2009年11月11日 (水)

福谷城跡(神戸市西区)

城跡は神戸市西区櫨谷町福谷にあって県道52号「福谷」交差点のほぼ真北側の丘陵上に位置しており、現在主郭に相当すると見受けられた郭跡には、「秋葉神社」が建立されている事からも、非常に訪ねやすい城跡となっている。当時は端谷城(衣笠氏居城)を本城として周辺には多くの支城(砦跡)が築かれていたが、この城跡もその中の一つでもあり、支城として機能していたようだが、秀吉によって本城と同様に落城の道を辿った模様である。

城跡へは先に触れた県道52号「福谷」交差点を目指すのが一番分かり易く、交差点からはそのまま北上すれば、概念図に示した県道65号「福谷北」交差点脇にある秋葉神社参拝道入り口までは難なく辿り着ける。車は自己判断において、参拝道入り口付近の空きスペースを利用すれば良いものとは思われるが、そこからは参拝道に従えば5分もあれば山上主郭までは到達出来るはずである。

1route 登城ルート

Enbou 城跡遠望

6 参拝道進入口

3fu 城跡概念図

Yagura 推定主郭

Dorui

土塁

Tatebori 縦堀

Kaku 郭跡

現状(10月)城跡は社殿の建立されている敷地を除けば相当深刻な藪化状態にあり、取り合えず概念図に示したまでが移動可能、あるいはある程度視認が可能な地域と思って頂ければ良いが、踏み跡から外れると藪漕ぎ移動は余儀なくされる状況にあるので、東西斜面はもちろんのこと北側に繋がる尾根上までの踏破は断念するに至った。目に留まった遺構としては土塁、縦堀(片堀切)、枡形に見えた土塁虎口などが挙げられるが、どれも矢竹藪の中で窺うものでもあり、明確な判別は難しいのが現状でもある。よって図中に示した縄張りはアバウトなものでもあるが、遺構の位置する箇所程度の事では多少の参考にはなるだろう。北尾根上までは踏破していないので、縄張り全域の規模を体感する事は出来なかったが、郭転用地とも思えた神社敷地から想定する限り、規模の大きそうな城跡には見えなかった。現在社殿の建つ脇には矢倉風の展望所が設けてある事からも、城跡を意識した粋な計らいが窺われ好感が持てたが、遺構見学を重要視した訪問においては、最初から見応えには期待しないほうが良いものとは感じられた。尚、ルート図には示したがこの城跡から川を挟んだ南東側丘陵上には城ヶ谷城(砦跡)が存在しているので参考までに、、、ここも全域が藪状態にあるので、一部を残して全域踏破は出来なかったが、ほぼフラットに感じられた広大な削平地だけは眼にする事が出来た。

8 福谷城より城ヶ谷城遠望

Jyougatani_4 山上の現状

訪ねやすい事からも城跡巡りの一環、あるいは存在確認の為の史跡見学としてなら充分お薦め出来るが、山城ファンにおいては最初から期待を捨てて臨まれる事が肝心ではあろう。

2009年11月10日 (火)

篠尾羽合城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市篠尾/羽合(ハアワセ)にあって、国道9号を走れば車窓からも望める丘陵上に位置しており、加茂神社の南側背後の裏山あるいは共栄学園高校のグラウンド場から見れば西側の丘がそれにあたる。城史に関しては不明

城跡へは福知山市内に入れば、国道9号沿いにある「ツタヤ」あるいは「ユニクロ」を目指せば分かり易いが、「ユニクロ」付近からはルート図の赤線を辿れば、登城口でもある加茂神社までは難なく到達出来よう。車は児童公園(概念図に示した)付近の広い道路には充分な空きスペースがあるので、自己責任において停めればよいものとは思われるが、そこから歩いて目印となる神社を目指しても5分とはかからない。神社敷地も当時の郭跡とも見受けられるものであり、既にここから城域に足を踏み入れている事にもなるが、社殿背後より山道に従えば、自ずと主郭と南郭の堀切までは直ぐにでも到達可能となっている。

1route 登城ルート

7 進入口

3h 城跡概念図

現状(10月)城跡は思ったより藪化は進行しておらず、主郭は木々に遮られて見通しも悪いが、他は風化は激しいものの遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。結論から先に言えば、この城跡は住宅が直ぐ傍まで迫りながらも、遺構残存度には素晴らしいものがあり、南東側がグラウンド場の造成の為に、どれだけ遺構が消失したものかは想像もし難いが、とにかく現状だけでも充分満足の行く遺構見学が出来、縄張りも手に取るように窺えるものとは思われる。目に留まった城跡遺構は概念図に記したが、城跡を形成する上では定番とも言える、堀切(空堀)、土塁(縦土塁も含む)、櫓台土塁、縦堀、虎口などは全て眼にする事が出来、細部まで目を配れば、機能の想像し難い地形(遺構)も多少あるが、縄張り妙味も含めて現存する遺構を堪能する事が出来そうにも感じられた。当然山城ファンだけに止まらず、城跡ファンなら誰でも楽しんで見て回れそうにも思えたのである。

12_shukaku_higasi_karabori_1 空堀

13_shukaku_kita_heki 主郭北側切岸

14_yagura_1 主郭櫓台土塁見所

17_nisi_horikiri_1 主郭西堀切見所

25_nisi_daidorui_1 西大土塁(縦土塁)見所

27_gedan_dorui 主郭南下段郭の土塁跡

28 南堀切(堀切道)見所

37_oku_daidorui

西大土塁側壁

見所は先に触れた遺構及び城跡の佇まいも含めた全と言っても過言とは思えないが、先にリポート掲載を終えた、近くにある半田城(遺構残存度が非常に高い)と同様に、非常に訪ね易い場所にあるので、同日訪問も充分可能であり、国道を移動中に寄り道気分で訪問する事も出来るお手軽さを思えば、是非訪問をお薦めしたい城跡という事にはなろうか。

2009年11月 8日 (日)

藪内氏城跡(三重県伊賀市)

この城跡は、先にリポート掲載を終えた妙楽寺城跡からみれば西麓に位置しており、同じ伊賀市青山町妙楽地にあるが、名が語る様に藪内氏の居館と伝わっており、かつては「藪ノ内屋敷」とも呼ばれていた様である。個人的には先に触れた妙楽寺城とは、山頂と麓の違いはあるが、同じ山塊を共有する事からも、此方を居館とすれば山上は自ずと藪内氏詰城(山上郭)の様にも窺われたのだが、、、、当然推察の域は出ない。

城跡へはルート図の如く、「新妙楽寺橋」を渡る手前より、川に沿った畦道を利用して向えば、直ぐにでも到達可能となっている。この城跡は伊賀にあっては数多く見受けられる方形城館の一つでもあり、土塁で周囲を囲んだ定番中の定番とも言える縄張りを持つ城跡でもあるが、比較的規模は大きく(50m近い)、一部北側の土塁の崩落は見とめられるが、未だ四方に土塁がそのまま現存している事からも、貴重な城跡と目には映った。現状遺構として判別確認出来たものは、土塁虎口、土塁外壁の周囲に巡らした空堀、空堀の仕切りとなる土塁(石積みが見受けられた)などであるが、中でも東に備わる土塁虎口は大型でもあり、状態の良い空堀と並んで見応えも感じられ、一番目を引くものの様には思われた。方形居館跡の東西にも付随するそれらしい削平地、あるいは溝状ではあるが堀切跡の様にも見て取れた地形が存在しているが、恐らくこれらも当時の遺構としてまず間違いのないものの様には見受けられる。

1route_2 登城ルート

4 城跡進入口

Ya Yabu 城跡概念図

現状(10月)屋敷跡は自然任せの荒れ放題となっており、城跡の周辺は竹林地あるいは雑木藪となっているが、他の伊賀における丘陵上にある居館跡を思えば、随分ましな部類に入り、ある程度敷地内の全体像が窺える事、あるいは周囲を巡る土塁も、部分的には良いものが拝め、更に内壁高低差も充分見て取る事が出来るので、比較的見学し易い状態にあると言っても良いものとは思われる。

8_1 8_2 背後を巡る空堀見所

15_kuruwa_nai_2 郭内部

12_dorui_naiheki_2 高土塁内壁見所

22_koguti_2 虎口跡見所

25_kitagawa_dorui 北側の低土塁

20_sikiri_dorui 空堀仕切りの石積み

この地域(勝地から妙楽地にかけて)には既にリポート掲載を終えた新氏城、松田城、甚二郎城、妙楽寺城と、比較的コンパクトな城跡が数多く現存している様には見受けられたが、個人的に何の予備知識もなく、偶然訪れた松田城は文献などには記述も無く(公的資料には載っているのかも知れないが、、、)、まだ多くの砦跡あるいは城跡がこの地域には眠っている様にも思われる(所在はルート図には記したが、遺構としての確証は得られず)のである。まだ未訪の方には、山城巡りの一環として、上記の城跡を併せた同日訪問とすれば、より充実した山城巡りが出来るようには感じられたが、、。

2009年11月 7日 (土)

妙楽寺城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町妙楽地にあって、妙楽地集落の川を隔てた、南側の標高300m(比高90m)の山頂に位置しており、天正伊賀の乱における際の陣城あるいは詰城の様相を呈している。現状、城跡に関しての記述も皆無に等しい事から、その機能に関しては見学者の想像に委ねられる様な気はする。

この城跡は何時も貴重な城跡情報をブログに提供して頂いている、S氏より紹介されたものであるが、存在は既に認識していたものの、所在地が全く分からず(現地では確認出来なかった)今まで訪問を見合わせていた経緯があったが、以前寄せられたコメントの中で、城跡に関しての所在地が記載してあった事からも目星が付けやすく、今回は近くにある藪内氏城あるいは甚二郎城と併せた訪問を計画して臨む事になった。(S氏に感謝、、)

1route 登城ルート

5 城跡進入路

3_1 城跡概念図 

城跡へは、既にリポート掲載を終えた松田城を起点にすれば分かり易いが、松田城からは真南に位置しているので確認はし易いだろう、妙楽地集落に入る為には「新妙楽地橋」を通過する事になるが、ルート図に示した様に、製材所の南西数十m手前から入山口に向う小道があるので、それを利用すれば自ずと山の中腹までは山道で上れる状況にある。道が途絶えれば途中からは直登(藪漕ぎは無い)となるが、そのままだらだら続く斜面を上り続ければ、山上までは20分内で到達出来る筈である。

11_shukaku_heki 山上主郭の外壁(切岸)

12_nisi_obi 帯郭

16_shukaku_dorui_1 17_dorui 主郭の低土塁

24_koguti_1 東虎口

25_minami_karabori_1 南空堀

現状(10月)城跡は、植林地となっているので木々も少なく、ほぼ単郭で形成される城跡は見通しも利き、全体像が窺える為に良い状態にあると言っても良いとは思われるが、地表は全て低い笹で覆い尽くされているので、細部に渡る地形の変化を読み取る事は非常に困難な状況にある。もちろん最初から縄張り妙味に期待する山城ではないので、そこまで拘る必要はないとは思われるが、、、 城跡の形態は自作概念図を見て頂ければお分かりの様に、遺構として判別出来るものは空堀、虎口跡、周囲を巡る低い土塁(分厚い)と少なく、見応えには少し欠けるかもしれない、規模も山上郭群の全長は60m前後であり、単郭である事も相俟って、当然山城としての醍醐味を感じるまでには至ってはいない。しかしこの小振りな城跡も、全体像が窺える状態にある事からも、当時の山城がそのままタイムスリップして現在に至った様にも感じられて、自ずと当時に思いを馳せる事は容易いものとも思われる。5世紀を経ても尚、この状態が拝めるのであれば、自ずと史跡価値は相当高いものとも見受けられたが、、、、。

尚、ルート図には示したが、この城跡の西麓に位置する藪内氏城のリポートは次で掲載の予定

2009年11月 5日 (木)

甚二郎城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町勝地にあって、既にリポート掲載を終えた新氏城の谷を挟んだ直ぐ南西側に位置しており、全体像から窺えばほぼ平城に近いものである。名が語る様に甚氏の居城、あるいは屋敷跡として間違いないものとは思えるが、詳細は不明。

ちなみに個人的な見解にはなるが、当時は新(シン、実際にはアライかも分からないが、)氏と呼ばれた氏名は神(シン、ジン)氏とも置き換える事が可能であり、甚氏のジンは本来は神(ジン)氏のジンから当て字されたものの様にも思える事から、少し強引かもしれないが「新氏」は本来「甚氏」と同じ一族であり、当て字が変化しただけである様にも思えるのである。よってこの二城は呼称は僅かに違うが、本来新氏の山上郭を詰城とすれば、こちらは居館とも言えるシン(ジン)氏の城跡の形態が、自ずと見えてくる様にも思えるのである。

1route_3 登城ルート

4_2 城跡進入路

Sz1 3ji 城跡概念図

城跡へは、先に触れた新氏城を起点とすれば分かり易いが、進入路としてはルート図あるいは概念図に示した二通りの向い方がある。南の民家脇からの小道より向えば、直ぐにでも城域となる便宜上の主郭及び副郭に到達出来、図中に示した最上段に位置する東西の物見郭(推察)までは、崩落の見受けられた斜面、あるいは郭仕切りとも見受けられた縦土塁を上れば、一気に到達可能となっている。尚、車は集落内における生活道が狭い事からも、JA付近の道路空きスペースを利用するか、少し遠くなるが公民館の駐車場に預ければよいものとは思われる。

9_isigaki_1 主郭南の謎の石積み

13_dorui_kado_isi_1 副郭角の土塁と石積み見所

15_shukaku 主郭の現状

19_dorui_karabori_1 西物見の空堀跡見所

22_monomi_nai_1 西物見の内部

20_dorui_heki_isi_1 土塁内壁の石垣痕

24_higasi_monomi_karabori 東物見の空堀見所

現状(10月)城跡の主郭となる削平地は、本来高低差を伴って屹立していたかとも思われる、郭背後の切岸からは土砂が随分崩落流失しており、大部分はただの斜面の如き様相になっている。副郭は土塁(底部に石積み)も明確に残存しており、判別し易い状態にはあるが、郭内部は荒れ放題でもあり、雑木が密生して外見から中を覗く事は非常に困難な状況にある。先に触れた便宜上の物見郭は、この主郭の東西上段(高低差10m以上)に左右に分かれて備わっているが、内部は非常に状態が悪いので、小規模でありながらも全体像を外見から覗く事は非常に困難、しかし土塁あるいは背後の空堀は判別し易く残っている(特に東側は状態が良い)ので、中々目は楽しませてくれる様には感じられる。尚、この二郭は直ぐ背後の林道からも窺える距離にあるので、最初にこちらから見学しても良いかもしれない、、

この城跡の、ほぼ平城に近いが地形を利用した縄張りプランは、非常にユニークなものがあり、充分見学する値打ちはあるものと感じられたが、まだ未訪の方には「新氏城跡」、あるいは、これから紹介する事になる、妙楽寺城などと併せた同日訪問を是非お薦めしたい。

2009年11月 3日 (火)

上津茶臼山城跡(神戸市北区)

この城跡は神戸市北区長尾町上津台5丁目にあって、大規模なニュータウンとなっている上津台の北端にある「たかつこ公園」として整備されたすぐ北側の丘陵上(茶臼山緑地)に位置している。(城史概略は現地案内板をクリックのこと)

城跡へは上津台5丁目を目指して、県道17号経由でルート図に示した赤線ルートを辿れば、一番分かり易く公園までは辿り着けるとは思われるが、公園用としての駐車場は設置されていないので、車で訪れた方は迷惑のかかり難い場所を探しての路駐となる(小型車なら公園入り口付近に可能)。公園からは遊歩道も設置されているので遊歩道に従えば迷わず主郭までは到達出来る。

1route 登城ルート

6 公園より進入路

2annai 現地案内板より

3tya 城跡概念図

現状(10月)城跡は公園化によって整備が行き届いているので見学し易く、非常に見て回りやすい状態にあるが、その反面当時の縄張りは遺構も含めて、南側は地形改変によって相当消失したものとも思われ、当時における状態は想像も付き難い状況となっている。まさかこの主郭と南郭の二郭だけで形成された城跡とも思われず、公園を始めとした広大な造成地の一部も当然当時の城域であったようには窺われた。しかし現存する二郭だけではあるが、郭周りに付随している空堀、土塁、縦堀などの遺構は充分目を楽しませてくれる様には感じられ、特に主郭と南郭間の大空堀は縦堀(東側)にも繋がるものでもあり、現状風化あるいは遊歩道によって土塁も二重に見える空堀も一部消失してはいるが、想像を膨らませばスケールの大きい大空堀(堀切)であった事が十分窺える。個人的にはこの土塁の付随する大空堀は見応えも抜群である事からも、城跡の最大の見所と言っても良さそうには感じられたのである。

18_minami_horikiri 南堀切跡

20_minami_kaku 南郭

23_daikarabori_1 大空堀見所

27_dorui_tatebori_1 大空堀、土塁見所

34_higasi_tatehori_1 縦堀へ繋がる見所

31_shukaku_heki 主郭南切岸

29_shukaku_2 主郭内

規模も小さく遺構も目白押しではない事からも、見応えには少し欠けるかもしれないが、遺構も判別し易く程よく整備された状態、更に訪問し易いお手軽感もあって、一般の城跡ファン、史跡ファンはもちろんの事、山城ファンにも是非お薦め出来る城跡とは目に映った。

2009年11月 2日 (月)

殿ノ奥城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市三和町ユリにあって、既にリポート掲載を終えた経ヶ端城跡からみれば川合川を挟んで真西の丘陵上に位置している。この川合地区には地元で聞いた話によれば、相当数の砦跡を含む城跡がこの地区を中心として四方に点在しており、中でもこの山城は名が語る様に樋口氏の本城であった可能性もあり、規模も一番大きいものとされているとの事である。別名「川合ユリ城」

事前に伺っただけでも、この山城の山裾から見える範囲においては、川を挟んだ直ぐ真向かいの丘陵台地にも伝承地としての屋敷跡、更に経ヶ端城跡の東山上には砦跡(削平地)、更に南側のタタズ城、北東の山上には日向(ヒナタ)城と聞いただけでも四城には達してしまう、恐らくこの山城からみればどれも砦規模、あるいは物見程度の城跡だとは思われるが、、、。戦国期の城主としては樋口加賀守の居城が唯一伝わるが、恐らく明智の丹波攻略軍によって落城したものとは察せられる、詳細は不明

1route 登城ルート

6 進入路

3ok 城跡概念図

城跡へは福知山へ向う国道9号を利用した場合は「芦渕」交差点で県道59号へ右折針路変更、後はルート図の如くユリ集落のバス停を目印として進行すればよい、県道沿いには路駐スペースも充分あるので、そこから北側に見える集荷所前を通過して配水施設に向いて上れば、その脇にある入山可能な簡易的な獣避け開閉扉は直ぐ目に留まる筈である。ここから栗林を抜けて山上を目指せば、かつての参拝道(郭跡に小さな朽ちた祠があった)には直ぐ合流できるので、迷うことなく山上までは到達(15分程度)出来るとは思われる。ただし現状(九月)栗林は収穫時期に入っているので、怪しまれない為にも収穫時期の訪問は避けた方が良だろう。個人的には時期的にも松茸山であれば訪問も断念する事は覚悟の上で赴き、幸運にも偶然栗林で出くわした土地所有者の了解を頂いて上ることが出来たが、時期さえ外せば敢えて了解は得ずとも良いのではないかとは思われる。

15_higasi2_kaku 東郭2の現状

16_sikiri_dorui それと分かる仕切り土塁

18_shukaku_higasi_karabori_tikei 空堀地形

21_shukaku_dorui 主郭土塁見所

25_daihorikiri 西堀切見所

26_nisi_yori_horikiri 縦堀へ

現状(九月)城跡は藪化も相当進行しているが、移動に困難するまでには至っておらず、山上における残存遺構はほぼ判別確認出来る状態にはある。長年の風化によって当然土塁などは原形は留めてはいないが、充分それと判別可能なものであり、現状では主郭西背後の二重堀切、主郭櫓台とした場合の土塁壇と土塁、僅かに地形から判別可能と思えた空堀仕切り土塁などが目に留まった遺構群になる。規模も山上本郭群だけをみれば100mにも満たないものであり、郭間に余り高低差の無いことからも、山城としての魅力あるいは醍醐味には少し欠ける様には感じられた。ただ自然任せで人の手が入らず、状態は悪いが遺構残存度は非常に高いものと目には映ったので、興味を持たれた方にとっては訪れても決して無駄足にはならないものとみた。

2009年11月 1日 (日)

明智東ノ古城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市三和町友渕にあって、既にリポート掲載を終えた西ノ古城からみれば友渕川を挟んで真東側に位置しており、こちらは西ノ古城が山城であるに対して低丘陵上の先端部にあるが、当時は西ノ古城同様に臨戦時における陣城と伝わっている。よって非常に安普請とも見受けられるものであり、残存遺構の見応えだけを取り上げれば、数多い明智の携わった城跡(金山城、周山城、法貴山城など、、)の中でも低位にランクされるものと感じられた。当然陣城としての機能だけの城跡なので、明智の城として期待をして赴くと落胆し兼ねないとも思われる事からも、まだ未訪の方には西ノ古城と併せた訪問をお薦めしたい。

城跡へは国道9号「菟原」交差点から県道97号へ針路変更、後はルート図を参考にすれば迷わず辿り着けるものと思われるが、車は概念図に示した付近に広い空き地があるのでその場所を借りて停めれば良さそうに思えた。そこからは既に左手東側前方に望める丘陵がそれであり、歩いて住宅地の横にある開閉フェンスまで向えばよい。後は図に示した直登ルートでフェンス沿いに上れば、主郭までは5分程度で到達出来るだろう(車を駐車した場所からは10分程度)。

1route_1 登城ルート

5 進入ルート

3hi 城跡概念図

現状(十月)城跡は予想通りに藪化は進行し、地表も自然任せの荒れ放題と化してはいるが、縄張り形態もシンプルなものであり特別技巧を凝らした複雑な遺構が見当たらない事からも、概念図に示したまでの遺構は全て判別可能となっている。先に触れた様に急造された陣城なので縄張りも非常に大味なものとなっており、防備機能としては土塁及びその背後に堀切が備わる程度でもあり、東側に向いてだらだらと数百mに渡って連続する削平地が妙に印象に残った。西側斜面の狭い段郭群より少し下りれば便宜上西郭とした広い規模の郭跡を眼にする事が出来るが、内部に凹状の窪地を確認する事は出来た。郭跡だけを見れば居住空間とも考えられるが、これがどの様な機能を持ったものなのかは想像も付き難く、長い年月の堆積物あるいは地形変化を考えれば自然の成せる業かも知れない、当然見学者の判断に委ねた方が良さそうには思えた。

8 防壁の様な巨岩

14_shukaku 主郭の現状

15_shukaku_dorui_1 主郭土塁見所

16_horikiri_4 堀切見所

20_nisikaku_1 西郭

21_nisikaku_kuboti 西郭内の窪地

個人的には岐阜県を所在地とする明智城も含めて、明智関連の城跡(改修も含めて)はほぼ訪問した計算にはなったが、陣城を除いた城跡としては何れも縄張り妙味に富んだ山城が多く、非常に見応えも醍醐味も感じられたものが多い。後世において随分改修されたと見受けられる亀岡城、福知山城などは、現在でも石垣が残っている事からも別な意味で見応えは感じられるが、それよりも更に築城年代が遡り、人の手の余り入っていない明智の山城の方にずっと魅力を感じるのである。今となっては湖底に沈む坂本城(滋賀県)の雄姿は想像する事も出来ないが、その当時フロイスをも唸らせた信長に続く城跡は、水城(石垣城)としての縄張りも素晴らしく、豪壮でさぞ凄いものであった様には思われる、、、。

2009年10月30日 (金)

野村城跡(兵庫県加古川市)

城跡は加古川市八幡町野村にあって、大規模な敷地を所有する「厄除け八幡神社」と同じ丘陵上にあるが、その北側の枝尾根に位置している。正確には一つ丘陵を隔てた二つ目の西側尾根先端部が城跡(丘城)となっている。三木城を本城とした別所氏幕下の居城と伝わっているが詳細は不明。

城跡へは八幡神社を目指せば付近までは分かり易く辿り着けるが、車は神社の駐車場を借りてルート図の如く歩いて少し北進、図中にある様に仏壇店と住宅の間にある畦道(画像参考)より進入して、そのまま連続する上り土塁上(片側に空堀が備わる事から明らかに人為的な移動土塁に見えた)を尾根に向いて上れば、自ずと主郭までは直ぐ到達可能となっている。(駐車場からは10分前後、部分藪漕ぎは必要)

1route_1 登城ルート

4 城跡進入口

3no 城跡概念図

現状(九月)城跡は藪化の真っ只中にあり、時期的にも最悪とも思えるほど雑木が蔓延っており、郭内における全体像の視認は非常に困難な状況にあるが、地形の上からも直ぐ判別可能な空堀や大型の分厚い土塁などは、傍まで寄らなくとも外見から充分判別可能でもある。現状判別確認出来た遺構群は主郭背後の土塁、その東背後を断つ縦堀に繋がる大空堀、便宜上二の丸とした郭跡に備わる分厚い大土塁、それに付随して南北に繋がる空、更に二の丸と三の丸間に備わる空堀(土塁が付随)などで、これらは城跡においては全て見逃せないものばかりで、特に見応えも遺構の醍醐味も感じられるものである。中でも主郭背後を断つ大空堀は幅が10mはあろうかとも思われ、その北側の縦堀にまで繋がる様は非常にスケールの大きさを感じる事が出来た。空堀及び土塁などにも縄張りプランとしての工夫の跡が窺え、概念図には示したが空堀を付随させた土塁の横矢構造、同じ空堀にしても敢えて空堀同士を繋げない形のものであったりと、当時における遺構機能を想像するだけで充分楽しめそうにも思われる。ただ惜しむらくはこの城跡全体を覆ってしまうほどの藪化であり、風化も含めて年々状態も悪くなる一方なのではないかとも予想される。しかしながら現存している遺構群は状態は悪いが残存度は非常に高く、更に堆積物などによって地表風化は激しいが、遺構の見応えだけを問われたなら、間違いなく「素晴らしい!」と返答出来る様には思われる。

12_karabori 直登ルートにある空堀地形

16_shukaku_nai_3_2 主郭

21_karabori 大空堀見所

22_tyuou_karabori_dorui 二の丸空堀土塁見所

30_yokoya_karabori_dorui 横矢構造の土塁空堀見所

31_dorui_2 横矢土塁見所

33_nanboku_karabori_1 東側の空堀見所

今回は密生する雑木藪のお陰で方角も掴み難く、歩測あるいは目測によるアバウトな郭面積の表示も出来なかったが、踏破に至れなかった東側に広がる削平地あるいは南側未踏地を含めなくとも、規模の大きさは歩き回る事で充分体感する事は出来た。城域は概念図における縄張りよりも随分はみ出ている様には感じられるのである。

2009年10月29日 (木)

播磨春日山城跡(兵庫県神崎郡)

城跡は兵庫県神崎郡福崎町八千種にあって、鍛冶屋集落の東側に聳える飯盛山(標高198m)の山頂部に位置している。(城史に関しての概略は現地案内板をクリックの事)

城跡へは中国自動車道「福崎」ICが最寄の乗降口となるが、そこからは南東側に直線で3km程度の位置にあり、付近に到達すれば飯盛山は形の整った山なので直ぐ確認する事は出来るとは思われる。集落付近からはルート図に示した赤線ルートを辿れば、登山口でもあるキャンプ場までは難なく辿り着けるだろう。付近には駐車場もなく、個人的には既にキャンプシーズンも過ぎていた事から、人影も無かったので堂々と空きスペースに車は停めさせて頂いたが、「路駐迷惑」の看板も設置されている事からも、シーズン中の訪問は出来るだけ避けた方が良いとは思われる。キャンプ場の登山口には登山標識もあるので、そこから登山道に従って上れば、迷わず15分程度で山上には到達可能である

1route 登城ルート

6 城跡遠望

2k 現地案内板

3 現地案内板縄張り図

現状(九月)城跡の山頂部(山上主郭)は整備されているので見通しも利き、下界を見下ろした際の晴らしいロケーションも堪能する事が出来るが、他の郭跡は下草あるいは雑木が密生しているので踏み入る事も出来ず、山上で目に留まった案内縄張り図内の、遺構の全てを外見から確認する事はとても出来ない状態にある。とは言っても特別見応えのある遺構が存在する訳ではないので、それほど見学に差し支える事は無いとは思われるのだが、折角ここまで上ったからには、規模も小さい山城なので周囲から全体像を覗いてみたかったのが本音ではある。ただ険峻な山城を外見からも登山においても体感出来たので、取り合えず満足感に浸る事は出来たが、、、

10 登山口

12_horikiri_tikei_2 尾根上の堀切地形

17_shukaku_nai_3 17_shukaku_nai_4 山上主郭

18_tyozouko 貯蔵庫

23_shukaku_heki 主郭切岸

22_nisi_kaku_1 北西帯郭

現状外見から判別確認可能な遺構は、主郭(15mx30m前後)内にある貯蔵庫と表記された穴倉遺構、南側下段郭の方形状の空堀地形、主郭の切岸、帯郭の一部分と言ったところでもあり、見応えのある残存遺構を期待をして赴くと必ず落胆する事にも繋がるので、山頂からの眺望あるいは山登りを楽しむ気分で現地に赴くのが、一番ベストな訪問である様には感じられた。標識も設置されており、迷わず山頂まで上れることからも、山城に興味を持たれていた方、あるいは一般史跡見学者にも、自然と触れ合いながら山歩きも楽しめる打ってつけの山城と言えるだろう。尚、山頂に行き着くまでの尾根上には、随分埋もれてはいるが、登山道からも目に留まる堀切地形が存在していたので決して見逃さない様に。

2009年10月27日 (火)

小見山城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市三和町辻にあって、県道59号沿いにあるバス停「中ヶ市」からは細見川を隔ててほぼ真南側にあり、県道沿いからも位置は確認し易く、その低丘陵上に位置している。三和町文化財パンフによれば辻野左衛門屋敷とも記載されているが、一部の文献によっては先に掲載を終えたダマ城と同様に細見辻城と記載されているのもあり、区別する為に今回は別称でもある小見山城跡としてリポート掲載に及んだ。

この城跡は当時辻野屋敷と呼ばれた様でもあったが、細見将監の手によって城は奪われた形になっている、ちなみにこの細見将監なる武将は明智軍による攻撃を本郷城で一旦撃退した人物でもあり、あの知略に富んだ明智軍を退けるとは相当勇猛かつ知略に秀でた武将とも見受けられる。先に触れたこの「本郷城」は既にリポート掲載は終えているが、篠山市本郷にあって松隣寺を菩提寺とした細見氏一族の居城でもある。

1route_2 登城ルート

4_1_2 県道から遠望

7tozanguti 進入口

3tu 城跡概念図

尚、三和町文化財パンフ(有料)に地形図と共に印のある城跡所在地は、城跡の現存する場所とは若干異なっており、実際にはルート図にも示したが、谷を隔てた西側尾根先端部に位置しているので、パンフを参考にして現地に赴いた場合は、ただの丘陵見学だけに終わってしまう可能性もあるので注意が必要と思われる。もちろん地形から考えてもこの丘陵上(結果的には踏破していないので遺構はないとは言い切れないが、ここでは現地の伝承を信頼し重んじた)は当時何らかの形で戦略的に機能していたものとも考えられるが、公的な資料は全てが正しく記載(特に尾根の位置は間違いやすい)されている訳ではないので、間違いも少なからずある事を念頭に置いて訪問されるのが肝心とは思われる。個人的にはそれを鵜呑みにして何度か誤認した経験があり、なるべく参考程度で抑えてはいるが、本来なら現地での聞き込み確認が一番大事である様には感じられる。今回の訪問に際しても、念の為に麓に住まわれる御婆さんから事前に所在地の確認はしており、既に亡くなられた御爺さんが、かつてこの城山に鎮座していた祠を、大事に世話をしていた事も聞き及んで臨んだ結果、本来の城跡を直ぐ探し当てる事が出来た。地図を鵜呑みにしておれば恐らく誤認して落胆しながら帰宅したものと考えられるのである。

9_heki 主郭西側切岸

10_fukukaku 副郭

12_karabori_1 空堀

15_kitaone_hirati東尾根削平地

城跡へは先に触れたダマ城訪問ルートでもある国道9号から709号へ進路変更、後はルート図あるいは概念図を参考にしてバス停「中ヶ市」を目印として目指せば分かり易く到達出来るものと思われる。現状(10月)城跡は当然藪化は進行中ではあるが、小規模でもあり移動に困難を来たすまでの状況には至ってはいない。複雑な遺構も皆無である事からも、ほぼ二郭で形成された縄張り内における遺構(空堀、土塁壇、切岸など)は全て判別確認は可能な状態にあるが、空堀などは相当土で埋もれており、丘陵上における郭高低差も小さい事から、自ずと見応えのある遺構も皆無なのが現実でもある。この城跡は今回の様に三和町に点在する細見氏の山城巡りの一環として、その細見氏を探る史跡見学として割り切るならば、満足感には充分浸れるものとも思えるのである。

2009年10月25日 (日)

細見辻城跡(京都府福知山市)

この城跡は福知山市三和町辻にあるが、文献あるいは公的資料によっては様々な呼称が付いている事からも明確な場所も分かり辛く、今まで存在は認識していながらも、中々訪問に漕ぎ着けるまでには行かなかった経緯がある。今回は福知山に向いての移動中、偶然国道9号沿いで三和町の福知山支所が目に留まった事から、以前より気になっていた城跡所在地と呼称の確認の為に立ち寄ってみた事から話は始まるが、その資料館の中にあった三和町史跡パンフ(有料)の中には、地形図と共に城跡の位置が記載されており、取り合えず今まで分かり辛かった城跡所在地と呼称を一致させる事が出来た。

しかしこれも福知山の公的遺跡資料とは若干異なっており、三和町パンフの中では「ダマ城」とされていたが、今回のリポートでは地域名が入って城跡フアンにとっても分かり易い事からも、多く出版されている訳ではないが、一部の文献資料あるいは公的資料にも登場している「細見辻城」を呼称として採用させて頂いた。他にもシロカマタなどの別称もあるらしいが、当時は細見氏の居城が唯一伝わっている。地元で聞き及んだ処では古くからダマ城と呼ばれていた様であるが、恐らくこのダマもシロカマタも漢字に当て字をする以前、古来から呼ばれていた呼称とも思われるので、本来ならダマ城として市の資料の中で統一した方が分かり易いとは思われるのだが、、、 尚、城跡の傍に建つ民家にはつい近年まではダマさん(漢字の当て字までは分からない)が居住していたそうでもあり、ダマと言う変わったネームからも間違いなく古来よりここに住み着いていた方だとも思われる。

1route 登城ルート

4_1 道路より遠望

3da 城跡概念図

9 城跡進入路

11 18_shukakunai 主郭内

20_kita_heki 主郭北切岸

城跡へは京阪神から向えば国道9号を経由、「菟原」交差点をそのまま少し北上して一般道709号へ針路変更、城跡へ向う為の目印となるのは「梅田神社」であり、道路沿いには道標あるいはバス停もあるので分かり易いとは思われる。神社に車を預ければほぼ概念図通りに歩けば、5分もあれば主郭までは到達出来るが、城跡の形態としては丘城でもあり館城の様相でもあるので、堀切あるいは空堀などの様なインパクトのある遺構にはお目にかかれない、規模の大きい主郭に帯郭、腰郭を付随させただけものであり、遺構の見応えを求める事は最初から捨ててかかる事が肝心とも思えた。伊賀にある館城と違って防備も手薄であり、土塁すら目に留まらないのはこの地方の築城における特色なのかも分からない。

公的資料には遺構は完存と記載されてあったので、現在の主郭から周辺の休耕地までは地形改変は受けておらず、農地にはなっているがほぼ当時のままと解釈しても良いものとは思われる。道路側から望んでも丘状になったこの城跡は確認もし易く、現状(10月)郭内部は下草は蔓延ってはいるが木々もほとんどなく、見通しも利き、遠くから望んでも館城の風情は感じる事が出来るので、訪問における利便性も加味すれば、城跡ファンはもちろん史跡ファンにも充分お薦め出来る城跡の一つと言えよう。山城ファンにおいてはルート図には示したが、川を隔てた対岸の低山山上には、これも資料の中では完存とあった「殿屋敷城」が存在しているので、藪城(状態は悪い)ではあるが直登すれば10分内で到達可能でもあり、興味のある方は覗いても決して無駄足には終わらないものとみた。ただ小規模でもあり残存遺構(堀切、郭跡、土塁跡)の見応えには余り期待は出来ないので、無理にお薦めはしないつもりであるが、個人的には川を隔てて二城を配した形態そのものが細見辻城の本質とも思えたので、城跡を深く追求されたい方だけにはお薦めしたいのである。

Photo 殿屋敷城遠望

1 2 3 殿屋敷城の山上遺構群

2009年10月24日 (土)

今安城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市今安にあって、先にリポート掲載を終えた山崎城跡の直ぐ東側に位置する、二峰に分かれた低山山上に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡へは山崎城を起点にすれば分かり易いが、ルート図あるいは概念図の如く麓の集落にある六地蔵(画像に示す)より更に奥に進み、獣避けフェンスを開閉して山道より城跡を目指せばよい。この城跡は深い切り通し(堀切)を間に挟んで東西に郭群は分かれた縄張り形態を持つものと見受けられ、この堀切より手前西側斜面を直登すれば、便宜上の西城郭群には直ぐにでも到達可能であり、東側斜面を上っても直ぐ便宜上の東城出郭群が迎えてくれる筈である。もちろんその構造からも一城別郭としてよいものとも思われるが、両城共に確実に削平跡のある郭あるいは切岸跡は残存しているが、状態はよいものではなく自然任せの荒れ放題でもある。ちなみに西城はある程度見通しが利くので、下草は多くともフラットな郭跡などは外見からでも充分判別可能であるが、南側は矢竹密生によって踏破確認は不可能、東城も山上から南麓側に至るまでの尾根上は凄まじい藪でもあり、踏破は断念してしまった。しかし片堀切を挟んで西側に位置する西出郭群はまだましな状態でもあり、土塁壇(櫓台か?)あるいは切岸などは確認する事が出来た。自作概念図中に示したまでが踏破に及んだ範囲であり、取り合えず目に留まった遺構を示したものになるが、見応えのある遺構に遭遇出来なかったのが残念な処ではある。

1route_2 登城ルート

5 城跡への進入路

3im 城跡概念図

14 西城の郭跡

16 西城の郭切岸

21_kiritoosi_1 切り通し直登口

26 東城出郭

結果的には城域の全てを踏破した事にはならなかったので、城跡を評価する事は非常に難しいのだが、この状態の悪さや遺構の判別のし辛さ、縄張り妙味を考えれば特にお薦めしたい城跡の様には感じられなかった。先に触れた山崎城と同日訪問とした山城巡りとすれば、何とか面目は保たれるのかも知れないが、、、 今回の訪城ではこの城跡に興味があった方に対してのみ、タイムリーな現況報告となったものなら良しとしたい。

2009年10月23日 (金)

山崎城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市山崎にあって、集落の西側、和久川の北側に単独で聳える形の低山山上に位置している。現在南麓には武神社が建立されている事からも、場所の確認は容易いとは思われる。

城跡へは福知山市内を走れば国道9号から「新庄」交差点で429号に針路変更、後はルート図の如くおよそ3kmも走れば、直登口ともなる武神社には容易に到達出来る。この山城も登山道あるいは山道は当然の如く無いので、社殿背後から山上に向かっての登山になるが、比較的なだらかな山容でもあり10分もあれば山上主郭までは辿り着ける筈である。ただ時期的(九月)に仕方が無い事かも知れないが、山上主郭から東尾根上に限って言えば、密生する雑木藪となっているので、踏み入る事も出来ない状態になっている。他は歩き回れば概念図に示したまでの遺構はほぼ判別確認可能な状態にあるが、全体的にも藪化は相当進行している為に、一部では木々の隙間を縫って中腰で潜り抜ける場所も少なからずある。

この山城に関しては地図の上からだけではあるが、城跡としての築城立地条件を充分満たしている事からも、個人的に以前より城跡として間違いないものと確信していたものであり、今回は確認の為に福知山市内の通りすがりに意を決して立ち寄ったことから始まるものだが、いざ山上まで上って見れば確実に城跡遺構と判断出来る、削平された規模の大きい郭群、土橋付き空堀、郭切岸、縦堀地形などを眼にする事が出来た。下山後、資料などから既に発掘調査を終えた(何時頃かは不明)山崎城だと初めて認識する事が出来たが、城史に関してまでの詳細は不明。

1route 登城ルート

5 城跡遠望

3ya 城跡概念図

11_kaku_heki 南郭群の切岸

12_minamikaku 南郭

14_karabori_dobasi 北郭群の空堀土橋

16_kitakaku 北郭群

訪問結果として城跡は、縄張りプランとしての魅力に少々欠ける事からも、自ずと遺構の見応えにはほとんど期待出来ない状況でもあるが、未踏になった東尾根上の郭群(地形からも予想される)を含めなくとも、山上尾根における郭占有面積は比較的大きく、独立した山上のほとんどが削平され郭化されている様には見受けられた。ただ長年の堆積物あるいは風化によって郭内は荒れ放題でもあり、切岸処理が窺われる郭跡が非常に少ないのも現実である。この山城は形態が古そうに感じられたので、築城年代としては室町期あるいはそれ以上遡るのかも分からないが、考え方を変えれば臨戦時による急こしらえの様相でもあり、丹波攻略軍における陣城、あるいは向城の可能性も充分感じられるのである。先に触れた様に見応えのある遺構が皆無に近い為に、見所を探すのには非常に苦労するが、はっきり言って「ない!」と答えた方が、これから訪問される方に対しては、期待を捨てて城跡に臨めるとも思えるので、敢えてそう申し上げたい。しかし見学に値しない訳では無いので、決して誤解されないように、、、、この山城も数年後には更に藪化も進んでおり、かつてこの地が城跡であったことは誰の口からも語られる事が無いようにも思えてくるのである。  尚、ルート図中に記した今安城は次で掲載予定

2009年10月21日 (水)

多保市城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市多保市(トオノイチ)にあって、現在の厄除け神社及び中腹に位置する旧厄除け神社を含んだその東側山上に位置している。当時は大槻氏の居城と伝わり、他の丹波の在地豪族と同様に光秀の丹波平定によって落城しているが、その後は黒井城主赤井氏の傘下に入った模様。この大槻氏はかつて綾部北部一帯を領有した、あの大槻一族と同一かどうかまでは分からないが、この末裔は豊臣政権下まで存続し、更にその後は土着(帰農)の道を歩んだとも伝えられている。多くの丹波衆が光秀による丹波平定の際に滅ぼされた事を思えば、赤井氏同様過酷な戦国期を上手く乗り越えた氏族とも言えよう。

城跡へはルート図を参考にして厄除け神社を目指せば分かり易く、国道9号から少し入った場所にあるので直ぐ目に留まる筈である。車も駐車可能となっており、到着後は社殿の背後より舞鶴若狭自動車道の上に架かる跳道を通過して山上を目指せばよい。ただこの城跡のある尾根は現在自動車道によって相当地形改変が窺われるものでもあり、どこまで遺構が消失したかは各々が想像するしかないものとは思われる。

1route 登城ルート

5 北より神社側

6 神社の切岸

8 社殿

12_karabori_1 空堀跡

15

山上尾根より神社側

19a 尾根上の連続削平地

22_karabori_dobasi_1 土橋付き空堀

判別可能な残存遺構は現状(九月)としては非常に少ないが、郭跡を除けば厄除け神社境内(郭跡地の転用と見受けられる)の社殿背後より側面かけて掘削された空堀、あるいはその高低差のある切岸、尾根上をだらだらと連続する山上削平地の縦堀地形、あるいは土橋を伴う空堀は一箇所で目に留まったが、ほぼこれだけと言っても過言ではなく、遺構の見応えを期待すると間違いなく落胆する様にも感じられた。尾根上を東山上に向いて延々と繋がる削平地などは、本当にここが城跡なのか、これが山城としての本来の縄張りプランなのかと自分の目を疑ってしまうほどでもある。古い形態の山城と言ってしまえばそれで話は終わってしまうのだが、それほど大味な城跡なのである。とにかく尾根上は削平跡は窺えるが切岸処理はされておらず、尾根を分断する定番の堀切跡も見受けられない。見応えのある遺構にはほとんど期待出来ない現状からも、流石に延々と続く削平尾根上を通過して山上まで向かう気力は既に消え失せており、ついに東山上一歩手前で下山してしまったが、今回は少し悔いを残した訪問になってしまった。「ついでに山上まで踏破しておけばよかった」と後になって思うのである。登城ルート図に示したまでが踏破した範囲であり、目に留まった遺構を記したものだが、山上まで踏破しておれば遺構もこの限りでは無かったのかも知れない。これから訪問準備のあった方に対してタイムリーなリポートとなったのであれば幸いではあるが、個人的にこの山城を評価したなら、当時の城跡としての風情を味わえる程度と理解して頂ければ良いとは思われる。

2009年10月19日 (月)

福地城跡(三重県伊賀市)

この城跡へは個人的には10数年振りの再訪となったが、近年の城郭ブームによって非常に整備の行き届いた城跡として生まれ変わっていた。当然縄張り構造は変わっていないのだが、前回主郭虎口西側に造成されていた側壁を石積みとした荒地には「伊賀小屋組みの家」といった民芸茶屋らしきものも新築されており、その名阪国道側は通路として大きく様変わりしていた。当然相当な地形改変が窺われたのだが、本来の郭転用地とすれば最低限許せる範囲なのかもしれない、多少残念な気持ちにはなったが、城跡ファンのみならず一般の史跡見学者にとっても非常に訪れ易くなったとは思われる。 

更に訪れたタイミングが良かったせいもあって、前回は虎口前の空堀から北郭にかけては下草で覆われて、遺構すら確認出来なかったものが見事なまでに全貌があらわになっていた。この城跡はある程度公園化されているので状態も良く、現状(七月)において現存する遺構は、北側山裾に位置する広大な規模の居館跡も含めて、全て判別確認出来る状況にあり、規模はそう大きくは無いが、縄張りを含めて中世の城跡の佇まいを存分に堪能する事が出来そうには思える。

1 登城ルート

6_1 現地案内説明版より

3fu 城跡概念図

6_2 登城口

34_shukaku_nisi_karabori 虎口前の空堀見所

2022虎口石垣跡見所

26_shukakunai_ido 主郭内井戸跡見所

29 石蔵跡見所

30_dorui_jyou 主郭土塁上

38_kitakaku_nai_1 北郭の土塁見所

10yakata_karabori_1 居館跡の土塁、空堀見所

12_iyakata_zenbou 居館跡の全貌

 

伊賀においてはこの城跡より規模も大きく、状態は悪いが遺構残存度の高い城跡はまだ数多くあるのだが、居館と詰城がセットで、しかも良い状態のままで全体像が窺える城跡は数も少なく、中世の城跡(城館)を見学する分には最高の教材と言えるのではないだろうか。この城跡に関してはネット上あるいは文献でも数多く採り上げられていると思えるので、敢えて多くは語らないが、この城跡を史跡として見学された方も、これをきっかけとして土塁城(土城)の魅力を再認識して頂きたいと思うのである。今までもブログ中で何度か触れた事ではあるが、5世紀以上に渡って当時の構築物がそのまま現在まで残されているのは、古墳と山城遺構だけと言っても過言ではなく、未だに当時の原形を留めている土塁や切岸は、日本の風土から考えれば脅威に値するとも思えるのである。正に当時の土木技術抜きにしては考えられないものでもあり、今まで天守閣の存在する近世の石垣城ばかり訪問されていた方も、是非こういった土塁城にも足を向けて頂きたいと思うのが本音でもある。当然この城跡はこのブログを拝見して頂いている山城ファンのみならず、一般の史跡見学者あるいはこれから城跡を訪問する準備のある方にも、是非訪問をお薦めしたい城跡の一つである。

城跡は三重県伊賀市伊賀町柘植にあって、京阪神から向えば名阪国道「上柘植」ICが最寄の乗降口となる、位置的には伊賀サービスエリヤの西側の小山がそれであり、地図からも場所は確認し易いとは思われる。国道25号よりルート図を参考にして「萬壽寺」を目指せば難なく城跡までは到達出来る筈である。

2009年10月18日 (日)

東河黒田西城(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町宮にあって、ルート図に示した様に黒田城(規模が小さいので支城の可能性もある)とはほぼ隣接しているが、先にリポート掲載を終えた仮名「東和田城」、あるいは他の一部の東河地区の城跡と同様に城跡呼称が未だはっきりとは判明していない。この城跡に関しては現状ある程度呼称の見当は付いてはいる(推定 上山城)のだが、今回は敢えて明確になるまでは黒田城を本城とした場合の仮名「黒田西城」としてリポートさせて頂く事になった(判明次第報告の予定)。

城跡へは先にリポート掲載を終えた久田和城あるいは黒田城を起点すれば非常に分かり易い位置にあり、城跡進入口もルート図及び概念図を参考にすれば道路沿いの分かり易い場所にあるので、旧神社参拝道を利用すれば難なく到達出来る(5分内)とは思われる。

1_1 登城ルート

6 進入口

3a 城跡概念図

2 宮地区の城塞群

14_kirikisi 19 圧倒される切岸見所

22_gedan1_heki_1 帯郭

27_shukaku 主郭内

32_horikiri_1 堀切見所

23_sita_yasiki_1 副郭(居館か)

現状(九月)城跡は神社敷地(現在は社殿だけ)となっている事からも、ある程度整備されているので、城跡を形成する残存遺構は少ないながらも、全て判別可能な良い状態にはある。ただ神社敷地となれば近年において多少の造成地形改変はあったものと解釈しても良さそうには思われるが、見る限りは小規模でもあり、当時の郭跡地をそのまま転用したものの様には見受けられた。最高所に櫓台(主郭)が備わり、居館跡とも思われる広い郭跡の二郭で形成されたこの城跡はコンパクトで砦規模ではあるが、主郭背後には縦堀に繋がる堀切、それを取り巻く帯郭、更に状態の良い切岸は未だ健在でもあり、下から見上げれば主郭までは20m近い高低差を誇る切岸は、正に圧巻とも言える様相を呈している。他に際立った遺構が少ない事を思えば、木々にも邪魔されず全体像が窺える、この凄い切岸が見学の全てである様には感じられるのである(画像に注目)。単純に遺構の見応えだけを問われれば、この城跡に遺る切岸は恐らく東河地区の城跡の中では、ナンバーワンと言っても差支えなさそうには思えた。

個人的には東河川沿いに点在する城塞群は、この城跡を含めて合計七城は踏破した計算にはなったが、東河七城がどれに匹敵するものかは現状はっきりとは分からずじまいに終わってしまった(地元の城跡に詳しい方でも分からず)。何れの城跡もコンパクトにまとまったものであり、縄張りプランにおいても特筆に値する城跡は窺われなかったが、中でもこの宮地区に多くの城跡が集中している事を思えば、当然上道氏はここを領土支配における中心部、あるいは防備としても最終的な要としていたものとも察せられるが、大規模な城跡を一つ構えるより、小規模な砦を多く構える事の方が領土支配においては、より機能的で効果的であったのかも分からない。ただ個人的に感じられたのは、現地で地元の方に訪ね所在は確認したものの、黒田城(本城)があの程度(砦規模)の城跡で終わるはずは無いとも思えるのである、既に今まで踏破した東河川沿いの城塞群からも窺える様に、ひょっとすれば丹波の黒井城塞群には及ばずとも、それに匹敵するぐらいの城塞群にも思えるのである(本来の中枢を成す本城を見落としていた可能性もある)。

どうしてもまだ煮え切らない部分もあるので、これからも東河城塞群は現地で知り合った方との共闘作戦で、城跡呼称と所在地がある程度明確になるまでは追求して行くつもりではあるが、まだまだ時間は要すとも思われる事から、興味のある方にはしばらくの間ご猶予を頂きたいと思う。尚、ルート図には示したが、これも出城とも見受けられる山城が、黒田城の東側に二城(一城は既にリポート掲載済)確認されたので概念図と共に画像を載せたが、興味のある方は上り易い参拝登山道が山上まで(5分程度)は通じているので、東河地区の山城巡りの一環として、是非ついでに覗いて頂きたいと思うのである。

(仮)黒田東城

Higasijyou 城跡概念図

Higasijyou_1 進入路

Higasijyou_3 山上主郭

Higasijyou_2 東堀切

2009年10月16日 (金)

東和田城跡(兵庫県朝来市)

城跡は兵庫県朝来市和田山町東和田にあって、先にリポート掲載を終えた久田和城からみれば、東河川を挟んだ北側の低丘陵上に位置しており、現在城跡の南側(市道側)の数十段にも及ぶ小規模な削平地は、古い時代の集合墓地(郭跡の転用地だろう)となっている。

この城跡も東河川に沿って点在する上道氏の出城あるいは東河七城の中の一つなのかも知れないが、集中点在する城塞群の城跡呼称の判別は現状難しく、詳細は地元の方に訪ねても分からずじまいでもある(個人の推定では大治賀城の可能性あり)。ほぼ無名に近く規模も小さい城跡である為に、公的な資料にも明確には記されていない様にも窺えるが、この明確に判別出来る遺構を目の当たりにすれば、当然既に発掘調査は終えているとは思えるのである。今回は呼称の断定までは至る事が出来なかったので、取り合えず位置する地区名から仮名「東和田城跡」としたが、個人的には遠距離訪問でもあり、現地で知り合った歴史好きの方にこの城跡に関して少しでも分かっている情報があれば、是非ご一報して頂く様にと後事を託したのだが、余り期待は出来ないかもしれない。(判明次第報告の予定)

1 登城ルート

4_1 城跡遠望

1_1 城跡概念図

11_minami_karahori 7_minami_kaku_karabori 南郭1と空堀見所

10_naka_shukaku 中郭2

14_kita_karahori 北空堀見所

12_shukaku_yori_kitakaku 中郭2より北郭3側

16_kita_heki15_kitakaku_heki  北郭3の郭切岸

20_kita_sakuheiti 北削平地

城跡へは久田和城を起点にすれば、ルート図からも直ぐ分かる位置にあり、車でほぼ直進移動すれば5分とはかからない。概念図に示したが、道路沿いからは墓地も直ぐ目に留まるので、そのまま墓地に歩いて向えば自ずと本郭群には到達可能である。

現状(九月)城跡は最北の郭跡地(広い削平地)は教育実習用の研修広場となっているので、全体的にも樹木はまばらとなっており、見学するには申し分のない状態にある。低い丘に築かれたこの砦規模(総全長100m足らず)の城跡は、但馬地方あるいは丹後地方でもよく見受けられる、空堀を間に挟んだ連続土塁壇が特徴でもあり、黒田城あるいはその出城でもお目にかかったものとほぼ機能は同一の様にも感じられた。具体的にこの小規模な土塁壇(10m四方が三つ並ぶ)をどの様に使いこなしていたのかは、見学者が見たままを想像するしか無い様にも感じられたが、この空堀(現在では1m程度の高低差)も500年近い堆積物を考えれば、当時は5~6m前後の深い空堀であった様な気がしないでもない。発掘調査の有無までは分からないが、機能や当時の空堀の様子を想像するだけで楽しくなってくるのである。

この城跡は見応えがあるとはとても言えないが、明確に判別出来る連続土塁壇と空堀、あるいは高低差は無いが未だ鋭角に残る郭切岸は、覗いて見る価値は充分ある様には感じられた。当時の城跡の風情を味わえれば良しとし、久田和城を含めた東河地区の城跡巡りの一環とすれば、この城跡も含めて自ずと充実した城跡巡りが出来るのではないだろうか。

2009年10月14日 (水)

久田和城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町久田和(クタワ)にあって、東河(トガ)川より南にある久田和集落西側の、川に向いて突き出した山上(標高269m)に位置している。半年前ぐらいに山城巡りの一環として当地を訪れた際、地元の方から色々情報を聞き及んだが、この東西に流れる東河川沿いには、東河七城と呼ばれる上道氏の傘下にある城跡、あるいは出城(砦跡)なら無数に点在しているとの事でもあり、今回は前回見逃していた城跡を探索する為に、再び現地を訪れる事になった。

この山城も場所の目星はおよそ付いていたが、地元で得た情報は相当曖昧なものにも拘らず、取り合えず城跡呼称だけは判明した。よって城史に関しての詳細は現状全く不明でもあるが、黒田城を本城とした上道氏の傘下にあった城跡か、あるいは一族の城跡の何れかである様には推察される。もちろん上道氏自体が戦国武将として表舞台で活躍した訳ではないので、当然情報が少ないのも当たり前でもあり、まして敗軍の将の歴史などは余り語られないのが現実でもある。現時点においては、先にリポート掲載を終えた黒田城(地元の方に聞いて確認)ですら曖昧なものに思えて来るのである。

Kutawa_1 登城ルート

5_1 城跡

7tozanguti 入山口

Kutawa_2 城跡概念図  

城跡へは前回の黒田城への案内ルートを参考にして頂ければ分かり易いとは思われるが、国道9号から「一本柳」交差点を北上して、東河川沿いに市道273号を東進すればよい。中地区に入れば右手に中腹に鉄塔が建つ急峻な山が目に留まるが、この山上がこれから目指す城跡でもある。城跡の位置が確認出来れば、概念図あるいは画像に示した様に市道273号から養鶏場を目指して南下、その突き当たりにある開閉フェンス(入山口)を潜り、その先の木橋を渡れば自ずと鉄塔経由で主郭までは辿り着ける。尚、木橋を渡った後は直ぐ竹林地となるが、火の用心」の標識が数箇所に窺えた踏み跡程度の道があるので、道は途絶えても山上を目指せば難なく到達出来る筈である。(山上までは15分前後

12_higasi_kaku 東郭の現状

18_shukaku 主郭内

19_shukaku_dorui_1 主郭大土塁見所

18_shukaku_1 主郭切岸

21_horikiri_dorui 21_horikiri_dorui_3 堀切土塁見所

現状(九月)城跡はこの時期でも移動あるいは遺構見学に難渋もせず、ほぼ縄張りは見て回れる状態にある、藪漕ぎは覚悟の上で登ったものの、人の手の入らない山城としては中々見学し易い良い状態とも言えるだろう。城跡の形態は概念図を見て頂ければ一目瞭然とは思えるが、直線的な尾根上に広い削平地(東郭)と山上主郭の二郭で形成される、全長100m程度の規模の山城である。見所は多くはないが主郭背後を断つ縦堀に繋がる堀切及び付随する土塁、主郭内の大土塁は挙げられようが、他で際立った遺構が無いのもこの山城の特徴かも、、、ただ思ったより遺構残存度は高そうに思えたので、無名の山城でも興味のある方にはお薦め出来そうにも思えた山城の一つである。もちろん有名無名を問わず険峻な山城が好きな自分としては、十分な満足感に満たされた事は言うまでもないが、、

尚、ルート図中に示した、北に位置する他の二城のリポート掲載は次で予定

2009年10月13日 (火)

青井山城跡(福井県小浜市)

城跡は小浜市青井にあって、後瀬山城の真西側にある海に面した山塊の山上に位置しているが、現在は「自然観察の森」として山上一帯は公園化されている。限りなく無名に近いこの山城は南北朝期に成立した城跡と伝わるが、戦国期を乗り越えているのであれば、せいぜい後瀬山城の砦あるいは海上に睨みを利かせた監視機能を持った城跡の様には感じられる(推察)

城跡へはほぼルート図の如く、国道27号「青井」の交差点で針路変更後山上に向けて進行すればよいが、かつて山上まで繋がっていたとも思われる車道は、途中から管理道として封鎖されており、図に示した峠付近(三叉路)に車は路駐して、そこからは歩いて上る事を余儀なくされる。山頂まではのんびりと海を眺めながらの道程になるが、15分程度で到達出来るとは思われる。

1route 登城ルート

2 現地案内板

025 小浜市内遠望

036 山上へ

Photo 山上最高所

033 東第二休憩所

現状(九月)城跡は先に触れた様に山上周辺は全て公園化されており、山頂に至るまでは歩き易いアスファルトの遊歩道、あるいは駐車場(恐らく小規模な郭跡地)となっているので、公園化によって相当な地形改変が行われたものと想像される。案内板における尾根上を東の第二休憩所までは周りの景色を眺めながら歩いてみたが、痩せ尾根上に削平地がある程度でもあり、かつての山城の面影は全く残ってはいないのが現状である。堀切程度はかつてあったのかも分からないが、現状それらしきものは目に留まらなかった。もちろん土塁と窺われる箇所があったとしても、それは恐らく遊歩道設置の際の残土(盛り土)とも見受けられるのである。

山上に佇めば直ぐ東側に後瀬山城、北側には小浜湾、市内を跨いで遠くには丸山城(茶磨山城)も望める事から、眺望を味わうには最適の城跡という事にはなるが、城跡遺構を期待するのであれば間違いなく期待はずれに終わるものと思われる。せいぜいかつての山城の風情を感じれば良しとする方には、最高のロケーションだけは味わえるので、自然を満喫しながらの山歩きという事になれば、お薦めは出来るかもしれない。

2009年10月12日 (月)

半田城跡(京都府福知山市)

この城跡は事前に地形図から窺うに、住宅地の迫った丘陵上に位置している事からも自ずと密生した竹薮地が直ぐ想像出来、今までも中々足を運ぶまでには至らず訪問もついつい先送りにしていた。今回は山崎城などの山城巡りの一環としてやっと訪れる事に相成ったが、城跡は想像とは裏腹に、竹薮地ではあるが密生はしていないのでこの時期(九月)でも非常に見て回りやすい状態にあり、丘陵上に展開される縄張り内の遺構はほぼ判別確認する事が出来る状態(良いと言えるまでのレベルではない)にあった。

城跡は福知山市半田にあって、既にリポート掲載を終えた新庄城から見れば南西側へ500mと離れていない和久川に沿った丘陵上に位置しており、現在郭跡の一部には小さな稲荷神社が建立されている。当時における城主も城史に関しての詳細も不明 

城跡へは国道9号から「新庄」交差点で429号へ針路変更、後はルート図の如く公民館を目印として目指せば難なく辿り着けるだろう。公民館付近には路駐可能な空きスペースもあるので、ここを出発点として川に向いて歩いて橋を渡り直ぐ川沿いに左折、画像に示した稲荷神社への参拝道からそのまま上れば、直ぐにでも東端の郭跡(祠のある郭跡)には到達可能となっている。

1route 登城ルート

5sinnyuukuti 参拝道への進入口

この城跡の魅力は何と言っても人家がここまで迫りながらも、地形改変がほとんど見受けられない遺構残存度の高さであり、直線的な縄張りではあるがその中にひしめき合う技巧を伴う遺構群であると断言出来そうにも思える。個人的にもその縄張りを含めた遺構の素晴らしさには足を止める時間も長く、つい時間の経つのも忘れてしまったほどである。小規模な為に見学するにもそう時間は要さないのだが、同じ福知山市内にあって遺構残存度が非常に高く、小規模ではあるが縄張り妙味にも富んだ中村城が直ぐ思い浮かんでしまった。見所を挙げるとすれば概念図には示したが、主郭北斜面に備わる分厚い縦土塁、大堀切とそれに沿う形の縦土塁、主郭背後の縦堀に繋がる堀切、武者隠しに見えた空堀土塁、東出郭を断つ横堀、二の丸の仕切り土塁などの技巧を伴う遺構群はどれを取っても見逃せないものばかりである。

3ha 城跡概念図

12_higasi_horikiri 東横堀見所

18_sikiri_dorui_1 仕切り土塁見所

20_shukaku_heki_2 主郭壁土塁

24_daihorikiri_2 西大堀切見所

27_tatebori_tatedorui 縦堀と縦土塁見所

30_kita_tatedorui 主郭北の縦土塁見所

33_mushakakusi 武者隠し?見所

28_nisihasi_horikiri 西端の堀切見所

27_nisi_yori_horikiri 西郭より堀切

車を停めて10分とかからず主郭に到達可能なお手軽感、遺構の見応え、遺構残存度、更に縄張り妙味まで含めれば正に推奨に値する城跡とも見受けられ、まだ未訪の方には是非訪問をお薦めしたい城跡の一つである。山城に抵抗のある方にとっても非常に訪ねやすい丘城なので、当然お薦めする事は言うまでも無いが、、、。

2009年10月11日 (日)

新保山城(福井県小浜市)

城跡は小浜市新保にあって、先にリポート掲載を終えた竹長城からみれば北東側に聳える山の山上に位置しており、竹長城側からも城山は直ぐ確認出来る筈である。当時、後瀬山城を本城とした若狭守護武田氏一族の支城でもあるが、織田軍による越前侵攻によって、朝倉氏と同様に滅亡への道を辿った。別名霞美ヶ城とも呼ばれている。

城跡へは竹長城を起点にすれば分かり易いが、ルート図の如く赤線を辿れば数分で現地には辿り着けるが、車は登山口手前の墓地付近に路駐スペースは充分あるので、駐車に気を使う必要はないとは思われる。ここから集落に向いて数10m先にある、画像に示した住宅地手前から左手に山に入る道があり、少し入れば右手側斜面を登って行けばよい。その付近には低い土塁で囲まれた広い削平地も直ぐ目に留まるが、これが当時の居館跡なのかどうかは確信は持てずにいる(標識が無い)。そこからいよいよ踏み跡程度の倒木の多い急峻山道を上ることになるが、城域と察せられる広い尾根上削平地に到達するまでは20分程度は要す、そこからは右手側に一旦下って(自然堀切地形まで)上る形となるが、更に山上主郭まで到達するには20分程度は要す事になる。それほど険峻な山城であり、南北に城域が広い城跡なのである。

1route 登城ルート

6_tozanguti_e 登山口

8_yakata_2 居館跡か(土塁跡)

3si 城跡概念図

現状(九月)城跡はこの時期にも拘らず郭移動もし易く、山城としては非常に見学し易い良い状態にあり、全ての枝尾根まで踏破した訳ではないが、山上における遺構は全て判別確認出来る状況でもある。恐らく四季を問わずこの状態は自然保持されているとも思われ、冬季訪問においては更に見学し易いことは予測が付く。この山城を語り出せば限がないとも思われるので、見たままをアバウトにリポートさせて頂くが、自作概念図を見て頂ければ分かり易いとは思われるが、急峻極まりない地形をそのまま縄張りとして取り込み、南北にほぼ直線的(本郭群だけでも200m前後ある)に郭を配した非常にシンプルな形態であり、山上は六本の縦堀に繋がる堀切で分断守備されている。山上本郭群は三郭の大規模な郭で形成されており、その一部には土塁も櫓台らしき土塁壇も備わっており、何れを主郭としても可笑しくはない構造でもある。

16_nantan_horikiri 17_horikiri_1 南端の堀切(縦堀へ)見所

28_shukaku_minami_heki 南主郭切岸

29_minami_shukaku_1 南主郭内

34_kitashukaku_heki 北主郭切岸

36_higasi_dorui_ato 主郭土塁見所

38_daihorikiri_2 大堀切見所

42_demaru_kita_dorui_1 北出郭より土塁見所

46_horikiri_heki 北堀切見所

この城跡の最大の見所でもあり見応えのある遺構は、先に触れた六本の縦堀に繋がる堀切(薬研堀を含む)に尽きとも思われるが、その切岸高低差は10m以上はあろうかとも思われ、正に当時をそのまま再現したかの様な圧巻とも呼べるものである。山上に到達するまでに急斜面との戦いは40分以上も続き、相当体力は消耗させられるが、山上に横たわる堀切群を目の当たりにすれば、その疲れは一掃される様にも感じられる。それほど状態も良く目を楽しませてくれる遺構群なのである。尚、地形からも北西側あるいは南東側の枝尾根にも郭の展開は予想されたが今回は未踏、概念図に示したものより城域は相当はみ出ている様には感じられた。個人的には既に再訪も果たしたが、此方より更に険峻でもある後瀬山城も山城としての魅力には満ち溢れているが、単純に現存する遺構の醍醐味、あるいは見応えだけを採り上げれば、インパクトのある堀切が多用されているこの山城の方が若干勝っているようには感じられたのである。 正に推奨に値する、是非お薦め出来る山城の一つである。

2009年10月10日 (土)

竹長城跡(福井県小浜市)

この山城は今回の新保山城をメインとした山城巡りにはチョイスしていなかったのだが、新保山城へ向う際の道路脇の案内板を覗いた結果、ここから直ぐ近くにこの城跡がある事が判明し、急遽予定を変更(加茂城を訪問する予定)して立ち寄ったものである。よって城史などの詳細は知る術もないが、案内マップに記されている以上は、当然小浜市においては既に発掘調査は成されているものと考えられる。詳細が知りたい方は市の教育委員会を訪ねれば良いのかも知れないが、、

城跡へは国道27号を走り「平野」で219号へ針路変更、そのまま北上3km程度走れば左手道路沿いに周辺の史跡を記した「案内マップ」が目に留まる筈である。ここから直ぐ先には郵便局もあり、そこから道路北西側(左手側)に望める丘陵尾根が城跡にあたる。登城ルートは概念図を参考にして頂ければよいが、三ルート(A、B、C)の何れも急斜面の直登ルートであり、時期的(九月)にも多少の藪漕ぎは覚悟しなければならないだろう。一番まだ上りやすいと感じられたのはCルートであり個人的には下山ルートとなった。便宜上の東出郭へはどこから取り付いても迷わず上れるとは思われるので、敢えてこの三ルートを選択しなくても良いかも分からないが、、(思ったより急峻な地形に阻まれAルートの直登では20分以上は要した)。

1route_2 登城ルート

2_1 現地史跡案内板

4_1_2 城跡遠望

6_gezanguti_1 Cルート直登口

3t 城跡概念図

城跡の形態としては、道路沿いに面した東出郭から西尾根上にかけて郭は直線的に展開されており、郭間に大して高低差があるわけでもなく、尾根筋に沿って狭小段郭群あるいは削平地が主郭まで繋がっているものである。地理的条件から考えても当然新保山城の出城あるいは砦機能は窺えるが、規模からすれば砦の域は出ている様には感じられた。見応えのある遺構を探すには苦労させられるが、なかった!と言うのが本音かも知れない。

10_tatebori 縦堀地形

23_higasi_demaru_karabori 東出郭空堀跡

22_toutan_kaku 尾根上の削平地

14_higasi_dankaku_gun_1 段郭群

17_shukaku_1 山上主郭

山城として醍醐味を感じられるのは切岸などにおける高低差であり、堀切などの様なインパクトのある地形、あるいは地形(山容)をも取り込んだ縄張りプランなのであるが、その何れも満たしていないのが城跡の現状でもある。個人的には予期せぬ城跡に巡り合えたので喜びの方が大きいのだが、これから訪ねられる方には決して遺構の見応えは期待しないで赴いて頂きたいと思うのである。山城としての醍醐味、魅力には少々欠けるが、決して戦国期を物語る史跡としての価値が下がるものではないので、山城としての風情を味わう程度の訪問なら、充分納得の行く見学が出来るのではないだろうか。尚、対岸に位置する加茂城は、これから向う新保山城への登山を考えて断念したが、取り合えずルート図に位置は示したので参考までに、、、この城跡以上に、上るには相当手強い山城(険峻)の様には感じられる。

2009年10月 9日 (金)

野間中城跡(大阪府豊能郡)

この城跡は個人的には既に野間城(本城)と並んで、昨年中にリポート掲載は同時に終えたものだと勝手に思い込んでいた処、最近になって忘れている事に気が付き、多少情報の鮮度は落ちてはしまったが、取り合えずまだ未訪の方の為に急遽掲載に及んだ。

城跡は大阪府豊能郡能勢町野間中にあって、当時丸山城を居城とした能勢氏の分かれが野間に城を築き、地域名である野間氏を名乗ったことにより始まっているが、野間豊後守によって小倉山に城を築くものの、完成間際で中止(理由は謎)になったものであると北摂の歴史では伝えられている。

城跡へは国道477号を走れば「野間中」交差点で県道4号で東へ針路変更、後はルート図あるいは概念図の如く城跡への進入口でもある目印となる「六地蔵」を目指せば、そこからは10分内で山上までは到達可能となっている。ただ途中までは山道らしいものはあるが、山上へ向いて通過する休耕地は、荒れ放題で下草も多いので直ぐ道は途絶えてしまう。しかし低山なので草木の少ない箇所を選んで上れば、どのコースでも縄張り内には難なく辿り着く事は可能でもある。

1z_1 登城ルート

4 城跡進入路

Noma_nakajyou_2 城跡概念図

18_horikiri 中央堀切見所

20_kaku1 西段郭群

21_kaku1_karabori_1 西下段空堀地形

24_kaku2 西下段2

28_shukaku_dorui 主郭土塁見所

31_kaku3_yori_shukaku_heki 北郭より主郭切岸

城跡の形態としては山上を東西に分断する中央堀切を挟んで二方に郭群は分かれて配されており、便宜上主郭とした西郭群の方が土塁、櫓台土塁、切岸、空堀状の窪などの様に、地形から遺構としてある程度判別し易く残ってはいるが、東郭群は削平も切岸処理も甘く、途中で築城が中止された事を充分物語っている様にも感じられた。遺構として判別可能なものは概念図に示したが、風化及び堆積物などの影響もあって、地形の変化から明確にそれと判別出来るものは限られてくるのが現状でもある。ただこの城跡が完成に漕ぎ着けていたなら本城である野間城よりは随分規模で劣るが、縄張り妙味に関してなら勝っている様にも感じられるのである。谷川沿いにある野間館を南の野間城、北はこの野間中城で挟む形で築かれたこの城跡は、縄張りプランから考えても砦の域は充分出たものであり、本城からみれば自ずと支城として考えれば良いのかもしれない。まだ未訪の方には野間城(本城)あるいは谷川沿いにある野間館跡と併せた、三城同日訪問を是非お薦めしたい。尚、車は三城同日訪問を前提とすれば、付近に路駐可能なスペースも見当たらない事からも、ルート図にある「円珠寺」に預ければよいものと思われる。

2009年10月 7日 (水)

三俣城跡(京都府福知山市)

この城跡に関しては何時もの気ままな山城巡りの中で、外見から窺った山容あるいは城跡としては好立地条件下にある事からも、個人的な好奇心から以前より機会があれば覗いてみようと思った事から始まったものであり、既に訪れて半年以上が経過したが、未だにここが城跡であると決め手になる遺構(分かり易い堀切あるいは必然性のある土塁)が存在しなかった事、あるいは色んな資料に目を通すものの、やはり城跡としての記述も情報も得られず、自分としては城跡としての確信は持ちながらも掲載を控えていたものである。しかし最近になって偶然山城巡りの中で知り合った方から、この城跡は福知山市の遺跡分布図の中に「三俣城」として記載されているとの信頼出来る情報を頂き、今回やっと「三俣城」としてのリポート掲載に漕ぎ着ける事が出来た。城史に関しての詳細は現状不明

城跡は福知山市三俣にあって、生野神社の直ぐ北背後にある丘陵上に位置している。ルート図の如く国道9号を利用して上六人部小学校あるいは生野神社を目印として目指せば難なく辿り着けるとは思われる。神社に到着すれば社殿背後よりそのまま上りきれば、直ぐにでも縄張り内には到達可能である。

1_1 登城ルート

1 現地概略図

4_1 城跡遠望

ただこの城跡の現況(状態)だけを説明する事は容易ではあるが、現地における地形を見ただけでは一体どこまでが城跡の一部なのか、あるいはこれが城跡としての形態なのかは非常に判断しかねる、他に類を見ない特異な形態であるのは確かである。取り合えず画像には城跡遺構として予測の付き易い分かり易いものを選んで載せたが、雑木も蔓延っているので全体像が窺えず、まして全体像の写真を残す事は尚更困難でもあり、載せた遺構画像だけで現地の様子を窺うのは少し無理があるかも知れない。とにかく概念図にも描き切れない様相をしているのである。目に留まった遺構は北側の山裾に向いて広がる広大な削平地、埋もれて現状浅くなってはいるが土塁を付随させた空堀部分的に石垣跡、縦堀地形そして先に触れたとても形容し辛く説明もし難い自然大岩(巨大岩盤を含む)に周囲を取り囲まれた巨大な穴倉状の地形、あるいは巨岩を利用したと見受けられるその穴倉虎口、付随する人為的な土塁など遺構とすれば驚愕に値するものと目には映った。現状ではこの巨大穴倉は長い年月をかけて相当崩落しており当時の原形すら想像も付かない状況となっており、機能においては個人で想像して頂くしか無い様には感じられるのである。Karahori A_3 A_23 A_28 A_29 A_34 A_32 A_16

取り合えずこのリポートに興味を抱かれた方にのみ訪問をお薦めしたいが、実際にこの地形を目の当たりにすれば、普通なら「自然の成せる業」と誰もが思うに違いないのだが、城跡ファンであればこれは明らかに人の手が加わったものであり、どの様に機能していたのかはある程度察しが付くのではないだろうか。個人的には数百人の収容が可能な、武者隠しの様な駐屯地的なものにも見受けられたのだが、、、。

2009年10月 5日 (月)

湯岡城跡(福井県小浜市)

城跡は小浜市湯岡にあって、有名な若狭武田氏の居城、「後瀬山城」の直ぐ東側に聳える山の山上尾根に位置している。別名池谷山城とも呼ばれており、戦国期においては南部氏の居城が伝わるが、城主は恐らく何度も交代している様には窺われる。城跡の成立は古くは南北朝期まで遡るとも言われているが、隣接する後瀬山城(武田氏)との関係までは調べるまでには至っていない。詳細は不明

城跡へは国道27号を走り、「湯岡」交差点で国道に沿う形で針路変更、後はルート図の如く数100mも移動すれば、登山口ともなる熊野神社までは難なく到達出来る。小型車であれば画像に示した鳥居手前付近に路駐スペースは確保出来る筈である。個人的には概念図に示した城跡の北西側麓にある、若宮神社より最短での直登ルート(20分)を選択したが、藪漕ぎの連続でもあり、更に急斜面がそれに追い討ちをかけて、山上到達までには相当体力を消耗してしまった。もしこのブログをきっかけに訪問される方は、下山時に使用した赤線で記したルート図を参考にして向われる事をお薦めしたい。このルートは熊野神社の直ぐ真後ろ側の丘陵上にある、水道施設西背後から直ぐ山上に向いて上るものであるが、踏み跡程度の山道が繋がっているので、山上主郭までは迷わず辿り着けるとは思われる。ただ距離的に1kmはありそうとも思えるので、所要時間として30分はみておく必要があるかもしれない、、、

1route 登城ルート

7 熊野神社

9 進入路

3 城跡概念図

26_kuruwa 北郭の現状

20_kita_dobasi_2 中央土橋見所

13_shukaku

主郭

12_minami_e_dobasi 南土橋

現状(九月)城跡は、この時期でも踏み跡程度の山道から反れない限りは移動に難渋する事も無く、尾根上に直線的に配された郭跡はほぼ見て回れる状態にある。ただ安普請によるものか古い形態によるものなのかは分からないが、主郭の高低差の少ない切岸などは相当甘く、他の郭跡にも切岸処理の跡は見受けられず、長年の堆積物によるせいもあるが、見る限り土塁跡あるいは空堀跡などは目に留まらなかった。ただ尾根上を分断する為の堀切の代用として、人一人が通過出来るのが精一杯といった土橋を尾根上三箇所で確認する事が出来た。今回は藪漕ぎの直登によって相当体力を消耗してしまい、本来水道施設の東側(出郭がありそう?)も踏破する予定でいたものがそれも叶わず、早々に城跡を後にしてしまった。個人的には現存している遺構群からは、山城としての見応えも醍醐味も感じる事が出来なかったが、山上まで到達する時間を考えても、中々お薦めの城跡とまでは言えないのが本音である。

2009年10月 4日 (日)

谷小屋城跡(福井県小浜市)

この城跡は何度か小浜に向いて車を走らせている時に、車窓越しに低山ではあるが、余りにも山城の如く急峻な佇まい(山裾には寺院、神社、周囲二方を取り囲むように川及び川沿いに集落の環境)が感じられる山塊があり、何時か機会があれば確認の為に訪れて見ようとチェックしていた事から始まったものであるが、今回は新保山城の訪問も兼ねて、自分の見た目に狂いが無い事、あるいは何としても城跡の有無を確認しておきたい気持ちが優先した事から、道すがりに意を決して立ち寄る事にしたものである。

結果的に山上では、ここ数十年は人の手が入ったと見受けられない、残存度の非常に高い素晴らしい城跡遺構を眼にする事となった。下山後に城山の山裾にあり登山口でもある、「妙祐寺」住職から寺院のパンフレットを頂いたが、その中に僅かではあるが城跡にまつわる伝承が記されており、この山城は「谷小屋城」と呼ばれるものと初めて認識する事が出来た。尚、御住職はこの城山の存在は知ってはおられたが、城跡呼称すら御存知ではなく、今まで一度も城山に登った事がないとも聞き及んだ。最初に御住職に声をかけておれば、一緒に同行して上れたかも知れないので非常に残念な思いはしたが、御住職の年齢を考えれば案外それも叶わなかったかもしれない。山上まで到達するには短時間ではあるが、非常に厳しい登山が待ち受けているのである。

御住職も城山の様子に聞き入っておられた事からも、それなりに興味は示され、「上れないが一度山上の写真(現状)を見てみたい」と言う事になり、画像は次の山城巡りの際には必ず持って伺う事を約束した上で寺院は後にした。これを機会に御住職からは是非、市に対して史跡として残せるように働きかけて頂き、この残存度の高い城跡遺構は何としてでも後世まで大事に遺して頂きたいとのである(近所にある大塩城より規模は小さいが見応えで勝る)。それが自分としては一番望む事でもあるのだが、、、。

1route_tani 登城ルート

Tani1z 城跡の概略(妙祐寺パンフより抜粋)

4_1 城跡遠望

3ta 城跡概念図

城跡は小浜市中井にあって、ルート図に示した様に国道162号より「妙祐寺」を目指せば難なく辿り着ける筈である。概念図の如く、寺院の最奥に位置する集合墓地背後から旧妙見社への参拝道を利用、その跡地背後より急斜面を登り切れば、便宜上の東出郭には15分もあれば到達出来ると思われる(藪漕ぎもなく迷わず上れるが、斜面は相当きつい!)。

10 登山口

16_higasi_demaru_1 東出郭の現状

17_higasi_horikir_1 東堀切見所

23_nakakaku_1 中郭

25_shukaku_e_noboridorui 主郭上り土塁見所

27_shukaku_2 主郭内

28_kesiki_2主郭からの眺望

35_nisihasi_horikiri_1 西堀切見所

33_2ren_dorui_karabori 二連の空堀土塁見所

現状(九月)城跡は、この時期においても郭間の移動には難渋する事も無く見て回れ、山城としては比較的良いと言える状態にある。もちろん自然任せである為に主郭などの地表は荒れ放題でもあるが、意外に山上主郭に佇めば一部集落の見通せる場所も残っており、残存遺構でもある堀切(三箇所)、郭跡、切岸、僅かに残る土塁跡(内壁に石列あり)、空堀(武者隠しかも?)などは全て判別確認可能な状況でもある。山上に直線的に配された郭形態からすれば、縄張り妙味には少し欠けそうではあるが、それを補って余りある高低差を伴う堀切(切岸)を代表とする様に、非常に見応えがあるものであり、遺構残存度の高さも含めてこの城跡の魅力の一つともなっている。城跡は自ずと四季を問わず訪問可能な状態が予想される事からも、山城ファンにおいては是非訪問をお薦めしたいと思うのである(史跡ファンには登山が少しきつい)。 言い忘れたが、寺院敷地にある「しだれ桜」は訪れる季節さえ間違わなければ、写真で見る限り一見の価値のあるものとして目には映った。

2009年10月 3日 (土)

但馬山内城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町山内にあって、集落の川を挟んだ南側にある、ほぼ単独で聳える形の急峻な低山山上に位置している。付近は城ノ根(ジョウノネ)とも呼ばれている事からも、付近で城跡を訪ねれば年配の方はほとんど御存知である様にも感じられたが、無名に限りなく近いこの山城は、上った事は一度も無い様な、話題にも取り上げられない山城の様にも思われるのである。当時においては竹田城主太田垣氏の傘下にあった、足羽氏の居城が伝わっているだけであるが、これから先は存在すら忘れ去られていく山城の一つになる可能性は大である様にも感じられた。

城跡へは先にリポート掲載を終えた物部城を起点とすれば分かり易いが、国道312号の「伊由市場」交差点を逆の東側(526号)に進路を取って山内地区を目指せばよい。少し走れば直ぐにでも進行方向右手に見えてくる、道路沿いの険峻な山がそれであり、確認は容易く出来るとは思われる。ルート図あるいは概念図に示した様に、城跡へ通じる入山口は現在この一箇所だけだと思われるので、道路側から走りながら注意して窺う必要はあるだろう(画像に示したが、分かり易い位置にある)。フェンスを開閉すればそのまま山道から向えばよいが、途中から無数に連なる屋敷跡地(近世のものだろう)を横切って、急斜面を直登すれば入山口から山上までは20分内で到達出来る筈である。この山道は更に城跡の南東側へ回り込む形で繋がっており、南斜面からでも上れそうにも思えたが確証は無い。

1route_2 登城ルート

4_1 城跡遠望

6 入山口への進入路

3ya 城跡概念図

13_horikiri_1 北尾根の堀切

15_shukaku_1 主郭内

16_shukaku_dorui 主郭土塁

22_tatebori 縦堀

現状(九月)城跡は、かつて植林地であった道路側斜面が、伐採によってむき出しになっているので、主郭に佇めば集落全域がほぼ見渡せる状態でもあり、山上郭においても木々が少ない為に、少ない遺構ではあるがほぼ判別確認可能な状態にある。概念図に示したまでが明確に判別可能な遺構群であるが、城跡の見所は主郭内に唯一遺された土塁、北側の尾根を断つ堀切、土塁は挙げられるが、他は縦堀地形が目に留まっただけでもあり、多少見応えに欠ける様には感じられた。道路側の崖状急斜面は低い草木に覆われており、外見からの視認は困難、更に滑り易く危険な状態にあったので踏破は断念せざるを得なかったが、何の期待もせず予備知識もなく訪れた事もあってか、充分満足感に浸ることは出来た。個人的には山城を上ってみて、険峻さを体感する事が出来ればそれだけで山城としてはまずは合格点なのである。もちろん更に見応えのある遺構があれば、尚更言うに越した事は無いのだが、、。

城跡を評価すれば、見応えのある遺構が目に留まらなかった事からも、とてもお薦めとは言い難いが、年々山上から下界を見通せる山城が少なくなっている事を思えば、貴重な城跡と言えるのかも知れない。こんな無名に近い山城でも、但馬地方の山城に興味を持たれていた方にとっては、よりタイムリーな現況報告となったものと思いたい。

2009年10月 1日 (木)

但馬物部城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町物部にあって物部八幡神社側からみれば背後にあたる真北側の山上尾根に位置している。但馬竹田城とも近いことから、その支城あるいは出城とも見受けられなくもないが、現状城跡の古い形態を考えれば、とても戦国期を乗り切った城跡の様には窺われず、山裾の神社敷地を当時の居館とすれば、山上主郭は規模の小さな詰城、あるいは物見といった程度の城跡でもある。戦国期においては代々物部氏の居城は伝わっているが、何代目かの城主は戦死しており、城はその時より廃城となった可能性は高いものと推察される、もちろん同氏が活躍した時代背景の詳細は分からないのが現状でもある。

城跡へは県道70号よりルート図の如くJR「青倉駅」を目指せば分かり易く、道路沿いにある二箇所の「中物部」バス停の間から神社に上る道があるので、そこから進入すれば直ぐに神社駐車場までは到達可能である。社殿左手側の、屋敷跡地の様にも窺われた広い削平地からは、登山道(旧参拝道?)が北山上に向いて繋がっているので、山上主郭までは10分程で迷わず辿り着く事が出来るだろう。

1route 登城ルート

7 神社を見上げる

10 登山口

3mo 城跡概念図

現状(九月)城跡は山上主郭までは、登山道に任せれば万遍なく見て回れる状況にあり、尾根上の郭跡(削平地)を判別確認しながら上れば効率よく見学出来る。とは言っても山上主郭までの遺構は、縦堀地形は二箇所で窺われたものの、ほぼ尾根上の郭跡を体感する程度の事でもあり、山城の風情などは感じられても、見応えを問われると返答に困るのが現実でもある。概念図に示したものが個人的に遺構と判別出来たものであるが、確実にそれと判別出来る技巧的な遺構は皆無でもあり、郭跡を除けば主郭周りの切岸だけが当時を偲ばせる遺構の様にも感じられた。

11_tatehori 縦堀地形

12_kaku 南尾根上の郭

15_higasi_kaku 東郭

15_minami_gedan_kaku_1 南下段郭

17_shukaku 山上主郭

19_kitagawa_heki 主郭北背後の切岸

古い形態の山城でもあり、見応えのある遺構が存在しない事からも、山城ファンにはお薦めとはいかないが、当時における山城の風情を味わう程度と割り切った訪問であれば、充分納得の行く見学が出来るのではないだろうか。見通しは利かないが山上主郭には休憩所(近年まで小社があったとも窺われた)まで設置されており、登山道が主郭まで通じている事からも、一般の史跡見学者あるいは城跡ファンにはお薦め出来る城跡かもしれない。逆に見応えはなくとも、当時の史跡としてみれば充分価値は感じられるのである。

2009年9月30日 (水)

音羽野城跡(滋賀県甲賀市)

城跡は滋賀県甲賀市土山町瀬音にあって、先にリポート掲載を終えた土山城を起点とすれば真北側の直線2kmの地にあり、県道9号を北上すれば野洲川に架かる青瀬橋の手前東側の丘陵上に位置している。橋の手前に備わる城址案内説明板からは、正面直ぐ右手側の杉林の中に見える丘陵がそれであり、ルート図あるいは概念図に示した南側の進入口まで向い、そこからは縄張り内にある旧社までは参拝道が繋がっているので、主郭までは迷わず辿り着けるとは思われる。車は探せば路駐可能なスペースはありそうでもあったが、個人的には南側県道沿いにある神社の駐車場に預けて、そこから歩いて向った。当時においては頓宮氏の居城が伝わるが、城史の概略に関しては現地案内板をクリックの事

1tuti 登城ルート

3_1 現地案内板

3o 城跡概念図

現状(二月)城跡は植林地となっている事からも、ある程度見通しは利く状態にあり、主郭(居館跡)に向うまでの当時のままかもしれない、広大な削平地全体像を窺う事も可能であり、方形主郭の全体像あるいは広さはある程度目視によって確認する事も可能な状況となっている。主郭に向うまでの南側の広大な削平地は、土塁に見えるウネウネした地形が全体を支配しているが、これらが当時の遺構の名残なのか、あるいは近世における神社としての敷地跡なのか、あるいは風化及びその体積物によってそうなったものか、現状推察すら出来ない状態でもある。現状ではただやたら広いだけで、郭を土塁などで仕切った形跡も見受けられなかった(後世において相当な地形改変があったのかも分からない)。ただ主郭周囲を巡る土塁の外周には、深さは失われてはいるが空堀(一部二重空堀)、付随する虎口などは明確に判別出来るものが現存している。郭内部には案内板に記されてあった様に庭園に使用されたと思われる庭石などがゴロゴロしており、それなりに当時の居館跡の雰囲気は漂わせている、主郭の北側は崖状の切岸として処理されており、杉林の中、数10m下まで切岸が落ち込んで行く様は中々迫力は感じられた。

18_oote_2jyuu_hori 南側の二重空堀見所

19_hori_dobasi 主郭の空堀と虎口土橋見所

20_shukaku_heki_hori 南側土塁壁と空堀

27shukaku_higasi_karabori_1 東側の空堀

22_shukaku_nai 主郭内部

25shukaku_teien_ato 庭園跡

29shukaku_dorui 主郭土塁見所

24_shukaku_kita_kirigisi 主郭北切岸

34_shukaku_nisikaku 主郭西側

主郭及び周辺の遺構(土塁、空堀)はほぼ完存とも見受けられたが、他の広い範囲(南側と東側の広大な削平地)でどこまでの地形改変があったのかは想像も付かず、ほぼ見学者の想像に委ねられるのも現実であり、逆に現在の状態を当時のままと解釈すれば、南側の茶畑まで至る相当城域の広い、しかも縄張り規模も大きい城跡と言えるのかもしれない。県道から5分もあれば主郭に到達出来るお手軽さ、あるいは完存に近い形の主郭を踏まえれば、見応えのある遺構は多くはないが、訪問する価値は充分あるのではなかろうか。

2009年9月29日 (火)

十二所城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市養父町十二所にあって、西側に大屋川を望む事の出来る「西願寺」の北東背の、急峻な尾根先端に位置している。当時は秋山氏の居城が伝わるが詳細は不明。

城跡へはルート図の如く「西願寺」を目指せば分かり易いが、現在城跡の北斜面は土砂採取現場となっているので、大屋川に沿う県道からも直ぐに城跡の位置確認は出来る筈である。ただ登山道がある訳ではないので、直登取り付き地点から山上主郭まで、20分前後に及ぶ斜面との格闘は是非頭に入れて臨んで頂きたいと思う。 

山上へは概念図に示した様に、寺院背後から谷沿いを少し上った場所にある旧配水施設を目印として向い、その左手斜面から取り付き、左側の稜線に向いて斜行しながらジグザグに上って行く方が上りやすいとは思われる。この激斜面は比較的樹木が少ない代わりに、砂利が多く滑りやすいので、木々に手をかけながらの登頂となり、より慎重な登山が要求される。特に下山は上りより遥かに滑り易く感じられるので、木にすがり付きながら30分以上要してでも、足元だけには細心の注意を払って下る必要はある。もちろん東尾根先端から谷沿いに下れば、多少は斜面も緩いのかも知れないが、その分かなり時間は要しそうには思われる、確証は無いが、、。

12 登城ルート

4 城跡遠望

8 進入口

11_torituki直登 取り付き地点

12_1 城跡概念図

現状(九月)山上郭群における主郭は雑木も蔓延り見通しも利き難い状態にあるが、他は尾根上を東に向うほど間伐が行われた跡が窺え、木々も少なく土砂採取斜面側は下界の眺望も利き、郭跡及び堀切などは全体像が拝めるほどの状態にある。この山城の見所であり魅力は、堀切に尽きと言っても過言ではなく、主郭側から東側へかけて望まれる、郭を東西に分断する四本の堀切(一部縦堀に繋がる)群は、見通しの良い事も相俟って壮観さすら感じる事が出来る。長年の堆積物などによって相当埋もれてはいるが、これほど判別し易く残っていれば全く問題にはならないだろう。現状堀切の高低差もまちまちではあるが、当時はより深く薬研堀の如く屹立していたとも想像出来そうに思えたが、特に概念図に示した東堀切3、4における遺構は、分厚い土塁を間に挟んだものであり、相当な見応えを感じる事が出来た。更に山上郭群は西側の主郭から東尾根先端の自然堀切地形に至るまで200m以上はあり、山上尾根がほぼフラットな状態あるいは幅がある事からも、山上における郭占有面積も大きく、城跡は随分巨大なイメージとして目には映ってしまうのである。ただし縄張り妙味は感じられないが、、、

13_shukaku_nisigawa 主郭西端

15_shukau_higasi_gawa_1 主郭より東側を望む

19_shukaku_heki 主郭の堀切壁見所

21_horikiri_heki 堀切見所

26_naka_horikiri3_1 堀切3見所

29_higasi_2ren_horikiri 土塁を挟んだ二連堀切見所

30_horikiri4 堀切4より東削平地見所

先に触れた様に、かなりリスクを背負う登山となるので安易にお薦めはし難いが、山上における堀切遺構は決して期待を裏切るものとは思えないので、これから先は土砂採取によって遺構が消失してしまう危険性も含んでいる事を考えれば、一般の城跡(史跡)ファンには中々お薦め出来ないが、山城ファンにのみ、それも足腰に不安の無い方のみに、是非トライして頂きたいと思うのである。 人の手がほとんど入らない山上に、まさかこれほどの堀切が残っていようとは、夢にも思わなかったのが本音でもある。

2009年9月27日 (日)

松田城跡(三重県伊賀市)

この城跡は先に寄った新氏城跡を後にしてからは、県道2号より北上進行中に集落に舌状に延びた尾根が山城の如き様相を呈していたので、つい気になって訪問探索したものであるが、結果的には城跡遺構と呼べる堀切(空堀)あるいは土塁などは間違いなく現存しており、伊賀の城跡ではよくお世話になっている、城跡を示す「松田城」と記された青色タグによって城跡としても間違いの無い事が判明した。今回のリポートでは城跡が平凡な単郭土塁城で終わっていない事からも、所有する乏しい資料の類にはこの城跡は記されていないのだが、現地に掲げてあった標識(タグ)を信頼した上で、そのまま松田城としてリポート掲載に及んだ。よって詳細は全く不明でもある

城跡は三重県伊賀市青山町妙楽地にあって、先にリポート掲載に及んだ新氏城からは車で県道を北進すれば数分の距離にあり、目印としてはルート図に示した様に「稲谷口」バス停を目指せば分かり易いと思われる。この付近の空きスペースに車は充分駐車可能であり、ここからは概念図を参考にすれば5分もあれば城跡の先端郭に到達可能となっている。

1route 登城ルート

6 城跡進入路

3m 城跡概念図

現状(八月)城跡はこの時期においても比較的郭移動も容易く、見て回るにも難渋はしない状態にある。残存遺構も目白押しとは言えないが、先に触れた様に伊賀特有の高土塁は使用されておらず、丘陵上を二本の空堀と付随する土塁によって分断して郭を形成している。郭高低差あるいは縄張り妙味が特別ある訳ではないので、山城としての醍醐味も見応えも感じる事は出来ないが、南東側の空堀には僅かながら判別可能な仕切り土塁が付随しており、状態は良くはないが縦土塁あるいは縦堀に繋がる様は、この城跡の唯一の見所とも言えよう。他では現状相当地表風化によって埋もれてはいるが、中央に位置する空堀、土が流失して高さは失われているが、付随する土塁は間違いなく見学者の目を楽しませてくれるようには感じられた。

10_toutatu_kaku 南東先端郭

11_dankaku_1 段郭

12_tatehori_dou 縦堀あるいは空堀道見所

16_shukaku_heki_2 主郭切岸見所

20_naka_karabori_dorui 20_naka_karabori_dorui_1 中央空堀土塁見所

23_sanjyou_gawa_kaku 山上側の郭

縄張りの全長は現状100mにも満たない城跡ではあるが、現在民家及び農地が直ぐ傍まで迫っている事を考えれば、近年において相当地形改変はあったものと解釈され、城域は現在のものより当時は県道沿いにまで相当はみ出ていた様にも推察される、、?今回の城跡訪問は偶然が生んだ産物でもあり、空手形に終わらなかった事からも充実した山城巡りとなったが、過去における他での探索回数から考えれば、徒労に終わったケースも多く、今回はラッキーな一面もあったが、満足感も含めた二重の喜びを味併せてもらった。

2009年9月25日 (金)

新氏城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町勝地にあって、集落中央にある「勝福寺」の西側にほぼ単独で聳える形の低山山上に位置している。当時は新左近の居城が伝わるが、詳細は不明

城跡へは京阪神から向う場合、伊勢街道と呼ばれる国道165号より掛田城跡を右手に見ながら、その先で県道2号へ左折針路変更、そのまま道任せに進行すればルート図からも目指す「勝福寺」までは難なく到達出来るだろう。「勝福寺」山門前には公民館があるので車の駐車に気を使う必要は無いとは思われるが、ここからは概念図と画像に示した様に、道路沿いにある白塗りのガレージが城跡へ向う為の目印となり、更に山道への進入口となるので決して見過ごさない様に!このガレージの左横から狭い畦道を通過して、右手に民家の立派な塀を見ながら山に向って上れば、ほどなく広い屋敷跡(当時のものかも?)とも窺われる削平地に辿り着ける、ここからは踏み跡を辿って急斜面を上りきれば、素晴らしい高土塁に囲まれた山上主郭が迎えてくれる筈である(10分内)。

1route_1 登城ルート

5 進入口

3si 城跡概念図

現状(八月)城跡は、山城としてはこれ以上望めないほどの良い状態にあり、木々も少なく下草もほとんど無いことからも、山上で形成される遺構は全て判別確認可能な状況にある。単郭で形成される非常に小規模な城跡ではあるが、主郭周りに凝縮された遺構群は見る者を必ず魅了してくれるである。当時が甦るかのような状態も残存度も抜群な高土塁、あるいは主郭の東、西を断つ縦堀に繋がる二箇所の堀切は城跡最大の見所ともなっており、この小振り過ぎる城跡においては抜群の存在感を誇るものとなっている。数多い伊賀の城跡の中でも一、二を争うほどの状態の良さでもあり、五世紀に渡る風化に任せた状態でよくぞここまで保持されたと驚くべきものでもある、個人的にはこのままでよいので是非史跡として認定して頂きたいと思うのだが、、、。山上郭は規模が小さい事からもほぼ物見程度の機能しか浮かんで来ないが、それにしては削平だけに止まらない過ぎるほどの防備機能、更に縦堀などの技巧も採り入れており、残存遺構の全てが見所とも思えるのである。規模は小さいが遺構残存度、あるいはこの素晴らしい状態からも正しく推奨に値する山城であり、是非訪問をお薦め出来る城跡と自分の目には映った。

17_shukaku_higasi_dorui 主郭東側土塁

18_shukaku_nisi_dorui 主郭西側土塁見所

20_yagura_ue 土塁を伴う櫓台見所

23_dorui_ue_1 土塁上

26_higasi_horikiri_2 東堀切見所

28_higasi_hasi_karabori 東端空堀

31_higasi_yori_kitaheki 主郭北側切岸

32_nisi_horikiri 西側堀切見所

尚、寺院背後の山上にも小規模ではあるが、物見(狼煙台)とも窺われる削平地が存在していたのでまだ未訪の方の参考までに、、、この城跡は山上を物見あるいは詰城とすれば、その別尾根東側に位置する寺院敷地が当時の居館跡とも思えるのだが、推察の域は出ない、更には民家背後の山裾に展開される、東西に広がる削平地が家臣団の屋敷跡とも窺えるのだが、、、。

2009年9月23日 (水)

瀬加山城跡(兵庫県神崎郡)

この山城は急峻な丘陵の山上に築かれた主郭と副郭のほぼ主要二郭で形成される小規模なものであるが、この城跡の見応えあるいは醍醐味となるのは空堀(堀切)群に尽きると言っても良いものであり、主郭の南北尾根を断つ空堀(堀切は縦堀に繋がる)、主郭東壁側に数10条連続して刻まれた畝状縦堀群は、この小規模な山城にはとても似つかわしくなく、険峻な山容と相俟って素晴らしい防備を誇っているものの様に感じられた。ただしこの畝状縦堀群は長年の堆積物及び風化などによって相当深さは失われているので、よく眼を凝らして窺う必要がある様には感じられたが、、、、個人的にも現状城史に関しての情報も皆無に近い為に何の期待せずに訪れたのだが、かつては神社でありながらも遺構はほとんど破壊を免れており、ほぼ完存に近いと思える遺構残存度の高さ、あるいは旧参拝道で迷わず山上まで上れる利便性からも、是非訪問をお薦めしたい城跡と目に映ったので、早速リポート掲載する運びとなった。

1route 登城ルート

6 参拝道への進入路

3se 城跡概念図

山城ファンにはもちろんではあるが、山上りが苦手で山城を避けて来た方、あるいは一般史跡ファンにも是非この技巧を兼ね備えた本格的な山城を味わって頂きたいと思うのである。現状(九月)山上においては、山城に備わる定番とも言える堀切、横堀、縦堀、畝堀、土塁などの遺構をほぼ主郭周りで眼にする事が出来、縄張りが広いものではないので、長い距離を歩く事も危険な斜面に遭遇する事もなく、山城初心者にとっても打って付けの城跡と思われる。このブログから山城に少しでも興味を持たれ、一度は赴いてみようかと思われた方にも是非お薦めと言える城跡の一つである。

16_2maru_yori_shukaku_heki 二の丸より主郭切岸

18_shukaku_sita_karabori 主郭南下の横堀見所

21_2maru 横堀より二の丸

23_shukaku_nai 主郭内

23_shukaku_nai_1 城址碑

26_horikiri_3 北側の大堀切見所

27_horikiri_dorui 側面から望む堀切土塁見所

30_une_bori_1 畝状縦堀の土塁上部見所

城跡は神崎郡市川町上瀬加にあって、上瀬加集落の北側に迫り出した尾根の山上に位置しており、瀬加小学校あるいは瀬加中学校から見れば一つ丘陵尾根を隔てた西側になる。現在その山上主郭には城址碑と石碑が新しく建てられており、かつてこの山上郭を敷地とした稲荷神社は東側の山裾に移転しており、麓からも眼につき易い位置にあるので、訪れる際には簡単な目印にはなるだろう。城史に関しての詳細は不明

城跡へは中国自動車道「福崎」ICが最寄の乗降口、そこから国道を経由して北上、県道34号に針路変更すれば「梅林寺」あるいは先に触れた稲荷神社を目指せば分かり易く辿り着けるとは思われる。集落に到達すればルート図あるいは概念図の如く貯水池の方向を目指して歩き、かつての神社参拝道より山上を目指せば15分もあれば到達可能である。尚、車は集落の集会所あるいは地元の消防施設付近の空きスペースを借りれば良いものとは思われる。

2009年9月22日 (火)

大呂金山城跡(京都府福知山市)

(9/26日)記事一部改訂

これまで個人的に現地で情報を収集してまとめ上げた結果、今回天寧寺城跡としてリポート掲載した山城は、金山氏の本城とも言える金山城である事がある程度判明しました。本来の天寧寺城は広大な丘陵上における寺院敷地そのものであり、現在では数世紀に渡る造成拡張の為に相当な地形改変があったものと見受けられます(切岸には面影が多少残る)。この山城は個人的には天寧寺城の山上郭(詰城)の様にも窺えましたが、規模の大きさ(城域は概念図参考)あるいは福知山遺跡データによる城跡の位置関係などから察する処、やはり本城として間違い無さそうに思えます。現状まだ決め手に欠く事からも断定までには至っておりませんが、先に天寧寺城跡としてリポート掲載した城跡は、独自の判断で今回新たに暫定とした形で、大呂金山城としてリポートしたものに変えさせて頂きました。同じ山塊を共有するものでもあり、山上と丘陵上の違いだけでどちらにしても金山氏の城跡としては間違いは無いとは言えるのですが、ある程度明確にしておかないと金山城をこれからも永遠に探すことになり兼ねないので今回はそうさせて頂きました。又新しい情報によって別に本城が存在する事が発覚すれば話は別になりますが、、、個人的には明確にされるまでは、これからも大呂地区の城跡に関しても継続追及していくつもりではおります。

以下は最初のリポート掲載記事

城跡は福知山市大呂にあって、先に「桐村城の所在地判明」の記事の中でも触れた様に、大呂地区の中に出城も含めれば多く存在していると思われる山城の中の一つでもある。名が語る様に戦国期においては天寧寺そのものも城跡の一部であったとも考えられるが、院の背後に聳える二峰に跨る山上から枝尾根上に位置している。城郭寺院として考えれば山上は詰城と考えられなくも無いが、当然推察の域は出ないものでもある。この寺院は遠い常陸の国を発祥とする大中臣氏(名を改めて金山氏)がこの地に地頭として赴いた事から始まるが、南北朝時代に氏の菩提寺として建立されたものと伝わっている。この金山氏のその後については「桐村城の所在地判明」の中の僅かな記事を読んで頂ければ多少なら分かるとは思われるが、この山城は鎌倉期に成立したとも伝わる事から、既に寺院より先にこの金山氏の山城があったものと解釈しても良さそうには思われる。金山氏の本城は地元の歴史に詳しい方でも御存知なかったのだが、やがて没落して庶流である桐村氏に取って代わられた事を思えば、この山城も桐村氏の山城と言えなくも無いのである。

1_2 登城ルート

1_1 大呂地区二城

6m 登山口

1 城跡概念図

城跡へは福知山市あるいは大江町では有名な「天寧寺」を目指せば難なく辿り着けるが、山上までは概念図(画像)に示した様に、拝殿左手奥から山道が更に奥へ繋がっており、途中から尾根に沿う形で直登すれば、迷わず山上北主郭までは到達(約15分)出来るとは思われる。ただ峰に跨った縄張り形態なので、縄張り全域における遺構見学となると、相当長い距離を歩く事は余儀なくされるだろう。取り合えず概念図に示したものが自身で踏破して判別確認した遺構群になるが、古い時代に成立した山城のせいか、特に北城の方は相当凸凹と地表風化が激しく、北先端に向うほど郭内は矢竹が密生しており荒れ放題でもある。しかし図中に示したまでの範囲は間違いなく踏破可能でもあり、藪漕ぎも無く移動が出来る状況にある範囲でもあるので、これから訪れる方はこれを目安にして頂ければよいとは思われる。遺構が目白押しと言える山城ではないが、郭跡を除けば土塁跡、空堀跡、堀切までは、山城ファンなら誰でも充分判別確認は可能である様には感じられた。見応えのある遺構を問われれば返事に困るのが現実でもあるが、尾根上を藪漕ぎしてまでの移動が無い事が、唯一のお薦め出来る要素かも、、、金山氏あるいは桐村氏の歴史に少しでも興味のあった方にはお薦めとは言えるが、、。

10 南城南郭

13_karabori 南郭の空堀跡

15_minamikaku_top 南城主郭

16_horikiri_2 中央堀切

21_shukaku_1 北城主郭内の現状

24_higasi_karabori_1 北城東郭の空堀跡

27_higasi_kaku南城東郭群

2009年9月21日 (月)

河守城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市大江町河守(コウモリ)にあって、先にリポート掲載を終えた蓼原城からみればほぼ北側の山上に位置しており、「浄仙寺」背後の山がそれにあたる。蓼原城でも触れた様に当時は新治氏の居城と伝わっており、蓼原城と共に赤井氏によって滅亡への道を辿ったものと考えられるが、詳細は不明

城跡へは国道175号より「浄仙寺」を目指せば一番分かり易く、現地付近からはルート図の如く「大江駅」の反対側の道へ入れば難なく寺院までは辿り着けよう。道路沿いには広い寺院専用の駐車場もあるので車はそちらに預ければ良いものとは思われるが、山上へは本殿の脇から秋葉社まで参拝道が通じており、それを利用して社殿背後からそのまま山上を目指せばよい。秋葉社までは5分程度でもあり、そこからは尾根上に配された郭跡や遺構などをゆっくり味わいながら山上を目指せば、およそ20分程度で最高所にある主郭までは到達出来るはずである。

Tadehara_2 登城ルート

7tozanguti

登山口

3ko_2 城跡概念図

現状(九月)城跡は年間を通じて見学者も非常に少ないとも思えるが、人の手の入らない山城としては充分過ぎるほどの良い状態にあり、縄張り内における遺構群は全て判別可能とも言える状況にある。自然任せである為に一部では倒木や下草で荒れ放題の様相ではあるが、見学に差し支えるまでには至っておらず、縄張りを含めて山城遺構は堪能出来る様にも感じられた。自作概念図に示したまでが踏破した範囲であり、目に留まった遺構群でもあるが、見所は地形をフルに利用した高低差のある郭切岸に尽きるとも言える。図中に示す二箇所の切岸(一部は堀切まで落ち込む)は10mにも及ぶもので、はっきり形が表れる堀切などと違って、地味ではあるが非常に見応えが感じられた。それ以外では特に主郭北壁の切岸は、樹木あるいは草木が蔓延っていないせいもあって美しく、当時の状態にまで思いを馳せることは容易である様にも感じられた。郭から斜面下の周囲を覗く限り、単独で備わる縦堀地形は目に留まらなかったが、この険峻さを考えれば敢えて必要としなかったとも言えるだろう、ただ見落とした可能性は充分考えられるが、、、

19_3maru_heki_1 三の丸切岸凄い!

20_3maru_2 三の丸内

25_shukaku_higasi_heki 主郭東切岸

26_shukaku_nai_3 主郭内

31_gedan_yori_shukaku_heki 北側より主郭上り土塁見所

32_shukaku_kita_heki_1 主郭北側の美しい切岸

36_kita_horikiri_1 北堀切見所

城跡の形態としては、険峻な痩せ尾根上に郭をほぼ直線的に並べただけのものではあるが、縄張り総全長は300mに達するもので、個人的にはこの山容からすればここまでの山城であるとはとても考えてもいなかった。この意外性と驚き、更にこの遺構残存度の高さは、久し振りに「山城賛歌」を贈りたい気分にさせられた。技巧を有する遺構の少ない事からも、縄張り妙味のある山城とは言えないが、遺構残存度の高さ、高低差を伴う切岸の醍醐味、あるいは険峻さも兼ね備えたこの山容は、これぞ山城と呼ぶに相応しいものであり、まだ未訪の方には是非お薦とも言える山城の様には目に映った。

2009年9月20日 (日)

蓼原城跡(京都府福知山市)

城跡は福知山市大江町蓼原(タデハラ)にあって、集落の西側丘陵上に位置しており、国道に突き出した尾根先端から山上に向いての尾根上が城跡。この城跡も大江町にあっては、由良川沿いに数多く点在する無名に近い山城の一つでもあるが、進入口となる国道沿いには少し朽ちた城址標柱もある事から、この地区においてはある程度知れ渡っている城跡なのかも知れない。同日訪問となった直ぐ近くの山に位置する河守城と同様に、その当時は新治(ニイハリ?)氏の居城と伝わっているが、やがて赤井氏によって滅ぼされている模様。京丹後市の峰山町新治に居城を構えた、一色氏の一族でもある新治氏とは同族、あるいはその庶流となるものかも分からないが推察の域は出ない。尚、規模あるいは縄張り形態から察する処、河守城からみれば此方は支城の可能性が高いものと見受けられた。

城跡へは国道175号より由良川沿いに宮津に向いて車を走らせればよいが、近畿タンゴ鉄道「大江」駅の手前付近が蓼原地区でもあり、ルート図を参考に国道沿いの「六地蔵」を目に向えば、難なく城跡への進入口(画像に示した)は見つけられるとは思われる。進入口となる「六地蔵」数十m手前の国道沿いには、居眠りパーキングも設置されているので駐車に困る事は無いが、そこから集合墓地に到達すれば、最上段の墓地(新治家、桐村家の墓所がある)からは直ぐにでも尾根上の郭跡に到達可能である(パーキングからは10分内)   

Tadehara 登城ルート

5_tozanguti 進入口

Tadehara_1 城跡概念図

10_2jyuu_horikiri 二重堀切見所

12_tate_horikiri_2 縦堀に繋がる堀切

17_2jyuu_hori_dorui_2 巨大土塁を伴う二重縦堀見所

21_shukaku 主郭内の現状

26_kitakaku_karaboridou_1 北郭群の空堀道見所

31_kitakaku_nobori_koguti 北郭上り虎口見所

30_kita_sentankaku 北郭先端

37_dobasi 長い土橋見所

現状(九月)城跡はこの時期においても移動に難渋する事も無く、縄張り内における遺構は画像を見ればお分かりの様に、ほぼ判別可能な比較的良い状態にある。城跡の見所は便宜上主郭とした大規模な郭跡の背後に横たわる二重堀切は挙げられるが、堀切を挟んだ形の大土塁は一部中央は欠けてはいるものの、充分な幅(堀切幅は10m以上)を持たせたものでもあり、縦土塁を伴って縦堀に繋がる様は正に圧巻と呼ぶに相応しいものの様には感じられた。長年の堆積物を考えれば当時においては薬研堀の如く相当な高低差があったものと想像される。ここから北西側に位置する便宜上(概念図上)の北郭群へ移動するには数分とはかからないが、この北郭群における遺構(土塁跡、上り虎口)は、風化は激しいが充分判別は可能でもあり、虎口から麓にまで繋がる深い堀切道と並んで非常に目を楽しませてくれている。更に北西側山上に向う、連続する長い土橋も見所の一つ  

既に何回も行き来しているこの国道ではあるが、これだけ小さな城址標柱では当然目にも留まらなかったはずである。もう少し国道からも目に留まりやすい大きさの案内板にして頂ければ、寄り道してでも訪れる城跡ファンは必ず増える様な気はするのだが、、、 遺構見学のし易さ、あるいは直ぐ到達出来るお手軽さを踏まえれば、次でリポート掲載予定でもある河守城と併せた訪問としても、間違いなく充実した山城巡りが出来そうにも思われた。 当然お薦め(単独としてもお薦め)出来る城跡と言うことにはなるだろう。

2009年9月19日 (土)

若山城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町老川にあって、既にリポート掲載を終えた峰出城とは川を挟んだ対岸の丘陵先端部に位置しており、名が語るように若山氏の居城と伝わっている。詳細は不明であるが、伊賀地域の国人はほぼ織田軍によって壊滅されている事からも、「伊賀の乱」においては当然若山氏も同じ道を辿ったとは思われる。(近所には数軒若山姓を名乗る家屋があるので、御子孫である可能性が高い)

城跡へは先に触れた峰出城へ向う起点ともなった、「青山文化センター」からは丁度真北側に位置しているので方向は定め易いとは思われるが、集落付近の生活道路は非常に狭く、ルート図あるいは概念図に示した広い道路のカーブ付近に路駐して、工務店作業所(現在廃屋に見えた)を目印として歩いて向われる(5分程度)事をお薦めしたい。現地付近に到達すれば、画像に示した辺りより登れば直ぐにでも主郭まで辿り着ける。青山文化センター側から向われる場合は、道路川沿いの「公民館前」バス停付近に路駐スペースはあるので、そこから北進して集落を潜り抜ければ自ずと辿り着く事は可能である。

1route 登城ルート

5_sinnyuukuti 城跡進入口

3w 城跡概念図

この城跡は他の伊賀の城跡と同様に所有する資料も情報も皆無に近く、何時もの如く場所も特定出来ずに訪れる事になったが、現地付近で地元の方に尋ねれば直ぐ場所は特定することは出来た。他の情報としてはこの城跡の他に中村氏城あるいは島野氏城などが老い川地区に現存しているとの事でもあったが、現在は山道も途絶えているので鎌を持っての訪問は余儀なくされるとの事でもあり、流石に訪城は諦めざるを得なかった。既に訪問を終えた峰出城なども併せれば、この狭い山間部にはまだ相当数の城跡が眠っている様にも感じられるのである。

7_koguti_dorui_1 虎口櫓台土塁見所

8shukaku_dorui 主郭土塁

12_shukaku_nai 主郭内部

15_horikiri_3 北堀切1見所

16_horikiri_dorui_1 堀切に付随する大土塁見所

19_2jyu_horikiri_2 中央土塁、二重堀切の全貌見所

20_yasiki当時の屋敷跡か?

現状(八月)城跡は地元の方から聞き及んだ通り藪化の真っ只中にあるが、意外にもこの時期にしては余裕で動き回れる状態でもあり、遺構の判別確認も容易に出来る状態にある。現状判別出来た遺構は図に示した様に、主郭三方を取り囲む高土塁、虎口に備わる大型土塁、北背後を断つ二重堀切(縦堀)などが挙げられるが、見所としては土塁郭を間に挟んで縦堀として繋がる二重堀切に尽きると言っても良いとは思われる。この遺構は北東側から望めば全体像がほぼ拝める事からも、相当な見応えを感じる事が出来るものであり、充分観賞に耐えられるものでもある。城跡そのものは館城の性格を持っているので、当然縄張り規模もそれ程大きくは無いが、訪れて決して落胆する事は無い様には感じられた。尚、ルート図には示したが、川沿いの道路側から見上げれば立地環境からもそれと分かる、規模の大きい敷地を持つ民家(現在廃屋に見えた)があったが、その敷地北背後には凄い土塁(分厚い上に高低差もある)も窺えたので、おそらく当時は居館跡と呼んだものなのかもしれない(推察)? 無駄足に終わるとは思われなかったので、取り合えずまだ未訪の方の参考までに、、。

2009年9月17日 (木)

霧生城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市青山町霧生(キリュウ)にあって、地元では関(カン)城跡とも呼ばれている様である。当時は北畠氏の家臣でもある福山氏の居城が唯一伝わっているが、詳細は不明でもある

城跡へは国道165号「阿保」より県道29号へ進路変更して、そのまま南下を続ければ目的地でもある霧生集落には難なく辿り着ける。集落においては川が合流する付近が中心部でもあり、ルート図を参考にして川沿い道路付近から南側を望めば直ぐにでも城跡の位置は確認する事が出来る筈である。概念図に示した付近(通行止め)には駐車スペースもあり、そこから画像に示したコンクリ道から直登すれば、10分内で山上主郭までは到達可能である。

1route_2 登城ルート

6 進入口

3ki 城跡概念図

この城跡も存在は資料などから認識する事は出来ていたが、場所も特定出来ずに事前に目星を付けた地図だけを持って現地に向った。現地では最初に出くわしたお母さんに訪ねたお陰で、城跡の位置する場所は直ぐに確認する事が出来たが、それは正しく自分が地図に印を付けた場所でもあり、僅かながらの自己満足を胸に山上を目指す事になった。

8_toutatu_titen_dorui 山上到達地点の郭

17_shukaku_dorui_naiheki_1 主郭大土塁の内壁

17_shukaku_nai_1 主郭内部

13_kitagawa_dorui 主郭土塁上

20_minami_horikiri_1 主郭南側堀切見所

Higasi_yori_horikiri 東側より堀切

22_minami_kata_horikiri 片堀切(縦堀)見所

現状(八月)城跡は予想通りの藪化進行中にあるが、城跡が小規模な事あるいは複雑な遺構も目に留まらなかった事からも、城跡を形成する遺構群はほぼ判別確認出来る状態にあり、見て回るにも余り難渋はしない状況にある。形態としては伊賀に多く見受けられる三方を高土塁で囲んだ館城の様相を呈しており、その南側には尾根を分断する二連の縦堀を含んだ堀切が備わっている。伊賀における城跡の中でも、特にオーソドックスな縄張り形態でもあり、縄張り妙味を感じられる山城とはとても呼べないが、見所を挙げるとすれば唯一この二連の堀切は挙げられよう。小規模ではあるが風化に任せた遺構はほぼ完存状態とも窺えるものであり、個人的には数多い伊賀の館城の中でも限りなく普通に近いとは思えたが、この時期でもそれなりに見学出来る状態から察すれば、充分見学に値する城跡と言えるのかもしれない、、。尚、南尾根伝いに山上までは踏破する余裕はなかったが、本来は詰城と呼べる山上郭が存在していても不思議はないものと思えた。

余談にはなるが、この城跡にも先に寄った若山城にも、先達の方による城跡名を記す「青色の小さなタグ」が掲げてあった。自分の様に場所も特定出来ず、見切り発車で気ままに現地を訪れる者にとっては非常に有難いものであり、自ずと親近感を覚えてしまうものでもある。特に城跡の雰囲気を感じる事が出来れば、直ぐにでも上って確認せずにはおられない自分にとっては、城跡呼称の確認も同時に行えるので、非常に助けられているのが現状でもある。

2009年9月16日 (水)

桐村城の所在地判明

この山城に関しての前回のリポート掲載(今年1/21日)では、明確に所在も判明せぬままではありましたが、山上には明らかな城跡遺構が存在する事から、呼称も確定せぬまま自身による判断で、暫定「桐村城」という形で異なる城跡をリポートさせて頂きました。今回(九月)は何としてでも本来の桐村城の場所を突き止めたい気持ちが優先した事から、再訪に併せて奥谷地区にお住まいでもある、大呂地区(桐村氏)の歴史に一番精通した方を現地で紹介して頂きました。ブログ読者の方の情報からも「桐村城はもっと奥に入った場所にあった」と言ったコメントを頂戴しており、地図上ではある程度目星は付いておりましたが、お陰様でやっと所在地(福知山市大呂字奥谷)だけは確認する事が出来ました。

場所は地図には記しましたが、標高291mに及ぶ低山ではあるが非常に険峻な山でもある山頂が城跡です。しかし城域はその東側に連なる二峰にも跨り、山上尾根全域に及んでいる様にも窺われる大規模な山城の様にも感じられました(推察)。しかし今(三時)からの比高200mに及ぶ藪漕ぎの考えられる登山、あるいは熊の出没も考えられるリスクを考えれば、現状上って下山するには余りにも無謀と考えられた事からも、今回は断腸の思いで訪問を断念する結果となりました。今回は地元の方から聞き及んだ城跡に関しての情報の概略を掲載しましたので、興味のある方だけに読んで頂ければ、再訪の価値は充分あったとは思われます。尚、この山城に関しては福知山市史に載せられているそうでもあり、自分の様な遠距離訪問者にとっては、寄って資料を窺う余裕も無いのが現実なのですが、時間に余裕のある方は一度目を通して訪問された方が、山城巡りをする際に置いてはより楽しめるのではないでしょうか。

Kirimura2 城跡所在地

Photo_2 1_2 城跡遠望

(地元で聞いた情報)  この桐村氏は13世紀頃常陸の国に在住していた鹿島中臣氏を発祥とするもので、この地には地頭職を与えられて赴いた事から始まっている(集落奥には鹿島神社もある)。本来はこの地を支配したのは金山氏が先であり、その庶流がこの桐村氏にあたるもので、金山氏は足利政権の下では「丹波金山衆」として名を馳せたものの徐々に没落の道を歩んだ。室町期には同族同士の争いでこの金山氏は滅んだとも伝わるが、戦国期においては桐村氏がそれに取って代わるほどの力を身に付け、この地は桐村氏によって長く統治された。戦国期は八木城主でもある内藤氏の傘下で活躍したが、赤井氏との抗争によって敗れるも、明智による丹波平定後は再び旧領に復帰する。その後は秀吉による「太閤検地」によって土着の道を歩んだ模様。

以上が聞き及んだ事を簡単にまとめたものですが、実際には話は随分と長くに及んだものであり、個人的にも桐村氏に関しての情報としては、非常に満足度の高いものとなりました。先に掲載に及んだ(暫定)桐村城は推測にはなりますが、この奥谷地区の入り口にあたる事からも、東側を抑える為の出城あるいは伝承にもある金山城であるとも考えられそうですが、未だに確証は得られておりません。ルート図には示しましたが、(暫定)桐村城の対岸神社敷地にも城跡遺構らしき跡がある事を考えれば、集落入り口を南北から挟んだ構造は、正しく古来からの集落を中心とした防備の一環の様にも見受けられます。この城跡自体は無名に近く深く追求する程のものとは思えないのですが、一度乗りかかった船でもあり、個人的には再訪が叶うかどうかは分かりませんが、これから訪城準備のあった方、あるいは気に留めていた方にのみ参考になれば幸いでもあります。尚、付近には天寧寺山城も存在する事から、当時この大呂地区一帯を支配していた桐村氏の勢力を知る上でも、前回掲載の(暫定)桐村城跡は(仮名)桐村東城としてそのまま掲載は据え置くつもりでおります。 

2009年9月15日 (火)

市御堂城跡(兵庫県朝来市)

最初にこの城跡(平山城)を訪問した上での結論から述べさせて頂くが、現状(八月)この城跡は藪漕ぎもせず簡単に山上までは登れるが、山上郭群は全域が矢竹の密生地と化しており、到達地点の一部の狭い範囲以外は歩き回るにも事欠き、およそ人が踏み入る事の出来る状態にはなく、首まで届く矢竹によって地表すらほとんど見えない、非常に醜い状態にある。郭群も恐らく山上に展開されるだけだとも見受けられたが、一応外見から僅かに矢竹藪の中に主郭と思われる切岸、あるいは本郭群の外壁にあたる切岸を窺う事だけは出来たが、内部の構造まではとても把握出来なかった。取り合えず木々の比較的少ない斜面側の切岸より全体を一周する事を試みたが、一部崖状切岸斜面は滑りやすく非常に危険な状態でもあり、それすら叶わなかった。ただ下山ルートで西側斜面を下った付近に出郭とも思える郭跡、更にそこでは土塁と思われる構造物も眼にしたが、それも密生する竹薮あるいはその堆積物によって判別は非常に困難でもあった。結果的には城跡を斜面に沿って半周したが、南側はともかく北斜面は倒木や草木が蔓延り、相当荒れ放題でもあり、縦堀らしき地形も掘削跡も見て取ることは出来なかった。以上が訪問における現況をリポートしたものだが、決して誇張はしていないので、これから訪れる方は是非これを目安にして頂きたい。

1route 登城ルート

5 進入路

7toutatu_ti 山上郭到達地点

9_minami_obi 主郭南側帯郭

10_shukaku_heki 主郭の切岸

12_nisi_demaru 出郭の土塁か?

城跡は朝来市和田山町市御堂にあって、城跡へ向うには国道312号を走りローソンを目印として進行すれば分かり易いとは思われるが、ローソン付近の道路沿いには市御堂城跡の案内標識も出ており、ここから既に城跡は望めるので直ぐ分かるはずである。後はルート図に示した通りに進行すればスタート地点となる墓地までは容易に到達出来る。この城跡は西側の川を挟んだ対岸に枚田城がある事からも、両者は呼応しあっている状態でもあり、枚田氏あるいは太田垣氏(竹田城主)と何らかの関係にあった城跡とみて良いのかもしれないが、詳細は不明

取り合えず一度気になるので覗いてみようかと思われた方には、登城ルート図に山上まで一番上り易いルート(南側墓地背後から直登)を赤線で示したので参考にして頂きたい。このルートはこの時期でも木々が比較的少なく、藪漕ぎも無く上れるのである意味で楽に思えたが、休まず登り切れば10分内で山上には辿り着く事が可能でもある。ただ上る際には左側へ向いて上ることが肝心となる(右側は最終的には雑木密生地となる)、このルートでの郭到達地点が一番地表が窺える場所でもあり、一番ほっと出来る場所でもある。これから先この城跡の状態が良い方へ改善されるとはまず思われ難いが、自分を含めた山城ファンはそれでも確認の為に一度は覗いておきたいと思うものでもあり、まだ未訪の方にはせめて夏季訪問は絶対に避けるべしと、声を大にしてアドバイスしたいのである。

2009年9月13日 (日)

但馬上野城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市養父町上野にあって、既にリポート掲載を終えた軽部城跡からみれば、ほぼ真南側に聳える山の山頂(標高240m)に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡へは国道9号からも直ぐ望める位置にある軽部城跡を起点にすれば分かり易いが、ルート図の如く願照寺の集合墓地付近から尾根に向いて直登するルートと、図中では下山ルートとしたが資材置場からの逆を上るルートが考えられる。どちらを選択しても植林地なので藪漕ぎは皆無であるが、この激斜面を登り切る事は非常にハードでもあり、体力は相当消耗させられるので覚悟は必要かも。取り付き地点の分かり易さから言えば後者がお薦めルートかも知れないが、こちらは画像に示した場所(切岸が道路からでも見える)より上れば直ぐにでも居館跡とも呼べそうな広いフラットな空間に到達可能となっている。もちろんここから更に山上を目指して上らなければならないが、休まず上れば約20分で主郭に到達出来るとは思われる。

Ueno_1 登城ルート

Ueno_4 直登進入口

Ueno_3 城跡概念図

26_yasiki_1 25_yasiki 居館跡にも窺える北出郭

15_horikiri2 堀切

23_kita_one_kaku 北尾根削平地

18_shukaku_1 フラットな主郭

20_shukaku_minami_heki 主郭南側切岸

22_obi 東帯郭

現状(八月)城跡は、この時期でも木々が比較的少なく見通しが利くほどの状態でもあり、山上における遺構は全て判別可能となっている、ただ相当地表風化が激しい為に、堀切(空堀)などは細部に渡って地形の変化をじっくり見て取る必要はあるだろう。反面規模の大きい主郭は画像で確認して頂ければお分かりの様に、ほぼフラットな状態が現在でもキープされており、見通しが利くことからも広さも充分視認によって確認出来る良い状態にある。概念図に示したものが遺構として個人的に判別出来たものであるが、郭間に高低差が余り無い事、あるいは堀切も随分埋もれている事からも、山城としての醍醐味や見応えには少し欠ける様な気はした。城跡全体を評価すれば、縄張り変化にも富んでおらずかなり大味な城跡と言えるのかも、、。

山上郭群における現存遺構及び山上に到達するまでの直登の辛さを考えれば、興味を持たれた山城ファンにはお薦め出来ても、一般の城跡ファン(史跡見学者)までには余りお薦め出来ないのが現実でもある。個人的には5世紀以上に渡って現在に至るまでの遺跡は、古墳と山城だけだと言っても過言とは思えず、何時もの事ではあるが、状態の良い郭跡を目の当たりにすれば、ただそれだけで単純に感動を覚えてしまうのである。

2009年9月12日 (土)

小佐城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市八鹿町小佐にあって、現在の「洞仙寺」敷地からその付近が城跡と伝わっているが、ほとんど無名に近い城跡なので情報も現状では皆無に等しい。僅かな情報としては歴史も相当遡る事にはなるが、13世紀頃に伊達氏の居城を伝えており、養父市における山城(丘城)の一つでもある一部城跡より北西山上に位置する沖田城跡(まだ未訪)も伊達氏の居城を伝える事から、自ずと当時の支配は広域に及んでいたものと推察される。戦国期から江戸時代まで続いた東北の雄でもある、あの伊達氏との関係までは深くリサーチするまでには及んで居らず、詳細は不明のまま終わりそうとも思える。

城跡へは先にリポート掲載を終えた八鹿愛宕山城跡を起点にすれば分かり易いが、城跡南側の商店街を東西に繋ぐ狭い道路より267号に合流して西進、あるいは県道6号から針路変更しても合流出来る筈である(非常にややこしい道路)。小佐地区に入ればルート図の如く進行すれば「洞仙寺」駐車場までは難なく到達出来る筈である。

1x 登城ルート

4 県道より遠望

6 本来は郭跡である現状

9 郭転用地と見受けられる南側農地

O_7 山上詰城か?

O_6 山上堀切地形

現状(七月)城跡は、寺院建立(まだ新しい)の際には造成工事によって相当な地形改変があったものと推察されるものであり、集落に少し突き出した形状の丘陵上は寺院及びその住居、あるいは農地で占められており、当時を思い起こす事の出来る遺構は何一つ残っていない状況にある。城跡を東側面から望めば、僅かながら切岸状態は見て取れ、何とか集落を見通す事の出来る丘陵地形から城跡らしい雰囲気は感じ取れるが、現状ではかつての城跡の雰囲気を味わう程度であると思って頂ければ良いだろう。個人的には寺院北背後の集合墓地から更に山上を目指したが、山上は痩せ尾根上に物見と推察される削平地が40m程度に渡って遺される程度であり、その東先端斜面にある自然堀切地形だけが、僅かに当時の山上郭(確証は無いが当然物見として考えられる)を偲ばせるものとなっている。規模から察しても砦の域は出ないものと見受けられたが、前述の沖田城跡がまだ未訪である為に、この城跡が当時伊達氏にとってどの様な機能を持ち合わせていたものかは、現状推察すら出来ない状況にある。

遺構らしいものがほとんど見当たらない城跡も今となっては珍しくはないので、落胆するまでには至らなかったが、本音を言えば堀切もしくは土塁跡の一つでも目に留まれば、ある程度は納得の行く山城巡りとなっていたかもしれない。これから訪問する準備のあった方、この城跡が気になっていた方には今回のリポートをおよその目安にして頂ければよいとは思われるが、現況報告としてよりタイムリーなものとなったのであれば、これ幸いでもある。

2009年9月10日 (木)

養父神社城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市養父町養父市場にあって、広い敷地面積を所有する養父神社の沢を跨いだ社務所あるいは神社境内を屋敷跡あるいは居館跡と想定した場合、その南背後の後方尾根上に位置している。当時は垣屋氏の居城を伝えているが、垣屋氏惣領家となる本城はまだ未訪ではあるが、大規模を誇る楽々前(ササクマ?)城と聞いており、この養父神社城は一族の拠った支城として位置付けて良いのかも知れない、垣屋氏はその後も豊臣大名として生き残っている所をみれば、在地但馬勢力の中でも最初から秀吉側に組していた様にも思われる。

城跡へは先にリポート掲載を終えた上野城跡を起点にすれば分かり易いが、国道9号「上野」より国道312号へ針路変更後北上、その後は「大屋橋」を東へ渡れば、ほぼルート図の如く進行すれば難なく目的地でもある養父神社には到達出来る。社殿の建立されている敷地が当時の居館跡とも見受けられたが、相当近年において造成整備された状況でもあり、現状では城跡としての雰囲気は全く感じられない。むしろ沢を西へ跨いだ側にある、社務所側上段に位置する規模の大きい郭跡の方が見ようによってはそれらしく感じられた。本来の目的でもある山上郭群は形態から考えても詰城の様相を呈しており、概念図を参考にして土塁の目に留まる地点より踏み跡の残る木々の少ない斜面を上れば、10分内で難なく山上主郭までは到達出来るとは思われる。

1route2 登城ルート

Jinnjya 養父神社

3ya 城跡概念図

11_yasiki_1 居館跡か?

16_dorui 土塁跡(山上へ)

18_3dan_kaku 北三段郭

24_karabori_dobasi_2 北空堀土橋見所

25_2maru_2 二の丸

28_shukaku_yori_dobasi 29_dobasi_3 中央の空堀土橋見所

31_shukaku_yagura 主郭櫓台見所

33_haigo_minami_horikiri_1 南堀切見所

現状(八月)城跡はこの時期でも藪化までには至っておらず、非常に見て回り易い良い状態にあり、山上における城跡遺構は全て判別可能な状況でもある。5世紀に渡る風化を考えれば全体的に切岸は甘くはなっているが、空堀に付随して設けられた土橋などは、まるで当時の状態が今でも保持されている様にも窺われ、城跡にあっては抜群の存在感を誇っている。もちろん城跡唯一最大の見所でもあり、この三本の空堀(堀切)とそれに付随する状態の良い土橋が見学の全てである、とも言い切れる遺構の様には思われた。反面、他で見応えのある遺構に巡り合えなかったとも言えるのだが、、、。しかしこの城跡は社殿東側(先端尾根の裏側)にも土塁を付随した虎口、あるいは堀切(道)地形、数段に重なる屋敷跡の様な地形が相当広域に渡って目に留まり、更にその背後尾根上には削平地(物見か)と、城跡を構成する遺構は目白押しとなっている。これらが全て当時の遺構といった確証はないが、見る人が見れば沢を跨いで展開される城域の広さを充分体感出来るのではないだろうか。個人的には夕方近くに訪れた事もあってじっくり見学する事は叶わなかったが、それでも充分な満足感に浸ることは出来た。山上詰城、麓に根小屋(居館)の形態は一目瞭然の縄張りプランでもあり、戦国期を物語るには充分過ぎる最良の教本ともなりえる城跡とみた。山城ファンは元より、一般の城跡見学者にも、神社参拝ついでに寄られる事を是非お薦めしたい城跡の一つである。

2009年9月 8日 (火)

松島氏城跡(三重県名張市)

最初に断っておかなくてはならないが、この山城は西麓に位置する松島氏城(喜屋敷とも呼ばれる居館跡)跡からみれば、南東側の山上に位置している山城でもあり、自ずと松島氏居館の詰城とも推察されるものであり、個人的には山上における意外にも大規模な縄張り(相当広い城域であり無数の仕切り土塁や防備としての土塁、郭群が存在)あるいは見応えのある遺構に酔いしれたお陰で、下山後に肝心の居館跡に立ち寄るのも忘れてしまい、本来「喜屋敷」と呼ばれる筈の居館遺構(資料によると土塁、空堀遺構が現存)も見学出来ずに終わってしまった。よって今回のリポート掲載に於いては山城遺構のみのリポートになるが、本来の喜屋敷跡を見学したい方にはルート図に推定地を記したので参考にして頂きたい。

現在所有する乏しい資料の中には、松島氏城(喜屋敷)山上詰城に関しての記述もなく、正式に呼称が判明している訳でもないが、恐らく居館跡からみれば詰城とみてまず間違いないと思える事から、今回は松島氏山上詰城としてリポートとさせて頂いた。尚、山上広域に渡る山上郭に関しては深くリサーチしていないので知る術も無いが、既に発掘調査は終えているのかも分からないし、少なくとも専門家の方には知られているのかも分からない、、、。

1 登城ルート

M_29 集会所より遠望

城跡へは先にリポート掲載を終えた吉村氏城を起点にすれば分かり易いが、ルート図の如く道路沿いにポンプ施設のある「奈垣集会所」に車を預け、そこからは既に視界に入る「妙楽寺」まで歩いて目指せばよい。寺院背後の集合墓地から既に城域とも見受けられ、切岸処理のされた高い側壁がそれを僅かに物語っている様でもあった。さらに尾根に沿って途中までは空堀道とも窺える山道が繋がっており、上るにつれて状態は非常に悪くなる一方であるが、広域に広がる段郭群を経て山上郭群最高所に位置する主郭櫓台までは辿り着くことが出来る。主郭及び櫓台の状態は雑木に覆われており良いものではないが、背後に土塁も現存しており唯一目を楽しませてくれる材料ともなっている。更にここからは背後に備わる城中最大見所とも言える、切岸高低差10m以上を誇る見応えのある大空堀が直ぐ拝める。これは凄い!正に一見の価値のある遺構と目には映った。

M_3 墓地側壁

M_7 尾根上の郭虎口

M_13 M_19 大空堀見所

M_22 M_24 主郭櫓台土塁見所

M_14 主郭北帯郭の土塁虎口見所

現状(八月)下山時においても方角を間違うほど郭群(西側尾根と南側尾根上)は広がっており、主郭と同様に倒木が多く、更に藪化もそれに追い討ちをかけ、郭移動にも難渋する状態ではあるが、この主郭に遺された櫓台土塁、及びその背後に備わる大空堀は、遺構の醍醐味を味わう事を目的とする訪問であれば、決して期待は裏切らないとも思えるのである。個人的には本来の目的である居館跡を訪ねる事が叶わなかったので、満足感には今一浸れなかったが、これから訪れる方には是非居館跡も覗いて頂きたいと思う。山上郭群は状態が悪いので一般見学者にはお薦めとは言えないが、山城ファンにおいては覗いても決して損はしない遺構である様には感じられるのである。

2009年9月 6日 (日)

吉村氏城跡(三重県名張市)

城跡は三重県名張市奈垣にあって、先にリポート掲載を終えた比奈知城からみれば南へ直線3km内の距離にあり、伊賀地方の城跡らしく低い丘陵上に位置している。当時は吉村氏の居城と伝わるが、他の伊賀の城跡と同様に織田軍によって落城したものとみて、まず間違いないものとは思われる、詳細は不明。

城跡へは比奈知城(下山氏城)を起点にすれば分かり易いが、比奈知城西側を走る一般道693号でそのまま現地を目指せば難なく到達出来るが、この道路は谷沿いを通過する余りにも狭いカーブの多い林道であるので、出来れば「つつじが丘」ニュータウン内の一直線の道路を通過して楽に向かわれる事をお薦めしたい。後はルート図と概念図を参考にすれば難なく直登進入口までは辿り着けると思われる。城跡南側の山裾にも山に入れる道があったが、どちらを選択しても5分もあれば郭跡までは到達出来るものと思われる。個人的には縄張り全域を踏破したい欲望から、城跡案内板よりそのまま東郭に進入して藪漕ぎにて北物見(櫓台)まで上り、更に腰郭周辺から北側まで足を延ばし、やっと主郭櫓台背後の堀切に辿り着いたが、主要二郭の遺構見学で良しとする方には、概念図と画像に示した道路脇から上れば、直ぐにでも大堀切が迎えてくれる筈である。尚、車は城跡案内板の先には小型車なら充分路駐スペースがあるので心配はないだろう。

1route 登城ルート

6a 城跡進入路

8 城跡進入口

3yo 城跡概念図

現状(八月)城跡は方形に近い主郭を除けば下草も多く、副郭を始めとして北出郭群までは相当藪化も進行しており、縄張りの全体踏破を目的としない通常の遺構見学においては主要二郭で充分とも見受けられる。この城跡の最大の見所は縦堀まで繋がる南北尾根を分断する大堀切と主郭周囲を巡る分厚い土塁、櫓門でも存在していたかの様な大型土塁とその虎口、更に主郭北背後に直立に聳え立つ櫓台であり、その背後には土塁までも備わっている。主郭内部は植林地とあって見通しも利き、全体像が窺える事からも相当な見応えを感じる事が出来、遺構見学の醍醐味は全てこのゾーン(主郭周り)に凝縮されていと言っても過言ではないものと見受けられた。尚、虎口の土塁隅あるいはその付近には石垣痕が目に留まったが、伊賀地方には土城でありながらも、意外に土塁などの要所には石垣が使用されている城跡も多く見られ、この城跡もその中の一つであろう。

12_daihorikiri 大堀切見所

18_shukaku_nai 主郭内

20_nisigawa_dorui 主郭西側の土塁見所

16_sahukaku_koguti_1 虎口

25_yagura_heki_1 櫓台切岸見所

23_yagura_nai 櫓台の内部

22_yagura_nai_dorui_1 櫓台背後の土塁見所

31_fukukaku 副郭の現状

道路脇から5分で堀切まで到達出来るお手軽さ、あるいは主郭の状態の良さとこの素晴らしい遺構残存度を考えれば、規模は小さく他で見所の多い城跡ではないが、充分お薦め出来る城跡の一つと目には映った。尚、この城跡の直ぐ南側の山上には状態は悪いが城跡遺構(松島氏居館の山上詰城か?)が存在、その現況リポートは次で掲載の予定。

2009年9月 4日 (金)

三雲城跡(滋賀県湖南市)

城跡は滋賀県湖南市吉永にあって、当時は六角氏の重臣でもあった三雲氏代々の居城と伝わる。(詳細は現地案内板をクリック)この城跡へ訪れるには非常にややこしい説明がいるが、大雑把に説明すれば国道1号「三雲西」で南下してJR草津線を越える、後はルート図を参考にして住宅地の迷路の様な狭い道路を「青少年自然道場」を目印として車で向うしか方法はない。「青少年自然道場」に到達すればそこからは歩いても城跡を目指せるが、時間を有効に使う為にも車で手前の道路を更に上り、城跡の標柱のある箇所まで車で向う方が楽ではある。当然付近に路駐になるのでお薦めは出来ないが、道路も広いので空きスペースに停めてそのまま標柱より山上を目指した方が効率は良いものとは感じられた。

標柱のある登山口から上れば左右に山道が分かれるが、右手側に上れば当時の物見とも窺われた巨石「八丈岩」のある削平地には5分もあれば到達出来る。ここからは概念図に示した様に、尾根上を主郭に向いて上れば便宜上の二の丸には直ぐ到達出来るし、一旦下りて登山道に合流し、本来の大手道から二の丸虎口経由で主郭に向かっても、そんなに時間は要さないとは思われる。

1z 登城ルート

5tozanguti_1 登山口

6 現地案内板より

3_mi 城跡概念図

現状(三月)城跡は、見所箇所の多い二の丸周辺は比較的木々も少ない事から見通しもある程度利き、下草も少ないので現存する遺構の一つである、見応えのある枡形を形成する二の丸大石垣、石組み井戸跡などは中々良い状態のものを拝む事が出来る。全体を通しても遺構はほぼ判別確認可能な状態にあるが、主郭を含めた南西側は相当雑木が蔓延っており、折角の遺構群も非常に勿体無いばかりではある。主郭は小規模なだけに、ある程度木々を伐採して見通しを少し良くするだけで、一層城跡としての価値が高まる様には感じられたのだが、、。石垣跡などは概念図に示した様に主郭から二の丸にかけての郭壁随所(特に西側)に見受けられ、主家にあたる六角氏の総石垣に近い居城「観音寺城」とも照らし合わせる事も出来、当然この城跡も当時は総石垣城をも想像させてくれるものでもある。規模がそう大きくはないので見所は多くはないが、南西側尾根に連続する削平の甘い郭跡を分断する、一部自然地形を利用したとも思える合計四本の堀切も目に留まった。

9_8jyouiwa 巨石「八丈岩」

11kita_kaku 北尾根削平地

14_2maru_kita_kaku_2 北郭

18koguti_ooisigaki 19ooisigaki_2二の丸虎口大石垣見所

25_2maru_idokaku_1

二の丸内

24_idoato 石組み井戸見所

34_shukaku_nai_1 主郭内の現状

37_kita_dankaku_isi_1 北段郭西側の石垣跡見所

48horikiri 南西堀切

尚、本来「青少年自然道場」から上ることの出来る谷沿いにも相当数の石垣跡が目に留まったが、これらは山上にある城跡の石積み方法とは明らかに異なるものでもあり、近世における治山事業としての石垣の様にも見受けられたが、、。小規模な山城ではあるが枡形を形成する大石垣、あるいは郭壁随所で眼にする事の出来る石垣跡、更に石組み井戸は一見の価値のあるものでもあり、この二つの遺構見学の為だけに訪れたとしても決して後悔はしないものと感じられた。個人的には戦国ロマンに充分浸ることも出来、まだ未訪の方には遊歩道が設置されている事からも、是非訪問をお薦めしたいと思える山城ではある。

2009年9月 2日 (水)

清水山城跡(滋賀県高島市)

城跡は滋賀県高島市新旭町安井川にあって標高210mの山上に主郭が設けられており、現在国指定史跡に認定されている。(城史に関しては現地案内板をクリック)

城跡へは先にリポート掲載を終えた打下城跡を起点にすれば分かり易いが、国道161号は大溝城跡をかすめながら北上、JR[新旭」駅近くに来れば「北畑」交差点は左折、後はそのまま直進してルート図の如く大荒比古神社を目指せばよい。もちろんこの大荒比古神社付近も当時の居館跡地(井ノ口館)でもあり、現在でも分厚い土塁や深く掘削された空堀を窺う事が出来る。これから訪問する本命の清水山城は図中に赤線で記したが、狭い道路を更に山に向いて上らなくてはならず、道標も設置されていない事からもすんなりと登山口までは到達し難い。大荒比古神社からみれば東側の住宅地の途切れる辺りに、路駐可能なスペースがあったので車はそこに停めたが、国指定史跡であるからには駐車場の完備は是非お願いしたい処ではある。車を停めた付近からはそのまま歩いて北上すれば、概念図に示した様に広大な清水山遺跡(居館跡)を見学しながら、登山遊歩道あるいは途中から尾根上の郭群も窺いながら山上郭までは迷わず辿り着く事が出来る。

1si_5_2 登城ルート

1z 中腹の案内板

2_1現地案内板

1si_7 現地案内縄張り図

9_yasiki_nai_1 屋敷跡地の空堀土塁見所

現状(一月)城跡は真冬である事、あるいは整備されている事もあって、一般の史跡見学者にとっては非常に見て回りやすい状態にあるが、自分を含めた見応えのある遺構を求める山城ファンにとっては、山上主郭以外は地表も荒れ放題の郭跡、あるいはシダや枯れたままの下草に覆い尽くされている郭跡や斜面も多く、案内板縄張り図に記載された全ての遺構が判別確認出来る訳ではないので、これから訪れる方は過度な期待は持たないほうが良いものと感じられた。結果的には城域が相当広い事もあって縄張り全域を見て回る事は叶わず、見逃した遺構も数多いものとなってしまったが、今回見て回れた範囲の中に限って判別出来た遺構群を概念図に示した。城跡の見所は高低差のある非常に鋭角な堀切に尽きると思われるが、連続する縦堀などは下に向いて落ち込む様の全体像が窺えるものであり、非常に醍醐味も見応えも感じられる。主郭から三方尾根上に広がる縄張りも変化にも富んだものであり、先々で眼にする遺構に期待感を持って回れる事を思えば、探索する楽しさも倍増しそうに思われる。尚、中腹に位置する清水山屋敷跡でも、仕切り用の大型土塁あるいは付随する大空堀を眼にする事が出来るので決して見逃さないように、、ただこちらは相当藪化が進行しているので全体像の確認はほぼ無理、登山道から木々の少なめの箇所を選び少し踏み入って確認するのが精一杯でもあり、当然屋敷跡内全域を歩き回る事は不可能な状況となっている。個人的には今回は多くの未踏地域を残し、見逃した遺構も多い事から今一満足感に浸ることが出来なかったが、必ず近いうちに再訪して全域を踏破してみたい城跡の一つになった。まだ未訪の方には是非お薦めの城跡という事にはなろうか。

1si_4_2

城跡概念図

19_shukaku_heki_2 主郭切岸

21_shukaku_nai 主郭内

26_shukaku_kita_tatebori 主郭北二連の縦堀見所

30_nanseikaku 南西の土塁を伴う郭

31_horikiri 南西大堀切1見所

34_nansei_daihorikiri_3 大堀切2見所

46_daihorikiri 北郭大堀切見所

48_une_tatebori 北連続縦堀見所

2009年8月31日 (月)

青木城跡(三重県名張市)

この城跡は三重県名張市青蓮(ショウレン)寺にあって、ほぼ独立した主郭丘陵上には現在「地蔵院」及び住職の住居が建っており、その一帯は「青蓮寺公園」として整備されている。自ずと当時を物語る遺構も相当消失したものと推察されるが、当時よりどの程度まで地形改変があったのかは、実際に現地を訪れて個人で確認あるいは想像して貰うより他ない状態でもある。しかしながら現存する唯一の遺構でもある、主郭周囲を「コの字形」に巡る土塁、更にその周囲を囲む状態の良い空堀(横堀)と大型の土塁は高低差を伴うものでもあり非常に見応えは感じられた。よって小規模な城跡ではあるがお手軽さも踏まえた上で、充分お薦め出来る城跡とも思われたので、今回その現況をリポートさせて頂いた。別名「青蓮寺城跡」とも呼ばれているが、青木氏の居城が伝わるのみで詳細は不明(概略は現地案内板をクリックの事)

城跡へは国道165号より青蓮寺湖あるいは青蓮寺公園を目指して百合ヶ丘経由で向えば難なく到達出来る。道路沿いには駐車場も案内板も設置されており、その横から長い石段を上れば直ぐにでも北側を巡る土塁が迎えてくれる筈である、個人的にはルート図の如く城跡南背後から車で直接地蔵院駐車場(本来は縄張り)まで乗り付けたが、後者の方が駐車場から見れば、寺院正門側の西背後に土塁、あるいは主郭内部にある通信施設が目に留まるので、直ぐにでも空堀跡まで歩いて向う事が出来る。

1route_2 登城ルート

2x 現地案内板

5 城跡進入路

3ao 城跡概念図

16_kitagawa_116_kitagawa 北側の空堀土塁

19_nisi_gawa_1 西側空堀と主郭土塁

21_shukaku_dorui 主郭を巡る土塁

20_shukaku_nai_1 主郭内

現状(八月)城跡は前述の様に、主郭周囲を巡る空堀及び土塁は夏草も刈り取られ全体像を窺う事も可能であり、整備されている事からも切岸も状態の良いものが拝め、高低差を体感する事も可能である、更に空堀の堀底上を歩いて見学すれば、深さも体感する事が自ずと出来る状況にある。主郭内部は画像を見てもらえば分かり易いが、畑地と化した内部は夏草で覆われており荒れ放題、幸いにも周囲を巡る高さはないが幅のある分厚い土塁は充分見て取る事が出来たが、住職個人の所有地ともあって勝手に踏み入る事も出来ず、歩いて広さを体感する事は叶わなかった。案内板によるとこの青蓮寺の地には上出城、雪岡城、愛宕山砦など三箇所の城跡があるとの事でもあり、機会があれば是非訪れてみたいものである。

2009年8月29日 (土)

薦生城跡(三重県名張市)

城跡は三重県名張市薦生にあって、薦生(コモオ)集落の南側背後の標高294mの山上に位置しており、かつて金毘羅神社が郭跡に鎮座していた事から、その石碑が郭転用地に建立されている。別名「有綱城跡」とも呼ばれている事から、鎌倉期まで遡れば源有綱の築城によるものかも知れない(確証はないが)、その後の詳細は不明。

城跡へは先にリポート掲載を終えた黒田城跡を起点にすれば分かり易いが、国道165号「黒田」の信号から北進して黒田城の山塊を左手に見ながら更に「東町」の信号まで直進、ここから左折して県道80号を走り、目印となる旧金毘羅神社登山口を目指せばよい。付近に駐車可能なスペースはないので、その少し先のルート図に示した「薦生バス停」まで向えば、その西側に小型車なら路駐可能なスペースは充分確保できる筈である。ここから登山口となる旧参拝道を目指して少し歩き、山上を目指せば10~15分程度で北郭群(旧金毘羅社敷地)に辿り着く事が可能である。尚、登山口から少し上った付近にも当時と現代の混在する屋敷跡とも窺える広い削平地が数段在ったので参考までに。

1route 登城ルート

4tozanguti_1 登山口

3ko 城跡概念図

現状(八月)城跡は郭転用地と見受けられた旧神社敷地以外は藪化も進行中であり、移動に難渋はしないが郭内の見通しは悪く、藪漕ぎまでには至っていないが全体像の視認は困難でもあり、とにかく歩き回っての探索は余儀なくされる状態にある。ただ城跡規模がそれほど大きくないが為に、歩き回れば山上における全ての郭跡を体感する事も出来、更に縄張りを掴む事もある程度容易いものとなっている。城跡の形態としては南北二城に分かれた縄張りプランと表現すれば分かり易いかも知れない。社跡のある北郭群の方が郭切岸がしっかりしている事、あるいは郭数が多い事からも此方を本郭群としても良いとは思われたが、個人的に南郭群の最高所に位置する郭跡の規模は城中最大でもあり、櫓台土塁構造の見受けられる事、あるいは南尾根背後を断つ大堀切が設けられている事を踏まえて便宜上の主郭として概念図には示した。此方(南郭群)は緩い斜面上の郭跡を含めてほぼ四郭で形成されているものであるが、長年の風化により土塁の土も流失しており、郭切岸も更に曖昧なものになっている。当然南郭群の方が先に構築されたものと目には映ったが、確証は持てない。地形から察しても東側は崖状急斜面、主郭西側尾根上は郭群の展開はある程度予想されたが、現状での縄張りプランあるいは遺構群から推察しても、それほど多くは望めないとも目には映ったので、踏破は断念するに至った。

5_1 上り始めに目に留まった地域

10_yasiro_ato 山上北郭群

14_nisi_kosi_kaku_1 西腰郭

15_yagura_heki_1 北櫓台切岸

25_minami_shukaku 南山上主郭

26_shukaku_yagura_dorui 土塁跡

30_horikiri 堀切

個人的には遺構に見応えを感じるまでには至れなかったが、郭高低差あるいは起伏の多いことからも山城としての醍醐味は充分味わう事が出来た。訪れる直前に地元の古老に城跡の情報を求めたが、かつて山上に館が存在したとの情報だけは仕入れる事は出来たが、それ以上の情報は得る事も出来ず、現状では城跡遺構だけが当時を知る唯一の材料なのかもしれない。登山道がしっかりしている事、この時期でもほぼ山上踏破出来た事を思えば、城跡に過度な期待を求めなければ、ある程度お薦め出来る城跡という事にはなろうか。

2009年8月27日 (木)

黒田城跡(三重県名張市)

城跡は三重県名張市黒田にあって、当時は延木(ノブキ)氏の居城を伝えるが、天正伊賀の乱の折織田軍によって落城、その時の城主延木左馬允は討ち死にしたと伝えられている。伊賀にあっては館城の形態を採っておらず、数も比較的少ない山城に分類されるが詳細は不明、別名延木(ノブキ)氏城跡

城跡へはどの様な経路で向っても、最終的には国道165号(伊勢街道)を走る事になる。信号「黒田」の交差点で針路変更後、北進して現地に向えばよいが、目印となるものが見当たらないので、ルート図の赤線あるいは現地付近では概念図を参考にしてもらえれば分かり易いとは思われる。登山口は画像及び概念図に示したが、集落より山手側に向う道はそう多くはないので、案外迷わず登山口となる法然寺(小さな供養塔のみ)までは到達出来るはずである。ただここからは山上までは山道(旧参拝道)が繋がっており、迷わず山上主郭まで(10分前後)は到達出来るのだが、確実に民家の敷地内を通過する事になるので必ず住民の方に声をかける必要はある。尚、人の目を気にせず直登したいのであれば、図に示した下山時に使用したルートの逆を上っても山上には到達可能である(急斜面ではあるが藪漕ぎもなく上りやすい)。

1_route 登城ルート

4 城跡東より進入口

3ku 城跡概念図

15_higasi_kaku_1 東段郭群

16_kaku_heki 段郭群切岸

20_monseki_yasiroato 社跡か?門石

22_kaku 東郭群

34_shukaku_yagura 主郭櫓台

23_shukaku_haigo_1 主郭北背後の堀切見所

29_kita_naka_horikiri_1 北尾根中堀切見所

30_saihoku_horikiri_2 最北堀切より北郭群見所

現状(八月)城跡は植林地となっている為に、この時期でも下草は少なく木々も少ないので残存する遺構はほぼ全て判別確認が可能な状態にある。郭壁の随所に石垣跡あるいは石垣痕があり、柱穴のある門石が二個転がっている事からも、後世においては神社敷地として転用された様にも見受けられたが、土留め石などは相当古さも感じさせてくれており、多少当時に思いを馳せる事も出来るとは思われる、ただ当時のものかどうかの判断は難し過ぎるが、、、。城跡の形態としては小規模な山上最高所に櫓台土塁を配し、東側斜面を掘削して郭を数段連ね、主郭北背後は堀切によって郭を分断、更に北尾根上には郭を挟んで二連の堀切が設けられており、より堅固な構造が見て取れる。当然見所はこの三本の堀切と言うことになるが、その内二本は縦堀とつながっているものでもあり、相当な見応えを感じる事が出来る。この縦堀を含めた堀切群は状態も比較的良いものでもあり、これだけの為に訪れたとしても決して後悔する様には思われず、登山道がある事あるいは時期を問わず訪問可能な現状から察しても、当然お薦めしたい城跡と言うことにはなるだろう。規模も小さく縄張り妙味にも富んではいないのだが、意外に山城としての醍醐味も見応えも感じられた城跡なのである。

2009年8月25日 (火)

比奈知城跡(三重県名張市)

城跡は三重県名張市下比奈知にあって、名張市におけるニュータウンの一つである「つつじが丘」への北側の道路進入口からみれば、北東丘陵上に位置している。当時は下山甲斐守の居城を伝えるが、奈垣地区にある下山氏城はこの城跡からみれば本城にあたるものと思われる。此方は「奥屋敷」と呼ばれる様に居館跡とも見受けられるが、詳細は不明。

城跡へは名張街道と呼ばれる国道368号より向えばよいが、名阪国道「上野」ICから南下した場合、国道165号交差点を過ぎて2km先の短いトンネルを過ぎれば直ぐに右折、後は赤線で示したルート図の如く進行すれば、難なく民家の点在する城跡付近までは到達出来る。小型車なら付近を探せば何とか路駐出来るが、城跡進入口としては概念図に示した二箇所からが可能であり、個人的には民家の途切れる北側に目に留まった入山口から、ネットを開閉して踏み跡を辿りながら上ったが、そのまま道が途絶えても5分程度で間違いなく広大な規模の郭跡に到達出来る筈である。尚、参考ルートからの登城は住宅敷地をかすめる事になるので、怪しまれない為にも必ず住民の方に声をかける必要はあるだろう。此方からの山道を利用すれば前者よりは楽に早く空堀西端に到達可能である。個人的には前者の入山口から上り後者を利用して下山した。

1route 登城ルート

6tozanguti 入山口

3simo 城跡概念図

11 北側の広大な郭跡

13_karahori_dorui 12_kita_dorui_heki 東西に跨る空堀、土塁見所

15_koguti 土橋を付随させた虎口見所

25_karabori_shukaku_heki 主郭壁北角

30_dorui_heki 主郭の土塁内壁

36_minami_dobasi_horikiri 主郭南側の土橋付き堀切見所

38_tatebori_dorui_2 大土塁と縦堀見所

41_horikiri 出郭南の堀切見所

現状(八月)城跡は、北の広大な植林地でもある郭跡の一部を除いて、南出郭までに至る張りの全域が藪化及び風化の真っ只中にある。時期的にも仕方のない事かもしれないが、常緑樹が多い事、倒木がやたら多い為歩き辛く、四季を問わずこの醜い状態は継続されるものと予想される。自ずと納得の行く見学、あるいは満足の行く見学は出来ないものとも思われるが、木々の少ない場所を選んで歩き回れば、何とか主要な遺構は見学出来る様には思われた。概念図に描いたものが今回動き回れた範囲であり、目に留まった遺構を記したものでもあるが、方形主郭から南側尾根を断つ堀切までは何とか遺構も判別確認可能な状態にあるが、主郭より北側の三ブロックで形成されると見受けられた広大な郭跡は、全域にかけて削平の甘い(地表風化も含む)雑木密生地でもあり、郭内の移動にも難渋する始末で歩測も困難、外見から内部地形の変化を読み取るのは至難の技でもあり、今回概念図に示した郭形状などは外見からの推察を交えたものでもある。以上挙げたことからも、現状では醜い部分ばかりと思われがちだが、取り合えず目に留まった見応えのある遺構は、主郭四方を巡る土塁、更にその周囲を巡る空堀(これらはほぼ完存とみた!)、主郭南側の土塁を付随させた土橋を伴う堀切(縦堀に繋がる)、北側の丘陵全体を遮る形の東西に跨るスケールの大きい空堀、及びその一箇所だけに備わる状態の良い土塁虎口などである。現状の様相からみても、とても一般の城跡ファンにはお薦め出来る状態にない城跡ではあるが、上記の遺構群は、城跡の規模(南北に400m前後)の大きさと併せて、興味のある方にとっては充分満足出来るレベルにあるとは思われる。冬季訪問となれば状態も少しはマシかと思われるが、僅かではあるがそれに期待するしかないのが現状でもある。

2009年8月23日 (日)

芳賀野城跡(兵庫県朝来市)

この山城(ハガノ城)は二年前の2007年11月に新聞にも掲載されたが、地元の郷土研究家のY氏によって発見されたものである。一度は訪ねたいと思いながらも先延ばしになっていたが、今回は場所も確定出来ぬまま取り合えず地元で訪ねれば何とかなるだろうとの思いで現地に向った。幸いにも現地で山城の発見者でもあるY氏と偶然出合うことが出来、更に予想していた以上の城跡遺構にも巡り合う事が出来た。おそらくまだ新聞以外の文献に限れば、現地での詳細は余り報告されていないとも予想され、今回はまだ未訪でこの城跡が気になっていた方にとっては、よりタイムリーな現況報告とも思えた事から、早速リポート掲載に及んだ。現状城史に関しての情報は皆無でもあり、詳細は不明

城跡は朝来市岡にあって、先にリポート掲載を終えた法道寺城跡あるいは岡城跡からは車で南へ数分の距離にある。ルート図を参考にすれば分かり易いとは思われるが、国道9号より527号へ進路変更した後は法道寺城跡の山塊、岡城跡を右手に見ながら集落を南下すればよい。この道路の行き止まり三叉路手前辺りより、現在工事中でもある高架支柱に沿う形で左折、そのまま道任せで上り、道路造成工事中で通行止めの柵まで到達すれば、城跡へはここから車を降りて歩いても直ぐの距離にある。概念図に示したカーブミラーを目印として、右手側にある沢沿いに進入して、最初に目に留まる遺構でもある縦堀に沿う形で尾根まで登り切れば、北西の先端郭には5分もあれば辿り着く事が出来る筈である。

Hagano 登城ルート

Hagano_1 城跡進入口

8_tatehori_tozanguti 直登ルート

Hagano_2 城跡概念図

現状、城跡は画像を見てお分かり頂ける様に、この時期(八月)でも藪漕ぎも無く、郭移動も容易く、ある程度見通しも利くことから、山上尾根に残存する遺構群はほぼ判別確認可能な状態にある。植林地でもない山深い奥地に存在する城跡としては、非常に見学し易い良い状態にあると言っても過言とは思えないものでもある。この城跡の最大の見所は北東側斜面に掘削された畝状縦堀群(6~7条)と主郭南背後を断つ二連の堀切に尽きるが、堀切(空堀)箇所には土橋も鮮明に残っており、畝堀群は長年の風雪により深さは失われているが、山城ファンが見れば明確に判別出来る状態でもある。城跡は小規模である事や、余り縄張り変化には富んでいない事、郭間の高低差もほとんど無いに等しい状態である事からも、山城としての醍醐味は感じられ難いが、前述の遺構だけで充分感動は与えてくれそうにも感じられた。この時期でも縄張りの全域を見て回れる事を思えば、四季を問わず訪問は可能でもあり、状態の良い法道寺城跡、岡城跡と三城併せた訪問とすれば、最高の山城巡りとなりそうにも思えるのである。山城ファンだけに止まらず、一般の城跡ファンにもお手軽さを踏まえれば、充分お薦め出来そうにも思えた。

12_sentan_gawa_dankaku 北西段郭群

15_shukaku_1 主郭の現状

26_une_5 26_une_3 畝状縦堀群見所

16_horikiri_dobasi_1 堀切土橋見所

21_horikiri_tatedorui 堀切より縦堀へ繋がる見所

19_nantan_horikiri_1 南端堀切見所

尚、現地でお世話になったY氏とは山城談義で時間の経つのも忘れて盛り上がり、非常に充実した時間を過ごさせて頂いたが、養父市から朝来市周辺に限っては、無数に点在する山城のことごとくを踏破しておられる凄い健脚の持ち主でもあり、地形から読み取った山上尾根の隅々に至る遺構の数々を、全て作図によって記録されておられるのには非常に感銘を受けた。別な意味で山城探索にかける凄い執念を感じ取る事も出来たが、そうした積み重ねが新しい城跡の発見に繋がったのではないかとも思えるのである。個人的には遠距離訪問が多く、中々縄張りの全てを踏破したくても出来ないのが現実でもあり、仮に出来たとしても尾根伝いに山塊の全てをくまなく踏破するのは、実際には至難の技とも思えるのである。今回はこの山城を訪問したお陰で、個人的には非常に素晴らしい出会いをする事が出来たが、山城巡りをしていると必ずそうした人との触れ合いもあり、更に山歩きする事によって自然との一体感も同時に味わう事が出来るのである。

2009年8月21日 (金)

田中城跡(滋賀県高島市)

城跡は滋賀県高島市安曇川町田中にあってJR安曇川駅から真西側へ3km程度移動した距離にあり、田中地区内にある上寺集落のほぼ真西側背後の先端尾根から山上にかけてが城域となっている。(城史に関しての詳細は現地案内板をクリックの事)

1_1v 登城ルート

2a 現地案内板

2z 現地案内板縄張り図

城跡へ京阪神から向う場合は、無料走行出来る湖西道路を北進して国道161号へ合流すれば良いが、打下城跡あるいは大溝城跡のある近江高島を通過すれば一般道296号へ左折西進、更に3km程度走り一般道297号へ右折北進すれば、目指す上寺集落までは分かり易く辿り着けるはずである。集落に入ればバス停傍の道路脇に大きな案内看板(縄張り図と城史に関しての説明がされている)が設置されているので登山口は容易く見つける事が出来ると思われる。付近を探せば路駐可能でもあり、後はルート図の如く住宅地の路地を通過すれば5分内で城址碑までは辿り着ける。そこから右手側が屋敷跡地(竹林地)、山上に向いて山道を上れば見張り所を経由して山上主郭郭までは迷わず到達出来るが、相当複雑に郭群は配されているので案内道標に従って進んでも中々全体像が見えてこないのが現でもある。裏を返せばそれほど規模も大きく更に醍醐味もあると言うことにはなるのだが、とにかく縄張り内を歩き回っての見学は余儀なくされる。

8yasiki_dorui_1 屋敷跡の土塁見所

12_mihari_kaku 大手見張り所

20_karabori 空堀見所

22_karabori 空堀

24_dobasi 土橋

25_dorui 土塁跡

30horikiri_sita_kaku 郭跡

45_shukaku_nai 主郭の奥櫓台見所

48_shukaku_haigo_horikiri 主郭背後の堀切見所

現状(一月)城跡は史跡としては登録されていない様だが、地元の方によってある程度整備された状態が保持されており、城跡内には案内道標や随所に遺構案内板まで設置されている。山上に向うほど木々も多くなり状態は悪くなるが、山城としては見学し易く非常に見て周り易い状態にあると言っても良いだろう。更に冬季に訪れた事もあって枯れ葉も多く見通しもある程度利く状態にあるので、郭の形状や遺構の全体像まで把握する事が容易い状況でもあり、非常に好感の持てる山城と目には映った。城跡は縄張り規模も大きく、麓の住宅地背後の竹林地に現存する土塁を伴った屋敷跡群から、中腹に位置する広大な郭跡及び付随する郭群、更に山上郭群まで限なく見学すればたっぷり時間もかかってしまうので、事前よりゆとりを持たせた山城巡りが肝心かも、、、。薬研堀などの見応えを感じる堀切は存在してはいないが、空堀(横堀)、状態の良い切岸、土塁などの土塁城としての遺構は数多く現存しており、道標あるいは現地縄張り図に任せて山上郭まで網羅すれば、この戦国期山城の全てを堪能する事が出来るものと思われる。見所としては山上主郭に至るまでの縄張りの全てと言っても過言ではなく、現状の整備された状態あるいは遺構残存度の高さを考えれば正しく推奨に値する山城でもあり、個人的にも是非お薦めしたい城跡という事になろうか。

2009年8月19日 (水)

打下城跡(滋賀県高島市)

城跡は滋賀県高島市高島町にあって、JR「近江高島」駅の南西側に聳える標高374m(比高約250m)の長法寺山の山上に位置しており、別名大溝古城。ちなみに駅の東側に位置している大溝城跡からは充分位置は確認する事が可能である。(城史に関しては現地案内板をクリック)

城跡へは京阪神から向えばJR湖西線に沿って走る国道161号を北進すればよいが、目印となるのはJR「近江高島」駅であり、その真西側にあって城山台住宅地を越えた位置にある日吉神社からが登山スタート地点となる。ルート図の如く神社南側には道標があることからも、登山口(画像に示した)は容易に見つける事が出来る筈である。後は道標に従い沢に沿った形で上れば、途中数箇所に道標が設置されているので迷わず山上主郭までは辿り着けると思われる(約30分は要す)。

1route_1 登城ルート

2 現地案内板より

6tozanguti 登山口

2_1_2 現地縄張り図

山上尾根に到達すれば左手尾根側が目指す城跡(道標あり)、更に右手側を西に上れば「見張り山」に向いて無数の郭跡、土塁、あるいは土橋などを眼にする事が出来る。ただしどこまでが当時の城跡としての遺構かは素人目には判断出来かねるが、個人的には「馬の足形」と呼ばれる巨石を経由して見張り山までは踏破した。見張り山と呼ばれるからには当時の物見としての機能を備えていたものとも見受けられるが、遺構案内が見当たらなかったので判別は不可能でもある。特別見応えのある遺構には巡り合えなかったが、恐らく城域はここまで及んでいたものと考えられる。肝心の本郭群は現地縄張り図に示される様に相当な高低差(50~60m)を以って南北二城に分かれており、その移動尾根沿いに小郭群が配される非常にユニークな構造となっている。見所は中主郭に残存する虎口土塁を支える石垣跡、その郭跡周囲を巡る土塁北主郭の分厚い土塁、その外壁に部分残存する石垣跡などが挙げられるが、主郭西尾根を断つ二重に見えた縦堀も決して見逃してはならない遺構の一つと思われる。現地縄張り図に記載されてあった南郭、あるいは出郭までは現状(一月)の密生する雑木藪を考えればとても踏破探索する気分にはなれなかった。更に北主郭側には畝堀と記載されてもいたが、場所も遺構の判別もし辛く案外見逃したかも知れないので、これから訪問される方には是非目を凝らして覗いて頂きたいと思う。

17_une_tatebori

主郭西側の二重縦堀見所

20_nakashukaku 中主郭

22_yaguradai_isi_2 虎口の石垣跡見所

24_shukaku_mawari_dorui 周囲の土塁見所

25_shukaku_minami_sita_dorui 主郭南側下の土塁

36_kitakaku_minami_koguti 北主郭の虎口

38_kitakaku_nai_dorui 周囲の土塁

41sotogawa_isi_1 外壁に残る石垣痕

45_monomi_ooisi 巨石「馬の足形」

個人的には標高400m以上の「見張り山」地点まで探索したので心身共に疲れ切ってしまったが、凄い高低差を以って南北二城に分かれたこの山城は非常にユニークでもあり、登山道がある事、あるいは前述の残存度の高い遺構群を考えれば、状態は悪いが何とかお薦め出来る城跡と言う事にはなるだろう。ただし条件付にはなるが夏季訪問は出来るなら避けた方が無難かも、、

2009年8月17日 (月)

星ヶ崎城跡(滋賀県蒲生郡)

城跡は滋賀県蒲生郡竜王町星ヶ崎にあって、当時観音寺城を居城とした六角氏一族でもある鏡氏の居城と伝わっているが、六角氏同様織田信長によって滅ぼされている。別名星ヶ峯城跡

城跡へは名神高速道路「竜王」ICが最寄の乗降口、インターから下りれば国道477号より北進して「西横関」交差点を左折して国道8号に合流すればよい、少し西進して「道の駅」を過ぎればルート図の如く国道の側道となる旧街道へ進入、狭い道路を少し走れば左手側の住宅地脇に城跡の案内看板が目に留まるので、そこから八幡神社跡までは参道を利用し、その後は登山道に任せて所々に備わる道標を確認しながら上れば、30分程度(意外に時間も距離も長く感じられた)で山上郭群までは辿り着ける。

1z_2 登城ルート

4_2 登山口案内板

3 城跡概念図

現状(三月)城跡は冬枯れ後ともあって、ある程度見通しも利き、それなりに見て周り易い状態にはあるが、場所によっては下草(シダ類)で覆い尽くされており遺構の確認判別し難い箇所もある。しかし山上主郭西壁に10m以上に渡って遺された、高さを伴う(2~3m)石垣跡は城跡にあっては抜群の存在感を誇るものとなっており、城跡を語る上での最大の見所ともなっている。画像に示したように石垣底部はまだ相当埋もれているとは思われるが、状態が良い事も相俟って非常に目を楽しませてくれている。他では主郭東側あるいは南側にも一部石垣痕、石列などを眼にする事が出来、当時では少なくとも主郭周囲は全て石垣で覆われていたものと想像出来そうにも思われた。城跡の形態としては地形任せで尾根上を削平して築かれたものであり、縄張りプランに特別なものは感じられなかったが、直立した石垣が主郭を防備する為の最大の要であった様には感じられた。雑木の生い茂る周囲の斜面全域までは踏破出来なかったが、堀切跡は二箇所で確認する事は出来た。城跡の性質上自作概念図における以外に見応えのある遺構(縦堀などの堀切)が遺されているようには見受けられなかったが、他で特別な技巧を有する遺構も窺われなかった事からも、そう多くは望めない城跡の様には感じられた。

19_shukaku_kitagawa_2 主郭北側

20_shukaku_nai_1_2 主郭内

24_nisi_isigaki_1_2 24_nisi_isigaki_3_2 主郭西壁の石垣跡見所

23_shukaku_nisi_isigaki_2 主郭西側より

28_higasi_isigaki_1 東壁の石垣跡見所

32gedan_higasi_horikiri_2 東側堀切地形

31_nantou_kaku 南東郭

城跡は藪化も地表風化も激しく状態が良いとは決して言えないが、藪漕ぎもなく登山道で山上郭まで到達出来る事を思えば、この主郭壁に残存する石垣跡を見学する為だけに訪れたとしても充分な満足感には浸れ、納得した山城巡りが出来そうとも思えるのである。小規模でもあり遺構が目白押しの山城ではないが、当時に構築された石垣に興味のある方だけに是非お薦めしたいと思える城跡の一つである。

2009年8月15日 (土)

土山城跡(滋賀県甲賀市)

城跡は滋賀県甲賀市土山町北土山にあって、集落に向いて延びた舌状の尾根先端に位置している。当時は土山氏の居城と伝わり信長の家臣でもある滝川一益に攻略されているが、現在の城跡に残る遺構は恐らく滝川氏によって改修されたものとも見受けられ、俗に豊系とも見て取れる特色を持つ分厚い土塁と虎口、あるいは付随する虎口前面の空堀がそれを雄弁に物語っている様にも思われた。個人的には先にリポート掲載を終えた玄蕃尾城とも相通じるものを感じたが、、、。 (城史の概略は現地案内板をクリック)

Tu1 登城ルート

Tojyoukuti_1_2 現地案内板

Tojyoukuti_2 登城口

城跡へは国道1号「土山町役場」の交差点を北上してルート図の如く進行すれば容易く付近までは辿り着けるが、集落道路沿いの土山城址碑と灯篭及び案内板のある箇所が登城口となっており、画像に示した様に民家の間の狭い道よりそのまま山道に進入すれば、5分もあれば南虎口の土塁までは到達出来るはずである。尚、駐車場に関しては付近の道路は狭く、個人的には民家空き地に許可を頂いて車は駐車したが、集会所付近にもスペースがあったかもしれない。もちろん確証はないが、少し距離をおいた場所を探せば駐車スペースは充分確保出来るものと思われる。

現状(二月)城跡は冬季あるいは植林地ともあって樹木も少なく、周辺の木々も枯れている事から見通しもある程度利き、非常に見て回りやすい状態にはある。お陰で縄張り内における遺構もほぼ判別確認出来る状況にあるが、土塁(土城)城とあってか長年の体積物あるいは風化によって土塁も郭内も随分変化しており、南出郭あるいは便宜上の二の丸などに窺えた土塁跡は、ほぼ高まりを感じる程度のものとなっている。特に主郭の北背後における堀切を絡めた複雑な地形は非常に曖昧でもあり、中々地形から遺構を推察するのは困難な状況でもある。見所は主郭南虎口から馬出し虎口を経て、南出郭虎口(枡形虎口あるいは馬出しか?)に至るまでの虎口を形成する土塁、それに付随する形の土橋及び空堀は真っ先に挙げられるが、主郭周囲を巡る土塁も見所であり、他縄張りを形成する土塁は全て見応えがあるもの(大型)であり、空堀を多用した縄張りプランは機能を想像しながら見学すると見飽きることがなく、より楽しく見て回れそうには感じられた。とりあえず概念図に示したものが判別出来た遺構あるいは目に留まった遺構になるが、ほぼ山上における縄張りの全域を見て回れた計算にはなる。ただ城跡の東側には広域に渡って段状の削平地が連続するが、築かれた時代背景までは知る術もなく、個人的には屋敷跡の様にも見受けられたが、まだ未訪の方の参考までに、、、。

3tu1 城跡概念図

12_daidorui 南土塁虎口見所

14horikiri_dobasi_1 南出郭虎口の空堀土橋見所

24_2maru_nai 二の丸内

26_umadasi_mae_hori 馬出し虎口前の空堀見所

32_shukaku_nai 主郭内

34_dorui_kado 主郭土塁見所

38_kitakaku_hori_dorui_1 主郭南側空堀

48_dorui_koguti 南西郭虎口土塁

城跡を一言で語れば土塁(土城)城の醍醐味はくまなく味わう事が出来、戦国ロマンに浸れる事請け合いの城跡と言うことになろうか、当然お薦めしたい城跡の一つでもあるが、比較的状態が良い事からも四季を問わず納得の行く見学が出来そうにも思えた。

2009年8月13日 (木)

大藪城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市養父町大藪にあって、付近には大藪古墳群のある事からも古墳群見学の為の遊歩道コースは設置されてある様に見受けられたが、現在この山城を訪れる為だけの登山道は見当たらず、城山に上るには整備された古墳見学ルートを利用して、途中からは急斜面の直登(木々が少なく藪漕ぎはほとんど無い)を余儀なくされるのが現実でもある。ただ訪問結果としてこの城跡は、この時期(7月)にしては郭間移動もし易く、比較的状態もまし(郭内の見通しは困難)な方であり、残存遺構はほぼ判別確認可能な状況にある事からも、規模は小さいが山城ファンには充分楽しめる城跡として掲載に至った。城史に関しての詳細は不明

城跡へは先にリポート掲載を終えた寺谷城を起点とすれば分かり易いが、寺谷城へ向かう為に右折した一般道104号はそのまま豊岡に向いて進行、「千石橋」交差点まで辿り着けば右折、後はルート図に示す様に現地古墳案内板を右折して「こうもり塚古墳」を目指して進行すればよい。この付近には狭いながらも路駐スペースはあるので、ここからが城跡目指してのスタート地点となる(道が狭いので他には路駐箇所は無い)。ルート図には複雑で紛らわしいので示さなかったが、個人的には「こうもり塚古墳」背後からの見学ルートで城跡を目指した、しかしこのルートは途中から山道が三方に分かれており、道標も設置されていないので迷う恐れのある事からも、これから訪れる方には迷い難く城跡までは最短で到達出来るであろう、溜池経由の整備されたルートを赤線で示した。直登取り付き地点は山道沿いの沢筋、軽トラの廃車が放置されてある地点を目安にすれば分かり易く、その手前あるいはそれを過ぎて左手(西側)急斜面に取り付けば、10分とかからず山上主郭には到達出来る(「こうもり塚古墳」からは20分要す)はずである。

1route 登城ルート

4 城跡進入路

3oo 城跡概念図

10_horikiri_1 北大堀切見所

12_shukaku_heki 堀切壁見所

13_shukaku_1 主郭内の現状

15_shukaku_minamiheki 南下段郭より主郭側

19_ninomaru_gawa_1 二の丸側切岸

22_horikiri_2 西堀切と大型土塁見所

27_nansei_kaku_gun 南西郭群

28_dankaku_heki_1 南西郭群の切岸

城跡は概念図に示したまでが自身で歩き回った範囲であり、目に留まった遺構群であるが、南側に向う枝尾根全ての踏破は周囲が崖状斜面ともあって叶わなかった、当然図中に示したまでが縄張り、あるいは遺構の数々とは思われないのだが、山上郭群はほぼ踏破出来たので、ある程度の満足感に浸ることは出来た。(城跡の形態あるいは地形上からも未踏南枝尾根上に見応えのある遺構が存在する様には見受けられなかった、、)城跡の見所としては主郭北尾根を断つ豪快な堀切(切岸の高低差は凄い)、高低差のある切岸壁数箇所の斜面に明確に残る縦堀(全体的に周囲斜面上には数本の縦堀地形は窺われたが、、?)などが挙げられるが、縄張り変化に富んだ城跡の形態そのものも充分見所と言えるものでもある。小規模な城跡ではあるが自分の中ではなぜか印象度の高い山城の一つになった。

2009年8月11日 (火)

高田城(兵庫県朝来市)

城跡は兵庫県朝来市和田山町高田にあって、現在若宮神社の境内から敷地内が城跡(平山城)と伝わっている。詳細は不明であるが、当時のこの一帯を支配していた山名四天王の中の一人でもある太田垣氏(ウスギ城あるいは竹田城が本拠)の支城、あるいはその傘下にあった城跡の可能性は高いものと見受けられるが、推察の域は出ない。

城跡へは国道9号を進行して既にリポート掲載済でもある土田城をかすめ、ルート図の如く国道沿いの西側に位置する若宮神社を目指せばよいが、国道沿いからは小さな鳥居も目立ち難いので、神社入り口向いにあるレストラン「但馬牛ほくぶ」を目印とすれば分かり易い。中型車までであれば北側から直接神社敷地まで乗り入れる事も可能である。

現状(7月)城跡は全域が神社敷地と化しており、整備されているので当然全体の見通しはある程度利く状態にあるが、郭跡などは社殿敷地として近世に転用されたものとも窺え、近年どこまで郭跡が造成整備拡張されたものかは想像も付かない状況にある。現在城跡としての面影を残すものは、最高所に位置する規模の小さい社殿敷地(主郭跡か?)あるいはその高低差を伴う切岸壁、その北側真下に位置する社殿敷地、東側斜面に蔓延る低い笹や下草の中に僅かに数本の縦堀とも窺える地形が目に留まるだけで、醍醐味を感じるほどの遺構に巡り合えないのが現実でもある。独立した低山を利用している為に堀切などは地形上期待出来ない状況にあるが、横堀、土塁などの地形も目に留まらなかったので、当時はそれほど技巧に富んだ城跡ではなかった様にも見受けられた。現状を見る限り縄張りを含めて見学者の推察あるいは想像力に全てが委ねられる、と言っても過言であるとは思われないが、これから訪問される方には是非この言葉を目安にして頂きたい。

1x 登城ルート

T_11 城跡入り口

T_1 若宮神社社殿

T_6 山上主郭内

T_7 主郭より北郭側

T_10 主郭北壁

T_8 東側斜面の現状

遺構の醍醐味を求めて訪問するのであれば恐らく落胆する事は必至の城跡と言えるが、当時における城跡の立地環境、あるいは城跡の風情を味わう程度であれば、国道沿いから5分とかからず赴けるお手軽さもあり、山城巡りの際、国道移動中に少し立ち寄る程度の事であるならば決して時間の無駄にはならないものとは思える。

2009年8月 9日 (日)

寺谷城跡(兵庫県朝来市)

城跡は兵庫県朝来市和田山町寺谷にあって、JR播但線「和田山」駅からすれば円山川を挟んだ真北側に望む事の出来る突き出した尾根の山上に位置している。但馬地方の城跡の多くは当時山名氏の傘下にあったと思われるが、この城跡も地元の方の話によれば竹田城(山名四天王の中の一人太田垣氏の居城)の支城あるいは出城と伝わっているとの事でもあり、恐らく円山川を挟んだ西側の近距離にある太田垣氏の支城でもある土田(ハンダ)城と同様に、一族の拠った支城とみてよいものかも知れない。詳細は不明

城跡へは国道9号と312号の交わる「一本柳」の交差点を北上して線路を渡る、その後は一般道104号へ自然に合流するが、ルート図の如く「寺谷」交差点を右折し直進すれば、今回車を預ける事になる公民館までは難なく辿り着く事が出来る。ただ今回の訪問では個人的には山上まで上れそうな山道は、公民館より東側集落のほぼ端に近い民家脇に発見出来たのだが、時期的にも夏草で山道は覆い尽くされており、更にマムシの生息する危険性もあったので、迷わず付近にお住まいの方に別のルートを案内して頂いた。このルートでは直接住宅地の敷地内を通過して上ることになるので今回は参考ルートとしたが、民家の最奥最上段にある水田傍の害獣避けフェンスを開閉すれば、直ぐ真上に聳え立つ西端郭の切岸が迎えてくれる筈である。取り合えず進入口は画像に示したが、夏季訪問においては必ず付近の民家に声をかけて敷地内を通過する了解を得る事が先決となろう。冬季訪問においては前述の山道さえ探し当てれば、そのまま山上に上れる(地元の方にも上れると聞いた)とは思われるので、わざわざ了解を得る必要はなさそうではあるが、、、。

1route 登城ルート

6 参考城跡進入口

3te 城跡概念図

どちらにしてもこの山城は進入口から5分もあれば城域に到達可能でもあり、充実した訪問内容から考えても是非お薦めの城跡でもある。山上主郭と便宜上の二の丸、主郭北背後の堀切、個々に於ける郭切岸だけはこの時期(7月)でも素晴らしい状態が保持(植林地)されており、無名に近い山城である事を考慮すれば絶賛に値する山城と言えるものでもある。概念図に示したまでが現状判別確認する事が出来た遺構群であるが、遺構残存度は非常に高いものがあり、当然風化はしているもののほぼ完存とも思える遺構群には少なからずとも感動を覚えてしまう。城跡最大の見所は遺構としても判別し易い堀切(空堀)群という事になるが、図に示した主郭の北側尾根を断つ堀切(直立に近い凄い堀切壁)、西堀切(縦堀に繋がる様相)、西先端物見郭の幅を持たせた高低差のある大空堀は、正に圧巻と呼ぶに相応しい遺構と目には映った。技巧を伴う遺構が目白押しの城跡ではないが、この三箇所における堀切と下草の少ない美しい郭切岸が見学の全てとも言い切れる山城の様には感じられた。尚、山上郭に佇めば木々の隙間からでも和田山の街並みや他の山々が望める事からも、今となっては珍しい山上主郭から景色が望める非常に値打ちのある山城と言えるのかも、、、。

15_3maru_heki 三の丸切岸見所

22_3maru 三の丸内

26_nisidamaru_horikiri 26_nisidamaru_horikiri_2西堀切(縦堀へ)見所

27_nisi_demaru_1 西出郭

28_daikarabori_1 西大空堀見所

39_2maru_nai 木々の少ない二の丸

37_horikiri_heki 主郭北堀切見所

33_shukaku_1 山上主郭の現状

2009年8月 7日 (金)

諏訪城跡(兵庫県朝来市)

この城跡は山城の多い但馬地方にあっては、分類すれば丘城あるいは平山城という事になるが、事前に地形図から予想しても比高30m前後でもあり、自ずと規模の小さな館城(居館)が想像された。しかし現地に訪れてみると館城でありながらも規模は相当大きく、全長300m前後あろうかと思われる独立した低山の南北に跨る主要二郭で形成されており、その中央には二箇所の空堀と櫓台的な郭を挟み、更に城跡の西側には土塁を付随させた横堀、一部は畝状にも見える縦堀(目に留まったものだけでも概念図に示した南北に至るまでの合計10本前後)、主郭西側には土塁までも張り巡らされ、相当技巧に富んだ城跡と目には映った。

城跡は兵庫県朝来市山東町大月にあって、山東CCの池を挟んだ真東側の独立した低山に位置しており、室町期まで遡れば当時は釘貫氏の居城が伝わっており、秀吉の但馬侵攻により山名氏と同時に衰退の道を歩んだと思われる。詳細は不明

城跡へは国道427号の「矢名瀬」から北近畿豊岡道に向いて南下するのが一番分かり易く、ルート図の如く進行すれば城跡進入口付近までは難なく辿り着ける。後は画像に示した道路沿いの小屋の脇にある害獣避けフェンスを開閉して進入すれば、直ぐにでも縦堀(空堀道)を通過して主郭東側の郭跡(帯郭)に到達可能である。

1route2 登城ルート

10 城跡進入口

3su 城跡概念図

現状(7月)城跡は人の手も入らず自然任せの荒れ放題と化しており、更に相当藪化も進行している事からも、郭内に限れば外見から視認による全体像の判別確認は非常に困難な状態にある。ただし前述の土塁跡、あるいは空堀、縦堀群などは遺構残存度も高く、明確に判別可能な事からも、竹林地にありながらも見学者にとっては非常に目を楽しませてくれる材料ともなっている。特に便宜上副郭とした西側斜面に形成される土塁と横堀、あるいは縦堀を絡めた構造(畝状に見える)は非常に目を引くものとなっており、相当技巧的でもあり城跡最大の見所と言えるものでもある。城跡の北端側は竹林雑木藪、南端側は膝まで生い茂る笹で外見から遺構の判別確認は困難を極め、城跡南東側あるいは南端側までは踏破確認する事は出来なかったが、遺構も概念図に示した限りにあらずと断言出来そうにも思える、まだまだ多くの隠れた遺構が遺されている城跡の様には感じられるのである。縦堀などの現状判断可能でもあり目に留まった遺構群は図に示したが、当然東斜面側には西側斜面と同様に相当数の縦堀(畝状縦堀もありか?)が設けられている様にも想像される。状態が良くないので一般の史跡見学者にはとてもお薦め出来ないが、遺構の醍醐味を求められる方、あるいは縄張りに関心のある方には見学の見返りは必ずあるものと断言出来そうにも思えたので、個人的には是非訪問をお薦めしたい城跡の一つである。

15_horikiri_1 中央堀切見所

20_karabori_dorui_2 横堀と土塁見所

40_shukaku_heki 主郭切岸(8m前後あり)

35_shukaku_nai 主郭内

41_shukaku_minami_dorui 主郭南側の大型土塁

34_shukaku_kita_dorui_2 主郭北端の土塁見所

47_dorui_karahori 副郭西側の横堀と縦堀見所

51_tatehori 縦堀見所

13_shukaku_minami_isi 構築時代不明の石垣跡

2009年8月 4日 (火)

箕作城跡(滋賀県東近江町)

城跡は滋賀県東近江町五個荘山本町にあって、京阪神から向えば国道8号を北進すれば五個荘清水鼻地区付近からは新幹線を挟んで東に単独で聳える山なので直ぐ城山と確認する事は出来る。当時織田信長に攻略されるまでは六角氏の居城と伝わっている模様であるが詳細は不明。

城跡へは名神高速道路「八日市」ICが最寄の乗降口、国道8号と合流するまでには色々なルートが考えられるのでここでは割愛させて頂くが、ルート図の如く国道8号より目印となる神崎中央病院を目指せば分かり易い、病院の北東より東へ針路変更後、新幹線高架下を潜れば真東に鉄塔が直ぐ目に留まるが、この付近に車の駐車スペースが確保出来ると思われる。鉄塔より南側に聳える送電鉄塔の建つ山が城跡であり、位置を確認すれば画像に示した農道から屋敷跡地を通過して山に入って行けば良い。

今回の登山に於いては個人的には山裾に存在する屋敷跡地と見受けられる広大な段状の削平地(郭壁あるいは土塁壁の数箇所で石積み跡が見受けられる)から、僅かな踏み跡を辿って鉄塔(送電線)に沿う形で山上まで直登したが、本来は別に登山道があったのかも知れない、少なくとも北側からの登山道は見受けられなかったが、、、どちらにしても送電線に沿って上れば20分程度は要すが間違いなく山上主郭までは辿り着ける筈である。尚、図中の下山(参考ルート)においては過去使用されていたと思われる山道(踏み跡程度の急斜面)が見受けられたが、これが本来山上まで繋がる山道であったのかも分からない、、?

1z 登城ルート

Tozanguti 登山進入口

3a 城跡概念図

5_fumoto_yasiki 推定屋敷跡地

7_fumoto_isi 屋敷跡の石垣跡見所

18_shukaku_kogutikaku_isi 主郭西の石垣跡見所

21_shukaku_nai 主郭の現状

23_higasi_horikiri 堀切

24_higasi_kaku 東郭1

25_higasikaku_sekiretu

石列

27_higasikaku2東郭2

現状(三月)城跡は進入口でもある麓の屋敷跡周辺は矢竹で覆い尽くされており、細部における地形の変化の確認は困難となっている。矢竹の隙間にやっと石垣跡あるいは土塁跡を確認出来た程度でもあり、せいぜい家臣団の屋敷跡地あるいは居館跡を推察出来る程度であると思って頂ければ良い。山上郭群の形態としては規模の小さい最高所を主郭として、ほぼ東尾根上に地形に任せて郭が配された平凡な縄張りプランでもあり、見応えを問われると少々返事に困ってしまうのが現実でもある。確認出来た遺構としては鉄塔の建つ主郭西側に石垣跡が一部分残存しており、堀切を挟んだ東郭群に石列あるいは土塁の高まりを目にした程度でもあり、東側尾根は密生する矢竹藪となっているので踏み入る事も外見から判別確認するのも不可能な状況となっている。現状から城跡に縄張り妙味などは全く期待は出来ず、山上に残る僅かな石垣跡に興味がある方以外には訪問は中々お薦め出来ないのが個人的な見解でもあるが、これから訪れる準備のあった方にとってはタイムリーな現況報告となったものと思いたい。

2009年8月 2日 (日)

小脇山城(滋賀県東近江市)

城跡は滋賀県東近江市小脇町にあって、全国的にも有名な安土城跡からは南東側直線約6kmの位置にあり、箕作山を最高所としてみれば南西側の中間尾根上の最高所(標高373m)に位置している。当時においては六角氏の家臣、三井氏の居城が伝わっているが詳細は不明。

近江地方には石垣を用いた城跡が数多く現存しているが、この山城も高所にありながらも相当多くの石垣が使用されており、地表に露見している部分は多くはないが、山上郭群の随所に石垣跡あるいは石列を窺う事が出来る。当然見学する分には石垣跡が一番目を楽しませてくれる遺構になるとは思われるが、斜面に眼を凝らせば縦堀などの遺構も充分確認する事が可能であり、地表風化は激しいが僅かながら北郭群に土塁の高まりも見て取る事が出来る。個人的には小規模で縄張り妙味(堀切を中央に挟んでほぼ尾根上に直線的に郭が配置)には少し欠けるが、これだけ当時の石垣跡が拝めるのであれば充分