次回更新についてのお知らせ
永らくお待たせしましたが、やっと「闘城賛歌」でのウォーミングアップが終わりました。
第一回目リポート更新は明日11月1日からとさせて頂きます。
リンク先「闘城賛歌」http://kt22fight.blog.fc2.com/
永らくお待たせしましたが、やっと「闘城賛歌」でのウォーミングアップが終わりました。
第一回目リポート更新は明日11月1日からとさせて頂きます。
リンク先「闘城賛歌」http://kt22fight.blog.fc2.com/
TAKUです、およそ6年間に渡って近畿圏内における山城情報(約1100城)を発信して来ましたが、ここにきてブログでのサーバー許容量が残り僅かとなり、このままブログを更新し続ける事が困難な状況となってしまいました。もちろん書き込みコメントを受け付ける程度の余裕は持たせてありますが、これからの更新は続編として準備予定のある、ブログ「闘城賛歌(トウジョウサンカ)」で発信させて頂きたいと思います。
尚、サーバーが変わる事から、当ブログでの編集パターンやレイアウトに慣れ親しんで来られた方々には多少戸惑いもあるかも分かりませんが、「山城賛歌」における趣旨、あるいはスタンスは今まで通りそのまま受け継がさせて頂きたいと思います。尚、ブログ「闘城賛歌」でのハンドルネームはTAKUを改め闘城鬼(トウジョウキ)と名を変えて、新たな気分で山城に挑み続けて行く所存です。
ブログ読者の方々並びに山城ファンの方々には、これまで多くの山城情報あるいは励みとなるコメントを頂戴して来ましたが、自身のモチベーションを維持していく上においては心強くもあり、大きなアシストと成り得ております、当ブログをきっかけとして、初めて城跡巡りの楽しさを味わった方々も少なからずおられる事と思いますが、「闘城賛歌」で再び山城巡りの楽しさを味わって頂ければ幸いです。自身今まで「山城賛歌」はマニアックな男性城跡ファンの方々だけが対象のブログと勝手に決め付けていたのですが、昨今「歴女」なる読者の方も増えているようで、非常に満足のいく結果となっております。単独で女性が山城を訪れるには少し抵抗があるやも知れませんが、無名に近い城跡でありながら登山道の設置された山城も少なからずあります。この現況リポートによって上り易い登山道のある城跡を吟味して頂き、更にグループで示し合わせて訪れるのであれば、不安も解消されて一層楽しめるのではないでしょうか、、、
城跡は京都府福知山市二箇上にあって、集落北背後の低丘陵上に位置している。城史に関しては一色氏の居城が伝わり、現在主郭跡には「一色修理之亮義正」の名が入った石碑が祠と共にひっそりと佇んでいる。
城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた北有路城を起点とすれば判り易い位置にあるので、細かい訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、由良川に沿って南北に走る県道55号線に進入する事が先決となる。集落に辿り着けば登城ルート図を参考にして頂きたいが、民家庭先をかすめる(画像に注目)墓地へ向かう参拝山道を利用して上る事になる。墓地から先は概念図を参考にすれば分かり易いが、林道から眼に留まる旧配水施設を目印として西側へ向かえば、直ぐにでも大堀切が迎えてくれる筈である。ちなみに林道を利用しても充分車で登れると思うが、道中における道路状況までは把握していないのでどうか悪しからず、、
城跡概念図
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、山上ほぼ30m四方に渡る主郭の占有面積は大きく、南郭や付随する腰郭なども含めれば、充分砦の域ははみ出た城跡という事にはなろうか。見所遺構として挙げられるのは先に触れた大堀切、並びにそれに伴う縦堀及びその切岸壁、高低差6mを誇る主郭切岸跡と言う事になるが、いずれも見応えは抜群なものであり、訪れた値打ちは充分感じられる筈である。現状(七月訪問)城跡は、それなりに見学し易い状況にあると思って頂いてもよいが、主郭跡には隙間なく小笹が蔓延っており、虎口のある南郭以外は青竹も蔓延り、麓に向かうほど藪化は相当進行している。故に腰郭跡などはくまなく動き回れる状況にあるとはとても言えないが、空堀跡なども含めて他で複雑な遺構が眼に留まらなかった事から、遺構見学としては充分満足のいくレベルにあると思って頂いても良いのかも知れない、、、(郭跡も含めて縄張りを極める事は至難の業)
西腰郭
城跡を個人的に評価すれば、見学材料は少し乏しいかも知れないが、主郭に佇めば充分臨場感が得られる事、たった一箇所ではあるが縦堀を伴う見応えのある堀切が拝める事、高低差を誇る切岸の醍醐味に触れられる事、これらに10分内で迷わず辿り着けるお手軽感まで加味すれば、充分お薦め出来る城跡の一つという事にはなろうか。
城跡は京都府福知山市牧にあって、牧集落の北背後に聳える標高約370m(比高約300m)の険峻極まりない山頂に位置しているが、自分にとっては三年ほど前、堂屋敷城南城砦群を訪れた際、尾根上数箇所に渡って展開された広範囲に渡る城郭遺構のお陰で、本郭群を極める事が叶わず、東峰(標高375m地点)の広い削平地を覗いただけで気力も体力も尽き果て、後ろ髪を引かれる思いで踏破断念した苦い記憶の残る山城の一つである。今回はその直登道中で思いもかけず眼に留まった砦跡を先にリポートしたが、今回はそのリベンジともいうべき訪城となった。
城跡を訪れるには、先にリポート掲載に及んだ(仮名)牧北砦跡と同様の訪問ルート、あるいは登城ルートとなるので今回は割愛させて頂くが、牧北砦跡Bからは尾根に沿って真北に向いて上ればよい。その直登道中において城郭遺構は眼に留まらなかったが、山頂斜面手前では明らかにそれと分かる痩せ尾根の両岸を削った明瞭な土橋地形(画像に注目)を眼にする事が出来た、、、、長い道程とはなるが藪こぎもなく40分程度で迷わず辿り着ける筈である。
城跡概念図
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、郭総全長は40m程度で、それに帯郭の付随した砦規模の山城と思って頂いても良いだろう。山上本郭群の東西には堀切が施されており、現状西尾根を断つ堀切は地表風化が激しく明瞭なものを拝む事は出来ないが、土橋地形あるいは僅かに窺われる縦堀地形で直ぐそれと分かるだろう、東斜面側の堀切は縦堀は伴っておらず、自然露岩を受け土塁の代用とした、武者隠し的な空堀と思って頂ければよいかも、、、見所遺構と呼べそうなものは概念図に記したが、帯郭から立ち上がる高低差を誇る切岸、あるいは下草の蔓延らない状態の良い切岸といったところも決して見逃してはならない遺構の一つだろう。
東堀切見所
現状(七月訪問)城跡は、認知度の非常に低い山城としてみれば(推察)、それなりに見学し易い状態が自然維持されており、概念図に描いたまでの遺構の判別は容易く、動き回り易い状況にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価すれば、砦規模の城跡に縄張り妙味までは望めず、更に城郭遺構に見応えまでは感じられなかったが、険峻極まりない山頂に城跡が佇む様、あるいは山頂の両サイドを切岸化して築かれた様は、「正しくこれぞ山城!」と呼ぶに相応しいものであり、自分と同様に山城をこよなく愛する人にとっては、充分お薦め出来る山城の一つと言えるだろう。この堂屋敷城は城域があまりにも広域に渡る事から、南城砦群までも含めた同日訪問は少し厳しいと思えるが、堂屋敷城の本質を究める意味においては、登城ルート図に集約される東西両尾根に点在した郭群の見学は是非お薦め!もちろん直登山に慣れた山城ファンの方々のみが訪城の対象となるが、、、
城跡は京都府福知山市牧にあって、以前「新しく発見された山城」として堂屋敷南城砦群をリポートした事があったが、その南城砦群の中の南先端郭からみて、谷状地形を挟んだ直ぐ西側の尾根先端部に位置している。この二砦跡は現状まだ調査報告されていない城跡と見受けられたが、自身が本来訪れるべく堂屋敷城山上本郭群を目指して登りかけた直登道中において偶然眼に留まったものであり、二箇所における明瞭な空堀跡(縦堀も含む)及び僅かに窺われる土塁跡、並びに削平地と、城郭遺構は丘陵先端部二箇所に渡っている。この二砦跡の機能から察すれば、この地より尾根を更に北へ上った山頂に位置する堂屋敷城の出郭跡という事も考えられるが、山上本郭群と区別する為に、今回は字名を採用して牧北砦跡とし、更に二箇所に分かれた郭群においては砦跡A、砦跡Bとした。既に認識されて調査報告もされた城跡かも知れないが、城跡呼称に関しては何時もの様に柔軟に対応して頂きたい。
城跡を訪れるには、堂屋敷南城砦群を起点とすればその位置も直登取り付き地点(登城口詳細図参照)も判り易いと思われるので、細かい訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、車を停めて5分程度で砦跡Aには辿り着けよう。
城跡概念図
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、二砦跡のどちらにも郭背後には堀切が施されている。特に物見程度の機能が想像される、狭小郭砦跡Aの背後における堀切は明瞭なもので、片側は縦堀となって数十m西斜面に連続しており、充分見応えの感じられる遺構となっている。もちろん堀切背後にはお定まりとも言える土橋(画像に注目)も施されているが、これは後世における山林事業の為に施されたものかも知れない、、、 砦跡Bの郭跡背後には僅かに半分欠けた土塁及び薄い堀切跡(片側は明瞭な縦堀)、更に片側が郭跡と地繋がりの土橋(画像に注目)が見て取れるが、この土橋も砦跡Aにおける土橋と同様に、後世における山林事業用に施されたものとみてまず間違いのないところか、、、謎。
城跡を個人的に評価すれば、物見程度の城跡ではあるが二箇所における見応えのある縦堀が拝める事、それに更に圧倒的お手軽感も加味すれば、充分訪れる値打ちのある城跡という事にはなろうか、、もちろんこの後リポート予定している堂屋敷城(山上本郭群)と併せた同日訪問、あるいは南城砦群と併せた同日訪問が前提という事にはなるが、、、
今回取り上げたこの三氏城は三重県伊賀市中友田にあって、生活道路によって菊永氏城は少し隔てられているが、深井氏城と中友田東城はほぼ隣接した低丘陵上にある。ちなみに菊永氏城は城址碑が道路沿いに備わるだけで、その内部は深刻化した藪化によって、踏破は極めて困難な状況にあると思って頂いても良いだろう。もちろん近年における生活道路造成工事によって、当時の遺構はほぼ壊滅したものと察せられた事から、雑木林の中を覗くまでには及ばないと思われるが、、、、城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた中谷氏城を起点とすれば分かり易い位置にある事から、城跡までの細かいアクセス法は割愛させて頂くが、目印とした鞆田郵便局から車を預ける事になる集会所まではルート図を参考にして頂きたい。集会所脇を抜けてその背後から西に向いて丘陵上を歩けば、直ぐにでも深井氏城に辿り着ける筈である。更にそこから少し西に歩いた場所に中友田東城があるので、遺構見学とすれば二城同日訪問は当然考慮の対象となるだろう。
城跡の形態は、丘陵上全域が竹林雑木藪地となっている為、両城共に見通しも利かず、更に郭内部の踏破も叶わなかった事から、今回は遺構を示した概念図すら描けなかったが、伊賀では普通にお目にかかれる、土塁の施された定番の居館跡と思って頂ければ察しも付き易いだろう。中友田東城には土塁背後に横堀(画像に注目)が施されていたようだが、深井氏城では全体踏破出来なかったせいもあって、お目にかかる事は叶わなかった。現状(六月)両城共に藪化は深刻化しており、郭内部は蔓延る青竹や低草木によって、探索踏破は非常に困難な状況にあると思って頂いても良いだろう。当然見通しも利かないので低土塁などは傍に寄っての確認は余儀なくされるが、高土塁を形成すべく切岸壁は、青竹の隙間から何とか確認可能(画像に注目)と言ったところか、もちろん郭内部に佇み臨場感に浸るまでには、とても至れなかった事は言うまでもないが、、、
深井氏城土塁内壁
中友田東城土塁上
城跡を個人的に評価するのであれば、遺構のほぼ壊滅した菊永氏城は別として、この二城は遺構見学としても史跡見学としても、とてもお薦め出来る物件とは言えないが、「城跡の現況報告として、少しでもお役に立てたのであれば由としたい」、と言ったところになろうか、、、
城跡は三重県伊賀市下友田にあって、先にリポート掲載を終えた竹内氏城とは同じ丘陵を共有したものであり、その痩せ尾根上を切り込んで仲良く郭を並べた様は、正しく竹内氏一族の城と呼んでよいものとは思われる。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、竹内氏城と同じ登城ルートを辿る事になるので、今回は割愛させて頂くが、竹内氏城からは二重堀切を越えれば直ぐに辿り着けよう。
城跡概念図
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、竹内氏城とは東側を二重堀切によって遮られており、その主郭の土塁西端には尾根を断つ堀切が設けられている。この堀切は両岸が縦堀となって落ち込み、更に明瞭な土橋も備わるが、これは風化に任せたまま現在に至った当時の土橋とみて良いものかも知れない、、、土塁は高土塁として郭北背後に施されているが、本来は東西両翼にも施されていたのではないだろうか、、謎。主郭は現状不整形であるが、郭南側は一部崩落した形跡があり、本来の形状は見学者の想像に全て委ねられよう。
土橋付堀切見所
縦堀見所
現状(六月)城跡は竹内氏城と同様、比較的見学し易い状況にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価するのであれば、伊賀の居館跡らしく縄張り妙味には少し欠けるが、圧倒的お手軽感、比較的高い遺構残存度、鋭角に削り落とされた切岸の醍醐味、更に堀切の醍醐味にも触れられる事を思えば、当然お薦め出来る城跡と言った事になるだろう。
城跡は三重県伊賀市下友田にあって、先にリポート掲載を終えた雨請山城の真南側の丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明だが、名が語る様に竹内氏居城と伝わっている。雨乞山に近隣の士豪等と立て篭もった山内氏と運命を共にしたものか、、、
城跡を訪れるには、先に触れた雨請山城を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、城跡までの細かいアクセス法は割愛させて頂くが、集会所に車を預けた後は、ルート図の赤ラインを辿って頂ければよい。淨光寺前を通過して向かう事になるが、獣避けフェンスを開閉後(画像に注目)は、左手側の荒地を通過して斜面に取り付けばよいだろう。数分で便宜上の東郭に到達出来る筈である。
城跡概念図
城跡の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても差し支えないとは思うが、規模の大きい東郭は、全体踏破も出来ないほど低草木に覆われており、更に近世においてどこまで農地として地形改変があったものかは想像も付き難く、郭形状や規模、あるいは僅かに窺われる土塁痕は推察を交えたものと思って頂きたい。現状を覗いた限りでは、ほぼ四郭構成の城郭で、西奥が主郭と察せられるが、痩せ尾根自然地形を切り込んで構築されたと見えて、主郭、副郭共に背後に施された土塁は上り土塁の様な形状をしており、その北背後は全て谷状地形まで鋭角に削り落とされた、見事な切岸壁となっている。他では同じ丘陵を共有した西側最奥に位置する、寺坂城間を遮る形の土橋付大堀切も挙げられるが、縦堀が麓近くまで連続する様は木々の少なさも幸いしてか、その全体像が窺えるものであり、これも見応え抜群の城郭遺構と言って良いものだろう。実際には寺坂城における縄張りも共有していると考えられるので、外見は二重堀切(画像に注目)と言う事になるが、、、
現状(六月)城跡は、藪化は相当進行中にあるが、郭内部はともかくとして、痩せ尾根土塁上を移動すれば郭移動に難渋することも無く、先に挙げた遺構は全て判別確認も容易く、それなりに見学し易い状態が自然維持されている。ただ同時に地表風化も進行しているので、曖昧な地形と化した土塁最高所における櫓台などは、推察を含んだものと思って頂きたい。城跡を個人的に評価するのであれば、先に触れた切岸の醍醐味、更に堀切の醍醐味まで含めれば、自ずと「お薦め出来る城跡の一つ!」という事にはなるだろう。この後リポート掲載予定の寺坂城も併せれば是非お薦め!
城跡は三重県伊賀市上友田にあって、先にリポート掲載を終えた高殿城からみれば、その最高所から派生する南東尾根先端に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、その名が語る様に鷹山飛騨守の居城として伝わっている。
城跡を訪れるには高殿城を起点とすれば一目瞭然の位置にあるので、城跡までの細かいアクセス方法は割愛させて頂くが、673号線からは概念図中に示した赤ラインを辿って頂ければよい。池の畔まで辿り着けばそれらしい切岸(右手側)が直ぐ眼に留まるが、それは高土塁を形成する切岸でもあるので、既に城域に入った事が分かる筈である。
城跡概念図
城郭の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、伊賀では定番とも言える方形居館跡としての縄張りプランと思って頂ければ良いだろう。土塁は主郭四方に巡らされており、高土塁と分厚い低土塁に明確に分類されるが、一部南側に消失した痕跡が残る事から、土塁は完存とはとても呼べないものである。空堀は高土塁背後に施されてあったのかも知れないが、低草木で覆われ地表も露見していないこの状況を思えば、見極めるのは至難の業とも思えたのである。切岸に関しては土塁西外壁で見事なものを拝むことが出来るが、他は余り期待しないほうが良いかも知れない、、、。
現状(六月)城跡は、地表も露見していないほどの下草で郭内部は覆われており、その南側や東側も藪化が随分進行してはいるが、植林地にある事から見通しが利き、何とかその全体像が窺える状況にある程度と思って頂ければ良いだろう。城跡を個人的に評価するのであれば、圧倒的お手軽感はあるが、農地として近世相当な地形改変が窺われた事(個人的主観)や、それが故の遺構残存度の低さ、あるいは見学材料がほぼ切岸と土塁のみに限られる事を思えば、高殿城を訪れたついでに寄る程度、あるいは城跡巡りの一環として立ち寄る程度の城跡といった事になろうか。もちろん状況がこれから良い方に、少しでも改善されるのであれば話は別になるが、、、、
尚、ルート図中に個人的に造成農地として当時の祖形はほとんど失われている、と判断した中谷氏城も記したが、かつての主郭となる広大な農地北背後には、僅かに高土塁の一部が残り、その背後には僅かながら空堀の痕跡(画像に注目)が見受けられたので、興味を持たれた方が史跡見学として訪れる分には、決して無駄足には終わらないかも知れない。
城跡は三重県伊賀市上友田にあって、当時は上友田集落が見通せたと思われる丘陵最高所に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、当時甲賀に抜ける街道が今回登城ルートとした林道と重なる(現地ネタ)事、あるいはその規模を思えば、この城跡の機能は峠監視用の見張り城と考えるのが妥当な所かも知れない、、、ちなみに現地で城跡はクランドと呼ばれており、麓にお住まいの年配の方にとっては、幼少期における絶好の遊び場(かくれんぼが想像出来る)であったそうである。
城跡を訪れるには673号線に進入する事が先決となるが、道路沿いにある「鞆田郵便局」を目印として目指せば分かり易いだろう。城跡までの進入経路はルート図中に示したが、生活道路の途切れる住宅最奥にあるガレージをかすめれば、更に林道に任せて峠を目指せばよい。峠はかつての深い堀切(現状切り通し)の様にも窺えたが、そこから右手の切岸斜面を上り切れば、直ぐにでも土塁上に佇む事が出来よう。ちなみに路肩(画像に注目)に車を停めて10分程度の所要時間。尚、西方からも最短ルートとなる林道が地図に描かれているが、その道路状況までは把握していないのでどうか悪しからず、、、
城跡概念図
城跡の形態は、縄張りが丘陵最高所だけに限られると思われた事から、自作概念図に限りなく近いものと思って頂いても差し支えないと思うが、伊賀では定番とも言える主郭四方に土塁を巡らした方形居館跡、あるいは見張り城と呼ぶに相応しいものである。ただし小規模ではあるが、分厚い高土塁背後には尾根を遮る形で幅のある空堀(横堀)が施されており、低土塁も含めた土塁はほぼ完存に近いものであり、南側に開いた土塁虎口跡、あるいはかつての堀切と思われる切り通しと並んで、充分見学者の眼は楽しませてくれる筈である。もちろん切岸の醍醐味(郭側壁)にも充分触れる事が可能であり、このほぼ完存に近い佇まいそのものが非常に値打ちあるものと自分の眼には映ったのである。
虎口郭
現状(六月)城跡はそれなりに藪化は進行しているが、遺構見学に差し障るまでには至っておらず、近年村人の入った形跡のない山城としては、非常にましな状態にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価するのであれば、高い遺構残存度が物語る縄張りの掴み易さ、遺構(特に土塁)の見応え、更にお手軽感まで加味すれば、自ずと「規模さえ問わなければ是非お薦め出来る城跡の一つ」、と言った事にはなるだろう。
城跡は京都府南丹市天若世木林にあって、日吉ダムによって堰き止められた人造湖「天若湖」に向いて細長く突き出した、半島状の尾根先端部に位置している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには50号線に進入する事が先決となるが、50号線からの進入経路はルート図を参考にして頂きたい。車止めからは徒歩で尾根先端を目指すことになるが、唯一とも言える直登取り付き口は、かつての駐車場(広場)となる向かい側の切岸工事された斜面(画像に注目)で、そこをスタート地点として丘陵上に向いて強引に上れば、直ぐに空堀が迎えてくれる筈である。
城跡概念図
この城跡の存在と所在地をを知り得たのは、京丹波地区を中心に山城巡りをされている方からの情報によるものであるが、その方曰く「訪れたものの城郭遺構が長い丘陵上のどの部分に当たるものか見当が付き難かったので、一度機会があれば訪れて遺構の確認をして頂きたい」、と言った内容のものであった。もちろんそこまで頼りにされるのであれば、断る理由は何一つなかったので、情報を頂戴してから少しばかり月日が経ってしまったが、やっと訪れる機会に恵まれたので、今回はその結果も兼ねた現況リポートと相成った。
城跡は情報を頂戴した通りの尾根先端部に当たり、アバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、削平された郭総全長40m前後の本郭群の東背後には片堀切(縦堀)、更にその痩せ尾根を跨いだ反対側には、自然地形に近いが巨大とも言える空堀地形が見て取れた。よって結果的にこの地が間違いなく城跡であると個人的に判断を下した事になるが、現状城跡に関しての情報は、確かな所在位置も含めて皆無に近いものであり、城郭遺構としての正否の判定に対しては多少の不安が残る事から、これを機に臨まれる方にも是非その判断を下して頂きたい。個人的には更に南側尾根上も踏破したが、ここまで削平された地形や空堀地形は眼に留まらなかった。郭間及びその側壁における高低差を伴う切岸、あるいは尾根を断つ明瞭な空堀(横堀)でもあれば、間違いなく百パーセント城郭遺構と断言出来るのだが、、、、
城跡は三重県伊賀市下友田にあって、先にリポート掲載を終えた雨請山城からみて東端枝尾根上に位置しており、その名が語る様に雨請山城を詰城とした、山内氏の居館跡と伝わっている。
城跡を訪れるには、一部雨請山城と共通する登城ルートとなるので、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、集会所からは登城ルートに示した赤ラインを辿って頂ければよい。途中分岐地点に山内氏石碑が建立されているが、傍にある道標に従えば迷わず登山口までは辿り着けよう。城跡への最短進入経路は、獣避けフェンスを開閉した先にある、雨乞山登山口道標手前(画像に注目)の畦道になるが、そこから尾根上を目指して直登すれば、数分で空堀が迎えてくれよう。
城跡概念図
城跡の形態はシンプル極まりない事から、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても差し支えなさそうに思うが、伊賀では定番とも言える郭四方に土塁の張り巡らされた方形居館跡と思って頂いてもよいだろう。お定まりの空堀は土塁北側と西側の二方に施されているが、西側の空堀(横堀)は深さはあるが、途中で消滅した形となっており、当時は北側の空堀(縦堀)と繋がっていたとも考えられるが、これは見学者の判断に委ねられる部分となるだろう。北側の空堀は随分深さは失われているが、高低差を伴う土塁あるいはその鋭角に削り落とされた切岸と相俟って、見応えは充分なものとなっている。他見所遺構としては土塁虎口跡や、主郭側壁を形成する切岸も挙げられるが、南下段郭まで落ち込む高低差を伴う見事な切岸、あるいは先に触れた北側土塁外壁となる切岸は、間違いなく見学者の眼を楽しませてくれる筈である。
現状(六月)城跡は、載せた画像でお分かり頂ける様に、植林地にあるお陰で蔓延る草木は少なく、更に見通しは利き、遺構見学とすれば判別確認もし易い、非常に楽しめる状況にあると思って頂いても良いだろう。ただ全体的に地表風化は進行しているので、想像に委ねられる部分(郭内部や土塁の形状、空堀の形状)は多く、これを機に臨まれる方には見学し易さも含めて、是非見たままを楽しんで頂きたいと思えたのである。山城巡りとすれば効率の良い、雨請山城と併せた二城同日訪問は充分お薦め出来るだろう。
城跡は三重県伊賀市下友田にあって、標高268mの「雨乞山」山頂に位置している。城史に関しては、伊賀の乱においてこの山を詰め城として、一族や近隣の士豪と共に立て篭もった山内氏の活躍が伝わっているが、その後の詳細は不明
城跡を阪神側から訪れるには、名阪国道「下柘植」ICが最寄の乗降口となるが、そこからは133号線に進入して北上すればよい。ルート図中にある鞆田橋から673号線へ左折すれば、今回車を預ける事になる集会所までは直ぐの距離にあるが、その駐車場の片隅には登山道を示した案内板が掲げられているので、それに従えば迷わず山頂までは辿り着ける筈である。ちなみにルート図中に示した山内氏城(居館跡)のリポートはこの後になるが、直接山頂を目指すのであれば、15分程度の所要時間と思って頂ければ良いだろう。
城跡概念図
城跡の形態は、山上本郭群だけを記した概念図を参考にして頂きたいが、山頂を主郭として東側に郭を六段程度重ねたものであり、その本郭群両端、あるいは郭間に空堀の類は施されてはいないようである。土塁は痕跡程度のものを主郭東端で確認出来るが、造成整地後の残土とも見受けられるものであり、これは見学者の判断に委ねられるだろう。切岸は東郭群における郭境、あるいは側壁で状態の良い明瞭なものを拝めるので、遺構見学とすれば何とか面目は保たれると言ったところか、、、、尚、登山道を少し外れた二箇所の東尾根(ルート図参照)では、居館跡とも推察される土塁の施された広い郭跡(画像に注目)、更にその直ぐ南側尾根では、切岸跡の明瞭な砦跡(東出郭)を眼にする事が出来るので、この山城の本質を究めたい方には、道中直ぐの距離にあるので、ついでにそちらまでは足を延ばして頂きたいと思うのである。
主郭
現状(六月)城跡は、山頂に史跡としての案内説明板が備わっている様に、史跡見学としては、それなりに見て回り易く整備された状態にある。恐らく四季を通して見学し易い状態は維持されているものと察せられるが、山上を削平しただけに終わっている城郭に、縄張り妙味までは求められず、山城ファンの方にとっては残存遺構に過大な期待を持って臨まない事が肝心となるだろう、、、城跡を個人的に評価するのであれば、遺構見学とすれば随分味気ない気がしないでもないが、当時に思いを馳せることの出来る城郭遺構が、軽い山登りで楽しめる事、切岸の醍醐味には触れられる事、見通しの利く山頂に佇めば充分臨場感は味わえる事、あるいは登山道で迷わず登れる事なども理由にすれば、少ない材料ではあるが、史跡ファンの方も含めて充分お薦め出来る山城の一つと言えようか。山城ファンの方に限れば、先に触れた山内氏城と併せた城跡巡りは是非お薦め!
城跡は京都府舞鶴市丸田にあって、先にリポート掲載を終えた丸田宮ノ谷城からみて、真北側の丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、先に触れた丸田宮ノ谷城あるいは丸田東城を起点とすれば所在位置も分かり易いが、国道178号線「丸田東」の信号を目指し、その北側にある「ドライブインダルマ」を目印として向かい側の道路に進入、後はルート図の赤ラインを辿って頂ければ、難なく直登スタート地点(画像に注目)までは辿り着けるだろう。ここからは勾配のきつい斜面をひたすら上る事になるが、藪こぎもなく主郭までは15分程度あれば到達可能である。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、郭の展開が予想される東尾根上はうっかり覗くのを忘れており、今回は山上本郭群のみのリポートと思って頂きたい。ただこの城跡の本郭群の規模や形態を思えば、郭の展開は山上だけに限られるのかも知れないが、、、山上本郭群は尾根上の削平地及び狭い帯郭が主郭に付随したものであり、全長30m足らずの砦規模の山城と思って頂ければ良いだろう。堀切は直登道中の北斜面に施されているが、現状薄くなった縦堀を伴っており、取り合えず城跡唯一の見所遺構と呼ぶに相応しいものか、、。
現状(五月訪問)城跡は、年間訪れる山城ファンも限られる、無名に近い山城としてみれば比較的コンディションは良く、数少ない遺構ではあるが、その楚々とした佇まいも含めて充分楽しめるものとは思われた。よって個人的に城跡を評価するのであれば、規模や縄張り妙味は一切望まないとの前提条件付きで、興味を持たれた少しマニアックな山城ファンの方にのみ、何とかお薦め出来る山城といった事になろうか。
城跡は京都府舞鶴市和江にあって、和江集落の真北側に聳える、低山ではあるが険峻極まりない標高約140mの山頂に位置しており、その南麓には佛心寺が建立されている。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた和江宮ノ谷城を起点とすれば所在位置も分かり易い事から、細かい訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、和江神社の真北側にある佛心寺を目印として向かう事になる。寺院背後にある集合墓地が直登スタート地点となるが、左手側の植林地に向いて上った方が蔓延る木々も少なく、かつての山道(僅かに空堀状)に合流出来る事から上り易いとは思われる。ただ下山時に利用した西側の民家脇に下りるルートを、逆から登る方が最短ルートとは言えるが、、、ちなみに激斜面との格闘にはなるが、藪漕ぎなしで20分内で本郭群までは辿り着ける筈である。
城跡概念図
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、主要二郭と帯郭で形成された南北に渡る本郭群の総全長は100mに達するものであり、山上南端部における削平地(三角点がある)まで物見として取り込めば、規模だけ捉えれば砦の域は充分はみ出た山城と言えようか、本郭群南端には見所遺構の一つとも言える分厚い土塁を間に挟んだ二重堀切、更にそれに付随する明瞭な土橋、北端には横堀に縦堀を絡めた縄張り妙味のある三連の空堀(縦堀)と、これらは間違いなく見学者を魅了してくれる筈である。もちろん切り立つ切岸の醍醐味にも、充分触れる事が出来るが、、、
横堀と縦堀見所
現状(五月訪問)城跡は、意外にも蔓延る木々は少なく、縄張りは山頂のみに限られる(枝尾根がない)事もあって、山城としては移動にも難渋せず、非常に見て回り易い状況にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価するのであれば、シンプル過ぎる縄張りの為に、縄張り変化に富んだ城跡とは言えないが、険峻極まりない地の最高所に位置する城郭の佇まいの素晴らしさ(個人的趣向が入る)、あるいは南北両端に施された状態の良い堀切の醍醐味、更に本郭群における切岸がいきなり麓まで落ち込む様は「正にこれぞ山城!」と呼ぶに相応しいものであり、間違いなくお薦め出来る城跡の一つ、と自分の眼には映ったのである。
城跡は京都府舞鶴市和江にあって、和江神社の南西側の低丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、由良川を挟んで南東側に対峙している一色氏一族の居城、中山城から見た築城環境、あるいはその規模を考慮すれば、推察の域は出ないがその出城という事になるのでは、、、
城跡を訪れるには、国道178号線に進入する事が先決となるが、既にリポート掲載を終えた中山城を起点とすれば、その所在位置も分かり易いとは思われる。目印となるのは先に触れた国道沿いにある「和江神社」で、ここの駐車場に車を預けた後は、ルート図に示した赤ラインを辿って頂ければ、10分内で便宜上の東出郭に辿り着けるが、一番手っ取り早く本郭群まで辿り着けるのは、国道から林道に進入して西側から痩せ尾根上を移動して直接目指す方法である。ただし林道の道路状況は現状把握していないので、どうぞ悪しからず(車止めされている林道も多々ある)。
参考進入経路
城跡の形態は、アバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、城郭は山上本郭群と東尾根上の郭群の二群で成立したものと見受けられた。そのどちらにも郭背後に堀切は施されているが、東出郭の方は判別確認もし難い浅い横堀であり、見応えからは程遠いものといったところか、、本郭群背後の堀切は明瞭なもので、現状風化に任せて浅いが、判別し易い空堀と思って頂いても良いかも知れない。
背後の堀切見所
現状(五月訪問)城跡は、砦規模の本郭群(全長25m前後)だけに限れば、それなりに動き回り易く見学し易い状況にあると言えるが、東出郭群の郭内部は相当木々も蔓延っており、見通しは利き難く、更に移動にも難渋し、その全体像を窺う事は困難極まりない状況にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価するのであれば、規模も小さく状態の醜い東出郭を敢えて遺構見学の対象としてお薦めはしないが、西側からの林道が利用出来るのであれば、圧倒的お手軽感を加味した上で、後でリポート掲載予定の和江城(中山城とは支城の関係か?)あるいは中山城と併せた同日訪問は充分お薦め出来るだろう。
城跡は京都府舞鶴市丸田にあって、既にリポート掲載を終えた丸田東城から見れば北西に聳える低山山頂に位置しており、その南麓には麻良多神社が鎮座している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、先に触れた丸田東城を起点とすれば分かり易い位置にあるので、細かい訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、登城口となるのは国道178号線沿いにある「八雲保育園」背後(画像に注目)からで、丘陵南端にある小さな社殿まで繋がる参拝道を利用して向かう事になる。そこからは尾根に沿ってそのまま北上すれば、20分程度で山上主郭までは辿り着ける筈である。
城跡概念図
城跡の形態は、概念図に描いたものにほぼ近いと思って頂ければ良いが、主郭は痩せ尾根地形を削平しただけに終わったものであり、全長は50m前後あるが、幅は最大で10m程度のものである。まさに砦規模の山城と言っても差し支えなさそうに思われるが、主郭西側の郭境の曖昧な段郭群には、唯一浅い堀切が施されている。これは片側が縦堀に繋がっており、更に土橋が備わる事から、充分見所遺構として成立するものと見た、ただ他で見応えのある遺構に巡り合える事が出来なかったのが残念な処ではあるが、、、
縦堀見所
現状(五月訪問)城跡は、比較的蔓延る木々は少なく、遺構見学とすればそれなりに見学し易い状態にあると思って頂いても良いが、郭境となる切立つ切岸の醍醐味、あるいは鋭角に刻まれた空堀の醍醐味には、全く触れる事は出来ないと思って頂きたい、ただ切岸跡は主郭側壁で僅かながら窺えるが、、、城跡を個人的に評価するのであれば、この由良川沿い一帯に数多く築かれた山城の城跡巡りの一環として訪れるのであれば、充分期待に沿える城跡と言った事になろうが、単独訪問となると興味を持たれた方だけが対象となる城跡と言った事になろうか、、、
城跡は京都府舞鶴市志高にあって、既にリポート掲載を終えた志高館城から見て、北側に対峙した丘陵上にあり、その南麓には現在若宮神社が祭られている。城史に関しての詳細は不明であるが、築城環境を考慮すれば、三上氏の居城志高城を本城と想定した場合、その出城と見るのが妥当なところか、、
城跡を訪れるには、志高館城を起点とすれば一目瞭然の位置にあるので、細かい訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、登城口はルート図に示した赤い鳥居で、若宮神社背後を丘陵上に向いて上り切れば、直ぐにでも南端出郭に施された縦堀を伴う堀切が迎えてくれる筈である。もちろん祠背後の縦堀が落ち込む先から逆に上っても良いが。
城跡概念図
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、主郭は南枝尾根先端に位置する出郭より更に北に向いて上った先にあり、そこを頂点として四方枝尾根上に郭が展開されるものと見受けられた、、、ただ全ての枝尾根上を踏破した訳ではないので、残存遺構も縄張りも概念図に示した限りではないものと思って頂きたい。規模(主郭は物見程度)やその形態から察する限り、志高砦の様に、多くの空堀が備わる技巧に富んだ山城の様にはとても思えなかったが、、、
北郭
現状(五月訪問)城跡は、年間数人程度のマニアックな山城ファンが訪れる以外、訪れるものは無きに等しい山城(推察)とみたが、比較的動き回り易く、見学し易い状態が自然維持されている。よって概念図に示したまでの遺構は、それなりに判別可能な状態にあると思って頂いても良いが、これといったインパクトのある遺構(高い切岸や薬研堀)にお目にかかる事は叶わず、最初に触れた縦堀を伴う堀切(土橋付)が唯一の見所遺構と呼べるものであり、安普請で築かれた砦規模の山城に、そう多くの期待は望めないだろう。城跡を個人的に評価するのであれば、「志高城砦群の本質を究めたい方だけにお薦め出来る城跡」と言った事になろうか、、、
城跡は京都府舞鶴市岡田由里にあって、既にリポート掲載を終えた荒張城からみて、小さな集落を跨いで北西側に対峙した低丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、荒張城を起点とすれば所在位置も分かり易いので、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、国道175号線「岡田由里」の信号からはルート図を参考にして頂きたい。現在主郭転用地には稲荷神社が祭られている事もあって、集落の西側からは参拝登山道を利用すれば迷わず上れる状況にあるが、概念図にその登山口(墓地背後)は示したので、是非それを参考にして頂きたい。
城跡の形態は、アバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、主郭から便宜上の三ノ郭までの郭総全長は軽く80mに達するものであり、山上における郭占有面積は比較的大きく、砦の域は充分はみ出た山城と言っても良いかも知れない。ただ三ノ郭の半分以上、あるいはその下段四ノ郭は一部藪化が深刻化した状態にある為、探索踏破は出来ずに終わっており、郭形状や残存遺構に関しては、概念図に示したままには決して終わらないものと思って頂きたい。その中にあって見所遺構と呼べるものは、主郭北端の尾根を断つ堀切、西側斜面に施された受け土塁を伴う堀切といった事になろうが、何れも縦堀を伴うものであり、見応えは充分感じられよう。切岸は主郭背後、あるいは二ノ郭東壁で高低差のある見事なもの(画像に注目)を拝める筈である。尚、主郭に建つ社殿背後には土塁の痕跡が残るが、造成整地後の残土とも受け取れる為、これは見学者の判断に委ねたい。
南西堀切(縦堀)見所
現状(五月訪問)城跡は、先に触れた様に主郭及び二ノ郭までは見通しも利き、それなりに動き回り易い状態にあるが、その下段にある三ノ郭も含めて、東側に展開される郭は身動きも取れないほどの低草木に覆われており、その形状さえ掴めない非常に醜い状態の下にある。それほど多くの郭が重なり合っているとは思えなかったが、、、西側斜面は植林地にある為、縦堀の全体像が拝める素晴らしい状態にあるので、取り合えず一安心と言ったところか、、、城跡を個人的に評価するのであれば、山城としての縄張り妙味には少し欠け(個人的主観)、更に状態も良いとは決して言えないが、確かな登山道で迷わず山上まで上れる事、状態の良い縦堀を伴う堀切が拝める事、高低差を伴う切岸の醍醐味には充分触れられる事、以上の材料が揃えば、自ずとお薦め出来る山城の一つ、と言う事にはなるだろう。
城跡は兵庫県三田市川原にあって、「高平ふるさと交流センター」の東側に聳える、標高約330mの低山山頂に位置しており、その南麓には「観福寺」が建立されている。城史に関しての詳細は不明であるが、山頂案内説明板には観福寺が十倉城主森本氏と縁のある寺院という事で、その勢力が築いた山城と推察されている。
城跡を訪れるには県道37号線に進入して「観福寺」あるいは「高原ふるさと交流センター」を目印として目指せば良いが、ルート図中には交流センターに車を預けた後の登城経路を示した。スタート地点には道標も掲げられており、歩き易い遊歩道で迷わず山頂までは辿り着ける筈である。ちなみに15分程度の所要時間
交流センター案内板
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、山上郭群の総全長は60m前後の、正しく砦規模の山城である。ただ中腹に位置する便宜上の西出郭も含めれば、それなりの山城という事にはなるが、、、現状当時の遺構として判別可能なものは、郭跡を除けば主郭北東尾根側に設けられた土塁(痕跡程度)及びその切岸、更に北東に下った削平地端に見止められた、堀切の痕跡(縦堀痕がある)程度と思って頂いても良いかも知れない。主郭には現在展望デッキが設けられており、僅かに中央がマウンド地形となっているが、どの程度地形改変があったものかは想像もし難く、郭側壁(斜面側)には切岸跡も見受けられなかったので、その祖形に関しては議論にも及ばないだろう。推察西出郭は山上郭群より規模では勝るが、金比羅祠が祭られている事による造成整地跡が窺え、当時の縄張りや規模は見学者の想像に全て委ねられるだろう、、、
現状(四月訪問)城跡は、山城としては非常に見学し易いコンディションの下にあるが、遺構見学を目的とすれば味気なさは否めないものであり、これを機に訪れる用意のある山城ファンの方には、自然と触れ合いながら山登りを楽しむ事を前提として、是非割り切って臨んで頂きたいと思うのである。ただ山頂から集落を望む展望(酒井砦や北砦などが望める)だけは、当時に思いを馳せるには持って来いといった値打ちのあるものであり、楚々とした山城の風情も味わえる事から、それなりに期待して臨んで頂いても良いのではないだろうか、、、史跡ファンの方や、手軽な山登りを好まれる方には是非お薦め!
城跡は兵庫県豊岡市下宮にあって、標高130m地点に位置する山上本郭群を頂点として、南東側に枝尾根を延ばした尾根上も含み、その尾根に挟まれた谷状地形に規模の大きい郭を配した、非常に郭占有面積の大きい大型の山城である。城史に関しての詳細は不明であるが、規模やその様相から察すれば、城郭寺院と位置付け出来るのかも知れない、、
城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた鎌田城を起点とすれば、その所在位置が分かり易い事から、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、「ナフコ」のある国道178号線からはルート図中に示した赤ラインを辿って頂きたい。登城入山口は鉄塔の聳える南側(画像に注目)で、鉄塔まではメンテナンス山道を利用して上り、そこから尾根に沿って北上を続ける事になるが、30分程度で迷わず山上本郭群へは辿り着ける筈である。ただし尾根上移動距離が長い事から、下山時迷わない為にも要所にマーキングは絶対必要!ただ大型虎口(推察)の設けられた東麓から、直接方形郭を目指して上る事も可能とは思えたが、、、
城跡の形態は、自身が今回踏破した範囲と、眼に留まった遺構を記した概念図を参考にして頂きたいが、起伏に富んだ山容や、山上から中腹、更に東麓にかけての縄張りが、広域に渡り過ぎ(推察)という事もあって、その全ての尾根上を踏破する事は叶わなかった。よって山上本郭群あるいは居館跡とも呼べそうな方形郭以外の郭群に関しての形状や規模、あるいはその形態に関しては少し想像を膨らませて頂きたい。見所遺構は概念図中に記したつもりだが、本郭群背後に刻まれた二連の堀切や、中腹郭群(僧坊跡かも?)中にある方形郭における見応えのある高土塁、及びその背後に施された空堀(横堀)といった事になるだろう。当然尾根上における郭跡も含めて鋭角に削り落とされた切岸も挙げられるが、とにかく状態の良い方形郭周りの遺構は決して見逃してはならない!そこから更に東麓に向いて下りれば、大型の土塁で形成された虎口跡(推察)も窺えるので、時間に余裕のある方は、是非この辺までは足を延ばして頂きたい。
現状(四月訪問)城跡は、直登道中も含めて蔓延る木々は比較的少なく、山城としては文句の付けようのない、見学し易い状態が自然維持されている。ただし山上本郭群に関しては、築城時期が少し遡るのかもしれないが、中腹郭群と比べれば遥かに地表風化は激しく、多くの木々が蔓延り、郭跡も含めて段郭境や僅かに窺われる土塁虎口跡などは、非常に曖昧なものと思って頂きたい。縄張り内全てを踏破した訳ではないので、今回は城跡を個人的に評価するには少し抵抗があるが、上記に挙げた全ての見学材料、あるいは変化に富んだユニークな縄張りプラン、郭跡に佇んだ際の圧倒的臨場感、それに見学し易い状態の良さまで含めれば、自ずと「是非お薦めしたい山城の一つ!」という事にはなるだろう。
城跡は兵庫県三田市上槻瀬にあって、集落西側に聳えるほぼ独立した山塊の山頂に位置しており、その中腹には妙見社がある。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには先にリポート掲載を終えた酒井砦と同様に37号線に進入する事が先決となるが、ルート図に記した「上槻瀬バス停」を目印として向かえばよいだろう。そこからはルート図中の赤ラインを辿って頂ければ良いが、山麓には「妙見山から砦跡」といった案内道標も備わっているので、妙見山を経由して上れば、迷わず主郭までは辿り着けるだろう。ちなみに所要時間は15分程度
城跡の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても差し支えないと思うが、山上本郭群の規模は小さく、痩せ尾根上に郭を並べただけの砦跡の名に相応しい山城である。ただ比較的規模の大きい妙見山敷地を妙見郭(推察)として見立てれば、それなりの山城とは言えるが、、、見所遺構として挙げられるのは、本郭群の両端に施された堀切という事になろうが、主郭背後に施された二連の堀切は縦堀を伴うものであり、充分見応えも感じられよう。前面の堀切は縦堀の痕跡程度と思って頂ければ良いかも、、、切岸跡は堀切壁で見応えのあるものを拝む事が出来るが、郭区画は段差程度である事からして、その見応えには期待しない方が良いだろう。
現状(四月訪問)城跡は、妙見山から砦跡までは道標の設置されたトレッキングルートとなっており、山上本郭群の一部に縄張りを描いた案内板が設けられていた様に、山城ファンを問わず史跡ファンの方にとっても非常に訪れ易い状況にある。自ずと縄張りも掴み易いが、斜面上も含めて地表風化は激しく、縄張り内全てが良いコンディションの下にあるとは言えないので、過度な期待は禁物!城跡を個人的に評価するのであれば、天然露岩を郭壁として縄張りに取り込んだ様は正しく山城のそれであり、規模は小さいが縄張りを形成する定番とも言える堀切が拝める事、更に散策気分で迷わず上れる事も含めれば、充分お薦め出来る山城といった事にはなろうか。楚々とした佇まいが素晴らしい!
城跡は兵庫県三田市酒井にあって、先にリポート掲載を終えた酒井砦から見れば、集落を挟んだ北側にあり、集落に向いて突き出した丘陵尾根先端に位置している。そしてその直ぐ西麓には友松寺が建立されている。城史に関しての詳細は不明であるが、酒井砦同様に十倉城を居城とした、森本氏配下にあった砦ネットワークの一つと見るのが妥当なところかも知れない、、
城跡を訪れるには、先に触れた酒井砦を起点とすれば一目瞭然の位置にあるが、友松寺を目印として目指せばよい。最短直登ルート取り付き口は概念図と画像を参考にして頂きたいが、駐車場入り口の向かい側(丸木橋を渡っても可)で、水の枯れた小さな沢を跨げば、目指す尾根上は直ぐ覗ける位置にあり、そのまま堀切の施された尾根上(右手)を目指せば、5分内で堀切までは辿り着ける筈である。主郭に祠が祭られてある事から、寺院とは別に参拝山道があった様には窺われたが、、、
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、砦の名に相応しい小規模な山城で、主郭両端に付郭を付随させた程度の、堀切の備わる定番の縄張りと思って頂いても良いだろう。ただし、堀切より以北の広い山上削平地とその北端に位置する片堀切地形(西側から山道が繋がる縦堀の痕跡あり)までを縄張りとすれば、それなりの規模を持った山城と言えるが、、、見所遺構と呼べるものは概念図に示したつもりだが、主郭で眼にすることの出来る土塁(一部消失か?)、更にその背後に施された両端が縦堀に繋がる堀切、主郭周囲を削り落とした切岸、といった事になるだろう。
現状(四月訪問)城跡は、主郭転用地に祠が祭られている事もあって、造成整地された跡は充分窺えるが、その祖形に関しては当時のままが自然維持されているものと自分の眼には映った。よって堀切も含めた遺構残存度は非常に高いものであり、山城とすればそれなりに見学し易いコンディションにある事、駐車場からは数分の距離にある圧倒的お手軽感、更にその佇まいの素晴らしさ(個人的な趣向が入る)も含めれば、充分お薦め出来る山城の一つ、と言えるのではないだろうか。
城跡は兵庫県三田市酒井にあって、国指定文化財となっている高売布(タカメフ)神社から見れば、北西側のほぼ独立した低山山頂に位置している。城史に関しての詳細はは不明であるが、森本氏が居城とした十倉城がほど近い距離にある事を思えば、その南側を牽制した砦跡と解釈するのが妥当なところかも、、、
城跡を訪れるには37号線に進入する事が先決となるが、先に触れた高売布神社を目印として目指せば、今回車を預ける事になる駐車場までは迷わず辿り着けるだろう。そこからはルート図に示した赤ラインを辿って頂けばよいが、集合墓地まで到着すれば、その背後から前の開けた植林地を山頂目指して上ればよい。ちなみに墓地からの所要時間は10分内
城跡の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても差し支えないと思うが、主郭に帯郭が付随した小規模極まりないものであり、郭総全長は30mにも満たない、正しく砦跡と呼ぶに相応しいものである。自ずと眼に留まる遺構も限られており、郭跡を除けばその側壁となる切岸、主郭背後斜面を断つ堀切だけに限られてくるのが現状である。堀切には現状土橋も備わるが、これは山林作業用に近世施されたものと見るのが妥当なところかも知れない、、、
現状(四月訪問)城跡は、無名に近い砦跡としては非常に見学し易い状況にあるが、遺構見学とするには材料も乏しく、見応えにも期待し難い事から、今回のリポートに興味を持たれた播磨を拠点として城跡巡りをされている、山城ファンの方だけを対象として、規模や縄張り妙味は絶対問わない事を前提にお薦めしたい。この後リポート掲載予定の酒井北砦、あるいは上槻瀬砦などと併せた同日訪問は充分お薦め出来るが、、、
城跡は兵庫県豊岡市奥野にあって、先にリポート掲載を終えた堀ノ内館の直ぐ東側に突き出した低丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、機能及び規模から察すれば、堀ノ内館の詰め城と考えるのが妥当なところか、、、
城跡を訪れるには、堀ノ内館東端の溜め池前にある獣避けフェンスを開閉して、直ぐフェンス右手側(溜池左手側は堀ノ内館の土塁、空堀へ)の丘陵端に取り付いて上ればよい。そのまま丘陵上を目指せば、藪漕ぎなしで数分で主郭までは辿り着けよう。
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、北端堀切までの郭総全長は40mにも満たない砦規模の山城である。堀切は主郭及び北端尾根を遮る形で二本確認、切岸は主郭及び帯郭の境で充分確認出来るが、地表風化は激しく郭境となる切岸ラインまでは読み取る事が出来ないのが現状と思って頂ければ良いだろう。更に主郭跡も自然地形に近い凸凹状態となっており、僅かな地形の変化から郭区画を判断するのは非常に困難な状況でもある。見所遺構は二本の明瞭な堀切、及びその切岸だけと言っても決して過言とは思えないが、砦規模の山城にそう多くは望めないだろう。
堀ノ内館の直ぐ北背後の尾根先端部に築かれた山城(奥野西城)は、空堀を越えてそのまま丘陵上を目指せば直ぐにでも到達出来るが、ほぼ物見程度の砦跡と思って頂いても差し支えないだろう。自然地形に近い痩せ尾根上(20m前後)を山上主郭とし、その前面(縦堀)と背後に堀切を施したものであるが、見応えには少し欠けるかも、、
現状(四月訪問)二城共に、山城としては郭移動も容易く、それなりに見学し易い状況にある。二城共に規模は小さく、見応えのある遺構は望めそうにないが、堀ノ内館の本質を究めたい山城ファンの方にとっては、三城同日訪問は充分お薦め出来るだろう。
城跡は兵庫県豊岡市奥野にあって、名が語る様に館城らしくほぼ平城に近いものである。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた市場城、あるいは三宅城訪問ルートと同様に、703号線に進入する事が先決となるが、奥野集落に入ればルート図における赤ラインを辿って頂きたい。目印となるのは無線施設のある高い鉄塔で、概念図に示した付近の畦道を利用して向かえば、直ぐにでも広大な規模を誇る居館跡地(推定地)らしき休耕地へは辿り着けよう。ただこの地が数百年に至る現在まで、農作地としてどこまで地形改変があったものか想像も付き難いが、自身の眼にはほぼ当時の祖形は失われず、現在までほぼ維持されているものと映ったのである。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、推定居館跡とした休耕地北側には、側溝を挟んで一段高い位置に幅50m前後の郭跡が未だ残っている。これはほぼ当時のままとも思えたが、その背後には土塁、更にその背後には比較的状態の良い空堀(本来は水堀かも)が、東側の溜池まで未だ僅かな水を湛えながら残っている。この空堀には唯一山上郭(奥野西城)に向かう為(推察)の土橋が架かるが、土塁開口部も含めて当時のものかどうかの正否の判定は非常に困難、、、尚、推定居館跡地の南端中央には張り出し部分があるが、集落を監視する為の見張り台程度のものがあったのではないだろうか、、、謎。
現状(四月訪問)城跡は、遺構見学としても史跡見学としても、それなりに見学し易い状況にあると思って頂いても良いが、土塁及び空堀見学の為には、東溜池側にある獣避けフェンスを開閉(画像に注目)して、フェンス北背後に回り込む必要がある、念の為に、、、城跡を個人的に評価するのであれば、圧倒的お手軽感を加味せずとも、他では中々お目にかかれない状態の良い見応えのある空堀が拝める事を理由に、充分訪れる値打ちのある城跡と言った事になろうか、とにかく空堀は一見の価値ありと見た、素晴らしい!尚、山上郭(西城)の現況に関しては、次の奥野東城に同時掲載予定
城跡は兵庫県豊岡市加陽にあって、標高103m地点にある推察砦跡を頂点として、南尾根上一帯を城域とした城郭寺院と呼べるもので、現地案内縄張り図に記されている様に、城域は南北300m、東西300mにも及ぶものであり、尾根上を本郭群として東西麓まで郭が重なり合う様は、まるで要塞を感じさせるものでもある。
城跡を訪れるには、数年前既にリポート掲載を終えた加陽城を起点とすれば、その所在位置も分かり易い事から、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、スタート地点とする中山神社からは、散策コースが千眼寺城跡まで繋がっているので迷わず辿り着けよう。ここではルート図中に、造成された空き地奥にある入山フェンス(画像に注目)をスタート地点とした、最短直登ルートを示したが、古墳が多く点在する蔓延る木々の少ない傾斜面を10分程度上れば、北端最高所に位置する砦跡までは、迷わず辿り着ける筈である。
城跡の形態は、現地縄張り図に描かれていなかった部分を、千眼寺城北山上郭跡として概念図に示したので参考にして頂きたいが、ここでは古墳を縄張りに取り込んで築かれた、古い形態の山城遺構を眼にする事が出来る筈である。ちなみに私見に基くものになるが、僅かに窺われる土塁の付随した空堀跡(横堀)、古墳を土塁郭として利用した土塁間における堀切跡、主郭周囲を鋭角に削り落とした切岸などがそれに当たる。この地から南に向いて少し足を延ばせば、直ぐに縄張り図の描かれた案内板のある千眼寺城跡本郭群に辿り着けるが、その尾根上では広大な規模を誇る郭群、及びそれに付随する大型の土塁、尾根中央を遮断する見応え抜群の大堀切などを眼にする事が出来よう。個人的には遠距離訪問となる為滞在時間も限られており、城域全てを踏破探索した訳ではないので、他の残存遺構に関しては評価することが出来ないのだが、縄張り図を見る限り、時間を割いてでも踏破探索する値打ちのある城跡と感じられた事だけは付け加えておきたい。
現状(四月訪問)城跡はそれなりに整備が行き届いており、散策ルートで郭移動も容易く、蔓延る木々も意外に少なく、更に郭内の見通しも利き、遺構見学としては非常に楽しめる状況の下にあると思って頂いても良いだろう。ただし自身が踏破した北山上郭より尾根上本郭群のみに限られるが、、、城跡を個人的に評価するのであれば、豪快な城郭寺院の縄張りに触れる事が出来、更に高低差を誇る切岸の醍醐味に触れる事が出来、見応えのある空堀、土塁遺構が拝める事、トレッキング気分で迷わず城跡まで辿り着ける事、これだけの見学材料が揃えば、自ずと是非お薦め出来る城跡の一つ!といった事にはなるだろう。山城ファンの方に限らず、史跡ファンの方までも含めて是非お薦め!
城跡は京都府南丹市日吉町胡麻にあって、標高約250mの山上に位置しているが、既にリポート掲載を終えた東胡麻城から見れば、農作地や集落を挟んで真北側にある。城史に関しての詳細は不明であるが、宇野氏の築いた東胡麻城及びその居館跡ともいえる野化館の築城環境を思えば、その機能は集落を北から監視すべく見張り城(砦規模)と考えれば良いのかも知れない、、、
城跡を訪れるには、先に触れた野化館と同様の訪問ルートとなる為、細かい説明は割愛させて頂くが、50号線から城跡までの進入経路はルート図を参考にして頂きたい。登城口は少し分かり辛いので画像を載せたが、獣避けフェンスを潜ればかつての踏み跡程度の山道(空堀道の様相)より一直線に山上を目指す事が肝心となる。少しでもそれると山上まではなだらか斜面となるので、山腹を徘徊する事になる!ちなみに所要時間は藪漕ぎなしで10分内
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、全長30m程度の単郭で成立した、砦規模の山城と思って頂ければ良いだろう。自ずと眼に留まる残存遺構の数も知れているが、郭側壁を形成する切岸跡、西尾根に向いた僅かに窺われる受け土塁跡、これも僅かではあるが空堀(横堀)の痕跡、といったところが判別し易い遺構群という事になろうか、、、ただ見応えには随分欠けるので、これを機に臨まれる方には、遺構に過大な期待は絶対にしない事が肝心と思えた。
現状(四月)城跡は登城道中もさることながら、藪漕ぎまでには至っていないが、枯れ木の隙間を縫いながらの移動は余儀なくされる状況にある。城跡を個人的に評価するのであれば、京丹波地区を拠点として山城巡りを楽しんでおられる方には、それなりに値打ちのある山城と言えるかも知れないが、遠距離訪問でわざわざ出向いてまで訪れる山城と言えるかどうかは、、、?と言った事になろうか。
城跡は兵庫県豊岡市栄町にあって、標高約110mの低山山頂に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、この一帯を所領とした山名氏の家臣、田結氏に関連した支城跡と見るのが妥当なところか、、ちなみにこの田結氏は鶴城を居城とした山名四天王の中の一人
城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた鎌田城や奥笹谷城を起点とすればその位置も分かり易い事から、細かい訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、160号線沿いにある栄町団地付近からはルート図の赤ラインを辿って頂きたい。生活道路の行き止まり地点にある、目印としたボート置き場(画像に注目)が直登スタート地点となるが、そこから前の開けた木々の少ない急斜面を上れば、10分内で主郭までは辿り着けよう。
城跡の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても差し支えないと思うが、本郭群は主要三郭と段郭群で形成されたものであり、規模の大きい尾根上削平地まで含めた郭総全長は100mに達するものであり、砦の域は充分はみ出た山城と言っても差し支えないだろう。見所遺構は概念図には示したが、主郭における受け土塁や上り土塁、尾根を遮る形の豪快な堀切(箱堀)、鋭角に削られた切岸などは、充分見学者の眼は楽しませてくれるだろう。現状(四月訪問)本郭群内部は、直登道中と同様に蔓延る木々は比較的少なく、郭内の見通しは利き、訪れる人の少ない無名に近い山城とすれば、非常に遺構の判別し易い動き回り易い状況にあると思って頂いても良いだろう。
城跡を個人的に評価するのであれば、四季を通して見学し易いコンディションが自然維持されていると思われた事、それが故に縄張りが掴み易い事、切立つ切岸(遺構)の醍醐味に充分触れられる事、更にお手軽感まで加味すれば、自ずと是非お薦め出来る山城の一つ!と言う事にはなるだろう。個人的には効率の良い三城同日訪問とは行かなかったが、先に触れた鎌田城、奥笹谷城と併せた山城巡りは是非お薦め!
城跡は京都府南丹市日吉町殿田にあって、二方を川に挟まれた殿田集落の西側に聳える、標高約280mの険峻極まりない山頂に位置しており、その東麓にはこの地を所領とした梅若家の菩提寺でもある曹源寺が建立されている。尚、この梅若家は明智氏の家臣梅津氏が改姓したもので、ネット上でアクセスすれば明智が滅んだ後の事に関しては分かるとは思われる。尚、御住職から聞き及んだ話によれば、梅若氏の墓所及び屋敷跡は線路を隔てた東対岸に今でも残っており(林藪となっている)、かつては井戸跡まであったそうである。ちなみにこの山頂に位置する山城は光秀の築いた砦跡と伝わっているとの事、、、
城跡を訪れるには、県道19号線に進入する事が先決となるが、先に触れた曹源寺を目印として目指せば分かり易いだろう。殿田集落に入ればルート図を参考にして頂きたいが、車は図中に記した広い路肩に停めれば問題はないだろう。直登取り付き口は寺院背後の集合墓地としたが、ここから山頂までは激斜面ではあるが、前の開けた植林地となっているので目標は定め易く、休まず上れば20分程度で山頂までは辿り着ける筈である。ただ登山する覚悟は必要!
城跡の形態はほぼ概念図に近いものと思って頂いても差し支えないと思うが、段差程度の郭境で区画された本郭群の南北両端は、山城の定番とも言える堀切で遮られた形となっており、櫓台と呼ぶに相応しい小規模な土塁壇背後には土塁跡、更にその背後には縦堀を伴う空堀が施されている。低土塁は本郭群西側を覆う形で施されているが、蔓延る矢竹によって判別はし難いものと思って頂ければよいかも、、、、本郭群から山上尾根を更に南に移動すれば、城域南端における最後の堀切とも呼べる、明瞭な片堀切(縦堀)を眼にする事が出来るが、本来は尾根を遮断する形の堀切だったのかも知れない、、、私見になるが山林作業用に埋められた可能性あり。北端にも堀切が施され、更にクランク状になった溝程度の空堀も眼に留まったが、現状余りにも浅く、機能の想像はほぼ見学者の想像に委ねられるだろう。
東側縦堀見所
現状(四月訪問)城跡は、無名に近い山城としてみればそれなりに見学し易い状況にあると思って頂いても良いが、山上郭群自体が東側斜面にずれ動いた形(御住職の見解)となっており、それに加え地表風化も激しく、更に蔓延る矢竹で地表の露見していない箇所も多々あり、曖昧な本郭群の郭区画、あるいは形状に関しては推察を交えたものと思って頂きたい。城跡を個人的に評価するのであれば、自分を含めた激斜面登山に慣れた山城ファンの方には、楚々とした山城の風情が味わえる事、更に三本の空堀と土塁が拝める事を理由にすれば、充分お薦め出来る山城とは言えるが、状態や規模、あるいは縄張り妙味までは問わない事が大前提となろう、、、
城跡は京都府亀岡市曽我部町法貴にあって、数年前既にリポート掲載を終えた法貴山城から見れば、その裾野を広げた北東麓にある。城史に関しては波々伯部氏の居城を伝えるが、明智光秀による丹波攻略以前は酒井氏の居城とも伝わっているので、この地を統治していた城主の時代背景までは分からないのが現状と言えようか、、、
城跡を訪れるには、国道423号線に進入する事が先決となるが、「慈雲禅寺」を目印として目指せば良いだろう。車は寺院駐車場に預ける事になるが、そこからは概念図に示した直登ルートを辿って頂ければ、北端にある空堀端(現状溜め池)までは直ぐに辿り着ける筈である。
城跡の形態は居館跡に相応しく、主郭と察せられる広大な規模の郭背後には土塁、更にその背後には大空堀が施されたものである。この空堀は西側から北側の溜池まで、土塁に沿って縦堀となって落ち込んでいるが、かつては南側にも施されていたのかも知れない(消失した可能性あり)、、、現状主郭は地表風化が激しく、土塁からの土砂流出のせいもあってか、なだらかな傾斜面と化しており、切岸跡は主郭東側に重なる規模の大きい郭跡で充分拝めるが、民間における近世の屋敷跡かも知れないので、これは見学者の想像に委ねられる部分となろう、、、
大空堀見所
現状(二月訪問)城跡は植林地帯(主郭)と竹林地(東郭側)が共存した状況にあり、間伐されて放置された木々や、蔓延る低草木で郭内をくまなく歩き回る事は困難な状況にあり、更に地表風化も追い討ちをかけた状態となっている。アバウトに描いた概念図が探索踏破した範囲、あるいは眼に留まった遺構群と思って頂ければよいが、館跡の名が語る様に、これ以上の残存遺構は望めないのかも知れない、、、城跡を個人的に評価するのであれば、状態は悪いが見応えのある空堀と土塁が拝める事を理由にすれば、それに圧倒的お手軽感を加味した上で、何とか期待に応えてくれる城跡と言ったことになろうか、、
城跡は京都府南丹市日吉町田原にあって、北側を天然の水堀とした低丘陵上に位置しており、その佇まいは丘城とも呼べる、同じ南丹市内にある野化館と合い通じるものがあり、広大な規模を誇る主郭、及びその背後を固める大土塁や大空堀は、居館跡(推察)と呼ぶに相応しいものと自分の眼には映ったのである。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた片野城を起点とすれば分かり易い位置にあるので、城跡までの訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、車を預ける事になる橋の袂の運動場からはルート図の赤ラインを辿ればよい。画像に示した畦道が城跡へ向かう為の登城進入路となるが、獣避けネットを潜り、その正面に望める丘陵をそのまま目指して上れば、数分で垂直に切り立つ切岸が歓迎してくれる筈である。
城跡の形態は、自身が踏破した上で判別確認した遺構を記した、概念図を参考にして頂きたいが、先に触れた様に館城とも言えそうな佇まいで、主郭東背後には一部櫓台を兼ねたかの様な巨大土塁、更にその背後には巨大空堀(V字形の深い薬研堀)、更に便宜上の副郭を挟んだ形で縦堀を伴う堀切、その長く連続する堀切には堀底から立ち上がる土塁まで付随しており、その見応えも含めて正に圧巻!と呼ぶに相応しい遺構を拝む事が出来よう。土塁は主郭背後だけには終わっておらず、主郭南側に低土塁として残り、更に西南隅には受け土塁跡まで残っている。郭総全長は東西70m前後といったところではあるが、丘陵上における郭占有面積は非常に大きいものであり、ほぼフラットに近い広大な主郭跡に佇めば、当時に思いを馳せる事も容易く、抜群の臨場感を感じる事が出来るだろう、もちろん堀切や土塁なども全体像の窺える、非常に見学し易い良い状態にあるので、その見応えまでは語るまでもないが、、、とにかく遺構の見応えだけに関しては、賛辞の言葉も失うほどのもの!と思って頂いても良いかも知れない、、mmm 素晴らしい!
現状(四月)城跡一帯は植林地となっているので、蔓延る雑木は比較的少なく、移動も容易く、更に見通しも利き、非常に見学し易いコンディションの下にあると思って頂いても良いが、恐らく四季を通して見学し易い状態は維持されているものと思われる。城跡を個人的に評価するのであれば、間違っても期待外れには終わらない、背中を押してでもお薦めしたい城跡の一つ!という事になるが、これを機会に臨まれる方には、先に触れた言葉を目安にして、是非期待して臨んで頂きたいと思うのである。
城跡は京都府南丹市日吉町田原にあって、「片野バス停」より橋を渡った直ぐ東側に望める、集落の西側に突き出した低丘陵上先端に位置している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、数年前既にリポート掲載を終えた田原城を起点とすれば、その所在位置も分かり易いと思われるが、県道19号線に進入する事が先決となる。目印として先に触れた「片野バス停」を目指す事になるが、概念図には墓地を取り付き口(画像に注目)とした、城跡への最短直登ルートを示した。主郭に小さな祠が祭られている事から、麓からの参拝山道はあったようだが、その登山口は分かり辛いので、ここでは墓地背後の植林地帯を上り切れば、直ぐにでも辿り着ける直登ルートをお薦めしたい。
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、低丘陵上を東に向いて広大な削平地で占める西側片隅に本郭群は構えられたものである。その西端には更に付郭が付随しているが、全長30m前後ある主郭自体はほぼ方形郭に近いものである。少ない遺構の中にあって見所遺構として挙げられるのは、切岸を除けば付郭西斜面上に刻まれた明瞭な縦堀(現状三本確認可能)、主郭背後に施された土塁と深さの失われた横堀、といった所になるが、更に主郭南側側壁に土塁の痕跡が見止められた事だけはお知らせしておきたい。
現状(四月訪問)城跡は、主郭に祠が祭られているせいなのかも知れないが、多少人の出入りがあるとみえて、遺構の判別確認し易い状態が自然維持されている。もちろん見学に差し障りない程度の状態なのだが、、、個人的に城郭遺構に見応えまでを感じる事は出来なかったが、圧倒的お手軽感を加味して、この後リポート掲載を予定している、車で移動すれば直ぐの距離にある、遺構残存度が高く素晴らしい城郭遺構の拝める亀田城と併せた、二城同日訪問は是非お薦め出来るだろう。
城跡は京都府船井郡京丹波町井尻にあって、先にリポート掲載を終えた井尻南城から見て、農作地を跨いだ南側尾根先端部に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、南城と同様に規模で勝る北城を本城と想定した場合の、一城別郭から成る城跡の一つと解釈すればそれでよいのではないだろうか、、ここでは便宜上「南支城」としたが、城跡呼称に関しては何時も通り柔軟に対応して頂きたい。
城跡を訪れるには、南城と併せた二城同日訪問とした場合、南城の東側斜面を民家側の農作地まで下りきり、畦道を利用して登城口となる墓地まで足を運べばよいだろう。画像を載せた墓地からは縦堀地形に沿って上る事になるが、直ぐに堀切が迎えてくれる筈である。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、居館跡とも言える様相を呈しており、ほぼフラットに近い規模の大きい東郭跡(全長40m以上)の背後には、規模の比較的大きい推定主郭(櫓台)、更にその背後には土塁及び堀切と、居館跡とすれば定番とも言えるシンプル極まりない縄張りを特徴としたものである。切岸は推定主郭側壁(高低差6m前後)と本郭群南側斜面で充分拝めるが、何れも鋭角に削り落とされたものであり、見応えは充分なものとなっている。北側は墓地となっており、造成整地も充分考えられる事から、東郭切岸(墓地側)をそのまま当時のものとするには、少々無理があるかも知れない、、、
縦堀見所
現状(三月訪問)館跡とも言えそうな規模の大きい東郭には、相当量の雑木が蔓延っており、郭内をくまなく歩き回る事は困難を極め、更に見通しも利き難い状況にあるが、見所遺構となるクランク状になった縦堀を伴う堀切、その堀底から立ち上がる切岸、主郭背後の大土塁などは、判別の容易い状況下にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価するのであれば、南城も含めた一城別郭とした井尻城の本質を究めたい方には、当然是非お薦め出来る城跡の一つ、という事になるが、土塁、切岸、空堀の拝めるこの城跡は、お手軽感を加味せずとも、単独訪問としても立派に遺構見学が成立する、「充分お薦め出来る城跡」といった事になろうか、、、
この城跡に関しては、数年前既に井尻城(本城)としてリポート掲載は終えているが、その時地元で得た情報として、本城から見て南側尾根先端にも馬場跡と伝承されている城郭遺構があるとして、ルート図中に推定馬場跡として所在地を記した記憶がある。しばらくこの城跡の存在は頭から離れていたものの、今回は気になっていたその推定馬場跡を覗くべく、再び当地を訪れる事になったが、結果として地元に伝わる馬場跡とは裏腹に、小規模ではあるが本格的山城の様相を呈した、ほぼ完存とも思える遺構残存度の高い城郭遺構と対面出来た事を最初にお伝えしておきたい。
城跡は京都府船井郡京丹波町井尻にあって、井尻本城からみて真南側の尾根先端部にあるが、訪れるには登城ルート図あるいは本城を起点とすれば一目瞭然の位置にあるので、細かい訪問ルートの説明は割愛させて頂く。車を預ける事になる公民館からの進入経路は画像及びルート図を参考にして頂きたいが、目印とした一本杉手前の畦道から進入して、民家脇から始まる丘陵上に繋がる山道に合流すれば、数分で本郭群には辿り着ける筈である。城史に関しての詳細は不明であるが、その築城環境を踏まえれば、北城を本城とした一城別郭の城と考えるのが妥当なところか、、、
城跡の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても差し支えないとは思うが、本郭群は主要三郭と帯郭で形成された、郭総全長は60mにも満たない砦規模の山城である。ただ最初に触れた様に、その佇まいは城郭を形成する三要素(切岸、空堀、土塁)を見て取る事の出来る、本格的山城のそれと思って頂いても良いだろう。眼に留まった城郭遺構は、郭跡を除けば切岸(郭境と側壁)、主郭背後に施された堀切(横堀)、それに付随した土塁跡、といった処になるが、何れも見所遺構と言って良いものであり、充分見学者の眼は楽しませてくれる筈である。自身は地元の方の情報(馬場跡)を鵜呑みにして訪れた事もあって、土塁と堀切まで備わる山城遺構と対面出来た喜びは、その意外性も含めて中々言葉では言い表せないものがあるのだが、これを機に臨まれる方は、是非期待して臨んで頂いても良いのではないだろうか、自ずと是非お薦め出来る山城の一つ、といった事にはなるが、規模や縄張り妙味までは問わない事が大前提、、、
城跡は訪れた時期(三月)が幸いしたせいもあるが、蔓延る木々は意外に少なく、郭内の見通しは利き、遺構の判別確認は容易く、夏季訪問においても状態予想の付き易い、非常に見学し易い状況にあると思って頂いても良いだろう。尚、この城跡の更に南側尾根上にも城郭遺構が存在する事を現地で聞き及んだが、その現況に関しては南支城として次にリポート掲載予定
城跡は京都府船井郡京丹波町和田垣内にあって、数年前既にリポート掲載を終えた垣内城から見て国道9号線側に近い南枝尾根先端部に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、その形態や規模あるいは築城環境から察すれば、垣内城における街道監視用の砦跡(出城)、あるいは平常時における居館跡といった事になるのかも、、、
城跡を訪れるには、先に触れた垣内城を起点とすれば分かり易い位置にある事から、城跡までの細かいアクセス方法は割愛させて頂くが、国道9号線「和田みどり橋」の信号からは、ルート図に示した赤ラインを辿って頂ければ迷わず辿り着けよう。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、目に留まる残存遺構は数も少なく限られており、本郭群と見受けられる規模の大きい郭跡の北端には、見所遺構の一つとも言える随分高低差の失われた土塁跡、その背後には尾根を遮る形で堀切(現状薄い横堀)が施されたものである。土塁は南端にも受け土塁の形で土塁の痕跡、切岸跡は尾根上はほぼ削平しただけに終わっており、その南端郭(墓地)から覗いた主郭土塁壁(画像に注目)、あるいは側壁の一部で窺える程度と思って頂いても良いかもしれない。もちろん切岸の醍醐味にも到底触れる事は出来ないが、、、
南端切岸跡見所
現状(一月訪問)城跡は遺構の判別確認し易い、山城としてみれば非常に見学し易い状態にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価すれば、車を駐車して5分とかからず本郭群まで到達可能な、圧倒的お手軽感を加味した上で、垣内城がまだ未訪の方、あるいはここからほど近い距離にある橋爪城などと併せた同日訪問とするのであれば、山城巡りとしての効率も良く、「充分お薦め出来る城跡の一つ」、と言った事にはなろうか、、、
城跡は京都府船井郡京丹波町橋爪にあって、数年前既にリポート掲載を終えた橋爪城から見れば、農作地を挟んだ直ぐ西側低丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、街道筋からほど近い利便性、あるいは土塁で郭周囲を固めた様相は、正しく居館跡の佇まいを想像させるものである。よって橋爪城を山内氏一族の居城(明らかにはされていない)とすれば、こちらはその居館跡という図式が成立するのかも知れないが、推察の域は出ないものである、、、
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、郭周囲を土塁で囲んだものであり、現状北側が高土塁、他は低土塁となっており、高土塁背後には空堀(横堀)が施されている。東側空堀の外側には更に土塁まで施されており、武者隠し的な役割を担った空堀は想像されよう。切岸跡は郭周囲でそれなりのものを拝む事が出来るが、特に西側の民家側から覗いたものは状態が良いものであり、充分覗く値打ちありと言ったところか、、、土塁は先に触れた様に、内壁高低差4mある高土塁と低土塁とに明確に分類されるが、当時築かれた土塁が風化に任されるまま、そのまま現在に至ったものとは到底思えない(農作地としての日当たり効果を考えて後世削られた感あり!)ので、虎口が土橋付き空堀状になった地形(近年埋められた感あり!)と共に、全て見学者の判断に委ねられるだろう。
高土塁背後、空堀
城跡を個人的に評価すれば、民家や農作地がが直ぐ傍まで迫りながらの高い遺構残存度、遺構の見応え、京丹波地区で高土塁の施された居館跡(推察)はめったにお目にかかれないその希少性、更に圧倒的お手軽感も含めれば、規模さえ問わなければ充分お薦め出来る城跡の一つと言う事にはなろうか。
城跡を訪れるには橋爪城や垣内城を起点とすれば分かり易い位置にある事から、細かい訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、ルート図に示した国道9号線の「橋爪」信号を目印として目指せば、付近までは難なく辿り着けよう。後はルート図の赤ラインを辿って林道に進入すれば、右手民家東側に農作地と共にそれらしい切岸跡(画像に注目)が確認出来るので、そこが城跡と直ぐ分かる筈である。林道に進入すれば直ぐ右手側に農作業小屋が見えてくるが、その上段の荒地が城跡への進入地点となる。直ぐにそれと分かる空堀、高土塁が迎えてくれよう。
城跡は京都府南丹市園部町竹井にあって、県道54号線に面したほぼ独立した形の丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには県道54号線に進入する事が先決となるが、既にリポート掲載を終えた仁江城がここから北東側に聳える山の山頂にある事から、これを起点とすれば所在位置も分かり易いだろう。県道沿いにある摩気神社バス停を目印として目指せば更に分かり易いが、その県道を挟んだ向側には天神社へ上る為の参拝山道(画像に注目)があるので、山上本郭群までは数分で迷わず辿り着ける筈である。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、山上最高所を主郭とした砦規模の城跡と思って頂いても良いだろう。現状社殿敷地を含めて、城跡南側斜面も道路造成により相当削られた状況となっており、当時の郭形状や残存遺構に関しては見学者の想像に委ねられる部分が大きいが、主郭北にある虎口地形や、その北斜面上で目に留まる空堀土塁地形などは当時の遺構と見て良いのかも知れない、、、東郭では土塁痕も目に留まるが、これも想像に委ねられ部分、切岸は北側斜面で充分確認可能となっている。
東下段郭の土塁痕?
現状城跡は主郭を始めとして歩き回り易く、非常に見学し易い状況にあるが、遺構見学に重きをおいて赴く方にとっては、残存遺構の正否の判定も含めて、想像に委ねられる部分は多く、遺構に過大な期待を持って臨まないことが肝心とは思えた。個人的に城跡を評価するのであれば、城跡としての風情は充分味わえた事から、城跡巡りの一環、あるいは神社参拝ついでとして訪れるのであれば、圧倒的お手軽感も加味して、それなりに期待に応えてくれる城跡と言った事になろうか。
城跡は兵庫県豊岡市岩井にあって、既にリポート掲載を終えた小城鼻城から見て713号線を間に挟んだ真東側の、標高60m程度の低丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、先に触れた小城鼻城を起点とすればその所在位置も分かり易い事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、713号沿いから直ぐ目に留まる清掃センターを目印として車を走らせればよいだろう。そこからはルート図あるいは概念図を参考にして頂きたいが、画像を載せた神社石鳥居脇の集合墓地より山道に任せて丘陵上を目指して歩き、清掃センターが遠くに見えてきた地点で右手に進路変更(左手丘陵上には古墳らしき跡がある)、更にそのままなだらかな斜面を上れば、城域となる広い削平地(薄い空堀が確認可能)が直ぐに迎えてくれる筈である。本郭群へは更に北へ上り続ける事になるが、、、
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、本郭群は南北両端に刻まれた堀切間における、規模の大きい郭群(ほぼ三郭構成か?)がそれの様にも見受けられた。その全体像は大味な縄張りプランも相俟って、館城の如き佇まいと思って頂ければ分かり易いかも知れない、、、現状(12月訪問)主郭と察せられた規模の大きい郭跡では変形の土塁跡、あるいは仕切り土塁跡を窺うことが可能となっているが、郭内の藪化は冬季訪問であるにも拘らず相当深刻化しており、郭内部をくまなく探索することは困難極まりない状況にある。概念図に描いたまでが自身が踏破探索出来た範囲を示したもので、更に判別確認出来た遺構群と思って頂ければ良いが、郭形状などは推察を含めたものと思って頂きたい、、、、
北端堀切見所
城跡を個人的に評価するのであれば、残存遺構に見応えまでを感じる事は出来なかったが、豊岡市内に数多く築かれた城跡巡りの一環として、少し立ち寄る程度なら何とか無駄足には終わらない城跡と言ったところか。
この二城は同じ京都府南丹市八木町にあって、字名がそのまま城跡呼称と思って頂ければよいだろう。まず八木町山室にある山室城は標高約205mの山上を本郭群とした場合、北西側枝尾根先端部における、便宜上の西出郭までが城域と見受けられるものである。城史に関しての詳細は不明
山室城跡を訪れるには国道9号線に進入する事が先決となるが、「吉冨」の交差点で東進、そこからはルート図を参考にして頂きたいが、画像を載せた山室地区にある消防ポンプ施設を目印として目指せばよいだろう。この施設脇が今回の登城口とした場所で、僅かながら踏み跡程度の山道が西出郭まで繋がっており、藪漕ぎもなく数分で迷わず辿り着ける筈である。ちなみに山上主郭までは10分程度
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、西出郭には僅かながら空堀の痕跡が残り、更にそこから山上に向かう東尾根上には、限りなくフラットに近い削平地が100m以上にも渡っても連続している。本郭群へは更にそこから高低差約40m近くを上る事になるが、仕切り土塁(推察)を挟んだ形の広大な郭跡が数分後には迎えてくれる筈である。尚、仕切り土塁としたものは、幅はあるが高低差は随分失われており、見応えまでは到底望めないので、切岸も含めて残存遺構に対しての過大な期待は禁物と思えた、、、
鳥羽城跡に関しては、ルート図中に駐車可能地点の画像は載せたが、直登取り付き口は用水路沿い先で、上り易そうな植林地帯まで歩き、そこから尾根上に向いて激斜面を上れば、10分内で本郭群までは辿り着けよう。その形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、郭跡を除けば僅かに土塁跡の痕跡が窺える程度の城跡と思って頂いても差し支えないかも知れない、、、とにかく状態も良くないが、残存遺構に過大な期待は禁物とも思えたので、これを機に訪れる用意のある方には、是非この言葉を目安にして臨んで頂きたい。
二城共に明瞭な空堀は拝めず、見応えのある遺構は皆無、更に縄張り妙味も感じられないとあれば、とてもお薦め出来る城跡とは言えないが、興味を持たれた方にとっては、八木町に点在する城跡巡りの一環として、二城同日訪問とすれば効率も良く、それなりに楽しめるかも知れない、、
城跡は兵庫県豊岡市出石町袴狭にあって、先にリポート掲載を終えた袴狭城からも望む事が出来る、畑地を挟んだ真北側低丘陵上に位置している、この城跡は袴狭城リポート記事中で触れた様に、地元で始めてその存在を知り得た事から、取り合えずその識別呼称は袴狭北城としたが、既に公的に認識された城跡とも思えるので、城跡呼称に関しては柔軟に対応して頂きたい。何時もの様にリサーチ不足はご容赦願いたい。個人的にはA城でもB城でも差し支えないと思っているのだが、、、
城跡を訪れるには、先に触れた袴狭城を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、進入ルートは画像を載せた畦道からで、そこから既に視界に入る墓地まで向かい、参拝道より丘陵最上段を目指せばよい。そこから西に向いて歩けば、直ぐにでも堀切(横堀)が迎えてくれる筈である。
城跡概念図
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、堀切以西を本郭群とすれば、二郭で形成された正しく砦規模の城郭という事になろうか。遺構として判別し易い堀切は、横堀として痩せ尾根上に横たわってはいるが、堆積物で相当埋もれたと見えて、見応えまでは望めないものである。更に郭側壁を形成する切岸は曖昧なものとなっており、最初から郭としては削平だけに終わった、安普請で築かれた城郭と自分の目には映ったのである。よって低丘陵上にある事も理由になろうが、切岸の醍醐味に触れる事は到底出来ないものと思って頂きたい。
西郭切岸
個人的には地元で初めてその存在を知り得て、偶然城郭遺構と対面出来た喜びは、中々言葉では言い表せないのだが(非常に得した気分)、遺構見学を重視して訪れる方には、上記の理由から城郭に過大な期待を持って臨まない事が肝心と思えた。圧倒的お手軽感はあるが、浅い空堀を拝むだけに終わる城跡に、間違ってもお薦めとは言えないのが現実かも、、、、
城跡は兵庫県豊岡市出石町袴狭(ハカザ)にあって、既にリポート掲載を終えた此隅山城の北登城口から程近い、真東側の低丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、築城環境及び規模から察すれば、此隅山城の出城と言えるのかも知れない、、、
城跡を訪れるには、先に触れた此隅山城を起点とすれば一目瞭然とも言えるので、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、ルート図中にある神社付近に駐車スペースは充分確保出来るので、そこから集合墓地まで歩いて向かい、墓地背後の痩せ尾根上を東に移動すれば、数分で城跡までは辿り着けよう。
城跡概念図
城跡の形態は、アバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、主郭及び付郭、更に堀切を挟んだ形の東郭と、ほぼ三郭で成立したものであり、全長は50mに達するものの、正に砦規模の城跡と言えるものでもある。堀切は主郭を挟んだ形で東西両端に施されており、取り合えず縦堀などは充分見学者の目は楽しませてくれよう。現在主郭内には小さな祠が祭られているが、近年参拝客が途絶えたと見えて、その郭転用地となる敷地は、下草や低草木が相当蔓延った状態(画像に注目)にある。もちろん郭移動には差し支えないのだが、付郭や東郭も含めて見通しは利き難く、木々の隙間を縫っての探索踏破は余儀なくされるものと思って頂きたい。切岸斜面も相当藪化は進行しているので、堀切から立ち上がる、10mに達する主郭切岸の醍醐味には、到底触れる事が出来ないのが現実である。
東郭の現状
尚、ルート図中には地元でその存在を初めて聞くに及んだ、(仮名)袴狭北城の所在地を記したが、地元の方は城跡としての認識はあっても、文献資料などには目を通さないケースが多く、取り合えずその位置関係から袴狭北城としたが、城跡呼称に関しては何時もの様に柔軟に対応して頂きたい。小字名で識別されているとは思われるが、、、その現況報告は編集次第掲載の予定
城跡は京都府南丹市園部町仁江にあって、標高約305mの山上に位置しており、その枝尾根南麓には蛭子神社が祭られている。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには54号線に進入する事が先決となるが、今回直登取り付き口とした蛭子神社を目印として車を走らせればよい。その取り付き口はルート図中に画像と共に示したが、神社西側の橋の手前より川沿いに歩き、その奥にある獣避けフェンスを開閉(神社側に開閉フェンスは見当たらなかった!)して、尾根先端部を目指して上る事になる。尾根上に達するまでは激斜面との戦いが待ち受けているが、尾根上まで到達すれば城跡までは歩き易いなだらかな斜面となるので、踏み跡に任せて上れば、トレッキング気分で山上郭群までは辿り着けるだろう。ちなみに所要時間は20分程度
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、山上郭群は地表風化のせいか、あるいは最初から安普請で築かれたものなのか、明確に郭境を見分ける事は非常に困難な状況にある。郭群はほぼ三ブロックに分かれた構造と思われるが、東郭には箱堀の痕跡が残り、西端には現状埋もれて浅いが堀切が施されている。切岸は明瞭なものを便宜上の三郭(東郭)側壁で窺う事が出来るが、他は山上を削平しただけで自然地形をそのまま利用した斜面と見受けられた。現状(二月訪問)山上だけに限られる縄張り内に樹木は比較的少なく、見通しもある程度利き、郭内はくまなく歩き回れる状況にあると思って頂いてもよいだろう。
城跡を個人的に評価するのであれば、見応えのある遺構は無きに等しく、とてもお薦め出来る城跡とは言えないが、京丹波地区における山城に興味のある方にとっては、所在位置の確認も含めて、訪れても決して無駄足には終わらない山城と言ったことになろうか、、、、
城跡は兵庫県豊岡市城崎町上山にあって、先にリポート掲載を終えた簸磯城登城ルート図に示したように、上山集落の北側より集落に向いて少しせり出した形の丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明だが、豊岡市内に存在する城跡のほとんどが、山名氏傘下におかれた城跡ということを思えば、その名が語るように上山氏(山名氏家臣?)の居城という事になろうか、、、
城跡を訪れるには簸磯城あるいは上山北城を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、集落到着後はルート図に示した如く参拝道より青山神社を目指せばよい。最奥にある住宅より少し上った地点(画像を載せた辺り)から直登になるが、そのまま左手丘陵上を目指せば、直ぐにでも本郭群が迎えてくれる筈である。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、本郭部はほぼ三郭を並べただけの全長50mにも満たないものであり、小規模な館城あるいは砦とも言える様相で、空堀の類は施されてはいない。見所遺構を挙げるとすれば、唯一主郭背後を形成する鋭角に削り落とされた切岸(見応え有)、あるいは郭側壁を形成する切岸という事になろうが、空堀も土塁も施されていない砦規模の城跡に、これ以上のものは望めないかも知れない、、、
城跡を個人的に評価するのであれば、ルート図に示した三城同日訪問とすれば、神社参拝ついで、あるいはお手軽感も加味した上で、それなりに楽しめる城跡と言った事になろうか。
城跡は兵庫県豊岡市城崎町上山にあって、既にリポート掲載を終えた仮)上山北城より直ぐ北側にある丘陵先端部に位置しており、寺院及び簸谷を挟んだ形となっている。ちなみに上山北城としたものは、数年前まで遡るが簸磯城と城跡呼称を取り違えた形でリポートしており、今年になって「お知らせ」の中で呼称を訂正した城跡の一つでもある。城史に関しての情報は「現地案内板」をクリックの事。
城跡を訪れるには、上山北城を起点とすれば一目瞭然とも言える距離にあるので訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、車を預ける事になる福泉寺からは赤ラインを辿って頂き、目印とした砂防ダムのある登城口(手すり付きの石段がある)まで向かえばよい、そこからは旧参拝登山道が山上主郭まで繋がっているので迷わず辿り着ける筈である。ちなみに10分程度の所要時間
城跡の形態は、概念図に描いたものにほぼ近いと思って頂いても差し支えなさそうに思われるが、郭内は下草が一面に蔓延り、更に切岸斜面上は地表風化あるいは藪化が進行し、相当量の雑木が蔓延っており、外見から全貌を窺うことは困難を極める状況にある事から、郭形状や畝状空堀群の位置関係、あるいは掘削された総数はこの限りではないものと思って頂きたい。遺構見学としての見所は自ずと畝状空堀群という事になるが、先に触れたように地表風化は激しく、見応えまでは到底望めないものであり、これを機会に臨まれる方には決して期待を持って臨まないことが肝心となろう、、、他では主郭内に土塁跡も見止められるが、これは一部造成整地後の残土とも窺えた事から、遺構としての成否の判定は見学者の判断に委ねられるだろう。
城跡を個人的に評価すれば、状態や規模は絶対問わない事が前提とはなるが、お手軽感を加味した上で、山城ファンの方だけにはお薦め出来るかも、、、
城跡は兵庫県豊岡市岩熊にあって、先にリポート掲載を終えた柳谷城から見て、直ぐ真北側ある丘陵尾根先端部に位置しており、自ずと当時は二城で東側を牽制した城郭という事になろうが、規模からすれば柳谷城の出城とすれば良いのかも、、、城史に関しての詳細は不明。
城跡を訪れるには先に触れた柳谷城の入山口と同様となるが、目印とした農機具小屋より山道に入って、直ぐに右手側の斜面に取り付いて上れば、一部木々の隙間を縫っての直登は余儀なくされるが、数分で山上郭群が迎えてくれる筈である。
城跡の形態は痩せ尾根上を削平し、堀切で西尾根を断っただけの小規模極まりないものであり、自身が踏破探索して遺構を判別確認した、アバウトに描いた概念図に限りなく近いものと思って頂いても差し支えなさそうに思われるが、主郭西端には土塁の痕跡、その背後には片側が縦堀に繋がる空堀が施されており、狭小郭が主郭に付随しただけの砦規模の山城と思って頂いてもよいだろう。自ずと見所遺構も数少ないが、取り合えず堀切と郭側壁を形成する切岸といった事になろうか、、、
城跡を個人的に評価すれば、柳谷城と併せた二城同日訪問とすれば城跡の本質を掴む事にも繋がり、より充実した山城巡りとなるのかも知れないが、現状柳谷城と同様に藪化は深刻化しており、訪れるには冬季限定といった事になるだろう。もちろん藪漕ぎをものともしない山城ファンの方だけが訪問の対象となるが、、
城跡は兵庫県豊岡市岩熊にあって、新堂集落より川を挟んだ南西側の低丘陵上に位置しており、既にリポート掲載を終えた海老手城、あるいは滝西城を起点とすればその所在位置も分かり易いだろう。城史に関しての詳細は不明。
城跡を訪れるには先に触れた二城を起点とすれば分かり易い事から、城跡までの訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、ルート図に示した国道沿いにある居眠りパーキングに車を預けた後は、橋を渡った先より視界に入る農機具小屋を目印として歩けばよい。そこから山道で少し奥に入れば、直登とはなるが左手斜面のどこから取り付いて上っても、10分内で山上郭群までは辿り着ける筈である。
城跡の形態は概念図を参考にして頂ければよいが、痩せ尾根上に郭を並べただけの、シンプル極まりない縄張りプランの城郭と思って頂ければよいだろう。ただし郭総全長は100mに達するものであり、砦の域は少しはみ出た城郭と言えるのかも知れない、、、現状判別確認可能な遺構群は全て概念図には記したつもりだが、仕切り土塁を含めた三箇所の土塁跡、箱堀を含む二本の堀切とその切岸、郭側壁となる切岸跡が見所遺構といったところになるだろう。現状(12月訪問)郭内の藪化は相当深刻化した状態にあり、郭内部をくまなく歩き回る事は非常に困難な状況にあるが、直線痩せ尾根上に限る狭い縄張りとも言えるので、木々の隙間を縫いながら移動すれば、何とか遺構見学は成立するだろう。
城跡を個人的に評価すれば、城跡を形成する遺構三要素(土塁、切岸、堀切)の見学は充分可能であり、状態さえ良ければ充分お薦め出来る山城という事にはなるが、冬季でさえこの状態であれば、夏季訪問は更に厳しいことが予想され、藪漕ぎをものともしない、このリポートに興味を持たれた山城ファンの方だけを対象としてお薦めしたいと思うのである。後でリポート掲載予定のルート図中に示した田島城、あるいは他の城跡との同日訪問とすれば、何とか充実した山城巡りと成り得るかも知れない、、、
城跡は豊岡市鎌田奥笹谷にあって、先にリポート掲載を終えた鎌田城からみれば、東へそのまま移動した低丘陵上に位置しているが、その山頂部を本郭群とすれば、共有する尾根南端部が便宜上の南出城となる南北二城で形成された城郭と言う事になる。ちなみにこの城跡の存在と所在地は、但馬の城跡情報を定期的に流して頂いている、山城ファンの方から知り得たものだが、その方が踏破された情報では、どうも本郭群(北)だけを覗いた様な気がしないでもないので、、、これを機に訪れる方は、概念図に示した直登口(南出城側)より上り、更に尾根に沿って北へ踏破される事をお勧めしたい。両者は痩せ尾根上50m以上は離れているので、直登取り付き場所によっては、うっかり南出城を見逃してしまう可能性がある、、、
城跡の形態は概念図を参考にして頂ければ分かり易いとは思うが、合計五本の堀切によって、郭間及び連続する痩せ尾根は分断されており、南北二城は完全に孤立した状態となっている。郭規模は北主郭が全長20m前後あるが他は小さく、山上における郭占有面積は非常に小さいものであり、正に砦規模の山城と言ってもよいのかも知れない。しかし見所遺構は数多く、縦堀を伴う堀切や、堀切から立ち上がる高低差を誇る切岸など、五本ある堀切は全て見所ともいえるもので、この城跡を見学する上での醍醐味は、堀切及び切岸によって堪能出来るものとも思えたのである。
北端堀切見所
現状(10月訪問)城跡は蔓延る木々も比較的少なく、山城としてみれば非常に見学し易いコンディションの下にあると思って頂いても良いが、個人的に城跡を評価するのであれば、縄張り妙味や規模さえ問わなければ、お手軽感を加味せずとも、是非お薦め出来る山城の一つ!と言わざるを得ないだろう。城跡を一言で語るとすれば、「山椒は小粒でもぴりりと辛い」と言った表現が適切かも、、、
城跡を訪れるには、先に触れた鎌田城を起点とすれば一目瞭然ともいえるので、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、160号線沿いにある栄町団地西端(画像に注目)より、林道を利用して山上を目指せばよいだろう。直登取り付き口は概念図とルート図を参考にして頂ければよいが、取り付き場所は間違えない事!林道入山口から南堀切までは、藪漕ぎなしで10分内で到達可能
城跡は兵庫県豊岡市鎌田にあって、低山山頂部(標高約70m程度)を本郭群としているが、西側尾根先端部にも堀切の施された出郭があり、城域だけはそれなりに広い城郭と言えるのかも知れない。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには国道312号線に進入することが先決となるが、「鎌田」の信号で160号線に進路変更、そこから登城口まではルート図を参考にして頂きたいが、車を預ける事になる文常寺を目印として目指せばよい。そこからは(画像に注目)山頂まで大師道らしき登山道が繋がっているので、道に任せて上れば、主郭までは迷わず辿り着ける筈である。ただ西尾根に向いて郭は展開されているので、下山時においては登山道は外れて尾根に沿って下りた方が良さそうに思えるが(縄張りを把握する為)、、、ちなみに所要時間10分程度
城跡概念図
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、最初に触れた様に、登城口から直ぐ上った辺り(古い墓地)にも、堀切あるいは土塁(画像に注目)の施されている出郭跡があるので、ただの墓地だと思ってうっかり見逃さないように、、、山上本郭群には堀切が二箇所備わっているが、主郭東背後の堀切は片側に縦堀を伴うものであり、見学者の目は充分楽しませてくれる筈である。西側の堀切は堆積物のせいで相当薄く、虎口跡の様にも窺えるが、本来は縦堀を伴ったものであると自分の目には映った。明瞭な縦堀は主郭北斜面で二条は目にしたが、一帯は地表風化も激しく、土塁の付随した空堀ですら判別し難い状況となっているので、この一帯の残存遺構に関しては、見学者の判断に委ねられる事になるだろう。
縦堀見所
現状(10月訪問)大師道が山頂まで繋がっているお蔭で、縄張り内における残存遺構は判別し易く、更に動き回り易い状況となっており、山城としては比較的良いコンディションの下にある。城跡を個人的に評価するのであれば、トレッキング感覚で山頂まで迷わず上れる事、更に上記に挙げた材料も加味すれば、規模あるいは遺構の見応えさえ問わなければ、充分楽しめる山城であり、一般城跡ファンの方にも充分お薦め出来る山城の一つ、と言う事になろうか。
城跡は京都府南丹市園部町南八田にあって、標高約250mの山上に位置している。この城跡は既に踏破探索されたブログ読者の方によるコメント情報により、その存在と現状を初めて知り得たものであるが、山上ではその情報通り、郭跡はもちろんの事、明瞭な堀切遺構と対面する事が叶えられた。しかも驚いた事に、京都府における無名に近い山城としては、めったにお目にかかる事の出来ない城址碑まで設けられていたのである。
城跡を訪れるには国道372号線を利用する事になるが、南八田地区まで辿り着けばルート図を参考にして頂きたい。その国道沿いで目に留まる石段をスタート地点(画像に注目)として、稲荷神社(小さな祠)までは参拝山道、それから先は山上本郭群まで踏み跡程度の山道が繋がっているので、迷わず到達出来る筈である。
城跡の形態は、概念図に描いたものにほぼ近いと思って頂いても良いとは思うが、ほぼ単郭で成立した小規模な砦規規模の城郭で、その両端には尾根を遮る形で空堀が施されている。帯郭は主郭南北に付随した形となっているが、防備として一役買ったものにはとても思えないものであり、遺構見学する上においての移動に役立つ程度といったところか、、、西尾根を断つ堀切には明瞭な土橋が遺されているが、これは山林作業用として近世に設けられたものかも知れない(見学者の想像に委ねられる部分)、、、
北側縦堀見所
現状(一月訪問)冬季訪問のせいかも知れないが、無名に近い山城としては郭内部の見通しは利き、遺構の判別確認も容易く、それなりに見学し易いコンディションの下にあると思って頂いてもよいだろう。城跡を個人的に評価すれば、楚々とした山城の風情は充分味わえる事、10分内で到達可能なお手軽感、判別し易い遺構群、と少ない材料ではあるが、京丹波地区を中心に山城巡りをされる方にとっては、「規模さえ問わなければ、充分お薦め出来る山城の一つ」、と言う事にはなるだろう。
城跡は豊岡市立石にあって、蛇山(ジョウヤマが訛ったか)と呼ばれる、ほぼ独立した山塊の低山(標高76m)山頂に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、山名氏のお膝元である築城環境を思えば、その家臣が居城とした城郭と考えればよいのかも知れない。
城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた三宅城を起点とすればその位置も分かり易いが、248号線沿いにある公民館に車を預けた後は、ルート図に示した直登山口となる中島神社に向いて足を運べばよいだろう。社殿手前に尾根まで繋がる山道(画像に注目、踏み跡程度)を覗う事が出来るが、そこから片堀切地形となる尾根を目指して上り、そのまま尾根上を西に上れば、直ぐにでも本郭群の高い切岸と遭遇出来る筈である。
城跡概念図
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、山上主郭は30mにも満たないものであり、砦規模の山城と思って頂ければよいだろう。判別し易い遺構としては二本の堀切(一つは縦堀を伴う)及び郭切岸ということになるが、とても見応えの感じられるものではなく、遺構としての醍醐味までは望めないかも知れない、、、概念図に示したまでが自身が踏破し判別確認に及んだ遺構群と思って頂ければよいが、枝尾根の張り出していない地形、あるいは形態から考えても、これ以上の残存遺構は期待出来ないような気はするのである。現状(10月訪問)山上本郭群は、蔓延る木々は意外に少なく、郭内も見通しが利き、山城としては非常に見学し易い良い状態にある。
堀切に伴う縦堀見所
城跡を個人的に評価するのであれば、目にする事の出来る城郭遺構は数少ないが、見学し易いコンディション、車を停めて10分内で本郭群が拝めるお手軽感まで含めれば、充分お勧め出来る山城と言った事になろうか。既にリポート掲載を終えた、この周辺一帯に点在している城跡、あるいは三開山城、三宅城まで含めた山城巡りは、まだ未訪の方にとっては、城郭遺構への期待を含めて、訪問プランを練るのも一つの楽しみとなってくるのではないだろうか。
この城跡は何時も城跡情報を頂戴しているブログ読者の方によるコメント情報(昨年)によって、初めてその存在とその現況を知り得たものであるが、自宅から一時間程度あれば城跡を訪ねる事が出来る事を理由に、しばらく訪問は先送りにしていた経緯がある。今回は積雪のないことを確認した上で、やっと現地を訪れる(二月訪問)事となったが、山上では小規模ではあるが、見事な空堀と対面する事が叶えられた事だけは最初にお知らせしておきたい。
城跡は京都府南丹市園部町若森にあって、集落に突き出した形の低丘陵先端部に位置しており、訪れるには372号線に進入する事が先決となるが、若森地区からはルート図及び概念図を参考にして頂きたい。墓地背後を上り切れば(5分程度)直ぐにでも山上主郭が迎えてくれる筈である。城史に関しての情報は現状皆無に近いものであり、その詳細は不明。
城跡の形態は縄張りが低丘陵上先端部に限られる事からも、描いた概念図にほぼ近いものと思って頂いても差し支えないと思うが、ほぼ単郭で成立した小規模極まりない砦規模の城郭と思って頂ければよいだろう。その中で目に留まる遺構は数少ないが、明瞭な虎口遺構?も含み、先に触れた空堀(横堀)遺構は状態が良く判別し易い事、仕切りがある事によって多少でも技巧が感じられた事、これだけの理由で充分見学に値するものと自分の目には映ったのである。城跡を形成する三要素の一つでもある切岸跡は、現状ほとんど窺うことも出来ないが、尾根を断つ堀切はそれなりのものを拝む事は出来よう。ただ地表風化は激しく、とても見応えまでは望めそうにないが、、、
背後尾根削平地
城跡を個人的に評価すれば、京丹波地区を中心に山城巡りをされている方には、圧倒的お手軽感を含めて、先に挙げた材料も加味すれば、当然是非お薦め出来る城跡といった事にはなるが、規模は絶対問わない事が大前提!
城跡は豊岡市三宅にあって、既にリポート掲載を終えた三開山城跡からみれば、遠く離れた北東側の低丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明。
城跡を訪れるには703号線沿いにある中島神社を目印として目指せば分かり易いだろう。ここから城跡まではルート図に示した赤ラインを辿れば良いが、直登入山口となるのは画像を載せた民家脇からの畦道で、その奥の入山フェンスを潜り、縦堀地形に沿ってそのまま上れば、最上段にある堀切までは数分で到達出来る筈である。
城跡概念図
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、残存遺構としては郭跡を除けば堀切三本(一本は縦堀を伴う、後は横堀の痕跡程度)及び切岸跡といった程度、と思って頂いても差し支えないかも知れない。もちろんこれだけの城郭遺構(砦規模)に見応えまでは望めないが、民家が直ぐ傍まで迫る状況下においての、遺構残存度は比較的高いものであり、現在に至るまで自然任せの手付かずの遺構(推察)として見れば、非常に値打ちあるものと自分の目には映ったのである。形態としては最上部は物見、あるいは詰め城、その中腹には居館跡と想像可能な比較的規模の大きい郭跡、と言った具合に城館に近いものである。
西郭
城跡を個人的に評価するのであれば、残存遺構に見応えまでは望めないが、圧倒的お手軽感を加味して、山城巡りの移動中に少し立ち寄る程度と割り切って臨めば、決して無駄足には終わらない城跡と言ったところか、、、、
城跡は豊岡市江野(ゴウノ)にあって、集落より北西側に少し奥まった山上尾根先端部に位置している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには国道178号線に進入する事が先決となるが。江野集落から目指す城跡は視界に入らないので、集落に辿り着けば是非ルート図を参考にして頂きたい。車の進入禁止(山菜を勝手に摘んで帰る人がいる為)となる、林道沿いにある猪捕獲用檻が直登口としての目印となるが、そこから山頂を目指して上れば、20分前後で山上本郭群が迎えてくれる筈である。ただし地元の方による情報で、この付近一帯には猪捕獲用の罠が仕掛けられているので注意が必要との事!ちなみに罠のある場所には張り紙がしてあると聞いたが、直登ルート中では一切見かけられなかったので参考までに、、
城跡概念図
現状城跡は豪雪地帯で良く見受けられるが、雑木が斜面に這う様に蔓延っており(直登道中も)、藪化は相当深刻化した状況にある。訪れた時期(12月訪問)が多少良かったせいもあり、蔓延る枯れ木を避けながら何とか踏破探索出来たが、踏破した範囲において目に留まった遺構は、全て概念図には示したつもりである。その形態は本郭群両端を堀切で断った形の、小規模な山城(砦規模)としては定番とも言える輪張りプランであるが、地表風化も藪化同様相当進行中にあり、凸凹した地形から郭境を見分けるのは至難の業とも言える状況となっている。その中で見所遺構を挙げれば、唯一主郭背後尾根を断つ三重堀切という事になるが、充分見応えを感じる事は出来た。
三重堀切見所
南郭
尚、個人的に地図上あるいは築城環境を踏まえた上で、鉄塔の聳える(探せばメンテナンス用登山道は見つかる)北東尾根も砦と察せられ上ってみたが、狼煙台とも想像可能な、その背後に縦堀地形を伴う堀切(画像参照、地形+必然性を加味)と遭遇出来た事だけはお知らせしておきたい。ただその砦跡と推察した山上には現在鉄塔が建っているので、それ以前の事は想像する事も出来ないが、、、取り合えず参考までに。
ここまで藪化の深刻化した状況にある城跡を、三重堀切の見応えだけでお薦めはし難いが、現在に至るまで人の手の入らない(推察)遺構残存度の高い城郭としての史跡価値を思えば、藪をものともしない山城ファンの方だけには、何とかお薦め出来るかも知れない(個人的には大満足)、、、ただし夏季訪問は絶対に禁物!
この推定砦跡としたものは、矢田城を訪れるべく地元(石川地区)で所在位置を確認したところ、標高151mの山頂に城跡はある事が分かり、まずその北端枝尾根から踏破を試みたところ、偶然そこで城郭遺構と遭遇した事から話は始まるが、その低丘陵上においては、郭跡と呼べる明瞭な削平地、あるいはその側壁となる切岸、あるいは薄い空堀(横堀)といった具合に、帯郭も含めてほぼ五郭で形成された、紛れもない城郭遺構と対面する事となった。結果的にそこでの遺構見学に時間を割かれたお陰で、本来訪ねる予定の矢田城(本城か?)までは足を延ばせなかったのが心残りになったが、次の機会が訪れるまでの楽しみとしてこの地を去ったのである。
空堀跡
帰宅後、この城跡に関しての軽いリサーチは行ったが、どうも城跡としては認識されていないらしく、まだ文献資料の類にも載せられてない事が判明した。よって今回は矢田城の出城(砦)としての築城環境(末端尾根にある)を踏まえた上で、(仮名)矢田北砦跡としてリポート掲載に及んだが、リサーチ不足のせいで、既に調査を終えた城跡の可能性も含んでいる事から、城跡呼称に関しては柔軟に対応して頂きたい、、、遺構に見応えまでは感じられなかったが、興味を持たれた山城ファンの方にのみ、圧倒的お手軽感も含めて、山城巡りの移動中にでも立ち寄って頂ければ、決して無駄足には終わらないとも思えたのである。尚、本来訪問予定であった矢田城に関しては、機会があれば何れ訪れる予定はしているが、この地は積雪も多く、冬季訪問は諦めた方が良さそうに思えるのである。
仮名)矢田北砦跡は京都府与謝郡与謝野町石川にあって、既にリポート掲載を終えた石川高津城の真南側に突き出した尾根先端部に位置している。訪れるには高津城を起点とすれば分かり易いので、訪問ルートの説明は今回割愛させて頂くが、ライスセンターを目印として向かい、その直ぐ東側にある集合墓地背後を上れば、直ぐにでも郭跡が迎えてくれる筈である。
城跡は京丹後市大宮町谷内にあって、集落東側に突き出した標高144m丘陵先端部にあり、私見に基づくものになるが、標高180mの山頂に更に物見を構えた二段構えの城郭と推察されるものである。城史に関しての詳細は不明であるが、既にリポート掲載を終えた谷内北城こと鶴賀城から見れば山上詰城とも察せられる事から、山口氏の居城と言えるのかも知れない、、、
城跡を訪れるには、先に触れた鶴賀城を起点とすれば分かり易い事から、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、直登取り付き口は川の流れる真南側で、今回は標高180mの山頂から城跡の位置する西側尾根に向いて下る探索ルートを選択した事から、細かいルートはルート図中には示さなかった。山頂までは激斜面となっており、更に藪漕ぎも含めて20分以上は要したので、、、
登城ルート
城跡の形態は、今回余りにも藪化が深刻化していた事により、郭内をくまなく歩き回ることも、視認による遺構の判別確認も困難を極めた事から、城跡概念図は最後まで描き切れなかったが、小規模な主郭には土塁が付随しており、その背後には堀切が施されたものである。主郭から西側斜面に向いては小規模な段郭群が形成されており、北側斜面には取り合えず土塁跡が目に留まる付郭を目にする事が出来るが、切岸まで含めた全体像を覗う事も出来ない藪化を思えば、屹立する切岸の醍醐味に触れる事はほとんど出来ないだろう。更に西側斜面中腹にはそれなりの規模を有する郭跡が数段あるが、それが城郭遺構か否かの判断は、全て見学者に委ねられるだろう。
西中腹郭
尚、私見により物見郭とした山頂部には、明瞭な二段の削平地、更にその郭北側には土塁跡(画像参照)らしき構築物があったので、城跡の本質を極めたい方には、参考物件程度にはなるかも知れない、
山頂部物見郭(推察)
現状(八月訪問)の、郭内に進入する事も拒まれる進行した藪化を思えば、間違っても是非お薦めの山城とは言えないが、自分も含めた藪漕ぎをものともしない山城ファンの方だけに限れば、それなりに満足感は味わえる様な気はした、一言で城跡を語るのであれば、非常に残念な山城!と言う事になるのかも、、、
城跡は兵庫県豊岡市滝にあって、既にリポート掲載を終えた滝東城からみて、真西側尾根先端部に位置しており、その形態は丘城と言えるものである。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、滝東城あるいは海老手城などを起点とすればその位置も分かり易い事から、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、目印として「弥勒寺」を目指せばよい。車は寺院駐車場に預け、その付近の取り付き易い場所から丘陵上を目指せば、直ぐにでも本郭群が迎えてくれよう。
城跡概念図
城跡の形態は、ほぼ概念図に描いたものに近いと思って頂いても良いと思うが、三本の堀切を挟んでほぼ三郭で成立したものである。郭総全長は60m近いもので、砦の域は決して出ないが、土塁を付随させた主郭、あるいは相当風化中にあるが、三方が土塁で囲まれた北郭などの様に、本格的普請によって築かれたと想像出来るものでもある。その中でも主郭境となる東堀切は、両端が縦堀として落ち込んでおり、中々見応えを感じさせてくれているが、北郭背後の堀切は堆積物で相当埋もれており、両岸に僅かに残る縦堀で、何とかそれと判別出来る程度と思って頂きたい。現状(12月)腰郭も含めた郭内部には、相当量の青竹が蔓延っており、見通しは利き難いが、見学や移動に差し支えるまでには至っておらず、概念図に示したまでの遺構は、全て判別確認の容易い状況にあると思って頂いても良いだろう。
北郭の土塁跡見所
城跡を個人的に評価するのであれば、車を停めて城跡まで5分とかからない圧倒的お手軽感、土塁跡や縦堀を含めた空堀が三箇所で拝める事、民家が直ぐ傍まで迫りながら、比較的残存度の高い遺構が拝める事、丘城としてはまだ見学し易い状態にある事、これだけの材料が揃えば、自ずとお薦め出来る城跡と言わざるを得ないだろう、もちろん山城ではないので、切り立つ切岸の醍醐味に触れる事は出来ないが、、、
城跡は兵庫県豊岡市但東町畑山にあって、既にリポート掲載を終えた仏清城より太田川を挟んだ南側低丘陵上にあり、14世紀まで遡る事になるが、後醍醐天皇の第六皇子である恒良親王を監視する為の砦跡と伝わっている。もちろん亀ヶ城を本城とした太田氏の築城によるものである。
城跡を訪れるには仏清城訪問ルートと重なるので今回は割愛させて頂くが、国道482号線からはルート図を参考にして頂きたい。小さな社殿日出神社が目印となるが、その傍を抜けて近世に郭跡地を造成したと思える墓地まで向かえば、自ずと城跡まで辿り着いた計算になる。
帯郭?
この砦跡は但東町史によれば、かつては本郭群南端に堀切が施されていたらしいが、先に触れた様に現在では集合墓地として造成されており、遺構見学というより史跡見学として、ほぼ三郭で形成されたと思える平坦な郭跡に佇み、砦跡としての風情を味わう程度と思って現地に赴いて頂きたい。山城跡としても砦跡としても評価は非常に難しいが、遺構見学としては落胆に終わる事は必至とも思えたので、山城巡りの移動中少し立ち寄る程度であれば、決して無駄足には終わらない城跡といった事になろうか、、、
城跡は兵庫県豊岡市中郷にあって、既にリポート掲載を終えた引野城からみて、真西側に伸びた枝尾根先端部に位置しており、現在本郭群の一部には造成整地跡は窺えるが、須賀神社が建立されている。築城環境を踏まえれば引野城の出城(砦)とも思えるが、推察の域は出ないものである。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、引野城を起点とすればその位置も分かり易い事から、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、国道482号線を経由して須賀神社を目指せばよい、付近までくれば登城ルート図及び概念図を参考にして頂ければよいが、城域となる配水施設傍までは、小型車であれば充分乗り付ける事が可能となっている。
この城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、本郭群と呼ぶべき郭跡地には配水施設及び社殿が建っており、両者共に相当な造成地形改変が窺われるものであり、本来の縄張りあるいは郭形状は、全て見学者の想像に委ねられるのが現実となっている。よって遺構残存度は極めて低い城郭という事になるが、最高所に位置する便宜上の主郭背後には、深さは失われているが未だ堀切(横堀に近い)が健在、更にその切岸も高さを伴ったものであり、見応えは充分なものとなっている。
主郭背後の東郭
城跡を個人的に評価するのであれば、この付近一帯には引野城も含めて、既にリポート掲載を終えた山城(上郷城、中郷城、加陽城、鳥居城、伊福城など、、)がひしめき合っており、圧倒的お手軽感を加味して、山城巡りの移動中に少し立ち寄る程度なら、決して無駄足には終わらない城跡といった事になろうか。
この城跡は京丹後市大宮町下常吉にあって、既にリポート掲載を終えた常吉城(上常吉城)の掲載記事中で、城域と察せられるが未踏とルート図中に記した記憶があるが、今回は気になっていた未踏の地を踏破探索すべく、再び常吉地区を訪れる事になった(八月訪問)。結果的に自身の思惑通り大型の城郭遺構と対面する事が叶えられたが、自身のリサーチ不足のせいもあり、城跡の識別呼称は判明しないまま終わった。取り合えず以前下常吉支城をリポートした事があり、こちらがその本城とも察せられた事、あるいは同じ下常吉地区にある事から、リポート掲載においては下常吉城としたが、城跡呼称に関しては柔軟に対応して頂きたい。常吉城と同じ尾根を共有している事から、一城別郭とも充分考えられるが、、、
城跡のアバウトな形態は概念図を参考にして頂きたいが、現状の青竹が郭跡から切岸にまで密生する状況、更に倒竹が多く、郭移動もままならぬ状況下(特に東民家側)での踏破探索は困難を極めた事から、残存遺構も縄張りも決して図に示した限りではないものと思って頂きたい。ただ山上本郭群はそれなりに見通しが利き、見学に差し支えるまでには至っていないが、、、城跡の見所遺構としては、主郭西尾根を断つ堀切が真っ先に挙げられるが、これは空堀(縦堀)に分厚い縦土塁を付随させて形成された、縄張り妙味のある堀切となっており、それなりに状態も良く(明瞭)、堀底から立ち上がる切岸の醍醐味まで含めれば、一見の価値があるものと自分の目には映ったのである。
大土塁を挟んだ二重空堀見所
深い堀切(縦堀)見所
城跡を個人的に評価するのであれば、主郭背後に施された堀切の醍醐味、あるいは郭を形成する切り立つ切岸の醍醐味だけで、充分訪れる値打ちのある城跡と言った事になろうか、もちろん状態は一切問わない事が大前提となるのだが、、、
城跡を訪れるには、常吉城と同じ訪問ルートとなるので今回は割愛させて頂くが、城跡への進入口は概念図中に示した民家脇の山道からで、そのまま道に任せて上れば、直ぐにでも高い切岸が迎えてくれる筈である。
城跡は京都府京丹後市大宮町奥大野にあって、既にリポート掲載を終えた、巨大城と呼ぶに相応しい常吉城からみて、川を隔てた真東側にあって、低丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、奥大野城を山口弾正の居城とすれば、その支城となるのかも知れない、推察の域は出ないが、、、、
城跡を訪れるには、先に触れた常吉城を起点とすれば所在位置も分かり易い事から、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、ルート図に示した石鳥居手前より山道で谷状地形の奥まで入り、更にそのまま直登で尾根上を目指せば、藪漕ぎもなく迷わず城跡までは辿り着けるだろう。ちなみに石鳥居より10分程度の所要時間
城跡概念図
城跡の形態はシンプル極まりない事から、概念図に描いたものに限りなく近いと思って頂いても良いとは思われるが、その規模は多少砦の域は出たものとも思えた。4郭を単純に並べただけの縄張りプランに、縄張り妙味までは望めないが、当時の遺構として目に留まったもの、あるいは見所となるものは、主郭東側に施された櫓台に見えなくもない土塁壇、その背後に施された僅かに縦堀を伴う薄い二重堀切、鋭角に削り落とされた切岸跡、と言った事になるだろう。ただ切岸以外は地表風化が激しく、特別見応えを感じるまでには至れなかったので、遺構に多くの期待を持って臨む事は禁物!と言えるかも知れないが、、
二連の縦堀跡見所
現状(八月訪問)城跡は、藪化までには至っておらず、下草のほとんど蔓延らない切岸跡などは充分見学する値打ちのあるものであり、山城としては郭移動も容易く、非常に見学し易い状況にあると思って頂いても良いだろう。後で掲載予定の下常吉城、あるいは常吉城とその支城が未訪の方にとっては、三城併せた同日訪問プランは是非考慮に入れて頂きたい。単独訪問としても、この四季を問わない見学し易い状態を思えば、充分お薦めは出来るだろう。
城跡は京都府与謝郡与謝野町滝にあって、建部神社の敷地を出郭(推察)と診立てた場合、その背後の痩せ尾根上に位置している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた滝城を基点とすればその位置も分かり易い事から、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、701号沿いにある椿大橋あるいはそこから直ぐ望める建部神社の石鳥居を目印として向かえば良いだろう。そこからドコモ中継所のある拝殿まで上り、その背後尾根を山頂に向いて登れば、5分程度で本郭群が迎えてくれる筈である。
城跡概念図
この城跡の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても良いとは思うが、全長40mにも満たない砦規模の山城である。小規模極まりない便宜上の主郭背後には見応えのある堀切、その前面には土塁(仕切り土塁)と、それなりに目は楽しませてくれるが、砦規模の城跡に数多くの残存遺構を望んではならないだろう。
堀切見所
現状(八月訪問)郭内には多くの下草が蔓延っており、更に堆積物で凸凹状態にあるが、見学に支障を来たすまでには至っておらず、多くの低草木で覆われた斜面以外は、くまなく歩き回れる状況にあると思って頂いてもよいだろう。城跡の形態から考えても、この急斜面上に縦堀が施されている様にはとても思われなかったが、、、堀切と土塁に興味を持たれた方が訪れる分には、それなりに見返りも大きいのではないかと思われるのである。
城跡は兵庫県豊岡市出石町上野にあって、集落南背後に突き出した尾根上に位置している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた桐野城を起点とすれば分かり易い位置にあるが、国道482号線(~426号線)に進入する事が先決。国道から城跡まではルート図の赤ラインを辿ればよいが、直登口は画像に示した猪捕獲用檻の先辺りで、ここから右手側の斜面に取り付いて、比高百m程度を直登すればよいだろう。ちなみに藪漕ぎなしで10分内で到達可能
縦堀
この城郭の形態は概念図を描くまでには及ばず、段差程度の郭境でほぼ二郭を痩せ尾根上に重ねたもので、判別確認し易い遺構としては、郭跡を除けば空堀(縦堀)だけと言っても過言とは思えないものである。郭総全長は40mにも満たないものであり、正しく砦の域は出ない城跡と言ったところか、、、もちろん見所と言い切れる遺構も他で目に付かなかったので、中々城跡の評価が難しいが、東側に隣接した標高191mの山頂には長く連続する削平地(推察)、その背後には麓に向いて長い縦堀地形(画像に注目)が窺われた事から、城跡を過大評価するのであれば、二城で集落を守備していた城郭という事になろうか、もちろん私見の域は出ないのだが、、、
城跡は兵庫県豊岡市但東町奥赤にあって、豊岡市内にあっても相当東側(丹後)に寄った奥まった山間部にある。もちろん現在でも民家が点在する程度の相当な辺境地にあるのだが、その奥赤集落の中心部より西側の山上尾根に城跡は位置しており、現在その郭転用地とも言える主郭には愛宕神社が建立されている。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、必ず一般道701号線経由で251号線に進入することになるが、集落中心部にある公民館を目印として向かえばよいだろう、そこから川を隔てた西側を望めば、直ぐ石鳥居(画像に注目)が目に留まるが、そこから山上主郭までは参拝登山道が通じているので、10分程度で迷わず辿り着ける筈である。
城跡概念図
現状(八月訪問)城跡は、主郭が社殿敷地となっている事から、地元の方も定期的に参拝しているらしく非常に整備が行き届いており、その周辺切岸斜面も比較的見学し易いコンディションの下にある。当時を物語る残存遺構としては、主郭南北両端に刻まれた明瞭な堀切、郭側壁となる切岸跡は挙げられるが、主郭の堀切側に施された土塁は一部が欠けた状態(表土の流出か?)となっており、造成整地された後の残土とも考えられるので、これは見学者の判断に委ねられる事になるだろう。
城跡を個人的に評価すれば、山城としては非常に見学し易い状態が自然維持されており、遺構見学も容易く、郭跡に佇めば楚々とした山城としての風情、あるいは充分な臨場感が味わえる事、小規模が故に縄張りが掴み易い事、圧倒的お手軽感、更に二重堀切の醍醐味まで加味すれば、自ずとお薦め出来る山城の一つと言えようか。もちろん規模は絶対問わないことが前提となるが、、、
この城跡は随分前に遡る事になるが、比丘尼城跡を訪ねた際に、東側別峰に削平地と片堀切地形が見止められた事から、香久山城跡と呼ばれる城郭遺構かも知れない?(私見に基づく)としてリポートした事があったが、今回はそれを確める為、あるいはまだ見ぬ城郭遺構を目にしたい思いで、再び幾地を訪れる事になった。もちろん既に地元で確かな所在地は確認していたので、迷わず辿り着けた事は言うまでもないが、、、、結果的に南北200mにも及ぶ大型の城郭遺構と対面する事が叶えられたが、今まで所在地もその形態も分からず、長きに渡ってリサーチを怠っていた事はどうかご容赦願いたい。取り合えず今回のリポートが、城跡が気になっていた方にとっての値打ちあるものとなったのであれば、これ幸いと言ったところか、、、
城跡は京都府与謝郡与謝野町幾地にあって、既にリポート掲載を終えた幾地城から見て、県道2号線(76号線)を挟んで対面した南側低丘陵上に位置している。城跡を訪れるには「野田川フォレストパーク」を目印として目指せば分かり易いので、細かい訪問ルートは割愛させて頂くが、公園駐車場から直ぐ目に留まるフェンスのある入山口から進入して、そのまま左手側の斜面から丘陵上を目指せばよい、右手側は私有地に入るので注意が必要!
城跡概念図
城跡のアバウトな形態は概念図を参考にして頂きたいが、描いたまでが自身が踏破探索した範囲、あるいは遺構を判別確認した範囲と思って頂ければよいだろう。縄張りは個人所有地となる東側尾根先端部にまで及ぶものと察せられたが、私有地(看板がある!)である為踏破確認までは至れず、更に四方枝尾根上までは覗いていないので、残存遺構も縄張りも概念図に描いた限りではないものと思って頂きたい。この城跡はそれほど規模が大きい(未踏の地の推察を含む)ものであり、短時間で郭形状やその縄張りを把握する事は、至難の業とも思われたのである。
郭跡
見所遺構としては、堆積物(落ち葉)は多いが限りなくフラットに近い本郭群跡、下草の蔓延らない鋭角に削り落とされた見事な切岸跡、堀切などは充分挙げられるが、特別縄張り妙味がある城跡とは思えないので、郭跡に佇んだ際の半端ない臨場感を感じて楽しむ事が、この城跡における見学の仕方と言えるのかも知れない、、、
城跡を個人的に評価するのであれば、見応えのある遺構が目白押しと言う訳でもなく、インパクトのある空堀がある訳でもないのだが、郭全体に見通しが利くことによる、このただならぬ臨場感は是非味わって頂きたいと思えたのである。当然是非お薦め出来る城跡の一つという事にはなるだろう。
今まで自身が探索踏破した上で、城郭遺構と判断したにも拘らずリサーチ不足のせいもあって、仮名城跡としてリポート掲載に及んだ但馬地方の山城の呼称が判明しましたのでお知らせしたいと思います。と同時に、その後但馬在住の山城ファンの方から頂戴した信頼出来る情報により、呼称を取り違えた城跡も判明しましたのでお知らせしたいと思います。
1)数年前に森津城跡のリポート記事中で、呼称不明の城跡としたものは滝東城と判明(リポート記事中にそのまま据え置き)
2)数年前に気比高城としてリポート掲載に及んだものは、気比白山城と呼称を取り違えていた事が判明、気比高城はまだ未訪の為、現状正確な所在地及びその形態は不明です。(城跡呼称は既に訂正済)
3)数年前(2009年三月)但馬の山城カテゴリー中に簸磯城跡としてリポート掲載に及んだ城跡は、現地在住山城ファンの方から頂いたその後の情報で、一つ尾根を挟んだ北側山上に同名の城跡が存在する事が既に判明しておりましたが、昨年本来の簸磯城跡は探索踏破する事ができました。もちろんまだリポート掲載には至っておりませんが、何れリポート掲載の予定です。ならば以前紹介した城跡は?という事になりますが、情報を提供して頂いた方によれば、公的資料にはまだ載せられていない山城の一つという話なので、字名を採用し取り合えず仮名)上山北城跡とさせて頂きたいと思います。ちなみに上山城は北城から見れば真南の枝尾根先端部に位置しており、館城の様相となっています。この城跡も何れリポート掲載の予定です。尚、この呼称を取り違えた城跡は記事据え置きにて、タイトル(仮)上山北城跡として既に訂正は終えましたので、これを機に訪れる準備のある方には、上記呼称にてブログ中アクセスして頂ければ幸いです。
城跡は兵庫県豊岡市但東町矢根にあって、標高313mの険峻極まりない山頂に位置しており高城としての別称がある。城史に関しては室町期になるが、山名氏家臣家城氏の居城と伝わっている。
城跡を訪れるには国道9号線あるいは426号線経由で56号線に進入しなければならないが、橋のかかる入山進入口付近まで到達すればルート図を参考にして頂きたい。そこから城跡は直ぐ望める位置にあるので、方向を確認後民家脇から始まる入山口まで向かえばよい。この確かなメンテナンス用登山道は、山頂に備わる無線施設まで繋がっているので、迷わず辿り着ける筈である。ちなみに約30分の所要時間
城跡概念図
この城郭はほぼ主要二郭と腰郭で形成されたものであり、山頂における郭占有面積は小さく、郭総全長40mにも満たない、ほぼ概念図に描いたままの砦規模の山城と思って頂いてもよいだろう。ただし郭間に施された二重堀切(横堀)の見応えは抜群!とも言えるもので、郭側壁となる鋭角に削り落とされた切岸と並んで、城跡最大の見所となっている。現在無線施設が主郭(僅かに眺望が利く)に建っているが、見る限り整地だけに終わったものであり、縄張りとしての祖形は決して失われてはおらず、遺構残存度も高く、個人的には非常に値打ちのある城郭遺構と感じられたのである。
現状(七月訪問)小規模が故に縄張りは掴み易く、その切岸斜面も含めて、山城としてみればそれなりに探索踏破出来る状況となっているが、相当な藪城を想定して臨んだだけにその感動は大きく、草木の余り蔓延らない切岸跡や、見応えのある堀切を見ただけで、充分な満足感が得られた事だけはお伝えしておきたい。
城跡を個人的に評価するのであれば、上記に挙げた全ての材料、あるいはトレッキング気分で山頂まで上れる事まで含めれば、山城ファンの方だけを問わず、軽い登山を楽しまれる方にも是非訪れて、山城遺構の醍醐味を味わって頂きたいと思えたのである。この城跡も自分の中では「天空の城」の一つであり、小規模極まりないが、醸す山城の風情は最高!間違いなくお薦め出来る城跡の一つ、と自分の目には映ったのである。
城跡は豊岡市出石町桐野にあって、先にリポート掲載を終えた本城とも言える桐野城より谷状地形を挟んで直ぐ東側へ隣接した低丘陵上先端部に位置している。築城環境及びその規模からすれば、自ずと東側を牽制した出城と考えればよいのかも知れない(断定)。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、桐野城と同じ訪問ルートとなる為割愛させて頂くが、直登取り付き地点は桐野城直登口とした付近より、更に奥へ入った小さな沢を跨げる地点で、相当な激斜面を登ることになるが、数分で主郭までは辿り着けるだろう。
城跡概念図
現状(八月訪問)ほぼ二郭で成立した城郭は、本城より少し劣るかも知れないが、それなりに見学し易い状況にあると思って頂いてもよいだろう。見所遺構は数少ないものになるが、城郭の特徴として二郭間には仕切り土塁としての役割を担ったか、櫓台の如き土塁壇が備わっている。堀切は当然の如く施されているが、横堀に近い形で南端尾根を分断する形態となっている。郭総全長は60mにも満たないものであり、正しく砦規模の山城という事になるだろう。
主郭背後の見応えのある堀切壁見所
城跡を個人的に評価するのであれば、本城のリポート記事中で触れた様に、山城巡りとすれば非常に効率が良く、二城同日訪問とすれば、間違いなくお薦め出来る城跡!という事にはなるだろう。
城跡は兵庫県豊岡市出石町桐野にあって、標高約148mの低山山頂に位置している。城史に関しては、既にリポート掲載を終えた高生田(タコウダ)城主でもある、山名氏家臣福富甲斐守の居城が伝わるが、福富氏が高生田城を攻め落とす前に居城としたのがこの城だと伝わっている。氏は勇猛な武将として名を馳せているが、高生田城を秀吉によって攻め落とされた後の消息は定かではない。
城跡概念図
現状(八月訪問)、近年マニアックな山城ファンの方しか入山した事がない(推察)状況の山城にしては、それなりに誇れる状態(郭跡のみ)にはあるが、当然その四方斜面上は自然任せの藪化が進行している。踏破探索した中で目に留まった遺構は、全て概念図には記したつもりだが、それは本郭群周辺だけだと思って頂きたい。ちなみに自身が踏破した範囲内に堀切は施されていなかったが、未踏の地(南北の枝尾根)には刻まれていたのかも知れない、、、見所と言えるものは、堆積物の異様に少ないほぼフラットな郭跡、及びその鋭角に削り落とされた高低差を伴う切岸跡、自然地形に任せて削平されたとはいえ、鶴翼の陣の如きユニークな縄張り形態、郭壁随所に窺われる石積み跡は挙げられよう。規模は流石に福富氏の居城らしく、山上における郭占有面積は大きく、比較的大きい部類に入る山城と言っても良いかも知れない。
郭3 石垣跡見所
城跡を個人的に評価すれば、本郭群だけに関しては見学し易く充分誇れる状態にある事、草木の蔓延らない生々しい見事な切岸(高い!)、先に触れた石積み跡、遺構残存度が高く(推察)ほぼ無名に近い山城としての希少性、あるいはこの後リポート掲載予定の、東城(出城か?)まで含めた遺構見学とすれば、間違いなく是非お薦め出来る山城の一つという事にはなるだろう。
城跡を訪れるには、まず国道426号線に進入することが先決となるが、出石町寺坂付近から城跡に至るまでの道程は、登城ルート図を参考にして頂きたい。城跡から見て国道沿いの東西にある橋を渡ってからは、ルート図における赤ラインを辿れば難なく直登口(画像に注目)までは辿り付けるが、西側の橋を渡って向かう場合は、直ぐ麓まで車で乗り付ける事が可能となっている。そこから山道に沿って少し奥に入れば、右手斜面のどこから取り付いて上っても、藪漕ぎなしで15分程度あれば本郭群まで辿り着ける筈である。
この城跡は数年前のブログ記事にまで遡る事になるが、但東主計城(但馬地方の山城カテゴリー)のリポート記事中に、訪れた際地元で明確な所在地を特定する事が叶わず、私見によって推定坂津城跡として載せた記憶がある。その後但馬の山城巡りの際には、何度となくお世話になっている山城ファンの方から、公的資料にある坂津城は推定城跡より派生した、北西側の枝尾根上にあるといった情報を頂戴し、今回はやっと本来の坂津城を訪れる事が叶えられた。尚、主計城リポート記事中で触れた推定坂津城(記事は据え置き)は、空堀の類は目に留まらなかったものの、切岸及びその築城環境から紛れもない城郭遺構と自分の目に映った事から、私見に基づいたものになるが、坂津城山上郭群(鬼子母神の社殿がある)としてルート図及び概念図は載せたので、興味を持たれた山城ファンの方には、山上郭群とその枝尾根上にある二城で成立(推察)したと思われる、城郭遺構を是非覗いて頂きたいと思うのである。
推定山上郭群概念図
城跡は豊岡市但東町坂津にあって、その所在位置は先に触れたルート図を見ればほぼお分かり頂けるだろう。その登城口は直登となるが、公民館傍(画像に注目)から右手側にある谷状地形を目指して上り、この付近では唯一とも言える入山口となるフェンスを開閉して、更に谷状地形に沿って上る事になる。数分で左手斜面側に直ぐそれと分かる縦堀地形に遭遇する事になるが、そこから既に城域に入っている事は確認出来よう。城史に関しての詳細は不明
現状(訪城時期八月)自身が探索踏破した範囲内における、概念図に示したまでの遺構は、山城ファンを自認する方であれば、本郭群と尾根を絶つ二本の二重堀切やそれに伴う縦堀、主郭に施された大土塁、あるいは切岸跡と、見れば直ぐに判別確認可能な比較的良い状態にあるが、自然任せの地表風化は随分進行中にあると思って頂ければよいかも、、、。その中で畝状空堀に見えなくもない、土塁を間に挟んだ空堀跡や、低い段差程度の段郭群境などは明瞭なものではなく、自身が描いた概念図は何時もの様にアバウトな縄張りと思って頂ければ有難い。ただ郭跡から四方斜面に至るまではくまなく歩き回れる状況となっているので、低草木の余り蔓延っていない、ほぼ全貌の窺える堀切などは充分楽しめるものとは思われる。
城跡を個人的に評価するのであれば、全長40m程度の砦規模の城跡ではあるが、先に触れた様に遺構の見応えは充分なものであり、山城を形成する空堀、土塁、切岸の三要素は備わっているので、規模さえ問わなければ充分お薦め出来る城跡の一つ、といった事になろうか、、
この城跡は大河内城跡として既に4、5年前リポート掲載したにも拘らず、本郭群は小規模、更に空堀も施されていなかったので、個人的には砦を覗いただけで、肝心の本郭群を見逃していた可能性もあり、何時か再訪して再確認する機会を窺っていたが、ここに来てやっと再訪の機会に恵まれ、直接地元で得た情報を元に、自身の思惑通り誤認した可能性のある山上本郭群を見つけ出す事が出来た。よって過去リポート掲載に及んだ同名の城跡(記事は削除)は、今回は推察南砦跡として再び登城ルート図及び城跡概念図を載せたので、興味と時間に余裕のある方は是非そちらも覗いて頂きたい。ただし南砦の方は私見に基づくものであり、但東町史には載っておらず、公的にはまだ城跡として認識されていないが、、、
城跡は豊岡市但東町大河内にあって、民家の点在する小さな集落の北側の山上に位置しており、現在その小規模な主郭転用地には、小さな金比羅祠(愛宕祠かも?)が祭られている。城史に関しては、室町期に山名氏家臣の桑垣、内藤氏の在城が伝わるのみで、詳細は不明。
城跡概念図
現状(訪城昨年八月)城跡は、郭転用地とも言える主郭に祠が建つ事から、地元の方も定期的に参拝しているらしく、その敷地は整備されてフラットな状態にあり、概念図に示した縄張り内における残存遺構は、極めて見学し易い状態にあると思って頂いても良いだろう。山上本郭群の全長は50mにも満たないものであり、砦規模の山城と言っても過言とは思えないが、下草や低草木の蔓延っていない、郭壁となる切岸や堀切などは、ほぼその全貌が覗える、山城としては素晴らしいコンディションの下にあり、残存遺構も含めた佇まいそのものが、この城跡の見所と言えるかも知れない、、、よって個人的に城跡を評価するのであれば、規模さえ問わなければ間違いなく是非お薦めできる山城の一つ!と言う事にはなるだろう。
北郭
北端堀切見所
城跡を訪れるには、京阪神側から向かう場合、まず国道426号線に進入する事が先決となるが、ルート図中にある登尾トンネルを目印として目指せば分かり易いだろう。そのトンネルを潜り抜ければ次の三叉路を右折、後はルート図を頼りに民家横にある(画像に注目)入山口まで向かい、そこから参拝登山道に任せて山上を目指せば、迷わず主郭までは辿り着ける筈である(西端堀切までは10分程度)。
TAKUです、山城ファンの方々並びに「山城賛歌」読者の方々には永らくお待たせしました!遅ればせながら明けましておめでとうございます。
昨年の二月からおよそ一年に渡り、体調も含めた個人的諸事情により、山城巡りもブログ更新もままならない状況が続き、山城リポートも自ずとその間途絶えて居りましたが、昨年秋辺りよりやっと山城巡りを再開させる事が出来ました。その間における城跡情報の提供、あるいは励ましのメールやコメントを頂戴していたブログ読者の方々には、満足のいく返信コメントも発信出来ず、非常に心苦しく思っておりましたが、この場を借りて一年間における無礼をお詫びしたいと思っている次第です。
山城巡りの再開に関しては、ここ一年の間に現地在住の山城ファンの方から寄せられた信頼のおける情報により、今まで城跡の存在は知り得ながら、その所在地すら掴めなかった知名度の低い但馬の山城が中心となりますが、既に昨年の夏場あたりから探索踏破を終えた山城も数城あり、これから編集次第ぼちぼちと掲載の予定です。よって情報鮮度が少々落ちる分に関しては、ご容赦願いたいと思います。
その中にあっては、推察(推定)城跡として既に現況報告を終えたにもかかわらず、リサーチ不足で呼称の判明までには至れなかった城跡、あるいは小規模な出郭(砦)を覗いただけで、肝心の本郭群を見逃していたものも併せて、新たな城跡情報として再び掲載に及ぶ予定です。これから寒さも益々厳しくなると思われますが、より安全面を重視した体に無理のない山城巡りは是非心がけて頂きたいと思います。尚、今年第一弾目の山城リポートは、一月末あたりには予定しておりますが、ここ一年の間概念図を描いたり、パソコンのキーボードを叩く機会がほとんどなかっただけに、リポート編集がやや不安な今日です。
本年度における最初の山城リポートとなりますが、ブログを拝見して頂いている読者の皆様方には、遅ればせながら明けましておめでとうございます。今年も昨年同様「山城賛歌」が城跡のアシストとして役立つ事を願って止みませんが、訪れる場所によっては積雪も多く、安全を第一とした山城巡りは、これからも是非心がけて頂きたいと思います。
城跡は三重県伊賀市阿山町玉滝にあって、伊賀の居館跡に相応しく、利便性の良い低丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、二つの方形居館跡が堀切を境として丘陵上に軒を並べる様は、伊賀ではさほど珍しいものではなく、ここを居館とした一族、あるいは二氏における居館跡と考えればそれで良いのかも知れない、、、
城跡を訪れるには阪神側から名阪国道を利用して車を走らせた場合、「壬生野IC」が最寄の乗降口となるが、降りて後は県道49号線に進入して、城跡に一番近い信号「玉滝」交差点を目印として車を走らせればよい。玉滝交差点から城跡まではルート図及び概念図を参考にして頂きたいが、県道沿いからは墓地(画像に注目)を通過して、そのまま丘陵上を目指せば数分で一号城跡までは辿り着けるはずである。尚、車の駐車に関しては、県道沿いに路駐可能な広い路肩があるので、全く気は使わなくてもよいだろう。
二城が立並ぶ形態は概念図を参考にして頂きたいが、丘陵北端部が川上一号城で、その南側にあるのが識別呼称として川上二号城となっている。まず一号城は本来なら四方に土塁が施されていたものと思われるが、現状土塁は三方のみとなっており、西側に施されていたと思われる土塁は、直ぐ西側にある住宅造成の際に削り落された(推察)ものと察せられた、、、?。土塁は南側がより高い(内壁高低差5m前後)ものとなっており、比較的面積が広い事から櫓台の存在は充分想像されよう。この土塁背後に施された大堀切が城跡にあっては最大の見所遺構となるが、掘削幅も高低差もあるもので、非常に見応えを感じるものとなっている。この堀切から更に南側に、土塁を跨いで二重堀切として浅い空堀が設けられているが、これは二号城における武者隠し程度の空堀と考えるのが妥当なところか、、、、
二号城は土塁が四方を廻っているが、高低差を伴うものにはあらず、土塁としての見応えにはほとんど期待できないかもしれない、ただこの低土塁は南切岸斜面背後に備わる空堀と並んで、遺構はほぼ完存に近い(推察)ものであり、城郭遺構としての値打ちは充分感じられたが、、現状二号城の郭内部及び周囲斜面の藪化は深刻化しており、移動探索は困難を極める状況にあり、東側斜面は踏破探索する事も叶わず、概念図を描くまでには至れなかったが、一号城は大堀切も含めて、比較的見学し易い良い状態にある事だけはお伝えしておきたい、、、
城跡を個人的に評価すれば、二城同日訪問が理想とは言えるが、二号城の深刻化した藪化を思えば、一号城背後の大堀切までの遺構見学はお薦め出来るが、二号城背後の空堀までは、踏破探索意欲に溢れた方にのみお薦めしたいと言ったところか、、、
城跡は三重県伊賀市蓮池にあって、登城ルート図を見れば直ぐお分かり頂ける様に、先にリポート掲載を終えた村井氏城からも直ぐ望める程近い距離にあり、「蓮生寺」直ぐ東背後の丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、上山氏の居館跡と伝えられている。
城跡を訪れるには、先に触れた村井氏城を起点とすればその位置も分かり易い事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、「蓮生寺」集合墓地東背後の雑木竹林地の中が城跡でもあり、墓地背後より上れば直ぐにでも土塁上に佇む事が可能となっている。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、伊賀の居館跡に相応しく土塁で主郭四方を固めたもので、その四方を廻る土塁はほぼ完存、しかも虎口付近には石組みの痕跡が残る井戸跡、更に当時の遺構かどうかの正否の判定は難しいが、郭周囲には排水溝の様な石列が廻っている。お定まりとも言える空堀(箱堀)は主郭東背後に施されているが、堆積物によって深さは相当失われており、見応えには少々欠けるかも知れない。この空堀には空堀に沿う形で石垣も一部残っているが、遺構としての正否の判定は見学者の判断に委ねられるといったところか、、、、空堀を越えて更に東側に足を延ばせば、二方を土塁(内壁に石積跡)で仕切られた形の削平地を眼にする事も出来るが、これも縄張りの一部と見て良いのかも知れないが、空堀下の直ぐ南側に展開される規模の大きい削平地(石組み井戸と郭壁随所に石垣跡が残る)と同様に、後世における寺院跡地とみるのが妥当なところかも、、、、謎。
現状(12月)城跡は郭内部も含め、その一帯は風化も藪化も相当深刻化しており、青竹や低草木が一面に蔓延っている上に、更に倒竹が追い討ちをかける状態となっており、郭内をくまなく歩き回る事は困難を極める状況にあると思って頂いてもよいだろう。もちろん四方を廻る土塁の全体像を拝む事も出来ないが、比較的見通しが利き、蔓延る木々の少ない土塁上を移動すれば、先に触れた遺構群は何とか判別確認も出来るだろう。城跡を個人的に評価すれば、残存遺構に見応えまでは望めそうにないが、空堀や土塁、更に井戸跡も含めた、ほぼ完存とも言える遺構群の史跡としての値打ちは高く、その状態さえ問わなければ、圧倒的お手軽感も加味して「充分見学する値打ちのある城跡の一つ」、といった事にはなろうか、、、、
城跡は三重県伊賀市蓮池にあって、蓮池地区に数多く築かれた居館跡と同様に低丘陵上に位置している。城史に関しては、その名が語る様に村井氏の居館跡と伝わっているが、詳細は不明。
城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた和田城や大北東城を起点とすれば、その位置も分かり易いが、住宅敷地の一部をかすめながら竹薮に進入すれば、直ぐにでも主郭に辿り着ける筈である。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、伊賀に数多く見受けられる、土塁に空堀が伴う方形居館跡に近いもの思って頂いても良いだろう。現状土塁は東側のみに残るが、本来は郭南北にも備わっていたのかも知れない、、、? 空堀は土塁背後の東側と主郭北側にL字状に残るが、残存状態は比較的良く、掘削幅を伴う(6m前後)事から非常に見応えを感じるものとなっている。
現状(12月)主郭跡には多くの青竹が蔓延り、郭内をくまなく歩き回る事は困難を極めるが、概念図に描いたまでの遺構の判別確認は、土塁上を移動しながら見て回れば、取り合えず難渋はしない状況にある。この後現況リポート予定をしている上山氏城や、脇田氏城なども併せた同日訪問とすれば、圧倒的お手軽感も加味して、何とかお薦め出来る城跡といったことになるかも知れないが、状態は決して問わない事が大前提とはなるだろう。空堀は充分見学する値打ちあり!
城跡は三重県伊賀市高山にあって、「高山バス停」から道路を隔てた直ぐ西側の丘陵上がそれにあたる。城史に関しての詳細は不明であるが、土塁が廻る主郭を中心としたまとまった縄張りプラン、あるいは比較的大規模な形態を思えば、伊賀に数多く築かれた居館跡と見るのが妥当なところか、、、、
城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた吉田氏城を起点とすれば分かり易い位置にあるが、名阪国道「友生IC」で県道56号線に進入し、百地砦など数多くの居館跡が林立する蓮池地区を通過した上で高山集落を目指せばよい。城跡への取り付き口は画像と概念図を参考にして頂きたいが、道路沿いからその斜面を覗き込めば、木々の隙間からでも切岸は確認出来る状況にあり、その上り易い斜面を探して上れば、直ぐにでも土塁上に佇む事が可能となっている。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、直ぐそれと分かる残存遺構は数も少なく、主郭と察せられる大規模な郭跡をほぼ半周取巻く低土塁、主郭北東斜面側の明瞭な切岸、北西側に施された幅のある深い空堀だけと言っても過言とは思えないものであり、城跡にあっては唯一醍醐味の感じられる空堀も、ほとんどが下草や低草木に覆われており、その全体像を窺う事はとても叶わない状況となっている。よって明瞭な低土塁と並んで、遺構の見応えには余り期待できないものと思って頂いても良いかも知れない、、、
現状(12月)主郭跡の藪化や地表風化は相当進行しており、郭内をくまなく歩き回る事はとても叶わない状況となっているが、土塁上を移動すればそれなりに遺構見学は可能であり、大雑把ではあるが縄張りも充分把握可能な状況にある。城跡を個人的に評価するのであれば、蓮池地区に数多く築かれた居館跡巡りの一環とした上で、圧倒的お手軽感も加味し、更に効率の良い同日訪問とすれば、何とかお薦め出来る城跡といった事になろうか、、、
城跡は京都府舞鶴市油江(ユゴウ)小谷にあって、小さな集落の中央に位置しており、北キンキ丹後鉄道「丹後神崎駅」からみて南側の低丘陵上にあるが、駅のホームからも充分望める位置にある。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた蒲江城を起点とすれば分かり易いが、由良川に沿って走る571号線に進入し、「丹後神崎駅」を目印として目指す事になる。登城スタート地点となるのは「油江集会所」背後にある赤い鳥居からで、ここから旧参拝登山道に任せて上れば、旧社殿の建つ主郭までは10分内で辿り着ける筈である。尚、車の駐車に関しては、集会所付近に路駐可能なスペースが充分確保出来るので心配には及ばないだろう。
城郭の形態は概念図を参考にして頂きたいが、規模は小さく、ほぼ単郭で形成された砦規模の山城と思って頂いても良いだろう。ただし斜面上に施された連続する空堀(縦堀)、あるいは主郭背後の尾根を断つ三連の堀切(縄張り妙味の感じられる空堀)が象徴する様に、練られた縄張りプランは中々味のあるものであり、下草の蔓延らない状態の良い切岸、旧参拝登山道で迷わず上れるお手軽感も含めれば、規模さえ問わなければ間違いなくお薦め出来る山城の一つ!と自分の目には映ったのである。尚、社殿のある主郭までは、現状虎口跡の様にも窺える空堀道が刻まれているが、余りにも状態が良い事、あるいはこの規模の城郭で、当時主郭正面に堂々と分かり易い虎口(空堀道)を設けた例が見当たらない事もあって、これは後世参拝用に掘削されたものと見るのが妥当なところか、、、
現状(11月)城跡は、近年までは地元の方が稲荷神社へ参拝に訪れていた事もあって、登山道も含めて蔓延る木々は比較的少なく、そのお陰で現存する遺構の判別確認は容易く、山城としては遺構見学のし易い状態にあると思って頂いてもよいだろう。ただし地表風化はそれなりに進行しているので、堆積物によって埋もれた連続空堀(縦堀)や堀切、あるいは薄くなった土橋などに、見応えまでは決して望まない事が肝心となるが、、、、
城跡は京都府舞鶴市下東にあって、先にリポート掲載を終えた岡ノ谷城、寺ノ谷城の北側背後に聳える山の山上最高所に位置しているが、この二城における本城が打越城と考えれば良いのかも知れない、、、城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、先に触れた二城の堀切背後から、そのまま尾根伝いに山上を目指せば辿り着けるが、寺ノ谷城をそのまま通過して上った場合、所要時間15~20分前後と思って頂ければ良いだろう。
今回の訪城では、先に触れた二城はともかく、山上本郭群における全体踏破は叶えられたものの、途中から降り出した雨によって長居は出来ず、西側枝尾根までの踏破は叶わなかった。よって何時もの概念図を描くまでには至れず、今回は言葉でそのアバウトな本郭群の形態を説明させて頂くことになるが、全長30m前後の主郭から南西斜面側に向いて幾重にも重なる帯郭、あるいは狭小段郭群を特徴としたものであり、本郭群背後を断つ東尾根上には唯一堀切(縦堀に繋がる)が施されている。これは堆積物(落葉で数mは埋もれている?)や長年の風化(侵食)によって非常に薄くなっており、見応えはとても望めそうにないが、取り合えず見学者の目は楽しませてくれる筈である。全体的に山上郭群における郭高低差は余りなく、更に風化が激しい事から、切り立つ切岸などの醍醐味に触れる事は出来ないと思って頂いても良いかも知れない、、、
現状(11月)城跡は、先に触れたように堆積物や侵食による地表風化は激しく、更に藪化も進行中にあり、城郭としての縄張りを掴む事は非常に困難極まりない状況下にある。更に見応えのある遺構は皆無に近く、個人的にはとてもお薦め出来る山城とは言えないが、先に触れた二城、あるいは佐織城も含めた同日訪問とするのであれば、興味を持たれた方だけには何とかお薦め出来るかも知れない、もちろん遺構の見応えは決して望まない事が前提となるが、、、
城跡は京都府舞鶴市下東にあって、先にリポート掲載を終えた佐織城から見て真北側の低丘陵上に位置しており、谷状地形を挟んだ西側に位置するのが岡ノ谷城、東側に位置するのが寺ノ谷城となっている。後でリポート掲載予定の打越城はここから更に北に向いて上った山頂にある。城史に関しての詳細は不明であるが、築城環境を考慮するのであれば、二城共に打越城の出郭(出城)と見るのが妥当なところか、、、
城跡を訪れるには、先に触れた佐織城を起点とすればその位置も分かり易いので、城跡までの細かいアクセス方法は割愛させて頂くが、東善寺を目印として車を走らせればよい。寺ノ谷城跡への進入経路は、概念図を参考にすれば分かり易いとは思われるが、岡ノ谷城へ向かうには一度打越城まで上り、その遺構見学を終えた後、下山時右側の尾根へ下りる形で向かえば良い。ただし打越城への訪城を最初からパスされる方には、寺ノ谷城から谷状地形を跨いで向かわれる事をお勧めしたい。
城跡の形態は二城共に概念図を参考にして頂きたいが、寺ノ谷城は狭小郭の背後に堀切(V字形の薬研堀ではない!)が備わる、見張り台程度の城郭と思って頂ければ良いが、その郭跡には多くの低草木が蔓延り、中々その全体像は掴み辛い状況にある。
岡ノ谷城は郭内の見通しが利き、それなりに見学し易い状況にあるが、規模として砦の域は出ないものの、櫓台土塁背後には明瞭な堀切が施されており、充分見学する値打ちのある城跡といった事になろうか、、、
尚、打越城の現況リポートはこの後に予定しているが、山城巡りとして効率の良い三城同日訪問は、打越城のリポート記事を拝見した上で判断して頂きたい。由良川あるいは下東集落を監視下においたと思われる、佐織城まで含めた山城巡りは自ずとお薦め出来るが、、、
城跡は京都府舞鶴市下東にあって、登城ルート図を拝見すればお分かり頂けるように、既にリポート掲載を終えた丸田東城から見て、由良川を隔てた真東側の低丘陵上先端部に位置しており、中山城も含めた三城の位置関係は、なぜか正三角形の構図を形作っている。城史に関しての詳細は不明だが、直登取り付き地点とした集合墓地の中に佐織氏の墓石があった事を思えば、一色氏家臣の中に佐織氏も名を連ねていたのかも知れない、、、当然推察の域は出ないが。
城跡を訪れるには、先に触れた丸田東城を起点とすれば分かり易いので、城跡付近までのアクセス方法は割愛させて頂くが、571号線と平行して走る北キンキ丹後鉄道高架下を潜って直ぐの場所に、今回登城取り付き口とした集合墓地はある。そこの最奥最上段にある墓地背後より山上を目指して上る事になるが、藪漕ぎもなく10分前後で辿り着けよう。
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、小規模な主郭を頂点として尾根上三方向に郭は張り出しており、唯一の空堀とも言える堀切は、主郭背後となる南尾根側に施されている。この堀切が城跡にあっては唯一見応えのある見所遺構という事になるが、郭を形成する切岸跡なども充分醍醐味を味わえる筈である。
現状(11月)城跡は、多くの堆積物(全て落葉)や低草木、あるいは下草で地表も露見していない箇所が多く、地表風化が更にそれに追い討ちをかけており、郭移動に差し障るまでには至っていないものの、主郭周辺に限って言えば、郭構成やその形状などは外見から非常に読み辛い状態にある。よって概念図に示したものは、推察及び自身の想像をある程度含めたものと思って頂きたいが、縄張り妙味の感じられる城跡ではないので、過大な期待を抱いて臨まない事が肝心とは言えるだろう。これを機に訪れる用意のある方には、由良川沿いに数多く築かれた城跡の遺構見学の一環とすれば、何とか訪れる理由も生まれて来るのではないだろうか、、、
城跡は京都府舞鶴市蒲江大田にあって、先にリポート掲載を終えた蒲江城から更に南下した地点にあり、低丘陵上の先端に位置している。この山城も由良川沿いに数多く築かれた山城の中の一つであるが、蒲江城を始めとした他の山城と同様に、出城の域は決して出ない砦規模の城跡といった事になろうか、、、城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、先に触れた蒲江城を起点とすれば所在位置も分かり易いが、蒲江集落から更に571号線を数百m南下すれば長い直線道路となる、その中央付近の二番目の踏切?を目印として目指せば、今回車を路駐する事になる踏切手前の広い路肩は直ぐ目に留まる筈である。そこから直登取り付き地点(画像に注目)まではルート図の赤線を辿って頂きたいが、そこからそのまま山上を目指して上れば、藪漕ぎもなく迷わず主郭までは辿り着ける筈である。ちなみに踏切からは15分程度
城跡の形態は、コンパクトにまとまった縄張りであるが故に、ほぼ概念図に描いたものに近いと思って頂いても差し支えないと思うが、目測全長30m前後の主郭に帯郭を付随させ、その尾根両端を堀切で断ったシンプル極まりない構造となっている。見所遺構としては主郭背後を断つ明瞭な土橋付き堀切、あるいは南斜面側における切り立つ切岸といったところになるが、東尾根を断つ堀切は堆積物(落葉)に埋もれて明瞭なものとはとてもいえないので、見応えまでは望めないだろう。縦堀に関してはそれらしいものを一箇所確認する事が出来たが、自然地形の可能性もあるので、訪れた方自身で判断して頂きたい、もちろん木々の多く蔓延る全ての斜面を覗いた訳ではないので、空堀(縦堀)に関してはこの限りではないものと思って頂きたいが、形態を考えてもそう多くは望めないような気がした。
現状(11月)城跡は多くの木々やシダが蔓延り、堆積物によって地表の露見している箇所は限られてくるが、藪漕ぎ移動までには至っておらず、概念図に示したまでの遺構は全て判別確認可能な状況にあると思って頂いても良いだろう。ただしその全貌が窺える見通しの利く状況にはないので、狭い縄張り内を歩き回る事は余儀なくされるが、、、個人的に城跡を評価すれば、蒲江城からもほど近い距離にあり、二城同日訪問とするのであれば山城巡りとしての効率も良く、充分お薦め出来るかも知れないが、規模や状態は絶対問わない事が肝心。後世人の手が加えられたと察せられる(山林作業用山道として)土橋は今まで数多く眼にして来たが、この当時のままとも察せられた土橋付き堀切は、充分見学する値打ちありと見た!
城跡は京都府舞鶴市蒲江(カマヤ)にあって、標高約140mの山頂に位置しており、その西麓には山王神社が鎮座している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、由良川沿いを国道178号線と平行して走る571号線に進入する事が先決となるが、今回登城口とした蒲江集落の「山王神社」を目印として目指せば分かり易いだろう。その直登取り付き口は、山王神社の摂社となる「稲荷神社祠」からとなるが、その背後より山頂を目指して上れば、藪漕ぎもなく20分程度で辿り着ける筈である。
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、山上本郭群における藪化はまだしも、堆積物や侵食による地表風化は相当進行しており、主郭や帯郭に関しては形状も掴めず、描いたものは自身の推察も含めたものと思って頂きたい。取り合えずその中で判別確認可能なものは全て概念図には示したつもりだが、郭跡を除けば本郭群両端に施された片側に縦堀を伴う二本の堀切(主郭背後の堀切は明瞭な土橋付き)、狭小段郭群における切岸といった事になろうか、、、
現状(11月)城跡は植林地にある事もあって、先に触れたように藪化までには至っておらず、移動に差し支える事も無く探索し易い状況にあるが、地表風化は相当進行しており、二箇所に施された空堀(縦堀も含む)は相当薄くなっており、切岸も曖昧なもので鋭角なものは拝めず、見応えまではとても望めないかも知れない。城跡を個人的に評価すれば、規模も小さく遺構の見応えには随分欠けるが、当時の祖形は失われず手付かずのまま現在に至ったものとすれば、史跡としての値打ちは非常に高いものであり、楚々とした山城の風情だけは充分味わえると思われた事から、これを機に臨まれる用意のある方には、是非このニュアンスを汲んで臨んで頂きたい。山城ファンの方に限れば充分お薦め出来るが、、、
城跡は京都府舞鶴市丸田にあって、由良川に向いて突き出した低丘陵上先端部にある。築城環境から考慮するのであれば、由良川を水路とした場合の監視用砦といったところになろうが、縄張りプランや普請における労働力を察すれば、充分砦の域ははみ出た城跡の一つ、といったところになろうか、、、。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、由良川小学校あるいは国道178号線「丸田東」交差点を目印として目指せば分かり易いが、ルート図に示した集合墓地に駐車スペースは確保出来るので、そこから墓参道に任せて尾根上を目指せば、かつての大堀切跡(推察)までは迷わず辿り着ける筈である。ちなみに集合墓地からは5分内で
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、縄張りプランにおいてはごく一般的な山城の域は出ておらず、地形に任せて郭を削平し並べただけに終わったものであり、目に留まる遺構も、郭跡を除けば切岸跡、痕跡程度の空堀跡(堀切)と数も限られてくるが、高低差を誇る状態の良い切岸だけは、充分見学に値する城郭遺構と自分の眼には映った。尚、主郭南端部から便宜上の三郭にかけては、鉄塔撤去工事あるいは道路拡張工事によって遺構は一部消失したものと察せられたが、そのリサーチまでには及んでいないので、郭跡を含めた歪な地形から、自身が推察したものと思って頂ければ有り難い。
現状(11月)城跡は、蔓延る木々は比較的少なく、それなりに見通しが利く事から縄張りは掴み易く、更に遺構の判別確認も容易く、見学し易い状態が自然維持された状態にあると思って頂いても良いだろう。個人的には高低差を伴う切岸、あるいは麓に向いて落ち込む切岸に遺構としての醍醐味を感じたが、空堀に関しては長年の堆積物によって相当深さが失われており、見応えを感じるまでには至れなかった。5分内で辿り着ける圧倒的お手軽感を思えば、充分お薦めの城跡といった事になろうが、縄張り妙味までは決して望まない事が肝心!
城跡は兵庫県篠山市殿町にあって、波多野氏の拠った八上城(本城)からみれば、直ぐ西側に隣接する、標高約344mの山頂に本郭群を構えたものであり、その出郭あるいは城砦とも呼べる郭群は、ここより更に北端尾根に至る痩せ尾根上に分散展開されている。その尾根上で明確にそれと分かる切岸跡の残る郭群を四箇所確認する事が出来るが、法光寺城案内説明板に記述があるように、東西の枝尾根上に展開される郭群まで含めれば、合計六箇所に分散した郭群で成立した城砦と言えるのかも知れない。城史に関しての詳細は「現地案内説明板」をクリックのこと
城跡を訪れるには、山城ファンを自認する方であれば、ほとんどの方が既に訪れていると思われる、八上城跡を起点とすれば一目瞭然とも言えるので、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、ルート図に示した公民館に車を預けた後は、国道を隔てた側にある神社入り口(法光寺城案内説明板がある)より神社まで向えばよい。社殿からは左手側斜面に取り付き、斜面を左側へ回り込む形で上れば、直ぐに獣避けフェンスに沿う形の空堀道(山道)と合流出来るが、それに任せて上れば、迷わず便宜上の北郭1には辿り着けよう(10分程度)。更にフェンスに沿う形でそのまま痩せ尾根上を移動すれば、本郭群までは30分程度で辿り着けるだろう。
痩せ尾根上に展開される本郭群も含めた四郭群の形態の説明は、記述すれば限がなくなる事から、便宜上の北3郭を除けば概念図を拝見した上で判断して頂きたいが、遺構見学として一番判別し易く期待の求められる空堀は、直ぐそれと分かるものを二箇所記したが、本郭群北斜面に施された痩せ尾根地形を土橋として利用した、片側が谷に向いて落ち込む豪快な縦堀は、充分見学者の期待に応えてくれるものと自分の眼には映った。四郭群共に明瞭な切岸跡は窺えるが、高低差を伴うものではなく、堆積物を含む長年の地表風化によって、見応えには余り期待出来ないかも知れない、、、尚、北郭3の形態に関しては、移動尾根道に沿う形のフェンスが郭内部を通過していない為、状態が非常に醜く、地表風化や藪化がそれに更に追い討ちをかけており、郭形状までは掴み切れなかったが、明瞭な切岸跡や土塁らしき痕跡が窺えた事だけはお知らせしておきたい。
北郭1及び北郭2の概念図
北郭2切岸見所
本郭群概念図
個人的には再訪を果たした形になった山城の一つでもあるが、数年前までは施されていなかった、高さ2m近い獣避けフェンスのお陰で、郭内部も尾根上も東側斜面に移動する事は叶わず、そちらの残存遺構に関しては全く覗く事が出来なかった。城跡の古い形態や縄張りプランから察しても、そう多くの遺構に巡り合えそうには思われなかったが、これを機に訪ねる用意のある方には、是非この状況を把握して臨んで頂きたい。城跡を個人的に評価すれば、城郭遺構に縄張り妙味や見応えは望めそうにないが、八上城の本質を探る上では、決して避けて通れない山城とも言えるので、当然お薦め出来る城跡という事にはなるだろう。探索冥利に尽きる山城の一つ!
城跡は兵庫県篠山市野間にあって、ほぼ独立した丘陵上最高所に位置しているが、先にリポート掲載を終えた塚ノ山砦と同様に、八上城と篠山川を隔てて対峙した付城の一つ、勝山城(消滅)の支えとなる砦跡と解釈すればよいものとは思われる。
城跡を訪れるには、先に触れた塚ノ山砦を起点とすれば一目瞭然の位置にあるが、702号線沿いからも窺える案内道標、「鎮守の森公園」が城跡への一番分かり易い入り口となる。現在下草でその周辺は覆われているが、遊歩道に従って上りさえすれば、数分で山上本郭群へは辿り着ける筈である。702号線沿いに充分駐車スペースは確保出来るが、そこから塚ノ山砦を目指して歩いても数分の距離にあるので、二城同日訪問は充分お薦め出来るだろう。尚、城跡西にある「玉照院」側からも遊歩道が敷設されているので参考までに、、、
現状(10月)城跡は、遊歩道から少しでも外れれば下草や低草木で全て覆い尽くされた状態にあり、遺構見学としては非常に困難を極める状況となっている。もちろん遊歩道に任せて歩くので移動に難渋する事はないが、そのお陰で今回は郭形状はもちろんの事、その縄張りも掴み切れず、概念図を描き切るまでには至れなかったが、その中で何とか目に留まった遺構だけをここで紹介させて頂く。
まず道標から先に進んだ地点で直ぐ目の当たりにする事の出来る、約5mの高低差を持つ南郭切岸、規模の大きい南郭(通歩道で通過して来た箇所)と主郭の境に堀切跡(画像に注目)、丘陵上で唯一地表の大きく露見した小規模な主郭(画像に注目、10m規模)と、その北背後で土塁の付随した縦堀に繋がる空堀跡、玉照院側斜面に施された帯郭、東側に突き出した形の削平の甘い東出郭、これらが取り合えず今回判別確認出来た遺構群と思って頂ければ良いが、空堀に限っては何れも下草で覆われて、その全体像は窺えない状態にあるので、縄張りにおける必然性を含めて、自身の推察を加味したものと思って頂ければ有り難い。尚、主郭北側斜面は陣城としての形態上余り期待が持てず、踏破探索するまでには及ばなかったが、残存遺構も上に記しただけでは終わらないのかも知れない、、、
城跡を個人的に評価すれば、遊歩道が敷設されているので、非常に訪れ易い城跡の一つとは言えようが、現状の低草木で全体が覆い尽された状況を思えば、臨場感を味わう程度、あるいは戦国ロマンに浸る程度と割り切った訪問が必要と思えたのである。もちろんこれから先、鎮守の森公園に相応しく低草木が伐採され、更に庶民の憩いの場として生まれ変わるのであれば話しは別になるが、、、そうなれば充分遺構見学としても期待は持てるし、是非それに期待したいところではある。
城跡は兵庫県篠山市野間にあって、現在ゴルフ場となって城郭遺構の消滅した勝山城の直ぐ西側に隣接した丘陵上に位置している。この勝山城は明智光秀の陣城として伝わっているが、この塚ノ山砦も八上城を包囲する形で数多く築かれた陣城の一つとして考えればよいのだろう、、、
城跡を訪れるには国道372号線、あるいは702号線を経由して青山GC を目指せば分かり易いだろう。702号線沿いからの進入経路は概念図(画像)に示したので参考にして頂きたいが、畑地まで辿り着けば下草の蔓延る山道(堀底道)がかつての堀切まで繋がっているので、迷わず辿り着ける(数分)だろう。
登城ルート
堀底道(進入経路)
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、本郭群最高所においては、古墳の墳丘を利用したと思われる櫓台と察せられる土塁郭、更に主郭南北には空堀(一部縦堀も含む)の痕跡が窺われ、便宜上の二ノ郭南端には明瞭な堀切(縦堀に繋がる堀底道)が施されている。この空堀は東斜面側が道路造成拡張工事の為に失われているが、数少ない残存遺構の中にあっては、唯一眼を楽しませてくれるものとみた。他の二本の空堀に関しては明瞭さに欠ける為、自身の想像と推察を含めたものと思って頂きたいが、数多く遺構に接して来られた方なら、何とか判別確認出来るかも知れない、、、、
現状(10月)城跡は藪化進行中にはあるが、見学に差し支えるまでには至っておらず、それなりに見通しも利き、動き回り易い状態が自然維持されている。個人的に城跡を評価すれば、次にリポート掲載予定のルート図に示した野間砦と併せた同日訪問、あるいは光秀の築いた陣城巡りの一環とすれば、戦国ロマンに浸れる事も含めて、得られるものも数多いのではないだろうか。もちろん城郭遺構に過大な期待を寄せない事が前提とはなるが、、、
この城跡に関しては、自身数年前に訪れていたものの、丹波に数多く築かれた小規模な砦跡(付け城も含む)と同様に、印象にはほとんど残っておらず、更に記録(概念図)にも残していなかったが、最近訪ねられた方(ブログ読者)からの情報で、山上主郭周辺に蔓延っていた木々のほとんどが伐採されて、遺構見学のし易い環境になっていた事が分かり、急遽山城巡りの移動中に立ち寄る事になったものだが、その情報通り城跡は、主郭を始めとした小規模な縄張りの全貌が窺える状況にあった事をまず最初にお伝えしておきたい。
城跡は兵庫県篠山市二之坪にあって、「東林寺」背後の真南側丘陵上がそれにあたる。訪れるには国道173号線を利用する事になるが、先に触れた「東林寺」を目印として目指せばよい。寺院駐車場からは集合墓地を経由した山道を上ってもよいが、画像を載せた直登ルートを上れば、直ぐにでも帯郭が迎えてくれる筈である。尚、城史に関しての詳細は不明であるが、機能を想像した場合、築城環境やこの様相から物見程度の砦跡と考えるのが妥当なところか、、、
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、物見程度の小さな主郭(7m四方)から西斜面に沿って帯郭を重ねたものであり、主郭東背後には小規模な砦跡には分不相応とも思える堀切(二連に見える)が施されている。この空堀は現状土橋付き堀切となっているが、山林所有者によって土橋として近年埋められたものの様にも察せられた、、、謎。現状の激しい地表風化を思えば自ずと見学者の判断に委ねられるが、、、、切岸は最大高低差2m程度のものを帯郭群で拝めるが、堀切と並んで何とか見学者の目は楽しませてくれよう。概念図には山上削平地も含めた踏破した範囲を示したが、山上削平地から寺院に向いて落ち込む急斜面上では、豪快な縦堀と小さな二段郭(住職の建てられた物置小屋がある)を確認する事が出来た。これは当時のものとすれば最大の見所遺構とも思われたので、これを機に訪れる用意のある方には、是非この地までは足を延ばして頂きたい。
現状(10月)城跡は先に触れた様に遺構見学し易い状況となっており、既に訪問を終えられた方々にも、これから訪れる用意のある方々にも、自身と同様に国道移動中に気の向くまま立ち寄って頂きたいが、残存遺構に多くを望まなければ、充分楽しめるような気がしたのである。
城跡は京都府船井郡高岡中村にあって、既にリポート掲載を終えた中畑城の東側、集落を隔てた標高289mの山頂に位置しており、公民館の真北側の山がそれにあたる。この城跡は山城ファンの方(ブログ読者)からのコメントで初めて存在を知り得たものだが、堀切が備わっていたとの単純な理由のみで訪れる事となった。城史に関しての詳細は不明であるが、築城環境及びその規模からすれば中畑城の出城とみるのが妥当なところか、、、
城跡を訪れるには中畑城を起点とすれば一目瞭然とも言えるので、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、入山口目印となるのは集合墓地脇にある赤い鳥居(画像に注目)で、ここから始まるかつての参拝山道で朽ち果てた小さな祠まで上り、その背後を直登すれば、藪漕ぎもなく迷わず辿り着ける(車を預ける公民館駐車場からは10分足らず)筈である。尚、中畑城のリポート記事は、情報が相当古くなった事から既に削除してしまったが、サーバー許容量を確保する為でもあるので、どうかご容赦願いたい。登城ルート図だけは載せたが、、、
城跡の形態はほぼ概念図に示したものと思って頂いても差し支えないと思うが、ほぼ二郭で形成されたもので、機能として物見あるいは狼煙台が窺われる程度の、非常に小規模な山城でもある。北背後には痩せ尾根地形を利用したと思われる、片側が縦堀に繋がる堀切が施されているが、切岸は主郭と二ノ郭を隔てる為に施されただけで、主郭北東側斜面は、より自然地形に近い曖昧なものとなっている。
現状(10月)城跡は、自分も含めたマニアックな山城ファンの方のみが訪れる(推察)程度の山城としては、比較的見学し易い状況にあり、郭跡に蔓延る木々は少なく、更に見通しも利き、数少ない遺構の判別確認は容易い状況にあると思って頂いてもよいだろう。城跡を個人的に評価すれば、見学材料が郭跡を除けば見応えに欠ける堀切、僅かな切岸跡のみと限られてくる事から、京丹波地区における山城に興味を持たれている山城ファンの方には、充分お薦め出来るかも知れないが、これを機に訪れる用意の方には、遺構の見応えや規模は絶対問わない事が前提とはなるだろう。中畑城と併せた同日訪問は間違いなくお薦め出来るが、、、、
城跡は兵庫県養父市大谷にあって、既にリポート掲載を終えた大谷山崎城と和土城の中間地点にあり、大谷山崎城からみて谷状地形を挟んだ東側尾根上に位置している。この城跡も山崎城と同様、城史に関しての詳細は不明であるが、山崎城の出城(砦)と見るのが妥当なところか、、、
城跡を訪れるには、先に触れた大谷山崎城 を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、工務店脇の林道より右手側の斜面に取り付いて上れば、藪漕ぎもなく迷わず主郭までは辿り着けるだろう。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、急斜面上を削平して小郭を数段(五段か?)並べただけに終わったものであり、遺構の見応えからはほど遠い山城ということになろうか、、、堀切は小規模な推定主郭背後に痕跡程度で僅かに窺われるが、堆積物によって非常に判別し難いものであり、これは見学者の判断に委ねたい。
城跡を個人的に評価するのであれば、見応えのある遺構は皆無、更に縄張り妙味もなく小規模とくれば、自ずと「山城巡りのついでに立ち寄る程度の城跡」といった事になろうが、取り合えずこの城跡の所在位置が掴めなかった方の参考になったのであれば由としたい。
城跡は兵庫県養父市八鹿町浅間にあって、標高約450m(比高360m)の須留岐山山頂に位置しているが、先にリポート掲載を終えた浅間寺城の背後激斜面を登れば、自ずと山頂を極める事の出来る山城でもある。城史に関しては浅間寺城同様不明な部分が多いが、ここまで険峻極まりない山頂に、しかも山上本郭群周囲を全て切岸化した本格的山城を築くあたりは、浅間城(低山)を居城とした佐々木氏の普請によるものとは考え難い。そのあたりも含めて充分山城ロマンに浸れる城跡という事になるが、とにかく規模は小さいが、主郭に佇めばほぼ縄張りの全体像が窺え、更に下界の眺望も利き、「イメージは正に天空の城跡」と眼には映ったのである。これで山頂の木々が全て伐採されれば、遺構見学としても山登りとしても申し分のないところだが、、、
城跡を訪れるには、浅間寺城と同様のアクセス方法となるので割愛させて頂くが、浅間寺城から先は、道案内も兼ねた手摺り代わりとなる鎖にすがりつきながら、そのまま激斜面を山頂目指して上れば良い。ただこの激斜面は相当足腰に負担を強いられる事になるので、最初から浅間寺城の遺構見学をパスするつもりなら、80分は要する(地元で聞いた話)が、比較的勾配の緩い尾根筋ルートをチョイスして頂ければよいだろう。山城巡りにおける体力を温存する事や、安全面を考慮するのであれば、直登ルートで上り、尾根筋ルートで下山する事がお勧めということになるが、ちなみに寺院から山頂までは最低約45分の所要時間、下山は尾根筋ルートで40分程度の所要時間と思って頂ければ良いかも。
城跡の形態はコンパクトにまとまった縄張りという事もあって、ほぼ概念図通りと思って頂いても差し支えないと思うが、主郭内部は長年の地表風化によって凹凸が激しく、西郭の北急斜面上は蔓延る木々や堆積物によって、切岸までは充分窺えるが、空堀などの確認は出来なかった、、、まさか縦堀が施されているような城郭とはとても思えなかったが、空堀に関してはこの限りではないのかも知れない、、、尚、土塁に関しては表土の流失が激しく、虎口跡なども併せて、自身の想像と推察を含めたものと思って頂きたい。「見所は本郭群周囲を覆う明瞭な切岸跡、あるいはその佇まいも含めた全て」と言い切れそうには思うが、これだけ険峻な地に城郭を築いた事自体が最大のロマンであり、見所と言えそうな気がするのである。
東出郭見所
城跡を個人的に評価すれば、山城ファンを自認する方であれば、絶対に避けて通って欲しくない山城の一つでもあるが、臨むにあたっては縄張り妙味や規模は絶対に問わない事が大前提という事になろうか。自然と触れ合いながら登山も楽しめて、ついでに山城遺構も拝めるとなれば、山城ファンの方だけに限らず、一般城跡ファンあるいは山歩きを楽しまれる方にも、是非一度山頂まで足を運んで頂きたいと思えたのである。浅間寺城と須留岐山城の二城同一日訪問は、山城ファンの方に限れば間違いなくお薦め出来るだろう。
城跡は兵庫県養父市八鹿町浅間にあって、標高約450mの須留岐山山頂に位置する須留岐山城跡からみた南側の激斜面上にあり、その南麓にある「浅間寺」とのほぼ中間地点に築かれたものである。個人的には須留岐山城を訪れる目的での、その直登ルート中で偶然遭遇したものであるが、下山後に地元でこの城郭遺構の情報を求めた結果、既に調査済みの山城、「浅間寺城跡」と判明した(案内板には記されていない)。今まで発刊された文献の類にはほとんど顔を出さない、ほぼ無名に近い山城らしいが、既にリポート掲載を終えた佐々木氏の居城、「浅間城」が浅間集落を挟んで南に対峙している事を思えば、氏に関連した城跡という事になるのかも知れない、、、もちろん推察の域は出ないが、城史に関しての詳細は不明。
城跡を訪れるには、先に触れた浅間城を起点とすればその位置も分かり易い事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、須留岐山登山口となる浅間寺を目印として目指せばよい。登山ルートは須留岐山城も含めた二城同日訪問とした上で、登城ルート図(案内板画像も参考に)中に示したが、寺院背後からスタートする直登ルート、寺院東側からの尾根筋登山ルートで一旦須留岐山山頂まで上り(最低70分の所要時間)、そこから激斜面を下りる形の二通りあるが、山頂からの激斜面下山は、膝に相当負担がかかると思われた事から、ここでは最短ルートとなる前者をお薦めしたい。20分前後で南郭へ辿り着ける筈である。尚、ここからの須留岐山への激斜面登山(所要時間約25分)は非常に辛いものとなるが、まだ腰や膝の癒えていない自分でも、何とか休憩を挟みながら山頂まで辿り着けたので、足腰に不安のない方は是非この直登ルートで上って、膝に負担をかけず、より安全な尾根筋ルートで下山される事をお勧めしたいのである。
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、激斜面上に数段の郭を直線的に重ねたもので、推定主郭土塁とその背後の北郭との境には堀切(堆積物によって埋もれて浅い)が施されている。郭間における切岸は長年の風化によって鋭角なものではないが、郭跡自体はほぼフラットな状態が今もって維持されている。その中で「見応えのある遺構は?」と聞かれれば、「縄張りのほぼ全体像が窺われる佇まいの素晴らしさ!」と言う事になるのかも知れないが、取り合えずこれを機に臨まれる方の目安に、、、
現状(10月)城跡は、直登ルート中がそうである様に、蔓延る木々は非常に少なく、郭跡における見通しも利き、無名に近い山城としては素晴らしいコンディションの下にあると思って頂いても良いだろう。見応えのある遺構は皆無に近いが、遺構の判別確認は容易く、コンパクトにまとまった縄張りは掴み易く、後でリポート掲載予定の須留岐山城と併せた同日訪問とすれば、間違いなく是非お薦め出来る山城の一つとは言えるだろう。
城跡は兵庫県養父市養父町養父市場にあって、標高372mの山頂に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、その築城環境から考慮するのであれば、既にリポート掲載を終えた垣屋氏の居城が伝わる養父神社城、あるいは宮谷城の最終的な詰城とみるのが妥当なところか、、、
城跡を訪れるには国道9号線を利用する事になるが、既にリポート掲載を終えた高田城を起点とすれば、その所在位置も入山口も分かり易いとは思われる。山頂まで到達するには、養父神社城、あるいは宮谷城などの背後尾根からの直登ルートはまず考えられるが、ここでは比較的起伏の少ないであろう、最短時間で到達可能な直登ルートを示した。入山口はルート図中に示したが、入山ゲートを潜った後は山道に任せて排水施設まで上り、そこからはただひたすら尾根伝いに山頂を目指せば良い。このルートは蔓延る木々も少なく、予想した通り起伏も少ないので、距離はあるが迷わず楽に辿り着けそうには思われた。ちなみに入山口から約50分で本郭群へ到達可能であるが、下山時には必ず方向磁石のお世話にならなければならないので、プリントアウトしたこの登城ルート図と共に、必ずコンパスは携帯の事!念の為に、、、
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、山上本郭群の規模は比較的大きく、主郭西側には郭間を仕切る為、あるいは受け土塁の形で分厚い土塁が施されている。ただ残念な事に、長年の地表風化によって高低差は随分失われており、見応えはとても望めそうにないが、、、更にこの土塁から少し西側へ降りた付近では、より自然地形に近い大土塁を伴う郭跡(南側の見張り台か?)を眼にする事が出来るが、機能の想像と共に、取り合えず見学者の目は楽しませてくれる筈である。現状空堀らしき地形は本郭群においては見受けられなかったが、直登ルート中において唯一片側が縦堀に繋がる堀切跡(画像に注目)が目に留まった。郭跡らしき削平地は南尾根上(直登ルート)の随所で見受けられるが、その尾根上最高所における物見機能とも察せられる明瞭な削平地、更に尾根幅一杯に広がる数百mに渡って連続する大規模な削平地などは、山上本郭群を中心として、枝尾根上に築かれた城砦群としてみてよいものだろう、、、、
現状(10月)城跡は、直登ルートとなる尾根上も山上本郭群も含めて、蔓延る木々は比較的少なく、遺構見学にも郭移動にも差障りない状態にあると思って頂いても良いが、これを機に訪れる用意のある方には、残存遺構に多くは望まず、達成感と戦国ロマンを味わう為の訪城と割り切って臨んで頂きたい。山頂を極めれば、自ずと北端枝尾根上にある養父神社城を始めとする、垣屋氏の築いたであろう(推察)、巨大なスケール(城域)を誇る山城の全貌が、僅かながらでも見えて来る様に感じられたのである。
城跡は京都府亀岡市畑野町千ヶ畑にあって、ほぼ独立した小山の最高所に位置しており、現在造成整地された主郭と見受けられる敷地の一角には忠魂碑が建っている。城史に関しての詳細は不明だが、大阪の能勢側から亀岡へ抜ける街道が集落を通過していたものとすれば、街道監視用の見張り台といったところかも、、、、
城跡を訪れるには、54号線あるいは731号線に進入する事が先決となるが、731号線沿いで目に留まる「城山ゲートボール場」の案内看板が目印となる。その周辺で充分駐車スペースは確保出来るが、道路沿いからかつての主郭跡地までは、石段を上り切れば直ぐにでも到達可能となっている。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図が示すように、忠魂碑の建つ場所が主郭跡、更に南斜面側のゲートボール場を経て、小規模な愛宕神社敷地までが南出郭としての縄張りと察せられるが、判別確認し易い空堀や土塁といったものは、現状全くお目にかかる事は出来ない。もちろん見張り台程度の機能を備えた砦跡に数多くの残存遺構を期待する方がおかしいのだが、、、更に主郭と愛宕神社敷地間にあるゲートボール場は、相当地形改変跡の窺われるものであり、当時の縄張りは自ずと見学者の判断に委ねられよう。
城跡を個人的に評価すれば、当時の主郭における祖形は失われてはいないと思われるが、造成整地されたこの佇まいからは、城跡としての風情は全く感じられず、山城巡りの移動中に少し立ち寄る程度の城跡といった事になろうか。
城跡は京都府船井郡京丹波町上野にあって、既にリポート掲載を終えた織豊系縄張りを特徴とする上野城跡からみて、直ぐ真南側の山上尾根に位置しており、その西麓には「大園寺」が建立されている。よって上野城における最終的な詰城、あるいは集落に対して見通しが利いた事から、同集落及び街道筋を監視した見張り城とも考えられようが、その機能に関しては全て想像に委ねられよう。城史に関しては同地区にある光秀によって改修された山城(石垣城)の一つ、須知城(市森城)と並んで須知氏の居城と伝わっているが、京丹波地区における明智光秀の最前線基地と解釈すればよいのかも、、、尚、須知氏子孫の方は現在でも上野城近くに居を構えられていると聞くに及んだが、この須知氏も光秀に最後まで抵抗を試みた赤井氏(黒井城主)同様、戦国期を上手に生き抜いてきた一族なのだろう、、、
城跡を訪れるには、先に触れた上野城を起点とすればその位置は一目瞭然とも言えるが、国道9号線からは、車を預ける事になる「大園寺」を目印として目指せばよいだろう。墓地駐車場から東側にある登城入山ゲートは直ぐ目に留まる(画像に注目)が、そこから空堀道となる山道に任せて上れば、10分もかからず南堀切に辿り付ける筈である。尚、概念図に示した旧配水施設脇を通過しても上れる(早く辿り着ける)が、早朝訪問の場合は墓地のゲートが閉まっている可能性がある、、、
山上本郭群の形態は、城域や縄張りが狭い事もあって、ほぼ概念図に示したものに近いと思って頂いても差し支えないと思うが、小規模ではあるが見応えのある遺構は数多く、主郭両端を断つ土橋付き堀切(見事!)やそれに付随する明瞭な縦堀(長い)、あるいは明瞭な虎口跡(三箇所)、更に堀切から立ち上がる大型の櫓台土塁やその切岸は、そのコンパクトにまとまった縄張りプランと並んで、間違いなく見学者の目を楽しませてくれるはずである。とにかく「縄張りの掴み易い遺構残存度抜群の山城の一つ」と思って頂いても良いだろう。
現状(九月)城跡周辺は、郭跡も含めて植林地帯となっており、近年間伐が行われたと見えて見通しも利き、主郭全体像も充分窺え、遺構の判別確認も容易い状況にあるが、残念な事に間伐後の木々の放置などによって、地表の露見していない箇所も多く、主郭中央に施された空堀に限れば、遺構の醍醐味は充分味わえないかも知れない、、、城跡を個人的に評価すれば、5世紀に渡って風雪を凌いで来たにも拘らず、この素晴らしい遺構残存度、更に見学し易いコンディションは、藪城の多い丹波地区にあっては非常に値打ちの感じられるものであり、圧倒的お手軽感を加味せずとも、是非お薦め出来る城跡の一つという事にはなるだろう。山城ファンの方だけに限らず、山へ上る事が苦手な城跡ファンの方にも、「是非一度覗いて当時に思いを馳せて頂きたい」と思うのが本音かも、、、
この城跡は大阪府豊能郡能勢町宿野にあって、既にリポート掲載を終えた下見砦跡と同様に、山城ファン(ブログ読者)の方からの情報により、その存在及び所在地を知り得たものだが、下見砦との同日訪問は個人的諸事情により叶わなかった。今回やっと訪れる事に相成ったが、下見砦とは同じ山塊を共有しており、下見砦が丘陵西先端に位置するのに対し、この城跡は東側丘陵上に位置している。その名が語る様に井内氏の城として伝わっているが、その詳細は不明。
城跡を訪れるには、先に触れた下見砦とほぼ同様のアクセス方法となるので今回は割愛させて頂くが、54号線沿いに掲げられた「常慶寺」看板を目印として目指せばよいだろう。車は当然寺院駐車場に預ける事になるが、その敷地西端(画像に注目)に取り付き、蔓延る木々の少ない左手斜面側へ回り込みながら(必ず!)上れば、藪漕ぎもなく10分内で辿り着ける筈である。
城跡の形態はほぼ概念図に近いものと思って頂いても良いかもしれないが、本郭群の総全長は50mにも満たない砦規模の城郭である。自ずとお目にかかれる遺構の数も知れているが、長年の堆積物によって深さの失われた空堀跡、それに付随する縦堀跡、主郭あるいは帯郭における高低差に欠ける切岸跡などが、現状唯一明確に判別確認可能な遺構と思って頂いてもよいだろう。もちろん遺構に見応えや醍醐味を感じるまでには至れなかったが、手付かずの遺構群の残存度は高い(ほぼ完存か)ものであり、城郭遺構としての値打ちは非常に高いものとも感じられた。
現状(九月)山上郭群は藪化進行中にあり、それによる堆積物も相当なものと眼に映ったが、自分を含めたマニアックな山城ファンの訪城に限られてくる山城としては、直登ルートも含めて蔓延る木々は比較的少なく、更に郭移動に差し支える事なく見て回れる状況にはある。ただし低草木の蔓延る西急斜面側は覗いていないが、、、、城跡を個人的に評価すれば、先に触れた下見砦との同日訪問であるのなら何とかお薦めも出来ようが、遺構の見応えも含めて、規模や縄張り妙味は絶対に問わない事が大前提とはなるだろう、、、
この城跡に関しては、城ノ腰城探索ついでに気になっていた谷状地形を挟んだ南西尾根を覗いた事から話しは始まるが、その尾根上では単郭構造の館城か陣城の如き広大な規模を誇る削平地、西尾根を断つ明瞭な堀切跡(縦堀に繋がる)、虎口の痕跡、東端の高低差を誇る切岸跡といった具合に、紛れのない城郭遺構と対面する事となった。もちろんこの推察城郭遺構の素性を探るべく、下山時において麓で数人の年配の方に情報を求めたが、その結果この地は昔から岸本屋敷(古名)と呼ばれている事が判明した。数日後図書館に寄って「北摂の歴史」を調べた結果、古地図に岸本屋敷及び東隣の梶ヶ谷の地で古城マークを確認する事が出来たが、位置的には梶ヶ谷の地にある事から、形態だけ採り上げれば陣城の様な気がしないでもない、、、今回は明確な城跡呼称が判明しないまま、岸本屋敷跡として現況をリポートする事に及んだが、既に紹介されて識別呼称の付いた城跡である可能性は充分考えられるので、その点に関しては柔軟に対応して頂きたい。
城跡は豊能郡豊能町余野にあって、先にリポート掲載に及んだ城ノ腰城とは、谷状地形を挟んで南西側尾根上に対峙している。城跡までのアクセス方法は概念図を参考にして頂きたいが、城ノ腰城西切り通し(ここまでは小型車通行可能)からは、赤ラインを辿って頂ければ良いだろう。左手に見えてくる小さな沢を跨いで丘陵上を目指して上れば、直ぐにでも上り空堀道を含めた虎口跡(推察)が迎えてくれる筈である。
城跡の形態は、アバウトに描いた概念図を参考にして頂ければ良いが、先に触れた単郭構成の広大な規模を誇る本郭、それに西尾根を断つ堀切(数十m)、虎口跡、更に川に面した東側斜面に残る明瞭な切岸跡が、自身の眼に留まった現在拝める数少ない遺構群、あるいは見所遺構という事になろうか。尚、この地は岸本屋敷と今でも呼ばれてはいるが、単純に屋敷跡(館城)とすれば余りにも規模が大きい事もあって、個人的には陣城の様にも目に映ったが、それはこれから訪れる方の想像に全て委ねられる事になるだろう、、、
現状(九月)、単郭で成立した本郭は藪化が進行中ともあって倒木も多く、全体的に荒れ放題の様相を呈しているが、探索移動に差し支えるまでには至っておらず(場所は限られてくる)、見通しの利く空間(画像に注目)も少なからずあり、その広い空間に佇めば充分臨場感は味わえる筈である。これを機に臨まれる用意のある方には、城ノ腰城と併せた同日訪問は充分お薦め出来るだろう。
この城跡は山城ファン(ブログ読者)の方からのコメント情報で、初めてその存在と所在地を知り得たものだが、大阪府豊能郡豊能町余野にあって、既にリポート掲載を終えた余野本城南東側の、余野集落に向いて突き出した丘陵尾根先端部に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、築城環境から考慮するのであれば、余野本城を築いた能勢一族の城と考えて良いのかも知れない、、、
城跡を訪れるには余野本城を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、国道423号線交差点「切畑口」の信号からは「城ノ腰橋」を渡り、ルート図における赤ラインを辿って頂ければ、5分前後で本郭群までは辿り着ける筈である。
本郭群の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても良いとは思われるが、規模は全長百mに達するものであり、本郭群の西堀切(地形改変の窺える切り通し道)を隔てて、更に西側痩せ尾根上の削平地から西端尾根上の堀切(現状豪快な縦堀に繋がる地形)、更にその上段付近の削平地までも縄張りとすれば、城域はそれなりに広く、砦規模は充分はみ出た城郭の一つと言えるのかも知れない、、、、見所遺構がそう多くあるようには思えなかったが、主郭あるいは腰郭を形成する明瞭な切岸、二ノ郭西端の土塁郭(櫓台?)、先に触れた西端尾根に刻まれた堀切及び縦堀などは、間違いなく見学者の目は楽しませてくれると思えた。概念図に描いたまでが自身が踏破して判別確認出来た遺構群という事になるが、木々の蔓延る南側斜面までは踏破確認に至っていないので、小規模な郭跡や空堀に関しては、この限りではないものと思って頂きたい。館城(丘城)に近い城跡の形態から考えても、そう多くの残存遺構は望めそうには思われなかったが、、、、
現状(九月)城跡は、郭跡に多くの木々が蔓延らない事で見通しが利き、比較的見学し易い状態が自然維持されており、歩き回って縄張りを把握する事も容易く、遺構の醍醐味には充分触れる事が出来る状況にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価すれば、見応えのある遺構は数少ないが、直ぐ傍まで農地や家屋が迫った現状を察すれば、遺構残存度は非常に高いものであり、ほぼ当時のままの祖形が維持されていると眼に映った事、更に圧倒的お手軽感も加味すれば、間違いなくお薦め出来る城跡の一つ、という事にはなるだろう。
城跡は京都府京丹後市大宮町谷内にあって、既にリポート掲載を終えた鶴賀城の真北側に位置しており、その丘陵尾根先端部にある。ただ情報の少ない無名に近い城跡、あるいは藪化が深刻化した状態にあった事もあって、踏破可能な範囲は限られ、この訪れた地が本郭群であるかどうかの判断は下せなかったので、その点に関してはどうかご容赦願いたい。城史に関しての詳細は不明であるが、鶴賀城の出城と見れば良いのかも知れない、、、、
城跡を訪れるには、先に触れた鶴賀城を起点とすればその位置も分かり易い事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、国道312号線からの進入経路はルート図に示した。国道と並行して走る農道からは直ぐの距離にあるのだが、城跡までの藪化は激しく、自ずと藪漕ぎしながらの登城は余儀なくされるものと思って頂きたい。ただ直ぐ北側にある工場敷地内を通過させてもらうのであれば、堀切までは直ぐの距離(駐車場から直ぐ望める位置にある)にあるが、、、
この城跡は最初に述べた様に、その実態を含めた情報は皆無に近く、自身が覗いた地が本郭群にあたるものかは非常に判断し辛いが、城跡を過大評価するのであれば、真東の山頂まで城域が及ぶものかも知れない(推察)。取り合えず踏破した範囲内で目に留まった遺構は、アバウトに描いた概念図に示したが、削平跡の窺える郭跡、僅かな切岸跡(現状段差程度)、東側尾根を断つ明瞭な堀切といった処が、蔓延る木々の隙間から覗ける、唯一判別確認可能な遺構群と思って頂いてもよいだろう。
城跡を個人的に評価するのであれば、この藪化の深刻化した状況、平凡に終わっている縄張りプラン、更に見応えからはほど遠い残存遺構群を思えば、とてもお薦めの城跡とは言い難いが、これらを踏まえた上で訪れるのであれば、「冬季訪問に唯一期待が持てるかもしれない」といったところか、、、
この高山城に関しては、数年前リポート掲載は終えているが、訪城後における山城ファンの方からの情報により、この高山地区にはもう一つ山城跡が存在する事が既に判明していた。同時に以前リポート掲載を終えた山城は「高山向山城」 という識別呼称があるという事も判明したが、その時城跡を覗かれた方からの現地情報では、「遺構らしきものは山上におけるそれらしい削平地のみだった」と聞かされていた事から、自ずと残存遺構には期待が持てず、個人的には随分訪問を先送りにしていた経緯がある。今回やっと訪問する機会に恵まれ、現況報告をする事に及べたが、頂戴した情報通り「見るべきものは山上削平地のみ」と言っても過言とは思えないものであり、これを機に訪れる方には、是非「高山右近の足跡を辿るべく、高山の里も含めた史跡巡り」と割り切って、現地に赴いて頂きたいと思えたのである。尚、以前高山城として載せた高山向山城のリポート記事は、城跡の形態上(どちらが本城とも言えない)訂正しないままの状態にしてあるが、今回再度概念図は載せたので、取り合えず二城の位置を確認して頂きたい。
城跡は大阪府豊能郡豊能町高山にあって、ルート図に示した如く高山向山城とは西方寺を挟んだ直ぐ北西側の丘陵上に位置している。城史に関しては在地士豪でもある高山飛騨守の居城と伝わり、その息子となる高山右近は戦国史には必ず登場するほどの、武勇に秀でた武将の一人、キリシタン大名として余りにも有名。
城跡を訪れるには、先に触れた高山向山城を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、「高山バス停」からは概念図にある「西方寺」を目印として赤ラインを辿って頂きたい、山上本郭までは数分で辿り着ける筈である。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、近年敷設されたと察せられる林道が郭内を通過している為に、郭内部に相当な地形改変が見受けられた事、更に大味極まりない縄張りプラン、更に郭外壁に切岸ラインを見て取る事が出来ない曖昧な地形が重なって、その城域も縄張りも全て見学者の判断に委ねられると思って頂いてもよいかも知れない。ただ主郭の境となる林道脇には、僅かに空堀地形(画像に注目)が窺われた事だけは報告しておきたいが、、、、
城跡は大阪府豊能郡豊能町野間口にあって、当時は野間口集落あるいは遠く余野集落まで見通せたと察せられる、標高527mの山頂(水牢古城山)に位置している。城史に関しては能勢氏の庶流が築いたものと伝わっており、既にリポート掲載を終えた水牢城こと余野本城は、その後裔となるものと考えれば良いのかもしれない。
城跡を訪れるには、先に触れた余野本城(水牢城)を起点とすれば分かり易い位置にある事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、国道423号交差点「妙見口」からは登城ルート図を参考にして頂きたい。尚、今回の登城においては、「清滝バス停」付近から山頂までは、尾根を辿れば迷わず辿り着けると思われたことから、敢えて直登を選択したが、地図上の登山道が示す様に、山頂で偶然出会った登山パーティーの方から、南尾根側からは登山道で上れると聞いたので、今回の直登ルートは取り合えず参考程度にして頂きたい。ちなみに直登ルートでは踏み跡も僅かに残っており、木々の隙間を縫っての登山(藪漕ぎまでは至らず)は余儀なくされるが、10分内で主郭まで辿り着けた事だけはお知らせしておきたい。
城跡の形態は、アバウトに描いた概念図に限りなく近いものと思って頂いても差し支えないとは思うが、全長30m程度の砦規模の山城である。郭西側に施された地表風化の激しい分厚い土塁(高低差は失われている)が、唯一この地を城跡として物語るものでもあるが、未だほぼフラットに自然維持された見通しの利く郭跡(意外!)に佇めば、充分当時に思いを馳せる事も可能であり、臨場感も同時に味わえるはずである。主郭東側斜面においては明瞭な切岸跡、あるいは狭小腰郭跡を眼にする事も出来るが、斜面上で縦堀あるいは尾根を断つ空堀の類は確認出来なかった。恐らく最初から施されていなかったのだろう、、、、
現状城跡は山頂に三角点がある事から、トレッキングを目的とした方々も少なからず訪れる様に察せられたが、無名に近い山城としては、非常に見学し易いコンディションの下にあると思って頂いてもよいだろう。城跡を個人的に評価すれば、残存遺構は郭跡を除けば切岸及び土塁のみであり、縄張り妙味は感じられず、更に規模は小さく、遺構見学だけを目的とした訪城とするのであれば、落胆する事は必至の山城とも言えようが、小規模ではあるがほぼ完存に近い縄張りの値打ち(史跡価値)、見学する分には非常に味気ないが、このほぼ全体像の窺える楚々とした佇まいを思えば、北摂の山城に興味を持たれている山城ファンの方々に対してだけは、充分お薦めは出来るだろう。史跡ファンの方々にも、この山を古城跡と知った上で、トレッキングついでに山城見学を楽しんで頂きたいが、、、
城跡は兵庫県篠山市西浜谷にあって、既にリポート掲載を終えた遊谷城からみれば、南西側の低丘陵先端部に位置している。城史に関しては別称としての藤井館跡が示す様に、藤井氏の居館跡と伝わるが、この築城環境を思えば、自ずと遊谷城の城主が藤井氏、あるいは重臣の一人と考えてよいのかも、、、、(推察の域は出ないが)
城跡を訪れるには、先に触れた遊谷城を起点とすればその所在位置は一目瞭然とも言えるので、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、「篠山署」を目印として目指せば分かり易いだろう。篠山署からは登城ルート図、あるいは概念図に示した取り付き口を参考にして頂ければ、直ぐに主郭までは辿り着ける筈である。
城跡の形態は概念図が示すが如く、高土塁を伴う方形居館跡と思って頂ければ分かり易いが、直ぐ傍まで耕作地(水田)や工場が迫った現実を踏まえれば、主郭二方に残存する高土塁は、本来なら四方を廻っていたもの、あるいはその四方に施されていたと思われる空堀などは、当然消失(北側と西側へ排水溝として痕跡が残る)したものと考えて良いのかも知れない、、、概念図に示したまでが、自身が当時の城郭遺構と判断したものであるが、明瞭な虎口跡ですら祠参拝用の出入り口に思えてくるのである。見所遺構を挙げるのであれば、当然高低差(外壁約5m)を誇る見応えのある土塁とその切岸という事になるが、空堀を当時のままとするには少々無理があるので、これは見学者の判断にお任せしたい。縄張り上の必然性から考えれば、充分空堀とは思えるが、、、
現状(八月)城跡は藪化はそれなりに進行しているが、単郭構造のシンプルな城跡という事もあって、お目にかかれる遺構も数少なく、遺構見学に差し支えるまでには至っていないと思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価すれば、遺構残存度は低い(推察)かも知れないが、丹波地方では滅多にお目にかかれない高土塁が拝める事、それに圧倒的お手軽感を加味すれば、単独訪問としても何とかお薦め出来るかもしれない、、、。
城跡は兵庫県丹波市山南町畑内にあって、既にリポート掲載を終えた大河城からみれば、集落を隔てた真東側の標高207mの山上に位置している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた池ノ谷主計城や、大河城を起点とすれば分かり易い事から、そのアクセス方法は割愛させて頂くが、道路沿いにある登城入山口は画像を載せた。ここから獣避け入山フェンスまでは数十mの距離にあり、フェンスを潜ればひたすら山上を目指して上ればよい(藪漕ぎなし)。途中郭間に切岸跡の窺える削平地を通過するが、更に急斜面を登れば、10分程度で山上本郭群へ辿り着ける筈である。
城跡の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても良いと思われるが、山上本郭群はほぼ三郭構造で、その規模は30mにも満たない小規模なものであり、残存遺構の見応えや縄張り妙味にはとても期待出来ないと思って頂いても良いかも知れない、、、その中で敢えて見所遺構を挙げるのであれば、主郭周りにおける切岸という事になろうが、堀切は唯一本郭群を更に北側へ降りた地点に施されている。ただ見応えは余り望めないが、、、、
現状(八月)城跡は当然藪化進行中にあるが、この時期にも拘らず遺構見学に差し支えるまでには至っておらず、入山口から北端に位置する堀切までは比較的見て回りやすく、概念図に示したまでの遺構は縄張りも含めて、判別確認の容易い状況にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価すれば、遺構残存度が高い(ほぼ完存と呼べるもの)事、楚々とした山城の風情は充分味わえる事、それにお手軽感まで加味すれば、山南地区における山城巡りの一環とするのであれば、充分お薦め出来る山城という事にはなるだろう。ただし縄張り妙味や規模は決して問わない事が前提となるが、、、
城跡は兵庫県篠山市大野にあって、既にリポート掲載を終えた矢代城国松館跡からみれば、池を隔てた直ぐ南側の低丘陵上にある。この城跡は5年程前既に訪れていたものの、低丘陵上の全域が城域と思われた郭跡地が、長年の地表風化によるものか、それとも安普請で応急に築かれたものか、相当地形が曖昧と化していた為に、どこに本郭群があるものか見当も付かず、長い間リポート掲載を先送りにしていた経緯がある。今回の再訪によって丘陵上の南側(春日神社側)が大野館と呼ばれる城域にあたる事はある程度判明したが、L字形の土塁の施された、見張り台程度の小規模な郭跡が本来の館跡地とはとても思われず、その南麓に向いて重なり合う規模の大きい削平地の一部が、屋敷跡地なのかも知れない(当然見学者の想像に委ねられる部分)、、、、
北端郭概念図
城跡を訪れるには、先に触れた国松館跡を起点として春日神社を目指せば難なく辿り着けるが、神社からは社殿背後から直登しても良いし、藪漕ぎのない上り易い箇所からの直登なら、直ぐにでも山上郭群が迎えてくれる筈である。
城跡の形態は、アバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、丘陵上の最高所に本郭群と見受けられる、L字形の土塁の施された小規模な郭跡が構えられており、そこから南側へ向いて、痕跡程度の空堀(三箇所)で仕切られた地形の曖昧な郭跡が連続、更に麓近くまで数段の規模大きい削平地(推定屋敷跡)が連続したものである。推定本郭群から更に北側尾根上も、北端郭までそれらしい郭跡は連続しているが、本郭群同様非常に地形が曖昧な為、自身満足の行く概念図(北端郭は五年前のもの)は描き切れなかった。この北端郭は切岸のしっかりした狭小帯郭を数段重ねているが、その最上部は見張り台か狼煙台程度の規模となっており、中々この城跡の機能を想像するのは難しい、、、、
現状(八月)城跡は、他の丹波の山城と同様に藪化は相当進行しており、本郭群においては木々の隙間を潜り抜けての探索踏破は余儀なくされる状況にあるが、全体的にみれば郭移動に差し支えるまでには至って居らず、南端の推定屋敷跡地から北端郭までは、比較的動き回り易い状況にあると思って頂いてもよいだろう。城跡を個人的に評価すれば、見所遺構となるのは山上本郭における低土塁、あるいは明瞭な切岸跡の残る北端郭だけとも言えるが、歴史ロマンの漂う篠山地区に、数多く築かれた山城巡りの一環として訪れるのであれば、「見応えのある遺構は一切望まない」、といった前提条件付きで何とかお薦め出来ようか、、、
この城跡は自身既に数年前に訪れていたが、山城巡りの移動道中車窓から城跡を窺うに、本郭群斜面全域を覆っていた木々はほとんど伐採され、郭壁となる切岸はむき出しの状態になっていた事から、胸を躍らせながらの再訪となったものである。当然丹波を中心に山城巡りをされている山城ファンの方々には、朗報となること間違いなしと思えた事から、いち早く現況をリポートする事になったが、既に訪れた方には是非変貌を遂げたこの砦跡を再訪して、当時に思いを馳せて頂きたいと思えたのである。もちろんこれから訪れる用意のある方にも、小規模ではあるが楚々とした山城の魅力は充分味わえると思えた事から、是非訪問をお薦めしたい事は言うまでもないが、、、尚、地元で年配の方数人にこの砦跡の情報を求めたが、神社敷地が砦跡と認識されている方はおられず、非常に残念な結果となってしまった。木々の伐採は二年ほど前に行われたそうであるが、、、
城跡は兵庫県篠山市西野々にあって、既にリポート掲載を終えた安口城からも充分望める、篠山川を隔てた南東側の丘陵尾根先端部に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、安口城と呼応した築城環境を踏まえれば、その出城の可能性は充分考えられよう、、、、
城跡の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても差し支えないと思うが、規模は総全長40m程度の城郭であり、残存遺構に多くは望めないものでもある。ただし外見から郭外壁となる切岸が麓まで落ち込む様、妙見神社がある事によってほぼフラットに整地された主郭、堀切に伴う小さな土塁跡、堀切から谷底に向いて落ち込む縦堀、更に郭内の見通しが利く事によって、その縄張りの全体像が窺える様は、山城初体験の方でも分かり易く、規模や縄張り妙味さえ問わなければ、間違いなくお薦め出来る山城の一つ!と自分の目には映った。藪化の深刻化した砦規模の山城が点在する篠山にあっては、縄張りも掴み易く、更に見学し易い貴重な山城の一つと言えようか。
城跡を訪れるには、先に触れた安口城を起点とすればその位置も分かり易い事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、国道372号線と並行して走る農道沿いの「西野々バス停」を目印として目指せば、難なく付近までは辿り着けるだろう。もちろん木々の伐採されたそれらしい山城跡(画像に注目)は、バス停付近からでも直ぐ確認出来るが、バス停からは登城ルート図を参考にして頂きたい。麓に設置された入山開閉フェンスより、赤い鳥居を潜って参拝山道に任せて上れば、数分で主郭までは辿り着けよう。
城跡は兵庫県丹波市山南町池谷にあって、既にリポート掲載を終えた玉巻城の東側標高約270mの山上に位置している。城史に関しては池ノ谷主計の屋敷跡と伝わっているが、自身が本郭群を覗いた限り、この小規模な砦規模の削平地に、まさか屋敷が構えられていたとは想像も出来ず、本来の居住空間は麓にあったものと思えた。恐らく詰城として見張り小屋があった程度の城郭なのであろう。尚、池ノ谷主計と玉巻城を居城とした久下氏との関係までは、リサーチに及んでいないのでどうぞ悪しからず、、、詳細は不明
城跡を訪れるには、先に触れた玉巻城を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、城跡までの詳しいアクセス方法は割愛させて頂くが、登城スタート地点となる「池谷公民館」に車は預ける事になる。ここから真北側にある山道に進入(画像に注目)し、その奥にある入山フェンスを開閉して、急斜面をそのまま山上を目指して直登すれば、藪漕ぎもなく10分内で主郭までは辿り着ける筈である。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図に示した様に、ほぼ単郭構造の砦規模の本郭群と思って頂ければ良いだろう。堀切は北東尾根を断つ形で一応施されてはいるが、山城としてよくお目にかかるV字形の薬研堀にはあらず、長年の堆積物によって痕跡程度と思って頂いた方が、訪れた方には期待はずれに終わらないだろう、、、切り立つ切岸跡は本郭背後、あるいは北側斜面でも充分拝めるが、他で際立った遺構にお目にかかる事は出来ず、今まで述べたまでが、本郭群周辺で判別確認可能な数少ない遺構群といった事になろうか。尚、北東側の尾根上は覗くまでには至れなかったので、残存遺構もこれだけに終わるものではないのかも知れない、、、、
城跡を個人的に評価すれば、見所は本郭背後を形成する見応えのある切岸だけとも言えるので、とてもお薦めの山城とは言えないが、このリポート記事に興味を持たれた山城ファンの方だけに、所在位置と藪漕ぎのない比較的上り易い(ただし急斜面)登城ルートが参考になったのであれば、それで由といった処か、、、、、
城跡は京都府南丹市園部町半田にあって、既にリポート掲載を終えた大村城からみれば、半田川を跨いだ真西側の低丘陵上に位置している。この城跡の情報は、当ブログに対して何時も激励のコメントを頂戴している山城ファンの方によるものであるが、明瞭な櫓台が残っていたとの情報から、訪れ易い平城に限りなく近いとは思われたが、自身の現在の腰や膝の状態を思えば、山城情報の発信だけに拘ってはおられず、つい気の向くままこの城館まで足を延ばす事となった、、、、城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、先に触れた大村城を起点とすればその位置も分かり易いと思われた事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、477号線沿いにある「半田文化センター」を目印(概念図を参考に)として目指せば、難なく付近までは辿り着けよう。道路沿いの上り易い箇所から丘の上を目指せば(比高10m程度)、直ぐにでも櫓台土塁を伴う主郭が迎えてくれるはずである。
城跡の形態はその名の城館が語る様に、限りなき平坦地形(削平地)が低丘陵上を連続するものであるが、その東端に位置する6m四方の櫓台土塁(推察)とその切岸、現状フラットに近い主郭とその切岸などが、この地を城跡として物語る数少ない遺構群と考えて頂いても良いかも知れない、、、よって空堀すら施されていない城郭遺構に、見応えまでを望む事は出来ないが、外部情報からほぼ完存に近いと聞かされたこの城跡の値打ちは、すぐ傍まで民家や農地が迫りながら、非常に価値の高いものと感じられたのである。
現状(八月)城跡は蔓延る木々や青竹が少ない事から、それなりに動き回り易く、更に見通しが利く事によって、比較的見学し易い状況にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価すれば、遺構の見応えからは程遠い城跡と言う事になろうが、圧倒的お手軽感や、当時の祖形が失われていないその風情までも加味すれば、興味を持たれた城跡ファン、あるいは史跡ファンの方々には充分お薦めは出来るだろう。ただし山城ファンの方々には、縄張り妙味や遺構の見応えまでは決して望まない事が肝心!
城跡は京都府南丹市園部町新堂にあって、標高約230mの低山山頂に位置しており、現在その西山麓には正福寺がある。
この砦跡は一部の文献に名前が登場するだけの、ほぼ無名に近い城跡の一つでもあるが、現地で出くわした年配の方に、その存在と所在場所を尋ねたところ、当然満足の行く結果は得られなかった。よって今回は所在地の特定出来ぬままの、地図上で目星を付けただけの探索踏破となったが、山城としての築城環境、山頂で明瞭な切岸跡の残る櫓台(推察)の確認、及び全長30m規模の削平地(主郭に相当)の確認、更に訪城後における京丹波を拠点とした山城ファンの方との情報照合によって、何とかこの地が新堂砦であろうとするまでに漕ぎ着ける事が出来た。ただ城跡呼称に関しては、確信が持てるまでの材料(所在位置を記した公的資料及び確認情報資料)が得られなかった事もあって柔軟に対応して頂きたいが、、、
登城ルート
(推定)新堂砦跡を訪れるには、京都縦貫自動車道「園部IC」を起点とすれば分かり易いが、そのIC乗降口となる県道19号からは登城ルート図を参考にして頂きたい。そこからは今回車を預ける事になる「新堂公民館」を目印として車を走らせる事になるが、登城入山口となるのは公民館より50m程度南下した付近で、細い畦道から古い集合墓地まで向かい、その背後よりそのまま山上尾根を目指して直登すれば、迷わず辿り着ける筈である。ちなみに所要時間は入山口より藪漕ぎなしで10分内
この城跡は恐らく京丹波地区の山城に興味を持たれている方のみが訪問の対象となる様に感じられるが、取り合えず興味を持たれた山城ファンの方には、遺構としての見応えは全く期待できそうにないが、この地区に点在する山城巡りの一環とした上で、是非一度山頂まで足を運んで頂きたい。楚々とした砦跡の風情は充分味わえる筈である。
城跡は京都府舞鶴市志高にあって、先にリポート掲載を終えた志高館城とは「宏玄寺」を挟んだ南側丘陵上にあり、志高本城からみれば東枝尾根先端部に位置しているが、築城環境を考慮するなら、志高城の出郭(出城)といった処か、、、
城跡を訪れるには、先に触れた志高館城と同一のアクセス方法となるので今回は割愛させて頂くが、登城入山口は画像に示した大きな集合墓地駐車場脇から始まる山道で、踏み跡程度で明瞭ではないが、本郭群背後までは迷わず辿り着けるだろう。ちなみに墓地からは藪漕ぎなしで所要時間5分程度
この山城は志高館城のリポート記事中で触れた様に、その名(砦)に相応しく、規模は相当小さい(郭総全長30m程度)が、分不相応にも感じられる技巧を伴う畝状空堀群を特徴とするものであり、それはほぼ本郭東斜面全域に渡って施されている。概念図にはその見たがままのアバウトな形状を示したが、現状斜面上長く掘削された明瞭な縦堀、風化の為にやや薄くなった短めの縦堀、あるいは少々埋もれ気味の土塁を付随させた横堀(武者隠し)などは、間違いなく見学者の眼を楽しませてくれるものと自分の目には映った。しかも状態は比較的良いものであり、東帯郭から比較的木々の少ない東斜面下を覗き見れば、その全貌が望める箇所もあり、見応えも臨場感も抜群なものとなっている。切岸の醍醐味に関しては本郭西側で唯一味わえるが、帯状の段郭群では郭高低差が少ない為、あるいは地表風化中にある為、余り期待出来ないかも知れない、、、他では低草木の蔓延る北帯郭壁下で、直角に分岐した明瞭な二本の縦堀(長い)を眼にする事が出来るが、これも決して見逃してはならない遺構の一つと言えよう。
現状城跡は、この時期(七月)にも拘らず郭内における木々は比較的少なく、充分見通しも利き、山城としてみれば非常に良いコンディションの下にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価するのであれば、見所は畝状空堀群を始めとする空堀だけ、と言っても決して過言とは思えないが、圧倒的お手軽感を加味せずとも、この「空堀群の縄張り妙味だけで、充分訪れる値打ちのある城跡!」、といった事になろうか。
城跡は京都府舞鶴市志高にあって、ほぼ独立した山塊の山頂に位置する、志高城(本城)の北東枝尾根先端部に位置しており、その識別呼称が語る様に城主(三上氏)の館跡と見受けられるものである。
城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた志高城(本城)のアクセス方法と同様に、国道175号線を経由して現地に向かう事になるが、「志高」の信号からは登城ルート図を参考にして頂きたい。登城スタート地点となる「宏玄寺」を目印とすれば、城跡の位置確認は容易いが、車は寺院傍にある公民館駐車場を借りれば良いだろう。寺院からは更に奥にある大きな集合墓地を目指して歩く事になるが、その手前右手で目に留まる稲荷神社(赤い鳥居が目印)脇からは、旧墓参道を利用して尾根最上部まで上り、そこから右手側の尾根へ移動すれば、直ぐにでも見応えのある土橋付き堀切(縦堀に繋がる)が迎えてくれる筈である。ちなみに公民館からは、藪漕ぎなしで10分内で到達可能
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、城郭は堀切側に施された櫓台と察せられる大土塁、及び規模の大きい二郭で形成されたものであり、館城らしく縄張りはシンプル極まりないものとなっている。見所遺構としては先に触れた縦堀に繋がる土橋付き堀切、郭外壁を形成する切岸が挙げられるが、館城の性格を思えば、概念図に描いた以上の残存遺構には、余り期待出来ないものと思って頂いても良いかも知れない、、、
現状城跡は藪化進行中にはあるが、この時期(七月)にも拘らず、郭内や斜面における木々は比較的少なく、ある程度見通しも利き、山城としては比較的見学し易いコンディションの下にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価すれば、登城ルート図中に所在地を記した志高砦も含めた山城巡りとすれば、間違いなくお薦め出来る城跡の一つという事にはなるが、志高城(本城)がまだ未訪となっている方には、三城併せた同日訪問は、背中を押してでもお薦めしたい!ちなみに志高砦は同日訪問となったが、規模は小さいが技巧を伴う素晴らしい畝状空堀群が拝める事を理由に、まだ未訪となっている方には、是非この後のリポートを楽しみにして頂きたい。
城跡は京都府舞鶴市岡田由里にあって、集落より北に奥まった低丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた荒張城を起点とすれば分かり易い位置にあるので、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、「岡田由里」交差点から570号へ針路変更後は、登城ルート図を参考にして頂きたい。車は城跡が直ぐ望める位置にある「総合運動場」駐車場に預ける事になるが、城跡の西側の山道からは既に美しい切岸が目に留まるので、比高20m程度の急斜面を一気に上り切れば、直ぐにでも主郭が迎えてくれよう。
城跡の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いてもよいとは思われるが、郭総全長は100mに達するものであり、取り合えず砦の域は充分はみ出た山城ということになろうか。堀切などの様な見応えのある遺構は施されていないが、主郭西側壁前面に行き届いた切岸跡は、低草木も蔓延らず、その全貌が外見から窺えるものであり、間違いなく山城ファンの目を楽しませてくれるものと眼に映った。他では平虎口跡、空堀は一箇所縦堀として東側斜面上で目に留まったが、これは自然地形なのかも知れないので参考までに、、、
現状城跡は、この時期(七月)にも拘らず、郭跡に限れば意外に木々も蔓延らず、それなりに見通しが利き、遺構見学に差し支えるまでには至っていない状況にあると思って頂いても良いだろう。ただ南斜面や東側斜面は低草木が相当蔓延っている為、降りて行くには少々ためらう状況となっているが、、、城跡を個人的に評価すれば、見応えのある遺構は切岸だけとも言えるが、この切岸だけは見学する値打ちのあるものと感じられたので、この地域に点在する山城と併せた山城巡りとするのであれば、充分お薦め出来ようか、、、
城跡は京都府舞鶴市岡田由里にあって、山頂から三方に向いてなだらかに裾野を広げる、標高156mのほぼ独立した山塊の山頂に位置しており、その郭転用地とも思われる山上本郭には、現在「愛宕神社」が祀られている。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、国道175号線を経由して「岡田由里」の交差点で570号へ針路変更、その後はルート図を参考にして頂きたいが、今回は京都府在住の山城ファンの方に所在地を教わった、荒張支城(岡田由里別城)も併せての訪城となったが為に、入山における直登取り付き口は、507号道路沿いにある入山口(民家が横にある)からとした。ここから上れば東西に長い山上削平地が連続する荒張支城(推定地)を通過し、東側に施された堀切地形まで降りる事が出来、そこから直ぐに参拝登山道に合流可能な事から、これを機に訪れる用意のある方には、多少時間はかかるが、是非このルートをお薦めしたい。ただ荒張支城の残存遺構は、山上削平地及び帯郭、それに登山口(民家北背後)近くに施された堀切地形?だけとも言えるので、直接山頂を目指したい方には、民家脇を抜けて行く本来の参拝登山道がお薦めという事になるだろう。尚、民家脇を抜けるルートは、一部個人敷地を通過することになるので、一応了解を得る必要はあるだろう。ちなみに民家背後の登山口から山頂までは約20分の道程
城跡の形態は、山上本郭群だけに限ればアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、東西に長く連続する規模の大きい主郭の西側に、二段程度の腰郭が付随した程度の山城と思って頂けば良いかも、、、、切岸は主郭西側壁で充分拝めるが、堀切見学は低草木の蔓延る主郭東側急斜面を、木々の隙間を縫いながら降りて行く事が余儀なくされる状況にあると思って頂きたい。
現状(七月)山上本郭に社殿が建つ事もあって、参拝登山道で藪漕ぎもなく、迷わず辿り着ける状況にあるが、主郭に佇む社殿より東側はそれなりに藪化は進行している。荒張支城も含めて、特別見応えがあり値打ちの感じられる遺構には巡り合えなかったが、広い主郭に佇めば、充分臨場感は味わえるといったところか、、、、城跡を個人的に評価するのであれば、縄張り妙味も感じられず、更に見応えのある遺構も皆無に近いとくれば、とてもお薦めの山城とは言えないが、登山道で迷わず辿り着ける事を思えば、トレッキングを目的とした城跡巡りとするのであれば、何とかお薦め出来るかも知れない、、、これを機に臨むにあたっては、決して残存遺構に期待をしない事が肝心!
城跡は京都府舞鶴市久田美にあって、既にリポート掲載を終えた池田日向城から見れば、直ぐ真北側の丘陵先端部に位置しているが、個人的にこの城跡の存在は、京都府在住の山城ファンの方の情報により後から知った事もあって、池田日向城と併せた効率の良い訪城とはいかなかった。今回は志高砦を含めた山城巡りの一環として立ち寄る事になったが、取り合えずその現況をリポートさせて頂いた。
城跡を訪れるには、先に触れた池田日向城を起点とすれば、その位置は一目瞭然ともいえるので、アクセス方法は割愛させて頂くが、国道175号「志高」の信号からは、登城ルート図の赤線を辿れば分かり易く辿り着けるだろう。「岡田下小学校」を過ぎれば、直ぐ目に留まる小さな墓地が直登入山口となるが、その背後を上れば、直ぐにでも三段帯郭の切岸が迎えてくれる筈である。
城跡の形態は、削平されただけの小規模な主郭を最高所に置き、西側斜面に帯郭を重ねたものであり、規模から考えても砦、あるいは出城の域は出ないものと思って頂いてもよいだろう。その中で見応えのある遺構は皆無に近いが、その背後の痩せ尾根鞍部を削り落とした土橋地形、あるいは帯郭の直立に近い切岸などは、何とか見学者の眼を楽しませてくれるだろう。空堀の類は斜面上には見止められなかったが、北側斜面の二箇所における谷状地形は、個人的には人為的な大空堀の様にも眼に映った、、、謎
現状(七月)城跡は、藪化はそれなりに進行しているが、見学に差し障るまでには至っておらず、概念図に示したまでが踏破した範囲で目に留まった、数少ない遺構群という事になる。城跡を個人的に評価すれば、池田日向城と同様に、「見応えのある遺構は皆無」と言っても過言とは思えないが、まだ未踏に終わっている、両城の東背後山頂に築かれた池田谷城、あるいは志高城などと併せた訪問とすれば、何とか訪れる理由付けにもなるのではないだろうか、、
この山城は、数年前既に登城ルート図のみのリポート掲載は終えていたが、訪問後における山城ファンの方からの情報により、本来の本郭群はほぼ単独で聳える形の東側の峰にある事が分かった。もちろんその時は地元の方アドバイスのまま西郭群を山上本郭として訪れたのだが、堀切と山上削平地を確認しただけに終わり、深刻化した藪に阻まれて、全体踏破も縄張りも把握出来ないまま帰路に着いた苦い記憶だけが残っていた。まさか東峰までに城域が及ぶものとは思ってもいなかったが、今回はやっと念願でもあった、東本郭群を踏破した上での現況リポートという事になる。
城跡は京都府宮津市大島にあって、大島集落の北東側から海に突き出した急峻極まりない崖上地の、標高131m山頂に位置しており、当時は本郭群の南西側(白山神社側)に大手があったものと伝えられている。城史に関しての詳細は、白山神社境内にあった案内板の画像をそのまま載せたので画像をクリックのこと。
城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた田原城を起点とすれば、そのアクセス方法は分かり易いと思われる事から、今回は割愛させて頂くが、ルート図と画像を参考にして頂きたい。直登入山口は海沿いの道路脇からで、鉄梯子(傍に駐車可能スペースあり)を利用して尾根先端部に取り付く事になるが、尾根上に達すれば踏み跡も僅かに残っており、藪漕ぎもなく迷わず辿り着ける(主郭まで10分内)筈である。
城跡の形態はほぼ概念図に近いものと思って頂ければ良いが、案内板に描かれた縄張り図の全てを踏破して、遺構を判別確認した訳ではないので、残存遺構も決してこの限りではないものと思って頂きたい。見所遺構は概念図を参考にして頂きたいが、上り土橋付き空堀(浅い)を除けば、草木の蔓延らない全体像の拝める三本の堀切、及びそれに伴う縦堀などの空堀は、全て見応えのあるものであり、東郭における土塁と並んで決して見逃してはならないだろう。地形に任せて山上を削り出し、直線的に郭を並べただけに終わっている城跡に、縄張り妙味までは求められないが、未だフラットに近い規模の大きい主郭に佇めば、充分臨場感も味わえ、山上本郭群の東西に施された堀切間を歩き回れば、その規模(比較的大きい)も縄張りも、充分把握する事が出来るだろう。
現状城跡は藪化は進行中にあるが、この時期(六月)にも拘らず醜い西郭群とは比較にならない状況(山城として見れば見学し易く良好)にあり、概念図に示したまでの遺構は全て踏破確認可能な状態にあると思って頂いても良いだろう。城跡を個人的に評価すれば、藪化の深刻化した西郭群と併せた訪問が、この山城の本質を探る上での理想とは言えるが、ここでは城域の全てを踏破せずとも、充分この山城の魅力を堪能する事が出来ると感じられた、東本郭群のみの訪問を「是非お薦めしたい」と思えたのである。
城跡は京都府京丹後市大宮町延利にあって、既にリポート掲載を終えた高森城跡の真北側にある丘陵上(尾根先端部)に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、高森城の北側を牽制した出城と窺えるものである。
城跡を訪れるには、高森城と同様の訪問ルートとなる事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、53号線からの進入経路は登城ルートを参考にして頂きたい。民家脇から墓参道として山道が城跡先端部まで繋がっているので、迷わず辿り着けるだろう。小さな集合墓地の直ぐ背後は、既に物見(櫓台)とも窺える片側を低土塁が廻る郭跡となっている。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、物見と察せられる先端郭から、東尾根上数百mに渡って削平の行き届いた郭が展開されており、僅かに窺われる段差程度の切岸が、この地を城跡として物語るものとなっている。空堀の類は見止められなかったが、推察物見郭背後の痩せ尾根上は土橋状になっており、尾根を断つ堀切の代用が取り合えず窺われるものとなっている。城跡にあっては見応えのある遺構は皆無に等しいが、出城機能とするのであれば、この程度の城普請で良いのかも知れない、、、高森城の深刻化した藪化には凄まじいものがあったが、この城跡はそこまでは行かないまでも、当然藪化地表風化共に進行中にあり、草木の蔓延る櫓台土塁などは、傍に寄っての判別確認は余儀なくされる状況(画像に注目)にあると思って頂いてもよいだろう。
城跡を個人的に評価すれば、状態が高森城ほど醜くないのが救いとも言えるが、お手軽感も含めて、大宮町における山城巡りの一環として気軽に立ち寄る程度とすれば、何とか訪れる理由も生まれて来るのではないだろうか、、、
城跡は京都府与謝郡伊根町菅野にあって、集落から東側に聳える、標高約170mの山頂に位置しており、その西麓には妙光寺がある。城史に関しては三富左馬亮の居城を伝えており、丹後攻略軍における細川氏に対抗すべく、島津氏(伊根城を居城)と連携し水軍を編成したと伝わっている。自ずと他の丹後の城主と同様に、細川氏によって滅ぼされた一族なのかも知れないが、その詳細は不明。
城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた田原城を起点とすれば、その位置も分かり易いが、国道178号線より652号線へ針路変更、その後田原集落を通過すれば、自ずと621号線へ進入する事になるが、滝根集落まで到達すればルート図を参考にして頂きたい。登城口としての目印は、車を預ける事になる「妙光寺」で、その背後より谷状地形に進入(画像に注目)して、左手側の急斜面に取り付いて上れば、10分内で堀切までは辿り着ける筈である。尚、下山時に主郭までは寺院背後の集合墓地を通過して、山道が繋がっているのを確認出来たが、現状(六月)膝まで伸びた下草によって、道筋も分からない状況(地表は露見していない)にあるので、迷い易い事から、これを機に訪れる方は、是非載せた直登ルートを参考にして頂きたい。
城跡の形態は、アバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、主郭南側一部の郭跡から便宜上の二ノ郭跡まで、あるいはその周囲斜面上は、蔓延る低草木や夏草によって地表も露見していない箇所が多く、概念図に描いたまでが自身が踏破した上で、判別確認に及んだ遺構群と思って頂いても良いだろう。取り合えず主郭及び東出郭までが明瞭な遺構と遭遇可能な箇所であり、郭跡や切岸跡を除けば東出郭との境を断つ二重堀切、主郭西斜面上に刻まれた畝状空堀群(約五本)、主郭西側に施された土塁(両端が櫓台状)などが見所遺構として挙げられるだろう。当然これらは見応えもあるが、決して見逃して欲しくない遺構の一つでもある。尚、畝状空堀群を含めた縦堀に関しては、密生する草木に阻まれて、全ての斜面上を覗く事は出来なかったが、空堀に関しては決してこの限りではないと思って頂いても良いかも知れない、、、、
城跡を個人的に評価すれば、状態が良いとは決して言えないが、高い遺構残存度(ほぼ手付かずの完存と推察)や縄張り妙味、二重堀切や畝状空堀群、あるいは土塁の醍醐味を思えば、山城ファンの方だけに限定すれば、間違いなく「お薦め出来る山城の一つ」とは言えるだろう。ただし、状態は決して問わない事が大前提!冬季訪問に期待が持てるとはとても思われなかったので、、、
城跡は大阪府豊能郡能勢町宿野にあって、54号線沿いにある「西方寺」背後の丘陵上(比高約80m)に位置している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには「能勢町役場」を目印として向かえば分かり易いが、54号線沿いにある「中宿野バス停」脇が登城スタート地点となる。バス停より北進すれば右手に直ぐ小さな山道が目に留まるが、そこから右斜面に取り付いて上れば、10分内で主郭までは辿り着けよう。道中藪漕ぎまでには至っていないが、急斜面に蔓延る木々の隙間を縫いながらの直登は余儀なくされよう。尚、車は先に触れた西方寺の駐車場に一旦預ける事になる
城跡の形態は、ほぼ概念図に近いものと思って頂いても差し支えないかも知れないが、地形に任せたまま痩せ尾根上を削平しただけに終わっている様は、砦とするに相応しく、郭総全長はそれなりのものがあるが、削平された郭跡を除けば、東尾根を断つ空堀(僅かに土橋の痕跡)が唯一判別確認可能な遺構と思って頂いてもよいだろう。もちろん判別可能とは言っても、それなりに地表風化は進行しているので、明瞭なものとは言えないのだが、、、
現状(六月)城跡は、藪化は当然進行中にあるが、比較的木々の少ない郭内の移動は容易く、西先端部の狭小郭跡から東空堀までは難なく見て回れる状況にある。空堀から更に東側へも削平地は続いているが、東へ向かうほど藪化は深刻化した状態にあるので、この城跡に関しては他に遺構も期待は出来ず、深く探索する値打ちはないのかもしれない、、、、ただ寺院直ぐ北背後の尾根上に規模の大きい削平地が窺われた事だけは報告しておきたい。
城跡を個人的に評価すれば、既にリポート掲載を終えた宿野城を始めとした、能勢町における山城巡りの一環とすれば、何とか訪れる理由も生まれてくる城跡といったところか。
この城跡は京都府宮津市田原にあって、以前自身が踏破した上で、別の地(向側の丘陵上)を田原城跡としてリポートし、後で誤認した事が分かった城跡でもあるが、誤認した地は築城環境やそれと分かる切岸、あるいは段状になった削平地から、自身が覗いた限り城郭遺構と確信が持てた事から、「お知らせ」の中で(仮)東田原城跡と訂正した事があったが、今回訪れたのは、遺跡として公的に認知されている本来の田原城跡という事になる。城史に関しては小出左京進の居城が伝わっているが、詳細は不明。
城跡を訪れるには、国道178号を経由して向かう事になるが、既にリポート掲載を終えた藪化の深刻化した大島城跡(西郭群のみ)を起点とすれば、位置確認も容易いものとは思われる。田原集落から城跡へ向かうスタート地点は画像を拝見して頂きたいが、山道から直ぐ右手側の丘陵先端部に取り付いて、尾根上の僅かな踏み跡(空堀道を含む)を辿ればよい。明らかに削平地と分かる東出郭群を通過して向かう事になるが、迷わず山上主郭までは辿り着ける筈である。
現状(六月)城跡は、先にリポート掲載を終えた日ヶ谷城跡と同様に藪化も風化も相当進行中にあるが、概念図に示したまでが今回踏破した範囲で目に留まった遺構群ということになる。小規模な山上主郭から北尾根上、あるいは東尾根上が城域と察せられるが、特別見応えのある遺構(堀切及び切り立つ切岸)には巡り合えなかった。取り合えず堀切(箱堀)は一箇所確認出来たが、雑木の蔓延る斜面上までは覗く余裕もなかったので、空堀に関してはこの限りではないものと思って頂きたい。
城跡を個人的に評価すれば、期待した以上に縄張り妙味もなく、更に見応えのある遺構も皆無とくれば、決してお薦めの城跡とは言い難いが、宮津市内にある山城巡りの一環とすれば何とか訪れる理由も生まれて来るのではないだろうか。尚、先に触れた(推察)東田原城跡としたものは、本城と混同する恐れから既にリポート記事は削除したが、山城巡りを数こなしてこられた方には、間違いなく城郭遺構と眼に映るであろうと思われた事から、再びルート図に所在地は示したが、圧倒的お手軽感を加味して是非ついでに覗いて頂きたいと思えたのである。
城跡は大阪府豊能郡能勢町垂水にあって、既にリポート掲載を終えた山田城とは、谷状地形を挟んだ南西側の山上に位置している。自ずと山田城の出城とも窺えようが、推察の域は出ないものでもある。よって城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、ルート図に示した様に周辺に林立して築かれた山城を起点とすれば、分かり易い位置にあるので、それまでの訪問ルートの説明は今回は割愛させて頂く。山田城と同一の登城ルートで、目印となる最奥にある溜池まで向かう事になるが、そこからは概念図を参考にして更に山道を上れば、迷わず辿り着ける筈である。車の駐車に関しては、溜池付近に小型車なら充分駐車スペースは確保出来るとは思われる。
現状訪れた時期も悪いが、藪化は深刻化しており、地表風化も更に追い討ちをかけた非常に醜い状態にある。それでも規模が小さいので、何とか全体踏破は出来たが、小規模な主郭内は低草木で覆い尽くされており、踏み入る事は非常に困難な状況にあると思って頂ければ良いだろう。その中にあって判別確認可能な遺構は、主郭と帯郭間における一部の切岸跡(高低差は余り無い)、地表風化によって相当埋もれた堀切(僅かに土橋付き)、虎口地形に付随した縦堀地形、南西端の斜面に施された堀切地形が挙げられるが、主郭背後の堀切や一部の切岸を除いては、何れも風化の進んだ地形からは判別し難いものであり、これらの機能の想像は、ほぼ見学者の想像に委ねられるといっても良いだろう。
帯郭と主郭切岸
城跡を個人的に評価すれば、知名度に欠けるほとんどの山城がそうである様に、この山城も冬季訪問に僅かな期待が持てるかも知れないが、訪れるに際しては、遺構の見応えや縄張り妙味は最初から絶対に問わない事が肝心、、、
花粉の飛散する季節を終え、完治とはいえないがそれなりに腰も癒えて、やっと山城巡りの出来る体調が整ったが、このところ長雨に祟られて、中々城跡巡りの出来ない状況となっていた。このリポートはその合間を縫ってのものとなるが、久し振りの山登りとあって、まだ体が浮いた様な状態となっており、数ヶ月のブランクを体で感じながらの訪城となった。
城跡は京都府宮津市日ヶ谷にあって、城山と呼ばれるほぼ独立した標高約230mの山頂に主郭を構え、その南北尾根と東側尾根を城域としたものと見受けられた。城史に関しては一色氏家臣の一人、松田山城守の居城が伝わっており、細川氏によって滅ぼされるまでは、松田氏累代の城となっていたが、落城後には帰農した模様。
城跡を訪れるには国道178号を経由して向かう事になるが、既にリポート掲載を終えた岩ヶ鼻古城を起点とすれば、所在位置の確認は容易いとは思われる。「日ヶ谷」交差点より625号へ針路変更して、目印となる「天長寺」を目指せば良いが、城跡への取り付き口及び最短ルートはルート図と画像に示した。木々の比較的少ない激斜面を登る事になるが、5分程度で南端郭群には辿り着ける筈である。
城跡の形態はアバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、丹後の山城に共通する、突出した形の主郭を中心に、三方尾根に沿って単純に郭を連ねたものであり、縄張り妙味や縄張り変化に富んだ城郭とは言えないかもしれない。堀切は取り合えず三箇所で確認出来たが、特別技巧を感じる事の出来る遺構や、特別見応えが感じられる遺構に巡り合う事は叶わなかった。現状(六月)城跡は、訪れた季節も災いしているが、藪化地表風化共に進行中にあり、堀切などは蔓延る木々によって視界は遮られ、外見からその全体像を拝む事は困難な状況となっている。自ずと踏破確認可能な範囲も限られてくるが、概念図に示したものが、今回踏破した範囲内で目に留まった遺構であり、郭形状などに関しては推察を交えたものと思って頂きたい。幸いにも郭移動だけなら難渋する状況までには至っていないが、主郭においては、蔓延る熊笹で地表も露見していない状態と思って頂ければよいかも、、、残念!
個人的には久振りの山城巡りとあって、帰路に着くまではずっとハイテンションのままであったが、藪化が進行中(深刻化した箇所も多々ある)にある事が災いして、切り立つ切岸の醍醐味や、堀切の見応えには触れる事の出来ないまま終わってしまった。冬季訪問がベストとは思われるが、城跡を個人的に評価すれば、辺境の地に築かれた山城としては、その規模は比較的大きく、考えさせられる築城環境や、三箇所で拝める堀切見学だけでも、充分訪れる値打ちのある城跡といったことになろうか、、、、
私事になりますが、ぎっくり腰の再発、慢性化した腰痛、あるいは膝痛、更に黄砂を伴う重度の花粉症によって、四月より長らく山城巡りを断念する日々が続いておりました。
お蔭でブログ開設以来、ほぼ隔日更新していたブログ更新もついに途絶え、今まで「山城賛歌」を日々楽しみに拝見して頂いていた方々にとっては、非常に残念な結果となっておりましたが、回復の見込みのない花粉症はさておき、腰痛の回復(70%)までにはやっと漕ぎ着ける事が出来ました。その間励ましのコメントを頂戴してきた方々、あるいは安否を気遣いメールを頂戴してきた方々には、随分ご心配をおけしたものと、非常に心苦しく思っている今日でもあります。
取り合えず六月より山城巡りも再開する事が出来ると思いますが、腰や膝と相談しながらの、低山を中心とした城跡巡りになりそうです。腰痛においては100%の回復は望めない事もあって、当然現況リポート数も以前より減るとは思いますが、どうぞご理解して頂ければ幸いです。
私同様、膝や腰に不安を抱えたまま山城巡りを続けている方も少なからず居られる事と思いますが、これから到来する暑さに備えた体に優しい訪城プランは是非必要かと心得ます。六月中旬頃には、ぼちぼちリポート掲載を再開するつもりでおりますが、楽しみにして頂ければ幸いです。
城跡は兵庫県丹波市市島町北奥にあって、既にリポート掲載を終えた岩倉城から見れば、東側に聳える標高354mの山頂から、西側の「正法寺」に向かって延びる痩せ尾根上に位置しているが、赤井氏の拠った黒井城の出城として伝わる以上、この限りなく平坦自然地形に近い山頂も、戦略的には狼煙台ネットワークの一つとは考えられよう、、、
城跡を訪れるには、先に触れた岩倉城を起点とすれば分かり易い事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、今回車を預ける事になる「正法寺」を目印として目指せばよいだろう。駐車場の直ぐ傍には厳島神社があり、その社殿背後を直登して尾根を目指せば、直ぐにでも山道と合流可能であり、そのまま山道に任せて峠を目指せば、15分程度で城跡東端の片堀切地形(現状山道が繋がる)へ辿り着ける筈である。
城跡の形態は、アバウトに描いた概念図に限りなく近いものと思って頂いても良いとは思うが、痩せ尾根上の狭小三郭(総全長30m未満)を二連の堀切(片堀切地形を含めば三連)で守備しただけに終わったものであり、山城ファンの方であれば誰でも直ぐそれと分かる明瞭な堀切跡を除けば、地表風化の激しい狭小郭跡は、現状自然地形に限りなく近いものと思って頂いても良いかも知れない。当然郭外壁となる切岸跡も判別し辛く、見応えのある遺構は皆無に近いという事になるが、既に山頂を踏破された上で、この山頂平坦地形を本郭部と思っておられた山城ファンの方(自身も既に踏破された山城ファンであり、メル友でもある方の情報により、山頂が城跡と思い込んでいた)には、規模は小さいが明確な城郭遺構が拝めるという理由で、登山道中にある痩せ尾根上(推定本郭)は絶対に見逃さないで頂きたいと思えたのである。もちろん築城環境を踏まえれば、冒頭で触れた様に、山頂平坦自然地形(全長15m前後)も狼煙台機能と察せられるものであり、日内城の本質を探る上では、取り合えず上ってみる値打ちはあるものと思われるが、、、、
城跡を個人的に評価すれば、黒井城周辺に数多く築かれた出城群に興味を持たれている方、あるいは既に訪れたものの、肝心の痩せ尾根上までは踏破確認されずに下山された方には、是非再訪して本来の日内城の実態を再認識して頂く事をお薦めしたいが、遺構の見応えや規模は絶対に問わない事が前提という事になろうか、、、ただし手軽に山登りを楽しまれる分には、登山道で迷わず辿り着ける事から、充分お薦めは出来るだろう。
城跡は兵庫県丹波市春日町小多利にあって、標高236mのほぼ独立した低山山頂を物見郭(見張り台程度の規模)とした場合、西側尾根上を縄張りとしたものと見受けられる。城史に関しての詳細は不明であるが、安普請で築かれたその様相や、単独で聳える形の隣接した小富士城(明智の黒井城に対しての付城)との関連性を思えば、付城の一つとも考えられようが、本来は黒井城の出城機能を備えた砦として見るのが妥当なところかも、、、
城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた小富士城を起点とすれば分かり易い位置にあるので、城跡までのアクセス方法は今回割愛させて頂くが、入山口となるのは城跡西麓にある道路沿いの集合墓地で、小さな愛宕神社跡を通過した後、そのまま山頂を目指して直登(25分)すれば良い。
登城ルート
城跡の形態はアバウトな概念図を参考にして頂ければ良いが、尾根上を自然露岩を取り込んで郭壁とした様、あるいはほぼ自然任せに削平されただけに終わっている郭跡は、非常に曖昧(自然地形のままかも?)なものであり、その様相は一見山城らしくはあるが、城郭遺構としては非常に味気ないものとも感じられた。一番削平の行き届いた郭跡は、概念図にも示した中腹に位置する郭跡で、この周辺では、取り合えず土塁の付随した空堀らしき地形だけは窺われた。ただ地表風化はそれなりに激しいものがあり、ほぼ見学者の判断に委ねられるとは思われるが、、、、
現状冬枯れ後とはいえ、城跡の藪化は深刻化(中腹から山頂までは特にひどい!)している状態にあり、枯れ木の隙間を縫いながらの登城は余儀なくされるものと思って頂きたいが、場所によっては黒井城が一望出来る箇所や、郭跡に佇めて僅かながら臨場感に浸れる箇所も充分ある。城跡を個人的に評価するのであれば、見応えのある城郭遺構は皆無に近く、とてもお薦めの城跡とは言えないが、黒井城に関連した城跡に佇んでみたい方だけが、訪問の対象となる城跡といった事になろうか、、、
城跡は兵庫県丹波市市島町上田にあって、既にリポート掲載を終えている長谷山城から見れば、西側の丘陵尾根上に位置しており、標高188mを山上郭と推察した場合、南西側に派生する尾根上を城域としたものと察せられる。ただ今回は山頂までの踏破確認に至れなかった事もあって、現状正確な城域までは分からないが、丹波を中心に山城巡りをされている方の情報を加味した上で、個人的にも尾根上全域を支配するフラットに近い削平地形、あるいはその中で唯一目に留まった縦堀地形により、この尾根上が矢谷城の中枢となる郭跡と確信するに及んだ。当然見学者の推察に委ねられる部分でもあるが、、、城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、先に触れた長谷山城を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、国道175号線からの進入経路は、登城ルート図を参考にして頂きたい。国道から集落内を通過する林道へ進入(北上)し、画像に示した山道に反れて、途中から斜面に取り付いて尾根に向いて直登すれば、物見とも察せられる西先端尾根上の小規模な削平地、あるいは鞍部(自然堀切地形)までは、藪漕ぎなしで迷わず辿り着けるだろう。
現状主郭と察せられた削平地は木々も伐採されており、非常に歩き易い状況となっている。見通しが利く事から充分臨場感には浸れそうに思われたが、この城跡の縄張りプランは大味極まりないものであり、どこまでを城域とするものかは、先に触れた様に見当も付かないでいる。今回は山頂まで延々と連続する削平地を主郭とした上での現況報告とさせて頂くが、取り合えず現在でもフラットに近い尾根上削平地の中ほどに、それらしい縦堀地形(虎口に見えなくもない)は窺われた。ただ後世における山道の可能性もあるので、城郭遺構と断定するまでには至れなかったが、、、、
結果的に今回は山頂までの踏破を断念したせいもあって、この城跡の確かな形態は分からないままに終わったが、城跡を個人的に評価すれば、この城跡に関しては「これ以上のものは余り期待出来そうにない」といったところか、、、、
城跡は三重県伊賀市中村にあって、既にリポート掲載を終えた岡島砦と井上氏城のほぼ中間地点にあり、「新堂寺」直ぐ東背後の低丘陵上に位置している。城史に関しては山田氏の居城が伝わるが、詳細は不明
城跡を訪れるには、先に触れた井上氏城を起点とすれば分かり易い位置にあるので、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、登城における入山口は詳細ルート図と画像を参考にして頂きたい。ここから上り始めれば、南出砦の空堀道(現状堀底山道)を通過して上る事になるが、数分で主郭背後の堀切までは到達出来る筈である。
この城跡は伊賀にあっては比較的規模の大きい部類に入る城郭の一つでもあるが、南出砦(削平地)や東側に展開される規模の大きい削平地(推察)まで含めれば、相当な規模を誇る城郭の一つといえるのかも知れない。その形態は概念図を参考にして頂きたいが、主郭から西麓にほぼ五郭を重ねたものであり、主郭三方に施された低土塁や見応えのある堀切(横堀)、明瞭な縦堀、櫓台とも思える土塁郭、土塁虎口跡(石積の痕跡が窺われるが、神社跡かも?)などは、間違いなく見学者の期待に応えてくれるものと自分の目には映ったのである。もちろん高低差を誇る切岸の醍醐味にも充分触れる事は出来るが、、、
現状(二月)城跡(本郭群)は、間伐の行われた植林地にある事から、見通しはある程度利き、非常に見学し易い状況にあると思って頂いても良いが、地表風化はそれなりに進行しているので、表土の流出した土塁や土塁虎口跡、あるいは一部の郭跡においては、郭構成も掴み辛く、本来の縄張りはほぼ見学者の判断に委ねられると思って頂いても良いかも知れない、、、城跡を個人的に評価するのであれば、四季を問わず見学し易い状態にあると察せられるコンディションの良さ、遺構の見応え(切岸、空堀群)、考えさせられる縄張りプラン(縄張り妙味が感じられる)、個々の本郭群の全体像が窺えるその佇まい、これだけ多くの見学材料が揃えば、お手軽感を含めずとも、「間違いなく是非お薦め出来る城跡の一つ」という事にはなるだろう。これを機に訪れる用意のある方は、是非期待して臨んで頂いても良いのではないだろうか、、
城跡は兵庫県豊岡市但東町出合にあって、登城ルート図を見れば直ぐお分かり頂ける様に、既にリポート掲載を終えた出合城から見れば、川を挟んだ直ぐ東側の丘陵上に位置している。この城跡は以前沢田城を訪れた際に、この地区の史跡に詳しい方から紹介して頂いた砦跡の一つでもあるが、先に触れた小規模ながらも本格的山城の様相を呈す、出合城の方の認識は全くなく、今回はこの城跡と混同する恐れが生じる事から、出合東砦としてリポート掲載に及ぶ事になった。城跡呼称に関しては柔軟に対応して頂きたいが、但東町史の中では出合砦として紹介されているらしい、、、、
城跡を訪れるには、出合城を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、城跡までのアクセス方法は割愛させて頂くが、国道482号線「出合」交差点の南西側から、舗装道路が城跡南背後の切り通し(かつての堀切か?)まで繋がっているので、ここまでは車で進入可能とは思われる。個人的には自身が想定した直登ルートより急斜面を登った(縦堀の確認の為)事もあって、林道の道路状況までは把握していないが、、、
城跡の形態は、アバウトに描いた概念図を参考にして頂ければ良いが、独立した低丘陵上を地形に任せて削平しただけに終わったものであり、その規模も砦跡に相応しく、縄張り妙味も、高低差を伴う切岸の醍醐味も望めないのが現実でもある。ただ物見程度の主郭南北には、僅かに空堀の痕跡が見止められた事から、砦跡としての佇まいは充分味わえるとは思われるが、、、現状主郭内には「タジマヒダカノミコトの陵」と表記された石碑が建っており、この砦はかつての陵墓を郭として転用したものとも考えられるが、個人的に見る限り、古代における天皇に近い豪族の陵墓にはとても思われなかった(貧相過ぎる)。
城跡を個人的に評価するのであれば、この地区(出合から小谷)における山城巡りの一環、あるいは無名に近い古代の陵墓を含めた史跡巡りとすれば、充分訪れる理由も生まれて来るかもしれないが、遺構に見応えまでは望まない事が大前提といった事になろうか、もちろん興味を持たれた方には、圧倒的お手軽感から充分お薦めは出来るが、、、
城跡は三重県伊賀市猿野にあって、先にリポート掲載を終えた重瀬氏城からみれば、南背後に限りなく広がる、広大な台地の丘陵先端部に位置しており、重瀬氏城と表記された案内城址標識や、方形居館跡の形態が物語る様に、こちらが重瀬氏本城と察せられる。ただその築城形態は、馬出しに近い大型の土塁虎口や空堀が物語る様に、織豊系を色濃く残すものであり、織田軍によって城郭は多少改修されたとも見受けられるものである、、、謎。
城跡を訪れるには、重瀬氏城を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、概念図に示した道路沿いにある城址標識(画像に注目)より、南道路沿いの数十m先にあるガレージ脇から、畦道が主郭虎口まで繋がっているので、これを利用すれば直ぐにでも主郭までは辿り着けるだろう。
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、先に触れたように織豊系を色濃く残す(私見)ものであり、主郭四方を廻る分厚い高土塁や馬出しの如き大型の虎口、更に三本の空堀(横堀と一部縦堀に繋がるもの)は、間違いなく見学者の目を楽しませてくれる筈である。特に大型の土塁虎口は、高土塁を形成する切岸の醍醐味と相俟って、見事なものを拝むことが出来よう。現状(二月)城跡は、主郭内部には低草木が蔓延り、倒木や堆積物などによって非常に荒廃した状態にあり、土塁上も含めて郭内全域を歩き回る事は、困難を極める状況にあると思って頂いても良いかもしれない。ただ全域が植林地にある事によって、主郭内から北郭、南郭、あるいは空堀に至るまでの見通しは利くので、見学に差し支えるまでには至っていないと解釈して頂いても良いとは思われるが、、、
城跡を個人的に評価すれば、築城プランから多少でも縄張り妙味が感じられる事、ほぼ完存とも眼に映った高い遺構残存度、見応えのある堀切、高土塁の醍醐味は、圧倒的お手軽感を加味せずとも、規模さえ問わなければ「間違いなくお薦め出来る城跡の一つ」ということになろうか。重瀬氏城との二城同日訪問は是非お薦め!
城跡は三重県伊賀市猿野(マシノ)にあって、服部川に向いて突き出した低丘陵上に位置しており、広い主郭の片隅には現在金毘羅宮が建立されている。城史に関しては、名が語る様に重瀬(ジュウゼ)氏の居城が伝わっているが、後でリポート掲載を予定している中垣内城も、地元城址標識に重瀬氏城とある様に、重瀬氏の築いた城跡の一つと思われる。此方の重瀬氏城は、中垣内城を本城とした場合の出城としてみれば良いのかも知れないが、地元城跡に詳しい方に尋ねたところ、中垣内城の方を重瀬氏城として紹介して頂いた経緯もあり、此方の方は城跡としての認識は全くない様に感じられた、、、
城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた植田氏城や阿波氏館跡を起点とすれば、その位置も分かり易いとは思われるが、国道163号線から城跡の位置する丘陵先端部は、直ぐ望める距離にある。金毘羅参拝入山口にあるゲートを開閉して上れば、直ぐにでも主郭が迎えてくれよう。
城跡の形態は、概念図に示した如く大味極まりないものではあるが、規模の大きい主郭南背後には、広大な規模を誇る削平地(城域の一部だろう)を遮る、幅6m前後の薄い堀切(箱堀)、それに付随する土塁などは、見応えまでは望めそうにないが、取りあえず見学者の目は楽しませてくれるだろう。他では概念図に示した主郭東側道路沿いに、僅かにそれと分かる土塁を残した空堀(横堀)が目に留まったが、主郭外壁を形成する切り立つ切岸と並んで、これも決して見逃してはならない遺構の一つと思えた。
現状(二月)城跡は、一帯が植林地にある事が幸いした部分もあるが、見通しが利き、更に見て回りやすく、非常に見学し易い状況にあると思って頂いてもよいだろう。恐らく四季を問わず見学し易い状態が維持されているものと思われるが、、、城跡を個人的に評価すれば、山上本郭群だけに限れば、ほぼ当時の祖形は維持されていると見受けられた事、見応えには多少欠けるが、明瞭な土塁、堀切が拝める事、更に切岸の醍醐味まで加味すれば、充分お薦め出来る城跡の一つと言えようか、、、先に触れた阿波氏城や中垣内城と併せた同日訪問とするならば、間違いなく充実した山城巡りが出来る事請け合いの城跡とも言えるだろう。
城跡は三重県伊賀市富永にあって、富永集落西側の広大な台地上片隅にある。城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた阿波氏城、あるいは植田氏城を起点とすれば、その位置も分かり易いとは思われるが、ルート図の如く国道163号線に進入する事が先決となる。目印とした美容院東側の交差点まで到達すれば、そこから北進する事になるが、次の目印でもあるログ作業所の、直ぐ真南側に城跡は位置しているので、道路沿いの土塁外壁が直ぐ望める地点から進入すれば、直ぐにでも虎口を形成する櫓門の如き大石垣が迎えてくれる筈である。
城跡の形態は、ほぼ概念図に示した通りと思って頂いても良いかもしれないが、伊賀にあっては比較的規模の大きい方に属する、主郭四方に高土塁が施された、単純な方形居館跡と思って頂ければ良いだろう。居館跡である以上、縄張りもコンパクトにまとまったものであり、とても縄張り妙味の感じられる城跡とは言えないが、ほぼ完存とも言える内壁高低差5~6mを誇る高土塁の醍醐味、先に触れた虎口を形成する見応え抜群の大石垣跡、土塁内壁底部に広い範囲で露見している石垣跡は、山城ファンの方だけを問わず、史跡ファンの方、あるいは城跡ファンの方にとっては、圧倒的手軽感を含まずとも、充分満足感に浸れる「是非お薦め出来る城跡の一つ」、と自分の目には映ったのである。土塁や石垣跡を除けば見所遺構は数少ないが、かつて施されていたと思われる空堀は、作業所側の北虎口付近に痕跡程度で残っている。これを機に訪れる用意のある方は、是非期待して臨んで頂いても良いのではないだろうか。
現状(二月)主郭内は、伐採されて放置された木々の為に荒廃しており(画像に注目)、歩き辛い事は否めないが、見通しは利くので、土塁上を歩いて移動すれば、その全貌を窺う事も可能であり、広い郭内に佇めば、充分臨場感も味わえる状況にある。恐らく四季を問わず比較的見学し易い状況にあるのではないだろうか、、、
城跡は三重県伊賀市上阿波にあって、ほぼ独立した低丘陵上に位置している。城史に関しては、地元士豪の一人安岡氏の居城が伝わっており、伊賀攻略軍(織田軍)との戦いにおいては、善戦するも最終的には阿波氏城同様落城した模様。
城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた阿波氏城を起点とすれば、その位置も分かり易いとは思われるが、城跡へ向かう取り付き口付近には、目印となる目立つ建物がない事から、登城口に関しては是非画像及び概念図を参考にして頂きたい、規模の大きい推察屋敷跡地(神社敷地跡か?)を通過して上れば、5分程度で主郭までは辿り着ける筈である。
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、主郭東背後に突出した形で聳える、見応えのある櫓台を特徴としており、そこでは周囲三方を取巻く低土塁を拝む事が出来る。堀切は主郭北西側に僅かに横堀として窺われるが、当時の遺構か否かの正否の判定は少し難しいかも、、、もちろん見応えまでは期待出来ないが。
現状(二月)城跡は、一帯が間伐の行われた植林地にある事が幸いして、山城としては非常に見学し易い状況にある。よって見通しが利き、遺構見学も存分に楽しめる状況にはあるが、砦規模の山城である事は否めず、遺構も目白押しという訳ではないので、多くの残存遺構には期待出来ないと思って頂きたい。城跡を個人的に評価すれば、低土塁の残る櫓台、及びその切岸の醍醐味、ほぼ主郭全体像の窺える佇まい、それに圧倒的お手軽感を加味すれば、充分見学に値する山城という事にはなるだろう。先に触れた阿波氏城や植田氏城を含めた山城巡りとすれば、当然お薦め出来るだろう。
城跡は三重県伊賀市下阿波にあって、地元では下ノ館と呼ばれている阿波氏居館跡と、その南東背後に聳える山上に位置する、詰城あるいは物見機能を備えた上ノ館(阿波氏城)の二城で成立したものである。城史に関しては、名が語る様に阿波氏の居城が伝わっており、織田軍による伊賀攻めの際に落城した模様、ちなみに当時の土塁が未だ屋敷跡を廻る下ノ館は、今でも阿波氏がお住まいの住居と聞き及んだ。
城跡を訪れるには、先にリポート掲載を終えた植田氏城を起点とすれば、二城共に一目瞭然ともいえる場所にあるので、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、山上詰城(上ノ館)への入山口は概念図を参考にして頂きたい。ここから流水の少ない小さな川を飛び石を利用して渡る事になるが、城址標識(画像に注目)が直ぐ目に留まる事から、入山口は直ぐ確認出来るだろう。標識からは山上堀切まで繋がる山道を利用して上れば、迷わず主郭までは辿り着ける筈である。(10分内)
ここでは阿波氏山上詰城と呼ぶに相応しい、上ノ館の現況リポートという事になるが、その形態は、概念図に限りなく近いものと思って頂いても良いだろう。砦規模の山城ではあるが、櫓台機能と見受けられた土塁郭、その背後に施された土塁、南尾根を断つ僅かな堀切跡、主郭片側に施された低土塁、土塁虎口跡、西出郭に相当する削平地(中央に土塁壇が残る)などが、縄張りを形成する城郭遺構と呼べるものでもあるが、充分見学者の目は楽しませてくれるだろう。ただ土塁壁に一部窺われた石垣跡に関しては、、、?
現状(二月)城跡は、一帯が植林地にある事によって見通しが利き、櫓台に佇めばコンパクトにまとまった主郭の全貌が窺える状況にあるが、地表風化はそれなりに進行している。城跡を個人的に評価すれば、廃城になってから現在まで、手付かずの状態にあると見受けられた残存度の高い遺構群、自然岩を郭壁として取り込んで築かれた山城らしい様相、郭外壁を形成する見事な切岸などは、充分当時に思いを馳せる事が可能であり、見学のし易さやお手軽感も加味すれば、充分薦め出来る城跡という事にはなるだろう。もちろん下ノ館を廻る見事な土塁や、虎口跡(土留め石あり)の見学も兼ねた訪問が前提という事にはなるが、先に触れた植田氏城も併せた同日訪問とすれば、間違っても期待はずれには終わる事はないだろう。
城跡は三重県伊賀市中馬野にあって、谷間に重なり合う中馬野集落西側山腹に位置している。城史に関しては、先にリポート掲載を終えた福持氏城と同様に、福持氏の居城が伝わっているが、福持九朗(九太夫)の居城である事から「九太夫城」と呼ばれている。こちらが福持氏本城と言えるのかも知れないが、縄張りを共有している福岡氏城も併せれば、規模は比較的大きい部類に入るとは思われる。
城跡を訪れるには、先に触れた福持氏城を起点とすれば分かり易いが、県道2号線をそのまま北進すれば、目印とした「中馬野バス停」、あるいはその傍にある児童公園までは迷わず辿り着けよう。バス停から谷奥に突き出した形の福岡氏城は既に望める位置にあるが、城跡までの進入経路は、ルート図及び概念図を参考にして頂きたい。民家最奥より谷沿いの山道を少し上れば、右手に小さな沢を挟んで、福岡氏城の外壁となる切岸と堀切は、直ぐに目に飛び込んで来るが、この直立する切岸は中々上り難いので、少し谷沿いを上った付近から沢を跨いで、九太夫城を先に目指した方が良いかも知れない、、、
城跡概念図二城の形態は概念図を参考にして頂きたいが、住宅直ぐ背後の尾根先端部に位置するのが福岡氏城、その背後に施された見応え状態共に抜群の空堀(横堀)から、更に西側尾根を上った先にあるのが九太夫城となっている。どちらも方形居館跡と呼べるものであり、高土塁はどちらにもしっかり備わっているが、福岡氏城の土塁は、後世において明らかに北側と東側の土塁が消失した痕跡が見止められた。
現状(二月)城跡は、一帯が間伐の行われた植林地にある事から、山城としては低草木も蔓延らず、歩き回りやすく、非常に見学し易い状況にあると思って頂いても良いだろう。
ここでは当時の縄張りがほぼ完存に近いものと見受けられた、九太夫城に重きを置いて現況報告させて頂くが、主郭四方を廻る土塁は一部が欠けた様子もなく、ほぼ完存に近い形で残っており、その西背後に施された大空堀と並んで、城跡にあっては最大の見所遺構となっている。当然見応えも抜群であり、間違いなく見学者の期待に応えてくれるものと、自分の目には映ったのである。自身が踏破した範囲内で目に留まった見所遺構は、全て概念図には示したが、虎口跡、土塁郭と化した背後に低土塁を伴う見張り台、土塁内壁に僅かに露見した土留め石らしき石積跡、土塁内外壁を形成する切り立つ切岸、北、東、南側に僅かに窺われる薄い空堀跡などが挙げられるが、これを機に訪れる用意のある方には、どれも見逃せない遺構と感じられたので、取りあえず全て押さえて頂きたい。
城跡を個人的に評価するのであれば、遺構残存度の高さ、縄張りの掴み易いコンディションの良さ、遺構の見応え、見学のし易さ、これだけの材料が揃えば、間違いなくお薦め出来る城跡の一つという事にはなるが、とにかく背中を押してでもお薦めしたい城跡の一つ!と思って頂いても良いだろう。
城跡は三重県伊賀市中村にあって、先にリポート掲載を終えた井上氏城の真南側に突き出した丘陵先端部にある。地元で城跡を尋ねれば、一応長持氏の砦跡と伝わっているらしいが、その詳細は不明。
城跡を訪れるには、先に触れた井上氏城を起点とすれば一目瞭然の位置にあるが、概念図に示した付近の道路沿いから林の中を覗けば、郭外壁となる切岸は充分窺えるので、主郭までは直ぐにでも辿り着けよう。
現状(二月)城跡は、一帯が植林地となっているせいもあるが、遺構見学とすれば、これ以上望む事が出来ないほど素晴らしい状態にあり、現存する遺構の全てが、判別確認し易い状況下にあると思って頂いても良いだろう。規模が小さい(全長30m前後)事から、その全体像を窺う事も可能であり、主郭北西隅に備わる櫓台土塁や、その外壁となる切岸は、主郭二方を廻る分厚い土塁と並んで、切岸の醍醐味には充分触れる事が出来るとは思われる。ただ本来四方を廻っていたものと察せられる、南側の土塁は消失した可能性があり、東側に施されていたと察せられる空堀も、現在では痕跡も窺われない状況にあるので、遺構残存度は低い城跡という事にはなるが、、、、
城跡を個人的に評価すれば、分厚い土塁を形成する切岸の醍醐味、誇れる状態の良さ、それに圧倒的お手軽感を加味すれば、井上氏城と併せた同日訪問とするのであれば、充分訪れる理由も生まれて来る城跡といった処か、、、
城跡は三重県伊賀市坂下にあって、通称「城山」と呼ばれている低山山頂に位置している。城史に関しては、天正期に福持氏によって築かれた城と伝わっており、今後リポート掲載を予定している、九太夫城(福持九太夫城)を本城とした時の支城、あるいは出城とすれば良いのかも知れない。
城跡を訪れるには、国道165号線を経由して県道2号線に進入する事が先決となるが、同じ2号線を訪問ルートとする、既にリポート掲載を終えた妙楽寺城や藪内氏城を起点とすれば、その所在位置も分かり易いだろう。目印となるのは車を駐車する事になる、坂下集落の中心地にある「坂下公民館」で、概念図に示した箇所(画像に注目)から急斜面を直登すれば、藪漕ぎもなく数分で主郭までは辿り着けよう。
城跡の形態は、ほぼ三郭で構成された、シンプル極まりない砦規模の城跡である事から、自作概念図に限りなく近いものと思って頂いても良いが、小規模な山上主郭の西側には低土塁が施されており、その北背後の痩せ尾根を断つ二重堀切は、堀底から立ち上がる切岸と相俟って見応えも充分であり、この山城の醸す楚々とした佇まいは、当時に思いを馳せる事も容易く、充分見学者の目は楽しませてくれるだろう。現状(二月)城跡は、一帯が間伐の行われた植林地にある事から、狭い主郭の全貌が窺える状況の下にあると思って頂いても良いが、恐らく四季を問わずこの状態が自然維持されていると思われた事から、訪問時期も冬季に限定されたものではなく、非常に尋ね易い城跡と自分の目には映ったのである。
城跡を個人的に評価すれば、福持氏の本城ともいえる九太夫城(今後にリポート掲載予定)と併せた同日訪問とすれば、間違っても期待外れには終わらない、「是非お薦め出来る城跡の一つ」とは言えるだろう。もちろん単独訪問としても、規模さえ問わなければ充分満足感には浸れようが、、、
城跡は三重県伊賀市出後にあって、既にリポート掲載を終えた井上氏城から見れば、川を隔てた真西側の丘陵上に位置しており、永井氏城から見れば道路を隔てて直ぐ西側へ隣接した丘陵上にある。城史に関しては岡山氏の居城と伝わっているが、詳細は不明
城跡を訪れるには、先に触れた永井氏城を起点とすれば、その所在位置は一目瞭然でもあるので、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、登城口は概念図に示した橋脇の入山ゲートからで、山道に任せて数十m上り、適当な箇所から尾根に沿って直登すれば、藪漕ぎもなく数分で主郭までは辿り着ける筈である。
城跡の形態は概念図を参考にして頂きたいが、コンパクトにまとまった伊賀の城跡らしく単郭構造で、主郭背後には土塁を付随させた二重堀切が施されている。この空堀(堀切)壁と郭外壁の一部に石積(角の取れた川原石)跡が窺われた事や、崩落石が斜面上に見止められた事から、郭外壁の全てとは言わないまでも、部分的には石垣で郭外壁が補強されてあったものと考えられる、、、、現状(二月)城跡は、藪化は進行中にあるが、見学に差し支えるまでには至っておらず、概念図に示したまでの、自身が踏破した範囲で城郭遺構と判断した残存遺構の全てが、判別確認の容易い状況にあると思って頂いても良いだろう。ただ郭内部の地表風化は進んでおり、郭内部の僅かな地形の変化から、郭区画までは読み取れないのが現状でもあるが、、、
城跡を個人的に評価すれば、山城としてみれば比較的見学し易い状態が自然維持されており、縄張りが掴み易い事、遺構としての見応えには少し欠けるが、二重堀切、土塁跡、虎口跡、ついでに石積跡が拝める事、それにお手軽感も加味すれば、規模さえ問わなければ充分お薦め出来る城跡という事にはなるだろう。
城跡は三重県伊賀市下阿波にあって、低丘陵上の先端部に位置している。城史に関しては、天正年間に植田豊前光次の居城が伝わるが、その詳細は不明
城跡を訪れるには、まず国道163号線へ進入する事が先決となるが、下阿波地区から登城口となる入山ゲートまでは、登城ルート図を参考にして頂きたい。付近に充分路駐可能なスペース(画像に注目)はあるが、そこから直ぐの距離にあるゲートを開閉して、尾根上を目指せば、藪漕ぎもなく数分で素晴らしい状態を誇る本郭群に辿り着ける筈である。
城跡の形態は概念図に示した通り、伊賀にあっては定番ともいえる、主郭四方に土塁を張り巡らした、方形居館と呼べるものでもあるが、とにかく遺構見学としてのコンディションは賞賛に値するものであり、間伐の行われた植林地が幸いしたせいもあるが、主郭内も含めて、本郭の縄張りの全てが見通せる状況(二月)にあり、現存する遺構の全てが外見から判別確認し易い、素晴らしい状態にあると思って頂いても良いだろう。居館跡の性質上、特別縄張り妙味を感じられる城跡とは言えないが、高低差を誇る堀切、及びその切岸、それに繋がる縦堀、四方を廻る土塁と櫓台の如き高土塁、見事な土塁虎口跡、土塁外壁を形成する、低草木の蔓延らない地表の露見した切岸などは、間違いなく見学者の目を楽しませてくれるだろう。今まで伊賀の居館跡に関しては、数多く現況をリポートして来たが、「これほどの状態を誇る城跡にはお目にかかった事がない!」、もちろん保全整備の行われた指定史跡以外の城跡という事にはなるが、、、これを機に訪れる用意のある方には、是非期待して臨んで頂きたいと思えたのである。
城跡を個人的に評価すれば、明確にそれと分かる遺構群の状態の良さ、山城入門者でも縄張りの掴み易い遺構残存度の高さ(完存か?)、土塁や空堀などの遺構の見応え、丘陵上に展開される広大な規模を誇る削平地(外壁に切岸跡が窺える事から、縄張りの一部と推察)、及び主郭内に佇んだ際の圧倒的臨場感、これだけの見学材料が揃えば、圧倒的お手軽感を含めずとも、間違いなくお薦め出来る城跡の一つ、という事にはなるだろう。個人的には所在位置確認に手間取り、同日訪問とはならなかったが、隣接する丘陵上にある、阿波氏城も含めた城跡巡りは是非お薦め!(今後リポート掲載予定)
城跡は三重県伊賀市老川にあって、「梅高大神」を麓に望み、真北側の標高約400m(比高約80m)の山頂に位置している。城史に関しての詳細は不明
城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた峯出城や若山氏城を起点とすれば、その所在位置は分かり易いとは思われるが、同様の訪問ルートとなる767号へ進入する事が先決となる。767号道路沿いには「城山バス停」がある事から、これを目印とすれば更に分かり易いだろう。付近に到達すれば、城跡まではルート図を参考にして頂きたいが、梅高大神へ向かう生活道路から林道に合流し、治山工事の行われた上り易い場所(画像に注目)から取り付き、尾根を目指して上ればよい。林道沿いから二重堀切までは直ぐの距離にあるが、ちなみに麓に路駐すれば10分内で到達可能
城跡のアバウトな形態は、自身が踏破した範囲で目に留まった遺構を示した、概念図を参考にして頂きたいが、自然地形に任せたまま山頂を削り出して築かれただけの城郭に、技巧を伴う多くの遺構や、縄張り妙味は自ずと望めないものでもある。見所遺構は概念図にしめしたが、箱堀を含めた堀切が二箇所、土塁跡に関しては痕跡程度に止まるが、山上郭群の一角と、箱堀脇といった処と思って頂ければ良いかも知れない。ただ切岸跡は山上郭群の周囲外壁に見止められるので、切岸の醍醐味は充分味わえるだろう。現状(二月)城跡は、藪化も地表風化も進行中にあるが、北尾根上から山上本郭群までは、郭移動に差し支えるまでには至っておらず、密生雑木藪地となっている主郭から南西側斜面、あるいは南側斜面を除いた、概念図に示したまでが移動にも難渋せず、踏破可能な範囲と思って頂ければよいだろう。
城跡を個人的に評価するのであれば、見応えのある遺構は皆無に近いという事になるが、この地区にあっては縄張りプランを異にする新鮮さ(伊賀の城跡の定番ともいえる土塁を伴う方形居館跡でない部分)、及び城郭としての機能を考えさせられる部分、それに圧倒的お手軽感まで加味すれば、何とか訪れる値打ちのある山城といったところになろうか、、
尚、ルート図中に示した「極楽寺」西背後で、見応えのある堀切(横堀と縦堀跡)や土塁跡、あるいは後世における地形改変跡は窺われるが、大規模な削平地が窺われた事から、個人的にはかつての城郭遺構と判断したが、既に調査されて公的に認識されている城跡とは思えなかった事から、興味のある方は是非一度覗いて頂きたい。
城跡は兵庫県神戸市北区八多町附物にあって、標高453mの「大蔵山」山頂に位置しており、国土地理院地図にも記されているので、その位置は確認し易いとは思われる。入山口でもある「ビクニ池」の畔に掲げられてあった、案内板の中に「奥蔵寺」が登場する事から考えれば、文献資料による違いはあるが「奥蔵寺砦」と呼ばれているものが、この大蔵山城にあたるもの考えられる(当て字の違いはあるが、どちらもオーゾウと読める)。城史に関しては僅かではあるが、当時三木城を居城としてこの一帯まで絶大な勢力を誇った、別所氏一族が「奥蔵寺」を利用して立て籠もった砦跡と伝わっており、秀吉による焼き討ちで落城した歴史が伝えられている。
城跡を訪れるには当然地図にある「大蔵山」を目指せば良いのだが、県道38号の「深谷」三叉路で針路変更して、南下した場所にあるのが附物集落で、民家の途切れる南最奥にある「六甲八多霊園」を目印として目指せば分かり易いだろう。そこの駐車場を利用させて頂く事になるが、そこから更に林道で前述のビクニ池まで歩き、ルート図に示した(画像に注目)林道沿いからも窺える沢筋に見える山道を登れば、踏み跡程度ではあるが、山頂までは山道が繋がっているので、迷わず辿り着けるとは思われる。ちなみに霊園から山頂までは20分内と思って頂ければ良いだろう。
現状(二月)城跡の位置する山上には三角点がある事から、僅かにハイカーは訪れても、ここを山城跡として認識した上で訪れる方は皆無に近いものとも感じられた。踏み跡程度の登山道が通過している事から、幸い移動に難渋するまでには至っていないが、郭内の藪化は相当深刻化した状態にあり、山上主郭の周囲は全て木々で覆い尽くされている状況となっている。その中で唯一段差程度の切岸跡は窺う事が可能となっているが、堀切あるいは土塁などの判別し易い遺構は一切目には留まらなかった、個人的にはこれだけに終わるものとは思えなかったので、期待を込めて更に南山上も踏破したが、ここより更に藪化は深刻化しており、とても見学可能な状況にはなかった。それでも藪漕ぎしながら山上における広い削平地だけは確認したが、それ以上のものに巡り合う事は叶わなかった。砦跡と伝わる城跡を少し過大評価し過ぎた嫌いはあるが、この山城に関しては、この程度の城跡として決め付けても差し支えはなさそうに思えたのである。現在の状況を踏まえれば、とてもお薦めとは言えないが、史跡巡りあるいはトレッキングを楽しむ程度とすれば、それでよいのかも知れない、、、
城跡は三重県伊賀市種生(タナオ)にあって、現在廃校となっている小学校の直ぐ東背後の丘陵上にあるが、現在かつての校舎は「博要地区市民センター」となっている。城史に関しては泉氏の居城が伝わるが、詳細は不明
城跡を訪れるには、691号線沿いにある「博要地区市民センター」を目印として目指せば迷わず辿り着けるが、近辺には既にリポート掲載を終えた小竹氏城がある事から、既にこの城跡を訪れた方には、その位置も分かり易いとは思われる。城跡への進入口は、概念図あるいは画像に示した付近からで、車を停めれば城跡までは直ぐにでも到達可能となっている。
城跡の形態は概念図に示したものに限りなく近い、主郭三方を土塁が廻る、ほぼ単郭で成立した城跡と思って頂ければ良いが、主郭背後の大土塁は櫓台機能と察せられるものであり、多少規模の大きいものとなっている。堀切は横堀として櫓台土塁の背後に施されているが、城跡においては唯一の空堀として、土塁と共に見学者の目は充分楽しませてくれる筈である。主郭の形状は六角形に近いものであり、方形居館跡が圧倒的多数を占める伊賀の居館跡としては、多少ユニークさが感じられるものとなっている。
現状(二月)城跡は、一帯が間伐の行われた植林地にある事から、それなりに見通しが利き、見学し易く見て回りやすい状態が自然維持されている。よって概念図に示したまでの遺構は、全て判別確認が容易く、切岸の醍醐味に触れる事も可能であり、外見から小規模な主郭跡のほぼ全体像を窺う事も可能な状況にある。城跡を個人的に評価すれば、ほぼ完存(推察)とも見受けられる遺構残存度の高さ、櫓台土塁や堀切壁の見応え、比較的良いと感じられたコンディション、小規模が故の縄張りの掴み易さ、更に主郭まで5分で到達可能な圧倒的お手軽感まで含めれば、「規模さえ問わなければ、間違いなくお薦め出来る城跡の一つ」と言えようか、、、