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2008年12月

2008年12月29日 (月)

大江堀城跡(兵庫県養父市)

この城跡に関してのリポート掲載は来年早々を考えていたのだが、余りにも素晴らし過ぎる技巧的な畝堀群の前には情報鮮度を少しでも落としたくないので、本年度最後を飾るに相応しい城跡としてラスト掲載に及ぶ運びとなった。

城跡は養父市八鹿町大江にあって、集落中心部を東西に流れる川の南側に位置しており、地元の氏神を祭る神社のすぐ背後の山がそれである。城跡は限りなくマイナーに近いもので、地元の方に訪ねたら場所は当然知っておられたが、城史に関してまでは全く知り得ないとの見解であった。

道順としては既にリポート掲載済でもある坂本城跡を起点にすれば説明し易く、ルート図の如く坂本城跡直登山口への分岐地点は直進し大江集落に向う。川沿いに走れば左手側の山中腹に寺院が見えてくるので、その手前道路沿いにある公民館の敷地を借りて駐車、そこからは歩いて逆に100m前後戻り、沢水の流れる沢沿いを真直ぐ南側へ上る。途中に獣避けフェンスがあるが開閉してそのまま参拝道で神社を目指せば10分もあれば神社に辿り着けるが、社殿背後に高く聳え立つ切岸は城跡の一部でもあり、下から見上げればこの城跡の放つ強烈なインパクトも既に伝わってくる。

現状(12月)城跡は山城としては申し分のない状態で、ほぼ単郭で成立しているので全体像も掴み易く、縄張りも非常に把握し易い状況となっている。前述の畝堀は相当堆積物、あるいは長年の風化によって深さも失われ、相当埋もれてはいるが土塁を伴ったおよその構造は把握出来、同じ但馬地方にある残存状態の良い伊賀谷城跡とまでは行かないまでも、この畝堀は他に類を見ない優れた技巧も伴っており、正に一見の価値に値する城跡と目には映った。主郭北壁には石垣痕も残存しており、西側には崩落石の多いことからも当時は壁面全てではないにしても、石垣で固められていた可能性は高いと思われる。

小規模な城跡ではあるが、社殿側から見上げれば20m以上の高低差を持つ直立に近い切岸、あるいは大土塁の迫力、周囲に放射状に延びる畝堀など全てが見所でもあり、凝縮された遺構の数々には圧倒される事請け合いの城跡と言えよう。 

1route 登城ルート

5 進入路

3oo 城跡概念図

11_oku_dorui 社殿側から望む

16_minami_dai_horikiri 南端大堀切見所

19_shukaku 主郭

21_shukaku_kitaheki_isi_1 主郭北壁石垣痕

26_une 26_une_2 畝堀見所

33_hokutou_dai_dorui_1 北東大土塁と空堀見所

「山城賛歌」本年度最終章

「山城賛歌」のTAKUです

2008年は残すところ後、二日ほどになりましたが、このブログ「山城賛歌」も開設して既に半年を経過する事となりました。過去二年間における山城巡りのリポートは、新しく訪れた分も併せて整理しながら掲載し、ブログを毎日更新する事によって意外に早く予定を消化する事が出来ました。現在やっと近畿圏に限れば八割程度は掲載に及ぶ事が出来ましたが、未整理状態の近畿圏外の城跡に関しては来年より少しずつ掲載して行く予定ではおります。

取り合えず今年におけるリポート掲載は12/29日を以って区切りとし、来年からは今年の様に毎日のブログ更新とは行かないかも分かりませんが、出来るだけ鮮度の高い山城情報をいち早くブログに載せて行きたいと思っております。尚、正月を挟んだ一週間はプライベートを含み、山城巡り(天気は悪いらしいが、、)に更に拍車をかけるつもりでいますので、1/4日まではブログの更新は流石に無理となりますが、この結果としての訪問リポートは、来年1/5日掲載を以っての第一弾として予定しておりますのでご期待下さい。

尚、ブログを開設して以来激励を頂戴した方々、コメントを寄せて頂いた方々、毎日あるいは定期的にでもブログを御覧になられている読者の方々には、これからも期待に沿えるべく、なるべく歴史からも遠ざけられた、あるいは情報不足の山城にも目を向けながらの基本方針は崩さず、簡潔に情報を掲載して行くつもりでおりますので、是非来年も期待して「山城賛歌」をご拝見下さい。今年掲載した訪問リポートが、少しでも山城訪問の手助けになれたのであれば、自分としても本意であり非常に満足でもあります。

来年も山城を愛する御同胞の方々と、今年以上に感動を共有出来る素晴らしい山城と巡り合う事が、自身最大の希望でもあり願いでもあります。

尚、本年度ラスト更新分として予定している城跡は、但馬地方にあっては小型の山城ながら、超技巧的な畝堀が素晴らしいと思えた大江堀城跡の予定です。今年度最後を飾るに相応しい、正に推奨に値する山城でもあり現在急遽編集中です。

 

2008年12月28日 (日)

但東沢田城跡(兵庫県豊岡市)

兵庫県豊岡市但東町小谷にあって、国道に沿う小谷集落の北東背後の尾根先端が城跡、現在主郭には社殿が建立されており沢田氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡訪問のきっかけは一部の文献によれば空堀はもちろんの事、石垣が残存しているとも記されてあり、石垣フェチの自分としては早速但東方面への山城巡りを計画し、それが今回の訪問へと繋がった訳である。城跡へは国道426号を走り集落到着後、概念図あるいはルート図に記す地蔵尊より墓地経由で、山上の社殿に向けての山道を利用すれば10分もあれば迷わず辿り着ける。この但馬地方においては久畑愛宕城もそうであるが、愛宕神社が数多く目に留まり、しかも過去においては城跡(砦)であった場所にほぼ間違いなく神社が建立されているので、地図上からもある意味においては城跡の目星も付け易く、推察もし易いので非常に助かっている。

現状(12月)城跡は社殿のある事からも整備されており、更に小規模な城跡なので全ての遺構は判別確認出来る状態にある。期待を持って窺った社殿正面を覆う石垣跡も、見る限りにおいては正しく当時構築されたものと見受けられ、自然岩を取り込みながらも大小不規則な形の石を利用して積み上げられており、改めて石垣の使用された城跡に感動を覚える事となった。ただ崩落石が周りに多い事からも、近世においては社殿建立の際に多少積み直された可能性がある事は否定は出来ない。社殿背後を山上に向けて少し上れば、現状埋もれて浅いが堀切が備わっており、更に山上削平地へと繋がっているのが見て取れる。

個人的にはこの城跡の石垣跡は部分的に積み直されてあったとしても、ほぼ当時の状態を遺しているものと判断したが、見る者によっては違った見解になるとも思われるので、気になる方は実際に現地に赴いて自分の目で見て判断して頂くより他はない。小規模で単純すぎる縄張りを持つ城跡ではあるが、石垣に見応えを感じ、全体を通しても満足感に浸ることは出来たので訪問した甲斐は充分にあった。

尚、ルート図に示す神社の建つ西側の低山山上にも、風化の真っ只中にある城跡遺構が残存(堀切、土塁、削平地のみ確認)しているが、これが小谷地区にあるもう一つの城跡である「京川城跡」にあたるものかもしれない、、しかしこの城跡に関しての呼称の確認は取れていないのが現状である。

1route1 登城ルート

6tozanguti 登山口

3sawa 城跡概念図

9 虎口跡

13 15_shukaku_1本郭

16 石垣跡見所

22_shukaku_yagura 主郭櫓台

26_kita_horikiri 堀切

28_kita_yori_minamigawa 北側山上削平地

2008年12月27日 (土)

久畑愛宕城跡(兵庫県豊岡市)

兵庫県豊岡市但東町久畑にあって、国道426号沿いにある久畑関所跡の背後真北の山に位置するのが愛宕城跡であるが、但馬方面には圧倒的に愛宕城を呼称とする城跡が多く、ここでは区別する為あるいは所在地を示す上で久畑愛宕城とした。小山氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡へは国道沿いにある久畑関所跡を目指せば分かり易く、関所跡看板も設置されているので道路上からも目にも留まり易く、駐車場もあるので駐車に困る事はない。到着後は道標は設置されていないが、そばにある石仏群横の参拝用登山口から愛宕神社を目指して上れば10分内で主郭までは辿り着ける。

城跡は但東地区の山城訪問においては一番最初を飾る事になったが、規模は小さく遺構としては郭跡を除けば土橋付き堀切、櫓台切岸、僅かに残る土塁跡といった処で、個人的に見てもさほど見応えを感じられるほどの遺構は存在しなかった。堀切より更に北側へ向いて上ると狼煙台あるいは物見程度の削平地は窺われたが、城跡に醍醐味を感じるまでには至れなかった。山を下りた西麓側には神社がありこの辺りを居住空間とすれば山上は詰城、あるいは時代背景までは分からないが、南麓に関所が置かれていた事から推察すれば関所とセットになった監視用の城跡とも察せられるが、個人的推察の域は出ないものである。

この地より更に北に向いて走れば国道426号沿い、あるいは482号沿いには小規模とは思われるが相当数の城跡がひしめき合っており、これから先の山城巡りにも大いに期待が膨らみ、非常に楽しみにもなって来る処ではある。

1route 登城ルート

5_1 登山口

3ata 城跡概念図

8 中腹削平地

A_21 山上郭

A_16 A_14 奥櫓台

A_4 北堀切

A_3 北より堀切側

2008年12月26日 (金)

小倉北城跡(奈良県山辺郡)

奈良県山辺郡山添村小倉にあって集落にある観音寺の東側背後の丘陵上が城跡、小倉氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へ京阪神から向う場合は西名阪道「針」ICで降り、国道369号の針IC北から旧国道25号へ右折針路変更、道任せに東へ進むと突き当たればルート図の如く観音寺の方向へ進む。城跡へは図に示すようにA、Bどちらからでも進入可能、無難に到達するのであれば中央に位置する堀切を目指して、細い山道から小社のある土塁よりそのまま堀切を抜ければ、右手側は既に櫓台と見受けられる便宜上の主郭である。(地点Bから直接上れば3分で二の丸に到達出来る)

現状(五月)城跡は藪化が深刻な状態にあり、特に中央堀切より西側は笹や矢竹、雑木が密生しており地表すら見えない場所、あるいは視認も出来ない場所も多々ある、空堀などは直接そこを通過するので確認は出来るが、郭跡及び形状などは外見から判断するしか手が無い状態でもある。更に寺院側は郭跡は確認出来ても低く生い茂る笹の為に足元も見えず踏破は断念する、東側の二の丸を含む広い郭跡は竹林地帯となっているが多少の見通しが利く為に遺構の判別確認は可能であり、僅かに高さが残る二の丸周囲を囲む土塁跡、主郭壁の石垣跡、空堀などは明確に見て取れる。

城跡を個人的に評価すれば、遺構は手付かずのままで残存度は高く、縄張りもユニークで面白いのだが、ここまで状態が悪いと評価もし難く、「真冬の訪問であれば少しは期待が持てるかもしれない城跡」としか言いようがない。

1 登城ルート

3x 城跡概念図

9_horikiri 小社のある土塁、堀切

10_nanboku_dai_horikiri 中央の堀切見所

11_kita_dorui_karabori_1 北側の空堀土塁

13_nisi_dankaku_gun_1 西段郭群

17_shukaku 主郭最高所

18_shukaku_isi_1 主郭壁の石垣跡見所

25_3maru_2 三の丸

五津城跡(奈良県宇陀市)

城跡は奈良県宇陀市大宇陀区五津にあるが、山間部に位置している為に、説明するにも近辺には目印となる建物もなく、場所はルート図を参照の上で理解して頂きたい。城史に関しての詳細は不明

城跡への進入口は写真に示すように少し道路がカーブした、セメント外壁の途切れた南側辺りからとなり、そのまま上れば城跡の空堀上を上って行く事になり、登り切ると山上主郭までは直ぐ到達可能である。

現状(三月)城跡は植林地でもあり見通しも良く、山上郭群の遺構に関しては全て判別確認可能な状態にある。小規模な城跡なので縄張りは把握し易く、堀切及び空堀を駆使した縄張りには中々見るべきものがあり、櫓台の設けられた主郭を取り囲む空堀あるいは西側に設けられたV字谷の如き深い縦堀(堀切)は相当見応えがあり、この城跡の白眉と言えるものでもある。この遺構見学だけの為に訪れても決して後悔はしないと断言しても良いくらいである。尚、南側斜面を降りれば屋敷跡の様にも窺えそうな地形が見えていたが、相当雑木も密生している事から麓までの踏破は断念した。

小規模ではあるが5分とかからず主郭まで到達出来るお手軽さに加え、更にこの迫力のある空堀群を拝めるのであれば、必ず満足感に浸れる事請け合いの城跡と言えよう。

1route 登城ルート

5_tozanguti 直登進入口

3z_1a 城跡概念図

8_karabori_1 空堀

17_shukakunai_yagura 主郭、櫓台

20_nisi_2jyuu_karabori 二重空堀見所

22_shukaku_nisi_daitatebori 大堀切(縦堀)見所

25_shukaku_yori_nisikaku 西郭群

30_kita_one_horikiri 北尾根上の堀切

2008年12月25日 (木)

ヒエガ谷城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市榎原にあって、既にリポート掲載済である榎原城跡に向う道路沿いに門柱が眼に留まる、観瀧寺から見れば道路を隔てた南西側に位置する山の山上が城跡、城史に関しての詳細は不明。

城跡へは福知山市内から向う場合、国道429号を走り口榎原地区に入れば109号に針路変更、観瀧寺が見えてくれば其の先の道をルート図の如く進入、最終的に住宅地のある場所で行き止まりとなるが、そこにある獣避けゲートを越えれば図に示す当時の郭跡とも思われる社殿敷地までは参拝道が通じているので直ぐ辿り着ける、ここからは尾根上を右に回る形で上れば山上郭に到達出来る。(城跡の現況については概念図中にあり)

Hi3z 登城ルート

3h 城跡概念図

6demaru_minami_yasiki 屋敷跡か?

8_kita_demaru 北出郭に相当

9_demaru_gedan_1 出郭下段

14_dobasi_koguti_1 山上虎口土橋付き空堀

17_shukaku 主郭

21_nisi_karabori_dorui 西側空堀土塁

22_kita_karabori_dorui 北側空堀土塁

家老ヶ岳砦跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市千代川町千原/拝田にあって、拝田集落の北側に聳え、鉄塔の建つ低山の山上部分が城跡。城史に関しての詳細は不明であるが、八木城跡から繋がる尾根を共有する事からも、支城あるいは東側を抑える為の砦とも見受けられる城跡である。

城跡へは国道9号を北上した場合、亀岡市内の「千原」の信号より左折、そのまま京都縦貫道路を潜ればすぐ側道側に右折、後はルート図の如く八幡神社を目指せば良い。実際にはルート図に示す矢印の舗装道路からも直接取り付き地点まで行けると思うが断定は出来ない。神社に到着すればトンネルの上を通過しながら本来の道路に合流するが、その峠道から東に向いて直登する事になる。少し上れば尾根上に到達し、数箇所の削平地を窺いながらも本郭までは数分で辿り着く事が出来る。

現状(12月)城跡は藪化の深刻な状態にあるが、移動は踏み跡を辿ることが出来るので、シンプルな縄張りを把握する事は容易となっている。最高所である砦跡には、それに相応しい小規模な主郭(櫓台)が設けられ、本郭北側壁には切岸処理も窺われ、東斜面を下りればその先端には堀切まで備わっている。山上本郭部は30m程度の小規模な城跡であるが、意外に本郭群以外の両翼は長く、西側は峠に向いて狭い尾根上に数箇所縄張りとしての削平地を見て取る事が出来る。本郭群より南側山麓には字名として「大将軍垣地」八幡神社付近は「長者垣地」となっており、麓には居館跡の痕跡も残っている事からも、推察ではあるが意外に城跡としての規模は大きく、山上砦跡は詰城としての機能を担っていたものかもしれない。

1route_2 登城ルート

6_1 城跡遠望

9_tozanguti_2 取り付き口

3k 城跡概念図

12_kaku 西尾根削平地

16_nisi_fuku_kaku 東副郭

17_shukaku_heki_1 本郭切岸

18_shukaku_yagura 主郭櫓台

19_kita_obi 北帯郭

24_kaku 東郭

2008年12月24日 (水)

城山城跡(兵庫県たつの市)

兵庫県たつの市揖西町中垣内、新宮町馬立にあって、古代に構築された石塁が見られる様に、古代山城としては既に成立しており、播磨守護赤松氏によって代々改修されながらも、落城時まで居城とした中世山城として有名な城跡。

城跡へは登山道が幾通りもあるのでルート選択には迷う、相当大回りなルートにはなるが、今回は案内でも大手となっている「馬立」集落の山裾にある広い集合墓地からスタートする。このルートでは山上にある亀池まで上り、そこからは広域に及ぶ古代と中世の混ざった縄張りを確認しながら、あるいは「亀岩」などの奇岩も見学しながら稜線沿いに歩き、南側最高所である亀山(山上郭)から本郭群を目指す事になる。距離も時間もたっぷりとかかるが、自然と一体感を味わいながら山歩きも同時に楽しめるので、意外に距離は余り感じさせない。しかし流石に城跡北側の稜線に出るまで約60分かかる上り斜面はきつく、何度も休憩を挟み景色を眺めながらの行軍となった。

1_1 登城ルート

2a_3 現地案内板より

斜面を登り切り、稜線に出て亀池見学などの寄り道をしなければ約30分程度で亀山山頂には到達出来るが、ルート図に示す馬立から南側の、興聖寺側からも地図上では最短と思われる登山道が城跡まで直接通じているらしく、そちらから上れば30分は短縮(それでも約60分かかる)出来そうに思われる。

城跡は標高約460m(比高400m)の亀山山頂から南側二箇所の峰に跨って郭は展開されているが、中枢を成す郭群は南側二峰に挟まれた少し谷状地にあり、居館跡とも見受けられる郭と付随する郭群が更に南へと連なっている。登山道中にも郭跡と見受けられる削平地は尾根上に点在しており、どこまでが城域か見当も付かないほど広域にわたっている。もちろん古い形態の山城である為に、山上郭群を含んだどの郭跡も切岸などは窺われず、前述の屋敷跡と見受けられる郭群でやっと切岸、石垣跡などの遺構を見て取ることが出来たぐらいである。石垣跡も大掛かりなものは残存していないが、更に古代まで遡った石垣跡は案内説明版に表記された付近で確認する事は出来た、しかし自分の目で見た石垣跡はどう見ても赤松時代の少し粗い石積み跡(写真参照)と見受けられるもの、古代の石垣跡とはとても思えないものであった。(自分の故郷近くの古代山城にも神籠石が残存しているので、違いはある程度分かる)

3a 主郭周りの縄張り

25_sanchou_shukaku 亀山山上郭跡

28 石垣跡見所

33_yasiki_dankaku 本郭周りの屋敷跡

34_honkaku_isi 本郭の石垣跡

40_dankaku 郭跡

41minami_dorui_kaku 南郭群

39_koguti_mawari 本郭群

三つの峰の山上付近においては方向感覚がなくなるほどの同じ地形ばかりで、結果的には案内にもあった高さ3m全長40mに及ぶ石塁をこの目で確認する事が出来ず、山中を徘徊するばかりで時間を取られ、最後まで御目にかかることが出来なかったのが非常に無念の極みであった。(道標はせめて設置して欲しい) しかしこれだけ歩けば、まだ探そうとする意欲は既に無くなっていた事も確かなので、今回は仕方の無いことか、、  山城に過度な期待を求めなければ、登山道も整備されており山歩きも楽しめて、満足感及び達成感に浸れる事、請け合いの城跡と言えよう。

2008年12月23日 (火)

市原城跡(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市今田町市原にあって集落の北西に聳え、道路沿いから見るにすぐ山城と見分けの付く綺麗な形をした山の山上が城跡、八上城主波多野氏の家臣でもあった小野原氏の居城と伝わるが詳細は不明、尚この地より東側2kmの距離には小野原砦跡とされる遺構が残存している。

城跡へは国道372号より今田地区に入ればルート図の如く進行すれば、道路沿いに城山神社と描かれた赤い大きな貯水タンクが眼に留まるので、城跡進入路は直ぐ確認出来る。後は近世に設置された長い石段を登り切れば山上まで辿り着ける。

現在山上主郭には城山稲荷神社が建立されており、当時の面影はほとんど失われていると思われるが、郭構成としては当時より大きな改変はされていない様にも見受けられる。規模も小さく物見程度の機能としか目に映らないもので、麓のどこかに居館があったと想定すれば、有事における詰城の機能を担っていたのであろうか。

Ono 登城ルート

Ono_3 麓より遠望

Ono_5 山上郭群

Ono_6 Ono_7 山上主郭の現在状況

小野原(東砦)城跡  この城跡へは国道372号を走り、市原城跡に向うまでに国道からはすぐ目に入るが、ルート図の如く一旦国道を外れて墓地から直登する(10分内で)以外方法は無い。城跡はほぼ単郭構造の削平地であり面白味にも見応えにも欠けるが、土塁壇と堀切だけは西側に一本だけ備わっている。現状(7月)自然任せで木々に覆われているが、残存遺構は堀切と郭跡のみなので判別確認は可能である。市原城跡に寄ったついでとして訪問する分には、何ら期待外れに終わる事は無い様に思われる。もちろん市原城跡も山城を体感するだけの城跡ではあるが、、、

1route_3 登城ルート

5_tozanguti 登山進入路

10_shukaku_dorui_dan_1 主郭土塁壇

12_horikiri 堀切

2008年12月22日 (月)

水尾城跡(兵庫県西脇市)

兵庫県西脇市水尾町にあって、大日寺の南背後に聳える山の山上が城跡。

城跡へは京阪神側から車で向えば中国道「滝野社」ICで降り、国道175号から県道34号へ乗り継ぎ、大日寺を目指せば難なく登山口までは辿り着ける。しかし寺院に到着したものの設置されている案内板が簡略過ぎて、当然あるべき登山道を今一把握出来ずに終わり、個人的には西側のゴルフ場造成地(工事は中断されたまま放置)から砂利状の急斜面を直登で上る羽目になった。

城跡は外見から窺う分には位置確認もし易く、ほぼ全域が樹木のない裸同然の、表面が粗い砂利で形成された山城で、直登を選んだものの砂利で表面は滑るし、足場も余りないのでリスクを背負った厳しい登山を余儀なくされた。すぐ目の前に山頂は望める状態にありながらも20分近く要して、やっと山頂までは到達出来た。

現状、城跡は裸山なので縄張りも掴み易く、遺構も判別確認し易いものと勝手に想像していたが、郭壁面は全て砂利状の切岸となっており、郭跡を含めてもこれらが自然地形なのか、あるいは人為的に構築されたものなのかは、ほとんど判別も出来ない状態にある。工事の中断されたゴルフ場造成地がすぐ西側に隣接しているので、当時の郭跡も判別し難いのが現状でもあり、どこまで地形改変があったのかは現状を見る限りでは想像もつかない。しかも裸山なので山頂からの眺望は利くが、今一ここが山城だと言える実感が湧いて来ない(ただの砂利採取用の山)。苦労して上った割には戦国ロマンに浸ることも出来ないのが少しばかり残念なところではあるが、これらの現況報告を含めた感想はあくまでも個人的主観なので、訪問した際にはこれらの先入観に捕らわれず、自分自身で体感した判断が一番大切なところであるようには思われる。この山城を当時から草木も生えない裸山だとすれば、現状外見から窺える全ては当時のままだという事にもなり、当然この山城の史跡価値は相当なものだとも判断出来るのである。

尚、登山口は寺院前の案内板に示されている様に、地元民に尋ねるか探せば間違いなく見つかるので、今回の様なリスクを伴う直登は出来るだけ避けた方が良いと思われる。

1x 登城ルート

2 現地案内板より

2mizuo2 城跡概念図

5 西より城跡遠望

6_kaku 10_kaku 北側の郭跡

15_gedan_yori_shukakuheki 下段郭より主郭側壁

18_shukaku_nai 主郭

21_shukaku_higasi_kirigisi 主郭切岸

23_kaku 主郭より下段

庄山城跡(兵庫県姫路市)

兵庫県姫路市飾東町庄にあって豊国地区にある城山中学校の西側に聳える険峻な山の山上部が城跡、城跡は14世紀において赤松氏による築城によるものであるが、其の後の詳細に関しては不明。

城跡へは国道372号から飾東町豊国地区にある城山中学校を目指せば、そこからすぐ背後に聳える山が城跡と分かるので分かり易い、登山口は二三箇所あるようだが、今回においては城山中学校の体育館前駐車場を借用させてもらった関係から、そこからは歩いて一番近い東側の住宅地前(道標は無い)からの登山口を利用して山上までは上る事になった。比高も山裾から170m近くあり距離も比較的長く、更には非常に急峻な斜面を登る事にもなったが、20分程度で山上までは到達出来た。

現状(一月)冬季であるにも拘らず山上郭群は、岩盤で覆われた部分の郭跡を除いては全域が枯れ草、雑木あるいは笹藪に覆い尽くされており、とても満足に見学出来る状態には無い。麓にあった案内板古城図からも出丸を含めれば三方に渡る峯に郭は展開されていると察せられるが、最初に到達した東峯郭群を見学するのが精一杯で、西峯までは移動も困難(無理な藪漕ぎをすれば可能)、まして地表も見えないほどの密生笹藪では遺構の判別確認も出来ないと思われ、更に踏破する意味も無いので、東峯のみで西側踏破は断念するに至った。東峯郭群だけを見る限りでは、遺構は郭跡及び石垣痕のみ土塁すら確認出来ず、未踏に終わった西峯の縄張りを含んだとしても規模の大きな山城の様には見受けられず、山上における郭占有面積もそれほどのものを有している城跡の様には感じられなかった。恐らくこれから先も、この山城が史跡として整備されるとは思われず、個人的に山城見学で訪れる人にとっては、ただの城山登山で終わるような気がしてならない。

尚、個人的には西側の峯まで踏破していないので城跡全体を見ての評価はし難く、案外西峯は見学出来る位のましな状態に或るのかもしれないが、これから訪問する準備のある方にとっては、城跡の現況報告として少しはお役に立てたのではないかとは思う。

1 登城ルート

4 東より城跡遠望

3_1 城跡概念図

2_1 現地案内板より

11 東峯郭群

16_minamikaku_top_1 南郭

18_minami_gedan 南郭下段

21_shukaku_e 主郭の現状

25shukaku_1 主郭隅の一部

2008年12月21日 (日)

大上東平城跡(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市大上にあって西ノ山城から見ればすぐ東側に隣接する南北に長い独立した山塊の山上が城跡であり、二峰の最高所に主郭を備え南北の二城から形成される山と見受けられる。城史に関しての詳細は不明であるが、規模及び形態から推察するには、畑氏の居城である八百里城とこの城跡の中間に土居の内(畑氏館)が存在する事からも、館周域を固めたとも思える支城あるいは砦とも見受けられるが、少なくとも明智の関わった城でない事だけは確かであろう。

城跡への道順としてはルート図に示す様に西ノ山城から歩いても行ける距離にあり、二箇所の分かり易い進入地点があるが、西側には民家が集中しており自ずと民家の庭先もかすめ、民家所有の畑地あるいは竹林地も通り抜ければならない事からも、最北にある池側からの直登をお薦めしたい。此方からの直登では尾根上を南に移動して北城主郭までは10分程度でもあり、そのまま南端の主郭から南郭まで縦走すれば少し距離はあるが、山上におけるほぼ全ての遺構を確認する事が出来る。

現状(12月)城跡は案外雑木は多いが、落葉している事もあって移動に難渋する事も無く、遺構を確認しながら全体をほぼ見て回れる状態にはある。特別採り上げるべく遺構は存在しないが、強いてあげれば南北を分断する深い堀切(堀切道)と言う事になる。本来は東西に抜ける移動道でもあったようだが、現状では倒竹あるいは堆積物で通行は出来ない状態にある。この堀切道は下山時において竹林地を通過し迂回しながら確認したが、民家背後の畑地まで土塁を伴って構築されており、比較的見応えを感じる事は出来た。山上郭群においては北城に郭切岸、堀切、土塁跡などを窺う事が出来たが、少し規模の大きい南城では切岸は確認出来たが、急峻であるせいか堀切などは認められなかった。手っ取り早く城跡を見学したい方にとっては、自然風化に任せた当時のままとも思える、北城の遺構見学だけで充分満足出来るのでは無いかとも思われる。

1ooue 登城ルート

H_40a 城跡遠望

3higasi 城跡概念図

8_kita_horikiri_1 北堀切

12_higasi_dankaku 北城段郭群

21_minami_hasi_kaku 北城南郭

23_tyuuou_horikiri_3 中央大堀切見所

26_minami_shukaku_1 南城主郭

尚、この城跡から西側すぐの距離にある県指定史跡にも挙げられている土居の内跡(畑氏館)は、この地方では珍しい方形館跡でもあり、周囲は分厚い高土塁及び水堀によって守備され、残存状態も良い事から非常に見応えもあり、是非訪問をお薦め出来る物件でもある。現状少し埋もれて一部畑地になっている水堀跡は幅もあり、甲賀地方でも中々御目にかかれないほどの、素晴らしい遺構と断言出来るものである。Yakata_1 Yakata_2 Yakata_3 Yakata_4

2008年12月20日 (土)

山下城跡(兵庫県川西市)

この城跡は個人的にも今回で三回目を数える訪城となったが、やっとほぼ城跡全域を把握するに至れた、北摂地区でも山城としては非常に遺構残存度も高く、更に比較的残存状態も良いので、個人的にも是非訪問をお薦め出来る城跡の一つである。

兵庫県川西市山下町下財にあって、先に掲載済である一庫城跡(山下西出郭)から見れば、谷を挟んだ東南に位置する山の山上から南西側麓に至るまでが城跡

城跡へは国道173号を北上する場合、山下町に入れば県道68号との分岐手前を右折、駐車場の完備する川西郷土館を目指せば分かり易く、途中にも駐車場道標が設置されているので狭い道ではあるが、それに従えば迷わず駐車場には辿り着ける。そこからはルート図の如く西側に歩き(案内道標は無い)城跡を目指せば良い。

塩川氏の居城と伝わり、氏(塩川国満)の当時の活躍は戦国史にも載るほどで、最終的には秀吉の怒りを買うことになり滅亡への道を辿る事になるが、当時北摂においては三好氏あるいは能勢一族に匹敵するぐらい勢いを誇っていたと思われる。

城跡は道路より進入口すぐの山裾南西郭群から始まり、山上で形成されるスケールの大きい郭群、谷(大空堀)を挟んだ西側の枝尾根に展開される郭群、遺構としては最大の見所とも言える主郭北側の二重堀切、規模も大きく土塁を伴う主郭、更に一庫城跡(山下西出郭)まで加えれば城域も広域に及んでおり、縄張り変化にも相当富んでいる。個々の郭群の規模が大きい事からも山城としてのスケール及び醍醐味、あるいは城主でもある塩川氏の当時の勢いを感じる事も出来、遺構も含めて決して見る者を飽きさせない城跡でもある。現在は住宅地として造成されて当時の面影は無いが、南麓に展開されていたであろう郭群(屋敷跡)を含めれば、城下町を形成していたとも思えるほどの、戦国大名の城跡と呼ぶにも相応しい、広域に渡る城跡であったと察せられる。北摂地域いや近畿圏でも有数の大規模な城跡と言えるのではないだろうか。

現状(12月)城跡は山上までは登山遊歩道が設置され、山上郭群においては木々も伐採されており見通しも良く、比較的良い状態のものを見学する事が出来るが、西郭群及び麓の郭群の一部は多少藪状態にある。それでもこの冬季に訪問すれば全域を見て回る事が出来たので、一庫城跡(山下西出郭)と併せての同日訪問となれば、取り合えずベストな状態の山城を堪能出来るのではないかと思われる。

1route_1 登城ルート

Tozanguti_2 城跡進入口

3ya_1x_2 城跡概念図

Nansei_kuruwagun 南西麓郭群

Sanjyou Sanjyou_1 山上郭群

Sanjyou_2 主郭へ

Shukaku 主郭内の土塁見所

Dobasi 主郭北堀切土橋見所

2jyuuhorikiri 2jyuuhorikiri_1 二重堀切見所

2008年12月19日 (金)

大上西ノ山城跡(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市大上にあって、先にリポート掲載を終えた武路城跡とは南側に延びる尾根を共有しており、その丘陵地でもある尾根先端が城跡であり、明智の八上城攻略の為の向城と伝わる。

城跡へは武路城跡を起点にすれば分かり易く、ルート図の如く佐佐婆神社の横を通過して西側の山道から城跡へと向えば、5分もあれば城域でもある北出郭と呼べる削平地に辿り着ける。基本的には城跡のある丘陵地の東民家側、あるいは南端のどこから取り付いてもすぐ上れるのだが、個人所有の山とも見受けられるので、人の目も気にせず入山出来る民家の無い此方側からの登城をお薦めしたい。

現状(12月)城跡は到達地点である出郭周辺は竹林地帯あるいは雑木も生い茂っているが、北端に位置する大堀切を越えて主郭側に向うほど状態はましでもあり、現存する遺構群はほぼ判別確認可能な状態となっている。この城跡の最大の見所は南北丘陵上を分断する三本の大堀切、及び主郭西側に設けられた六本の連続する縦堀群に尽きるのではないかと思われるが、縦堀群は相当埋もれながらも形状は遺し、それに付随している土塁跡、横堀跡も僅かながら当時の状態を留めている状態である。縄張りとしては北端の堀切を越えて更に北側に向いて規模の大きい削平地が繋がっているが、削平のみで切岸処理はされていない様に見受けられた。基本的には広大な規模を持つ単郭構造の大味な城跡なのであるが、櫓台とも見受けられる二箇所の主郭隅には横矢構造も窺え、随所に考えさせられる技巧が施されているのが窺えた。

流石に明知の関与した城だけあって、石垣城としては周山、金山、福知山、亀岡、須知城と完成度の高い素晴らしい城跡が多いのだが、土塁城としても法貴山城と同様に堀切が多用されており、技巧を伴った堀切構造からも城跡に先進性を感じ取る事が出来る。篠山から丹波地区周辺にかけての城跡とは異なり、他に類を見ないほどの形態でもあり、ひときわ異彩を放っている様にも感じられる。正に明智入魂の城跡と言えるのではないだろうか。残存状態も比較的良く、丘城でありながら人の手の余り入っていない様にも見受けられるこの城跡の堀切群は、正しく一見の価値に値する遺構と言えるものである。

尚、城跡すぐ東側に位置する大上東平城についての現況報告は、まとまり次第掲載の予定

1ooue 登城ルート

5_1_2 進入路

3ooue 城跡概念図

15_dai_horikiri_2 主郭北堀切見所

16_nisi_sita_yori_dai_horikiri 西より堀切土塁

14_horikiri_yori_yagura_heki_1 主郭櫓台切岸

20_shukaku 主郭北側

21_shukaku_1 主郭南側

25_nisi_karabori_dorui 西横堀と土塁跡見所

26_tatebori_e_2 縦堀上部見所

2008年12月18日 (木)

大山城跡(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市大山下にあって、篠山川に北から合流する大山川の流れる川沿いの段丘に位置する城跡、中沢氏の居城と伝わる

城跡へは国道176号を北上した場合「大山下」の信号で左折しそのまま直進、橋を渡ればルート図の如くN住宅設備の横を右折、後は農道に近い細い道路に従い城跡を目指せば、案内板と立派な空堀が眼に留まるのですぐ城跡だと確認出来る。途中にも道標が無いので進入路が案外分かり難く、見学に訪れる人も少ないのではないかとも思われる。

城跡は現状主郭周りを除いては一部が藪地、ほぼ全域が農作地となっており、現状から当時の城域を判断するのは個人の想像力、あるいは推察力に頼るしか方法は無い状態と思える。しかし本命でもある主郭周りの遺構としては、深さは失われているが幅のある空堀(地形から察しても当時は水濠と思われる)、大手の土橋、郭切岸、西側を分断する堀切などは明確に判別出来る遺構として残存している。現状一部畑地と化している広大な主郭内は、当時は土塁で仕切られていたか、段差を設けて郭境としていたかの様に窺え、微妙な地形からある程度察する事は可能である。東側の川傍から主郭を望めば、多少の崩落土は認められるが、直立した高い切岸は相当な見応えがあるもので、スケールの大きい空堀と並んで城跡の見所と言えるものでもある。

現在の状態からすれば城跡の遺構残存度は低いが、主郭周りの残存状態は比較的良く、当時を物語る空堀遺構も平城にあっては中々値打ちのあるものと言えるので、戦国期平城(丘城)の状況を今に伝える城跡としては非常に史跡価値のあるものではないだろうか。 山城巡りを主体におく自分にとっては、今回は非常に新鮮さを味わう事の出来た訪城となった。

1route 登城ルート

2z 城跡概念図

3 現地案内板より

5z 大手東側の空堀見所

5_horiato_1 14_2大手西側の空堀見所

12_oote_syoumen

主郭

8_hori_dorui

大手虎口土塁、空堀

25_honmaru_kirigisi_2 主郭東切岸見所

26_horiato 南側堀切見所

2008年12月17日 (水)

武路城跡(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市今谷にあって、そこからはすぐ西側に八百里城も望める位置にある事からも、支城あるいは砦跡とも窺える山城。

城跡へは八百里城を起点にすれば分かり易く、ルート図の如く北側から農道へ進入する。正面の丘は既に城域の一部とも窺われる削平地となっており、突き当たりの小川からすぐ右手に眼に留まる小屋まで歩き、橋を渡れば小川沿いからそのまま丘陵に取り付く、後は南に向いて急斜面を上れば10分程度で山上主郭までは辿り着ける。

現状(12月)山城巡りとしては最高の時期でもあり、山上郭内は木立は多いが落葉もしており、移動も容易く見通しが利く(道路に路駐した車が見える程)ので、遺構は全て判別確認出来る状態にある。城跡は主郭の最高所には櫓台と見受けられる小規模な土塁が設けられており、自然地形をそのまま利用して尾根を削平し、五本の堀切によって尾根は分断され郭も独立した形態となっている。よって小規模な山城ではあるが見る者にとっては変化に富んでいる分、楽しく見て回れる状況でもある。見所を挙げれとすればやはり五本の堀切と言う事になるが、特に東郭から出郭に至る南斜面の橋を挟んだ二連の堀切は、風化によって随分埋もれてはいるものの、城跡中一番技巧を感じ取る事が出来る見応えのある遺構と目には映った。

地形図から察せられる様に西側枝尾根上あるいは更に南側尾根上にも間違いなく郭は展開されていると推察されるが、恐らく取り付き地点に窺われた様な削平地といった程度のものとも想像出来るので、探索はこれまでとして次の予定地でもある、尾根は共有しているが遠く南端に位置する大上西ノ山城に向う。

1_route1_2 登城ルート

5_1 進入路

3buro_2 城跡概念図

10_shukaku 山上主郭

9_shukaku_yagura 櫓台土塁

17_minami_kaku_1 南郭

18_horikiri1_1 南側堀切見所

25_horikiri 東郭堀切

26_higasi_kaku_1 東郭

27_horikiri_dorui_2 東郭南斜面の堀切見所

2008年12月14日 (日)

八百里城跡(兵庫県篠山市)

この城跡は過去既に訪れた方であればお分かり頂けると思うが、個人的にも二年前の九月に訪問した時は時期も悪かったせいもあるが、山上郭群は全域にかけて猛烈な矢竹密生地と化しており、見通しも悪く視認も出来ない状態にあり、主郭までは当然立ち寄れずたまらず途中で下山した苦い経験が残っている。しかし二回目訪問となる今回はなぜか矢竹群も一掃されており、冬枯れの為に落葉もしているので山上郭群の見通しは利き、山上における遺構は全て判別確認可能な素晴らしい状態に変貌を遂げている。自分と同じ様に過去には途中で下山された方もおられるのではないかと思い、いち早く現況を報告すべく掲載に及んだ。

篠山市瀬利にあって、麓から望んでも美しい形の八百里山(標高442m)がこれから目指す城跡。畑氏の居城と伝わるがこの山城を体感すれば当時の畑氏の勢いは感じられる筈である。集落に到着すれば道路沿いの案内板からルート図の如く山に向いて進入し、すぐ先に見える御堂横の赤い鳥居を潜ればそのまま真直ぐ山道に沿って上る、縦堀沿い(堀切道)に上る事になるが分岐点である尾根は削平地となっており城域はここまでも及んでいる事が把握出来る。ここからは右手に進路を変えて山上を目指せば、30分前後要するが迷わず山上郭群には辿り着ける。尚、道中にも石垣跡や縦堀などが眼に留まるので遺構としても見逃せない。

城跡は前述の様に過去の面影は無く、素晴らしい(山城にしては)状態を呈しており、今回やっと城跡の全貌を把握する事が出来た。はっきり言って郭を並べただけに終わっている縄張りは、シンプルであり大味である為に、縄張り妙味には余り期待出来ないが、状態の良い直立した高低差のある郭切岸、険峻な山上に大堀切まで設けた縄張りプラン、完存とも言える遺構残存度の高さ、どれを採り上げても醸し出す雰囲気は城跡としては一流のもので、尚且つ険峻な山上を埋め尽くした郭占有面積は相当なものを誇っており、大名クラスの城跡にも匹敵するほどのものである。

とにかく山城の密集している篠山地方にあっては、有数の高所に位置する本格的山城でもあり、山城としての醍醐味あるいは険峻さも含めてこれぞ山城と呼ぶに相応しい城跡の一つである事は確かである。今回は城跡を時期的にもタイムリーに訪れることが出来、かつて自分と同様に苦い経験を持たれた方にとっては、機会があれば是非この現況リポートを参考にして、変貌を遂げたこの豪快な山城を体感して頂きたいと思う。

1_1a 登城ルート

8_tozanguti_1 登山口

3yao 城跡概念図

14_yasiro_kaku_isi_1 社殿郭壁の石垣跡見所

28_nobori_dorui_higasi1_1 東郭群の上り土塁

29_higasi1 東郭切岸

32_2maru_1 二の丸

34_shukaku_koguti 主郭虎口

38_dai_dorui 主郭大土塁見所

44_dai_horikiri 44_dai_horikiri_2 大堀切見所

2008年12月13日 (土)

大平山城跡(京都府亀岡市)

 この城跡は地元の古老も知らないぐらいのマイナーな山城でもある事から、今回の山城訪問に関しては個人的には当然場所も特定出来ず、またしても存在の確認すら出来ないままの見切り発車の登山となってしまった。もちろんある程度は地形図上からも城跡の確信をもって挑んだのではあるが、その結果としては幸いな事に山城と呼ぶに相応しい、それも大規模な山上郭跡(切岸処理のされた)に辿り着く事が出来たので、山城の現況を含めた鮮度の高い情報をいち早く掲載する事に及んだ。

城跡は亀岡市東本梅町東大谷(赤熊字大平)にあり、同じ町内にある神尾山城跡(既にリポート掲載済)からは北西直線1kmに位置しており、麓の集落から望めば台形上に見える標高約480mの山上にある。ルート図の如く城跡登山口ともなる淨光寺(無住である)を目印として、国道372号から向えば一番分かり易く、そこからは道標は無いが半国山上に向いての登山道が用意されており、道は荒れてはいる(倒木だらけ)が迷うことなく30分程度で城跡虎口には辿り着ける。

現状(12月)城跡は冬季ともあって落葉しており、枯れ木は多いが意外に見通しも良く、山上約400mに渡って埋め尽くされた大規模な郭群(削平地)及び城跡遺構は全て判別確認可能な状態にある。もちろん戦国史にも登場しない様な山城跡なので形態も古く、主郭以外では現状を見る限り切岸処理も施されておらず、縄張りからみても規模の大きい五郭から形成される山城とみて間違いないと思われる。城跡唯一最大の見所と言えるものは主郭(山上最高所)西手前の土橋状の上り土塁で、両サイドは崖状急斜面、更には外見から判断しても(下まで降りるのは無理)縦堀までも繋がっている。主郭を形成する壁面には未だ切岸も窺え、更に相当埋もれてはいるが東郭に挟まれて空堀に見える遺構も確認する事が出来た。

この城跡は形態が古く、余りにも利便性が無視されており、とても戦国期を乗り切った山城の様には見受けられず、前述の神尾山城と同様に光秀の丹波平定の際に運命を共にしたのか、あるいはそれ以前には既に山城としての機能は失われていたのか、どちらかである様には推察される。

1route 登城ルート

5_2 城跡遠望

7 登山口

3oo 城跡概念図

16koguti_1 山上土塁虎口

23_naka_e 三の丸より二の丸虎口

26_umanose_dobasi 26_umanose_dobasi_1 土橋を伴う大堀切見所

30shukaku 主郭

33_higasi_kaku_1 東郭

この山城は神尾山城ともほぼ隣接しており、考えようによっては支城とも見受けられるが、これだけの規模、更に古い形態からも窺われる様に成立年代は神尾山城より溯り、戦国期においては既に廃城、あるいは明智による丹波統一後に廃城になった可能性が相当大きいものと推察される。結果的には山城としての醍醐味を感じる事は出来るが、見所が土橋を伴う大堀切程度なので、お薦め出来る物件とは言い難いが、登山道もある事から山歩きの好きな方は是非立ち寄って見ても、時間の無駄にまではいかないと思える山城である。

2008年12月12日 (金)

沢田城跡(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市前沢田にあって篠山城跡からは北東側の目と鼻の距離にある、小林寺の背後の山が城跡であるが寺院から墓地までの周辺全域が縄張りと見受けられる。八上城主である波多野氏に仕える七頭の一人で代々小林氏の居城と伝わるが、明智光秀による丹波攻略軍の前に落城の歴史あり。

城跡へは篠山城跡からも程近いので、ここを起点にして小林寺を目指せば迷わず辿り着けるが、この城跡は市内平野部の中に単独で孤立しており、仮に波多野氏傘下でなければ間違いなく真っ先に落とされていたとも思える立地条件下にあり、平山城といっても急峻でもなく、ほとんど高さもない山上に主郭は位置している。現状(3月)城跡は冬枯れ後に訪れてはいるが、山上のほぼ全域が隙間無く覆われる竹あるいは雑木の密生林となっており、堆積物などによる地表風化も相俟って郭段差などは判別し辛く、形状も把握出来難い状態にある。当時の郭構成はチープすぎる現地縄張り図によってある程度は理解出来るが、ほとんど郭跡の位置確認のみに終わっているので中々イメージし難い。郭群の中では馬場跡に相当する南郭が一番郭跡としては判別し易く、現在でもそのまま削平地として残されており、堀切まで残存(当時のものとみた)しているのが窺える。

主郭西側にある現在の墓地も縄張りからすると本来は郭跡と思われるが、近世における寺院造成の際にどこまで地形改変があったのかは想像する他はない。しかし池を挟んだ西側には現地縄張り図には表示されていなかったが、西出郭と呼ぶに相応しい小規模ではあるが明確に判別出来る、切岸処理のされている数段の郭群が形成されていた。これらは残存状態も良く、余り見るべく遺構のない城跡にあっては一番当時を物語る遺構とも言え、沢田城跡を訪れた際には決して見逃してはいけない遺構の一つだとも思われる。

1route1 登城ルート

3z 城跡概念図

9_honmaru 山上主郭

11_karabori 空堀跡

18_minami_kaku 南側馬場跡

17_horiwari 南郭堀切見所

35_demaru 西出郭

Demaru_kaku_3 Demaru_kaku_7 西出郭内の郭跡見所

奥谷城跡(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市殿町にあって、波多野氏の居城として名を馳せた八上城の前身とも言える山城(丘に近い)。別名 蕪丸城跡

本城でもある八上城跡は、山頂から四方の枝尾根に砦や郭が展開される巨大な城塞群であるが為に、個人的には未だに全域踏破を成し遂げていないのが現状であるが、此方の方は八上城の南側枝尾根のほぼ独立した先端部に位置しているので、麓の道路傍からはすぐに上れる位置にある。

城跡へはルート図の如く国道372号を走り、「八上」の信号西手前から南側へ針路変更、後はルート図の如く川沿いを南下すれば、難なく進入口となる案内板を見付ける事が出来る。(麓の案内板横から上れば、急斜面ではあるが5分内で山上主郭まで辿り着ける)

地図上から、あるいは遠く外見から判断しても小規模な砦規模の城跡を想像していたが、実際城跡を構成する郭群は意外にも規模が大きく、遺構群は其の中に凝縮されていた。最大の見所は北尾根を分断する二本の堀切で、特に主郭背後の堀切は現状ではほぼ埋もれた形となっているが、両サイドに縦堀となっていく様は非常に見応えのあるものである。主郭西側には屋敷跡にも窺える規模の大きい郭跡があり、その北側には縦堀及び二段に連なる大土塁もそれに付随している。現状(8月)夏季ではあるが、山上主郭周りは意外に木々も少なく案外見通しも利く状態となっている。ただ西側は竹林、雑木林となっているので、外見からの視認には中々難渋するのが現状である。

この城跡は有名な八上城の前には、陰に隠れた存在となっているが、当時のまま自然保持されたとも思える遺構の残存度は非常に高く、当然本城と比べるレベルにはないが、凝縮された遺構の数々は決して期待は裏切らないものと思える。

1 登城ルート

7_tozanguti_1 登山口

3ok 城跡概念図

13_minamikaku 南郭

15_shukaku_koguti 主郭虎口

15_shukaku_nai 主郭

19_kitakaku 北郭

20_kita_yori_shukaku_heki 北郭より主郭切岸

23_kita_horikiridou 北端の堀切

32_yasiki_kaku_1 西屋敷跡か

2008年12月11日 (木)

保津山城跡(京都府亀岡市)

保津城から「明智越え」登山道をそのまま道任せに10分程度北に向いて登ると、堀切道から突き当りが縦堀と化している尾根に到達するが、ここ(上り土橋風)を右手南側に向えば案内板には表記されていなかったが、保津城における山上詰城とも見受けられる、この山上郭群(ここでは便宜上保津山城とした)にはすぐ辿り着ける。山上郭群は形態も古く、郭跡に削平跡は窺われるが切岸処理は施されておらず、ほぼ自然地形任せの広い削平地となっている。それなりに規模の大きい郭跡が南斜面に下りる形で数段に渡って連なっており、最終的には便宜上東砦とした境に現存する城跡最大の見所でもある南北尾根を分断する二重片堀切に到達出来る。

ここを境にして南側に保津城東砦跡とした郭群が数段の削平地のみを残して残存しているのだが、この北側を断つ二重に形成された片堀切が土塁を挟んで下に落ち込んで行く様は、残存状態が良い事もあって美しく更に迫力もあり、山麓における保津城の遺構が全て霞んでしまう程のものとなっている。中々他の山城においても、ここまで全体像の拝める堀切は数も少なく、当時を物語る貴重な遺構と言えるものである。

今回は保津城が山城である事を勝手に想定して訪れたのだが、意外にも山麓登山口に位置しており、本来の目的であった山上郭群も残存はしていたが、明確な遺構としては郭跡、郭内の土塁壇、尾根北端の堀切道及び縦堀跡程度で見応えにも少し欠ける事もあって、余計にこの想定外の堀切の素晴らしさが目を引く事になった。

尚、山上郭には立ち寄らず、東砦跡から堀切遺構のみを見学するのであれば、保津城の案内板のある空池の土橋を渡ればそこから直接山道が通じているので、それを利用すれば数分で堀切までは到達可能である。

3san 城跡概念図

5_aketi_goe_1 堀切道

7_sanjyou_shukaku 山上主郭

15_2jyuu_tatebori 堀切土橋

20_tatebori 二重堀切見所

17_sita_yori_ue_1 下から二重堀切見所

22_kaku 26_doruidan 東砦の郭群

保津城跡(京都府亀岡市)

 城跡は亀岡市保津町今石にあって、明智光秀が「愛宕詣で」としてこの峠越えを利用した事でも有名な、「明智越え」登山道は一部この城跡の搦め手道にもあたっている。現地案内板によれば南北朝期の城跡として表記されてあったが、技巧を伴う堀切などから感じられる様に、戦国期においても改修を施されながら機能していた様にも窺われるものである。城史に関しての詳細は不明

城跡へは国道9号より「保津川下り」の乗船場を目指して車を走らせ、そこからも近い保津橋を渡れば一つ目の信号交差点を右折、後はルート図の如く進行し二箇所の寺院を通り過ぎれば登山口手前に位置する、目印となる大師堂までは難なく辿り着ける。そこから山に向いて少し歩けば酒屋が眼に留まるが、その背後の道路沿いには「明智越え」登山口としての案内説明板が設置されており、其の中には城跡に関しての簡単な説明もなされている。この説明板のすぐ裏手の竹林地は既に郭跡でもある。

現状(12月)城跡は程よく整備されており、登山道周辺の郭跡はほぼ全体像を見通す事が出来、縄張りも容易に把握する事が出来るが、民家に近い南側は竹薮となっているので、移動は出来るが少し視認し辛い状態にはある。しかし遺構は全て判別確認は出来る状態でもあり、城跡最大の見所でもある、郭群を縦に三分する二本の深さを伴う堀切は未だ健在、その一本は現在でも道路まで繋がっている。道路沿いからは郭壁に当時の石垣とも思える痕跡、郭内には空堀、土塁、櫓台なども見て取る事が出来、広さはありながらもコンパクトにまとまった郭群の中に遺構は凝縮されており、見学し易く尚且つ非常に目を楽しませてくれるものとなっている。堀切を境にして三ブロックの郭群で形成されたこの城跡は、機能として限界のある狭い段郭などは皆無で、比較的広い郭群は館城の性格も兼ね備えている様に感じられた。

非常にマイナーな城跡ではあるが、遺構の残存状態は予想を超えて素晴らしく、推奨に値する城跡である事は確かである。

尚、案内板に付記されてある様に、東側山麓に展開される砦跡(便宜上、ここでは保津東砦とする)にも足を向けてみたが、覗いて見ると凄い堀切遺構に巡り合える事が出来た。この砦遺構に関してのリポートは、本来は山上に位置する郭群の探索を目的として訪問した経緯もあり、後で立ち寄る事になった保津山(山上郭)城跡の中で掲載の予定。

1route1 登城ルート

3ho 城跡概念図

5 進入路

19_yagura_yori_sita_1 櫓台土塁より

33_naka_gedan 中郭跡

35_kita_horikiri_2 35_kita_horikiri_4 北堀切見所

25_minami_horikiri_1 南堀切見所

37_nisi_kaku_isi 西郭群石垣跡

23_minamikaku1_dorui 南郭土塁

41_karaike_dobasi 空池の土橋

2008年12月 9日 (火)

柏尾山城跡(兵庫県神崎郡)

兵庫県神崎郡神河町東柏尾にあって、既にリポート掲載済みである寺前城跡の東側に位置する一際高く聳える標高453mの大嶽山の山頂が城跡、赤松氏の家臣であった粟生氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは車で中国道福崎ICで降りて播但道あるいは国道312号で北上し、神崎で県道8号に左折、後はルート図の如く右折して薬王子神社を目指せば登山口には容易に辿り着ける。神社からは西側に向いて一帯森林公園をハイキング出来る登山遊歩道が設置されているので、それに従えばやがて山上NHK中継施設への巡視道と合流する、更に道に任せて上り続けるとやっと山上まで辿り着く事が出来る。しかし比高300mを誇るこの山城を上り切るには相当足腰には辛いものがあり、神社からは距離もあるが時間も掛かる(正確ではないが50分程度は掛かったかも知れない)。

現状(10月)城跡は予期していた通りの藪化真っ只中にあるが、規模が小さい為に遺構の判別確認は容易に出来る状態である。鉄塔の建つ場所が主郭に相当すると思われるが、その西側下に郭が形成されており主郭壁に石垣跡を窺う事が出来る。この石垣跡は中々規模が大きく残存しているので見応えも抜群であり唯一の見所でもある、これを眺めればここまで登って来た甲斐もあり、登山の疲れも一気に吹き飛んでしまう。山上郭群の規模は小さく麓のどこかにあると思われる居館跡の詰城とも察せられるが、更に南側あるいは北側尾根にも郭が展開されていた可能性も考えられる、この時既に四時を回っていた(まさかここまで上るのに時間を要す山城とは思っていなかった)ので尾根上は踏破は出来ず下山を余儀なくされたが、再訪の余地を少し残してしまったのが心残りではある。

1_kasio453m 登城ルート

3kasi 城跡概念図

5_sinrinkouen 尾根上の郭跡か

86_shukau_isigaki  山上主郭石垣跡見所

10shukaku_sita_kaku 12 主郭西下段郭

15sizenseki_dorui_koguti 西郭土塁虎口に見える

14 虎口郭

2008年12月 8日 (月)

守道城跡(奈良県宇陀市)

奈良県宇陀市大宇陀区守道にあって守道小学校の道を隔てた北東尾根先端より既に城跡、守道氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡は大阪市内から向う場合はまず国道166号に進入する事が先、この国道から大宇陀区に入ればルート図の如く守道小学校を目指せば、城跡付近までは分かり易く到達出来る。守道小学校からはプール施設の背後の畑を横切り、堀切から直接山上を目指しても良いし、いきなり校門前の南郭先端部に取り付いて、北側へ上っても容易に山上主郭までは辿り着く事が出来る。

城跡は二つの峯に分かれて郭の展開を成すもの、現状(五月)西郭群の方は相当荒れてはいるが木々も伐採されており、ある程度見通しが良く郭跡の判別確認は何とか出来る状態にある、しかし長年の地表風化の為にはっきりした切岸などは確認し難いのが現状でもある。最高所にある主郭の位置する東郭群は雑木、矢竹の密生地となっており移動も困難、更に郭内部に足を踏み入れる事にも支障を来たす状況でもあり、郭形状及び内部の遺構の確認までには至る事が出来なかった。それでもこちらの東郭群から北郭にかけては土塁、堀切(縦堀)、空堀遺構などは確認する事が出来たので収穫はあったと言えるが、、

城跡全体を考えれば地形を生かし切った縄張りプランでもあり、中々変化にも富んでおり、技巧的な遺構には余り巡り合えなかったが、ユニークな縄張りを持つ山城を充分に楽しむ事は出来た。

2_1route 登城ルート

3m 城跡概念図

13_nisi_daihorikiri_2 西大堀切(進入口)

11_minami_kaku 西郭群の南側

10_nisi_dankaku_gun 西段郭群

8_nisi_shukaku 西主郭

15_karabori_dorui 東郭群の空堀

17_dorui_koguti_1 北郭側の土塁虎口

18_kitakaku_1 北郭

2008年12月 7日 (日)

矢田城跡(京都府亀岡市)

 この城跡に関しては乏しい資料の中でも存在は分かっていたが、個人的には長い間場所の特定までには至れていなかった。今回は偶然地図を覗き込む内に、亀岡市下矢田地区に字名「城山」と付記された地を見つける事が出来たので、早速これが矢田城跡なのか、あるいはただの城山の地名なのかどうかを確認する為に今回の訪問となった。

城跡は亀岡市下矢田町東法楽寺にあって字名「城山」の地はすぐ北側に隣接している。国道9号「下矢田」の信号から南下すればルート図の如く進行し、現在では枯れ池となった大きな池の堤防沿いから進入、本来南北に長い丘陵地であるので、東西のどこから取り付いても目指す主郭には数分で到達出来るが、説明上一番分かり易く直登し易い場所となれば、やはりこの池からが無難であろう。

丘陵上は推察した通りやはり城跡となっており、南側の最高所に規模の小さい主郭(櫓台か?)を置き、北側に向いて長く郭を伸ばしている形態が見て取れる。現状(12月)冬季にも拘らず主郭回り以外は雑木の蔓延る藪地及び竹林地と化しているので、全体の視認は困難な状況にあり、郭跡と思われる竹林地などは長年の風化及び堆積物によって相当地表は変化している様子が窺われる。それでも主郭及び主郭回りの郭跡には切岸処理も見受けられ、この地が城跡だと言うことは個人的にも断定する事が出来た。現在主郭の南西側は住宅地と化しており、見る限りでは南西側の郭跡は消失した可能性があると思われるが推察の域は出ない。池のすぐ東側の竹林の中には屋敷跡と見受けられる郭群が現存しており、風化の進んだ中でも土塁で仕切られた空間、空堀などは明確に判別する事が出来た。そのまま真反対の東側へ郭を越えれば、此方にも民家背後に土塁囲みの空間あるいは空堀跡を窺う事が出来た。結果的には山上を構成する郭跡には切岸以外では堀切、土塁などの遺構は確認する事が出来なかったが、むしろ本郭群を挟む形で位置する、東西の屋敷跡と思われる空間の方に遺構が集中しており、余程城跡らしさを感じ取る事が出来た。

この城跡遺構は下矢田町の字「城山」から「東法楽寺」地区に跨っているが、現状においては他の矢田地区にも城跡として該当する地も見当たらず(居館跡とされる地域は別に「堀之垣内」と呼ばれる地域が東側に隣接)、今回はこの地を矢田城跡としても良いのではないかと個人的に判断した結果、訪問リポートとして掲載に及んだ。

1route_2 登城ルート

3yata 城跡概念図

11_naka 中郭

15_nisi_obi_heki 西帯郭

18_higasi_obi_1 東帯郭

20_shukaku_e_nobori_dorui 主郭上り虎口

23_shukaku_minami_heki 22_shukaku_nisi_heki 主郭

25_nisigawa_yasiki 西屋敷跡空堀見所

26_higasi_gawa_yasiki 東屋敷跡土塁見所

尚、別ルート図に示すが、この地から南東すぐの距離に矢田城の東を抑えたと思われる、砦跡とも見受けられる削平地(個人的には郭跡と解釈した)が現存していたので、参考程度に同時掲載に及んだ。1route_3 3y

周辺概略図

11_minami_demaru_1 砦跡か?

2008年12月 6日 (土)

柳生城跡(奈良県奈良市)

奈良県奈良市柳生町柳生にあって、柳生の里あるいは柳生一族の菩提寺となる芳徳寺を目指せば一番分かり易く辿り着けるが、広大な敷地を持つ寺院そのものも当時は居館跡にも見受けられるもので、土塁跡などが一部残存しているので覗く価値はある。山上郭群へは寺院側あるいは正木道場向いからの山道の、どちらを利用しても山上主郭には数分で到達出来る。

柳生陣屋跡からすると史跡としてもマイナーである為に、寺院には寄っても山城を見学するまでには至らない人が多いと思われるが(かつて自分もそうであった)、意外に遺構の残存度は高く、山上主郭以外の状態は自然任せの藪化進行中でもあり、良いとは言えないが充分見学する価値のある山城とは思える。三方に広がる枝尾根には堀切も設けられており、高さもあることから充分見応えのある遺構となっている。シンプルな縄張り構造ではあるが、まだまだ戦国期の香りを残している城跡の様には感じられた。現在中腹に位置する寺院から正木道場辺りに至るまで、どこまで近世において地形改変があったのかは想像の域は出ないが、山上を詰城として北西寺院側あるいは南麓側に広がった城域は、相当広いものの様には見受けられた。

1route2

登城ルート

3 城跡概念図

11_horikiri 南側大堀切見所

15_shukaku_nai_1 主郭

18_higasi_horikiri_1 東側堀切

26_kita_horikiri_1 北側堀切見所

38_tera_dorui_ato_1 寺院外周土塁跡

尚、城跡の真北側の道路を隔てた山上には古い形態を持つ柳生古城もあるが、此方はルート図の如くバス停より山上に向いて山道が用意されているので迷わず辿り着ける。現状、多少整備もされており遺構の判別確認は容易く、縄張りも把握し易い状態にある。郭間に堀切を挟みながら直線的に郭を配した縄張り構成であるが、遺構としては郭を分断する四箇所の堀切が最大の見所となっている。距離も二城近い事から、同日訪問すれば効率よく見て回れて、更に成立した時代による城跡の変遷も楽しむ事が出来るのではないだろうか。二城セットとして、お薦め出来る物件である事には間違いない処である。

柳生古城の城跡概念図3yag

15_daihorikiri_1 大堀切

17_shukaku_nai 主郭

20_yagura_haigo 櫓台北背後の堀切見所

21_horikiri_yori_kita1 北郭

2008年12月 5日 (金)

三ノ宮東城跡(京都府船井郡)

京都府船井郡京丹波町三ノ宮にあって、既にリポート掲載済でもある三ノ宮(西)城からは国道173号を隔てた直ぐ東側に位置している、もちろん山内氏の居城と伝わっている。

城跡へは三ノ宮(西)城跡と掲げられた大きな看板の見える国道交差点から、図に示した作業所寄りの辺りが直登取り付き地点になり、取り付き地点に多少のずれは生じても急斜面を登り切れば山上主郭まで到達出来ることには変わりは無い。ただ西側は山上近くが凄まじい笹藪となっているので、直登の際には出来るだけ国道寄りの木々の少ない南側を回り込む形で上った方が楽だと思われる。

過去、三ノ宮(西)城跡を訪れた際の案内説明紙に、東城は調査中との事が付記されてあり、そろそろ調査も終えた頃だろうと安易に訪れて見たが、現状(11月)城跡は調査中どころか全域が雑木、矢竹藪と化しており、伐採前の段階と思われる目印のピンクテープが至る所に貼りまくられている。移動は矢竹の隙間を縫って何とか出来るが、全体の視認はまず無理、記録写真もほぼ伸び放題の矢竹を撮っているだけで中々画像としては成立してくれない、取り敢えず移動出来るだけはまだマシで、木々の隙間を縫いながら歩き回ってやっと全体像は掴む事が出来た、山上はほぼ四郭から形成される山城と見受けられ、櫓台土塁を備えた規模の大きい主郭に、高低差を違えて郭群が付随しているものである。櫓台背後には風化によって随分埋もれてはいるが二重堀切は確認出来た。こうしてみると東城は、整備されている西城とは比べるレベルに無いほど藪化は進んでいるが、手付かずの為に遺構残存度は高く、規模も西城よりは相当大きく、これから木々が伐採されて全貌が明らかになった時が非常に楽しみになってくる。(現実そうなるとは限らないが、仮に調査に入れば木々は伐採される筈である)

夏季の訪問は絶対に避けた方が賢明であるが、山上を移動出来るだけマシと考えれば充分観賞には耐えられる山城と言える。 少ない遺構群の中にあって堀切は唯一最大の見所!

1route_3 登城ルート

4_1 直登取り付き地点

3san 城跡概念図

7_minami_kaku_1 南郭

13_shukaku_2 主郭

15_yagura 主郭櫓台土塁

18_horikiri_1 18_horikiri_2 堀切見所

2008年12月 4日 (木)

細野城跡(三重県津市)

三重県津市美里町北長野にあって、案内板には長野氏城跡とあったが別に細野城とも呼ばれているらしく、西側の遠方山上には長野城跡が位置する事からも紛らわしいので、ここでは細野城として載せさせて頂く。城跡はもちろんかつては長野氏の居城であるが詳細は不明。

城跡へは大阪から向う場合、国道163号に進入する事が先決となる、この国道沿いに城跡は位置している事からも非常に分かり易く、道路沿いにある「美里農産物加工センター」を過ぎて橋を渡れば、すぐ左手(北側)道路沿いに案内板を見つける事が出来る。そこから東西城跡に挟まれた谷状地を北へ向えば既に城域でもあり、分岐点には道標もあるので迷わず城跡へは到達出来る。しかし城跡は東、中、西城と三箇所に分かれて郭群が配されているので、見学においては必ず三城を覗く事が大事である。三城を覗いてこそ、この城跡の縄張りの素晴らしさが理解出来るであり、更に個々の郭群の機能も窺う事が出来るのである。

現状(11月)城跡は比較的残存状態が良く、歩き易く見て回りやすい状態にはあるが、主要な郭跡を少しでも外れると藪化も激しく、竹林あるいは雑木で踏み入る余地の無い場所も多々ある。三城を見る限りにおいては、東城が街道沿いにあり利便性も含んだ監視用砦、中城がより堅固に構えられた戦闘用の砦、西城は規模も大きく居館あるいは詰城といった処か、、中でも中城が堀切、土塁などを備えており、見る分には一番醍醐味があり見応えが感じられる。城跡の形態としては三城が独立した形ではあるが、戦闘時においては三位一体となり、攻守において一番能力を発揮出来るように考えられた縄張りプランである様には見受けられた。残存状態も良く、更に縄張りも含めて充分推奨に値する、素晴らしい城跡と言える。

1_3a 登城ルート

3_2 現地案内説明板

10_oku_nakasiro_e 東城分岐点、奥は中城へ

10_isi_horikiri 東城へ、堀切

13 堀切石垣跡(当時のものか?)

18_higasi_shukaku 東城

26_horikiri 中城の堀切

30_shukaku_daidorui 中城大土塁

34_nisi_shukaku_e 西城主郭切岸

35_nisi_shukaku_nai 西城最高所

2008年12月 3日 (水)

本郷東城跡(奈良県宇陀市)

奈良県宇陀市大宇陀区本郷にあって、先にリポート掲載に及んだ本郷城へ向う三叉路分岐地点より、右側へ道路を少し登れば、直ぐにこの城跡の北端と思われる切り通しに迎えられる。これは大堀切の様にも見受けられるが、形が整い過ぎているので近年において造成拡張された可能性はある。

この城跡は本城と違い主郭周りの風化が藪化が激しく、下草も生え放題となっており、一部は墓地になったり木材がそのまま放置してあったりするので、お世辞にも良い状態とは言えない。東に延びる郭群も草木に覆われているので外見から形状なりは判断するしか手が無い状況である。ただこの城跡は規模あるいは縄張りの形態を問うのはどうでもよく、南あるいは東に直線的に長く延びる空堀土塁が、唯一この山城の存在を示す全てと言っても過言ではない遺である。本城に寄ったついでに、この空堀遺構を見るだけでも充分な価値を含んだ山城であり、これに醍醐味を感じ取れれば訪問した甲斐があると言うものである。

歩き回る距離も短くてすみ、二城セットとして見学出来るので非常にお手軽な城跡と言えよう。

1route 登城ルート

3hh 城跡概念図

5_kiritoosi_1 北端の切り通し道

8_kita_horikiri 北堀切

11_karabori_1 南へ空堀道

13 南空堀土塁見所

20_karabori_dou_2 東側空堀土塁見所

20_karabori_dou_3 空堀道

本郷城跡(奈良県宇陀市)

城跡は奈良県宇陀市大宇陀区本郷にあって、既に訪問リポート済である黒木北城跡からは北西に位置しており、車で移動しても数分の距離にある。ここを起点にすれば分かり易く、ルート図の如く北側の山に向って目的地でもある墓地までは車で上れる。ただし舗装道ではあるが相当狭く、曲りくねっており、小型車以外であれば脱輪する可能性もあるので、運転に自信の無い人は麓から歩いた方が良さそうに思われる。

民家の限界点となる最奥最上部で三叉路となるが、左側が本城となる墓地への道、右に向えば直ぐに東城に到達可能である。車は墓地周辺に路駐可能であり、到着後はそのまま墓地から進入すれば直ぐに空堀を目の当たりにする事が出来る。

現状(5月)城跡は全域が植林地となっているので見通しも良く、下草も少ないので遺構は全て判別確認可能な状態にあり、更に郭数も少なくシンプルな構成なので縄張りも非常に掴み易い状態と言える。見所は外周に張り巡らされた空堀土塁で、現状埋もれて深さは失われているが、分厚さはまだ残っており、充分当時の状態が想像出来る遺構でもある。小規模でコンパクトな城跡ではあるが抜群の残存状態を誇っており、車で城跡の直ぐ傍まで行けるお手軽さも加えれば、是非訪問をお薦め出来る物件でもある。

尚、城史に関しても築城者に関しても不明な部分が多く、個人的には誰の築城であってもよいのだが、よくこの様な山上でもなく丘陵上でもない中途半端な場所が、築城地としての対象になったものである。

1route_2 登城ルート

3h 城跡概念図

8_minami_kaku 南郭

12_shukaku_gedan_dorui 主郭下段空堀跡

15_shukaku_nai 主郭

17_shukaku_kita_horikiri_3 主郭北堀切

20_nisi_kaku_2 西郭

7_karabori_nisigawa_1 西側空堀土塁見所

25_shukaku_heki 主郭切岸

27_higasi_dorui_karabori_2 東側空堀土塁見所

2008年12月 2日 (火)

大原城跡(兵庫県三田市)

兵庫県三田市大原にあって、大原氏の居城と聞くが城史に関しての詳細は不明

城跡へは三田市内から国道176号を北上した場合、パチンコ店手前の大原の信号を右折、すぐ左手側に見える丘状地が城跡(パチンコ店駐車場の裏手は城跡)であり、主郭には姫山神社も建立されている。進入口はルート図の如く少し東側に歩き、北側にある民家に向う形で参拝道があるのでそれに従えば10分内で主郭まで到達出来る。

城跡の見所は西先端部にある土塁で形成された枡形虎口に尽きる、これだけの為に訪れたとしても決して後悔するものではない。現在、郭遺構として明確に残存しているのは主郭と副郭のみであるが、地形から推察しても城域は北東側の農作地にまで及んでいたものとも想像される。

山城ではないので、個人的には醍醐味には少し欠ける様な気がするが、車で移動中にすぐ寄れて尚且つ、これだけの枡形虎口遺構を拝められるのであれば、非常に旨味のある城跡である。近畿圏内でもここまでの枡形土塁虎口を残す城跡は数少ないので、非常に貴重と言うべき存在の城跡と言えよう。

1route_5 登城ルート

5 進入路

3_2 城跡概念図

11_shukaku_nai_1 主郭

11_shukaku_nai_takadorui 主郭背後の土塁

25_higasi_daihorikiri 主郭東の大堀切

18_masugata_nai 枡形虎口内

20_masugata_koguti 枡形虎口の土塁

23_nisi_yori_koguti 西側より枡形虎口の全貌

丸山城跡(兵庫県西宮市)

兵庫県西宮市山口町下山口にあって金仙寺湖の北側に聳える丸山(標高378m)の山上が城跡、山口氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは国道176号から金仙寺湖を目指して向うと分かり易く、ルート図の如く南側から金仙寺に向かい、その背後から山上主郭にある稲荷神社に向う参拝道を利用して上れば迷わず辿り着ける。

現状(8月)城跡は夏真っ盛りともあって下草は蔓延っているが、神社敷地の為に比較的整備されており、縄張り全体像を掴むには容易な状態にある。独立し整った形の山塊の山上部を削平して築かれた城跡は、現状に置いては技巧的な遺構は見当たらず、見応えを求めれば程遠いと言えるものである。非常に評価し辛いが国道からも近距離にあり、10分程度で上れて、神社でも参拝して景色を眺めるのであれば何ら抵抗も無く受け入れられる山城と言う事になるのか、、、

1_1 登城ルート

3 城跡概念図

12_shukaku_nai 山上主郭

18_kita_obi_dan 北帯郭の切岸

18_kita_obi_dan_1 北帯郭

21_2maru_nai 二の丸

19_nisi_dankaku 西段郭群

23_higasikaku_gedan 東郭群端

2008年12月 1日 (月)

小畑城跡(京都府綾部市)

 京都府綾部市小畑町にあって、高源寺背後のほぼ独立した低山が城跡の平山城、波々伯部氏の居城と伝わるが、小西城(リポート掲載済)を本城とした支城として機能していたものか、、

城跡へは小西城を起点にすると分かり易く、府道74号から小西城に向かう為に北上した道路を更に北へ直進、地区郵便局を右手に見て、更に道任せで進むと広い集落センター(販売所か?)らしき前を通り、ルート図の如く進行すれば目指す高源寺に辿り着く事が出来る。寺院背後(左側)からは、かつての稲荷社に向う参拝道があるので、それを利用すれば5分とかからず主郭までは到達出来る。

現状(11月)城跡は下草は蔓延り、全域にかけて雑木天国と化しており、相当藪化も進行しているが、縄張りがコンパクトにまとまっている為に全体像を掴む事は案外容易となっている。当然郭跡は草木の為に視認し辛いが、見所でもある主郭背後に設けられた二本の堀切及び迫力のある分厚い土塁などは明確に見て取る事が可能である。 (夏季においての訪問は絶対に避けるべし!)

この地域には小西城、六反城、そしてこの小畑城と波々伯部氏の持ち城が三箇所にもあり、この集落に向う城戸口を小西(本城)、六反城で挟む形状が外見からも窺われ、集落の最奥に位置するこの城跡は、郭数が少なく主郭の規模(相当広い)あるいは利便性から考えても、館城(居館)の様にも見受けられるが、個人的推察の域は出ないものである。小西城と併せて二城同日訪問すれば、有意義な城跡巡りが出来る事請け合いと言える城跡である。

1route_2 登城ルート

4a 城跡遠望

3obata 城跡概念図

7_yasiro_kaku_2 主郭下段

23_shukaku_yori_yasiro_1 主郭より社殿

10_shukaku 主郭

12_yagurada 主郭櫓台

15_horikiri_2 堀切見所

17_horikiri_shukaku_heki 堀切側の主郭切岸見所

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