2009年7月13日 (月)

但馬荒木城跡(兵庫県豊岡市)

この城跡は豊岡市出石町荒木にあって、先にリポート掲載に及んだ鳥居城跡の尾根をそのまま南側へ山上目指して上った先にある。この城跡に関しては少なくとも自分が手にする資料、文献類に記述が無く、ほぼ無名に近い事からも今回の訪問リポートでは独自の判断で、地域名を採用した「仮名、荒木城跡」としてリポート掲載に及んだが、実際には但馬地方史あるいは出石町史の中で荒木城として登場している山城なのかも知れない、、、(他に本来の荒木城と呼ぶ城跡が存在するのであれば訂正しなくてはならないが、現状では照会する資料も乏しい為にまだ呼称も判明してはいない)

鳥居城からみれば尾根を共有しているので詰城の様にも窺われるが、鳥居城の形態とは随分異にしており、見る限り相当古い形態とも窺えるもので、山上から尾根にかけて地形任せに段郭を連ねて堀切で郭を分断しただけの縄張り構成でもあり、見学する分には醍醐味には少し欠けそうに感じられた。現状(六月)遺構として判別可能なものは尾根上に延々と連なる規模の小さな段郭跡(削平地)、但馬地方特有の空堀地形を挟んだ連続する土塁壇、かなり埋もれて判別し難いが郭間に備わる堀切土橋付き堀切(二箇所)、空堀(横堀)などが挙げられるが、意外にも判別可能な遺構がまだ数多く残っていた。

1route_2 登城ルート

3araki_2 城跡概念図

4_dorui_dan 土塁壇

6_horikiri 堀切

11_doruidan_kaku 郭跡

11 空堀跡

12_dobasi_karabori_1 土橋、空堀跡

15_one_kaku 削平地

16_karabori_ato 空堀土塁跡

18_sanjyou_kaku_1 山上郭

縄張り内における郭移動に関しては藪漕ぎ箇所が無いので、この時期にしては快適に見て回る事が出来たが、埋もれた堀切跡などの様に地表風化が相当激しい事、あるいは技巧さを有する遺構が見当たらない事からも、少なくとも戦国期を乗り切った山城の様にはとても見受けられなかった。現在鉄塔の建つ付近が山上主郭とも呼べそうな郭跡(削平地)と見受けられたが、土塁も空堀も付随している訳ではないので確証には至れなかった。ただ東側斜面には空堀土塁跡と見受けられる地形は見受けられたが、、。

麓にある鳥居城から山上まで移動して歩き回った結果として、何とか城跡概念図までは描く事が出来たが、個人的に図中に示したものが城跡遺構としてまず間違いのないものと判断したものに相当する。ただ見学者によっては違った見方になるかも分からないが、よほど物好きな山城ファンでもない限り、この山上まで上って遺構探索まではしないものと思われる、よって見応えが無いのが欠点ではあるが、この城跡概念図を見て興味を持たれた方のみが見学対象となる山城と言って良いのかも知れない、、。

2009年7月11日 (土)

鳥居城跡(兵庫県豊岡市)

この城跡は豊岡市出石町鳥居にあって、以前より国道426号を利用して出石町から豊岡市内へ向かう度に城山の位置確認はしながら通過していたが、ここ最近になって山肌がむき出しになっている事から、どうも発掘調査あるいは住宅造成工事の掘削跡とも見受けられたので、遺構が破壊されない今の中に覗いておこうと思い立って現地を訪れたものである。

城跡へは国道426号よりほぼルート図通りで到達出来るが、426号から鳥居橋を渡る事は現状出来ない(東西通行止め)ので、一旦通り過ぎて北側から国道482号に向いて車は進行しなければならない。現地に到着すれば車の路駐スペースは鳥居橋付近に充分あるので心配はないと思われる。そこからは概念図に示したように歩いて城跡まで向えばよいが、道路上から東側の植林地を覗けば、木々の隙間からもはっきりと分かる主郭切岸と大堀切が直ぐ目に留まるはずである。

結果的に城跡の傍には隣接して新しい住宅地が建っており、多少遺構は造成工事によって消失したものとも予想されたが、いざ城跡まで上ってみると見事に発掘調査の跡(掘削穴)が一部の郭跡に残っていた。どうやら推察通りに近年発掘調査がなされた模様であるが、見る限り余り破壊も受けておらず遺構もほぼ当時のままの様には感じられた。もちろん調査後のリサーチはしていないので、どの様な調査結果が出たのかは知る術も無いし、調査後に数100年間に渡って風雪を凌いで来た当時の構築物を確実に後世まで保全して行くといった姿勢が見えて来ない限りは、個人的には余り期待も興味も持ってはいないのではあるが、、、。(当時の土木技術の凄さを窺い知る為にも是非このまま遺構は保存し遺して頂きたい)

1route 登城ルート

5 鳥居橋より遠望

3to 城跡概念図

個人的には当時における縄張りプランと優れた土木技術を伴う遺構の見学だけが目的であり、目の前にした遺構だけが真実であり、その醍醐味を素直に味わう事に全てをかけているので、何時もの事ながら現状(六月)見たままをリポートさせて頂くが、結論から先に言えばこの城跡は道路側から5分とかからず直立に近い凄い堀切(切岸が美しい上に主郭までの高さが凄い)まで到達出来る事、あるいはコンパクトにまとまっている為に縄張り妙味は余り感じられないが、状態も比較的良い事を踏まえれば、充分見学に値し是非訪問をお薦めしたい城跡と言うことにはなりそうである。城史に関しての詳細は不明

13_horikiri 13_horikiri_1 南大堀切見所

16_shukaku_yagura_1 主郭南櫓台?見所

18_shukaku_dorui 主郭西側の土塁見所

21_higasi_koguti_1 主郭東虎口跡

27_fukukaku_1 副郭内

26_fukukaku_tatebori_2 副郭東の縦堀地形

30_higasi_kaku 東郭

33_minami_one_tatebori 南尾根上の縦堀

城跡を歩き回った結果、自作概念図に示したものが自身で判断した遺構と呼べそうなものになるが、明確に判別出来る遺構としての見所は前述の大堀切、南郭に備わる縦堀、主郭東半分を巡る土塁(南端には櫓台土塁)、便宜上副郭とした東側虎口に備わる三本の縦堀地形が挙げられる。副郭には一部土塁跡は窺われたが、北西側に設けられた配水施設跡の造成土盛の様な気がしないでもない。ただ北斜面下方側に現在住宅地が建っているので、本来の郭跡がどこまで削り取られて、どれ位消失したものかは想像に任せるしか無い様にも思われた。尚、ここから南へ尾根沿いに上れば形態の明らかに違う城跡遺構が山上にかけて残っているが、そちらの現況報告は次で掲載予定

2009年7月 8日 (水)

樋口城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市庄境にあって鶴城跡からは東南直線3km内の距離にある、もちろん樋口氏の居城として良いものと思われるが、詳細は不明。ただ鶴城とは至近距離にある事からも、支城あるいは出城としての機能を担っていた可能性は非常に高いものと見受けられた。

城跡へは国道312号を利用すれば色んなルートが考えられるので、ここでは割愛させて頂くが、登城ルート図を参考にすれば現地近くまでは難なく辿り着く事が出来ると思われる。(探せば付近に路駐スペースあり) 山上主郭(比高100m)まで上るルートは偶然付近で出くわした城山を一部保有する方に教わる事が出来た上、更に上り口の案内までして頂いたが、写真に示した空き地の直立に近い鉄梯子(怖くて腰が引けそうになる)を上り、更に山上までは急斜面(激斜)を登り切らねばならず、個人的には余りお薦めする事が出来ないので、これから訪問される方はできるなら別ルートを探して上られた方が良いのではないかと思われる。ましてこれから先この空き地に住宅が建ってしまえば、当然この梯子を利用して上るのは不可能とも予想され、南西側(全て崖状地形の上、ネットが張り巡らされている)からの直登は避けた方が良いものと感じられた。地形から考えれば南側から遠回りに上れば何とかなりそうには思われたが、、、。

1route 登城ルート

6_2 リスクを背負う参考直登口

3hi 城跡概念図

8_shukaku_nisi_gedan 南西下段郭

9_shukaku_dorui_dan 主郭内の土塁壇

11_minami_yori_shukaku_gawa 主郭南より

15_karabori_ato 南郭空堀跡

18_dorui_dou 片堀切と土塁道見所

21_horikiri_3 南堀切見所

26_nisi_horikiri 西郭群堀切見所

28_horikiri_nisikaku_2 西郭群

現状(六月)城跡はこの時期にしては状態も比較的まし(藪漕ぎは無い)であり、ある程度見通しも利く事から山上における遺構はほぼ判別確認可能な状態にある。郭跡を除けば明確に判別可能な三本の堀切、相当埋もれているが判別は可能な空堀跡、土塁、土塁土橋、連続する土塁壇(マウンド)といったところが、現状見て回れた範囲の中で地形から個人的に判断出来た遺構群でもある。砦規模の城跡なので縄張り妙味まで求める訳には行かないが、山城としての風情あるいは醍醐味は充分感じられる城跡と目には映った。状態も良い部類に入る事からも四季を問わず訪問が可能であるとは思われるが、安全面を重視すれば今回は自分でも納得の行く直登ルートが紹介出来なかったのが少し残念な処ではある。下山後には直登口を案内して頂いた城山所有者(歴史には詳しい)にお礼を述べた上で状況を報告したいと思い訪ねたが、自分の山がかつて戦国期において城跡であった事実を、自身が現地で描いた簡単な縄張り図を示して説明しても「今までそんな事は先祖から聞いた事も無ければ、他で耳にした事も無い」の一点張りで、とうとう最後まで信じてはもらえなかったのが非常に残念でもあり、改めて400年に渡って現在に至る「城跡の価値」を現実として知らされた思いでもある。尚、城山所有者は自分の事を山の風景写真を撮影しに訪れた者とどうやら勘違いされていた事も後の話で分かった。

2009年7月 6日 (月)

上郷城跡(兵庫県豊岡市)

今回は当方の不手際により、折角編集した上郷城跡のブログ記事が失われてしまいました。よって少し見苦しいかも分かりませんが、最初に記事を作成した時における原稿のコピーを載せる事にしました。詳しい城跡の現況リポートに関しては、「城跡の詳細」をクリックして読んで頂ければ幸いです。

2kami2 城跡の詳細

1rpute 登城ルート

4a 城跡遠望

6 直登進入口

3ka 城跡概念図

9kitaone_horikiri 北尾根上の堀切

15_kitakaku_kirikisi_1 上方北郭の切岸

19_sita_kaku_2 下方郭跡

20_sita_kaku下方北側の腰郭

24_kita_dankaku_1 下方北段郭群

28_shukaku_1 主郭内

30_shukaku_yori_kita_yagura_1 北櫓台土塁見所

34_horikiri_1

南堀切

2009年7月 4日 (土)

芦原城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市久美浜町芦原にあって小幡氏の居城が唯一伝わるが、資料も皆無に近いことから城跡の成立した時代背景も分からず、当時丹後攻略軍の細川氏の傘下にあった武将なのか、一色氏の配下にあった武将なのかは確かな情報も得られず、詳細は全く不明。

城跡へは先にリポート掲載を終えた佐野城を起点にすれば分かり易いが、国道312号は久美浜に向いて西進、後は目印となるものがないのでルート図を参考に、谷地区より一般道703号へ左折針路変更すればよい。芦原地区に入れば橋を渡る手前より右手側に城跡は視界に入る事からも、直ぐに確認する事は出来るはずである。城跡への進入口は概念図に示したように小橋を渡って直ぐに竹林地に入り、そのまま郭壁となる急斜面を上り切れば主郭までは5分とかからず到達可能である。(付近を探せば車の路駐スペースはあり)

現状(六月)城跡は住宅地が迫っている事からも竹林地が占める割合も多いが、山上における主要な郭群、あるいは現存する大堀切(三箇所の薬研堀)、北郭に備わる土塁、切り立った郭切岸などは判別確認出来る状態でもあり、遺構見学においては充分満足の出来るレベルにある城跡と言ってよいものと思われる。ただ東側あるいは北東側に踏み入るほど身動きも取れないほどの雑木竹林地となるが、本命はあくまでも山上本郭群なので見学する分には大して影響はないものと感じられる。城跡の形態としては余り高低差のない主要四郭を、地形に任せて大堀切を挟みながら掘削形成されたもので、地形上からか直線的に郭が配されていないところが非常にユニークな縄張りプランと感じられた。

1route_2 登城ルート

6 城跡進入口

3as 城跡概念図

10_kosi_yori_shukaku_heki 腰郭より主郭壁

15_shukaku 主郭内

20_kita_gedan_yori_shukaku 北中郭より主郭側

21_dai_horikiri_3 北堀切(薬研堀)見所

22_kitakaku_dorui 北郭土塁見所

26_higasi_dai_horikiri 主郭東堀切見所

29_fukukaku_higasi_horikiri 副郭東堀切見所

13 主郭南下段

25_yasiki_ka 屋敷跡か?

城跡最大の見所は郭間を遮る三箇所の大堀切で、直立に近い様相でもあり、高低差がある事からも見応えは素晴らしく、この城跡にあっては抜群の存在感を誇っており、正に一見の価値のある遺構と目には映った。他では丘城(ほぼ独立した低山)ならではの鋭角に切り立つ高い切岸も未だ健在であり、見学者にとっては非常に目を楽しませてくれる材料ともなっている。

丹後地方に於いてある程度知名度のある山城(丘城)として挙げられるのは、まず吉原山城、久美浜城、弓木城、少しランクが下がって下岡城と非常に数は少ないが、今回訪れたこの城跡は佐野城、意布伎城などと並んで知名度は無きに等しく、ほぼ無名に近いと言えるが遺構残存度は非常に高いものがあり、これから先は指定史跡として見直されても良いのではないか、とも思える城跡の様に感じられるのである。先に挙げた城跡の何れとセットで訪れても、充分満足感の味わえる山城訪問になるのではないだろうか。個人的には充分お薦め出来る城跡の一つである

2009年7月 2日 (木)

意布伎城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市久美浜町油地にあって、北近畿丹後鉄道宮津線「甲山」駅の一つ山を隔てた真南側の、独立して見える山の山上に位置している。先にリポート掲載を終えた佐野城の支城とも窺われ、当時丹後平定中の最中にあった細川氏の牽制あるいは攻撃から本城を守る為に築かれた城跡と伝わっている模様、詳細は不明

城跡へは佐野城を起点にすれば分かり易いが、国道312号を久美浜に向いて西進し、久美浜高校付近で一般道669号へ針路変更後、「甲山」駅を目指して北進する、後はルート図の如く道標は無いが、意布伎(イブキあるいはオブキ)神社を目指せば難なく登城口付近までは辿り着く事が出来る。

1route 登城ルート

7 進入墓参道

3ib 城跡概念図

神社もかつては砦跡とも窺え、背後には空堀とも見受けられる堀切地形が郭切岸(神社敷地)と並んで城跡の雰囲気を唯一醸し出している。目指す本郭へは概念図に示した墓参道よりかつての大堀切へ合流して向かう事になるが、堀切から北側が本命となる本郭群であり、便宜上の広大な二の丸を通過すれば山上郭までは低山なので直ぐにでも到達出来る。現状(六月)遺構として目に留まったものは集合墓地(南郭とした)との境にある大堀切、二の丸堀切側に備わる土塁、二の丸北側の空堀土塁跡、主郭の櫓台大土塁、櫓台北斜面上の堀切(縦堀)などであり、藪化は進行しており地表も荒れ放題と化してはいるが、これらは現状全て判別可能でもある。先に寄った佐野城が素晴らしかったので多少の期待を胸にして訪れたが、この時期でも藪漕ぎ箇所はほとんどなく、丘陵地形の為に山城としての醍醐味までは味わう事が出来なかったが、期待以上の城跡遺構に巡り合える事は出来た。概念図におけるまでが踏破した範囲であり、個人的に遺構と判別出来たものであるが、東西斜面上までは生い茂る雑木の為に外見からの視認も踏破も困難な状況でもあり、縦堀の有無までの確認には至れなかった。

8 堀切へ

10_horikiri_1 南大堀切見所

15_2maru_dorui_1 二の丸土塁見所

16_2maru 二の丸内

17_2maru_kita_karabori_1 二の丸北側空堀跡見所

22_shukaku 主郭内

25_shuaku_yagura 主郭櫓台土塁見所

28_kita_horikiri_1 北堀切

ほぼ無名に近く情報も皆無に近い城跡ではあるが、遺構残存度は非常に高く、5分程度あれば主郭まで到達可能なお手軽感、久美浜城からも約4km程度の距離でもあり、後でリポート掲載予定の芦原城も含めれば、三城同日訪問で充実した山城巡りを堪能する事が出来るのではないだろうか。

2009年6月30日 (火)

佐野城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市久美浜町佐野にあって、同じ町内にあって既にリポート掲載を終えた竹藤城跡からみれば南へ直線約3kmの位置にあり、それほど遠くの距離にはない。ほぼ無名に近い城跡ではあるが佐野備前守の居城と伝わっており、後で丹後を支配する事になる細川氏によって落城した模様である。付近にお住まいの年配の男性からその当時の話を聞いたところ、「佐野城側では川沿いに面した急斜面に油をまいて滑りやすくする事によって、更に攻め手から城を防備する作戦に出たそうであるが、逆に火を放たれて城は炎上し落城した」との事であり、今となっては失笑するばかりの嘘のような当時の戦模様である。

城跡へは京阪神から向う場合、国道426号より482号を経由して久美浜を目指して車を走らせれば良いが、国道482号と国道312号の交わる交差点の川を挟んで直ぐ東側に聳える低山が目的地となる城跡であり、国道からも直ぐ確認する事は出来る。ルート図に示した様に312号へ右折して数100m東側の国道沿いにある、僅かに入り口と見られる入山口(夏草に覆われているが探せば分かる)に向えばよいが、夏草を少し掻き分けて中に進入して行くと、自ずと屋敷跡にも窺える無数の段状に連なる削平地が目に留まる、それと平行して山上まで連なる東段郭群に沿って上れば難なく主郭までは到達出来る(10分程度)。

1route_2 登城ルート

6 入山口

3sa 城跡概念図

現状(六月)城跡は藪化及び風化は進行中にあるが、この時期でも縄張り内の移動に難渋する事は無く、遺構も全体を通してほぼ判別可能な状態にある。外見から全体像を見渡す事は当然無理ではあるが、案外箇所によっては見通しも利くので見学し易い状態にあると言っても良いだろう(冬季に訪問すれば更に良い状態と思える)。城跡の形態としては川に沿った尾根上の東西に跨って郭が展開されるもので、最高所に位置する主郭から東側に数十段にも及ぶ郭群、更に家臣団の屋敷跡にも窺える無数の段郭群、主郭西側は急斜面を下りれば主郭と占有面積がほぼ同等かそれ以上とも窺われる規模の大きい西出郭が配されており、縄張り変化にも富んでおり非常に目を楽しませてくれる山城である。

18_dorui_1 東郭群の土塁見所

23_higasikaku_jyoudan_dorui_3 東郭群最上段の土塁見所

37_nisidemaru_heki_1 西出郭へ

39_demaru_minamigawa 出郭南側

50_shukaku_1 主郭内

54_kita_yakenbori_4 北大堀切見所

56_saihoku_horikiri 北出郭の堀切

61_yasiki最上段の屋敷跡とも窺われる平地  

見所としては東郭群の最上段に備わる郭を仕切る二連の状態の良い大土塁、主郭北側尾根を分断する高低差を伴う素晴らしい堀切(薬研堀)、西出郭の鋭角な切岸、居館とも見て取れた広い削平地上の土塁郭など探せば遺構は目白押しでもあり、飽きを来させず見て回る事が出来る状況でもある。自作概念図に示した様に地形を活かしたユニークな縄張りプランそのものも見所であり、最近コンパクトな縄張り形態の山城を多く訪問しているせいもあってか、この山城は縄張り妙味もあって特に素晴らしいものの様に目には映った。山上主郭までは急斜面を上る必要も無く、この時期でもそれなりに動き回れる状態の良さ、あるいは遺構の醍醐味を考えれば当然推奨に値する城跡でもあり、丹後地方に訪れた際には是非覗いて頂きたい、これぞ山城と呼べる本格さの漂う城跡である。

2009年6月28日 (日)

福田城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市福田にあって、国道178号の信号「福田」の交差点からは直ぐ西側の丘陵先端に位置しており、国道からも充分確認出来る位置にある。当時この城跡もこの周辺に点在する城跡(海老手城など、、)と同様に山名氏の傘下にあったとは思われるが、当然秀吉による但馬攻略軍によって落城あるいは投降したものと察せられる。城史に関しての詳細は不明

城跡へはルート図あるいは概念図の如く「福田」交差点で針路変更後、集落西最奥にある住宅までは直進、その横をかすめて進めば自ずと登城道でもある墓参道に合流する事が出来る。住宅地背後からはそのまま道に任せて上り、集合墓地に到達後は尾根上を北進すれば、主郭までは10分程度で難なく辿り着く事が出来る。(車は交差点直ぐ西側の小川の流れる側道付近に空きスペースあり)

現状(六月)城跡はこの時期にも関わらず雑木密生状態までには至っておらず、それなりに動き回れる事を考えれば比較的ましな状態と言えるかも知れない。ただ低い下草は登城道から墓地を過ぎれば、南郭群から主郭にかけては地表も見えないほど蔓延っているので、細部における地表の変化から遺構を判別するのは非常に困難な状況にはある。それでも埋もれて判別し難い二連に見える堀切跡(縦堀は明確に判別可能)は判別可能でもあり、主郭の南壁を巡る土塁と共に城跡唯一の見所となっている。主郭より北側には細い土塁道が櫓台とも言える北出郭の大土塁(推察)に向いて繋がっている様だが、視認による外見からの確認だけで、密生する雑木藪の為に出郭内部まで踏み入る事は非常に困難でもあり、踏破して広さ(土塁上から見れば相当広く見えた)などを体感する事は叶わなかった。

1route 登城ルート

5 進入口

3fu 城跡概念図

17_horikiri_tatehori_3 南側堀切跡

17_horikiri_tatehori 縦堀

19_shukaku_minamigawa_dorui 主郭の土塁見所

22_fukukaku_1 副郭内

28_kita_kaku 北郭

29_kita_shukaku_heki 主郭北切岸

城跡の規模は小さいが明確に判別出来る土塁、直立に近く削られた主郭の切岸、縄張り変化には富んでいないが、住宅地が城跡直ぐ傍まで迫りながらもこれだけの遺構残存度、以上の点を踏まえれば見学する分には充分なものでもあり、10分足らずで主郭まで到達出来るお手軽さを加味すれば、自ずとお薦め出来る城跡と言う事になろうか、、、400年前後に渡って厳しい風雪を凌いで来た、主郭南半分を巡る土塁は一見の価値のあるものとみた!

2009年6月26日 (金)

森津城跡(兵庫県豊岡市)

この城跡は先日のブログで現地訪問後に詳細をお伝えした様に、先にリポート掲載に及んだ森津城は規模が小さく本来の城跡(本城)は、谷を挟んだ直ぐ東尾根の山上に位置している事が判明した。掲載する上においては前回訪問した規模の小さい城跡を森津西城として、今回訪れた此方が本来の森津城としてリポート掲載に及ぶ運びとなった。どちらにしても二城一体とした形態が森津城でもあり、これから訪問する方には是非二城を同日訪問として訪れるのが効率も良く見て回れそうに思われる。西城より更に西側に隣接する呼称不明の城跡(海老手城と誤認した)も森津三城(城塞群)として考えれば、自ずと規模が大きい事からも屋敷跡あるいは居館であったとも考えられるが、個人的推察の域は出ないものである。城史に関しての情報は現状一切不明である。

城跡は豊岡市森津にあって前回リポート掲載に及んだ西城を起点にすれば、そこから東に見える先端尾根上が城跡でもあり、直ぐに確認することは出来る。当然登山道などは無いので、概念図に示す某建設会社の手前側にある住宅地横の畑地に向う山道(写真に示した)から背後に回り、そのまま直登する形で斜面を上る事になるが、直登口付近で多少の藪漕ぎが必要とされるだけで、15分もあれば山上南堀切までは容易に辿り着く事が出来る筈である。

1route_2 登城ルート

6 城跡遠望

7_tozanguti 進入口

3_1 城跡概念図

現状(六月)城跡は当然の如く藪化進行中にあるが、高低差の少ないほぼ二郭で形成される山城である為に縄張もシンプルであり、この時期でも難渋する事も無く移動出来るので、現存する遺構はほぼ判別確認出来る状態にはある。郭内の全体像などは生い茂る雑木の為に外見から判断する事は出来ないが、郭に設けられた土塁などは確認可能でもある。城跡最大の見所は山上郭の南北尾根を断つ大堀切(薬研堀)で、直立に近く切り立つ堀切壁は状態も良く、高低差もある事から存在感あるいは見応えも抜群なものがあり、他に遺構として目を引くものがある訳でもない事を思えば、この二本の堀切見学がこの山城の全てと言っても過言ではない様にも感じられた。全長100m前後、幅の狭い痩せ尾根上を削平して目一杯築かれたこの山城は、西城よりは当然規模では勝るが、砦規模でもあり個人的には城跡としての醍醐味を感じるまでには至れなかった、しかしこの状態の良い二本の堀切だけは、一度覗いて見ても決して期待を裏切られる事は無いような気はするのである。先にリポート掲載に及んだ海老手城あるいは森津西城との同日訪問においては、充分満足感の味わえる有意義な山城巡りになるのではないだろうか。 

15_fukukaku_heki_1 南副郭堀切壁

17_minami_horikiri_1 18_horikiri 南大堀切見所

21_fuku_dorui_2 副郭土塁

21_fuku_yori_shukaku 副郭より主郭

25_shukaku_kita_dorui 主郭北側土塁見所

28_kita_horikiri_5 北大堀切見所

尚、既にリポート掲載を終えた森津西城は今回訪れた森津城とも重なり紛らわしい事からも、一旦記事は削除して森津城の出城(西城)として今回こちら側に同時掲載しました。一応概念図は掲載しておきましたので参考までに、、。

Nisi 森津西城概念図と前回記事

3_1_2 海老手城と誤認した城跡概念図

2009年6月24日 (水)

海老手城跡(兵庫県豊岡市)

6/21のブログで詳細をお伝えした様に、最初にリポート掲載した海老手城跡は本来の城跡ではない(誤認)事が判明しました、今回は確かな現地情報を元に前回のリベンジをするべく実際の海老手城跡を訪問しました。結果的には予想を上回る規模、状態としては相当藪化進行中にはあるが、手付かずの為にほぼ完存とも言える遺構群の残存度の高さには素晴らしいものがあり山城としての醍醐味あるいは見応えもかなりレベルの高いものと目に映ったので、是非お薦め出来る山城として現況をリポートさせて頂きました。

1route 登城ルート

8 城跡進入口

(本文) 城跡は豊岡市滝にあって、鶴城の支城として栗坂氏の居城が伝わるが、丹後に居城を持つ垣屋氏によって攻略されている模様である。前回誤認した城跡からは水田地帯及び国道178号を隔てて、ほぼ南対岸側の低山山上に位置している。城跡へは豊岡市内より国道178号で福田西の信号を越えれば「豊岡市清掃センター」を目印として向えばよいが、途中で崖が崩れており一般車両は通行不可となっているので、車はその手前に路駐、後は歩いてルート図の如く清掃センターを目指せばよい。ゲートまで到達すれば概念図あるいは写真に示すルートで直登口まで向かい、そこから斜面に向いて取り付けば10分程度で主郭までは辿り着く事が出来る。ただし個人的には平日に訪れた事もあって、ゲートが開いていたので難なく直登口までは行けたが、祝日あるいは土、日にゲート(車両用)が開いている確証は無いので、事前に確認した方が良いかもしれない、ただ人は脇からでも通り抜け出来た様には思えたがこれも確証はない。この城跡へ上るには北側からは橋が全く無いので、ここ以外から直登口まで辿り着くことはほぼ無理な様にも思われる。

現状(六月)城跡は前述の様に相当藪化進行中にあるが、この時期においても縄張り内の移動、あるいは遺構見学がし難い状態までには至っておらず、縄張りも掴み易く残存度の高い遺構群はほぼ判別確認が出来る状況にはある。自作概念図に示したまでが自身で見て回れた範囲であり、確認に及んだ遺構であるが、郭周囲の急斜面は密生する雑木藪地でもあり、外見からの縦堀の判別は非常に困難(但馬地方の山城には畝状縦堀が多く見受けられるが、、)、よって当然備わっていると思われる縦堀の確認までには至れなかった。城跡最大の見所は西尾根を断つ大堀切(薬研堀)が真っ先に挙げられるが、この遺構は主郭からの高低差が20m近くもあり、相当な醍醐味と見応えを感じる事が出来る、他では便宜上の三の丸及び二の丸の土塁、東斜面に連なる段郭群、堀切、郭壁における石垣痕などは挙げられるが、北側は崖状急斜面あるいは天然の水堀(大浜川)とし、山容(地形)も縄張りとして取り込んで築かれた様は、正しく戦国期における山城の様相ではある。現状植林地でもなく、人の手の入らない山城として考えれば、400年余りの自然風化の割には非常に良い状態にあるとも言え、これだけでも貴重な城跡とも言えよう。これだけの遺構が残存しているのであれば、個人所有とも見受けられる城山に対しては少し失礼かも知れないが、是非市に訴えかけて指定史跡として後世まで遺して頂きたいと願うばかりである。

3eb 城跡概念図

12_3maru_dorui 三の丸土塁見所

13_3maru_nai_1 三の丸の現状

19_2maru_dorui_heki 二の丸土塁壁

22_shukaku_naka_dan 主郭内

27_dai_horikiri_4 西大堀切見所

37_horikiri_2 東郭堀切見所

40_isigaki_ato 東郭壁石垣痕

尚、最初の訪問により海老手城と誤認した方の城跡(明確な堀切、郭跡と土塁が残存)は、城史に関しての情報も現状皆無である事からも未だ呼称が判明していないが、仲良く三城が並ぶ様相はとても向城(付け城)とは考えられず、規模も比較的大きいものでもあり、森津三城(城塞群)の中の一つとすれば充分納得の行く城跡なのかもしれない。

2009年6月21日 (日)

TAKUよりお知らせ

先月「城跡呼称に関して訂正」の必要があると掲載しました、兵庫県豊岡市にある海老手城並びに森津城が、今回の現地訪問によって本来の城跡の場所の確定、及びその実態まで明らかになりましたのでお知らせしたいと思います。

まず海老手城跡の方は前回現地情報より推察お知らせした通りに、最初に海老手城と紹介した城跡より南側の国道及び川を隔てた対岸の低山に位置している事が判明しました。とすれば最初にリポート掲載に及んだ城跡の呼称は、、?と言う事になりますが、この地域には城跡(砦)が密集しているといった現地情報からも、未だ呼称の特定までには至っておりません。もちろん付近住民の方数人に訪ねても存在すら知られていない状況でもあり、当然出版物あるいは資料にも登場していない無名の城跡とも見受けられ、これから先も城跡としての呼称の特定は期待出来そうにないのが現実でもあります。ただ深く但馬史あるいは郷土史に関わっておられる方であれば、明確に判別可能な土塁あるいは堀切が残存している事からも、案外知っておられる可能性はあるとは思えますが、、。

取り合えずこの城跡に関してのリポートは、現在編集中の本来の海老手城とも紛らわしくなって来るので一旦削除したいと思いますが、城跡概念図の方はこれから山城巡りの一環として訪れる方もおられるかも知れず、森津城に隣接している事からも登城ルートと共に、引き続き呼称判明までは森津城と同時掲載をし続けるつもりでおります。もちろん呼称が判明次第報告はしたいと思っておりますが、お薦め出来るほどの見応えのある遺構が残っている訳でもなく、余り深く追求する必要は無いのかも分かりません、、、

一方森津城跡の方は最初にリポート掲載をした城跡の谷を隔てた直ぐ東側の山上に本来の森津城(今回のケースでは便宜上本来の、、と呼ばせて頂きました)があることが判明しました。此方の城跡は一部の城跡に詳しい方の話によれば「どちらも森津城であり別に城跡を分けて考える必要もなく、二城一体とした形態であるなら規模の小さい方が出城かも知れない」と言った見解でもあり、取り合えず既に紹介した規模の小さい森津城は掲載する分には紛らわしいので、差別化する意味合いで森津西城と訂正し直して、新しくリポート掲載に及ぶ森津城跡の中にそのまま掲載する形にしたいと思います。どちらの城跡も現況リポートに関しては現在編集中でもあり、近日中に掲載に及びたいと思っております。

尚、開設以来ほぼ毎日更新を続けて来ましたブログですが、流石にここに来てプライベートも含んだ諸事情により、毎日の更新が困難となりました。訪問はしたものの掲載が追いつかず未掲載のままになっている近畿圏外の山城もまだ数多く残しており、これから毎日の更新が困難ともなれば、当然リポートとしての鮮度も落ちる事にも繋がるので、これから先も日の目を見ることも無く終わってしまいそうかと思うと少し残念な気はします、しかし拠点に近い京都府、大阪府、兵庫県の中に限っては、訪れた山城はほぼリポート掲載に及ぶ事が出来ましたので非常に満足はしております。

これからのブログ掲載は不定期になるものと予想されますが、数十年来続けて来たライフワークとしての山城巡りの回数が極端に減る訳ではありませんので、時間の許す限り編集しながら情報鮮度が落ちない程度に城跡リポートは発信して行くつもりでおります。ブログ更新回数は減るとは思われますが、これまで同様山城訪問におけるアシストとして「山城賛歌」を活用して頂ければ、自分にとってもこれ以上の喜びは無いものと思えます。

2009年6月20日 (土)

広瀬城跡(京都府南丹市)

この城跡は南丹市八木町北広瀬にあって、国道9号より八木町に入れば八木交差点より477号へ針路変更、その後は桂川を渡れば直ぐ川沿いに左折し、目印となる「阿弥陀寺」あるいは隣接する「岡神社」を目指せばよい、直登取り付き地点は概念図の如く神社すぐ背後にある墓参道からで、道が途切れてもそのまま山上を目指して上れば、山上主郭までは10分内で藪漕ぎもなく辿り着く事が出来る。

この山城を訪問するきっかけとなったのは、昨年の刑部城跡訪問の際に西に聳えるなだらかな山容を持つ低山が、刑部城跡と同様に城山の風情を充分過ぎるぐらいに醸し出していた事からも、何時か機会があれば踏破探索してみようと思っていた事によるもので、今回はたまたま付近を通過した事も重なり、事前から描いていた南北二通りの直登想定ルートの中、南側に位置する岡神社側より直登を敢行した。(ちなみに北側先端に下山したが、この逆ルートでも分かり易く上れる)

結果的には昨年推察した通りに、山上には古い形態を持つ明らかに山城跡と呼べる遺構群北側に繋がる尾根上には数100mにも及ぶ郭群(削平地)、何れも地表風化によって埋もれて判別し難い状態にはあるが、堀切あるいは土塁などを伴って北尾根先端にまで縄張りは展開されていた。山上に向うまでには僅かな期待はあったが、これほどまでとは思っていなかったせいもあり、久し振りに味わう嬉しい大誤算にテンションの上がる訪城と相成った。しかし、これだけの城跡遺構がありながら手元に所有する資料の中からは城跡呼称を見出す事が出来ず、今回は是非山城ファンの方達に存在を知って頂く為に仮名としてリポート掲載に及ぶ運びとなった。当然既に訪問されて遺構の確認あるいは城跡呼称の確認まで行なわれた方も居られるかも分からないが、間違いなく城跡と断定出来る遺構群と見受けられたので、今回はまだ未訪の方の為に迷わず現況(六月)リポートさせて頂いた。

1route 登城ルート

8 進入口

3h 城跡概念図

現状、山上郭群においては長年の地表風化によるものか、最初から安普請で築かれたものかは判断出来かねるが相当地形は曖昧でもあり、部分的に切岸などは窺えるが高低差を伴う切岸は皆無、周囲はなだらかな斜面とあって当然縦堀なども設けられておらず、明確に判別出来る遺構も限られてくる状況にはある。それでも山上における僅かな土塁跡、あるいは他に類を見ない形態とも見受けられる土塁壇での本郭構成など、非常に見学者にとっては想像を掻き立てられて、推察も含めて楽しく見て回れる城跡と目には映った。連続する起伏の少ない北尾根上には、相当埋もれてはいるが堀切(空堀)跡や土塁壇なども目に留まり、連続する削平地を通過して先端部には城中最大とも見受けられる北出郭があり、相当距離を歩く事にはなるが充分目は楽しませてくれる様には感じられた。

個人的には今回(過去)の様に城跡として資料にあらずとも、外見から城山と感じれば直ぐに踏破探索してみたくなる性分でもあり、城跡呼称に関しては暫定あるいは仮名として既に掲載を終えた、京都府内に限れば桐村城、千手寺城、川北城などは今もって呼称確定にまでは漕ぎ着けていない現状なのだが、この山城も自ずとその中の一つに加えられそうな気もしてくる、、、。自身で歩き回った末、作成した概念図(当然正確ではない)に少しでも興味を持たれた方のみが対象となる山城かも知れないが、現状藪漕ぎ見学までには至っておらず、付近を通過したついでに寄る程度ならば見応えは少ないかも知れないが、縄張りを縦走して体感した見返りは決して少なくはないと感じられるのである。

13_minami_doruikaku_1 山上南土塁壇見所

15_doruidan 北土塁壇

16_dorui_ato 僅かな土塁跡

21_doruidan_kuboti 本郭群窪地

38_horikiri_dobasi 北郭群へ堀切土橋見所

41kitakaku_gun_horikiri_ato 僅かに残る堀切跡

44_kitademaru 北出丸

2009年6月19日 (金)

吉末城跡(広島県東広島市)

城跡は広島県東広島市豊栄町安宿にあって、椋梨川に沿う形で走る国道486号からは「吉末城跡」と掲げられた大きな看板が目に留まるので、場所及び位置は直ぐ確認する事は出来る。個人的にも国道を移動中に偶然この大きな看板が目に入り思わず立ち寄ったものでもあり、僅かな期待を胸に秘めての訪問となった。当然城跡に関しての詳細は不明ではあるが、城跡の規模あるいは地理的環境から推察しても、村の城あるいは物見の域は出ず、当時この一帯は毛利氏あるいは小早川氏の支配する所でもあり、自ずとその傘下の武将あるいは家臣の城であった可能性は高いと見受けられる。

城跡へは前述の様に国道486号を走ってさえいれば、川沿いの低山麓に掲げられた大きな看板は直ぐ目に留まる筈であり、ルート図の如く椋梨川を渡ればどこから取り付いても山上主郭までは5分内で到達出来る。個人的には写真に示す川沿いから看板の見える山道より山上を目指したが、途中からは雑木藪地となったのでそのまま藪漕ぎで山上まで上る羽目になった。主郭に佇んでも麓まで通じる山道は見当たらなかったのだが、下山時に下り立った付近にある東側の畑地を通過して上った方が、未訪の方には分かり易く無難かも知れない、、、。

現状(四月)城跡は植林地なのであるが、下草や草木が相当蔓延っているので非常に歩き辛く見学し難い状態にあり、場所によっては密生する草木あるいは伐採された木々の放置によって地表も見えず踏み入る事も出来ないので、郭形状あるいは郭内の地形は当然掴めない状況でもある。規模の小さな城跡なので推察でも充分事足りるかもしれないが、削平地、土塁跡、切岸などは部分的にしっかりと残っており、大きな看板が目ざとく設置されている史跡として考えれば、この状態では随分勿体無い気もする。当然自分の様に看板を見て訪れる見学者も多数いる様には思われるが、現状を見る限り少し落胆は隠せないのが現実でもある。次の予定地までの移動中でもあり、急いで見て回った為に正確な城跡概念図は描けなかったが、図中に示したまでが目に留まった遺構であり今回歩き回れた範囲でもある。訪れた時期がまずかったと言えなくも無いが、個人所有の城山と察せられる事からも、これ以上多くは望めないような気もするのである。今回の様に国道移動中に少し立ち寄る程度の訪問なら、納得した訪城になるとは思えるが、、、。

1 登城ルート

3tozanguti_2 城跡遠望

3x 城跡概念図

15_fumoto_3 城跡東側

10_shukaku_nai 主郭内の現状

8_shukaku_heki 主郭切岸

7_minami_gedan_1 主郭南下段郭

10_obi 東帯郭

15_fumoto 現状休耕地 郭跡か?

2009年6月18日 (木)

石山城跡(福井県大飯郡)

城跡は福井県大飯郡おおい町石山にあって、当時は若狭武田氏(後瀬山城主)の重臣でもあった武藤氏の居城と伝わっているが詳細は不明。

城跡へは舞鶴若狭自動車道「大飯高浜」ICが最寄の乗降口であるが、綾部市内からは県道1号を利用すれば道路も相当空いており、遠回りでもある自動車道とは時間に大差なく到達出来るものとは思える。現地に於いては当然登山道は無いものと思われるが、舞鶴若狭自動車道と県道1号の川を隔てた側道の交わる付近が今回の直登取り付き地点とした場所であり、ルート図あるいは概念図の如く、集合墓地横から背後に回り竹林地からそのまま山上を目指せば、急斜面ではあるが僅かな踏み跡も窺えるので、15分もあれば迷わず便宜上の三の丸までは辿り着く事が出来る。

今回は現地に向う途中から小雨が降り出した事もあり当然の如く斜面は滑りやすく、非常に悪条件下での厳しい登山になったが、山上主郭までの距離は長くはないので、何とか山上までは無事に辿り着く事が出来た。結果的には現状の安全面を考えて堀切があると推察出来た南急斜面、あるいは地形上からも縄張りと察せられる南西尾根までは踏破は出来なかったが、山上郭群における比較的状態の良い明確な遺構の数々を眼にする事は出来た。現状(六月)城跡は藪化進行中にはあるが充分遺構は判別確認出来る状態にあり、案外小雨の中でも快適に見て回れた事を考えれば、意外に四季を問わず訪問可能なのではないかとも見て取れた。山上郭群としての形態は規模の小さい主郭を最高所として、北東側尾根に沿って郭を段郭的に展開したもので、規模もさほど大きいものでは無く、郭高低差も余り無い事からも見応えには少し欠けるように思われたが、急峻な地形、遺構残存度の高さ、部分的に備わる縦土塁自然岩を利用した郭壁、主郭に備わる土塁など山城の醍醐味は充分感じられるものでもあり、縄張り妙味さえ問わなければ充分お薦め出来る山城の様には感じられた。

1a 登城ルート

7_tyokuto_kuti 進入口

3i 城跡概念図

15_3maru_1 三の丸

18_higasi_kaku_gun 北東段郭群

22_higasi_hasi_kaku 北東先端郭

30_2maru_2 二の丸

31_shukaku_ooiwa_heki_2 主郭大岩壁見所

34_shukaku_dorui 主郭内

33_dorui 主郭土塁見所

今回の訪問は悪条件下でもあり、事前に計画していた縄張りと推察出来る範囲の全てを踏破したわけではないので、当然遺構も縄張りも概念図に示した限りが全てではないと思われるが、これから訪問される方には、是非自分が踏破出来なかった箇所も踏破して頂いて、この山城の持つ本来の縄張りを極めて頂きたいと思うのが本音でもある。もちろん山上郭群以外の遺構(個人的には公的に作成された縄張り図は出来るだけ所有せず、尚且つ見ない様にしているので、実際の縄張り図が存在していたとしても分からないのが現状)に関しては推察の域は出ないのではあるが、、、。

2009年6月17日 (水)

大谷向山城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市関宮町大谷にあって、大谷集落より国道及び八木川を隔てた南対岸の低山山上に位置している。養父市内の八鹿地区から関宮地区あるいは大屋地区にかけては数多くの山城(砦跡)が点在しており、当然その中の一つに含まれるであろうこの山城も、ほぼ無名に近い事からも城史に関しての詳細は全く不明であるが、山上には小規模ではあるが比較的良い状態のままの城跡遺構が残存しており、是非とは言わないが関宮地区の山城巡りの際には、リスペクトして頂きたい城跡としてリポート掲載に及んだ。

城跡へは先にリポート掲載に及んだ尾崎天王山城と同様に国道9号(山陰道)より向えばよい、国道を大谷集落まで走ればルート図の如く南側へ左折、渓流展望所でもあり駐車場となる休憩所は橋を渡って直ぐ左手にある。ここを拠点として登山開始となるが、後はほぼ概念図通りに西側山道にある獣避けフェンスを開閉して、数10m歩いた後に沢を渡り斜面に取り付けばよい、直登斜面は植林地でもあり藪漕ぎの必要は無いので意外に急斜面も苦にはならない、なるべく左手側へ少し斜行しながら直登すれば15分もあれば縦堀の備わる北郭群に辿り着く事が出来る。(主郭までは約20分) 参考までに下山ルートも示したが、フェンス開閉口が何箇所もある訳ではないので急斜面を下りる際には必ず概念図付近に下り立つ事が大事となる。尚、逆にこの場所から取り付いても尾根に沿って上れば山上主郭までは到達出来る。

1route 登城ルート

5_inrijinjya_yori 城跡遠望

3oo1 城跡概念図

14_gedan2_tatehori 北郭群縦堀見所

16_kita_gadan1_1 北郭下段

21_horikiri_1 堀切見所

23_horikiri_ato 埋もれた堀切跡

28_minami_horikiri 南堀切

25_shukaku_1 主郭内

現状(6月)城跡はこの時期にあっても藪化はしておらず、見学し易く比較的見て回りやすい状態にあり、縄張りを把握する事も遺構の判別確認をする事も容易に出来る状況でもある。城跡の見所は堀切(縦堀)群であり、風化によって埋もれた箇所も含めて合計5本の堀切を眼にすることが出来た。形態としては主郭を最高所として北側尾根上に郭がほぼ直線的に展開されるだけで、縄張り変化には富んでおらず小規模な事からも見応えがあるとは言い難いが、この状態の良さ、あるいは遺構残存度の高さを加味すれば、充分満足の行くレベルにある山城の様には感じられた。個人的にはこの城跡から西へ数分の距離にある尾崎天王山城とは同日訪問となったが、山城としての醍醐味は断然此方が勝っている様に思われた。

尚、この地区にはルート図1route_2 に示した様に、休憩所から東へ向いて直ぐの距離にタイコ山古墳の墳丘を利用して築かれた和土城があるが、興味のある方は寄っても無駄足にはならないとは思える。ただ発掘作業の結果をリサーチしていないので分からないが、遺構と呼べるものは堀切道(現状集合墓地への参拝道)だけの様にも見受けられた、現状を見る限りでは砦跡としての風情を感じる程度の城跡と思って頂ければ良いのかも、、。

2009年6月16日 (火)

尾崎天王山城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市関宮町尾崎にあって、尾崎集落より真東側の国道9号線に向いて突き出した尾根先端部に位置している。ほぼ無名に近い山城ではあるが石垣が残存しているとの情報だけを頼りに、地形図でおよその目星だけ付けて訪問する運びとなった。藪漕ぎしながら上った結果、ほぼ単郭構造ではあるが国道側の郭壁に石塁を伴った山城に巡りあう事が出来た。当然城史に関しての詳細は不明

城跡へはどの様な道を経由しても、養父市内より国道9号さえ走っておれば容易く尾崎地区には辿り着ける、現地近くまで来れば国道沿いにある「中村自動車整備」を目印としてルート図あるいは概念図の如く進行し、城跡進入口でもある尾崎浄水場施設を目指せばよい。施設付近には駐車スペースは充分あるので、そこから尾根先端に向えば難なく主郭までは辿り着く事は出来る。個人的にはこのルートは下山時に利用したが、国道沿いからの最短距離を選んで直登したお陰で、凄まじいばかりの藪漕ぎを強いられる結果となってしまった。まだ未訪の方には下山時に利用した前者のルートを迷わず選択して赴かれる事をお薦めしたい(それでも時期的に多少の藪漕ぎは仕方が無いが、、)。

現状(6月)城跡は自然任せの風化真っ只中にあり、人の手は入らず荒れ放題と化しており、一部は地表も見えないほどの下草や矢竹、笹に覆われているが、シンプルな構造ともあって縄張りはある程度掴みやすい状態にはある。当時のものと見受けられる石塁は高さは無い(1m程度)が、国道側の外壁をほぼ巡っている形で残存しており、藪漕ぎしながら登って来た甲斐はあったと一人納得をするのである。石垣跡は大小の瓦礫を適当に積み上げたかの様でもあり、お世辞にも素晴らしい見応えのある石積みとは言えないが、往時(突貫工事で築かれたか?)を物語る遺構としては素晴らしいものと目には映った。他では相当埋もれてはいるが空堀跡、あるいは石垣は崩落しているが虎口構造に見えた地形などは当時の残存遺構としてよいのかも知れない。自作概念図に示したまでが現状歩き回れた範囲であり、自分の目に留まった遺構であるが、南東側斜面までは覆い尽くされる矢竹に阻まれてとても探索する気にはなれなかった。当然残存遺構もこの限りではないものとは思われるのだが、この区域は外見からの視認は非常に困難でもあり、推察すら出来ないのが現実なのである。

1route 登城ルート

7 進入口

3te 城跡概念図

12_sekirui 12_sekirui_4 12_sekirui_5 石塁見所

14_karahori_dorui_1 空堀跡見所

16_higasi_isigaki 虎口付近の石垣跡

13_shukaku_1 主郭内

20_koguti_dorui_1 北虎口土塁

この城跡は残存石垣を見たいだけの為に訪れるのであれば、充分納得の行く訪城となる様には思われるが、他の遺構あるいは縄張り妙味などを期待すれば自ずと落胆する事にもなりかねない気がする(大味過ぎる!)。個人的には数100年の歴史を刻んだ石垣がそこにあるだけで充分満足感は得られたが、現状を踏まえれば石垣跡に興味のある方だけに是非お薦め出来る物件と言わざるを得ない。

2009年6月15日 (月)

坂津城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町坂津にあって国道482号を走れば、「日本モンゴル民族博物館」より加悦に抜ける一般道701号へ進路変更、後はルート図の如く目印とした民宿「八平」の看板より右折南進すればよい。車道行き止まりは神社敷地となっており、社殿敷地の背後から直登すれば山上主郭までは5分もあれば辿り着ける。城史に関しての詳細は不明

この山城も他の但東地区の山城(後城、河本城、大河内城など)と同様に非常に規模は小さく、村の城あるいは物見(狼煙台)程度のほぼ単郭で形成された城跡と見てよいものである。その中にあって明確に判別可能な堀切とそれに付随する土塁は唯一の見所でもあり、城山全体が藪化進行中にありながらも比較的良い状態にはある。ただ狼煙台程度の規模でもある主郭は相当雑木に覆われ、更に風化中にある為に数段の狭小郭までの判別は難しい状況にある。尾根沿いに少し上れば痩せ尾根を削平したと見受けられる郭跡も窺う事が出来るが推察の域は出ず、自然地形の可能性も充分考えられるものである。どちらにしても他に枝尾根も見当たらないので、縄張りもほぼ尾根上のみに限定されるものと思われる。

この城跡も先にリポート掲載を終えた河本城と同様に、「但東町の山城を訪ねる」と言った見学コンセプトでも掲げれば、充分見学に値する城跡だと思われるのだが、遺構あるいは縄張り妙味などの見応えを求められれば、返答に困ってしまうのが現実でもある。個人的には但東町に現存する山城の全てとは言わないものの、踏破探索してみたい欲望から訪問する気になったのだが、やはり城跡の佇まいであり縄張りプランなどは現地をこつこつと歩き回らなくては感じられない部分でもあり、特にこのような形態(村の城、逃げ込み城)の山城は築城による立地環境から始まって、見学者を想像に掻き立ててくれる部分も多く、ある意味余計ロマンに浸れるとも言えそうである。ただこの様に小規模な山城は、集落の防備として周りの地形そのものを取り込み築かれたケースも他で見受けられる事から、集落の入り口付近には小さな砦跡が点在していた可能性は充分あるものと察せられる。

1_1 登城ルート

5 城跡進入路

3sa 城跡概念図

8_minami_yorishukaku 南小郭より主郭

11_horikiri_211_horikiri 堀切土塁見所

13_sanjyou 尾根上削平地

個人的に城跡を評価すれば、但東地区一帯に点在する山城巡りの一環と考えれば、充分楽しめる山城の様な気はするのである。

2009年6月14日 (日)

仏清城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町畑山にあって亀ヶ城を居城とした太田氏一族の一人でもある羽尻左馬助の居城と伝わっており、亀ヶ城の東を抑える東出城(支城)と呼べるものでもある。

城跡へは西に位置する岩吹城あるいは亀ヶ城を起点すれば分かり易く、そこから更に東進し国道482号沿いにある「下畑山」バス停を目印として向かう。バス停手前の橋を左折して渡れば直ぐ右手にプレハブ作業小屋が数棟見えてくるが、その間から今回直登山口とする稲荷神社に向けては参拝登山道が通じているので、迷わず社殿までは到達出来る。社殿手前からはどこからでも取り付きやすい場所を探して、東に向いて緩い斜面を直登すれば山上郭群には難なく辿り着く事が出来る。(橋付近からの所要時間は20分程度)

現状(五月)城跡は全域にかけて植林地となっている為に見通しも良く、ある程度全体像が視認出来るので縄張りなどは把握し易いが、地表はほぼ低い熊笹で覆われている為に、細部における地形の変化(土塁)までは視認し辛い状態にある。ただ城跡最大の見所でもある凄い高低差を誇る大堀切は非常に状態が良いもので、幅もあり相当な見応え感じる事が出来る。城跡の形態としては東西200~300mに渡る山上に、ほぼ三郭で形成されたものであるが、主郭の規模の大きさからしても支城として充分相応しいものと言えそうである。縄張り変化には富んでおらず、見る分には非常に大味な気がしないでもないが、他の但東地区にある小規模な山城からすれば随分醍醐味は感じられた。

1route 登城ルート

3a 亀ヶ城パンフより抜粋記事

3bu 城跡概念図

12 直登口

17_2maru 二の丸

19_karabori_kaku 空堀状の小郭

22_shukaku 主郭内

25_shukaku_kita_1 主郭北側

27_horikiri 29_horikiri_heki_1 大堀切見所

概念図に示した部分が遺構として現状確認出来たものであり、一面を覆う熊笹の為に土塁あるいは埋もれた空堀などの様に、細部における地形変化から遺構の判別確認は非常に難しいのが現実でもある。尚、南北斜面上も笹に覆われている事から踏破はしておらず、残存遺構(空堀など)はこの限りではないのかもしれないが、、、。個人的には本城あるいは岩吹城とセットで同日訪問とすれば、充分充実した山城巡りが出来るのではないかとは思えた。

2009年6月13日 (土)

岩吹城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町木村にあって、既にリポート掲載済でもある「亀ヶ城」の支城でもあり、太田氏一族の居城と伝わっているが、今回は本城から見れば西の抑えとしたこの山城へは年を改めての訪問となった。あの素晴らしい本城から察すれば相当遺構にも縄張り妙味にも期待が持てそうには思われたが、結論から先に述べれば、本城が凄過ぎる為に当然全てに於いて見劣りはするものの、残存遺構としての堀切、連続縦堀、櫓台大土塁、鋭角に削られた郭切岸と縄張り妙味もさることながら、歩き回っても次から次へと目を楽しませてくれる山城であり、藪化は進行中にあるがこの時期(五月)でも存分に歩き回れることが出来る状態でもあり、是非お薦め出来る城跡としてリポート掲載に及んだ。

城跡へは本城でもある亀ヶ城訪問コース(但東町へ京阪神から向うルート)国道426号を経由して「出合」交差点は右折、そのまま国道482号を走れば木村集落手前の道路沿いに目印となる「メモリアルホールおのえ」の看板を確認、後は図に示した様に看板先の墓参道より墓地を経由したルートで、多少踏み跡の残る急斜面を巨大岩壁を右手に見ながら斜行して登れば、10分程度で南側斜面に備わる堀切までは到達可能である。

1route1_2 登城ルート

6 城跡進入口

3i 城跡概念図

現状、城跡はこの時期にしてみれば非常に見学し易い状態にあり、概念図に示した遺構群はほぼ判別確認出来る状態でもある。ただ連続縦堀(畝状に見える)にも見えそうな空堀(三条)は緩い斜面上に設けられている事からも相当埋もれており、じっくり全体像を眺めなければ中々判別は難しそうには思える(当然見学者の判断に委ねられる)。見所としては先に述べた堀切(空堀を含めた)群、西郭の防備として設けられた大土塁、南郭の櫓台大土塁は真っ先に挙げられるが、主郭北斜面を数10mほど下りた辺りに展開される、土塁虎口あるいは切岸処理を伴う広大な郭跡(便宜上北出郭とした)も見逃してはならない遺構群と思えた。この郭跡には古来より神社が建立されていたと聞いたが、見る限り雑木に覆われた地表は荒れ放題でもあり、その面影は全く感じる事が出来ず、恐らく当時の広大な郭跡を後世に神社敷地として転用したものとして解釈しても良いのかもしれない。

12_horikiri 南堀切見所

15_minami_kaku_1 南郭、奥大土塁見所

23_shukaku_1 主郭内

26_nisikaku_daidorui 西郭の大土塁見所

30_demaru_horikiri 西堀切見所

31_daikarabori 西出郭の大空堀見所

32_une_1 連続縦堀見所

35_kitakaku_dorui_koguti 北出郭土塁虎口見所

今回は、山城としての魅力の全てを備えた亀ヶ城が今でも脳裏に焼き付いている事からも、支城としての機能を持つこの山城には出来るだけ先入観を持たずに訪問したが、予想を上回る縄張り妙味、期待した以上の遺構の醍醐味にも触れる事が出来、個人的には充分過ぎるほどの満足感を得る事が出来た。

2009年6月12日 (金)

大河内城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町大河内にあって、山名氏の傘下にあった桑垣氏の居城と伝わるが詳細は不明。この但東町一帯は古くは但馬守護職の地位にあった亀ヶ城城主太田氏の支配の下に置かれていたが、太田氏の没落それによる山名氏の台頭と共にほぼ全ての小領主は山名氏の配下に組み入れられたものと見受けられる。この辺境の山深い奥地にある小規模な「村の城」程度の山城跡も、秀吉による但馬攻略までの激動の戦国期を乗り越えながら、尚且つ、数100年の時を刻み現在に至ったのだと思われるが、他の但東地区に多く現存する山城と同様に非常に規模は小さく、村の城の域は出ず有事の際の詰城あるいは逃げ込み城としての機能しか想像は付かないものでもある。個人的には既に但東地区の山城として沢田城から始まって七城程度を訪問した事になるが、規模の大きさ(城域の広さ)で亀ヶ城と中山城を双璧とすれば、他の山城は相当見劣りがするのが現状でもある。

城跡へは京阪神から向う場合、国道9号経由で426号を北上、既にリポート掲載済でもある一ノ宮竹石城をかすめながら更に北進する、長い「登尾トンネル」を抜ければ城跡は直ぐ傍の位置にあり、逆進する形で右折、後はルート図の如く旧国道を谷川沿いに進行すれば、終点でもある通行止めとなっている柵までは到達出来る。そこからは図に示した墓参用の山道があるので、それに従えば自ずと墓地を経由して山上主郭までは10分内で辿り着く事が出来る。

1route1 登城ルート

3oo 城跡概念図

9 登城口付近の削平地

11_hasi 北西端の郭跡

13 郭跡転用か?墓地

20_shukaku_dorui 主郭

16_shuakau_dorui_1 主郭土塁見所

23_kirikisi_1 美しい切岸見所

22_koguti_1 枡形地形の虎口見所

現状(五月)城跡は植林地となっている為に、下草も少なく見通しも利き非常に見学し易い状態にある。概念図に示したまでが判別確認可能な遺構と見受けられるもので、深い堀切あるいは縦堀などは備わっておらず、山城ファンに於いては相当味気なく映るかもしれない、しかしこの状態の良さ、城跡北壁側を谷川に向って絶壁とした佇まい主郭の土塁、枡形虎口の様にも見て取れた地形、鋭角に削られた切岸などは見応えはあり、中々目を楽しませてくれるのが現状でもある。尚、主郭に到達するまでは北西尾根上の墓地も通過する事になるが、この一帯はかつての郭跡を敷地として転用としたものの様には見受けられた。

国道から数分の距離でもあり、車で移動中に寄れる手軽さを踏まえれば充分見学に値するする城跡であると自分の目には映った。

2009年6月11日 (木)

河本城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市但東町河本にあって河本氏の居城と伝わるが詳細は不明、城跡へは国道426号の「出合」交差点より南西側に少し移動した信号機付き三叉路より県道56号へ針路変更、後は河本地区を目指し南下すれば写真に示すバス停手前(川を挟んで城跡の位置は確認出来る)より橋を左折して渡ればよい。ルート図の如く民家を通過して奥に向い、朽ちた小社の少し奥にある小橋を渡って墓参道より西尾根先端側に向って直登すれば、5分程度で堀切の備わる主郭までは辿り着く事が出来る。尚、駐車に関しては前述のバス停付近の路側に充分な空きスペースはある

この山城も現状(五月)を見る限りでは村の城の域を出ない小規模な城跡でもあり、確認出来た遺構としては削平地及び堀切のみである。堀切を挟んだ西側に位置するのが主郭と見受けられるが、痩せ尾根上に全長30m前後、幅5~6m規模の削平地が窺われる程度で土塁などの遺構は目に留まらなかった。しかしこの一本の堀切だけは状態も良く、わざわざ遠くから訪ねて来た甲斐があったと無理やり納得するのである。尾根伝いに山上中腹付近まで踏破してみたものの、城跡遺構らしきものはほとんど見当たらず、縄張り妙味も感じられないほぼ単郭構造でもあり、非常に味気ない思いを抱きながら城跡を後にする事になった。収穫と言えば文献に掲載されている山城の場所と、現在の遺構残存状態を把握出来たぐらいで、ほぼ山城の佇まいを味わいに訪れた程度に終わってしまった気はする。ただこの出郭の様相を呈した城跡は、本来この尾根に繋がる遠く山頂328mの地点までは足を延ばしてはいないので分からないが、ひょっとすれば本郭群を誤認している可能性もありそうに思えてくる、しかし但東地区における他の城跡の規模を考えれば過大評価もありえるので、余り深く追求はしない方が良いのかも、、、

訪問リポートは掲載(ブログ運営趣旨によって)したものの、多くの読者の方あるいは山城ファンの方には、ほぼ場所を特定出来ただけに過ぎない山城としてこれから先も忘れ去られ、流石に訪問の対象とは成り得ない城跡の様な気もして来るのである。国道移動ついでに寄って見学する価値があるかどうかの判断は記事を読まれたブログ読者の方々にお任せしたいのが本音でもあり、この山城に以前より興味を持っておられた方、あるいはこれから訪問する準備のあった方にとっては、よりタイムリーな現況報告であったものと思いたい。

1_1 登城ルート

4 目印

6 城跡進入口

13_horikiri_e 削平地より主郭側

14_horikiri_1 14_horikiri_3 堀切一の見所

17_shukaku_hasi 主郭西側

2009年6月10日 (水)

田矢伊予守城跡(三重県伊賀市)

城跡は三重県伊賀市阿山町川合にあって引接寺の直ぐ西背後の低山山上に位置している、城跡への道順としては西名阪道「壬生野」ICが最寄の乗降口、ICを降りればルート図の如く県道49号を経由して引接寺を目指せばよい。後は概念図に示される山道から城跡に向いて上れば直ぐ主郭には到達出来るが、現状倒竹などで行く手は遮られるのでいきなり竹薮から直登した方が早いとは思われる。2x_1 田矢氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡は個人的には夏季(7月)、冬季(2月)における二回の訪問となったが、いずれも生い茂る雑木あるいは密生する竹林の為に移動も困難、更に視認にも支障を来たす状態となっており、挙句の果てには昼間でも薄暗い中での遺構撮影はほとんどピンボケ状態に終わってしまった。縄張り図を所有していないのでどこまで踏破したものか見当も付かないが、自作概念図に示される城跡遺構は二度に渡る訪問の結果自身の目で踏破確認する事が出来たものである。ほぼ南北に渡り踏破したものとも思えるが、西側は移動にも困難を来たす状況でもあり今回もまた踏破を断念する結果に終わってしまった。二度の訪城で感じられたのは本郭(二郭)の規模も大きいが、堀切を挟んだ北側及び南側に連なる出郭が存在する事からも相当城域の広い山城(案内板には南北に350mと記載)であると言う事である。

見所は主郭を形成する分厚い大土塁と言う事になるが土塁内壁が大石垣で覆われた様は中々見応えが感じられる、一部虎口付近に大石垣が露出しているだけではあるが恐らく当時土塁内壁は全て石垣で覆われていたとも推察される。現状主郭及び副郭共に竹林地である為に堆積物及び長年の風化によって相当荒れ放題と化してはいるが、ある程度広さは体感する事が出来る状態にあるのでこの薄暗い条件下を考えれば良しとしなければいけないだろう。尚、主郭北にある大堀切を挟んだ北側には状態の良い土塁で形成された出郭が存在するので決して見逃してはならない、南出郭に関しては小規模な段郭群で形成されているので、現状の冬季においても凄まじい藪を考えれば敢えて見学には及ばないものとは思われる。

個人所有の城山とも見受けられるこの城跡はこれから先良いほうに状態が改善されるとはとても思えず、個人的にも三度目の訪問は無さそうにも思えてくるのである。

1route_1 登城ルート

Nawa 城跡概念図

13_tozanguti 進入口

13_dorui12_minamikaku_1 南出郭

18_shukakunai_ooisi_3 18_shukakunai_ooisi_4 主郭土塁内壁の石垣跡見所

21_daihorikiri 北大堀切見所

25_demaru_dorui_2 北出郭土塁見所

2009年6月 9日 (火)

細見城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市出石町細見にあって現在須義神社の建立された山上が主郭にあたり、八幡宮山古墳として町史にも指定されているようである。城史などの詳細は全く不明であるが、古墳を利用して築かれた城跡としてまず間違いのない処ではあろう。

城跡へは先にリポート掲載を終えた浅間城を起点にすれば分かり易いが、同じ県道2号を利用してそのまま出石に向いて車を走らせれば、ほぼルート図通りで神社までは迷わず辿り着く事が出来る。神社参拝石段前に車は一台駐車可能となっている

現状(五月)城跡は社殿の建つ事からほぼ二郭で形成された山上主郭は整備されており、古墳の墳丘をそのまま削り出したと見受けられる切岸などは、ある程度当時のままの状態を見学出来るようには感じられた。南側尾根続きに下りた付近には自然地形状態の堀切が備わり、更に出郭と見受けられる二段の削平地を挟んで幅のある空堀(自然地形とは思われなかった)が設けられている。縄張り変化にも富んでおらず、お世辞にも見応えがあるとは言えないが、街道監視用砦あるいは出城程度としての機能であるならば、当時でも充分な規模の城跡であった様には窺われた。墳丘をそのまま利用している事からも技巧さまでは要求出来ず、更に神社敷地として後世に於いてどれだけ地形改変があったのかは想像も出来ず、見学者には多少物足りないかも知れないが、参拝道を利用すれば5分とかからず到達出来るお手軽さを考えた上で、「町史跡」として見学する分にはそれなりに臨場感も味わえ、何とか楽しめるのではないだろうか。城跡見学として数をこなす方にとっては打って付けの城跡と言えよう。

3h 登城ルート

4 進入路より遠望

5_2 登城口

9_shukaku_heki_1 主郭切岸

10_shukaku 主郭

8_gedan 主郭南下段郭

11_sizen_horikiri_1 南自然地形堀切

15_kaku 南下段2郭

2009年6月 8日 (月)

安良城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市出石町安良にあって既にリポート掲載を終えた福居城跡からみれば川を挟んだ北東側の八幡山山上に位置している。安良十郎左衛門の居城と伝わるが、古くは鎌倉時代より成立していた城跡でもあり、同氏がどの時代における城主なのかはリサーチするまでに至っていないのが現状でもある。山名氏の本城となる比隅山城が直ぐ近くに位置している事からも、この周辺の山城と同様に山名氏傘下にあったか、その家臣の城跡であったとみてほぼ間違いのない処かも知れないが、、、

城跡へは福居城跡を起点にすれば分かり易いと思えるが、国道426号からはほぼルート図の如く向えば八幡神社参拝登山口までは容易に辿り着く事が出来る。(車は周辺に空きスペースあり)

現状(五月)城跡は神社敷地となっている主郭転用地はある程度整備されており、南北における郭群も比較的見学し易い状態にはある、、とは言っても縄張り妙味がありそうな山城には見受けられず、山上本郭群の規模も大きくはない(北尾根上から東西枝尾根上全てを踏破した訳ではない)ので、ほぼ神社の参拝に訪れた程度の山城巡りに終わってしまった。個人的に残存遺構として判別確認出来たものは郭跡、虎口跡(あるいは縦堀かも、、)、切岸程度でもあったが、見る限りに於いては近世に神社敷地として大きな地形改変があったようには見受けられず、山城の風情は多く遺しているものでもあり、この古い形態の山城を思えば充分納得の行く訪城と言えるのかも知れない。城跡に過度な期待を持って赴かなければそれなりに楽しめる山城とは言えるが、遺構の見応えであり醍醐味を求めるのであれば、まず落胆する事にも繋がるので最初から多くの期待を寄せない事が肝心であると感じられた。ただ北側に延びる尾根上に展開されると推察される縄張りの全てを踏破した訳ではないので、当然城跡もこの限りでは無いかも分からないが、、、ほぼ隣接する福居城跡に訪れたついでに寄る程度であれば、充分納得の行く山城巡りが出来るのではないだろうか。

1route 登城ルート

5 進入口

A_3 南郭

A_2 虎口あるいは縦堀?

A_1 主郭切岸

A_5 山上主郭

A_12 北郭1

A_8 北郭虎口跡

2009年6月 7日 (日)

下鉢山城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市下鉢山にあって、先にリポート掲載済でもある上鉢山城からみれば真北側に単独で聳える低山の山上に位置している。現在山上には熊野神社が建立されており、神社への参拝道が西側の住宅地から通じているので、ルート図の如く進入口(鳥居が見える路地)さえ確認すれば迷わず山上までは辿り着く事が出来る。この城跡の真北側には三開山城、あるいは真南側に上鉢山城がある事からも、それらの支城あるいは出城とも見受けられるが、推察の域は出ず城史に関しても詳細は不明。

城跡の形態としては主郭と見受けられる社殿敷地から、南側には幅の狭い小郭を交えた南段郭群、北側は主郭帯郭下より規模の大きい郭跡(便宜上、中郭とする)、更にその北側には高低差を以って北郭櫓台とも呼べそうな土塁郭が見て取れる。

現状(五月)中郭から更に北側も密生する雑木竹薮地と化しており、その堆積物などによって地形の変化や細部における遺構の判別は非常に困難を極める状況にあり、概念図における様に北郭より以北及び以西の縄張り、あるいは郭形状などは全体像を視認する事も出来ず、推察を交えたものに終わってしまった。そのお陰で更に北側の尾根上も、西側における郭推定地も未踏に終わってしまったのが、今回の山城巡りの中では非常に残念な結果でもあり、唯一心残りともなってしまった。もちろん冬季訪問としても竹薮が冬枯れするとは思えず、伐採されるとも到底思われないので、南北尾根上の納得の行く探索縦断はこれから先もほぼ無理な話である様には感じられる。縄張りにおいても見応えのある遺構(堀切など)も見当たらず、城跡を確認し体感した程度で終わってしまったが、未踏地も含めれば山上尾根は起伏に富んではいないが、郭群で覆い尽くされている様にも窺われたので、決して砦規模では終わっていない城跡の様には感じられた。

個人的にはお薦めとまでは行かなくとも、ほぼ隣接する三開山城の訪問ついで、あるいは上鉢山城との同日訪問とすれば、何とか充実した山城巡りが可能なのではないだろうか。 

1route 登城ルート 

3si 

城跡概念図

5 南側より城跡遠望

7 参拝道進入口

9_minamikaku1 南郭群

20_minami_dankaku_gun_3 南段郭群の切岸

10_shukaku 主郭内

15_naka_kaku_1 中郭の現状

16_kitakaku_heki 北郭切岸

2009年6月 6日 (土)

上鉢山城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市上鉢山にあって、既にリポート掲載を終えている三開山城から見れば下鉢山城跡を間に挟んで真南側に位置しており、切り通し(堀切道)を挟んで単独で二つ並んだ西側の低山の山上が城跡にあたる。田和豊後守の居城を伝えるが詳細は不明

城跡へは三開山城と同様に国道426号より北上し、加陽城跡の望める「五条大橋東詰」の交差点を右折東進、後はほぼ道任せのルート図通りで城跡進入口となる神社までは難なく辿り着く事が出来る。車は神社に向う手前に公民館があるので、その敷地を借りて停めれば良いのではないかとは思われ、そこから歩いて切り通しに向かい墓参道から墓地を経由して上れば、公民館からは10分もかからず山上東郭までは到達可能である。

現状(五月)城跡は藪化は進行中にあるが、郭移動は容易く、見通しは悪いが遺構の確認に差障る状態までには至っていない、とは言っても特筆に値する見応えのある遺構が存在している訳ではないので、山城としての雰囲気は充分味わう事が出来る範疇にあるとだけ思って頂ければよい。概念図に示した範囲が城跡の縄張りと見受けられるものであるが、郭跡、郭切岸が当時の遺構として確認出来たものである。西出郭に向う移動尾根上にも食い違いの片堀切跡らしきものが窺えたが、判別は非常に難しいのが現状でもある。主郭南側の集合墓地の敷地も本来は縄張りの一部として郭跡に見えなくも無いが、これは見学者の判断に委ねられる。尚、切り通しを挟んで東に位置する社殿のある山上も東出郭として縄張りの一部の様にも窺われたが推察の域は出ないものである。

城跡を評価すれば自分の予想した以上に規模は大きく(主郭の東西は50m以上)、本郭群はほぼ四郭から形成されており、更に西出郭削平地まで城域とすれば、充分砦の域は出ているようには感じられた。田和氏がこの山城でどの様な役を担っていたかは知る術も無いが、後でリポート掲載の予定にある下鉢山城とセットで同日訪問すれば、何とか充実した山城巡りと成り得るのかも知れない。

1route_2 登城ルート

5_1 城跡遠望

3ka 城跡概念図

6tozanguti 進入路

8_kiritoosi 切り通し

12_shukaku_heki 主郭東切岸

14_shukaku_2 主郭内

18_nisi2 西郭

20_horikiri 片堀切か?

2009年6月 5日 (金)

高嶺城跡(山口県山口市)

城跡は山口市上宇野令にあって、山口県庁あるいは山口大神宮の真西側に聳える鴻ノ峰山(標高338m)の山頂に位置している。当時西国に於いては権勢を欲しいままにした大内氏の居城であり、大内氏最後の当主でもある義長が毛利氏の侵攻に備えて築いた規模の大きい山城でもある。当時臨戦中の事でもあり完成までには至らなかったと聞くが、結果的に毛利の前には成す術も無く城を明け渡して西に退去し、やがて大内氏は滅亡の一途を辿る事になる。大内氏「最後の砦」と言った表現がピッタリ当てはまり、悲哀に満ちたロマン漂う山城と言えそうにも思われる。城跡はその後毛利氏によって改修の末に完成されたと伝わっており、おびただしく残る石塁などは大内側からすれば臨戦態勢中でもあり、石垣などは到底築く余裕などは無かったはずとも察せられ、当然毛利氏による普請である様には感じられたが、、、

城跡へは山頂近くの電波施設までは車で上れる(二、三台駐車可)ので、ルート図を参考に木戸神社あるいはメガネの「三城」を目指せば高嶺城登山道でもある車道進入口までは分かり易く到達出来ると思われる。東麓に位置する山口大神宮からも歩きによる登山道はあるらしいが、比高約230mを考えれば城跡見学を目的とするだけなら、当然車で上ったほうが効率は良いだろう。

1route1 登城ルート

Enbou 東より城跡遠望

3x 現地縄張り図

現状(七月)城跡は訪問時期的には恐らく最悪とも見受けられ、延び放題の下草(夏草)で細部に渡る地形の変化などは読み難く、当然残存遺構の判別確認も多少ではあるが難渋する状態にある。しかしながら山上に於いては特筆するべく技巧を持ち合わせた複雑な遺構も見受けられない為に、現状見学に差障るまでの状況までには至っておらず、木々が少ない事からも見通しは良いので、主郭を取り巻く石塁は全て見学出来る状況にはある。郭を分断する堀切(空堀)などは設けられておらず、見所は山上の地形を生かした縄張りプラン、あるいは前述の主郭壁随所に窺われる広い面積で残存している石垣跡と云った処になるとは思われるが、この石垣跡は高低差を伴うものでもあり相当な見応え感じ取る事が出来る。国指定史跡の山城でもあり当然遺構残存度は高く、山口県内でも有数の規模を誇るものでもあり、推奨に値する城跡である事は確かである。

Ninomaru1 二の丸

Shukaku_koguti2 主郭虎口石段見所

Koguti 虎口側石塁

Shukaku 主郭内

Isigaki1 Shukaku_1 Shukaku_heki_isi Shukaku_isigaki 主郭を取り巻く石塁見所

尚、電波施設の東側にも数段にも渡る郭群が現地縄張り図には記載されてあったが、現状此方側は下草も多く、雑木も密生している為にとても見学出来る状況にはなかった。冬季訪問ともなればこの限りではない様には見受けられるのだが、、、

2009年6月 4日 (木)

茶臼山城跡(山口県柳井市)

城跡は山口県柳井市日積小国にあって、毛利と大内の古戦場として地元には伝わっており、大内氏側である重藤因幡守が拠った事から稲羽(イナバ)城と今日に至るまで伝わったのではないかとも察せられるが推察の域は出ない。主郭に相当する社殿の建つ敷地部分は茶臼山古墳の墳丘を利用して築かれたものである。

城跡へは山陽自動車道「玖珂」ICが最寄の乗降口、周防大島町にある吉井城跡と同じ訪問ルートでもある国道437号より南下して向うが、「小国」地区周辺より一般道151号へ針路変更、三叉路突き当たりまで車を走らせれば正面に望める丘陵が城跡であり、確認すればルート図の如く南下して茶臼山古墳の標柱のある道路へと右折針路変更すれば、後は道に任せた林道で社殿(主郭)下までは車で乗り付ける事が出来る(小型車一台駐車可)。

現状(四月)城跡は事前に地元の方に聞き及んだ様に社殿のある主郭以外はほぼ藪化は進行中でもあり、藪漕ぎ移動はないものの生い茂る雑木で視認にはかなり難渋する状態にある。現状遺構として判断出来たものは郭跡を除けば北側の虎口らしき土塁跡、郭切岸のみでもあり概念図に描いた付近までが当時を伝える比較的判断し易い遺構ではないかと察せられる。北側は鬱蒼とした密生する雑木藪と化しておりどこまでが郭境なのかは見当も付かない状況でもあり、南側の林道沿いには木々が密生している中、相当広大な削平地も窺われたが、当時の遺構かどうかの判別は不可能と思える。地形の上からも北側に縄張りは相当延びている様にも察せられたが、低い丘陵地である事からも堀切などの見応えのある遺構には期待が持てず、当時の古戦場の雰囲気だけを味わいながら城跡を後にした。山城ファンには決してお薦め出来る城跡とは言えないが、古戦場としてあるいは史跡として覗いて見たい方には充分見学する価値はあるのではないかとは感じられた。

5 林道進入路

Tt 城跡概念図

8minami_kaku 主郭南側

10_shukaku 山上主郭

11_rin_kaku 主郭輪郭

14_sita_yori_dorui 虎口らしき土塁

16_shukaku_higasi_heki 主郭東切岸

18_kitagawa_kaku_1 北側の郭跡

2009年6月 3日 (水)

八鹿愛宕山城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市八鹿町八鹿にあって、繁華街南側を見下ろす形で八木川に迫り出した尾根、通称愛宕山の山上に位置している。現在山上主郭には小さな社殿が建立されている事からも、登山参拝道あるいは登山道(道標は無い)からの二通りのルートで上ることが出来る。城史に関しての詳細は不明であるが、この八鹿一帯には無数の城跡(砦跡)が点在する事からも、規模の大きさからすれば砦あるいは出城といった処であるとは思われるが、地理的にも街道監視用の砦とすればまず間違いのない処かも知れない。

城跡へは繁華街の奥に位置する「永源寺」を目印とすれば一番分かり易い、寺院の駐車場からはルート図あるいは概念図を参考にすれば登山口は容易に見つける事が出来、登山道に従えば難なく金毘羅社経由で山上主郭までは辿り着ける筈である(登山口より5分程)。

現状(6月)城跡は社殿の建つ山上主郭以外は下草は蔓延り荒れ放題でもあるが、小規模な上にさして縄張り妙味のある山城でもないので、見学に支障を来たすまでには至ってはいない。ただ登山道まで夏草が伸びており、歩き難い現状から察すれば当然山上郭群に対しての期待感は薄れるのも現実である。城跡の形態としては登山道中における金毘羅社の敷地も当時の郭跡の転用とも見受けられるが、南側斜面まで郭の展開が成されている様には見受けられず、ほぼ山上三郭と中腹に位置する金毘羅郭で形成される小規模な山城と見てよいものと思われる。城跡唯一の防備施設としては東尾根を断つ空堀が目に留まった程度でもあり、斜面上に縦堀が数本備わる様な縄張りを持ち合わせた山城の様にはとても見受けられなかった。

1 登城ルート

6 登山口

2_3at 城跡概念図

7_2 金毘羅社郭転用地か

9koguti_dorui 土塁虎口か

15_shukaku_heki 主郭壁西側

19_shukaku_nai_1 主郭内

21_shukaku_heki 空堀より主郭側

見応えのある山城とはとても言えないが、遺構残存度は比較的高い様にも見受けられるものであり、この八鹿一帯の山城巡りの一環とすれば登山口からは5分程度で上れるお手軽さもあって、城跡訪問としての数をこなされる方にとっては打って付けの城跡と言えるのかも知れない。

福住城跡(奈良県天理市)

城跡は奈良県天理市福住町中定にあって西名阪道「福住」ICからは北側に位置する丘陵上にある、ICを降りれば国道25号よりルート図の如く進行、福住郵便局を過ぎれば派出所手前の細い道路へ右折針路変更、其の後は道沿いにある五大力明王社を目指せば分かり易いが、駐車場からは概念図の如く畦道から進入すれば後は社殿までの遊歩道に合流出来るので5分もあれば主郭まで辿り着く事が出来る。城跡は福住氏の居城と伝わっており現地を見る限りでは居館跡の様相を呈しているものである。

現状(10月)城跡は相当藪化が進行しており下草や低い笹で地表の見えない箇所が多く、広い主郭に至っては東側の一部を除けばほぼ密生する雑木に覆われており、外見から郭跡全体の形状まで把握する事は非常に困難であり、西側の地表も見えない箇所における細部に渡る遺構などの確認も不可能、更に切岸まですっかり覆われた笹によって踏み入るにも困難を来たす状況となっている。それでも城跡自身がコンパクトである為に外見からでもおよその縄張りは把握出来、見所でもある大手虎口への大土塁を伴う空堀道、虎口の大土塁あるいは主郭北背後に深く掘削された堀切などの見応えのある遺構は全て確認する事が出来た。特に主郭虎口周辺における縄張りは絶妙とも言えるもので横矢構造にも見受けられ、更に狭く絞られた虎口は外敵が直接郭を目指しても中々進入出来ない味のある構造となっているのが見て取れる。この虎口は正に一見の価値のあるものと自分の眼には映った。主郭周囲もかつては土塁が巡っていたと見受けられ僅かではあるが高低差を窺う事も出来た。

城跡は恐らく年に一度は伐採が行われているとは思われるが、余りにも訪れるタイミングが悪かったせいか蔓延る雑木や下草のお陰でとても満足のいく見学は出来なかった。しかし残存する遺構群はほぼ当時の状態のまま年月を積み重ねて来たとも見受けられ、土塁壁には土中から石垣痕も窺う事が出来、充分当時に思いを馳せる事も容易であり更に戦国期を物語る史跡としての価値も相当なものとみた。

1_1z 登城ルート

3na 城跡概念図

9 郭へ

28_oote_1 大手より主郭

24_shukaku_yori_ootedou_dorui 25_shukaku_yori_ootedou_dorui_1 主郭より大手道土塁見所

21_shukaku_dorui_higasi_1 主郭より虎口側

20_shukaku_nai 主郭内

17_koguti 虎口見所

17_koguti_dorui_isi 虎口土塁の石垣跡

2009年6月 2日 (火)

長見山城跡(広島県安芸高田市)

城跡は安芸高田市甲田町下小原/内長見にあって、城主渡辺氏は毛利氏の重臣として代々仕え、元就の代に異母弟を擁立して反旗を翻した事により一時的には滅んだ形となったが、渡辺通の代に復帰し以来毛利氏に忠誠を尽くした事が史実となっている。

城跡へは先にリポート掲載を終えた五龍城を起点にすれば分かり易いが、国道54号から県道37号へ針路変更し5km程度南下、JR「吉田口駅」付近でルート図の如く右折すれば、ほぼ赤線で示したルートで登山口標柱までは到達出来る。そこからは山道任せで5分程度で山上主郭には辿り着く事が出来る。

城跡の形態としては東西に長く延びる丘陵上に郭を展開したものであり、主郭に相当し最高所に位置する本郭群は西側に位置している。登山口より最初に到達した尾根上には東に向いて相当広い範囲で削平地が繋がっており、西側には数段の段郭群を挟んで主郭に繋がっているが、更に主郭より南西側に下りると堀切を挟んで出郭と呼べる規模の大きい郭が堀切側に土塁を付して築かれている。ここからは更に南斜面に沿って四段程度の小郭が付随しているのが見て取れる。現状(四月)城跡は主郭以外は相当下草や雑木が蔓延っているので郭跡全体像の視認はまず困難、歩き回って城跡の規模は体感する事が出来るが、細部に渡る地形の変化や遺構の確認には相当困難を来たすのが現状でもある。大雑把ではあるが概念図に示したものが自分で歩き回って確認出来た範囲の遺構であり、密生する雑木藪の為に見逃してしまった遺構も少なからず存在する様には思われる。東に延びる削平地も縄張りとして取り込めばそれなりに規模の大きい城跡と言えるのではあろうが、見る限り尾根を断つ堀切も一箇所あるに過ぎず、特筆すべき見応えのある遺構も存在しない事から考えれば、是非お薦めの城跡とまで行かないのが本音でもある。

1route_2 登城ルート

6_2 城跡進入口

3naga 城跡概念図

11_koguti_1 段郭群虎口

14shukaku 山上主郭

15_shukaku_heki_1 主郭切岸

17_nisi_horikiri 出郭堀切

19_nisi_demaru 出郭内の現状

20_nisi_dankaku 四段郭

19_sakuheiti_1 東へ連続する削平地

2009年6月 1日 (月)

壬生城跡(広島県山県郡)

城跡は広島県山県郡北広島町壬生にあって、別名高峰城とも呼ばれ壬生氏の居城と伝わり毛利氏によってやがては滅ぼされたと聞く。

城跡へは中国自動車道「千代田」ICが最寄の乗降口、ICからは県道5号よりルート図の如く壬生神社を目指せば分かり易く到達出来、社殿の山手側にある集合墓地奥からは遊歩道が山上主郭までは通じているので迷わず辿り着ける。

現状(四月)城跡は「つつじ祭り」の最中でもあり、山上主郭を除けば郭跡全てがつつじの花や葉で満遍なく覆われており郭形状は掴み難く全体像も拝める状態にはない。もちろん城跡全体が公園化されているので本来の郭跡ですらどれだけ原形を留めているのかは想像も付かない状態にある。主要な郭転用地には休憩用デッキが備わっている事からも、当然造成整地の上で改変があったものと見受けられ、現状から当時の状態に思いを馳せる事は非常に困難でもある。山上郭群は小規模でもあり、現状見る限りにおいて明確に判断出来る遺構は郭跡だけだと言ってよいかもしれない、堀切らしい箇所、あるいはの丸においての土塁などは当時のものかも分からないが、素人目の遺構判断は非常に難しいのが現実でもある。

公園化されているので山上からの眺望も利き、当時の風情を味わう程度の史跡見学として赴くならば充分納得の行く見学は出来るものと思われるが、遺構の醍醐味あるいは縄張り妙味などを求める山城ファンに於いては、決して期待をもって臨まない事が肝心と思わる城跡の様に感じられた。

2_3a

2_3 現地案内板より

3mi2 城跡概念図

8_naka 山上中郭

15_3amru_gedan 三の丸下段

17_2maru 二の丸内

17_2maru_1 多聞寺

20_shukaku_2 20_shukaku 山上主郭

2009年5月31日 (日)

大杉城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町大杉にあって、大杉地区にあっては地元の誰もが御存知でもある大福寺、あるいは古来より由緒のある二ノ宮神社の西背後の山上尾根に位置しており、県道6号から県道48号へと乗り継ぎ、前述の二ノ宮神社を目指せば登山口までは難なく辿り着く事が出来る。もちろん登山口(登城口)がある訳ではないので、神社と大福寺が共存する敷地内からの直登は余儀なくされるが、概念図に示す大福寺本堂奥のフェンスを開閉すれば、そのまま左側急斜面に取り付いて山上尾根を目指せば、自ずと山上主郭までは辿り着く事が出来る(10分程度)。尚、最上段のお堂には「大杉城登山道」と掲げられた木の表札があったが、それには決して惑わされ無いように(登山道は無い!)

この城跡も他の大屋町の山城と同様に、個人的には乏しい資料の中で存在だけを確認して場所の目星だけ付けて訪れたのだが、途中で地元の方に場所を確認したら偶然にもこの大屋町の山城をある程度知っておられた方であったので、幸いにも神社背後に現存している城跡に苦労せず辿り着く事が出来た。自分の様な遠距離訪問者にとっては時間の関係もあって、支所などに寄って城跡の資料を取り寄せる事も中々難しい状況でもあり、城史に関しての詳細は現状では不明である。

現状(四月)城跡は多少の藪化程度で見通しもある程度利く状態でもあり、山上郭群に遺された三本の堀切、土塁跡、郭切岸などが判別確認出来る遺構となっている。ほぼ主要二郭で形成された山上郭は規模も小さく、山城としての醍醐味あるいは縄張り妙味にも少し欠ける様には感じられるが、この見応えのある三本の堀切だけが城跡最大の見所とも思われ、この堀切見学だけで訪れても充分満足感は得られるような気はするのである。ただ他に特筆すべき遺構が目に留まらなかったので、是非お薦めと言う訳には行かないかもしれないが、他の大屋町内に存在する由良城、一ノ宮城、加保城などを含めた山城巡りの一環とすれば、充分見学に値する山城の様には見受けられたが、、、

1route1 登城ルート

8 城跡進入口

3oo 城跡概念図

20_hiroi_obi 東帯郭

22_fuku_kaku_1 副郭

18_kita_heki 山上郭切岸

27_shukaku_dorui_ato 主郭内

23_horikiri_4 東堀切見所

28shukaku_sita_horikiri1 32_horikiri2_nisigawa 二重堀切見所

2009年5月30日 (土)

大屋一ノ宮城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町中にあって、由良城跡側から見れば北東側の突き出た尾根上先端に位置しており一ノ宮神社の丁度南背後にあたる。もちろん限りなく無名に近い城跡なので事前に地元の方に訪ねても色々な異なる情報が耳に入り過ぎて、結果的には最初に自分で描いた想定登山ルートを城跡の目星だけ付けて上る羽目になった。今回はもっと上り易いルートがあったのかも知れないが、取りあえず自分で選択した分かり易いと思われる墓地経由の直登ルートを赤線で図に示した。随分遠回りにはなるが謎の広大な二段の削平地までは山道を利用し、そこを通過しても藪漕ぎもなく20分内で到達出来たので、そんなに時間の無駄にはなっていない様な気はするのだが、、、

現状(四月)城跡はそれなりに見学し易く、小規模な山上郭及び最大見所とも言える二重堀切まで充分確認出来る状態にある。山上主郭は20m程度の規模で出郭か砦の様相でもあり、本音を語れば折角苦労して上った割には味気なさ過ぎて、少々肩透かしを食らってしまった。この様な城跡の形態であれば必ず尾根続きの山上側には山上郭群が存在して当然とも思われたが、山上は切岸処理のされていない削平地のみであり、およそ城跡遺構と断定出来るもの(堀切や土塁)には巡りあう事が出来なかった。ただ東尾根までは踏破していないので、案外城跡もこの限りではないのかも知れないが。

尚、ルート図に示した居館跡の如く広大な規模の削平地は未だに謎なのであるが、近世における寺院跡の様な気がしないでもない、本来なら居館跡と思った方が想像も広がって楽しめそうとも思えるが、やはり城跡遺構ではない様には思われる。

この大屋川沿いにはまだ文献でも紹介されていない数多くの山城あるいは砦跡がある(地元民の情報による)そうなので大変興味はそそられるが、個人的には何分遠距離訪問でもあり、そう何度も訪れる事が出来ないのが非常に残念な処ではある。ちなみに地元の方の情報によれば田和城、高取城、三方城の砦、大杉城の出城などが現存するそうであるので参考までに、、、

1route_2 登城ルート

6 西より遠望

3iti 城跡概念図

10_sakuheti_jyoudan_3 広大な削平地上段

12_horikiri 山上物見南側の堀切地形

16_2jyuuhorikiri 16_2jyuuhorikiri_2 二重堀切見所

18_shukaku_1 主郭

2009年5月29日 (金)

由良城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町由良にあって、由良集落から望めば南側に単独で聳えるほぼ独立した低山の山上に位置している。この山城も大屋川沿いに数多く存在する山城と同様に詳細は不明であるが、存在および場所の確認は文献あるいは地元の方から事前情報を入手していたので直ぐに探し当てる事は出来た。城跡へは先にリポート掲載した三方城、大杉城、あるいは加保城と同じく県道6号より向えばよいが、目印となる主要な建物も見当たらないのでルート図に示す養鶏場?より谷沿いに歩けば分かり易い、民家の最奥突き当たりには獣避けフェンスが設置されているので、それを開閉して山道に任せて上れば城域南端と見受けられた堀切跡までは、10分もあれば迷わず辿り着く事が出来る。ただ山道も相当荒れ放題と化しており、倒木も多いので何度も迂回を強いられる事にはなるが、、

現状(四月)城跡は藪化もしておらず非常に見学し易く見て回りやすい状態にあるが、山上郭は小規模、見応えのある遺構としては南尾根を分断している二重堀切のみでもあり、概念図に示した通り山上は単郭構造で東側急斜面には数段から形成される小郭群が備わってはいるが、縄張り妙味も余り感じられない事からも非常に味気ない見学となりそうには思われる。当時の状況として麓の谷筋辺りを屋敷群と想定したなら、山上は詰城あるいは物見の機能を担う程度のものであった様にしか見受けられず、山城としての醍醐味は多くは望めない城跡の様には感じられた。ただ今回未踏に終わったが麓から城跡を望んだ時、城跡より東側斜面の木の伐採が行われた辺りが、それとなく平坦地形に見て取れたので、案外この辺りが居館跡の可能性はあるのだが、所詮推察の域は出ないものでもある。

尚、ルート図に示した北東側の突き出した尾根先端には一ノ宮城跡が存在しているが、二城セットとしての同日訪問であれば、何とか有意義な山城巡りが出来るのではないだろうか。此方のリポート掲載は次の予定 

1route 登城ルート

4 東より遠望

3yu 城跡概念図

12_2 南端堀切

13_one_1 南移動尾根

15_2jyuu_horikiri 15_2jyuu_horikiri_1 二重堀切見所

18_shukaku_3 山上主郭

22_higasi_dankaku_gun 東段郭群

2009年5月28日 (木)

周防千葉城跡(山口県熊毛郡)

城跡は山口県熊毛郡上関町室津にあって、当時は竃戸の関(カマドノセキ)と呼ばれた上関(カミノセキ)周辺の海上を監視する宇賀島氏(大内氏傘下の水軍)の城跡あるいは砦跡と伝わっている。この宇賀島氏の本拠は周防大島の北側安芸灘に浮かぶ浮島と伝わっており、大内氏が滅んだ後は当然村上水軍に吸収されたのか、あるいは毛利直属の水軍として動いていたのか、どちらかである様には思われる(推察)。

城跡へは既にリポート掲載済でもある村上水軍の居城、上関城跡を起点にすれば分かり易いが、県道23号で上関に向いて南下した場合、上関大橋は渡らず手前から県道72号より柳井市に向いて海に沿って車は東へ走らせればよい。目指す場所は千葉岬に建立された千葉稲荷神社でありその一帯(山上)が城跡と伝わっている。

現状(一月)城跡は山上に建立された社殿に到達するまでの石段付近に、段状の削平地が随分古びた石垣跡を伴って連なってはいるが、これが当時の遺構かどうかは素人目には到底判断は出来ない。城跡の成立した時代も相当遡ると思われるので当然良い状態のまま残存しているとは思われないが、純粋に当時の遺構と思って見学した方が想像も膨らんで楽しめるようには感じられるが、、、社殿背後には土足禁止の祠に上る石段が設置されているが、本来ここが櫓台と呼べる物見機能を持った土塁であったのかも分からないが、当然推察の域は出ないものでもある。北斜面には石垣跡も見受けられたが築かれた時代背景も見当が付かないので自ずと見学者の判断に委ねられる。

概念図に示したまでが現状確認する事が出来た遺構かもしれない?箇所であるが、岬の東西斜面側あるいは海岸線までも、冬季に拘らず凄まじい雑木藪と化しており踏破する事は不可能な状態となっている。

1 登城ルート

2a 上関案内マップ

3 城跡概念図

4_nisi_yori 西より城跡遠望

9 10 千葉稲荷神社

16_dankaku_isi_2 17_dankaku_isi 古びた石積み

21_yasiro_sita_sokumen_isi 北斜面の石垣跡

23_1

この現況リポートは瀬戸内水軍に興味を持たれている方にとっては多少でも役立つのかもしれないが、現状見る限りでは現地で城跡の雰囲気を味わうのが精一杯とも思え、上関城訪問ついでに軽い気持ちで赴くのならさほど移動距離もないので楽しめるかもしれない。

2009年5月27日 (水)

吉井城跡(山口県大島郡)

城跡は山口県大島郡周防大島町西屋代/吉井にあって、当時水軍としては最強を誇った村上水軍(三島ある能島、来島、因島のいずれか)の城跡と伝わり吉井氏の居城と聞いた。本来大島の西側半分を来島水軍、東側半分を能島水軍と分割統治としていたらしく、西側に位置するこの城跡は来島水軍に属す城跡と言ってよいのかも知れないが、当時は三島水軍を巡る周りの情勢もそのつど変化(一時は敵対関係)しており現状詳細は不明。

付近に居を構えられる町史に詳しい方でも詳細を掴めないほど無名に近い城跡なので、現地で聞き込んだ以上の情報はこれから先も得られないかも分からないが、石垣が郭壁(畑地)に残存している事と当時の郭跡が畑地あるいは蜜柑畑として転用されて現在にまで至っているが、現状はほとんど藪に近い状態との情報だけは事前に得る事が出来た。尚、未訪に終わったが西屋代には龍心寺と言う曹洞宗の寺院があり、ここは能島水軍大将村上武吉の嫡流にあたる元吉から元武あるいはその子孫の菩提寺になっており、一族の墓所になっているとも聞いた。

城跡へは山陽自動車道「玖珂」ICが最寄の乗降口、ここから国道437号に進入し道路に任せて進行すれば、既にリポート掲載済でもある塩宇城跡へ向う時に利用した大島大橋は自ずと渡れる計算にはなる。橋を渡れば県道4号へ直ぐに右折、後はルート図の如く西屋代集落にある小字吉井、あるいは吉兼集落を目指して屋代川沿いに進行すればよい。現地に入れば川沿いにある学校、JA、郵便局が目印となり、ルート図に示す赤線ルートのいずれかで城跡までは到達出来る筈である。この地より川を隔てた東側丘陵上には吉兼城跡もあるが、一帯は集合墓地、畑地あるいは藪地と化しており城跡と明確に判別出来る遺構は見る限り現存していないように見受けられた。

1route_2 登城ルート

5_2 進入口

Oosima_4 郭切岸

Oosima_15 Oosima_17当時の遺構と断定は出来ないが石垣跡

Oosima_12 堀切より北側の郭跡地

Oosima_13 郭跡

Oosima_9 堀切道

Yosikanejyou 吉兼城跡遠望

現状(四月)城跡は事前に聞き込んだ通り、小さな蜜柑畑の一部を除いてはほぼ密生する矢竹雑木藪と化しており、堀切(南北を断つ唯一の堀切道)、段郭状になった郭跡及びその切岸はある程度確認出来ても郭内に踏み入る事はほとんど不可能な状態でもあり、縄張りを把握する事はほぼ不可能、これが当時の遺構と断定出来そうなものは郭切岸、郭跡の転用と見受けられた畑地あるいは堀切道、近世の石垣跡も混在している様には窺われたが、一番古そうに感じられた二段の石垣跡(この石垣が当時のものと断定できる確証は無い)などで、これらが城跡を物語る唯一の遺構とも見受けられた。遺構残存度も低く状態も良いとは言えない城跡ではあるが、個人的には訪問後に村上水軍に関して興味を持つ事にも繋がり、更に知識を吸収し直すきっかけともなったので充分納得の出来る訪城となったのは確かである。

2009年5月26日 (火)

三開山城跡(兵庫県豊岡市)

城跡は豊岡市大篠岡木内にあって「瑞峰寺」南東側の三開山山頂(標高202m)に山上郭、中腹にかけては広大な規模を持つ当時の屋敷跡が展開されている。古くから成立している山城である為に幾度も城主は交代している様だが、特に山名氏の居城として有名。当然秀吉による但馬攻略の際には落城したと思われるが、その後秀吉側によって改修が施されたのかあるいは廃城となったのかは詳細は不明。

城跡へは国道426号で北上し「丸山大橋」手前で一般道703号へ右折針路変更すれば既に右前方に望める形の整った山がそれであり、ルート図の如く六万川を渡り直ぐ右折すれば山口となる「瑞峰寺」には容易に到達出来る。現在ハイキングコースとして四ルートが四方の麓から山上まで繋がっているが、今回は最短(南下すれば「駄坂」から最短ルートはある)ではないが、遠距離訪問者に一番分かり易く駐車場も設置されている寺院からの登山ルートを選択した。ここからは遊歩道任せで古墳を経由して途中から西郭群へ直登すれば、30程度で山上主郭までは到達可能である。ただ直登すれば南郭群を通過する事は出来ないが、、、分岐地点の道標からは「千畳敷き」と称される屋敷跡にも向かえるが、時間に余裕のある方はほぼ遊歩道任せで南郭群から山上郭群を見学して、下山時にじっくり屋敷跡などを見学した方が効率もよく、より納得出来る見学が出来そうには感じられる。それだけ見所も多く見応えのある遺構も多い城跡なのである。

2route 登城ルート

2a 現地案内説明板より

3m 城跡概念図

現状(五月)山上郭群は下草は多く蔓延っているが、周囲を遮る木々も少なく整備されているので非常に見学し易く見て廻り易い状態にある。山上に佇めば素晴らしいロケーションでもあり、素晴らしい遺構群を前にすれば長く感じられた距離も時間も全て過去のものとなってしまうほどである。山上郭群は中腹における居館跡からすれば詰城とも見受けられるもので、凄い規模を誇るものでもなく縄張り変化にも富んでいる訳ではないが、多く備わる空堀、堀切群(畝状縦堀は埋もれて判別し難い)は比較的状態もよく(主郭東側の縦堀まで繋がる堀切は凄い!)非常に目を楽しませてくれる。現地縄張り図における全ての縦堀を覗いた訳ではないが、相当数の縦堀が備わっている様である。畝状縦堀群より下りた辺りの千畳敷き(居館跡)及び井戸跡の窺われる屋敷跡は、相当荒れ放題と化しており非常に歩き辛いが、見通しは利くので全体像を伺う事も出来、素晴らしい臨場感を味わう事も出来る。未だに郭壁には当時の遺構として石垣跡も窺う事が出来、容易に当時に思いを馳せる事にも繋がっている。結果的には南郭群までは覗けなかったが、居館跡と一体となったこの山城は状態も良く、正に推奨に値する是非お薦め出来る城跡の一つと言えよう。

21_nisikaku4_tatebori 西郭4の縦堀見所

21_unebori_2 畝状縦堀群見所

30_shukaku 主郭

32_nisikaku_gawa 西段郭群

37_shukaku_heki_1 東郭

39_tatebori_e 40_1東側堀切1見所

43_higasi_horikiri2_1 東堀切2見所

50_1 千畳敷き見所

53 石垣跡見所

2009年5月25日 (月)

浅間小城跡(兵庫県養父市)

この城跡は先にリポート掲載に及んだ浅間城(本城とみた)からみれば支城あるいは出城機能を担ったものかも分からないが、お互いに隣接する事からも佐々木氏の持ち城としてまずは間違いのない処か、、、ただ秀吉の但馬攻略軍の軍門に下った歴史から考えれば、畝状縦堀群の設けられた此方は改修が施されていない様に見受けられたが、浅間城の方が分厚い櫓台土塁、深い堀切(空堀)、武者隠しなどが備わる事からも、多少秀吉側における改修があったものと推察して良いのかも知れない、もちろん個人的推察の域は出ないが、、、

城跡防備としての主郭東西に於ける斜面に掘削された畝状縦堀群は、山名氏関連の城跡(鶴城、三開山城など他の但馬地方の山城でも多々見受けられる)ではさほど珍しくはないが、小規模ではあるが優れた縄張りプランを想像させるものでもあり、現状(五月)相当な風化あるいは付近の土砂の流失などによって、肝心の縦堀の深さは失われているが判別確認は充分可能となっている。既にリポート掲載に及んだ同じ町内にある「大江堀城跡」とも畝状縦堀群で相通じるものはあるが、規模あるいは残存度、残存状態で此方が若干劣っている様には感じられた。現状城跡の状態も悪くない事からも、概念図に示した少ない遺構群(縦堀の本数はおよそ)はほぼ判別確認出来る状態でもあり、浅間城でも触れた様に、二城同日訪問によって形態の違い、縄張りに施された工夫あるいは技巧を推察しながら楽しんで頂きたいと思うのが本音でもある。

1route 登城ルート

6 進入口

3a 城跡概念図

11 北郭群より主郭側

14_karabori_dorui 空堀と方形土塁郭

16nisigawa_une_1 西側畝状縦堀見所

24_higasigawa_une 東側畝状縦堀見所

23_gedan_yori_shukaku 主郭

22_kita_gedan_1 主郭北下段

19_minami_horikiri_1 南堀切見所

城跡へは浅間城と同様に、浅間地区に入ればルート図に示す付近にあるオレンジ色の屋根が目印となる「浄化センター」を目指せば分かり易く、付近の空きスペースには路駐も可能である。そこから川を挟んで東側に見える北に突き出た尾根先端が城跡でもあり、位置を確認すればルート図に示す墓地を目指して川沿いの農道を歩き、橋を渡れば直ぐ墓地脇の獣避けフェンスまでは到達出来る。フェンスを開閉すれば、どこから取り付いても直登5分程度で山上主郭には到達出来るが、山上主郭には朽ちた祠がある様に、祠南背後の堀切跡からも山道が参拝道として東側に繋がっていたのかも分からない、、、

2009年5月24日 (日)

浅間城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市八鹿町浅間にあって佐々木近江守の居城を伝え、当時は他の豊岡周辺の武将と同様に山名氏の傘下にあったか、あるいはその家臣であった可能性は非常に高いと見受けられるが、秀吉の但馬攻略の際にはその軍門に下った模様である。詳細は不明

訪問結果から先に述べれば、この山城は主要三郭で形成されたもので、小規模ではあるが山上郭群の南北斜面と西斜面には二重堀切を含めた合計5本の堀切が備わり、主郭には櫓台の機能を持つと見受けられる分厚い土塁、あるいは南側斜面には武者隠しとも想像出来そうな空堀土塁、わざと段を違えて形成された小郭など細部に渡って創意と工夫が施されており、縄張りプランにおいても非常に技巧さに富んだ城跡と目には映った。現状(五月)藪化は進行中ではあるが郭移動に難渋するまでには至っておらず、遺構残存度も高いことからも全ての遺構は判別確認が容易に出来る状態でもあり、今回西側へ隣接する浅間小城と並んで、是非お勧めしたい山城として現況をリポートしたものである。浅間小城(リポートは次で掲載予定)側からすれば此方が本城と言う事になるのかも分からないので、個人的には先に寄った小城のリポートは後回しにした、、

城跡へは京阪神から向う場合、国道9号より養父市内に入れば国道312号へ針路変更、そのまま北上し「下小田」の交差点で出石に向いて県道2号へ右折すればよい。浅間地区に入れば「上浅間」バス停向の道から城山は確認出来るので、ルート図の如く川を越えて向えばよいが、山道に備わる獣避けフェンスを開閉すれば直ぐ左手側の害獣捕獲オリ側から谷沿いを通過してに向うか、そのまま山道から小さな池傍を通り過ぎて向うかの、二通りのルートの何れかで凄い縦堀(堀切)の備わる西斜面には到達する事が出来る。どちらにしても方向さえ間違えなければバス停付近からは15分前後の所要時間で容易に辿り着ける筈である。尚、この城跡付近には路駐の容易に出来る場所が見当たらず、先に小城を訪れた場合は地区の「浄化センター」付近の空きスペースに車を停めて、小城を見学した後に多少距離はあっても、そこから歩いて向かわれる事をお薦めしたい。

3_2a 城跡概念図

5 登山進入口

9_tatebori 北側縦堀見所

9_tatebori_2 北堀切見所

15_kita_2_1 北郭2

18_shukaku 主郭土塁

16_yagura_dorui 主郭櫓台土塁見所

21_minami_karabori_dorui_2 武者隠しか?見所

24_horikiri1_2 南二重堀切1見所

25_2jyuu_hori_2 二重堀切土塁見所

32_2jyuu_horikiri_1 西二重堀切1見所

浅間小城と同日訪問する事によって、山城ファンに於いては遺構見学における醍醐味も満足感も間違いなく味わえると思われ、どちらも小規模ではあるが縦堀を含めた堀切遺構あるいは縄張りプランはかなりの見応えがあり、一流の縄張りが施された正に推奨に値する山城(二城併せて)として非常に印象付けられる事になった。

2009年5月23日 (土)

城跡呼称の訂正

結論から先に述べさしてもらえれば、最近頻繁に訪れている但馬地方における山城巡りの中で三月分のブログに掲載しました、豊岡市にある海老手城及び森津城がブログ外での現地(聞き込みネタ)情報を元にしてまとめた結果、呼称を取り違えているか、あるいは本来は別に城跡呼称があるのではないか思われる事が発覚しました。

ただネタ元も「確証は無いが」、、との事なのですが、現地情報によればこの周辺には小規模な山城跡あるいは砦跡なら無数にあるとの事でもあり、城跡呼称誤認の可能性はかなり高そうに思われます。現状では推察に過ぎませんが、この海老手城と紹介した山城の川を隔てた南側に位置する山上が、本来の海老手城の場所ではないかと思われます。とすれば紹介した城跡遺構はその出城(砦跡)あるいは全く別の呼称を持った城跡とも推察されますが、現時点では追跡リサーチ不足のせいもあって明確な判断は下せておりません。森津城の方は縄張り妙味はあるものの余りにも小規模である事から、本来直ぐ近くに存在すると思われる森津城の出城、あるいは逆に海老手城の出城(砦跡)とも考えられますが、これも現時点においては確証を持てるまでには至っておりません1route1

今回(三月時)ブログ掲載した事によって既に訪問された方もおられるかも分かりませんが、現時点では聞き込みネタ情報だけの事でもあり、誤認と確信する材料も不足している事から、近いうちに再び現地を訪れて本来の城跡呼称を再確認すると同時に、間違いがあれば再びこの場を借りて訂正をしたいと思っております。

もしブログ読者の方に、この本来の二城を既に訪れて呼称の確認まで取られた方が居られるのでしたら、曖昧な情報でも一向に構いませんので、コメントとして書き込んで頂ければ非常に助かると共に有難く思います、よろしくお願い致します。

日下津城跡(広島県安芸高田市)

城跡は広島県安芸高田市向原町坂にあって、古くは毛利一族より分かれた側が坂氏を名乗ってこの地に居城、以来毛利氏一族をささえ重きを成したと伝わり、元就の代に及んでは一時期坂広秋が反旗を翻したが、その息子より再び元就に仕え代々重きを成したと歴史は伝えている。

2h 現地城跡説明版より

1route 登城ルート

6 登山口

城跡へは田屋城跡を起点にすれば説明し易く分かり易いが、田屋城跡の真東2km内に位置する山上が城跡にあたり、県道37号から向えば「支所入口」交差点より県道29号へ針路変更、後はルート図の如く右折して三篠川を渡れば道路沿いの案内板までは到達出来る。案内板からは墓地経由の登山道(2ルートあり)が山上まで繋がっているので迷わず辿り着ける筈である。

現状(四月)城跡は史跡としてある程度整備されているので比較的木々も少なく、縄張りにおける遺構標識も設置されている事から初めて訪れる見学者でも遺構が目に留まり易く、非常に見学し易く見て回りやすい状態にはある。ただ一部の郭内には伐採された木々がそのまま放置されていたり、雑木も蔓延っているので視認し辛く歩き難い箇所も少なからずある。現状遺構として目に留まるものは郭跡を除けば郭切岸、主郭周りの堀切(縦堀を含む)群、井戸跡、南出郭の土塁、西物見の段下の分厚い土塁と言ったところで、郭高低差がある事からも山城の醍醐味は充分味わえる、尾根を断つ薬研堀の様な見応えのある遺構に巡りあう事は出来なかった。登山道も設置されており比較的残存状態も良い事から、程近い距離にある田屋城跡とセットで同日訪問となれば充分お薦め出来る山城と言えるのではないだろうか。凄いと声を発するほどの遺構は存在しないが、広島県内に於いては山城を史跡として評価する意識レベルが非常に高いものと見受けられ、近畿圏内ではおよそ見向きもされそうにない田屋城跡やこの城跡クラスの山城でもある程度整備が成されており、登山道あるいは遺構標識まで設置されているのにはただ驚くばかりである。山城ファンにとっても一般見学者にとっても、登山道が設置されているといった事実だけで訪れてみたい気分にもさせられ、状態の良い当時の遺構を見学すれば自ずと史跡保護の意識も高まり、後世幾世代にも渡って史跡を遺して行けるのではないかと個人的には思うのである。

3hige 城跡概念図

16_shukaku 主郭内

21_kita_obi_2 主郭北側帯郭

22_higasi_idoato 東側井戸跡と縦堀見所

30_monomi_demaru_heki 西物見の段切岸

31_monomi_demaru_1 物見の段

33_dorui_kaku_1 物見の段下の土塁見所

2009年5月22日 (金)

田屋城跡(広島県安芸高田市)

城跡は広島県安芸高田市向原町田屋にあって、県道37号より「カタクリの里」を目指し進行、ルート図の如く現地に入れば県道沿いからは里は直ぐ目に留まる、登山口西側にあるカタクリ茶屋(廃業?)まで向えば付近に車の駐車スペースはあるので、現地案内板横から登山道で(左手側方向)城跡を目指す事になる。

登山道に任せて上れば主郭背後の大堀切までは難なく辿り着ける筈であるが、個人的には何時もの様に登山道を避けて一旦城跡南側山上の物見と思われる削平地まで上り、そこから堀切まで下ったので実際の所要時間までは詳しく分からない。登山道中においては麓民家側背後に古びた見応えのある石垣跡が目に留まる段状の敷地(削平地)があったが、当時の遺構と断定は出来ないものの屋敷跡の様にも見受けられたので一応参考までに、、、

現状(四月)城跡は親切に遺構案内標識も設置されており非常に遺構見学がし易く、状態としては自然任せの風化中にあるが見学に差障りのある状態にまでは至っておらず、山城としてみれば比較的良い残存状態の部類に入るとは思われる。ほぼ四郭で形成されたこの城跡には小規模な山上主郭には似つかわしくない、分厚く高さのある立派な櫓台土塁が遺されており、主郭内に部分的に残存する虎口を形成するに使用された石垣、あるいは櫓台背後の大堀切、三郭の石組み井戸と並んで城跡最大の見所となっている。非常に小規模な山城ではあるが凝縮された遺構の数々は見応えもあり、大堀切などは薬研堀の如く高低差を伴うものでもあり、山城としての醍醐味も充分味わえる様に見受けられた。コンパクトにまとまった形態の山城なので縄張り妙味などは求められないが、山上に凝縮された残存度の高い遺構群は一見の価値のあるもの目には映った。見学し易さ(遺構標識がある)からしても充分お薦め出来る城跡の一つと言えよう。

2t 城跡説明版より

3a 城跡概念図

4tozanguti_e_2 登山口

16_tatebori_e_1 大堀切(縦堀)見所

19 主郭

18_shukaku_1 主郭櫓台土塁見所

23_2kaku_koguti 虎口見所

26_2kaku_isi_1 石垣跡見所

32_ido 石組み井戸跡見所

34_4kaku 四郭

35_dorui_1 四郭土塁

2009年5月21日 (木)

竹藤城跡(京都府京丹後市)

この城跡は先にリポート掲載に及んだ盛岡城の麓にある貴船神社より、数10m東側に移動した木橋のある場所が直登進入口にあたり、今回の山城巡りの中の訪問予定には入っていなかったが、盛岡城の城山所有者の方からこの本城の方がもっと大規模でもあり、井戸跡なども残っていると聞いたので迷わず寄って遺構見学する運びとなった。かつては木橋を渡った大手にあたる谷沿いから登山道もあったようだが、現在は踏み跡すら残っておらず直登は余儀なくされる状況下にある。個人的には参考ルートと概念図に示した東側急斜面(崖に近い)最短ルートを10分内で一気に上り切ったのだが、下山ルートでもある二箇所からが一番直登として取り付きやすく、斜面も少しはおだやかである様には感じられた。

城史に関しては竹藤左京進の居城を伝えるのみでもあるが、地元の方に聞いた話ではこの竹藤氏は一色氏の滅亡後は細川支配による丹後で臣下として活躍し、江戸時代から更に明治時代に至るまでは家名も存続した様であるらしいが、、詳細は不明

現状(四月)城跡は盛岡城に負けず劣らず藪化は深刻化しているが、複雑な縄張り形態でもなく、特に技巧を有した遺構も存在していないので、歩き回れば何とか遺構の判別確認及び城跡の縄張りあるいは規模などを体感する事が可能と言える状態にはある。もちろん枯れ木の密生によって全体の見通しは悪いが、高く切り立つ切岸、堀切(一箇所確認)などは充分見て取れる状況でもある。井戸跡はこの状況下においては探し当てる事が叶わなかったが、自宅に戻って文献を見入っていると、確かに井戸跡あるいは当時の武家屋敷跡地が残存している様には記載されてあった。地元の方から事前に聞いた様に流石に竹藤氏本城とするに相応しい規模、あるいは高い切岸による堅固さも兼ね備えており、見応えもある事から充分満足の行く訪城と言えるものにはなった、ただこの深刻な藪化は非常に残念ではあるが(夏季訪問は禁物!)、、 尚ルート図に示したタチ(館)と現在でも呼ばれている辺りが竹藤氏の居館跡であると地元の方に聞いた情報であり、個人的にはこの城跡が今日を締めくくる最終の山城巡りとなった関係で探索は叶わなかったが、まだ未訪の方の参考までに。

二城併せれば確実にお薦め出来る城跡と言えるのではあるが、ここまで藪化が激しいと興味を持たれた方のみが対象の山城として良いのかも知れない。

1route_2 登城ルート

6 城跡進入口

3ta 城跡概念図

9_higasi_yori_shukaku_heki 主郭切岸

15_shukaku 主郭

17_minami_horikiri 南斜面の堀切

22_gedan2_tate_dorui 西下段2の土塁跡

25_nisi_kaku_gun_1 西郭群の現状

2009年5月20日 (水)

盛岡城跡(京都府京丹後市)

城跡は京都府京丹後市久美浜町竹藤にあって、京都では有名な貴船神社より古くは御霊分けの由緒を持つと言われる、同名の神社北背後の山上尾根に位置している。野村和泉守の居城を伝えるが、この城山の所有者に聞くところによれば川を挟んだ対岸の丘陵上にある竹藤氏本城とは支城あるいは出城の関係であるらしく、この周辺には竹藤氏の居館跡や小さな砦跡がまだ数多く残っているそうである。尚、この竹藤氏に関しては当時の丹後守護職でもあった一色氏の重臣四人衆の中の一人であるとの話でもあった。

城跡へは国道312号より県道20号に入れば、目印となる竹藤集落の道路沿いにある貴船神社は直ぐ見つけることは出来る、車を路駐すれば神社背後から多少の藪漕ぎは必要とされるが、そのまま斜面を直登すれば自ずと南側に備わる堀切までは10分もあれば到達可能である。

現状(四月)城跡は相当藪化も深刻化しているが、冬枯れのせいもあって枯れ枝も多く、山上における残存遺構はほぼ確認出来る状態にはある。全体像の視認には中々難渋するが、城跡最大の見所でもある南北尾根を分断する大堀切、あるいは郭内における土塁跡、切岸、虎口跡は傍まで寄れば明確に判別出来る状態でもある。小規模な城跡の為に縄張り妙味までは求められないが、特にこの二本の堀切は状態も良いもので相当な見応えがあり、この堀切見学がこの山城の全てと言っても過言では無い様にも思われるのである。冬枯れ後でもこの藪であれば状態が良くなると言った改善は全く無理な話で、城山の所有者も高齢である事から、これから先タイムリーな訪問はあり得ない様にも感じられた。小規模ではあるが本格的な城普請により築かれたと見受けられるこの山城に関しては、夏季訪問は絶対に禁物とは思えるが、梅雨時までの訪問であれば充分見学に値する山城である様には目に映った。

1route 登城ルート

5 直登進入口

3mo 城跡概念図

8_minami_horikiri_5 南堀切見所

13_fuku_kaku 副郭

14_fuku_yori_shukaku_heki_1 主郭切岸

22_shukaku_nisi_heki 帯郭より主郭壁

15_shukaku_2 主郭内の現状

18_kita_horikiri_3 北堀切見所

2009年5月19日 (火)

上狭川城跡(奈良県奈良市)

最初に、この城跡の最大の見所は素晴らしい状態を誇る主郭南側に形成された虎口で、食い違い土塁と枡形を二重に組み合わせた様にも窺え、風化を差し引いても当時に近いと思われる状態及びその形態は他に比類なきものでもあり、この虎口を見学するだけの目的で訪れても充分納得出来うる遺構でもあり、まだ未訪の方には是非訪問をお薦め出来る城跡である。ネット上の他のサイトでも多くの紹介記事が載せられているので多くは語らないが、結果的に未踏に終わった主郭東側別峯、更に南側へ繋がる尾根と縄張りの広がりも予想され、まだ未確認の遺構が残存する可能性も含んだ相当規模が大きいとも受け取れる城跡と自分の目には映った。

城跡は奈良県奈良市狭川東町にあって西狭川町集落より川を挟んで東側低山の山上に位置している。狭川氏の居城と伝わるが詳細は不明

城跡登山口へ向うには国道369号あるいは国道163号と南北のどちらから向っても県道33号へ進入する事が先決である、県道に進入すればルート図の如く写真に示すバス停付近の登山口は容易に見つかるので、そこから山道に従えば15分程度で山上主郭には辿り着ける。

現状(三月)城跡は木々は余り蔓延っておらず見通しも利くので山上における遺構群はほぼ判別確認可能な状態にある、見所は前述の主郭土塁虎口、主郭周囲を巡る土塁、本郭群尾根を分断する土橋を伴う堀切と満載でもあり、山麓の井戸跡及び屋敷群、相当藪化が進行中の南西麓の段郭群を含めれば山城としての醍醐味も見応えも兼ね備え、更に縄張り妙味も尽きない城跡である事が分かる。個人的にも叶えば再訪して付近一帯を踏破して見たいと思わせられる城跡の一つである。

Saga 登城ルート

Tozanguti 登山口

3s2_2 城跡概念図

9_koguti_1 北郭側

15_shukaku_dorui 17_dorui_kakomi 主郭土塁見所

20_minami_masugata 主郭南食い違い土塁見所

21_masugata_dorui 南複合土塁虎口見所

25_masugata_sita_horikiri 南堀切土橋見所

27_dobasi_yori_minamikaku 南郭群

47_nansei_dankaku 南西段郭土塁

2009年5月18日 (月)

沢城跡(奈良県宇陀市)

城跡は奈良県宇陀市榛原区沢にあって沢集落の北側に聳える山の山上に位置しており、伊那佐山から南東側に延びる枝尾根を堀切で分断して築城されたたものであるが、沢氏あるいは一時高山氏の居城とも伝わり宣教師であるフロイスの「日本史」にも記載されている山城がどんなものか体感したくて今回の訪問となった訳である。2z 3zz

1route 登城ルート

城跡登山口までは国道を使用すれば色々なルートが考えられるのでここでは割愛させて頂くが、沢地区に入れば麓からはルート図に示す様に二通りのルートが選択出来、今回は登山客も多く上ると聞いた大貝地区から伊那佐山へ上る登山ルートで城跡を目指した。個人的には城跡北背後尾根まで探索したかったので一旦伊那佐山尾根分岐地点まで上ってそこから尾根沿いに南下する方法を取った。もちろん通常の遺構見学で訪れる方は登山道中の池を通り過ぎて山側に上ればよいのであるが、前者は相当遠回りになるが城跡最北の土橋、二重大堀切あるいは米山城も見学出来る事からもこの方法を選んだ訳である。

しかし北側尾根上において確認出来たのは土橋と二重堀切だけで登山道を外れると一面雑木藪であり米山城が一体どこに存在するのか見当も付かない状況でもあった。結果的には見つける事が出来ずにそのまま山上主郭へ向ったのだが、此方も現状(三月)冬枯れ後であるにも拘らず凄まじい矢竹藪となっており、郭跡に踏み入る事が出来るのは木のベンチのある出郭の一部分と主郭の一部分のみの状態で、外見から郭を覗く事も出来なければ郭内の遺構の確認などはほとんど不可能な状態でもある。結果的には出郭北側の二重堀切と主郭と出郭間の大堀切を確認したのみでほぼ矢竹藪を見学しに山上まで訪れた事になってしまった。もちろん個人所有の城山とも見受けられるので仕方のない事ではあるが、麓に榛原町が設置した案内板や道標まで備わっているのであれば、せめて主郭の一部だけでも整備して欲しかったと思うのは自分のわがままであろうか、、たまたま訪れた時期が悪かったとも考えられるが、現状を見る限りでは恐らく自分と同じ思いで城跡を後にした方が相当居られるような気がするのである。

今回の訪問においては少し期待があっただけに無念さを味わいながらの下山となったが、流石にいつもの城跡の評価はし辛いものがある、、、

15_dai_horikiri 大堀切見所

17_demaru_heki 出郭切岸

18_demaru_nai 出郭内

16_kita_2jyuu_horikiri_1 北側二重堀切見所

25_saihoku_2jyuu_horikiri_1 北端尾根の二重堀切

2009年5月17日 (日)

鈴尾城跡(広島県安芸高田市)

城跡は安芸高田市吉田町福原にあって別名福原城でもあり、代々福原氏の居城と伝わり毛利氏とは古来、祖(大江)を同じくする。福原居館跡に設置された案内板の説明では元就誕生伝説地とある様に、元就の母親の出生地でもある事から元就の生涯を知る上では避けて通れない城跡とは思われる。

城跡へは中国自動車道「千代田」あるいは「三次」ICが最寄の乗降口、どちらから向っても国道54号より現地に向かう事になるが、先にリポート掲載済でもある桂城跡を起点にすれば分かり易い。もちろん二城同日訪問とした前提で記事は書いているが、桂城側から見ればルート図の如く川を挟んで東側1km程度の近距離に位置しており、位置さえ確認出来れば麓の登山口までは難なく辿り着ける筈である。登山口からは遊歩道で福原居館跡を経由して上れば10分もあれば山上本郭までは到達出来る。

現状(四月)城跡は山上本郭のみであれば郭内に木々も無いので小規模な郭群の見通しは利くが、他の段郭群は一部矢竹密生地あるいは雑木も蔓延っているので全ての郭群が状態が良い訳ではない。しかし山城が小規模な事も相俟って縄張りを把握する事は容易でもあり、見学も非常に短時間で終える事は出来る。逆に言えばそれだけ見所も少なく山城ファンからすれば少し物足りないと言う事に繋がるのだが、、 見所は当時の石組み井戸跡(これは状態も良く素晴らしい!)あるいは案内板に記されてあった石垣跡は挙げられるが、この石垣跡は現状を見る限りでは自然岩を郭壁として取り込んだものの様にしか見受けられなかったが、掘り起こせば本来はそれなりの石積みが成されていたのかも知れない。

1route 登城ルート

2_3 現地説明板より

6 登山口

3suzu 城跡概念図

9_yakata_3 居館跡

11_kitakaku_hasi 北郭端

14_ino_dan_2 井戸跡見所

21 山上郭西側

22 本郭群

23 石垣跡

25_yaguradai 櫓台最高所

30_higasikaku_nai 主郭東切岸

このリポートは山城ファンからみた立場で掲載しているが、本来史跡として見学する分には状態も良い事から当時に思いを馳せる事も容易であり、元就生誕地を訪ねる紀行とすれば充分過ぎるほど戦国ロマンに浸る事も出来るので、当然お薦め出来る城跡とは言える。個人的には先に寄った桂城の余韻が冷めず、こちらが相当霞んで見えたのだが二城同日訪問とすれば山城ファンにおいても是非お薦めとも言える城跡であることは確かである。尚、直ぐ近くには福原氏墓所もあるので興味のある方は覗いても無駄にはならないだろう。

2009年5月16日 (土)

桂城跡(広島県安芸高田市)

城跡は安芸高田市吉田町桂にあって桂氏の居城と伝わる。毛利氏直属の家臣(譜代)として代々重きを成し、中でも桂元澄は家老としてはもちろん、「厳島の戦い」においても最前線にあった桜尾城守将として活躍した事で名を馳せている。

城跡へは中国自動車道「千代田」あるいは「三次」ICが最寄の乗降口、どちらで下りても国道54号より向う事になるが、国道沿いには大きな標識「桂城」が掲げられているので確認さえすれば、直ぐ傍にある登山口には道標も設置されているので容易く山上主郭までは辿り着ける(10分程度)。車はバス停傍の空きスペースに路駐するしかない

現状(四月)城跡は藪化していない事からも見通しも利き、比較的見学し易く見て回りやすい状態にある。形態としては独立した東西に長く連なる低山の両最高所に主郭(西は恐らく出郭としての機能)が配されており、尾根中間到達地点の削平地より長い移動尾根を上り切った堀切より東側が主郭にあたるものと見受けられる。規模は主郭のある東郭群の方が圧倒的に大きく、見応えのある堀切を挟んで主要三郭から形成されているが、縄張り妙味に関しては西郭(出郭)群の方が大型土塁、付随する横堀、縦堀などが備わる様に見所も多く、相当な見応えを感じる事が出来た。案内板縄張り図における全てを踏破した訳ではない(東出郭群は未踏)が、外見から城山を判断するより遥かに起伏に富んだ形態は山城としての醍醐味も感じる事が出来、前述の東西に渡る遺構群と共に充分過ぎるほど堪能させてもらった。未踏箇所を含めなくとも規模の大きさは体感する事が出来たし、個人的には余り期待もせず訪れた事もあって非常に嬉しい誤算となった。登山口からの所要時間、山城としての醍醐味、見学のし易さあるいは状態の良さを考慮すれば、自ずとお薦め出来る城跡と言えるのではないだろうか。

1route_2 登城ルート

2_3_2 現地案内板より

9 登山口付近の標識

3katura 城跡概念図

18_shukaku_2 東主郭

20_naka_horikiri_3 大堀切見所

21_naka_yori_shukaku_heki 中郭より主郭壁

22_naka_yori_kita 北郭群

35_demaru_dorui_2 西出郭土塁見所

42_kita_dorui_karabori_1 出郭北の横堀と大土塁

45_tatebori 縦堀見所

尚、江の川を挟んで直ぐ東側に位置する鈴尾城跡は、毛利氏譜代筆頭家臣の居城でもあり元就誕生伝説地でもある事からも、当然今回の山城巡りの一環としてチョイスしており、その現況リポートは次で掲載の予定

2009年5月15日 (金)

五龍城跡(広島県安芸高田市)

この城跡は安芸高田市甲田町上甲立にあって、先にリポート掲載を終えた祝屋城の本城となる宍戸氏代々の居城であり、娘婿でもある宍戸隆家は元就より毛利両川と同等な扱いを受け、両川と並び称されるほど毛利では重きを成したと伝わっている。城跡へは祝屋城を起点にすれば分かり易いが、同じ国道54号よりそのまま南下しトンネル手前の「高宮分れ」交差点は左折し、ほぼルート図の如く向えば駐車場までは難なく辿り着ける。

個人的には数年前に一度訪れており再訪となったが、前回は全山総郭とも呼べる巨大な規模を誇る吉田郡山城に先に寄ったばかりに肝心の西郭群まで見学する余裕も無く、急いで回った為にこの城跡の素晴らしさを体感するまでに至らず、悔しい思いで城跡を後にした苦い記憶がある。今回はそのリベンジも含めて少し時間に余裕を持たせた訪問でもあり、やっと念願でもあったこの山城の城域のほぼ全て(八割)を把握することが出来た。

城跡は社殿の建立されている北東先端尾根に位置する尾崎丸から南西側に位置する足軽の段まで、規模は全長800mには達しそうとも思える大名クラスにも匹敵する非常にスケールの大きい巨大な山城でもある。形態としてはほぼ直線的に郭を並べただけの単純な縄張りではあるが、三ブロックから構成される郭群境には凄い堀切(空堀)を備え、多くの他の山城に見受けられる狭小な段郭などは皆無、全てに渡って規模の大きい郭群で山上は占められている。山上の中心に位置するのが本丸(主郭)であるが、その背後の際高く聳える立派過ぎる櫓台は土塁底部は土留め石となっており圧倒される事請け合いの遺構でもある。便宜上西郭群とした規模の大きい主要四郭で形成される郭壁には、土留め石ではない通常の野面積み石垣跡が随所に窺える事からも、西側は後で縄張りを拡張して行った事が想像出来そうにも思えた。個人的な判断では一ノ塁背後の堀切壁中ほどに石垣跡が窺われた事からも、当時は城中最大郭でもある一ノ塁堀切壁から郭周囲に至るまでの全てが石垣で覆われていた様にも感じられた。

3x 城跡全域の概念図

2_2 現地城跡案内板より

3_1 3_2 城跡概念図

Itiinodan 一位ノ段

25_nisi_koguti 中土塁虎口見所

32_3maru 三の丸

41_honmamru 本丸見所

44 本丸櫓台土塁見所

47_daihorikiri_3 大堀切見所

54_kaku2_isi 二の塁虎口石垣跡

59_shukaku_gaiheki_isi 一の塁背後壁石垣跡見所

60_horikiri 西端の大空堀(縦堀)見所

68_ido 井戸跡

現状(四月)城跡は本丸までは山城としてはこれ以上は望めないほど素晴らしい状態を維持しているが、本丸背後の大堀切から西郭群の一ノ塁までは雑木も蔓延り見通しもかなり悪い状態にある。しかし移動に差障る状態にまでは至ってはいないので、充分遺構見学は出来る状況にはある。既に両川の一つ小早川氏の居城、新旧高山城には訪れているが、個人的にみれば新旧高山城より若干規模で劣るかもしれないが、縄張り妙味に関してはほぼ同レベルにある山城とみた。正しく推奨に値する素晴らしい山城の一つでもあり、言葉で素晴らし過ぎる城跡の醍醐味が伝えられないのがもどかしいほどでもある。

2009年5月14日 (木)

加保城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町加保にあって、加保集落から見れば大屋川の東側背後の独立した小さな小山に位置している。三方城跡などと同様に県道6号沿いにあるが、路脇には「城山」と掲げられた看板が直ぐ目に留まる位置にあるので非常に分かり易く、道路脇のスペースに車を停めれば直ぐにでも主郭までは到達可能でもある。栃尾氏の居城と伝わるが詳細は不明

現状(四月)城跡は史跡として非常に整備が行き届いており、コンパクトな縄張りと相俟って概念図に示したように数少ない遺構群ではあるが、小山上の郭跡、堀切、あるいは土塁といったところは全て判別確認出来る状態にある。中でも中央を分断する堀切はこれ以上ない素晴らしい状態を誇っており、少ない遺構群にあっては最大の見所と言えるもので、砦規模の城跡にしては分不相応な立派な堀切でもある。最大全長50m足らずの小規模な城跡ではあるが、当時の砦跡の形態を窺うには申し分のない材料でもあり、城跡西側は大屋川を利用した天然の水堀(川面までは急崖)とし、東側は30m近い高低差を誇る急崖で防備されており、地形あるいは立地環境まで縄張りに取り込み、削平された郭跡あるいは切岸処理などからみても、本格的普請によって築かれたものと推察される。

今までの山城巡りの中でも砦跡(出城と思えた)としてここまで整備保存されたものには中々御目にかかった事も無く、道路脇より直ぐにでも到達出来るお手軽さも加味すれば、規模は小さいが正しく推奨に値する城跡と言えよう。全体を見学しても10分足らずで終わってしまう程度の味気ない城跡なのだが、前述の様に築城された周囲の環境あるいは縄張りなどを考えれば、実に奥の深い城跡なのである。

1route_2 登城ルート

5 城跡上り口

3kaho 城跡概念図

10_minami_dankaku 南段郭群

12_fuku_kaku_1 副郭

13_fukukaku_dorui 副郭堀切側の土塁

14_horikiri 堀切見所

15_horikiri_fukukaku_heki_1 堀切壁

20_kitakaku 北郭

21_kitakaku_yori_shukakuheki_1 北郭より主郭切岸

2009年5月13日 (水)

ウスギ城跡(兵庫県養父市)

城跡は養父市建屋(タキノヤ)にあって、建屋集落より川を挟んだ西側に位置する山塊のほぼ三方に渡る尾根上に郭は展開されている。当時は太田垣氏の居城と伝わり、この地を本拠として竹田城を築き但馬守護代に上り詰めたと思われるが、本城を移動した際は竹田城の支城として家臣でもある建屋氏が城代となった模様、詳細は不明

この城跡は訪問した結果、東側の遠く山上尾根も含めた三方尾根上に郭は削平地として点在しており、相当城域の広い山城と見受けられた。遺構見学としての本命は北尾根先端に位置する本郭群であり、二本の見応えのある大堀切によって南北尾根は分断され、城中最大規模を誇る南郭には形のある程度整った土塁が高低差のある郭切岸と並んで非常に眼を楽しませてくれている。もちろんこれらが城跡最大の見所と呼べるものでもあるが、直登ルートから本郭群に向う尾根上、更に東側尾根上にも郭跡(切岸処理のない削平地)は眼に留まり、城跡をより巨大なものに感じさせてくれている。個人的にはルート図に示した東側まで踏破したが尾根上には連続する削平地が幾つも点在しているのを確認する事が出来た。現状(三月)本郭群だけを見れば木々も少なく全体的に見通しも利くので前述の遺構群は全て判別確認出来る状態にあり、城跡の醍醐味あるいは素晴らしさに更に拍車をかけている。比高は100m程度なのだが主郭周囲は急崖でもあり、簡単には人を寄せ付けない凄みを感じられた。全ての枝尾根上までは踏破することは出来なかったが、歩き回る事によって充分過ぎるほど山城の規模、あるいは魅力を体感する事は出来た。個人的にも是非お薦めしたい山城の一つには数えられる。

1route_4 登城ルート

5_tozanguti_2 直登進入口

3u 城跡概念図

11_horikiri_1 南堀切見所

12_minamikaku_dorui_3 南郭の土塁見所

15_dorui_gawa_1 南郭

18_shukaku_horikiri_e 南より主郭切岸

21_horikiri_2 北堀切見所

24_kitakaku_1 北郭

22_shukaku_2 主郭内

25_shukaku_kita_heki_3 主郭北切岸

城跡へは国道312号より北上した場合は交差点「立野」で県道70号へ左折針路変更、線路を越えれば更に左折してそのまま八鹿に向いて10km程度直進すれば建屋地区に辿り着く事は出来る。集落からはルート図の如く直登山口となる金毘羅社を目印として進行すればよいが、最短ルートでの直登なら道路沿いからV字谷に向いて取り付けばそのまま主郭南背後に到達出来るものと思われる(金網フェンス有無の確認をしていないので確証は無い)。個人的には最短ルートとして北側にある集落センター付近からの直登を想定したが厳重な金網フェンスが張り巡らされているので開閉も出来ず諦めた経緯があるが、そこから更に西側へ向えば山道があったのかも知れない。個人的には西側の別峯も探索の対象としていたので、敢えてルート図に示した金毘羅神社から上ったが、時間を要しても良いのであれば随分遠回りにはなるが、フェンスも藪漕ぎもなしで確実にルート図通りで到達出来る赤線ルートをお薦めしたい。

2009年5月12日 (火)

三方城跡(兵庫県養父市)

城跡は兵庫県養父市大屋町宮垣にあって、国道9号を経由して大屋川沿いに県道6号を走り、トンネルを潜り終えればほぼ左手(南側)に望める低山ではあるが険峻な山容の山上尾根先端に位置している。この山城に向うまでにはルート図に示す県道沿いに男坂神社が目に留まるが、此方にも男坂城なる砦跡が社殿敷地を主郭として二段の郭跡、切岸、及び背後の堀切は近年の石段増設工事によって消失してはいるが縦堀は僅かに痕跡が残っており、寄って見学しても決して無駄にはならないとは思われる。

男坂神社からは三方城跡の位置は直ぐ確認出来るので、南側の橋を渡り概念図に示す登城スタート口でもある「いぼ地蔵」まで向えばよい。この付近に路駐スペースはあるので車を停めれば、どちらを選んでも崖状急斜面を上ることに変わりはないが、概念図に示した二通りの直登ルートで尾根上の主郭までは到達する事が出来る。ただ武家屋敷跡も見学するのであれば自ずと愛宕社経由の最短直登ルート選択にはなるとは思われるが、、どちらにしてもこの城跡への登山は斜面も相当きつく滑りやすいのでスニーカーは危険!主郭までは15分程度)

現状(四月)城跡は植林地となっている為に下草はほとんど無く、郭全体像の見通しも利く為に残存する遺構群である郭切岸、石積み、堀切、櫓台土塁跡などは全て判別確認可能であり、自然任せの風化中にはあるが見学し易い素晴らしい状態が保持されている。山上には事前に地元の方に聞いたとおりに僅かな石積み跡も残存しており、遺構群の中では凄い高低差を伴う堀切が最大の見所である様には感じられた。郭内では川原石が多く目に留まった箇所が見受けられたが、地元の人の話によれば城跡に侵入して来る敵にぶつける為の「つぶて石」との見解でもあった。(個人的には数100年経た現在に至るまでの堆積物を考えれば、それは無いだろうと思うのではあるが、、、)

1route 1z登城ルート

9_2  愛宕社経由の直登進入口

3mi 城跡概念図

15_buke_yasiki_1 武家屋敷跡

23_kita_3dankaku_gunn 北三段郭

22_isigaki_ato 石積み跡見所

25_fuku_yori_shukaku_1 副郭より主郭

31_shukaku_yagura_2 主郭櫓台土塁見所

33_horikiri_1

南大堀切見所

36_horikiri_minamikaku_heki 堀切と南出郭

城跡を個人的に評価したなら、男坂城を含めた同日訪問であれば二城で集落入り口を固めた構造、あるいは二城の形態から機能の違いにまで目を向ける事が出来るので、自ずと当時の状態にまで思いを馳せる事が容易であり、状態の良さも加味すれば当然お薦め出来る城跡という事にはなる。尚、この城跡の東側山道沿いには当時の城主でもあった三方氏の墓地跡が墓碑と共に残っていたので参考までに、(近年において子孫の方が建立したものとも思われる)

3 2 8_mikatajyou_yori 男坂城跡

2009年5月11日 (月)

敷山城跡(山口県防府市)

城跡は山口県防府市牟礼にあって登山客も多く訪れる矢筈ヶ岳(標高460m)の八合目付近に位置している。城跡へは既にリポート掲載済でもある右田ヶ岳城と同様に山陽自動車道「防府東」ICが最寄の乗降口、ICを下りれば色々なルートが考えられるのでここでは割愛させて頂くが、取りあえずルート図に示した赤線を辿れば駐車場の設置された登山口までは到達出来る。ただし新幹線の高架下を潜るのに車高1.6m以上の車は通行不可となっているので、高架のない場所までは少し大回りが必要となる。登山口からは休まず歩いて20分程度で辿り着く事が出来る。

城跡は一応「国指定史跡」になっているが南北朝の戦いにおいて南軍が験観寺と言う寺院を急遽城跡として使用しただけでもあり、現在遺構として確認出来るのは寺院敷地の礎石程度であり、尾根上数箇所には削平地も窺われたが、規模も小さいものであり山城の醍醐味を感じるまでには至れないのが現実でもある。石垣なども当然近世における積み直し、あるいは新たに築かれたものである様に見受けられた。

1route_3 登城ルート

4_1 城跡遠望

6_2 登山口

3 現地案内板より

16 梵字岩

17 削平地

22_jyouseki_2 験観寺跡

21_2 説明板

28 平巨石

44_2 山頂東側大岩

山城の醍醐味、あるいは遺構などを期待して訪問される方にとっては、後で相当がっかりする事にも繋がるので、遺構などの期待は最初に抱かない事が肝心だとは思われる。当然個人的にも矢筈ヶ岳登山を楽しむ事が大前提であり、登山道中における史跡もついでに見学する程度の事で上っているので、流石にがっかりする事はなかったが、、 しかし折角この城跡にまで上って来られた方には、ここから更に15分程度も上れば山頂手前の巨石群からは素晴らしい景色が望まれる事をお伝えしたい。この地が当時の物見として利用されていたかどうかまでは知る術も無いが、想像しただけでロマンに包まれる事は請け合いでもあり、最初から史跡見学で赴かれた方には是非この巨石群までは足を延ばして頂きたい思う。巨石(信じられないほど平坦な巨石)に座り込んで味わう熱いコーヒーと前面に限りなく広がる素晴らしい景色(右田ヶ岳城も望まれる)は何とも言えず心が癒され、格別な雰囲気が味わえるのである。もちろんもう少し上れば山頂に佇む事が出来る位置でもあり、ここまで上れば当然山頂も極め無ければ意味はないが(山頂東側には眺望の利く巨大大岩がある)、、

登山を楽しむ事を前提とするのであれば右田ヶ岳城跡には叶わないまでも、ついでに城跡見学が出来るメリットも考えれば、山登りも楽しめる貴重な城跡と言うことになろうか。

2009年5月10日 (日)

岩城山神籠石(山口県光市)

この遺跡は山陽路における神籠石の存在する古代山城としては岡山県にある「鬼ヶ城」と並んで称されても決しておかしくない古代城跡の一つと見受けられる。九州には多くの遺構が現存していると聞くが、個人的に訪問したのはここを除けばまだ鬼ヶ城とたつの市にある城山城だけでもある。郷里からもそう遠くない事から岩城山は既に数回訪れているが、戦国期山城とは形態も石積み方法も素人でも分かるほど明らかに異なるものであり、残存露見している神籠石あるいは水門石垣の素晴らしさは特筆に値し、鬼ヶ城と同様に一見の価値のあるものでもある。まだ未訪の方で古代山城に興味をもたれている方には、既にリポート掲載を終えた琴石山城、鞍掛山城あるいは三丘嶽城からもそう遠くないので、山城巡りの一環として非訪問をお薦めしたいと思う。

目指す岩城山は山口県光市塩田にあって山陽自動車道「玖珂」あるいは「熊毛」ICが最寄の乗降口、ここでは説明しやすい「熊毛」ICからのルートになるが、県道8号を経由して63号に進入すればほぼ道任せに田布施町に向けて車を走らせればよい、田布施町に入ればルート図の如く道標を確認して一般道162号へ左折針路変更すれば、自ずと終点地でもある山頂駐車場までは辿り着くことが出来る。

1zz ルート図

2a 3_2 現地案内板より

7_4 岩城山より

この古代山城は見学する上では当然神籠石(列石)を含めた石垣跡(水門)が全て言っても過言ではないが、神籠石と呼ばれる石列が全ての斜面に露見している訳ではないので、遊歩道に任せて歩けば効率よく見学することが出来ると思われる。お薦めしたいコースは岩城神社より騎兵隊本陣跡を抜けて西水門へと向うコースである、ここからは西門を通過して北周りに最終東門に至るまでの石垣跡と神籠石は全て見学堪能出来る筈である。道中東水門手前には「人枡」と呼ばれる土塁の付随した大空堀も目に留まるが、この遺構は山城ファンにとっては非常に目を楽しませてくれる様には思われる。この付近には版築によって築かれた土塁が数100mに渡って存在すると案内板にはあったが、素人目には判別は難し過ぎる様には思われた。南水門は石垣が少し覗く程度の発掘状態なので特に覗いてみる必要はないようには感じられる。

11 13_nisi_suimon_1 西水門

18_kita_suimon_5 北水門

24_kitamon 北門

27_kitamon_kutuisi 北門沓石

30_hito_masu 人枡

31 神籠石

33

東水門手前の石垣

35_higasi_suimon_3 東水門

岩城山を全て覆い尽くすかの様な規模を持つこの古代山城は非常に鬼ヶ城の形態とも酷似しており、鬼ヶ城の凄い高さの残存石垣跡を考えれば、見応えでは多少劣るかもしれないが千年以上経た今日、まだ発掘されていない土中に眠る部分も加味すれば、想像する楽しさも含めて古代ロマンに浸れる事請け合いの山城と言えよう。

2009年5月 9日 (土)

祝屋城跡(広島県安芸高田市)

吉田郡山城を訪問して以来数年ぶりに広島県の安芸地方に訪れる事になったが、個人的にも戦国武将「毛利元就」の生き様に感銘を受ける部分が多く、毛利氏両川(元就の息子である吉川氏、小早川氏)と並んで好きな事、あるいは同氏に関連した多くの山城は険峻な地の利を活かしながら比較的石垣が多く使用された城跡が多く、縄張り妙味及び見応えのある事からも、今回は非常に期待を胸に抱いての安芸地方への山城巡りとなった。

城跡は安芸高田市甲田町深瀬にあって、毛利氏両川(元就の息子である吉川氏、小早川氏)とは対等な扱いを受けた宍戸氏の居城と伝わり、当時五龍城主であった元家は本城でもある五龍城を長子に譲って次男(深瀬氏を名乗る)と此方に拠った模様、尼子氏との戦いに於いては毛利軍の最前線となった城跡でもある。

1route 登城ルート

2a 現地城址案内板より

5 登山口

城跡へは中国自動車道「三次」ICが最寄の乗降口、ICより下りれば国道54号に進入しルート図の如く江の川沿いに車を走らせれば城址案内板の設置された登城口には分かり易く辿り着ける。国道の西側にある狭い道路沿いからは案内板は直ぐ目に留まり、その横から墓地を経由して上る山道は社殿まで到着すれば直ぐに途絶えるが、その先の縦堀に沿って直登すれば10分内で主郭までは到達可能である。(遠回りではあるが踏み跡程度の道はあったのかも知れない、、、)車は小型車であれば付近に路駐スペースは有

現状(四月)城跡は町史とはなっているものの自然任せの藪化進行中にあるが、規模もさほど大きくなく、ほぼ主要二郭で形成されるシンプルにまとまった山城なので、縄張りを掴む事も縄張り内の移動も容易に出来る状態にはある。ただ郭内には相当雑木が蔓延っているので全体像の視認には多少難渋はするが、当時の遺構と思われる郭跡、縦堀、土塁、堀切などは明確に判別する事が可能となっている。特筆すべき見応えのある遺構は目に留まらなかったが、五龍城を本城とした場合の支城であれば充分過ぎるほどの備えであるような気はする。尚、次に訪れる事になった素晴らしすぎる五龍城跡に関してのリポート掲載は少し後の予定(概念図の作成が非常に大変)

3iw 城跡概念図

8_tatebori 縦堀見所

12_shukaku_heki_1 主郭切岸

20_higasi_yori_shukaku 主郭内

13_shukaku_dorui 主郭土塁跡

21_shukaku_heki 東郭切岸

30_nisikaku_2 西郭

32_nisi_gedan 西郭より堀切側

34_horikiri_2 堀切

2009年5月 8日 (金)

船山城跡(京都府京丹後市)

城跡は京丹後市網野町郷にあって、北近畿タンゴ鉄道と県道17号の交わる踏み切りより川を挟んで西側の丘陵上に位置しているが、城史に関しての詳細は不明

城跡へは目印となる大きな建物や施設も見当たらないので、ルート図と概念図を参考に訪れて頂くしかないが、峰山町から県道17号を利用して北上するのであれば前述の踏み切りを過ぎれば次の道路で左折、更に図の如く道路に任せて進み、城跡の南端に位置する墓地への進入口目指して進行すればよい(車は路駐スペースあり)。車を降りればそこから集合墓地を経由して北に向いて歩けば自ずと城跡には5分もあれば辿り着ける筈である。

現状(四月)城跡は相当藪化も進行しているが、遺構として明確に判別確認出来るのは郭跡を除けば、主郭と見受けられる小規模な郭跡に備わる二連の方形土塁壇(機能不明)、更に東郭へ繋がる郭境にある空堀と櫓台に見える方形土塁北郭及び西郭の切岸などであり、特筆すべき技巧を有した遺構は眼に留まらなかった。縄張りも現在集合墓地となっている尾根上数100mに渡って郭の展開は予想されるが、ここまで墓地として造成整地されておれば中々当時の縄張りの形態を想像するのは難しい状況でもある。現状城跡のほぼ半分以上は冬枯れしているとは言え雑木竹林地と化しており、中々満足の行く見学は出来ない状態にあるが、これから先も決して良いほうに改善されるとは予想し辛く、個人的には非常に評価し難いが、但馬地方から丹後地方にかけての多くの丘城に共通して見受けられる、櫓台にも見て取れる対面する方形土塁壇が備わっている事からも、充分見学する価値はある様には思われたのだが、、、まだ未訪で興味を持たれた方のみが訪問の対象となる城跡と言う事になるのかもしれない、、

1route_5 登城ルート

5 進入口

3fu 城跡概念図

10_shukaku_dorui_dan_1 主郭土塁壇

11_higasi_karabori 12_karabori_dorui 東側空堀と方形土塁見所

13_higasi_monomi_gawa 東削平地

8_higasikaku_heki 西郭切岸

19_kitakaku_gawa 北郭

尚、ルート図には砦跡と記したが明らかに城跡遺構と判断出来る(独自の判断)二本の堀切の備わる小規模な郭跡が西側の別尾根先端で確認出来たので、ついでに現況報告させて頂いた。

2009年5月 7日 (木)

下岡城跡(京都府京丹後市)

この山城は町史跡と認定されながらも現状相当藪化進行中にあり、状態は良いとは言えないが細部にまで眼を配れば、残存している遺構の判別確認はほぼ出来る状態にはある。遺構としての堀切、縦堀などは多少技巧的でもあり、井戸跡あるいは郭切岸なども未だ健在でもある事から、縄張り妙味を含めた山城を体感する上では当時に思いを馳せる事も容易であり、風化中である遺構を含めても遺構残存度は極めて高く、藪城ではあるが是非訪問をお薦めしたい山城として現況をリポートする運びとなった。

城跡は京都府京丹後市網野町下岡にあって、北近畿タンゴ鉄道「網野駅」からは北西側の低山山上に位置しており、当時では高屋氏の居城を伝えるが詳細は不明。現在城跡見学としての山道も見当たらず直登を余儀なくされたが、直登進入口は画像を掲載した道路沿いに「高天山登山口」と道標のある場所からで、ルート図の如く尾崎神社の背後を回り込んで尾根沿いに上るか、あるいは下山ルートとした赤線ルートで谷沿いに上っても城跡には20分内で到達する事が出来る。案外民家脇から谷沿いに上る方が分かり易い(最短ルート)かも知れないが、、、ただ前者のルートの場合、まともに登山道に向えばそのまま高天山に上ってしまうので決して道に任せては進まない事!

現状(四月)城跡は前述の様に相当藪化は進行(特に本郭群)しているが、個人的にも遺された遺構群である特に堀切(縦堀を含めた)は決して期待はずれに終わる事は無いにも思えるので、多少の藪でも我慢出来る方には是非お薦めしたいと思う。今日における地方財政(史跡維持費)から考えても、これから更に城跡が良いほうに改善されるとはまず思われ難く、夏季訪問(梅雨以降)さえ避ければまだ充分見学出来る状況にあるのではないかとも予想される、、、

1z 登城ルート

6_tozanguti 登山口目印

3si 城跡概念図

13_dai_horikiri 西堀切見所

36_dai_tatebori 大縦堀見所

20_shukaku_noboridorui_2 主郭上り土塁見所

15_shukaku_heki_1 主郭切岸

28_kita_gedan2_1 北郭群

23_nantou_horikiri_1 南東堀切見所

30_ido_ato_1 井戸跡見所

34_horikiri_dorui 北空堀土塁見所

2009年4月30日 (木)

丹後田原城跡(京都府宮津市)

TAKUよりお知らせ

既にゴールデンウィークとして連休に突入された方も居られると思いますが、私も連休中はプライベートとして家を空ける事も多く、その間のブログ更新(5/1日より)は流石に無理となります。5/7日からは再びブログは更新して行きますので、どうぞご期待の上ご拝見下さい。連休中は山城巡りに精を出される方も少なくないとは思われますが、低山と言えども直登するしか方法の無い山城も多く、安全面においては侮れない険峻な山城も数多く存在します、今更言うまでも無いとは思いますが、足元の安全面あるいは緊急を要する場合の最低限度の備品は充分確保の上で現地に赴かれ、自然と触れ合いながらより山城巡りを楽しんで頂きたいと思います。

(これより本文) この城跡は京都府宮津市田原にあって龍燈寺北背後の丘陵上にある、小出氏の居城が伝わるが詳細は不明。城跡へは先にリポート掲載を終えた岩ヶ鼻城跡あるいは伊根城跡を起点にすれば分かり易いが、国道178号より北上を続け岩ヶ鼻、大島トンネル(山上付近に大島城跡がある)を抜ければ一般道652号へ左折針路変更、そのままヘアピンカーブの連続する道路を上り切り、後はルート図の如く田原地区にある龍燈寺(無住)を目指せば難なく辿り着く事が出来る。寺院背後より墓参道を利用すれば5分とかからず山上主郭までは到達出来る。

現状(四月)城跡はほぼ全域が集合墓地となっており、近年どこまで地形改変があったのかは全く想像も出来ない状態にあるが、集合墓地自体が相当古いものである為に郭形状などは当時の郭跡の転用と考えれば、ある程度推察出来そうには思える。本郭と呼べる中央に小規模な櫓台と見受けられる地形も眼に留まったが、全て墓地と化しているので当時に思いを馳せる事は非常に難しいのも現状である。ただここから西側に向いては削平地、郭切岸、あるいは一部土塁跡の残る段郭群跡と窺われる墓地化していない区域もあるので、多少城跡の佇まいを感じる事は出来た。本郭群の東側には現状だけ見れば凄いと思わせる堀切道(切り通し)があるが、これは当時備わっていた堀切を近年に造成拡張したものの様には感じられた。

1route1 登城ルート

4_2_2 進入路

2a 寺院城跡の由来

6_kiritoosi 本来は堀切か?

9_shukaku_e 主郭虎口

15_higasi_yori_shukaku_gawa 10_shukaku 本郭群

14_higasi_gawa 東段郭群

城跡は見た範疇では規模も小さく墓地としてどこまで地形改変が行われたのかは見当も付かないので、当然どこまでが当時の遺構であるのか判別も難しく、見学者にとっては城跡の佇まい、あるいは雰囲気を感じる事がこの城跡を味わえる唯一の手段なのかも分からない。ただ北側斜面も含めた城跡全域を全て踏破した訳ではないので、規模が小さいと思えた縄張り、あるいは遺構残存度は低いと目に映った遺構群もこの限りでは無いのかも知れないが、、、

尚、前述の大島トンネルの東側山上にある大島城跡も山上を踏破したが、ほとんど藪漕ぎの連続でもあり、現状凄まじい藪城である為にとてもお薦め出来る城跡ではないと判断したが、マニアックな山城ファンも居られると思われるので一応登山ルートだけは記した。確認出来た遺構は山上郭跡及び南側斜面の二本の堀切のみ。1route_4

大島城跡登城ルート

Oosimajyou 進入路

Oosimajyou_1 山上郭の現状

Oosimajyou_2 堀切の現状

2009年4月29日 (水)

高尾城跡(京都府宮津市)

城跡は京都府宮津市里波見にあって、集落の中心を流れる波見川の河口真北に位置する丘陵上にあり、現在高峰神社のある背後より真北側に向いた丘陵全域が城域と見受けられる。谷川氏あるいは高屋氏の居城を伝えるが城史に関しての詳細は不明

城跡へは国道178号を伊根町に向いて北上、里波見地区に入ればルート図の如く高峰神社を目指せば難なく到達出来る。社殿敷地も近年における造成整地によって相当地形改変が窺われ、当然縄張りの上からも本来郭跡であった可能性は高いと見受けられるが推察の域は出ない。社殿背後の緩い傾斜地をそのまま北側に上れば既に城域でもあり、北側に延々と続く細長く広大な削平地を眼にする事が出来る。

現状(四月)城跡に複雑な遺構などは眼に留まらず、大味な縄張りである為に郭跡を除けば堀切(北端一箇所)、土塁、虎口跡、鋭角な郭切岸といった処が当時の残存する遺構群と見受けられ、特筆すべき技巧を有した遺構には巡り合えなかった。ただこの城跡は大味ではあるが地形上からか、丹後地方にあっては珍しくない高低差を伴う切岸あるいは鋭角な堀切も見当たらず、逆に非常にユニークさあるいは新鮮さを感じる事が出来た。本郭群の東側は屋敷跡の様にも見受けられた段郭群を挟んで直ぐに海岸線となっており、国道数10m真下までは岸壁工事は成されてはいるが、当時でも絶壁に近く人馬も寄せ付けない形状であった様にも窺われた。

1route_3 登城ルート

4_2 南より進入路

3taka 城跡概念図

6 進入口

11_higasi_dankaku 東段郭群の切岸

12_shukaku_minami_koguti 主郭平虎口

23_shukaku_minami_gawa 主郭内

14_shukaku_koguti 主郭西虎口見所

16_koguti_sita_kaku 西虎口下段郭

19_shukaku_nisi_heki 主郭西切岸

個人的にはこの館城の性格を持つ規模の大きい城跡には、本来の詰城ともなる山上郭群が存在するのではと思うのではあるが、地形上から考えてもほぼ独立したこの城跡のある丘陵から隣接したそれらしい山塊も見当たらず、無名に近い城跡でもある為あるいは城跡に関する情報も少ない事から、詰城の存在の確認すら出来ないでいるのが現状でもある。

城跡から「凄い!」と言えるものを感じる事は出来なかったが、国道沿いからも直ぐ望める位置にあり、車を停めて5分とかからず城跡に到達出来る手軽さを考えれば、充分見学に値する城跡であると言えるのではないだろうか。

2009年4月28日 (火)

岩ヶ鼻城跡(京都府宮津市)

城跡は京都府宮津市岩ヶ鼻にあって、国道178号が抜ける岩ヶ鼻トンネルの真上から南側尾根上の先端までが城跡と見受けられ、本来南端の神社から北側背後に至るまでの尾根上に城跡目星を付けて現地に赴いたのだが、実際には地元の方による案内絵図により山上(展望所がある)に至るまでが古城として取り込まれた山城ということが判明した。この城跡も他の丹後地方の城跡と同様に細川氏支配によるまでは一色氏の傘下であったとは思われるが、橋本備後守の居城を伝えるのみで詳細は不明。

城跡へは先にリポート掲載に及んだ伊根城と同様に国道178号から「天橋立」経由で岩ヶ鼻トンネルを目指せばよいが、図に示すトンネル手前の国道「日ヶ谷口」交差点の脇道から神社経由で山上に向かう登山道があるので車は付近に路駐後、それを利用して上れば迷わず(二箇所に道標あり)古城とされる山上郭群までは20分内で辿り着く事が出来る。

城跡の形態としては、ある程度利便性のある麓神社敷地あるいはその背後を上り切った付近の祠までが、当時の居館跡を形成する南郭群と見立てる事も可能であり、小規模な山上郭群は海上監視用砦あるいは詰城の様にも見受けられる。遺構見学における見所としては山上郭群に至るまでの三本の堀切(尾根上の堀切は土橋を伴う)、山上郭の堀切及び土塁などが挙げられるが、古い形態の山城と見受けられるものなので特筆すべき技巧を感じる遺構には巡り合う事は出来なかった。山上郭には現在地元地域の方々による展望デッキが備わっており、木々の隙間からでも若狭湾を望む事も出来、更に自然風化は激しいが城跡遺構も破壊されずにそのままの状態が自然保持されているので、当時に思いを馳せる事も容易である様には感じられた。この城跡で特に印象に残ったのは南北を堀切で挟まれた尾根上の長い郭跡で、幅は4~5mほどではあるが、全長は中ほどにある土橋付き堀切を挟んで100m前後には達するものでもあり、この痩せ尾根上に堀切土橋まで設けて削平した効果を是非知りたい処ではある。

1route_2 登城ルート

4 進入口

3hana1zz 城跡概念図

11_yasiro_kaku 社殿

15_horikiri_1 堀切 登山道分岐地

20_one_horikiri_dobasi_1 尾根郭の堀切土橋見所

21_kita_e 尾根上削平地

26 山上主郭切岸

31_shukaku 主郭内

32_shukaku_dorui 主郭土塁見所

34_horikiri_1 堀切見所

先に訪れた伊根城と同様に、海が直ぐ傍に見える山城は中々他で味わえない風情も感じられる事から、必要以上に遺構の醍醐味あるいは縄張り妙味を求めなければ、充分満足感の得られる山城巡りと成り得るのではないだろうか。この楚々とした古い形態の山城には久し振りに「山城賛歌」を贈りたい気分である。

2009年4月27日 (月)

伊根城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡伊根町亀島にあって、「舟屋」で有名な伊根港を取り囲んだ東端の港入り口先端(赤い灯台が目印)の東背後の丘陵上にある。戦国期における城主は島津氏と伝わり久美浜城主でもある松井氏とは攻防の歴史が残っており、自ずと当時丹後守護職の地位にあった一色氏傘下の武将とは推察されるが、詳細は不明。

城跡へは「天橋立」を目指し若狭湾沿いの国道178号より北上、ほぼルート図の如く伊根湾を一周する形で車を走らせる事になるが、図あるいは画像に示したNTTの通信施設脇からそのまま上れば5分もあれば西郭群には辿り着く事が出来る。情報も皆無に等しいこの無名に近い城跡は、先に訪れた弓木城跡と同様に本格的普請のされた城跡と眼に映った、現状縄張りと見受けられる大規模な西郭群跡地は農作地(畑地)として占められており、近年に於いてどこまで地形改変があったのかは見学者の想像力と判断に委ねられる。恐らく畑地も当時の郭跡の転用と見てよいものとも思われ、郭形状は現状の畑地の輪郭線として見て良いのかも知れないが、、愛宕神社の建つ郭跡が主郭と見受けられ、ここから海側に向う北段郭群は藪化も激しいが、当時の状態がそのまま自然保持されている様でもある。丘陵上全域に渡って郭は展開されており主郭のみ突出した形態で郭高低差はほとんど無いに等しいが、周囲は急峻でもあり、更に三面が海に面している事を考えれば築城地としては中々素晴らしい立地環境と言える。概念図における範疇が個人的に城跡遺構として判断したものであるが、前述の様に主郭西側に於ける大規模な農作地は見る者が想像力を働かせて判断すればそれでよいのではなかろうか(個人的には当時のままの縄張りと目に映った)、、、

1route 登城ルート

4a 北より遠望

7tozanguti 進入口

3ine1 城跡概念図

14_sita_monomi 東端の郭跡

23_shukaku_koguti_1 主郭虎口

27_kita_yori_shukaku_heki_1

主郭 北

26_kitakaku 北郭

28_higasi_gawa_e 東郭へ

現状(四月)城跡は農作地(西郭群跡)を含め全体的にも見学上差障りはなく、特筆すべき遺構には巡り合えなかったが、ほぼ縄張りプランまで掴む事が出来る状態にはある。伊根港を監視する城跡としては舟屋の風情も味わえる事から、当時に思いを馳せる事が容易でもあり、港町情緒と併せて城跡を充分に楽しむ事が出来るのではないだろうか。個人的にも城跡情報も無く期待も抱かずに訪れたせいもあってか、充分満足感の得られる訪城となった。

2009年4月26日 (日)

弓木城跡(京都府与謝郡)

城跡は京都府与謝郡岩滝町弓木にあって、岩滝小学校の道路を挟んで真南にある丘陵上に位置している。ルート図の如く国道178号より岩滝小学校を目指せば公園駐車場までは分かり易く到達する事が出来、そこからは直ぐ目の前に城跡は望めるので1route訪問するにも非常にお手軽な城跡と言えよう。

現状(四月)城跡は史跡として申し分のない状態を誇っており、2a 残存する遺構群は整備保持状態が良い事も相俟って、全て判別確認可能な状態にあり、独立した丘陵上にある為に尾根を分断する様な見応えのある堀切などは存在しないが、直立に近い高低差を伴う切り立つ切岸、あるいは大手道と思われる斜面を上り切った大型虎口などは櫓門でも存在したかの様にも窺われ、圧倒的迫力を醸し出している。城跡全体像がある程度視認によって窺える為に当時に思いを馳せる事も容易であり、訪問し易さも考慮に入れれば間違いなくお薦め出来る城跡と目には映った。縄張り妙味には多少欠けるかも知れないが、それを補って余りあるこの城跡の状態の良さは特筆すべきものでもあり、訪れた人々の多くは納得した見学が出来るのではないかと思われる。訪問時期によるのかも知れないが市内中心部に近い場所にあって中々これだけの状態の良い遺構を遺す城跡も少ない事からも貴重な城跡である様にも感じられた。

3yumi 城跡概念図

5 東郭群の切岸

12_higasi_sentan_1 東先端郭

14_naka_1 中郭より東郭(副郭)

14_naka 主郭切岸見所

17_nobori_koguti_1 上り虎口道見所

18_koguti_1 主郭虎口見所

20_shukaku_3 主郭内

23_nisikaku 西郭

33_dorui 土塁

2009年4月25日 (土)

吉原山城跡(京都府京丹後市)

この山城は訪問(四月)結果から先に述べれば、事前予想を遥かに上回る規模、そして山城にしては非常に整備保全状態が良く、山上における郭跡も含めた遺構はほぼ全て判別確認可能であり、尚且つ現状これ以上は望めそうにないほどの残存状態を誇っている。山城としての起伏に富んだ縄張り形態は見応え充分でもあり、縄張り妙味にも尽きる事なく見て回る事が出来、更に高低差のある直立に近い切岸、深さを伴う空堀などの遺構の醍醐味は余すことなく味わう事が出来る、正に推奨に値する素晴らしい山城であると断言出来そうにも思えた。

1route1 登城ルート

2g 現地案内板より

4 登山口

3yo

城跡概念図

城跡は京都府京丹後市峰山町吉原にあって県道17号沿いにある法務局(支局)を目指して進行すれば分かり易く、県道を北上し法務局を少し過ぎれば左手側に道標も設置されているので左折すれば終点の区民館に到着出来る。ここに車は駐車可能であり、いて大手道経由で東郭群、三の丸、二の丸、主郭から下山時に南側に位置する善明砦までを押えればほぼ山上の主要郭群は見学した計算にはなる。

尚、本来城跡へは車道でも行けるのであろうが、現状写真にある様に通行止めとされており、車でどうしても上りたい方は農林課まで連絡が必要であるとの事が立札に記されてある。しかしこの山城は麓から遊歩道で歩いて上って尾根上の郭跡(削平地)なども見学し、縄張りなどを頭に描きながら個々の郭の機能などを推察すると余計楽しめそうにも感じられる。地形図から察しても今回は車道で麓から上って行く南、あるいは南東尾根側にも充分郭の展開は予想され、本郭群でさえこれだけの規模を兼ね備えているのなら当然三方尾根上まで縄張りは跨っている様にも感じられるのである(未踏に終わったが、、)。この山城は一色氏滅亡後、細川氏によって規模の大きい二の丸あるいは三の丸が設けられたと案内説明板にはあったが、一色氏時代の山城は二の丸、三の丸を除けば規模はそれほどでもなく、最高所に位置する主郭も櫓台程度の小規模なものなので、案外建部山城を一色氏本城とした場合、当然此方は支城とすれば充分過ぎるものであった様にも窺われた。

13_higasi_demaru_1 東出郭

15_higasi_karabori_4 東大空堀見所

20_yagura_yori_3maru 三の丸

29_2maru_1 二の丸

32_karabori 西空堀

36_shukaku 主郭

52_toride_heki 善明砦見所

現状遊歩道に任せれば少なくとも前述の見応えのある遺構群はほぼ良い状態のまま見学が可能でもあり、この整備状況から察すれば四季を問わず充分城跡を楽しむ事が出来そうに思える、更に戦国期山城から徳川時代(登山口付近には峰山城、京極氏陣屋跡がある)にまで跨る遺構まで見学する事が出来るので、遠距離訪問でない方は当時に思いを馳せながら、じっくりと見学すれば更に値打ちが増すのではないだろうか。

2009年4月24日 (金)

右田ヶ岳城跡(山口県防府市)

城跡は山口県防府市下右田にあって、山陽自動車道「防府東」ICからは北側に聳えるほぼ岩で覆われた山塊の標高426m(比高約380m)の山上に位置している。「防府東」ICを下りれば目指す登山口でもある天徳寺には数分で辿り着く事が出来るが、基本的には駐車場が完備されていないので、寺院敷地と学校との空きスペースに車は停めさせてもらう事になった。恐らく登山客の間でも人気の高い山なので人の往来も激しく、学校が横にある事から環境を考えて敢えて駐車場は設けていない様には思われたが、、、

Migi 登山口へのルート

2 現地案内板より

6 登山口

山城としてよりも登山客に人気が高い山なので、登山口も麓には幾つもある様には思われるが、ここでは自分の様に遠距離訪問者でも一番登山口として分かり易く、山頂までは最短ルートで無駄なく上れる天徳寺からの登山をお薦めしたい。目指す右田ヶ岳山上主郭へは寺院の西側墓地付近より案内板もあるので登山口は分かり易いとは思われる。山頂主郭までは約80分は要する時間も距離もたっぷりかかる道程ではあるが、道中における周囲が見渡せる素晴らしいロケーション、岩だらけではあるが藪漕ぎのない登山道、あるいは巨石岩盤に掘られた磨崖仏なども見学しながら上れ、自然との触れ合いを楽しみながら道に任せて上れば、それほど距離も時間も感じる事は無い様には感じられた。

今回はスタート時間も遅く山上でゆっくりくつろげる余裕も少なかった事から、残念ではあるが案内板での情報による三峰(東、中、西)に跨る城域の全て踏破は出来なかったが山頂主郭までは到達する事は出来た。案内板の説明にいささか問題があるとは思われるのだが、地形から考えても現実に山頂に佇んで見ても、城跡は南北の峰に渡っているものであり、東側と西側は絶壁地形で郭跡の展開などはあり得なく、現状の案内説明を見る限りでは今回自分自身が見て回った範囲が城跡のどの部分に当たるのかは見当が付かないでいる状況でもある。恐らく小規模な山上最高所が主郭(本丸)と見て良いのであろうが、南北に渡る全ての峰を踏破した訳ではないので確信は持てずにいる。今回概念図に示したものは最高所を主郭としてみた場合のものでもあり、現状における城跡の見たままを描いたもので、広い面積で石垣跡も窺われたが当時のものかどうかは当然判別は不可能、堀切などは当時の遺構として良いのであろうが、文献などでは削平地のみとしてある事からも、遺構としての素人判断は困難と相成っている。しかしこの山城の見応えであり醍醐味は、ほぼ全て岩盤あるいは大岩で覆い尽くされた山城の佇まいそのもの言っても過言ではなく、天然の要塞の如しこの山城には山上主郭だけの訪問ではあったが充分すぎるほどの感動を味併せてもらった。山上に佇んだ時のこの情景は正に天空の城と呼ぶに相応しく、戦国期の形態を今に伝える山城としては登山の楽しさも味わえる数少ない有数の城跡と言えるのではないだろうか。未訪に終わった別峰も機会があれば必ず踏破してみたいと思うのであるが、遠距離訪問である事を考えれば再訪が何時になるのか分からないのが現状でもある。

3a 山上郭の概念図

27 城跡遠望

36 石船山

70_gezan

南側

41_horikiri_1 堀切(分岐地点)

46_shukaku_minami_gawa_1 主郭南側

47_shukaku_nai 主郭内

58 東斜面側

62_isigaki 石垣

2009年4月23日 (木)

宮城跡(兵庫県朝来市)

城跡は先に掲載に及んだ黒田城と同様に宮集落内の道路を隔てた真東の小山に位置しており、詳細は不明ではあるが黒田城に隣接する事からも上道氏の持城として良いのかも分からない。

城跡へは現在山上付近に朽ち果てたままの小さな社殿が建立されているので、麓の竹林地より参拝道を利用すれば難なく山上までは到達出来るが、最短ルートは城跡の東側に車を路駐した後に畦道を通過して写真に示した付近より直登すれば5分とかからず山上主郭まで到達可能である。

現状(三月)城跡は藪化はしていないが下草や熊笹で覆われている箇所も多く、更に長年の風化によって土も流れ出しているので、ある程度想像に委ねられる部分もあるが、見て回りやすく遺構はほぼ判別確認出来る状態にはある。城跡の見所は主郭周囲を巡る空堀土塁、高さが失われた櫓台土塁、あるいは二連の堀切(郭を遮るだけの空堀に近い)といった処になるが、空堀(横堀)は場所によっては相当埋もれているので、深さを感じる事が出来ないのが少し残念な処ではある。しかし判別出来るだけまだましとも言え、小規模な主郭を空堀土塁が巡る様は本格的な城普請が行われたとも見受けられるので、別な意味で見応えを感じる事は出来た。先に寄った黒田城が思ったよりも期待外れに終わったので、この城跡が余計に素晴らしいものに思えてくる。上道氏の本城と聞いた黒田城から推察すれば、恐らくこの地区周辺に点在するであろう城跡あるいは砦跡の規模も遺構残存度もある程度想像が付きそうではあるが、まだ目星を付けて踏破していない城跡も多く残っており、これからの東河地区の山城巡りが非常に楽しみになってくる処ではある。

1route_3 登城ルート

5_tozanguti 進入口

3 3m1 城跡概念図

11_karabori_dorui 空堀土塁見所

16_horikiri_dorui_1 主郭北堀切土塁見所

18_2ren_horikiri 北堀切

23_shukaku_doruidan 主郭土塁壇

24_shukaku_dan 主郭

25_shukaku 主郭内

27_nisigawa_karabori_dorui 主郭西側空堀見所

2009年4月22日 (水)

東河黒田城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町宮にあって、戦国期当時は山名氏傘下の上道氏の居城(本城と聞いた)と伝わるが、同じ和田山町にある竹田城を初めとして、他のこの近辺の城跡と同様に秀吉の但馬攻略軍によって落城したとみてまず間違いのない処とは思われる。

この東河(トガ)地区は東河川に沿った集落の付近には上道氏関連の多くの城跡あるいは砦跡が点在しており(地元の方の情報と資料による)、推察ではあるがこの付近の小山や丘陵地は狼煙台程度の遺構も含めれば、ほぼ当時の城跡の様な気もするのである。実際に東河地区の山城巡りにおいては素性の分からないままの城跡も踏破しており、この黒田城跡とは今回便宜上の出城として同時掲載に及んだ。時間に余裕があれば更に目星を付けた区域二、三箇所も踏破したかったのだが、次の予定を考えればそれも叶わなかったのが少し残念な処ではあった。

城跡へは国道9号あるいは国道312号より和田山へ向えば、交差点「一本柳」で針路変更し一般道273号へ進入すればよいが、宮集落に入ればルート図の如く左折、直ぐ正面の民家背後に現れる丘陵が城跡でもあり、後は概念図に示す墓地から上れば5分内で主郭まで辿り着く事が出来る。

1route_2 登城ルート

4 進入路

3kuroda 城跡概念図

8_koguti_kaku 虎口か?

18_kaku 主郭下段郭

16_kita_kaku_gawa_1 主郭北側の現状

23_kita_3ren_doruidan_2 北郭の土塁壇

26_horikiri_2 最北の堀切

現状(三月)城跡の主郭と見受けられる辺りから東斜面及び北郭にかけては地表も見えないほどの笹あるいは雑木が密生しており、中々満足の行く遺構見学は出来ない状態にあるが、郭跡を除けばかろうじて概念図に示した三連の方形土塁壇及び堀切だけは判別確認することが出来た。この三連の土塁壇は一見櫓台に見えなくも無いが、但馬地方の城跡に数多く見受けられるものであり、一体どの様な機能があったのか非常に気になるところではある。普通に見れば二本の空堀を間に挟んだ様にも見えるが、当時空堀ほどの深さがあったようには見受けられず未だに謎のままである。この城跡は結果的には後で見て回る事になった東の小山に位置する宮城跡あるいは南東側の出城と同日訪問で、何とか充実した山城巡りが出来る様には思えたが、個人的にはこの城跡に遺構の醍醐味も見応えも感じる事が出来なかったのが本音でもある。しかしながら上道氏本城と聞くからには東河地区の城跡巡りの一環としては絶対に避けて通れない城跡の様には感じられた。尚、ルート図に示したが南東側に出城とした尾根上にも、この城跡と同様に三連の立派な土塁壇と削平地の残る砦跡が存在するので、ついでに見学しても無駄足にはならない様な気はするのである。

Dejiro 便宜上の黒田城出城跡

Dejiro_2 西郭群と主郭切岸

Dejiro_1 方形土塁壇

2009年4月21日 (火)

高生田城跡(兵庫県朝来市)

この城跡は既にリポート掲載を終えた和田城跡とも同じ県道10号沿いにあり、和田城跡と同様に素晴らしい残存状態、あるいは見応えのある遺構群(堀切あるいは凄い切岸)が残存している事からも、個人的には同日訪問出来なかったが状態の良さあるいは遺構の醍醐味を踏まえた上で充分お薦め出来る山城と思えたので、まだ未訪の方は是非二城同日訪問の上でこの戦国期山城の全てを堪能して頂きたいと思う。城史に関しては和田城跡と同様に福島(福富)甲斐守の居城と伝わるが、個人的には規模あるいは山城としての完成度の高さから此方が本城である様には見受けられた。他の和田山地方にある城跡と同様に秀吉の但馬攻略軍によって落城した可能性は非常に高いと思われるが、詳細は不明。

城跡へは県道10号より和田山町高生田へ向い、妙法寺が目指す直登山口でもあり、ルート図の如く和田山町寺内集落を過ぎれば右手に大きな廃校(現、作業工場)敷地のある道路の反対側に寺院がある。車は路駐スペースはあるが寺院の駐車場を借りても良さそうには思えた。寺院墓地脇の西側民家の間にある山道より上り始め、獣避けフェンスを開閉して目の前に現れる縦堀(現状見る限り縦堀)に沿って左手急斜面を登り切れば、東出郭と呼べる堀土橋の備わる郭跡までは10分強(主郭までは20分内)で辿り着く事が出来る。(直登急斜面は木々も下草も少ないが、足場も少ない分落葉などで非常に滑りやすいのでスニーカーは危険)

現状(四月)城跡は最初に述べた様に山城としてみれば風化に任せながらも素晴らしい状態が自然保持(一部植林地)されており、見応えのある直立に近い鋭角な切岸、縦堀、堀切、生々しいほど平坦な主郭跡など、城跡を形成する縄張り上の遺構は全て判別可能な状態を誇っており、特に堀切における高低差を伴う切岸などは本来の薬研堀の如く、当時が今直ぐにでも甦りそうな凄い様相を呈している。郭周囲は全て崖状急斜面でもあり立地環境からも和田城とも共通する部分が多く見受けられるが、規模も縄張り妙味(縦堀が多く備わる)も此方が若干勝っており、大名クラスの山城ではないが起伏に富んだ形態からも山城としての醍醐味は充分味わう事が出来る様に感じられた。

1route 登城ルート

6tozanguti 直登進入口

3tak 城跡概念図

11tatebori 出郭まで繋がる縦堀

13_horikiri_dobasi 東出郭の堀切土橋見所

18_minami2_yori_3kaku 南段郭群

24_shukaku 主郭内

25_shukaku_dorui 主郭土塁

28_daihorikiri_1 大堀切最大見所

31_demaru_yori_shukaku_heki 北出郭より主郭壁見所

37_shukaku_higasi_tatebori 主郭東斜面の縦堀見所

朝来を含めた但馬地方には今回訪問した和田城あるいは高生田城の様に一部の文献に名前が掲載されている程度で、一般には詳しい城跡情報の入って来ない、ほとんど無名に近い山城もまだまだ数多く残っており、これからその様な山城をこつこつと踏破するのが非常に楽しみとなってくる処ではある。

2009年4月20日 (月)

但馬和田城跡(兵庫県朝来市)

城跡は朝来市和田山町和田にあって、当時山名氏の家臣でもあった福富氏の居城を伝えるが、秀吉の但馬攻略によって落城の歴史あり。

この城跡も他の但馬地方の山城と同様に情報も皆無に近く、場所も確定出来ないままの事前に目星だけを付けた見切り登山となったが、結果的に山上では期待していた以上の遺構と巡り合う事が出来た。シンプルな郭構成である為に縄張り妙味のある山城とは思えないが、状態も山城として見学する分には申し分のない状態でもあり、規模の大きささえ問わなければ間違いなくお薦め出来る山城と眼には映ったが、、、

城跡へは国道9号より和田山に入れば「宮田」の信号で右折し県道10号へ針路変更、後は出石町に向けて左折するまでは直進すればよい。この左折する左手側の山が城跡でもあり直ぐに確認する事は出来るが、ルート図に示した小さな「大師堂」付近に路駐スペースは充分あるのでここからがスタートとなる。ルートは二通り考えられ、個人的には写真に示す北側の墓地背後から事前の最短想定ルートを選択して急斜面を左手に縦堀(天然かも)を眼にしながら直登したが、東郭までは僅か10分で到達出来た。逆に下山に使用した踏み跡程度の山道は倒木も多く、更に九十九折道となっているので上るには相当時間を要しそうには思えた。よってお薦めルートは自ずと直登によって短時間で山上を目指し、楽に安全に下りる為に下山時にこの道を利用して下りたほうが良さそうには思われる。

1route 登城ルート

6_2 直登進入路

現状(三月)城跡は前述の様に藪化もしておらず状態が良い事から遺構の判別確認は容易でもあり、複雑な遺構地形も見当たらないので全て確認出来る状態にある。見所は北尾根を分断する堀切、高低差のある切岸を含めた山城の状態の良さそのものでもあり小規模(それでも山上主郭は60m以上はある)ではあるが郭全体像が視認出来る為に相当な臨場感を感じる事が出来る。堀切は南北に二箇所確認出来たが、登山中に常に左手側に見えた大縦堀(美しい)はどうしても人工物としか見えず、これが当時のままの遺構とすれば一番見応えのある遺構(縄張りにおける必然性からみれば遺構)と言う事になるのだが、、判断は自ずと見学者任せになるとは思われる。概念図に示したものが独自で判断した遺構群であるが、南斜面には麓に向いて更に小規模な小郭が無数に連なっている状態を確認する事は出来た。

3w 城跡概念図

10_higasi_kaku_1 東郭

12_higasikaku_dorui 東郭土塁見所

13_kitakaku_1 北郭

15_kita_horikiri_1 北堀切見所

19_shukaku_yaghura_1 主郭櫓台

21_shukaku_3 主郭内

23_shukaku_higasi_heki 主郭東壁

26_horikiri 南堀切土塁見所