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2009年6月

2009年6月30日 (火)

佐野城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市久美浜町佐野にあって、同じ町内にあって既にリポート掲載を終えた竹藤城跡からみれば南へ直線約3kmの位置にあり、それほど遠くの距離にはない。ほぼ無名に近い城跡ではあるが佐野備前守の居城と伝わっており、後で丹後を支配する事になる細川氏によって落城した模様である。付近にお住まいの年配の男性からその当時の話を聞いたところ、「佐野城側では川沿いに面した急斜面に油をまいて滑りやすくする事によって、更に攻め手から城を防備する作戦に出たそうであるが、逆に火を放たれて城は炎上し落城した」との事であり、今となっては失笑するばかりの嘘のような当時の戦模様である。

城跡へは京阪神から向う場合、国道426号より482号を経由して久美浜を目指して車を走らせれば良いが、国道482号と国道312号の交わる交差点の川を挟んで直ぐ東側に聳える低山が目的地となる城跡であり、国道からも直ぐ確認する事は出来る。ルート図に示した様に312号へ右折して数100m東側の国道沿いにある、僅かに入り口と見られる入山口(夏草に覆われているが探せば分かる)に向えばよいが、夏草を少し掻き分けて中に進入して行くと、自ずと屋敷跡にも窺える無数の段状に連なる削平地が目に留まる、それと平行して山上まで連なる東段郭群に沿って上れば難なく主郭までは到達出来る(10分程度)。

1route_2 登城ルート

6 入山口

3sa 城跡概念図

現状(六月)城跡は藪化及び風化は進行中にあるが、この時期でも縄張り内の移動に難渋する事は無く、遺構も全体を通してほぼ判別可能な状態にある。外見から全体像を見渡す事は当然無理ではあるが、案外箇所によっては見通しも利くので見学し易い状態にあると言っても良いだろう(冬季に訪問すれば更に良い状態と思える)。城跡の形態としては川に沿った尾根上の東西に跨って郭が展開されるもので、最高所に位置する主郭から東側に数十段にも及ぶ郭群、更に家臣団の屋敷跡にも窺える無数の段郭群、主郭西側は急斜面を下りれば主郭と占有面積がほぼ同等かそれ以上とも窺われる規模の大きい西出郭が配されており、縄張り変化にも富んでおり非常に目を楽しませてくれる山城である。

18_dorui_1 東郭群の土塁見所

23_higasikaku_jyoudan_dorui_3 東郭群最上段の土塁見所

37_nisidemaru_heki_1 西出郭へ

39_demaru_minamigawa 出郭南側

50_shukaku_1 主郭内

54_kita_yakenbori_4 北大堀切見所

56_saihoku_horikiri 北出郭の堀切

61_yasiki最上段の屋敷跡とも窺われる平地  

見所としては東郭群の最上段に備わる郭を仕切る二連の状態の良い大土塁、主郭北側尾根を分断する高低差を伴う素晴らしい堀切(薬研堀)、西出郭の鋭角な切岸、居館とも見て取れた広い削平地上の土塁郭など探せば遺構は目白押しでもあり、飽きを来させず見て回る事が出来る状況でもある。自作概念図に示した様に地形を活かしたユニークな縄張りプランそのものも見所であり、最近コンパクトな縄張り形態の山城を多く訪問しているせいもあってか、この山城は縄張り妙味もあって特に素晴らしいものの様に目には映った。山上主郭までは急斜面を上る必要も無く、この時期でもそれなりに動き回れる状態の良さ、あるいは遺構の醍醐味を考えれば当然推奨に値する城跡でもあり、丹後地方に訪れた際には是非覗いて頂きたい、これぞ山城と呼べる本格さの漂う城跡である。

2009年6月28日 (日)

福田城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市福田にあって、国道178号の信号「福田」の交差点からは直ぐ西側の丘陵先端に位置しており、国道からも充分確認出来る位置にある。当時この城跡もこの周辺に点在する城跡(海老手城など、、)と同様に山名氏の傘下にあったとは思われるが、当然秀吉による但馬攻略軍によって落城あるいは投降したものと察せられる。城史に関しての詳細は不明

城跡へはルート図あるいは概念図の如く「福田」交差点で針路変更後、集落西最奥にある住宅までは直進、その横をかすめて進めば自ずと登城道でもある墓参道に合流する事が出来る。住宅地背後からはそのまま道に任せて上り、集合墓地に到達後は尾根上を北進すれば、主郭までは10分程度で難なく辿り着く事が出来る。(車は交差点直ぐ西側の小川の流れる側道付近に空きスペースあり)

現状(六月)城跡はこの時期にも関わらず雑木密生状態までには至っておらず、それなりに動き回れる事を考えれば比較的ましな状態と言えるかも知れない。ただ低い下草は登城道から墓地を過ぎれば、南郭群から主郭にかけては地表も見えないほど蔓延っているので、細部における地表の変化から遺構を判別するのは非常に困難な状況にはある。それでも埋もれて判別し難い二連に見える堀切跡(縦堀は明確に判別可能)は判別可能でもあり、主郭の南壁を巡る土塁と共に城跡唯一の見所となっている。主郭より北側には細い土塁道が櫓台とも言える北出郭の大土塁(推察)に向いて繋がっている様だが、視認による外見からの確認だけで、密生する雑木藪の為に出郭内部まで踏み入る事は非常に困難でもあり、踏破して広さ(土塁上から見れば相当広く見えた)などを体感する事は叶わなかった。

1route 登城ルート

5 進入口

3fu 城跡概念図

17_horikiri_tatehori_3 南側堀切跡

17_horikiri_tatehori 縦堀

19_shukaku_minamigawa_dorui 主郭の土塁見所

22_fukukaku_1 副郭内

28_kita_kaku 北郭

29_kita_shukaku_heki 主郭北切岸

城跡の規模は小さいが明確に判別出来る土塁、直立に近く削られた主郭の切岸、縄張り変化には富んでいないが、住宅地が城跡直ぐ傍まで迫りながらもこれだけの遺構残存度、以上の点を踏まえれば見学する分には充分なものでもあり、10分足らずで主郭まで到達出来るお手軽さを加味すれば、自ずとお薦め出来る城跡と言う事になろうか、、、400年前後に渡って厳しい風雪を凌いで来た、主郭南半分を巡る土塁は一見の価値のあるものとみた!

2009年6月26日 (金)

森津城跡(兵庫県豊岡市)

この城跡は先日のブログで現地訪問後に詳細をお伝えした様に、先にリポート掲載に及んだ森津城は規模が小さく本来の城跡(本城)は、谷を挟んだ直ぐ東尾根の山上に位置している事が判明した。掲載する上においては前回訪問した規模の小さい城跡を森津西城として、今回訪れた此方が本来の森津城としてリポート掲載に及ぶ運びとなった。どちらにしても二城一体とした形態が森津城でもあり、これから訪問する方には是非二城を同日訪問として訪れるのが効率も良く見て回れそうに思われる。西城より更に西側に隣接する呼称不明の城跡(海老手城と誤認した)も森津三城(城塞群)として考えれば、自ずと規模が大きい事からも屋敷跡あるいは居館であったとも考えられるが、個人的推察の域は出ないものである。城史に関しての情報は現状一切不明である。

城跡は豊岡市森津にあって前回リポート掲載に及んだ西城を起点にすれば、そこから東に見える先端尾根上が城跡でもあり、直ぐに確認することは出来る。当然登山道などは無いので、概念図に示す某建設会社の手前側にある住宅地横の畑地に向う山道(写真に示した)から背後に回り、そのまま直登する形で斜面を上る事になるが、直登口付近で多少の藪漕ぎが必要とされるだけで、15分もあれば山上南堀切までは容易に辿り着く事が出来る筈である。

1route_2 登城ルート

6 城跡遠望

7_tozanguti 進入口

3_1 城跡概念図

現状(六月)城跡は当然の如く藪化進行中にあるが、高低差の少ないほぼ二郭で形成される山城である為に縄張もシンプルであり、この時期でも難渋する事も無く移動出来るので、現存する遺構はほぼ判別確認出来る状態にはある。郭内の全体像などは生い茂る雑木の為に外見から判断する事は出来ないが、郭に設けられた土塁などは確認可能でもある。城跡最大の見所は山上郭の南北尾根を断つ大堀切(薬研堀)で、直立に近く切り立つ堀切壁は状態も良く、高低差もある事から存在感あるいは見応えも抜群なものがあり、他に遺構として目を引くものがある訳でもない事を思えば、この二本の堀切見学がこの山城の全てと言っても過言ではない様にも感じられた。全長100m前後、幅の狭い痩せ尾根上を削平して目一杯築かれたこの山城は、西城よりは当然規模では勝るが、砦規模でもあり個人的には城跡としての醍醐味を感じるまでには至れなかった、しかしこの状態の良い二本の堀切だけは、一度覗いて見ても決して期待を裏切られる事は無いような気はするのである。先にリポート掲載に及んだ海老手城あるいは森津西城との同日訪問においては、充分満足感の味わえる有意義な山城巡りになるのではないだろうか。 

15_fukukaku_heki_1 南副郭堀切壁

17_minami_horikiri_1 18_horikiri 南大堀切見所

21_fuku_dorui_2 副郭土塁

21_fuku_yori_shukaku 副郭より主郭

25_shukaku_kita_dorui 主郭北側土塁見所

28_kita_horikiri_5 北大堀切見所

尚、既にリポート掲載を終えた森津西城は今回訪れた森津城とも重なり紛らわしい事からも、一旦記事は削除して森津城の出城(西城)として今回こちら側に同時掲載しました。一応概念図は掲載しておきましたので参考までに、、。

Nisi 森津西城概念図と前回記事

3_1_2 海老手城と誤認した城跡概念図

2009年6月24日 (水)

海老手城跡(兵庫県豊岡市)

6/21のブログで詳細をお伝えした様に、最初にリポート掲載した海老手城跡は本来の城跡ではない(誤認)事が判明しました、今回は確かな現地情報を元に前回のリベンジをするべく実際の海老手城跡を訪問しました。結果的には予想を上回る規模、状態としては相当藪化進行中にはあるが、手付かずの為にほぼ完存とも言える遺構群の残存度の高さには素晴らしいものがあり山城としての醍醐味あるいは見応えもかなりレベルの高いものと目に映ったので、是非お薦め出来る山城として現況をリポートさせて頂きました。

1route 登城ルート

8 城跡進入口

(本文) 城跡は豊岡市滝にあって、鶴城の支城として栗坂氏の居城が伝わるが、丹後に居城を持つ垣屋氏によって攻略されている模様である。前回誤認した城跡からは水田地帯及び国道178号を隔てて、ほぼ南対岸側の低山山上に位置している。城跡へは豊岡市内より国道178号で福田西の信号を越えれば「豊岡市清掃センター」を目印として向えばよいが、途中で崖が崩れており一般車両は通行不可となっているので、車はその手前に路駐、後は歩いてルート図の如く清掃センターを目指せばよい。ゲートまで到達すれば概念図あるいは写真に示すルートで直登口まで向かい、そこから斜面に向いて取り付けば10分程度で主郭までは辿り着く事が出来る。ただし個人的には平日に訪れた事もあって、ゲートが開いていたので難なく直登口までは行けたが、祝日あるいは土、日にゲート(車両用)が開いている確証は無いので、事前に確認した方が良いかもしれない、ただ人は脇からでも通り抜け出来た様には思えたがこれも確証はない。この城跡へ上るには北側からは橋が全く無いので、ここ以外から直登口まで辿り着くことはほぼ無理な様にも思われる。

現状(六月)城跡は前述の様に相当藪化進行中にあるが、この時期においても縄張り内の移動、あるいは遺構見学がし難い状態までには至っておらず、縄張りも掴み易く残存度の高い遺構群はほぼ判別確認が出来る状況にはある。自作概念図に示したまでが自身で見て回れた範囲であり、確認に及んだ遺構であるが、郭周囲の急斜面は密生する雑木藪地でもあり、外見からの縦堀の判別は非常に困難(但馬地方の山城には畝状縦堀が多く見受けられるが、、)、よって当然備わっていると思われる縦堀の確認までには至れなかった。城跡最大の見所は西尾根を断つ大堀切(薬研堀)が真っ先に挙げられるが、この遺構は主郭からの高低差が20m近くもあり、相当な醍醐味と見応えを感じる事が出来る、他では便宜上の三の丸及び二の丸の土塁、東斜面に連なる段郭群、堀切、郭壁における石垣痕などは挙げられるが、北側は崖状急斜面あるいは天然の水堀(大浜川)とし、山容(地形)も縄張りとして取り込んで築かれた様は、正しく戦国期における山城の様相ではある。現状植林地でもなく、人の手の入らない山城として考えれば、400年余りの自然風化の割には非常に良い状態にあるとも言え、これだけでも貴重な城跡とも言えよう。これだけの遺構が残存しているのであれば、個人所有とも見受けられる城山に対しては少し失礼かも知れないが、是非市に訴えかけて指定史跡として後世まで遺して頂きたいと願うばかりである。

3eb 城跡概念図

12_3maru_dorui 三の丸土塁見所

13_3maru_nai_1 三の丸の現状

19_2maru_dorui_heki 二の丸土塁壁

22_shukaku_naka_dan 主郭内

27_dai_horikiri_4 西大堀切見所

37_horikiri_2 東郭堀切見所

40_isigaki_ato 東郭壁石垣痕

尚、最初の訪問により海老手城と誤認した方の城跡(明確な堀切、郭跡と土塁が残存)は、城史に関しての情報も現状皆無である事からも未だ呼称が判明していないが、仲良く三城が並ぶ様相はとても向城(付け城)とは考えられず、規模も比較的大きいものでもあり、森津三城(城塞群)の中の一つとすれば充分納得の行く城跡なのかもしれない。

2009年6月21日 (日)

TAKUよりお知らせ

先月「城跡呼称に関して訂正」の必要があると掲載しました、兵庫県豊岡市にある海老手城並びに森津城が、今回の現地訪問によって本来の城跡の場所の確定、及びその実態まで明らかになりましたのでお知らせしたいと思います。

まず海老手城跡の方は前回現地情報より推察お知らせした通りに、最初に海老手城と紹介した城跡より南側の国道及び川を隔てた対岸の低山に位置している事が判明しました。とすれば最初にリポート掲載に及んだ城跡の呼称は、、?と言う事になりますが、この地域には城跡(砦)が密集しているといった現地情報からも、未だ呼称の特定までには至っておりません。もちろん付近住民の方数人に訪ねても存在すら知られていない状況でもあり、当然出版物あるいは資料にも登場していない無名の城跡とも見受けられ、これから先も城跡としての呼称の特定は期待出来そうにないのが現実でもあります。ただ深く但馬史あるいは郷土史に関わっておられる方であれば、明確に判別可能な土塁あるいは堀切が残存している事からも、案外知っておられる可能性はあるとは思えますが、、。

取り合えずこの城跡に関してのリポートは、現在編集中の本来の海老手城とも紛らわしくなって来るので一旦削除したいと思いますが、城跡概念図の方はこれから山城巡りの一環として訪れる方もおられるかも知れず、森津城に隣接している事からも登城ルートと共に、引き続き呼称判明までは森津城と同時掲載をし続けるつもりでおります。もちろん呼称が判明次第報告はしたいと思っておりますが、お薦め出来るほどの見応えのある遺構が残っている訳でもなく、余り深く追求する必要は無いのかも分かりません、、、

一方森津城跡の方は最初にリポート掲載をした城跡の谷を隔てた直ぐ東側の山上に本来の森津城(今回のケースでは便宜上本来の、、と呼ばせて頂きました)があることが判明しました。此方の城跡は一部の城跡に詳しい方の話によれば「どちらも森津城であり別に城跡を分けて考える必要もなく、二城一体とした形態であるなら規模の小さい方が出城かも知れない」と言った見解でもあり、取り合えず既に紹介した規模の小さい森津城は掲載する分には紛らわしいので、差別化する意味合いで森津西城と訂正し直して、新しくリポート掲載に及ぶ森津城跡の中にそのまま掲載する形にしたいと思います。どちらの城跡も現況リポートに関しては現在編集中でもあり、近日中に掲載に及びたいと思っております。

尚、開設以来ほぼ毎日更新を続けて来ましたブログですが、流石にここに来てプライベートも含んだ諸事情により、毎日の更新が困難となりました。訪問はしたものの掲載が追いつかず未掲載のままになっている近畿圏外の山城もまだ数多く残しており、これから毎日の更新が困難ともなれば、当然リポートとしての鮮度も落ちる事にも繋がるので、これから先も日の目を見ることも無く終わってしまいそうかと思うと少し残念な気はします、しかし拠点に近い京都府、大阪府、兵庫県の中に限っては、訪れた山城はほぼリポート掲載に及ぶ事が出来ましたので非常に満足はしております。

これからのブログ掲載は不定期になるものと予想されますが、数十年来続けて来たライフワークとしての山城巡りの回数が極端に減る訳ではありませんので、時間の許す限り編集しながら情報鮮度が落ちない程度に城跡リポートは発信して行くつもりでおります。ブログ更新回数は減るとは思われますが、これまで同様山城訪問におけるアシストとして「山城賛歌」を活用して頂ければ、自分にとってもこれ以上の喜びは無いものと思えます。

2009年6月20日 (土)

広瀬城跡(京都府南丹市)

この城跡は南丹市八木町北広瀬にあって、国道9号より八木町に入れば八木交差点より477号へ針路変更、その後は桂川を渡れば直ぐ川沿いに左折し、目印となる「阿弥陀寺」あるいは隣接する「岡神社」を目指せばよい、直登取り付き地点は概念図の如く神社すぐ背後にある墓参道からで、道が途切れてもそのまま山上を目指して上れば、山上主郭までは10分内で藪漕ぎもなく辿り着く事が出来る。

この山城を訪問するきっかけとなったのは、昨年の刑部城跡訪問の際に西に聳えるなだらかな山容を持つ低山が、刑部城跡と同様に城山の風情を充分過ぎるぐらいに醸し出していた事からも、何時か機会があれば踏破探索してみようと思っていた事によるもので、今回はたまたま付近を通過した事も重なり、事前から描いていた南北二通りの直登想定ルートの中、南側に位置する岡神社側より直登を敢行した。(ちなみに北側先端に下山したが、この逆ルートでも分かり易く上れる)

結果的には昨年推察した通りに、山上には古い形態を持つ明らかに山城跡と呼べる遺構群北側に繋がる尾根上には数100mにも及ぶ郭群(削平地)、何れも地表風化によって埋もれて判別し難い状態にはあるが、堀切あるいは土塁などを伴って北尾根先端にまで縄張りは展開されていた。山上に向うまでには僅かな期待はあったが、これほどまでとは思っていなかったせいもあり、久し振りに味わう嬉しい大誤算にテンションの上がる訪城と相成った。しかし、これだけの城跡遺構がありながら手元に所有する資料の中からは城跡呼称を見出す事が出来ず、今回は是非山城ファンの方達に存在を知って頂く為に仮名としてリポート掲載に及ぶ運びとなった。当然既に訪問されて遺構の確認あるいは城跡呼称の確認まで行なわれた方も居られるかも分からないが、間違いなく城跡と断定出来る遺構群と見受けられたので、今回はまだ未訪の方の為に迷わず現況(六月)リポートさせて頂いた。

1route 登城ルート

8 進入口

3h 城跡概念図

現状、山上郭群においては長年の地表風化によるものか、最初から安普請で築かれたものかは判断出来かねるが相当地形は曖昧でもあり、部分的に切岸などは窺えるが高低差を伴う切岸は皆無、周囲はなだらかな斜面とあって当然縦堀なども設けられておらず、明確に判別出来る遺構も限られてくる状況にはある。それでも山上における僅かな土塁跡、あるいは他に類を見ない形態とも見受けられる土塁壇での本郭構成など、非常に見学者にとっては想像を掻き立てられて、推察も含めて楽しく見て回れる城跡と目には映った。連続する起伏の少ない北尾根上には、相当埋もれてはいるが堀切(空堀)跡や土塁壇なども目に留まり、連続する削平地を通過して先端部には城中最大とも見受けられる北出郭があり、相当距離を歩く事にはなるが充分目は楽しませてくれる様には感じられた。

個人的には今回(過去)の様に城跡として資料にあらずとも、外見から城山と感じれば直ぐに踏破探索してみたくなる性分でもあり、城跡呼称に関しては暫定あるいは仮名として既に掲載を終えた、京都府内に限れば桐村城、千手寺城、川北城などは今もって呼称確定にまでは漕ぎ着けていない現状なのだが、この山城も自ずとその中の一つに加えられそうな気もしてくる、、、。自身で歩き回った末、作成した概念図(当然正確ではない)に少しでも興味を持たれた方のみが対象となる山城かも知れないが、現状藪漕ぎ見学までには至っておらず、付近を通過したついでに寄る程度ならば見応えは少ないかも知れないが、縄張りを縦走して体感した見返りは決して少なくはないと感じられるのである。

13_minami_doruikaku_1 山上南土塁壇見所

15_doruidan 北土塁壇

16_dorui_ato 僅かな土塁跡

21_doruidan_kuboti 本郭群窪地

38_horikiri_dobasi 北郭群へ堀切土橋見所

41kitakaku_gun_horikiri_ato 僅かに残る堀切跡

44_kitademaru 北出丸

2009年6月19日 (金)

吉末城跡(広島県東広島市)

城跡は広島県東広島市豊栄町安宿にあって、椋梨川に沿う形で走る国道486号からは「吉末城跡」と掲げられた大きな看板が目に留まるので、場所及び位置は直ぐ確認する事は出来る。個人的にも国道を移動中に偶然この大きな看板が目に入り思わず立ち寄ったものでもあり、僅かな期待を胸に秘めての訪問となった。当然城跡に関しての詳細は不明ではあるが、城跡の規模あるいは地理的環境から推察しても、村の城あるいは物見の域は出ず、当時この一帯は毛利氏あるいは小早川氏の支配する所でもあり、自ずとその傘下の武将あるいは家臣の城であった可能性は高いと見受けられる。

城跡へは前述の様に国道486号を走ってさえいれば、川沿いの低山麓に掲げられた大きな看板は直ぐ目に留まる筈であり、ルート図の如く椋梨川を渡ればどこから取り付いても山上主郭までは5分内で到達出来る。個人的には写真に示す川沿いから看板の見える山道より山上を目指したが、途中からは雑木藪地となったのでそのまま藪漕ぎで山上まで上る羽目になった。主郭に佇んでも麓まで通じる山道は見当たらなかったのだが、下山時に下り立った付近にある東側の畑地を通過して上った方が、未訪の方には分かり易く無難かも知れない、、、。

現状(四月)城跡は植林地なのであるが、下草や草木が相当蔓延っているので非常に歩き辛く見学し難い状態にあり、場所によっては密生する草木あるいは伐採された木々の放置によって地表も見えず踏み入る事も出来ないので、郭形状あるいは郭内の地形は当然掴めない状況でもある。規模の小さな城跡なので推察でも充分事足りるかもしれないが、削平地、土塁跡、切岸などは部分的にしっかりと残っており、大きな看板が目ざとく設置されている史跡として考えれば、この状態では随分勿体無い気もする。当然自分の様に看板を見て訪れる見学者も多数いる様には思われるが、現状を見る限り少し落胆は隠せないのが現実でもある。次の予定地までの移動中でもあり、急いで見て回った為に正確な城跡概念図は描けなかったが、図中に示したまでが目に留まった遺構であり今回歩き回れた範囲でもある。訪れた時期がまずかったと言えなくも無いが、個人所有の城山と察せられる事からも、これ以上多くは望めないような気もするのである。今回の様に国道移動中に少し立ち寄る程度の訪問なら、納得した訪城になるとは思えるが、、、。

1 登城ルート

3tozanguti_2 城跡遠望

3x 城跡概念図

15_fumoto_3 城跡東側

10_shukaku_nai 主郭内の現状

8_shukaku_heki 主郭切岸

7_minami_gedan_1 主郭南下段郭

10_obi 東帯郭

15_fumoto 現状休耕地 郭跡か?

2009年6月18日 (木)

石山城跡(福井県大飯郡)

城跡は福井県大飯郡おおい町石山にあって、当時は若狭武田氏(後瀬山城主)の重臣でもあった武藤氏の居城と伝わっているが詳細は不明。

城跡へは舞鶴若狭自動車道「大飯高浜」ICが最寄の乗降口であるが、綾部市内からは県道1号を利用すれば道路も相当空いており、遠回りでもある自動車道とは時間に大差なく到達出来るものとは思える。現地に於いては当然登山道は無いものと思われるが、舞鶴若狭自動車道と県道1号の川を隔てた側道の交わる付近が今回の直登取り付き地点とした場所であり、ルート図あるいは概念図の如く、集合墓地横から背後に回り竹林地からそのまま山上を目指せば、急斜面ではあるが僅かな踏み跡も窺えるので、15分もあれば迷わず便宜上の三の丸までは辿り着く事が出来る。

今回は現地に向う途中から小雨が降り出した事もあり当然の如く斜面は滑りやすく、非常に悪条件下での厳しい登山になったが、山上主郭までの距離は長くはないので、何とか山上までは無事に辿り着く事が出来た。結果的には現状の安全面を考えて堀切があると推察出来た南急斜面、あるいは地形上からも縄張りと察せられる南西尾根までは踏破は出来なかったが、山上郭群における比較的状態の良い明確な遺構の数々を眼にする事は出来た。現状(六月)城跡は藪化進行中にはあるが充分遺構は判別確認出来る状態にあり、案外小雨の中でも快適に見て回れた事を考えれば、意外に四季を問わず訪問可能なのではないかとも見て取れた。山上郭群としての形態は規模の小さい主郭を最高所として、北東側尾根に沿って郭を段郭的に展開したもので、規模もさほど大きいものでは無く、郭高低差も余り無い事からも見応えには少し欠けるように思われたが、急峻な地形、遺構残存度の高さ、部分的に備わる縦土塁自然岩を利用した郭壁、主郭に備わる土塁など山城の醍醐味は充分感じられるものでもあり、縄張り妙味さえ問わなければ充分お薦め出来る山城の様には感じられた。

1a 登城ルート

7_tyokuto_kuti 進入口

3i 城跡概念図

15_3maru_1 三の丸

18_higasi_kaku_gun 北東段郭群

22_higasi_hasi_kaku 北東先端郭

30_2maru_2 二の丸

31_shukaku_ooiwa_heki_2 主郭大岩壁見所

34_shukaku_dorui 主郭内

33_dorui 主郭土塁見所

今回の訪問は悪条件下でもあり、事前に計画していた縄張りと推察出来る範囲の全てを踏破したわけではないので、当然遺構も縄張りも概念図に示した限りが全てではないと思われるが、これから訪問される方には、是非自分が踏破出来なかった箇所も踏破して頂いて、この山城の持つ本来の縄張りを極めて頂きたいと思うのが本音でもある。もちろん山上郭群以外の遺構(個人的には公的に作成された縄張り図は出来るだけ所有せず、尚且つ見ない様にしているので、実際の縄張り図が存在していたとしても分からないのが現状)に関しては推察の域は出ないのではあるが、、、。

2009年6月17日 (水)

大谷山崎城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市関宮町大谷にあって、大谷集落より国道及び八木川を隔てた南対岸の低山山上に位置している。養父市内の八鹿地区から関宮地区あるいは大屋地区にかけては数多くの山城(砦跡)が点在しており、当然その中の一つに含まれるであろうこの山城も、ほぼ無名に近い事からも城史に関しての詳細は全く不明であるが、山上には小規模ではあるが比較的良い状態のままの城跡遺構が残存しており、是非とは言わないが関宮地区の山城巡りの際には、リスペクトして頂きたい城跡としてリポート掲載に及んだ。

城跡へは先にリポート掲載に及んだ尾崎天王山城と同様に国道9号(山陰道)より向えばよい、国道を大谷集落まで走ればルート図の如く南側へ左折、渓流展望所でもあり駐車場となる休憩所は橋を渡って直ぐ左手にある。ここを拠点として登山開始となるが、後はほぼ概念図通りに西側山道にある獣避けフェンスを開閉して、数10m歩いた後に沢を渡り斜面に取り付けばよい、直登斜面は植林地でもあり藪漕ぎの必要は無いので意外に急斜面も苦にはならない、なるべく左手側へ少し斜行しながら直登すれば15分もあれば縦堀の備わる北郭群に辿り着く事が出来る。(主郭までは約20分) 参考までに下山ルートも示したが、フェンス開閉口が何箇所もある訳ではないので急斜面を下りる際には必ず概念図付近に下り立つ事が大事となる。尚、逆にこの場所から取り付いても尾根に沿って上れば山上主郭までは到達出来る。

3_1 登城ルート

5_inrijinjya_yori 城跡遠望

3 城跡概念図

14_gedan2_tatehori 北郭群縦堀見所

16_kita_gadan1_1 北郭下段

21_horikiri_1 堀切見所

23_horikiri_ato 埋もれた堀切跡

28_minami_horikiri 南堀切

25_shukaku_1 主郭内

現状(6月)城跡はこの時期にあっても藪化はしておらず、見学し易く比較的見て回りやすい状態にあり、縄張りを把握する事も遺構の判別確認をする事も容易に出来る状況でもある。城跡の見所は堀切(縦堀)群であり、風化によって埋もれた箇所も含めて合計5本の堀切を眼にすることが出来た。形態としては主郭を最高所として北側尾根上に郭がほぼ直線的に展開されるだけで、縄張り変化には富んでおらず小規模な事からも見応えがあるとは言い難いが、この状態の良さ、あるいは遺構残存度の高さを加味すれば、充分満足の行くレベルにある山城の様には感じられた。個人的にはこの城跡から西へ数分の距離にある尾崎天王山城とは同日訪問となったが、山城としての醍醐味は断然此方が勝っている様に思われた。

尚、この地区にはルート図1route_2 に示した様に、休憩所から東へ向いて直ぐの距離にタイコ山古墳の墳丘を利用して築かれた和土城があるが、興味のある方は寄っても無駄足にはならないとは思える。ただ発掘作業の結果をリサーチしていないので分からないが、遺構と呼べるものは堀切道(現状集合墓地への参拝道)だけの様にも見受けられた、現状を見る限りでは砦跡としての風情を感じる程度の城跡と思って頂ければ良いのかも、、。

2009年6月16日 (火)

尾崎天王山城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市関宮町尾崎にあって、尾崎集落より真東側の国道9号線に向いて突き出した尾根先端部に位置している。ほぼ無名に近い山城ではあるが石垣が残存しているとの情報だけを頼りに、地形図でおよその目星だけ付けて訪問する運びとなった。藪漕ぎしながら上った結果、ほぼ単郭構造ではあるが国道側の郭壁に石塁を伴った山城に巡りあう事が出来た。当然城史に関しての詳細は不明

城跡へはどの様な道を経由しても、養父市内より国道9号さえ走っておれば容易く尾崎地区には辿り着ける、現地近くまで来れば国道沿いにある「中村自動車整備」を目印としてルート図あるいは概念図の如く進行し、城跡進入口でもある尾崎浄水場施設を目指せばよい。施設付近には駐車スペースは充分あるので、そこから尾根先端に向えば難なく主郭までは辿り着く事は出来る。個人的にはこのルートは下山時に利用したが、国道沿いからの最短距離を選んで直登したお陰で、凄まじいばかりの藪漕ぎを強いられる結果となってしまった。まだ未訪の方には下山時に利用した前者のルートを迷わず選択して赴かれる事をお薦めしたい(それでも時期的に多少の藪漕ぎは仕方が無いが、、)。

現状(6月)城跡は自然任せの風化真っ只中にあり、人の手は入らず荒れ放題と化しており、一部は地表も見えないほどの下草や矢竹、笹に覆われているが、シンプルな構造ともあって縄張りはある程度掴みやすい状態にはある。当時のものと見受けられる石塁は高さは無い(1m程度)が、国道側の外壁をほぼ巡っている形で残存しており、藪漕ぎしながら登って来た甲斐はあったと一人納得をするのである。石垣跡は大小の瓦礫を適当に積み上げたかの様でもあり、お世辞にも素晴らしい見応えのある石積みとは言えないが、往時(突貫工事で築かれたか?)を物語る遺構としては素晴らしいものと目には映った。他では相当埋もれてはいるが空堀跡、あるいは石垣は崩落しているが虎口構造に見えた地形などは当時の残存遺構としてよいのかも知れない。自作概念図に示したまでが現状歩き回れた範囲であり、自分の目に留まった遺構であるが、南東側斜面までは覆い尽くされる矢竹に阻まれてとても探索する気にはなれなかった。当然残存遺構もこの限りではないものとは思われるのだが、この区域は外見からの視認は非常に困難でもあり、推察すら出来ないのが現実なのである。

1route 登城ルート

7 進入口

3te 城跡概念図

12_sekirui 12_sekirui_4 12_sekirui_5 石塁見所

14_karahori_dorui_1 空堀跡見所

16_higasi_isigaki 虎口付近の石垣跡

13_shukaku_1 主郭内

20_koguti_dorui_1 北虎口土塁

この城跡は残存石垣を見たいだけの為に訪れるのであれば、充分納得の行く訪城となる様には思われるが、他の遺構あるいは縄張り妙味などを期待すれば自ずと落胆する事にもなりかねない気がする(大味過ぎる!)。個人的には数100年の歴史を刻んだ石垣がそこにあるだけで充分満足感は得られたが、現状を踏まえれば石垣跡に興味のある方だけに是非お薦め出来る物件と言わざるを得ない。

2009年6月14日 (日)

仏清城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町畑山にあって亀ヶ城を居城とした太田氏一族の一人でもある羽尻左馬助の居城と伝わっており、亀ヶ城の東を抑える東出城(支城)と呼べるものでもある。

城跡へは西に位置する岩吹城あるいは亀ヶ城を起点すれば分かり易く、そこから更に東進し国道482号沿いにある「下畑山」バス停を目印として向かう。バス停手前の橋を左折して渡れば直ぐ右手にプレハブ作業小屋が数棟見えてくるが、その間から今回直登山口とする稲荷神社に向けては参拝登山道が通じているので、迷わず社殿までは到達出来る。社殿手前からはどこからでも取り付きやすい場所を探して、東に向いて緩い斜面を直登すれば山上郭群には難なく辿り着く事が出来る。(橋付近からの所要時間は20分程度)

現状(五月)城跡は全域にかけて植林地となっている為に見通しも良く、ある程度全体像が視認出来るので縄張りなどは把握し易いが、地表はほぼ低い熊笹で覆われている為に、細部における地形の変化(土塁)までは視認し辛い状態にある。ただ城跡最大の見所でもある凄い高低差を誇る大堀切は非常に状態が良いもので、幅もあり相当な見応え感じる事が出来る。城跡の形態としては東西200~300mに渡る山上に、ほぼ三郭で形成されたものであるが、主郭の規模の大きさからしても支城として充分相応しいものと言えそうである。縄張り変化には富んでおらず、見る分には非常に大味な気がしないでもないが、他の但東地区にある小規模な山城からすれば随分醍醐味は感じられた。

1route 登城ルート

3a 亀ヶ城パンフより抜粋記事

3bu 城跡概念図

12 直登口

17_2maru 二の丸

19_karabori_kaku 空堀状の小郭

22_shukaku 主郭内

25_shukaku_kita_1 主郭北側

27_horikiri 29_horikiri_heki_1 大堀切見所

概念図に示した部分が遺構として現状確認出来たものであり、一面を覆う熊笹の為に土塁あるいは埋もれた空堀などの様に、細部における地形変化から遺構の判別確認は非常に難しいのが現実でもある。尚、南北斜面上も笹に覆われている事から踏破はしておらず、残存遺構(空堀など)はこの限りではないのかもしれないが、、、。個人的には本城あるいは岩吹城とセットで同日訪問とすれば、充分充実した山城巡りが出来るのではないかとは思えた。

2009年6月13日 (土)

岩吹城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町木村にあって、既にリポート掲載済でもある「亀ヶ城」の支城でもあり、太田氏一族の居城と伝わっているが、今回は本城から見れば西の抑えとしたこの山城へは年を改めての訪問となった。あの素晴らしい本城から察すれば相当遺構にも縄張り妙味にも期待が持てそうには思われたが、結論から先に述べれば、本城が凄過ぎる為に当然全てに於いて見劣りはするものの、残存遺構としての堀切、連続縦堀、櫓台大土塁、鋭角に削られた郭切岸と縄張り妙味もさることながら、歩き回っても次から次へと目を楽しませてくれる山城であり、藪化は進行中にあるがこの時期(五月)でも存分に歩き回れることが出来る状態でもあり、是非お薦め出来る城跡としてリポート掲載に及んだ。

城跡へは本城でもある亀ヶ城訪問コース(但東町へ京阪神から向うルート)国道426号を経由して「出合」交差点は右折、そのまま国道482号を走れば木村集落手前の道路沿いに目印となる「メモリアルホールおのえ」の看板を確認、後は図に示した様に看板先の墓参道より墓地を経由したルートで、多少踏み跡の残る急斜面を巨大岩壁を右手に見ながら斜行して登れば、10分程度で南側斜面に備わる堀切までは到達可能である。

1route1_2 登城ルート

6 城跡進入口

3i 城跡概念図

現状、城跡はこの時期にしてみれば非常に見学し易い状態にあり、概念図に示した遺構群はほぼ判別確認出来る状態でもある。ただ連続縦堀(畝状に見える)にも見えそうな空堀(三条)は緩い斜面上に設けられている事からも相当埋もれており、じっくり全体像を眺めなければ中々判別は難しそうには思える(当然見学者の判断に委ねられる)。見所としては先に述べた堀切(空堀を含めた)群、西郭の防備として設けられた大土塁、南郭の櫓台大土塁は真っ先に挙げられるが、主郭北斜面を数10mほど下りた辺りに展開される、土塁虎口あるいは切岸処理を伴う広大な郭跡(便宜上北出郭とした)も見逃してはならない遺構群と思えた。この郭跡には古来より神社が建立されていたと聞いたが、見る限り雑木に覆われた地表は荒れ放題でもあり、その面影は全く感じる事が出来ず、恐らく当時の広大な郭跡を後世に神社敷地として転用したものとして解釈しても良いのかもしれない。

12_horikiri 南堀切見所

15_minami_kaku_1 南郭、奥大土塁見所

23_shukaku_1 主郭内

26_nisikaku_daidorui 西郭の大土塁見所

30_demaru_horikiri 西堀切見所

31_daikarabori 西出郭の大空堀見所

32_une_1 連続縦堀見所

35_kitakaku_dorui_koguti 北出郭土塁虎口見所

今回は、山城としての魅力の全てを備えた亀ヶ城が今でも脳裏に焼き付いている事からも、支城としての機能を持つこの山城には出来るだけ先入観を持たずに訪問したが、予想を上回る縄張り妙味、期待した以上の遺構の醍醐味にも触れる事が出来、個人的には充分過ぎるほどの満足感を得る事が出来た。

2009年6月10日 (水)

田矢伊予守城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市阿山町川合にあって引接寺の直ぐ西背後の低山山上に位置している、城跡への道順としては西名阪道「壬生野」ICが最寄の乗降口、ICを降りればルート図の如く県道49号を経由して引接寺を目指せばよい。後は概念図に示される山道から城跡に向いて上れば直ぐ主郭には到達出来るが、現状倒竹などで行く手は遮られるのでいきなり竹薮から直登した方が早いとは思われる。2x_1 田矢氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡は個人的には夏季(7月)、冬季(2月)における二回の訪問となったが、いずれも生い茂る雑木あるいは密生する竹林の為に移動も困難、更に視認にも支障を来たす状態となっており、挙句の果てには昼間でも薄暗い中での遺構撮影はほとんどピンボケ状態に終わってしまった。縄張り図を所有していないのでどこまで踏破したものか見当も付かないが、自作概念図に示される城跡遺構は二度に渡る訪問の結果自身の目で踏破確認する事が出来たものである。ほぼ南北に渡り踏破したものとも思えるが、西側は移動にも困難を来たす状況でもあり今回もまた踏破を断念する結果に終わってしまった。二度の訪城で感じられたのは本郭(二郭)の規模も大きいが、堀切を挟んだ北側及び南側に連なる出郭が存在する事からも相当城域の広い山城(案内板には南北に350mと記載)であると言う事である。

見所は主郭を形成する分厚い大土塁と言う事になるが土塁内壁が大石垣で覆われた様は中々見応えが感じられる、一部虎口付近に大石垣が露出しているだけではあるが恐らく当時土塁内壁は全て石垣で覆われていたとも推察される。現状主郭及び副郭共に竹林地である為に堆積物及び長年の風化によって相当荒れ放題と化してはいるが、ある程度広さは体感する事が出来る状態にあるのでこの薄暗い条件下を考えれば良しとしなければいけないだろう。尚、主郭北にある大堀切を挟んだ北側には状態の良い土塁で形成された出郭が存在するので決して見逃してはならない、南出郭に関しては小規模な段郭群で形成されているので、現状の冬季においても凄まじい藪を考えれば敢えて見学には及ばないものとは思われる。

個人所有の城山とも見受けられるこの城跡はこれから先良いほうに状態が改善されるとはとても思えず、個人的にも三度目の訪問は無さそうにも思えてくるのである。

1route_1 登城ルート

Nawa 城跡概念図

13_tozanguti 進入口

13_dorui12_minamikaku_1 南出郭

18_shukakunai_ooisi_3 18_shukakunai_ooisi_4 主郭土塁内壁の石垣跡見所

21_daihorikiri 北大堀切見所

25_demaru_dorui_2 北出郭土塁見所

2009年6月 7日 (日)

下鉢山城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市下鉢山にあって、先にリポート掲載済でもある上鉢山城からみれば真北側に単独で聳える低山の山上に位置している。現在山上には熊野神社が建立されており、神社への参拝道が西側の住宅地から通じているので、ルート図の如く進入口(鳥居が見える路地)さえ確認すれば迷わず山上までは辿り着く事が出来る。この城跡の真北側には三開山城、あるいは真南側に上鉢山城がある事からも、それらの支城あるいは出城とも見受けられるが、推察の域は出ず城史に関しても詳細は不明。

城跡の形態としては主郭と見受けられる社殿敷地から、南側には幅の狭い小郭を交えた南段郭群、北側は主郭帯郭下より規模の大きい郭跡(便宜上、中郭とする)、更にその北側には高低差を以って北郭櫓台とも呼べそうな土塁郭が見て取れる。

現状(五月)中郭から更に北側も密生する雑木竹薮地と化しており、その堆積物などによって地形の変化や細部における遺構の判別は非常に困難を極める状況にあり、概念図における様に北郭より以北及び以西の縄張り、あるいは郭形状などは全体像を視認する事も出来ず、推察を交えたものに終わってしまった。そのお陰で更に北側の尾根上も、西側における郭推定地も未踏に終わってしまったのが、今回の山城巡りの中では非常に残念な結果でもあり、唯一心残りともなってしまった。もちろん冬季訪問としても竹薮が冬枯れするとは思えず、伐採されるとも到底思われないので、南北尾根上の納得の行く探索縦断はこれから先もほぼ無理な話である様には感じられる。縄張りにおいても見応えのある遺構(堀切など)も見当たらず、城跡を確認し体感した程度で終わってしまったが、未踏地も含めれば山上尾根は起伏に富んではいないが、郭群で覆い尽くされている様にも窺われたので、決して砦規模では終わっていない城跡の様には感じられた。

個人的にはお薦めとまでは行かなくとも、ほぼ隣接する三開山城の訪問ついで、あるいは上鉢山城との同日訪問とすれば、何とか充実した山城巡りが可能なのではないだろうか。 

1route 登城ルート 

3si 

城跡概念図

5 南側より城跡遠望

7 参拝道進入口

9_minamikaku1 南郭群

20_minami_dankaku_gun_3 南段郭群の切岸

10_shukaku 主郭内

15_naka_kaku_1 中郭の現状

16_kitakaku_heki 北郭切岸

2009年6月 6日 (土)

上鉢山城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市上鉢山にあって、既にリポート掲載を終えている三開山城から見れば下鉢山城跡を間に挟んで真南側に位置しており、切り通し(堀切道)を挟んで単独で二つ並んだ西側の低山の山上が城跡にあたる。田和豊後守の居城を伝えるが詳細は不明

城跡へは三開山城と同様に国道426号より北上し、加陽城跡の望める「五条大橋東詰」の交差点を右折東進、後はほぼ道任せのルート図通りで城跡進入口となる神社までは難なく辿り着く事が出来る。車は神社に向う手前に公民館があるので、その敷地を借りて停めれば良いのではないかとは思われ、そこから歩いて切り通しに向かい墓参道から墓地を経由して上れば、公民館からは10分もかからず山上東郭までは到達可能である。

現状(五月)城跡は藪化は進行中にあるが、郭移動は容易く、見通しは悪いが遺構の確認に差障る状態までには至っていない、とは言っても特筆に値する見応えのある遺構が存在している訳ではないので、山城としての雰囲気は充分味わう事が出来る範疇にあるとだけ思って頂ければよい。概念図に示した範囲が城跡の縄張りと見受けられるものであるが、郭跡、郭切岸が当時の遺構として確認出来たものである。西出郭に向う移動尾根上にも食い違いの片堀切跡らしきものが窺えたが、判別は非常に難しいのが現状でもある。主郭南側の集合墓地の敷地も本来は縄張りの一部として郭跡に見えなくも無いが、これは見学者の判断に委ねられる。尚、切り通しを挟んで東に位置する社殿のある山上も東出郭として縄張りの一部の様にも窺われたが推察の域は出ないものである。

城跡を評価すれば自分の予想した以上に規模は大きく(主郭の東西は50m以上)、本郭群はほぼ四郭から形成されており、更に西出郭削平地まで城域とすれば、充分砦の域は出ているようには感じられた。田和氏がこの山城でどの様な役を担っていたかは知る術も無いが、後でリポート掲載の予定にある下鉢山城とセットで同日訪問すれば、何とか充実した山城巡りと成り得るのかも知れない。

1route_2 登城ルート

5_1 城跡遠望

3ka 城跡概念図

6tozanguti 進入路

8_kiritoosi 切り通し

12_shukaku_heki 主郭東切岸

14_shukaku_2 主郭内

18_nisi2 西郭

20_horikiri 片堀切か?

2009年6月 5日 (金)

高嶺城跡(山口県山口市)

城跡は山口市上宇野令にあって、山口県庁あるいは山口大神宮の真西側に聳える鴻ノ峰山(標高338m)の山頂に位置している。当時西国に於いては権勢を欲しいままにした大内氏の居城であり、大内氏最後の当主でもある義長が毛利氏の侵攻に備えて築いた規模の大きい山城でもある。当時臨戦中の事でもあり完成までには至らなかったと聞くが、結果的に毛利の前には成す術も無く城を明け渡して西に退去し、やがて大内氏は滅亡の一途を辿る事になる。大内氏「最後の砦」と言った表現がピッタリ当てはまり、悲哀に満ちたロマン漂う山城と言えそうにも思われる。城跡はその後毛利氏によって改修の末に完成されたと伝わっており、おびただしく残る石塁などは大内側からすれば臨戦態勢中でもあり、石垣などは到底築く余裕などは無かったはずとも察せられ、当然毛利氏による普請である様には感じられたが、、、

城跡へは山頂近くの電波施設までは車で上れる(二、三台駐車可)ので、ルート図を参考に木戸神社あるいはメガネの「三城」を目指せば高嶺城登山道でもある車道進入口までは分かり易く到達出来ると思われる。東麓に位置する山口大神宮からも歩きによる登山道はあるらしいが、比高約230mを考えれば城跡見学を目的とするだけなら、当然車で上ったほうが効率は良いだろう。

1route1 登城ルート

Enbou 東より城跡遠望

3x 現地縄張り図

現状(七月)城跡は訪問時期的には恐らく最悪とも見受けられ、延び放題の下草(夏草)で細部に渡る地形の変化などは読み難く、当然残存遺構の判別確認も多少ではあるが難渋する状態にある。しかしながら山上に於いては特筆するべく技巧を持ち合わせた複雑な遺構も見受けられない為に、現状見学に差障るまでの状況までには至っておらず、木々が少ない事からも見通しは良いので、主郭を取り巻く石塁は全て見学出来る状況にはある。郭を分断する堀切(空堀)などは設けられておらず、見所は山上の地形を生かした縄張りプラン、あるいは前述の主郭壁随所に窺われる広い面積で残存している石垣跡と云った処になるとは思われるが、この石垣跡は高低差を伴うものでもあり相当な見応え感じ取る事が出来る。国指定史跡の山城でもあり当然遺構残存度は高く、山口県内でも有数の規模を誇るものでもあり、推奨に値する城跡である事は確かである。

Ninomaru1 二の丸

Shukaku_koguti2 主郭虎口石段見所

Koguti 虎口側石塁

Shukaku 主郭内

Isigaki1 Shukaku_1 Shukaku_heki_isi Shukaku_isigaki 主郭を取り巻く石塁見所

尚、電波施設の東側にも数段にも渡る郭群が現地縄張り図には記載されてあったが、現状此方側は下草も多く、雑木も密生している為にとても見学出来る状況にはなかった。冬季訪問ともなればこの限りではない様には見受けられるのだが、、、

2009年6月 4日 (木)

茶臼山城跡(山口県柳井市)

城跡は山口県柳井市日積小国にあって、毛利と大内の古戦場として地元には伝わっており、大内氏側である重藤因幡守が拠った事から稲羽(イナバ)城と今日に至るまで伝わったのではないかとも察せられるが推察の域は出ない。主郭に相当する社殿の建つ敷地部分は茶臼山古墳の墳丘を利用して築かれたものである。

城跡へは山陽自動車道「玖珂」ICが最寄の乗降口、周防大島町にある吉井城跡と同じ訪問ルートでもある国道437号より南下して向うが、「小国」地区周辺より一般道151号へ針路変更、三叉路突き当たりまで車を走らせれば正面に望める丘陵が城跡であり、確認すればルート図の如く南下して茶臼山古墳の標柱のある道路へと右折針路変更すれば、後は道に任せた林道で社殿(主郭)下までは車で乗り付ける事が出来る(小型車一台駐車可)。

現状(四月)城跡は事前に地元の方に聞き及んだ様に社殿のある主郭以外はほぼ藪化は進行中でもあり、藪漕ぎ移動はないものの生い茂る雑木で視認にはかなり難渋する状態にある。現状遺構として判断出来たものは郭跡を除けば北側の虎口らしき土塁跡、郭切岸のみでもあり概念図に描いた付近までが当時を伝える比較的判断し易い遺構ではないかと察せられる。北側は鬱蒼とした密生する雑木藪と化しておりどこまでが郭境なのかは見当も付かない状況でもあり、南側の林道沿いには木々が密生している中、相当広大な削平地も窺われたが、当時の遺構かどうかの判別は不可能と思える。地形の上からも北側に縄張りは相当延びている様にも察せられたが、低い丘陵地である事からも堀切などの見応えのある遺構には期待が持てず、当時の古戦場の雰囲気だけを味わいながら城跡を後にした。山城ファンには決してお薦め出来る城跡とは言えないが、古戦場としてあるいは史跡として覗いて見たい方には充分見学する価値はあるのではないかとは感じられた。

5 林道進入路

Tt 城跡概念図

8minami_kaku 主郭南側

10_shukaku 山上主郭

11_rin_kaku 主郭輪郭

14_sita_yori_dorui 虎口らしき土塁

16_shukaku_higasi_heki 主郭東切岸

18_kitagawa_kaku_1 北側の郭跡

2009年6月 3日 (水)

福住城跡(奈良県天理市)

城跡は奈良県天理市福住町中定にあって西名阪道「福住」ICからは北側に位置する丘陵上にある、ICを降りれば国道25号よりルート図の如く進行、福住郵便局を過ぎれば派出所手前の細い道路へ右折針路変更、其の後は道沿いにある五大力明王社を目指せば分かり易いが、駐車場からは概念図の如く畦道から進入すれば後は社殿までの遊歩道に合流出来るので5分もあれば主郭まで辿り着く事が出来る。城跡は福住氏の居城と伝わっており現地を見る限りでは居館跡の様相を呈しているものである。

現状(10月)城跡は相当藪化が進行しており下草や低い笹で地表の見えない箇所が多く、広い主郭に至っては東側の一部を除けばほぼ密生する雑木に覆われており、外見から郭跡全体の形状まで把握する事は非常に困難であり、西側の地表も見えない箇所における細部に渡る遺構などの確認も不可能、更に切岸まですっかり覆われた笹によって踏み入るにも困難を来たす状況となっている。それでも城跡自身がコンパクトである為に外見からでもおよその縄張りは把握出来、見所でもある大手虎口への大土塁を伴う空堀道、虎口の大土塁あるいは主郭北背後に深く掘削された堀切などの見応えのある遺構は全て確認する事が出来た。特に主郭虎口周辺における縄張りは絶妙とも言えるもので横矢構造にも見受けられ、更に狭く絞られた虎口は外敵が直接郭を目指しても中々進入出来ない味のある構造となっているのが見て取れる。この虎口は正に一見の価値のあるものと自分の眼には映った。主郭周囲もかつては土塁が巡っていたと見受けられ僅かではあるが高低差を窺う事も出来た。

城跡は恐らく年に一度は伐採が行われているとは思われるが、余りにも訪れるタイミングが悪かったせいか蔓延る雑木や下草のお陰でとても満足のいく見学は出来なかった。しかし残存する遺構群はほぼ当時の状態のまま年月を積み重ねて来たとも見受けられ、土塁壁には土中から石垣痕も窺う事が出来、充分当時に思いを馳せる事も容易であり更に戦国期を物語る史跡としての価値も相当なものとみた。

1_1z 登城ルート

3na 城跡概念図

9 郭へ

28_oote_1 大手より主郭

24_shukaku_yori_ootedou_dorui 25_shukaku_yori_ootedou_dorui_1 主郭より大手道土塁見所

21_shukaku_dorui_higasi_1 主郭より虎口側

20_shukaku_nai 主郭内

17_koguti 虎口見所

17_koguti_dorui_isi 虎口土塁の石垣跡

八鹿愛宕山城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市八鹿町八鹿にあって、繁華街南側を見下ろす形で八木川に迫り出した尾根、通称愛宕山の山上に位置している。現在山上主郭には小さな社殿が建立されている事からも、登山参拝道あるいは登山道(道標は無い)からの二通りのルートで上ることが出来る。城史に関しての詳細は不明であるが、この八鹿一帯には無数の城跡(砦跡)が点在する事からも、規模の大きさからすれば砦あるいは出城といった処であるとは思われるが、地理的にも街道監視用の砦とすればまず間違いのない処かも知れない。

城跡へは繁華街の奥に位置する「永源寺」を目印とすれば一番分かり易い、寺院の駐車場からはルート図あるいは概念図を参考にすれば登山口は容易に見つける事が出来、登山道に従えば難なく金毘羅社経由で山上主郭までは辿り着ける筈である(登山口より5分程)。

現状(6月)城跡は社殿の建つ山上主郭以外は下草は蔓延り荒れ放題でもあるが、小規模な上にさして縄張り妙味のある山城でもないので、見学に支障を来たすまでには至ってはいない。ただ登山道まで夏草が伸びており、歩き難い現状から察すれば当然山上郭群に対しての期待感は薄れるのも現実である。城跡の形態としては登山道中における金毘羅社の敷地も当時の郭跡の転用とも見受けられるが、南側斜面まで郭の展開が成されている様には見受けられず、ほぼ山上三郭と中腹に位置する金毘羅郭で形成される小規模な山城と見てよいものと思われる。城跡唯一の防備施設としては東尾根を断つ空堀が目に留まった程度でもあり、斜面上に縦堀が数本備わる様な縄張りを持ち合わせた山城の様にはとても見受けられなかった。

1 登城ルート

6 登山口

2_3at 城跡概念図

7_2 金毘羅社郭転用地か

9koguti_dorui 土塁虎口か

15_shukaku_heki 主郭壁西側

19_shukaku_nai_1 主郭内

21_shukaku_heki 空堀より主郭側

見応えのある山城とはとても言えないが、遺構残存度は比較的高い様にも見受けられるものであり、この八鹿一帯の山城巡りの一環とすれば登山口からは5分程度で上れるお手軽さもあって、城跡訪問としての数をこなされる方にとっては打って付けの城跡と言えるのかも知れない。

2009年6月 2日 (火)

長見山城跡(広島県安芸高田市)

城跡は安芸高田市甲田町下小原/内長見にあって、城主渡辺氏は毛利氏の重臣として代々仕え、元就の代に異母弟を擁立して反旗を翻した事により一時的には滅んだ形となったが、渡辺通の代に復帰し以来毛利氏に忠誠を尽くした事が史実となっている。

城跡へは先にリポート掲載を終えた五龍城を起点にすれば分かり易いが、国道54号から県道37号へ針路変更し5km程度南下、JR「吉田口駅」付近でルート図の如く右折すれば、ほぼ赤線で示したルートで登山口標柱までは到達出来る。そこからは山道任せで5分程度で山上主郭には辿り着く事が出来る。

城跡の形態としては東西に長く延びる丘陵上に郭を展開したものであり、主郭に相当し最高所に位置する本郭群は西側に位置している。登山口より最初に到達した尾根上には東に向いて相当広い範囲で削平地が繋がっており、西側には数段の段郭群を挟んで主郭に繋がっているが、更に主郭より南西側に下りると堀切を挟んで出郭と呼べる規模の大きい郭が堀切側に土塁を付して築かれている。ここからは更に南斜面に沿って四段程度の小郭が付随しているのが見て取れる。現状(四月)城跡は主郭以外は相当下草や雑木が蔓延っているので郭跡全体像の視認はまず困難、歩き回って城跡の規模は体感する事が出来るが、細部に渡る地形の変化や遺構の確認には相当困難を来たすのが現状でもある。大雑把ではあるが概念図に示したものが自分で歩き回って確認出来た範囲の遺構であり、密生する雑木藪の為に見逃してしまった遺構も少なからず存在する様には思われる。東に延びる削平地も縄張りとして取り込めばそれなりに規模の大きい城跡と言えるのではあろうが、見る限り尾根を断つ堀切も一箇所あるに過ぎず、特筆すべき見応えのある遺構も存在しない事から考えれば、是非お薦めの城跡とまで行かないのが本音でもある。

1route_2 登城ルート

6_2 城跡進入口

3naga 城跡概念図

11_koguti_1 段郭群虎口

14shukaku 山上主郭

15_shukaku_heki_1 主郭切岸

17_nisi_horikiri 出郭堀切

19_nisi_demaru 出郭内の現状

20_nisi_dankaku 四段郭

19_sakuheiti_1 東へ連続する削平地

2009年6月 1日 (月)

壬生城跡(広島県山県郡)

城跡は広島県山県郡北広島町壬生にあって、別名高峰城とも呼ばれ壬生氏の居城と伝わり毛利氏によってやがては滅ぼされたと聞く。

城跡へは中国自動車道「千代田」ICが最寄の乗降口、ICからは県道5号よりルート図の如く壬生神社を目指せば分かり易く到達出来、社殿の山手側にある集合墓地奥からは遊歩道が山上主郭までは通じているので迷わず辿り着ける。

現状(四月)城跡は「つつじ祭り」の最中でもあり、山上主郭を除けば郭跡全てがつつじの花や葉で満遍なく覆われており郭形状は掴み難く全体像も拝める状態にはない。もちろん城跡全体が公園化されているので本来の郭跡ですらどれだけ原形を留めているのかは想像も付かない状態にある。主要な郭転用地には休憩用デッキが備わっている事からも、当然造成整地の上で改変があったものと見受けられ、現状から当時の状態に思いを馳せる事は非常に困難でもある。山上郭群は小規模でもあり、現状見る限りにおいて明確に判断出来る遺構は郭跡だけだと言ってよいかもしれない、堀切らしい箇所、あるいはの丸においての土塁などは当時のものかも分からないが、素人目の遺構判断は非常に難しいのが現実でもある。

公園化されているので山上からの眺望も利き、当時の風情を味わう程度の史跡見学として赴くならば充分納得の行く見学は出来るものと思われるが、遺構の醍醐味あるいは縄張り妙味などを求める山城ファンに於いては、決して期待をもって臨まない事が肝心と思わる城跡の様に感じられた。

2_3a

2_3 現地案内板より

3mi2 城跡概念図

8_naka 山上中郭

15_3amru_gedan 三の丸下段

17_2maru 二の丸内

17_2maru_1 多聞寺

20_shukaku_2 20_shukaku 山上主郭

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