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2008年7月

2008年7月31日 (木)

丸山城跡(京都府綾部市)

京都府綾部市大畠町の集落西に位置し独立した小山が城跡

この城跡も先に紹介した高津八幡山城と同じく大槻氏の居城であるが詳細は不明、一族の城とみて間違いの無い処であろうが、一戦を交えた守護代である上原氏の物部城とはそう離れていないので八幡山城の出城であった可能性は高い。しかしこの綾部から福知山周辺における城跡の多さは尋常ではないものがある、そこら中の山は全て山城に見えてしまい訪問済みの城跡も相当数に上っている。光秀の丹波平定以前から戦火の耐えなかった事実は城跡の数にも充分表れている様である。1route_2

登城ルート

城跡は小山の山上全域が規模の大きい主郭となっており居館跡にも見て取れるもので、主郭の土塁北側に落ち込む堀切は素晴らしい状態を保持しており唯一の見所でもあり一見の価値のあるものである。4_1城跡全体を見れば醍醐味には欠けるかも知れないが 物部城か位田城を訪問した際には距離も車で数分足らずで行けるので、ついでに立ち寄っても決して損は無い城跡である。

東南より遠望

2_3m

城跡概念図及びコメント

8_horikiri_1 堀切見所

11_shukaku_dorui_1 主郭の土塁

12_shukaku_1 主郭

16_gedan2 主郭南郭

須知城跡(京都府京丹波町)

京都府京丹波町市森にあって集落からは南東側に位置する、名勝琴滝の真北の山の山頂が城跡である。別名市森城

南北朝期から成立する本来須知氏の城であるが明智光秀の丹波侵攻によって落城し、その後光秀側の傘下に入っているが詳細は不明。同じ須知氏の居城であった上野城の集落には現在でも須知を名乗る子孫の方が在住しておられる事から考えれば案外戦国期をうまく乗り切った一族なのかも知れない。

城跡へは国道9号線を京都側から北上した場合、琴滝の看板が見えてくれば右折し琴滝か玉雲寺を目指す、寺院東側に聳える一際高い山がこれから登る城跡である。。寺院からは歩く事になるが直接東に向かわず山裾を北に向かう未舗装道を数100m進み北端の出郭に見える辺りから尾根に向けての山道があるので、それを見つけたらそれに沿って登る。この山道さえ見つければ一旦尾根に出ながら土橋(土塁道)を右手(東側)に登って行けば自然に山頂までは辿り着ける。案内標示も無いので分かり難いがこの道を外すと相当な藪漕ぎになるので注意して見逃さない事が大事である。山頂までは踏み跡程度の道しかなく郭跡の切岸は相当な急斜面となっているので注意して登る事が必要、麓からは50分程度の道程になるが山を登りきれば必ず期待していた以上の感動と達成感を味わえる事請け合いである

4_enbou 登山進入口

8_demaru_yori_dobasi 尾根到達点の土橋

1route_3 登城ルート32

城跡概念図

城跡は堀切を挟んで新旧の二城で形成されるが東城とされる方が少し形態も古く明智の改修を受ける以前の須知氏の城跡とも見受けられる、この城跡の最大の特徴は石垣の多用が挙げられ二の丸虎口及び西郭間の石垣、崩落しているが主郭間の石垣と主要な箇所は全て石垣造りである、中でも主郭東壁を形成する高石垣は特別高く積み上げられ同時に本来の高さも維持しており最大の見ともなっている。東城にも郭間の壁には随所に石垣跡を眼にする事が出来る。16_3maru_yaguradai

西郭

21_2maru_dankaku2_yori

西郭より二の丸石垣跡

25_2maru_nisi_isigaki

二の丸西石垣

36_shukaku_daidorui 主郭

26_2maru_koguti_isi_1 二の丸虎口見所

城跡全体を考えれば特別縄張り妙味がある訳でもなく、優れた技巧的な遺構がある訳でもないがやはりこの険峻な山上を削平し石垣を積み上げて築き上げられた事がロマンであり感動を誘う部分でもあると思う。

40_shukaku_kitagawa_3 42_shukaku_higasigawa_3

主郭東の残存高石垣見所

50_higasi_shukaku_nai

東城主郭

54_higasikaku_isi_2 東郭壁の石垣

現状城跡は冬季の訪城という事もあって見通しも良く縄張り全体像も把握し易く又密集する木々に阻まれる事もないので快適に見て回れたが、夏季においても比較的雑木は密生していないと思われ案外苦労せずに訪れる事が出来るのではないだろうか。しかし50分の登山はやはり体には相当堪えるものがある。

宇津城跡(京都府京北下宇津町)

京都府京北下宇津町にあって宇津峡公園の川を隔てた対岸に位置する山城

城史から見れば代々宇津氏の居城であるが明智の丹波攻略により最後まで抵抗し滅亡、現在の城跡はその後当然明智による改修が施されていると思われ随所に石垣跡を眼にする事が出来る。1z

登城ルート

城跡へは黄徳寺から宇津峡公園を目指し町道364号に入りそのまま直進した道路沿いにある赤い鳥居の八幡神社が目印、その北背後の山上が城跡で登山道は設置されていない。社殿背後より直登で山上を目指し崖状急斜面を上るしか手立ては無いのが現状であり、縦堀と見受けられる遺構に沿って登り切ると20分内で辿り着ける。ただこの縦堀遺構は後世の木材切り出し道の可能性もあり、縄張りから察しても縦堀としての機能が余り発揮されていない場所に設けられているので遺構の断定はし難い。

縄張りは非常にシンプルでほぼ四郭で形成されており技巧さを伴う遺構は見当たらない、その分三方は崖に近い急斜面で唯一土橋状の細い尾根道が北側に向いて通路となっているが現状ではどこが大手に当たるのかさっぱり見当が付かない。郭間の切岸は高低差があり郭外壁の切岸は直立に近く下まで落ち込んでおり余計城跡の険峻さに拍車をかけている、まるで孤立した要塞の様にも見て取れる。見所でもある石垣跡が多く残存しているのは主郭の東壁で相当崩落はしているが数メートルに渡って残っており、往時を一番忍ばせている遺構となっている。3z

城跡概念図

規模はさほど大きくはないが険峻な山上にある事自体が相当な見応えを感じる城跡となっている。

八幡神社前の道路をそのまま西に向いて車を走らせると先に登城ルートを紹介した事のある支城と思える宇津嶽山城に向かう事が出来、効率よく二城を同時訪問する事が出来る。

8_minami_kaku_2 南郭

13_shukaku_e_koguti_dou 主郭南登り虎口

15_shukaku_nai_1 主郭

16_shukaku_nai_ido_ato 溜め井戸跡に見える

20_1 主郭東壁の石垣跡見所

23_kitakaku1_heki 北郭1の切岸

25_kitakaku2_heki 北郭2の高い切岸見所

2008年7月30日 (水)

堀越城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市上野にあって国道九号線より少し入る生野天神社からは西側に位置する山の山頂から東に向いての尾根上が城跡

小倉氏の居城とだけは載っているが詳細は不明、この城主も恐らく明智による丹波攻略の煽りで最後まで抵抗を試みた赤井氏と運命を共にしたか、明智側に付いたのかのどちらかであると思われる。どちらにしても両者が滅んでいる以上その後歴史に顔を出すといった事は無いとも思われる。1route_2

登城ルート

城跡へは神社入口に対面する細い道を西に道に任せて進むと右手側(城跡)の山裾に集合墓地が見えてくるのでそちらを目指せば登山進入路となる配水施設に自然に繋がる。墓地の東側には当時のものかどうかは判断し難いが石垣跡を伴った屋敷跡とも見受けられる郭群が藪の中に隠れているので少し寄って見ても損はしないだろう。4_1

東より遠望

3_2

城跡概念図及びコメント

24_hokutou_sizenkaku 配水施設西側の郭跡

19_shukaku_kitagawa_heki 主郭北側の高い切岸

12_shukaku_nai_1 主郭最高所

10_shukaku_nisi_obi_2

主郭西帯

38_isigaki 当時のものかは判別し難い墓地横の屋敷跡の古い石垣

堀越城跡を後にして北西側の正後寺集落に市田氏(素性ははっきりとは分からないが小倉氏の一族かも知れない)の館跡があったらしいので目星だけ付けて寄ってみた。どうやら社殿と堀越公民館が建てられている地はどうもそれらしい雰囲気を醸し出しており、己の勘に頼るだけであるがこの佇まいは正しく屋敷跡に見受けられるものである。数段の広い郭跡が切岸を残して上方にある墓地まで重なりあっているのが見れる、発掘調査でもしない限り間違っても断定は出来ないが、見る人が見て自分なりの判断を下せばそれでも良いと思う。これも戦国期を思い起こす一つのロマンなのである。

Ya_1_2 道路から覗く居館跡と見受けられる公民館

Ya_6 郭跡の切岸

2008年7月29日 (火)

丹波八木城跡(京都府南丹市)

丹波八木城(その3)  北の丸跡(並河重郎郭と内藤五郎郭)

八木城本郭の馬場跡西の(仮)二の丸跡より北側に向いて下りると四段程度の一部土塁跡の窺われる段郭跡が斜面に連なり、更に北側に足を延ばすと幅のある土塁を伴った内藤五郎郭に到達する、その真下に設けられた堀切を越えると縄張り図に北の丸と付記されてあった並河重郎郭に辿り着ける。54_kitakakugun_nawa

八木城北の丸跡概念図

58_kitakaku_hasi 内藤五郎郭櫓台土塁

内藤郭62_kitademaru_horikiri 櫓台北下の堀切

68_namikawa_nai 並河郭の主郭

70namikawa_kitakaku_gun_2 並河 帯郭と切岸

70namikawa_kitakaku_gun_4 並河 北郭群

日を違えての訪問となったがやっと城跡説明板にある縄張りの七割から八割までは踏破出来た様に思われる、逆にこれだけ動き回ってもまだ二割近くも残しているのだから、いかにこの城跡の規模が大きいものかを改めて再認識される結果ともなった。今でこそ石垣は失われて部分的に残存するものしか見る事が出来ないが、主要な郭のほぼ全体が石垣で固められて在った様にも見受けられる。正に往時は天空の城と呼ぶに相応しい山城であったのではないだろうか、素晴らしい感動を与えてくれた城跡の一つである。

丹波八木城跡(京都府南丹市)

丹波八木城(その2)  南西支城群跡(分中では便宜上、烏嶽の尾根上の郭群は烏嶽北城、南城と呼ぶ)

八木城本郭より西側の大堀切を越え案内に付記されている内藤和泉なる土塁を伴った郭跡を確認しながら更に南西側に足を延ばすと八木玄藩なる郭跡に辿り着く。この郭は本郭と烏嶽支城群の中間に位置しており、ここを通り過ぎて更に西側の別尾根に登るとやっと内藤法雲と付記されてあった烏嶽47_2maru_nisi_horikiri支城群に辿り着く事が出来る。この烏嶽支城群は本郭跡に比べると残存状態は少し悪いが遺構としての見所は満載である。

西側大堀切3y_1z3y_1m見所

概念図

30_yagi_genbashukaku_heki_2 八木玄藩郭跡(最高所)

42_shukaku_dan 烏嶽南城主郭

43_shukaku_yaguradorui

烏嶽南城櫓台土塁

44_yagura_haigo_isi_3 櫓台背後の石垣跡見所

45_horikiri_yori_heki_isi_1 堀切より石垣跡

48_dai_sekiretu 南西郭虎口を形成する石垣か?

51_sizenkaku_ido_ato_2 岩盤を削った井戸跡か?

60_kita_shukaku_nai 烏嶽北城主郭

65_shukaku_horikiri_heki_isi_1 北城主郭壁の石垣跡

64_horikiri_1北城 主郭下の堀切

丹波八木城跡(京都府南丹市)

丹波八木城(その1) 山上本郭跡

京都府南丹市八木町にあって八木駅からは南西に聳える山塊の山上が城跡。城跡へは駅の南西に位置する春日神社を目指せば神社北西側に登山口が案内板と共にあるので高架下を潜ればそのまま迷わず山上までは辿り着ける。登山口から少し入ると広大な屋敷跡が段郭的に配置されており郭間を堀切で断った跡も残存しているのでうかつに通り過ぎてはいけない。1x

登城ルート

この城跡は丹波守護代である内藤氏代々の居城で丹波地方においては八上城、黒井城と並ぶ城域の広さを持っており本郭から四方尾根に郭群が広がる壮大な山城である。両城ともに既に訪れているが正しく丹波三大山城の一つ相応しいと言えるものである。時の城主である内藤氏は明智光秀による丹波攻略で城は落城、没落となるが如安(ジョアン)は明智の滅んだその後秀吉軍に加わり朝鮮に出兵しており講和において活躍している。最終的にはキリシタンと言うことで徳川幕府よりフィリピンに追放されこの地で没している様である。

この城跡全体を一日でじっくり見て回るのは難しいが最低でも麓の屋敷跡から順を追って対面所跡、本郭周り、北西側の烏嶽支城群は抑えておきたい処である。充分な余裕があれば北側にある北の丸跡(並河郭)まで足を延ばすと城跡全体の主要な郭群のほぼ八割を踏破した形になると思われる。規模の大きい分見所も多く城跡全体を通して残存状態が良いので遺構も確認し易く見て回りやすい状態になっている。この城跡は遺構はもちろんの事、縄張り妙味から随所に窺われる石垣跡に至るまでつぶさに見学しても見飽きる事が無く、晴らしいと言う以外は賛辞の言葉が見つからない近畿圏内でも有数の山城である。山城を語る上での技巧的な遺構は全て備わっている言っても言い過ぎでは無い城跡の一つでもある!

Ooyagi 対面所跡概念図

Ooyagi_2_2 対面所郭跡(大八木但馬)

Ooyagi_1 対面所堀切

3_1 八木城山上本郭概念図

26 主郭内

25 主郭東下段郭の変形土塁虎口

21 主郭東側切岸

27_nisigawa_dorui 主郭西側土塁

28_koguti_yagura_zanseki 主郭南虎口石垣痕

25_shukaku_kita_obi_isi 主郭北帯石垣跡

42_baba 馬場跡

45_2maru_nai_dorui 仮)二の丸の土塁

2008年7月28日 (月)

榎原城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市榎原にある山城であるが、城跡に関しての詳細は全く不明

城跡へは福知山経由で考えた場合国道429号線を西に向いて走り市道109号線を左折で南下する、しばらく川に沿って南下し続けると道路沿いにたくさんの民家が立ち並ぶ集落に遭遇するが、その辺りより右手(西側)の山中腹に集合墓地と用具小屋が見えて来たらその山の山上が城跡である。集落の中の細い道を通り墓地まではすぐの距離であるが、そこから山上に向けて旧社への参道があるのでそれを辿れば迷わず到達出来る。1route

登城ルート  

城跡は本来社殿があったらしく綺麗に整地されており草木も蔓延っていないので見通しも良く全体像も摑みやすい状態にあり、切岸などは往時の如く素晴らしい状態を保持している。縄張りは東西に直線的に跨る尾根を削平し築かれたもので二箇所の堀切によって分断される非常にシンプルで分かり易い構造で主郭、二の丸、西出郭のほぼ三郭から形成されている。縄張りに技巧さはまるで無く規模も小さい城跡であるが妙に味のある山城である。4

南より遠望

3z 城跡概念図

18_shukaku_koguti_dorui 主郭虎口土塁

10_horikiri 堀切

11_2maru_heki 西より堀切、二の丸切岸

21_shukaku_nai 主郭

8_2maru_nai_1 二の丸

2008年7月27日 (日)

千手寺西山城塞群南砦跡

千手寺城(暫定) 探索報告最終編

今回は日を改めて臨む事となった南側尾根上の便宜上西山城塞群南砦跡を丸勘城跡より西に向かい、地形図で目星を付けた地点を目指し工場の手前から直登で尾根に取り付き上って行く。(これから先の状況説明は城跡概念図の中に載せてあるのでそれを参照の事)36_08419

今回の訪城で取り合えず地形図で目星を付けた周辺は踏破する事が出来、千手寺を中心とした(暫定)千手寺城跡の探索は終えたがこれだけの城域を持った山城がなぜ城跡関係資料に登場して来ないのか不思議でならない。もちろんこの辺りの地方史を読んだ訳でもなく自分自身の知識の無さかも知れないが一度入念に調べる必要はあるだろう。

地元の人と話したきっかけから始まった未知の城跡探索ではあったがここまで山城を追及したのは初めての経験である、まだ完全とは言えないが城跡の規模及び全体像までも把握する事が出来、これで最後の締めとして城跡の歴史までも判明に漕ぎ着ければ少なくとも自分の中で完結の判断が下せる様に思う。

 注)今回の探索で概略図及び文中に登場する城跡名は全て便宜上のもので実際の城跡名はまだ入念に調べてもいないので分からないのが現状である。

37_minami_toride 西山南砦

38_horikiri_yaguradai_dorui 堀切と櫓台土塁

41_kita_kyodai_ana_3 三連の巨大な円形穴倉の一つ

千手寺西山城塞群(暫定)

千手寺城跡(暫定)の探索報告続編

寺院より西側の山道を道に任せて南西に進むとやがて段郭跡にも見て取れる古い石垣を伴った墓地が現れる、墓地から南側に見える尾根から北の山上までが一応城跡として目星を付けた場所である。まず南に向いて下りる場所に堀切を確認し更には土塁及び郭跡を確認、大岩を取り込んで形成された櫓台の様な郭跡も残存している。地表は風化によって相当荒れてはいるが遺構はある程度分かりやすく残存している状態にある。ここでは南東側は西山の地になるので便宜上西山城塞群と呼ぶことにする

この尾根は南東に向いており雰囲気で感じるだけだが車道近くまでは延びている様に思われる、南東側に展開される縄張り内の状況説明は別の城跡概念図の中に載せているのでそれを参照の事。

西山城塞群に向かう直前の堀切より北山上に向かう寺院西側の尾根上は幾つかの削平跡の窺われる広い郭跡が形成されているが切岸処理にまでは至っていない、自然地形をそのまま平坦にしただけの砦の様な郭跡である。更に山上に向かうと大石がゴロゴロしている地形に出会う、ここから東側へは尾根が連結して先ほど立ち寄った寺院背後の山上郭に行ける様に見受けられるが踏破は断念、山頂まで登り切るとそこは堂徳山になるが恐らく砦か狼煙台跡となっていると推察される。流石にそこまで辿り着く気力もスタミナも既に切れており山頂到達までには至らなかった。

尚、千手寺に向かう途中の谷沿い右手道路脇から山に向いて古い石垣跡が重なり合って無数に段郭を形成している地形がある。おまけに土塁まであるが、この謎の石垣群は一体何なのだ!ひょっとすると地元の人が話していた石垣がゴロゴロしているのはこの場所の事を指していたのではないかとも思える、見る限りでは相当古い石積みで僧坊跡かも知れないが当時の屋敷跡とも見受けられる。同じ町内にある大田城跡の謎の石垣群と併せて調べてみる必要がありそうである。

3v 城跡概念図及びコメント

6_horikiri 城塞群北端堀切

14_yaguradai_dorui 北端の櫓台土塁

17_minamikaku_dorui 南に下りた所の郭跡

32_nisijyou_minami_sizenkaku 寺院西尾根上の郭跡

50_isigaki_6 謎の石垣跡1

57_isigaki 謎の石垣跡2

千手寺城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市稗田野町鹿谷の集落の中程にある丸勘城からは、遠く北西側に聳える山の山頂から南尾根上が城跡

そもそもこの城跡を訪問するきっかけになったのは先に載せた丸勘城跡で知りあった歴史好きの年配の方に「この向こうに聳える千手寺のあるトコナゲ観音のある山は山城跡で昔は狼煙台があったらしいよ」と言われたことからである。又「そこら中に石垣跡もあるよ」と言われたことも呼び水となって早速この地を訪れる事になった。

地形図を手にして城跡の目星だけ付け登山ルートのシュミレーションだけは行い、恐らく狼煙台程度では文献にも登場してないと思い期待はせずに石垣跡でも確認出来れば良しとするつもりで臨む。千手寺までは丸勘城跡の前の道路を通り辿り着ける、寺院背後の小さな稲荷社まで登り後は尾根を北へ辿るが徐々に期待通りの山城跡が醸し出される雰囲気の地形となって来た。郭壁を形成する大岩は既に郭跡と見受けられ、更に最高所は正しく規模は大きいとは言えないが削平された主郭と呼べる平坦地である。中央に少し段差で盛り上がりがあるのが櫓台と思える、更に頂上から下りる形で尾根を北へ向かうと数段(5~6段)の段郭が下り切った地点にある堀切まで連なっている。ここからは東へ少し広い郭跡を通り下山道に考えていた山道まではすぐの距離である。道路に下り立てば南側にある千手寺までは広い良い道で戻る事が出来た。

訪問のきっかけとなった地元の人の言葉とは逆に、山上は規模は小さいが狼煙台を遥かに越えた山城と呼ぶに相応しい城跡であった、痩せ尾根を利用した地形任せの古い形態の山城であるが千手寺を居館とした詰城であった可能性もあるし、城郭寺院としての詰城の要素も兼ね備えている様にも察せられる。ここまでの道程では石垣跡などは確認出来なかったが今になって思うには寺院の高石垣の事を地元の人は当時のままの石垣跡と勘違いしておられ「石垣跡も残っている」と言われたのではないかと気がついた。

寺院まで戻った後、地形図から察するに更に寺院西側の別尾根にも縄張りとしての郭展開が成されている様にも感じられ、急にそちらも踏破して見たくなり寺院より西側山道に向かうが、この結果は次の項で続編として紹介報告する事になる。とにかく想像する以上に城域は広く山中腹の寺院を中心として背後は山上郭群で固め南は麓に向けて連続的に郭を配した堅固な山城である事は確かな事実である。

現状乏しい資料の中には今回訪ねた寺院北背後にある山城跡の名前などは無いので便宜上千手寺城とした既に上られた人は御存知かも知れない。これから文献で調べる必要はあるがこの稗田野地区には既に訪問した大田城、丸勘城、柿花城以外にもまだ未踏の多くの城跡、砦跡がありこれからの山城探索も楽しみになってくる処である。

Zx_2 東南より遠望

1route_2 登城ルート

3_1a 城跡概念図

8_senjyuji 千手寺山門

23_minamikaku_gun_1 山上南郭

25_shukaku_minami_kaku 主郭南側の郭跡

27_shukaku_kita_gawa 山上主郭(最高所)

30_dankaku_heki 北段郭群

2008年7月26日 (土)

報恩寺城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市報恩寺にあって集落内では南西に位置する城跡、私市城からは北西側の目と鼻の先の距離にある。

城跡の多いこの福知山から綾部にあってはこの城跡もほぼ詳細は不明、片岡氏の居城とだけあるが遠く諏訪を発祥の地とする物部城主上原氏との確執抗争は史上にも残されている。

城跡へは集落の南端にある道路沿いの南部公民館からスタートすると分かり易い、この辺りは小字名で城の内となっており地名の如く既に当時の城内である事が分かる。公民館からはそのまま西に向かう道があるがその先奥の小高い丘が郭跡となっており非常に分かり易い、そのまま竹林に入ると切岸が見えてくるがこれを登り切ると城跡らしい規模の大きい郭跡に辿り着く。便宜上ここでは三の丸とするがこの郭は二の丸を半周取り巻く広い郭跡で、その上段に位置する二の丸は築城時にも近い様な素晴らしい切岸を伴っている。更にその上段が主郭と呼べる最高所に当たる郭で背後には土塁も備わっている、現在石碑が建立されているが何かこの城跡にまつわるものかも知れない。土塁を越えればすぐ真下には規模の大きい郭跡があり先端には土塁も窺われる。 

城跡全体を考えれば主郭を中心に置きこじんまりとまとまった縄張りであるが郭配置には変化を持たせ切岸には段差を設けてより複雑に見せている、特に郭個々の切岸は残存状態もよく500年近く時を経たものには見えず見る者に感動すら与えてくれるものであ。残存状態もさることながら単純にして複雑な縄張りも期待以上のもので予想外に楽しむ事が出来た城跡である。

4_2

公民館からの進入路

1route_4 登城ルート

3hx 城跡概念図

10_3maru_higasi_gawa 三の丸より二の丸切岸

14_2maru_yori_shukaku_heki 二の丸より主郭

16_shukaku_nai_dorui 主郭

16_shukaku_nai_dorui_1 主郭土塁

23_kita_kaku

北西郭の奥土塁

私市城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市私市にあってこの辺りでは有名な私市円山古墳からは北西側に位置する丘陵を利用した城跡。

城跡に関しての情報は皆無に近く大志万氏が在城した事実があるだけの様だが詳細は不明。

城跡へは私市集落にある長園寺背後の民家の間より山道があり、そのまま上ると堀切道の形をとりながら広い郭跡に辿り着ける。ここより右手、左手のどちらも郭跡であるが左手側は北西に向かう尾根上に直線的に郭が配されており堀切を挟んで規模の大きい三郭から形成されている。真ん中に位置する郭跡が主郭とも見受けられ櫓台的な土塁も残されているが長年の風化で地表は相当荒れており郭段差などは非常に判別し難い状態である。北西端の居館跡に見える広い郭跡にも堀切を挟んで土塁(櫓台)が備わり現状では一番城跡らしい姿を留めている。登城道から右手はほぼ全域に渡って墓地となっておりどこまでが郭跡なのか判別し難いが、見た限りでは郭跡をそのまま墓地に転用した様に見受けられる、この区域は墓地以外は雑木に覆われて確認し辛いが空堀なども設けられ現在墓地になっている少し高台の場所は櫓台にも見て取れるものである。

全体を歩いて回ると高さのないなだらかな丘陵地にあり、郭間に高低変化もさほどなく、長い丘陵地を堀切でほぼ四区画に分断しただけの城跡に終わっているが、これでは防備の心配が真っ先に挙げられる。今見る者からすれば延々と続く広さにも圧倒され凄い城の一つに数えられるのだが乱世に果たしてこれで通用したのだろうか?城跡存続期間などは知る術もないが仮に攻められれば一番先に落とされたのではないかと思わされる様な縄張りでもある、しかし見る者にとっては非常に醍醐味を味わえる城跡である。

尚、城跡北西にある池を越えた神社背後の山上にも削平跡の窺える平坦地があり、ここは砦跡の様にも見受けられる。

Zw 城跡進入路

1route_3 登城ルート

3k 城跡概念図

9_nisikaku 北西郭

13_horikiri_1 堀切

15_shukaku_yagura 主郭と見れる中央に位置する郭跡

25_karabori 中央部から東の空堀

19_dorui_heki_1

中央部より西側の土塁壁

山家甲ヶ峯城跡(京都府綾部市)

京都府綾部市広瀬の集落にあっては南西側に突き出した尾根上に城跡はある

古くは和久氏の居城であるが丹波を平定した明智光秀の廃城令に叛いた為に滅亡、その後秀吉により美濃から谷氏が封ぜられ、後に麓に陣屋を構え幕末までに至っている。その時点においては山上郭は既に用を足すまでに至っていなかったと思われる。

城跡へは京都側から車で向かった場合、陣屋跡を目指して国道27号線より北側に右折する事になるが案内看板が見えた時点では既に行き過ぎており、行き過ぎた場合も再度右折出来るがこの道は相当遠回りになるので注意が必要。陣屋跡に到着すれば伊也神社より登山道が山上まで通じているので15分もあれば辿り着く事が出来る。

現状城跡は地表は相当荒れているが見通しも案外良く、藪化もしておらず快適に見て回れる状態で残存遺構は全て明確に判別出来る状態にある。特に主郭を挟んだ形にある二本の堀切は良い状態のものを拝む事が出来、主郭切岸と帯郭の切岸に至っては築城時に近いとも思えるこれ以上無い美しい姿を留めている。主郭は規模も大きく佐衛門屋敷跡となっているので当時の城主である和久佐衛門の居館跡ではないだろうか、主郭より北側に向いては物見に見える櫓台跡を通り北出郭と呼ぶべき規模の大きな郭跡に辿り着く。ここは少々藪化しているが切岸、虎口を形成する土塁は中々良い状態のものを拝む事が出来、是非見逃して欲しくない遺構である。

この城跡は城域が余り広くない為に全体像は摑み易く残存状態も良く、更に残存遺構の見応えもあり縄張り妙味も含めてこれ以上は望めないと言った処で、数百年の時を経ても未だ尚美しい切岸を持つ戦国期の山城跡を目一杯堪能する事が出来る。

尚、麓の広大な陣屋跡の西側(本来の大手か?)にも大土塁と空堀遺構及び郭跡、あるいは物見に見える小郭が残っている

5

南東側から遠望

1route 登城ルート

3z 城跡概念図

7 登山口

15_horikiri_dobasi_1 堀切土橋

21_shukaku_nai_2 主郭

23_higasi_obi_kirikisi 落差のある美しい切岸

26_horikiri_2

主郭北側の堀切

35_demaru_koguti_1 北出郭の土塁虎口

2008年7月25日 (金)

犬飼城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市曾我部町犬飼の集落より川を渡った北側に聳える山が城跡

丹波の他の城跡と同様に福知氏の居城とだけ載っているが詳細は不明

登城ルートは城跡より南西麓にある山王寺を目指しその北側にある集合墓地からになるが、もちろん登山道がある訳ではないので山頂の方角だけ確認し墓地の中腹東側の少し奥まった部分(縦堀に見える箇所)から尾根に向いて上る、鞍部に着くと南側山頂(右手)に進路を取り直して少し藪漕ぎになるが登っていくと山上まで辿り着ける。

城跡は西側最高所を主郭とし東に向いて余り高低差の無い郭を二段並べ東端に出郭と呼ぶべく空堀で分断された郭跡を持つシンプルな構造の山城である。外見から判断すると小規模な山城にしか見えないが実際は山上全てが郭跡となっており意外に広く感じられる。明確に切岸処理が窺われるのは東出郭部分のみで他は削平は認められるが長年の風化によって地表は相当荒れており遺構の判別は難しい、雑木藪も更に輪をかけた様に生い茂りほぼ自然に帰る一歩手前の状態となっている。

東出郭の南側に小さな山王社があり正月の飾り付けが成されていたのには驚いてしまったが、飾り付けをされた人は一体どこから上ってこられたのか見当も付かない。なにしろ社まで通じている道は現状では確認出来ていないし登山道が在る様には見受けられなかった、地元の人だけが知る参道が他に在るのかも知れない。

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南側からの遠望

1

登城ルート

3_2 城跡概念図

21_shukaku_higasikaku 東郭

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東側空堀

24_karabori_demaru_heki空堀と出郭切岸

29_minami_gedan_1 南側山王社

位田古城(宮ノ越城)跡

位田低城より真西に数100m移動した丘陵地にある城跡、現在南端郭跡には氏政神社が建立されており県道74号線沿いの旧タバコ屋の道を入り西側からの参道を見つければすぐ上れる距離にある。

1route_2 登城ルート

5 遠望

3m 城跡概念図

6_dorui_koguti_1 当時の虎口土塁

7_dorui_karabori 虎口土塁と空堀

18_kaku 社北側の雑木藪の中の郭跡

14_kaku_heki_isi 大石積み跡

位田城跡(京都府綾部市)

京都府綾部市位田町にある浄泉寺の北背後の山塊が城跡

地元の年配の方は誰もが御存知の室町時代後期に位田の乱の舞台となった城跡で、この地方においては有名な歴史上の出来事になる。乱の概略は荻野、大槻、須知、位田連合軍が時の守護、及び守護代であった細川、上原に叛いた事が発端となり約四年の間抗争は続いたが荻野の自刃をもって乱は終結したと言う内容のもので、戦火はこの地域のみならず相当広範囲に及んだとされており凄い戦いが繰り広げられた事が想像出来る。最終的にはこの地域も明智光秀の丹波平定によって織田のものになるのだから結果的には無意味な戦いとしか言いようが無いものでもある。

城跡は現状見て回れる状態にあるのが高城の山上郭及び低城の山上郭群で、高城より北側にも当然郭跡はあると思われるが雑木に覆われとても足を踏み入れる状況下には無い。高城から低城に向かう道も逆から向かう道も笹藪で覆い尽くされており両城を尾根伝いに縦断する事は至難の技である、真冬に訪れれば良かったのかも知れないが二回の訪城いずれも密生する雑木笹藪に阻まれてしまう結果となった。お陰で今回は低城のみとなったが登山道中寺院背後から中腹にかけても多くの郭跡及び土塁を確認する事が出来、城跡の規模の大きさを再認識する結果ともなった。

城跡へは両城とも登山道が通じているが低城は道案内が無いので少し分かり辛いが、寺院北西の秋葉社下に山道があるので社を目指せば道は見つける事が出来る。高城から低城へすんなり縦断出来れば一番問題はないが今回の様な場合はどちらに行くにしても一旦山を下りて別々に登山した方が無難と思われる。

1route 登城ルート

4 南から遠望

3 城跡概念図及びコメント

5_tozandou_tatebori 高城登山道中の縦堀

7_5dan_sita_yori_oku_dorui 高城段郭群

9_shukaku_1dan_sita

高城 山上主郭

28_minamikaku_jyoudan_e 低城南郭と上段郭切岸

32_shukaku_1 低城山上主郭

2008年7月24日 (木)

藁無城跡(京都府園部町)

京都府南丹市園部町船岡にある林松寺背後に聳える綺麗な形の山の山頂が城跡、難しい読み方ではあるがワラナシ城と読む

内藤氏の居城と伝わっている城跡ではあるが八木城主である内藤氏との関係まで調べるには至っていない、他の丹波の城と同様に平定される以前から戦乱の渦中にあったと思われるが平定後も詳細は不明。

城跡は船岡集落まで来ると小型の富士山の形をした山を探せばそこが城跡だとすぐ分かる、麓に当時の館跡と見受けられる林松寺があるが山頂に向かう登山道も無く、その脇にある神社背後から山上を目指して直登するしか手がない。神社から北西に向いて急斜面を登ると最短距離で時間にして20分弱で城跡の南端に辿り着く事が出来るが、すぐに南端郭跡の南外壁に石垣跡を確認出来る。外壁を石垣で覆っていたと見えて他は崩落しているが一部が顔を覗かせており郭跡と並んで当時を物語る遺構の一つとなっている。この遺構は直登で無ければ見逃している可能性もあり、結果的には藪漕ぎもありしんどいが最短の直登が幸いしたと言える。

縄張りは南最高所に小規模な櫓台程度の高まりがあり北側に段郭的に五段程度の郭が堀切まで連なっているもので小規模な詰城と言った処の山城である。自然岩も取り込んで郭壁を成しており崩落石垣も在る事から本来は外周相当な部分を石垣で覆っていた可能性があると思われる、石垣跡の事実からもこの城跡は丹波平定後も改修を受けて山城であるが故の街道監視的な役割を担っていたのではないかと勝手に想像推察してしまう。

現状季節的に秋口と言う事もあって雑木が生い茂っているが冬季の訪城であれば少しはましになり城跡探索もより楽しめるのではないかと思われる。雑木の中に僅かに顔を出す石垣跡ではあるが石垣城としてこの遺構は絶対に見逃してはならない!

2_1  城跡遠望

1route_2 登城ルート

1z 城跡概念図

5_minami_isi 南端壁石垣跡見所

7_shukaku_nai 主郭櫓台

9_2_3kaku_renketudorui 北郭3の連結土塁

9_3kaku_sita_isi 崩落石垣跡

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北郭3の大きな窪み

17_yakataato_isigaki 寺院の石垣

五合山城跡(京都府園部町)

京都府南丹市園部町小山にあって園部駅の南西にある台形状の山が城跡

地名から小山城とも呼ばれているが成立は南北朝まで遡り戦国期においては長沢氏と文献には載っている、この長沢氏は当時八上城主波多野氏に仕えた七頭家の中の一人と伝えられているが詳細は不明。

城跡へは南側麓の顕正寺横に老人会館があり、そこから北に向いて山道があるのでそれを利用すればすぐに分岐の大きな堀切跡に見える地点までは辿り着ける、ここから西側へ上れば踏み入る事の出来ない様な雑木密生地帯になっているが、外見から判断するには出郭とも見受けられる。逆に東に向いて踏み跡を辿り上れば難なく山上郭跡には到達出来る。

現状城跡の判別出来る遺構としてはほぼ単郭に近い主郭周囲を囲む土塁と空堀、及び土塁虎口、虎口郭と限られ、他は二月と言うのに身動きも取れない雑木藪と化しており視認も困難な状況にある。規模は山上全体を占めるもので相当な広さがあり当時は館城的な要素を持ち合わせていた様にも窺われる、南側を下りた尾根に向いても郭跡は展開されていると察せられるが移動も困難な藪の為、無念ではあるが踏破は断念する。

この城跡を居館城と位置付ければ充分納得できるが、山城とした場合には余りにも防備が手薄くとても戦国時代まで活用された様には見受けられない城跡と言うのが個人的所感である。

5_minami_gawa

南側から遠望

1route2 登城ルート

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城跡概念図

13_shukaku_nai_dorui  主郭を囲む土塁と空堀

15_shukaku_kita_gawa_1 主郭外周の土塁

16_obi_yori_dan_1 高低差の余り無い主郭

2008年7月23日 (水)

高槻城跡(京都府綾部市)

京都府綾部市高槻町甲山の集落の中、独立した丘稜地に城跡はある

この城跡も大槻氏の居城と伝わっているがやはり他と同じ様に光秀の丹波平定後には廃城となった可能性が高いと思われる、詳細は不明。

1route_2 登城ルート

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北から遠望

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城跡概念図及びコメント

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墓地から主郭、堀切を望む

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堀切土橋と虎口

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主郭内土塁

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西側の空堀道と土塁

井尻城跡(京都府瑞穂町)

京都府瑞穂町井尻の集落西側の幾つか突き出た枝尾根の一角に城跡はある

城跡に関しての詳細は不明であるが集落に在住の方は城跡の存在は御存知らしく幼年期に遊んだ記憶から南尾根側に馬場跡の在る事まで教えて頂いた。流石に城跡の歴史までは及んでないが登山口まで丁寧に教えてもらったので難なく辿り着く事は出来た。

登城ルートは井尻公民館よりスタートした場合西側の橋を渡った所で北西側に聳える山を目指し集落に入り細い道路沿いに北に向いて進み、道路沿いの一本杉を確認出来ればその脇から山上までは山道が通じているので迷わず到達出来る。

現状城跡は藪化進行中ではあるが郭跡から堀切、土塁に至るまで明確に判別出来る状態にある、規模も思っていたより大きく主郭、副郭、山上郭のほぼ三郭で形成されているもので郭間は堀切で分断され独立性を保持した構造になっている。山上にも形の良いままの櫓台と見受けられる土塁も残存しており全体を通して小領地における戦国時代の城跡を体感する事が出来る。

見所を一つ挙げるとすると主郭と副郭間の堀切で高低差も6~7mはあり中々の迫力で迫ってくる、住民の方に教えて頂いた別尾根にある馬場跡までは足を踏み入れていないが外見から覗く事は出来た。シンプルな分残存度は非常に高い城跡と言える

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登城ルート

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城跡遠望、登山口

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城跡概念図

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副郭

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堀切

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主郭北の空堀と土塁

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山上櫓台土塁

東掛城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市東別院東掛(トウゲ)にある甘露寺の北背後の山塊が城跡

歴史的に見れば室町期においては石田氏の居城と載っている様だが別では赤沢氏ともあるので丹波平定の折、明智側の家臣が在城していたか又は平定後に所領を任された人材なのか詳細は不明である。

今回も登城に関しては地形図と勘頼みの強行踏破になったが最初描いたシュミレーション通りのルートで辿り着くことが出来た。登城ルートは甘露寺西側の墓地から本来山上の社跡へ通じていたと見られる参道を上り、途中から最短距離で北尾根に向けて直登すると尾根上の削平地に到達する、既に城域と思われるが更に西に向いて上るとやっと城跡らしくなり南出郭を経て堀切を確認しながら山上へと足を向ける。主郭と見受けられる郭跡には現在社跡となる石碑が建立されているがその途中には広大な空間である東郭があり更に堀切が備わっている。主郭北西側には二本の堀切を確認出来たがその内一本は土橋が両サイドに備わり一見障子堀に見えるもので残存状態も良く堀切も併せて中々見応えがある。城跡に関しては情報量も皆無で期待もせずに訪れたが、意外に残存状態も良く戦国期の山城としてはそれなりに醍醐味も見応えもあるので良い意味で大きく期待を裏切られた城跡のひとつと言える。

尚、登山道中の集合墓地の中に石田姓の墓があったが城主であった石田氏の子孫のお墓かもしれない。

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登城ルート

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南側より城跡遠望

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城跡概念図

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南出郭壁

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規模の大きい東郭

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主郭櫓台土塁

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主郭内

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堀切土橋

橋爪城跡(京都府瑞穂町)

京都府の瑞穂町橋爪にある橋爪城跡を訪れた際の現状報告

城跡は常照寺北背後の山にあり山内一豊の祖父である久豊の居城と伝わっている

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西より城跡遠望

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現地登城ルート

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城跡概念図

3a 訪城コメント

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主郭北の堀切

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二の丸

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南郭2の切岸

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南郭3の土塁虎口

数掛山城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市本梅町西加舎の加舎神社から見れば遠く西側の綺麗な形をした山(狼煙台)の手前側尾根上に城跡はあり、まだ紹介の遅れている滝ヶ嶺城とは相当離れてはいるが真西側に位置しており同じ緯度にある

少ない資料の中ではあるが城跡は古くは波多野氏から始まり小林氏の居城とも載っているが波多野氏の没落と同時か光秀の丹波平定後廃城になった可能性は充分考えられる。実際に現地に行っても街道からは相当離れており集落監視においては良い立地条件下にあるが、有事の際の部隊移動であるとかを考えるととんでもない場所に築城したものである、正に隠し砦か逃げ込み用の砦の様で利便性にも欠けており平定後もこの城跡が使用されたとはとても考え難いものである。戦国時代なるが故に成立したと言っても過言ではない城跡に感じられる

城跡は真冬に訪れたせいもあって雪は多少残っていたが雑木に阻まれる事も無く全ての郭跡は見て回る事が出来た、高低差の余り無い郭を並べた主要五郭から構成されており数箇所に石垣跡も残存している。規模も小さく縄張り妙味も技巧的な箇所もほとんどないので苦労して上って来た割には多少肩透かしを食らってしまったが、ここに城跡が存在する事実だけでなぜか充分な満足感に浸れてしまうから不思議である。多くの城跡ファンが求める山城のイメージは恐らく天空の城なのである、この城跡がこれに近いとは決して思えないがこの城跡の雰囲気も醸し出すものもやはりこのイメージに近いものがある。山城遺構に期待するよりは別な意味での大人の隠れ家的なロマンに浸れる城跡とも言えよう

尚、城跡をそのまま東側に下りれば東尾根上にも比較的大きい郭跡が残存しているので下山時には少し直登道からはそれるが寄っても損はしないだろう、ただし寄った後は必ず下山方向の南側(右手側)に下りて行く事が大事になる、そうすれば元の登山道に合流できる筈である。

今回は地形図だけを頼りに目星だけ付けて登り、幸いにも無難に辿り着く事が出来たが下山時においては全く方向が分からなくなり偶然東城と呼ぶべき郭跡に寄る事は出来たが少々山中を彷徨ってしまった。再度訪れる事になっても今回と同じルートで上れる自信はあっても下りれる自信は絶対に湧いてこない。地図で説明をするのは簡単ではあるが一旦シュミレーションしたルートから外れると体外な方向に出てしまうので要注意の山城である。しかしこの達成感は半端なものではない!

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東側からの城跡遠望

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登城ルート

3_1 城跡概念図

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南出郭石垣跡

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出郭北側石垣跡

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主郭自然岩利用の虎口

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主郭内奥の櫓台土塁

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主郭北堀切

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東尾根上の出城跡

2008年7月22日 (火)

神尾山城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市宮前町宮川の集落真西の山上に主郭を構え、別名本目(ホンメ)城とも呼ばれているが亀岡周辺では有数の規模を誇る城跡である

城跡には金輪寺が郭跡とされる場所に建っており、車で谷に沿った細い車道を上れば麓から数分で到達出来る。この城跡の歴史を辿れば戦国時代における城主の交代も激しく時代に翻弄されたと見えて詳細は不明である、最終的には丹波平定の際に他の城と同じく光秀に攻略されており寺院案内板にもある様に光秀の城で通っている様でもある。城跡の遺構群はその後改修を受けているものの様にも見受けられ織豊系と呼ばれる独特の分厚い土塁及び虎口は残されていないが、石垣跡と見られる痕跡は随所に残っており石垣を多用した実績のある光秀の影が多少ではあるが見え隠れしている様に窺われる。

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登城ルート

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城跡概念図及びコメント

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金輪寺説明版

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金輪寺

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二の丸南段郭群

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段郭空堀と土塁

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段郭壁面の石垣跡

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虎口石垣跡

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主郭仕切り土塁

埴生城跡(京都府園部町)

京都府南丹市薗部町埴生の集落北に突き出した尾根に主郭を構える単郭と言っても良い小規模な城跡

城跡は神尾山城の支城にあたるもので歴史的にも不明な部分が多いが、こちらにも周囲を石垣で覆っていたと思える石垣痕が随所に窺われ最終的には光秀によって改修を受けた可能性もある様に見受けられる。

山上へは山道があったのかも知れないが麓の最福寺東側の小川を渡り、当時の屋敷跡であると思える数段にもなる休耕地から直登すれば20分足らずで山上主郭に辿り着ける。

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登城ルート

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城跡概念図

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麓寺院東側の屋敷跡

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大手の虎口石垣跡

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主郭西壁の石垣跡

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主郭

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主郭櫓台切岸

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主郭南西角の石垣跡

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主郭南の大堀切

上林城跡(京都府綾部市)

京都府綾部市八津合にあり県道沿いからは南側に凄い高さを持った切岸と近世設けられた展望テラスがすでに目に入るので位置は分かり易い、その小山に向いて川を渡ればすぐに城跡案内板までは到達出来る

室町から戦国時代にかけては代々上林氏の居城となっており十家に及ぶまでの隆盛を誇っていたらしいがその後については勉強不足の為詳細は不明、17世紀初頭には藤懸氏が陣屋を設け明治時代まで支配した記録は残っているそうである。陣屋時代には麓に居を構えていたらしいが案内には無いので場所は見落としてしまったのかも知れない。

この城跡の最大の見所は城跡北側の30mはありそうな切り立つ崖状の切岸で、現状植林の為見えにくいが縁に立つと凄い様が見て取れる。もちろん外見からも充分窺えるものである。

2enbou 北から遠望(凄い切岸が見える)

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登城ルート

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城跡概念図

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訪城コメント

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登城口

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北側にせり出した出郭

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主郭

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主郭内の櫓台石垣

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南郭の輪郭

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西側の輪郭

2008年7月21日 (月)

中尾山城(京都市左京区)

京都市左京区銀閣寺の谷奥真西の山上が城跡

城跡へは銀閣寺北側の谷筋に登山道があるので先に紹介した西城経由で上ることも出来るし本来の大文字登山道からでも辿り着ける。コメントに関しては城跡概念図に載せてある通りで山上に余り高低差の無い規模の大きな郭を直線的に配し、主要三郭で構成されているオーソドックスな縄張りを持つ山城である。

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城跡概念図及び訪城コメント

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西城からの上り空堀道

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西出郭の周囲土塁

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主郭と奥土塁

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二の丸切岸と土橋付き堀切

仮)中尾西城跡(京都市左京区)

京都市内銀閣寺の北西側山上に主郭を構える古い形態の山城である、中尾山城から西に派生する尾根の最高所ほぼ独立した山塊に城跡はある

御存知足利将軍の城跡であるが、文献にもほとんど城跡としては登場して来ない。有名な中尾山城とは成立年代も異にすると思われ、こちらの方が山城としても古い形態を採っており相当風化も進んでいる。一城別郭と見受けられここでは便宜上中尾西城として紹介するが、城跡へは銀閣寺の北谷筋の中尾山登山口からすぐの朝鮮学校側の裏手に当たる南側倒木の多い荒地よりそのまま尾根を上る、この数段に渡る荒地も推察ではあるが随所に石垣跡が窺われ当時の屋敷跡の趣を残している。

最高所の主郭までは樹木も比較的少なく踏み跡を難なく上って行けるが、その間には郭跡はもちろんの事、土塁、縦堀、切岸、虎口跡などは明確に確認出来る。主郭周りの斜面上の郭跡に関しては地表が風化で相当荒れているため段差などは判別し難く自然と同化した状態になっている。最高所主郭には櫓台と思える土塁が東側の谷を背にして健在で、更にその下方には馬場跡にも見える広い空間があり巨大な土塁を伴っている。ここは城中一番の見応えのある郭跡で仰ぎ見る主郭切岸も更に素晴らしさに拍車をかけている。主郭より南東側の郭跡を下りて行くと丁度中尾山城との境目に当たる堀切に出会う、ここから尾根を上っていくと出郭を経由して中尾山城へ辿り着く事が出来る。

今回の訪城ルートでは中尾城の古い形態の城跡と本来の山城を順を追って見る事が出来、同時に両者の違いも把握する事も出来るので二重に楽しめる事は請け合いである。個人的な感想では風化中ではあるが縄張り妙味もあり、残存遺構にも迫力のあるものが多い西城の方に山城の醍醐味を感じる事が出来た。

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登城ルート

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城跡概念図

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朝鮮学校裏手の推定屋敷跡からの登山口

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推定屋敷跡の石垣跡

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西郭1の土塁虎口

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西郭の縦堀(二条)

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主郭櫓台土塁

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馬場跡か?巨大土塁見所

今宮城跡(京都府美山町)

京都府美山町今宮の集落北西側に聳える一際高い山から延びる南東尾根上に城跡はある

この地より車で数分、南数キロ程度の距離にある島城と同じく川勝氏の居城であるが歴史の詳細については不明。

城跡への目印は特に無いが集落のある小さな小川の流れ出す谷沿いに山道があるのでそれを山に向いて上ると山裾に裾を取り巻く形で土塁空堀が見えてくる、これは遺構かどうかは判断し難いが、反対に後世にこの様なものを設けて一体どのような用途が在ったのかと言う観点から推察するしか手が無い様である。この付近を取り付き地点にして北斜面をひたすら上ると数十段の段郭及び堀切を経て最高所の主郭まで到達する事が出来る。

この城跡の主郭背後を断つ残存状態の良い四重堀切は、これだけの為に上ったとしても決して後悔しない見応えと醍醐味の両方を併せ持つ素晴らしい遺構である

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登城ルート

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城跡概念図及びコメント

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大堀切見所

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大堀切正面より

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東段郭群

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主郭

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四重堀切(写真では三重)見所

2008年7月20日 (日)

法貴山城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市曾我部町法貴の集落から見て西側に聳える山が城跡

本来は酒井氏の居城であったが後に明知側に就いたので改修されたと見えて、織豊系を色濃く残す城跡に変貌を遂げたと見受けられる。亀岡から丹波地区にあっては堀切は備わっていても横堀(空堀)の使用されていない城跡が多いのだが、この城跡は空堀を二重に用い尚且つ横の移動を阻む縦堀も張り巡らせており、縄張りも含めて非常に先進性に富んでいる。もちろん郭境には必ず堀切が設けてあり土塁と並んで鉄壁な防備に一役買っている。勝手な推察ではあるが明智改修前の古城が南から東尾根にかけての古い形態の酒井氏時代の城跡ではないだろうか。

城跡を訪問するには過去二回の経験より二通り在る事が分かったが、一つ目は下山時に使用した城跡西端から谷沿いを南東に下りる急斜面の少ないルートの逆を直登するルート。取り付き地点に目印となるものは無いが明智岩の案内板から道路を南西側に移動し、道路沿いから何となく土塁に見える丘から谷状地を登り始めると深い空堀道を通る事になり(ここを通る事によってルートの間違っていない事を確認する)そのまま距離は長いが藪漕ぎせずに西端郭跡に辿り着ける。二つ目は急斜面の直登になるが短時間で別尾根の郭跡も確認しながら順序よく見て回れるルート、これは地形図は頭に入れて置く必要があるが明智岩辺りならどこから取り付いても方向さえ間違えなければ東端の堀切を伴う郭跡に辿り着ける。ここからも斜面にはなるが酒井氏時代に築かれたと思える風化した郭跡を確認しながら主郭まで辿り着ける筈である。ただし上りきるまでは相当きつい斜面なので軽装はお薦め出来ない。どちらのルートを選んでも夏場の訪問は避ける(恐らく藪で視認も移動も出来ない状態と思える)事と、地形図は絶対に欠かしてはいけない。

城跡の状態及び感想等は別に載せてあるのでそれを参照の事、とにかく絶対に期待は裏切られない城跡である事は確かである。

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東側から遠望

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登城ルート

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城跡概念図及びコメント

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明智岩取り付き周辺

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副郭

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南側空堀

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主郭西櫓台

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主郭西堀切

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西郭より主郭切岸

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西郭西側堀切

2008年7月19日 (土)

犬甘野城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市西別院犬甘野にある無人の慶善寺西背後に聳える山の山上が城跡

ここより東側の山を越えて車を走らせば長沢氏の居城である笑路城跡に行く事も出来るが、城跡へは寺院横から西に向いて水道施設への道があり、これを途中まで利用して山道を上ると堀切のある尾根中間部に到達する。後は北は主郭側、南は出郭側とどちらかを選んで尾根沿いに歩けば辿り着ける。

この城跡も長沢氏の居城とだけは分かっているが詳細は不明。どちらが本城であるのかは察しがつかないが城跡成立における新旧は形態からある程度判断出来る。笑路城は縄張り構成はもちろんの事、郭の削平、切岸、石垣に至るまで随分先進性に富んでいるが、こちらは山城としても相当古い形態と見えて地表の風化も著しく郭の削平跡も曖昧で、ほぼ自然地形任せの縄張りとしか見受けられないものである。改修跡も見受けられない事からもおのずと城跡の成立はこちらの犬甘野が先で後が笑路と言う事になる。

城跡を北から南に跨いで踏破したが明確に判別出来る遺構は山上主郭周りでは埋もれた空堀跡及び一部の切岸と削平跡のある郭跡及び縦堀跡(遺構は自然の副産物かも知れない)がある、尾根中間部の堀切は南北を断ち切る城跡における唯一の見所で土塁を伴い空堀道となって東西の山道に繋がっている。南側尾根にも削平された平坦地が数箇所窺われるが後世の寺院跡の様にも見える、恐らく郭跡の転用とは思うが断定出来る材料は無い。麓竹林地には屋敷跡と見受けられる削平地が段状に連なっているが当時の遺構かどうかの判断は付き難い。

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登城ルート

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城跡概念図

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中腹にある空堀

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尾根中間部の堀切

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尾根小郭より堀切

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主郭下段の郭

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主郭

37_higasi_demaru_1

南尾根側の出郭

大田城山上郭跡(京都府亀岡市)

大田城の北側背後の山が城跡で広大な単郭に近い削平地が残存している、遺構としては郭跡、土塁、郭切岸などが確認出来る範囲のものである。更に北側尾根は遠く行者山に繋がっているが推察するところ自然地形に近い形の郭跡が点在している程度ではないのかと思われる。

尚、山上郭跡はほとんどが藪に覆われ視認も出来ない状態となっているので南側の郭形状は残念ではあるがほぼ推察したもので終わってしまった。

4_2

城跡遠望

3m

大田城塞群概念図

34x_2

コメント

 

59

謎の石垣群

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直登道の謎の石垣群

36_daidorui

横矢風の土塁

41_kirikisi_2

郭切岸

44_kita_dorui_kaku

北山上土塁郭

16_demaru_1

神社西砦群の物見か

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砦群段郭と手前堀切

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砦群郭跡

太田城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市稗田野町大田集落の南側に突き出した尾根上先端部に広大な規模の大田山上郭がありその南麓に池を天然の堀としたこの城跡がある。

城跡の歴史については詳細は不明であるが松井氏の居城でやはり明智に攻略されており、当然負組みの歴史など余り残っていないのが現実であろう。ただ城跡の規模は山上から西尾根に至るまで歩き回った結果相当大きい事が分かり、大名クラスでもない松井氏によくこれだけの規模を持つ城が造り得たのか不思議な処でもある。

山上郭群に関しては日を改めて訪城したので別に載せる事になるが、今回の麓における屋敷跡(恐らくその中には居館跡も含まれていた)及び主郭と呼ぶに相応しい郭群は残存状態が素晴らしく良く、往時の城跡を楽に思い起こす事の出来る状態になっている。郭跡も主郭から北の山側にかけて数段連なり東側に位置する春日神社辺りまでも平坦地が広がっているし(神社周りは後世の遺構かも分からない)更に西側池の畔も広大な郭跡が無数に残っている。更には西側枝尾根上には西出郭群と呼べる砦跡も残存している。

この城跡も他隣接する城跡も情報資料が少ないものが多く、場所も特定出来ぬままの地形図頼みの勘で臨んだのではあるが最初の目星通りに早く見つけ出す事が出来、おまけに残存状態の良い素晴らしい遺構群にも巡り合えることが出来、満足感に浸り切れた有意義な一日となった。

4

東側からの遠望

1

登城ルート

3_1_2 大田城跡全体の概念図

3o

城跡概念図

7_minami_yasiki_kaku_1

主郭南側の広い郭跡

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主郭(現在社殿あり)

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主郭北空堀

26_daihorikiri

直立に近い堀切見所

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東中郭

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東郭土塁

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西側屋敷跡

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屋敷跡随所に窺われる石垣跡

丸勘城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市稗田野町鹿谷の丸ヶ条集落にある平山城

地名のまま別名鹿谷(ロクヤ)城でもあるが竹岡氏の居城である事以外は詳細は不明である。ただ地域上からもこの一帯は八木城内藤氏又は八上城波多野氏の管轄に近く恐らく両者どちらかの家臣であった可能性は高い、地元の歴史好きな方に聞いた話によるとここの城主は最後まで投降せず丹波攻略軍と攻防戦を繰り広げた歴史があり現在の城跡はほぼ立て篭もった当時のままの遺構であるとの見解であった。もちろん丹波の勢力はほとんどが最後まで抵抗しているのであるが、ここの城主はよほど勇猛であったのか逃亡もせず城と運命を共にした勇将であったと考えられる。

城跡は低い平山城だけあって西側民家横の大手と思われる社に向かう参道から簡単に登城出来るが、参道沿い及び参道壁に当時の石垣跡が残っているので見逃してはならない。虎口を形成する郭には社が建っており虎口土塁らしき遺構も残存しており、主郭は居館跡に相応しいと思われる広大なもので周囲は全て切岸化され、未だ尚鋭角な状態を保っている。東側は屋敷跡と見受けられる広い平坦地が主郭に沿う様な形で広がっており堀切をもって郭割りとしている。平山城であるが故に縄張りは単純ではあるが、ほぼ往時の状態に近いこの残存状態の良さには感動すら覚えてしまうものである

城跡から北側には住宅地と農作地を挟み出郭らしき遺構及び切岸に大石垣を伴った広い郭跡が残存しており水堀であったかの様な湿地帯も窺える、更に北東に回り込むと正しく城跡遺構である周囲を土塁で囲んだ郭跡も確認され城域はここまでにも及んでいたと勝手に解釈する。この地より東側の斜面を登りきれば大田山城に辿り着くと思われるが丸勘城との関連性については分からない状況である。

1zu2

城跡への地図

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城跡概念図

4_nisi_yori

西側城跡遠望及び進入路

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大手と思われる参道と虎口跡

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畑地より参道壁石垣跡

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主郭虎口切岸

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主郭西下段帯郭

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屋敷跡堀切道

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南郭

3

城跡全体の概念図

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堀跡に見える出郭付近

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出郭北側の広い屋敷跡

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明確に判別出来る周囲土塁の郭跡

2008年7月18日 (金)

柿花城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市稗田野町柿花の集落南側背後に聳える山の山頂最高所に城跡はある。

波多野氏の家臣である畑氏の居城とだけ載っているが詳細は不明、城跡へは麓の積善寺脇から谷に沿う形で山道が山上まで通じているが、ほとんど現在では使用されていないと見えて下草及び笹が伸び放題となっている。それでも掻き分けて進めば何とか尾根に辿り着ける、尾根に出るとすぐに土橋を伴う堀切が待ち構えておりそれを乗り越えれば既に城域に入った事は分かる。

城跡は東から西にに向いて高低差も無く郭を並べただけだが、郭間には随分埋もれてはいるが堀切が設けられており、幅を持たせた堀切には石垣の痕跡も窺えた。郭内は長年に亘る風化の為相当荒れてはいるが、シンプルな縄張りのお陰で遺構は判別し易く分かり易い状態にはある。主郭群の西側は切岸処理のない規模の大きな削平地が続いており西郭端は三方が長い斜面として終わっている様である。規模も大きいとは言えない城跡ではあるが、砦にすれば石垣を部分使用して土塁も設け本格的に築かれ過ぎているし、街道沿いに睨みを利かせる為の威圧も兼ねた城跡なのかも知れない。非常に位置付けの難しい城跡と言える

稗田野地区一帯には新旧の城跡がなぜか数多く隣接集中しているが、個々の城跡における城将の横の繋がり及び歴史背景など、資料的にも不明な部分が多すぎ今一見えてこない部分が多い、丹波統一における明智光秀との絡み及び時代背景まで加わると城跡の成立時代などはどうでもよくなってくる。

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登城ルート

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城跡概念図

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東側尾根上堀切土橋

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東郭

15_karabori

主郭東の幅のある堀切

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堀切壁の石垣跡

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主郭

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主郭内土塁

新庄城跡(京都府南丹市)

京都府南丹市八木町船枝にあり、八木城の支城で船枝城とも呼ばれる井上氏代々の城跡であるがそれ以外他は詳細不明

城跡は船井神社を目指した場合、神社の西側の山が城跡にあたる。登山道としての道は整備されていないが東側の大池に回りこみ大池北側の堤防土手沿いに山に向いて進入して行くと山道がある、途中から道は消えても尾根中ほどにある堀切までは数分で到達出来るが、合理的に山上を踏破するのであれば先に中腹枝尾根上の東出郭跡に一度立寄って見て、尾根を上れる状態であればそのまま上ると直接主郭東側の郭に辿り着けるはずである。ちなみに今回の訪城では東出郭より一度は直登を試みたが雑木に阻まれ一旦下りて山道を堀切に向かうルートになった。

状態は余り良くないが遺構残存度はかなり高い城跡のひとつである。

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登城ルート

3w

城跡概念図

3f 訪城コメント

22_shukaku_heki

主郭切岸

23_shukaku_nai

主郭

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東郭の大岩を取り込んだ大土塁

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東端郭

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中腹東枝尾根上の出郭

2 主郭にある説明板

黒田城跡(京都府南丹市)

京都府南丹市園部町黒田小字片山にある木崎山山頂が城跡となっている。別名木崎山城又は片山城

古くを辿れば代々森氏の居城と聞くがこの一族も織田軍に敵対しており丹波攻略軍の前に最後の城主である森筑前守高之が丹波黒井城に追い詰められた、それ以後の豊臣政権で森一族がどのような形で関与して行ったのかは分からないが没落したのは間違いの無い処であろう。

現状城跡は登山口に分かり易いとは言えないが小さな案内板もあり、地元の方の整備によって登山道もあり非常に見学もし易く、ほぼ縄張り全体像は把握する事が出来る状態となっている。

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集落南側より遠望

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登城ルート

3k 城跡概念図

22_minamikaku_sita_horikiri_1

南郭北側最低部の堀切

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主郭内の現状

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東郭

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東郭内の空堀見所

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堀切土橋を挟み北郭へ

上野城跡(京都府船井郡)

京都府船井郡京丹波町南上野にあり、形の良い美女山から繋がる枝尾根の末端北西麓丘陵地に位置する、館城の性格を持つと見受けられる城跡

須知氏の拠った城跡と聞いているがここより直線で数キロも離れていない須知城の支城と見受けられる。明智による丹波攻略の際は早くより織田方に組していたと見られる須知氏であるが故に、明智の改修した須知城とは立地状況が違うとは言え織豊系の縄張りを色濃く残す城跡となっている。特に居館跡などの虎口を形成する分厚い大土塁、空堀の使い方及び連結する副郭の縄張りなどは同じ織豊系である近江の土山城跡と数々の類似点が見受けられる。

現状居館跡と推察される郭跡の北西麓側は広大な荒れた造成地となり反対の南東側の山裾は住宅地及び水田地に転用されており、どこまでの地形改変があったのかは推察するしかないが、取りあえず心臓部である主郭から現状の最高所である物見までが良い状態を保持しているので見る者にとっては非常に有難いと言える。

主郭と副郭を形成する大土塁と虎口及び空堀はこの城跡の白眉と言っても言い過ぎでは無いものである。

付近にお住まいの方に聞いた話ではこの近くには須知氏を名乗る子孫の方が未だに在住しておられるそうです。

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登城ルート

3ue2

城跡概念図

3ue2l コメント

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南東側の最高所、進入路

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道路沿いから入ったすぐの郭跡

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須知氏墓地手前の土塁

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高低差のある大堀切

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主郭土塁虎口と大堀切

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西側谷から見た堀切

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主郭と副郭間の空堀

2008年7月17日 (木)

宇津嶽山城(京都府京北町)

京都府京北町嶽山の宇津嶽山頂525mに主郭を置く宇都(宇津)氏の山城

城跡は宇津城から西に向いて車を走らせ集落の西端辺りから遠く西彼方に見える山頂の位置を確認する、この位置からはまだまだ相当遠くに感じられ今から臨む事になる険峻な山塊を見ると少したじろいでしまいそうになる。車では相当近い地点まで行けると思えるが今回は途中崖崩れとなっており、車を置いて地形図を確認しながら最短距離の直登山ルートを選択した、自分で選んだとは言え40度近い斜面との格闘は30分を要した。 

一時間に感じらる登山の末山頂主郭に辿り着いたが、待っていたのは鋭角なまでの切岸と削平された郭跡、二重堀切と今までの疲れは一気に吹き飛んでしまった。主郭は全長10m程度、幅5~6mの小規模なもので、物見砦か狼煙台程度の役割しか果たさないものと思えるが見る者にとってはこの険峻な山上に築かれた事自体に大きなロマンを感じてしまう。痩せ尾根を分断する二重堀切及び西端の大堀切も埋もれかけてはいるが樹木に邪魔されず全体像が把握出来る状態にあり、城跡の素晴らしさに一層拍車をかけている。

城跡とするには規模は小さすぎる様に感じられるが、本格的に山を削り出して造られた様は正しく城跡と言うに相応しいのかも知れない。

下山は直登急斜面を逆に下りたが途中より屏風の様に切り立つ長く細い尾根が気になり出し、そちらを通りながらこれも削り出された防塁の一つかなと、気にしながら山を下った。結果的には尾根から南に向いて下りた辺りに小さな用具小屋があり急な山道を下りれば本来の車道に繋がる事が分かった。

今回の訪城では相当な体力を使う羽目になったが、その分半端では無い達成感と満足感を味わう事が出来た。30_utudake

一際高い山が宇津嶽山城

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登城ルート

3d

城跡概念図

13_sanjyou_kitakaku_1

北郭

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主郭

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主郭側から二重堀切

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南西大堀切

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大堀切より主郭側

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用具小屋下山道

中村城跡(京都美山町)

京都府美山町静原にある周山街道162号線沿いにある城跡。島城とは数100mの距離にあって街道隔てた真北に位置するが、島城を本城とした場合の支城か街道監視の砦の機能を担っていた城跡かも知れない。詳細は不明

京都市内から周山街道で北へ車を走らせた場合は銘木工芸「山匠」を目指せば分かりやすく辿り着ける、城跡はこの「山匠」の道を隔てた真向かいの小山にあり、数10m先の土木作業所の手前を右折した小道から旧社跡に通じる堀切道の様な山道があるのでそれを利用すれば城域である北側の虎口を伴う削平地に到達出来る。ここより南西斜面を直登で上り切れば土塁を伴う北郭に直接辿り着ける。

城跡は小山の頂上を主郭として尾根三方向に広がった構成で、主郭は規模も大きく南北に石積み跡の窺われる櫓台土塁を備えており街道筋に睨みを利かせていたと思われる。直登してきた斜面の反対北側にある社跡には屋敷跡とも見て取れる広い平坦地が段状に配され尾根続きの山上にも出郭らしき削平された平坦地があるので、これらは城跡遺構にも感じられるがあくまでも推察の域は出ない。本郭周りの遺構としては土塁、空堀、縦堀などは判別確認出来るが、藪化もかなり進行中である為夏場の訪城は出来るだけ避けた方が良いと思われる。

自然風化に任せたままの荒れた状態ではあるが遺構残存度は非常に高いと感じられる城跡である

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西側より遠望

1route

登城ルート

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城跡概念図

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北郭3の土塁

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北3郭より北2郭の切岸

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主郭内の空堀

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空堀別角度より

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主郭

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主郭西土塁虎口

2008年7月16日 (水)

甲ヶ岳城(京都府綾部市)

京都府綾部市大島町にあって一際高く聳える形の良い山塊の山頂から尾根にかけての部分が城跡である

この城跡は丹波八木城の内藤氏の前線基地に当たるらしく規模も相当大きく綾部三大山城のひとつであると言った事が案内には書き込まれている。登山口は数箇所あるらしいが城跡から見て北麓の中筋小学校の西側にあるゲートボール場脇からのルートが比較的分かり易いのではないかと思われる。特別高い山ではないが麓から眺めると独立峯に見える為一層高く見え距離も相当遠いものに感じてしまう。

現状城跡は時期も悪かったと見えて夏草と雑木で覆われており小社のある主郭と登山道周辺を除いては視認はもちろんの事、郭内移動も相当し辛いものとなっている。山上主郭までの幾つかの削平された郭跡は確認する事が出来たが、主郭から派生する枝尾根上の郭跡までの踏破は断念したので城跡全体像まで摑むことは出来なかった。

結果的には主郭に到達するまでの堀切とその東側に位置する片側に空堀を伴った土塁及び土橋が郭跡を除いた遺構としての成果と言えるものになった。

片道40分ほどの道程ではあるが真夏の湿度の高い登山道の上りは相当きついものがある。

4

城跡遠望

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登城ルート

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城跡概念図

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登山口案内板

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片堀切と土橋、土塁虎口

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堀切

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土塁虎口

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主郭側の堀切

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主郭

中村城跡(京都府福知山市)

京都府福知山市中村にあるこの城跡は塩見氏の城と載っているがそれ以上の情報は現在の所わからない状況である

城跡は猪崎公園となっている猪崎城跡からは北へ車で数分程度移動した距離にあってこれより更に北に数分の移動で池辺城跡があり、三城を順に訪ねると時間は有効に使えてそれぞれの特徴なども比較対象出来る事にもなり、有意義な城攻めになる事請け合いである。

城跡は外見上低い丘陵地にあり道路沿いからは鳥居が見えるのでそれを上れば参拝者のあるかないか分からない様な社に辿り着ける、ここからは既に郭跡になっており入り口には櫓門でも備わっていたかの様な素晴らしい形の土塁が虎口を形成している、その外周からは空堀を伴う土塁がコンパクトな城跡全体を覆う形で半周しているが一部仕切り土塁も伴い技巧的な一面も見せてくれている。もちろん虎口土塁と並んで城跡の見所のひとつでもある。大堀切を挟んで主郭群となるがこちらにも見所となる当時のままであるかの様な残存状態の良い大土塁とそれに伴う空堀が見事な状態を保持しており、見る者に感動を与えてくれる。先に寄った猪崎城は公園化されており当然状態は良いものであったがこちらは自然任せとは言え猪崎城に対して決して引けを取っておらず、一部藪化はしているものの中々ここまでの残存度の高い城跡には巡り合えない。

この城跡はこまででは終わらないとみて道路を隔てた南東側の丘陵地にも足を延ばすがやはり規模の大きい削平された平坦地が続いており一部切岸処理も窺う事が出来る郭跡もある。勝手な見立てではあるが平坦丘陵地南側麓の寺院を館跡とした場合、城域はこの広い丘陵地全域に及んでいたと解釈しても差し支えないのではないか思われる。

コンパクトな城跡で見て廻るのも容易いが見所遺構はそれ以上のものがあり、時間の経つのも忘れて何度も遺構の前で立ち尽くしてしまうほどであった。

4_1 城跡遠望

1route_2

登城ルート

3

城跡概念図

11_koguti

土塁虎口

14_minamikaku_nai  

社のある南郭

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大堀切

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副郭櫓台土塁

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主郭

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主郭北堀切と大土塁見所

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北堀切より主郭切岸

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東側空堀土塁見所

物部城跡(京都府綾部市)

京都府綾部市物部にあるこの城跡は丹波守護代であった上原氏の拠った城である。もちろん名前が語るように信州諏訪の上原氏から派生した流れの一族と思われ城跡に隣接する諏訪神社もそれを物語っている。歴史から見ればこの上原氏も大槻氏と幾度も抗争しており最終的には赤井氏に滅ぼされる事になるが、この赤井氏も大槻氏も明智の丹波攻略によって滅ろばされており、当時の戦国時代における下剋上は凄まじいものだったと言える。

城跡は諏訪神社を目指し車を走らせると小さな山容が目に入るので外見から判断してもすぐそれと分かるので見つけ易い、神社まで辿り着けば本殿背後からいきなり凄い縦堀に出迎えられるのでそれを上りきればすぐ虎口に到達する。縄張りはこの小さな山塊の全てに一部の隙間も無く郭が配されており、まるで要塞の如く形成されている。現状藪化の真っ只中にあるが遺構は全て判別可能で一部の竹林地帯を除けば移動もし易く全体像も摑みやすいものになっている。状態は良くはないが神社のある山とあってか人の手があまり入っておらず遺構残存度は非常に高い城跡である

最近発刊が多くなったとは言え歴史雑誌類及び城郭雑誌類にもほとんど登場して来ない情報不足の城跡ではあるが、福知山から綾部地方一帯にはこの様な城跡がまだ数多く残っていると思われる。明智の丹波統一以前、及び以後廃城となった戦国時代の城跡にもまだ数多くの遺構が眠っていると思われ、これからの訪城はまだまだ続く自身のライフワークにもなりそうである。

訪城結果として小山全体を要塞化し先進性を含んだ技巧も取り入れられたこの城跡は非常に見応えがあり、平山城に近いが山城としての醍醐味も備わって手軽に行けるお薦めの城跡と言える。

4_higasi_yori 城跡東側より遠望

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登城ルート

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城跡概念図

8_karabori_dou_2 中腹物部社からの空堀道

10_nisi_tatebori_2 虎口西側に落ちる縦堀見所

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空堀道から虎口へ

17_yagura_dorui_heki 主郭南側の土塁壇

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主郭北側の大土塁見所

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二の丸北側の土塁

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主郭西帯郭の溜め井戸跡にも見える窪み

高城跡(京都府綾部市)

京都府綾部市七百石町高城にある高城山山頂の尾根上はほぼ郭跡と見られるのが城跡である、山頂中ほどにはNTTの中継所も建っており麓からはすぐに位置は確認できる。

この城跡も主郭案内板にある様に大槻氏の拠った城跡で、特徴である主郭の規模は大きく豊富な土木量で郭、堀切、切岸などは全て削りだしてある様に窺える。城域も相当広く現在のNTT中継所も含み東は秋葉社から麓まで郭跡と見受けられる削平地が何箇所にも渡って点在している。

主郭から四方に広がる枝尾根上にも郭跡は点在していると思われるが、この藪に加え山塊全域が植林地として使用されていない雑木藪地となっているので、これから先も全体踏破は非常に難しいと考えられる。

4_enbou_kita_yori

高城遠望、なぜかUFOが、、

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謎の物体の拡大画像

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登城ルート

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城跡概念図

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東側尾根を分断する大堀切

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大堀切と土橋見所

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猛烈に藪化した主郭内部

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主郭内の説明板

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主郭北側の堀切と土塁

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西端の郭と虎口

2008年7月15日 (火)

猪倉城跡(京都府亀岡市)

京都府亀岡市宮前町猪倉にあるこの城跡は別名井内城とも呼ばれ井内氏によって築城された城跡だと思われる

城跡は長い丘陵地の北端に位置しており登山道が見当たらないので取り付き易い西側になるが低い丘陵地なので基本的にはどの地点からでも藪漕ぎ覚悟なら登れる素晴らしい城跡である。

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城跡西側取り付き地点

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登城ルート

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城跡概念図

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訪城コメント

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二の丸

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主郭土塁

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東側空堀と外周土塁

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南西側空堀と外周土塁

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南側土塁虎口

東胡麻城跡(京都府南丹市)

11/22 重要な訂正があります

今回、京都府坂井城跡においてもコメントを頂戴しておりますS氏より、この大戸城跡に関しては信頼のおける情報を頂き、ブログ(7/15 )掲載分の大戸城跡(塩貝城、上胡麻城)は呼称「東胡麻城跡」であるという事が判明しました。ここで改めて間違いを訂正すると共に、同じ地区に隣接する(両者を上胡麻城と下胡麻城とするからには、ほぼ隣接しているものと推察出来るが、現状では場所は未特定)本来の大戸城については、近い内に場所を特定して現地訪問し、改めてリポート結果を報告したいと思っております。

京都府南丹市東胡麻にある城跡で、別名「下胡麻城」とも呼ばれ宇野氏によって築城された城跡と思われる。

城跡は西南に突き出した尾根の山上に位置しており末端の郭は川のすぐ辺に迫っている東側線路を越えて川まで向かいそこより金網ゲートをくぐり小橋を渡るといきなりうねうねした土塁と広大な平坦地が目に入る。ここは恐らく当時の屋敷跡とも窺えるが後世どれだけ手が入ったのか皆目見当もつかないので遺構とするには少し無理があるかも知れない

そのまま尾根に向いて墓地を通り過ぎると尾根を分断している堀切まではすぐ到達出来る。堀切より左に向いて山側斜面には山上までいくつかの削平地がありこの辺りまで城域は達していたと推察出来る。

堀切より右手に向かう山上主郭群はあまり広くは無い数十段にも及ぶ段郭群が川に向いて連なり、主郭周りには中規模の郭がそれに付随している。

現状城跡は意外と言えるほど残存状態が良く、全ての遺構は明確に判別できる、資料も情報も乏しく城跡の歴史に関してはさっぱり知る術も無いが、訪問者も恐らく自分を含めた城跡マニアだけに限られてくると思える。地形図だけを頼りに当たりをつけて何の期待もせずに訪れたとは言え、良い意味で大きく期待を裏切ることになりアドレナリンも最後まで出っ放し状態であった。

4 線路を挟んだ東側からの城跡遠望

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登城ルート

3

城跡概念図

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山上に向かう土塁道、奥に虎口が見える

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二の丸下の堀切

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二の丸より主郭切岸

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主郭最高所

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段郭群の中の一部である三連郭

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山麓の屋敷跡に見れる郭群の一角

田原城跡(京都府南丹市)

京都府南丹市日吉町田原にあるこの城跡は和田地区にある川沿いのバス停から橋を渡り途中から消えかけた急な登山道を上りきると辿り着ける。

現状城跡に関する資料も情報も持ち合わせていないが山麓に展開される広大な規模の段状の平坦地を屋敷跡又は館跡地とすると、山上郭群も合わせ当地には相当な侮れない勢力が存在していた証となる城跡だと言える。

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南側より遠望

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登城ルート

Za_3 城跡概念図

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屋敷跡と見受けられる広大な跡地

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主郭西側

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西郭から主郭

16_shukaku_higasi_kado_isi_2

主郭東角の石垣跡見所

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主郭北東尾根を分断する堀切

一尾城跡(京都府綾部市)

京都府綾部市栗町上村にあり、位田城跡からは西に数キロも離れていない位置にある別名栗城とも呼ばれる山城である。

この周辺一帯は明智軍の丹波攻略までは大槻氏が所領となっていたらしく綾部には大槻氏の城跡が数多く点在している、特徴としてどの城跡も主郭となるべき郭は規模が大きく山城にありがちなちまちまとした狭小な郭空間は少なく、大きな土木量を持って削り出し築かれたものが多い。もちろんこの城跡もその中のひとつで東西に渡る尾根上に隙間無く高い切岸を伴って郭は並べられており見応えは相当なものである。ただ主郭を除いた地域は雑木藪に覆われているのが非常に残念である。

6_nisi_tozanguti 城跡西端に位置する稲荷社からの登山口

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登城ルート

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城跡概念図

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西側尾根を分断する土橋付き大堀切

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大規模な主郭(ここだけ木々が少ない)

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大手道と見受けられる深い空堀道 見応え有

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大手虎口辺りの山上に向かう縦堀

池辺城、観音寺南城跡(京都府福知山市)

池辺城跡は京都府福知山市池辺の観音寺北西の丘陵に位置しており、寺院の南側に突き出した丘陵地には一城に匹敵する規模でもある(暫定)観音寺南城が存在する。

情報及び資料も乏しいので、今回観音寺南城跡の方は暫定と言う形になったが城郭寺院としての詰城的機能を持たされていた様にも推察出来る。規模としては池辺城の方が大きく主郭においては館跡に見えるほど広いものでこちらの方が圧倒的に勝っている、地元の方に聞いた話によるとこの寺院においても僧兵が立て篭もって明智軍に最後まで抵抗した歴史があるらしいと言うので両城共観音寺を中央に置く一城別郭としての堅固な城跡であったのではないかと思われる。是非訪問をお薦めしたい二城でもある

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国道南側からの城跡遠望

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登城ルート

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城跡概念図9_daikarabori_2とリポート記事

池辺城北側大堀切見所

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主郭側の大堀切見所

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大規模な主郭

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主郭櫓台土塁壁面

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西郭

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南観音寺城の寺側から覗いた主郭背後の大堀切見所

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南観音寺城主郭側から見た西郭

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南観音寺城主郭櫓台土塁見所

豊田城跡(京都府船井郡)

京都府船井郡京丹波町豊田にあって泉谷寺の東背後の山上が城跡となっている、須知氏の支城と伝わる

城跡へは国道9号を北上した場合一般道446号へ右折、その時点で前方左手に見えてくる形の整った山が確認出来る、この山の山上が今から上る豊田城跡である。城跡へは麓の寺院からルート図の如く直登する事になるが、10分程度で上りきれるので気は楽である

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城跡遠望

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登城ルート

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城跡概念図

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訪城コメント

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一段高い主郭

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主郭へ登り虎口

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西郭と土塁

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断定は出来ないが井戸跡に見える

2008年7月14日 (月)

ブログを開設しました

本日よりブログ「山城賛歌」を開設しました。

趣旨としては山城巡りをする事による自然との触れ合い、あるいは遺構見学の楽しさをより多くの方に知って頂く事であり、自分自身が過去に訪れた主に近畿圏からその周辺の山城跡の紹介及び感想、又これから訪れる事になる山城跡を出来るだけ外部の情報に捉われず、己の目で見たままを城跡概念図として作成し、己の見たがままの素直な感想を鮮度の高い現況報告として載せていく事でもあります。

まだ情報資料の乏しい城跡あるいは一度も紹介されていない城跡遺構も数多くあると思われますが、そういった城跡にも出来るだけ足を向けて現地の情報及び感想をリアルに伝えて行くつもりです。このブログは山城巡りにおいて必要とされる部分へのアシストでもあり、これをきっかけにして山城に興味を持って頂ければ非常に満足でもあり、更にこれから訪問される方あるいは既に訪問された方々と同じ感動を味わう事が出来れば、自分にとっても非常に満足のいく結果となります。

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