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2009年5月

2009年5月31日 (日)

大杉城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町大杉にあって、大杉地区にあっては地元の誰もが御存知でもある大福寺、あるいは古来より由緒のある二ノ宮神社の西背後の山上尾根に位置しており、県道6号から県道48号へと乗り継ぎ、前述の二ノ宮神社を目指せば登山口までは難なく辿り着く事が出来る。もちろん登山口(登城口)がある訳ではないので、神社と大福寺が共存する敷地内からの直登は余儀なくされるが、概念図に示す大福寺本堂奥のフェンスを開閉すれば、そのまま左側急斜面に取り付いて山上尾根を目指せば、自ずと山上主郭までは辿り着く事が出来る(10分程度)。尚、最上段のお堂には「大杉城登山道」と掲げられた木の表札があったが、それには決して惑わされ無いように(登山道は無い!)

この城跡も他の大屋町の山城と同様に、個人的には乏しい資料の中で存在だけを確認して場所の目星だけ付けて訪れたのだが、途中で地元の方に場所を確認したら偶然にもこの大屋町の山城をある程度知っておられた方であったので、幸いにも神社背後に現存している城跡に苦労せず辿り着く事が出来た。自分の様な遠距離訪問者にとっては時間の関係もあって、支所などに寄って城跡の資料を取り寄せる事も中々難しい状況でもあり、城史に関しての詳細は現状では不明である。

現状(四月)城跡は多少の藪化程度で見通しもある程度利く状態でもあり、山上郭群に遺された三本の堀切、土塁跡、郭切岸などが判別確認出来る遺構となっている。ほぼ主要二郭で形成された山上郭は規模も小さく、山城としての醍醐味あるいは縄張り妙味にも少し欠ける様には感じられるが、この見応えのある三本の堀切だけが城跡最大の見所とも思われ、この堀切見学だけで訪れても充分満足感は得られるような気はするのである。ただ他に特筆すべき遺構が目に留まらなかったので、是非お薦めと言う訳には行かないかもしれないが、他の大屋町内に存在する由良城、一ノ宮城、加保城などを含めた山城巡りの一環とすれば、充分見学に値する山城の様には見受けられたが、、、

1route1 登城ルート

8 城跡進入口

3oo 城跡概念図

20_hiroi_obi 東帯郭

22_fuku_kaku_1 副郭

18_kita_heki 山上郭切岸

27_shukaku_dorui_ato 主郭内

23_horikiri_4 東堀切見所

28shukaku_sita_horikiri1 32_horikiri2_nisigawa 二重堀切見所

2009年5月30日 (土)

大屋一ノ宮城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町中にあって、由良城跡側から見れば北東側の突き出た尾根上先端に位置しており一ノ宮神社の丁度南背後にあたる。もちろん限りなく無名に近い城跡なので事前に地元の方に訪ねても色々な異なる情報が耳に入り過ぎて、結果的には最初に自分で描いた想定登山ルートを城跡の目星だけ付けて上る羽目になった。今回はもっと上り易いルートがあったのかも知れないが、取りあえず自分で選択した分かり易いと思われる墓地経由の直登ルートを赤線で図に示した。随分遠回りにはなるが謎の広大な二段の削平地までは山道を利用し、そこを通過しても藪漕ぎもなく20分内で到達出来たので、そんなに時間の無駄にはなっていない様な気はするのだが、、、

現状(四月)城跡はそれなりに見学し易く、小規模な山上郭及び最大見所とも言える二重堀切まで充分確認出来る状態にある。山上主郭は20m程度の規模で出郭か砦の様相でもあり、本音を語れば折角苦労して上った割には味気なさ過ぎて、少々肩透かしを食らってしまった。この様な城跡の形態であれば必ず尾根続きの山上側には山上郭群が存在して当然とも思われたが、山上は切岸処理のされていない削平地のみであり、およそ城跡遺構と断定出来るもの(堀切や土塁)には巡りあう事が出来なかった。ただ東尾根までは踏破していないので、案外城跡もこの限りではないのかも知れないが。

尚、ルート図に示した居館跡の如く広大な規模の削平地は未だに謎なのであるが、近世における寺院跡の様な気がしないでもない、本来なら居館跡と思った方が想像も広がって楽しめそうとも思えるが、やはり城跡遺構ではない様には思われる。

この大屋川沿いにはまだ文献でも紹介されていない数多くの山城あるいは砦跡がある(地元民の情報による)そうなので大変興味はそそられるが、個人的には何分遠距離訪問でもあり、そう何度も訪れる事が出来ないのが非常に残念な処ではある。ちなみに地元の方の情報によれば田和城、高取城、三方城の砦、大杉城の出城などが現存するそうであるので参考までに、、、

1route_2 登城ルート

6 西より遠望

3iti 城跡概念図

10_sakuheti_jyoudan_3 広大な削平地上段

12_horikiri 山上物見南側の堀切地形

16_2jyuuhorikiri 16_2jyuuhorikiri_2 二重堀切見所

18_shukaku_1 主郭

2009年5月29日 (金)

由良城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町由良にあって、由良集落から望めば南側に単独で聳えるほぼ独立した低山の山上に位置している。この山城も大屋川沿いに数多く存在する山城と同様に詳細は不明であるが、存在および場所の確認は文献あるいは地元の方から事前情報を入手していたので直ぐに探し当てる事は出来た。城跡へは先にリポート掲載した三方城、大杉城、あるいは加保城と同じく県道6号より向えばよいが、目印となる主要な建物も見当たらないのでルート図に示す養鶏場?より谷沿いに歩けば分かり易い、民家の最奥突き当たりには獣避けフェンスが設置されているので、それを開閉して山道に任せて上れば城域南端と見受けられた堀切跡までは、10分もあれば迷わず辿り着く事が出来る。ただ山道も相当荒れ放題と化しており、倒木も多いので何度も迂回を強いられる事にはなるが、、

現状(四月)城跡は藪化もしておらず非常に見学し易く見て回りやすい状態にあるが、山上郭は小規模、見応えのある遺構としては南尾根を分断している二重堀切のみでもあり、概念図に示した通り山上は単郭構造で東側急斜面には数段から形成される小郭群が備わってはいるが、縄張り妙味も余り感じられない事からも非常に味気ない見学となりそうには思われる。当時の状況として麓の谷筋辺りを屋敷群と想定したなら、山上は詰城あるいは物見の機能を担う程度のものであった様にしか見受けられず、山城としての醍醐味は多くは望めない城跡の様には感じられた。ただ今回未踏に終わったが麓から城跡を望んだ時、城跡より東側斜面の木の伐採が行われた辺りが、それとなく平坦地形に見て取れたので、案外この辺りが居館跡の可能性はあるのだが、所詮推察の域は出ないものでもある。

尚、ルート図に示した北東側の突き出した尾根先端には一ノ宮城跡が存在しているが、二城セットとしての同日訪問であれば、何とか有意義な山城巡りが出来るのではないだろうか。此方のリポート掲載は次の予定 

1route 登城ルート

4 東より遠望

3yu 城跡概念図

12_2 南端堀切

13_one_1 南移動尾根

15_2jyuu_horikiri 15_2jyuu_horikiri_1 二重堀切見所

18_shukaku_3 山上主郭

22_higasi_dankaku_gun 東段郭群

2009年5月28日 (木)

周防千葉城跡(山口県熊毛郡)

城跡は山口県熊毛郡上関町室津にあって、当時は竃戸の関(カマドノセキ)と呼ばれた上関(カミノセキ)周辺の海上を監視する宇賀島氏(大内氏傘下の水軍)の城跡あるいは砦跡と伝わっている。この宇賀島氏の本拠は周防大島の北側安芸灘に浮かぶ浮島と伝わっており、大内氏が滅んだ後は当然村上水軍に吸収されたのか、あるいは毛利直属の水軍として動いていたのか、どちらかである様には思われる(推察)。

城跡へは既にリポート掲載済でもある村上水軍の居城、上関城跡を起点にすれば分かり易いが、県道23号で上関に向いて南下した場合、上関大橋は渡らず手前から県道72号より柳井市に向いて海に沿って車は東へ走らせればよい。目指す場所は千葉岬に建立された千葉稲荷神社でありその一帯(山上)が城跡と伝わっている。

現状(一月)城跡は山上に建立された社殿に到達するまでの石段付近に、段状の削平地が随分古びた石垣跡を伴って連なってはいるが、これが当時の遺構かどうかは素人目には到底判断は出来ない。城跡の成立した時代も相当遡ると思われるので当然良い状態のまま残存しているとは思われないが、純粋に当時の遺構と思って見学した方が想像も膨らんで楽しめるようには感じられるが、、、社殿背後には土足禁止の祠に上る石段が設置されているが、本来ここが櫓台と呼べる物見機能を持った土塁であったのかも分からないが、当然推察の域は出ないものでもある。北斜面には石垣跡も見受けられたが築かれた時代背景も見当が付かないので自ずと見学者の判断に委ねられる。

概念図に示したまでが現状確認する事が出来た遺構かもしれない?箇所であるが、岬の東西斜面側あるいは海岸線までも、冬季に拘らず凄まじい雑木藪と化しており踏破する事は不可能な状態となっている。

1 登城ルート

2a 上関案内マップ

3 城跡概念図

4_nisi_yori 西より城跡遠望

9 10 千葉稲荷神社

16_dankaku_isi_2 17_dankaku_isi 古びた石積み

21_yasiro_sita_sokumen_isi 北斜面の石垣跡

23_1

この現況リポートは瀬戸内水軍に興味を持たれている方にとっては多少でも役立つのかもしれないが、現状見る限りでは現地で城跡の雰囲気を味わうのが精一杯とも思え、上関城訪問ついでに軽い気持ちで赴くのならさほど移動距離もないので楽しめるかもしれない。

2009年5月27日 (水)

吉井城跡(山口県大島郡)

城跡は山口県大島郡周防大島町西屋代/吉井にあって、当時水軍としては最強を誇った村上水軍(三島ある能島、来島、因島のいずれか)の城跡と伝わり吉井氏の居城と聞いた。本来大島の西側半分を来島水軍、東側半分を能島水軍と分割統治としていたらしく、西側に位置するこの城跡は来島水軍に属す城跡と言ってよいのかも知れないが、当時は三島水軍を巡る周りの情勢もそのつど変化(一時は敵対関係)しており現状詳細は不明。

付近に居を構えられる町史に詳しい方でも詳細を掴めないほど無名に近い城跡なので、現地で聞き込んだ以上の情報はこれから先も得られないかも分からないが、石垣が郭壁(畑地)に残存している事と当時の郭跡が畑地あるいは蜜柑畑として転用されて現在にまで至っているが、現状はほとんど藪に近い状態との情報だけは事前に得る事が出来た。尚、未訪に終わったが西屋代には龍心寺と言う曹洞宗の寺院があり、ここは能島水軍大将村上武吉の嫡流にあたる元吉から元武あるいはその子孫の菩提寺になっており、一族の墓所になっているとも聞いた。

城跡へは山陽自動車道「玖珂」ICが最寄の乗降口、ここから国道437号に進入し道路に任せて進行すれば、既にリポート掲載済でもある塩宇城跡へ向う時に利用した大島大橋は自ずと渡れる計算にはなる。橋を渡れば県道4号へ直ぐに右折、後はルート図の如く西屋代集落にある小字吉井、あるいは吉兼集落を目指して屋代川沿いに進行すればよい。現地に入れば川沿いにある学校、JA、郵便局が目印となり、ルート図に示す赤線ルートのいずれかで城跡までは到達出来る筈である。この地より川を隔てた東側丘陵上には吉兼城跡もあるが、一帯は集合墓地、畑地あるいは藪地と化しており城跡と明確に判別出来る遺構は見る限り現存していないように見受けられた。

1route_2 登城ルート

5_2 進入口

Oosima_4 郭切岸

Oosima_15 Oosima_17当時の遺構と断定は出来ないが石垣跡

Oosima_12 堀切より北側の郭跡地

Oosima_13 郭跡

Oosima_9 堀切道

Yosikanejyou 吉兼城跡遠望

現状(四月)城跡は事前に聞き込んだ通り、小さな蜜柑畑の一部を除いてはほぼ密生する矢竹雑木藪と化しており、堀切(南北を断つ唯一の堀切道)、段郭状になった郭跡及びその切岸はある程度確認出来ても郭内に踏み入る事はほとんど不可能な状態でもあり、縄張りを把握する事はほぼ不可能、これが当時の遺構と断定出来そうなものは郭切岸、郭跡の転用と見受けられた畑地あるいは堀切道、近世の石垣跡も混在している様には窺われたが、一番古そうに感じられた二段の石垣跡(この石垣が当時のものと断定できる確証は無い)などで、これらが城跡を物語る唯一の遺構とも見受けられた。遺構残存度も低く状態も良いとは言えない城跡ではあるが、個人的には訪問後に村上水軍に関して興味を持つ事にも繋がり、更に知識を吸収し直すきっかけともなったので充分納得の出来る訪城となったのは確かである。

2009年5月26日 (火)

三開山城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市大篠岡木内にあって「瑞峰寺」南東側の三開山山頂(標高202m)に山上郭、中腹にかけては広大な規模を持つ当時の屋敷跡が展開されている。古くから成立している山城である為に幾度も城主は交代している様だが、特に山名氏の居城として有名。当然秀吉による但馬攻略の際には落城したと思われるが、その後秀吉側によって改修が施されたのかあるいは廃城となったのかは詳細は不明。

城跡へは国道426号で北上し「丸山大橋」手前で一般道703号へ右折針路変更すれば既に右前方に望める形の整った山がそれであり、ルート図の如く六万川を渡り直ぐ右折すれば山口となる「瑞峰寺」には容易に到達出来る。現在ハイキングコースとして四ルートが四方の麓から山上まで繋がっているが、今回は最短(南下すれば「駄坂」から最短ルートはある)ではないが、遠距離訪問者に一番分かり易く駐車場も設置されている寺院からの登山ルートを選択した。ここからは遊歩道任せで古墳を経由して途中から西郭群へ直登すれば、30程度で山上主郭までは到達可能である。ただ直登すれば南郭群を通過する事は出来ないが、、、分岐地点の道標からは「千畳敷き」と称される屋敷跡にも向かえるが、時間に余裕のある方はほぼ遊歩道任せで南郭群から山上郭群を見学して、下山時にじっくり屋敷跡などを見学した方が効率もよく、より納得出来る見学が出来そうには感じられる。それだけ見所も多く見応えのある遺構も多い城跡なのである。

2route 登城ルート

2a 現地案内説明板より

3m 城跡概念図

現状(五月)山上郭群は下草は多く蔓延っているが、周囲を遮る木々も少なく整備されているので非常に見学し易く見て廻り易い状態にある。山上に佇めば素晴らしいロケーションでもあり、素晴らしい遺構群を前にすれば長く感じられた距離も時間も全て過去のものとなってしまうほどである。山上郭群は中腹における居館跡からすれば詰城とも見受けられるもので、凄い規模を誇るものでもなく縄張り変化にも富んでいる訳ではないが、多く備わる空堀、堀切群(畝状縦堀は埋もれて判別し難い)は比較的状態もよく(主郭東側の縦堀まで繋がる堀切は凄い!)非常に目を楽しませてくれる。現地縄張り図における全ての縦堀を覗いた訳ではないが、相当数の縦堀が備わっている様である。畝状縦堀群より下りた辺りの千畳敷き(居館跡)及び井戸跡の窺われる屋敷跡は、相当荒れ放題と化しており非常に歩き辛いが、見通しは利くので全体像を伺う事も出来、素晴らしい臨場感を味わう事も出来る。未だに郭壁には当時の遺構として石垣跡も窺う事が出来、容易に当時に思いを馳せる事にも繋がっている。結果的には南郭群までは覗けなかったが、居館跡と一体となったこの山城は状態も良く、正に推奨に値する是非お薦め出来る城跡の一つと言えよう。

21_nisikaku4_tatebori 西郭4の縦堀見所

21_unebori_2 畝状縦堀群見所

30_shukaku 主郭

32_nisikaku_gawa 西段郭群

37_shukaku_heki_1 東郭

39_tatebori_e 40_1東側堀切1見所

43_higasi_horikiri2_1 東堀切2見所

50_1 千畳敷き見所

53 石垣跡見所

2009年5月25日 (月)

浅間小城跡(兵庫県養父市)

この城跡は先にリポート掲載に及んだ浅間城(本城とみた)からみれば支城あるいは出城機能を担ったものかも分からないが、お互いに隣接する事からも佐々木氏の持ち城としてまずは間違いのない処か、、、ただ秀吉の但馬攻略軍の軍門に下った歴史から考えれば、畝状縦堀群の設けられた此方は改修が施されていない様に見受けられたが、浅間城の方が分厚い櫓台土塁、深い堀切(空堀)、武者隠しなどが備わる事からも、多少秀吉側における改修があったものと推察して良いのかも知れない、もちろん個人的推察の域は出ないが、、、

城跡防備としての主郭東西に於ける斜面に掘削された畝状縦堀群は、山名氏関連の城跡(鶴城、三開山城など他の但馬地方の山城でも多々見受けられる)ではさほど珍しくはないが、小規模ではあるが優れた縄張りプランを想像させるものでもあり、現状(五月)相当な風化あるいは付近の土砂の流失などによって、肝心の縦堀の深さは失われているが判別確認は充分可能となっている。既にリポート掲載に及んだ同じ町内にある「大江堀城跡」とも畝状縦堀群で相通じるものはあるが、規模あるいは残存度、残存状態で此方が若干劣っている様には感じられた。現状城跡の状態も悪くない事からも、概念図に示した少ない遺構群(縦堀の本数はおよそ)はほぼ判別確認出来る状態でもあり、浅間城でも触れた様に、二城同日訪問によって形態の違い、縄張りに施された工夫あるいは技巧を推察しながら楽しんで頂きたいと思うのが本音でもある。

1route 登城ルート

6 進入口

3a 城跡概念図

11 北郭群より主郭側

14_karabori_dorui 空堀と方形土塁郭

16nisigawa_une_1 西側畝状縦堀見所

24_higasigawa_une 東側畝状縦堀見所

23_gedan_yori_shukaku 主郭

22_kita_gedan_1 主郭北下段

19_minami_horikiri_1 南堀切見所

城跡へは浅間城と同様に、浅間地区に入ればルート図に示す付近にあるオレンジ色の屋根が目印となる「浄化センター」を目指せば分かり易く、付近の空きスペースには路駐も可能である。そこから川を挟んで東側に見える北に突き出た尾根先端が城跡でもあり、位置を確認すればルート図に示す墓地を目指して川沿いの農道を歩き、橋を渡れば直ぐ墓地脇の獣避けフェンスまでは到達出来る。フェンスを開閉すれば、どこから取り付いても直登5分程度で山上主郭には到達出来るが、山上主郭には朽ちた祠がある様に、祠南背後の堀切跡からも山道が参拝道として東側に繋がっていたのかも分からない、、、

2009年5月24日 (日)

浅間城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市八鹿町浅間にあって佐々木近江守の居城を伝え、当時は他の豊岡周辺の武将と同様に山名氏の傘下にあったか、あるいはその家臣であった可能性は非常に高いと見受けられるが、秀吉の但馬攻略の際にはその軍門に下った模様である。詳細は不明

訪問結果から先に述べれば、この山城は主要三郭で形成されたもので、小規模ではあるが山上郭群の南北斜面と西斜面には二重堀切を含めた合計5本の堀切が備わり、主郭には櫓台の機能を持つと見受けられる分厚い土塁、あるいは南側斜面には武者隠しとも想像出来そうな空堀土塁、わざと段を違えて形成された小郭など細部に渡って創意と工夫が施されており、縄張りプランにおいても非常に技巧さに富んだ城跡と目には映った。現状(五月)藪化は進行中ではあるが郭移動に難渋するまでには至っておらず、遺構残存度も高いことからも全ての遺構は判別確認が容易に出来る状態でもあり、今回西側へ隣接する浅間小城と並んで、是非お勧めしたい山城として現況をリポートしたものである。浅間小城(リポートは次で掲載予定)側からすれば此方が本城と言う事になるのかも分からないので、個人的には先に寄った小城のリポートは後回しにした、、

城跡へは京阪神から向う場合、国道9号より養父市内に入れば国道312号へ針路変更、そのまま北上し「下小田」の交差点で出石に向いて県道2号へ右折すればよい。浅間地区に入れば「上浅間」バス停向の道から城山は確認出来るので、ルート図の如く川を越えて向えばよいが、山道に備わる獣避けフェンスを開閉すれば直ぐ左手側の害獣捕獲オリ側から谷沿いを通過してに向うか、そのまま山道から小さな池傍を通り過ぎて向うかの、二通りのルートの何れかで凄い縦堀(堀切)の備わる西斜面には到達する事が出来る。どちらにしても方向さえ間違えなければバス停付近からは15分前後の所要時間で容易に辿り着ける筈である。尚、この城跡付近には路駐の容易に出来る場所が見当たらず、先に小城を訪れた場合は地区の「浄化センター」付近の空きスペースに車を停めて、小城を見学した後に多少距離はあっても、そこから歩いて向かわれる事をお薦めしたい。

3_2a 城跡概念図

5 登山進入口

9_tatebori 北側縦堀見所

9_tatebori_2 北堀切見所

15_kita_2_1 北郭2

18_shukaku 主郭土塁

16_yagura_dorui 主郭櫓台土塁見所

21_minami_karabori_dorui_2 武者隠しか?見所

24_horikiri1_2 南二重堀切1見所

25_2jyuu_hori_2 二重堀切土塁見所

32_2jyuu_horikiri_1 西二重堀切1見所

浅間小城と同日訪問する事によって、山城ファンに於いては遺構見学における醍醐味も満足感も間違いなく味わえると思われ、どちらも小規模ではあるが縦堀を含めた堀切遺構あるいは縄張りプランはかなりの見応えがあり、一流の縄張りが施された正に推奨に値する山城(二城併せて)として非常に印象付けられる事になった。

2009年5月23日 (土)

城跡呼称の訂正

結論から先に述べさしてもらえれば、最近頻繁に訪れている但馬地方における山城巡りの中で三月分のブログに掲載しました、豊岡市にある海老手城及び森津城がブログ外での現地(聞き込みネタ)情報を元にしてまとめた結果、呼称を取り違えているか、あるいは本来は別に城跡呼称があるのではないか思われる事が発覚しました。

ただネタ元も「確証は無いが」、、との事なのですが、現地情報によればこの周辺には小規模な山城跡あるいは砦跡なら無数にあるとの事でもあり、城跡呼称誤認の可能性はかなり高そうに思われます。現状では推察に過ぎませんが、この海老手城と紹介した山城の川を隔てた南側に位置する山上が、本来の海老手城の場所ではないかと思われます。とすれば紹介した城跡遺構はその出城(砦跡)あるいは全く別の呼称を持った城跡とも推察されますが、現時点では追跡リサーチ不足のせいもあって明確な判断は下せておりません。森津城の方は縄張り妙味はあるものの余りにも小規模である事から、本来直ぐ近くに存在すると思われる森津城の出城、あるいは逆に海老手城の出城(砦跡)とも考えられますが、これも現時点においては確証を持てるまでには至っておりません1route1

今回(三月時)ブログ掲載した事によって既に訪問された方もおられるかも分かりませんが、現時点では聞き込みネタ情報だけの事でもあり、誤認と確信する材料も不足している事から、近いうちに再び現地を訪れて本来の城跡呼称を再確認すると同時に、間違いがあれば再びこの場を借りて訂正をしたいと思っております。

もしブログ読者の方に、この本来の二城を既に訪れて呼称の確認まで取られた方が居られるのでしたら、曖昧な情報でも一向に構いませんので、コメントとして書き込んで頂ければ非常に助かると共に有難く思います、よろしくお願い致します。

日下津城跡(広島県安芸高田市)

城跡は広島県安芸高田市向原町坂にあって、古くは毛利一族より分かれた側が坂氏を名乗ってこの地に居城、以来毛利氏一族をささえ重きを成したと伝わり、元就の代に及んでは一時期坂広秋が反旗を翻したが、その息子より再び元就に仕え代々重きを成したと歴史は伝えている。

2h 現地城跡説明版より

1route 登城ルート

6 登山口

城跡へは田屋城跡を起点にすれば説明し易く分かり易いが、田屋城跡の真東2km内に位置する山上が城跡にあたり、県道37号から向えば「支所入口」交差点より県道29号へ針路変更、後はルート図の如く右折して三篠川を渡れば道路沿いの案内板までは到達出来る。案内板からは墓地経由の登山道(2ルートあり)が山上まで繋がっているので迷わず辿り着ける筈である。

現状(四月)城跡は史跡としてある程度整備されているので比較的木々も少なく、縄張りにおける遺構標識も設置されている事から初めて訪れる見学者でも遺構が目に留まり易く、非常に見学し易く見て回りやすい状態にはある。ただ一部の郭内には伐採された木々がそのまま放置されていたり、雑木も蔓延っているので視認し辛く歩き難い箇所も少なからずある。現状遺構として目に留まるものは郭跡を除けば郭切岸、主郭周りの堀切(縦堀を含む)群、井戸跡、南出郭の土塁、西物見の段下の分厚い土塁と言ったところで、郭高低差がある事からも山城の醍醐味は充分味わえる、尾根を断つ薬研堀の様な見応えのある遺構に巡りあう事は出来なかった。登山道も設置されており比較的残存状態も良い事から、程近い距離にある田屋城跡とセットで同日訪問となれば充分お薦め出来る山城と言えるのではないだろうか。凄いと声を発するほどの遺構は存在しないが、広島県内に於いては山城を史跡として評価する意識レベルが非常に高いものと見受けられ、近畿圏内ではおよそ見向きもされそうにない田屋城跡やこの城跡クラスの山城でもある程度整備が成されており、登山道あるいは遺構標識まで設置されているのにはただ驚くばかりである。山城ファンにとっても一般見学者にとっても、登山道が設置されているといった事実だけで訪れてみたい気分にもさせられ、状態の良い当時の遺構を見学すれば自ずと史跡保護の意識も高まり、後世幾世代にも渡って史跡を遺して行けるのではないかと個人的には思うのである。

3hige 城跡概念図

16_shukaku 主郭内

21_kita_obi_2 主郭北側帯郭

22_higasi_idoato 東側井戸跡と縦堀見所

30_monomi_demaru_heki 西物見の段切岸

31_monomi_demaru_1 物見の段

33_dorui_kaku_1 物見の段下の土塁見所

2009年5月22日 (金)

田屋城跡(広島県安芸高田市)

城跡は広島県安芸高田市向原町田屋にあって、県道37号より「カタクリの里」を目指し進行、ルート図の如く現地に入れば県道沿いからは里は直ぐ目に留まる、登山口西側にあるカタクリ茶屋(廃業?)まで向えば付近に車の駐車スペースはあるので、現地案内板横から登山道で(左手側方向)城跡を目指す事になる。

登山道に任せて上れば主郭背後の大堀切までは難なく辿り着ける筈であるが、個人的には何時もの様に登山道を避けて一旦城跡南側山上の物見と思われる削平地まで上り、そこから堀切まで下ったので実際の所要時間までは詳しく分からない。登山道中においては麓民家側背後に古びた見応えのある石垣跡が目に留まる段状の敷地(削平地)があったが、当時の遺構と断定は出来ないものの屋敷跡の様にも見受けられたので一応参考までに、、、

現状(四月)城跡は親切に遺構案内標識も設置されており非常に遺構見学がし易く、状態としては自然任せの風化中にあるが見学に差障りのある状態にまでは至っておらず、山城としてみれば比較的良い残存状態の部類に入るとは思われる。ほぼ四郭で形成されたこの城跡には小規模な山上主郭には似つかわしくない、分厚く高さのある立派な櫓台土塁が遺されており、主郭内に部分的に残存する虎口を形成するに使用された石垣、あるいは櫓台背後の大堀切、三郭の石組み井戸と並んで城跡最大の見所となっている。非常に小規模な山城ではあるが凝縮された遺構の数々は見応えもあり、大堀切などは薬研堀の如く高低差を伴うものでもあり、山城としての醍醐味も充分味わえる様に見受けられた。コンパクトにまとまった形態の山城なので縄張り妙味などは求められないが、山上に凝縮された残存度の高い遺構群は一見の価値のあるもの目には映った。見学し易さ(遺構標識がある)からしても充分お薦め出来る城跡の一つと言えよう。

2t 城跡説明版より

3a 城跡概念図

4tozanguti_e_2 登山口

16_tatebori_e_1 大堀切(縦堀)見所

19 主郭

18_shukaku_1 主郭櫓台土塁見所

23_2kaku_koguti 虎口見所

26_2kaku_isi_1 石垣跡見所

32_ido 石組み井戸跡見所

34_4kaku 四郭

35_dorui_1 四郭土塁

2009年5月21日 (木)

竹藤城跡(京都府京丹後市)

この城跡は先にリポート掲載に及んだ盛岡城の麓にある貴船神社より、数10m東側に移動した木橋のある場所が直登進入口にあたり、今回の山城巡りの中の訪問予定には入っていなかったが、盛岡城の城山所有者の方からこの本城の方がもっと大規模でもあり、井戸跡なども残っていると聞いたので迷わず寄って遺構見学する運びとなった。かつては木橋を渡った大手にあたる谷沿いから登山道もあったようだが、現在は踏み跡すら残っておらず直登は余儀なくされる状況下にある。個人的には参考ルートと概念図に示した東側急斜面(崖に近い)最短ルートを10分内で一気に上り切ったのだが、下山ルートでもある二箇所からが一番直登として取り付きやすく、斜面も少しはおだやかである様には感じられた。

城史に関しては竹藤左京進の居城を伝えるのみでもあるが、地元の方に聞いた話ではこの竹藤氏は一色氏の滅亡後は細川支配による丹後で臣下として活躍し、江戸時代から更に明治時代に至るまでは家名も存続した様であるらしいが、、詳細は不明

現状(四月)城跡は盛岡城に負けず劣らず藪化は深刻化しているが、複雑な縄張り形態でもなく、特に技巧を有した遺構も存在していないので、歩き回れば何とか遺構の判別確認及び城跡の縄張りあるいは規模などを体感する事が可能と言える状態にはある。もちろん枯れ木の密生によって全体の見通しは悪いが、高く切り立つ切岸、堀切(一箇所確認)などは充分見て取れる状況でもある。井戸跡はこの状況下においては探し当てる事が叶わなかったが、自宅に戻って文献を見入っていると、確かに井戸跡あるいは当時の武家屋敷跡地が残存している様には記載されてあった。地元の方から事前に聞いた様に流石に竹藤氏本城とするに相応しい規模、あるいは高い切岸による堅固さも兼ね備えており、見応えもある事から充分満足の行く訪城と言えるものにはなった、ただこの深刻な藪化は非常に残念ではあるが(夏季訪問は禁物!)、、 尚ルート図に示したタチ(館)と現在でも呼ばれている辺りが竹藤氏の居館跡であると地元の方に聞いた情報であり、個人的にはこの城跡が今日を締めくくる最終の山城巡りとなった関係で探索は叶わなかったが、まだ未訪の方の参考までに。

二城併せれば確実にお薦め出来る城跡と言えるのではあるが、ここまで藪化が激しいと興味を持たれた方のみが対象の山城として良いのかも知れない。

1route_2 登城ルート

6 城跡進入口

3ta 城跡概念図

9_higasi_yori_shukaku_heki 主郭切岸

15_shukaku 主郭

17_minami_horikiri 南斜面の堀切

22_gedan2_tate_dorui 西下段2の土塁跡

25_nisi_kaku_gun_1 西郭群の現状

2009年5月20日 (水)

盛岡城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市久美浜町竹藤にあって、京都では有名な貴船神社より古くは御霊分けの由緒を持つと言われる、同名の神社北背後の山上尾根に位置している。野村和泉守の居城を伝えるが、この城山の所有者に聞くところによれば川を挟んだ対岸の丘陵上にある竹藤氏本城とは支城あるいは出城の関係であるらしく、この周辺には竹藤氏の居館跡や小さな砦跡がまだ数多く残っているそうである。尚、この竹藤氏に関しては当時の丹後守護職でもあった一色氏の重臣四人衆の中の一人であるとの話でもあった。

城跡へは国道312号より県道20号に入れば、目印となる竹藤集落の道路沿いにある貴船神社は直ぐ見つけることは出来る、車を路駐すれば神社背後から多少の藪漕ぎは必要とされるが、そのまま斜面を直登すれば自ずと南側に備わる堀切までは10分もあれば到達可能である。

現状(四月)城跡は相当藪化も深刻化しているが、冬枯れのせいもあって枯れ枝も多く、山上における残存遺構はほぼ確認出来る状態にはある。全体像の視認には中々難渋するが、城跡最大の見所でもある南北尾根を分断する大堀切、あるいは郭内における土塁跡、切岸、虎口跡は傍まで寄れば明確に判別出来る状態でもある。小規模な城跡の為に縄張り妙味までは求められないが、特にこの二本の堀切は状態も良いもので相当な見応えがあり、この堀切見学がこの山城の全てと言っても過言では無い様にも思われるのである。冬枯れ後でもこの藪であれば状態が良くなると言った改善は全く無理な話で、城山の所有者も高齢である事から、これから先タイムリーな訪問はあり得ない様にも感じられた。小規模ではあるが本格的な城普請により築かれたと見受けられるこの山城に関しては、夏季訪問は絶対に禁物とは思えるが、梅雨時までの訪問であれば充分見学に値する山城である様には目に映った。

1route 登城ルート

5 直登進入口

3mo 城跡概念図

8_minami_horikiri_5 南堀切見所

13_fuku_kaku 副郭

14_fuku_yori_shukaku_heki_1 主郭切岸

22_shukaku_nisi_heki 帯郭より主郭壁

15_shukaku_2 主郭内の現状

18_kita_horikiri_3 北堀切見所

2009年5月19日 (火)

上狭川城跡(奈良県奈良市)

最初に、この城跡の最大の見所は素晴らしい状態を誇る主郭南側に形成された虎口で、食い違い土塁と枡形を二重に組み合わせた様にも窺え、風化を差し引いても当時に近いと思われる状態及びその形態は他に比類なきものでもあり、この虎口を見学するだけの目的で訪れても充分納得出来うる遺構でもあり、まだ未訪の方には是非訪問をお薦め出来る城跡である。ネット上の他のサイトでも多くの紹介記事が載せられているので多くは語らないが、結果的に未踏に終わった主郭東側別峯、更に南側へ繋がる尾根と縄張りの広がりも予想され、まだ未確認の遺構が残存する可能性も含んだ相当規模が大きいとも受け取れる城跡と自分の目には映った。

城跡は奈良県奈良市狭川東町にあって西狭川町集落より川を挟んで東側低山の山上に位置している。狭川氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡登山口へ向うには国道369号あるいは国道163号と南北のどちらから向っても県道33号へ進入する事が先決である、県道に進入すればルート図の如く写真に示すバス停付近の登山口は容易に見つかるので、そこから山道に従えば15分程度で山上主郭には辿り着ける。

現状(三月)城跡は木々は余り蔓延っておらず見通しも利くので山上における遺構群はほぼ判別確認可能な状態にある、見所は前述の主郭土塁虎口、主郭周囲を巡る土塁、本郭群尾根を分断する土橋を伴う堀切と満載でもあり、山麓の井戸跡及び屋敷群、相当藪化が進行中の南西麓の段郭群を含めれば山城としての醍醐味も見応えも兼ね備え、更に縄張り妙味も尽きない城跡である事が分かる。個人的にも叶えば再訪して付近一帯を踏破して見たいと思わせられる城跡の一つである。

Saga 登城ルート

Tozanguti 登山口

3s2_2 城跡概念図

9_koguti_1 北郭側

15_shukaku_dorui 17_dorui_kakomi 主郭土塁見所

20_minami_masugata 主郭南食い違い土塁見所

21_masugata_dorui 南複合土塁虎口見所

25_masugata_sita_horikiri 南堀切土橋見所

27_dobasi_yori_minamikaku 南郭群

47_nansei_dankaku 南西段郭土塁

2009年5月18日 (月)

沢城跡(奈良県宇陀市)

城跡は奈良県宇陀市榛原区沢にあって沢集落の北側に聳える山の山上に位置しており、伊那佐山から南東側に延びる枝尾根を堀切で分断して築城されたたものであるが、沢氏あるいは一時高山氏の居城とも伝わり宣教師であるフロイスの「日本史」にも記載されている山城がどんなものか体感したくて今回の訪問となった訳である。2z 3zz

1route 登城ルート

城跡登山口までは国道を使用すれば色々なルートが考えられるのでここでは割愛させて頂くが、沢地区に入れば麓からはルート図に示す様に二通りのルートが選択出来、今回は登山客も多く上ると聞いた大貝地区から伊那佐山へ上る登山ルートで城跡を目指した。個人的には城跡北背後尾根まで探索したかったので一旦伊那佐山尾根分岐地点まで上ってそこから尾根沿いに南下する方法を取った。もちろん通常の遺構見学で訪れる方は登山道中の池を通り過ぎて山側に上ればよいのであるが、前者は相当遠回りになるが城跡最北の土橋、二重大堀切あるいは米山城も見学出来る事からもこの方法を選んだ訳である。

しかし北側尾根上において確認出来たのは土橋と二重堀切だけで登山道を外れると一面雑木藪であり米山城が一体どこに存在するのか見当も付かない状況でもあった。結果的には見つける事が出来ずにそのまま山上主郭へ向ったのだが、此方も現状(三月)冬枯れ後であるにも拘らず凄まじい矢竹藪となっており、郭跡に踏み入る事が出来るのは木のベンチのある出郭の一部分と主郭の一部分のみの状態で、外見から郭を覗く事も出来なければ郭内の遺構の確認などはほとんど不可能な状態でもある。結果的には出郭北側の二重堀切と主郭と出郭間の大堀切を確認したのみでほぼ矢竹藪を見学しに山上まで訪れた事になってしまった。もちろん個人所有の城山とも見受けられるので仕方のない事ではあるが、麓に榛原町が設置した案内板や道標まで備わっているのであれば、せめて主郭の一部だけでも整備して欲しかったと思うのは自分のわがままであろうか、、たまたま訪れた時期が悪かったとも考えられるが、現状を見る限りでは恐らく自分と同じ思いで城跡を後にした方が相当居られるような気がするのである。

今回の訪問においては少し期待があっただけに無念さを味わいながらの下山となったが、流石にいつもの城跡の評価はし辛いものがある、、、

15_dai_horikiri 大堀切見所

17_demaru_heki 出郭切岸

18_demaru_nai 出郭内

16_kita_2jyuu_horikiri_1 北側二重堀切見所

25_saihoku_2jyuu_horikiri_1 北端尾根の二重堀切

2009年5月17日 (日)

鈴尾城跡(広島県安芸高田市)

城跡は安芸高田市吉田町福原にあって別名福原城でもあり、代々福原氏の居城と伝わり毛利氏とは古来、祖(大江)を同じくする。福原居館跡に設置された案内板の説明では元就誕生伝説地とある様に、元就の母親の出生地でもある事から元就の生涯を知る上では避けて通れない城跡とは思われる。

城跡へは中国自動車道「千代田」あるいは「三次」ICが最寄の乗降口、どちらから向っても国道54号より現地に向かう事になるが、先にリポート掲載済でもある桂城跡を起点にすれば分かり易い。もちろん二城同日訪問とした前提で記事は書いているが、桂城側から見ればルート図の如く川を挟んで東側1km程度の近距離に位置しており、位置さえ確認出来れば麓の登山口までは難なく辿り着ける筈である。登山口からは遊歩道で福原居館跡を経由して上れば10分もあれば山上本郭までは到達出来る。

現状(四月)城跡は山上本郭のみであれば郭内に木々も無いので小規模な郭群の見通しは利くが、他の段郭群は一部矢竹密生地あるいは雑木も蔓延っているので全ての郭群が状態が良い訳ではない。しかし山城が小規模な事も相俟って縄張りを把握する事は容易でもあり、見学も非常に短時間で終える事は出来る。逆に言えばそれだけ見所も少なく山城ファンからすれば少し物足りないと言う事に繋がるのだが、、 見所は当時の石組み井戸跡(これは状態も良く素晴らしい!)あるいは案内板に記されてあった石垣跡は挙げられるが、この石垣跡は現状を見る限りでは自然岩を郭壁として取り込んだものの様にしか見受けられなかったが、掘り起こせば本来はそれなりの石積みが成されていたのかも知れない。

1route 登城ルート

2_3 現地説明板より

6 登山口

3suzu 城跡概念図

9_yakata_3 居館跡

11_kitakaku_hasi 北郭端

14_ino_dan_2 井戸跡見所

21 山上郭西側

22 本郭群

23 石垣跡

25_yaguradai 櫓台最高所

30_higasikaku_nai 主郭東切岸

このリポートは山城ファンからみた立場で掲載しているが、本来史跡として見学する分には状態も良い事から当時に思いを馳せる事も容易であり、元就生誕地を訪ねる紀行とすれば充分過ぎるほど戦国ロマンに浸る事も出来るので、当然お薦め出来る城跡とは言える。個人的には先に寄った桂城の余韻が冷めず、こちらが相当霞んで見えたのだが二城同日訪問とすれば山城ファンにおいても是非お薦めとも言える城跡であることは確かである。尚、直ぐ近くには福原氏墓所もあるので興味のある方は覗いても無駄にはならないだろう。

2009年5月16日 (土)

桂城跡(広島県安芸高田市)

城跡は安芸高田市吉田町桂にあって桂氏の居城と伝わる。毛利氏直属の家臣(譜代)として代々重きを成し、中でも桂元澄は家老としてはもちろん、「厳島の戦い」においても最前線にあった桜尾城守将として活躍した事で名を馳せている。

城跡へは中国自動車道「千代田」あるいは「三次」ICが最寄の乗降口、どちらで下りても国道54号より向う事になるが、国道沿いには大きな標識「桂城」が掲げられているので確認さえすれば、直ぐ傍にある登山口には道標も設置されているので容易く山上主郭までは辿り着ける(10分程度)。車はバス停傍の空きスペースに路駐するしかない

現状(四月)城跡は藪化していない事からも見通しも利き、比較的見学し易く見て回りやすい状態にある。形態としては独立した東西に長く連なる低山の両最高所に主郭(西は恐らく出郭としての機能)が配されており、尾根中間到達地点の削平地より長い移動尾根を上り切った堀切より東側が主郭にあたるものと見受けられる。規模は主郭のある東郭群の方が圧倒的に大きく、見応えのある堀切を挟んで主要三郭から形成されているが、縄張り妙味に関しては西郭(出郭)群の方が大型土塁、付随する横堀、縦堀などが備わる様に見所も多く、相当な見応えを感じる事が出来た。案内板縄張り図における全てを踏破した訳ではない(東出郭群は未踏)が、外見から城山を判断するより遥かに起伏に富んだ形態は山城としての醍醐味も感じる事が出来、前述の東西に渡る遺構群と共に充分過ぎるほど堪能させてもらった。未踏箇所を含めなくとも規模の大きさは体感する事が出来たし、個人的には余り期待もせず訪れた事もあって非常に嬉しい誤算となった。登山口からの所要時間、山城としての醍醐味、見学のし易さあるいは状態の良さを考慮すれば、自ずとお薦め出来る城跡と言えるのではないだろうか。

1route_2 登城ルート

2_3_2 現地案内板より

9 登山口付近の標識

3katura 城跡概念図

18_shukaku_2 東主郭

20_naka_horikiri_3 大堀切見所

21_naka_yori_shukaku_heki 中郭より主郭壁

22_naka_yori_kita 北郭群

35_demaru_dorui_2 西出郭土塁見所

42_kita_dorui_karabori_1 出郭北の横堀と大土塁

45_tatebori 縦堀見所

尚、江の川を挟んで直ぐ東側に位置する鈴尾城跡は、毛利氏譜代筆頭家臣の居城でもあり元就誕生伝説地でもある事からも、当然今回の山城巡りの一環としてチョイスしており、その現況リポートは次で掲載の予定

2009年5月15日 (金)

五龍城跡(広島県安芸高田市)

この城跡は安芸高田市甲田町上甲立にあって、先にリポート掲載を終えた祝屋城の本城となる宍戸氏代々の居城であり、娘婿でもある宍戸隆家は元就より毛利両川と同等な扱いを受け、両川と並び称されるほど毛利では重きを成したと伝わっている。城跡へは祝屋城を起点にすれば分かり易いが、同じ国道54号よりそのまま南下しトンネル手前の「高宮分れ」交差点は左折し、ほぼルート図の如く向えば駐車場までは難なく辿り着ける。

個人的には数年前に一度訪れており再訪となったが、前回は全山総郭とも呼べる巨大な規模を誇る吉田郡山城に先に寄ったばかりに肝心の西郭群まで見学する余裕も無く、急いで回った為にこの城跡の素晴らしさを体感するまでに至らず、悔しい思いで城跡を後にした苦い記憶がある。今回はそのリベンジも含めて少し時間に余裕を持たせた訪問でもあり、やっと念願でもあったこの山城の城域のほぼ全て(八割)を把握することが出来た。

城跡は社殿の建立されている北東先端尾根に位置する尾崎丸から南西側に位置する足軽の段まで、規模は全長800mには達しそうとも思える大名クラスにも匹敵する非常にスケールの大きい巨大な山城でもある。形態としてはほぼ直線的に郭を並べただけの単純な縄張りではあるが、三ブロックから構成される郭群境には凄い堀切(空堀)を備え、多くの他の山城に見受けられる狭小な段郭などは皆無、全てに渡って規模の大きい郭群で山上は占められている。山上の中心に位置するのが本丸(主郭)であるが、その背後の際高く聳える立派過ぎる櫓台は土塁底部は土留め石となっており圧倒される事請け合いの遺構でもある。便宜上西郭群とした規模の大きい主要四郭で形成される郭壁には、土留め石ではない通常の野面積み石垣跡が随所に窺える事からも、西側は後で縄張りを拡張して行った事が想像出来そうにも思えた。個人的な判断では一ノ塁背後の堀切壁中ほどに石垣跡が窺われた事からも、当時は城中最大郭でもある一ノ塁堀切壁から郭周囲に至るまでの全てが石垣で覆われていた様にも感じられた。

3x 城跡全域の概念図

2_2 現地城跡案内板より

3_1 3_2 城跡概念図

Itiinodan 一位ノ段

25_nisi_koguti 中土塁虎口見所

32_3maru 三の丸

41_honmamru 本丸見所

44 本丸櫓台土塁見所

47_daihorikiri_3 大堀切見所

54_kaku2_isi 二の塁虎口石垣跡

59_shukaku_gaiheki_isi 一の塁背後壁石垣跡見所

60_horikiri 西端の大空堀(縦堀)見所

68_ido 井戸跡

現状(四月)城跡は本丸までは山城としてはこれ以上は望めないほど素晴らしい状態を維持しているが、本丸背後の大堀切から西郭群の一ノ塁までは雑木も蔓延り見通しもかなり悪い状態にある。しかし移動に差障る状態にまでは至ってはいないので、充分遺構見学は出来る状況にはある。既に両川の一つ小早川氏の居城、新旧高山城には訪れているが、個人的にみれば新旧高山城より若干規模で劣るかもしれないが、縄張り妙味に関してはほぼ同レベルにある山城とみた。正しく推奨に値する素晴らしい山城の一つでもあり、言葉で素晴らし過ぎる城跡の醍醐味が伝えられないのがもどかしいほどでもある。

2009年5月14日 (木)

田和城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町加保にあって、加保集落から見れば大屋川の東側背後の独立した小さな小山に位置している。三方城跡などと同様に県道6号沿いにあるが、路脇には「城山」と掲げられた看板が直ぐ目に留まる位置にあるので非常に分かり易く、道路脇のスペースに車を停めれば直ぐにでも主郭までは到達可能でもある。居相氏の居城と伝わるが詳細は不明

現状(四月)城跡は史跡として非常に整備が行き届いており、コンパクトな縄張りと相俟って概念図に示したように数少ない遺構群ではあるが、小山上の郭跡、堀切、あるいは土塁といったところは全て判別確認出来る状態にある。中でも中央を分断する堀切はこれ以上ない素晴らしい状態を誇っており、少ない遺構群にあっては最大の見所と言えるもので、砦規模の城跡にしては分不相応な立派な堀切でもある。最大全長50m足らずの小規模な城跡ではあるが、当時の砦跡の形態を窺うには申し分のない材料でもあり、城跡西側は大屋川を利用した天然の水堀(川面までは急崖)とし、東側は30m近い高低差を誇る急崖で防備されており、地形あるいは立地環境まで縄張りに取り込み、削平された郭跡あるいは切岸処理などからみても、本格的普請によって築かれたものと推察される。

今までの山城巡りの中でも砦跡(出城と思えた)としてここまで整備保存されたものには中々御目にかかった事も無く、道路脇より直ぐにでも到達出来るお手軽さも加味すれば、規模は小さいが正しく推奨に値する城跡と言えよう。全体を見学しても10分足らずで終わってしまう程度の味気ない城跡なのだが、前述の様に築城された周囲の環境あるいは縄張りなどを考えれば、実に奥の深い城跡なのである。

1route_2 登城ルート

5 城跡上り口

Tawajyou 城跡概念図

10_minami_dankaku 南段郭群

12_fuku_kaku_1 副郭

13_fukukaku_dorui 副郭堀切側の土塁

14_horikiri 堀切見所

15_horikiri_fukukaku_heki_1 堀切壁

20_kitakaku 北郭

21_kitakaku_yori_shukakuheki_1 北郭より主郭切岸

2009年5月13日 (水)

ウスギ城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市建屋(タキノヤ)にあって、建屋集落より川を挟んだ西側に位置する山塊のほぼ三方に渡る尾根上に郭は展開されている。当時は太田垣氏の居城と伝わり、この地を本拠として竹田城を築き但馬守護代に上り詰めたと思われるが、本城を移動した際は竹田城の支城として家臣でもある建屋氏が城代となった模様、詳細は不明

この城跡は訪問した結果、東側の遠く山上尾根も含めた三方尾根上に郭は削平地として点在しており、相当城域の広い山城と見受けられた。遺構見学としての本命は北尾根先端に位置する本郭群であり、二本の見応えのある大堀切によって南北尾根は分断され、城中最大規模を誇る南郭には形のある程度整った土塁が高低差のある郭切岸と並んで非常に眼を楽しませてくれている。もちろんこれらが城跡最大の見所と呼べるものでもあるが、直登ルートから本郭群に向う尾根上、更に東側尾根上にも郭跡(切岸処理のない削平地)は眼に留まり、城跡をより巨大なものに感じさせてくれている。個人的にはルート図に示した東側まで踏破したが尾根上には連続する削平地が幾つも点在しているのを確認する事が出来た。現状(三月)本郭群だけを見れば木々も少なく全体的に見通しも利くので前述の遺構群は全て判別確認出来る状態にあり、城跡の醍醐味あるいは素晴らしさに更に拍車をかけている。比高は100m程度なのだが主郭周囲は急崖でもあり、簡単には人を寄せ付けない凄みを感じられた。全ての枝尾根上までは踏破することは出来なかったが、歩き回る事によって充分過ぎるほど山城の規模、あるいは魅力を体感する事は出来た。個人的にも是非お薦めしたい山城の一つには数えられる。

1route_4 登城ルート

5_tozanguti_2 直登進入口

3u 城跡概念図

11_horikiri_1 南堀切見所

12_minamikaku_dorui_3 南郭の土塁見所

15_dorui_gawa_1 南郭

18_shukaku_horikiri_e 南より主郭切岸

21_horikiri_2 北堀切見所

24_kitakaku_1 北郭

22_shukaku_2 主郭内

25_shukaku_kita_heki_3 主郭北切岸

城跡へは国道312号より北上した場合は交差点「立野」で県道70号へ左折針路変更、線路を越えれば更に左折してそのまま八鹿に向いて10km程度直進すれば建屋地区に辿り着く事は出来る。集落からはルート図の如く直登山口となる金毘羅社を目印として進行すればよいが、最短ルートでの直登なら道路沿いからV字谷に向いて取り付けばそのまま主郭南背後に到達出来るものと思われる(金網フェンス有無の確認をしていないので確証は無い)。個人的には最短ルートとして北側にある集落センター付近からの直登を想定したが厳重な金網フェンスが張り巡らされているので開閉も出来ず諦めた経緯があるが、そこから更に西側へ向えば山道があったのかも知れない。個人的には西側の別峯も探索の対象としていたので、敢えてルート図に示した金毘羅神社から上ったが、時間を要しても良いのであれば随分遠回りにはなるが、フェンスも藪漕ぎもなしで確実にルート図通りで到達出来る赤線ルートをお薦めしたい。

2009年5月12日 (火)

三方城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町宮垣にあって、国道9号を経由して大屋川沿いに県道6号を走り、トンネルを潜り終えればほぼ左手(南側)に望める低山ではあるが険峻な山容の山上尾根先端に位置している。この山城に向うまでにはルート図に示す県道沿いに男坂神社が目に留まるが、此方にも男坂城なる砦跡が社殿敷地を主郭として二段の郭跡、切岸、及び背後の堀切は近年の石段増設工事によって消失してはいるが縦堀は僅かに痕跡が残っており、寄って見学しても決して無駄にはならないとは思われる。

男坂神社からは三方城跡の位置は直ぐ確認出来るので、南側の橋を渡り概念図に示す登城スタート口でもある「いぼ地蔵」まで向えばよい。この付近に路駐スペースはあるので車を停めれば、どちらを選んでも崖状急斜面を上ることに変わりはないが、概念図に示した二通りの直登ルートで尾根上の主郭までは到達する事が出来る。ただ武家屋敷跡も見学するのであれば自ずと愛宕社経由の最短直登ルート選択にはなるとは思われるが、、どちらにしてもこの城跡への登山は斜面も相当きつく滑りやすいのでスニーカーは危険!主郭までは15分程度)

現状(四月)城跡は植林地となっている為に下草はほとんど無く、郭全体像の見通しも利く為に残存する遺構群である郭切岸、石積み、堀切、櫓台土塁跡などは全て判別確認可能であり、自然任せの風化中にはあるが見学し易い素晴らしい状態が保持されている。山上には事前に地元の方に聞いたとおりに僅かな石積み跡も残存しており、遺構群の中では凄い高低差を伴う堀切が最大の見所である様には感じられた。郭内では川原石が多く目に留まった箇所が見受けられたが、地元の人の話によれば城跡に侵入して来る敵にぶつける為の「つぶて石」との見解でもあった。(個人的には数100年経た現在に至るまでの堆積物を考えれば、それは無いだろうと思うのではあるが、、、)

1route 1z登城ルート

9_2  愛宕社経由の直登進入口

3mi 城跡概念図

15_buke_yasiki_1 武家屋敷跡

23_kita_3dankaku_gunn 北三段郭

22_isigaki_ato 石積み跡見所

25_fuku_yori_shukaku_1 副郭より主郭

31_shukaku_yagura_2 主郭櫓台土塁見所

33_horikiri_1

南大堀切見所

36_horikiri_minamikaku_heki 堀切と南出郭

城跡を個人的に評価したなら、男坂城を含めた同日訪問であれば二城で集落入り口を固めた構造、あるいは二城の形態から機能の違いにまで目を向ける事が出来るので、自ずと当時の状態にまで思いを馳せる事が容易であり、状態の良さも加味すれば当然お薦め出来る城跡という事にはなる。尚、この城跡の東側山道沿いには当時の城主でもあった三方氏の墓地跡が墓碑と共に残っていたので参考までに、(近年において子孫の方が建立したものとも思われる)

3 2 8_mikatajyou_yori 男坂城跡

2009年5月11日 (月)

敷山城跡(山口県防府市)

城跡は山口県防府市牟礼にあって登山客も多く訪れる矢筈ヶ岳(標高460m)の八合目付近に位置している。城跡へは既にリポート掲載済でもある右田ヶ岳城と同様に山陽自動車道「防府東」ICが最寄の乗降口、ICを下りれば色々なルートが考えられるのでここでは割愛させて頂くが、取りあえずルート図に示した赤線を辿れば駐車場の設置された登山口までは到達出来る。ただし新幹線の高架下を潜るのに車高1.6m以上の車は通行不可となっているので、高架のない場所までは少し大回りが必要となる。登山口からは休まず歩いて20分程度で辿り着く事が出来る。

城跡は一応「国指定史跡」になっているが南北朝の戦いにおいて南軍が験観寺と言う寺院を急遽城跡として使用しただけでもあり、現在遺構として確認出来るのは寺院敷地の礎石程度であり、尾根上数箇所には削平地も窺われたが、規模も小さいものであり山城の醍醐味を感じるまでには至れないのが現実でもある。石垣なども当然近世における積み直し、あるいは新たに築かれたものである様に見受けられた。

1route_3 登城ルート

4_1 城跡遠望

6_2 登山口

3 現地案内板より

16 梵字岩

17 削平地

22_jyouseki_2 験観寺跡

21_2 説明板

28 平巨石

44_2 山頂東側大岩

山城の醍醐味、あるいは遺構などを期待して訪問される方にとっては、後で相当がっかりする事にも繋がるので、遺構などの期待は最初に抱かない事が肝心だとは思われる。当然個人的にも矢筈ヶ岳登山を楽しむ事が大前提であり、登山道中における史跡もついでに見学する程度の事で上っているので、流石にがっかりする事はなかったが、、 しかし折角この城跡にまで上って来られた方には、ここから更に15分程度も上れば山頂手前の巨石群からは素晴らしい景色が望まれる事をお伝えしたい。この地が当時の物見として利用されていたかどうかまでは知る術も無いが、想像しただけでロマンに包まれる事は請け合いでもあり、最初から史跡見学で赴かれた方には是非この巨石群までは足を延ばして頂きたい思う。巨石(信じられないほど平坦な巨石)に座り込んで味わう熱いコーヒーと前面に限りなく広がる素晴らしい景色(右田ヶ岳城も望まれる)は何とも言えず心が癒され、格別な雰囲気が味わえるのである。もちろんもう少し上れば山頂に佇む事が出来る位置でもあり、ここまで上れば当然山頂も極め無ければ意味はないが(山頂東側には眺望の利く巨大大岩がある)、、

登山を楽しむ事を前提とするのであれば右田ヶ岳城跡には叶わないまでも、ついでに城跡見学が出来るメリットも考えれば、山登りも楽しめる貴重な城跡と言うことになろうか。

2009年5月10日 (日)

岩城山神籠石(山口県光市)

この遺跡は山陽路における神籠石の存在する古代山城としては岡山県にある「鬼ヶ城」と並んで称されても決しておかしくない古代城跡の一つと見受けられる。九州には多くの遺構が現存していると聞くが、個人的に訪問したのはここを除けばまだ鬼ヶ城とたつの市にある城山城だけでもある。郷里からもそう遠くない事から岩城山は既に数回訪れているが、戦国期山城とは形態も石積み方法も素人でも分かるほど明らかに異なるものであり、残存露見している神籠石あるいは水門石垣の素晴らしさは特筆に値し、鬼ヶ城と同様に一見の価値のあるものでもある。まだ未訪の方で古代山城に興味をもたれている方には、既にリポート掲載を終えた琴石山城、鞍掛山城あるいは三丘嶽城からもそう遠くないので、山城巡りの一環として非訪問をお薦めしたいと思う。

目指す岩城山は山口県光市塩田にあって山陽自動車道「玖珂」あるいは「熊毛」ICが最寄の乗降口、ここでは説明しやすい「熊毛」ICからのルートになるが、県道8号を経由して63号に進入すればほぼ道任せに田布施町に向けて車を走らせればよい、田布施町に入ればルート図の如く道標を確認して一般道162号へ左折針路変更すれば、自ずと終点地でもある山頂駐車場までは辿り着くことが出来る。

1zz ルート図

2a 3_2 現地案内板より

7_4 岩城山より

この古代山城は見学する上では当然神籠石(列石)を含めた石垣跡(水門)が全て言っても過言ではないが、神籠石と呼ばれる石列が全ての斜面に露見している訳ではないので、遊歩道に任せて歩けば効率よく見学することが出来ると思われる。お薦めしたいコースは岩城神社より騎兵隊本陣跡を抜けて西水門へと向うコースである、ここからは西門を通過して北周りに最終東門に至るまでの石垣跡と神籠石は全て見学堪能出来る筈である。道中東水門手前には「人枡」と呼ばれる土塁の付随した大空堀も目に留まるが、この遺構は山城ファンにとっては非常に目を楽しませてくれる様には思われる。この付近には版築によって築かれた土塁が数100mに渡って存在すると案内板にはあったが、素人目には判別は難し過ぎる様には思われた。南水門は石垣が少し覗く程度の発掘状態なので特に覗いてみる必要はないようには感じられる。

11 13_nisi_suimon_1 西水門

18_kita_suimon_5 北水門

24_kitamon 北門

27_kitamon_kutuisi 北門沓石

30_hito_masu 人枡

31 神籠石

33

東水門手前の石垣

35_higasi_suimon_3 東水門

岩城山を全て覆い尽くすかの様な規模を持つこの古代山城は非常に鬼ヶ城の形態とも酷似しており、鬼ヶ城の凄い高さの残存石垣跡を考えれば、見応えでは多少劣るかもしれないが千年以上経た今日、まだ発掘されていない土中に眠る部分も加味すれば、想像する楽しさも含めて古代ロマンに浸れる事請け合いの山城と言えよう。

2009年5月 9日 (土)

祝屋城跡(広島県安芸高田市)

吉田郡山城を訪問して以来数年ぶりに広島県の安芸地方に訪れる事になったが、個人的にも戦国武将「毛利元就」の生き様に感銘を受ける部分が多く、毛利氏両川(元就の息子である吉川氏、小早川氏)と並んで好きな事、あるいは同氏に関連した多くの山城は険峻な地の利を活かしながら比較的石垣が多く使用された城跡が多く、縄張り妙味及び見応えのある事からも、今回は非常に期待を胸に抱いての安芸地方への山城巡りとなった。

城跡は安芸高田市甲田町深瀬にあって、毛利氏両川(元就の息子である吉川氏、小早川氏)とは対等な扱いを受けた宍戸氏の居城と伝わり、当時五龍城主であった元家は本城でもある五龍城を長子に譲って次男(深瀬氏を名乗る)と此方に拠った模様、尼子氏との戦いに於いては毛利軍の最前線となった城跡でもある。

1route 登城ルート

2a 現地城址案内板より

5 登山口

城跡へは中国自動車道「三次」ICが最寄の乗降口、ICより下りれば国道54号に進入しルート図の如く江の川沿いに車を走らせれば城址案内板の設置された登城口には分かり易く辿り着ける。国道の西側にある狭い道路沿いからは案内板は直ぐ目に留まり、その横から墓地を経由して上る山道は社殿まで到着すれば直ぐに途絶えるが、その先の縦堀に沿って直登すれば10分内で主郭までは到達可能である。(遠回りではあるが踏み跡程度の道はあったのかも知れない、、、)車は小型車であれば付近に路駐スペースは有

現状(四月)城跡は町史とはなっているものの自然任せの藪化進行中にあるが、規模もさほど大きくなく、ほぼ主要二郭で形成されるシンプルにまとまった山城なので、縄張りを掴む事も縄張り内の移動も容易に出来る状態にはある。ただ郭内には相当雑木が蔓延っているので全体像の視認には多少難渋はするが、当時の遺構と思われる郭跡、縦堀、土塁、堀切などは明確に判別する事が可能となっている。特筆すべき見応えのある遺構は目に留まらなかったが、五龍城を本城とした場合の支城であれば充分過ぎるほどの備えであるような気はする。尚、次に訪れる事になった素晴らしすぎる五龍城跡に関してのリポート掲載は少し後の予定(概念図の作成が非常に大変)

3iw 城跡概念図

8_tatebori 縦堀見所

12_shukaku_heki_1 主郭切岸

20_higasi_yori_shukaku 主郭内

13_shukaku_dorui 主郭土塁跡

21_shukaku_heki 東郭切岸

30_nisikaku_2 西郭

32_nisi_gedan 西郭より堀切側

34_horikiri_2 堀切

2009年5月 8日 (金)

郷城跡(京都府京丹後市)

城跡呼称の取り違いが判明しましたのでお知らせしたいと思います。

この山城は郷地区に二城(船山城、郷城)ある中、郷城の呼称を持った城跡である事が、追跡リサーチによって判明しました。よって船山城として既に紹介したこの山城は、郷城との呼称取り違いでもあり、改めて変更したいと思います。尚、船山城の所在地は現状明らかではありませんが、判明次第報告の予定はしております。

(以下本文)

城跡は京丹後市網野町郷にあって、北近畿タンゴ鉄道と県道17号の交わる踏切より川を挟んで西側の丘陵上に位置しているが、城史に関しての詳細は不明。

城跡へは目印となる大きな建物や施設も見当たらないので、ルート図と概念図を参考に訪れて頂くしかないが、峰山町から県道17号を利用して北上するのであれば前述の踏み切りを過ぎれば次の道路で左折、更に図の如く道路に任せて進み、城跡の南端に位置する墓地への進入口目指して進行すればよい(車は路駐スペースあり)。車を降りればそこから集合墓地を経由して北に向いて歩けば自ずと城跡には5分もあれば辿り着ける筈である。

現状(四月)城跡は相当藪化も進行しているが、遺構として明確に判別確認出来るのは郭跡を除けば、主郭と見受けられる小規模な郭跡に備わる二連の方形土塁壇(機能不明)、更に東郭へ繋がる郭境にある空堀と櫓台に見える方形土塁北郭及び西郭の切岸などであり、特筆すべき技巧を有した遺構は眼に留まらなかった。縄張りも現在集合墓地となっている尾根上数100mに渡って郭の展開は予想されるが、ここまで墓地として造成整地されておれば中々当時の縄張りの形態を想像するのは難しい状況でもある。現状城跡のほぼ半分以上は冬枯れしているとは言え雑木竹林地と化しており、中々満足の行く見学は出来ない状態にあるが、これから先も決して良いほうに改善されるとは予想し辛く、個人的には非常に評価し難いが、但馬地方から丹後地方にかけての多くの丘城に共通して見受けられる、櫓台にも見て取れる対面する方形土塁壇が備わっている事からも、充分見学する価値はある様には思われたのだが、、、まだ未訪で興味を持たれた方のみが訪問の対象となる城跡と言う事になるのかもしれない、、

Gou 登城ルート

5 進入口

Gou_1 城跡概念図

10_shukaku_dorui_dan_1 主郭土塁壇

11_higasi_karabori 12_karabori_dorui 東側空堀と方形土塁見所

13_higasi_monomi_gawa 東削平地

8_higasikaku_heki 西郭切岸

19_kitakaku_gawa 北郭

尚、ルート図には砦跡と記したが明らかに城跡遺構と判断出来る(独自の判断)二本の堀切の備わる小規模な郭跡が西側の別尾根先端で確認出来たので、ついでに現況報告させて頂いた。

2009年5月 7日 (木)

下岡城跡(京都府京丹後市)

この山城は町史跡と認定されながらも現状相当藪化進行中にあり、状態は良いとは言えないが細部にまで眼を配れば、残存している遺構の判別確認はほぼ出来る状態にはある。遺構としての堀切、縦堀などは多少技巧的でもあり、井戸跡あるいは郭切岸なども未だ健在でもある事から、縄張り妙味を含めた山城を体感する上では当時に思いを馳せる事も容易であり、風化中である遺構を含めても遺構残存度は極めて高く、藪城ではあるが是非訪問をお薦めしたい山城として現況をリポートする運びとなった。

城跡は京都府京丹後市網野町下岡にあって、北近畿タンゴ鉄道「網野駅」からは北西側の低山山上に位置しており、当時では高屋氏の居城を伝えるが詳細は不明。現在城跡見学としての山道も見当たらず直登を余儀なくされたが、直登進入口は画像を掲載した道路沿いに「高天山登山口」と道標のある場所からで、ルート図の如く尾崎神社の背後を回り込んで尾根沿いに上るか、あるいは下山ルートとした赤線ルートで谷沿いに上っても城跡には20分内で到達する事が出来る。案外民家脇から谷沿いに上る方が分かり易い(最短ルート)かも知れないが、、、ただ前者のルートの場合、まともに登山道に向えばそのまま高天山に上ってしまうので決して道に任せては進まない事!

現状(四月)城跡は前述の様に相当藪化は進行(特に本郭群)しているが、個人的にも遺された遺構群である特に堀切(縦堀を含めた)は決して期待はずれに終わる事は無いにも思えるので、多少の藪でも我慢出来る方には是非お薦めしたいと思う。今日における地方財政(史跡維持費)から考えても、これから更に城跡が良いほうに改善されるとはまず思われ難く、夏季訪問(梅雨以降)さえ避ければまだ充分見学出来る状況にあるのではないかとも予想される、、、

1z 登城ルート

6_tozanguti 登山口目印

3si 城跡概念図

13_dai_horikiri 西堀切見所

36_dai_tatebori 大縦堀見所

20_shukaku_noboridorui_2 主郭上り土塁見所

15_shukaku_heki_1 主郭切岸

28_kita_gedan2_1 北郭群

23_nantou_horikiri_1 南東堀切見所

30_ido_ato_1 井戸跡見所

34_horikiri_dorui 北空堀土塁見所

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