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2008年11月

2008年11月30日 (日)

小西城跡(京都府綾部市)

 京都府綾部市小西町にあって、既にリポート掲載済である六反城跡からは西側へ歩いても行ける距離にある。波々伯部氏の居城と聞くが、兵庫県篠山市にある淀山を居城とした波々伯部一族の城かどうかは調べるまでには至ってはいない、詳細は不明

城跡へは六反城跡を起点にすれば分かり易く、ルート図の如く西側へ向いて道幅の狭い道路を道に任せて進行、集落奥に向いて進めば未舗装となるが更に進めば集合墓地が目に入り、車はここで空きスペースに駐車する、そこからは一部山道を利用して南へ迫り出した尾根先端に取り付き、僅かな踏み跡の残る尾根を登り切れば、広い城域を持つ城跡の山上西側削平地に15分程度で到達する事が出来る。

綾部市にある城跡のほとんどがそうである様に、この城跡も自分の手元には情報が皆無に等しく、存在のみは分かっていたので地図上でおよその見当だけを付けて、何の期待もせずに臨む事となったが、結論から先に述べると、山上では予想を遥かに上回る、状態の良い素晴らしい残存遺構の数々を目の当たりにする事となった

城跡の本郭群は到達地点である山上削平地から東側にあり、西側にも切岸処理の窺われる郭跡、更に西側へ向いて山上を目指せば、山上全体を占めている削平跡の窺える広大な平坦地(東西に長い)に到達出来る。もちろん見る限りにおいては当然縄張りの一部と見られる西山上郭とも呼べるものである。到達地点から東側が本命とする本郭群に相当するが、尾根上削平地を通過すれば堀切を形成する主郭背後の壁の如き切岸が迎えてくれる運びとなり、そこを越えると大規模な主郭に突入する。更に東側は段郭を尻目に斜面を下った場所に設けられた堀切で、本郭群の東端に到達したものと察せられる。更に東側急斜面を下りた枝尾根上にも、郭の展開は成されている様にも窺われたが、次の予定もあり今回の探索はここまでとして下山と相成った。

城跡に技巧さは余り見受けられないが、本郭群の状態の良い直立した切岸、主郭に設けられた櫓台土塁などは充分見応えがあるもので、山城そのものの規模が大きい事からも城跡からは非常に醍醐味を感じ取る事が出来る。東側民家に達するまでの枝尾根未踏地は、少しだけ再訪の余地は残してしまったが、個人的には期待を全くしていなかっただけに、満足度はほぼ100%近くには達するものとなった。

1route 登城ルート

7 進入路

3kon 城跡概念図

20_shukaku 主郭

19_yaguradai 主郭櫓台

30_heki_1 東郭群切岸

32_higasi_dorui_koguti_1 東斜面土塁虎口見所

16_naka_horikiri_dorui 主郭西堀切土塁

9nisi_demaru_gun 西出郭群

15_nisi_sannjyou_kaku_1 西山上郭

2008年11月29日 (土)

塩貝城跡(京都府南丹市)

 この城跡に関しては既に「大戸城跡」として7/15ブログに掲載したが、今回は呼称に間違いがあり訂正しなければならない事が判明した。結論として先に述べれば7/15掲載の「大戸城跡」は「東胡麻城跡」の誤りで、詳しい経過説明はコメントも含めて既に訂正し終えた、7/15掲載の「東胡麻城跡」ブログ中にあるので、それを改めて参照して頂きたい。実際の大戸城跡は東胡麻城跡の直ぐ西隣に聳える山の山上にあり、東胡麻城跡とは目と鼻の先の距離にある事も判明した。今回は前回の汚名を返上すべく、本来の大戸城跡を改めて訪問したので、ここに鮮度の高い城跡の現況報告を掲載する運びとなった。尚、案内板にもある様に掲載においての呼称は塩貝城跡(別名 大戸城)とした。

城跡は東胡麻城跡を起点にすれば分かり易く、ルート図の如く東胡麻城跡進入口の西側真反対に位置している大戸集落からが登山口となる。まず麓の地区公民館の敷地に車は駐車させてもらい、数100m北の写真にある白いポリタンクまで歩き、そこからは山側の民家手前左側の小屋付近に墓地が見えるが、そこからが道標も備わっており、山上に向いての登城口ともなる。この場所にはかつては城主であった塩貝氏の墓碑もあるので案外確認し易い。尚、公民館の前にも小さな道標があるが、地元の方の情報によれば「こちら側の山道は現在ではどの様な状態になっているのか分からない」との事なので、迷わず前述のルートを選んで上ることが賢明と思われる。(出郭である鍛冶屋敷跡までは15分内

現状(11月)城跡は植林地でもあり町史跡ともあって、ある程度手入れされており、見学する分においてはこれ以上望めない(山城としては)良い状態にある。最初に到達する中腹に位置する出郭の鍛冶屋敷跡から山上主郭に至るまでの遺構は全て判別確認出来る状態でもあり、当時の戦国期山城を遺構も含めて、思う存分堪能する事が出来る状態でもある。城域も案外広く登城ルートから少し外れると、北側先端の尾根上まで縄張りとして広大な削平地が広がっているのが分かる。城跡の見所は残存状態の良さも含めた郭壁面を覆う美しい切岸、技巧を伴う堀切、出郭の食い違いに見える虎口土塁跡などが真っ先に挙げられが、中でも主郭北斜面上における数本の堀切群は城跡最大の見所と言えるものである。

山城も定期的に手入れを行えば、この状態にまで保持されるといった見本の様な城跡でもあり、東に隣接する東胡麻城跡と並び、残存状態は非常に高いレベルにあるので、是非訪問をお薦め出来る山城の一つに数えられる。

1route_2 登城ルート

5 進入口

3ooto1 城跡概念図

6 登山口奥塩貝氏の墓碑

13_yasiki_dorui 鍛冶屋敷土塁見所

17_horikiri_dobasi 堀切土橋

20_2jyuu_tatebori_3 二重縦堀見所

21_kitakaku_yori_shukaku_heki_1 主郭北側の美しい切岸

24_shukaku_1 主郭

25_shukaku_minami_horikiri 主郭南堀切

32_kita_koudai_na_kaku_4 北側の広大な削平地

2008年11月28日 (金)

家所城跡(三重県津市)

三重県津市美里町家所にあって地区にある辰水小学校の西側にある丘陵上が城跡、家所氏の居城と伝わるが、信長の侵攻により落城した模様。詳細は不明

城跡へは大阪から向う場合、まず国道163号に進入する事が先決。城跡は民家と畑地を挟んで一般道657号にほぼ面しており、北側道路沿いの民家畑地を抜ければどこからでも縄張り内に進入する事は出来るが、通常のルートで臨めば辰水小学校よりルート図の如く南側から城跡案内板を経て、そこから上れば一番早く本郭部には到達する事が出来る。

現状(11月)、規模の大きな本郭部は整備されており、石垣跡、土塁跡、櫓台、空堀などの明確な遺構には、丁寧に表示がされているので見て回りやすい状態となっている、しかしこの城跡の遺構群は本郭部のこれだけにあらず、東西北側へ三方に広がっている縄張り内の遺構群であり、特に本郭部より北側は、民家あるいは農作地にまで広い屋敷跡、郭跡と見受けられる削平地、あるいは空堀土塁跡と井戸跡、石垣跡などの遺構を眼にする事が出来る。この区域は城跡を探索する分においては絶対に見逃してはならない、まだ多くの隠れた遺構の集中する区域と言える。

近年においては郭跡も民家敷地あるいは畑地として転用され、どれだけの地形改変があったのかは想像も付かないが、その部分も含めて城域として見る限りでは、それなりの規模を持った城跡の様に感じられた。今回は遠方への山城巡りとあって、余り一箇所に長居をする事も出来ず、東側を残して全域を踏破するまでには至れなかったが、城跡は見所も多く、見応えもあり充分過ぎるほど城跡の醍醐味は感じ取る事が出来た。又機会があれば再訪して、今度こそ全域を踏破して見たいとも思わせる、推奨出来る城跡の一つである。

1route 登城ルート

3 進入路

1x_1 現地案内板

11_karabori_horiwari 主郭北側の大空堀見所

20_horikiri_1 主郭西側の堀切

24_monseki_1 主郭大手虎口

27_shukaku_nai 主郭内の土塁

29_yagura_dai 櫓台

31_shukaku_miharidai 主郭内の大土塁

33_karabori 東郭と大堀切見所

36_horikiri_isi_1 石垣跡見所

2008年11月27日 (木)

上鴨阪城跡(兵庫県丹波市)

 この城跡は兵庫県丹波市市島町上鴨阪尾端にあって、誉田城跡から見れば集落を図の様に、お互いの城跡で挟む形を採っており、道路を挟んだ南西側の独立した低山の山上に位置している。

ただ訪問したものの、この山城の呼称が現状における資料、文献で見つける事が出来ず、今回の訪問リポートにおいては区別する為に便宜上(仮)上鴨阪城跡としたが、誉田城塞群の一翼を担う、誉田南城跡と呼ぶに相応しい城跡だとは思われる。訪問結果として当時を物語る残存遺構には中々素晴らしいものがあり、今回の掲載に及んだ訳であるが、呼称については判明次第報告するつもりではいる。

城跡へはほぼルート図の如く城跡のある低山東山裾まで向かい、そこからは祠への山道を利用して尾根上斜面を上ることになる。比高70m程度なので10分もあれば山上までは到達出来るが、道中の痩せ尾根上には削平地らしき跡が数箇所に窺え、明確に土橋付き堀切遺構と判断出来る場所からが山上郭群となる。現状(11月)城跡は植林地とあって見通しは良いもので、地表は相当荒れてはいるが現存する遺構は全て判別確認可能な状態にある。山上郭はほぼ四郭から形成されるもので縄張り妙味には少し欠けるが、それぞれの規模も比較的大きく、山城としての見応えは充分感じられるものである。現在主郭には鉄塔が建っており、郭跡に多少の地形改変はあったとは思われるが、ほぼ削平地を転用したものの様にも見受けられる。主郭より西側斜面は土橋付き堀切を以って分断された形となっているが、これより中腹の小社までは斜面のみの地形となっている。

誉田城跡から西城、そしてこの山城と三城を同日訪ねた訳だが、この城塞群は竹田まで抜ける大きな街道からも相当外れた奥地に位置しており、当時の事情により敢えてこの様な場所を選択して築かれた様にも窺える、それにしても三城が独立しているとは言え、恐るべし城塞群である。この山城より西側の山上までは踏破はしていないが、恐らく山上に至るまでには郭の展開はあって然るべきだと思われる。

城跡を個人的に評価するのであれば、鉄塔の建つ郭跡以外はほぼ当時のままとも見受けられ、遺構残存度の高い城跡なので誉田城跡を訪れた際には、是非此方の山城にも立ち寄って頂きたいと思わせる城跡という事になる。

3 仮)上鴨阪城塞群概念図

3kami 城跡概念図

5tozanguti 登山口

14_horikiri_dobasi 東側土橋付き堀切見所

16_3maru 三の丸

19_2maru_yori_3maru_gawa 三の丸より主郭側

20_2maru_yori_shukaku 二の丸土塁壇より主郭切岸見所

23_shukaku 主郭

24_shukaku_nisigawa_1 主郭西側

26_horikiri_dobasi_1 西側土橋付き堀切

誉田西城(兵庫県丹波市)

 先にリポート掲載に及んだ誉田城跡を仮に本城とすれば、堀切を挟んで西山上に位置する此方の城跡は、便宜上両者を区別する為に誉田西城跡として載せたが、実際にどちらが先に成立したものであるのか、あるいは誉田城跡の一城別郭として本来から成立していたものなのかは、現状では知る術も無い処である。

個人的に全体を見て回った結果としての判断では、山上に位置する西城の方が規模は勝ると思うが、堀切(二箇所のみ)の埋もれ方、利便性(高所に位置する)、技巧を用いない縄張りなどから先に成立したものと解釈したが、仮に両城併せた郭占有面積は非常に大きく、本城東端から西城西端までの城域は楽に1km近くには達するものと思われる。

西城跡へは本城西端の堀切から、そのまま急斜面を山上まで登り切れば10分内で到達出来るが、山上は起伏の少ない平坦地形であり、その尾根上は満遍なく郭群で埋め尽くされている。東西の両端に広大な郭が配されており、それを連結させる尾根上には風化の為に分かり難いが、段差の見て取れる郭群が無数に形成されている。技巧さは無いが山城の醍醐味は充分に感じられるものである。現状(11月)、状態も良いので山上における縄張りも掴みやすく、遺構としては陸上競技の行えそうな広い郭跡、土塁(櫓台)、堀切だけである(縦堀は確認出来なかった)が、此方の西城も充分見学に値する城跡だと思われる。

3nisi 城跡概念図

5_kiritoosi_3 上り口となる堀切

9_higasi_kaku_2 山上東郭

12_horikiri 埋もれた堀切

15_naka_kaku_gun 中郭群

17_nisi_kaku 山上西郭

20_yaguradai 山上西郭の櫓台土塁

2008年11月26日 (水)

誉田城跡(兵庫県丹波市)

 兵庫県丹波市市島町上鴨阪にあって、集落中央を流れる川の北西から東へ繋がる尾根上東先端までが城跡。別名、余田城跡とも呼ばれ、かつては余田氏の居城と伝わる。

城跡へは国道175号を篠山方面から北上する場合、市島町「八日市」の信号で282号へ左折し、ルート図の如くそのまま登山口となる宗福寺を目指せば難なく辿り着ける。寺院からは広い集合墓地の最奥最上段の墓地から山上までは、鉄塔巡視道が通じているので、それを利用すれば10分内で西側斜面に二重堀切を構えた、削平地である分岐地点に到達出来る。それより右に向えば鉄塔の建つ削平地(郭跡)を通過して誉田本郭群を目指す事が出来る。

現状(11月)城跡は植林地ともなっており、鉄塔の建つ削平地周辺以外は非常に状態が良く、現存する全ての遺構は判別確認可能な状態にある。縄張りとしては西から東まで堀切を挟みながら、郭を直線的に並べた単純な構造であるが、それぞれの郭規模は大きく、城域は東西尾根上に跨り全長400mに達するほどのものである。最大の見所は城跡全体における切岸を含む郭跡の状態の良さであり、郭壁面には下草も木立も少ない事から、まるで当時の削られたままの切岸が甦った様にも見受けられる、技巧さには少し欠けて全体的には大きいだけで大味な城跡ではあるが、この状態の良さが全てを消し去ってくれている。もちろん風化によって堀切などは少々埋もれてはいるが、当時に思いを馳せる事も容易であり、それほど当時の状態に近いと思える城跡なのである。

この城跡に遺された美しい郭切岸は、他では中々御目にかかれないものでもあり、一見の価値のあるものとみた!

尚、寺院側から上った山上分岐地点から左側に向いて移動した斜面には前述の二重堀切が遺されており、更に下ると大堀切(堀切道)が設けられている。一番低地となるここを越えて更に西側急斜面を登り切ると、ここでは便宜上誉田西城とするが、西山上にも広大な郭群が展開されている。西城のリポートは次で掲載の予定。

1route_2 登城ルート図

3yo 城跡概念図

14_sizenkaku_yori_3maru_heki_1 西削平地より三の丸切岸

16_3maru 三の丸奥土塁

20_3maru_yori_shukaku_gawa_1 三の丸より二の丸切岸見所

22_horikiri_heki_1 二の丸西堀切

23_2maru_yori_3maru 三の丸

24_2maru_yori_shukaku_heki 二の丸より主郭切岸見所

25_shukaku_1 主郭

37_bunki_nisi_2jyuu_horikiri 西端の二重堀切見所

2008年11月25日 (火)

田原城跡(大阪府四條畷市)

大阪府四條畷市上田原にあって、この地区を東西に流れる二つの川の合流地点から西側にある丘陵上が城跡、田原氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは国道168号から一般道701号へ進路変更、後はルート図の如く進み、月泉寺を過ぎれば川沿いの左手丘陵上部に田原城跡の看板が眼に留まるので、位置は直ぐ確認する事が出来る。更に川沿いを西に歩けば小さな小橋があるのでそれを渡れば直ぐに城域となる。

現状(11月)城跡のほとんどは竹林地及び雑木藪と化しているが、東西を分断する大堀切より東側にある主郭、二の丸はましな状態にある。反面西側は相当藪化も進行しており一部の郭跡は草木で覆われ、踏み入る隙間もない状況である。しかし複雑な遺構あるいは複雑な郭形状ではないので、縄張り全体像を掴むのは案外容易くなっている。

城跡は外見から判断するよりも意外に規模は大きく、山上は無駄なく郭群で占拠されており、判別確認出来る遺構としては郭跡、土塁、堀切、切岸跡などで大堀切などは深さもあり、残存状態も良い事から当時に近い状態を拝む事が出来る。縄張りも丘陵上限られた範囲の中で精一杯複雑に構成されており、中々楽しませてくれるが、現在の南側における農作地も、更に民家側も縄張りとして取り込んでいた様にも窺われる。西側は近年の宅地造成の為に削られた感があり、郭跡は一部消失している可能性はある。丘陵地である分、防御機能として全体的に郭切岸は高く、城跡の南北は天然の水堀(川)で守られており、戦国期の城跡らしく堅固さを前面に押し出した縄張りプランの様に見受けられる。

住宅地の中に位置することからも、残存遺構には余り期待はしていなかったが、残存度は意外に高く、更に遺構の見応えもある事から個人的には充分推奨に値する城跡の一つと言える。

1_1 登城ルート

5_shukaku_enbou_1 城跡遠望

3 城跡概念図

7 城跡進入口

20_doruikaku_karabori_2 主郭西下空堀見所

21_shukaku_sita_horikiri 主郭南側大堀切見所

28_2maru_3 二の丸

30_shukaku_kita_hasi_1 主郭

32_shukaku_dorui_1 主郭内の土塁

39_3maru 西三の丸

小川城跡(奈良県吉野郡)

奈良県吉野郡東吉野村にあって、村中心部に位置する村役場の真南に聳える一際高い山(標高410m)の山上が城跡、小川氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは京阪神側から向うのであれば、国道370号から県道16号に乗り継ぐか、あるいは国道166号から県道16号に乗り継ぐかの二通りの行き方しかなく、中々ルートの選択も限定される、山深き辺境の地に車を向けなければならない。しかし村役場だけを目指し、県道16号さえ走っておれば容易に登山口までは到達出来る。役場到着後は道路を隔てた真南側山裾の民家が密集する辺りに、新設された山上まで上れる神社参拝登山道があるので、それを利用すれば迷うことなく20分内で山上主郭までは辿り着ける。

現状(三月)城跡は神社敷地となっているので整備もされており、残存状態も良く、遺構も判別確認し易く、非常に見て回りやすい状態にある。社殿の建立されている本郭は非常に整備されており、近世に置いてどれだけ地形改変があったのかは想像するしかないが、虎口跡を形成する石垣などは非常に積み方に古さも感じられ、当時のままの遺構である様に目には映った。

見所は本郭群の南北間に設けられた四本の土橋を伴う堀切と、南側尾根に沿って歩き一旦ピーク(物見か)を越えて降りた場所に位置する、屋敷跡の周囲を遮る形の長い連続する空堀、あるいは付随する土塁である。空堀は当時どの様な機能で使用されたのか見当も付かないが、当時は相当深く掘り下げられていたと解釈すれば本来の防御施設と言ったことになるが、現状では生活手段としての溝に見えなくもない。しかしどちらにしても当時を物語る遺構である事は確かである。個人的にも偶然南尾根まで立ち寄ったお陰でこの遺構群にお目にかかる事が出来たが、山上郭群だけで下山すればうっかり見逃すところであった。

城跡を個人的に評価すれば縄張り妙味には期待出来ないが、全体的に残存状態も良く、更に遺構残存度も高いので、四季を問わず何時でも訪問出来そうに思える、推奨出来る山城の一つと言えよう。

1route_2 登城ルート

3_4 城跡概念図

14_dorui_koguti 北端から主郭側

17_tatebori 北二本目の堀切見所

20_2maru 二の丸

23_2maru_nai_dorui_horikiri_1 二の丸内の土塁堀切

26_shukaku_koguti 主郭虎口

35_shukaku_nai 主郭最高所

44_minamikaku_horikiri 南堀切土橋見所

48_karabori_dorui 南屋敷跡の土塁空堀見所

尚、ルート図に示す様に川沿いを南西側に数分走れば小川古城もある事から、ついでに寄れば同日訪問も可能であり、小規模な城跡だが背後には素晴らしい堀切遺構も残っているので、見ておいても時間の無駄にはならないと思われる。

3_5 小川古城概念図

4_mon 城跡碑進入口

14_shukaku_haigo 大堀切見所

2008年11月24日 (月)

浅井 木原氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市上野予野にあって、先にリポート掲載に及んだ杉山氏城とは目と鼻の先の距離にある。立正寺を目指せば直ぐ辿り着く事が出来、向の池傍から公民館敷地内を通過して、そのまま堀切を越えれば木原城跡、更に土塁堀切を越えれば浅井城跡に到達出来る。

城跡の形態としては両者が連結してはいるが、土塁と二重の堀切を挟んで独立した構造となっており、深い堀切(空堀)、櫓台も兼ねたと思われる分厚い高さのある大土塁が、両者に共通する最大の見所遺構ともなっている。規模は木原城の方が大きく、より堅固であり土塁もより高く、周囲を取り囲む空堀などの深さにもそれが顕著に表れている。現状(12月)とは言え、城跡の全域にかけて覆われる竹林、雑木藪の為に視認もし辛く、動き回って遺構は判別確認しなければいけない状態になっているが、肝心の空堀、土塁などは明確に判別出来るもので、城跡の見所を損なう状況までには達してはいない。

城跡の南側のフェンスから先はいきなり崖状に削られた形跡があり、現在では住宅敷地となっているが、どこまで宅地造成による地形改変があったのかは想像に任せるしかなく、当時の縄張り規模も推察するのみの状況となっている。基本的には連郭式方形居館跡なので、其の周囲における遺構がある程度明確に把握出来ただけでもマシかも知れないが、、 残存状態は決して良いとは言えないが、予想を上回る遺構の醍醐味に酔いしれる事は出来た城跡ではある。

1z 登城ルート

3 城跡概念図

4 南より遠望

11_kihara_dorui_yori_nisikarabori_1 木原東側の大堀切見所

13_kihara_nai_1 木原主郭内部

15_daidorui_yagura_2 木原櫓台土塁

17_kihara_nai_dorui_heki 木原の高い土塁見所

21_karabori 木原北側の空堀

24_asai_kita_karabori 浅井北側の空堀見所

20_asai_e 浅井へ土塁道

33_asai_nai_1 浅井主郭内部

2008年11月23日 (日)

東中城跡(兵庫県丹波市)

 兵庫県丹波市春日町東中にあって、既にリポート掲載済である赤井氏一族の居城「三尾山城」から見れば、別山尾根の北西麓に位置している丘城であり、城跡からは険峻な山容を誇る三尾山が直ぐそこに望める位置にある。黒井城主である荻野(赤井)氏の家臣である河津氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは篠山方面から向う場合、国道176号あるいは175号を走り、県道69号に進入する事が先決となる、県道を東から西に向いて走れば、「東中バス停」傍の石碑のある場所から南下して八幡宮を目指す、車はこの付近に駐車出来るのでここからは池の堤防に沿ってルート図の如く歩けば、自ずと城跡までは5分もあれば到達出来る。

城跡は南北に細長く、全長100m程度の小規模なものであるが、技巧さも伴う遺構がこの中には凝縮しており、当時が甦るかのように残存状態が良く、更に手付かずの遺構は残存度も非常に高い見受けられる。丘城なので切岸も高く迫力があり、空堀から虎口跡、縦堀、土塁に至るまで、見所も満載の素晴らしい様相を呈している城跡である。南端に櫓台土塁の備わった主郭は規模も大きく、50m陸上競技が楽に行えそうでもあり、小規模には余り感じさせないものがある。三尾山城から覗けば北西側の麓真下にあり、形態及び機能あるいは規模においても砦程度の城跡なのであろうが、実際に城跡を目の当たりにしてみれば、全体像がある程度窺えるだけに、予想以上に見応え並びに迫力を感じ取る事が出来る。

丹波にはまだまだこの様に状態の良い、隠れた城跡が残っているとは驚きでもあり、個人的に城跡を評価すれば、期待は絶対に裏切られる事は無いと断言出来るので、まだ未訪の方は是非訪問して、砦規模ではあるがその中に凝縮された遺構の醍醐味を味わって頂きたいと思う、正に推奨に値する城跡である!

1route 登城ルート

4_2 城跡遠望

3higasi 城跡概念図

10_minami_gawa 城跡南端より主郭切岸

16_tatebori_e_1 17_higasi_tatebori_dorui_1 南堀切より縦堀へ見所

21_shukaku_minamigawa_1 主郭

25_kita1_yori_shukaku_heki_1 主郭北側切岸見所

31_nisi_koguti 西虎口見所

25_yagura_yori_kita1 北郭

30_karabori_dorui_1 西虎口下の空堀土塁見所

2008年11月22日 (土)

田能城跡(大阪府高槻市)

 大阪府高槻市田能にあって、桂香寺の北背後に聳える標高478m(比高140m)の山の山上が城跡、城史に関しての詳細は不明。

城跡へは阪神側から向う場合は国道171号に進入する事が先決、その後は枚方亀岡線6号へ乗り継ぎ、そのまま道任せで北上を続け、田能集落に入れば樫田郵便局で分岐点となる733号に左折針路変更、そのまま少し走れば直登口として選んだ桂香寺への道が見えてくる。車は案外周辺を探せば路駐出来るので、後は図に示す寺院上り道の右手に見える民家の間から取り付き、そのまま踏み跡を辿りひたすら山上を目指せば、25分程度で最高所に位置する主郭までは辿り着ける。

山上に到達するまでには異様に広い傾斜面が延々と続き、明らかに削平地と見受けられる郭跡がある場所から、かなり主郭に近付いている事は分かる。現状、直登道中においては枯れ枝は多く地表は相当荒れているが、木々も生い茂っている訳でもなく、藪漕ぎが無い分には案外楽に登れる。山上郭群はほぼ三郭で形成されるシンプルな縄張りであり、現状相当荒れ放題ではあるが、ある程度見通しも良いので空堀土塁跡、縦堀、虎口跡と少ない遺構ではあるが、判別確認は可能な状態にある。古い形態の山城と見受けられ、技巧的な遺構には期待出来ず、見る限りではこの山城が戦国期まで機能していた様にはとても思えないものである。真南側に少し下りれば雑木藪の中に広大な削平地が存在するが、かつての居館跡か、あるいは馬場跡とも想像出来そうである。

城跡に見応えのある遺構はないが、山上に到達するまでに膨らむ期待感、あるいは探索する事の楽しみは、山城でなければ決して味わえないものでもあり、この城跡もそれを感じる事が出来る山城の一つである。

1route_2 登城ルート

4enbou 南東側より遠望

10_sinnyuuro 進入口

3 城跡概念図

14_nanntou_kaku_1 南東郭

16_minami_gedan 主郭切岸

21_shukaku 主郭

23_shukaku_yori_kitakaku 主郭より北帯郭

26_nisi_obi_karabori_1 主郭西側の空堀土塁跡

30_kita_heki 北郭と北側切岸急斜面

2008年11月21日 (金)

一庫(山下城出郭)城跡 (兵庫県川西市)

兵庫県川西市山下にあって、本城である山下城の出城でもあるが文献によれば先にこちらが成立していた模様、本城とは北西側に谷を挟んだ向山の山上、現在国道が通るトンネルの真上に城跡は位置する。塩川氏の居城であるがこの塩川氏については戦国期に置いてはかなりの活躍が窺われ、この地方においては能勢氏との二大勢力として君臨していた模様。

城跡へは大阪市内側から北上する場合は国道173号を道に任せて進行、山下町に入ればトンネルを抜けて次の信号「井補野」で左折、そのまま走れば一庫ダムの方角川沿いに「かに工房」が目に留まるのでそちらの道に針路変更し、更にルート図の如く橋を渡れば公園駐車場に到達出来る。ここからは南側の直登口となる川沿いの小屋まで歩き、その背後より斜面に取り付けば、トンネルを右手に見ながら多少の藪漕ぎはあるが15分内で山上には到達出来る。

現状(四月)山上郭は自然任せの荒れ放題ではあるが、冬枯れ後のせいか枯れ木も多く遺構の判別確認は容易な状態にある、ただし夏場は雑木に葉も生い茂ると思われるので見通しも悪くなり移動にも難渋すると思われる、出来るなら夏場の訪問は避けたほうが賢明である。 (城跡の訪問リポートに関しては概念図に付記

Hit 登城ルート

4_2  城跡遠望

3h 城跡概念図

9_toutatu_dorui 山上主郭の切岸

13_shukaku_nai_1 主郭

11 主郭周囲の土塁

12_shukaku_nai_yokoya 主郭土塁の横矢見所

17_dai_karabori 17_dai_karabori_3 大空堀見所

坂本城跡(兵庫県西脇市)

兵庫県西脇市坂本にあって、西林寺の西背後に聳える標高260mの山の山上が城跡。城史に関しての詳細は不明

城跡へは滝野社ICより国道175号を北上し、アジサイ寺で有名な西林寺あるいは西脇公園を目指せば、後はルートー図の如く登山口までは容易に到達出来る。麓西林寺敷地内奥にも、かつての屋敷跡あるいは居館跡らしき土塁、郭跡がそのままの状態で残存している様に見受けられ、見ておいても時間の無駄にはならないと思える。ただ寺院である為に後世においてどれだけの改変があったのかは見当が付かない。個人的にはこれらを当時の遺構と判断したが、後は見る者の想像力に委ねられる。

本来の山城はルート図に示す様に、駐車場の道を隔てた場所にある登山口から登山道に従えば難なく山上主郭にある展望デッキまで辿り着ける、登山道も歩き易く木々に遮られる事も無く、爽快な気分で山歩きも楽しめて、眺望も素晴らしいので疲れを知らずに見て回る事が出来る。上郭は単郭で規模も小さく、物見かあるいは狼煙台程度の規模である、南壁には草木に隠れてはいるが石垣痕も残っているので注意して確認する必要がある。更に一旦下って上る形になるが、南尾根に沿って登山道を歩けば鉄塔の見える場所も郭跡である事が分かる。もちろん此方も規模は小さいが南側を監視するには打って付けの場所の様にも思える。

城跡だけを採り上げると、非常に小規模で、とても見応えを感じるほどでのものではない。しかし低山ではあるが山城の持つ険峻さも直接味わう事が出来、山歩きも楽しめて個人的には満足のいく訪城となったが、、 (この山城は遺構に期待して登っては絶対にいけない!)

1_260m 登城ルート

4 遠望

3_1x 城跡概念図

2_1 現地案内板より

7_tozandou 登山道より山上側

11_kita_gedan_yori_shukaku 北下段より主郭

15_shukaku_nai 山上主郭

17_shukaku_minami_isi_1 南壁の石垣痕

20_shukaku_yori_higasikaku_1 主郭より東公園側

40_yakata_6 西林寺内の郭跡

2008年11月20日 (木)

金屋城跡(京都府与謝郡)

この城跡は加悦町付近を車で走っている最中に、偶然案内板が眼に留まり訪れたもので、山城としてよりもその中腹に展開される城郭寺院の様にも見受けられる三縁寺廃寺の残存遺構の素晴らしさ惹かれ、その訪問結果をお知らせすべく掲載に及んだものである。山城の方は有吉(加悦)城の支城でもあり、家臣である赤野氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡は与謝野町加悦、金屋にあって、国道176号よりルート図の如く西側に進行、山裾を南北に走る道路に突き当たれば、道路沿いにほどなく写真の様な案内板が眼に留まるので、そこから西側の墓地に向い、山道任せで三縁寺廃寺を経由して新設されたかの様な未舗装林道を上って行けば、標高358mの山上郭までは迷わず辿り着く事が出来る。個人的には麓から歩いて上ったが、廃寺の遺構も見学しながらの山登りになったので、たっぷり一時間の道程になった(廃寺からは20分)。トルクの太い車であれば山上までは上れそうにも思えたが、、、

現状(10月)金屋城山上郭は、上る前に地元の方に訪ね聞いた情報通りに、自然任せの荒れ放題となっており、雑木はまだしも矢笹が山上全域に渡り密生しており、地表も見えないので郭跡も確認出来ない状態にある、尾根上に残る僅かな堀切跡を判別確認出来たが、郭跡と見受けられる平坦地には足も踏み入れられない状況でもある。唯一郭跡における切岸は外見から窺う事は出来たが、全体像も掴めないまま(外見から判断するには砦規模の古い形態の山城で三郭構造か?)に下山する運びとなった、ただ納得出来ないのは本当にこの程度の小規模な城跡であるのかどうかで、真相がはっきりしないまま帰途に着いたものの、未だに気持ちの整理が付かないでいる。

しかし上る途中で拝む事が出来た三縁寺廃寺の遺構には度肝を抜かれた、これは戦国期の山城そのもの形態をしており、唖然とするばかりである。城域も郭規模も相当大きく、縄張りの中には縦堀、堀切、高い切岸、土塁、土塁虎口、石垣跡と言った具合に山城を形成する技巧的な遺構は全て含まれている。これでは山上郭は単なる詰城あるいは物見郭の用しか成さない様にも見受けられる、室町期の寺院遺構と案内板にはあったが、廃寺と知らなければ、先進性も兼ね備えた巨大な山城跡の様でもあり区別は付かない。恐らく戦国期も城郭寺院として更に改修を重ね、より堅固にされたものと考えられるが、縄張りも相当複雑な上に城域も広いので、今回は見て回る時間に余裕も無く、最後まで全体像が掴み切れず、概念図さえも描き切る事が出来なかった。

廃寺とは名ばかりで、そこらの山城よりも遥かに技巧的にも優れ、見応えも醍醐味も兼ね備えたこの三縁廃寺には、山城賛歌を贈りたい気分である。個人的には廃寺ではあるが、山城として推奨出来る物件の一つである。

1route1 登城ルート

226 登山口の案内板

Sanjyou_kuruwa_gun_6 金屋城山上郭の切岸

Sanjyou_nantan_kaku_3 山上南端郭(物見か?)

Sanjyou_nantan_kaku 南端郭の笹に埋もれた堀切跡

Sanjyou_kuruwa_gun_11

山上郭の移動尾根道

235_2

三縁廃寺跡の郭壁の石垣跡

248 三縁廃寺跡の石垣跡

284 三縁廃寺跡の郭跡

253 三縁廃寺跡の上り虎口跡

Atago 金屋城登山口からルート図の如く、北へ車で数分の距離にある、愛宕神社そのものが砦跡と見受けられるが、城跡の呼称に関しての情報が入って来ず、文献にて現在調査中でもあり現時点に置いては素性は謎の城跡。恐らく金屋城塞群の一翼となる砦跡とは思われるが、、、

Atago_2 山上郭虎口(現在は社殿がある)虎口を形成する巨石の矢穴跡に注目

Atago_1

山上社殿背後の大堀切見所

22_sannjyou_kaku 山上郭

2008年11月19日 (水)

坂井城跡(京都府船井郡)

 この城跡に関しては情報は無きに等しく、地図上でそれとなくめぼしき辺りに探りを入れていた処、丁度タイミング良く、和田城跡の訪問リポートでもコメントを頂いたS氏より、場所を特定する情報を提供して頂く事が出来、やっと訪問が叶い今回の現況報告となった訳である。

城跡は京都府船井郡京丹波町坂井にあって、和田城跡からは4km西へ移動した距離にあり、京阪神側から国道173号を北上した場合、角にローソンのある国道9号「和田」で左折、そのまま道任せに進み、井尻の信号を超えて「坂井」バス停に到達する手前の左の山が城跡にあたる。城跡へはバス停数十m手前の民家を目印とすれば、周辺どこからでも取り付き上れるが、一番分かり易いのは、民家背後の傾斜面を直接ルート図に示す様に上る方法で、これなら東削平地(郭跡と判断)から尾根沿いに上り、15分もあれば山上主郭までは辿り着く事が出来る。

現状(11月)城跡は藪化も風化も進んでおり、木々によって見通しは悪く、郭内も荒れ放題となっている。しかし移動に難渋する程の事は無く、ほぼ三郭で形成されるシンプルな構造である為、更に複雑な遺構も現存していないので、縄張りを把握するのは容易な状態と言える。城跡は余りにも普通過ぎて見所を探すのには苦労するが、強いて挙げれば山上郭群の外壁となる、切り立った切岸と言った処で、低山でありながら山上は非常に急峻で、切岸が下まで落ち込む様は中々迫力はある。恐らく地元の人も知らないと思われる楚々とした山城であるが、こうして自然風化されるがまま数百年の時を経てきたかと思うと、非常に感慨深いものがある。

山城巡りをする上で頻繁に使用する、国道9号線沿いの瑞穂地区には、東は豊田城から始まり橋爪、和田、井尻、鎌谷そして今回の坂井城と、小規模ではあるが本格的に築かれた城跡が数多く存在しており、非常に眼を楽しませてくれる。まだまだ歴史からも遠ざけられた城跡がこの辺りには密かに眠っている気もしないでもなく、これからも期待の持てる地域ではある。

1route1 登城ルート

5_1 城跡進入路

3sakai 城跡概念図

8_higasi_sizen_kaku 東郭(削平地)

13_nisi_yori_shukaku_heki 西郭より主郭切岸

15_nisi_2 西郭2

18_nisi_horikiri_2 18_nisi_horikiri_1 西側の堀切

最後に、情報を提供して頂いたS氏には非常に感謝しております、これからも良い物件があれば情報提供の程、よろしくお願い致します。

2008年11月18日 (火)

三木鷹ノ尾城跡(兵庫県三木市)

兵庫県三木市上の丸町にあって本城となる三木城は秀吉に最後まで抵抗を試みた別所氏の城跡として余りにも有名。この鷹ノ尾城跡は一族が守備していた宮ノ上要害と並んで、広大な城域を持つ三木城塞群の一翼を担う詰城的な山城と見受けられる。

城跡へは神戸電鉄三木栗生線の三木上の丸駅を目指せば分かり易く、車なら県道38号の「上の丸」の信号東側の道よりルート図の如く高架下を潜ればそのまま城跡公園駐車場へと辿り着く事が出来る。三木城跡に寄らず直接現地を目指すのであれば市役所あるいは体育館を目指せば更に歩く距離は殆んど無きに等しく、体育館南側からは直ぐ城跡となっている(実際には勤労体育センターの西側土塁を越えれば直ぐ空堀となる)

現状では主郭周辺は市役所、体育館などの建物が立ち並んでおり、相当な地形改変が窺え当時の縄張りは想像も付き難いが、山上主郭周りの遺構に限ってはほぼ当時の姿のままの様には見受けられる。主郭には櫓台土塁、周囲には空堀土塁、縦堀などの遺構がそのまま残存しており城跡の一部とは言え醍醐味は感じられる。ここから更に大駐車場を挟んだ南側には宮ノ上要害があったとされているが、現在では山上全域を水道施設が占めており面影を残す遺構は何も無いようである。

個人的には郭跡及び井戸跡のみ残る三木城本丸から歩いて周辺住宅地を通り、当時の縄張りを想像しながら鷹ノ尾城跡を経て宮ノ上要害のあった山上まで足を延ばしたのだが、改めて広大な城域を持つ三木城塞群の凄さを感じ取る事に繋がった。

1 登城ルート

24nawa_1a 城跡概念図

28_dankaku 北側の小郭

34_gedan_obi 主郭下段

35_shukaku_dorui 主郭内の土塁

40_karabori_dorui 南側空堀土塁

55_yougai_sanjyou_3 宮ノ上要害山上

53_kaku_hasi 要害西側の平地、郭跡か

田野城跡(兵庫県姫路市)

兵庫県姫路市香寺町田野にあって、南北朝期において赤松氏の旗下であった堀氏の築城と登山口案内板には載っている。

城跡へは山陽自動車道から北上した場合、国道312号を通り、須加院川(川沿いに走っても良いが)を越えて少し走り西側に左折するが、案外説明し難い場所にあるのでルート図を参考にして頂きたい。登山口となる道路沿いには案内板もあり(駐車スペース有)そこからは登山道も山上までは通じているので迷わずに辿り着けるが、案内板にある「西側500m先の山」は直線距離であり、実際に歩けば一山は越えて行くので途中にある出郭跡も覗いて行けば、山上までは30分は掛かると思われる。

現状、冬季(12月)と言う事もあって登山道から山上主郭間は下草も少なく快適に辿り着けるが、城跡は山上を削平された規模の小さい二郭で形成されたもの、その手前の尾根上に細長い郭跡が付随している程度で、詰城あるいは監視機能としての山城としか見受けられない様に感じられる。西郭から北及び南枝尾根は移動(崖状急斜面)に危険が伴いそうなので踏破は出来なかったが、案外この一帯に広い郭跡が展開されていたのかも知れない。地形図から察しても主郭を中心にして四方に枝尾根があり、個人的にはこれだけで終わる城跡とは思えないので再チャレンジの必要性を強く感じた。

1route 登城ルート

1z 城跡概念図

2_1 登山口の池より城跡遠望

3_ooisi_koguti 登山道の大石

5 東出郭

11_higasi_kaku 東郭

13_shukaku_nai 主郭

14_2maru 西郭

16_2maru_sita_obi 西郭下段

2008年11月17日 (月)

浅瀬山城跡(兵庫県佐用郡)

兵庫県佐用郡佐用町下秋里にあってJR久崎駅より川を隔てて真西側に聳える山の山上が城跡、赤松一族の城跡と伝わるが詳細は不明。

城跡へは国道373号と一般道368号の交わる久崎三叉路の北側数10mにある橋を西に渡り、川沿いに北へ向いて走ると広い笹ヶ丘公園に到達する。そこから案内板に従えば登山遊歩道で山上展望台まで辿り着く事が出来るが、整備された登山道とは言え九十九折りとなっているので、比高200m以上を上りきるには約30~40分程度は費やしてしまう(意外に距離がある)。

現状(12月)城跡は若干冬枯れしているので見通しは利くが、山上全域が密生する笹藪で覆われており、郭内に踏み入る余地は無い状態となっている。最高所である主郭展望所の一部だけが伐採してあるが、他の郭跡は形状すら視認出来ず、外見からおよその判断を下すしか出来ない状態でもある。それでも東側にある二郭においては郭南壁面に最大幅数10mに渡る石垣跡を確認する事は出来たが、これが今回の山城訪問における最大の収穫となった。山上郭群は笹藪を外見から判断する限りでは、郭間に高低差は余り取られておらず、七郭を並べただけで形成している様に見受けられた。恐らく郭間に堀切はあったであろうとは思われるが確認は不可能。地形図から推察出来るように主郭南西尾根あるいは北尾根にも郭跡の展開は予想されるが、この状態では踏み入ることは不可能でもあり踏破は断念するに至る。

1route 登城ルート

2a 城跡概念図

11_minami3maru 東郭群

14_3maru_nisi_sekiretu 18 東郭群の石垣跡見所

22_2maru 二の丸に相当か

20_2maru_nai 郭内

25_shukaku 主郭展望所

28_shukaku_yori_2maru 展望台より二の丸側

上月城跡(兵庫県佐用郡)

兵庫県佐用郡佐用町下上月にあってJR上月駅の南方500mに聳える山の山上が城跡、この城跡での毛利を相手にした山中鹿之助の活躍は史上余りにも有名である。

城跡へは国道373号を走り、ルート図の如く上月で西側に少し入れば大駐車場のある登山口までは分かり易く辿り着け、ここからは登山遊歩道により山上主郭までは15分程度で到達可能である。

現状(12月)城跡の郭内は落葉は多く、短い下草も蔓延ってはいるが見通しも利き、中々歩きやすく見て回りやすい状態にある。これと言った見所のある城跡では無いのだが残存状態が良いので縄張りは非常に掴み易く、当時に思いを馳せる事も容易に出来る。城跡に技巧さを求めるのであれば期待外れに終わる事は必至であるが、この山城の醸し出す雰囲気、あるいは佇まいは格別なものがある様に感じられる。偶然ではあるが今回の訪問では山城全域が朝霧に包まれて幽玄の世界を醸し出し、素晴らしいロケーションと相俟って山城をより一層引き立たせており、このどこにでもある様な平凡な山城が逆に、より素晴らしいものに感じられるから不思議である。

尚、城跡の東側の山裾(民家の畑周辺)には当時の遺構かどうかは判別不能であるが、石組み井戸跡あるいは石垣跡が多く窺われる。

浅瀬山城跡へはここから南側へ車で数分の距離でもあり、二城同日訪問すれば効率よく見て回れると思われる。

1route_2 登城ルート

5 東より遠望

7_tozankuti 登山口

3_2 案内説明板の縄張り図

10_horikiri_nozoku 北東側堀切

18_2 郭四

21_2marunai 二の丸

22_3maru_sita_horikiri 三の丸西の堀切

30_fumoto_isi 麓民家横の石垣と古い井戸

2008年11月16日 (日)

仁木城跡(兵庫県篠山市)

 この城跡へは昨年一度、寺院から南尾根を直線的に伝う直登ルートを描いて上ったが、山頂を前にして夕暮れとなり、危険と判断して断腸の思いで下山した記憶がある。今回は別の直登ルートを想定して上ったが、結論から先に述べると山上主郭(仁入道山 標高546m)へ到達するまでに、明らかに遺構として判別可能である尾根上に点在する削平地、土橋、大堀切(縦堀)、土塁虎口、空堀道を確認する事が出来た。前回の南側直登ルートでは、山頂までに規模の大きい削平地を数箇所で窺う事が出来たが、堀切などの技巧を伴う遺構は見つけられなかったので、それから思えば今回は明確な遺構にも巡り合え、別ルートで遠回りに上った甲斐はあった。

城跡は篠山市福住にあって既にリポート掲載済である籾井城からは程近く、国道173号沿いにある如来寺を目指せば寺院までは分かり易く辿り着ける。登山口としては初回登山時に選んだ直登ルートが下山時においては中々元のルートで引き返すのが難しい事も分かり、今回はルート図に示す寺院より数十m北側にある民家先に、国道から直接進入出来る山道があるので、そこから山裾をかすめて砂防ダムまで向う、そこを少し過ぎれば非常に急勾配ではあるが、直線的に尾根まで上れる山道があるのでそれを利用して一気に先端尾根まで上る。少し遠回りにはなるが西側から南尾根上を伝い、尾根上に点在する縄張りの一部でもある削平地、あるいは前述の遺構群も確認しながら山上まで向えば、約50分で山上主郭までは到達出来る。これなら踏み跡も少し残っているルートなので、要所に自分なりの目印を付けて上れば、下山時も迷わず同じルートで戻れる筈である(距離があるので絶対に要所の目印は必要!)。

山上郭群は古い形態の山城跡とみえて、切岸処理の見られない単なる削平地跡でもあり、現状では限りなく自然地形に近いもので、道中に点在する削平地の方が余程郭跡らしく見えた、ここが城跡の最高所にあたる主郭とはおよそ思えないものでもある。しかしこれだけの高所に築き、ここに行き着くまでには無数の郭で防備されており、当時においてはこの程度の縄張りプランでも良かったのかもしれないが、、 

城跡最大の見所は山上に行き着くまでの長い直線的な土橋(両サイドは崖状急斜面)、更にそこから大堀切を通過して、直角に折れ曲がる上り土塁虎口に至るまでの遺構で、これらは他に見るべきものの無い城跡にとっては、一番迫力も伴う見応えのある遺構群だと言えるものである。結果的にはこれだけの為に時間を割いて上った事にはなったが、個人的には念願であった城跡全体像をほぼ掴む事も出来、更に古い形態の山城を肌で味わう事も出来、非常に満足の行く訪城と言えるものになった。

1route 登城ルート

5 寺院前にある説明版より

3niki 城跡概念図

12_kitahasi_30m_kaku_1 尾根北端の郭跡

19_dobasi_2 長い土橋見所

20_dai_tatebori_1 土橋から片堀切へ

24_dai_horikiri 大堀切見所

27_ore_koguti 横矢を伴う土塁虎口見所

30_sanjyou_kuruwa_gun 山上郭群

尚、ルート図に示す緑色の部分は個人的に郭跡と判断した削平地であるが、見る者によっては違って目に映るかもしれない。紫色の直登ルートは最短距離ではあるが(山頂到達手前までは30分)、下山時に自分の体験からルートを外れる危険性が高いので余りお薦め出来ない。山上に到達するまでは距離も相当あり、城跡としての遺構も少ないので最初から多くの期待は捨てて臨めば、意外に満足感は得られる山城と言える。案内板には仁木少輔入道が拠った城跡と付記されてあったが、かつての丹波守護であり壮大な山城を築いた、高見城主仁木氏との関係まで調べるには至ってはいない。しかしあの高見城跡とは規模及び完成度でも遥かに劣っており、比べるレベルには無いので過度な期待は禁物。

2008年11月15日 (土)

白ゴウ寺城跡(兵庫県丹波市)

先に、この城跡に関しては戦国期において僧が立て篭もった城跡とだけは想像が付くが、現状文献などで調べてはいるが、まだ名称及び詳細が分からぬままなので、今回のリポート掲載に置いては便宜上(仮)白ゴウ寺城とさせて頂く。ただ城跡遺構としては北山上に社殿が建立されてはいるが、ほぼ当時のままとも思える状態で遺構は残存しているので、見学する価値は充分ある様に感じられる。

城跡は兵庫県丹波市市島町白(ビャク)ゴウ寺にあって、国道175号を北上した場合、信号「東勅使」で一般道283号へ針路変更し寺院を目指す、到着後はルート図の如く東側の城跡のある方向へ歩けば、程なく南北を分断する堀切までは到達出来る。堀切道沿いにある小社からは、北と南へ郭跡は分かれているので好きな方から見て回ればよい。

寺院は戦国期においては城郭寺院とも見受けられるが、寺院の東を遮る形で位置する南北に長い低山の山上が城跡となっており、山の中央を堀切道(切り通し)が走り、南北に城跡は分かれて郭は配置されている、ここでは便宜上南城、北城とするがどちらも砦規模であり、縄張り形態においては両者は少し異なっている。城跡に技巧的な遺構は余り見当たらず、南城に堀切跡、空堀跡が窺える程度なので、お世辞にも見応えがあるとは言い難い。自然に任せた風化により状態は余り良くはないが、想像力を駆使すれば当時に思いを馳せる事は容易でもある。(個人的には規模の大小を問わず、人の手のほとんど入っていない山城は、想像力を掻き立てられるので楽しいが、、、)

形態としては寺院を谷筋の中央に置いた時、南側は天然の水堀(谷川)、背後は山に囲まれ更に前面となる東側は要塞の如し砦で固められ、前述の堀切道が唯一の出入り可能な大手道であった様に窺われる。これらから解る様に全体を見れば非常に優れた縄張りプランの城郭寺院の様に見受けられる。寺院内にも当時の面影を残した土塁、あるいは郭跡が現存しているので、それらも見逃してはならない遺構の一つと思われる。尚、寺院内の一角にはなぜか赤松円心の子である貞範の宝印塔が建っているが、これはこの地が赤松氏ゆかりの地であると考えるべきなのか? 現状ではまだ謎ではあるが見ておいても損にはならないだろう。

1route_1 登城ルート

3_2 城跡概念図

10_daihorikiri 中央の堀切

12_kitajyou_e_dankaku 北城へ

25_karabori_dobasi 北城堀切土橋

20_karabori_dorui 南城空堀土塁

35_shukaku_ooiwa 南城主郭壁

37_shukaku_nai 南城主郭

小和田城跡(兵庫県丹波市)

兵庫県丹波市青垣町寺内にあって、八幡宮背後の山上から南西に向いての尾根上あるいは未踏になったが、南東尾根上も城域と見受けられる比較的城域は広い山城。足立氏一族の居城と伝わるが山垣城の支城の様に窺われる。

城跡へは国道427号から東側の道路に進入すれば、直登口に選んだ八幡宮は山裾の道路沿いにあるので直ぐに確認出来る、ここからは神社経由で右手側の急斜面に取り付き、直登を敢行すれば南郭群の一角には10分内で到達出来る。尚、山上からは下に向いて山道が通じていたので南東側の民家付近からは登れたのかも分からない、、、

現状(11月)城跡は相当雑木が蔓延り、主郭より南側麓斜面に向いては伐採され放置された材木、あるいは木立や倒木で移動にも難渋する状況となっており、遺構の判別確認は難しい状態にある。外見から判断しても平坦地には見えるが削平地であるかどうかの判別までは出来ない、もちろん土塁などが残存していたとしても確認は無理な状態である。しかし肝心の主郭周りの郭跡及び堀切までは明確に遺構として判別は出来るのでここまで登った甲斐はある。堀切を越えて北側へ更に斜面を登れば、物見あるいは狼煙台程度の削平地を二箇所窺う事が出来るが、ここまでが北側における城域としての北限かとも思われる。

南東側の尾根上にも郭の展開は間違いなく予想されるが、現在の山の状態を考えればとても急斜面を下りてまで向う気力も湧いて来ず踏破は断念、元より情報も乏しく余り期待もせずに訪れた山城であったのだが、未踏地を含まずとも意外に郭全体を含めた規模は大きい(山上主郭の規模は小さい)事が分かり、明確に判別出来る遺構は郭跡、堀切、切岸だけではあったが、ある程度の満足感に浸りながら下山する事が出来た。

1route 登城ルート

5 東南からの遠望

7 城跡進入路

3ko 城跡概念図

12_minami_sai_gedan 南郭群

16_shukaku_1 主郭

20_horikiri_heki 主郭背後の堀切と切岸

23_kitagawa_horikiri_1 北側土橋、堀切

25_sannjyou_top 北山上物見か

2008年11月14日 (金)

布施城跡(奈良県葛城市)

奈良県葛城市新庄町寺口にあって、この地域では有名な二塚古墳からは西側に位置する山の尾根上が城跡、布施氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは葛城市内を南北に走る県道30号の「大田南」交差点より一般道254号へ乗り継ぎ、二塚古墳を目指せば分かり易い。古墳手前に浄願寺があるので道路沿いの駐車場を借り、後はルート図の如く西側に向いて上れば山上主郭まで(1.4km)は辿り着ける。途中に数箇所道路分岐点があるが、案内道標も設置されていないので、ほぼ図に示す赤線通りに進めば間違いないだろう。

しかしこの城跡の城域の広さは半端ではなく、東西尾根上斜面には郭跡が隙間無く麓近くまで配置されており、大手と見受けられる登山道中の沢沿いには石垣跡の残る屋敷跡段郭群、更に東出郭(砦)と呼ぶべく郭群が目を光らしている。現状(三月)城跡は冬枯れのせいもあり下草は少なく、植林地である事からも、ある程度見通しは良く遺構の判別確認は容易に出来る状態にある。見所は東西尾根上斜面を埋め尽くした三十段にも及ぶ郭跡で、どれも残存状態が比較的良く、しかも狭小な空間は余り見受けられず、郭占有面積は相当なものに値する。縄張り内にある遺構としては土塁(櫓台)、空堀、堀切、郭切岸などが明確に見て取れる遺構群であるが、山上主郭の西大堀切を挟み背後を固める郭群から始まって、東麓の郭跡までは次から次へと目を楽しませてくれる。2_1route

登城ルート

4_tozanguti 麓登山道標

70demaru_nawa 東麓の屋敷跡及び砦跡と見受けられる地域の概念図

8_yasiki_kaku_isi_6 屋敷跡の石垣

17 15_demaru_top 東砦跡

時間的な関係で二塚古墳に繋がる枝尾根、それの北東側枝尾根、本郭東南側枝尾根までは見て回る事が出来なかったが、恐らく郭の展開は成されているように推察される。この城跡を全て見て回るとすると恐らく半日は充分掛かってしまうだろう、それほど見所も多く城域も広そうに見受けられる。兵庫県の丹波周辺ではこの様な連郭式山城は数多く見られるが、奈良県においては地形を生かした変則的な縄張りを持つ山城か、あるいは方形主郭を中心に置いた城跡が多いので、この布施城跡においては別な意味で新鮮さを感じ取ることが出来る。

個人的には山登りも含めて東砦跡から登山道を南西側から大回りで葛城山縦走路に出て、布施城の更に西側の山頂から中腹付近まで踏破したが、削平跡の窺える広い平坦地形あるいは土塁、石垣跡の残存する明確に砦跡(地図上で示すのが難しい)と断言出来る郭跡を谷沿いで確認する事が出来た。自分の目に狂いが無ければ城域は山頂周辺のここまでにも及んでいるのである。再訪の余地を残してしまった事で、逆に次に踏破するルートをシュミレーションするのが今から楽しみになって来るのだが、山登りを楽しみながら戦国期山城遺構も味わう事の出来る推奨出来る城跡である。

40_shukaku_yaguradai 主郭

38_haigo_daihorikiri 主郭背後の大堀切

45_gedan_yori_shukaku_1 主郭下段より

58_hiroi_kaku_1 64_kaku 68_dankaku_heki 尾根上に連なる段郭群

黒木北城跡(奈良県宇陀市)

(11/11日)分にリポートを掲載した黒木西城からはルート図の如く、椿寿荘から池沿いに歩き、そのままゲートボール場の上方の山道から堀切道を通り、北側の細い尾根から堀切を経て尾根先端に向うと、城跡までは直ぐに辿り着ける。

此方は西城と違って縄張り妙味には欠けるが、館城の如く規模の大きい郭群で形成されており、それ自体がかなり見応えはあるものである。本郭先端部に設けられた大土塁を伴う大堀切は迫力も見応えもあり、城跡最大の見所となっているが、現状城跡の全域が地表が荒れ放題で一部藪状態でもあり、更に伐採されて放置された木々や倒木が郭跡を埋め尽くしている、見通しは良いので遺構の判別確認は容易ではあるが、納得の行く見学としては多くは望めない状態と言える。お陰で東側及び西側麓に至っては未踏地を残してしまったが、七割程度までは踏破したとも思えるので、個人的には満足の出来るレベルの訪城となった。

西城に訪問した際には必ず此方も覗き、両者を比べてみると城跡の形態の違い、戦略面に置ける用途の違いなどがはっきりと見て取れるので、更に山城巡りを楽しみながら見て回る事が出来ると思える。

3_1

城跡概念図

7_minami_horikiri_1 南側の堀切道

12_horikiri 南を分断する堀切

22_shukaku_1 主郭

30_nisi_kaku 西郭

25_daikarabori 25_daikarabori_2 北端の大土塁と堀切見所

2008年11月13日 (木)

熊谷城(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市熊谷にあって地図上では字、城山と記載されているが、城跡に関しての情報資料が現状手元に無い為に、今回の訪問リポートにおいてはそのまま(仮)熊谷城山として掲載に及んだ。(実際の呼称はあるとは思われるが、、) 熊谷城と後で判明

かねてから気になっていた城跡の一つであるが今回篠山市内を車で移動中の事でもあり、たまたま寄ってみる事にした。既に掲載済みである笛吹山城跡からは程近く、其の時に登山口に選んだ大売神社あるいは鳳鳴高校の真西に位置している完全独立した低山が城跡にあたる。

到着後、まずは周囲を探りながら取り付き地点を定めるが、ルート図の如く南側から畦道を通れば山に上れそうに見えたので、いきなりそこから直登を敢行する。

低山なので最初の藪漕ぎも苦にならず5分内で南郭に達する事が出来たが、山上はその名の通り立派な城跡である。現状南側は竹林地となり雑木も生い茂り、相当藪化はしているが郭跡及び郭切岸などの城跡遺構は確認する事が出来た、ほとんど何も期待せずに立ち寄ったのではあるが、意外に規模は大きく、郭削平跡及び切岸跡も充分窺えるもので、砦と呼ぶには少しその域は出ている様にも見受けられる。現状自然任せである為に風化も激しく技巧的な遺構は確認出来なかったが、笛吹城の出城あるいは支城と思えばこの程度の完成度で良いのかも知れない。

城山と地図に記載されたこの城跡は、はっきり言って見るべきものは郭跡、切岸跡のみであるが、自分にとってはやっと気になっていたものから開放され、スッキリとした気分の状態である。この様な山城でも当時は実戦を経験し、更に戦国期を経て現在があるのかと思うと、なぜか変に心を揺さぶられる気持ちになってしまう。

1route 登城ルート

6_2 城跡進入路

3_3 城跡概念図

10_nisi_dankaku_gun 西段郭群

11_dankaku_heki 段郭切岸

12_shukaku 最高所主郭

13_kitakaku 規模の大きい北郭

味間南城跡(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市丹南町味間南にあって集落の南側に突き出した尾根先端が城跡、城史に関しての詳細は不明

城跡へは既に掲載を終えた西古佐城跡とも車で数分の距離にあり、国道176号から文保寺を目指し、途中からルート図の如く小川に沿った集落の南奥に向けて進む。小川沿いに広い集合墓地が見えてくれば、墓地の最奥より山道があるので、これを利用して上れば城跡にはすぐ辿り着ける、個人的には何時もの様に直登で北側に延びる尾根に取り付き上ったが、すぐその斜面において思わぬ空堀土塁遺構を数mに渡って確認出来た。これは残存状態も良く明確に判別出来るものだが、設置場所から察する処では虎口跡としての機能しか浮かんで来ない。

山上郭群は規模の大きい二郭から形成されており、北に向いて尾根上に郭跡はあるが現状では堀切は設けられてはいない。主郭には櫓台が備わっており背後には土塁も見受けられ、更に郭は削平跡及び切岸跡も明確に見て取れ、規模からしても立地環境から考えても居館跡の様にも見受けられるが、推察の域は出ない。

現状夏真っ盛りではあるが木々も少なく藪化も気になるほどでもないので、縄張りも遺構も全て確認出来る状態にあるが、城跡を考えれば篠山市内にはこの様な案外無防備な城跡は珍しくなく、周りはほぼ波多野氏傘下の元にある事も手伝って、この様な形態の城跡でも通用したと解釈も出来る。もちろん有事においては逃げ込み城は確保されていたとは思われるが、、

1route_4 登城ルート

3z_2  城跡概念図

6_karabori_dorui_1 空堀土塁遺構

9_kitakaku_koguti 北郭虎口

10_kitakaku 北郭

11_shukaku_e_nobori_dorui 北郭より主郭へ上り土塁

12_shukaku_1 主郭

13_shukaku_yaguradai 主郭櫓台

2008年11月12日 (水)

烏帽子城跡(兵庫県丹波市)

兵庫県丹波市青垣町山垣にあって、既に訪問リポート済みである山垣城跡からは北東側に位置する標高512mの烏帽子山山頂が城跡。黒井城主にまで上り詰めた赤井氏一族の居城と伝わるが、ここまで辺境の山奥の更に険峻な山上に築くからには、それなりの理由があったとも考えられる。地理的条件及び環境も良く似ている鬼ヶ城と比べても遜色の無い高所に築かれたこの山城は、鬼ヶ城と同様に明智軍に対して最後の抵抗を試みる、あるいは最終的な逃げ城と想定していたのかも知れない、、、

城跡登山口へは山垣城跡を起点にすれば説明し易いが、国道427号から同城跡の東側をかすめて西側へ向いて走り、最終的には行き止まりになる水道施設(?)近くまで向う。ここは駐車も数台可となっているが、ここからが山上城跡に向けてのスタート地点になる。

案内道標も設置されていないので、ほぼ踏み跡を辿る程度の登山ルートと予測が出来、前日念の為にシュミレーションしておいた、最短距離で尚且つ南側の郭の展開が予想される別峯にも寄れる直登ルートを迷わず選択して登り始めるが、こちらも尾根に沿って踏み跡程度は窺われ、案外厳しい斜面との格闘を除けば登り易く感じられた。しかし厳しい登山である事には変わりは無い、、(通常の登山道も等高線から察する処では似たり寄ったりではないだろうか)

結果的には直登ルートのお陰で予想通りに南側別峯にも広い削平地を窺う事が出来、おまけに土塁を伴う明確な郭跡も確認する事が出来たのが大きな収穫ではあった。山上郭までには所要45分で辿り着く事が出来たが、山上はほぼ二郭構造で、全長40m近くはありそうで比較的規模の大きい主郭及びそれに付随する東郭で形成されており、東郭を挟んで状態の良い二連の堀切、北側斜面には縦堀及び横堀土塁跡が窺われた。現状(11月)木々も少なく見通しも利き、少ない遺構ではあるが全て判別確認は可能な素晴らしい状態にある。見所はもちろん二連の堀切と北側の縦堀及び横堀跡(ほぼ埋もれている)であるが、南側の別峯に点在する(個人的見解では当時の郭跡であると決め付けた)郭跡も見逃せないのではないだろうか。

この山城は山登りを楽しむ事を目的とした登山客からも人気が高いと聞くが、正に其の通りで、眺望も利き尚且つ山城遺構も当時に近い状態で残存しており、山城大好き人間を名乗る者にとっては絶対に避けて通る事の出来ない山城の一つであると思われる。 これも正しく天空の城と呼ぶに相応しい山城の一つである

注) 仮に直登したとしても帰りは絶対に元のルートで下山出来る保障は無い(山中を徘徊する事になる)ので、遠回りにはなるが通常の下山ルートを下りる事が肝心である。

1route2 登城ルート

3eb 城跡概念図

8 12_hiroi_kaku 南別峯の郭群

16_horikiri_1 堀切より東郭

18_doruikaku_nisi_horikiri_1 中郭と堀切

23_shukaku_1 主郭東側

24_shukaku 主郭の僅かな土塁跡

28_tatebori_e 主郭北斜面の空堀から縦堀へ

2008年11月11日 (火)

黒木西城跡(奈良県宇陀市)

奈良県宇陀市大宇陀区黒木にあって先に掲載を終えた東城からはほぼ西側に位置する山の山上から北尾根上が城跡、城史に関しての詳細は不明。

城跡へは東城を起点にすれば分かり易く、ここから「椿寿荘」を目指せば車で数分の距離にある、到着後はルート図の如く池沿いに遊歩道を歩いて、南側の少し小高い展望テラスまで向う。そこからは山側に向いて直登すれば、直ぐに畝堀を有する郭跡までは到達出来る。

この城跡の最大の見所は非常にユニークな縄張りプランと技巧を伴う全ての堀切群にある、畝堀、縦堀、空堀(横堀)、堀切(尾根分断)と言った具合に次から次へと目を楽しませてくれる。現状(五月)畝堀は地表風化も激しく、下草及び木々に遮られて全貌は掴み難いが、ウネウネした地形は明確に捉えることが出来る状態にはある。他の遺構も相当藪に覆われており(特に櫓台最高所付近)視認にも移動にも難渋する場所はあるが、藪漕ぎしながら何とか縄張り全体像を把握する事までは漕ぎ着ける事が出来た。とにかく他では見られない様な異様とも言うべき縄張り、自然地形をフルに活かしきり全体としては曲線的に郭配置が成されている、こんな山城にはめったにお目にかかる事は出来ない。

ここまでのユニークさを誇るこの山城は当然見応えも醍醐味もあり、個人的には未訪の方は是非訪問して頂きたいと思う、推奨出来る城跡の一つである。

1route2 登城ルート

5 進入路

Zx 城跡概念図

8_kita_unebori_2 9_une_bori_1 畝状縦堀群見所

14_shukaku_3dan_kaku 主郭側の三段郭

14_shukaku_3dan_kaku_1 主郭

22_higasi_3dankaku_2 東側三段郭

24_higasi_3dan_1 東郭群の切岸

37_kita_2ren_horikiri 北尾根郭の二連堀切

黒木東城跡(奈良県宇陀市)

城跡は奈良県宇陀市大宇陀区黒木にあって、名阪国道「針」ICを車で降りた場合、国道369号から国道370号へと乗り継ぎ南下、大宇陀区に入ればルート図の如く左折して現地まで向う。山上へ通じる登山道は無く直登となるが、基本的には西南側から藪漕ぎで取り付き上れば南出郭あるいは西出郭辺りには直ぐに到達出来る。個人的には、こちらから上れば直ぐにでも山上まで上れそうな場所に一軒だけ民家があり、そこの住人に声をかけて庭先を通らせて貰い、畑を通過してそのまま斜面に取り付き、直登で辿り着く事が出来たが、、、(留守の場合は前述の藪漕ぎルートが無難) 城史に関しての詳細は不明

現状(五月)城跡の六割は植林地となっており意外に見通しは良いが、他は草木が蔓延っており視認に難渋する場所も少なからずある。しかし主要な山上郭群の遺構は判別確認出来る状態にはあり、ほぼ縄張りを把握する事も可能となっている。

城跡の最大の見所は、山上郭の東西を二分する大堀切で、山上から北麓まで土塁を伴って深く落ち込んでいく様は正に圧巻の一言に尽きる。この遺構だけの為に訪れたとしても、決して後悔はしないと思える、非常に見応えのあるものでもある。規模も想像していた以上に大きく、三の丸から主郭にかけての広さは楽に東西に100mは越えているものと察せられる。山上郭群だけを捉えれば広いだけで単調に思えるが、西側枝尾根上にも堀切を伴った出郭群が展開されており、縄張り妙味に加え醍醐味も感じられる城跡である。

1route2 登城ルート

5 西より遠望

1 城跡概念図

14_nisi_horikiri 西側の堀切

18_tate_dai_karabori_3 28_nisi_horikiri 東西二分の大堀切見所

19_nisi_horikiri_yori_3maru 堀切より三の丸

26_3maru_1 三の丸

24_yokobori_dorui 横堀

31_shukaku_nai 主郭

2008年11月10日 (月)

比延山城跡(兵庫県西脇市)

兵庫県西脇市比延(ヒエ)町にあってJR加古川線「比延駅」のほぼ真東に聳える険峻な山容である比延山(標高287m)の山上が城跡、赤松一族である本郷氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは滝野社IC側から国道175号で北上した場合、ルート図の如く比延駅手前の上戸田で右折、後は登山口である城山公園を目指せば駐車場にはすぐ辿り着ける。到着後はグラウンド隅を歩いて南端にある登山口からは山上まで登山道任せで上れるが、山容からも想像出来る様に相当勾配のきつい急斜面を上ることになる、休まず上れば所要時間20分程度で山上に辿り着く事が出来る。

現状(6月)城跡は梅雨時のせいもあってか木々は生い茂り、郭内は登山道を通過するのみで郭形状も掴めず土塁遺構などがあったとしても、ほぼ密生する雑木の為に視認不能な状態にある。最北の郭跡はほぼ岩盤に覆われているので見晴らし(最高)も良く、唯一休憩あるいはくつろげる空間にはなっているが、縄張り全体像を把握する事は至難の技となっている。しかし痩せ尾根上に並んだ小規模な郭群である為におよその推察は可能である。

個人的には事前情報からも古い形態の山城である為に遺構に余り期待は出来ない事も分かっており、今回は純粋に険峻な山城を上りながら体感する事を目的としていたので、結果的に山登りも楽しめて山城にも触れる事が出来、非常に満足の行く訪城となった。

1_hien 登城ルート

3_3 城跡概念図

4_1_2 グラウンド場からの遠望

7_minami_top 山上南郭

9_koguti 虎口

10 尾根上の郭跡

16 17_shukaku_nai 山上北郭

大木城跡(兵庫県西脇市)

兵庫県西脇市野中町にあって、別名野中城とも呼ばれているが詳細は不明の城跡

城跡へは国道175号から進路変更後、国道427号で北上した場合ルート図の地点で右折、そのまま東へ進行すれば運動場横の道路沿いに案内板が設置されているので登山口はすぐ確認出来る。案内板には所要時間20分と付記されてあるが実際には比高70mの山なので斜面はきついが10分程度もあれば山上に到達出来る。

現状(三月)山上主郭内には神社が建立されており整備されてはいるが、他は下草も生え放題となっている。縄張りがほぼ単郭構造でもあり周りに輪郭が付随する程度なので見学に何ら支障を来たす事はない状態にあり、主郭北側に唯一堀切跡が窺えるが、現状では堆積物に埋もれているので判別は付き難い。案内板に記載されてあったように砦あるいは物見程度の機能を担っていただけの様に見受けられる小規模な山城である。

ここを起点に近隣には車で数分の距離に比延山城跡、虫生城跡、福地城跡、坂本城跡、森本城跡などの山城がひしめき合っているので、国道を移動中あるいは通りすがりに寄る程度の事であれば、期待を裏切られる事も無く楽しめるのではないだろうか。

1route 登城ルート

4_2 城跡遠望

6_tozanguti 登山口の案内説明板

8_shukaku_e 主郭へ登山道

11_shukaku_gedan_obi 主郭輪郭

12_gedan_yori_shukaku 帯郭より主郭側

14_shukaku_nai 主郭内

16_shukaku_kita_horikiri_1 主郭北堀切と切岸

2008年11月 9日 (日)

遠阪城跡(兵庫県丹波市)

 最初に、この山城は人馬も拒む天険の地にあり、自分が今まで直登して来た山城の中ではダントツとも言える傾斜角度である、しかし辛い思いをして登っても、必ずや期待を遥かに上回る遺構群に巡り会えると断言出来るので、足腰に不安の無い方は是非トライしてみる事をお薦めする城跡である。

兵庫県丹波市青垣町遠阪にあって今出川親水公園のほぼ西背後に位置する山の山上が城跡、山垣城主である足立氏の峠監視機能を担った支城と見受けられるが、八上城主波多野氏の傘下にあった為に秀吉軍らによって攻略される、城主は自刃の歴史有。

城跡へは篠山辺りから北上する場合、国道176号から北近畿豊岡道へ乗り継ぎ、青垣ICで降りれば国道427号から現地の今出川親水公園(道路沿いに案内板あり)あるいは熊野神社を目指せば分かり易く到達出来る。公園駐車場からはルート図の如くそのまま川沿いに歩き、そこからフェンスを開閉すれば山道があるのでそれを利用して山裾まで向う。

既に見えている「今出せせらぎ園」の建物背後側の植林地から登ればよいのだが、地形図から直登取り付き地点を検討しても城跡周りは全て等高線が狭く、予測はしていたが現地でこの斜面を見るに、これ程とは想定外のことであった(腰が引けそう)。かなり厳しい斜面(宇津城跡へ上られた人なら見当が付くと思うが、それよりも高く更に急峻)との戦いが待ち受けていたが、登り始めに二本の凄い縦堀が眼に留まっていたので、既にアドレナリンも出始めており、覚悟を決めて山上を目指す(比高約200mある)。なるべく右側稜線側の傾斜が少しでもましと思える方向に周りながら、30分前後は要したが山上までやっとの思いで辿り着く事が出来た。

現状(11月)城跡は比較的見通しも良く下草も少ないので、山上における遺構群は全て判別確認が容易に出来る状態にある。城跡最大の見所は三連の堀切と山上から麓まで落ち込んで行く縦堀、南郭端にある土橋を伴う片堀切(これは凄い!)、眼に留まる堀切群はどれも状態が良く素晴らしい上に美しい、常に草木で覆われた縦堀しか頭に浮かんで来ないが、縦堀でここまで全貌を窺う事の出来る山城は数少ないし、これだけでも貴重な存在の山城と言える。

規模は左程大きくは無く、縄張り妙味もあるとは言えないが、残存度が高く状態の良い堀切群だけは誇ってよい、一見の価値のある山城と目には映った。

1route 登城ルート

4_2 登城進入路

3on 城跡概念図

12_tyokuto_tatebori 登り始めの二連の縦堀

16_tatebori_1 北東側の堀切から縦堀へ

23_shukaku_higasi_heki 主郭切岸

22_daihorikiri_1 主郭南大堀切

27_horikiri_yori_2dan_dorui_kaku 堀切より南二段小郭

30_minami_oohiroma_2 南郭

29_horikiri3_1 南郭側の堀切

33_tatebori 南郭端の片堀切

2008年11月 8日 (土)

九曲城跡(三重県松阪市)

三重県松阪市飯高町粟野九十九曲(ツズラクマ)にあって、国道166号よりルート図の如く奥香肌峡キャンプ場の案内板が見えれば南側へ進路変更、すぐに民家側に登山口と書かれた案内板が目に留まるのでそこから鳥居に向いて上れば、登山遊歩道で山上主郭までは迷わず辿り着ける(10分程度)。粟野氏の居城と伝わるが詳細は不明

山上郭群はほぼ二郭で形成されており、現在主郭内には社殿が建立されている。主郭周りには帯郭あるいは尾根上の狭い郭跡が付随しており、川側は前面崖状切岸斜面となっているので低山にも拘らず簡単には人を寄せ付けない。遺構として残存するのは堀切、土塁、縦堀などで、整備が比較的行き届いているのでどれも判別確認は容易に出来る。山城としては非常に小規模ではあるが残存状態も良く、遊歩道を利用すれば全体像もほぼ把握する事が出来、充分山城の持つ雰囲気は味わう事が出来る。

九十九曲集落に繋がる唯一の国道166号は、奈良から伊勢街道として松阪あるいは伊勢まで抜けれるので、同じ国道沿いからはそう遠く無い下滝野城跡、赤桶城跡と三城併せて同日訪問すれば効率よく山城巡りが出来るように思われる。

1route_2 登城ルート

5 西より遠望

6 登山口

3 城跡概念図

14_fukukaku_dorui 副郭土塁より主郭側

17 主郭

17_shukaku_yori_fuku 主郭より副郭

20_shukaku_yori_minami_horikiri 主郭南側堀切土塁

29_horikiri_dobasi 副郭東側の堀切

赤桶城跡(三重県松阪市)

三重県松阪市飯高町赤桶(アコウ)にあって、谷出集落にある西願寺の西背後の山の山上が城跡、城史に関しての詳細は不明。

城跡は既にリポート掲載の終えている下滝野城跡より車で西に数分の距離にあり、国道166号を更に西に走り赤桶橋を越えれば直ぐの位置にある西願寺を目指せば分かり易く辿り着ける。しかし本来登山道があったとも思われるが、現状では直登で上るしか手がなく寺院側からも山道が無いので、ルート図あるいは写真の如く国道沿いの茶畑から作業道を上り、直接山上を目指して上った方が良いかも知れない。(国道沿いの公民館より10分程度で到達出来た)

現状(四月)山上主郭には鐘突き櫓が設置されているが、周囲に雑木が蔓延っている事を考えればほとんど人は登って来ていない様に感じ取れる。幸い城跡の規模も小さく縄張りを把握する事も、遺構を判別確認する事も容易に出来る状態にはある、城跡唯一とも言える最大の見所は主郭と西郭を分断している二重堀切で、残存状態が良い事からも縦堀となって下まで落ちる様がつぶさに見て取れる。もちろんこの遺構を見るだけの為に山上まで上っても、決して後悔はしないものでもある

現状の城跡を見る限りに置いては砦あるいは狼煙台規模でもあり、通常では物見程度で機能していたと見るより他は見当が付かない。先に訪れた下滝野城跡が石垣及び土塁を用いて本格的に築かれていただけに、こちらは下滝野城の出城あるいは西方の抑えとして機能していただけのものかも知れない、、

1route_3 登城ルート

4_1x 公民館より遠望

3_2 城跡概念図

8_shukaku 主郭

12_nijyuu_horikiri 12_nijyuu_horikiri_1 二重堀切の1 見所

15_horikiri_dobasi 二重堀切の2 見所

18_dorui_dou 西郭下の土塁道

20_nisi_hasi 西端の郭

2008年11月 7日 (金)

浅根山城跡(京都府綾部市)

京都府綾部市物部町にあって物部城跡からは東側に歩いても行ける距離にあり、支城あるいは出城とも見受けられるが詳細は不明、上原氏の居城と伝わる。

城跡へは府道9号から物部城跡をかすめて490号に針路変更、後はルート図の如く進行し道路沿いに「浅根山公園」と表札のかかる場所から坂を車で登れば公園駐車場までは容易に辿り着ける。

個人的には現地を訪れるまではこの地が公園化されているとは思われず、東の寺院側から山道を利用して山上まで上ったのだが、現状は公園(城跡公園としての認識は甘い様で案内説明板も設置されていない)でありながら展望デッキは新設されたと見えて新しいが、主郭内は下草及び木立の生え放題と化しており周囲の土塁上から外見を覗く事しか出来ない状態にある。堀切も備わってそこには木橋が設置されてはいるが、城跡として訪問した者だけが遺構と判別出来る状態でもある。更に西側にも郭の展開は有りそうにも思えたが密生する雑木藪の為に踏破は断念する。

個人的に城跡を評価すれば遺構残存度も低く規模も小さいもので、山城としての魅力には欠けるが、物部城跡あるいは北野城跡の訪問ついでに寄る程度であれば、当時の史跡としての価値が下がるものではないので、充分納得出来る訪城になる様な気はする。

1route_4 登城ルート

4_1 東より城跡遠望

3as 城跡概念図

5_2 城跡進入口

14_horikiri_yori_nisi 西郭の展望所

13_horikiri_1 堀切

Shukaku_1 主郭の現状

北野城跡(京都府綾部市)

 京都府綾部市仁和町にあって諏訪神社のある独立した低山の山上から南西尾根上が城跡、別名志賀城とも呼ばれ志賀氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは綾部市内より県道9号を北上、物部城跡(既に掲載済)のある東側川沿いの交差点から一般道490号に進路変更し、後はそのままルート図の如く目印となる諏訪神社を目指せば容易にそこまでは辿り着ける。神社に到着すればその背後、あるいは向って左手側の傾斜面をそのまま上り、北側に尾根上を進めば主郭までは五分程度で到達出来る。

尾根上には削平跡は窺えるがほぼ自然地形に近い郭跡が100m近く続き、それを過ぎればやっと城跡らしい土塁を伴う南郭に辿り着けるが、現状(10月)城跡は一面雑木藪と化しており、これからは木々の隙間を縫いながらの移動を余儀なくされる状況となる。それでも何とか動き回れる範囲内に置いては跡、高低差のある切岸跡、土塁、堀切などの、城跡を形成する遺構は何とか判別確認する事が出来た。縄張りもほぼ把握するまでには漕ぎ着けたが、密生する雑木の為に郭の距離感も掴み難く、郭形状も今回に置いては余り自信がない。ただ本郭部は基本的には三郭構造で成立しており、神社側に向いて直線的に長い尾根上郭が付随している事だけは分かった。当時は神社敷地まで(居館跡かも?)縄張りとして取り込まれ、その周辺には屋敷群が形成されていた様にも地形から見て取れるが、砦規模の小規模な城跡ではない事だけは確かである。

この城跡には諏訪神社が鎮座している事からも、志賀氏は物部城主である上原氏一族あるいはその傘下で動いていた武将とも考えられるが推察の域は出ない。

1route_3 登城ルート

4_2 城跡進入路

3si 城跡概念図

13_1

南側の長い削平地

15_dorui_kaku_1

南郭土塁

19_shukaku_heki 主郭切岸

088 二の丸

21_3maru_dorui 三の丸土塁

23_3maru_sita_horikiri_1 三の丸東堀切

2008年11月 6日 (木)

吐田城跡(奈良県御所市)

奈良県御所市関屋にあって葛城山から東側に延びる枝尾根上の標高280mの山上が城跡、吐田(ハンダ)氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは大阪市内から御所市までは繋がっている国道309号を利用すると分かりやすく、御所市内に入れば県道30号の交わる「名柄」交差点からは真西側に位置する山が城跡にあたるので、そこからは直ぐの距離にある一言主神社を目指せば良い。到着後はルート図の如く池沿いに歩いて南下、小さな谷川を越えればV字谷の奥へ(西側)と進み、右手の斜面に取り付きそのまま上れば、ほどなく東先端の郭跡(神社からは20分程度)には辿り着ける。

現状(五月)城跡は植林地である事も手伝って比較的見通しが良く、残存状態も悪くはないので遺構の判別確認は容易に出来る状態にある。特に見所でもある切岸の状態は良く、鋭角に谷底まで落ち込む様が鮮明に見て取れ、同様に主郭西側の大堀切などが縦堀となって落ち込む様は圧巻とも呼べる遺構となっている。東郭には郭を仕切る食い違い土塁虎口、西側の細い尾根移動道にも連続堀切が備わっており、更に西出郭端で大堀切となって山上郭群の独立性を保持している。探せば細部に亘って縄張りとしての技巧が窺え、中々見応えがありながら山城としての醍醐味も充分感じる事の出来る城跡と言えよう。

全体を通して見れば残存状態も良く、遺構残存度も高く、更に縄張り妙味も加わり、三拍子揃った推奨出来る山城の一つである。

尚、ここから県道を隔てた東側の集落辺りには居館跡とされる水堀が一部現存しているので、ついでに寄ってみても良いのではないだろうか。

1route 登城ルート

3_2_2 城跡概念図

18_higasikaku_nai

東郭

21_koguti_dorui 食い違い土塁見所

23_nakamaru 中郭

29_shukaku_nai 主郭

30_shukaku_minami_dankakugun_1 南段郭群

40_daihorikiri 大堀切見所

41_horikiri_yori_heki 堀切壁

62_yakata_hori_2 館跡の水堀

石打城跡(奈良県奈良市)

奈良市月ヶ瀬石打にあって集落の北側に迫り出した丘陵尾根先端が城跡、稲垣氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡は地図でも分かり難く、目印となるものも見当たらず更に説明し難い場所にある。名阪国道から県道82号に入れば石打集落を目指し、ルート図を手がかりとして三叉路を北に向う、少し走れば道路沿いに見落としてしまいそうな小さな案内板があるが、道標はないので図を参考に採土場方向に進行してもらうしか方法がない。そのまま伝館跡地までは車道で行けるので楽でもあり、そこからは既に城域となっている。

現状(12月)城跡は冬季にも拘らず主郭を除けば全域に雑木矢竹は生い茂り、一部の郭跡では視認もし辛く(移動は容易に出来る)、遺構の判別確認には相当難渋する状態となっている。現状確認出来る遺構は堀切、主郭及び周囲の土塁、三の丸内、空堀土塁と言ったところで、規模がそれほど大きくないので全体像は掴む事は出来るが、納得の行く城跡見学は出来ない状況でもある。城跡遺構は完存に近い形でもあり残存度は抜群と言えるのであるが、荒れ放題の藪の為に視認も出来ない箇所があり、折角の遺構群も勿体無いばかりである。偶然この山の管理を任されている方に出会う事が出来、同行して見て回る事が出来たが「史跡を管理保持する補助金も出ていないし管理して行く人材も不足している」との事で「これから先も遺構の維持は中々難しく(後継者もいない)、荒れ放題になって行くのかも知れない」との見解であった。非常に寂しい思いで城跡を後にしたが、個人所有の土地ともなれば中々管理の問題で市との交渉事もまとまらず、行き詰まるケースが出てくるのが現実の様である。

木々の伐採の後にタイミング良く訪れる事が出来れば必ず楽しめる城跡となるのだが、早く其の日が訪れる事を期待したいところではある。

1route1 登城ルート

1nawa 城跡概念図

5_tounan_hasi 南郭壁の城跡碑

14_oote_koguti 大手虎口

19_shukaku_koguti 主郭虎口

20_koguti_uti_yori 主郭内土塁

37_karabori_mushakakusi_2 主郭北空堀

28_nisi_daihorikiri 西大堀切

51_3maru 三の丸

2008年11月 5日 (水)

高龍寺城(京都府福知山市)

 十月における訪城を振返ってみると京都丹後方面の山城巡りが特に多かったが、中でも宮津八幡山城、山田城は遺構の見応え度、あるいは切岸の圧倒的迫力で特別印象に残った。今回は月の最後を飾るに相応しい超目玉と言うべく山城に巡り合えた(10/31訪問)ので一番鮮度の高い情報として早速リポート掲載に及んだ。

この山城は京都府福知山市報恩寺にあって既に訪問リポート済みである私市城跡の真西側に聳える標高195mの高龍寺山の山上が城跡である、ちなみに報恩寺城跡からは南側に位置している。内田氏の居城と聞くが詳細は不明

城跡へは府道74号を走り、私市円山古墳の手前から私市城跡をかすめる一般道492号へ進路変更、後はルート図の如く南部公民館の手前の道から左折して山道に入る、個人的には公民館に駐車して歩き、報恩寺城の前をかすめて直登山口まで向ったが、どちらにしても最終的には西奥にある農作業小屋で合流する事になる。車ではここまで来れるし路駐も可能である。農作業小屋からは山に向いて少し南へ歩けば右手にイノシシ捕獲用オリが見えてくるので、それを目印として左手側の斜面に取り付く、少し上ると踏み跡と共に赤いポールが数十mごとにあるので、それを確認しながら南側へ斜面を上れば山上東端の堀切まで15分内で到達する事が出来る(公民館から歩いても20分程度)。

とにかくこの山城の見所及び凄さは直立に切り立つ高い切岸、堀切(尾根分断)、空堀(本来の掘削したもの)に尽きる思われ、単独で聳える山容の為か、縄張り変化には富んではいないが圧倒される切岸、技巧を伴う堀切など遺構残存度の高さはずば抜けて高く、他のこの周辺にある山城を圧倒しているとも思われる。特に二の丸西側の堀切群には感動すら覚えてしまう。更に残存状態も比較的良い部類に入り、山上の半分以上が植林地となっている為に見通しも利き、下草及び木立も少ない方なので遺構の判別確認はし易く、縄張りを掴む事は容易に出来る状態でもある。基本的にはほぼ主要三郭から形成される城跡ではあるが、個々の郭面積が広い為に余計に巨大な城跡として捉えてしまう。

今回も前日の直登シュミレーション通りに、迷わず山上まで到達する事が出来た上に、城跡探索中は数々の遺構群にアドレナリンは出っ放しの状態で、期待を遥かに上回る山城にも巡り合えて、最高の一日を締めくくる事が出来た。

1route 登城ルート

8_tozanguti 直登進入口

3ko 城跡概念図

15_kita_dorui_horikiri_2 東側到達点の堀切土塁

16_heki 東郭切岸見所

23_3maru_yori_shukaku_heki 三の丸より主郭切岸

24_3maru_2 三の丸

26_shukaku 主郭

27_shukaku_sita_karabori_dobasi 二の丸空堀片土橋見所

28_2maru_yori_karabori_shukaku_heki 二の丸より空堀、主郭壁

35_nisikaku_sita_horikiri 西郭の堀切見所

44_higasi_saigedan_dorui 東最下段郭の土塁、空堀跡

北有路城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市大江町北有路にあって光明禅寺の西側に位置する愛宕山が城跡、山名氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡へは福知山市内より国道175号を北上した場合、ルート図の如く光明禅寺を目指せば分かり易く到達出来る。寺院に向いて少し上れば墓参用の駐車場もあり、そこからは山上愛宕神社に向いて参拝道も通じており5分もあれば迷わず辿り着ける。

この城跡の見所は主郭背後の大堀切及び切岸、西側の出郭から末端の堀切に掛けての残存度の高い遺構群で、残存状態も良い部類に入り、当時に思いを馳せる事が容易に出来るものでもある。この周辺の技巧を伴う遺構はどれも見逃せないものばかり、高い切岸及び横堀と縦堀の連携によって北西尾根からの攻め手をここで全てカット出来る縄張りプランとも見受けられる。比較的規模の大きい主郭には近年に置いて展望ウッドデッキが設置されてはいるが、城跡の説明案内などはされていない様なので、ここがかつて山城であったとは誰も気が付かないと思われる。しかしそれのお陰で木々もある程度伐採されて遺構も判別確認し易く、縄張り全体像も掴み易くはなっている。単純明快な縄張りではあるが、この城跡に置いての西出郭群の遺構は一見の価値のあるものとみた。現在主郭から東側中腹に広い集合墓地及び寺院、保育園があるが、こちらも間違いなく郭跡の転用と見受けられ、山上から東麓の集落までを当時の縄張りとして取り込めば、案外規模は大きい城跡であった事が分かる。

国道からは直ぐの距離にあり、少し上るだけで当時のまま完存とも思える遺構群を拝む事も出来、更に車で移動中にも寄れるお手軽さも含めれば、個人的には決して期待はずれには終わらないと思える推奨出来る城跡の一つと言える。

1route_2 登城ルート

4 南から遠望

5 進入路

3ki 城跡概念図

17_shukaku 山上主郭

16_shukaku 主郭西側

22_minami_2jyuu_tatebori 主郭西の二重縦堀見所

24 主郭西の大堀切見所

27_shukaku_kita_heki 主郭北側の切岸

31_nisihasikaku_yori_8m_heki 西出郭の10m近い切岸見所

2008年11月 4日 (火)

光竜寺城跡(兵庫県多可郡)

兵庫県多可郡多可町八千代にあって、野間山城とは川を隔てた真東側に対峙している山の山上が城跡。野間山城を戦時に置いての最終的な詰城とすれば、こちらは居住性も兼ね備えた通常時における城跡か、、こちらは完全な土塁城である。

城跡は時期を別にして訪れたのだが、野間山登山口を起点にすればルート図の如く橋を渡りすぐ東に右折、後は道路沿いにある案内看板が見えてくるまで走れば、搦め手側の登山口までは容易に到達出来る。傍には運動場の駐車場もあるので駐車可能(南側には大手とされる道もあるようである)。搦め手登山口から主郭までには20分程度は要すが、山城の雰囲気を味わいたいのであれば、番所跡など尾根上に点在している自然地形に近い郭跡も確認出来るので、是非こちらからの登山をお薦めしたい。

現状(九月)城跡は下草は蔓延ってはいるがそれなりに整備されており、城跡における遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。遺構残存度も高く更に比較的残存状態も良いので縄張りも掴み易く、見応えがあるとは言えないが充分山城としての雰囲気は味わう事が出来る。  

野間山城跡とも隣接しておりセットと考えれば二城の違いも把握する事が出来、同日訪問が確実に可能である城跡と言える。

1z_2 登城ルート

3kou2 城跡概念図

4 搦め手登山口

15 尾根上の郭跡

18_karametemon_ato 北搦め手門跡

24_2maru 二の丸

25_2maru_tori_shukaku 二の丸より主郭切岸

27_shukaku_nai 主郭

28_shukaku_minami_demaru 主郭南出郭

野間山城跡(兵庫県多可郡)

兵庫県多可郡多可町八千代にあって中野間集落の西側に聳える標高330mの山の山上が城跡、戦国期に置いては在田氏の居城を伝えるが詳細は不明

城跡へは京阪神側から車で向えば中国道滝野社ICを降り、県道17号、34号と乗り継ぎ、中野間地区に入ればルート図の如く登山口を目指せば辿り着ける。橋の袂にある登山口には案内板も設置され車一台分駐車可能、遊歩道も比較的整備されているので歩き易く、およそ20分程度で山上郭群東端には到達出来る。

現状(一月)城跡は冬季でもあり、更に整備されている事も手伝って下草も少なく見通しも利き、遺構は全て判別確認が容易に出来る状態にある。個人的には二回目となる訪問となったが、自分にとっては何度訪れてもなぜか飽きの来そうにない、戦国期の山城の雰囲気を味わうには最適とも思える城跡の一つである。狭過ぎる痩せ尾根を削平し自然岩を持って郭壁となし、更に郭側壁には一部石垣を使用し築かれ、険峻さも伴い非常に堅固な山城の様に窺われる。まるでゲリラ戦を想定したかの様な当時の戦国期の山城の姿をそのまま現在に伝えている。見所は縄張りを含めた山城そのものでもあり、この存在感は規模は小さいが唯一無二のものであるとも言える。

険峻さもあり、更に堅固さも備わった戦国ロマンの漂うこの山城は、自分にとってはやはり「天空の城」と呼べるものの一つかもしれない

遺構残存度も高く残存状態も非常に良いので、四季を問わず訪問は可能と見受けられるが、西郭群から南側尾根(しょうどの丸と呼ばれている)へ向う道は雑木が密生しており、中々移動踏破は難しい状態となっている。主郭側からは直ぐに望める位置にあるのだが一旦山を下りて麓の極楽寺側から上った方が賢明かも知れない。数年後には三度の訪問が叶っていると思われるが、次回は大手とされる寺院側から上ってみようと思っている。

1z 登城ルート

3_2_3 城跡概念図

7 登山道東尾根

9_horikiri_1 東端の大堀切見所

15_sekiretu_2 東出郭の石垣跡

20 東段郭壁

24a 27 段郭群

30_1 南側面の石垣跡見所

35_shukaku_3 主郭

40koguti_dorui 西端虎口

2008年11月 3日 (月)

垣内城(京都府船井郡)

 最初にお断りしておかなければいけないが、この山城は現在手元にある情報あるいは資料の中には全く見当たらず(丹波地方史には載っているのかも知れないが)、今回の訪問リポートに置いては(暫定)和田城跡として扱わせて頂きたい。

09/11月、やっとこの城跡呼称が判明しました!

長い間この城跡名に関しては、頭に留めながらも一年間追求しておりましたが、ここに来て外部の信頼できる情報により、やっと公的呼称の判明に至る事が出来ました。城跡名は垣内(カイチ)城としてまず間違いないものと思えます。

訪問のきっかけは地図上で和田地区に「垣地」(この地名が付く場所は過去に置いて城跡であった地域がほとんどを占める)があることを見つけ、鎌谷城跡からも直ぐ近くに位置しており、ついでに寄り道探索するつもりでいたものである。ただ訪問した結果として、測量関係者以外は立ち寄った可能性が無きに等しく、更に人の手も全く入っていない様にも見受けられ、比較的残存度の高い遺構群は中々に見応えがある様に感じられる。まだ未訪で山城好きの方には是非存在を知って頂きたい、20分もあれば山上主郭まで到達出来る事もあって、人知れず歴史からも遠ざけられたこの山城は、機会があるのなら是非訪問をお薦めしたい物件でもある。

城跡は京都府船井郡京丹波町和田にあって、向う順路としては国道9号を走り、和田地区に入ればルート図の如くニュータウン分譲地(ほとんど住宅は建っていない)の細い道路に進入し、三筋目を右折して直登進入口に向う。そこからは北側に向いて上れば規模の大きな自然地形に近い郭を二箇所経て、間違いなく山上主郭へ辿り着ける。

現状(10月)城跡は当然の如く藪化真っ只中にあり、流石に直登中(僅かに踏み跡がある)は枝の隙間を縫って上る事もあったが、山上に置いては移動する事も遺構の判別確認も(容易とは言い難い)難渋はしない状態にはある。山上郭群は意外にも規模が大きく西側に迫り出した最大規模の郭跡は幅もあるが全長もある(目測で50m程度か、先に寄った鎌谷城跡の数倍)、直登中に確認した郭群も併せると案外城域は広く、規模もそれなりに大きい事が分かる。城跡の見所は手付かずの自然の中で未だに切岸を残す削平された郭群、堀切、土塁といった所で、年間を通して何人の人が訪れたのか大体想像の付くレベルにある山城と見受けられる。

山城探索を目的として見切り発車をした場合は空手形に終わる事も多いが、今回は城史も城主も謎に包まれたままの山城ではあるが、明確に残存する城跡遺構に巡りあえて非常に大きな充実感と満足感を味わう事が出来た。  

(この山城に関しての城史あるいは築城主なりをご存知の方は是非コメントを頂戴出来れば有り難く思います)

1_1 登城ルート

5 分譲地より遠望

6 直登進入口

3w 城跡概念図

8_one_kaku 尾根削平地

10_minamikaku 南郭

12_shukaku 藪状態の主郭

17_nisi_horikiri 西郭間堀切

20_nisi_saidai_kaku_1 西城中最大郭見所

鎌谷城跡(京都府船井郡)

 京都府船井郡京丹波町鎌谷中にあって集落側へ北西から突き出した尾根先端が城跡、細見氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは国道9号を走り井尻周辺から一般道711号へと南に針路変更、南下を続けバス停「薬師寺下」を少し過ぎれば次のバス停「鎌谷中」との間に西側に単独で聳える山が確認出来る。この山の山上が城跡(社殿がある)となるので、後は道路沿い西側にある写真に示す漆喰壁のある民家脇の進入路より参拝登山道を利用して上れば、山上までは辿り着く事が出来る。

個人的には集落付近を徘徊しながらも最初に参拝登山道は確認出来たのだが、山容からも東側に延びる稜線が気になっていたので、薬師寺下のバス停から尾根を目指し直登を試みた。その急斜面上には小規模な二郭跡を確認する事が出来、10分程度を上り切れば山上郭群に到達出来た、そこでは小振りながらも、ほぼ三郭で形成された見事な切岸と西側に堀切を備えた山城に出迎えられる事となった。相当辺境地に或る事、更に城跡の情報が無い事から考えて、敢えて期待もせず訪れたのだが、意外にも切岸処理のされた本格的な山であったので驚きは隠せない。更に社殿の建つ事からも人の出入りが多少あると見受けられ、残存状態が良いので余計に城跡が素晴らしく思えてしまう。この山深い辺境の奥地で人知れず数100年の時を刻み、尚且つ風雪に耐えて来た、この楚々とした山城に「山城賛歌」を贈りたい気分である。

小規模で左程見応えがあるわけではないが、個人的には好感度の高い山城の一つに数えられる城跡である。

1route 登城ルート

4_1

登山進入路

3k

城跡概念図

10 虎口より主郭切岸

16_shukaku 主郭

14_higasi_kaku_2 東郭より主郭

17_shukaku_nisi_heki 西郭より主郭切岸

20_nisi_horikiri 西堀切

22_horikiri_yori_nisikaku 堀切より西郭切岸

2008年11月 2日 (日)

鷹尾山城跡(兵庫県芦屋市)

兵庫県芦屋市山芦屋町にあって阪急電鉄「芦屋川駅」から北西側に聳える鷹尾山(標高262m)の山上が城跡、瓦林氏の居城であるが戦国期においては越水城の支城として機能していたと伝わる。

城跡は芦屋市内に位置する事から車で現地に向えば駐車場に苦労すると思い、今回初めて電車を使用し阪急電車で「芦屋川」で下車し、そこから川沿いに歩いて登山口まで向う。道標がないのでルート図の如く住宅地を通り抜けて登山口に向う、一箇所のみに案内板はあったが道標の役目は果たしていないので、それとなく山裾を目指すと登山口が住宅地横に見えてきた。ここにも道標は設置されていないが20分程度で山上主郭には到達出来た。

現状山上郭群は冬季にも拘らずNHK施設のある南郭を除けば雑木と笹藪に覆われており、郭全体像もしくは遺構の視認はかなりし辛い状態にある、それでも最大の見所である大堀切及び二重空堀は傍まで寄って確認する事が出来た。しかし通常尾根を横に分断する空堀(堀切)は何度も見てきたがこの城跡の空堀は南北の郭を結ぶ尾根に沿って二重に設けられており、明らかに他とは異なる様相である。もちろん土塁もそれに伴って自ずと二重構造になっているが、更に縦堀はそこから数本斜面に落ち込んでおり、その異形の形態が良く分かる、極めてユニークな構造と言えるものである。

城跡は小規模な山城としては見応えもあり、このユニーク過ぎる二重空堀土塁は一見の価値のあるもの察せられ、山歩きも楽しめて山城遺構も味わう事が出来る有数の城跡と言えよう。

1 登城ルート

5 鷹尾山を望む道路分岐点

7_tozanguti 登山口

3_2z 城跡概念図

23_monomi_sita 中腹の物見大岩群

27_horikiri_1 中腹郭群の堀切

32_shukaku_2 南主郭

40_2jyuu_karabori_1 40_2jyuu_karabori_3 二重空堀土塁見所

44_horikiri_tatebori_1 北側の台堀切見所

尚、登山口にあたる住宅地前の道路沿いに車三四台の駐車スペースがあり、登山客に後で聞いてみればその場所は駐車可能である(確証は無いが)との事であった。しかし駅から芦屋川沿いに歩けば鷹尾山も望め、更に町並みの風情も味わえる事からも駅から山頂までは是非歩く(40分程度は掛かるが)事をお薦めしたい。

楯岩城跡(兵庫県揖保郡)

兵庫県揖保郡太子町太子にあって国道2号太子竜野バイパスの城山トンネル真上の山上が城跡であるが、山上には楯岩城大山構跡と書かれた表札があったので構居として機能していたのかも知れない。赤松氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは姫路側から国道179号を西に向いて走れば、「山田」から「原」の信号を越えて線路沿いを少し走り、山裾を北側(右折)へ針路変更、後はルート図の如く細い車道を老人ホーム聖園を目指して上れば、分かり易く登山進入口である車止めゲートまでは辿り着ける。後はゲートを越えて道に任せれば、途中に山上まで新設された登山道があり、それを上り切れば山上主郭到達となる。

山上には巨石を並べた「大山構跡」があり細長く荒れた平坦地には至る所に巨石、大石がゴロゴロと転がっている。これでも郭跡ではあると思うが、、、現状(一月)冬季にも拘らず山上郭群は葉の生い茂る雑木藪と化してはいるが、移動に難渋するまで、あるいは視認困難までには至っておらず、郭跡のみではあるが判別確認は出来る状態にある。しかし一番見逃してはならないと思える遺構群は、南側急斜面を降りた中腹の郭跡に残存しており、古墳を含めた周辺には削平された郭跡、巨石を並べた郭壁、石垣跡など城中最大の見所となる遺構が集中している。ここから更に南へ降りれば、途中斜面上の至る所で土中に段状に見え隠れする石垣跡を窺う事も出来る、恐らく地表は風化、あるいは堆積物の為に斜面にはなっているが、郭壁としての石垣跡の様にも見受けられる。

個人的にはこの南中腹郭跡に至るまでは図に示した車道沿いにあった登山口から上った(15分)のではあるが、本来なら此方からの登山(山上まで20分)をお薦めしたい。途中から道も踏み跡程度になってはいるが山上を目指せば間違いなくこの郭跡を拝む事が出来る。前述の山上から降りるルートでは方向を少し間違うとこの郭跡には到達出来ない可能性が高いのである。山上のみの山城見学では正規の新設登山ルート、本命の遺構を見学しながら登山するのであれば後述の直登に近いこの登山ルートがベストだと思われる。

この山城から醍醐味を得る為ルート図の様に相当な距離を歩き、ほぼ一周せざるを得なかったが、流石に赤松氏の城跡だけのことはあって石垣跡も残存しており、期待は決して裏切られなかった山城でもあった。地形図から察する処、更に西側には出郭も予想されたが既に踏破する気力は失せており断念に至る。

Tate1v 登城ルート

4tozanguti 南からの登山口

9isi 南斜面の石垣跡

13kaku 中腹南郭

14_kakunai_sekiretu_1 石列

28_kaku_ooisi 巨石の石列

37_kaku_nai_ooisi_1 山上郭

40_yakata_1 山上の大山構跡

41koguti_oosekiretu 山上郭の大石列

47gezandou 北東からの新設登山道

2008年11月 1日 (土)

泉源寺城跡(京都府舞鶴市)

京都府舞鶴市泉源寺にあって集落の北側に聳える愛宕山(標高282m)の山上が城跡、栗屋氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡へは国道27号を東に向いて移動した場合「大門松島」の信号を越えて少し走り、線路高架上を越えれば真北に向いて直進となる道路があるのでそちらに進路変更、この道に従えば登山口でもある智性院に辿り着ける。到着後は寺院向いにある熊野神社横から山上に向いて登山道が繋がっているのでそれを利用すれば、案内道標は無いが山上主郭までは到達出来る。この登山道はかつては山上愛宕神社への参拝道であったとも思えるが、現在では山上に社殿も存在せず上る人も皆無の様に見受けられる。

山容が物語るように標高は余り無いのだが、急峻で尚且つ、道中九十九折りとなっている為に距離も長く、約40分を要してやっと山上まで辿り着く事が出来た。

現状(10月)城跡は予想通りの藪化状態にあり、かつて神社があったとは誰も想像すら出来ない状態にある。しかも砂利を含んだセメントの塊が集中している場所がある事からも神社を取り壊した後の廃棄物とも思えるが、それによって多少の地形改変はあったと見るべきであろう。規模の大きい主郭内部は風化なのか人為的なものなのかは判断し難いが相当凸凹しており、空堀に見えなくも無い地形も数箇所に窺う事が出来る。現状では遺構の判別確認は中々難しく、取り敢えず歩き回ってそれらしい城跡概念図を描ける処までには至ったが、明確に遺構と呼べるものは縦堀、郭跡、郭切岸、堀切程度終わってしまった。

この城跡を評価するのは非常に難しいが、険峻な山城が大好き人間でないと結果的には辛い山登りだけで終わってしまう様にも感じられる、、、しかし探索心を多いに煽られる山城であった事だけは確かである。

個人的には推奨は出来難い山城であるが、もしこれから訪問して見ようかと思っていた方、あるいはどの様な山城なのか気になっていた方の為には、丁度良い現況報告になるかとは思われる。

1route 登城ルート

6tozanguti 神社横の登山口

2_3sen 城跡概念図

16_sanjyou_shukaku 山上主郭

17_sanjyou 主郭内の空堀状の地形

19_minami_obi_shukakuheki 南帯郭

19_minami_obi_shukakuheki_2 主郭南側切岸

22_higasi_kaku 東郭の上り土塁

26_tatebori_1 明確に残存する縦堀

石川城跡(京都府与謝郡)

京都府与謝郡与謝野町石川にあって国道176号と国道312号が交わる交差点より東側に聳える山の山上が城跡で、麓には館跡とも見受けられる西禅寺が建つ、312号からは西側にはすぐの位置に山田城跡もある。一色氏一族の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは国道176号を北上した場合、ルート図の如く石川小学校の交差点を右折、登山口となる西禅寺を目指す。寺院下には駐車場もあるのでそこからは境内に入り山上まで繋がる山道に向うが、寺院正面の住居脇から背後に建立されている稲荷社を通過して南尾根上の郭を目指すのが一番手っ取り早いと思われる。個人的にはたくさんの園児が寺院内にいた為に遠慮してすぐ北側にある神社参拝道を上り神社(出郭跡か?)を通過して山上を目指した(所要時間15分程度)。もちろん下山は前者の道で下りたが、、

城跡は寺院背後の南郭より高い切岸を伴いながら山上主郭まで10数段無駄なく郭が並べられた構造であり、最高所にあたる主郭が一番規模は大きく、背後には土塁を窺う事が出来る、ここだけは木々は伐採されており眺望も利き、尚且つ、くつろげる空間となっている。この山城も他の丹後地方の一色氏の山城と同様に切り立つ高低差のある切岸が特徴で、10m前後の高い切岸が三箇所の郭跡で見て取れる。個人的には先に寄った宮津八幡山城跡のインパクトが余りにも強烈に残っており、形態を同じにするこちらが少し霞んでしまったのはやむを得ないか、、しかしそれなりに味のある城跡である事に変わりは無い。

現状(10月)城跡は登山道中及び見晴らしの良い主郭を除けば、郭内部の藪化は相当深刻な状態にあり、見通しも利き難く風化の真っ只中にあり、更に地表も荒れ放題と化している。恐らく夏季訪問ともなれば更に木々は生い茂ると考えられるので視認も難渋すると思われる。訪城はやはり冬季がベストか、、、

1route_6 登城ルート

4_saizenji 登山進入口

3is 城跡概念図

32_nisi_oohiroma_3 西端大広間

32_nisi_oohiroma_1 西郭群の切岸

28_kaku_heki 凄い切岸

14_2maru 二の丸

21_gedan_yori_shukaku_heki 主郭下段より主郭壁

17_shukaku_dorui 主郭土塁

15_shukaku_2 主郭

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