« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年8月

2008年8月31日 (日)

雨山 土丸城跡(大阪府泉佐野市)

大阪府泉佐野市土丸にあって南北朝期において南朝側の拠点となる城跡であるが雨山、土丸の二城から成立する城域の広い山城である、戦国期までは数度の城主の変遷もありながらも17世紀初頭までは城として機能していた模様である。

城跡へは数箇所登山口がある様だが何れも登山遊歩道が山頂まで通じているので迷わず辿り着ける、その中でも恐らく最短で尚且つ遺構確認しながら城域全体を見て回れると言った点においては阪和自動車道のすぐ手前真北にあたる成合南の登山口からがベストだと思われる。

1_route 登城ルート

4_tozanguti 登山口案内板

3 城跡概念図

このルートでは最初に規模の大きい馬場跡を通り雨山城千畳敷き跡に到達するまでは20分程度の道程である、この山上郭群はほぼ主郭と千畳敷きの主要二郭で形成されており見所としては未だ健在の鋭角で高低差のある切岸に尽きるのではないかと思われる。井戸跡も残存しているが綺麗に整備されているので今一リアル感には欠ける、この井戸跡の脇から南西に向いて下りて行けば10分程度で土丸城跡に辿り着けるので決して見逃してはならない。

11_2 千畳敷き手前の堀切

19_senjyou_jiki_1 千畳敷き

22_tukimitei 月見亭跡

33_hokusei_gedan 主郭北西下段郭

31yaguradai

雨山 主郭

土丸城は雨山より少し規模では劣るが主郭手前の防塁としての大土塁と主郭切岸が目を引き、北西側には堀切を挟んで二段郭も設けられている。

現状両城共にある程度整備されており残存遺構のほとんどは確認判別出来る状態にある、縄張りは三箇所の山のピークに跨っており城域は広いが郭占有面積は山が険峻な為にそれほどの規模を有してはいない。自然と一体感を味わいながらの登山は気分を爽快にさせてくれ、山上は眺望もききゆったり流れる時間は戦国期にタイムスリップした様な錯覚にも捉われ、想像も限りなく膨らます事の出来るロマン溢れる城跡である。

20_3maru_yori_shukaku_gawa 土丸三の丸より主郭側

22_dorui_horikiri_1 主郭東の大土塁

28_2maru_yori_shukaku_heki_1 二の丸より主郭切岸

33_shukaku_nai_oku_yagura 土丸 主郭

38_horikiri_dobasi 北西堀切土橋

42_nisikaku2 北西郭

根福寺城跡(大阪府貝塚市)

大阪府貝塚市キビ谷の辺境の地にある山城、本来は松浦氏による築城であるがその後は根来衆の城となる。

城跡は非常に説明し難い場所にあるのでおよそは登城ルート地図を参考にして欲しいが基本的に市内側から辿り着くには二つのルートしかない。府道40号から奥水間温泉経由の道が一番分かりやすいと思われる。現地に到着すれば道路沿いの案内板より西側二つ目にあたる谷状の奥に入り込んだ地から縦堀沿いに直登すれば20分足らずで東側主郭に辿り着ける。

城跡に関しては他のサイトでも訪城紹介が行き届いているのでここでは割愛させて頂くが、とにかく素晴らしいと言う以外賛辞の言葉も見つからない城跡の一つである。現状(二月)冬季ではあるが藪化は相当進行しており移動に困難を来たす事は無いにしろ郭跡によっては視認し辛い場所もある。城跡は大手と見受けられる中央の虎口を境にして東西二城から形成されており、山上全域に渡って郭が張り巡らされている。縄張りプランから考察しても全て意味のある構成になっているので飽きを来させず非常に楽しめ尚且つ見応えのある城跡となっている。

後の情報で西側に縦堀群が存在する事が分かったが個人的にそちらまで足を延ばす余裕が無かったので踏破は出来なかったが少し心残りにはなった。訪問時期に夏季は絶対に避けたい処である

1route_4  登城ルート

3a 城跡概念図

15_2jyuu_horikiri_2_2 東二重堀切大土塁

21_shukaku_e 東主郭

58_kitakaku1_yori_1 北郭より主郭切岸

66_kitakaku3_higasi_heki 北郭3の東切岸

68 北郭3東側の石垣跡

71_kita_yasiki_isigaki_1 71_kita_yasiki_isigaki_3

北屋敷段郭群石垣跡

31_horikiri_kaku 中央の虎口跡

40_nisijyou_higasikaku 西城東郭

2008年8月30日 (土)

佐治城跡(兵庫県丹波市)

兵庫県丹波市青垣町佐治にあって広い佐治集落の南に位置する八柱神社を挟み東と西に分かれた山の山上が城跡、児島氏の居城を伝えるが詳細は不明。

城跡(東城の主郭)へは佐治繁華街の南に位置する八柱神社を目指せば道は狭く少し分かり辛いが辿り着く事が出来る、神社からは山上に向いて旧参道らしい山道があるのでそれを辿れば容易に辿り着ける。西城へは一旦山を下りて西側の西往寺を回りこみキリスト青垣教会の脇道より秋葉社に上りそのまま山上へ向かう。どちらも比高30~40mほどの低い山なので苦も無く上り下り出来る。

城跡は東西に分かれた山上郭だけを採り上げれば縄張り妙味も無く、優れた遺構も見受けられないもので少し物足りないが、二城に挟まれた中腹の神社を居館跡、それより下方を屋敷群と見立てたなら城跡としては三位一体となった守りに堅い城跡という事になりそうである。遺構に多くは望めないが縄張り全体像から推察しながら想像を膨らませるとより楽しめる城跡になると思われる。現状(一月)主要郭群は全てとは言えないが草木も余り蔓延っておらず比較的良い状態のものを味わう事が出来、快適に見て回れる状態となっている。

尚、西城の進入口に中る教会の向かいに周囲が古い石垣で囲まれた屋敷跡があり、そこには謎めいた石垣の虎口が存在するが城跡との関係ははっきり分からずじまいである、、、しかし妙に気になるところではある。

Sa 登城ルート

3_1z 城跡概念図

11_kita_2maru_nai 東城北二の丸

12_2maru_dorui_koguti 二の丸土塁虎口

17_shukaku_nai_yasiro 東城主郭

35_nisijyou_shukaku 西城主郭

38 西城堀切土橋

28_fumei_isizumi 謎の石垣虎口

岩倉城跡(兵庫県丹波町)

兵庫県丹波町市島町北奥岩倉にあって妙高山から北に延びる尾根先が城跡、城史に関しての詳細は不明。

城跡へは市島和知線59号道路沿いの川を隔てた北側の鴨庄小学校が目印、これより南東側に城跡は位置しており道路より南側に進路を取れば容易に付近までは到達出来る。後は登城ルートを参考にし麓の小さな作業小屋を目指しその背後を少し登れば城跡となる、ただ現状城跡を二分するフェンスが南北に渡って設置されており、その半分は栗林となっているので訪城季節によっては立ち入る事は控えた方が良いと思われる。

城跡は丘陵地に位置し南側は堀切によって尾根より分断孤立化しているが、最上段が背後に土塁を備えた主郭と見受けられるもので城館跡と推察しても良い大規模な面積を所有している。西側には横矢を伴う土塁、空堀も設けられており、郭最下段にある食い違いあるいは枡形にも見て取れる土塁虎口と併せて織豊系縄張り形態を少し醸し出すものの様にも見受けられる。ただ栗林の西半分は自然任せの為に風化、藪化とも激しく視認し辛いものになっており地表も相当荒れている。栗林側は手入れされているので土塁、空堀跡も明確に判別出来るが、断りも無く入山した所有地とあって流石に気が引けて多くは見て回ることが出来なかった。

1a_3   登城ルート

3a_2 城跡概念図

6 城跡進入口

14_dorui_koguti_2 土塁虎口

14_dorui_koguti 土塁虎口(別角度)

20_karabori_dorui 空堀土塁跡

17_nisi_karabori_dorui_1 西側空堀土塁

30_minami_horikiri_yori_shukaku 主郭背後の堀切

ここから覗ける北東尾根上(登城口を記す)にも便宜上北東出城とするが、小社となっている郭跡に三本の堀切を備えた砦規模の城跡が存在しているので立ち寄っても損は無いだろう。こちらは意外に状態が良いので遺構は全て判別可能となっている。28_kita_shukaku_1

北東出城主郭

8_minami_daihorikiri 南側大堀切

11_horikiri 堀切

2008年8月29日 (金)

端谷城跡(兵庫県神戸市)

 先に、私事で恐縮ですがこのブログを開設して一ヶ月半経ちました。

世間に城跡ファンは多いかも知れませんが人目に付き難い山城を求めて徘徊しておられるファンはその三割ぐらいかも知れません。その中で三宅氏渡辺氏古城氏には重なる激励のコメントを頂戴しており非常に感激しております。これからの山城訪問の励みにも繋がりモチベーション維持のカンフル剤ともなっています。現在でも溜まったまま未整理状態の訪城リポートがまだ相当あり、これからの訪問リポートとも併せて整理しながら小出しして行くつもりですが、ブログに目を通して頂いているまだ未訪の方々の情報源として少しでも役に立てればと思っています。

「ここから正規の訪問リポート」

兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷にあって寺谷集落に突き出した南尾根先端部に位置する満福寺が城跡。衣笠氏の居城であるが別所氏(三木城)の支城でもあり秀吉による三木合戦においては三木城と共に落城、その後廃城の道を辿る。

城跡へは県道52号に進入し満福寺を目指せば難なく辿り着ける。城跡を一言で分かりやすく説明するなら規模はそれほど大きくは無いが縄張り妙味もあり、遺構そのものも大変見応えのある城跡と言う事になる。中でも南北尾根を分断する二本の堀切が縦堀となって落ち込む様は高さも伴い圧巻と言うべきものである。現状三の丸と呼べる場所には寺院が建っているので多少当時より地形は改変はされていると窺えるが、寺院の北側は当時のままとも見受けられ整備状態も良いことから残存度の高い遺構群を拝む事が出来る。主郭から堀切を越えた北側の山上付近も郭跡が確認出来たが密生する雑木薮の為に視認も困難、おまけに行く手も阻まれ踏破は断念する。北東側にも数段の段郭跡を確認出来たがこれも足を踏み入れるまでには至れなかった。

繰り返すがメジャーかも知れないこの城跡の見所は整備された郭跡で満足してはいけない、二本の大堀切がほぼ麓まで落ち込む様は上下東西の四方から眺めて凄みを堪能して欲しい。

1route_2 登城ルート

3_2 城跡概念図

12_daikarabori_2 南大堀切と大土塁見所

16_2maru_nai 二の丸

20_shukaku_e 二の丸より主郭側

22_shukaku_yaguradai 主郭櫓台

24_shukaku_nisi_gedankaku_1 主郭西下段郭土塁

28_nisi_daihorikiri 西側大堀切 見所

26_nisi_gedan2

西下段郭2の土塁

佐保 松谷砦跡(大阪府茨木市)

この城跡は先に訪問記を紹介した佐保城からは川を隔てた真南に位置する教恩寺のある東端が川に達する尾根先端部にある。二城を見て回るには先にこちらを訪問し車を置いて歩いて佐保城まで行った方が賢明かも知れない。教恩寺までは細い車道から進入出来るが寺院山門より東側の竹林地からはすぐ城域となる。

現状この砦跡も佐保城と同様に藪化しているが郭跡への進入は可能であり、遺構としての櫓台土塁、虎口跡、郭跡などの確認判別は容易に出来る。もちろん小規模ではあるが砦にしては切岸処理も削平跡も窺われ案外本格的に築造されたものの様にも見受けられる。砦跡の道路を隔てた西側には寺院及び神社があるが、この神社も地形から察する所、本来砦の一部であっても不思議ではなく同じ尾根を共有しており後世に郭跡を神社敷地として転用したものの様にも見て取れる。

3_2

登城ルート及び城跡概念図

4toride 進入路

9_kogutinai_dorui 虎口内の土塁

11shukaku_dai_dorui 主郭土塁

15higasi_gedan 東段郭

18_jinjya 神社へ

19_kaku_nai 本来郭跡か?

佐保城跡(大阪府茨木市)

大阪府茨木市佐保にあって佐保川沿いを走る110号線より北側に位置する尾根先端部が城跡、城史に関しては詳細は不明。

城跡へは国道171号中河原より110号に入りそのまま北上を続ける。説明し難い場所なので後は登城ルート地図を参考にして現地へ、場所だけ目星をつけると民家横から直登となるが数分で取り敢えず城跡の縁までは辿り着ける。

1z 登城ルート

3 城跡概念図

3sahojyou 城跡進入口

31_yakata_minami 進入路より西側の砦跡に見えなくも無い地形

なぜ縁までかと言うと現状では隙間もなく矢竹が密生しておりとても郭内に踏み入る状態には無いのである!今までは対外な藪でも好奇心が勝れば強引に突入していたが今回は流石にお手上げの状態と言える。もちろん周囲も相当な藪なので一周する事は不可能に近いが、それでも山上に到達するまでの西側に石垣跡、小郭跡、巨石の石列などは確認する事が出来た。山上部の形状などは推察するしかないがほぼ平坦で単郭構造の館城の要素を持つ城跡ではないかと思われる、北側には部分に古い石垣を伴う堀切(道)と付随する郭跡と見受けられる農作地があるがこれを当時のものとするかどうかの判別は難しい。城跡周囲は農作地あるいは民家となっており地形あるいは民家周辺の至る場所に残る古い石垣跡からある程度推察し、見た人の観察力と洞察力に頼るしかないのが現状出来る事である。しかし反面限りなく想像も膨らむのでこう言った城跡を探索するのも結構楽しいものである。

10_zanzon_isi_1 残存石垣見所

13_ooisi_sekiretu 巨石の石列

14shukaku_kita_ooisi_1 北側の堀切と石垣跡

18_kitahaigo 北より山上主郭

25yakata_isi 西側民家畑地の石垣跡

2008年8月28日 (木)

香下城跡(兵庫県三田市)

兵庫県三田市香下にあって歴史のある香下寺の東側に位置する標高524m羽束山の山頂全域が城跡、香下衆の築いた城跡と聞くが詳細は不明。

1z_2 登城ルート

3a4 城跡概念図

城跡へは香下寺を目指しまずは川西三田線68号に入る、道路沿いに羽束山登山口の案内看板が出ているので注意しながら車を走らせると見つける事は容易である。そこからは北に進路を取り難なく登山口である寺院までは辿り着ける。そこからは登山道に従えば迷わず山上主郭まで辿り着けるが、中腹辺りのお地蔵さんの鎮座している場所から南側が出郭らしく、土塁を伴った堀切及び南端には物見郭跡があるので絶対に見逃してはならない。この出郭遺構は土塁、堀切などが残るように宗徒が築いた年代にしては少し新しいもので戦国期までに改修を受けながら完成された様にも窺える。

10_minamikaku_1

南出郭の分岐点

12_minamikaku_nai_dorui

出郭の土塁

14_horikiri

出郭堀切

ここから更に100m近い高低差を上りきればやっと山頂の社殿(主郭跡)に辿り着けるが、山上郭群は思った以上に規模が大きく社殿の建つ場所は下草も少なくよく整備されている。最高所である櫓台土塁の底部には当時のものとも見受けられる石垣跡が残存しており、南側の自然岩が露出した郭跡は眺望もきき非常にくつろげる空間となっている。登ってきた疲れもここで一掃される気分であるが、ここの南端の一枚大岩を下りれば堀切に土塁を伴った小郭跡が残されているのでこれはチェックが必要、何でもない小郭になぜ堀切まで必要なのかが謎で、深く考えさせられる部分なのである。北側には堀切を挟んで規模の大きい郭跡があり更に北へ段郭群も形成されているが、北側は相当藪化が進んでおり中々視認には困難を要す状態である。

険峻な山城であるが故に登山は体に堪えるが山頂を極めれば戦国時代に思いを馳せる事も出来、達成感と爽快感に包まれる事請け合いの「天空の城」と呼ぶに相応しい城跡の一つである。

25_3maru_nai_iwa_1 三の丸自然岩

29_koguti_ato_ooisi 三の丸南端門石か

39_shukaku_nai 主郭櫓台

36_jinjya_haigo_tomeisi_1 櫓台底部の石垣跡

43_2maru_nai 二の丸

能勢丸山城跡(大阪府豊能郡)

大阪府豊能郡能勢町地黄にあって集落より少し外れた北西側に位置する独立した低い山塊の山上部分が城跡。

清和源氏の流れである多田氏がこの地に入り能勢氏を名乗ったが最初であり、能勢氏代々の居城であるが過酷な戦国期を乗り切り江戸期には旗本として集落の東側にある地黄陣屋を構え末裔は維新まで存続した模様。

城跡へは国道477号を北上した場合地黄集落道路沿いの警察署を目指し,それのすぐ東側にある地黄中学校が陣屋跡(大手虎口石垣及び周囲を囲む石垣跡が残存)。そこから北西に歩けば数分で城跡のある小山が見えるので場所はすぐ確認出来る。登城口は川を渡った山裾にある民家(一軒家)の北にある九輪石塔脇から上る事になる。

1route_2

登城ルート

3enbou_2西より登城口

3h 城跡概念図

3a 状況及びコメント

11_yasiro_kaku 南郭と主郭帯の切岸

18dorui_koguti 二の丸へ土塁虎口

26_dorui_2maruheki_1 北郭より二の丸切岸

24_nisi_karabori 二の丸西空堀(武者隠しか)

21_kita_horikiri 北堀切

地黄陣屋跡(丸山新城)1z_2

学校前の案内説明版

9_oote_koguti_1 大手枡形虎口

6_nisi_gawa_1 西側大手の石垣

15_minami_isi 南壁の石垣

17_kita_gawa 北側の石垣

2008年8月27日 (水)

荷成山砦跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市宮前町宮川東垣内にあって神尾山城からは北東側に位置する出城あるいは砦跡と推察出来るが詳細は不明。

城跡は国道372号からは西側に宮前集落が望め鉄塔の建つ低い山の山上が郭跡になっている、一番最短で登れる南側にある富家稲荷神社を目指し、神社向側の斜面に取り付けば数分で山上主郭には辿り着ける。郭跡はほぼ山上全域に渡っており削平跡は窺えるが切岸処理はされてはおらず、現状自然地形と余り大差ないものである。北尾根にも郭跡があるが藪に阻まれ一旦山を下りて北側の鉄塔から登り直した。道を隔てた南側の神社背後にも郭跡を見ることが出来たがこちらも砦としてセットになったものの様に感じられた。

神尾山城の大手側を監視する砦としては格好の場所にあり、ほぼ神尾山城の最前線の砦と考えて間違いなさそうである。神尾山城の訪問ついでに立ち寄る程度なら期待外れに終わる事も無さそうに思われる。

1route_2 登城ルート

32 城跡概念図

5_minami_yori_2 東から城跡を望む

7_shukaku 山上主郭

10_higasi_kaku_yori_shukaku_1 東郭群

11_higasi_one_sizenkaku_1 13_sizenkaku_2 東尾根上郭跡

14_kitakaku_1 北郭跡

22_kita_sizenkaku_1 神社背後の郭跡

上杉城跡(大阪府豊能郡)

大阪府豊能郡能勢町上杉にあって上杉集落より北東側の丘陵上が城跡、小塩氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは603号沿いのカーブ先端にある上杉神社を目指す、神社の背後から既に城域と見受けられ出郭らしき削平地が現れる。ここから更に北尾根上は自然地形に近いが郭跡となっており堀切のある土塁虎口を越えればいよいよ本郭部に突入する事になる。城跡は南から北に向かっての長い尾根を利用し、堀切を境にして四郭から形成されているもので特に主郭周りは複雑でユニークな縄張り構造となっている。ユニークと言っても言葉では中々説明し難いので是非訪れて見て納得される事をお薦めしたい、現状城跡は藪化進行中ではあるが特に移動、視認に困難を来たすまでには至っていないので遺構はほぼ確認判別出来る状態にある。しかし主郭北の堀切から北側の郭跡にかけては相当藪化も激しく流石に更に北を踏破してみようと言う気にはなれなかった。

大規模な山城ではないが自然地形を上手く利用してよく練られた様に窺える縄張りプランは見て回る分にも中々飽きを来させず、おまけに遺構残存度も高く予想以上に楽しませてくれる城跡であった。

1_1 登城ルート

3_1z 城跡概念図

6_minami_horikiri_koguti 南側の堀切と土塁虎口

9_higasikaku_gun  東郭群

13_horikiri 堀切

16_dorui_karabori 主郭へ通じる空堀道と土塁

22_shukaku_nai_ooisi_2 主郭

23_shukaku_nai_dorui 主郭内の土塁

25_kita_horikiri 主郭北堀切

2008年8月26日 (火)

貝野城跡(兵庫県多可郡)

兵庫県多可郡多可町東山にあって登山口にあたる多可高校横の古墳群からは北西に位置する山の山上が城跡、赤松氏の流れである在田氏の居城が伝わるが詳細は不明。

城跡へは国道427号から東山古墳群か多可高校を目指せば難なく登山口である古墳群には辿り着ける、そこから小型車であれば北側山に向いての車道がそのまま続いているので登山口近くまでは進入することが出来る。北に進むと道沿いに妙見山登山口の案内板があるのでそれに従えば妙見山との尾根分岐点まで到達出来るが、ここからは妙見とは逆になる南側急斜面に取り付いて一気にそれを登り切ると北主郭に辿り着ける。

1route_2 登城ルート

2_enbou 西より城跡遠望

1z_3 城跡概念図

城跡はこの様な山上にありながら驚くほど状態が良く下草も木々も少ないので見通しも良く縄張り全体像は容易に摑める状態である。切岸及び削平跡もしっかり残っており地表もそれほど荒れていないので当時の状態を思い起こすのも容易となっている、個々の郭規模が比較的大きいので城跡自体も余計に大きく感じられ随所に残る石垣跡が険峻な山城を更に堅固にしている形となっている。縄張り妙味はないものの郭壁周囲が石垣で覆われていた事を想像しただけで城跡の迫力も堅固さも伝わってくる感じで非常に見応えのある城跡である。

絶賛する言葉しか出てこないが人の手の入っていない山城で現在この様な良い状態のものを眺められる事などほとんど無いに等しい、それを覆した数少ない城跡の一つである。

2_tozan_guti 登山口

4_kita_shukaku_nai 北主郭

9_kaku2_sekiretu 二の丸の石列

11_kaku4nisi_isi 三の丸石垣跡

22_kaku4obi_isi 三の丸帯郭石垣跡

13 南郭虎口の石垣跡

24_kaku4_yorikaku5 三の丸より南郭

尚、西側に位置する端光寺から真北に向いてNTT中継所の作業道があり、それを利用すれば山上にある段ノ城までは迷わず辿り着けるのでこの城跡と併せて二城同日訪問すれば効率よく見て回ることも可能である。

三蔵山城(兵庫県宝塚市)

兵庫県宝塚市下佐曽利周辺にあっては一際高く聳える標高411mの三蔵山山頂が城跡、別名佐曽利城で佐曽利氏の居城であるが戦国期においては光秀の傘下となっている、その後の詳細は不明。

城跡へは川西から川西篠山線12号を利用し北上する場合、ローソンのある68号分岐交差点も直進し2km先の集落より西側に折れ川沿いの細い車道より現地に向かう。もちろん登山道などありはしないのでまずは取り付き口を捜すことから始める、この山は四方が急峻な斜面となっておりどこから取り付いても時間的には余り大差が無いと思われるが、取り敢えずは一番最短距離で方角的に分かりやすい北から南に向いて登るこのルートを想定した。およそは登城ルート図を参考にして頂いて山の方角である真南に向いて登れば何とか辿り着く事が出来るが、登るには藪漕ぎと斜面との格闘になる事だけは覚悟しなければいけない。(所要時間約50分) 下山は必ず登山した側の真北に向いて下りる事が大事である。(方向磁石は必須アイテム)

1z_2 登城ルート

4 進入路より三蔵山

3 城跡概念図

城域到達地点は巨大な岩壁が聳える物見らしき郭跡で一応の目安とはなるだろう。山上はほぼ全域が雑木藪と化しているが移動に困難する事も無く、予想したより随分状態はましである。古い形態の山城と窺え広大な平坦地である主郭に輪郭が数段回っており更に南側斜面の数段の段郭群から構成されている。自然岩を郭壁として取り込み形成されているが山そのものが岩の塊でもあり岩で守備された城跡と呼んでも差し支えないかもしれない。技巧の必要性など求められない縄張りに加え、人を寄せ付けない険峻さでは他を圧倒している単純且つ剛直な様相を呈しているこの城跡の存在感は戦国期においても相当な異彩を放っていた様にも感じられる。

縄張り妙味や技巧的な遺構などに期待をしてはいけない。この山城は山上を極めて初めてそのスケールの大きい存在感に凄さを感じ、そこに「侍」ロマンそのものを感じ取れる城跡なのである。訪問時期に夏季は禁物!

9_monomiiwa 10_monomi_kaku_1 巨大岩壁の物見郭跡か見所

20kaku2_kita 北側の輪郭跡

25_horikiri_iwa 自然岩利用の堀切見所

27_horikiri_dorui_iwa 西側の大土塁

32_shukaku_nai 主郭

38_higasi_gedan1 東郭跡

2008年8月25日 (月)

真南条上城跡(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市丹南町真南条上にあって先に記事紹介した館山城跡からは二村神社を跨いで北東側に位置する山の山頂から北尾根にかけてが城跡、別名高山城とも呼ばれており波多野氏の家臣とされる河村氏の居城が伝わっている。

この城跡へは丁度一年前の今頃訪問したのであるが既に訪問紹介した館山城跡及び足見寺城跡(河村氏の居城)もすぐ近くに位置している事から好タイミングとも思い今回採り上げさせてもらうことになった。城跡へは館山城跡の道順になるバス停から直進した道路途中の角にある畳店からは左手(東)側に進路をとり二村神社の山門への道も通り過ぎ、数10m先の尾根先端にある道路沿いの無人の民家とガレージの間の細い道(現地の写真あり)に進入する。ここが出発点で後は道に従えば難なく山上主郭までは辿り着けるが、山上主郭に城址碑が建立されているのでその為の山道あるいは旧参拝道であるとも思われる。

城跡ははっきり言って見応えがあるとは言い難いが、館山城跡と同日訪問ついでに立ち寄る程度なら案外得した気分になれるかもしれない。

1route 登城ルート

6_tozanguti 登山進入口

3taka 城跡概念図及びコメント

11 西郭

12_dorui_koguti 尾根上の土塁虎口

21_tatebori_or_horikiridou 縦堀か堀切道

24_horikiri 主郭北側の堀切土橋

27_shukaku_nai 主郭内の石碑

27_shukaku_nai_3 主郭

館山城(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市丹南町真南条中にあって集落の南側に突き出た小山の山上に主郭を置き東側に屋敷跡並びに郭群を配する別名枝城とも呼ばれる城跡、文献では江原佐馬之助居城と伝わるだけで詳細は不明。

城跡は国道372号線のバス停宮の谷(消防署詰所あり)より真南に見える小山がそれであり傍の南東に向く道路に進入して畳店を通り過ぎて更に直進する。一軒民家を通り過ぎて右手(南側)に折れ小橋を渡れば右手正面に城山山頂と植林地が見えてくるので、畦道からその方向に向かい植林地奥へと進入するとそのまま城域に達する。一番分かりやすい登城道は西側からの旧神社参道(地図に記す)

1route_3 登城ルート

7_2 北側の進入路

Zz1_2 城跡概念図

この城跡の最大の見所は小規模な砦クラスの山上主郭(全長15~20m)にあらず東側に展開される連続堀切、巨大縦堀、屏風の様に切り立つ連続大土塁及びそれを活かしきる縄張りプランにある。現地に至るまでは何の期待もしていなかったが、それにしてもこの堀切群と大土塁群は素晴らしいし凄すぎる!言葉を失うと言う事はこの事かもしれない。この城跡の威容を言葉で説明するには少々無理があるので未訪の方は是非とも訪城して納得して頂くしか方法がない。現状山上主郭は給水施設が建ち雰囲気が壊されているが、他は植林地と言うことも手伝ってか下草も少なく見通しが良く、全ての遺構群は判別確認できる状態にある。(この記事を載せる数日前に訪問しているので鮮度の高い情報)

丹波篠山地区に数多くある山城の大概は山頂主郭から麓にかけて段郭的に郭が配され尾根を堀切で分断し、館跡部分はせいぜい土塁を回す程度で終わっているものが多い様に見受けられるが、この城跡の土塁と空堀で複雑に構成された縄張りは他の丹波地域のどこにも見当たらない比類なきものである。 正に一見の価値あり!

Shukaku_2 山上主郭

Photo_2 南側巨大縦堀

Yakata_ato_ka_2 凹状平坦地館跡か

Rennzoku_horikiri_dorui_1_2 連続堀切土塁見所

Rennzoku_horikiri_dorui_3 堀切と土塁の威容

Dai_dorui_2 堀切と切り立つ大土塁

Horikiri_2 北側より堀切大土塁

Tatebori_2 縦堀より社跡の北出郭

Tatebori_1_2 北側より縦堀

2008年8月24日 (日)

猪崎城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市猪崎にあって福知山城からは由良川を隔てて橋を渡ればすぐ見える真北側の丘状地が城跡、塩見氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは福知山市内より24号に入り由良川に架かる音無瀬橋を渡れば目の前に見えてくる丘がそれであり、冬季であれば樹木も枯れているのですぐ確認する事ができるはずである。車で進入するには北側の墓地(三段池公園西側)まで回り込まなければならないが墓地横に案内板があるのでここからは歩いてすぐ進入できる。

城跡は公園化されてはいるが現状は真夏とあってか夏草やシダでびっしり覆われており主郭以外は地表も見えていない状態である、遺構の残存保持状態は良いのだがこれ以上の整備を望むのは財政上酷なことか、、見所は主郭周囲を半周する空堀で、高い土塁を伴っているので余計に迫力及び見応えを感じるものとなっている。下草のお陰で郭内には踏み入る事が出来なかったがおよその縄張りは掴む事が出来た、冬季の訪問となれば案外下草も枯れて全貌も把握し易いのではないかと思われる。

この地から北に数分も移動すれば中村城跡(同じく塩見氏の居城)更に数分で池辺城跡とあるので三城同日訪問であればより効率よく見て回れるはずである。

Izaki_08318_1 冬枯れ時期の城跡(南から)

Isaki_2 登城ルート

3_2 城跡概念図

8_kita_yori_shukaku_gawa_dankaku 北段郭群

15_karabori_dorui_2 16_karabori_dorui_3

空堀土塁見所

19_shukaku_heki 主郭切岸

21_shukaku_nai_1 主郭

23_nansei_dankaku 南西段郭群

32_kitaigawa_kirigisi_1 北郭群の切岸

井根山城跡(京都府綾部市)

京都府綾部市野田町にあって詳細は全く不明の山城

城跡は国道173号で北上した場合新綾部大橋を渡る手前の東側(右手)にある山の山頂にある、登山口は橋を渡る手前の国道沿いの下道にあたる場所にあるので一旦左にそれて下道を逆戻りする形で井根山公園に向かう。到着すればそのまま遊歩道に従えば山上まで行けるが相当遠回りになるので数10m先の途中から本来の山道を上ると効率よく登れる。4

西側の下道より遠望 1route

登城ルート

山上は公園扱いになっているので綺麗に整備はされているが、肝心の山城に関しての説明案内などはなく本来の史跡としては全く無視されているものになっている。展望を求めて登る人にとっては誰もこの地が城跡である事は分からないであろう、最高所にモニュメントまで建てるのなら史跡説明ぐらいせめて欲しいところである。見る限りでは山上主郭の半分以上は造成され当時の面影は無いものと見受けられるが、主郭から東端の二重堀切は素晴らしい状態で残存しており縦堀と並んで城跡唯一の見所となっている。砦規模の城跡である為全体的に見応えがあるとは言えないが、麓からはすぐ登れる距離にあるのでこの堀切遺構だけを見る為に訪れても決して後悔する事は無いと思われる。

3inem 城跡概念図

10 西側登山道

12a_1 造成された主郭

I_009 東郭跡

I_019 主郭切岸

I_015 I_013 二重堀切見所

2008年8月23日 (土)

前木戸城跡(兵庫県丹波市)

兵庫県丹波市市島町下竹田にあって下竹田集落より竹田川を挟んで南東に位置する丘陵上にある城跡(サシド城と読む)、室町期における高橋氏の居城であるが戦国期には赤井氏(黒井城主)の配下である赤井弥助が拠ったとされている。この城跡も黒井城と同様で光秀により落城したと思えるがその後の詳細は不明

城跡へは国道175号線を利用した場合寺内の信号から東へ進路を変えて竹田川を渡れば目の前の東へ延びる丘陵地は城跡である、主郭は東尾根の先端部分なのでまずは東側の二宮神社を目指す。神社に到着すれば小川が目の前にあり、橋の大師道参道入口の石碑より川傍の民家庭横を通り参道に従い登ればば5分程度で城域に入れる。

城跡は北東端から南西端の堀切までの丘陵上全域が郭跡となっており多少の高低差及び土塁で郭境としており一本の堀切で主郭群は分断されている。城跡最大の見所は方形に近い主郭の東側と南側に設けられた空堀で現状深さも土塁の高さもある程度保持されており見応えのある遺構となっている、空堀の南東角には少しせり出した横矢の入った櫓台土塁まで窺える。切り通し道になっている南西側には延々と郭跡が繋がっておりその中央に位置する小高い丘状地にある墓地までは郭として取り込んでいた様にも見受けられる。探索すれば限がないので南西地域は程々に見納めたが、とにかく南西未踏郭群まで併せると凄まじく広大な城跡である事は確かである。たとえれば丁度京都府園部町の丘陵上にある宍人城跡の様を呈しており規模も互角かそれ以上とも思われる。

現状(11月)主郭内と北郭内(中央部)一部の場所は相当藪化が進行しており視認し辛い場所もあるが全体的に見れば移動もし易く、状態はまだ良い部類に入ると言える。複雑な縄張り箇所も無い事から遺構はほぼ判別確認出来る状態でもある。

Photo 登城ルート

Sasido 北側より城跡遠望

3_1 城跡概念図

6_start_point城跡 進入路

13 主郭北側の郭跡

19_daidorui_karabori_1 主郭北を仕切る空堀大土塁見所

18_higasi_gawa_karabori_dorui_8

東側空堀土塁

18_higasi_gawa_karabori_dorui_6

東側横矢土塁空堀見所

24_dorui_nantou_kado 南東角の櫓台土塁

26_minami_karabori_1 主郭南空堀

31_minami_yori_dobasi_karabori 主郭を分断する堀切土橋見所

石峯寺城跡(兵庫県神戸市)

神戸市北区淡河町神影にあって石峯寺の東背後から東西に渡る尾根上が城跡、詳細は不明であるが戦国期における城郭寺院の詰城の様にも窺える。

城跡へは山陽自動車道に沿う形で走る三木三田線38号から弓ノ木を過ぎ北側(右折)に進路を変えて石峯寺(シャクブンジ)に向かう、目指す山城は寺院背後にあると思われるが今回も何の予備知識もなく地形図だけを頼りに臨んだ。寺院東側に山道が見えたのでそこから登るが、山上主郭には小規模ではあるが櫓台が設けられ、西側には四連の段郭が連なっており寺院の詰城的な様相を呈してきている。更に東側斜面には随分埋もれてはいるが三重堀切を確認する事が出来、そのままゴルフ場の溜池のあるティグラウンドまで突入する。本来ならここで引き返す処であったが軽くゴルファーに挨拶して足早に去り更に東尾根踏破に向かう。城跡は地形図から想像出来た通りに相当東にまで延びており二本の堀切を挟んで尾根上に郭跡を確認する事が出来、東端には出郭と呼ぶべく城中では最大の郭跡までも確認する事が出来た。その東傾斜面には相当埋もれてはいるが二重の空堀も確認出来、こちらが本来の主郭の様にも見えてくる。尚、東尾根を断つ最初の堀切を南側へ下りると巨石が壁の如き防塁と化して郭を形成しており、巨石がゴロゴロした虎口の様な空間もある。更にここから屋敷跡と見受けられる土塁を伴う広大な郭跡にも繋がっており、これらも中々見逃せない遺構群の様に思える。

推察ではあるがゴルフ場として削られた跡(ティグラウンド)の北側の最高所は未踏になったが山頂部分にも物見あるいは山上郭が存在していたのではないだろうか、地図だけを頼りに臨んだ城跡であったが意外に収穫は大きく巨大な山城でもないのになぜか想像を掻き立てられる城跡なのである。

1route_3 登城ルート

3z 城跡概念図

6 石峯寺

16_shukaku 主郭

18_yagura_dai_dorui 主郭櫓台

34_3jyuu_horikiri 東斜面の三重堀切

42_horikiri_2_2 東尾根上の堀切

63_daihorikiri_1東尾根 大堀切

47_yasiki_kaku 堀切を下りた南側の郭跡

64_higasi_demaru_dorui 東出郭土塁

66_karabori_1 空堀

2008年8月22日 (金)

奥畑城跡(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市奥畑にあって奥畑集落の北背後の山塊の東尾根先端部が城跡、南北朝時代の山名の築城と伝わるが他の丹波の城と同様に歴史に翻弄され城主の交代の度に改修が重ねられ現在に至ったと思われる。

城跡へは篠山市内より北上する場合301号を利用し奥畑集落まで辿り着くと東尾根への取り付き口を捜す、道路から見えている民家横の墓地に当たりを付けて畦道から進入し直登山開始となる。中々の急斜面であるが20分内で城域となる西郭に辿りつくことが出来た。ちなみに下山時には少し方向がずれたが途中細い山道に合流出来たので案外この山道を辿りながら直登した方が上り易かったのかも分からない。

城跡は小規模ではあるが非常に見応えのある山城で、藪化は進行中であるが残存状態も比較的良く遺構はほぼ判別確認出来る状態にある。最大の見所は主郭から南に下りた場所に設けられた自然岩を取り込み形成された枡形風の虎口で上を仰げば崩落跡にも見える巨大な縦堀となっており一見の価値のあるもの察せられる。南段郭群も状態は良く判別はし難いが井戸跡にも窺える窪み、郭内の削平跡、縦土塁、切岸などは良好に残存しており山城の醍醐味に拍車をかけている。

丹波及び篠山地方の山城はこの城跡も含め比較的小規模な城跡でも大きな土木量で本格的に築き上げられており、見る者に取ってはこれが大きな醍醐味となっている。訪問時期は12月であったが状態から察する処夏季の訪問は少し避けた方が良いかも知れない。

1route_1 登城ルート

5_tozanguti 直登山口

3 城跡概念図

12_nisikaku_dorui_1 西郭土塁

47_nisi_daihorikiri 西大堀切

18_shukaku_nai_1 主郭

20_minami_dankaku_gun 南段郭群

28_dankaku5_heki 南段郭群の先端郭

34_tatebori_sita_iwa_koguti 枡形風自然岩虎口見所

37_koguti_1 自然岩虎口見所

安口城(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市安口にあって国道372号線からは川を隔てた北に位置する尾根先端部が城跡、東に位置する籾井城の支城でもあり光秀の丹波攻略により本城と共に落城。

城跡は安口(ハダカス)集落の川を挟んで北側に位置しており尾根先端部が西から川岸近くまで落ち込んでいる先端の山上にある、進入口はその西側の橋を渡り農道を山に向かって直進、墓地が現れたら東側斜面に踏み跡程度の山道があるのでそれに従えば山上主郭までは10分程度で辿り着ける。

この城跡の最大の見所は未だに美しい角度と高さを保持している堀切で主郭櫓台背後に設けられている、この堀切を越えた西郭の北西側には更に三重堀切も備わっているので絶対に見逃してはならない。この堀切群を見る為だけに訪れたとしても絶対に悔いの残らない山城であると断言できる。現状梅雨時ではあるが西郭及び東郭群が少し藪化している程度で移動に困難を来たすことも無く、ほぼ全体像は摑み取れる状態にあり四季を問わず訪問はある程度可能である様な気はする。

1route 登城ルート

6_oku_tozanguti 進入路

3y 城跡概念図

12_dorui_isi 主郭土塁虎口の石垣痕

10_shukau_nai_1 主郭

14 主郭西櫓台土塁

24 24_horikiri_1 主郭西堀切見所

34_sita_3jyuu_horikiri 西郭三重堀切見所

18_higasikaku1 東郭

2008年8月21日 (木)

霧山城跡(兵庫県丹波市)

兵庫県丹波市氷上町氷上にあって丹波市役所からは東側に聳える綺麗な形の山である標高372m霧山山頂が城跡、同じ丹波地方にありながら八上城を東波多野、こちらは西波多野と呼ばれ霧山は西波多野の本城と伝わっている。同じ波多野氏には変わりないが両者の関係に関しては詳細は不明。

城跡へは篠山から北上した場合国道176号稲継からそのまま7号に入る、氷上の信号手前付近から東側の細い道に入り二宮神社を目指す。この神社背後から登山道が山頂まで通じているので迷わず辿り着く事が出来る、しかし近年では登山客も少ないと見え相当道も荒れておりほぼ踏み跡程度になっているのが現状である。山上までに一箇所尾根上に郭跡を確認したが他は物見らしき小郭がある程度で、山城らしい狭小な段郭群も堀切も存在しない。これだけ急峻であればそれも必要とはしないのであろうが急斜面を30分内で到達する事が出来た。

1z 登城ルート

3kiriyama 城跡概念図

6tozanguti 二宮神社登山口

山上郭跡はほぼ単郭構造で周りに帯郭が付随しており規模は相当大きいものである。現状木々に遮られて展望が良いとは言い難いが郭内の見通しはよく山頂全域が削平されている事も良く分かる。山上から東側斜面を下りた場所に一箇所堀切が設けられ土橋を伴っている山城としての雰囲気を醸し出す唯一の遺構である。これより北東側には更に自然地形に近いが郭跡と見受けられる削平地が連なっている、南東側へは権現山を経てガンシュウジ城跡へと登山道は繋がっている様であるが到達するには距離はまだ相当ありそうである。

13_nisi_demaru_1 西自然地形郭

15_sekimon 自然岩虎口か

16_sekimon_kogutikaku_1 虎口郭跡

22_shukaku 22_shukaku_1 主郭

26_horikiri_dobasi 東堀切土橋

長谷山城跡(兵庫県丹波市)

兵庫県丹波市市島町喜多にあって集落からは北西に位置する低い山の南側尾根が城跡、船越氏の居城を伝えるが詳細は不明。

城跡へは市島町国道175号より県道59号に入り二キロも走ると北側山裾に道路から小さな観音堂が見えてくる、その北側の低い山が城跡になる。登山道があるとは思えないので最短距離になる観音堂付近の上りやすい場所を探して直登すると数分で南端の郭跡には到達する。

ここから北側尾根が城跡であり登るにつれて畝状縦堀が姿を現す、南側斜面全体に施されているようで現在梅雨時ではあるが木々の間から明確に判別確認出来る状態である。上方に登っていくと6~7段から成る郭群が高い切岸を伴って最高所にあたる主郭まで連なっており、主郭には櫓台跡らしき高まりまである。主郭北背後には二重堀切まで用意されておりここまで登ってきた甲斐があったと一人で納得に至る。

この山城の見所は何と言っても畝状縦堀群で周りの状態が良くない中で、残存度の高いものを拝む事が出来る。城跡の規模が大きくないので全体像も把握し易く、道路沿いからすぐ到達出来る事もあって手軽に畝状縦堀を眺める事の出来る山城と言える。

1route_1 4enbou 登城ルート

3x 城跡概念図

7_nobori_shamen_1 南郭より登り土塁道

9_horikiri_dorui 土塁堀切

10_une_tatebori_3 畝状縦堀見所

12_dorui_kaku_1 郭跡の土塁

21_yagura_dorui 主郭櫓台土塁

25_shukaku_kita_horikiri_2 主郭北背後の堀切

2008年8月20日 (水)

天正寺城跡(神戸市北区)

神戸市北区淡河町本町にあって淡河城跡からは山陽自動車道を隔てたほぼ真北の山の山上に位置する城跡、有馬氏の居城と伝わるが三木合戦においての秀吉側の淡河城に対しての向城と聞く。

城跡へは淡河城跡の見える県道38号淡河本町交差点を西に過ぎた後144号を北に進行し道に任せて自動車道の高架下まで走る、潜るとすぐ右折(東側)した池のある場所から東に聳える山が城跡になる。池の東端道路沿いにコンクリの石段があるのでこれを登り北にそのまま山道を向かうとゴルフ場の池まで到達出来る、その手前(堀切)を東に向いて登ると社殿の建つ主郭まで20分程度で辿り着ける。

10月の訪問であるが藪化も相当進行中で主郭周りだけでも確認出来ればと思い多少の藪漕ぎ覚悟で臨む、社殿の建つ主郭の一部だけが整備されていたが他はどの郭跡も雑木に覆い尽くされている状態である、何とか木々の間を縫って移動は出来るので二重堀切、土橋、空堀(溜め井戸か)遺構の判別確認はすることが出来たが、動き回れて視認できる範囲が限られる現状ではここまで確認するのが精一杯であった。真冬の訪城ともなれば少しは確認も容易になるかも知れないが、、、

1z 登城ルート

3te2 城跡概念図

4 南より城跡遠望

9_dorui_koguti 西側の土塁虎口?

25_mizunote_ato_1 空堀(溜め井戸か)

31_horikiri_dobasi 主郭西下段の土塁虎口及び堀切土橋

35_gedan1_1 主郭西側の切岸

38_shukaku_atago_yasiro 主郭

26_ooiwa_horikiri_1 主郭北の堀切

足見寺城跡(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市丹南町真南条中にあって国道372号より北側にある願勝寺からは北東に位置する山の山頂から尾根上が城跡、河村氏の居城を伝えるが詳細は不明。

城跡へは願勝寺を目指し到着後、寺院横の池の土手沿いを歩き山裾にある金毘羅社(廃屋化している)へ向かう。ここから北側の尾根に向いて直登となるが七月と言えども踏み跡は少し残っており、多少の藪漕ぎは覚悟の上であったが意外に難渋もせず山上主郭まで30分内で辿り着く事が出来た。

5 城跡遠望

1route_2 登城ルート

3v 城跡概念図

道中には規模の大きい郭跡が二箇所ありそれを越えると見所でもある堀切土橋を迎え、やっと本郭近くまで来たことが分かる。この高低差のある堀切壁の切岸を越えると二の丸から主郭まではすぐである。主郭には規模はそれほどでもないが櫓台らしき跡もあり、その周囲は切岸処理も施されているように見て取れる。櫓台北側には土橋状の土塁が直線的に堀切を挟んで北尾根に繋がっている様であったが倒木に阻まれて途中まで確認しただけに終わってしまった、しかしこの遺構は他では中々御目にかかることが出来ないもので山城ならではの移動尾根道でもあり同時に防備も兼ねた防壁である様にも見受けられるものである。尚、地形図から推察するのみであるが北側及び東側尾根にも郭は展開されている様にも窺われる。

現状城跡は藪化進行中とは言え七月にも拘らず遺構は全て視認判別出来る状態にあり移動に難渋するまでには至ってはいない。しかしこれから先は自然と一体化するのも時間の問題と思われ、訪問時期はやはり冬季の方が無難である様に思われる。

18_3maru_1 三の丸

20_horikiri_dobasi_1 20_horikiri_dobasi_2 堀切土橋見所

23_2maru

二の丸

21_2maru_yagura 二の丸土塁

28_shukaku_kita_heki

主郭北壁と土橋見所

2008年8月19日 (火)

明智西古城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市三和町友淵にあって篠山側から丹南三和線97号を北上した場合友淵集落の西側にある山の南北尾根上が城跡。

この城跡は明智光秀が福知山在城時に支城となすべくこの地を自ら検分し土木作業に当たらせた最中に亀岡城主に任命されこの地を去ったとある(案内板より)。その後この城跡がどのように機能したものかは詳細は不明。

城跡へは友淵集落に入り97号道路西沿いに小さな案内看板が出ているので注意して見ればすぐ確認できる、そこから西側に向かう道路があるのでそのまま西側の山を真直ぐ目指し参道を上ると尾根分岐点である堀切に到達する。堀切から右手(北側)鳥居を潜り登ると既に城域となり、切岸処理のない南郭を通り過ぎて土橋の架かる堀切を越えると主郭に到達する。主郭周りは意外にも切岸処理が窺われ城跡としてはほぼ完成していた様にも見受けられる。

現状社殿のある櫓台に相当する小郭跡から下段郭北側全域にかけては身動きも取れないほどの雑木藪と化しており、視認も踏み入る事も出来ない状態となっている。三月(訪問時期)でこの様な状態では何時訪問してもほとんど北側を踏破するのは無理かも知れない。お陰で縄張り全体像は把握出来なかったが城跡自体は小規模である為、光秀の去った後も工事は進み砦として機能していた可能性も案外否定出来ない。尚尾根分岐点である堀切より南に向いて逆に登ると山上に物見あるいは狼煙台の機能を担ったと思われる削平地が残っている。光秀の関わった城跡と言う事でかなり期待をして臨んだがある意味期待をし過ぎた様でもあった。

1route 登城ルート

3ak 城跡概念図

10_kuti 堀切(尾根分岐点)

14_horikiri_dobasi 南側堀切土橋

15_shukaku_e 主郭側

16_koguti_dorui 主郭虎口

17_shukaku 主郭

19_yagura_e 最高所の櫓台

23_minami_sanjyou_norosidai_1 南山上の物見郭あるいは狼煙台

2008年8月18日 (月)

三草山城(兵庫県加東市)

兵庫県加東市社町上三草にあって播磨地方では山城としてよりも登山としてハイカーの多く訪れる標高424mの山である、この三草山の山上から東側尾根一帯が城跡である。意外に山城見学として訪れる者は少なく登山道を少し外れた辺りの雑木藪の中には相当数の遺構が眠っており随所に残る切岸、石垣跡は感動ものである。

この山は古くは12世紀頃の源平古戦場として歴史にも登場、その後南北朝期において赤松氏がこの地に山城を築き居城とした模様。その後の詳細は不明

3 3_1

城跡概念図

城跡へは登山遊歩道として幾つかルートがあるが車で訪れて分かり易く、登る距離も短く尚且つ尾根上の郭跡を確認しながら山上まで登れる畑地区にある口池からのスタートがベストだと思われる、山上主郭まで辿り着くには40分は要するがその間は尾根上の郭跡石垣跡、土塁跡、郭切岸といった数多くの遺構を判別確認しながら移動出来るので全く苦にならない。特に主郭より手前南側に展開される南郭群は現状相当な雑木藪であるが石垣跡、郭切岸、埋もれた空堀跡、段郭跡と遺構も豊富にそろっているので絶対に見逃してはならない。状態は悪いが残存度は高く判別確認は可能であり、この雑木藪一帯が山上よりも遥かに赤松時代の遺構が手付かずのまま残存しているのだ。石垣跡は主郭外壁にも窺う事が出来るが藪の中を探せばまだ多くの遺構が眠っていると思われる。

15_minamikaku_heki_isi 南郭壁石垣跡

17_koguti_dorui 南郭土塁虎口

27_minami_kaku 南郭

32_shukaku_e 主郭切岸

33_shukaku_heki_isi_1_2

主郭壁の石垣跡

38_shukaku_nai_1mai_iwa

主郭

35_yaguradai_isidan 主郭櫓台(最高所)

山上は素晴らしい眺望で、ゆっくりくつろぐ事も出来、今までの疲れも癒され都会の喧騒も忘れさせてくれる空間となっている。訪問するまでは登山目的の山の印象が強く、山城としては大して期待も寄せていなかったのだが、訪れて見るとここは予想を遥かに上回るしかも石積みを得意とする赤松氏の山城跡であった。

2008年8月17日 (日)

十倉城跡(兵庫県三田市)

兵庫県三田市十倉にあって集落の東側長慶寺より更に東側に聳える山の山頂が城跡、寺院南東側には居館跡地も残存している。森本氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡へは国道176号から北上する場合三田より県道37号に入り道任せで十倉集落に入る、集落に入れば37号より東側に位置する長慶寺を目指せば寺院までは到達出来る。寺院からは大船山に向かう登山道が東南に向いてあるので途中まで利用し北へ取り付き直登するが、かなり険しい斜面でもあり下山に使用した寺院から真東にそのまま取り付いて登るルートの方が登り易いかも知れない。どちらにしてもある程度の藪漕ぎは必要になるが20分程度で山頂までは辿り着く事が出来る。

寺院前より5_1 城跡遠望

1z 登城ルート

3dx 城跡概念図

現状三月と言う事もあってかある程度城跡内の見通しも良く、規模も小さいので落葉を踏みしめながら容易に縄張り全体像は把握する事が出来た。山城特有の自然岩を取り込み郭壁と成しており一部人為的な石列も認められ、正に規模は小さいが要害と呼ぶに相応しい雰囲気を醸し出している。険峻さと小規模が故に土塁などは見受けられず櫓台の様な土塁の高まりが見受けられた程度で、麓の館跡とセットになった詰の城あるいは物見の機能を持たされた山城と解釈して良さそうである。縄張り妙味は全く無いが個人的には好きなタイプに入る砦規模の山城である。

12_nisi_yori_gedan2_3 西側の段郭

14_nisi_gedan1heki_iwa 自然岩壁

20_yaguradai_isi 主郭櫓台

21_yagura_yori_nisi 主郭より西郭

23_higasi_hasi_sekiretu_1 主郭東端石列

麓には居館跡と伝わる広い郭跡が数段形成されており数箇所に古い石積み跡を見て取る事が出来る、郭内には幅を持つ空堀跡を確認出来たがこれは後世のものかも知れない、、判別は難しい。

30_yakata_ato 麓の館跡?

2008年8月16日 (土)

笑路城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市西別院町笑路にあって国道423号犬甘野口バス停からすぐ南東側に見える山の山上部全域が城跡で別名松尾山城と呼ばれる、長沢氏の居城と伝わるが詳細は不明。

城跡の位置はバス停から見える南東側に鉄塔の建っている場所が主郭にあたるので方向の確認はすぐ出来る、バス停東側にある農道に進入し道に任せて進むとすぐ小さな城跡案内板があるのでそれに従えば20分内で主郭まで辿り着く事が出来る。ネット上でも多くの方が訪問され紹介もされているので多くは語らないが、この城跡の魅力は何と言っても石垣跡に尽きるのではないかと思われる。主郭周囲の随所に石垣跡及び崩落石が窺えついつい築城当時にまで思いを馳せてしまう、そんな石垣跡だけで充分感動を味わう事の出来る城跡である。

尚、主郭内は現状鉄塔が建設されており郭跡も妙に平坦に改変されているので当時の状態までは残念ながら窺い知る事は出来ない。現状藪化も相当進行中である為出来れば冬季か冬枯れ時期の訪問がベストと思われる。

1route2 登城ルート

1enbou_2 登山進入路

1z 城跡概念図

3_daihorikiri 大堀切

4_2maru_kitakoguti_isi 二の丸北虎口石垣跡見所

19_2nomaru_higasi_dorui 二の丸東側土塁

5_shukaku_2marugawa_isi 主郭東壁の石垣跡見所

10_shukaku_minami_isi 主郭南虎口周辺の石垣跡

9x 石垣跡

11_nisi_kaku_tatedorui 西郭の縦土塁

17shukaku_nai 現状の主郭跡

出野城跡(京都府船井郡)

京都府船井郡京丹波町出野にあって長願寺(癌封じの寺で有名)の真東に単独で聳える低い山の山上が城跡。片山氏の居城と伝わるが光秀には帰順しているので出野氏はその後の在城か、、詳細は不明

城跡へは国道27号線から車で訪れるのであれば長願寺を目指し南側にある山陰本線の線路が確認出来れば踏み切りを越える、寺院に到着すればその前の道を東に向かうと鉄塔があるのでその下から参道を利用して上ると社殿(主郭跡)まで到達出来る。

城跡は社殿が建立されているので整備されておりシンプル過ぎる縄張り非常に分かりやすい状態にある、ただ城跡は郭跡の転用で神社となっているのでどこまでの部分が当時の遺構なのかは判別不能である。石垣も使用されてはいるが古い石積み箇所と明らかに神社の為に積み直された近世の箇所とが混在しており、この判別は見る人の判断に委ねるしかない。現状では他に石垣痕も見られないので最初から石垣は使用されていなかった可能性も否定は出来ない。主郭から南参道側には畑地あるいは休耕地に見える荒地が数段あるが本来はこの辺りまでは城域として解釈しても良さそうである。

この地から国道27号線を西に5キロも進めば既に紹介した山家甲ヶ峯城跡もある事から、その寄り道程度でこの城跡を訪れると両城の持つ雰囲気の違いを味わう事が出来、更に二城を効率よく楽しむことにも繋がる。

1route 登城ルート

3 長願寺より城跡遠望

2z 城跡概念図

14 主郭へ

13_gedan_zanzon_isi_1

当時の残存石垣か

10_gedan1_yori_shukaku_1 二の丸に相当

12_gedan_sekiretu 古い石列

9_shukaku_nai 主郭

5_kita_horikiri 北斜面の堀切

2008年8月15日 (金)

板井城跡(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市上板井にあって市内の西側を南北に走る舞鶴若狭自動車道のすぐ東側に位置する丘陵上が城跡。室町期より長らく山名氏の居城であったが光秀の丹波攻略によって落城、その後の詳細は不明。

城跡へは篠山市内より県道97号に入り宮田の交差点を西に向かい自動車道に沿って少し北上すると城跡である低い小山がすぐ見えてくる。城跡の南端に天満社があるのでそこから進入すれば既に城域となる。1z_4

登城ルート

3_2 城跡概念図

城跡は南北に長い低丘陵上の全域を縄張りとしており北端に主郭を構えるものである、中央にある二重堀切を境として北側主郭群は削平跡、切岸跡が明確に残り土木量の大きさが窺われるが南側は切岸も甘くほぼ削平のみの郭群で構成されている。主郭側の縄張りは非常にユニークで大手又は三の丸側から主郭に移動するまでに二箇所の狭い上り土塁土橋を通らなければ辿り着けない仕組みになっており、更に土橋片側は切岸で崖状になっているので防備は非常に固いものになっている。主郭周りは全て崖状斜面になっており中でも神社側の北壁は自然大岩群を取り込んでおり中々迫力のあるものになっている。

現状(訪問時期三月)堀切より北側の郭群に関しては雑木が蔓延り視認及び移動に難渋するという事もなく遺構はほぼ確認判別出来る状態にある、主郭は社殿があったせいなのか特に状態が良い。篠山市内には城跡も数多いがその中にあっても保存状態がある程度良く遺構残存度も高く、見応えもあり尚且つ5分程度で手軽に城域に入れる是非お薦めの城跡の一つである。

33_2gyuu_horikiri_dorui 南側二重堀切土塁見所

31_horikiri_takadorui 堀切より三の丸切岸

31 堀切

20_3maru_yaguradai 三の丸櫓台

7_2maru_e_druidou 二の丸へ上り土塁

12_shukaku_heki 二の丸と主郭切岸

14_shukaku_dorui_dou 主郭へ上り土塁見所

15_shukaku_nai_1 主郭

16_shukaku_sita_dorui_horikiri 主郭西下の堀切土塁

油井城跡(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市丹南町油井にあって国道176号より東側にある独立した様に見える小山の山頂が城跡、八上城主である波多野氏の傘下で酒井氏の居城と伝わる。

城跡へは登山口があるとは思われず何時もの様に一番最短で取り付きやすい場所を探す事から始まる。国道176号を北上した場合リサイクルショップが道路沿いにあるのでその北側の山が目指す城山なる、少し北上した東側にある空家の脇から直登すると数分で西郭跡に辿り着ける。5_oku_tozanguti

南より遠望

1z_2 登城ルート

3axwa 城跡概念図

意外に外見から窺うより規模は大きそうである、聳え立つ切岸を登ると主郭に到達するがかなり雑木で覆われており視認もし辛い。中心部の石碑が建っている場所だけが妙に木々が少ないが他の郭跡も結構な藪と化している。しかし移動に難渋しないだけはまだましかも知れない、南側に向いて段郭群が連なり規模の大きい二の丸、三の丸と繋がっているがその間は堀切で断たれている。他は余り技巧的要素の遺構は見当たらないが、三の丸を下りた辺りに石列がある、しかし利用方法は謎である(土留め石には見えない)。そのまま南側に下りる際になぜか山道が通じていたがこれが本来利用されていた大手かあるいは後世の山道(登山道)であると見受けられる。結果的に登山口は南側山裾にある事だけは知りえたが外見からは藪状で全く見えないので直登は正解であった。

28_nisi_obi 西郭跡

26_shukaku_nai 主郭内の石碑

22_minami_dankaku_gun 南段郭の切岸

15_daihorikiri 大堀切見所

14_3maru_nai 三の丸

10_sekiretu 三の丸南側の石列

城跡の訪問時期が五月と言うせいもあってか雑木も葉も生い茂り憂鬱に成る程の藪城であったが、複雑な遺構(縦堀の確認は無理)がないのでほぼ城跡の全体像は摑む事が出来た。結論としては外見から判断するより随分城跡規模は大きいが縄張り妙味もある訳ではなく遺構は郭跡と切岸及び一本の堀切の判別確認で留まり、最終的には城跡の存在確認で終わってしまっただけの様な気がする。しかし違う見方をすれば自然に任せた手付かず状態の為非常に遺構残存度は高い城跡なのである。

2008年8月14日 (木)

栗栖城跡(大阪府豊能郡)

大阪府豊能郡能勢町栗栖の地にある城跡である。今回で二回目の訪問となるが過去一回目の訪問でこの地の山頂322mまで登って見たが遺構らしきものはほとんど確認出来なかった、強いて挙げれば山上から南尾根に向けての数段の平坦地形は出郭らしくも見えるが主郭が確認出来ないのではとても断定は出来ない、今回は以前から目をつけていた山頂から東側の山裾を目標に絞り再度栗栖城へ挑む事になった。

国道173号を北上した場合栗栖の交差点より東側(4号線)に進路を変え更に104号線を少し北上すると大里集落に入る。この道路沿いにある大里集落センターの西背後の南北に渡る丘陵上が目標とする城跡である。

1zz 登城ルート

4 東より遠望

3yz 城跡概念図

結論から先に言って目標とした地を栗栖城跡と断定するには情報資料が乏しく今回は暫定として紹介させてもらう。と言うのもこの地には他に吉村城(資料に大谷山頂にある城跡とある)が存在し場所の特定も出来ていない状態で栗栖城と混同してしまう恐れが生じるからである。後はこの訪問日誌を読まれた読者がもし訪問された場合に独自の判断で納得してもらうしかない。城跡は水原氏の居城と伝わり戦国期において織田信澄の攻撃を受けて落城したとある。

丘陵上は予想通りの城跡と言えるもので、余り高低差もなく北と南に分かれた郭構成であるが明確に削平された跡が窺える。どちらも相当規模が大きく南郭は自然地形に任せた特異な形をしている、その北西側には一本の堀切が明確に残存しており北西側の山上尾根を分断した形となっている。ここから更に北西へ登っていくと自然地形郭を確認しながら三角点(322m)に到達出来る。北郭と南郭間には片堀切跡も残っておりそのまま東屋敷跡まで下りて行くと数段の屋敷跡を挟む形で北側に土塁を伴う櫓台的な郭跡も残っている、これは正に館を守備する為の物見郭の様相を呈している。

現状(六月)城跡は北側へ向かうほど雑木及び夏草等が密生しておりほとんど踏み入れる状態には無いが北端部分を除けば主要な箇所はほぼ見て回りやすく、案外ましな状態と言える。南端墓地から上り北東側の池より畦道を下りて行けばほぼ全体の八割は見て回った計算になる。

10_minami_sanjyou 山上南郭

11_horikiri_1 北西堀切

13_kita_sanjyou_1 山上北郭

14_naka_horikiri 中郭片堀切

16_yasiki_heki_1 屋敷跡切岸

17_yasiki_yori_yagura_heki 櫓郭切岸

19_kaku_yagura 櫓台郭見所

7_minami_hasi_1_2 山頂南尾根郭跡 ?

高山城跡(大阪府豊能郡)

大阪府豊能郡豊能町高山にあって箕面ダムから北上すれば府道4号沿いの西側にある完全に独立した山塊の山上が城跡

城跡名で分かる様に有名な高山右近の生誕地である、右近は歴史好きな人なら誰でも知っての通りこの地を出発点として戦国大名に上り詰めていく事になる。

城跡は説明に至らない程の単純な縄張りで、山上は高低差の無い平坦地が数100mに渡っており南側に堀切を挟んで主郭がある。南端の堀切は土橋と土塁を伴うもので城跡唯一の見所ともなっている。現状郭跡は全域が植林地となっており、見通しがきき全体像も確認し易い状態にあるので時期を問わず訪問は出来そうに思える。

1x 登城ルート

3 城跡概念図

13_horikiri_dorui 12_horikiri_dobasi 南堀切土橋

17_shukaku_nai_1 主郭

18_shukaku_kita_horikiri 主郭北堀切

20_horikiri_yori_kitagawa 堀切より北側に延びる郭

21_kita_sizenkaku_1 南北に長い北郭

22_yasiro_ato 北郭の石碑

2008年8月13日 (水)

宍人城跡(京都府南丹市)

京都府南丹市園部町宍人にあって集落中心を流れる園部川の西側に位置する丘陵地上が城跡、15世紀頃の小畠氏の居城を伝えるがその後についての詳細は不明。

城跡へは園部川沿いを走る453号から川を隔てた西側集落に進入する、多少道路も狭いが地域のグラウンド場と公民館を目印にすれば難なく辿り着ける。公民館の前を通り山に入る道があるのでそれに従うとそのまま城跡となる。

1z_2

登城ルート

S_92

東より遠望

Zz

城跡概念図

この城跡は歴史文献及び近年の城跡ブームによる定期新刊書、城郭雑誌等のどれにもほとんど採り上げられないでいる(ネット上では紹介されている)。この城跡を館跡程度に考えておられる人の為に敢えて紹介させてもらうが、居館跡と断言できるのは北側にある方形状の郭跡で、他の規模の大きい郭跡は当時では斬新である土塁に横矢構造を用い空堀と併用して更に防備を堅固にしたり武者溜りの様な空堀施設があったり独立した段郭があったりと山城に近い城跡そのものと言える構造物ばかりである。全体を通しての縄張り妙味には尽きることが無く、ただ広いだけの城跡ではない事が良く分かる。規模自体も近畿圏内では見ることが出来ないほどの驚愕に値する広大な郭占有面積を持っており、時代と共に改修されたとも見受けられる土塁と空堀を駆使した先進性に富んだ館城的な城跡と言えるものである

二年ぶりとなる二回目の訪問になるが、うねうねした土塁と空堀、延々と続く郭跡が脳裏に焼き付いており再び感動を味わうべく当地を訪れる事になった。現状城跡は(最新の情報)八月にも拘らず植林地ということもあってか下草も無く、前回は蔓延っていた雑木も刈られ、尚且つ杉の間引きも行われた後と見えて非常に見通しも良くて明るく、数々の遺構は全て露見している。特に前回は藪蚊にも悩まされ北側を探索していなかったのが唯一の心残りで今回は思う存分に歩き回れそうな状態である。

主要な郭跡の北側にある丘上地には周囲を土塁で囲み空堀まで伴った方形館跡が存在しており、期待していた以上のものに出くわし興奮を抑え切れない状況である。他の郭跡と同様に風化によって地表は荒れ放題で土塁も空堀も状態は悪いが明確に判別は出来る。規模も大きく土塁の使い方、馬出しに見える土塁囲みの郭跡などは織豊系に見えなくもないものである。城跡は広大な台地の中に五城に匹敵する郭跡が堀切(空堀)を挟んで形成されているが、とにかく見所満載で細かく言葉では説明し難いので願わくば縄張り概略図を参考にイメージを膨らませてもらうと有難い。これを見てまだ未訪の方には少しでも訪問のきっかけとなり、又その後には同じ感動を共有出来れば更に喜びも大きいと言うもの。

S_89 城跡進入口

S_2 土塁空堀

S_16 土塁空堀の奥横矢見所

S_59_2 空堀武者溜り見所

S_83 東側切岸

S_71 大堀切見所

S_12

空堀と土橋見所

S_66

堀切より北側郭跡

S_73二段郭跡(東最高所)

S_35北方形館跡

S_28

方形館外周の空堀土塁

2008年8月12日 (火)

福地城跡(兵庫県西脇市)

兵庫県西脇市黒田庄町福地にある城跡

予備知識のないまま訪れる結果となった今回の城跡であるが訪問紹介するにあたって少しややこしい事になった。

本来は蟲生城(福地城とも呼ばれる)を場所の確認もせぬまま訪れたのであるが、場所が分からず御霊神社周辺を徘徊していたら、偶然ではあるが測量に携わっておられた市役所の方に出くわした。これは良い機会と思い城跡の情報を求めたら、話は長くなるので結論から言うと「山上と麓側に二城存在し、山上郭は蟲生、現在の地であるここは暫定ではあるが福地城と呼ばせてもらっている、こちらは秀吉の中国制覇中に影響を受けた後世の城跡」と言う見解であった。今もまだ調査中であると言うことは近いうちに歴史も少しは解明され、城跡としての全貌も明らかになるのではないかと期待が持たされる。

徘徊中の城跡は便宜上福地城と呼ぶがこの城跡は確かに秀吉の影響を受けており巨大な土塁虎口、それに伴う空堀などは間違いなく織豊系のものと見受けられ主要四郭から構成される相当な規模の城跡である。特に見所は幅を持たせた空堀で広大な西郭との境に設けられており今でも少し水を湛えている、東端にある主郭には櫓台と思われる土塁も残存しており、その背後は堀切で絶たれている。天然の堀として機能している川には空堀も落ち込んで来ており縄張りプランも多少ではあるが見えてくる。現状測量調査の為部分的には木々も伐採されているが三月と言えどもほぼ全域が雑木に覆われている、落葉している為見通しはある程度きくが夏場の訪城はきびしいと思われる。

1z 登城ルート

3musio3 城跡概念図

30_shukaku_1 主郭

28_higasi_daihorikiri_1 主郭東堀切

34_naka_kaku_daidorui 大土塁虎口見所

36_mizu_bori_1 空堀(本来は水堀か)見所

32_nisikaku_koguti_2 西郭登り土塁虎口と空堀見所

思わぬ事で歴史にも登場してこない、素性もはっきりしない城跡を見学する事になったがまだまだこの様な城跡があると思えばこれからの山城訪問にも期待が膨らむと言うものである。これから臨む蟲生城跡はこの城跡を見学した跡なので少し霞んで見えるかもしれない。

7_karabori_ka_2蟲生城 南山裾の空堀

12_demaru_gedan 西出郭

19_shukaku_e_koguti_horikiri_1 埋もれた堀切

21_shukaku_koguti 主郭切岸と虎口

22_shukaku_nai_1 蟲生城主郭

蟲生城跡は福地城跡の北側に聳える山の山上にありほぼ二郭で構成されるもので東が主郭群で規模は大きいものであるが現状相当藪化が進行中である。西は現在稲荷社となっているが郭跡を転用したもので出郭の機能を備えていたと見受けられる。ちなみに城主は豊臣傘下に入ったと聞いたが、この古い形態の山城を捨て福地城は豊臣主導の下に新しく築かれた城跡なのかも知れない。

内神城跡(兵庫県三田市)

兵庫県三田市中内神にあって720号上内神交差点の真北にある尾根先端部が城跡、城史に関しての詳細は不明。

城跡へは上内神交差点より数m東へ移動した辺りの作業場か倉庫の間の細い道を北に向いて上る、行き止まり地点から畦道を左手側に進めばすぐ進入できる。

4_enbou_1 交差点から遠望

1route_3 登城ルート

5_tozandou 進入路

3_2 城跡概念図

現状城跡は九月と言う事もあってか凄まじいばかりの竹林雑木藪になっており視認も移動も困難を極める状況である、おまけに長年の堆積物による地形変化も凄まじく郭境である切岸も曖昧になっており形状も掴み難い状態である。それでも竹林の隙間木々の隙間を縫って内部に進入すると西側に二重空堀、それに伴う二重土塁ははっきり目に入る。空堀は主郭前面南側を除きほぼ一周しており城跡の中にあっては唯一の見になっている。主郭は方形状になっており南側に土塁跡が残存しており背後はもちろん空堀で断たれている。ほぼ自然と一体化の道を歩んでいる城跡であるがこの二重空堀、土塁はこの地域ではあまり眼にする事が出来ない遺構であり、真冬を狙って訪れると案外ましな状態を観賞する事が出来るのではないだろうか。

二重空堀は一見の価値あり! それにしてもこれだけの醍醐味のある遺構が自然に還っていくとはもったいない事である。

15 郭内

16_daidorui_koguti_1 西側大土塁虎口跡

19_karabori_dorui 空堀土塁

28_shukaku_heki

主郭切岸

2008年8月11日 (月)

鳥坂城跡(大阪府豊能郡)

大阪府豊能郡豊能町野間口にあって浄福寺の北西の低い山の山上部が城跡、16世紀初頭山口氏の居城を伝えるが詳細は不明。

この城跡に関しては所在地の情報しか分からず地形図から見ても全く場所の見当が付かなかった。取り敢えず現地に向かい集落に入って地元の古老にでも場所を尋ねるつもりでいたら、運良く最初に声をかけた年配の男性が知っておられ場所を特定してもらう事が出来た。おまけにその方が所有の栗林から登って行けばそのまま山上までいけるらしい事も解り更に幸運が重なった。進入口は浄福寺の北西背後にある現状堀切道として使用されている場所の道路脇から登り、段郭跡になっている栗林を抜けて更に踏み跡程度の山道を登り切ると山上郭に辿り着ける。長い登り急斜面が続くがおよそ20分程度の道程である。

1z 登城ルート

4 城跡遠望

3xx 城跡概念図

7 登山進入口

13_dankaku_sita_1

段郭群

城跡は二月(降雪の後)ということもあり藪で難渋する事もなく山上郭の全体像を把握する事が出来たが、規模も小さくどうやら物見か砦又は詰城の機能を担うものであったよう見受けられる。狭い痩せ尾根を削平した形跡は充分窺えるが帯郭もなくほぼ山上を平坦に慣らした程度にも見える。しかしよく考えてみると勝手に自分の頭で規模の大きい山城を描いていただけで山裾にある小高い丘の寺院を居館跡とすれば、その背後における段郭群の構成も縄張り的に見て充分納得出来るし、山上郭も詰城あるいは砦とすればこの鳥坂城の城跡形態もおのずと見えてくるものであった。勝手な推察ではあるが鳥坂城は麓に家臣団屋敷(集落)、丘上にある中心地居館跡(浄福寺)、背後を固める郭群(山裾の栗林及び竹林地)、山上(砦跡)と三位一体となった城跡として成立してしまう。

山上郭だけを考えると期待はずれに終わってしまう処であったが、山裾の現在の寺院までに連なる郭跡を見れば自然に想像も膨らみ非常に楽しめた城跡の一つになった。

15_hiroi_dankaku_1 中規模の郭跡

19_minami_kaku_top 山上南郭

21_sanjyou_shukaku_isi_1 山上主郭

24_kitakaku_top 山上北郭

2008年8月10日 (日)

経ヶ端城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市三和町上川合にあって集落の南側の西に突き出した尾根先端部が城跡、丹波史によると樋口氏の居城らしいが詳細は不明。

城跡は府道59号沿いにある川合小学校を目指せば道路から川を隔てた南側に木々の伐採された城跡らしい丘陵が見えてくるのですぐ場所は確認できる。学校南側の橋を渡れば東側に案内板のある小さな小屋(トイレ)が見えてくるのでその方向に行けば道任せで城跡に辿り着ける。

城跡は砦規模ではあるが現在山上に東屋も設置され整備が行き届いており非常に全体像の摑みやすい状態になっている、砦規模でありながら切岸処理はされており堀切、土塁、櫓台とくれば本格的な城跡の様相である。遺構から推察しても戦国期まで街道監視を担い機能していたと思えるフシも窺われる。

この城跡の一番素晴らしいのは何よりも裸状態の往時のままに見える戦国期山城を外側から眺められる事にある。多少のイメージを頭の中に加えるだけで小規模である分、往時の状態を楽に想像する事が可能である。 

1route

登城ルート(訪問日2007.3)

5_hinata_yori_enbou2 学校側より遠望

6_kita_yori_3 進入路より城跡

2 案内板にある縄張り図

17 堀切見所

19

堀切川から主郭

23_shukaku_nai_1 主郭の奥櫓台

25_gedan_horikiri_dorui 主郭西下堀切土塁

34_yagura_sita 櫓台東下堀切土塁

30_obi 主郭切岸と帯郭

2008年8月 9日 (土)

塩山城跡(大阪府箕面市)

大阪府箕面市下止々呂美にあって南側にある止々呂美城跡からは城山を確認できる位置にあり下止々呂美と上止々呂美集落の間に位置する山の山頂が城跡、二城とも至近距離にあるので同日訪問であれば城跡の形態の違いなどが更に分かり易くなる。

塩山氏の居城と聞くが前日紹介した能勢片山城主とは同名なので同じ人物が築城した山城と見受けられる。どちらが本城かは推察するしかないが規模は圧倒的に片山城が勝っている。

1z_2 城跡ルート

3_sioyamajyou_enbou_2 止々呂美城跡から塩山城遠望

3z 城跡概念図

城跡へは二通りの行き方があるが一番分かり易いのは「とどろみ幼稚園」の南側から細い林道が山に向かってあるのでそれに従えば難なく辿り着ける、このルートなら北麓にある家臣団の屋敷跡を確認しながら国道まで下りて行ける。しかし結論から言うと山上郭はただの広大な削平地であり何も見るべきものがない、出来れば直登になるが西に突き出た出郭へよじ登り郭跡と明確に残る堀切を確認した後、尾根伝いに主郭を目指した方がより効果的と思われる。山上郭からは尾根をそのまま東に下りれば堀切及び土塁跡に出くわし、更に北側に下りていくと無数の屋敷跡地などを確認しながら国道まで一気に降り立つ事が出来る。屋敷跡で見逃してはならないのは当時のものかどうかは見た者の判断任せになるが無数の野面積み石垣跡が郭壁面を埋め尽くしている。この地区は地形上どうしても石垣は必要とされるので後世のものとも思えるが、見方によっては時代と共に何度も積み直され底部の石積みが本来の石垣跡とも解釈は出来る。

4_nansei_demaru 南西の出郭

6_horikiri 出郭の堀切

12_shukaku_nai 主郭

14_shukaku_yori_higasi 主郭東側

16_dorui_horikiri_dou_1北尾根堀切道

17_fumoto_dankaku_2 北麓屋敷跡

20_fumoto_isigaki_1 20_fumoto_isigaki

屋敷跡石垣

止々呂美城跡(大阪府箕面市)

大阪府箕面市止々呂美にあって集落の南側の突き出した丘陵上が城跡、かつては宮山としての神社跡がある。馬場氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡は国道423号より川を隔てた東側にあって新設の箕面道路の料金所の北側に位置している。集落を南北に走る道路の際が既に高い切岸となっているので確認はし易い、北側の集落から参道が通じているのでそれに従えば数分で辿り着ける。

1z 登城ルート

3_4_enbou_1 城跡を北から遠望

3_2 城跡概念図

参道から最初に辿り着く主郭跡にはかつては神社跡らしく古い石垣跡(当時の石垣かも知れない)が鳥居傍にあり、規模の大きい郭内は風化によって相当地表は荒れ放題で凸凹はしているが土塁跡の高まりが見て取れる。主郭の東側には相当な規模を持つ二の丸跡があるが現在は休耕地と見られ平坦な荒地と化している、しかし見る者にとっては見通しが良いので非常に助かる。二の丸を形成する北側壁には古びた石垣が数10mに渡って築かれているが当時の遺構かどうかは判別し辛い、更に東側は一部竹林になっているが小高い物見(櫓台)と見受けられる大土塁まで数段の郭跡が連なっている。この郭群の段壁には随所に古い石垣跡が顔を覗かせており数mも掘り下げれば高い石垣跡が現れてくる様にも窺われる。この東郭周辺は一見ただの竹林地に見え見過ごされ易いが絶対に見逃してはいけない、単純な平坦地である主郭より遥かに凝縮された遺構が詰まっているのだ。

11_koguti_1 15_isigaki_2

虎口を形成する石垣(古い積み方)

16_shukaku_nai_yasiro_ato_1 主郭内

25_2maru_yori_shukaku_gawa 二の丸から主郭側

37_yagura_gawa_dankaku 東郭群

36_higasikaku_isi_1 38_dankaku_isi

東郭の石垣跡見所

城跡は冬季のせいもあるが全体を通して見て回りやすい状態になっており縄張りも摑み易く(非常にシンプル)一見主郭と副郭だけに見える城跡も東側山裾には当時の築城プランが見え隠れしている縄張りが施されてある。見る者にとっては城域もせまく見応えのある山城とは言い難いが細部にまで眼を凝らせば充分に満足感は得られる城跡と言える。

2008年8月 8日 (金)

七星城跡(大阪府豊能郡)

大阪府豊能郡能勢町宿野にあって宿野城跡から見て北側の山上が城跡

1route_3 9_2

西側の巡視路から城跡遠望

宿野城跡の項で載せた様にこの山上郭群は便宜上七星城跡とするが、予想通りの非常に古い形態の中世山城跡で戦国期は機能していなかった様に窺える。しかし全長200mに及ぶ主郭の広大さは半端なものではない、ここに当時居館があったとしても何の不思議もない広さである。削平するには相当な土木量が必要であったと思われる。

3n1_2 城跡概念図

3n2 状況及びコメント

16 広い南東郭

18 尾根上の土橋

21_naka_higasi_kaku_gun_1 中、東郭群の大岩郭壁

24_dobasi_tatebori 主郭へ移動土橋

27 規模の大きい南郭跡

32_shukaku 広大な主郭跡

33_shukaku_isi 主郭内の石

宿野城跡(大阪府豊能郡)

大阪府豊能郡能勢町宿野にあって宝林寺から南東に出っ張った尾根先端が城跡又は居館跡1route_2

登城ルート

この城跡を語る場合非常に区別が難しく北側の尾根を上った山上にも広大な郭跡が残存しており、それを七星城又は麓の城跡を併せて宿野城と呼ぶのか、宝林寺山頂に多田源氏である多田満国が築いたとされる撰見之館が七星城の居館跡なのか、現状における資料では全く解りかねる状況である。その後を継いだとされる田口氏は撰見之館を改修して砦とした事も史実にあり、寺の御住職にその件を聞けば宿野城の別名は七星城でもあると余り的を得ない返答でますます城史を分からなくしている。正直なところ個人的に言えばそんな事はどちらでも良く城跡の存在事実と縄張り形態が解ればそれでも良いのだが、訪問紹介する以上は出来るだけ正確な情報を伝えたいのでつい拘ってしまう自分がここにいる。リアルタイムでこの時代を生きた人達にしか永久に解りえないので便宜上ここでは麓の城跡を宿野城、山上にある古い形態の城跡を七星城として採り上げる事にする。

3z_2 城跡概念図

11

宝林寺

城跡へは国道173号山辺口から県道54号に進入し宿野に入るが北側の集落に進入する道は非常にわかり辛く、県道沿いの喫茶店の手前(バス停前)の極端に狭い道を北に向かう、一旦進入してしまえば道任せで宝林寺に辿り着く事が出来る。

城跡は単郭であり規模は小さく居館跡には見えなく砦規模のものである。背後には土塁が設けられており西側は川が流れる天然の堀、南側から東は急斜面となり現状雑木藪の為視認し難いが一本の縦堀は確認できる状態である。ここより北側の尾根先端には段郭群がありより城跡らしい形態にはなっており、城跡に対峙する西側には砦遺構となる櫓台、空堀などがあり相当藪化しているが明確に見て取れる。城跡全体を考えれば寺院を居館跡に置き換えた場合に東西の砦が集落を包み込む形になり、守備体系としては一番しっくりくる様に思う。

16_yagura_dorui_haigo 北側から望む主郭切岸

23_dorui_gawa 主郭奥側は土塁

19_shukaku_nai 主郭内

22_minami_gawa_sekiretu 主郭内石列

28_kita_yamasuso_dankaku_1_2 山裾の段郭群

27_ooiwa 東側の通路門石に見える

2z_1 田口氏の供養石塔

2008年8月 7日 (木)

笛吹山城跡(兵庫県篠山市)

兵庫県篠山市大熊にあって大熊集落の北側に聳える笛吹山の山頂から西にかけての尾根上が城跡、別名大熊城

城跡は中世の山城跡と聞くが現状の残存度の高い遺構を見て察する限りでは戦国期まで機能していた城跡の様には見受けられる。詳細は不明

城跡へは篠山市内より鳳鳴高校又は大売神社を目指し車を走らせる、現状では登山道は見当たらないので西山裾にある大売神社に到着後、その背後の尾根から取り付き直登山を開始する。地形図で見る限り真東に向いて尾根を上って行けば山頂に到達出来る算段になる、時期的には真夏であるが雑木藪に邪魔される事もなく尾根上の踏み跡を辿れば意外に上りやすい状態になっている(倒木は多いが)。

1route_1 登城ルート

3_enbou_1 城跡遠望3_1z

城跡概念図

主郭に到達するまでには数箇所自然地形に近いが削平跡の残る長細い郭跡が確認でき、明らかに土塁虎口と分かる遺構が残る西郭を確認すれば主郭手前にある二重堀切に迎えられる。この山城には主郭から北東尾根上にも二箇所の二重堀切が設けられており、郭跡及び切岸の確認程度しか出来ない現状においての唯一の見所となる遺構である。主郭から南側に向いては数段の郭跡が重なり合って城跡に多少の色を添えている。下山時においては距離もある事から尾根を間違えやすく、素直にルートの逆戻りは難しいので南側に下りる事を考えれば麓に早く下りれる。ただし最近は害獣避けのフェンスが張ってある処が多いので出入り口は探す必要にはなる。ちなみに自分は西郭跡から南側に向いて最短距離を下りたら、運良く大池から続く山道にフェンスを越えて合流する事が出来た。

城跡に関しての正直な感想は特別な遺構があるわけでもなく、縄張り妙味があるわけでもないが三箇所の二重堀切は辛い山登りをしてでも見学するに値する遺構だと断言は出来る。

17_nisikaku_1 西郭跡

18_2jyuu_horikiri

西郭堀切

23_obi_yori_shukakuheki 西帯より主郭切岸

23_shukaku_nai_1 主郭

30_2gyuu_horikiri_1 主郭北二重堀切見所

32_kitaikaku_kosi 北郭の帯郭跡

37kita_horikiri 北郭跡堀切切岸

片山城跡(大阪府豊能郡)

大阪府豊能郡能勢町片山にあって片山の集落からは真西に位置し南北に延びた山の山上全域が城跡

塩山氏の居城と伝わるが相当古い形態の山城と窺われる

城跡へは集落を南北に走る道路沿いから西側にNTTの鉄塔が見えればその山裾に鳥居の見える小さな社を探し、それを目印にして南側に移動した処に山上まで続く巡視階段があるのでそれを登り切れば辿り着ける。4_enbou

西より遠望

1route 登城ルート

3b 城跡概念図

3a 状況及びコメント

18_shukaku_higasi_obi_1 主郭東帯

13_higasi_obi_yori_shukaku_heki 主郭東切岸

17_shukaku_minami_dorui 主郭内南側の土塁

16_shukaku_higasigawa_dorui 主郭内東側の土塁

20_shukaku_minami_horikiri_2 主郭南の堀切

36_nantoukaku_yori_heki 城跡南東端の郭跡

41_nantou_dai_karabori_3 南東山裾の空堀土塁

2008年8月 6日 (水)

寺前城跡(兵庫県神崎郡)

兵庫県神崎郡大河内町寺前にあってJR寺前駅より北西側に聳える一際高い山の手前南側尾根上420m辺りが城跡

城跡は嘉吉の乱で有名な赤松円心が家臣である本郷伊豆守の在城を伝えるがそれ以降の詳細は不明。後で判明した事であるが本郷氏は円心の孫が名乗った姓らしい

城跡へは寺前駅より北西に位置する最明寺を目指せば分かり易い、寺に到着後は背後から参道らしき山道があるのでそれを利用して登る。何しろ麓からでは比高が200m以上ある山なので相当な斜面と高さも覚悟しなければならない、道に任せて進むと中腹辺りに凄い石垣跡のある場所が少し道をそれた場所にあったので立ち寄ってみた。これこそ見る人が見れば凄い遺構なのではないだろうか、恐らく神社跡とも見受けられるが相当古そうな石垣跡である。先は長いので長居はせずに登って行くが段々道らしきものも踏み跡程度になるがやっとの事で南端の郭跡に辿り着いた。途中寄り道をしているのでどれだけの時間を要したか分からないがストレートに登っても40分前後はかかったのではないかと思われる。1route_2

登城ルート

城跡は現状(八月)夏真っ盛りではあるが意外に藪化はしておらず下草が生え放題の中案外見通しは良く遺構の判別確認は容易であった、特別縄張り妙味は無く直線的に郭を重ね堀切で郭間を断つシンプルな縄張りである。城跡は一本の堀切を境に口の城と奥の城に分かれているが当時はその様に呼ばれていたのであろう、高所にあるが故に技巧さは望めないが主郭櫓台壁に残る石垣跡とその背後の堀切は唯一の見所である。

2zz 城跡概念図

4_kuti_no_kaku 口ノ城

4horikiri 堀切

5_oku_no_kaku 奥の城

6_fukukaku 主郭切岸

8shukaku_isigaki8_shukaku_haigo_isi 

主郭背後の石垣跡見所

7_dorui_isi 主郭北の堀切、土塁見所

11_kaku1 北郭

別にこれと言って特徴のある城跡ではないが420mの高所に築かれ、尚且つこれだけの要衝にあることで妙に実物以上に凄く見えてくるから不思議なものである。やはり山城好きな人間にとっては高所に存在するだけでロマンを感じてしまうものなのかも知れないし、個人的にも苦労して登った山は規模の大小に拘らず思い入れが入ってしまうものなのかも分からない。

三尾山城跡(兵庫県氷上郡)

兵庫県氷上郡春日町中山にあって中山の集落より南側に聳える三つの峰の山上が城跡

城跡は「丹波の赤鬼」として名を馳せた黒井城主赤井直正の弟である幸家の居城と伝わる、本格的な山城としては他に例がないほどの標高586mの最高所に位置しこれ以上ない険峻さを誇る城跡である。

城跡への登山口は県道69号から南に向かう道があるが道路沿いに看板があるのでそれに従えば終点である自動車道の高架下を潜った辺りまで辿り着ける。駐車場は無い様であるが登山客は適当に駐車している、ここからは登山道が山頂まで通じているので迷わず到達することが出来る。尾根の分岐地点までは急斜面を約30分、南端の主郭までは更に15分程度は必要とするがなにしろここは赤井の山城跡なのである、それだけ攻められ難く簡単には登らせてもらえない。当時でも難攻不落の山城であった様に見受けられる。

1_1 5_enbou_1

北より遠望

3m 城跡概念図

訪問したのは六月と言う一番夏草の生い茂る時期でもあり山上主郭周り及び登山道周辺を除けば相当雑木に覆われている、特に登山道から少し外れる西郭はひどいが何とか判別確認は出来る状態でもあり多少の救いはあった。恐らく山城ファン以外はここまでは足は延ばさないので自然任せの荒れ放題になったのだと思われる。しかし自然岩を取り込んで郭壁とした様は正に山城そのもので、見逃してはならないのが自然岩を伴う石垣跡で崖の少し見えにくい場所にあるので足場に注意して確認する必要がある。この城跡は堀切がない分郭高低差があり主郭から北に重なり合い急斜面を下りて行く八段の段郭群は雑木によって全体像は見られないが、切岸も良好に残っており相当な見応えがあるものである。山頂の主郭周りは整備されており眺望もきき非常にくつろげる空間となっているので登り切った後の疲れも一掃出来るだろう。

今回も正しく自分の中に描いた天空の城をひとつ見つけられた様な気がする。

20_ooiwa_isigaki_1岩の間に石垣跡

26_nakamaru_3中の郭

27_dorui中の郭土塁

32_8ren_dankaku_6

八連段郭群見所

33_3 段郭虎口切岸

36_yagura_heki

主郭切岸

37_yagura_top 山上主郭

38_shukaku_nai_1 主郭帯

2008年8月 5日 (火)

大田城跡(兵庫県氷上郡)

兵庫県氷上郡山南町大田にあってJR谷川駅より南側に一際高く聳える山(鍋倉山)の山上部全域が城跡

大田氏の居城を伝えるのみで詳細は不明、城跡へは山の確認さえすれば登山口が真西にあたる稲荷神社になるので県道77号からであれば南に少し南下した山裾に神社をすぐ見つけることが出来る。この神社の背後から登っていく事になるがこれは直登に近く僅かな踏み跡を辿る程度の登山になるので登る方向さえ確認すれば分岐する尾根もないのでただひたすら登れば50分は要する辿り着く事が出来る。(山頂までは延々と斜面が続くが藪漕ぎもなく比較的登り易い状態)

41route 登城ルート

6_sugitani_toride_ato_2 西側砦跡の概念図

7_sai_seitan_kaku_1  最西端の郭跡

9_toride_horikiri_dobasi 砦跡の堀切土橋見所

神社を背後から登るとすぐに削平された郭跡、更にその上方には土橋を伴う堀切がありここは砦跡の様でもある。恐らくこの辺りまでも城域と見受けられ山上に向かう尾根上にも二三箇所の削平された郭跡が確認できる。

3r 城跡概念図

城跡は西から東までの山上全域が郭跡となるもので中央に主郭を置き、その東西両端は堀切によって分断されている。主郭南側壁には石垣跡が随所に窺われ主郭はより堅固に石垣で固められていた事が想像できる。険峻な山容の如く山上郭群は規模が大きいとは言えないが東西に渡って延々と連なる郭群は中々見応えがある、地形図から察しても北東側、南西側に砦あるいは郭跡の展開は予想されるがそちらまで足を向ける体力に余裕がなかったので今回は山上郭群のみで充分満足。相当な藪城を覚悟して臨んだが現状(三月)は意外にも木々の隙間から木漏れ日がさすほどくつろげるスペースがあり、山全体を独り占めした様な気分になる自分だけの空間が用意されていた。単純な縄張り構成ではあるが遺構残存度も高く、険峻な山上の地の利をフルに活かしたこれぞ山城と呼ぶに相応しい城跡である。50分かけても登る価値は充分ありそれ以上の感動が山上には用意されている事間違いなしの城跡でもある。

17_dorui_kaku_1 西側の土塁を伴う郭跡

22_dai_horikiri 主郭西大堀切見所

23_shukaku_nai_3 主郭

24_shukaku_nisi_isi主郭西壁石垣跡見所

25_shukaku_nansei_2 主郭南西壁石垣跡見所

27_gedan_horikiri 東堀切

桑原城(兵庫県三田市)

兵庫県三田市桑原にあって三田駅からは一キロ程度東に位置する低い台形状の山の山上部全域が城跡

城跡の歴史は古く南北朝期において赤松氏の築城によるもので別名大浪山城とも言う。その後室町期において桑原氏の在城を伝えるが詳細は不明、ただ訪問して感じる事は石垣跡、土塁の横矢構造などから窺われる様にかなり先進性に富んでおり時代と共に少しずつ改修を受けてきた城跡の様に見受けられる。ただ石垣を多用とする赤松氏の城跡だけに石垣跡はその時代に築かれたものかも知れない。1route2

城跡は桑原集落の北側に位置しており感神社を目指しそのまま背後から登ると広いグラウンド場に到達する(他にも道はあるが車は途中から通行止めになっているので敢えて分かり易いこちらを推薦する)、その北側の山の山上部が城跡である。本来はこのグラウンド場もかつての郭跡を転用造成したものに見えなくも無いがその背後を登るとすぐ郭跡となる。4 3z

城跡概念図

見逃してはならないのが南郭跡に辿り着く手前の虎口跡と見受けられる箇所に笹藪の中から見え隠れする石垣跡で、幅は5m程度のものが残存している。三田周辺では珍しい石垣遺構であるがこれは土塁跡にも随所に石垣痕として目に留まるものなので注意深く探索する事が必要である。縄張りとしては広い山上をほぼ四区画に仕切り郭間は堀切(空堀)及び土塁で断ち、郭それぞれに独立性を持たせた構造となっている。その高さのある仕切り土塁は空堀も伴い横矢も備わっているものでここに城跡の先進性も充分窺う事が出来る。規模の大きい主郭には少し変形ではあるが高さのある櫓台も備わり城跡の迫力に色を添えている。現状訪問したのが三月という事も手伝って藪化はしているが樹木が枯れて少し見通しも良く、登ってきた笹藪地の南側を除いてはほぼ遺構の判別確認は出来る状態である。お陰で残存度抜群の遺構群はほぼ確認出来この山城の素晴らしさも同時に堪能する事が出来、この地域にもまだこの様な素晴らしい城跡が残っている事も再認識させられた結果となった。11_isigaki_1 11_isigaki

石垣跡見所

15_daihorikiri_2主郭南の大堀切見所

20_shukaku_minami_ygura_1 主郭南櫓台

37_naka_kaku 中の郭

27_nakakaku_sikiri_dorui_1

中の郭仕切り土塁、空堀見所

28_sikiri_karabori 北郭側仕切り土塁、空堀

46_kitakaku_yori_sikiri_dorui_2 北郭

訪問時期は冬季がベストであるが夏季(6月~9月)さえ外せば何とか全貌は摑める状態にあると判断する。

2008年8月 4日 (月)

勝軍山城跡(京都府左京区)

京都市左京区一乗寺松原町にあって有名な詩仙堂から更に上った狸谷山不動尊の南側の山頂奥の院が城跡。

名前が物語る様に足利将軍の城であるが室町時代からの成立で廃城に至るまでは幾多の戦乱の歴史を刻んでおり一言では語れない城跡である。歴史に翻弄されながらも最終的には織田信長の陣城となっておりその後は廃城。1_route_2_2

登城ルート

城跡へは市内の白川通りを走行すれば一乗寺下り松交差点に狸谷山不動の案内看板及び詩仙堂の標識が出ているので、これを目指して山手に登って行けば広い駐車場のある場所まで辿り着ける。ここからは歩いて更に不動明王社殿のある奥の院登山口を目指すが一番奥まった赤い鳥居の見える場所が登山口となる、ここからは奥の院参道となり迷わず15分程度で山上主郭には到達出来る。3m 3k

城跡コメント

7_tozanguti_2 登山口

16_kita_one_kaku_1 北尾根上の郭跡

30_karabori_dou_1 空堀道(参道)

45_shukaku_nai_1 山上主郭

47_oku_no_in 主郭内の社殿

新庄城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市新庄にあって先に訪問紹介した石井城跡とは車で数分移動した距離にあるので効率よく二城同日に訪れる事が出来る、城史に関しては全くの詳細不明

こちらは石井城と違って登城ルートも分かりやすく福知山市内からでは国道9号から西側の429号に進入し川を渡り適当な箇所で西に右折するともう一度橋が見えてくる、その橋を越えた西側にある神社が登城口であり既に丘陵上は城跡となる。Photo 4 3z_2

城跡概念図

城跡のある神社は粟島神社となっており神社境内も本来は郭跡と見受けられる、社殿背後を登ると西側に便宜上二の丸とするが城中最大規模の郭跡が控えその更に西に主郭と思われる櫓台土塁を備えた郭跡がある。この西背後には見所でもある深い堀切が設けられて更に西側の郭群との境としている様である、便宜上西郭群は西城とするがこちらは東城より随分藪化が進んでおり視認もし辛く、風化も激しいので切岸も少し曖昧になっており判別もし難い。しかし雑木藪とは言え北西側の空堀は明確な状態で残存しており深く大土塁を伴う事もあって非常に迫力もあり見応えがあるものである。城跡自身の規模も小さくこれと言った際立った遺構の見られない中ではこの空堀は一見の価値のあるもので、手軽に城跡を覗ける分これを見るだけの為立ち寄っても決して後悔しないものでもある。この空堀を境にして西側にも郭跡は続いている様にも見受けられたがこの密生する雑木藪を前にしては踏破も叶わず、本来の城跡全体像は把握出来ないまま撤退する。

6_yasiro_kaku_1 社殿のある郭跡

10_yagura_dorui 主郭櫓台土塁

15_daihorikiri_1 大堀切

22_nisi_kaku_1 西郭

30_karabori 空堀

28_kita_dorui_karabori_1 大土塁壁と空堀見所

2008年8月 3日 (日)

御影山城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市千歳町出雲にあって丹波地方においては有名な出雲大神宮の背後に聳える御神体山とされている御影山の山上が城跡

城跡へは亀岡市内からでは国道9号を北上し千原の信号を右折して直進、橋を越えれば方角的には神宮に向かって真直ぐ走っているので標識さえ見つければ辿り着ける。個人的にはこの山から湧き出す真名井の水を何度も汲みに来ている手前、何時でも登れる機会はあったのだがなぜか先延ばしにしておりやっと今回登ってみる気になった。山上へは社殿東側背後より登り始め途中の岩石祭祀の象徴である磐坐までは山道があるがそこからは徐々に山道は消えていくので、とにかく山頂を目指して急斜面を這うように上っていくしか手がない。これは相当な斜面を覚悟して登らなければならないが現在登っているのは天然の要害と呼ぶに相応しい山城なのである。リスクを背負うのは仕方のないことか、、、30分斜面と格闘の末やっと西端郭跡に辿り着いた。

5_1

1route

登城ルート

城史に関しては丹波平定後の負け組みの城跡のほとんどがそうであるようにこの城跡も負け組みとして詳細な歴史は分かっていない様である、この城跡に拠ったと思われる柳本氏は丹波守護代の内藤氏の傘下であったと思われるが柳本氏は神尾山に巨大な山城を築き上げているので案外こちらは規模から察しても支城かも知れない。3m2

城跡概念図

城跡は最初に到達した西端郭跡から六段の郭跡が主郭まで連なっており意外に個々の郭規模は大きく、しかも高い切岸を伴っているので相当見応えもあり迫力もある。主郭までに至る郭壁には随所に石垣跡が残存しており、つい往時の険峻な山上にある石垣城を想像させられてしまった。最高所にあたる主郭には櫓台と見受けられる土塁の高まりもありその東背後にはこの城跡一番の見所でもある尾根を分断する二重堀切が備わっている、この堀切が縦堀となって下まで落ち込んでいく様は正に圧巻である。外見からの判断より規模は大きく、とにかく山城の魅力に満ち溢れた城跡である事は確かである。苦労して登り切った後には大きな感動が待ち構えている事を改めて知らされた城跡でもある。

現状真夏であるにもかかわらず意外に藪化も進んでおらず遺構の確認判別は容易である、冬季の訪問となれば下草も無くなり更に動き回り易く見て回りやすい状態になると思われる。

14_kaku6_koguti_2

西端郭6

25_kaku4

西郭4

36_kaku2_yori_1heki_isi_1西郭1の石垣跡

45_shukaku_isi 主郭壁の石垣跡

56_horikiri_dobasi

堀切土橋

55_daihorikiri_158_2jyuu_horikiri_2_2 二重堀切見所

 

篠尾向段城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市篠尾にあって円応寺の西背後の丘陵上に城跡はある、現状詳細は不明。 

城跡の道順に関しては福知山市内の国道9号から西側に入ればいいのだが一旦入ったとしてもストレートに広い道で行ける訳では無くゴチャゴチャと住宅地の密集する中の狭い道路を行ったり来たりした記憶しか残っていない、未だにルートが自分でも分からず今言えるのはとにかく円応寺か熊野神社を目指せば何とか到達出来ると言うことだけである。熊野神社からは北脇の道路より西側山に向いて進入した場合、基本的にはどの地点でも北側に取り付いて少し登る程度で郭跡には辿り着ける。他にも北側にある民家の背後から即進入出来そうであったが流石に遠慮して少し遠回りにはなるが西側の深い堀切跡(自然地形か?)から登っていった。Sin

登城ルート

3isi2 城跡概念図

城跡は熊野神社前の道路に平行する形で北東に向いて直線的に郭を配置し、それほど高低差の無い郭を堀切で分断した縄張りである。この堀切遺構は当時より相当堆積物で埋もれているとは思われるが郭面積が狭い分連続している様にも見え中々見応えのあるものである。現状城跡はほぼ自然任せの雑木竹林地と化しており部分的には移動も視認も難渋するが遺構自身は明確に判別出来る状態にはあり、切岸なども長年の風化に拘らずしっかりした良い状態のものを拝む事が出来る。見所と言えば堀切はもちろんであるが南郭跡の中央に設けられた土橋(空堀は相当埋もれている)で、今もって鮮明な形で残存している。丘陵上にある為高さでの防備には限度があり堀切によって個々の郭を独立させて守備すると言った縄張りプランと見受けられる。

今回の訪問で残念であったのは主郭周りの郭跡は雑木と竹林のお陰で余りにも薄暗く半分程度の画像はブレており、数々の遺構も画像として多く残せ無かった事である。

14_horikiri_dobasi_1

南郭の堀切土橋見所

18_minami_daihorikiri 堀切

40_2jyuu_horikiri_shukakugawa 主郭北側の連続堀切

37_horikiri_1 堀切、切岸

31_kita_oohiroma 北郭群

2008年8月 2日 (土)

滝ヶ嶺城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市本梅町平松にあって集落西に位置する桂林寺の西背後の山の山頂部が城跡。古来足利氏の家臣である森氏の居城と伝わるが詳細は不明

この城跡のある区域は亀岡市の中でも特に山城が密集しており神尾山、猪倉、数掛山、埴生、少し離れて柿花、大田、茶屋、千手寺城と言った具合で既に訪問済の城跡であるが車で移動すれば全て20分内の距離にある。お陰で見て回る分には都合が良く効率よく訪問出来るが、よくこれだけ集中して築城されたものである。1

3_1 城跡へは確かな登山道も山道も見当たらないので桂林寺脇の墓地背後から西に向いて直登するしか手立てはない。取り敢えずは尾根を西に向いてただひたすら藪漕ぎ覚悟で登っていくと30分内で東端にある堀切まで辿り着く。城跡は12月と言うのに雑木天国になっており郭跡を確認しようにも踏み込む隙間も無いほどで木々の隙間を探しながら移動して行くしか手がない状態である、それでも部分的に遺構、郭形状を頭に覚えさせて後でそれを繋げて行くといった作業で何とか大まかではあるが全体像は掴む事が出来た。遺構として明確に判別出来るのは主郭群東西の堀切、主郭西壁の石垣跡、主郭南側の空堀土塁跡、郭虎口及び樹木の少ない部分の切岸と言った処で状態は悪いがそれなりに残存度は高いレベルにあると言える。その中にあって特に二本の堀切の状態は中々良く見通しも良いので確認し易く満足には値するものとなっている。12_horikiri

東端の堀切見所

21_shuksku_sita_karabori主郭南の空堀、土塁

25_shukaku_haigo_horikiri

主郭西側の堀切

30 堀切より主郭壁の石垣跡見所

32_nisi_kaku 西尾根に続く広い郭跡

尚下山に関しては直登したルートなどは覚えようが無いので必ず方向磁石持参で東堀切からは真東に向いて下りて行く事が大事になる、そうすれば間違っても山中を徘徊する事は無い。と言うのもこの山城は四方がはっきりした枝尾根になっておらず一つ尾根を間違えるととんでもない方へ下りて行く可能性があるからである。訪問時期としては夏季は絶対に避け、出来れば真冬がベストと思われる。自然とほぼ一体化した山城をなめてかかってはいけない(自分の経験から)。

三宮城跡(京都府京丹波町)

京都府京丹波町三宮にあって集落の北側にせり出した尾根先端部が城跡。

城跡はあの有名な初代土佐藩主である山内一豊の祖父久豊の居であり、この周辺は中世期山内庄と呼ばれ本来の山内氏の本貫地であったと伝わっており父盛豊もここで生まれ育ったと案内には記されてあった。既に訪問紹介済みの久豊の居城と伝わる橋爪城とはそんなに離れておらず規模からしても橋爪城の方が相当勝っており、察する処こちらは支城として機能していた様にも見受けられる。現状においては砦規模の物見の機能を持った城跡としか見受けられないものである。

城跡へは国道173号線を北上して来た場合、三宮集落に入る辺りで山中腹に大きな看板が出ているので場所はすぐその山が城跡だと確認出来る。そのまま看板を見過ごして数100m走ると寺院が見えてくるのでそこを左折すれば公園駐車場に着きそれより登城道があるので難なく山上まで辿り着ける。4_enbou

国道より遠望

現状山上郭群は公園化されており非常に整備も行き届いているので全ての遺構は判別確認出来る状態にある。郭構成も三郭から成立する砦規模の小さな城跡であるが堀切、縦堀なども設けられており残存状態の良い切岸と並んで案外見応えはあるかも知れない。尚国道を隔てた東側にも東城と名の付いた規模の小さい城跡が存在するらしいが現在調査中との事であった。

3s 城跡概念図

20_1 登城口

7_shukaku_sita_horikiri_1 主郭西下の堀切

9_shukaku_nai 主郭12_gedan_yori_shukaku_1

主郭切岸

11_shukaku_gedan 主郭より下段郭

島城跡(京都府南丹市)

京都府南丹市美山町島にあって先に紹介した中村城跡の真南に聳える標高403mの山頂が城跡。中村城跡とは至近距離にあるので同じ美山町内にある今宮城も併せて訪問すると三城の違いも同時に把握する事が出来、醍醐味も倍増となる事間違いなし。

この城跡も今宮城と同じく川勝氏の居城で戦国時代の後期の成立と見受けられる、今宮城と比べても縄張り妙味、築城における土木量、全てにおいてこちらの方が勝っている。(見る分には今宮城の四重堀切は凄いが、、)当然こちらの島城の方が後からの成立と言う事になる、しかしどちらも険しい山上に築かれているのは共通しておりやはり戦国期の事情を物語っているのか、、、

城跡へは周山街道162号を市内から北上した場合静原の信号手前にある橋を渡らず、手前を左折し道に任せて進むと数分で島城の案内看板まで辿り着ける。登山遊歩道が設置されているので迷わず山上までには到達出来るが20分強はかかる道程になる、現状山上郭群は多少整備されているとは言え草木が蔓延り荒れ放題となり、更に見通しも悪くとても良い状態とは言えない。しかし遺構は残存度も高くほぼ判別確認可能であり縄張り妙味も含めて充分山城を満喫する事は出来る。特別インパクトのある見所はないものの人を寄せ付けないこの険峻さは山城を味わうには必須条件でもあり、それも充分兼ね備えた城跡の一つである事は確かである。

1route 登城ルート

3x 城跡概念図

12_kaku_nai_mawari_dorui 北郭の周囲土塁

17_2maru_nai_2 二の丸

20_2maru_gawa_dorui 二の丸南側大土塁

24_nisikaku_nai_dorui 西郭の土塁

33_kaku_ooisi_koguti 主郭下段の虎口郭

37_shukaku_nai_1主郭

牧城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市牧にあって牧川沿いの国道9号線から真北、集落からは西側に位置する城跡

牧氏の居城を伝えるが光秀の丹波平定において城は落城、その後明智の滅亡と共に秀吉に仕えているらしいが詳細は不明。

城跡へは国道9号線から一宮神社を目指し集落に入る、既に進入道路からは少し高い位置に見えているのでその方向に向かえばすぐ辿り着ける。到着した神社背後は既に城域かと思われる土塁が窺われ一見郭跡にも見えるもので、堀切道の反対西側は現在広い畑地及び平坦荒れ地になっているが雰囲気的にも屋敷跡の様にも感じられ更に奥の竹林まで足を踏み入れさす気にもさせてくれる。覗くとやはり竹林の中は郭跡に見て取れる状態で、数段の郭跡が重なっており益々この地が屋敷跡又は居館に見えてくる。ただ荒地の一角に社殿跡の痕跡があったので古くは僧坊跡かあるいは神社であった可能性も否定は出来ない。1z

登城ルート

4 南東から城山遠望

3 城跡概念図

神社から出て西側に向かう細い道路を道任せに進むと浄水場に突き当たり、ここから西側の山に向けて参道があるのでそれを登ると数分で本命である山城に辿り着ける。城跡は二郭から形成されており切岸高低差も余りなく、ほぼ単郭構造と言っても差し支えないもので現状主郭内には社殿が建立されているが、規模はここが館跡と言ってもいいぐらいの広い空間になっている。見る者にとっては余りにも単純な縄張りで今一山城としての醍醐味にも欠け、近辺を車で通った際ついでに城跡を味わう程度の訪問なら納得出来るのではないだろうか。

38_yasiki_ato

38_yasiki_ato_1竹林の中の屋敷跡地

14_2maru 東副郭から主郭側

17_shukaku_ato_yasiro 主郭

15_2maru_minami_heki 副郭の切岸

2008年8月 1日 (金)

高津八幡山城跡(京都府綾部市)

京都府綾部市高津町の八幡神社から南側一帯の山にかけてが城跡

綾部一帯を勢力圏に置く大槻氏の居城であるが、本城は既に訪問済の高城城があるのでどちらにしても大槻一族の城だと思われる。この城跡も南北朝期より存続した大槻氏も明智軍によって滅亡の憂き目にあっている。ここからは距離はあるが尾根を辿って東側は甲ヶ嶽城へと繋がっている様である。1route

登城ルート

3taka2 城跡概念図及びコメント

15_horikiri 大堀切

45_dorui_karabori 西郭の土塁空堀

25_shukaku_gedan_yori 主郭西下段

27_shukaku_nai 主郭

33_naka_yori_minamikaku 南郭の切岸

刑部城跡(京都府南丹市)

京都府南丹市八木町刑部にあって外見お椀を伏せたような独立した山塊の山上部が城跡である。歴史に関しては今のところ一切不明であるが川向いの西田城と関連のある城跡か?

訪城のきっかけとなったのは以前この城跡の川を隔てて南東に位置する西田城を訪れた時に向いにある綺麗な形の山に惹かれ、どうも城跡にはうってつけの形状をしており何時か踏破するつもりでいたら、やっと機会が訪れたと言う具合である。現地に赴くまでは城跡である確信も予備情報もなかったが、いざ登ってみるとやはり予想していた通りの古い形態を持つ山城であった。

城跡へは川沿いにある富本小学校を目指し、川沿いを歩いて智恵寺まで行きその背後を登りきれば数分で到達出来るが、この寺の御住職はこの城跡の存在は全く御存知ではなく、「登っても何もないよ」の一言でかたずけられてしまった。4 帰宅してこの城跡の存在と名前をチェックするに及んだら一応刑部城と名のついた城跡と言う事だけは知る事が出来た。

城跡遠望

1route2 登城ルート

3b 城跡概念図及びコメント

9_higasikaku 東端の郭跡

17_nisi_e 中央部の広大な郭跡

18_higasikaku_heki 主郭東の郭切岸

21_shukaku_heki 主郭切岸

26_dorui_ato_1 主郭西の郭の土塁

3

西田城概念図

鬼ヶ城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市大江町にあって福知山市内からは数キロ離れた真北にあたる標高544mの山頂が城跡15iden_yori_onigasiro2

綾部位田城跡山上から望む美しい形の鬼ヶ城跡

戦国時代における丹波の雄である井氏によって築かれた城跡であるが赤井氏自身が立て篭もったかどうかははっきりと史実には残されていない。本来は黒井城を居城としているのでこの地は余りにも遠く離れ過ぎており、相当な辺境地でもあり尚且つ要衝の地でもある。城代となる配下を置く程度であったと思われるが光秀軍による丹波攻略によって最終的な戦況悪化に備える為の逃げ城である様にも見受けられる。2_oni

登城ルート

城跡へは数箇所の登山口があるようだが、恐らく一番近道で最短コースだと思われるのは南側から北上する場合の府道74号から既に紹介済みである私市、報恩寺城跡を通る道路492号に進入して観音寺を目指すルートである。観音寺からは登山道が山頂まで通じているので40分内で迷わず辿り着く事が出来る。ちなみに南西側からの登山道は府道55号沿いに大きく登山口案内板があり城跡まで約3.6キロと記されている。

城跡は山上郭群だけを見れば山頂に規模の小さい主郭を構え、それに二三段の郭を付随させ更に20m程度の高低差で斜面を下りた地に少し広い郭を設けただけの砦規模のものである(登山道中の尾根にも郭跡はある)。大手と思われる登山道側壁には一部石垣跡も露出しており現状草木によって視認出来ない部分にまでも相当多く石垣が用いられているとも考えられる、地形図から推察するだけであるが赤井氏の築いたこの城跡の規模がとても山上のみで終わるとも思われず、北側及び南西側尾根に向いても郭の展開はあるのではないかと見受けられるが10月と言うのに夏草や木々が鬱蒼と生い茂っており、とても尾根に向けての踏破は出来る状態にはなく今回は断念するに至った。再訪余地を残しての下山となったが充分登山も楽しめ近畿圏内ではこれ以上の最高所にはないと思える天空の城跡にまで到達出来た喜びと感動は忘れられないものとなった。

4_dorui 中腹の郭跡及び土塁虎口

6isigaki 郭壁の石垣跡見所

7 郭跡

10shukaku_orikiri_no_kaku 主郭より下段

13shukaku_nai 主郭

« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

無料ブログはココログ