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2009年3月

2009年3月31日 (火)

南殿城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市宮井にあって、ほぼ宮井集落の西端の神社背後の山上尾根先端に位置している。次の掲載予定でもある宮井城の支城、あるいは東側を抑える意味においての砦とも窺えるが、推察の域は出ず詳細も不明。

城跡へは豊岡市内を東西に走る国道178号より一般道242号へ「福田」交差点より針路変更、後はルート図の如く宮井集落へ向いて右折、右折箇所には「宮井」方面へと道標があるので、確認さえすれば迷わず目印でもある公民館までは辿り着ける。車を停めるスペースのある公民館からは図に示すように神社まで歩き、その背後からいきなり直登すれば直ぐにでも南郭跡までは到達出来る。

現状(三月)城跡は手入れがされていないので下草は相当蔓延ってはいるが、植林地でもあり、ある程度見通しも利くので遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。城跡の形態としては最高所の主郭から東側の急斜面を利用して段郭を並べた単純なものではあるが、遺構の醍醐味としての但馬地方特有の郭境の高い切り立つ切岸は未だ健在でもあり、見所の主郭南背後の二重堀切と並んで、非常に存在感を感じる事が出来るものとなっている。堀切以外には他で技巧を伴う遺構には出会えなかったが、日も暮れる頃の急ぎの訪問となった為に、見落とした遺構も在ったかも知れない。

個人的には宮井本城に先に寄って此方に訪れたのだが、直登に選んだ箇所の急斜面は相当きつく、体力温存の意味においても此方を先に見学する事をお薦めしたい。

尚、宮井城は自分の予想を大きく覆すほどの規模、険峻な上に更に石垣を使用してより堅固な防備を誇ったものとも見受けられる素晴らしい山城と目に映ったので、どちらが先でもこの二城はどうしても同日訪問としてお薦めしたい城跡ではある。

1route1 登城ルート

4_1 東より城跡遠望

3nan_2 城跡概念図

6_tozanguti 直登口

21_shukaku_heki 主郭切岸

20_shukaku 主郭内

26_horikiri1 26_horikiri1_2二重堀切1と土塁見所

24_2jyu_horikiri_3 二重堀切2見所

2009年3月30日 (月)

高浜城跡(福井県大飯郡)

城跡は福井県大飯郡高浜町事代にあって、JR若狭高浜駅より北側の若狭湾に向いて突き出した半島状の先端に位置しており、城跡対岸には景勝「明鏡洞」もある。逸見氏の居城と伝わりそれ以後は城主の交代も激しいが、当時のこの一帯における逸見氏の善政は後世まで伝わっている模様である。

城跡へは国道27号より「城山公園」あるいは国民宿舎「城山荘」を目指せば分かり易く辿り着ける、「城山荘」付近には駐車可能でもありそこから遊歩道も設置されているので城域はほぼ全域見て回れる筈である。城跡の現状見る限りでは中央に遊歩道が南北に造成、更にそれを跨いだ形の木橋が設けられており、地形から察しても見学し易く更に遊歩道も近年新設されたとも見受けられ、地形改変は相当あったものとみてよいと思われる。しかし残存遺構としての郭壁に残る石垣跡、土塁、主郭土塁壇(櫓台かも)などは明確に判別可能でもあり、城跡ファンにとっては非常に嬉しい材料となっている。地形から推察しても城跡は当時孤立した島であった様にも見受けられ、自ずと逸見氏の支配も海上まで及んでいたと思っても差し支えないのかもしれない。尚、景勝「明鏡洞」側にも出郭らしき削平地(近世造成されたかも?)が山上に存在しているが、此方も当時の出郭と思った方がロマンも広がって楽しいのではないかと勝手に思うのである。

城跡周辺は公園化の為にどこまでの地形改変があったのかは想像に委ねられるが、現状でも充分海城の様相は窺えるものでもあり、改変はされてもここまでの形で残された海城も数少ない事から非常に貴重な城跡であるのは確かであろう。遺構残存度も余り高いようには見受けられないので推奨とまでは行かないが、見たままで充分当時にイメージを膨らませる事も可能であり、それに海城としての魅力も加味すれば自ずとお薦めの城跡という事にはなるのかも知れない、、、

1z 登城ルート

3tak 城跡概念図

7horikiri_or_kouse_miti_1 遊歩道

9_shukaku_nai 主郭内

10_shukaku_yaguradai 主郭土塁壇

14_shukaku_nisiheki_isi_1 主郭西壁石垣跡見所

16_higasikaku_kita_dorui 東郭土塁見所

19_kaku 公園内削平地

28_higasi_demaru 推定出郭

2009年3月29日 (日)

気比白山城跡(兵庫県豊岡市)

城跡呼称の訂正(2014年2月) 気比高城改め気比白山城

城跡は豊岡市気比にあって、標高180mの山上主郭には現在白山神社の社殿が建立されている。城史に関しての詳細は不明

城跡へは有名な城崎温泉を目指せば分かり易く、県道3号より温泉街を越えて円山川沿いから東を見れば一際高い山頂は直ぐ確認する事が出来る。その後、県道11号へ右折針路変更しルート図の如く向えば、道路沿いに白山神社登山口は直ぐ見つけることが出来る、そこから(路駐スペースあり)獣避けフェンスを開閉すれば、そのまま登山道によって迷わず山上までは辿り着くことが出来る(約20分)。

現状(三月)ほぼ三郭で形成される山上郭群のうち、主郭と見受けられる広い郭跡は社殿のあることから造成整備されており見通しも利くが、他二郭は冬枯れはしているのである程度見通しは利くが地表は相当荒れ放題でもある。目に留まる防備施設は虎口を固める土塁程度で、他は土塁の残欠なのか近世においての造成整地された跡なのかは素人判断では難しい状態にあり、他の二郭も郭内部に土塁などは目に留まらず切岸は健在であるが、非常に大味な縄張りと感じられた。険峻な山城である為に余り技巧さは要求しなかったものと見て良いのかも知れないが、山上郭群周囲の切り立った斜面までは雑木密生地でもあり、縦堀の有無までは踏破確認する事は出来なかった。

尚、登山口から少し登れば登山道に沿って自然構築物なのか人為的なものかは判別不能であるが、防備の為の必然性から考えても城跡遺構に見えた、登山口付近まで達するスケールの大きい凄い深さの空堀に遭遇したが、現状の様相だけ眺めて「凄い!」と思っても想像が広がって楽しめるのではないだろうか。(遺構であれば凄いと言う表現がズバリ当てはまる)

2 登城ルート

7tozanguti 登山口

1 城跡概念図

T_5 登山道中

T_11 山上郭群東尾根

T_14 東郭2

T_16 東郭1

T_28 主郭土塁虎口見所

T_20 虎口土塁

T_21 主郭内

T_25 主郭西端

城跡を個人的に評価すれば、縄張り妙味あるいは見応えのある遺構を望むなら余り期待は出来ない山城という事になるが、登山道も設置されているので自然と触れ合い更にトレッキングも楽しむ目的に比重を置くなら、当時の険峻な山城の風情は充分味わう事が出来るので、それなりにお薦め出来る城跡と目には映ったのだが、、

2009年3月27日 (金)

仮)上山北城跡(兵庫県豊岡市)

城跡呼称の訂正(2014年2月)

以前(2009年)この城跡は簸磯城として紹介しましたが、その後現地在住の山城ファンの方より、本来の同名城跡は寺院と尾根を挟んだ北側にあると言った情報を頂きました。よって「お知らせ」記事中に載せました様に、未だ(2014.2現在)城跡として認識のない山城と判明した事から、今回は上山北城跡とした仮名を用いて掲載し直しました。これから新たに調査が入るのであれば、城跡呼称も付けられるとは思いますが、、、

城跡は豊岡市城崎町上山にあって、集落の山手に位置する福泉寺の西側の尾根上から、東尾根先端部のほぼ孤立した低山に跨って郭が展開されている。城跡を訪れるには豊岡市内より県道3号を北上し、福泉寺を目指せば難なく辿り着ける。ただどこかで山陰本線の低く幅の狭い高架下を潜らなければならないが、大きなミニバンタイプの車両は間違いなく通過不能となるので、随分手前あるいは踏み切りの備わる場所を探して通過する必要はある。寺院からは南に歩いてルート図の如く青山神社参拝道経由で上り、社殿背後より直登すれば郭跡及び堀切に至るまでの城跡遺構は順を追ってほぼ見て回る事が出来る。便宜上、上山出城とした郭跡もルート図に示す墓地より上れば直ぐ到達出来る筈である。

現状尾根上郭群及び上山出城共に自然任せでもあり当然藪化は進行中にあるが、冬枯れともあって移動に支障を来たすまでには至っておらず、単調な縄張りプランでもある事からも、遺構はほぼ判別確認可能な状態にあると言っても良いと思われる。図中の主郭と見受けられる背後の土塁及び堀切が城跡唯一明確に残存する遺構あるいは見所でもあり、遺構の見応えを期待しての訪問は出来るなら避けた方が良いと思われる。ただ上山出城から山上尾根に向かうまでの城跡の形態は恐らく当時の状態のままとも思えるので、見て回る分には想像も膨らみ案外楽しめる様な気はする。個人的には上山出城の方が明らかに櫓台とも見受られる土塁が備わっており、小規模ながらも味がある事から楽しめたが、、

2 登城ルート

6tozanguti 城跡進入路

4城跡概念図

17_shukaku 主郭

18_shukaku_dorui 主郭土塁

20_horikiri_1 主郭背後の堀切見所

21_nisi_horikiri_1 西堀切

37_naka_dorui_koguti_ka 東出城土塁虎口か

40_higasi_yori_yagura 東出城土塁見所

2009年3月26日 (木)

友重北城跡(京都府京丹後市)

2010.8.17更新

この城跡は以前「呼称の訂正が必要」と判明した城跡の中の一つですが、この度本来(公的呼称)の友重城の所在地がやっと判明しました。よってこの紹介した城跡は郷土史には載せられているのかも分かりませんが、現状正式呼称が判明しないために、今回は判明するまでは「友重北城跡」として、呼称改訂した上でリポート掲載は据え置く事にしました。友重城と呼ばれている本来の山城は既に訪問しましたので、その実態は改めてリポート掲載に及びたいと思っております。

(本文) この城跡は訪れた結果、山城でもなく丘城にしては平城に限りなく近いもので、個人的には見応えのある遺構には巡り合うことが出来なかった、ブログ趣旨でもある歴史から遠ざけられた城跡、あるいは情報の少ない城跡にも光を当てると言う意味合いに置いては、今回は名前を知って頂く為、あるいは城跡に興味を持たれていた方にとっての現況報告とした形で訪問結果を掲載する運びとなった。

城跡は京丹後市久美浜町友重にあって、訪れるには国道312号よりルート図の如く城跡を目指せばよいが、国道沿いからは既に城跡の位置する丘は確認(国道交差点から見れば真西側の丘)出来るので、車は路駐となるが北側から農道を経由して墓参道を利用すれば城跡西背後の現状堀切道までは難なく辿り着ける。(現状交差点側からの農道付近が工事中でもあり遠回りを余儀なくされたが、交差点側から社殿までは参拝道があった)

1route

登城ルート

5_1

進入路

Kitajyou

城跡概念図

遺構として明確に判断出来るものは堀切道を含めた三本の堀切と、堀切間に備わる僅かに高低差が見て取れる三連の方形土塁壇(但馬地方の城跡特有の形態)のみで、地表は自然任せの風化中で更に藪化進行中でもあり、切岸などは当然曖昧で正確な郭形状までは把握出来ない状態でもある。前述の様にこの城跡に興味を持って居られた方、あるいはこれから訪問準備のあった方には現況報告としてお役に立てたかも知れないが、遺構の醍醐味を求めるのであれば期待は捨てて臨むべき城跡の様にも感じられた。

ただ交差点側から5分もあれば辿り着ける城跡なので、付近を車で移動中に寄る程度であれば充分納得のいく訪城にはなるとは思われるが、、

8_demaru 東出郭

8_horikiri 7_demaru_horikiri_1出郭背後の堀切見所

11_nisi_dan 方形土塁壇

15_nisi_horikiri 西端の堀切道

2009年3月25日 (水)

久美浜城跡(京都府京丹後市)

積雪のない頃を見計らっての本年度丹後地方における第一弾目となった城跡は、現在城山公園となり整備されていると聞いた久美浜城跡である。

城跡は京丹後市久美浜町にあって、ルート図の如く久美浜小学校を目指せば分かり易い、小学校敷地内西端には城山稲荷神社の赤い鳥居が直ぐ目に留まるので、そこを潜れば最北に位置する郭跡の転用とも見受けられる展望テラスまで5分もあれば辿り着ける。現状見る限りでは駐車場までは完備されておらず車は路駐したが、探せばあったのかも分からない、、

別名松倉城とも呼ばれる様に松倉氏の居城と伝わるが、細川氏の支配の後、あるいは豊前転封の後に廃城となった可能性が高いものと見受けられる。現在の城跡遺構は徳川時代の改修も充分考えられるが、ほぼ当時のままと解釈してよいのかも知れない。

1_1r 登城ルート

5 城山登山口

3kumi 城跡概念図

現状(三月)城跡は神社より山上主郭へ向うほど下草も多くなるが、ある程度整備されているので樹木の少ない分、非常に見学し易い状態にある。山上主郭から海に向かって段郭(六郭)を連ねただけの単純な縄張りプランではあるが、郭跡は神社敷地を除けばほぼ当時のまま現在に至った様にも見受けられるもので、比較的遺構残存度は高いようには感じられた。特筆すべき見応えのある遺構には巡り合えなかったが、低山にしては直立に感じられるぐらい切り立った、周囲の斜面が天然の切岸のようでもあり、戦国期における城跡の在り方を充分感じる事は出来た。郭外壁は相当な急斜面でもあり縦堀などの確認までは至れなかったが、この周囲の急崖を考えればそこまでする必然性は無い様にも感じられた。尚、南急斜面を別登山道で少し下りれば、現在配水施設が建てられており、その敷地は郭跡の転用あるいは郭境は地形から堀切の様にも窺われたが、推察の域は出ないものでもある。

この城跡は遺構を期待して臨むのであれば後で落胆する事にもなりかねないので、最初から期待はある程度捨てて訪問した方が喜びも大きいのではないかと思われる。個人的には郭跡からは直ぐ傍に海が望まれる事もあって、当時の港町という状況もある程度察する事が出来、城山にも中々風情を感じられ、更に戦国ロマンに浸る事も出来たので充分満足の行く訪城と言えるものにはなったが、、

10_kaku6_1 北端の郭跡

12_kaku6_yori_ue_1 神社側の切岸

13 北端郭の土塁跡か

14_kaku5 郭5

20_kaku1 郭1

24_shukaku 主郭の現状

27_minami_kaku 南斜面堀切に見えたが?

2009年3月24日 (火)

荒滝城跡(山口県宇部市)

城跡は宇部市楠町東吉部荒滝にあって標高459m(比高250m)の荒滝山山頂に位置している。当時長門守護代であった内藤氏の居城と伝わり、西国では権勢を欲しいがままにしていた大内氏の重臣でもある。現在残存する遺構もほぼ内藤氏時代のものとも見受けられるが、大内氏と時を同じくして滅んだ後、毛利氏においてどの様な機能を担ったのか詳細は不明。

城跡への道順(目印となるものがない)としてはどの様な経路で到達したのか分からないほど相当な山奥まで車を走らせなければならず、色々なルートが考えられるのでここでは割愛させて頂くが、国道490号から県道30号へ進入さえすれば道路沿いに荒滝山登山口案内板もあり何とかなりそうに思われる。案内板より北上すれば登山口にはトイレの設置された駐車場も完備されている事から、多くの登山客に人気のある山の様にも見受けられた。

1route_2

登城ルート

Tozanguti 登山口

1z_1 現地縄張り図

山上主郭までは道標もあることから迷わず辿り着けるが、流石に戦国期の険峻な山城である、距離も時間もたっぷりかかり山上に到達するまでに40~50分は要した。おまけに現状(七月)夏真っ盛りでもあり相当な体力も奪われてしまった。しかし山頂からのロケーションは素晴らしく山上の広くゆったりとした空間は疲れも心も癒される様に思われた。多くの登山客が山上を目指して訪れるのも充分納得の行くところではある。ただ城跡遺構は全域が夏草に覆われており、地表も見えないので郭形状の把握も困難、細部に渡る遺構の確認は更に困難、何とか石垣跡、虎口跡は目にする事が出来た、背丈ほどもある夏草の為に他の郭への移動も視認も困難な状況でもあり、現地縄張り図における西郭も規模の大きい東出郭も踏破することは出来なかった。事前に登山道は整備されていると聞いていたので案外山上もそれなりに整備されていると思っていたのが大間違いでもあったが、しかしこれほどとは想定外の事でもあった。縄張り図には畝堀の位置まで記されてあったが、それも論外の話でとても見学出来る状況に無いのが現実でもある。

今回は最悪の時期における訪問となったが、冬季の訪問となれば決してこの限りではないものと思いたい。しかし遠距離の訪問でもあり、そうそう訪れる機会もこれからあるとは思われないので、非常に残念な思いだけを胸にしまって下山する結果となった。冬季訪問となれば状態も少しはマシと思われるが、縄張り図を見る限り絶対に再訪する価値のある山城と目には映った。

Higasi_kaku_gun 東郭群

20_gedan2 東郭2

18masugata 枡形虎口?

17kuruwa_sokuheki_isi 石垣跡見所

21shukaku_e_koguti 主郭虎口

23_shukaku_nai 主郭内

6yasikiato2

麓登山道中で

2009年3月23日 (月)

長見城跡〔兵庫県丹波市)

城跡は丹波市春日町長王にあって別名「長王城」でもある、黒井城と野山城(既にリポート掲載済)の間に挟まれた形のこの城跡は当然黒井支城あるいは砦跡、居館跡の様にも窺われるが詳細は不明。

城跡へは野山城を起点にすれば分かり易く、ルート図を参考にして北側の長王地区に車で向えば目印となる長見公民館までは数分で辿り着ける。ここに車を停めれば概念図に示す通りに楯縫神社を目指し歩き、切り通し道から北斜面に向いて直登すれば直ぐに南郭に到達可能である。

現状(三月)城跡は植林地でもあり見通しも利くので二郭で成立する全長100m程度の城跡の遺構は全て判別確認可能な状態にある。郭跡を除けば土塁及び二本の堀切が残存している遺構と見受けられるが、堀切も土塁も郭切岸も良好に残っている事、あるいは全体像がある程度窺える事からも小規模とは言え充分見応えを感じる事は出来る。

尚、別ルート図に示す山田砦跡(二郭と堀切が残存)もこの長見城からは至近距離にあり、同じ黒井城塞群として考えれば野山城とも同日訪問も可能であり、三城の形態の把握あるいは立地環境まで同時に見て取れるので有意義な山城巡りが出来るのではないかと思われる。

1route1 登城ルート

7_kiritoosi 直登進入口

3n 城跡概念図

15_kita_yori_minamikaku 南郭

14_horikiri_1 堀切

16_shukaku_dorui 主郭南土塁見所

17_shukaku_1 主郭内

22_2jyuuhori_dorui_2 24_2jyuu_hori 北堀切見所

Photo 山田砦概念図

1 山田砦二段郭

2

堀切

2009年3月22日 (日)

後城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町後(ウシロ)にあって、先に訪問リポートを終えた愛宕山城とは程近い距離にあり、国道426号から久畑関所跡を越えれば県道63号へ左折南下する、後はルート図の如く出石川を渡り神社を目指して進行すれば難なく辿り着ける。室町から戦国期においては石坪氏の居城が伝わるが詳細は不明。

神社の社殿背後を登り切れば直ぐ主郭が迎えてくれるが規模は小さく、遺構としても郭跡を除けば主郭東側の堀切が目に留まる程度で、見応えのある遺構は当時の遺構とすれば堀切及び社殿の建立された敷地の直立に近い切岸は挙げられるが、敷地自体が背後が削られた形跡があるので、これも当時のものかどうかは見学者の判断に委ねられる。但東地区にはこの様な小規模な山城あるいは丘城が多く見られるが、どの城跡も当時但馬守護職であった太田氏関連あるいは傘下の城跡とみてまず間違いのない処か、、

余談になるが、地元の方に城跡の情報として聞き及んだ処によれば、この集落名の「後」ウシロはオシロ(御城)が訛ってウシロに変化したものとの言い伝えがあるそうであり(確かに古代においては「オ」と「ウ」は共通した語源であった事が所有する文献に載っていた)、当時城を中心として出石川に向いて民家あるいは家臣の屋敷が重なり合っていたとも想像出来そうに思えた。

遺構だけ捉えればとても見応えがあるとは思えないが、至近距離に位置する久畑愛宕山城、あるいは同じ国道北西3km地点に位置する西垣城と、セットとして同日訪問すれば充分納得の行く山城巡りになるのではないだろうか。

1 登城ルート

7_2 出石川より遠望

3usiro 城跡概念図

U_1 神社の凄い切岸

U_12 神社敷地(郭跡か)

U_3

主郭の現状

U_5 堀切

2009年3月21日 (土)

西垣城跡(兵庫県豊岡市)

この城跡は豊岡市への移動も兼ねて頻繁に利用していた国道426号沿いから直ぐ望める山上に位置しているが、かねてより山容及び立地環境などから考えても山城としか考えられず、どうしても確認したい欲望にかられ久々に向う豊岡移動の際に見当だけ付けて登ってみた。結果的に山頂には規模は小さいが山上郭並びに明確に判断出来る素晴らしい二重堀切が南北尾根に横たわっており、興奮を抑え切れずいち早く鮮度の高い情報を掲載するに及んだものである。

城跡は下山後乏しい文献で調べた処、西垣城と言う呼称は判明したが、西垣氏の居城が伝わるだけで詳細に関しては不明である。但東地区は秀吉による但馬攻略以前、古くは太田氏(亀ヶ城主)の支配地でもあり、推察ではあるが太田氏家臣在城の山城であった可能性は高いと想像される。城跡へは国道426号を利用して既に訪問リポート掲載済である沢田城跡を起点にすれば分かり易いが、豊岡市但東栗尾地区よりルート図の如く国道から川を越える、車は酪農場手前付近に路駐可能でもあり、そこから山道に沿って上り、途中から尾根先端斜面に取り付いて急斜面を登れば、20分程度で山上主郭に辿り着く事が出来る。

現状(三月)城跡の北東斜面は全て木々が伐採されており裸状態でもあり、山上に佇めば素晴らしいロケーションも目の当たりにする事が出来る。お陰で北側尾根を断つ二重堀切も全体像を窺う事が出来、山上郭はもちろんの事、麓より望めば裸同然の当時の山城の状態(写真画像にある)に思いを馳せる事も容易に出来る。城跡最大唯一の見所は前述の二重堀切と南側に備わる二重堀切で、長年の堆積物及び風化を差し引いても状態は山城としては申し分のない状態でもあり、ほぼ完存とも見受けられる戦国期山城を充分堪能する事が出来そうに思えた1route_2

登城ルート図

4_1a 城跡遠望

7 進入路

3nisi2 城跡概念図

N_6 主郭の現状

N_8 主郭北側

N_4 北尾根二重堀切見所

N_10 二重堀切1と土塁

N_16 堀切と主郭壁見所

N_29 N_32 南側二重堀切見所

今回は数年来より気になっていた山城跡をやっと踏破する事が出来、おまけに素晴らしい二重堀切にも出会え、これ以上ない感動を胸に仕舞いながらの下山となったが、この楚々とした山城は規模は小さいが当時の雰囲気を残す裸同然の郭壁、及び南北二箇所の堀切を窺う為だけで訪れても、決して後悔する事のない城跡であると自分の眼には映った。個人的にも是非訪問をお勧め出来る山城の一つである。

2009年3月20日 (金)

鶴城跡(兵庫県豊岡市)

この城跡は個人的には二度目の訪問となるが、低山の山上はほぼ全域が郭跡とも見受けられ山上における郭占有面積は大きく、畝堀あるいは石垣跡、井戸跡、土塁、堀切など素晴らしい遺構群が目白押しとなっており、縄張り変化にも相当富んでいる事から見て回っても時間の経つのを忘れる程でもあり、見応えのある遺構群は非常に眼を楽しませてくれる、正に推奨に値する城跡と目には映った。

数ある遺構の中でも貴布祢神社のある出郭背後を断つ堀切の高低差は凄まじく、他の尾根を断つ堀切(二本)と並んで城跡最大の見所と言えるものになっている。この三本の堀切と現状相当埋もれているので明確に判別はし難いが、概念図中の東側の畝堀は決して見逃してはならない! 尚、現地案内縄張り図には主郭北壁にも畝堀が記載されてあったが、現状を見る限り低い熊笹で一面覆い尽くされており、中々外見からは判別し難い状況でもある(結果的には確認出来なかった)。

城跡へは国道178号からルート図の如く北から進入しても良いが、豊岡市内から北上すれば川沿いに走り、堀川橋を渡れば登山口でもある公民館横には分かり易く到達出来る。貴布祢神社からも登山口があるが、お薦めしたいのは公民館横に車を停めて妙見堂経由で山上郭群の遺構見学をしながら貴布祢神社に下りて行くルートである。個人的にはどちら側からも上ったが、今回お薦めする方が比較的楽な登山の様に感じられた。

1route_2 登城ルート

2x 現地案内板

6_tozanguti 登山口

3a 城跡概念図

17_naka_yori_atago 山上郭群

21_tameido 溜め井戸か見所

22_atago_heki_isi 愛宕郭東壁の石垣跡見所

25_unebori_1 東斜面の畝堀見所

30_shukaku_dorui_1 主郭土塁

40_koguti_dorui_1 北西郭群土塁虎口

45_hokusei_horikiri_1 北西堀切見所

50_kibune_horikiri_4 貴布祢出郭の大堀切見所

現状(三月)城跡内は一部では下草も蔓延っているが、遺構判別に支障を来たすまでには至っておらず(郭斜面は別)、遺構保全状態も比較的良く、更に樹木も少ない事から見通しも利くので、前述の主要な城跡遺構はほぼ判別確認出来る状態にある。城跡の形態としては自然地形を上手く利用し、山上主郭から四方尾根に郭を展開させた城域の広い山城と見受けられ、低山でありながらも郭斜面は非常に急峻でもあり、畝堀や堀切、おまけに一部郭壁に石垣まで用いた、戦国期における本格的山城の様相を呈しているものでもある。愛宕神社及び妙見堂周辺は神社敷地として後世において多少造成地形改変があった様にも思われるが、郭跡の転用とすれば当然当時の城跡の一部でもあり、戦国期山城を体感する上では大して影響は及ぼさないものとみた。

城跡の南北尾根先端までは踏破確認出来なかったが、山上郭群はまとまったものでもあり、見学し易く更に遺構の判別確認もし易い事から、まだ未訪の方には是非訪問をお薦めしたい山城の一つと言えるのは確かである。

2009年3月19日 (木)

新高山城跡(広島県三原市)

城跡は先に掲載を終えた高山城より沼田川を挟んだ真西対岸の山上に位置しており、先に高山城を訪問すれば直ぐ西向かいに聳える険峻な山がそれでもあり直ぐ確認する事が出来る。城跡へは橋を渡ればルート図(高山城に掲載)の如く進行、川沿いにある作業所(工場)の立ち並ぶ付近に案内板もあることから駐車場は直ぐ確認出来るはずである。そこからは道標もあり迷わず山上までは到達出来る。2a 3 3z_2

高山城より遠望

この城跡も高山城と同様に賛辞の言葉を失うほどのもので、縄張り妙味も尽きる事のないただ単純に「凄い!素晴らしい山城!」としか表現のしようがなく、全てが見所とも言ってよい城跡である。やはり指定史跡ともあって遺構残存保持状態は抜群でもあり、郭内はある程度見通しも利き、郭跡はもちろん主要な残存遺構である石垣跡、井戸跡なども明確なものを見学する事が出来る状態にある。もちろん巨大な山城である為に縄張りにおける全ての範囲が良い状態にあるわけではないが、ほぼ満足の出来るレベルにあると思って頂ければよい。この城跡は(旧)高山城と同様に他城跡サイトでも文献でも多くの紹介がされており、山城ファンならずとも多くの方が見学に訪れられている山城でもあり、既に訪問されている方も多いと思われるので敢えて細部に渡る現況報告は割愛させて頂く。

巨大さ城域の広さにおいては毛利氏本城でもある全山要塞化した吉田郡山城とは当然比較するレベルにはないが、険峻さを含めた山城の佇まい及び三峯に跨る縄張りの醍醐味、更に遺構などの見応えは郭高低差もある事から遥かに此方が勝っている様には感じられた。山上主郭最高所から回りを見渡せば眺望も素晴らしく、正しく「天空の城」を感じさせてくれる素晴らしい山城であると目には映った。

遠くから訪れる山城ファンも多いとは思われるが、語り出せば限のないこの新旧高山二城は見学の為に一日がつぶされても決して後悔はしないと思われる、探せばいくらでも新しい発見が生まれそうにも思われる山城なのである。これで石垣跡でも完存していれば同じ石垣城でもある但馬竹田城を遥かに凌駕するほどの規模の山城であるだけに非常に惜しまれる、数年後にも再訪を果たして三峯を今回同様歩き回っている自分の姿が想像出来そうにも思えるのである。

6_tozan_1 登山口

30_shukaku_tumemaru_e 山上主郭

32_tumemaru_nai_2 詰丸先端

37_oote_koguti_isi_1 大手虎口

38_koguti_sita_isi 石垣跡

40_turiidan_ido_1 井戸跡

50_isiyumi_dan_karabori 空堀

53_oku_nisimaru 西の丸

2009年3月18日 (水)

高山城跡(広島県三原市)

城跡は三原市本郷町本郷にあって、西国では毛利元就に次いで名を馳せている毛利氏「三本の矢」の一人小早川氏の居城である。この城跡は個人的にも好きな戦国大名の一人である真田氏と並ぶ毛利氏の城跡と言えるだけに思い入れも強く、城跡を語り出せば限がなくなってしまう。他の城跡サイトでも数多く採り上げて紹介がされている様なので、敢えて城跡の細かい説明は省略させて頂くが、南北二峯に跨る広大な規模を誇るこの巨大山城は、ただ「凄い!」「素晴らしい」と言った言葉で表現するより他の言葉は浮かんで来ない。川を挟んで西対岸の山上に位置する新高山城が築城当時において先進性が備わったものであるとすれば、此方は当然古い形態の山城になるが、郭群も改修を重ねながら拡張したと見受けられ、縄張りも地形任せで多少の高低差を付けて雑然と郭を並べただけものであり、自ずと技巧的な堀切も多用はされていないものでもある。しかし多くの郭壁には部分的に石垣跡(土留め石に近いと見受けられた)も窺う事が出来、新高山城が完成するまでは当時としては先端技術も採り入れた最高の山城であった様には窺われた。

1route 登城ルート

4_1 南より城跡遠望

6_tozanguti 登山口

城跡へ車で向うには山陽自動車道「本郷」ICが最寄の乗降口、県道33号より沼田川沿いに南下しルート図の如く左折すれば、既に城山は視界の中に確認出来るはずである。踏み切りを越えれば住宅地の密集する山麓の最奥近くにある「天理分教会」を目指せばよい、道標などは一切設置されておらず駐車場も完備されていないので当然付近に路駐ということになる。写真にある登山口から山道に従い上れば、自ずと山上(南峯郭群)までは15分程度で到達出来る。

現状(一月)千畳敷きのある南峯郭群、主郭のある北峯郭群共に整備が行き届いており、木々が少ない事からも見通しも利き、見学ルートも設定されているので移動し易く非常に見て回りやすい状態にあるが、南北峯を連結する広大に見える平坦な郭群は全域が矢竹藪と化しており、一旦遊歩道を外れると郭内を覗く事も移動する事も困難な状態となっているので縄張り全域を踏破して確認する事はほとんど不可能と言える状況にある。しかし城跡全体の遺構残存度の高さ、あるいは本郭群の状態の良さがこれだけのものであれば山城としては充分過ぎるものでもあり、ほぼ満足の行く遺構見学も戦国期山城を体感する事も可能である様には感じられた。個人的には都合で新高山城とセットで同日訪問は出来なかったが、二城の形態の違いから石積み土木技術の相違まで明確に窺う事が出来る隣接した巨大山城跡はそう多くは存在しないので、未訪の方は是非二城同日訪問をお薦めしたい。

15_karabori_daidorui 南峯郭群空堀見所

17_nantou_yori_dorui_gawa 南峯郭群

25_iwao_nai_idoato イワオ丸

27_iwao_nisi2_1 南峯郭群西郭

52_honmaru 本丸

58_2maru_nisi_gedan_yori 二の丸側

59_kita_maru 北の丸

68_ougi_minami_isi_1 扇丸壁石垣跡見所

2009年3月17日 (火)

高瀬城跡(三重県伊賀市)

この城跡遺構は先にリポート掲載に及んだ恒矢氏城跡中に記載している様に、近世造成された道路を挟んだ南側丘陵上に位置している。個人的にも外見からあまりにも山城の様相が窺えたので寄ってみた所、伊賀の城跡らしく居館跡とも見受けられる三方土塁を巡らした主郭跡(現状は畑地)、櫓台とも見受けられる土塁最高所の郭跡、空堀に見える掘削された跡、土塁虎口などが確認出来た。もちろん発掘調査の有無あるいはその結果などは知らないので独自による推察と言う事になるが、自作概念図に描いたものが独自で判断した遺構と呼べそうなものである。現状の主郭(畑地)周囲を巡る分厚い土塁、社殿のある削平地は櫓台とも見受けられるもので、伊賀の城跡を見て回っている方なら直ぐ城跡の形態として判別出来るものでもあり、恒矢氏城跡に関連した南出郭群とも窺えそうに思えたので、今回は(仮名)恒矢南城跡(現状城跡呼称は文献にて照会中)としてリポートの掲載に及んだ。尚、くれぐれも城跡遺構としたものは独断と偏見によるものであり、個人的にも恒矢氏城跡を見学ついでに寄って城跡遺構を確認しても、絶対に無駄足には終わらないものと判断したものである。藪化していないだけに全体像も窺う事が出来、城跡遺構としては非常に見学し易く貴重な存在であると目には映ったが、、、

城跡遺構へはルート図中にある進入路より最上段に位置する民家横より直接山上まで上れるのだが、住宅地庭先あるいは横の畑地を通過する事になるので住民の方に了解を得たほうが良いとは思われる。(個人的には偶然畑仕事をされていた地元の方に許可を得て通過させてもらったが、、、)

現状(二月)城跡と見受けられる主郭に相当する丘陵上は畑地となっており見通しも利くので三方を囲む土塁を含めて全体像を窺う事が出来る状態にある。この地を城跡と断定した上での見所はやはり現在土も流れ出して高さは失われていると思えるが分厚い土塁、良好に残存する土塁虎口、社殿の建つ一際高い位置にある櫓台大土塁といった処になると思われる。

もしブログ読者の方で既にこの城跡遺構を見学して、城跡呼称の確認までされた方が居られるのであれば、是非情報を提供して頂けると有難いのですが、、、

12/1日)お蔭様で外部情報により城跡呼称が判明しました。

3ka 城跡概念図

4a 西より遠望

8_kitakaku_yagura_1 北郭より櫓台壁

11_dorui_koguti 土塁虎口と目に映った

14_yagura 櫓台

15_shukaku_dorui 主郭土塁見所

18_shukaku_minamigawa 主郭南側

20_minami_yori_shukaku 南郭より主郭土塁見所

22_karabori_ato_dorui 当時の空堀に見えた

2009年3月16日 (月)

恒矢氏城跡(三重県伊賀市)

この城跡は島ヶ原地区大道にあって、先にリポート掲載を終えた清助山城、杉山城とは程近い距離にあり、正月堂を起点にすればルート図の如く東側に進路変更して城跡を目指せばよい、川を渡れば進行する道路方向の左右南北に山に近い丘陵が見えてくるが、さも山城の様に窺える右手の山がこれから向う城跡ではなく、峠に近い場所まで上った概念図に示す左手側が恒矢城跡であり、空き地から直登すればいきなり南郭の土塁が迎えてくれる。尚、前述の山城の様に窺えた右手南丘陵上も後で立ち寄った結果、個人的にも城跡と判断出来る遺構を眼にする事が出来たので、その現況リポートは次で掲載の予定。城跡は名が語る様に恒矢氏の居城と伝わるが詳細は不明

現状(二月)城跡は、下草や雑木に覆われて全体像を窺う事が出来ない主郭内を除けば、それなりに見通しも利くので郭跡、堀切、土塁、櫓台土塁といった主だった遺構群は全て判別確認は容易に出来る状態にある。丘城の多い伊賀にあってはこの城跡もそれに近いものがあるが形態は山城に近く、周囲を巡る高土塁も使用されておらず背後に櫓台の設けられた主郭だけが突出した高低差を以って構築されている。見所は便宜上の二の丸と三の丸境に位置する巨大仕切り土塁、主郭の背後を断つ大堀切と更に北に付随する巨大土塁で、堀切北側の土塁の方は高低差及び分厚さから櫓台としての機能も推察され、見応えのある深い堀切と相俟って更に相当な迫力も醸し出している、中央の仕切り機能を持つ巨大土塁は二の丸側にある虎口の備えである様にも見受けられた。

現状三の丸から南郭に向いては、住宅地側の郭跡切岸が敷地に合わせて不自然な形で削り取られ、更に堀切及び土塁もいきなり西側が不自然に削られた格好となっている為、ある程度近年の宅地造成によって縄張り内は地形改変があったのではないかとも見受けられた。直登到達地点における南郭端の堀切土塁と思われた構造物も造成地の為に削り取られた後の残欠とも見受けられるもので、推察の域は出ないが南側は相当郭遺構が消失している様にも感じられた。しかし現存する遺構だけでも充分当時に思いを馳せることは出来るので、残る遺構から当時の城跡の状態を想像する楽しさも含めれば充分楽しむ事の出来る城跡と言えよう。

1r 登城ルート

4_tozanguti_2 直登口

3 城跡概念図

7_horikiri 南郭堀切見所

9_minami_gawa 三の丸より堀切側

14_2maru_yori_dorui_1 二の丸より巨大土塁見所

18_shukau_nobori_koguti 主郭上り虎口

18_shukaku_2 主郭の現状

20_shukaku_yaguradai 主郭櫓台土塁見所

23_horikiri 北大堀切見所

2009年3月15日 (日)

丹波金山城跡(兵庫県篠山市)

城跡は篠山市追入にあって標高537m(比高300m)の険峻極まりない金山山頂に位置している。国道176号から鐘ヶ坂トンネル手前にある追入神社を目指せば分かり易く辿り着く事が出来るが、登山口は追入神社の少し南側にあり案内道標も設置されているので直ぐ見つけることが出来る。山上には景勝「鬼の架け橋」がある事からも登山客も多く訪れる様だが、見る限りでは駐車場は完備されていなかったので車は付近に路駐となる。

京都府にある周山城と並んで明智の築城として名を馳せており、現地説明板に記載されていた様に八上城と黒井城の連携を阻止するが為にこの地を選んで築かれた事は立地上からも自ずと察しは付く。既にリポート掲載済である周山城とは臨戦時(丹波衆)あるいは最前線といった当時の状況もあってか、規模も縄張り妙味も普請における労働力も比較にはならないと思われるが、山上に残存する無骨な石垣は当時を語るには充分過ぎるほどの遺構でもあり、山城ファンにとっては30分~40分かけて登ってもこの石垣を見るだけで疲れは一掃される様にも思われる。

1route1 登城ルート

2z 現地案内板

3k 城跡概念図

個人的にも三度目となる今回の訪城は山登りを楽しむのが一番の目的であり、更に石垣跡が前回訪れた数年前よりどこまで自然保持されているのか興味があった事によるものでもある。現状(三月)城跡は過去の訪問時より遥かに素晴らしい整備状態でもあり、中腹に位置する整備保持された園林寺跡から規模の大きい馬場跡を通過して、山上郭に至るまでの概念図に示した城跡遺構はほぼ判別確認出来る状態にあるが、規模の大きい山上東郭までは整備が行き届いておらず、下草も雑木も相当蔓延っている状況にある。此方は自然岩がゴロゴロしている郭跡でもあり、外見からは自然地形としか目に映らないが郭内に入れば削平は行き届いており、更に郭の東側先端まで足を延ばせば切岸、あるいは虎口、虎口郭、帯郭などの遺構も窺う事が出来る。

この山城は周山城と並んで明智以後改修はされていない様にも見受けられ、縄張りも城跡遺構もほぼ当時の状態のまま、あるいは風化されるままで現在に至ったものと思われるが、石垣跡だけに限って言えば五世紀に渡る風雪あるいは自然災害を乗り越えよくぞここまで自然保持されたものである。数年振りに訪れたこの山城の山頂に一人佇めば城跡を独り占めした気分にもなれ、更に当時の過酷な戦国期を生き抜いた人達の情感にまでも触れそうに思えるのである。はかなくも天下を取り損なった明智のこの城跡は未だ戦国ロマンに包まれており、険峻な山容も加味すれば正しく「天空の城」そのものの様に感じられた、登山も山城見学も両方堪能する事が出来る貴重な城跡の一つである。

17_koguti_dorui 馬場虎口土塁見所

19_baba 馬場跡

23_shukaku_higasigawa 山上主郭の現状

29_koguti_isigaki_2 北虎口付近の石垣見所

27_minamiheki_isigaki_2 32_seinan_isi 残存石垣見所

46_higasikaku_hasi_1 山上東郭群

36_oni_kakehasi_1 西郭の景勝鬼の架け橋

2009年3月14日 (土)

国吉城跡(福井県三方郡)

城跡は福井県三方郡美浜町佐柿にあって、現在でも発掘調査がされている佐柿集落の北東奥が居館跡あるいは屋敷跡にあたり、更にその北東側の山の山上部が山城(山上郭)としての国吉城である。 城跡へは国道27号からルート図の如く進行すればそのまま駐車場まで分かり易く到達出来るし、到着後は道に従えば自ずと城主居館跡の大規模な石垣跡、土塁跡、郭跡を窺いながら山上主郭まで辿り着く事が出来る。山城ファンにおいては道中における戦国期以降の史跡である准藩士屋敷跡、奉行所跡などは敢えて見学する必要もないかも分からないが、遊歩道の道順としては自ずとそこを通過するので見学しても無駄にはならないだろう。

1route 登城ルート

1m 2c_2現地 パンフレットより抜粋

4a パンフレット縄張り図

現状(11月)山上郭群は整備がある程度行き届いているので城跡遺構の判別確認は容易に出来るが、郭切岸などには下草も相当蔓延っているので石垣跡などはつい見逃してしまう恐れがある、広い面積での石垣跡は残存してはいないが山上郭壁随所に窺う事が出来る。縦堀などは目に留まらなかったが郭高低差もある事から必要としなかったとも考えられる。見所としては(伝)二の丸における状態の良い土塁あるいは土塁虎口跡、主郭周りに残る石垣跡、堀切(一箇所)などは挙げられるが、単純な連郭式の縄張りでもあり、最初から多くの期待を持つ事は避けた方がよいと思われる。しかしこの城跡は麓居館跡から山上に至るまでの縄張り、あるいは城跡遺構を含めた全てが戦国期を物語るものでもあり、現在麓で発掘中の遺構群も併せれば醍醐味は感じられ充分推奨に値する城跡と言える。

6_1 居館跡、山上郭遠望

14_yakata_ato_isi 麓発掘中の石垣跡見所

7_iyakata_2maru 二の丸土塁虎口見所

21_2kaku_nai 北西2郭

9_horikiri_dorui_isi 主郭西堀切見所

14_shukaku_koguti 主郭虎口

19_shukaku_yaguradai_dorui 主郭土塁

11_shukaku_isi2 主郭壁石垣跡見所

24_3kaku_yori_2kaku 北西3郭

2009年3月13日 (金)

白石山城跡(福井県大飯郡)

この城跡は若狭地方では初の訪問リポート掲載となるが、個人的にもまだこの地方の訪城は数も知れており、ついつい今日に至るまで掲載を先延ばしにしていた経緯がある。文献及びネット上でもほとんど紹介されていない山城ではあるが、山上には素晴らし過ぎる石垣遺構が残存しており、今回は若狭地方の第一弾目にあたる城跡としてその現況報告を掲載するに及んだ。城史に関しての詳細は不明であるが粟屋氏の居城と伝わっており、推察ではあるが当時若狭守護であった武田氏の家臣、粟屋氏(国吉城が有名)一族の城跡の可能性は高い様に思われる。

城跡は福井県大飯郡高浜町馬居寺(マゴジ)にあって、馬居寺すぐ西側に聳える山の山上に位置している。国道27号よりJR「若狭和田駅」付近より南下して馬居寺を目指せば容易に辿り着く事が出来、ルート図に示す様に寺院背後から舗装道で城跡南背後まで上れるので、車を路駐し尾根を少し北側へ移動すれば5分足らずで最初の堀切が迎えてくれる。

1route 登城ルート

5_minami_tozanguti 城跡南側からの進入口

3a 城跡概念図

現状(四月)城跡は相当藪化も進行しており、全体像の視認は当然困難な状況にあるが移動に難渋する状態でもないので歩き回れば山上における城跡遺構はほぼ判別確認出来る状態にはある。城跡最大の見所は前述の石垣跡であり、堀切を挟んだ本郭群の郭壁には随所に渡って残存石垣を窺う事が出来る。特に便宜上の二の丸東壁及び虎口周辺には多くの石垣跡が目に留まり、最大10mにも及ぶ石垣跡は一層見学者の目を楽しませてくれている。直線的に郭を連結しただけの縄張りと見受けられるが山上は四本の堀切によって分断されており、本郭部壁面が全て石垣で覆われていた事を考えれば、当時では相当堅固な山城であった様にも感じられる。石垣跡を筆頭に他では土塁跡、堀切なども明確に判別出来るので、当時の山城の状態にまで思いを馳せるのは容易でもあり、それだけで楽しさが倍増する事は請け合いの城跡とも言える。今回は山上のみの探索となったが、現状の藪を考えればとても北尾根まで踏破する気にはなれなかった。地図上からも北側尾根から麓までは郭の展開が当然予想される箇所でもあり、冬季に訪れる機会があれば改めて北尾根も覗いてみたいと言う気にさせられた。

城跡の成立した時代背景も詳細も現状での乏しい資料からは分からないが、これだけの石垣跡を含めた遺構が残っておれば充分推奨に値する城跡でもあり、個人的にも是非訪問をお薦めしたい山城の一つに加えられる。

23_shukaku_nai_yagura 主郭内の現状

26_yguradai_karabori_1 郭内の空堀見所

24_shukaku_nisi_heki_2 主郭西壁石垣

29_2maru 二の丸内

33_higasigawa_isi 二の丸東石垣

34_2maru_nisi 二の丸西石垣見所

35_koguti_kitagawa_2 北虎口石垣見所

40_horikiri 北堀切見所

2009年3月12日 (木)

野山城跡(兵庫県丹波市)

城跡は丹波市春日町野山にあって、既にリポート掲載に及んだガンジョウジ城跡とは南北に長い同じ山塊にあり、権現山(標高349m)から東に向う枝尾根上先端に位置している。黒井城の西側を抑える砦跡にも窺えるこの山城は、通常は山塊を挟んだ集落の真反対側(市辺集落)から登山道が通じている様にも思えたが、距離も時間もたっぷりかかりそうに感じられ敢えて最短直登ルートを選択した。城跡へはルート図の如く国道175号より山側の道にそれて、写真画像に示す作業所建物の左手奥より上り始める、獣避けフェンスを開閉して南西側に向いて急斜面を休まず上れば20分もあれば山上郭に辿り着く事が出来る。

現状ほぼ二郭で形成されるこの小規模な城跡は意外にも藪化しておらず、見通しも利く事から多くはないが遺構のほぼ全ては判別確認出来る状態にある。郭内及び郭壁には多くの自然岩が露出しており郭形成にも一役買っていそうにも思われ、露岩を取り込み石積み跡の様にも窺える箇所が西郭壁では目に留まったが、これを遺構とするかどうかの判断は見学者に任せたほうが良さそうには思える。ちなみに個人的には石垣跡と思いたいが、自然に岩が割れて石垣跡に見えるものの様に思えた、、

城跡は戦国期における砦跡(ほぼ完存とみた)としては充分過ぎる風情を残しており、要害堅固がそのまま当てはまる山城と目には映ったが、見所としては東西の尾根を分断する二本の堀切だけだと言っても過言ではなく、岩盤を削って築かれた西側の堀切は特に見応えが感じられた(凄い!)。個人的にもこういった砦跡は隠れ家的でもあり非常に好きな部類に入るが、急斜面をわざわざ直登で登った価値は充分あったと一人山上で余韻に浸るのである。この山城は登山における急峻さも手伝い、遺構の醍醐味は前述の様に堀切だけの様にも見受けられたので是非お薦めと云う訳にはいかないが、険峻な山城が好きで足腰に不安のない方、あるいは登山の好きな方であれば必ずや満足感には浸れそうには思えるのである。尚、下山時には北側へ向いて下りたが、沢筋沿いから麓の墓地までは山道が窺えたので、案外此方から進入登山しても良かったのかも知れない。ただ途中から道は消えるが、、

1route_2 登城ルート

5 直登口

3noyama_2 城跡概念図

10_rinkaku_1 東輪郭

13_higasi_kaku_1 東郭

15_higasikaku_iwa_yagura 東郭櫓台か

21_horikiri_1 堀切

25_shukaku 西郭

28_nisi_haigo_iwa_2 西郭壁大岩群

30_horikiri_2 32_nisi_horikiri_heki 西堀切見所

注) 余談になりますが城山一帯(他、丹波地方も但馬地方も同様)は鹿が繁殖しており、暖冬のせいも相俟ってダニの巣窟と化しています。今回の登山(三月)でも相当数のダニがズボンに付着していました、面倒ではありますが見つけたダニは小まめに掃うのが最良の方法だと思います。

2009年3月11日 (水)

松ヶ嶽城跡(広島県東広島市)

城跡は東広島市河内町入野にあって、ルート図の如く標高500m付近にある「竹林寺」を目指せば車で分かり易く到達出来るが、現在(四月)寺院まで通過出来る筈の道路が関係者以外は通行止めとなっており、遠く東に位置する駐車場から長い道程を歩く事を余儀なくされた。ルート図からお分かり頂ける様に相当距離があるが、山城巡りの計画の中においては想定外の事でもあり、個人的にトレッキングが楽しめたとは言え無駄に時間を費やしてしまった感はある。通行止めには訪問時期として問題があったのかも分からないが、寺院に到着さえすれば城跡までは数分で行ける距離にはある。

城跡へは寺院から南へ少し下りれば西側へ向いて巨石「梵字岩」経由で山道が繋がっているので迷わず辿り着ける筈であり、「梵字岩」を通過して主郭へ到達するまでには堀切なども目に留まり既に城域に入った事も分かる。

現状(四月)城跡の藪化は深刻な状態にあり、主郭を含む主要三郭は雑木密生地でもあり遊歩道を外れた郭内に踏み入ることは難渋を極める状況にある。しかし石組み井戸跡だけは道中に非常に状態の良いものが残存しており城跡唯一の見所ともなっている。強引に藪を押し分けて主郭に侵入すれば西側壁には広い面積ではないが石垣跡も窺え、郭内部に目を配れる状態にはないが一応満足することは出来た。主要三郭の南端には自然巨岩を郭壁とした大堀切(堀切道)が設けられているが、多くの崩落石も見受けられるので本来は案内縄張り絵図にあるが如く石垣で構築されていたのかも知れない。現状を見る限りでは崩壊が激しすぎて、とても石垣跡には見えないものであったが、、、尚、堀切南側には南出郭の存在が絵図から確認出来たが、この藪を前にすればとても侵入する気にもなれなかった。

現状(四月)を窺う限りでは全域が藪化しており、とても満足の行く見学は出来なかったが、訪問時期と整備する伐採のタイミングさえ良ければ案外遺構においてもこの限りの山城ではない様な気がするのではあるが、、、

1_1

登城ルート

2_1現地案内板

2_2

現地縄張り絵図

6 巨石

9horikiri 堀切跡

14_honmaru_e_dobasi 土橋か

20_2maru_nai_ido_ato 二の丸内

20_2maru_nai_ido_ato_1 井戸跡見所

19_shukaku_nisigawa_1 主郭西石垣跡見所

23_3maruheki_ooisi 三の丸壁

24_horikiri 南堀切見所

2009年3月10日 (火)

島ヶ原杉山城跡(三重県伊賀市)

島ヶ原地区の城跡巡り三弾目となるこの城跡は概念図でも分かる様に清助山城から望めば農作地を挟んだ東側の丘陵先端部は城跡でもあり、小屋(農機具小屋)のある背後より上れば直ぐにでも南郭に到達出来る。尚、名前が語るように杉山氏の居城として良いのだろうが、伊賀には杉山の呼称を持つ城跡が少なくとも三城存在する事から今回は区別する為に島ヶ原杉山城として掲載に及んだ、城史に関しての詳細は不明。

この城跡は麓居館、山上郭群(詰城)の二段構の様相を呈しており、伊賀にあってはさほど珍しくない構造と言えるものでもある。主郭は方形にあらずほぼ半円形状を描いておりその周囲は分厚い大土塁を巡らしている、最高所にあたる櫓台大土塁は蔓延る木々に妨げられて主郭内から直接望む事は出来ないが相当な高低差を伴っている。主郭内の規模はさほど大きいものではないが土塁背後は直ぐに住宅が迫っており、此方も郭跡と判断すれば案外ユニークな構造と言えるものではある。現状土塁の一部は住宅地敷地として削られた形跡があるが、ほぼ櫓台最高所までは当時のままとも見受けられるものであり、この櫓台背後の状態の良い堀切を越えれば山上郭まで10分程度で到達出来る。現在送電鉄塔の建つ小規模な山上郭跡(二段削平地)は大きな破壊は免れており、北斜面には二連の堀切跡も確認する事が出来る。城跡の見所は土塁最高所(相当高い位置にある)に位置する少し変形の二段櫓台土塁、その背後を断つ堀切が真っ先に挙げられる、いずれも状態が良いので訪れても必ず満足感の味わえる遺構とは思われる。尚、城跡の形態を把握する為にも山城ファンであるなら必ず山上郭(味気ないが、、)は覗く必要があるものとは思われる。

寺院東側の尾根先端に隣接する二城は形態も随分違い、更に両城の機能の違いなども想像すれば楽しめる要素でもあり、メリハリの利いた楽しい城跡巡りが出来る事請け合いの城跡と言っても良いのではないだろうか。

3 Dd 城跡概念図

5_1 進入口

11_minami_kaku_1 南郭

9_dorui 主郭内土塁見所

13_dorui 土塁背後

16_yagura_yori_sita二段櫓台見所

19_horikiri 堀切見所

22_horikiri_kita_kaku 北郭より堀切側

26_sanjyou_kaku_1 山上郭

27_kita_horikiri 山上北堀切

2009年3月 9日 (月)

清助山城跡(三重県伊賀市)

このところ伊賀地方の巨大土塁と空堀の付随する城跡にはまっており、今回も伊賀島ヶ原地区まで足を運ぶ事になったが、今回は島ヶ原地区案内看板にある城跡(清助山城、杉山城、垣矢城)中の清助山城を最初に訪ねる運びとなった。城跡あるいは城主に関しての詳細は不明

城跡へは先にリポート掲載に及んだ増地氏城からは更に正月堂を目指して北上する、後はルート図の如く進行し奥村地区にありスタート地点にもあたる「善福寺」駐車場を目指せば迷わず到達出来る。ここから城跡は既に真東に望める位置にあり丘陵先端部は郭跡でもある、位置を確認すればほぼ小川沿いに畦道を進み、写真にある先端部左手より取り付き上れば5分もあれば主郭まで到達出来る。丘陵上にあるのでどこから取り付いても直ぐに上れそうに思われるが、ここ以外は矢竹雑木が密生しているので上るのには難渋することにもなり、迷わずここからの直登をお薦めしたい。

現状(二月)城跡は外見から望んだ通りの藪化中にあるが、東先端に位置する東郭(前面矢竹藪)を除けば郭跡、大小の土塁、櫓台土塁壇、堀切とほぼ判別確認可能な状況にあり、主郭は外見から察するより意外に切岸は切り立っており高さもあるので中々人を寄せ付けない迫力は感じられる。城跡を全体的に見れば小規模で縄張り変化にも富んでいないので見応えがあるとはとても言い難いが、個人的には伊賀にあっては当たり前である方形館跡でない部分に多少でも惹かれ満足の行く訪城と言えるものにはなった。現在城跡周辺は造成農地となっているので近世においてどこまでの地形改変があったのかは想像するしかないが、現状のままを当時の状態としてみても充分城跡としての値打ちは下がらないだろう、個人的にも楚々とした山城に近い城跡は好きな部類に入るが、この城跡も過度の期待を抱かず訪れた事もあって充分満足感を味わう事は出来た。

Route 登城ルート

5 城跡直登進入口

3se 城跡概念図

13_shukaku_heki_1 主郭壁を仰ぎ見る

15_shukaku_heki 主郭切岸

10_shukaku_gawa 東段郭より主郭櫓台壁

17_shukaku_higasi_gawa 主郭櫓台側

22_horikiri_1 22_horikiri 堀切

28_nisi_e 西端郭

2009年3月 8日 (日)

増地氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市島ヶ原中村にあって、ルート図の如くJR関西本線「島ヶ原駅」を目指せば分かり易い。駅に到達すれば北東側の踏み切りを超えて正月堂側へ向いて少し北上すれば峠付近左手に休憩所が見えてくるが、そこを進入口として山道に任せれば自ずと副郭土塁空堀道を通過して主郭虎口まで辿り着く事が出来る。在地士豪の一人である増地氏の居城を伝えるが詳細は不明。

現状(二月)城跡は冬季にも拘らず副郭は踏み入る隙間のないほどの矢竹雑木藪となっており、背後を巡る大土塁及び櫓台を除いては当然郭内の視認による遺構確認、郭形状の確認はほぼ無理、主郭は比較的ましではあり方形郭三方を巡る土塁などは鬱蒼とした郭内からでも充分確認出来る状態にある。一際高い方形櫓台上は笹藪地でもあり広さを体感する程度、周囲を囲む空堀も矢竹で一部を外見から覗ける程度の状況でもある。小規模な主郭背後には堀切が土橋を伴って残存しており、主郭方形櫓台と並んで城跡の見ともなっている。他の伊賀の城跡よりは幾分高所に位置する事からも高さのある巨大土塁はお目にかかれないが、副郭は主郭の南斜面下側に位置しており変則的な縄張りは中々味があって面白く感じられた。尚、堀切を越えた山上側には古い石積みで内壁が囲まれた小さな郭跡が確認出来たが、当時の遺構か近世のものかの判断は非常に難しいものがある。主郭南側及び副郭南側は現状凄まじい雑木藪地となっているので踏み入ることも外見を覗く事も出来なかったが、地形から考察しても南側は郭の展開は予想される場所でもあり、城域も現在見て回る事が出来た狭い範囲からは、相当出ている様には感じられた。

現状から察するには城跡の夏季訪問は相当厳しいものがありそうに思えるが、主郭のみと割り切れば道路沿いから5分程度で到達出来るので充分納得した見学が出来るのではないだろうか。(個人所有の城山とも見受けられ、恐らくこれからも城跡が良い方向に改善されるとは思われ難い)

1route 登城ルート

4_tozanguti 城跡進入口

3mas 城跡概念図

7_1 空堀と副郭大土塁見所

18_koguti_daidorui 主郭虎口土塁

20_shukaku 主郭内

22_yagura_nobori_koguti 櫓台上り虎口見所

27_kita_karabori_dorui 北側空堀土塁

24_horikiri_1 堀切見所

35_kaku_isi_1 山上内壁石積み郭

2009年3月 7日 (土)

周山城跡(京都市右京区)

城跡は京都市右京区京北周山町にあって、町の中心より真西側に聳える標高約480m(比高230m)という険峻極まりない山上最高所に位置している。比高が200mを越えれば自ずと歩行距離も時間も費やすことになり、山上主郭までは途中の郭跡も見学すれば麓からはたっぷり50~60分はかかってしまう。山歩きは楽しめるが先がこれほど長いと山城巡りにおいては決して後の訪問に残さない事が大事であり、体力のあるうちに先に寄った方が色々な箇所を見て回れるような気はする。個人的にも今回は二度目の登山になるが結果的には城域が四方尾根上広くに渡っている事、あるいは見所も多い事から時間もかかり、まだ数箇所に点在する郭跡及び未踏尾根上を残した状況でもあり、全域踏破までには至っていないのが現状なのである。三度目は半日割いて今度こそ自作概念図を仕上げてみたいとは思うのではあるが、中途半端が嫌いな性格とあっては何度目の訪問で仕上がるのか見当が付かないのが現状でもある。

この城跡は明智光秀の築城として余りにも有名であり、同じ石垣を用いた光秀の山城としては丹波金山城を遥かに凌駕する規模を誇っており、もし全石垣が残存していたら総石垣城として名を馳せている但馬竹田城とも比肩しうる戦国期山城である様にも見受けられる。もちろん遺構保全状態は比べるレベルには到達してはいないが、個々の郭壁面(四方尾根上の郭跡も含めた全て)に相当な高さと量で残された石垣跡は崩落寸前の石垣跡と並んで相当見応えのあるもの、無骨に積まれたこれらの石垣跡はむしろ戦国期における臨戦時を物語っているものでもあり、整備されていないこの状態にある方がかえってロマンに浸れそうとも言える。

1route1 登城ルート

3 現地縄張り図

4_tozan_guti 登山口

現状(11月)郭内は植林地であることも幸いして比較的見通しは良いが、風化及び堆積物によって地表が露出していない部分が多く、細部に渡る遺構の判別は中々難しい状況にある。縄張り内においても石垣が崩落している箇所、あるいは風化による地表の凹凸も相俟って曖昧な部分が多く、郭境などの判断は非常に難しい状態でもある。しかしこの城跡に限って言えば、純粋に石垣跡の見応え及び醍醐味だけでも当時に思いを馳せる事が可能でもあり、それで充分納得した山城見学になる様には思われる、、

光秀の残したこの全山総石垣の山城は京都府に存在する改修の施されていない山城としては稀有な存在でもあり、整備さえすれば縄張り妙味も含めて但馬竹田城に充分匹敵するものでもあり、個人的には京都府唯一の戦国期に成立して現在に至る総石垣城として、是非とも保全整備される事を願わずにはいられない。

13_shukaku_e 二の丸より主郭へ

20_shukaku_dorui 主郭土塁

25_tenshudai 主郭内の曖昧な地形

39_takaya_nisi 鷹屋ノ丸西石垣見所

46_koshoumaru_isi 50_koshoumaru_isi 小姓丸石垣見所

43_koshoumaru_yori_nisimaru 郭境の石垣跡

56_nisimaru_koguti 西丸虎口石垣

2009年3月 6日 (金)

穂坪城跡(兵庫県丹波市)

城跡は丹波市柏原町母坪にあって、阪神側から城跡を目指せば国道176号より「稲継」交差点で左折、後は国道175号をルート図の如く進行してスタート地にあたる公園駐車場(道が狭いので路駐は無理)を目指せばよい。ここからは道路を南下すれば右手住宅地の間から墓参道が丘陵上まで通じているので難なく南側の堀切までは到達出来る。この城跡は要衝地にある事からも落城の史実も多く残されており、城主の交代も戦国期においては数度あったようだが、最終的には光秀による丹波平定後は廃城となった可能性が高い様に見受けられる。

1route 登城ルート

3a 3x

城跡概念図

個人的には二回目(三月)となる訪問だが、前回は時期が悪かったのか密生する雑木藪の為に主郭より北側(本命)を残して撤退を余儀なくされてしまった苦い記憶がある。今回は冬枯れの時期を狙っての再訪になったが、前回よりは随分マシ(藪化は進行中)なので山上全域を踏破する事が出来、残存する遺構もほぼ判別確認することが出来た。城跡の見所として挙げられるのは状態の良い縦堀、堀切、郭切岸と言ったところで、ほぼ完存とも見受けられる遺構群は期待した以上のもので、直線的に郭を配しただけの縄張りプランではあるが、低山でありながら急峻な地形も相俟って山城としての醍醐味は充分感じられた。しかしこの城跡はこれだけに終わらず、到達地点にある堀切より南側に足を延ばせば現在墓地となっているが、此方も当時は郭跡にも見受けられるもので、更に南側を上れば便宜上妙見郭とするが穂坪城南出郭と呼べる比較的規模の大きい三郭で形成される郭群(全長100m近い)に行き当たる。ここには当時のものとするかどうかは判断しかねるが、櫓台の様相を呈した方形土塁(10m四方)が残されており、更に南側には神社敷地として多少造成整地されたのかの様にも見受けられる広い郭跡、その先端藪の中には土塁虎口跡も窺えた。尚、更に尾根上を数100m南に向えば広く細長い削平地が連なっており、様相からしても砦跡の様にも見受けられたので、此方も穂坪城塞群の一翼を担っていた郭群と解釈しても良さそうには思われた。

今回の訪問は南北数キロに渡る穂坪城塞群の探索となり、更に南側の高見城跡にまで繋がる尾根上までは踏破は出来なかったが、この城跡の城域の広さは充分に窺い知る事が出来た。結論から述べると穂坪城跡は妙見南出郭まで含めれば、墓地としてあるいは近年の宅地壁面造成の為に多少の地形改変は見止められるが、正に推奨に値する城跡と目には映った。国道から直ぐ近いとあって既に訪城した方も多いとは思われるが、訪問時期さえ間違えなければ今回の様に見学も容易く、夏季に訪問されて苦い経験のある方、あるいはまだ未訪の方にとってはタイムリーな現況報告になったものと思いたい。

16_tatebori 南斜面の縦堀見所

26_minami2_2 南郭2

30_shukaku_heki_1 主郭南壁

38_kita3_kaku 北郭3

40_horikiri_1 堀切見所

41_horikiri_heki_2 北側土塁堀切壁

49_demaru_hokutan_1 出郭群北端

Myouken 妙見(南出郭)郭の概念図

7_horikiri_1 南尾根堀切見所

11_kitakaku 妙見南出郭

H_75 櫓台か

H_73 社殿南側削平地

2009年3月 5日 (木)

鞍掛山城跡(山口県岩国市)

山口県岩国市玖珂町谷津にあって鞍掛山(標高240m)の山上から尾根上が城跡、杉氏の居城と伝わり戦国期においては毛利氏との合戦が有名。現在山頂には古戦場としての城址石碑が建っており、遊歩道も設置されているので容易に上る事が出来、山頂からは景色も楽しむ事が出来るので山歩きには最適と思われる城跡である。

2d 城跡へは山陽自動車道「玖珂」ICが最寄の乗降口、国道2号からはルート図の如く進行すれば途中に道標も設置されているので迷わず登山口駐車場には辿り着ける。

現状(九月)城跡は史跡として整備されているので遊歩道に従えば難なく見て回る事が出来る状態にあるが、山城見学として見る分には「非常に味気ない山城である」と言った処が本音であり、縄張りを窺う楽しさも遺構の醍醐味もほとんど感じさせてくれない城跡と言っても良いかもしれない。遊歩道以外はほぼ雑木密生地でもあり郭跡に踏み入ることも視認も困難、自ずと郭内遺構の確認もほとんど無理な状態でもあり、本丸とされる物見程度の郭跡が山頂に確認されるだけの山城でもある。登山道中の痩せ尾根上も郭跡と見受けられるが、郭跡として広さを体感する事はほぼ無理、更に山上尾根の石碑の建つ場所も郭跡なのであろうが、ここは郭内が雑木に覆われており(恐らく狭い空間)郭形状の確認すら出来ない状況となっている。ただ唯一遊歩道から外れた北尾根側には多少規模の大きい郭跡と最高所に物見程度の郭跡を眼にする事が出来たので未訪の方の参考までに、、

史跡見学あるいはトレッキング程度を求めて訪れるのであれば充分満足に値する山城と言えるが、遺構などの醍醐味を求めて上るのであれば最初から期待は捨てる事が肝心であると思われる。個人的には毛利氏と一戦を交えた大内氏の重臣である杉氏の居城を体感したくて期待を胸に訪れたのだが、見事に期待を裏切られる結果(個人的主観)となってしまった。ただかつての古戦場だけに本丸展望所に一人立てば、色々な想像も掻き立てられて非常に感慨深いものがあるのは事実である。

1route2 登城ルート

5 登山口

8_monomi_kaku_1 山頂本丸

11_shukaku 城址石碑

13 尾根上郭跡

13_kita_kaku_1 北郭

相方城跡(広島県福山市)

広島県福山市新市町相方(サガタ)にあって、町の中心を国道に沿って流れる芦田川の南側に位置する低山の山上が城跡であるが、現在山上郭跡には電波施設及び鉄塔が建っているので国道486号を走れば位置は直ぐ確認する事が出来る。古くより成立していた城跡であるが毛利氏支配となるまでは有地氏の居城、現在見受けられる南壁を覆う石垣跡などは毛利氏によって改修されたものである事が、打ち込みハギによる石積み技術によって充分窺う事が出来、毛利氏が防長へ去るまでは少なくとも存続機能していた山城と解釈しても良さそうには思われる。

城跡へは山陽自動車道「福山東」ICが最寄の乗降口、国道182号を経由して国道486号に進路変更、後はルート図の如く佐賀田大橋を渡って城跡を目指せばよい。城跡の中央に設けられた大空堀手前辺りに車は数台駐車可能であり、そこから山上における郭群はほぼ見て回ることが出来る。

現状(四月)城跡は低い下草は蔓延っているが、見所でもある郭南壁面を覆い尽くす石垣跡及び付随する枡形虎口などは明確に見て取る事が出来る。しかし鉄塔の建つ西郭から西側は一面矢竹藪と化しており現地縄張り図に示される堀切は確認し難いのが現状でもあり、登山道脇に窺われる石垣跡を確認しただけに終わってしまった。主郭より東側枝尾根上には木々が少ないので出郭らしき削平地が外見から窺えたが、次の予定も考えれば其の先にある三本の堀切も拝めぬままの下山と相成った。

城跡の最大の見所は前述の枡形虎口及び郭を形成する石垣で、崩落はあるものの現存する石垣を拝むだけで、充分満足出来る事請け合いと断言出来るものでもある。この地方においては城代を置く程度の大名クラスの城でもないのに、これだけ堅固な石垣城を築き上げるとは、余程毛利氏にとってはこの地が重要であったと思うのが妥当な処か、、野面積みではない石垣跡は当時においては先進性を持つものでもあり、個人的には往時の石垣技術を知る上においても一見の価値のあるものと目には映った。ただ城跡を語る上で惜しむらくは、郭内に鉄塔とその施設が建っていることによって山城としての風情が余り感じられない事か、、、

1_sakata_1_2 登城ルート

2nawa2_2 現地案内縄張り図

Sa6_2 西より二の丸

6_yagura_isigaki_2 櫓台石垣見所

12_2 枡形虎口見所

13_2maru_minami_isi_2 二の丸

Sa3_2 M3_2 東郭群石垣見所

11_2maru_yori_nisikaku_2 西郭

Sa4_2 登山道中西郭石垣

2009年3月 4日 (水)

菅生城跡(奈良県山辺郡)

城跡は奈良県山辺郡山添村菅生にあって、先にリポート掲載に及んだ畑城とはほど近く西名阪道「山添」ICが最寄の乗降口、国道25号を南下し菅生集落に入れば道路沿いに集落センターがあり車はここに駐車させてもらい、ここから既に右手に望まれる山上(城跡)を目指してルート図の如く上れば、現状縄張りの一部とも見受けられる西端堀切道までは到達出来る。更に東側に向いて斜面を上れば墓地のある削平地(西郭)及び堀切を越えて主郭までは麓から20分内で辿り着く事が出来る。

現状(二月)城跡は冬季にも拘らず西郭と主郭以外は全域が矢竹あるいは雑木藪に覆われており外見から郭跡の確認は困難でもあり、一部の郭跡は踏み入る隙間もない状態にある。それでも外見から判断することの出来る郭を分断する二重堀切を含めた七本の堀切は城跡最大の見所ともなっており、小規模な城跡にありながらも抜群の存在感を醸し出している。図中の主郭東側の二箇所の郭跡は外見から判断する事も出来ず更に侵入する事も叶わなかったが、東端の小規模な郭には土塁も残存、更に主郭西斜面側には土塁を伴う縦堀も見受けられ、堀切群と併せて山城としての醍醐味には充分触れる事が出来た。規模が小さいのでおよその縄張りは把握出来るが、密生する雑木の為に未踏に終わった箇所、あるいはまだ未確認の遺構があるのも事実であり、現状では自作概念図における箇所までが自分の眼で確認する事が出来た遺構群という事になる。これから城跡の状態が少しでも改善の方向に向えば当然見学可能な遺構もこの限りで終わらないものとも察せられるが、個人所有の城山とも見受けられ、これから先の期待は余り出来ないのが現実のようにも思われる。

1_1x 登城ルート

5_tozan_start 登城口

3_2 城跡概念図

9_horikiri 西端堀切道

11_nansei_sizenkaku 西郭

17_shukaku_yori_nisi_horikiri 主郭西堀切

18_shukaku 主郭内

23_shukaku_heki 主郭切岸

24_higasi_daihorikiri 東堀切

27_higasikaku 東郭

2009年3月 3日 (火)

増田氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市四十九町にあって「上野総合市民病院」の南背後の丘上に位置している、増田氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは西名阪道「上野東」ICが最寄の乗降口、国道422号を南下すれば上野総合市民病院への標識もある事から交差点は右折、そこからはルート図を参考にすれば迷わず辿り着けるが、城跡進入口となるのは西出公民館東側の民家横の細い山道からで、公民館の直ぐ背後には既に郭切岸が迫っている。公民館に駐車出来るスペースは無いが、車は付近に路駐可能な路肩スペースもあるので、まずそこに停めてから山道に進入しても直ぐ到達出来る距離にある。

現状(二月)城跡はほぼ全域が竹林地となっており密生する雑木竹薮の為に郭全体像の視認には困難を極める、移動に難渋する状態でもないので歩き回れば残存遺構の判別確認はある程度出来る状況となっている。丘上全域がほぼ削平地に近いもので規模も相当なものと見受けられるが、中枢を成す本郭群はほぼ三郭構造と言えるもので郭北背後には全て土塁及び空堀(横堀)を伴っている、中でも目を引くのは最大規模でもある主郭三方を囲む高土塁で、内壁高低差は最大10mに達しそうにも見受けられ、巨大で分厚い土塁は城跡においても圧倒的存在感を誇っている。その西背後に備わる横堀も本来は水堀であったかの如く現在でも多少の水溜まりとなっており、よく見れば更に二重空堀となっている構造が見て取れる。流石に郭内は三郭共に竹が蔓延り視認し辛いが、空堀群は外見からも充分窺える状態にあるのである程度の満足感は得られると思われる。

郭内を歩き回らないと広さなどを体感する事は困難な状況にはあるが、分厚い土塁上からは土塁の巨大さを体感することは出来、空堀も当時より深さは相当失われていると思われるが存在感は抜群でもあり、城跡を語る上においてはまず最初に挙げられる遺構群と言えるものになっている。

1route_3 登城ルート

6_tozanguti 進入口

3ma 城跡概念図

11_fukukaku 副郭内の現状

26_dorui_masuda_bohi 大土塁上の増田氏墓碑

36_dorui_heki 主郭内

33_shukaku_nai_dorui_1 主郭内の土塁構造物

30_nisi_karabori_3 主郭西空堀見所

42_2jyuu_karabori 二重空堀見所46_nisikaku_dorui

西郭土塁

終始竹に悩まされた訪城となったが、高土塁で構築された二城にも匹敵する城跡の規模は想像した以上に大きく、とにかく見応えのある土塁が全てとも言い切れる城跡であるように感じられた。夏季訪問は全体が鬱蒼としており、更に藪蚊が多そうで少しきついかも、、、、尚、増田氏城の西側丘陵先端に位置する中森氏城も同時見学の出来る近距離にあるので概念図に示すルートを参考に見学するのも時間の無駄にはならないとは思える。3n10_dorui_koguti_2

2009年3月 2日 (月)

浜田氏城(三重県伊賀市)

この城跡は先にリポート掲載に及んだ幸至城跡からは池を隔てて真西に位置しており、登城スタート地点である徳楽寺からは図の様に真北に位置しており、ルート図を参考にしてもらえれば迷わず辿り着く事が出来る。浜田氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡の形態はほぼ平城と言ってよいもので、当時から存在していたものかどうかは分からないが、主郭の南北は池で遮られており現状を窺う限りでは天然の水堀として機能していた様にも見受けられる。隣接する幸至城跡とは自ずと形態は異なっており周囲は池で防備されていたと見てよいのか、高土塁で周囲を囲んでいた形跡は見受けられない。模の大きい二郭でほぼ形成される本郭は、背後に分厚く高い櫓台が備わりその背後には更に大堀切が設けられており城跡最大の見所ともなっているが、現状雑木竹薮となっているので中々全体像は窺い難い。しかしこの堀切は櫓台背後からの切岸高低差がある為か、相当な見応えを感じる事が出来た。

現状城跡の周辺は近年の農地造成あるいは河岸工事、更に住宅地も迫っており相当な地形改変があったものとも思われるが、幸いにも本郭遺構は破壊を免れている様にも窺えた。見所としては主郭背後の櫓台土塁と大堀切のみの様にも感じられたが、幸至城跡とセットで考えれば充分城跡巡りとしては充実したものになる思われる。

尚、個人的には寺院背後の集合墓地も縄張りの一部と考えられるので、墓地を通過しながら周辺も見て周りほぼ一周した計算になったが、全体的にも墓地を含めて近年相当造成されている様相でもあり、残存遺構の期待は無理である様にも感じられた。

2z 3 城跡概念図

7_sinnyuukuti 進入口

10_shukaku_1 主郭

11_dan_oti_kaku_2 主郭段落ち郭

15_yagura_heki_1 櫓台土塁壁見所

16_yagura_dorui_ue_1 17_dorui_yasiro 櫓台土塁上

20_daihorikiri 大堀切の現状見所

22_fuku_kaku 副郭

2009年3月 1日 (日)

幸至氏城跡(三重県伊賀市)

この城跡は名前が語る様に幸至氏の城跡と伝わるが、幸至図書の名が伊賀の乱において見付けられる程度で詳細は不明である。しかし見て回った結果としてはこの城跡に遺された巨大空堀(幅も深さも凄いものが拝める)、その内と外を巡る高低差のある分厚い巨大土塁だけは状態の良い事も相俟って、個人的には今まで見て来た伊賀の城跡の空堀、土塁を遥かに凌ぐものでもあり、他を圧倒しているものの様にも見受けられた。流石に郭内は竹が密生しており見通しも利き難くいが、全体としては比較的ましな部類と見受けられるので是非訪問をお薦め出来る城でもある。形態としては山上に位置する山上郭群(詰城)と麓居館(二郭)で形成される城跡と見受けられるが、山上郭群を併せた規模は比較的大きく、山城の醍醐味も兼ね備えているので見る者を必ず満足させてくれる見応え抜群の城跡と目には映った。

城跡は伊賀市西高倉にあって、阪神側から向う場合は西名阪道「上野」ICが最寄の乗降口で降りればそのまま国道422号を北上する、後は目印となるスタート地点でもある徳楽寺を目指せば迷わず辿り着ける筈である。寺院の駐車場を借用すれば直ぐ北側の池を越えた場所にも浜田氏城があるので、どちらが先になっても散策がてらここを起点として歩いて二城を訪問する事をお薦めしたい(幸至氏城跡の南民家付近には路駐も可能ではあるが、歩きによって二城の立地環境などをより把握出来る)。城跡への進入ルートは図を参考にすれば分かり易いと思われるが二通りある、整体治療院の看板が池傍に見えれば其の玄関先をかすめて池沿いに歩けば自ずと副郭と見受けられる土塁まで数分で辿り着けるし、東側の小さな池傍からでも難なく土塁を伴う郭跡に到達出来る。

1rote 登城ルート

5_1 進入口

3 城跡概念図

現状(二月)城跡は先に述べた様に二郭で形成される本郭内は竹が密生しており見通しも利き難いが、最大の見所でもある巨大空堀(幅があるので移動も兼ねたか?)、巨大土塁側は全体的にも竹が少なく、ある程度全体像まで窺える状態にある。外周を巡る土塁から山上郭群に足を延ばせば風化は激しいが切岸、堀切、埋もれた空堀跡などが窺え、山上郭群も手抜き無く築かれている事を判断する事が出来た。

この城跡を訪問した事によって伊賀における城跡の本来の巨大土塁と空堀の凄さ(凄い土木量)を改めて認識する事にも繋がり、この空堀が自分にとって今後「巨大である」と言える基準(上限)となる様な気もするのである。尚、浜田氏城跡は別にリポート掲載予定

14_fukukaku_haigo_karabori_1 空堀角

28_shukaku_kan_karabori 主郭中央空堀見所

19_shukaku_higasi_karabori 東側空堀

33_shukaku_haigo_dai_karabori 35_shukaku_kita_karabori_1主郭北側空堀見所

23_shukaku_dorui_yori_yagura_1 主郭土塁と空堀見所

31_fukukaku_nai_1 副郭内

46_sanjyou_shukaku 山上主郭

45_horikiri 山上堀切見所

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