したまでの範囲は間違いなく踏破可能でもあり、藪漕ぎも無く移動が出来る状況にある範囲でもあるので、これから訪れる方はこれを目安にして頂ければよいとは思われる。遺構が目白押しと言える山城ではないが、郭跡を除けば土塁跡、空堀跡、堀切までは、山城ファンなら誰でも充分判別確認は可能である様には感じられた。見応えのある遺構を問われれば返事に困るのが現実でもあるが、尾根上を藪漕ぎしてまでの移動が無い事が、唯一のお薦め出来る要素かも、、、金山氏あるいは桐村氏の歴史に少しでも興味のあった方にはお薦めとは言えるが、、。

10 南城南郭

13_karabori 南郭の空堀跡

15_minamikaku_top 南城主郭

16_horikiri_2 中央堀切

21_shukaku_1 北城主郭内の現状

24_higasi_karabori_1 北城東郭の空堀跡

27_higasi_kaku南城東郭群

2009年9月21日 (月)

河守城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市大江町河守(コウモリ)にあって、先にリポート掲載を終えた蓼原城からみればほぼ北側の山上に位置しており、「浄仙寺」背後の山がそれにあたる。蓼原城でも触れた様に当時は新治氏の居城と伝わっており、蓼原城と共に赤井氏によって滅亡への道を辿ったものと考えられるが、詳細は不明

城跡へは国道175号より「浄仙寺」を目指せば一番分かり易く、現地付近からはルート図の如く「大江駅」の反対側の道へ入れば難なく寺院までは辿り着けよう。道路沿いには広い寺院専用の駐車場もあるので車はそちらに預ければ良いものとは思われるが、山上へは本殿の脇から秋葉社まで参拝道が通じており、それを利用して社殿背後からそのまま山上を目指せばよい。秋葉社までは5分程度でもあり、そこからは尾根上に配された郭跡や遺構などをゆっくり味わいながら山上を目指せば、およそ20分程度で最高所にある主郭までは到達出来るはずである。

Tadehara_2 登城ルート

7tozanguti

登山口

3ko_2 城跡概念図

現状(九月)城跡は年間を通じて見学者も非常に少ないとも思えるが、人の手の入らない山城としては充分過ぎるほどの良い状態にあり、縄張り内における遺構群は全て判別可能とも言える状況にある。自然任せである為に一部では倒木や下草で荒れ放題の様相ではあるが、見学に差し支えるまでには至っておらず、縄張りを含めて山城遺構は堪能出来る様にも感じられた。自作概念図に示したまでが踏破した範囲であり、目に留まった遺構群でもあるが、見所は地形をフルに利用した高低差のある郭切岸に尽きるとも言える。図中に示す二箇所の切岸(一部は堀切まで落ち込む)は10mにも及ぶもので、はっきり形が表れる堀切などと違って、地味ではあるが非常に見応えが感じられた。それ以外では特に主郭北壁の切岸は、樹木あるいは草木が蔓延っていないせいもあって美しく、当時の状態にまで思いを馳せることは容易である様にも感じられた。郭から斜面下の周囲を覗く限り、単独で備わる縦堀地形は目に留まらなかったが、この険峻さを考えれば敢えて必要としなかったとも言えるだろう、ただ見落とした可能性は充分考えられるが、、、

19_3maru_heki_1 三の丸切岸凄い!

20_3maru_2 三の丸内

25_shukaku_higasi_heki 主郭東切岸

26_shukaku_nai_3 主郭内

31_gedan_yori_shukaku_heki 北側より主郭上り土塁見所

32_shukaku_kita_heki_1 主郭北側の美しい切岸

36_kita_horikiri_1 北堀切見所

城跡の形態としては、険峻な痩せ尾根上に郭をほぼ直線的に並べただけのものではあるが、縄張り総全長は300mに達するもので、個人的にはこの山容からすればここまでの山城であるとはとても考えてもいなかった。この意外性と驚き、更にこの遺構残存度の高さは、久し振りに「山城賛歌」を贈りたい気分にさせられた。技巧を有する遺構の少ない事からも、縄張り妙味のある山城とは言えないが、遺構残存度の高さ、高低差を伴う切岸の醍醐味、あるいは険峻さも兼ね備えたこの山容は、これぞ山城と呼ぶに相応しいものであり、まだ未訪の方には是非お薦とも言える山城の様には目に映った。

2009年9月20日 (日)

蓼原城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市大江町蓼原(タデハラ)にあって、集落の西側丘陵上に位置しており、国道に突き出した尾根先端から山上に向いての尾根上が城跡。この城跡も大江町にあっては、由良川沿いに数多く点在する無名に近い山城の一つでもあるが、進入口となる国道沿いには少し朽ちた城址標柱もある事から、この地区においてはある程度知れ渡っている城跡なのかも知れない。同日訪問となった直ぐ近くの山に位置する河守城と同様に、その当時は新治(ニイハリ?)氏の居城と伝わっているが、やがて赤井氏によって滅ぼされている模様。京丹後市の峰山町新治に居城を構えた、一色氏の一族でもある新治氏とは同族、あるいはその庶流となるものかも分からないが推察の域は出ない。尚、規模あるいは縄張り形態から察する処、河守城からみれば此方は支城の可能性が高いものと見受けられた。

城跡へは国道175号より由良川沿いに宮津に向いて車を走らせればよいが、近畿タンゴ鉄道「大江」駅の手前付近が蓼原地区でもあり、ルート図を参考に国道沿いの「六地蔵」を目に向えば、難なく城跡への進入口(画像に示した)は見つけられるとは思われる。進入口となる「六地蔵」数十m手前の国道沿いには、居眠りパーキングも設置されているので駐車に困る事は無いが、そこから集合墓地に到達すれば、最上段の墓地(新治家、桐村家の墓所がある)からは直ぐにでも尾根上の郭跡に到達可能である(パーキングからは10分内)   

Tadehara 登城ルート

5_tozanguti 進入口

Tadehara_1 城跡概念図

10_2jyuu_horikiri 二重堀切見所

12_tate_horikiri_2 縦堀に繋がる堀切

17_2jyuu_hori_dorui_2 巨大土塁を伴う二重縦堀見所

21_shukaku 主郭内の現状

26_kitakaku_karaboridou_1 北郭群の空堀道見所

31_kitakaku_nobori_koguti 北郭上り虎口見所

30_kita_sentankaku 北郭先端

37_dobasi 長い土橋見所

現状(九月)城跡はこの時期においても移動に難渋する事も無く、縄張り内における遺構は画像を見ればお分かりの様に、ほぼ判別可能な比較的良い状態にある。城跡の見所は便宜上主郭とした大規模な郭跡の背後に横たわる二重堀切は挙げられるが、堀切を挟んだ形の大土塁は一部中央は欠けてはいるものの、充分な幅(堀切幅は10m以上)を持たせたものでもあり、縦土塁を伴って縦堀に繋がる様は正に圧巻と呼ぶに相応しいものの様には感じられた。長年の堆積物を考えれば当時においては薬研堀の如く相当な高低差があったものと想像される。ここから北西側に位置する便宜上(概念図上)の北郭群へ移動するには数分とはかからないが、この北郭群における遺構(土塁跡、上り虎口)は、風化は激しいが充分判別は可能でもあり、虎口から麓にまで繋がる深い堀切道と並んで非常に目を楽しませてくれている。更に北西側山上に向う、連続する長い土橋も見所の一つ  

既に何回も行き来しているこの国道ではあるが、これだけ小さな城址標柱では当然目にも留まらなかったはずである。もう少し国道からも目に留まりやすい大きさの案内板にして頂ければ、寄り道してでも訪れる城跡ファンは必ず増える様な気はするのだが、、、 遺構見学のし易さ、あるいは直ぐ到達出来るお手軽さを踏まえれば、次でリポート掲載予定でもある河守城と併せた訪問としても、間違いなく充実した山城巡りが出来そうにも思われた。 当然お薦め(単独としてもお薦め)出来る城跡と言うことにはなるだろう。

2009年9月19日 (土)

若山城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町老川にあって、既にリポート掲載を終えた峰出城とは川を挟んだ対岸の丘陵先端部に位置しており、名が語るように若山氏の居城と伝わっている。詳細は不明であるが、伊賀地域の国人はほぼ織田軍によって壊滅されている事からも、「伊賀の乱」においては当然若山氏も同じ道を辿ったとは思われる。(近所には数軒若山姓を名乗る家屋があるので、御子孫である可能性が高い)

城跡へは先に触れた峰出城へ向う起点ともなった、「青山文化センター」からは丁度真北側に位置しているので方向は定め易いとは思われるが、集落付近の生活道路は非常に狭く、ルート図あるいは概念図に示した広い道路のカーブ付近に路駐して、工務店作業所(現在廃屋に見えた)を目印として歩いて向われる(5分程度)事をお薦めしたい。現地付近に到達すれば、画像に示した辺りより登れば直ぐにでも主郭まで辿り着ける。青山文化センター側から向われる場合は、道路川沿いの「公民館前」バス停付近に路駐スペースはあるので、そこから北進して集落を潜り抜ければ自ずと辿り着く事は可能である。

1route 登城ルート

5_sinnyuukuti 城跡進入口

3w 城跡概念図

この城跡は他の伊賀の城跡と同様に所有する資料も情報も皆無に近く、何時もの如く場所も特定出来ずに訪れる事になったが、現地付近で地元の方に尋ねれば直ぐ場所は特定することは出来た。他の情報としてはこの城跡の他に中村氏城あるいは島野氏城などが老い川地区に現存しているとの事でもあったが、現在は山道も途絶えているので鎌を持っての訪問は余儀なくされるとの事でもあり、流石に訪城は諦めざるを得なかった。既に訪問を終えた峰出城なども併せれば、この狭い山間部にはまだ相当数の城跡が眠っている様にも感じられるのである。

7_koguti_dorui_1 虎口櫓台土塁見所

8shukaku_dorui 主郭土塁

12_shukaku_nai 主郭内部

15_horikiri_3 北堀切1見所

16_horikiri_dorui_1 堀切に付随する大土塁見所

19_2jyu_horikiri_2 中央土塁、二重堀切の全貌見所

20_yasiki当時の屋敷跡か?

現状(八月)城跡は地元の方から聞き及んだ通り藪化の真っ只中にあるが、意外にもこの時期にしては余裕で動き回れる状態でもあり、遺構の判別確認も容易に出来る状態にある。現状判別出来た遺構は図に示した様に、主郭三方を取り囲む高土塁、虎口に備わる大型土塁、北背後を断つ二重堀切(縦堀)などが挙げられるが、見所としては土塁郭を間に挟んで縦堀として繋がる二重堀切に尽きると言っても良いとは思われる。この遺構は北東側から望めば全体像がほぼ拝める事からも、相当な見応えを感じる事が出来るものであり、充分観賞に耐えられるものでもある。城跡そのものは館城の性格を持っているので、当然縄張り規模もそれ程大きくは無いが、訪れて決して落胆する事は無い様には感じられた。尚、ルート図には示したが、川沿いの道路側から見上げれば立地環境からもそれと分かる、規模の大きい敷地を持つ民家(現在廃屋に見えた)があったが、その敷地北背後には凄い土塁(分厚い上に高低差もある)も窺えたので、おそらく当時は居館跡と呼んだものなのかもしれない(推察)? 無駄足に終わるとは思われなかったので、取り合えずまだ未訪の方の参考までに、、。

2009年9月17日 (木)

霧生城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町霧生(キリュウ)にあって、地元では関(カン)城跡とも呼ばれている様である。当時は北畠氏の家臣でもある福山氏の居城が唯一伝わっているが、詳細は不明でもある

城跡へは国道165号「阿保」より県道29号へ進路変更して、そのまま南下を続ければ目的地でもある霧生集落には難なく辿り着ける。集落においては川が合流する付近が中心部でもあり、ルート図を参考にして川沿い道路付近から南側を望めば直ぐにでも城跡の位置は確認する事が出来る筈である。概念図に示した付近(通行止め)には駐車スペースもあり、そこから画像に示したコンクリ道から直登すれば、10分内で山上主郭までは到達可能である。

1route_2 登城ルート

6 進入口

3ki 城跡概念図

この城跡も存在は資料などから認識する事は出来ていたが、場所も特定出来ずに事前に目星を付けた地図だけを持って現地に向った。現地では最初に出くわしたお母さんに訪ねたお陰で、城跡の位置する場所は直ぐに確認する事が出来たが、それは正しく自分が地図に印を付けた場所でもあり、僅かながらの自己満足を胸に山上を目指す事になった。

8_toutatu_titen_dorui 山上到達地点の郭

17_shukaku_dorui_naiheki_1 主郭大土塁の内壁

17_shukaku_nai_1 主郭内部

13_kitagawa_dorui 主郭土塁上

20_minami_horikiri_1 主郭南側堀切見所

Higasi_yori_horikiri 東側より堀切

22_minami_kata_horikiri 片堀切(縦堀)見所

現状(八月)城跡は予想通りの藪化進行中にあるが、城跡が小規模な事あるいは複雑な遺構も目に留まらなかった事からも、城跡を形成する遺構群はほぼ判別確認出来る状態にあり、見て回るにも余り難渋はしない状況にある。形態としては伊賀に多く見受けられる三方を高土塁で囲んだ館城の様相を呈しており、その南側には尾根を分断する二連の縦堀を含んだ堀切が備わっている。伊賀における城跡の中でも、特にオーソドックスな縄張り形態でもあり、縄張り妙味を感じられる山城とはとても呼べないが、見所を挙げるとすれば唯一この二連の堀切は挙げられよう。小規模ではあるが風化に任せた遺構はほぼ完存状態とも窺えるものであり、個人的には数多い伊賀の館城の中でも限りなく普通に近いとは思えたが、この時期でもそれなりに見学出来る状態から察すれば、充分見学に値する城跡と言えるのかもしれない、、。尚、南尾根伝いに山上までは踏破する余裕はなかったが、本来は詰城と呼べる山上郭が存在していても不思議はないものと思えた。

余談にはなるが、この城跡にも先に寄った若山城にも、先達の方による城跡名を記す「青色の小さなタグ」が掲げてあった。自分の様に場所も特定出来ず、見切り発車で気ままに現地を訪れる者にとっては非常に有難いものであり、自ずと親近感を覚えてしまうものでもある。特に城跡の雰囲気を感じる事が出来れば、直ぐにでも上って確認せずにはおられない自分にとっては、城跡呼称の確認も同時に行えるので、非常に助けられているのが現状でもある。

2009年9月16日 (水)

桐村城の所在地判明

この山城に関しての前回のリポート掲載(今年1/21日)では、明確に所在も判明せぬままではありましたが、山上には明らかな城跡遺構が存在する事から、呼称も確定せぬまま自身による判断で、暫定「桐村城」という形で異なる城跡をリポートさせて頂きました。今回(九月)は何としてでも本来の桐村城の場所を突き止めたい気持ちが優先した事から、再訪に併せて奥谷地区にお住まいでもある、大呂地区(桐村氏)の歴史に一番精通した方を現地で紹介して頂きました。ブログ読者の方の情報からも「桐村城はもっと奥に入った場所にあった」と言ったコメントを頂戴しており、地図上ではある程度目星は付いておりましたが、お陰様でやっと所在地(福知山市大呂字奥谷)だけは確認する事が出来ました。

場所は地図には記しましたが、標高291mに及ぶ低山ではあるが非常に険峻な山でもある山頂が城跡です。しかし城域はその東側に連なる二峰にも跨り、山上尾根全域に及んでいる様にも窺われる大規模な山城の様にも感じられました(推察)。しかし今(三時)からの比高200mに及ぶ藪漕ぎの考えられる登山、あるいは熊の出没も考えられるリスクを考えれば、現状上って下山するには余りにも無謀と考えられた事からも、今回は断腸の思いで訪問を断念する結果となりました。今回は地元の方から聞き及んだ城跡に関しての情報の概略を掲載しましたので、興味のある方だけに読んで頂ければ、再訪の価値は充分あったとは思われます。尚、この山城に関しては福知山市史に載せられているそうでもあり、自分の様な遠距離訪問者にとっては、寄って資料を窺う余裕も無いのが現実なのですが、時間に余裕のある方は一度目を通して訪問された方が、山城巡りをする際に置いてはより楽しめるのではないでしょうか。

Kirimura2 城跡所在地

Photo_2 1_2 城跡遠望

(地元で聞いた情報)  この桐村氏は13世紀頃常陸の国に在住していた鹿島中臣氏を発祥とするもので、この地には地頭職を与えられて赴いた事から始まっている(集落奥には鹿島神社もある)。本来はこの地を支配したのは金山氏が先であり、その庶流がこの桐村氏にあたるもので、金山氏は足利政権の下では「丹波金山衆」として名を馳せたものの徐々に没落の道を歩んだ。室町期には同族同士の争いでこの金山氏は滅んだとも伝わるが、戦国期においては桐村氏がそれに取って代わるほどの力を身に付け、この地は桐村氏によって長く統治された。戦国期は八木城主でもある内藤氏の傘下で活躍したが、赤井氏との抗争によって敗れるも、明智による丹波平定後は再び旧領に復帰する。その後は秀吉による「太閤検地」によって土着の道を歩んだ模様。

以上が聞き及んだ事を簡単にまとめたものですが、実際には話は随分と長くに及んだものであり、個人的にも桐村氏に関しての情報としては、非常に満足度の高いものとなりました。先に掲載に及んだ(暫定)桐村城は推測にはなりますが、この奥谷地区の入り口にあたる事からも、東側を抑える為の出城あるいは伝承にもある金山城であるとも考えられそうですが、未だに確証は得られておりません。ルート図には示しましたが、(暫定)桐村城の対岸神社敷地にも城跡遺構らしき跡がある事を考えれば、集落入り口を南北から挟んだ構造は、正しく古来からの集落を中心とした防備の一環の様にも見受けられます。この城跡自体は無名に近く深く追求する程のものとは思えないのですが、一度乗りかかった船でもあり、個人的には再訪が叶うかどうかは分かりませんが、これから訪城準備のあった方、あるいは気に留めていた方にのみ参考になれば幸いでもあります。尚、付近には天寧寺山城も存在する事から、当時この大呂地区一帯を支配していた桐村氏の勢力を知る上でも、前回掲載の(暫定)桐村城跡は(仮名)桐村東城としてそのまま掲載は据え置くつもりでおります。 

2009年9月15日 (火)

市御堂城跡(兵庫県朝来市)

最初にこの城跡(平山城)を訪問した上での結論から述べさせて頂くが、現状(八月)この城跡は藪漕ぎもせず簡単に山上までは登れるが、山上郭群は全域が矢竹の密生地と化しており、到達地点の一部の狭い範囲以外は歩き回るにも事欠き、およそ人が踏み入る事の出来る状態にはなく、首まで届く矢竹によって地表すらほとんど見えない、非常に醜い状態にある。郭群も恐らく山上に展開されるだけだとも見受けられたが、一応外見から僅かに矢竹藪の中に主郭と思われる切岸、あるいは本郭群の外壁にあたる切岸を窺う事だけは出来たが、内部の構造まではとても把握出来なかった。取り合えず木々の比較的少ない斜面側の切岸より全体を一周する事を試みたが、一部崖状切岸斜面は滑りやすく非常に危険な状態でもあり、それすら叶わなかった。ただ下山ルートで西側斜面を下った付近に出郭とも思える郭跡、更にそこでは土塁と思われる構造物も眼にしたが、それも密生する竹薮あるいはその堆積物によって判別は非常に困難でもあった。結果的には城跡を斜面に沿って半周したが、南側はともかく北斜面は倒木や草木が蔓延り、相当荒れ放題でもあり、縦堀らしき地形も掘削跡も見て取ることは出来なかった。以上が訪問における現況をリポートしたものだが、決して誇張はしていないので、これから訪れる方は是非これを目安にして頂きたい。

1route 登城ルート

5 進入路

7toutatu_ti 山上郭到達地点

9_minami_obi 主郭南側帯郭

10_shukaku_heki 主郭の切岸

12_nisi_demaru 出郭の土塁か?

城跡は朝来市和田山町市御堂にあって、城跡へ向うには国道312号を走りローソンを目印として進行すれば分かり易いとは思われるが、ローソン付近の道路沿いには市御堂城跡の案内標識も出ており、ここから既に城跡は望めるので直ぐ分かるはずである。後はルート図に示した通りに進行すればスタート地点となる墓地までは容易に到達出来る。この城跡は西側の川を挟んだ対岸に枚田城がある事からも、両者は呼応しあっている状態でもあり、枚田氏あるいは太田垣氏(竹田城主)と何らかの関係にあった城跡とみて良いのかもしれないが、詳細は不明

取り合えず一度気になるので覗いてみようかと思われた方には、登城ルート図に山上まで一番上り易いルート(南側墓地背後から直登)を赤線で示したので参考にして頂きたい。このルートはこの時期でも木々が比較的少なく、藪漕ぎも無く上れるのである意味で楽に思えたが、休まず登り切れば10分内で山上には辿り着く事が可能でもある。ただ上る際には左側へ向いて上ることが肝心となる(右側は最終的には雑木密生地となる)、このルートでの郭到達地点が一番地表が窺える場所でもあり、一番ほっと出来る場所でもある。これから先この城跡の状態が良い方へ改善されるとはまず思われ難いが、自分を含めた山城ファンはそれでも確認の為に一度は覗いておきたいと思うものでもあり、まだ未訪の方にはせめて夏季訪問は絶対に避けるべしと、声を大にしてアドバイスしたいのである。

2009年9月13日 (日)

但馬上野城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市養父町上野にあって、既にリポート掲載を終えた軽部城跡からみれば、ほぼ真南側に聳える山の山頂(標高240m)に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡へは国道9号からも直ぐ望める位置にある軽部城跡を起点にすれば分かり易いが、ルート図の如く願照寺の集合墓地付近から尾根に向いて直登するルートと、図中では下山ルートとしたが資材置場からの逆を上るルートが考えられる。どちらを選択しても植林地なので藪漕ぎは皆無であるが、この激斜面を登り切る事は非常にハードでもあり、体力は相当消耗させられるので覚悟は必要かも。取り付き地点の分かり易さから言えば後者がお薦めルートかも知れないが、こちらは画像に示した場所(切岸が道路からでも見える)より上れば直ぐにでも居館跡とも呼べそうな広いフラットな空間に到達可能となっている。もちろんここから更に山上を目指して上らなければならないが、休まず上れば約20分で主郭に到達出来るとは思われる。

Ueno_1 登城ルート

Ueno_4 直登進入口

Ueno_3 城跡概念図

26_yasiki_1 25_yasiki 居館跡にも窺える北出郭

15_horikiri2 堀切

23_kita_one_kaku 北尾根削平地

18_shukaku_1 フラットな主郭

20_shukaku_minami_heki 主郭南側切岸

22_obi 東帯郭

現状(八月)城跡は、この時期でも木々が比較的少なく見通しが利くほどの状態でもあり、山上における遺構は全て判別可能となっている、ただ相当地表風化が激しい為に、堀切(空堀)などは細部に渡って地形の変化をじっくり見て取る必要はあるだろう。反面規模の大きい主郭は画像で確認して頂ければお分かりの様に、ほぼフラットな状態が現在でもキープされており、見通しが利くことからも広さも充分視認によって確認出来る良い状態にある。概念図に示したものが遺構として個人的に判別出来たものであるが、郭間に高低差が余り無い事、あるいは堀切も随分埋もれている事からも、山城としての醍醐味や見応えには少し欠ける様な気はした。城跡全体を評価すれば、縄張り変化にも富んでおらずかなり大味な城跡と言えるのかも、、。

山上郭群における現存遺構及び山上に到達するまでの直登の辛さを考えれば、興味を持たれた山城ファンにはお薦め出来ても、一般の城跡ファン(史跡見学者)までには余りお薦め出来ないのが現実でもある。個人的には5世紀以上に渡って現在に至るまでの遺跡は、古墳と山城だけだと言っても過言とは思えず、何時もの事ではあるが、状態の良い郭跡を目の当たりにすれば、ただそれだけで単純に感動を覚えてしまうのである。

2009年9月10日 (木)

養父神社城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市養父町養父市場にあって、広い敷地面積を所有する養父神社の沢を跨いだ社務所あるいは神社境内を屋敷跡あるいは居館跡と想定した場合、その南背後の後方尾根上に位置している。当時は垣屋氏の居城を伝えているが、垣屋氏惣領家となる本城はまだ未訪ではあるが、大規模を誇る楽々前(ササクマ?)城と聞いており、この養父神社城は一族の拠った支城として位置付けて良いのかも知れない、垣屋氏はその後も豊臣大名として生き残っている所をみれば、在地但馬勢力の中でも最初から秀吉側に組していた様にも思われる。

城跡へは先にリポート掲載を終えた上野城跡を起点にすれば分かり易いが、国道9号「上野」より国道312号へ針路変更後北上、その後は「大屋橋」を東へ渡れば、ほぼルート図の如く進行すれば難なく目的地でもある養父神社には到達出来る。社殿の建立されている敷地が当時の居館跡とも見受けられたが、相当近年において造成整備された状況でもあり、現状では城跡としての雰囲気は全く感じられない。むしろ沢を西へ跨いだ側にある、社務所側上段に位置する規模の大きい郭跡の方が見ようによってはそれらしく感じられた。本来の目的でもある山上郭群は形態から考えても詰城の様相を呈しており、概念図を参考にして土塁の目に留まる地点より踏み跡の残る木々の少ない斜面を上れば、10分内で難なく山上主郭までは到達出来るとは思われる。

1route2 登城ルート

Jinnjya 養父神社

3ya 城跡概念図

11_yasiki_1 居館跡か?

16_dorui 土塁跡(山上へ)

18_3dan_kaku 北三段郭

24_karabori_dobasi_2 北空堀土橋見所

25_2maru_2 二の丸

28_shukaku_yori_dobasi 29_dobasi_3 中央の空堀土橋見所

31_shukaku_yagura 主郭櫓台見所

33_haigo_minami_horikiri_1 南堀切見所

現状(八月)城跡はこの時期でも藪化までには至っておらず、非常に見て回り易い良い状態にあり、山上における城跡遺構は全て判別可能な状況でもある。5世紀に渡る風化を考えれば全体的に切岸は甘くはなっているが、空堀に付随して設けられた土橋などは、まるで当時の状態が今でも保持されている様にも窺われ、城跡にあっては抜群の存在感を誇っている。もちろん城跡唯一最大の見所でもあり、この三本の空堀(堀切)とそれに付随する状態の良い土橋が見学の全てである、とも言い切れる遺構の様には思われた。反面、他で見応えのある遺構に巡り合えなかったとも言えるのだが、、、。しかしこの城跡は社殿東側(先端尾根の裏側)にも土塁を付随した虎口、あるいは堀切(道)地形、数段に重なる屋敷跡の様な地形が相当広域に渡って目に留まり、更にその背後尾根上には削平地(物見か)と、城跡を構成する遺構は目白押しとなっている。これらが全て当時の遺構といった確証はないが、見る人が見れば沢を跨いで展開される城域の広さを充分体感出来るのではないだろうか。個人的には夕方近くに訪れた事もあってじっくり見学する事は叶わなかったが、それでも充分な満足感に浸ることは出来た。山上詰城、麓に根小屋(居館)の形態は一目瞭然の縄張りプランでもあり、戦国期を物語るには充分過ぎる最良の教本ともなりえる城跡とみた。山城ファンは元より、一般の城跡見学者にも、神社参拝ついでに寄られる事を是非お薦めしたい城跡の一つである。

2009年9月 8日 (火)

松島氏城跡(三重県名張市)

最初に断っておかなくてはならないが、この山城は西麓に位置する松島氏城(喜屋敷とも呼ばれる居館跡)跡からみれば、南東側の山上に位置している山城でもあり、自ずと松島氏居館の詰城とも推察されるものであり、個人的には山上における意外にも大規模な縄張り(相当広い城域であり無数の仕切り土塁や防備としての土塁、郭群が存在)あるいは見応えのある遺構に酔いしれたお陰で、下山後に肝心の居館跡に立ち寄るのも忘れてしまい、本来「喜屋敷」と呼ばれる筈の居館遺構(資料によると土塁、空堀遺構が現存)も見学出来ずに終わってしまった。よって今回のリポート掲載に於いては山城遺構のみのリポートになるが、本来の喜屋敷跡を見学したい方にはルート図に推定地を記したので参考にして頂きたい。

現在所有する乏しい資料の中には、松島氏城(喜屋敷)山上詰城に関しての記述もなく、正式に呼称が判明している訳でもないが、恐らく居館跡からみれば詰城とみてまず間違いないと思える事から、今回は松島氏山上詰城としてリポートとさせて頂いた。尚、山上広域に渡る山上郭に関しては深くリサーチしていないので知る術も無いが、既に発掘調査は終えているのかも分からないし、少なくとも専門家の方には知られているのかも分からない、、、。

1 登城ルート

M_29 集会所より遠望

城跡へは先にリポート掲載を終えた吉村氏城を起点にすれば分かり易いが、ルート図の如く道路沿いにポンプ施設のある「奈垣集会所」に車を預け、そこからは既に視界に入る「妙楽寺」まで歩いて目指せばよい。寺院背後の集合墓地から既に城域とも見受けられ、切岸処理のされた高い側壁がそれを僅かに物語っている様でもあった。さらに尾根に沿って途中までは空堀道とも窺える山道が繋がっており、上るにつれて状態は非常に悪くなる一方であるが、広域に広がる段郭群を経て山上郭群最高所に位置する主郭櫓台までは辿り着くことが出来る。主郭及び櫓台の状態は雑木に覆われており良いものではないが、背後に土塁も現存しており唯一目を楽しませてくれる材料ともなっている。更にここからは背後に備わる城中最大見所とも言える、切岸高低差10m以上を誇る見応えのある大空堀が直ぐ拝める。これは凄い!正に一見の価値のある遺構と目には映った。

M_3 墓地側壁

M_7 尾根上の郭虎口

M_13 M_19 大空堀見所

M_22 M_24 主郭櫓台土塁見所

M_14 主郭北帯郭の土塁虎口見所

現状(八月)下山時においても方角を間違うほど郭群(西側尾根と南側尾根上)は広がっており、主郭と同様に倒木が多く、更に藪化もそれに追い討ちをかけ、郭移動にも難渋する状態ではあるが、この主郭に遺された櫓台土塁、及びその背後に備わる大空堀は、遺構の醍醐味を味わう事を目的とする訪問であれば、決して期待は裏切らないとも思えるのである。個人的には本来の目的である居館跡を訪ねる事が叶わなかったので、満足感には今一浸れなかったが、これから訪れる方には是非居館跡も覗いて頂きたいと思う。山上郭群は状態が悪いので一般見学者にはお薦めとは言えないが、山城ファンにおいては覗いても決して損はしない遺構である様には感じられるのである。

2009年9月 6日 (日)

吉村氏城跡(三重県名張市)

城跡は三重県名張市奈垣にあって、先にリポート掲載を終えた比奈知城からみれば南へ直線3km内の距離にあり、伊賀地方の城跡らしく低い丘陵上に位置している。当時は吉村氏の居城と伝わるが、他の伊賀の城跡と同様に織田軍によって落城したものとみて、まず間違いないものとは思われる、詳細は不明。

城跡へは比奈知城(下山氏城)を起点にすれば分かり易いが、比奈知城西側を走る一般道693号でそのまま現地を目指せば難なく到達出来るが、この道路は谷沿いを通過する余りにも狭いカーブの多い林道であるので、出来れば「つつじが丘」ニュータウン内の一直線の道路を通過して楽に向かわれる事をお薦めしたい。後はルート図と概念図を参考にすれば難なく直登進入口までは辿り着けると思われる。城跡南側の山裾にも山に入れる道があったが、どちらを選択しても5分もあれば郭跡までは到達出来るものと思われる。個人的には縄張り全域を踏破したい欲望から、城跡案内板よりそのまま東郭に進入して藪漕ぎにて北物見(櫓台)まで上り、更に腰郭周辺から北側まで足を延ばし、やっと主郭櫓台背後の堀切に辿り着いたが、主要二郭の遺構見学で良しとする方には、概念図と画像に示した道路脇から上れば、直ぐにでも大堀切が迎えてくれる筈である。尚、車は城跡案内板の先には小型車なら充分路駐スペースがあるので心配はないだろう。

1route 登城ルート

6a 城跡進入路

8 城跡進入口

3yo 城跡概念図

現状(八月)城跡は方形に近い主郭を除けば下草も多く、副郭を始めとして北出郭群までは相当藪化も進行しており、縄張りの全体踏破を目的としない通常の遺構見学においては主要二郭で充分とも見受けられる。この城跡の最大の見所は縦堀まで繋がる南北尾根を分断する大堀切と主郭周囲を巡る分厚い土塁、櫓門でも存在していたかの様な大型土塁とその虎口、更に主郭北背後に直立に聳え立つ櫓台であり、その背後には土塁までも備わっている。主郭内部は植林地とあって見通しも利き、全体像が窺える事からも相当な見応えを感じる事が出来、遺構見学の醍醐味は全てこのゾーン(主郭周り)に凝縮されていと言っても過言ではないものと見受けられた。尚、虎口の土塁隅あるいはその付近には石垣痕が目に留まったが、伊賀地方には土城でありながらも、意外に土塁などの要所には石垣が使用されている城跡も多く見られ、この城跡もその中の一つであろう。

12_daihorikiri 大堀切見所

18_shukaku_nai 主郭内

20_nisigawa_dorui 主郭西側の土塁見所

16_sahukaku_koguti_1 虎口

25_yagura_heki_1 櫓台切岸見所

23_yagura_nai 櫓台の内部

22_yagura_nai_dorui_1 櫓台背後の土塁見所

31_fukukaku 副郭の現状

道路脇から5分で堀切まで到達出来るお手軽さ、あるいは主郭の状態の良さとこの素晴らしい遺構残存度を考えれば、規模は小さく他で見所の多い城跡ではないが、充分お薦め出来る城跡の一つと目には映った。尚、この城跡の直ぐ南側の山上には状態は悪いが城跡遺構(松島氏居館の山上詰城か?)が存在、その現況リポートは次で掲載の予定。

2009年9月 4日 (金)

三雲城跡(滋賀県湖南市)

城跡は滋賀県湖南市吉永にあって、当時は六角氏の重臣でもあった三雲氏代々の居城と伝わる。(詳細は現地案内板をクリック)この城跡へ訪れるには非常にややこしい説明がいるが、大雑把に説明すれば国道1号「三雲西」で南下してJR草津線を越える、後はルート図を参考にして住宅地の迷路の様な狭い道路を「青少年自然道場」を目印として車で向うしか方法はない。「青少年自然道場」に到達すればそこからは歩いても城跡を目指せるが、時間を有効に使う為にも車で手前の道路を更に上り、城跡の標柱のある箇所まで車で向う方が楽ではある。当然付近に路駐になるのでお薦めは出来ないが、道路も広いので空きスペースに停めてそのまま標柱より山上を目指した方が効率は良いものとは感じられた。

標柱のある登山口から上れば左右に山道が分かれるが、右手側に上れば当時の物見とも窺われた巨石「八丈岩」のある削平地には5分もあれば到達出来る。ここからは概念図に示した様に、尾根上を主郭に向いて上れば便宜上の二の丸には直ぐ到達出来るし、一旦下りて登山道に合流し、本来の大手道から二の丸虎口経由で主郭に向かっても、そんなに時間は要さないとは思われる。

1z 登城ルート

5tozanguti_1 登山口

6 現地案内板より

3_mi 城跡概念図

現状(三月)城跡は、見所箇所の多い二の丸周辺は比較的木々も少ない事から見通しもある程度利き、下草も少ないので現存する遺構の一つである、見応えのある枡形を形成する二の丸大石垣、石組み井戸跡などは中々良い状態のものを拝む事が出来る。全体を通しても遺構はほぼ判別確認可能な状態にあるが、主郭を含めた南西側は相当雑木が蔓延っており、折角の遺構群も非常に勿体無いばかりではある。主郭は小規模なだけに、ある程度木々を伐採して見通しを少し良くするだけで、一層城跡としての価値が高まる様には感じられたのだが、、。石垣跡などは概念図に示した様に主郭から二の丸にかけての郭壁随所(特に西側)に見受けられ、主家にあたる六角氏の総石垣に近い居城「観音寺城」とも照らし合わせる事も出来、当然この城跡も当時は総石垣城をも想像させてくれるものでもある。規模がそう大きくはないので見所は多くはないが、南西側尾根に連続する削平の甘い郭跡を分断する、一部自然地形を利用したとも思える合計四本の堀切も目に留まった。

9_8jyouiwa 巨石「八丈岩」

11kita_kaku 北尾根削平地

14_2maru_kita_kaku_2 北郭

18koguti_ooisigaki 19ooisigaki_2二の丸虎口大石垣見所

25_2maru_idokaku_1

二の丸内

24_idoato 石組み井戸見所

34_shukaku_nai_1 主郭内の現状

37_kita_dankaku_isi_1 北段郭西側の石垣跡見所

48horikiri 南西堀切

尚、本来「青少年自然道場」から上ることの出来る谷沿いにも相当数の石垣跡が目に留まったが、これらは山上にある城跡の石積み方法とは明らかに異なるものでもあり、近世における治山事業としての石垣の様にも見受けられたが、、。小規模な山城ではあるが枡形を形成する大石垣、あるいは郭壁随所で眼にする事の出来る石垣跡、更に石組み井戸は一見の価値のあるものでもあり、この二つの遺構見学の為だけに訪れたとしても決して後悔はしないものと感じられた。個人的には戦国ロマンに充分浸ることも出来、まだ未訪の方には遊歩道が設置されている事からも、是非訪問をお薦めしたいと思える山城ではある。

2009年9月 2日 (水)

清水山城跡(滋賀県高島市)

城跡は滋賀県高島市新旭町安井川にあって標高210mの山上に主郭が設けられており、現在国指定史跡に認定されている。(城史に関しては現地案内板をクリック)

城跡へは先にリポート掲載を終えた打下城跡を起点にすれば分かり易いが、国道161号は大溝城跡をかすめながら北上、JR[新旭」駅近くに来れば「北畑」交差点は左折、後はそのまま直進してルート図の如く大荒比古神社を目指せばよい。もちろんこの大荒比古神社付近も当時の居館跡地(井ノ口館)でもあり、現在でも分厚い土塁や深く掘削された空堀を窺う事が出来る。これから訪問する本命の清水山城は図中に赤線で記したが、狭い道路を更に山に向いて上らなくてはならず、道標も設置されていない事からもすんなりと登山口までは到達し難い。大荒比古神社からみれば東側の住宅地の途切れる辺りに、路駐可能なスペースがあったので車はそこに停めたが、国指定史跡であるからには駐車場の完備は是非お願いしたい処ではある。車を停めた付近からはそのまま歩いて北上すれば、概念図に示した様に広大な清水山遺跡(居館跡)を見学しながら、登山遊歩道あるいは途中から尾根上の郭群も窺いながら山上郭までは迷わず辿り着く事が出来る。

1si_5_2 登城ルート

1z 中腹の案内板

2_1現地案内板

1si_7 現地案内縄張り図

9_yasiki_nai_1 屋敷跡地の空堀土塁見所

現状(一月)城跡は真冬である事、あるいは整備されている事もあって、一般の史跡見学者にとっては非常に見て回りやすい状態にあるが、自分を含めた見応えのある遺構を求める山城ファンにとっては、山上主郭以外は地表も荒れ放題の郭跡、あるいはシダや枯れたままの下草に覆い尽くされている郭跡や斜面も多く、案内板縄張り図に記載された全ての遺構が判別確認出来る訳ではないので、これから訪れる方は過度な期待は持たないほうが良いものと感じられた。結果的には城域が相当広い事もあって縄張り全域を見て回る事は叶わず、見逃した遺構も数多いものとなってしまったが、今回見て回れた範囲の中に限って判別出来た遺構群を概念図に示した。城跡の見所は高低差のある非常に鋭角な堀切に尽きると思われるが、連続する縦堀などは下に向いて落ち込む様の全体像が窺えるものであり、非常に醍醐味も見応えも感じられる。主郭から三方尾根上に広がる縄張りも変化にも富んだものであり、先々で眼にする遺構に期待感を持って回れる事を思えば、探索する楽しさも倍増しそうに思われる。尚、中腹に位置する清水山屋敷跡でも、仕切り用の大型土塁あるいは付随する大空堀を眼にする事が出来るので決して見逃さないように、、ただこちらは相当藪化が進行しているので全体像の確認はほぼ無理、登山道から木々の少なめの箇所を選び少し踏み入って確認するのが精一杯でもあり、当然屋敷跡内全域を歩き回る事は不可能な状況となっている。個人的には今回は多くの未踏地域を残し、見逃した遺構も多い事から今一満足感に浸ることが出来なかったが、必ず近いうちに再訪して全域を踏破してみたい城跡の一つになった。まだ未訪の方には是非お薦めの城跡という事にはなろうか。

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城跡概念図

19_shukaku_heki_2 主郭切岸

21_shukaku_nai 主郭内

26_shukaku_kita_tatebori 主郭北二連の縦堀見所

30_nanseikaku 南西の土塁を伴う郭

31_horikiri 南西大堀切1見所

34_nansei_daihorikiri_3 大堀切2見所

46_daihorikiri 北郭大堀切見所

48_une_tatebori 北連続縦堀見所

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