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2008年11月20日 (木)

金屋城跡(京都府与謝郡)

この城跡は加悦町付近を車で走っている最中に、偶然案内板が眼に留まり訪れたもので、山城としてよりもその中腹に展開される城郭寺院の様にも見受けられる三縁寺廃寺の残存遺構の素晴らしさ惹かれ、その訪問結果をお知らせすべく掲載に及んだものである。山城の方は有吉(加悦)城の支城でもあり、家臣である赤野氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡は与謝野町加悦、金屋にあって、国道176号よりルート図の如く西側に進行、山裾を南北に走る道路に突き当たれば、道路沿いにほどなく写真の様な案内板が眼に留まるので、そこから西側の墓地に向い、山道任せで三縁寺廃寺を経由して新設されたかの様な未舗装林道を上って行けば、標高358mの山上郭までは迷わず辿り着く事が出来る。個人的には麓から歩いて上ったが、廃寺の遺構も見学しながらの山登りになったので、たっぷり一時間の道程になった(廃寺からは20分)。トルクの太い車であれば山上までは上れそうにも思えたが、、、

現状(10月)金屋城山上郭は、上る前に地元の方に訪ね聞いた情報通りに、自然任せの荒れ放題となっており、雑木はまだしも矢笹が山上全域に渡り密生しており、地表も見えないので郭跡も確認出来ない状態にある、尾根上に残る僅かな堀切跡を判別確認出来たが、郭跡と見受けられる平坦地には足も踏み入れられない状況でもある。唯一郭跡における切岸は外見から窺う事は出来たが、全体像も掴めないまま(外見から判断するには砦規模の古い形態の山城で三郭構造か?)に下山する運びとなった、ただ納得出来ないのは本当にこの程度の小規模な城跡であるのかどうかで、真相がはっきりしないまま帰途に着いたものの、未だに気持ちの整理が付かないでいる。

しかし上る途中で拝む事が出来た三縁寺廃寺の遺構には度肝を抜かれた、これは戦国期の山城そのもの形態をしており、唖然とするばかりである。城域も郭規模も相当大きく、縄張りの中には縦堀、堀切、高い切岸、土塁、土塁虎口、石垣跡と言った具合に山城を形成する技巧的な遺構は全て含まれている。これでは山上郭は単なる詰城あるいは物見郭の用しか成さない様にも見受けられる、室町期の寺院遺構と案内板にはあったが、廃寺と知らなければ、先進性も兼ね備えた巨大な山城跡の様でもあり区別は付かない。恐らく戦国期も城郭寺院として更に改修を重ね、より堅固にされたものと考えられるが、縄張りも相当複雑な上に城域も広いので、今回は見て回る時間に余裕も無く、最後まで全体像が掴み切れず、概念図さえも描き切る事が出来なかった。

廃寺とは名ばかりで、そこらの山城よりも遥かに技巧的にも優れ、見応えも醍醐味も兼ね備えたこの三縁廃寺には、山城賛歌を贈りたい気分である。個人的には廃寺ではあるが、山城として推奨出来る物件の一つである。

1route1 登城ルート

226 登山口の案内板

Sanjyou_kuruwa_gun_6 金屋城山上郭の切岸

Sanjyou_nantan_kaku_3 山上南端郭(物見か?)

Sanjyou_nantan_kaku 南端郭の笹に埋もれた堀切跡

Sanjyou_kuruwa_gun_11

山上郭の移動尾根道

235_2

三縁廃寺跡の郭壁の石垣跡

248 三縁廃寺跡の石垣跡

284 三縁廃寺跡の郭跡

253 三縁廃寺跡の上り虎口跡

Atago 金屋城登山口からルート図の如く、北へ車で数分の距離にある、愛宕神社そのものが砦跡と見受けられるが、城跡の呼称に関しての情報が入って来ず、文献にて現在調査中でもあり現時点に置いては素性は謎の城跡。恐らく金屋城塞群の一翼となる砦跡とは思われるが、、、

Atago_2 山上郭虎口(現在は社殿がある)虎口を形成する巨石の矢穴跡に注目

Atago_1

山上社殿背後の大堀切見所

22_sannjyou_kaku 山上郭

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京都(丹後地方)の山城」カテゴリの記事

コメント

興味深く拝見しました。
祖母が金屋城城主の娘として生まれたことを母の本から知り、書く事にしました。いま先祖の歴史をたどり書いています。

室町幕府の後期、丹後与謝郡後野の金屋城城主、赤野源左衛門良貴 を先祖とするのが我が母方の先祖です。祖母いしは、金屋城城主の娘、出城跡のあとの屋敷で生まれる。しかし大正にかけて助役をしていた夫が早世し、祖母は娘七人を連れて大阪に出てきました。

TAKUです、コメント拝見させて頂きましたが、興味深いお話有難うございました。
室町時代にまで遡ることの出来る、ご自身のルーツが判明しているとは、とても驚くばかりですが、ほとんどルーツの判明しない自分にとっては、非常に羨ましい限りです。
私の場合はせいぜい明治時代に遡る程度の、八代前までですから、、、、、、、

コメント
ありがとうございます。
来週、金屋城はじめ書かれているところの数カ所をみてきます。赤野のお墓も参ってくる予定です。
小生の母方の茂籠家は山添家(もと一色家)とも有吉家とも先代は結婚しています。小生の祖父に当たる方の奥さんは有吉家の方です。ただその前の先祖は一色家の山添家から来られており、有吉と確執がなかったか不思議でもあります。
ちなみに小生の父方は清和源氏の出でこちらは多田神社等で古き先代よりわかっています。
しかし母方の加悦の茂籠家は、小生の祖母が赤野から嫁に来たはわかっていますが、赤野に比べると茂籠家は戦国時代の全貌がわかっていません。そして山添家や有吉家と岩屋で結婚した茂籠家は女性ばかりで昭和で途切れました。
口伝ではいずれ途切れると母が書き残した冊子を頼りに、先祖を探求したいと思っています。

TAKUです、コメント中に岩屋の地が登場しますが、岩屋倉谷城や広田城なども関連の地なのかも知れませんね、、、
それにしても「茂籠」といった珍しいネームは、近畿圏内を問わず、国内でも非常に珍しいものであり、全国的にも知名度の高い「籠神社」を連想することの出来る、古来から続く由緒ある家名とお察ししました。
ルーツ探しの旅、道中気をつけて赴かれる事を願っております。

一泊二日で母の父方の茂籠家のお墓参りと、母の母方の赤野家の宝巌寺とお墓にお参りしてきました。不思議なご縁で、
茂籠家のお墓を掃除していますと、安良山城の子孫の有吉氏
と出会いお話をし、次に赤野家の宝厳寺に向かいますと宝巌寺のご住職が後野の赤野家のお墓を案内してくださり、広大に山半面が墓地になっておりましたが見つけることができました。現三縁寺も住職を兼ねているとのことでした。宝巌寺に入ると石塔があり、そこに祖母の兄の赤野孫太伯父の名前が施主としてほられていました。金屋城の最後の主です。
三縁寺も新しいものは見ましたが、廃寺となっている跡は見ることができませんでした。なんでも鹿のための柵が道を遮断しており、秋頃にまた見に来ることにしました。今度は一色家(山添家)の弓木城とともに来たいと思います。このページは本当に役立ちます。ありがとうございました。

TAKUです、ルーツ探しの旅、無事終えられて何よりでした。
縁もゆかりもある有吉氏と、時を越えてその末孫の方々が同時に会える事など、偶然とはいえ、そうそうにありえる事はないものと思われますが、御自身にとっては、さぞ充実した一日になったものと思います。
コメント有難うございました。

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