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2009年2月

2009年2月28日 (土)

木ノ宗山城跡(広島県広島市)

広島県広島市安佐北区上深川町にあって、登山客も多く訪れる木ノ宗山(標高413m)山頂から東尾根上が城跡、戦国期においては城主の変遷はあるが毛利一族(吉川氏)あるいは家臣の城とみてよいとは思われる。

城跡へは山陽自動車道『広島東」ICが最寄の乗降口、ICを降りれば北側に望める独立した山塊が城山で位置確認は直ぐ出来る、北側の県道を数100m走れば左折し、狭い道路ではあるがルート図を参考にすれば写真に示す案内板の設置された銅鐸出土地経由の登山道に合流出来るはずである。(駐車場はないので付近に路駐となる)尚、登山道は数箇所あると聞くが、一番説明し易く登り口の分かり易いこのルートがお薦めとは思われる。

山上主郭までは銅鐸出土地及び西出郭経由の登山(40~50分は要す)となるが、相当斜面はきつく厳しい登山になるので最初に覚悟は必要である。しかし山頂に到達すれば山城遺構も迎えてくれ、360度眺望の利く素晴らしいロケーションも相俟って登山の疲れも一掃してくれるはずである。山城として見れば小規模な二郭から成立する主郭から東尾根上に沿って郭群が展開され、堀切によって尾根を分断しただけの単調な縄張りを持つ古い形態の城跡と言う事になるが、自然岩を用いて郭壁となし山上を削平した様は、険峻極まりない地形と相俟って戦国期山城の雰囲気を充分醸し出しているものでもあり、主郭以外は状態が良いとは言えないが、ロマンに浸れる事は請け合いの山城である。今回は車の路駐した場所の関係から東側に至るまでの山上尾根縦断は出来ず、尾根上全ての探索は出来なかったが、充分な満足感及び達成感に浸ることは出来た。

城跡の形態からすれば未踏に終わった東端尾根上も、遺構の期待は余り出来ないと思われるが、いつか必ず縦断してみたいと思わせてくれる山城でもあり、足腰に不安の無い方なら是非お薦めしたい登山も同時に楽しめる山城の一つである。

1tozan_route_1 登城ルート

6_nisi_tozanguti 登山口銅鐸コース

3z 城跡概念図

12_demaru_ato_2 西出郭休憩所

26_shukaku_nai_1 山上主郭

29_higasi_gedan 東下段郭より主郭

27_shukaku_yori_higasi_gedan 東下段郭

33_2maru_e_karabori 二の丸へ空堀

34_isi 二の丸大石積み見所

38_2maru_nai_1 二の丸の現状

41_2juu_horikiri_3 二重堀切の1

2009年2月27日 (金)

大富山城跡(広島県庄原市)

広島県庄原市西条町西条にあって西条川を天然の堀として西側に聳える標高511m(比高約170m)の大富山の山上が城跡、久代宮氏の居城と伝わる

城跡へは最寄の中国自動車道庄原ICで降り、国道183号をそのまま北東に走り目印となる林道登山口でもある淨久寺を目指す。寺院横をかすめた林道を使用すれば城跡の大堀切まで車で直接乗り付けるので、麓から急坂を歩いて上る事を思えば非常に楽である。ちなみに歩きによる登山道は北側の学校側に位置している

現状(4月)城跡の山上郭群は整備されており木々も少なく見通しも利くので縄張りも掴み易く、山城としては申し分のない状態にある。ただし主郭北と南側の段郭群は藪化進行中でもあり視認はし辛い。特筆すべき遺構は存在しないが、木々の間引かれた山上郭群の状態が素晴らしいので山城全体の雰囲気を味わう事が出来、高い切岸などからも当時に思いを馳せる事が容易なものになっている。縄張りは車を駐車した大堀切から南側尾根上に延びており、更に堀切土塁を挟んで削平地が南側に長く続いている。現地の歴史案内図に示されていた様に、未踏ではあるが南端の峯最高所にある物見ヶ丸まで縄張りは及んでいる様である。

城跡の西側はややなだらかではあるが、東側の西条川から城跡を望めば相当険峻でもあり、天然の水堀となる西条川と併せれば東側は鉄壁とも言える堅固さである。恐らく家臣団の屋敷跡などは西側に向いていたものとは察せられるが推察の域は出ない。

大堀切まで直接車で行けて、更に城跡の状態の良い事からも、お手軽に戦国期山城を味わえる有数の城跡と言えるのではないだろうか。

1route_1 登城ルート

4 東より城跡遠望

3 城跡概念図

2 現地案内板より

5_daihorikiri_1 大堀切

8_gedan2_ido 井戸跡

12_gedan1 北下段郭

20_shukaku_heki_1 主郭切岸

17_shukaku_nai_1 主郭

28_minamikaku_gun 南郭群

2009年2月26日 (木)

赤埴上城跡(奈良県宇陀市)

先にリポート掲載に及んだ下城から道路に任せてルート図の如く進行すれば案内板も設置されているのでほどなく赤埴上城には到達出来るが、丘陵上西端隅に位置する居館跡とも窺われる郭跡虎口に備わる櫓台土塁は見応えもあり、虎口南に付随する二方を低い土塁空堀で囲んだ郭跡と並んで城跡の見所ともなっている。

しかしこの城跡は概念図に示す居館跡とも見受けられる方形郭の主要二郭だけにあらず、西側は高い切岸で守備されているが東南側は巨大な削平地とも言える空間が東山上郭麓まで広がっており、何千人もの兵を収容出来たかの様な駐屯地あるいは段状に連なった無数の大規模な郭跡は屋敷跡地が想像出来るものでもある。屋敷跡(後世のものかも分からないが、、)と見受けられる郭壁には石垣跡が随所に窺われ、当時の城普請における労働力の凄さを物語っている様でもある。ただ現状の推察のみで当時のものと断定は出来ないが、素直にこの現状における空間を見て凄いと思う他は無い様には思われる(どこまで発掘調査が行われたのか知らない)。

1route_5 登城ルート

2z_1_2 城跡概念図

更に屋敷跡地より東山上を目指して強引に東斜面を直登すれば土塁を伴った物見とも見受けられる山上郭が存在しており城域の広さに更に拍車をかけている、個人的にはそこから更に藪漕ぎで南に聳える高城山を目指したが、その移動尾根上には小規模ではあるが郭跡を数箇所で確認する事が出来た。高城山山頂へは別に登山道も設置されておりこの日は登山客と出くわしたが、ほぼ二段から成立する削平地は郭跡とも見受けられるもので、断定は出来ないが立地環境からも明らかに詰城として想像出来るものでもあり、想像を膨らませただけで下城を含めた壮大な規模の城跡が浮かび上がってくるにも感じられた。

12_shukaku_gawa_yori_koguti 南郭虎口側

18_shukaku_nai_dorui 主郭土塁

17_shukaku_nai_sekiretu_2 主郭内石列

24_umadasi_karabori_2 南郭空堀

39shukaku_higasi_yasiki_dankaku_gun 東屋敷跡郭群石垣跡

36_dankaku_sekirui_1 水の手付近の郭石垣跡

43_higasi_yama_toride 東山上郭

51_sanjyou_kaku 高城山山上削平地

城跡探索中は季節外れの降雪(四月)にも見舞われ、概念図に示す主郭北側空堀から更に北の郭跡までは踏破出来なかったが、外見から察してもその先までも城域は広がっている様にも見受けられた。とにかく城域は限りなく広いと見受けられるので、今回の様にルート図に示す範囲を歩き回れば足にも堪え、相当な体力を費やすのは必定でもあり、自分の様に縄張りを含めた城跡全体像を把握したいのであれば高城山山頂まで上る必要はあるとは思われるが、遺構を見学して楽しむのであれば下城から始まって上城の主郭周辺だけを押さえれば充分この山城を堪能する事が出来るのではないかとも思われる。赤埴城は限りなく広大な城域を持つ城跡であるが、見ようによっては限りなくロマンの広がる城跡なのである。

2009年2月25日 (水)

赤埴下城跡(奈良県宇陀市)

この城跡は地形図、あるいは現地に赴けばある程度判断出来るように城戸口を固めたと見受けられる下城、谷沿い東奥に位置する上城の赤埴二城(上下城)から形成されている様に見受けられ、非常に城域の広大さを誇る城跡でもある。更にその上城背後には山上郭更に遠く東山上には詰城とも言うべき高城山が聳えており二重、三重の鉄壁の備えが見て取れる。訪問結果として上下城共に特筆すべき縄張り妙味あるいは凄いインパクトを感じられる遺構は目に留まらなかったが、上下城間に展開される屋敷群とも見受けられる現在の農作地、あるいは上城の山上郭間に展開される屋敷段郭群も含めれば奈良県内でも屈指の城域の広さを持つ城跡とだけは言い切れそうである。奈良中心地より山奥の更に山間部に位置してはいるが、当時この付近は伊勢までも通じる街道が通じていたと思われ、この下城は佇まいからも街道監視あるいは関所の機能を担っていた様にも想像出来そうに思われる。

上下城併せて同日訪問すれば更に戦国期山城の醍醐味、全体の縄張りプランを含めた城跡探索の楽しさも堪能する事が出来、正に推奨に値する城跡と言ってもよいと思われる。

1route_2 登城ルート

3_1 城跡概念図

城跡は奈良県宇陀市榛原区赤埴上俵にあって、阪神側から向えば西名阪道「針」ICが最寄の乗降口、ICを降りれば国道369号をしばらく南下、後は道路沿いに道標の設置されている仏隆寺を目指して進行すれば迷わず駐車場までは辿り着けるが、駐車場の南背後の丘陵上は既に城跡でもある。城史に関しての詳細は不明であるが後で寄ること事にもなる上城と同様に赤埴氏の居城と察せられる。

随分訪問後の掲載が遅れてしまったが現状(四月)城跡は冬枯れ後の植林地でもあり、見通しも利くので郭跡、堀切、郭切岸、空堀道など遺構の判別確認はほぼ容易な状態にある。郭を東西に並べただけの縄張りプランではあるが合計五本の堀切によって郭は分断されており、状態が良く全体像が窺える事からもかなりの見応えを感じる事は出来る。規模こそ大きくは無いが見る限りにおいては本格的に造りこまれた感のする城跡である事だけは確かである。この下城を後にして更に谷沿いから車で細く狭い道を蛇行して南東側に上れば上城に直ぐ到達出来るが、赤埴上城のリポートは次で掲載の予定(現在編集中)。

6_tojyouguti 道路沿い登城口

8_higasikaku_yori_shukaku 東郭より主郭

11_shukaku_horikiri 主郭堀切見所

15_shukakunai_horikiriato 主郭内の空堀跡

18_nisi_2jyuu_horikiri 二重堀切見所

24_minamigawa_karabori_dou 南西空堀道

2009年2月24日 (火)

是非読んで頂きたい事項

TAKUです、最近個人的にも伊賀の高土塁に魅せられて山城巡りも三重県に行く事が多いのですが、久しぶりに掲載した奈良県の城跡に関して先頃読者の方よりコメントを頂戴(非常に無礼な内容と感じられたので既に削除)しました。内容はもう少し掘り下げたリサーチを要求したものであり、遺構の誤認などの指摘、おまけにブログ内容にもダメ出しと、非常に困惑するところでもあります。しかしながら本来このブログを開設した趣旨、あるいは城跡の独自による訪問リポートをご理解出来ないまま、少し勘違いされている読者の方もおられる事が今明らかになりましたので、ここでもう一度改めて「山城賛歌」開設における趣旨をはっきりさせておきたいと思います。

ブログトップページに記載した様に、この訪問リポートは城跡を自分自身の目で見て回ったリアルな現況報告、あるいは城跡の遺構でありその状態などを自分の独断と偏見で以って、他の情報に出来るだけ捉われない素直な感想を掲載する事を大前提として成り立っているものであり、自ずと遺構見学された方との遺構判別による見解の違いも出てくるし、遺構などの確認においてはあくまで外見からの判断によるものでもあり、誤認も生じて当然だとも思っております。数100年の時を刻んだ城跡には相当な風化あるいは現在に至るまでの民間あるいは個人よる地形改変(堀切など)があって然るべきだとも思います。専門家でもない一山城ファンが外見からの地形判断で当時の遺構の判別などは至難の技であると思うのが個人的な見解でもあり、縦堀などに至っては後世の木材切り出し道もある事から判別には困難を来たすのも当たり前の現実です。しかし、判別出来ず謎が多いから遺構と目に映ったものに対して機能などの想像が膨らみ、当時に思いを馳せる事もロマンに浸る事も出来ると言えるのです。ブログ中でいつも述べているように遺構は見学者が現地で見たままを素直に感じて判断するのが一番適切な事でもあり、このブログは城跡未訪の方の為の単なるアシストに過ぎません。

自分の城跡訪問のスタンスとしては出来るだけ外部の情報(現地における縄張り図など)、公的な調査結果などに捉われず、城跡をこつこつと歩き回って現状己が見たままを概念図として作成(当然正確なものにあらず)し、己の感じたままの感想を掲載するのが目的でもあり、城史あるいは遺構に関しての調査報告結果までは今後も深くリサーチするつもりも準備もありません(多くの時間が必要とされるから)、もしそれを望まれるのであれば迷わず他のサイトに移動される事をお薦めします。あくまでも個人的に城跡を訪問して感じられた独自の主観のみをリアルに現状報告として掲載するのが趣旨であり、それによって遺構の判別は訪れた方が現地でそれなりに判断を下すのが城跡巡りの一番の楽しさだとも考えます。

単純にこの訪問リポートをきっかけとして訪れた方に山城巡り(山登りも含めた自然との触れ合い及び遺構見学)の楽しさを味わって頂きたいのが願いでもあり。その結果として訪れた方が満足感を味わえ、更にその上で同じ感動を共有、あるいは味わう事が出来たなら自身の目的はほぼ達成されたとも言えるのです。くれぐれもこの訪問リポートは専門的に城跡を追求したものではないとご理解して頂いた上、軽い気持ちで「山城賛歌」を拝見して頂ければ自身にとっても非常に満足の行くブログになると感じられます。

今年も暖冬ではありますが山上付近には積雪のある地域も多く、足元には充分気をつけて山城巡りを楽しんで頂きたいと思います。

高倉山城(京都府綾部市)

この城跡は国土地理院地図上には「城山」とだけ記載されており、かつての城跡と見受けられる事からも何時か機会があれば踏破するつもりでいた。幸いにも館町にある館城跡訪問ついでに高倉町まで足を延ばし、高倉神社付近で地元の方から城山の情報を聞き及んだ結果としては、「通常から城山としての名前が通っており城跡ではあるが他の正式な呼称については知らない」更に「昔は山頂までは登山道があったが登る人も今は絶え、現在は送電鉄塔への巡視道を使えば上れる可能性が少しはあるかもしれないよ」と言った見解であった。個人的には巡視道を見つける事が出来なかったので、事前に準備しておいた最短となる想定ルートからの直登となったが、訪問結果として山上には僅かながら城跡遺構は存在しており、当然乏しい資料の中には全く登場して来ない城跡なので今回は仮)高倉山城跡として訪問リポートを掲させて頂いた。

城跡へ阪神側から向う場合は国道9号あるいは国道175号を北上すれば県道8号を経由して県道77号に進路変更、後は舞鶴若狭自動車道の見える高架手前まで直進、交差点を右折すればルート図の如く工業団地の背後から舗装道を走り終点地である直登山口付近までは辿り着ける。ただ現在舗装林道も終点までは通れるが、細い木々が相当迫り出してきており車が傷つくのが心配なら図に示す地点から歩く事をお薦めしたい。終点からは少し東へ上れば大堀切(切り通し)に遭遇するが、そこから左手(北側)斜面に取り付いて上れば15分程度で山上南端郭跡までは到達する事が出来る。ただし冬季である現在でも多少の藪漕ぎ(矢竹が多い)は必要であり、山上南郭までは連続する急斜面である為にある程度の覚悟は必要とされる。

現状(二月)城跡は山上まで辿り着けば比較的移動もし易く、一部矢竹の密生する尾根上を除けば尾根上の削平地(郭跡とした)の確認、主郭手前の堀切及び切岸処理の施された主郭などの判別確認は容易く、主郭に到達した事によってこの険峻な山城を征服した達成感は必ず得られる筈である。さほど大きくない主郭内は意外にも見通しの利く状態にあるが下界の眺望は木々に遮られ全く無理、しかし主郭に切岸は窺われたのである程度満足、更に堀切も目に留まったのは一箇所だけに限られたが、この山城の様相から察すれば個人的には非常に満足のいく山上踏破となった。この現況報告が自分と同様にこの城山に少しでも興味を持っておられた方、あるいはこれから上る準備のあった方の手助けになれたのであれば更に満足、、ただ古い形態の山城である為に見応えのある遺構に遭遇出来なかったのが少し残念な処ではあるが、、、

1route_3 登城ルート

3taka 城跡概念図

5_kiritoosi_1 直登口切通し

8_nantan_kaku 南端郭跡

10_naka_1 中郭跡

15_horikiri 堀切

21_sukaku_dorui_dan 主郭の段

21_sukaku_dorui_dan_1 主郭

20_shukaku_heki 主郭切岸

2009年2月23日 (月)

観音寺城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市観音寺にあって、アジサイ寺でも有名な観音寺の南背後の尾根先端に位置する山城。大槻将監の居城と伝わり当時綾部一帯を支配していた高城、高津八幡城主でもあった大槻氏一族の城跡とみてまず間違いのない処か、、

城跡へは綾部市内を東西に結ぶ県道8号に進入する事が先決、この県道を走れば東西どちらからでも観音寺地区道路沿いに案内標識が設置されているので寺院までは迷わず辿り着ける。寺院の南側背後の集合墓地まで上れば墓参用駐車場もあり、其の背後より南東側に向いて直登すれば藪漕ぎもなく10分程度あれば主郭に到達する事が出来る。

1route_4

登城ルート

4

県道より遠望

3

城跡概念図

現状(二月)城跡は藪化進行中ではあるが移動に難渋する事も無く、地表は相当風化が激しく凸凹としているが遺構の判別確認に支障を来たす状態にまでは至ってはいない。主要二郭で形成される本郭群で目立った遺構は目に留まらなかったが、唯一主郭への中央上り土塁虎口は切岸と並んで全体像が拝めもので中々見応えを感じる事は出来た、更に主郭櫓台を越えて南東側山上へと足を延ばせば二連の堀切を経て直ぐ規模の比較的大きい南郭群となる。ここから更に山上までは空堀道が通じているので、それに沿って上れば自作概念図に示す大空堀(凄い!)、土塁郭、更に連続する縦堀群が目を楽しませてくれる事になるが、この縦堀群のある付近の山上物見から北郭群までが今回の地図上からの踏破計画でもあり、探索はここ山上物見までとして当初の予定通り下山と相成った。更に南東側へは尾根道が遠く高嶽(標高416m)の山頂までも繋がっている様でもあり、郭跡もその尾根上に点在している様にも思われたが推察の域は出ないものでもある。

今回の訪問結果感じられた事は観音寺城は尾根先端部の二郭だけの城跡にあらず、遠く南東側山上までも縄張りに取り込んだ相当な城域を持つ、しかも縄張り妙味も尽きる事の無い山城であったと言う事である。中腹に位置する本郭群の自然任せの残存度の高い遺構にも魅力が感じられるが、更に南東山上に至るまでにこれだけの城跡遺構が残存していたとは驚くより他無いのが現実でもあり、時間に余裕のある方は是非山上近くまで足を延ばして頂き大空堀、縦堀群以外にも探せばまだ見つかりそうにも思える大槻氏の山城遺構を味わって頂きたいと思うのが本音でもある。

6_kita_oote

北側大手土塁虎口

9_fuku_kaku_2 副郭より主郭

11_shukaku_nobori_koguti 主郭へ上り土塁見所

12_shukaku_heki 主郭切岸

18_yagura_heki_1 櫓台の背後土塁

30_minami_dorui_dan 南郭群

35_dai_karabori_2 大空堀見所

38_sanjyou_kita_kaku 山上北郭群

2009年2月22日 (日)

畑城跡(奈良県山辺郡)

城跡は奈良県山辺郡山添村春日にあって、春日集落を南から見下ろす形の東西に長く独立した山塊の山上から西尾根上に位置している。西名阪道「山添」ICを降りれば数分内で登山口に辿り着ける距離にあり、ルート図に示す春日神社を目指せば分かり易い。神社には駐車可能でもありそこから南側へ山道を上って行けば道標は無いが、ルート地形図を頭に入れておけば直ぐ登山口は分かるはずである。そこから西斜面を上れば城中最大とも思われる東郭までは5分とかからず辿り着ける。城跡は奥田氏の居城を伝えるが詳細は不明

個人的には今回は季節を違えての二度目の訪問となるが、現状(二月)冬季にも拘らず前回同様状態の改善は全く無く、藪化は更に進行中でもあり主郭周辺及び他の郭群も雑木藪と化している状態にある。移動にさほど支障は来たさないものの郭全体像が窺えるのは限られた郭跡のみであり、見通しも悪い事から歩き回っての遺構確認となるが、残存する遺構群はほぼ当時のままとも見受けられるもので、自作概念図に示す遺構は全て判別確認出来る状態にはある。城跡は東西に渡る尾根上に山上東本郭群、中郭群、西出郭群が四本の深い堀切を挟んで構成されているもので、各郭群を分断する四本の堀切は城跡の見所でもあり一番の醍醐味を感じる部分でもある

1_route

登城ルート

3hata

城跡概念図

山上主郭からは四方尾根上に郭群が展開されており東本郭群のみでも一城に匹敵する規模を所有しており、小規模な山上主郭北壁には現在でも石垣跡が残存しており他の郭群と比べれば一層の堅固さを兼ね備えている様にも見受けられる。山上本郭群から尾根上を西に移動すれば堀切を挟んで中郭、更に西端に位置する西出郭までそのまま踏破出来るが、山上郭群より此方側の方が木々も少なく状態が良いので、郭切岸などの様に全体像が窺えるものは一層見応え及び迫力を感じる事が出来る。特に西出郭の堀切を含めた高低差のある郭壁は当時に近い直立に近い状態のものを拝む事が出来る。二度目となる今回の訪問では西尾根の探索が主目的であったが、期待を遥かに越えた見応えのある遺構群には感動しっ放しでもあり、改めてこの山城の規模を体感する事が出来た上に全体像をも把握する事が出来たので、東西尾根を縦断した形とはなったが非常に充実した訪城となった。

尚、下山時は概念図に示す西出郭北側から畑地に向いて山辺高校敷地側に下りれば、スタート地点である春日神社までは迷わず戻る事が出来る。結果として個人的にこの山城を一言で語るとすれば、「山城の醍醐味も遺構の見応えも兼ね備えた正に推奨に値する城跡」と言う事になろうか。

7_higasikaku_koguti 東郭虎口

16_hokutou_kaku_1 北東郭

27_shukaku_nisi_koguti_1 主郭へ西虎口

25_kita_gawa_isi_1 主郭北壁石垣跡見所

31_nisikaku 西郭群

34_horikiri_dorui_2 西堀切土塁見所

38_daihorikiri_3 中大堀切見所

39_nisi_nakamaru 中郭

51_nisi_demaru_daihorikiri 西出郭大堀切見所

56_nisi_demaru_nai_1 西出郭

2009年2月21日 (土)

多田城跡(奈良県宇陀市)

城跡は奈良県宇陀市室生区多田にあって、満寿寺東背後の佐比山城及びその北側山上(北城)に位置する郭群を併せた一城別郭とも言えそうな形態をしているものである。多田氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡へは阪神側から向えば西名阪道「針」ICが最寄の乗降口、国道369号を少し南下すれば「白石」の交差点を左折、後はルート図の如く満寿寺を目指せば迷わず辿り着ける。まず居館跡とも見受けられる佐比山城は寺院住居横から観音堂への参拝道が通じているので難なく到達出来るが、北城は概念図に示す様に寺院北側の山道から上り、取り付き易い箇所からの直登となるので多少の藪漕ぎは覚悟しなければいけない。

現状(五月)佐比山城の方はある程度整備されているので縄張りを含めて土塁、縦堀(一部のみ)、土塁虎口などの遺構は確認し易い状態にあるが、主郭以外の郭跡は低い笹で一面覆われており、雑木に覆われた箇所も多い事から全ての遺構が判別確認出来る状態にある訳ではない。自作概念図に示される遺構が現状確認出来たものであり、主郭三方における斜面上は蔓延る雑木の為に外見からの確認は困難でもある。北城は肝心の主郭周りの遺構群は地表も見えない笹で覆われ、更に雑木も生い茂っているので尾根上に展開される郭跡を歩き回っての探索が余儀なくされるが、郭跡以外では主郭背後の堀切、郭切岸、土塁、空堀などは何とか確認する事が出来た。北城は郭間にそれほど高低差がある訳でもなく特筆すべき見応えのある遺構が存在しないのも現実であり、特に藪化は一層進行しているので夏季における訪問はなるべく避けるに越した事はないとは思われる。

多田城跡は二城で成立していると見受けられたが、比較的状態の良い佐比山城の方が縄張り妙味には欠けるが遺構が露見しているので見学もし易く、高低差を伴う切岸あるいは虎口土塁などかなりの見応えを感じる事が出来た。二城併せた規模は比較的大きく、この地を支配した多田氏の勢いを城跡を見る事によってそのまま感じ取る事は出来るだろう。

1route 登城ルート

3tada1 城跡概念図

25_kitagawa_yori_shukaku_heki 佐比山城切岸

7_2maru 佐比山城二の丸

12_dorui_koguti 佐比山城土塁虎口

18_shukaku_nai_1 佐比山城主郭

20shukaku_mawari_dorui_ato 佐比山城主郭土塁

10_horikiri 北城堀切

12_shukaku_nisi_karabori 北城空堀土塁

12_shukaku_obi 佐比山城主郭切岸

2009年2月20日 (金)

本田城跡(三重県伊賀市)

この城跡は伊賀市柏尾にあって先にリポート掲載に及んだ小鴨氏城とは道路を隔てた真南に位置する丘陵上にある、伊賀の乱に於いて落城の記録が残っており、本田氏を始めとして何名かの士豪が立て篭もった城跡とも見受けられるが詳細は不明。

城跡へは小鴨氏城から歩いても直ぐ行ける距離にあり、写真画像に示す道路造成の為に切岸処理された付近から直登すれば、5分とかからず堀切及び丘陵先端部にある居館とも見受けられる小規模な郭跡に到達出来るが、堀切より逆に東側へ少し上れば本田東城とも呼べる東山上郭群へ到達可能でもあり、丘陵上全域を占める広大な削平地を眼にする事が出来る。一部整地された山上には現在社殿が建立されており、その東側に僅かに残る土塁堀切跡が物語る様に、ここを山上主郭の境として東側へは更に広大な削平地としての郭跡が連続しているのが見て取れる。この様相は伊賀の乱において何千もの兵が立て篭もるには充分過ぎる広さでもあり、対岸の小鴨氏城とも連携すれば更に強大な勢力と成り得たのが想像出来そうでもある。

現状(二月)城跡西端にある三方を土塁で囲まれた主郭は雑木及び竹が多少蔓延ってはいるが規模も大きくないので遺構の判別確認は容易に出来る状態にあり、土塁はもちろんであるが土塁壁底部を支える土留め石、石垣跡まで窺う事が出来る。目に付いた石垣跡は小鴨氏城でも見られた様に川原石を積み上げたもので土塁の補強程度のものと見ても差し支えなさそうには思える。特別縄張り妙味のある城跡ではないので見所を挙げるのに苦労するが、前述の堅固さには程遠い土塁補強石垣は当時のこの地方における石積み技術を物語るものでもあり、見所と言うに相応しいものではなかろうか

先に赴いた小鴨氏城の放つインパクトが強烈過ぎて此方はやや印象が薄いものとなってしまったが、恐らく当時においては機能重視のせいもあって大味な縄張りになったのではないかとも察せられる。小鴨氏城と併せれば二城同日訪問が楽に可能でもあり、充実した山城巡りが出来る事請け合いの城跡と言えるのではないだろうか。

4_1 城跡進入口

3z 3ho 城跡概念図

14_horikiri_temae_kaku_1 堀切手前の郭跡

15_horikiri_3 堀切見所

26_koguti_gawa 主郭南側

25_isigaki_ato_1 土塁底部の土留め石見所

29_dorui_hasi_heki_isi_1 土塁壁補強石垣跡見所

7_sanjyou_kaku_2 東山上主郭

10_sanjyou_horikiri_1 山上堀切跡

12_sanjyou_higasigawa_1 連続する山上削平地

2009年2月19日 (木)

小鴨氏城跡(三重県伊賀市)

この城跡は伊賀にあっては珍しくない丘城でありながら、山城的な縄張りプランによって築かれており、縄張り妙味も持ちながら本郭部における遺構残存度及び残存状態は現状を見る限り賞賛に値するものでもあり、是非訪問をお薦めしたい城跡の一つである。小鴨氏の居城と伝わっているが詳細は不明

城跡は三重県伊賀市岡田にあって岡田集落より国道と川を挟んだ南側丘陵上に位置しており、先にリポート掲載に及んだ龍王山城を起点にすれば分かり易く、国道422号「阿保」の交差点は逆に左折、針路変更後国道165号を東進、掛田城へ向うルートでもあり岡田付近から川を挟み南側に鉄塔あるいは稲荷神社の赤い鳥居が見えてくれば、西出郭にあたる城跡の先端部は直ぐ確認出来る。神社の望める国道沿いには充分な駐車スペースがあるのでそこから橋を渡って鳥居を潜り山上を目指せばよいが、逆に出郭を後回しにするのであればルート図に示す墓地側から登れば直接主郭に到達出来る。

1route_4 登城ルート

4_2 城跡進入口

3ko 城跡概念図

現状(二月)城跡は手入れのされた植林地となっているので見通しも利き、雑木下草も少ないので主郭周りに残存する遺構は全て判別確認が容易に出来る状態にある。中でも特に状態の良い主郭及び周囲を巡る高さはないが分厚い土塁は幅が6~7mはあり、一郭としても成立しそうに思えるもので、穴倉状に西に付随する郭跡と並んで城跡の最大の見ともなっている。この穴倉構造物は掛田城でも既にお目にかかっており、機能は個人でそれぞれ想像するしかないが、かつては巨大な櫓の土台であった様にも窺える(更に主郭と見受けられる郭跡は馬出しの様にも思えてくる)。土塁内外壁及び空堀外周の土塁には石垣痕が随所に窺われ、本郭部の整合感のある構造からも案外石垣城が想像出来るものでもあり、個人的には織豊系と呼べるものではないが、なぜかそれに通じるものを感じ取れた。山城巡りにおいて楽しいのは残存する遺構機能の想像も含まれており、この城跡に関しては細部に渡り他で見当たらない遺構を確認出来るので、限りなく想像も広がり更に目を楽しませてくれるのも現実となっている。

丘城と言えば必ず竹薮は避けて通れないのが現実でもあるが、この城跡に限っては一切竹薮は存在しないので安心して赴いて頂きたい。尚、最初に登城口に選んだ社のある山上西出郭は二連の堀切と二郭で形成されており、土塁も備わる事からも充分見学に値する遺構となっているので、後回しになっても決して見逃してはならない。(ルート図に記す本田城は次で掲載の予定)

10_nisi_demaru_2 西出郭

16_horikiri2 西出郭堀切見所

28_shukaku_1 主郭と外周土塁見所

29_shukaku_1 主郭より虎口側

35_kitagawa_dorui_ue 主郭土塁上

25_anagura_dorui_1 穴倉構造物見所

30_shukaku_yori_ana_koguti 穴倉へ虎口土塁

40_kita_karabori_dorui_1 主郭北側土塁空堀

44_higasi_horikiri_1 東堀切

51_karabori_1 南土塁郭の空堀見所

2009年2月18日 (水)

高山城跡(奈良県生駒市)

奈良県生駒市高山町庄田にあって、どの地図上にも城跡マーク入りで記載されている山城でもあり、国道163号からは富雄川に沿って北上し川沿いにある「九頭神公民館」を目指して進行すれば駐車可能でもある公民館までは迷わず辿り着ける、城跡は高山氏の居城と伝わるが詳細は不明。

公民館からが城跡へのスタート地点となるが、北側へ向いて歩けば道標も設置されており、少々遠回りではあるが遊歩道から尾根上の北郭群を覗きながらの南下ルートで主郭まで到達出来る、手っ取り早く石碑の建つ中郭跡及び南郭側から主郭までの見学であれば公民館向いの橋を渡り、荒地となった住宅横の広い空き地を通過すればいち早く主郭までは到達可能である。個人的には登城は前者のルートで帰路を後者としたが、現状(11月)概念図に描き切れなかった規模の大きい北郭群は相当藪化も激しく郭内の踏破は非常に困難でもあり後者のルートで直接主郭を目指した方が良いかもしれない。無理に侵入した北郭は外見からは全体像あるいは形状を窺う事は困難ではあったが、土塁及び段差を伴う郭、虎口跡などはどうにか確認する事が出来た。しかしこの密生する雑木藪の中では南北広域に渡る縄張りの確認が出来ただけましかもしれない、、

1route2 登城ルート

76_kita_yori 北側遊歩道への進入口

3_1_2 城跡概念図

城跡は南北尾根上に堀切を挟んでほぼ隙間無く郭が配されている規模の大きいもの、自然地形を上手く取り込んだ縄張りには中々見るべきものがあり、外見から判断するより山上は起伏に富んでいるので低山ではあるが、郭高低差のある事も相俟って山城としての醍醐味あるいは見応えは充分感じる事が出来る。主郭及びその周辺は現在藪化進行中でもあり藪に潜む郭跡全てを踏破して確認する事は出来なかったが、縄張り変化にも相当富んでおり飽きる事なく城跡全体のほぼ八割は見て回る事が出来た。見所を挙げれば真っ先に縄張り妙味は挙げられ、特別インパクトのある遺構は存在しないものの、変化に富んだ縄張りは山城探索そのものを充分満喫する事が出来、遊歩道が設置されている事からも軽いトレッキング気分で訪れる事の出来るとてもお手軽な城跡と言えよう。

城跡直ぐ近くまで迫る住宅地、あるいは付近の後世造成された農作地を考えれば、よくぞここまで遺構は破壊を免れたものである、遊歩道から更に雑木竹林地に目を向ければそれらしい当時の遺構がまだ幾つも出て来そうにも思える可能性も秘めた城跡である。

19_yasiro_naka_kaku 石碑の建つ中郭

26_minami_demaru_doruikaku_1 南出郭の土塁見所

50_shukaku_1 主郭の現状

46_shukaku_e_dobasi 中郭南土橋

28_demaru_nisi_gawa_1  南出郭西

31_90do_horikiri_1 南端の直立に近い堀切見所

Kita_kaku 北郭の土塁虎口

2009年2月17日 (火)

城氏城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市伊勢路にあって、既にリポート掲載に及んだ掛田城跡からみれば東側の別丘陵上に位置しており、善福寺背後の丘陵上が城跡でもあり目と鼻の距離に位置している。もちろん戦国期における城氏の居城とは伝わるが詳細は不明

城跡へは掛田城を起点にすれば直ぐにでも分かり易く、ルート図の如く善福寺を目指して移動、寺院駐車場から集合墓地のある丘陵上まで上り、そのまま右(西側)手に移動すれば直ぐに城域となるが、墓地敷地も本来なら郭跡の転用で近世において多少造成整地したものと見受けられる。西端に位置する主郭までは東西に連続する相当な規模の郭跡を移動する事になるが途中に埋もれた堀切跡、石組み井戸?、郭内に人為的な凹状地を窺う事が出来る。

現状(二月)城跡は樹木も下草も比較的少なく見学し易く遺構の判別確認は容易に出来る状態となっている。主郭は方形居館跡の様相を呈しており、伊賀では定番とも思える分厚い高土塁あるいは虎口櫓台土塁は未だ健在でもあり、主郭三方を廻る空堀と並んで城跡最大の見所ともなっている。最上段に位置する土塁内壁には石垣跡も残存しており、随所に残る石垣痕あるいは崩落石から窺われる様に土塁内壁は全て石垣で補強されていた様にも見受けられる。館城の為に縄張り妙味には欠けるが、状態の良いのも相俟って主郭内から見上げる直立に近い土塁壁あるいは前述の虎口櫓台土塁は全体像を窺う事も出来、相当な迫力と見応えを感じ取る事が出来る。

個人的には掛田城とは日を改めての訪城となりリポート掲載も後手を踏む事になったが、まだ未訪でこれから訪問準備のある方にとっては効率の良い二城同日見学をお薦めしたい。画像でも確認出来るように主郭内は見通しも利き、下草も少なくこれ以上望めない状態が保持されているので、居館跡として見学する分においては申し分のない状況下にある。先に掲載に及んだ掛田城と同日訪問すれば間違いなく満足感に浸れて、それ以上のものが必ず得られると断言してもよい、是非お薦め出来る城跡と自分の目には映った。

1route_2 登城ルート

3j 城跡概念図

26_shukaku_yori_koguti_1 主郭内櫓台土塁

27_shukaku_nai_heki 主郭土塁壁見所

35_shukaku_koguti_2 主郭土塁虎口

23_dorui_naiheki 主郭上段櫓台

22_dorui_heki_isi_2 土塁壁の石垣跡見所

21_gaishuu_dorui 主郭大土塁上

18_dorui_yokobori 南側横堀と土塁見所

28_horikiri_dobasi_isi 西郭境の土橋側面石積み見所

2009年2月16日 (月)

龍王山城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市比土にあって、阿保の中心部より川に沿って西側に聳える台形上の山の山上が城跡であり現在山頂には「八大龍王社」が建立されている、無名に近い山城である事からも、ここに社参拝を目的として訪れても城跡として訪れる者は非常に少ないと察しの付く山城でもある、城史に関しての詳細は不明。

城跡へは名阪国道「上野東」ICが最寄の乗降口、国道422号を南下し「阿保」より国道165号へ右折進路変更、国道を走れば直ぐ目の前に立ちふさがる台形状の山がそれで概念図に示すパチンコ店を過ぎて直ぐ右折、後は道に任せれば社への道標も出ているので迷わず参拝道より山上主郭まで辿り着ける。車は付近に路駐可能

現状(二月)城跡は社周りを除いては冬季にも拘らず相当藪化しており、全体像の視認はまず困難、特に主郭西側はジャングルと化しており密生する雑木によって距離感も掴めず、郭形状あるいは郭内に存在するであろう土塁などの確認も困難を来たす状況となっている。縄張りプランに関してはほぼフラットな山上を削平して築かれたものと思えるので余り郭高低差も無く、ただ広大な面積を所有する主郭のみといった印象が強いが、南郭側には空堀あるいはそれに伴う土塁虎口なども眼にする事が出来、間違いなく城跡遺構は存在している。参拝道中鉄塔北側にも唯一土塁堀切の備わる郭跡も確認出来、谷を挟んだ西側には大手とも窺われる本来の踏み跡道も溜め井戸(池)も窺う事が出来た。自作概念図に示された遺構が現状確認可能なもので、藪化も風化も激しく特に見応えのある遺構は存在しないが、本来の山城としての縄張りプランも大味で余り技巧の用いられなかったものの様にも推察される。山城の形態そのものが丘城の多い伊賀においては珍しいものでもあり、山城としての醍醐味には少々欠けるが、なぜか新鮮なものを自分の中で感じ取る事が出来た。まだ未訪の方にとっては国道沿いでもあり、車を降りて5分も歩けば城跡遺構に巡り合えることからも、移動の際に覗いても決して無駄にはならない山城とは思えるのである。

1route 登城ルート

4 国道より城跡

2_3ry 城跡概念図

11_kitakaku_horikiri_dorui 北郭堀切

18_shukaku_kita_gedan_1 主郭北下段

16_dorui_karabori 東側空堀土塁

23_minami_karabori_2 南郭空堀

25_minamikaku_dorui_kado_2 南郭土塁角

26_shukaku_yasiro_2 主郭石碑

29_mizunote 水の手

2009年2月15日 (日)

館城跡(京都府綾部市)

この城跡は事前に地形図からみても丘城である事が察せられ、丘城であれば鬱蒼とする竹薮が直ぐに想像されたのでほとんど何も期待せずに訪れたが、現状(二月)城跡は低い下草は蔓延ってはいるが竹薮は皆無、生い茂っていたと思われる周りの草木は伐採され、郭切岸などはむき出しになっており空堀は全体像をも拝める状態、全ての遺構は判別確認可能と言った具合で、民家に隣接する丘城としてはこれ以上望めない素晴らしい状態にある。もちろん土地所有者の方によって周囲の木々は最近伐採されたものと思えるが、この時期を逃してはこれから良い状態の保持された城跡見学はほぼ無理とも思え、まだ未訪の方の為にも取り急ぎ訪問リポートの掲載に及んだ。石川氏の居城と伝わるが城史に関しての詳細は不明

城跡は綾部市館町にあって、阪神側から北上した場合国道9号から県道8号を経由し県道9号を北上、自動車道の高架を潜れば道路沿いには目印となるリョウガン寺の道標もあるので右折進路変更後はルート図の如く進行すれば概念図に示す城跡進入口には分かり易く辿り着ける。付近道路(未舗装)沿いには空きスペースもあるので車の駐車は可能でもあり、そこから数mも歩けば城域でもあり真っ先に主郭東背後にある状態の良い切岸と空堀を拝む事が出来る。

1route 登城ルート

6 城跡遠望

3t 城跡概念図

とにかく城跡はほぼ完存とも思える様相を呈しており、郭周囲を巡る空堀に至っては深さの違い、段を違えた仕切り土塁などの様に細部に渡って遺構の判別確認する事が出来、他でも櫓台の分厚い土塁、副郭の薄い土塁などの様に城跡における遺構は細部まで手に取るように窺う事が出来る。見所は小規模ではあるがコンパクトにまとまった城跡全てと言っても過言ではなく、必ずや訪れた者を満足させてくれる筈である。丘城(ほとんど平地に近い)にありながら竹薮の存在しない城跡は関西圏では皆無に近く、農地あるいは民家が直ぐ迫った状況にありながらもこれだけの残存度を誇る城跡が身近にあったとはとても信じられない思いでもある。

コンパクトである為に見学も短時間で済むが、周囲を何度見て歩いても飽きさせないほどの残存度の高い遺構群及び佇まいは正に賞賛に値する城跡でもあり、訪問時期としてはこれから下草や木の芽吹く前までがベストとも予想され、今でも充分戦国期に思いを馳せることの出来る素晴らしい状態の城跡を是非春先までには堪能して頂きたいと思う。尚、東側の丘上(鉄塔が建つ)にも削平跡だけは窺える大規模な郭跡が存在しており、当時城域も主郭を中心として周りの低い丘陵上全域に及んでいたとも推察出来そうである。

8_minamigawa_karabori_2 35_karabori_minamigawa_1 南側空堀見所

34_minami_karabori_sikiri_1空堀仕切り土塁見所

11_kitagawa 北側空堀土塁見所

17_fuku_kaku 副郭内の土塁

20_fukukaku_nai_karabori 副郭内の空堀見所

20_fukukaku_koguti_1 副郭虎口土塁

27_yagura_heki 主郭櫓台

2009年2月14日 (土)

奥ノ谷城跡(三重県伊賀市)

この城跡は三重県伊賀市老川にあって、先にリポート掲載に及んだ峰出城跡とは堀切道一つを隔てた南丘陵上に位置している。峰出城でも目印とした二つのカーブミラーの中間辺りより直登すれば直ぐにでも北端の郭跡あるいは堀切(相当埋もれている)に到達する事が出来る。

現状城跡は同日訪問となった峰出城とは比べるレベルにないほど状態は悪く全域が荒れ放題と化している、其の分手付かずの為に遺構残存度は高いと見受けられるが、肝心な主郭全域にかけても雑木あるいは竹が蔓延り、鬱蒼とした状態でもあるので中々良い遺構画像が残せないのが現実でもある。しかし冬季ともあって移動して見て回る分には支障を来たす事はないので、残存度の高い遺構はほぼ判別確認は可能である。

二重堀切によって丘陵上は分断されており、南側に延びる削平された山上郭群を併せれば規模も中々大きい事が分かり、主郭は当然方形居舘跡とみて良いとは思われるが、周囲には土塁が巡り櫓台とも見受けられる大土塁も目に留まる。見所を一つ挙げれば二重堀切ということになるが、大土塁を挟んで深く掘削された様は全体像を窺う事が出来るので、迫力及び見応えは訪問者を必ず満足させてくれるものでもある。特別縄張り妙味がある城跡ではないので見学対象となるのは主郭周りの遺構ということになるが、南山上まで少し足を延ばせば削平地の中にほぼ風化状態にはあるが方形状の薄い土塁で囲まれた郭跡を窺うことも出来る。直ぐ隣接する峰出城との関係までは調べるまでには至っていないが、堀切道を隔ててここまで隣り合わせだと一城別郭とした一族郎党の居城であったとも想像出来るし、当時においては堀切道もなかったとすれば図に示す様に本来は繋がっていた城跡であった可能性も充分考えられる。どちらにしても伊賀においてここまで山奥の辺境の地にある城跡としては規模も大きく、無名に近い一士豪によって築かれた城跡にしては大した城普請でもある。二城併せれば是非お薦めしたい物件と言えるものである。

1route 登城ルート

4 城跡遠望

7_tozanguti

直登口

2z8 3 城跡概念図

13_shukaku_nisi_dorui 主郭西土塁

14_shukaku_minami_yagura 主郭櫓台土塁見所

21_2jyuu_hori_1 24_horikiri_dorui_1 二重堀切全体像見所

23_dai_horikiri_2 二重堀切1

31_nisi_gedan 西郭群

25_minami_kaku_1 南郭

28_sanjyou_kaku_1 山上郭

2009年2月13日 (金)

峯出城跡(三重県伊賀市)

この城跡は三重県伊賀市老川にあって、先に訪問を終えた小竹氏城とは直線にして3km山中を北東に移動した似たような立地条件下(山中丘陵上)にあり、同日訪問となった奥ノ谷城とは堀切道を挟んで隣接している。城史に関しても城主に関しても詳細は不明

城跡へは小竹氏城を起点にすれば説明し易いが、一般道691号から767号へと進入すればルート図の如く「青山文化センター」を目指して進行、道路沿いには道標もある事から場所の確認は容易い。車は個人的にはセンターの駐車場に停めたが、更に城跡側に上れば路駐可能な場所は沢山あったようには思われる。民家の畑地背後(西出郭)から上れば一通り城域を見て回れるが、直ぐにでも主郭に到達出来るのは写真に示す目印となるカーブミラーのある場所からで、一番手っ取り早く主郭までは辿り着ける。

現状(一月)城跡は草木に邪魔をされることもなく、見通しも良く非常に見て回りやすい状態にあり、残存状態も非常に良く小規模な丘城(居舘跡か?)である事も相俟って遺構はほぼ判別確認が容易となっている。城域は主郭から二本の堀切を経て痩せ尾根上に出郭(墓地)、更に南西側民家近くの農作地までは及んでおり、その間には土塁虎口?などの遺構も目に留まる。見所は主郭内における状態の良い櫓台土塁、周囲を巡る土塁で、全体像が拝める状態にあるので非常に醍醐味を感じる事が出来る。規模は小さいがこの山奥山中にひっそりと眠る、ほぼ完存と呼んでもよい主郭周りの遺構は非常に価値のあるものと自分の目には映った。

今回の訪城もそうであった様に今まで訪れた伊賀の城跡のほとんどに城跡と個人ネームの記された青いタグが木に掲げてあり、それが目に留まる事によって個人的には励みともなり、更に城跡の呼称を確認する上で非常に助かっているのが現実でもある。自分と同様にここにも無名に近い城跡を訪ねる山城ファンがいるのだと思うとなぜか青いタグに親近感を覚えてしまうのである。尚、奥ノ谷城跡は次(現在編集中)でリポート掲載に及ぶ予定。

1route_4 登城ルート

5_1 城跡遠望

6_tyokuto_kuti_1 直登口

3m1 城跡概念図

11_nisi_horikiri_1 西出郭側堀切

16_fuku_kaku_1 副郭土塁

17_dai_dorui 仕切り大土塁

23_shuui_dorui 23_shuui_dorui_1 主郭周囲の土塁

20_yaguradai_1 20_yaguradai 櫓台大土塁見所

2009年2月12日 (木)

上関城跡(山口県熊毛郡)

城跡は山口県熊毛郡上関町にあり現在は橋で陸続きとなっているが、当時は長島と呼ばれた島にあって、海関守備あるいは海峡通行税徴収の為の村上水軍代々の居城と伝わる。Kami_1a Kami_1w

城跡へは山陽自動車道「玖珂」ICあるいは「熊毛」ICが最寄の乗降口、どちらで降りても海沿いを走る国道188号に進入しなければいけないが、平生町「角浜北」交差点より県道23号でひたすら南下すればよい。ルート図の如く進行すれば自ずと上関大橋を通過する事になり城跡へは難なく辿り着く事が出来る。橋を渡った後、直ぐ左側には上関砲台跡(一部古い石垣跡が斜面に窺えた)も残っているのでついでに寄っても時間の無駄にはならないと思われる。

現状(一月)城跡は史跡として整備公園化されており素晴らしい状態にあると言えるが、公園化される前の状態を知らない者にとってはどこまで地形改変があったのかは想像する他ない状態でもあり、この素晴らしい城跡の現状が往時の状態であったのかどうかは少し困惑する処ではある。現在三段構造で形成される郭内には展望矢倉、周囲に柵、冠木門あるいは大石垣なども設けられており、水軍城らしい雰囲気は充分過ぎるほど醸し出してはいる、復元がどこまでのものかが想像出来ず、現状を素直に見たままで当時に思いを馳せる事が案外一番楽しめる方法なのかもしれない。遺構だけに着目して城跡を捉えず、当時の水軍城としての立地環境あるいは機能などを考察しながら見て回ると、更に楽しめる城跡と言えるのではないだろうか。

尚、周辺には番所跡も残り、海の関所として栄えていた町並みにも当時の風情が未だに残っており、上関から長島の歴史を語る上においても付近の散策は是非お薦めである。個人的にはこの町には数度訪れているが、山城巡りを忘れて一日ぶらぶら歩いても飽きない、なぜか歴史ロマンの漂う癒し効果のある町でもあるのである。

1route2 登城ルート

K1a 上関大橋

2_1 現地案内板より

4xa 陸側より城跡遠望

5 城跡

2_kami_6 展望模擬矢倉

Kami_3 冠木門

Kami_9 最高所より城跡北側

Kami_7 海側切岸

白滝城跡(山口県岩国市)

山口県岩国市美和町岸根にあって、登山客も多く訪れる白滝山(標高458m)山上が城跡であるが、実際には山上は物見あるいは詰城としての平坦な巨大自然岩を取り込んだ削平地でもあり、城跡としての中枢となるべく郭跡は山上より北西側に少し下った尾根上に存在する。1sir2 1z_1

3_1 登山口

城跡へは山陽自動車道(広島岩国道)「大竹」ICが最寄の乗降口、国道2号経由で186号に進入すれば弥栄湖を目指して進行、弥栄湖からはルート図の如く一般道116号へ進路変更後、弥栄大橋を渡ればよいが、橋の手前辺りより既に北側に望める岩肌の多く出ているほぼ岩で形成された険峻な山頂が城跡にあたる。道路沿いの案内板手前には登山客用駐車場も完備されており、そこから山頂までは登山道で迷わず登る事が出来るが、一番分かり易い登山ルートは図の赤線で記されているルートで、尾根上の「入道岩」経由で途中周囲の開けた素晴らしいロケーションも楽しみながら登れるので、距離も時間も余り感じさせずに登れると思われる。時間的には休憩を挟めば山頂まで約80分程度(藪漕ぎの箇所は一切無い)は要すが、山頂の素晴らしいパノラマと山城遺構(郭跡のみ)は決して期待を裏切るとは思えないので是非城山登山にトライする事をお薦めしたい。

山上付近まで到達すれば自然大石に彫られた当時の旗立て台と思われる旗さし穴が数箇所に窺われ、ここが城跡であると言うことがはっきり分かる。もちろん遺構の標識も設置されているので場所は直ぐ確認可能でもある。山頂は前述の様に土塁が残っているわけでもなく巨大一枚岩を取り込んだ規模の小さな削平地で、およその機能は想像出来そうでもある、北側に向えば凄い平坦巨大岩もあり更に山上の物見を感じさせてくれるが、ほぼ見る者の想像力に委ねられる。山上の遺構としては小規模な郭跡のみでもあり味気ないかもしれないが、ここから眺められる景色は最高に素晴らしく(当時の状態のままに思える)、ここまで時間をかけて登って来た甲斐はあったと納得するのである。

山頂から北西へ10分程度下ると本来の城跡として尾根上に郭跡(削平地)、あるいは池(鏡池、溜め井戸か?)が目に留まるが、写真にある小さな祠傍には城跡の標識もあるのでこの付近が本来の城跡という事が分かる。しかし現状では雑木に覆われており削平地としての確認が出来る程度で、土塁などの判別確認までは難しい状態でもある。尚、下山はそのまま城跡から登山道に沿って降りれば容易に麓登山口まで戻る事が出来る。

16_nyuudou_iwa 入道岩

29hatatate_iwa_1 旗立て岩見所

31_santyou_top_kaku Santyou_top_kaku_1 山頂の山上郭跡

Kita_ooiwa_gun 山上北側の大巨岩

37_kaku 37_kaku_1 北西尾根上の郭跡

38_jyou_nai_1 城跡標識

39 鏡池見所

2009年2月11日 (水)

山村氏城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市上林にあって地区内にある神戸小学校の北東側の丘陵上が城跡、山村氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは阪神側から向えば西名阪道「上野東」ICが最寄の乗降口、国道422号より南下し伊賀丸山城跡を左手に見ながら更に南下、神戸小学校の西側にある信号機付き交差点が見えてきた地点(手前50m付近)からルート図の如く「持沸寺」側に左折して城跡進入口となる道沿いにあるゲートボール場付近まで進行、駐車スペースは充分付近にあるので畑側からそのまま城跡側へ進入すれば直ぐに城域となっている。

現状(一月)城跡は全域が冬季にも拘らず自然任せの凄まじい雑木藪地と化している。それでも落葉樹が多い為に枯れ木も多く、郭内の移動は余り難渋もせず充分可能な状態と言えるが、見通しは非常に利き難く遺構群も相当傍まで寄らないと判別確認には難渋する状況となっている。特に一番肝心な遺構でもある主郭周りを巡る土塁は、郭内からは枯れ枝に邪魔をされて全体像を拝む事はほぼ不可能であり、広さなどを視認によって確認する事も不可能となっている。全体的に城跡をみれば丘上全域がほぼ削平地となっており、ただむやみに広いだけで広さを体感する事は出来るが、見て回る分には非常に大味な城跡に感じられる。城跡の見所としては規模の大きい主郭周囲を囲む分厚い土塁、主郭北西隅に設けられた掛田城跡でも見受けられた穴倉状になった方形土塁構造物は挙げられるが、他にこれといった見応えのある遺構が少ないのも確かな現実であり、特別縄張り妙味もあるわけではないので個人的には余り印象に残らない城跡となってしまった。後になって思うには同日訪問した掛田城跡が予想を超えて見応えがあり、更に縄張り妙味もあった事から余計此方が霞んで見えたのかも、、、ただ遺構残存度は自然任せで長い年月経過していると見受けられる為に非常に高く、ほぼ完存と言っても差し支えないものと目には映った。

城跡は現状から予想しても夏季の訪問は絶対に避けるべきだと思われるが、恐らくこれから先も人の手が入るとも思われないのでむしろ冬季限定と言った方が良いのかも知れない。

1route_3 登城ルート

6_2 進入口

3y 城跡概念図

15_nisi_kaku_minami_dorui_1 二の丸南側土塁

25_ygura_dorui 25_ygura_dorui_3 穴倉構造物の土塁見所

27_shukaku_dorui 27_shukaku_dorui_1 主郭土塁内壁

28_shukaku_nai_1 主郭内

30_shukaku_heki 主郭切岸

29_shukaku_minami_karabori 主郭南側空堀

2009年2月10日 (火)

掛田城跡(三重県伊賀市)

最初に、この城跡は比較的残存状態も良く山上郭群を併せた規模には相当なものがあり、付近には直ぐ民家が迫ってはいるが遺構はほぼ当時の状態のままであるとも見受けられるもので、残存度は非常に高く、更に見応えのある事からも是非訪問をお薦め出来る城跡の一つである。城跡は富増氏の居城を伝えるものであるが詳細は不明

城跡は伊賀市青山町下川原にあって、阪神側から向えば西名阪道「上野東」ICが最寄の乗降口、国道422号を走り「阿保」交差点より国道165号に進入すれば東進、登城口目印となるのは「下川原」バス停で、そこから東数10m先右手にある自販機の並ぶ民家とガレージの間の細い路地(数m)を抜けて石段を上れば既に城域となる。尚、自販機横辺りには路駐出来る路肩スペースもあるので駐車に気を使う事は無いと思われる。1route_2

現状(一月)城跡は植林地となっているので見通しは利く状態にあり、主郭土塁上などの様に部分的には低い笹や草木の生い茂り地表も見えない箇所もあるが、遺構はほぼ判別確認出来る状態にあると言って良いものである。城跡は居館跡とも見て取れる主郭から山上郭に至るまでが城域と見受けられ、山上には社殿は建立されているが背後は土塁、空堀跡(相当埋もれている)が窺われ、更に東へ削平地として大規模な郭跡が広がっている。数箇所の郭壁には切岸も窺われるので、当時においては麓居舘郭群及び山上郭群の二段構の構造が想像出来るものでもある。5 3k

城跡概念図

見所はやはり主郭回りの遺構で、主郭虎口には櫓門があったかのような見事な大土塁が聳え立ち、土塁底部には土留め石まで眼にする事が出来る、石垣痕は主郭周囲土塁の至る場所で見受けられるので、案外周囲は石垣で固められていた可能性はあるのかも知れない、、ほぼ方形に近い主郭内南隅には土塁で囲まれた天守(櫓台)としての機能を持った、穴倉(8m四方)の様にも窺われる構造物が存在しているが、機能は推察するのみで他に余り類を見ない(伊賀山村氏城にも現存するが、、)ユニークなものでもあり、一見の価値のあるものと目には映った。大堀切を越えれば東郭群と呼べる現在多少傾斜地になってはいるが郭跡が窺え、土塁虎口跡を伴う郭まで存在している。探せば城跡の至る所に土塁が設けられているが、これらは城跡の見所であると同時に堅固さも充分窺えるものでもあり、想像力が掻き立てられ更に縄張り妙味も尽きる事がなく非常に目を楽しませてくれている。伊賀にあってはよく見受けられる方形居舘跡の域を遥かにはみ出た城跡なのである。

10_oote_koguti_he 大手虎口大土塁

11_koguti_temae_dorui_karabori_2 虎口手前空堀土塁見所

15_yagura_isi_1 虎口土塁の土留め石

18_shukaku_kita_dorui 主郭土塁

23_anagura_koguti 穴倉構造物虎口見所

28_dai_horikiri_4 大堀切見所

40_yagura_nisidorui_karabori 主郭西側空堀土塁

35_higasi_kaku_dorui_koguti 東郭群

46_dorui_haigo_yori 山上郭土塁壁

2009年2月 9日 (月)

今井城跡(奈良県宇陀郡)

奈良県宇陀郡曽爾村今井にあって、目印となる奥香落山荘からは南東側に突き出した丘陵上の先端部が城跡にあたる。城史に関しての詳細は不明

城跡へは阪神側から向うのであればまず曽爾高原を目指して国道369号に進入する事が先決となる、「掛」の交差点から県道81号へ針路変更して奥香落山荘を目指せば分かり易く辿り着ける、付近には路駐スペースもあるので城跡の位置だけ確認すれば奥香落山荘の広い玄関前を抜けて更に沢水の流れる橋を越える、後はルート図の如く養魚場の傍を通りながら歩けば直ぐに観音像(三の丸)までの遊歩道に合流出来る。

現状(五月)城跡は観音像の建立されている三の丸まではある程度見通しも良く、遊歩道で堀切あるいは郭跡などの遺構を確認しながら到達出来るが、主郭及び二の丸は低い笹に全面が覆われており地表も見えない状態となっている。土塁などはかろうじて下草の盛り上がりから判断する事も可能であるが、堀切などは窪んだ状態からそれと分かる程度なので、遺構の醍醐味を直接味わう事は中々難しい状況にあるのが現実でもある。しかし二の丸郭壁には土中から石垣跡も露見しており、主郭にも石垣痕がある事からかつて壁面は石垣で覆われていた事も推察されるので、それなりに当時に思いを馳せる事は出来る。特別見応えのある遺構が存在しないのが少し物足りない気もするが、最初から期待もさほどしていなかった分個人的には充分楽しめた城跡ではある。

1route 登城ルート

Imai 城跡概念図

6_daihorikiri_1 北側大堀切

15_3maru_nai_2 三の丸

16_3maru_nai_dorui_1 三の丸内の土塁

17_shukaku_horikiri 主郭東堀切

18_shukaku_nai 主郭の現状

20_2maru_1 堀切と二の丸の現状

25_obi_heki_yori_2maru 二の丸切岸

23_2maruheki_isi 二の丸壁石垣跡

26_higasi_horikiri 東端堀切

2009年2月 8日 (日)

頭崎城跡(広島県東広島市)

広島県東広島市高屋町貞重にあって集落の北側に聳え、南麓から望んでもすぐ分かる形の整った標高504m(比高約200m)の頭崎山山上が城跡。平賀氏代々の居城と伝わりここが本城となるが、信州における豪族平賀氏とは遠く祖先を共通にする一族かも知れない。

城跡へは山陽自動車道の「西条」ICあるいは「河内」ICのどちらで降りても相当な山間部に位置しているので距離的には余り違いが無く、登山口までは348号を走れば何とか貞重地区に入れる、集落の道路沿いにある大きな案内看板からは北側に頭崎山をすぐ望む事が出来るので城跡の位置の確認はすぐ出来るが、この付近数箇所に登山口があるらしく、車ではルート図の如くお好み焼き屋の横の狭い道から距離は相当あるが山上まで(林道)は車で上れるので、トルクの太い車であれば到達出来るはずである。自分の体験からすれば麓から歩いて上った方が早いかもしれないが、、

現状(一月)城跡はある程度整備されており、山上における主郭回りの遺構あるいは郭跡はほぼ判別確認可能な状態にある。現地縄張り図によれば相当城域の広い山城と見受けられるが、自分の様に遠方からの訪問者にとっては時間に余裕が無いので、山上郭群の見学で精一杯と言ったところになるとは思われる。城跡における見所は、探せば随所に見受けられる当時の石垣跡、自然岩(巨岩)を取り込んで形成された郭跡、あるいは自然地形を活用した縄張りは非常にユニークなもので、山城の醍醐味に満ち溢れている。本郭群を採り上げれば規模はさほど大きくは無いが、現地縄張り図を見れば北側から北西側に向いて相当広がっており、案内板にも記載されてあったように広島県内では郡山城跡に次ぐ広さと言われるのも理解出来る様な気はする。時間が許すのであれば山上北側に向いても踏破探索したかったが、山城巡りとしての事前計画を考えればそれも叶わず、無念ではあるが下山と相成った。

今回は恐らく城域の半分にも及ばない山上本郭群のみの訪問となったが、一度は山上全域を踏破してこの山城の全てを体感してみたいと思わせる城跡の一つになった。

1_1 登城ルート

5_minami_tozanguti_annai 南麓の案内板より

3_1 城跡概念図

2z 現地案内板より

19_ensyou_dan_1 21_ensyou_dan_yasiro 煙硝の段

27_taiko_dan_isi 太鼓段壁の石垣跡見所

31_taiko_gedan 太鼓段

32_taiko_hokutou_isi_1 郭壁大石垣見所

35_2maru_yori_shukaku_e 二の丸より主郭へ

38_shukaku_isigaki 主郭虎口の石垣跡見所

40_shukaku_tume 主郭

府中桜山城跡(広島県府中市)

広島県府中市宮内にあって全国的にも有名な吉備津神社からは直ぐ真南の低山が城跡、神社の駐車場からも既に城山は望める位置にありルート図の如く南側へ住宅地の間を通り抜けて進行、城山の位置さえ確認出来れば山上の墓地あるいは荒神社に向う山道から城跡へは難なく到達出来る。2 1z

登城ルート

現状(一月)登城道中における尾根上の墓地転用地とも見受けられる郭跡は多少地形改変があったと思われ、当時の状態は見る人の想像に委ねられるが、最高所に位置する主郭と付随する西郭跡のみは整備されており、主郭櫓台までは明確に判別出来る状態にある。しかし西尾根及び北側は草木の生い茂る雑木林となっており全体像は掴み難く、西堀切と北側の墓地付近に存在する郭跡の一部程度しか判別確認は困難な状態にある。概念図に示すように古い形態の山城なので特筆すべき技巧を伴う遺構も見当たらず、山城としては醍醐味に欠け、見応えのある遺構も存在しないのが現実でもある。現状を見る限りでは防備も手薄であり恐らく戦国期までこの山城が機能していたとは思われず、推察ではあるが戦国期においては神社守備としての機能だけを担っていたとも見受けられる。

この古い形態を持つ山城にははっきり言って見応えのある遺構は存在しない、当然山城ファンには物足りないとは思われるが、当時を語る史跡として考えれば充分訪問をお薦め出来る物件と言える。一見味気ない様に見えるのだが、なぜか佇まいに風情、あるいは当時を思い起こすロマンを感じる事が出来るのである(個人的に)。

5_demaru_e_tozanguti 進入路

8_kaku 東尾根上郭跡

24_higasi_demaru_gawa 東出郭側

14_yaguradai 主郭櫓台

15_nisikaku 西郭

16_nisikaku_yori_shukaku 西郭より主郭

11_kita_e_horikiri_dou 堀切道

2009年2月 7日 (土)

喰代氏城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市喰代(ホオジロ)にあって既に訪問リポートの終えている奥氏城跡から見れば小川を挟んで北西に位置する丘陵先端が城跡、喰代氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡へは阪神側から向えば西名阪道「上野東」ICあるいは「中瀬」ICが乗降口、県道56号に進入すれば分かり易く到達出来、ほぼルート図の如く喰代集落を目指せば付近には案内道標の設置されている百地丹波城跡もある事から位置関係は把握出来るはずである。小型車であれば奥氏城跡西側小川付近に路注スペースはあるので、そこからは写真に示す進入口より住宅地脇をかすめて上れば難なく副郭までは辿り着ける。尚、進入口はルート図に示される様に北側山道からも可能であり、県道2号線(永井氏城跡側)を利用して北から進行して来た場合はこちらの方が早く城内に進入出来るとは思われる。

現状(一月)城跡はほぼ竹薮となっており全体の見通しは非常に悪いが、移動に支障を来たす訳ではないのでほぼ二郭で形成されるシンプルな城跡の遺構は判別確認が容易に出来る状態にはある。見所として挙げられるのは主郭三方を覆う伊賀特有でもある巨大且つ幅のある高土塁、あるいは主郭の東西を断つ堀切で、土塁の高低差は7~8mはありそうで相当な見応えを感じ取る事が出来る。現状高土塁は堀切を挟んで副郭背後まで延びているが、それより先は直ぐ民家となっているので当時の副郭の形状は見る人の想像に委ねられるのが現実でもある。西側は堀切を挟んで物見と見受けられる規模の小さい北郭跡へ繋がっているが、現状相当藪化しているので郭内に進入するのは非常に難渋を極める。(この郭跡には低土塁は窺われたが特筆するべく遺構はないように思えた)訪問を終えて感じられる事は「流石に伊賀の城跡の土塁は半端ではなく凄い!」という事になろうか、、

尚、前述の百地丹波城跡、奥氏城跡、永井氏城跡と併せて訪問した場合、四城共に移動距離も少なく近距離にあるので個人的には年を別にして訪れたが、効率よく動けば案外同日訪問が可能であるのではないだろうか。

1route_3 登城ルート

5 進入口

3_2 城跡概念図

7_kaku 東副郭

10_horikiri_1 中央堀切見所

12_dorui 副郭土塁

17_shukaku_dorui_2 主郭土塁上

31_shukaku_dorui_heki 主郭内土塁壁見所

32_shukaku_jyoudan 主郭内

19_nisi_horikiri_dorui 西堀切土塁見所

24_horikiri_demaru_e 北出郭へ堀切

百地丹波城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市喰代にあって、この地域は奥氏城、吉田氏城、喰代氏城、上山氏城と特に城跡が密集している地域でもある、其の中にあっては一番名前が有名でもあるこの百地丹波城は青雲寺(郭跡の転用地)の西側背後に位置しており、個人的には年を別にして訪れてはいるが、見所は高低差のある大土塁と虎口程度でさほど印象に残っていないので、訪問リポートの掲載も今日まで随分遅れてしまった経緯がある。

現状(七月)主郭周囲は寺院敷地あるいは農作地と化しており相当地形改変が窺われ、現状を見る限りでは二郭跡のみが唯一往時を物語る遺構として、見学対象となりうるものと見受けられる。主郭虎口南側にも池に繋がる当時の水堀らしき跡が見受けられたが、草木に覆われており判別は難しい状態にある。現地縄張り図には東側の小高い丘上にも郭跡が記載されてはいるが、この草木で覆われた状況ではまず移動も出来ず確認も困難である事が予想された、しかも更に追い討ちをかけるように猿が大量に押し寄せてくる始末(地元の方が遠くから大声で知らせてくれた)で、結局東側は踏破する事は断念した。

個人的には整備されていなくても少々藪状態であっても往時の状態のままを見学したかったのだが今となってはそれも叶わず、城跡としては多少物足りなさは感じられたが、一般見学者にとっては整備(主郭の案内板付近のみ)されている事に越した事はないのでこれでよいのかも知れない。訪問した時期が悪かったせいもあるが、個人的には北側の農作地を隔てて隣接する整備されていない奥氏城跡、喰代氏城跡の方が遥かに城跡としての魅力を感じられた。

尚、喰代氏城跡に向かう冬季訪問(一月)の際にも一帯に大量の猿を見かけたので、なるべく目は合わさないように立ちサルのが一番得策かとは思われる。

1z2 登城ルート

2_1 現地案内板より

3_3 現地城跡縄張り図

5_horikiri_kakud 当時の堀切跡か?

12_koguti 主郭虎口

15_higasigawa_dorui 主郭東側土塁

16_daidorui_1 主郭北虎口側土塁見所

20_horikiri_1 中央堀切見所

23_horikiri_kitagawa 堀切北虎口

26_kakub_nai 東郭

2009年2月 6日 (金)

岡島砦跡(三重県伊賀市)

この城跡は現地の稲荷神社入り口に「岡島砦祉」と表札があったように岡島氏の居城と察せられるが、現状手元にある文献などで調べてはいるが岡島氏城あるいは岡島砦祉として掲載されておらず、今回はそのまま現地呼称を使いリポート掲載に及んだ。

城跡はルート図が示す様に「前山城跡」の南側丘陵上に位置(中村地区)しており、結果的には轟城跡を起点として歩いての三城同日訪問となった。城跡へはほぼルート図の如く進行すればよいが、写真に示す城跡南側進入口から稲荷神社が建立されている城跡までは参道が通じているので5分内で到達出来る。

1route_2 登城ルート

6 参拝道進入口

Oka1 二城の位置関係概念図

3 城跡概念図

現状(一月)丘陵上は神社がある事からある程度整備されており、主郭に相当する東西櫓台と見受けられる大土塁に挟まれた郭跡から、東西尾根に向いての城跡遺構はほぼ判別確認出来る状態にある。主郭周囲に土塁が回っている事からも館城の性格は感じられるが、伊賀特有の高土塁は使用されておらず、形態としては通常の山城に近いもので東西に渡る尾根上はほぼ郭跡によって占められている。現在主郭西側の土塁上、社殿の建っている場所が櫓台を転用したものと見受けられ、西側に向いて規模の小さい段郭群が形成されているのが見て取れる。中央堀切を挟んで東側尾根上には切岸処理の見られない削平地が広がっており、更にその南側にも規模の大きい削平地がある事からも城域は意外に広く、砦跡にしてはその域は出ている様にも感じられた。

11 主郭東櫓台へ

14_shukaku_heki_isi_1 主郭石垣跡見所

15_shukaku 主郭内

20_shikaku_dorui_1 主郭土塁

18_shukaku_nisi_gawa_1 主郭西櫓台切岸

31_nisi_yagura_gedan 西段郭群

28_higasi_kaku_gun_1 東尾根郭群

城跡は後世に神社が建立されることによってどれだけの地形改変があったのかは想像に委ねられるが、神社の世話をしておられる地元の古老に聞いた話では、主郭の側壁の石垣(高さは無いが数10mに及ぶ)は当時のものであり、丘陵上における城跡遺構もほぼ当時のままであるとの見解であった。

個人的には三城同日訪問した事によって鳳凰寺地区三城の形態及び機能の違いもある程度推察する事が出来、非常に充実した山城巡りになったが、この隣接する三城の関係までは謎のまま終わりそうに思える。

2009年2月 5日 (木)

前山城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市鳳凰寺にあって先にリポート掲載に及んだ轟城跡からは真南に位置する丘陵上先端が城跡、薬師寺(駐車場)からは既に望める位置にあり、歩いて移動しても5分程度で城跡へは辿り着ける。別名「十市屋敷」と呼ばれている様にかつては十市氏の居館であったと解釈して良いのかも知れない。

城跡へは轟城を起点にすればルート図の如く歩いて移動、写真に示す道路突き当たりにあるカーブミラーと「鳴塚古墳」道標の間よりガレージ敷地をかすめて進入すれば直ぐ到達出来る。

現状(一月)城跡は主郭内及び西民家側は竹林地と化しており見通しは利き難いが、他は植林地となっているので下草も少なく、ほぼ単郭構造である為に縄張りは把握し易く遺構も判別確認し易い状態にある。見所は伊賀の城跡に共通する分厚く高低差のある巨大土塁と東堀切から西へ繋がる空堀で、幅のある土塁最高所には背後に土塁が備わる櫓台遺構も残存しており、主郭回りの遺構は空堀も含めてほぼ完存の様にも窺える。大堀切から繋がる空堀は現状数100年レベルの堆積物によって相当埋もれてはいるが、土塁を伴う分多少高低差があり、当時は相当深く掘削されていた様子が想像出来る。ほぼ単郭構造とは言え、主郭回りに凝縮された遺構群は状態も比較的良い事から充分見応えを感じる事も出来、轟城跡と同日訪問する事によって二城の機能、あるいは形態の違いなども理解する事が出来るので、更に城跡巡りが楽しく充実したものになるのではないだろうか。

規模も小さく縄張り妙味もある城跡とは言えないのだが、個人的には高低差を伴った迫力のある巨大土塁を眺められただけで充分満足感に浸る事は出来た。昨年までは丹波から但馬方面の山城巡りが多く、直立した高低差を伴う切岸に圧倒されっぱなしであったが、城跡規模に関係なく伊賀地方独特の巨大土塁の前には、それも多少霞んで見えてしまうのは新鮮さゆえの事か、、

1route 登城ルート

6tozanguti 城跡進入口

3m 城跡概念図

9_hokusei_dorui 北西空堀土塁

11_kita_kaku 北西郭

15_shukaku_dorui 主郭巨大土塁見所

17_yagura_dorui_1 櫓台見所

20_shukaku_nai 主郭内

24_higasi_daihorikiri 東大堀切見所

29_shukaku_nannsei_gedan 南西下段郭

2009年2月 4日 (水)

轟城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市鳳凰寺にあって、付近道路沿いにも案内道標のある「薬師寺」の北背後の丘陵上が城跡、城史に関しての詳細は不明

城跡へは阪神側から向えば西名阪道「中瀬」ICが乗降口、そのまま国道163号を東に向かい、先にリポート掲載の終えた永井氏城跡に向かう為に右折した交差点は県道2号へ逆に左折する。後はルート図の如く一筋目を右折して薬師寺を目指せばよい、車は空き地に駐車可能であり、そこからは写真に示す公民館と民家の小道からすぐ北の丘陵を目指して直登すれば、5分内で土塁に囲まれた南郭には辿り着ける。

1route_3 登城ルート

4a_1 進入口

3_2 城跡概念図

この城跡は防備としての土塁を多用した本格的な土塁城で、到達地である南端郭から北側に望まれる郭跡の東面は全て土塁が備わっており、分厚い土塁から薄い土塁まで明確に見て取る事が出来る状態にある。その西面は主郭切岸壁となっており10m以上はありそうな相当高低差のある郭壁によってより堅固に守備されている。山上主郭は規模も大きく高さは相当失われているが分厚い土塁が周囲を囲んでおり、更に櫓台と見受けられる土塁壇も見て取れる。背後には当然堀切が設けられており独立性が保持されており堀切を挟んだ北側にも更に副郭が備わっている。一文献によれば「轟西城も同じ丘陵を共有しており西に位置する」とあったが、幅も深さも伴う見応えのある大空堀を挟んだ西側の規模の大きい郭跡がそうであるように思われた。空堀側背後は高土塁によって守備され郭隅には櫓台と見受けられる土塁壇が遺されている事からも、まず西城として間違いのない処ではあろう。城跡の見所としては個々の郭跡に必ず窺われる状態の良い土塁、郭切岸、西城との郭境に備わる大空堀、更に西城に至るまでの縄張り妙味も挙げられ、丘陵上にありながらも山城の醍醐味を感じる事も出来、遺構も次から次へと期待を持って飽きることなく見て回る事が出来る。

8_minami_dorui_kaku_1 到達地の南土塁郭

10_dorui_kaku 東大土塁見所

12_kaku 東郭群見所

19_shukaku 主郭内

18_shukaku_dorui_dan_3 主郭土塁壇

21_kitakaku_yori_shukaku_heki 副郭より堀切壁

23_nisigawa_karabori_1 西郭空堀見所

28_nisijyou_karabori_1 西城大空堀見所

29_nisijyou_dorui_1 西城大土塁

現状(一月)主郭回りは植林地でもある事から下草は少なく非常に見て回りやすい状態となっており、遺構もほぼ判別確認可能な状態にあるが、西城は相当雑木に覆い尽くされているので郭跡などは外見から確認するのが精一杯の状態でもある。更に空堀を挟んだ北側も同様な状態にある事からも踏破は無念ではあるが断念に至る。

現地に赴くまでは勝手に小規模な方形館城を想定していたのだが、城跡は規模も大きく予想を遥かに覆すほどの状態(本郭群のみ)にあり、遺構残存度も非常に高いと見受けられる事からも、個人的には充分推奨に値する城跡と目には映った。

2009年2月 3日 (火)

尾関山城跡(広島県三次市)

広島県三次市三次町にあって先にリポート掲載を終えた比隈山城の直ぐ南側に位置する尾関山公園が城跡、文献などにおいては本城である比隈山城よりなぜか此方の方が掲載記事も多く、城史としても多くの記事が残っている様に思われる。関が原合戦後、福島正則が安芸の領主となり、その重臣である尾関氏がこの出城を改修した事で尾関山として現在まで伝わっている模様である。

現状(四月)城跡は史跡公園として充分な整備が行き届いており、切岸を含めた郭形状もしっかりと残り、郭壁に残存する石垣跡あるいは石垣痕も明確に判別確認出来る状態にある。現在郭内には展望デッキあるいは公園施設などが建てられてはいるが、敷地は当時の郭跡をそのまま転用したものとも見受けられ、現在に至る縄張りもさほど大きな改変は受けていないようにも窺われる(ほぼ当時の縄張りと言ってもよいのかもしれない)。城跡は主郭最高所を櫓台(天守台)として麓に向って輪郭を形成した構造で、北側は現在の駐車場まで南西側は住宅地から川沿いまで郭が連続していた様にも見受けられ、更に北側の丘上地(現在神社あるいは住宅地が建つ)には土塁あるいは段郭群が窺える事から、出郭として機能していた様にも推察される。

城跡に山城としての醍醐味は求められないが、状態の良い切岸壁あるいは残存する石垣跡から当時に思いを馳せることは容易でもあり、戦国後期から改修されて現在に至るまでの城跡の変遷などを、外見から推察しながら楽しむ分には最高の城跡と言えよう。

比隈山本城と出城の関係を現状からも窺う事が出来、お互い国道沿いに位置することからもセットで訪問出来て、尚且つ手軽に遺構を楽しむ事の出来る是非お薦めの城跡である。

1route 登城ルート

4 南より遠望

3 城跡概念図

8_kitagawa_1 北側切岸

11_2maru_minami_sita 二の丸南下段

15_shukaku_e_isidan 主郭へ石段

16 天守台下段

21_higasi_gedan2_isigaki_1 東郭群2石垣跡

22_gedan3_isigaki_1 東郭群3石垣跡

28_demaru_dorui_koguti_1 北出郭虎口土塁

比熊山城跡(広島県三次市)

広島県三次市三次町上里にあって支城でもある尾関山(尾関山城跡)公園の北側に位置する日隈山(標高332m)の山上が城跡、毛利傘下の武将三吉氏の居城と伝わり、毛利氏の防長転封の際には築城中でありながら廃城となった歴史を辿る戦国後期の山城。

城跡へは中国自動車道「三次」ICが最寄の乗降口、国道375号を北上して市内を通過すれば自ずと国道沿いにある尾関山公園には迷わず辿り着ける。もちろん尾関山自身も城跡なので後で立ち寄ることになるが、先に車は公園内駐車場に停め、登山口となる国道向にある鳳源寺まで歩く、墓地からは一旦東側に向いて歩く形で山道が山上まで通じているので、道に任せれば自ずと20分程度で山上主郭までは辿り着ける。

1_2 登城ルート

4enbou 南より遠望

現状(四月)城跡は植林地となっているので下草も少なく案外見通しは利き、山上における遺構は藪化している東郭群を除けば、ほぼ判別確認可能な状態にあると言ってよい。戦時中は畑地として利用されたと聞くので場所によっては風化と相俟って郭跡は曖昧で、地形も中々読み辛いのが現状でもあるが、郭壁の至る所に石垣跡あるいは崩落石が残っており三吉氏は相当な人員を動員して石垣城を築こうとした事が窺える。実際に完成までは至らなかったと伝わるらしいが、個人的に見る限りにおいては土塁の状態、切岸、あるいは郭跡なども他で見てきた完成された山城と遜色なく、ほぼ城跡は完成まで漕ぎ着けていたのではないかとも思われる。又この山城は居館も兼ねていた様にも見受けられ、広大な千畳敷と称される郭跡は隅に櫓台、東郭境には巨大土塁を備えており、他の北郭群、東郭群を併せた山上における郭占有面積は大名クラスの城跡規模を誇っている。見た目では通常の山城三城分に匹敵するほどの広さであり、いかに三吉氏が大きな勢力であったかを物語るものでもある。

現在遺構として確認出来るのは郭跡を除けば井戸跡、郭における土塁跡、櫓台跡(側壁に石積み跡がある)、石垣跡、枡形虎口跡(相当風化している)などで、石垣城なので縦堀の有無までは確認に至れなかったが山城を形成する上での遺構はほぼ備わっている言ってよいものである。しかしながら戦国後期に標高330m(比高200m)の山上に、ここまで巨大な石垣城を築く発想は西中国では但馬竹田城だけだと思っていたが、この城跡が完成して現在に至っていたら山城の既成概念も少しは変わっていたのではないかと勝手に想像してしまうのである。正しく推奨に値する凄い山城!である。

3_1 城跡概念図

9_higasimaru_ido_ato 東郭群の井戸跡見所

10_higasimaru_dankaku_gun 東段郭群の土塁

18_dorui_haigo 千畳敷大土塁見所

51_dankaku_isi_1 中郭群石垣跡

24_nisimaru_yori_yagura 西郭より櫓台

22_yagura_isi_1 櫓台石垣跡見所

40_nisimaru_yori_hokutou_1 西郭より北郭群

2009年2月 2日 (月)

永井氏城跡(三重県伊賀市)

三重県伊賀市出後にあって集落にある萬像寺より真南側に位置する低山の山上が城跡、永井氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡へは阪神側から向えば西名阪道「中瀬」ICが乗降口、そこから国道163号をしばらく東へ走り大山田地域から県道2号へ右折進路変更する。後はルート図の如く萬像寺(公民館)を目指せば駐車も可能となっているので、到着後そこから真南側に位置する山を目指せば15分もあれば山上主郭までは辿り着ける。

麓進入口からは神社参拝道を経由し、「中出山城」と比定される城跡遺構を見学する事も可能ではあるが、現状においては広大な地域に後世の神社跡の石垣跡、あるいは敷地(郭跡の転用)、郭切岸、大型土塁などが目に留まるだけでどこまでが当時の城跡遺構であるのか、あるいは城域であるのかは判別が非常に難しいのが現実でもあり、案内板も設置されていないので自分の目で見た中で判断するのが一番良いのではないだろうか。

永井氏城跡へはそのまま南に上れば到達出来るが、これは凄い!堀切を越えた主郭周囲を囲む巨大土塁(高低最大10m近い)は言葉にならないほどのもので、当時のままとも見受けられ、ほぼ完存に近い形のものを拝む事が出来る。更にこれだけ見通しが良く主郭を取り巻く土塁全体像あるいは虎口まで拝める城跡は中々他では見当たらないものでもあり、伊賀独特でもある圧倒的迫力の高土塁は周囲を更に空堀で囲み、更に周囲は低い土塁でより堅固に防備されているのが見て取れる。主郭の東西には規模の大きい郭群が麓まで連なっており一見家臣団の屋敷跡とも想像させられ、単郭館城を越えた比較的規模の大きい山城と見受けられるものでもある。

1route_2 登城ルート

4tozanguti 進入口

3 城跡概念図

現状(一月)城跡は下草は相当蔓延ってはいるが、植林地である為に主郭より東側は見通しもよく郭跡(切岸)、石垣痕などの判別確認は容易な状態にはある、しかし西側は郭跡及び空堀土塁跡を含めて相当な雑木藪地となっており、遺構の視認判別は外見からは難しく、多少の藪漕ぎ覚悟で臨まなければ判別確認は出来ない状況下にある。それでも主郭の巨大土塁と堀切は他の遺構の全てを消し去るほどの存在感で迫ってくるものでもあり、個人的にはこの遺構だけで充分満足感には浸る事は出来た。それにしても伊賀地方の城跡は規模は小さいものの分厚い土塁の高さには圧倒されっぱなしで、遺構の見応えにおいてはどれも相当なものがあるのは確かである。

10_kita_kaku_1 北郭

14_kita_dai_horikiri_2 大堀切見所

18_shukaku_kita_heki 主郭内土塁

21_koguti_yori_shukaku 主郭虎口土塁見所

41_nisi_karabori_dorui_2 主郭西空堀土塁見所

32_higasi_gedan_dorui 東郭群2

34_isigaki_ato_1 東郭2の土塁石垣跡見所

2009年2月 1日 (日)

我山城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市上神戸我山にあって、集落より西側後方の山に位置している。当時伊勢国司でもあった北畠具教の弟である具親の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは阪神側から向えば西名阪道「上野東」ICが乗降口、国道422号をそのまま南下し上林地区にある神戸小学校西側の橋を渡り我山集落に向う。後は説明し難いのでルート図を参考にして頂き、写真で示す道路沿いからの直登山口を目指せばよい。(車は付近路肩に路駐するスペースが多少ある)

この城跡は北畠一族の築城したものと聞いていたので、伊賀に赴いた際にはどうしても訪ねてみたい山城の一つであったが、結果的に現状(一月)冬季にも拘らず、近年人の手の全く入らない城山として雑木は生い茂り、地表は自然任せの荒れ放題と化しており、郭間の移動は極めて困難、尚且つ覆い尽くされる雑木によって見通しは利き難く、外見から遺構の判別あるいは郭形状などの確認は非常に困難を極める状況となっている。特に山上本郭においては倒木あるいは長年の堆積物によって地形から郭構成を判断するのはほぼ不可能な状態でもあり、他の遺構及び縄張りを把握する為に木々の隙間を縫っての進軍は余儀なくされたが、自作城跡概念図にある郭跡、土塁、堀切などは何とか確認する事が出来た。もちろん北側麓まで展開されているであろう城跡全体の踏破は出来なかったが、山上で形成される郭跡はほぼ踏破し、そこに備わる遺構はほぼ確認する事は出来た。

視認し辛い中でも敢えて見所を挙げるのであれば、郭跡を除けば高低差は失われているが分厚い土塁といった処で、現状からでも山城を得意とする北畠氏の城跡の雰囲気は充分味わう事は可能であり、個人的にはある程度の満足感に浸ることは出来た。しかし予想を覆すほどの藪城でもあり、納得のいく見学が出来なかったのは残念ではあるが、これが数100年の時を経た厳しい山城の現実でもあるのである。

注)訪城の際には城跡縄張りが四方尾根に広がるものでもあり、更に見通しも利き難くいので位置確認の為に方位磁石は必ず携帯する必要がある(登城は容易であるが下山時に尾根を間違えると山中を徘徊する事になる) 夏季の訪城は絶対に禁物!

1route 登城ルート

4_2 南より遠望

5 直登進入口

3wa 城跡概念図

7_higasi_one_ue 東尾根上削平地

11_kitakaku_dorui_1 北郭土塁

12_kita_gedan 北郭下段の祠

13_kita_sakuheiti 北削平地

20_nisikaku_dorui 西郭土塁

19_horikiri_dorui_1 堀切土塁

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