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2009年7月

2009年7月31日 (金)

玄蕃尾城跡(滋賀県伊香郡)

この山城は滋賀県と福井県の県境、標高約450m柳ヶ瀬山(中尾山)の山上に位置しており、柴田勝家のシズガ岳合戦における本陣と伝わる。現在城跡は「国指定史跡」となっている為に数多くのHPサイトや文献で紹介されているので、山城ファンのみならず史跡見学者も数多く訪れる事からも、当然既に訪問された方も多いとは思われるが、まだ未訪でこれから訪問の準備にある方の為に簡単な現況報告と見学後の感想を述べさせて頂く。

この山城を語り出すと限がないのだが、現在近畿圏内における山城、あるいはもっと狭い範囲で土塁城だけを対象とすれば、これだけの遺構残存度、遺構整備保全状態の良さ、更に技巧を駆使した素晴らしい縄張りプランを誇る城跡は他には見当たらないと思える。他の大多数の山城を圧倒していると言っても過言ではなく、個人的に現状を見る限り賛辞の言葉を失うほどでもあり、この復元整備された状態の良さは絶賛に値するとも思えた。これだけ褒めれば未訪の方には城跡の状態あるいは値打ちを少しは分かって頂けるとは思うが、それだけ見学する価値のある山城あるいは史跡と言う事になろうか。見所を挙げれば縄張りプランそのものでもあり、郭間の虎口は全て食い違い土塁又は空堀土橋が備わっており、侵入者を簡単には寄せ付けない工夫が施されている。これだけの高所にありながらも土塁と空堀(横堀)を駆使して築かれたこの山城は当時の臨戦状態を物語るものかもしれないが、判別出来る遺構の機能を想像しながら見て回れば、より一層見学も楽しいものになりそうに思えた。

1g_2 登城ルート

2_1 現地案内板より

3g 城跡概念図

6_minami_kaku_dorui 南郭西側の土塁

9_nakakaku_dorui_hori 中郭手前の空堀

12_nakakaku_yori_minami_dorui 土塁囲いの中郭

13_naka_yori_minamikaku 中郭より南郭

17_minami_umadasi_1 南馬出しと空堀

21_yaguradai 主郭櫓台

22_shukaku_nai_yori_koguti 主郭より虎口方向

23_kitakaku_koguti 北郭と虎口

29_kitakaku_nisi_hori_1

北郭西側の空堀土塁

現状(11月)城跡は画像を見て頂ければお分かりの様に、木々に葉は生い茂ってはいるが見通しも利き、郭全体像も充分視認出来る状態でもあり、現地縄張り図に記載された遺構はほぼ判別確認出来る状態にはある。自作概念図に示した範囲が歩き回れた範囲であり遺構を確認出来た範囲でもあるが、当然冬季あるいは冬枯れ後の訪問においては更に状態は良いものと思われるので、恐らく目に留まる遺構もこの限りではないのかも分からない。ただ現状レベルでこれだけのものが見学出来るのであれば、四季を問わず充分納得のいく見学が可能な城跡とは目に映ったが、、。

城跡へはルート図に示した様に国道365号で北上した場合、「柳ヶ瀬トンネル」を抜けて直ぐ右折(逆進する形になる)して右方向に進行すれば、自ずと林道に繋がり駐車場までは難なく到達出来る。140号で東進した場合はトンネル手前で直ぐ左折(右方向)すれば良い。駐車場から登山道に任せて上れば、20分~30分で山上までは到達出来るはずである。

2009年7月29日 (水)

山崎天王山城跡(京都府長岡京市)

城跡は長岡京市大山崎町天王山にあって、JR「山崎」駅、あるいはほぼ隣接している阪急京都線「大山崎」駅のほぼ真北側に聳える天王山山頂に位置しており、古くは南北朝期より成立している山城でもあり、かつては山名氏、赤松氏などが居城とした事は一般的には余り知られておらず、秀吉が大阪城を築城するまで在城した事と、ここを舞台にした「天王山の合戦」は城跡ファンならずとも一般的にも知れ渡っており余りにも有名な史実。又、山頂には石垣を巡らせた天守を設けた事でも有名であり、現在でも石垣痕あるいは崩落石と共に荒い石積み跡が郭壁の随所に窺われる。別名天王山宝寺城あるいは山崎城

城跡へは名神「大山崎」ICが最寄の乗降口、国道171号よりほぼルート図の如くJR「山崎」駅を目指して進行すれば一番分かり易いとは思われるが、この周辺は山手に向う道路は非常に狭く、線路あるいは高架を横断する箇所も少ない為に、中々登山口となる観音寺(山崎聖天)までは辿り着くのが困難でもあり、これから初めて訪れる方は迷わずJR「山崎」駅の前を通過して東側の線路を越えて北進して向われる事をお薦めしたい。登山口は二箇所あるが今回は一番分かり易い山崎聖天からのスタートを選択した。個人的には平日の訪問でもあり路駐も充分可能であったが、探せば駐車場はあったのかも知れない。しかし土日祝日は予想が付かないほど付近は混みそう?とも思えるので、駅付近の有料駐車場を利用してそこから上られた方が良いかも分からない。山崎聖天稲荷神社傍からは山上主郭まで登山遊歩道を利用すれば酒解神社経由で迷う事無く辿り着く事は出来る。(道中の郭跡などの見学を含めれば主郭まで40分程度は必要)

Ya1 登城ルート

6_dai_tatebori_2 登山道中の大空堀地形?見所

10_isigaki_1 道中における郭壁石垣跡見所

17_dorui_karabori 土塁空堀地形

24_shukaku_nai_1 山上主郭

25_yaguradai_ato_1 櫓台跡見所

40_2maru_yori_yagura_haigo 櫓台背後

31_2maru_yori_shukaku 二の丸より主郭側

29_ido_ato 井戸跡

36_isigaki_ato_1 南郭群石垣跡見所

38_minami_dankaku_3 南段郭群

現状(二月)城跡は登山道から少しでも外れると、この時期でも雑木が密生している場所も多く、山上に展開される大規模な郭群は中腹の酒解神社(郭跡の転用か?)背後から既に始まっているもので、山上主郭まではほぼ全てが郭跡で占められているので郭境も分かり難く、中々全体像も掴み難く縄張りも非常に把握し辛い状態にある。多少整備された山上主郭付近を除けばほぼ全体に渡って雑木竹林地でもあるので、見通しも悪く自ずと歩き回っての遺構見学は余儀なくされる。とにかく城域も相当広く、見学移動出来る状態にある全体の縄張りの六割を歩き回って体感出来たなら良しとしなくてはならないだろう。遺構として確認出来る状態にあるのは山上全域を占める郭跡を除けば、主郭南竹林地側における郭壁随所に見え隠れする石垣跡、井戸跡、土塁跡、切岸跡、空堀地形などが挙げられるが、見所でもある石垣跡を除けばどれも地表風化が激しいものであり、見学者の想像に委ねられる部分が多いのも現実である。

個人的には二度目の訪問となったが、未だに縄張りの全体像が掴み難い山城の一つでもあり、状態は良いとは言えないが、山歩きも楽しめて遺構見学も間違いなく楽しめると断言出来そうにも思える城跡の一つである。

2009年7月26日 (日)

久住城跡(京都府京丹後市)

この城跡は丹後地方における数多い城跡と同様に、城跡の情報は皆無に近いものであるが、先にリポート掲載に及んだ佐野城跡などと似た様に、山城としての醍醐味及び見応え、更に縄張り妙味にも非常に富んでおり、個人的に訪れた丹後地方の山城の中でも縦堀(堀切)と横堀を絡ませた技巧を伴う堀切群の見応えは多少状態は悪いものの特筆すべきものがあり、是非訪問をお薦めする物件の一つでもある。別名木積山城と呼ばれており付近には木積神社も建立されており、戦国期においては菊井氏の居城が伝わるが、一色氏を筆頭に他の丹後地方の城跡と同様に細川氏により落城した模様。その後の詳細は不明

城跡は京丹後市大宮町久住(クスミ)にあって、城跡へ向うには男山城跡(板列八幡神社)を起点にすれば分かり易いが、男山城跡の西側で国道178号と交わる県道53号を「網野」に向いて北上すればよい。県道に任せて進行し久住地区に入れば、概念図に示した目印とする野菜直売所地点を右折、その数10m先の写真に示したカーブミラー横の山道(旧神社参拝道)より上れば、既に縄張り内とも思える旧神社敷地(郭跡の転用か?)までは直ぐ到達出来る、そこからそのまま高い切岸を登り切れば、直ぐにでも山上郭群が迎えてくれるはずである。

1route 登城ルート

5tozanguti 進入口

3k 城跡概念図

現状(六月)城跡は自然任せの藪化進行中にあり、規模の大きい主郭は地表も見えないほどの草木に覆われており、全体像を外見から窺うのはほぼ無理な状態にあるが、他はまだましな状態でもあり、当時の残存遺構と見受けられる便宜上の三の丸土塁、主郭櫓台土塁、空堀(横堀)、堀切、縦堀などの様に技巧を伴う遺構はほぼ確認判別出来る状態にはある。城跡における最大見所は主郭櫓台の北側背後に設けられた高低差を伴う二連に見える大小の空堀(堀切)、それに繋がる縦堀、東側に備わる縦堀と横堀を絡めた技巧を伴う遺構であるが、更に櫓台を兼ねたかの様な大土塁もそれに付随している。自ずと武者隠しにも似た地形になっているが、城跡にあっては一番醍醐味を味わえる地域と目には映った。この遺構群は倒竹や蔓延る草木などによって風化は激しいが、案外見通しは利くので全体像から判別確認はし易く、更に横堀跡を歩いてじっくり見学すれば少し複雑な地形も充分把握出来るものと思われる。全体的にも状態は良いとは言えないが、特に北側の堀切から技巧を伴うこの東側一帯の遺構群は決して見逃してはならない。

13_2maru_yori_shukaku_gawa 主郭西側切岸

36_3maru_dorui 三の丸土塁見所

14_2maru_nisigawa_1 二の丸西側

20_shukaku_minami_heki_1 主郭南切岸

22_shukaku_haigo_dorui_2 主郭櫓台土塁

25_horikiri_1 大堀切見所

26_horikiri_yori_higasi_dorui 東側空堀土塁見所

33_yokobori 東側の横堀

外見から全体像を窺う事も出来ないほどの雑木に覆われた主郭は、当然形状あるいは規模などは把握する事が出来なかったが、歩き回れば何とか規模を体感(全長60m前後か?)することは出来、郭内部には櫓台土塁と僅かな土塁跡も目にする事は出来た。外見からの視認は主郭以外では難渋する事はなかったのが幸いでもあり、概念図に示したものが現状判断出来た遺構、あるいは歩き回る事の出来た範囲であると思って頂ければよい。

2009年7月24日 (金)

府中城跡(京都府宮津市)

この城跡は京都府宮津市府中にあって、日本三景のひとつでもある景勝「天橋立」の全景を眺める事の出来る、傘松公園展望所から北東側山上に繋がる成相寺に至るまでの尾根上に位置しており、中腹に位置する今熊野城跡を含めて山上郭群にまで跨る三城で形成された、規模も相当大きく城域の広い山城と聞いた。当時は丹後守護職の地位にあった一色氏の重臣延永氏の居城と伝わっているが、詳細は不明である。

城跡に訪れた上での結論から先に述べれば、今回の訪問(六月)では所在も位置も確認し、城跡直ぐ真近の道路上まで接近しながらも、周囲はまるで太古のジャングルが甦ったかの様相でもあり、とても足を踏み入れる事の出来ない密生雑木藪、あるいは切り立つ外壁に行く手を阻まれ、安全面も考えてついに踏破は断念するに至った。しかし冬季における訪城においては、多少の冬枯れを想定に置けば何とか踏破も可能ではないかとも思え、取り合えずまだ未訪でこれから訪問する用意のある方の為に、現況報告と共に登城ルート図を示した。

1futyuu 登城ルート

4 南西側より遠望

8_tenbousho 成相寺西側の展望所

7 展望所より今熊野城

F_22 寺院内の切岸地形

F_5 F_21 山門前の広い造成地

2a 山門の案内板より

F_11 城跡

城跡へは国道178号より元伊勢と呼ばれる有名な「籠神社」を目印にして向えば分かり易いが、個人的には途中(道標がある)から山上近くに建立されている成相寺を目指して車を走らせ、そこからルート図に示した様に尾根伝いに南下するルートを選択した。事前にこの城跡における城域の広さは地形図あるいは情報によりある程度把握していたので、南北に渡る尾根全体を踏破するに於いてはこれが最善でもあり、最短ルートと推察に及んだからでもある。逆に南側から上るのであれば、「籠神社」側から傘松公園に向いて山上までロープウェイが運行しており、そこから歩いて山上を目指すか、寺院まではピストン運行しているバスも利用出来るはずである。もちろん図に示した公園敷地から配水施設の建つ敷地までも当時の縄張りとしてまず間違いのない処とは思われるが、近世に於ける公園化事業による地形改変も相当窺われ、ほぼ見学者の想像に委ねられるものでもある。

規模の大きい寺院敷地内あるいは山門南側の広範囲に造成された地域も、当時の郭跡地の様にも見受けられたが、ほぼ当時の面影は残ってはおらず、城跡の佇まいはほとんど感じられない状態でもある。山門からバス運行道を利用して南に下れば今回訪問予定の府中今熊野城跡に到達する事が出来るが、前述の如く道路脇のどこから取り付こうにも切り立った崖状であり、唯一取り付き可能な箇所は凄まじい藪と化しているのが現実でもあり、夏季訪問は絶対に避けた方が無難と思える山城でもある。個人的には冬季に何とかリベンジしたい気持ちは強いが、未踏箇所の現状と遺構残存度なりを想像すれば、再訪までする価値があるかどうかは疑問と言わざるを得ないような気はするのである。

2009年7月22日 (水)

男山城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町男山にあって、大規模な板列八幡神社敷地及びその西背後に繋がる尾根上が城域と見受けられる。当時においては高岡氏の居城が伝わるだけであり詳細は不明

城跡へは先にリポート掲載済でもある岩滝城を起点にすれば分かり易く、岩滝板列神社前の道路、あるいは国道178号よりそのまま北上すれば5分もあれば神社までは到達出来る。神社入り口の向かいにある公民館の広い駐車場が参拝者用の駐車場と見受けられたが確証は無い、そこからそのまま歩いて神社に上れば、今は造成拡張されている事もあって神社敷地から城跡の面影を感じる事は余り出来ないが、かつての郭跡を体感しながら主郭までは西側の堀切を越えれば直ぐ到達可能となっている。

自作概念図に示したものが現状の地形から遺構と判断したものであるが、郭跡を除けば主郭東西に横たわる二本の堀切、及び主郭西背後に備わる大土塁が主だった遺構であり、城跡最大の見所と言えるものでもある。北西尾根上は一部朽ちた祠跡が目に留まる削平地、あるいは連続する削平地となっており、恐らく当時の城域と推察しても良さそうには思われたが、断定可能な遺構も目に留まらなかったので確証は持てずにいる。便宜上主郭と位置付けた周辺が明確に遺構が判別可能な地域に相当し、現在ではここだけが唯一当時の遺構がそのまま現存している地域とも思われた。広い神社敷地がどれほど地形改変を受けたものか到底察しが付かず、広さはある程度体感出来ても、中々当時に思いを馳せる事は容易でないのが現実でもある。城跡は全域に渡って竹林雑木藪地と化しており、状態も自然任せの荒れ放題であるが、歩き回れば何とか縄張りを掴む事が可能となっているのが唯一の救いか、、。

1routa 登城ルート

5 公民館側より神社入り口

3o 城跡概念図

11_2 神社敷地

15_horikiri_1 15_horikiri_3 堀切

20_shukaku_kita_heki 主郭北切岸

19_shukau 主郭内

21_yagura_1 主郭大土塁見所

22_nisi_horikiri_4 西堀切見所

23_nisi_daikarabori堀切より 大空堀見所

城跡のほぼ半分以上に相当するものと見受けられる神社敷地から、当時の縄張りを想像するのは至難の技とも思えるが、この城跡の東西に設けられた堀切が縦堀に繋がる様は中々見応えがあるものでもあり、神社そのものが城跡である事を考えれば、訪問に際しても非常にお手軽感は強く、岩滝城などの山城巡りの一環として赴けば充分満足感には浸れそうとも思えるのである。

2009年7月20日 (月)

岩滝城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町岩滝にあって、板列神社の北側背後の丘陵先端部に位置している。当時においては千賀氏(大島城主)の居城と伝わっている様だが、戦国期に丹後を支配していた一色氏の傘下にあった城跡とも窺われ、この丹後地区にある他の城跡と同様に細川氏によって落城したか、あるいは投降して家臣に組み入れられたかの何れかである様には思われる、詳細は不明。

城跡へは弓木城跡を起点にすれば分かり易いが、弓木城跡駐車場の前の道路から、天橋立方面へ向いて車を走らせれば自ずと板列神社までは5分程度で到達出来る。神社に到着すれば最奥に位置する社殿横の小さな稲荷社の祠上から、そのまま切岸を登れば直ぐにでも南段郭群には到達可能となっている。

1route_2 登城ルート

8 直登口

3i 城跡概念図

13_kaku 南段郭群

17_minami1kaku 二の丸(便宜上南郭)

20_shukaku_dorui 主郭北土塁見所

21_kita_horikiri_1 大堀切見所

26_karabori_2 北郭間の空堀

30_hokutan_horikiri_3 北端の堀切見所

現状(六月)城跡は当然藪化は進行しているが、移動あるいは遺構見学に差障る状態にまでは至ってはいない、判別確認出来る遺構は概念図に示したものになるが、城跡規模も小さいのでほぼ遺構も縄張りも見極める事が出来る状態にあると言ってもよいだろう。社殿が直ぐ傍まで迫りながらも山上郭群は人の手が入らず恐らく当時のままであるとも見受けられ(ほぼ完存か?)、遺構残存度も非常に高いものであると自分の目には映った。見所としては主郭北側の高低差を伴う現状幅のある大堀切、最北尾根を遮る形の堀切は挙げられるが、主郭の土塁あるいは便宜上櫓台とした北側の空堀も充分判別出来る程度に現存しているので、非常に楽しめる材料ともなっている。特に大堀切の縦堀となって下まで落ち込む様は非常に見応えが感じられ、城跡最大の見所遺構と言ってもよいものだろう。全体的に個々の郭規模は小さいが、郭切岸に高低差がある事からも山城としての醍醐味は充分感じられ、訪問における圧倒的なお手軽さも加味すれば自ずとお薦め出来る城跡と言う事にはなろうか、、。この後には今日の山城巡りの一環として訪れる予定の男山城も控えており、先に寄った石田城跡の遺構の見応えには素晴らしいものがあったが、この岩滝城跡のレベルから想像すれば非常に期待が待てそうにも感じられた。尚、男山城の訪問リポートは次で掲載予定

2009年7月18日 (土)

石田城(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡与謝野町弓木にあって、既にリポート掲載済でもある弓木城跡からみれば南西直線2kmの距離内にあり、ルート図の如く国道178号から石田橋を渡れば左手側に見える低山(丘陵)の尾根先端が城跡でもあり確認は容易い。(探せば小型車であれば路駐スペースは付近にある) 城跡へは県道2号より少し入った場所に、写真に示した登城道として今回利用する墓参道があるので、山上主郭までは迷わず辿り着く事が出来るはずである(墓地からは5分内)。城史に関しての詳細は不明であるが、弓木城(一色氏滅亡に至る最後の合戦地)と近い事からも弓木城主稲富氏の南を抑える支城あるいは出城の様にも窺われるが推察の域は出ない。

現状(六月)城跡は時期的にも当然草木は生え放題で自然任せの藪化進行中にあるが、一部の郭跡(北側)はそのまま集合墓地として転用されている事もあって、ある程度見通しの利く状態にはある。郭間の移動に難渋しない程度の状態であると思って頂ければよいのだが、見学した上での結論から先に述べれば、城跡は個人的予想を充分に上回る規模(全長200m以上)であり、直線的な尾根上を三箇所の大空堀(堀切)で分断する様は相当な見応えが感じられ、遺構のスケールの大きさには圧倒される事は請け合いの城跡と目には映った。

1route 登城ルート

4 進入墓参道

3isida 城跡概念図

7_kita_higasi_gedan_1 北東下段郭

8_higasi_gedan_dorui 北東郭土塁

11_kitakaku_dorui_dan_1 北郭土塁壇

12_kita_dai_karahori 北空堀見所

18_naka_daikarabori_1 中大空堀見所

19_naka_dorui_1 空堀内の土塁

25_shukaku_1 主郭の荒れた現状

26_minami_dai_karabori 南大空堀見所

形態としては直線的に郭を配しただけでもあり、シンプルな構造ともあって縄張り妙味には少し欠けるとは思われるが、前述の便宜上の主郭を挟む形で深く掘削された、二箇所の空堀は状態も比較的良く、幅も高さもあり、更に全体像が窺える事からも見学する分においては申し分のない遺構と感じられた。おまけに幅を伴う空堀上には土塁、あるいは土塁道とした高さのある土塁構築物まで窺う事が出来、機能を想像するだけでも楽しく見て回れそうに思えた。この二箇所の空堀見学だけで訪れたとしても、必ず満足感に浸れる事は間違いないと断言出来そうにも思われ、ほぼ無名に近い城跡ではあるが是非訪問をお薦めしたい物件の一つである。当然弓木城跡と比較対象すれば分かり易いと思われるが、史跡として整備の行き届いた弓木城跡からすれば、状態は比べるレベルには無いと言えるが、遺構の見応え、あるいは醍醐味に関しては同等か、又はそれ以上のものと目には映ったので、弓木城跡を訪問された際には、是非他では中々御目にかかれない凄い!二本の大空堀を見学して頂きたいと思うのが本音でもある。

尚、この無名に近いと思われた城跡は、弓木城を訪れた際の現地案内板には所在が記されてあった事からも、既に発掘調査は成されたものと解釈して良さそうにも思えたが、調査結果のリサーチにまでは及んでいないので悪しからず、、城史に興味を持たれた方は与謝野町役場で資料を取り寄せる事が可能かも知れない、、、?

2009年7月16日 (木)

大谷城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市大谷にあって当時においては中沢氏の居城(砦跡)が伝わっているが、宮井城を居城とする篠部氏との抗争では敗北した模様、詳細は不明

城跡へは先にリポート掲載を終えた福田城を起点とすれば分かり易いが、国道178号「福田」交差点より左折して福田城の西側を走る一般道242号へと更に左折、そのまま直進すれば大谷集落までは難なく辿り着ける。集落に入れば道路沿いにある派出所を過ぎて橋を渡り左折、既に右手側に望める丘陵先端部が城跡でもあり、もう一度橋を渡れば更に確認も容易である。直登口は川沿いの民家の最奥からで、ルート図と写真に示した付近から急斜面に取り付いて斜行し、そのまま登り切れば丁度堀切南側辺りの尾根上に到達可能である。

現状(六月)城跡は相当藪化も深刻化している状態にあるが、全長30mにも満たない砦規模(物見程度)の城跡でもあり、南尾根を断つ堀切、主郭背後の土塁、付随する小郭など城跡を形成する遺構は全て判別確認出来る状況となっている。主郭は幅6m程度で20mあるかないかの規模であり、しかも痩せ尾根に築かれている事もあって相当狭いものに感じられる。恐らく人間が常駐するのは当時でも現在でも相当困難であると察せられるが、それには全く相応しくない立派な高低差を伴う堀切が備わっているのにはただ驚くばかりでもある。見る限りにおいて、この小さな砦を攻略した上での値打ち、あるいは効果があるものとはとても思えないのである。見応えがある城跡とは決して言えないが、砦には相応しくないこの土塁と堀切は、興味のある方が一度覗く分には決して無駄足にはならないものとみた。

1route_2 登城ルート

4_1_2 城跡遠望

7 直登進入口

10_horikiri_heki 堀切壁

11_shukaku 主郭

13_dorui 主郭土塁

2009年7月11日 (土)

鳥居城跡(兵庫県豊岡市)

この城跡は豊岡市出石町鳥居にあって、以前より国道426号を利用して出石町から豊岡市内へ向かう度に城山の位置確認はしながら通過していたが、ここ最近になって山肌がむき出しになっている事から、どうも発掘調査あるいは住宅造成工事の掘削跡とも見受けられたので、遺構が破壊されない今の中に覗いておこうと思い立って現地を訪れたものである。

城跡へは国道426号よりほぼルート図通りで到達出来るが、426号から鳥居橋を渡る事は現状出来ない(東西通行止め)ので、一旦通り過ぎて北側から国道482号に向いて車は進行しなければならない。現地に到着すれば車の路駐スペースは鳥居橋付近に充分あるので心配はないと思われる。そこからは概念図に示したように歩いて城跡まで向えばよいが、道路上から東側の植林地を覗けば、木々の隙間からもはっきりと分かる主郭切岸と大堀切が直ぐ目に留まるはずである。

結果的に城跡の傍には隣接して新しい住宅地が建っており、多少遺構は造成工事によって消失したものとも予想されたが、いざ城跡まで上ってみると見事に発掘調査の跡(掘削穴)が一部の郭跡に残っていた。どうやら推察通りに近年発掘調査がなされた模様であるが、見る限り余り破壊も受けておらず遺構もほぼ当時のままの様には感じられた。もちろん調査後のリサーチはしていないので、どの様な調査結果が出たのかは知る術も無いし、調査後に数100年間に渡って風雪を凌いで来た当時の構築物を確実に後世まで保全して行くといった姿勢が見えて来ない限りは、個人的には余り期待も興味も持ってはいないのではあるが、、、。(当時の土木技術の凄さを窺い知る為にも是非このまま遺構は保存し遺して頂きたい)

1route 登城ルート

5 鳥居橋より遠望

3to 城跡概念図

個人的には当時における縄張りプランと優れた土木技術を伴う遺構の見学だけが目的であり、目の前にした遺構だけが真実であり、その醍醐味を素直に味わう事に全てをかけているので、何時もの事ながら現状(六月)見たままをリポートさせて頂くが、結論から先に言えばこの城跡は道路側から5分とかからず直立に近い凄い堀切(切岸が美しい上に主郭までの高さが凄い)まで到達出来る事、あるいはコンパクトにまとまっている為に縄張り妙味は余り感じられないが、状態も比較的良い事を踏まえれば、充分見学に値し是非訪問をお薦めしたい城跡と言うことにはなりそうである。城史に関しての詳細は不明

13_horikiri 13_horikiri_1 南大堀切見所

16_shukaku_yagura_1 主郭南櫓台?見所

18_shukaku_dorui 主郭西側の土塁見所

21_higasi_koguti_1 主郭東虎口跡

27_fukukaku_1 副郭内

26_fukukaku_tatebori_2 副郭東の縦堀地形

30_higasi_kaku 東郭

33_minami_one_tatebori 南尾根上の縦堀

城跡を歩き回った結果、自作概念図に示したものが自身で判断した遺構と呼べそうなものになるが、明確に判別出来る遺構としての見所は前述の大堀切、南郭に備わる縦堀、主郭東半分を巡る土塁(南端には櫓台土塁)、便宜上副郭とした東側虎口に備わる三本の縦堀地形が挙げられる。副郭には一部土塁跡は窺われたが、北西側に設けられた配水施設跡の造成土盛の様な気がしないでもない。ただ北斜面下方側に現在住宅地が建っているので、本来の郭跡がどこまで削り取られて、どれ位消失したものかは想像に任せるしか無い様にも思われた。尚、ここから南へ尾根沿いに上れば形態の明らかに違う城跡遺構が山上にかけて残っているが、そちらの現況報告は次で掲載予定

2009年7月 8日 (水)

樋口城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市庄境にあって鶴城跡からは東南直線3km内の距離にある、もちろん樋口氏の居城として良いものと思われるが、詳細は不明。ただ鶴城とは至近距離にある事からも、支城あるいは出城としての機能を担っていた可能性は非常に高いものと見受けられた。

城跡へは国道312号を利用すれば色んなルートが考えられるので、ここでは割愛させて頂くが、登城ルート図を参考にすれば現地近くまでは難なく辿り着く事が出来ると思われる。(探せば付近に路駐スペースあり) 山上主郭(比高100m)まで上るルートは偶然付近で出くわした城山を一部保有する方に教わる事が出来た上、更に上り口の案内までして頂いたが、写真に示した空き地の直立に近い鉄梯子(怖くて腰が引けそうになる)を上り、更に山上までは急斜面(激斜)を登り切らねばならず、個人的には余りお薦めする事が出来ないので、これから訪問される方はできるなら別ルートを探して上られた方が良いのではないかと思われる。ましてこれから先この空き地に住宅が建ってしまえば、当然この梯子を利用して上るのは不可能とも予想され、南西側(全て崖状地形の上、ネットが張り巡らされている)からの直登は避けた方が良いものと感じられた。地形から考えれば南側から遠回りに上れば何とかなりそうには思われたが、、、。

1route 登城ルート

6_2 リスクを背負う参考直登口

3hi 城跡概念図

8_shukaku_nisi_gedan 南西下段郭

9_shukaku_dorui_dan 主郭内の土塁壇

11_minami_yori_shukaku_gawa 主郭南より

15_karabori_ato 南郭空堀跡

18_dorui_dou 片堀切と土塁道見所

21_horikiri_3 南堀切見所

26_nisi_horikiri 西郭群堀切見所

28_horikiri_nisikaku_2 西郭群

現状(六月)城跡はこの時期にしては状態も比較的まし(藪漕ぎは無い)であり、ある程度見通しも利く事から山上における遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。郭跡を除けば明確に判別可能な三本の堀切、相当埋もれているが判別は可能な空堀跡、土塁、土塁土橋、連続する土塁壇(マウンド)といったところが、現状見て回れた範囲の中で地形から個人的に判断出来た遺構群でもある。砦規模の城跡なので縄張り妙味まで求める訳には行かないが、山城としての風情あるいは醍醐味は充分感じられる城跡と目には映った。状態も良い部類に入る事からも四季を問わず訪問が可能であるとは思われるが、安全面を重視すれば今回は自分でも納得の行く直登ルートが紹介出来なかったのが少し残念な処ではある。下山後には直登口を案内して頂いた城山所有者(歴史には詳しい)にお礼を述べた上で状況を報告したいと思い訪ねたが、自分の山がかつて戦国期において城跡であった事実を、自身が現地で描いた簡単な縄張り図を示して説明しても「今までそんな事は先祖から聞いた事も無ければ、他で耳にした事も無い」の一点張りで、とうとう最後まで信じてはもらえなかったのが非常に残念でもあり、改めて400年に渡って現在に至る「城跡の価値」を現実として知らされた思いでもある。尚、城山所有者は自分の事を山の風景写真を撮影しに訪れた者とどうやら勘違いされていた事も後の話で分かった。

2009年7月 6日 (月)

上郷城跡(兵庫県豊岡市)

今回は当方の不手際により、折角編集した上郷城跡のブログ記事が失われてしまいました。よって少し見苦しいかも分かりませんが、最初に記事を作成した時における原稿のコピーを載せる事にしました。詳しい城跡の現況リポートに関しては、「城跡の詳細」をクリックして読んで頂ければ幸いです。

2kami2 城跡の詳細

1rpute 登城ルート

4a 城跡遠望

6 直登進入口

3ka 城跡概念図

9kitaone_horikiri 北尾根上の堀切

15_kitakaku_kirikisi_1 上方北郭の切岸

19_sita_kaku_2 下方郭跡

20_sita_kaku下方北側の腰郭

24_kita_dankaku_1 下方北段郭群

28_shukaku_1 主郭内

30_shukaku_yori_kita_yagura_1 北櫓台土塁見所

34_horikiri_1

南堀切

2009年7月 4日 (土)

芦原西城跡(京都府京丹後市)

芦原城跡における改訂事項

2010/6/20 芦原城として公的に認知された城跡は、既に他で存在しているのが確認されました。よって今回紹介した城跡は、混同を避ける為に新たに芦原西城跡と呼称変更して掲載に及んだものです。

(以下本文) 城跡は京丹後市久美浜町芦原にあって小幡氏の居城が唯一伝わるが、資料も皆無に近いことから城跡の成立した時代背景も分からず、当時丹後攻略軍の細川氏の傘下にあった武将なのか、一色氏の配下にあった武将なのかは確かな情報も得られず、詳細は全く不明。

城跡へは先にリポート掲載を終えた佐野城を起点にすれば分かり易いが、国道312号は久美浜に向いて西進、後は目印となるものがないのでルート図を参考に、谷地区より一般道703号へ左折針路変更すればよい。芦原地区に入れば橋を渡る手前より右手側に城跡は視界に入る事からも、直ぐに確認する事は出来るはずである。城跡への進入口は概念図に示したように小橋を渡って直ぐに竹林地に入り、そのまま郭壁となる急斜面を上り切れば主郭までは5分とかからず到達可能である。(付近を探せば車の路駐スペースはあり)

現状(六月)城跡は住宅地が迫っている事からも竹林地が占める割合も多いが、山上における主要な郭群、あるいは現存する大堀切(三箇所の薬研堀)、北郭に備わる土塁、切り立った郭切岸などは判別確認出来る状態でもあり、遺構見学においては充分満足の出来るレベルにある城跡と言ってよいものと思われる。ただ東側あるいは北東側に踏み入るほど身動きも取れないほどの雑木竹林地となるが、本命はあくまでも山上本郭群なので見学する分には大して影響はないものと感じられる。城跡の形態としては余り高低差のない主要四郭を、地形に任せて大堀切を挟みながら掘削形成されたもので、地形上からか直線的に郭が配されていないところが非常にユニークな縄張りプランと感じられた。

1route_3 登城ルート

6 城跡進入口

3as_2 城跡概念図

10_kosi_yori_shukaku_heki 腰郭より主郭壁

15_shukaku 主郭内

20_kita_gedan_yori_shukaku 北中郭より主郭側

21_dai_horikiri_3 北堀切(薬研堀)見所

22_kitakaku_dorui 北郭土塁見所

26_higasi_dai_horikiri 主郭東堀切見所

29_fukukaku_higasi_horikiri 副郭東堀切見所

13 主郭南下段

25_yasiki_ka 屋敷跡か?

城跡最大の見所は郭間を遮る三箇所の大堀切で、直立に近い様相でもあり、高低差がある事からも見応えは素晴らしく、この城跡にあっては抜群の存在感を誇っており、正に一見の価値のある遺構と目には映った。他では丘城(ほぼ独立した低山)ならではの鋭角に切り立つ高い切岸も未だ健在であり、見学者にとっては非常に目を楽しませてくれる材料ともなっている。

丹後地方に於いてある程度知名度のある山城(丘城)として挙げられるのは、まず吉原山城、久美浜城、弓木城、少しランクが下がって下岡城と非常に数は少ないが、今回訪れたこの城跡は佐野城、意布伎城などと並んで知名度は無きに等しく、ほぼ無名に近いと言えるが遺構残存度は非常に高いものがあり、これから先は指定史跡として見直されても良いのではないか、とも思える城跡の様に感じられるのである。先に挙げた城跡の何れとセットで訪れても、充分満足感の味わえる山城訪問になるのではないだろうか。個人的には充分お薦め出来る城跡の一つである

2009年7月 2日 (木)

油池城跡(京都府京丹後市)

2010/7 城跡呼称の判明 

以前意布伎城としてリポート掲載したこの城跡は、訪城後の追跡リサーチの結果、別に意布伎城なる山城が西側に隣接している事が発覚し、混同を避けるために一度は意布伎東城としましたが、その後の継続したリサーチの結果、地元では地域名のまま油池(ユイケ?)と呼ばれている事が判明しました。ここで改めてお知らせすると同時に訂正したいと思います。 

(以下本文) 城跡は京都府京丹後市久美浜町油池にあって、北近畿丹後鉄道宮津線「甲山」駅の一つ山を隔てた真南側の、独立して見える山の山上に位置している。先にリポート掲載を終えた佐野城の支城とも窺われ、当時丹後平定中の最中にあった細川氏の牽制あるいは攻撃から本城を守る為に築かれた城跡と伝わっている模様、詳細は不明

城跡へは佐野城を起点にすれば分かり易いが、国道312号を久美浜に向いて西進し、久美浜高校付近で一般道669号へ針路変更後、「甲山」駅を目指して北進する、後はルート図の如く道標は無いが、意布伎(イブキ)神社を目指せば難なく登城口付近までは辿り着く事が出来る。

1

登城ルート

7 進入墓参道

1_1 城跡概念図

神社もかつては砦跡とも窺え、背後には空堀とも見受けられる堀切地形が郭切岸(神社敷地)と並んで城跡の雰囲気を唯一醸し出している。目指す本郭へは概念図に示した墓参道よりかつての大堀切へ合流して向かう事になるが、堀切から北側が本命となる本郭群であり、便宜上の広大な二の丸を通過すれば山上郭までは低山なので直ぐにでも到達出来る。現状(六月)遺構として目に留まったものは集合墓地(南郭とした)との境にある大堀切、二の丸堀切側に備わる土塁、二の丸北側の空堀土塁跡、主郭の櫓台大土塁、櫓台北斜面上の堀切(縦堀)などであり、藪化は進行しており地表も荒れ放題と化してはいるが、これらは現状全て判別可能でもある。先に寄った佐野城が素晴らしかったので多少の期待を胸にして訪れたが、この時期でも藪漕ぎ箇所はほとんどなく、丘陵地形の為に山城としての醍醐味までは味わう事が出来なかったが、期待以上の城跡遺構に巡り合える事は出来た。概念図におけるまでが踏破した範囲であり、個人的に遺構と判別出来たものであるが、東西斜面上までは生い茂る雑木の為に外見からの視認も踏破も困難な状況でもあり、縦堀の有無までの確認には至れなかった。

8 堀切へ

10_horikiri_1 南大堀切見所

15_2maru_dorui_1 二の丸土塁見所

16_2maru 二の丸内

17_2maru_kita_karabori_1 二の丸北側空堀跡見所

22_shukaku 主郭内

25_shuaku_yagura 主郭櫓台土塁見所

28_kita_horikiri_1 北堀切

ほぼ無名に近く情報も皆無に近い城跡ではあるが、遺構残存度は非常に高く、5分程度あれば主郭まで到達可能なお手軽感、久美浜城からも約4km程度の距離でもあり、後でリポート掲載予定の芦原城も含めれば、三城同日訪問で充実した山城巡りを堪能する事が出来るのではないだろうか。

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